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中国王朝を舞台にしたファンタジー。最近は一世を風靡した時代物の韓国ドラマがほとんどなくなってきて、それに代わって時代物の中国ドラマの放送が増えてきています。私もせっせとBS放送で中国ドラマを見ているのですが、それだけでは物足りなくなってきて、小説も中国ものを読みたくなってきたのです。中国後宮ものというと有名なのが、『宮廷の諍い女』なんですけど、私はこれはまだ見てません。後宮ものといえば、とにかく女同士のドロドロの抗争劇ですが、個人的にはあんまり好きではありません。で、この小説は、玉座を争って皇子同士が戦いあうお話。男性版中国王朝ドロドロ劇です。皇帝が崩御した途端、次の玉座をめぐって、8人の皇子たちが競い合うことが、制度としてシステム化されたセイ王朝のお話です。その設定がものすごく複雑で、読んでいて覚えないとならないことがすごく多いし、ほとんどが難しい漢字なので、読み方すら覚えられません。本の冒頭に記されている8人の王子のプロフィールと、システムの名前と読み方を何度も見直しながら、読み進んでいくのはなかなかに大変なのですが、それでも、読み進めてしまうのはやっぱり、今までにちょっとなかった設定と先の読めない展開のせいでしょう。中国ドラマを見ていると時々出てくるふこ(巫蠱)の呪術を基本にして、中国で実際にあった晋王朝(西晋)の内乱、八王の乱をモデルにおいて描かれています。この乱によって晋王朝は、滅んでしまったのですが、だったら、王朝が滅ばないように、臣民に迷惑をかけず、軍隊を無駄に浪費せずに、王子だけで戦わせたらどうなるかというシステムを考えた物語なのです。13か月かけて、宮廷内に出現するコキ(妖怪もの)を毎月規定数倒して、最後まで残った王子が勝つわけですが、どんなずるをしてもいいし、ライバルを蹴落とすためにだましてもいいわけで、ただ皇子同士が戦うだけの体力戦ではなく、相手をはめて生き残る頭脳が求められるわけです。このコキは、人の形で出てきますが、これもまた、宮廷に閉じ込められたふこの虫なわけです。その設定で一体どんな方法で、勝ち残るのかが、このお話の読みどころなわけです。細かいルールがものすごくたくさんあって、このシステムを破綻なく考え出すのは相当大変だったろうと思います。生き残るために皇子の心を支えるものは何なのか。それは、愛する人なのか、人生の目標なのか、もっと高い志なのか。それでは、ふこ(巫蠱)の呪術とは、何なのかというと、道教の呪術の一つで、ツボの中に餌を与えずに複数の虫を入れておくと、共食いをして一匹だけが残ります。その虫を呪術の道具として使うものです。物語では、宮廷という限定された空間の中で王子たちが戦うわけで、王子の一人は自分たちもまた、虫なのだなと、思うわけです。皇帝の寵愛を競わされる後宮もまた、ツボの中に閉じ込められて、自分を守るため、生き残るために妃濱たちが競い合うようなもので、やはりふこの虫と同じだと思います。争いを嫌って、おとなしくしていれば、殺されるか、劣悪な環境で、最低の暮らしをするしかなくなるようです。虫にしても、人にしても、狭い制限された空間に閉じ込められていれば、お互いを殺しあうしかなくなるわけで、学校や会社でいじめが起こるのも無理ないなあと思います。これもまたある意味、ふこの術に近いものがあるのかもしれません。今の日本では、学校も会社も生きていくために、どうしても行かなくてはならないところ。でも、遅刻にうるさかったり規則で縛ったり、休みもおちおち取れないのでは、ふこの虫と同じです。せっかくコロナでいろいろと緩くなったので、このまま社会全体が緩いルールで暮らしていけるほうに進んでいければいいのにと思うのです。物語の最後では、死ぬはずだったヒロインは、解き放たれて、広い世界へと旅立っていきます。それが一番の解決なんですね。ちなみに、皇位を持つ皇子たちをみんな殺してしまったら、即位した後、後継ぎも作らないうちに、すぐに、病気かけがで皇帝が死んでしまったら、そのあとの帝位は誰が継ぐのでしょう。困らないんですかね。オスマントルコ帝国でも、一人が皇帝になったら、ほかの王子たちはみんな処刑と決まっているそうで、皇帝がすぐ死んだらどうしようと困ることはなかったのでしょうか。江戸幕府なんか逆に、後継ぎに困らないよう、大奥のほかに御三家御三卿まで、用意していたほどなのに。中国やトルコってたくましいのでしょうか。そのあたりだけが謎です。九天に鹿を殺す 煋王朝八皇子奇計 (集英社オレンジ文庫) [ はるおか りの ]
2020年10月26日
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セックスなしでも私を愛してくれますか。前半、不幸な貧乏話が延々と続くので、この手の話の嫌いな私は、ちょっと辛くて、読むのをやめようかと思ったのです。なんで、図書館に予約を入れたのかはもう思い出せません。でも、実は、芥川賞を受賞した『乳と卵』のリライトだそうです。後半では、小説家となった主人公夏子の子作りの話ですが、どんな話か分からないまま読んでいたら、どうやら、(非配 偶者間人 工授精)の話ということが分かってきて、さらに読んでいたら、実はラブストーリーだったのだと、わかったのでした。夏子と、逢沢のデートシーンが素敵です。もしかして、好きになっていくのかなと思っていたら、やっぱり、好きになっていました。