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面白かったんだけど、「ナルニア」らしくないなあと思いました。なぜなら、戦闘シーンが多かったから。 「指輪物語」は、原作どおりに、作ってあるので、戦闘シーンが多いのは、当然なんだけど、「ナルニア」は、もっとずっと子供向けのお話で、こんなに戦闘シーンがあったとは思えなくて、原作、読み直してみました。買うのも嫌なので、図書館を検索。今の時期じゃ、ないかもしれない。思ったとおり、どれも、貸し出し中でしたが、予約をいれたら、すぐに連絡が来ました。「ナルニア」は「指輪物語」に比べるとずっと、簡単に読み終えられます。で、原作にないのがあの、お城に奇襲攻撃をするシーンです。原作とは、もちろんいろいろと違うのはもっともなんだけど、やっぱり、あのお城のシーンはなしです。「ナルニア」の原作は、戦争よりも、主人公たちが、何を食べたとか、食料の調達の苦労とか、目的地までえんえん歩いてたりとか、そんな描写の方が多いのです。戦争シーンがあんなに多いと子供向けのファンタジーではなくなってしまいます。やっぱり、「ナルニア」は、「指輪物語」と違って、もっと子供むけに作って欲しいです。もっとも、子供向けに作った結果が前作のようなちゃっちい出来だったのも考えものですが。でも、戦争シーンは少ないけれど、主人公たちが、子供なのに、食料にするために、殺した熊の肉を削り取って、葉にくるんで、持って行くシーンがあります。これってなかなかえぐい。殺したばかりの熊のなま肉を切り落とすのですから。 子供といえども、現実を生きるのは、辛くしんどくて時に嫌になって逃げ出したくなるものです。それが、たとえば、学校生活になじめないかと、親に叱られたとか、勉強ができないとか、その程度のことであったとしても。そして、逃げ出したい現実とは対象的に、子供の夢、希望そのものとして描かれているのが「ナルニア国物語」。だから、子供なのに、王様になったり、子供なのに、ナルニアでは、剣や弓を上手に使えたり、四人そろって一緒に王様、女王様になれたり、動物たちがしゃべったり、仲間や友達になってくれたり。 現実とは矛盾した子供の願いどおりに描かれている世界が、「指輪物語」のような、シビアなファンタジー映画になってしまうのは、やっぱり、なにか、違うかなあと。できれば、小学生の子供も、付き添う大人も、大人だけで見ている人でも、楽しめるようなファンタジー映画にして欲しかったなあと。きびしいかなあ。 原作では、ラストの戦闘シーンも細かい描写はなしでした。カスピアン王子の活躍するシーンもほとんどなしです。カスピアン王子は、影薄いです。映画のカスピアン王子はかっこよかったけど。次回作でも、カスピアン王子は出てくるはず。次回はもう少し、子供向けの原点に戻った映画になってほしいです。 ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛@映画生活
2008年06月25日
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これは三重構造の物語です。 物語で不正を摘発されるスリービーズ。三匹の蜂。蜂ってつまり働き蜂でしょうか。つまり庭師によって働かされ、がんばってためた蜂蜜つまり利益は庭師つまりはこのさらに上にいる存在によって吸い上げられてしまっているのじゃないか。わざわざ蜂というネーミングにしてあるのは、映画の原題が庭師だからという他にやはり、利益を集めながら、さらにその上にその利益を搾取されているに過ぎないのではないか。製薬会社のその上にいる存在を暗に示しているようにも思えるネーミングのように思えたのです。 そして、この物語の一番のテーマであるアフリカ人の命は安いということ。先進諸国にいいようにされているアフリカ。しかし、その内部に入ってみれば、主人公ジャスティンが最後に訪れる僻地の貧しい村のそんな場所でさえ、さらに土地の村びとたちは部族間での紛争をしている。 