乃木坂46のメンバーの一人に、橋本奈々未さんという方がいらっしゃいます。
まず、断っておきます。
僕は、AKBやら、乃木坂やらの、昨今の「アイドルブーム」に全く興味のない者です。
「まぁ、勝手にやればいいんじゃないの?」ぐらいの距離感で見ている、いわば「部外者」です。
けれど、なぜでしょう、乃木坂46の橋本奈々未さんだけには、興味があるのです。
僕は、彼女の「動いている外見」に惹かれたわけではありません。
むしろ、Youtubeなどの動画で見る彼女の姿や、グーグルで画像検索した結果羅列された画像等を見ても、「なんだか歯並びが悪いなぁ」とか「ちょっとひ弱い未熟児っぽさがあるなぁ」などと、むしろマイナスな印象しか受けませんでした。
しかし、です。
僕はある日、ふとコンビニで、『週刊プレイボーイno.13』をパラパラとめくっているうちに、橋本奈々未さんのグラビアのページに目を留めたのです。
その瞬間、僕は彼女に恋をしてしまいました。
とはいっても、誤解なさらぬように。
恋、といっても、彼女を性的対象として見た、というわけではないのです。
むしろ、逆です。
僕は、橋本奈々未さんのことをいわば「神聖視」してしまったのです。
「神聖視」とは、なんでしょうか。
僕は以前、モヤモヤさまぁ〜ずに出ていた、大江麻理子アナを「神聖視」していました。
もちろん、大江アナのことを「好き」なのですが、まったく性的対象として見れませんでした。
なぜか、と言えば、僕にとって大江アナは「完璧」であり、ほとんど「聖女」のように思われ、純粋で、清い、大江アナは、もはや、恋とか、性的対象を越えて、僕の理想の女性として「神聖視」する他なかったからなのです。
これと同じことが、乃木坂46の橋本奈々未さんのグラビアにも起こりました。
僕は、一瞬で、彼女を「聖女」として「神聖視」してしまったのです。
大江麻理子アナと、橋本奈々未さん。
このふたりの女性を「神聖視」してしまった「共通点」が、このごろになって、少しわかってきたように思います。
それは、「 永遠の母性」を思わせるからです。
男は、——と言って語弊があれば、少なくとも僕自身は、自分自身の汚さ・醜さも含めて、どこまでも微笑をもって許してくれるような「 永遠の母性」を求めているものだ、と思えるのです。
マザコンという言葉がありますが、あれは、自分の母親へのコンプレックス(あこがれ)を断ち切れないことを言うのではなく、本当は、永遠の母性へのコンプレックス(あこがれ)を断ち切れないことを言うのではないのではないでしょうか。
この二人は、それを持っている、と僕は思いました。
だから、「神聖視」したのです。
ことに、グラビア上での橋本奈々未さんの「永遠の母性」(すべてを許してくれる聖女性)には、僕は完全に惚れてしまいました。
勿論、実際の橋本奈々未さんは、顔も「神聖視」するほど可愛くないだろうし、すごくワガママで、現実主義者かもしれません。
でも、です。
でも、写真という枠に収まった途端、彼女は「すべてを許すような聖女」=「永遠の母性」に映るのです。
そういう意味で(よく知らないで語ってすみませんが)、橋本奈々未さんという人は、 過去にないほど写真栄えするアイドル、と言えるのではないでしょうか。
僕は、実際の人物像と、写真像とがこれほど乖離したイメージを与えるアイドルを、橋本奈々未さん以外に知りません。
そう考えると、実際の人物像と、写真に写ったときのイメージの、見事な飛躍が「売り」だと言える橋本奈々未さんのグラビアに、変な謳い文句みたいなものは不要だとも思いました。
実際の橋本奈々未さんは、結構、ドライで、現実主義者。
でも、写真に写ると、「永遠の母性」を称えた「聖女」。
ならば、このギャップを「謎」のままにした方がいい。
だから、本当は橋本奈々未さんのグラビアに変なクレジットなど付けなくていいのです。
ともかく、僕は、橋本奈々未さんのグラビアを見ると、「永遠の母性」を感じ、「聖女」のイメージに繋がり、なんだか、自分の汚さ・醜さが全て許されるような気持ちにさせらるのです。
そして、恋やら、性欲やらを越えて、・・・つまり、心の底から癒されるのです。
こんな稀有な女のひとは、そうそういないのではないでしょうか?
僕は、生涯、この『週刊プレイボーイ』no.13を捨てることはないでしょう。
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