そして、相手の逢沢も夏子を好きになっていました。好きになったら、結婚して子供を産んで家庭を作っていくのが、世の常道ですが、この物語では、夫婦生活の破綻する夫婦がたくさん出てきます。男は妻に暴力をふるい、出産後遺症に苦しむ妻に、「妊娠出産なんて、普通の誰でもやってることだ」と、暴言を吐きます。精子提供者であり、肉欲だけで妻(女)と関係する夫(男)たちは、子作りが終わり夫婦関係の薄れたメスとの生活に苦痛しかありません。家庭を作って子供を育てるなんて言う世の常識は彼らには苦痛でしかありません。でも、男と女は結婚して子供を産んで育てていくものと思い込んでいる女たちには、なぜ家庭が崩壊し、夫たちが、暴力をふるい、逃げ出していくのかわかりません。私に色気がないせいかしらと、豊胸手術をしてみても、男は戻ってきてくれません。子孫をを残すのがオスのDNAに組み込まれた仕事なのに、子作りの終わったメスと一緒にいる意味なんてありませんから。でも、人間の世界はもちろんそれだけではありません。心がありますからね。肉体関係なし(プラトニックラブですね)でも、カップルは成立するのでしょうか。夏子にも恋人はいました。でも、暴力をふるう怖い父親(オス)を見て育ってきた夏子にとって、セックスは苦痛以外の何物でもありませんでした。セックスのできない夏子に、恋人はほかの女性に性を求めました。そして、二人は別れました。普通の男性にはなかなかセックスのない恋は耐えられないのですね。忍耐力があり、妻との家庭生活を普通に営んできた父親を持つ女の子たちなら、セックスは楽しいものでもあるのですが、夏子には、男性と肉体関係込みの夫婦生活を送っていくことはできないのでした。けれど、生物ですから、子孫を残そうとすることは、女性のDNAの中にも、もちろんあります。セックスなしでも、子供が作れる。現代の医学ってすごいですよね。非配 偶者間 人工授 精による出産を考え始めた夏子は、非配 偶者間人工授 精によって生まれた逢沢と出会います。自身の出生のもととなる存在がわからないということが、どれほど個人のアイデンティティを危うくするか。で生まれ、自身の育ての親に強 姦され続けた女性にも出会います。セックスがいやなのに、家庭を持てそうにないのに、経済的保証もないのに、それでもなぜ夏子はこどもを持ちたいと思うのでしょうか。生まれた子供が一生病気によって痛くてつらい不幸な人生を送る運命かもしれないとして、それでもあなたは子供を産みますか。ま、そんなこと言ったら、そもそも人類の存在自体どうなのってことになると思うけど。セックスなしでもいいから、夏子に会いたい、と逢沢は言いました。好きなら、会いたい。相手に触れたい。キスしたい。セックスしたい。恋愛の行動のどこまでが、ほんとの恋情で、どこまでが、肉欲なのか。大概の恋愛は、肉欲込みで、そこに境界線を引くことなんて、まあ普通はありませんから。好きな人とのセックスはすごく気持ちいいでしょ。女性のセックスは個体差があるので、好きな人も嫌いな人もどうでもいい人もいるのでしょう。でも、愛がなくても、セックスはできるし、オスって、愛に関係なく、肉欲に支配されてしまう生き物ですから。ふつうは、肉欲込みで恋愛してしまいますが、肉欲抜きで、恋をするってどういうことになるのでしょう。蟻とか、蜂の世界は、オスは本当に単純に精子提供者ですよね。巣の運営も維持も、メスの女王蜂と、働きバチたちで、やってます。オスは群れに数匹いるだけで、新しい女王とハネムーンに出かけて新しい巣を作る時の精子の提供者です。非配偶者間人工授精が、どんどん進んで、人間のオスも精子提供の存在だけになっていってしまうかも。今の世の中どんどん結婚率が減っていって、結婚しない若い男女が増えてます。昔、無理やり親に結婚させられて、我慢我慢で、夫婦は生活してましたけど、今どきのわがままな男女、いえいえ、個人の尊厳と、自分の意志と、自分の生活と人生を大切にすることが当たり前になっているこの時代に、夫婦であること、家庭を維持することは、どこまでできるのでしょうか。夏子もまた、男に頼らずに自分だけで子供を育てていく人生を選びました。精子提供のすんだ逢沢さんは、夏子の生活と人生から離脱してしまいます。関係は切れませんけどね。人類も、蜂のような構造社会を作っていくのでしょうか。今どきは、一人の女性が女王蜂と、働きバチをこなすことも可能な社会ですからね。物語の中で、10人の子供が眠っている家の例え話が出てきます。その中に一人だけ、生まれてから死ぬまで死ぬよりつらい苦痛を味わい続ける人生の子供がいる。それがどの子供なのかはわからない。それでもあなたは子供たちを起こしますか。私たちの産む子供たちの人生が幸せなものとは限らない。けれど私は、苦痛の子供は、もっと昔には5人いたかもしれないと思うのです。さらにもっと昔には、8人だったかも、9人だったかもしれないと思うのです。けれど、長い歴史の中で、たくさんのかつては子供たちだった人間たちの能力によって、技術の革新や努力によって、1人にまで減ったのではないかと思うのです。子供たちを起こさなければ、人間の社会はよくなりません。子供たちのどこかに、人類を救う技術革新や発明をする能力を持った遺伝子をもつ子供がいるのです。それは、あるいは、生涯苦痛に苦しむ子供であるかもしれない。それでも、苦痛の子供が0人になることを目指して、人は子供を産むのだと思います。すごい発明をした人も、女性の地位を向上させるために頑張った人も、治らないはずの病気を治す薬を開発した人もいたのが、人の歴史だからです。でももし私が、あなたの人生はつらいだけだよと生まれる前に教えられたら、その人生はいりませんというだろうと思います。非常に読み応えのある、問題定義の素晴らしい、物語でした。普段女性たちが感じている男性たちの女性への差別や無理解や暴力などの不愉快な行動をみごとに描き出してくれました。後半からどんどん面白くなって、読み終わってみたら、なんで予約していたのかわかりました。また、川上先生の作品を読もうと思います。夏物語 [ 川上 未映子 ]