単純にただ、発展途上国を搾取する先進国の悪だけでなく、その搾取されているはずのアフリカの内部にすら存在する争いまでが描かれているのだ。うち側にも外側にもある利益のための争いに、まさに人間の原罪が描かれている。 非常に複雑な物語構成に脱帽です。 ところでヒロインの名前のテッサはもしかすると、マザーテレサから来ているのかも、とも、思いました。似てるでしょう。 人類の歴史は、支配欲を持つ男たちと、情によって生きる女たちとの、壮絶な対立の歴史なのかもしれません。この対立にいつか結論がでるものなのでしょうか。 以上。書きそびれたぶん、書き足してみました。
2007年03月06日
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兼愛と我執の愛が一つにつながる瞬間。 この映画もすごく評判いいですねえ。ヒロインがすごく美人ですばらしかった。 ここからネタバレしまくります。 宣伝ではラブストーリーと銘打ってあるんだけど、それだけじゃないだろーと思います。 新生の結核菌を治療する新薬の開発は金脈ともいえるほど儲かる。しかし、新薬には治験がつき物。つまりは人体を使わなくてはならない。そこで思いついたのがアフリカの奥地の村に援助物資とともに治験薬を送り、現地の村民を使って治験するというもの。本来治験は本人の承認を得てやるか、ないしは大学病院で専門の先生の元でやるものじゃなかったかな。でもアフリカでやれれば安上がりだし、大量にデータが取れるわけだしこんないいことはない。しかも、アフリカのど田舎なら、ばれる心配もないはず。しかしなぜかそんなことに気づく目ざといやつがいるもので、今回その目ざといやつだったのが主人公の妻テッサだったのです。テッサは金儲けのためには人を人と思わないあくどい企業のやり方を告発するたに命をかけた。そして文字通り命を引き換えにした。先進国の金儲けのためには発展途上国の人たちの命も生活も犠牲にして当たり前の現代社会の問題点を描いた物語でもあります。 ナイロビのスラムはアフリカ一の規模だそうです。『マザーテレサ』にでてくるインドのようにまずしいです。主人公のジャスティンは外交官で、エリートで、ひたすら温厚主義の、戦いを好まないヤサ男です。しかし、出産の時テッサと病院で同室で、出産後体調が悪いけれど歩いて長距離をかえらなければならない女性を見かけ、テッサは「せめて車に乗せていってあげたい」とジャスティンに頼みます。しかし、ジャスティンは「貧しいのは彼女たちだけじゃない。この村、この国のほとんどの人たちが貧しいんだよ。一人だけ助けてもどうにもならないだろう。」といって拒否します。一見戦争のきらいなやさ男風なのに、やっぱりしっかり男なんだなと感じさせるシーンです。 目の前のかわいそうを切り捨てる男、切り捨てられない女。 その後、テッサの死後、彼女の真実を求めて各地をまわった挙句たどりついた村で、部族間抗争で逃げる現地の少年を助けようとするジャスティン。金を使ってでも助けようとする彼に、頼まれたパイロットは「たとえ金をもらっても少年を助けることは出来ない」と断ります。ジャスティンは妻の真実を追いかけながら、とうとう妻の持つ兼愛の精神と目の前のかわいそうを切り捨てられないという人としての情を持つにいたるのです。 すべてに無関心で事なかれ主義だったはずのジャスティンは、テッサが彼をいかに愛していたかを知るとともに、それと同じようにあるいはそれ以上に、子供を、子供たちを、スラムの人たちを、アフリカの貧しい人たちを、世界のすべての人たちを愛する心を持っていたことを、そして自分自身もまた妻と同じように人を愛する兼愛の心を理解できるようになっていることを知るのです。 女性が持つ自己犠牲すらいとわない愛の感覚を、ジャスティンが始めて理解した瞬間なのです。 「男は戦争しか知らない。だから救援物資の食料はみんな女たちにやるんだ。女の方が賢い。」