2020年08月30日
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日本人は無宗教と言われているし、大概の人はそう思っているだろうと思う。けれど、本当に宗教は、必要ないのだろうか。どんなに頑張っても、努力しても、どうにもならないことが人生にはたくさんあるし、つらいこと、不安なこと、心の不安定がどうにもならないこともある。そんな時に、無意識に神様に祈っていることってないだろうか。日本には、神道と、仏教の二つの宗教がちゃんとあって、神社にお参りに行ったり、お寺にお参りに行ったり、お宮参りや七五三や、お葬式や法事がある。ちゃんと生活の中に普通に宗教はある。2000年以上の日本の歴史の中で、連綿と続いてきた二つの宗教が、なぜ今こんなに薄いものになってきてしまったのだろうか。かつての日本では、信仰は、もっとずっと濃かったのではないかと思う。それは、明治維新による、神仏分離、廃仏毀釈などの政治的な理由と、科学の発展により、目に見えないものを否定する価値観によるのだろうかと、私なりに考えてみる。日本の中にある新興宗教って、迷惑だなと思う。日本にきちんとした宗教がないからなのではと思う。新興宗教ってはいってる本人たちはいいけれど、周りは大概やめてほしいと思っている。お布施も高い。もし、日本の中で本来の宗教がきちんとした存在感を持っていれば、不安な時、新興宗教に流れなくてもすむのではと思う。今、神社がすごくブームで、特に御朱印集めが流行っている。そんな形で、神道が、広がって、普及して、個人の宗教が普及していったらいいのにと思う。団体としての宗教には、どうしても、『集団の中での組織化、組織の防衛という問題や、世俗的なものがからんでしまうというジレンマがある』と、河合隼雄氏が『ユング心理学と仏教』で書いている。だからこそ、個人として宗教にかかわっていくということである。それはまさに日本の環境でこそできる宗教とのかかわり方なのではないかと思う。キリスト教社会や、イスラム教社会では、宗教に入らないだけで、変人扱いされてしまうほど、ある意味宗教を信仰することに対して、社会圧がかかってしまうのだという。そんな個人としての宗教のあり方を指南してくれるのが、まさに桜井識子の数々の著作なのである。特定の集団に入ることなく、高いお布施を払うことも、集団の論理を強制されることもなく、もっとずっと自由に自信の感性で、神や仏とかかわっていく。その方法論や、見えない世界の話を数々語ってくれる著書なのである。集団にかかわらず、神社やお寺に個人で通う時、たった一人で孤独に信仰を深めていこうとする時、個としての宗教を支えてくれる本であると思う。現在、桜井識子さんの著作は、16冊あって、私もまだ、読み切ってはいない。本書はその数々の著作の第一作目なのである。新装版ひっそりとスピリチュアルしています—えっ!?意外!神仏はこんな人が好き
2020年02月03日
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一瞬の出会いが人生を決めてしまうことがある。けれどそれは、本当にたまたまの偶然だったのか。出会うべくして出会うものだったのか。主人公外村は、高校で、調律にやってきた板鳥の調律に魅了されて、調律師を目指す。調律の専門学校を出た外村は、板鳥の勤める楽器店に就職し、調律師を目指す。調律の道は厳しく、音の世界は果てしなく深い。ピアニストになることをあきらめた秋野(会社の先輩その1)は、楽器の音の中で育ち、楽器の音をみごとに聴き分ける。人間の決めた音階だけを聴き取ることができるから、それが仕事の速さにもつながっている。公衆電話の黄緑色さえ気持ち悪いと感じるほどの柳(会社の先輩その2)は、音や色、ものに対しての感度がとても高い。ものすごい感性をもっている。それは、彼にはつらいもので、都会の中の人の作る音に囲まれて、つらい青春を送らなければならなかった。けれど、そんな感覚がプラスになる仕事というものがあるもので、彼の感度の良さが調律の道につながっていく。そして、山村に育ち、多くの時間を北海道の大自然の森の中で過ごしてきた主人公の外村は、世界のすべての音を聴き分けることのできる感性と聴力を持っていた。楽器に触れずに育ったことで、楽器の音だけに縛られない。街で育たなかったことで、人間界の音にも縛られない。人為的な音の一切ない森の中で、微妙な自然界の音、世界のすべての音を聴き分ける力を身につけて育つ。それゆえに、感度がよすぎて、普通の人が聞き取れない、聞き漏らしてしまうような微細な音も聴き取ってしまうことが、調律にマイナスに働いてしまう。機械すら読み取らないような微細な音まで聴いてしまう故に、音が決められず、調律に時間がかかってしまうのだ。ピアノと同じ部屋に中に、布が一枚入るだけでも変わる音の微妙な差と変化を、彼は聴き分けてしまう。それは、絶対音感よりさらに深い、究極の音感なのではないかと思う。最初は初心者ゆえに、戸惑い、音を決められないのは、自分の能力の低さだと思っている。けれど、たくさんの経験をつむ中で、微妙な調律の設定の差が、音の差を生みだすことを知り、望まれる音の見つけ方を少しづつ理解していく。都会の空では、星座になるような大きな星しか見えないけれど、北海道の自然の中の、人界の光の一切ない真の闇の中に浮かび上がる星空が、星座になる大きな星すら埋め尽くしてしまうほどの細かい小さな星々まで見られるそんな夜空を見るように、外村は、音の世界を聴き取ってしまう。普通の人間では聴き分けられないような音の世界の、まるで森のように、ピアノの音の世界を深く深く、限りない美しい世界を、ただ、彼だけが視ることができる。森の中ではねるシカのように、光を放つ木々のように、草と葉のあいだをぬける風のように。そして、今まで誰も聴き取れず、誰も作れなかった音の世界を、誰もが聞き取れるピアノの音として、再現できたとしたら、それこそが、究極の調律なのかもしれない。それができるのが、外村だとしたら、それはとても素晴らしいこと。そんな彼を、見つけたのが、板鳥さんで、天才(外村)は天才(板鳥)にしか見つけられない。のだと思う。普段なかなか出会うことも知ることもできないような仕事を、紹介してくれるような小説やドラマが、最近増えたなあと思う。この作品も、調律というあまりかかわることも知ることもできない仕事を、実にみごとに実に細やかに教えてくれたありがたい小説です。◆◆羊と鋼の森 上巻 / 水谷愛/漫画 宮下奈都/原作 / 小学館
2019年08月29日
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週刊新潮に連載されたエッセイのまとめ本。サクサク読みやすい文章と内容だったので、3かで読み終わることができました。娘に返さなくちゃというプレッシャーもあって、ほかのことを二の次にして読んだので、なおさら。こういう今までの思い込みや価値観の転換を提示するものは面白い。特に面白かったのは、「来世を信じれば楽になる」スピリチュアルみたいだけど、要するに、人生は一回きりだからといって、その一回の人生に悔いのないくらいすべてのことを消化しなくてもいいんじゃないかという話。世界中の観光名所に行くことはできないし、世界中の美味しいものを食べつくすことも、世界中の人と知り合うことも、すべての本も読むことも、当然できないし。私も、最近はめんどくさくて、海外に行くことをあきらめた。どうにも、めんどくさい。海外は大好きですけどね。「東京とは大いなる田舎である」都会というと、高層ビルが乱立しているイメージだけれど、そんなのはごく一部で、それ以外は、ほとんどがちっちゃな民家が立ち並んでいる。つまり、田舎と変わらない。ただそれで、とても広い面積で、延々と続いているのである。いわれてみれば、確かにそうだなーと思った。だいたい東京っていうのは、地方からの移住者の集まりであって、本当の都会人なんていない。先祖代々住んでいるヂモッティの人口もごくわずか。そもそも、都会とか、都会人の設定ってなんだ。「バイライト音楽祭を温暖化が変えた」ヨーロッパの公式の場所といえば、タキシードなどの正装が常識だけど、いまや、ティーシャツでも、OKらしいです。なんでかというと、温暖化で暑くて、そんなもの着てられないから。昔は涼しかったので、そもそも、クーラーがないそうで。へーーーー。おもしろい。そして、びっくり。こんな話テレビでも聞いたことないし、ネットでも、読んだことなかった。などなど、結構面白い話が載っていた。古市さんは、炎上マニアとして有名らしいけれど、炎上なんて、気にしないそうです。私も、炎上が怖くて、ブログにほんとは書きたいけど、書いてないことがある。書きたいのに、書けないなんて、こんなことで、言論の自由を奪われるなんて、なんか腹立たしいなあ。と、思っていたら、先日息子が言った。「炎上するのは、有名な人だけ。アクセスの低い一般の人間が、ツイッターやブログになんか書いても、炎上なんかしない。」確かに。炎上するにはまず、有名にならないとーーーー。アクセス増やさないと。誰の味方でもありません (新潮新書) [ 古市 憲寿 ]
2019年08月23日
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意味に疲れたら、無意味で休もう。が、この本のキャッチフレーズで、じゃあ、そもそもこの本でいうところの意味って何かというと、それがどうにもわかりにくい。インターネットなどによる情報過多と、有意義な時間の過ごし方と、価値のある人生の送り方が、ごっちゃになって、十ば一からげになって、意味という言葉になっている。だから、読んでいてちょっと頭に入りにくくて、前半部分は、意味のところを情報に置き換えるとやや読みやすくなってくる。情報過多に埋没しそうになったら、その情報をいったん遮断するか、だろうけれど、時間を無意味に使ってしまうことへの罪悪感に対しては、有意義に過ごすことが人生のすべてじゃないと、再認識するしかない。人生は遠大な暇つぶしともいう。一人の人間の人生なんてたかが知れている。そこまでの境地に至れるかどうかだけれど、とりあえず、情報を遮断して、有意義ではない時間の過ごし方をいろいろと考えてみる。