と現地の村で一人医療活動を続ける白人の医師の言う言葉こそが、まさにこの物語のテーマであり、貧しいアフリカの僻地ですら、部族間での戦いを繰り返す男たちには人間の持つ原罪を、そんな地でもなお子供たちを育て生きようとする女性たちにやはり人としての原点を見るようです。 ラストシーンでジャスティンは言います。「君はぼくの家だ。やっと帰ってきた。」と。ジャスティンのように、世界のすべての男たちが、女性の持つ兼愛の情を理解できれば、戦争も、人の命を犠牲にしても気にしないお金儲け優先の男社会的価値観も、なくなるのじゃないのか。と、私はそう思います。 戦争なんかやめてみんな我が家に帰ろうよ。 余談ですが、作中死産だったテッサが隣の黒人の女性の産んだ赤ちゃんにお乳を飲ませるシーンがありますね。このシーンはいろいろな含みもあり、また、テッサの博愛の精神を物語る場面でもありますが、実は、産後の女性が赤ちゃんにお乳を飲んでもらうのは医学的にもいいことなんですね。お乳を吸ってもらって乳房に刺激を受けることで産後の子宮が収縮して元に戻るのを助ける大事な役割を持っているんです。だから、死産だったテッサはよその赤ちゃんを借りてお乳を飲ませていたのは人助けだけの意味じゃなくて、テッサの体のためでもあったのです。でも本音はつらいよねー。えっと、追記を書き足しました。こっちも読んでね。 『ナイロビの蜂』公式ページ ナイロビの蜂@映画生活
2007年02月26日
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「一生を変えてしまう愛がある」『THE NEW WORLD』 この映画の宣伝コピーです。でも、私はこの二人の出会いは運命の出会いだったんだと思う。ヒロインのポカホンタスはジョン・スミスに出会うことで、みずからの故郷を追われてしまう。そのことにジョン・スミスはとても、悔やんでいる。けれど、本当にそうだろうか。 17世紀初頭、新しい土地を求めてアメリカ大陸にたどり着いたイギリスの船に乗っていたジョン・スミスと、現地に住むネイティブ・アメリカンの長の娘ポカホンタスが出会う。異文明の壁を乗り越えて惹かれあう二人の物語である。 ポカホンタスはとても、好奇心と、知識欲の旺盛な女性なので、たぶん、自分の生まれ育った村の中で一生を送ることに息苦しさを感じていたのではないだろうか。村を訪れたジョン・スミスに彼女はまず、言葉を学ぼうとする。人間には、現状維持型と開拓型の二つのタイプがいるんじゃないかなと思うんだけれど、彼女はまさに開拓型のタイプで、外の世界へ出ることを自ら望んでいたのであろう。そして、たった一人で未知の地へ乗り込んできたジョンの勇気と異文明の社会にすんなりとなじんでしまうその柔軟性と素養に、自分と同じものを感じ取ったのだろう。だからこそ、あんなにもジョン・スミスに惹かれたのだろう。自分を外の世界へ連れ出してくれる人だ。と。 けれど、ジョン・スミスはポカホンタスが自分と結婚することで、彼女をヨーロッパ社会に取り込んでしまうことにためらいを感じた。ヨーロッパ文明の社会の中で、彼女が持つ輝きが失われてしまうことを恐れたのだ。 けれども、ポカホンタスが持つ人間的魅力と輝きは決して西洋世界によって失われることはなかった。後年、イギリスに渡った彼女はイギリスの文明や次々と目に入る新しい知識やモノに目を輝かせてはいても、その勢いに気おされることも尻込みすることもない。女王との謁見にも臆することなくその気品と高貴さで、自らの種族のことを女王にそして、西洋に伝えることもできる。 死んだと思っていたジョン・スミスは実は生きていて、イギリスの地で再会することが出来る。西洋人(ジョン・ロルフ)と結婚し、西洋の洋服を着て、イギリスという西洋文明の中にあっても自らの輝きを失わず、毅然としているポカホンタスを見ることではじめて、ジョンは自分の決断が過ちだったこと、彼女の本質を見抜けていなかったことに気づく。ポカホンタスもまた、自分という人間の本質を本当に見ていたのは夫ジョン・ロルフであったことにきづく。 ジョン・スミスは自らの運命から逃げたのだ。