それがつまり無意味というもので、無意味な時間の過ごし方というもので、そのパターンをいろいろと考えてみる。ただ、怖いのは、無意味というものは、無意味であることにこだわって目指してしまえばそこにまた、無意味にこだわるという意味ができてしまうわけで、そんな矛盾にどう立ち向かっていくかというこれがまたとてもめんどくさい話なのである。最後に何か愕然とするような、感銘を受けるような展開と解釈があるのかと期待して読んでいたけれど、特に何もなかった。最後まで、意味と無意味の間を行きつ戻りつする本なのである。この夏の暑さにどこにも行かずにクーラーのきいた部屋で、グダグダと過ごしていると、こんなことでいいのかとか、もっと有意義にこの夏を過ごすべきじゃないかとか、夏は特にそんなことに焦燥感を掻き立てられる季節だけれど、まあ、本を読みながら過ごす夏もいい。特にこんな本を読んでいれば、夏の焦燥に燃え尽きないですむかもしれない。夏の午後の昼寝ほど、気持ちいいものはない。無意味のススメ 〈意味〉に疲れたら、〈無意味〉で休もう。 [ 川崎 昌平 ]
2019年08月20日
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映画『来る』とは、後半がやや違う。映画では、ぼぎわんというバケモノは、国家を挙げて倒すほどのバケモノになっているけれど、原作ではあくまで、K市に存在するバケモノなのである。けれど、社会的事情、経済的事情、家庭の事情、個人の事情、経済的困窮により育てられなくなった子供の遺棄、親の虐待、子殺し、いろんな理由で捨てられた子供、殺された子供の恨みや怨念がバケモノとなって、人を襲う。それは、日本のどこにでもあったことで、それを第一章の主人公秀樹の祖父母の故郷である地方の小都市K市にスポットを当てて描き出す原作と、全国レベルのバケモノとして描き出す映画との違いである。それがどちらであっても、今現在の社会の子育ての問題や、少子化、人口減少と、現代の社会問題にテーマを絞り、それが、過去にも繋がっていく展開が、ホラーでは終わらない深い物語として、みごとだなと思う。現在、ニュースで取り上げられる虐待による殺人が、必ずしも現代に起きたものだけでなく、過去から連綿と続く問題であること、それがこれからの少子化、人口減少を問題とする現代にあっては、ただ万全と個人の問題として、取り上げられて終わってしまってはいけない問題なのだと、再認識させてくれる。核家庭だけではこなしきれない子育て、家庭だけでは負担しきれない肥大化された現代の教育費、社会の維持のために、社会が負担し、問題視し、助けて、救い上げていかなければならない子育てと、教育を、社会がもっと真剣に向き合わなければいけない問題なのだと、物語が語る。人口減少でやばいのに、虐待なんてしてる場合じゃないだろうと思うのです。バケモノは怖いけれど、そのバケモノを生み出しているのは結局は、人だ。第一章では、主人公秀樹が意識した瞬間に、ぼぎわんが出現する。第二章では、夫秀樹を呪う妻香奈の恨みの心が、ぼぎわんを呼び寄せる。第三章では、子供を作れない、子供を持てない者の心の痛みが、子供をもつ他者を呪う心がぼぎわんを呼び出す。そして、夫に子供を殺された母の呪いがぼぎわんを、生み出す。呪いと恨みが化け物を生み出し、成長させる。そんなぼぎわんに連れ去られ、飲み込まれたはずの知沙が、ぼぎわんに吸収されなかったのはなぜか。ぼぎわんに飲み込まれるのは、愛されず、邪魔にされ、捨てられる子供。けれど、知沙は、秀樹にも、香奈にも、真琴にも、愛されている子供。それは、ぼぎわんの中では異質のもの。呪いがぼぎわんを生んで、愛がぼぎわんを否定する。苦しいけれど、子供を愛する心は、いつの時代にだってあったはず。これからの世界にだってもちろんあるはず。ぼぎわんが、来る (角川ホラー文庫) [ 澤村伊智 ]楽天で購入
2019年02月22日
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いくつかの本は読んだけれど、ここまで、添加物について詳しく説明された本は、初めてである。著者は、長年添加物の専門商社に努めて、数々の加工品を添加物を駆使して作り出した人である。この本を読んで、スーパーの数々の商品を見てみて、改めて、現代社会の食品のほとんどには添加物が入っているんだとわかった。10年以上前に書かれた1冊目と最近書かれた2冊目。添加物のぜひが問われてからずいぶん経つけれど、いまだにどころかますます添加物は使われているらしく、さらに増える一方。その添加物ががんの原因となる可能性も高く、ヨーロッパなどでは禁止されているものでも、なぜか日本では外圧によって、さらに認可されたりしている。ずっと添加物入りの食品を作り続けていた著者はある日我が子が、自分が作ったくず肉と添加物だらけのミートボールを食べるのを見てショックを受ける。自分たちもまた、添加物の消費者であることにきずく。作る側なら、どんなものでもとにかく安ければいいと思っていても、食べる側になることを想像していなかった。それから会社を辞めて、各地にでかけ、添加物の実態を講演で語るようになる。そうして、この本も書かれる。添加物はよくないと何かしかで、聞くことはあるけれど、その添加物の実態をこの本を読んで初めて知った。そうはいっても、今の時代、まったく添加物を取らないなんて、不可能だ。なるべく加工品を買わずに、自分で作る。けれど、自分で作るにしても、そのもととなる豆板醤のビンをみたら、ここにすら、添加物が入っていた。醤油ですら、大豆油を搾ってたあとの大豆のカスで作られている。みりんだって、偽物が普通に出回っている。そして、人口の半分は、がんになるといわれているし。国は、医療費を減らしたいと考えているはずなのに、がんになる元である添加物は、外国からの圧力で、どんどん認可しているし、過去適当に認可したものや、今の技術で再検査すれば認可取り消しになりそうなものも、そのまんま。私たちのできることは、添加物をチェックしつつ、なるべく加工品を買わずに、自分で作る。しかない。それから、なるべくまともな生協に入る。その生協すら、ピンからキリまであるそうで。スーパーのお弁当屋サンドイッチをみながら、ため息が出た。もう、以前ほど気楽に買えないなぁ。食品の裏側みんな大好きな食品添加物【電子書籍】[ 安部司 ]食品の裏側2 実態編やっぱり大好き食品添加物【電子書籍】[ 安部司 ]
2018年09月19日
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今話題のブロガー本である。たかが家の掃除と思っていたけれど、本気を出したら、ここまでできるものなのかと、びっくりした。そもそも、掃除ってどんなものなのか、実は私の母は、家事が嫌いで、家の掃除をしているのをほとんど見たことがなかった。母がやっている掃除は、せいぜい掃除機をかけるぐらい。当然わたしは、掃除なんて知らない。母が窓ガラスをふくのさえ見たことがない。そんな母が結婚した私の家にやってきて、お前はだらしない、家が散らかってる、といって、私の目の前で初めて窓ガラスをふくのを見た。いやいや、そんな話はいいとして、子育ても終わって暇なので、少しまじめに家の掃除をしようかとこの本を読んで、つくづく思った。著者は、掃除好きがこうじて、やりすぎてへとへとになり、うっかりすると体を壊しそうなくらいであるが、私はさすがに、そこまではできないだろう。体を壊さないためには、掃除を場所ごとに分けて、さらに分割して、一か月単位で、スケジュールを組んで掃除する。ようするに、毎日少しづつやっていくってことだ。重曹、セスキ、クエン酸、お酢などを使って、エコクリーニングを目指す。掃除のために、極力物を置かない。マイクロファイバー雑巾と、アクリルたわしを使う。基本はこのあたりだが、さらにそこまでやるのかというくらい、家の隅々まで、できるらしい。その気になれば、掃除するところはいくらでもあるんだなと、実感しました。とりあえず、できるところまで、頑張ろうかと思った一冊でした。夏も終わったしね。ペコさんの暮らしを楽しむ、お掃除エッセンス [ おそうじペコ ]書評、レビュー
2018年09月08日
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旧約聖書のことなんて、映画『十戒』を何度か見たことがあるくらい。あとは、ほかに、何がしかで、聖書のことを少しは知っていたけれど、今回の本を読んでかなりよく分かった。それでも、まだまだダイジェストである。聖書は途轍もなく内容が濃い。まして、キリスト教嫌いの私には、この手の本を読むのが精いっぱいである。数千年も前の時代から始まるイスラエルの民族の物語は、人類が今のような道徳を持たず、右も左もわからず、何が正しいのかもわからないところから、始まる。人間は驚くほどひどいことばかりしている。イスラエルの神は根気よく、イスラエル人たちに人としての正しい行いを教え続ける。まずは、一人の人間に、アブラハムや、その子孫たちに、そして、少しつづ広がっていく神への信仰は、人として正しく生きるとは、どういうことかを神が人類に必死に教え続けた歴史である。アブラハム、ダビデ、ソロモン、本当に民族を指導していけるほどの力量のある人間なんて、数千年の歴史の中でも、数えられるほどしかいない。それ以外は、ほとんどが普通の愚かな人間ばかり。だから、日々、感じる自分の無能さに絶望したり、がっかりしたりする必要なんてないんだなと思った。人間なんて、こんなものだ。ただせめて、神の教えのままに、ヒトとして、正しく生きていくことだけが、人が人としてあるということなのだ。聖書で神様が言い続けているのはそういうことだ。一つの民族にとって、自分たちを溺愛し、必死に守り、指導してくれる神様は、やはりいたほうがいい。民族独自の神をもつ民族は強い。戦争の時、自分たちだけを守って、導いてくれる神がいると思えば、必死に戦うこともできる。神様は、すべての人類を平等に見ていると思っていたけれど、神様は民族のもの。自分たちだけのもの。イスラエルにイスラエルの神がいるように、日本にも、この島国に昔から住んでいるやおよろずの神様がいる。日本を諸外国から守り、植民地にもならずに、日本人が安心して住み続けてこられた島があるのは、神様のおかげ。そんな風に人間がまっとうに育った果てに、やっと、人類共通の神様が現れる。そうして人類すべてを愛しながら、守り、導いてくれているんだろうと思う。読みやすくて、面白かった。阿刀田 高が好きになった。旧約聖書を知っていますか【電子書籍】[ 阿刀田高 ]
2018年08月27日