ポカホンタスは身一つになっても、人質という立場になってもそれでも、ジョン・スミスの元へやってきたのに。もしも、二人が結ばれ、二つの文明の緩衝材となることで、二つの文明の橋渡しの役をすることで、あるいは、この後のアメリカ開拓における二つの文明の激突を和らげることもできたかもしれない。そして、イギリスに渡ったのち、帰路でその命が途絶えてしまったポカホンタスとともに二人でなしえたかもしれない歴史的業績を思うと、あまりにも惜しい。 二人の出会いは早すぎたのだろうか。もしも、二人が出会った時、ポカホンタスがせめて二十歳くらいなら、あるいはジョン・スミスにもポカホンタスの持つ可能性を見抜くことが出来たかもしれない。 自らの人生をかけたはずの恋を失い、廃人同様であったポカホンタスの中になお、彼女のもつ輝きを見つけて妻としたジョン・ロルフこそは実は本当にいい男なんだけど、(しかも、そののち、ポカホンタスがかつての恋人ジョン・スミスに会うことも許してくれてるしね) 惜しいかな、作中では今ひとつ人間的魅力で、ジョン・スミスにかなわない。なにしろ、前半部分でのポカンホンタスとたわむれるジョン・スミスはすんごくセクシイなんだもの。 できればやっぱし、ジョン・スミスと結ばれて欲しかったです。絶対この二人が結ばれると思っていたのに、映画を見ていたら、途中でジョン・スミスは死んじゃって、他の人つまり、ジョン・ロルフと結婚しちゃうんだもん。がびーんて感じでしたかね。見に行く前に公式サイトも見てたし、二人の結婚式も見てたのに、スミスとロルフを見分けていませんでした。なんてこと。 17世紀以降世界へと進出していった西洋文明が、果たして良いことだったのか。悪いことだったのか。その是非はわからないけれど、それでも、その歴史はやはり必然でもあったのだろうか。 この作品内では、アメリカ大陸にやってきたイギリス人はかなり紳士的に原住民のネイティブ・アメリカンと接触していて、それなりに平和的にかかわろうとするのだけれど、それでも、双方の価値観のずれによってやはり衝突はさけられず、うーんこんな風にして、西洋文明とそのほかの文明の衝突は起きてしまうものなのかなと思いつつみてましたけれど。そして、現地のネイティブ・アメリカンの長はいずれ争いになるであろうことも予見してジョンスミスを殺そうとする。それでも、ポカホンタスは彼を助けてしまう。どちらが正しいというより、男の感覚と女の感覚ってこんなフウにちがうんですね。男は危険を感じて自分達を守る事を優先するけれど、女というのはちっょと違う。危険を承知で別の選択をしてしまう。両方の絶妙なバランスがあって初めて世の中って言うのは上手くいくのじゃないですかね。 近年ヨーロッパ文明が行ってきた事の一つ一つを検証し直すような映画が結構作られていて、十字軍遠征とか、植民地開拓とか、いろいろ考えさせられますね。 それにしても、相手のためを思ってした行動が逆効果になることもある。ポカホンタスのために身をひいたジョン・スミスだけど、その後のポカホンタスの喪失感はすごかった。親としてわが子のためにする行為が子供にとって逆効果になったり、本来目指すものとは別の方向に子供を誘導したりなんてありうるよな。むずかしいものです。 さて、ディズニーの『ポカホンタス』も見てみないとね。
2006年05月18日
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映画ななめ読み 私がナルニアを読んだのははるか昔。高校生の頃です。学校図書館にあったんですね。だから内容はきれいさっぱり忘れてしまった。ただ四人兄弟が洋服ダンスの中のナルニアに入っていくという設定だけは覚えています。 全七冊ありますね。一冊ずつはちゃんと話が完結していてナルニア国の年代記と言う感じです。そしてナルニア国の大事件の時にちょうど四兄弟がナルニアを訪れる。その事件ごとに一冊ずつの物語になっているのですね。だから次にナルニアに行くときは何年もの歳月がたっているのです。 