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最後に読む育毛の本 [ 久田篤 ]息子が薄毛で悩んでいるので、図書館で見つけたこの本を読んでみました。世の中の男の人の多くが薄毛に悩んでいることを再認識。息子の愚痴を軽く受け流して本気で聞いていなかったことに反省。彼の悩みをもっと真摯に受け止めてあげるべきかもしれない。巷で一般に宣伝している育毛商品の数々がほとんど役に立たないことも、増毛の意味のなさも、植毛の大変さも、そして、育毛商品を売る業界や、育毛サロンなどの闇のような部分もよくわかりました。現在、育毛は専門の医療施設で、きちんと薬を飲んで直すところまでやっと進んできたらしいです。そして、髪のためには、きちんとした生活、栄養バランスの取れた食生活、きちんとしたシャンプーなど、クスリ以外にもいろいろ気を付けるべきことがあることも。現在わかっていることとしては、悪性の男性ホルモンが髪の生える部分にある酵素と合体すると脱毛因子になってしまうそうです。そのための薬なども発見され始めているらしく。ただ、薄毛は、命に係わる病気ではないので、保険も聞かず、治療費も高い。最低でも、6か月は服用を続けなくてはならず、それでも、生えるかどうかはわからないのです。生えたとしても、リバウンドなどもあり、戦いは一生もの。少し前から専門の医療機関に通いだした息子。毎日薬を飲んでいるけれど、望みの叶う日は来るのか。すごく勉強になった一冊でした。
2018年07月25日
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読解力のある人なんて、いろいろなブログを読んでいても、ほとんどいない。ほとんどはよくわからないまま、なんとか感想をひねり出して書いている場合が多い。私も、読んだ本全部の感想までは、さすがに、記事に挙げることはできない。ちゃんと解釈できないことも多いからだ。それにしても、この本の読解についての説明には驚かされた。普段何気なく読んでいる簡単な文章さえ、ここまで読み解くことが可能なのか。こんなところから、読みときは始まるのか。読んでいてつくづく、日本の国語教育はひどいなと思った。私自身、何年間も学校に通い、国語の授業を受けたにも関わらず、まともな国語の授業は受けていないなとつくづく思う。私が今までに見聞きした中では、有名な難関私立の灘や、麻布の国語が素晴らしそうだし、そして、娘の小学校の時の担任の先生の国語の授業が素晴らしかった。文章の一字一字、言葉の一つ一つを細かく解釈していく授業。授業参観で見ていたが、壮絶だった。こんなことをやっていくとさすがに、この本のような読解力が付くと思うが、ほとんど国語の先生たちはこんなことはやってくれない。本の音読、漢字の書き取り以外に何をしていたのか、まるで思い出せない。私も息子の中学受験に絡んでの勉強と、娘の国語の先生の授業の様子と、学校での読み語りを通して、やっと少しだけ、読解力が付いたかもしれないと思う。国語というのは、日本語の勉強だけではない。文章の正しい理解と、正しく伝わるような文章の書き方、ヒトの心の読み方を習う。はず。こんな大事なことが、きちんと教育されていないから、今どきのネット社会で、SNS、ライン、メールなどを通しての言葉のやり取りが、未熟な文章力のまま、行き違いや誤解を生んで、仲たがいや、喧嘩、ひいては、いじめなどのトラブルになるとも思える。大学には、文学部があんなたくさんにあるのに、ほとんど役に立たない学部扱い。本当は、文章も文学もとても大切なことなのに。それにしても、この本の中で、いちばんドキッとさせられたのが、善意の無難な解釈や表現による「わかったつもり」を演じてしまうというところ。説明された何パターンもの「わかったつもり」の中でも、いちばんドキッとさせられた。書く方は、善意の表現だから、何とかこれでごまかせたし、文としてカタがついたと思ってしまうし、ブログを書く時によく使っている手段でもあるので、本当にドキッとさせられたのだ。やばい。このあたり、今後気を付けたいけれど、又、使ってしまうかもしれない。ブログや、書評を書くならぜひ一読しておきたい一冊だと思う。わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書) [ 西林克彦 ]
2018年04月15日
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愛に出合ことはできる。けれど、愛を続けることは難しい。科学的には、人間の恋愛感情が続くのは、3年なのだそうだ。人を好きになるのは簡単だけれど、その感情を維持するのはとても難しいというか、そもそも続くものではないのだということだ。けれど、今の時代、結婚は恋愛による出会いによってするものであって、愛がなくなっても結婚生活を続けることはいけないのではないかと、そんな考え方にもなりうる。愛のないままの結婚生活に罪悪感すら持ってしまうのだ。恋愛の成就するまでの物語は多いけれど、恋愛感情をどう維持していくかという物語は少ない。昔は、女性には職業なんてないから、生きていくためには結婚するしかなかった。結婚式の当日まで、相手の顔を知らないなんてことも普通だったらしい。それは、愛のためのものではなく、生きていくための手段であり、社会を維持していくための重要なシステムだったからだ。けれど、近代にいたっって、だんだん見合いのようなシステムは減少していき、当事者同士の合意、恋愛を経過してのちの結婚が、社会の当たり前になった時、3年しか続かない恋愛感情ののすぎたその先に、なお結婚生活を続けていっていいのだろうか。と、そんな罪悪感すら起きる。