時は第二次大戦下のイギリス、ロンドン。ドイツ軍の空襲をのがれるため、田舎に疎開していった四兄弟。彼等が住む事になったお屋敷にあった洋服ダンス。その扉の向こう側にあったのがナルニア国。 当時戦争にあけくれる毎日。必死に戦っている大人たち、父や母を目の前でみている子供達にすれば、歯がゆかったんだろうと思う。父も母も必死にがんばっているのに子供である自分達には何もできない。そんな子供達の気持ちをルイスは物語りにしたのだろうかと、映画を見ながら考えてしまった。現実の世界で子供達が戦争に参加する事はありえない。けれど幻想の世界でなら。子供である君達だってほらこんな風に戦えるんだよ。そんな思いで書かれた物語なのだろうか。 一般にファンタジーの物語と言うのは子供の主人公が多い。そして子供だてらに剣を使い、信じられないほど強い敵を倒す物語が多い。目の前で起きる戦争に何もできずにただ見ている、あるいは足手まといにさえなってしまう自分達のはがゆさ。C・S・ルイスはそんな子供達の気持ちをファンタジーとして物語にしてくれたのだろう。 しかし、そんなルイスの思いとはまた裏腹にどうもこの映画を見ながら、その裏を考えてしまう。なにしろこの作品。原作と舞台はイギリスなんだけど、映画制作はディズニー。つまり、アメリカ。 ライオンであるところのアスランは戦時中「眠れる獅子」と言われたアメリカのことかな。それから魔女はソ連のこと。作中のナルニアが冬なのはまさに現実世界の戦争を物語っているようだった。それと、冬はイコールソ連、ロシア、戦争、社会主義を象徴しているようでもあった。それらのものからナルニアという世界を救おうとするライオン、アスラン。まさにアメリカそのもの。 そして、物語のラストでアスランは四人の兄弟をナルニアの王として、ナルニアの東つまりアジアを意味していると思えたのだけれど、ここをルーシーに、そして、南をスーザンに、西をエドマンドに、北をピーターにと言うように割譲する。 東の海すなわち、アジア。南の大地すなわちアフリカ。西の森すなわちヨーロッパ。そして北の空すなわちロシア。 を意味しているように思ってしまいました。 そしてユーラシア大陸を四人の王に割譲した後アスランすなわち獅子であるアメリカは新大陸である、自分の国へとかえっていく。物語でも、アスランは平和になったナルニアからどこかへ行ってしまうのです。 それにしても、なぜ、四人兄弟がナルニアに来たとたん春になっちゃうんだかわかりません。原作忘れちゃったし。だいいち、ストーリーを見ていても、この四人いなくても、アスランさえいれば話はすむような気がする。この四兄弟以外とたいした活躍してないんだよね。一番話を進める役にたったのが裏切り者のエドマンドだったりしてるしね。アスランだって死んじゃってルーシーとスージーがなき悲しんでいるのに、ひょっこり生き返ったりして、なんーかだまされたような感じですね。こんなにひょっこり生き返るなら、死ぬ事ないじゃんと思う。 女王に最後の止めをするのもアスランなのでピーター別に要らないジャン。ピーターのもってる剣もどーも安っぽくて軽そうで、ほんとーにこんなのでやっつけられるのかなーというかんじなのですね。要するに魔女をやっつける必然とか、強さとか説得力ないのですね。アスランだけいればよさそう。この四兄弟がなぜ王になれるのか映画では、まったく説得力ないです。 ファンタジーと言いながら当時の世相がリアルに物語の中に再現されている。それをまた、今の時代にみるとどこかチンプなのですね。 ただストーリー自体はまさにファンタジーの王道なので、単純にファンタジーとしてみれば、画面は美しいのですから、ファンタジー映画としてはそこそこにはよくできているのです。 そういう意味でファンタジーを全面に押し出すつもりだったのなら、序盤の空襲のシーンは本来ないほうがいいのです。すこしだけ、ナレーションで説明をいれて、田舎の駅に降り立った四兄弟のシーンからはじめればいいわけで、それがわざわざかなりの手間と時間をとって空襲のシーンをだしているあたりで、アメリカサイドの国策映画のようなのりを感じてしまわざるを得ないのでしょうね。 現実世界の戦争とファンタジー世界の戦争がリアルに表裏一体の姿で描かれてしまっているのであって、厳しい現実からのがれても、やはり幻想世界の中にすら戦争や争いや悪の存在があって決して逃れる事はできないし、勇気をもって戦っていくしかないのだと、そうとることもできるかもしれませんね。
2006年03月17日
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今頃見に行ってるので、すでに楽天ブログの映画のカテゴリにはこのタイトルはどこにもない。そんなにずれてますかぁ。おかげでうちの近くのシネコンじゃ夜しかやってなかった。 しかたがないから東京のど真ん中銀座までちょっくら行って来た。「有楽座」さすが、銀座の映画館。すっごくきれいにリニューアルされていて、デザインがレトロなのですー。入り口のガラスの自動ドアも昔のガラスドア風デザイン。場内もレトロな内装で、やまぶき色が主体。シートも壁のカーテンもクリムゾンレッドのベルベットでできていた。 その劇場の満々中のシートに座って見てきましたー。かっこよかったー。ミラージュ2000が最初から最後までバーンバン飛びまくってて。人によってはいまいちって人もいるけどやっぱり私程度ならあれで充分です。ほんとーに戦闘機に乗ってる感じ。中からと外から映してくれて、しかもバックがフランスの美しい風景だったりするのですからアメリカ映画のがさつさにそろそろうんざりしかけてもうアクション系の映画はみたくないって思っていたところですが、そうかやっぱりいい映画ならアクションでも、まだまだ面白いし、やっぱり映画館でみなくっちゃと思ったのでした。この映画は自宅のテレビ画面で見るのはあまりにもったいなさすぎる。 「フランスの国策映画だ」という話をどこかのブログで読んだんだけど、そういう視点で見るとそれはそれで面白い。フランス空軍の全面協力っていう触れ込みだけど全面協力っていうよりフランス空軍のための映画だよね。ほらーフランス空軍てこんなにすごいんだよーとみせびらかされている感じでした。ちなみにミラージュは着陸時の減速のためのパラシュートが四つついていた。アメリカの場合は二つしかついていないんだそうだ。さすがフランスの戦闘機。金と手間がかけてあるね。というのがうちのダンナの意見ですさて、この映画を見て、世界各国の首脳陣は、どう評価したんでしょうね。ドシロートの私にはもちろんわかりませんが。私的にはかっこよかったですぜ。 そしてラストで悪役が乗ったフォルクスワーゲンが爆破されたりアイポッドというあだなの大尉が撃ち殺されちゃったり、テロの下っ端の乗ったトラックがトヨタだったりする。日本てテロのしたっぱですかぁ。日本は泥棒の下っ端あつかい。爆破されるよりましなのかなぁ。でもね。トヨタのトラック。あんなアフリカの砂だらけの原野でも、あんなおおざっぱでメンテナンスもやりそうにないところでも、ちゃんと役に立つんですよ、日本車は。こわれないんですよ。日本車ってすごいかも。ドイツは爆破され、アメリカは撃ち殺され、日本は泥棒の子分。そしてフランスの戦闘機はがんがんかっこよくとびまくって最後はテロまで撃ち落してやったーフランス万歳ってとこかな。 まあ、この手の映画にありがちなだらだらしやすい地上での人間ドラマの部分が少なくて、すっきりしててよかったけどさ。 ところでね。最初の方ででてくるセリフ。「女の影に男あり」だって。フランス映画だからあまりに当たり前なセリフと油断していたら、やっぱりばりばりに複線はってあるじゃん。いくらなんでも、新入りの女がなんてありえすぎーと思っていれば、裏の裏をかく当たり前すぎる設定。うーん。 まあ、戦闘機がばんばん飛ぶところを楽しむ映画なので、かっこよけりゃーいいんですよね。ただね。ストーリーがいい方がますますかっこよく見えるものなんですよね。でも、説明が足りなくてストーリーがわかりづらい。私もさすがに後半はちょっとよくわかんなかった。苦しい状況ですね。なにしろ謎解きのためのセリフが一瞬ぱっとしゃべられて終わり。ちょっとトイレでも、行こうものなら、どういう話だったんだ?ってことになっちゃう。絞りに絞ってあるので見るときはセリフ一つもはずさずに気合いれて見ませんとね。 さてー手取り足取り書きすぎなんだけど、ストーリー解説。 イギリス空軍の航空ショーからいきなり、どこかへとんでっちゃった戦闘機ミラージュ2000。たいへんだってんで、フランス空軍の戦闘機二機で追撃。これが主人公のマルシェリ大尉とその同僚のセブ。ところがミラージュ2000がこちら側を攻撃してくる。しかし、反撃の許可が降りない。このままではやられる。どうする。マルシェリ大尉。 実はこのミラージュはフランスの防空をチェックするための隠密指令によるものだった。だから攻撃許可が降りないんだけど、さらに実はミラージュに乗っていたのは乗る予定だったパイロットと入れ替わって乗っていたテロ側のパイロットだったのである。テロがミラージュを盗んで逃げていく途中だったわけなんだけど、本部はもちろんマルシェリ大尉もこの段階では何がなにやらぜんぜんわかっていない。許可は降りない。でも、やられる。って時このわずか数秒の時間でどのくらい正しい判断ができるか。相手は結局テロだったわけだし、テロが泥棒するところをぎりぎりでストップかけたんだからマルシェリ大尉の判断は、抜群にすばらしかったわけなんですね。中盤で裁判にかけられて軍をクビになったりしますが、結局事の真相がわかって復職できます。命令にさからえばどうなるかわかっていてなお、どこまでその先を見込んで瞬時に正しい判断ができるか。かっこいいぜ、マルシェリ大尉。 さて、ミラージュを盗みたいテロ側はまだまだ懲りない。武器商人に戦闘機を売り込みたいアメリカとフランスの戦闘機レースの情報を察知して、さらに計画をたててくる。戦闘機の空中燃料補給のための補給機のパイロットを射殺し、このあたりでミラージュの燃料が切れるだろうと予測してそこに一番近いど田舎の空港で待ち構えているテロ軍団。テロに捕まっちゃたマルシェリとセブ。しかしミラージュを持ち帰りたいテロのためにミラージュを操縦させられたマルシェリはテロの命令を無視して空港に戻ってくる。このときの着陸時にソニックブームを起こして見せてくれますね。画面にもはっきり映っていて、これってすごいんだそうだ。おかげで空港の建物は壊れるし、テロ軍団もやっつけられちゃうし、こんなことができるのはよっぽどすご腕のパイロットじゃないと無理なんだそうだ。フランス空軍でも、トップクラスの腕だってことですね。かっこいいぜ、マルシェリ大尉。 それにしてもマルシェリ大尉がクビになったとき一緒に空軍をやめちゃったセブ。クビを覚悟でセブを助けるためにテロの乗ったミラージュを撃墜したマルシェリ。二人とも戦闘機に乗るのが大好きだったのに、友達のためにこんな事できる二人ってすごい。友情っていいなあ。 さて、パリサミットを攻撃するためにしつこくミラージュ泥棒を繰り返したテロですが、なんとか一機泥棒するのに成功した。これに乗っているのがスパイとしてフランス空軍に入っていた金髪美女新兵のエステルですが。ラストはパリサミットを攻撃しにやってきたテロ戦闘機軍団ですが、当然マルシェリにバンバン撃ち落されまして、やっぱりかっこいいぜ、マルシェリ大尉。しかしなぜに生き残ったのかな。エステル。 パート2作れそうですね。 さあ、来週こそナルニア見なくっちゃ。日本の戦闘機マンガといえばやっぱりこれだね。ブログルポ投稿中の記事★ 『博士の愛した数式』★ 美術は大事★ 言葉はナマモノ★ 『男たちの大和』その2★ 女の子の世界はむずかしい★ 『東大法学部』★ 教えられたようにヒトは行動する★ ノー ボーダー★ 「反戦」を「キレイゴト」で終わらせたくないと思いませんか★ 女の人は本当に働きたいのか
2006年03月09日
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