結婚後も、愛する感情を持ち続けていけるのか。そんなことに迷うようになってしまったのだろうか。でも、結婚の先に恋愛感情がなくなったっていいんですよ。それは普通のことだから。それでも、多くの夫婦が夫婦であり続けるのは、長い年月の間に作られている阿吽の呼吸に似た、相互理解があるから。一緒にいることが自然なことになるから。けれど若い人たちはまだそんなことはわからない。愛を続ける方法なんて誰も教えてくれないし、ほとんどの小説だって愛の成就までしか書いてない。だから迷う。わからなくなる。自分たちの成長後に別れてしまった両親をもつ主人公の藤代は、だから、愛を続けるすべが分からない。ヒロインの弥生は、愛を続けるために必死に努力するにもかかわらず、相手の男はそれに気づかないか、面倒くさくて気づかないふりをするか、続ける努力をしなければいけないこと自体をしらない。かつての彼女ハルとの愛にも続ける努力をしなかったまま、憎むことすらないままに、別れてしまった藤代は、弥生との関係を進めることすらできない。どうすれば愛を続けていくことができるのか。それは、私たちがこれから、ひとりひとりがそれなりの覚悟を持ってみつけていかなければならない人生の大事な課題なんだと思う。ラスト、藤代は、愛を続けていく努力をすることを覚悟をする。愛の先にあるもの。夫婦だからこそ到達できるその先に。サイモンとガーファンクルの有名な曲名をタイトルにした著者久々の作品。物語の中には、ウユニ塩湖や、インドのカニャークマリの朝日などが出てくるので、映像化したら、美しい作品でもある。◆◆四月になれば彼女は / 川村元気/著 / 文藝春秋
2018年04月07日
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「サイコパス」という言葉を初めて知ったのは、「サイコパス」というタイトルのアニメだった。とにかく残酷な犯罪者のことらしいと思いつつ、その言葉は、最近少しづつ、普及し始めていて、この本が目についた。他人の痛みのわからない人間が本当に存在するのである。人間社会は、他人の痛みがわかることが大前提でなりたっているのに、時に驚くほど残酷な犯罪者がいる。また、そんな犯罪者の登場する小説や映画に、なんでこんなことできるのかと、思わされてきた。けれど、サイコパスは、脳の一部分が欠けているために、他人の痛みを認識することができないらしい。それが、遺伝によるのか、突然変異によるのか、数パーセントの確率でどうしても生まれてしまう奇形のようなものなのか。それは、まだ、わからないらしい。東野圭吾の小説『白夜行』や、『幻夜』にでてくるヒロインの恐ろしいまでの残酷さが、サイコパスとしてみれば納得できる。私たちの社会に100人に一人存在する彼ら。怖いなあと思う。けれど、サイコパスにも色々いて、何とかうまく紛れ込んでいたり、自分の特性を認識して、犯罪をせずに生きていたり、その特性を生かして、普通の人間にはとてもできないような良心の痛みの伴う決断や行動をこなしているサイコパスもいるらしい。はっきりと認識されなかっただけで、昔からいたサイコパスは、それなりに必要な存在でもあったらしい。織田信長とか、ヒットラーとか、歴史をみれば、もしかしてと、思える人たちもいる。そして、ドラマや映画に出てくる死刑執行人や、首切り役人なんて、サイコパスでなければとてもできない。痛みがわからないから、人を殺す、うそをつく、残酷なことをする。けれど、共感を持たない彼らはとても孤独でつらい存在でもあるのではないかと著者はいう。とにかくすごく面白い一冊だった。サイコパス (文春新書) [ 中野信子 ]サイコパス【電子書籍】[ 中野信子 ]
2018年03月10日
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娘が好きで読んでいる宮本輝の本を一冊借りて、読んでみた。かつて、不倫が原因で別れた夫婦の往復書簡で、語られる、夫婦の間の物語。美しい蔵王の山々の紅葉を背景に始まる物語は、最後もまた、美しい紅葉の中で終わる。ヒロイン勝沼亜紀は、二度結婚するけれど、二度とも夫の浮気で離婚することになる。かわいそうでもあるけれど、読んでいるとこれは、無理ないのかもしれないと思う。二人の夫はどちらも、たぶん妻に不満があったわけではなく、同居する妻の父親の存在感の大きさにうんざりしていて、妻の実家での同居は、家での安らぎのなさであり、本人たちはそれを自覚ていたかいないかわからないにしても、ほかに心の落ち着ける場所を無意識に求めてしまったのだと思う。もし、亜紀が、実家を出て、夫と新しい家庭をきづいていれば、あるいは、浮気も、離婚もなかったのではないかと思う。なにしろ、二人の夫はどちらも、彼女にぞっこんほれ込んで結婚したのだから。亜紀は、なぜ、実家を出なかったのだろう。二度目の結婚では一度実家をでて、夫の家で暮らしている。けれど、急な姑の死と、亜紀の父親の強引な説得で、結局また、夫婦で彼女の実家に父親とともに暮らすようになってしまう。相当存在感があり、何でも無理やり自分意見を通してしまうようなこの父親との同居は、夫たちにとってよほど居心地悪かっただろうと思う。小説の中にはそのことほとんど書いていないのだけれど。亜紀はなぜ、実家を出なかったのだろう。母親がすでに他界していて、父親だけを残すことが忍びなかったのか。それとも、裕福な暮らしを捨てて、夫と二人の地味な生活がいやだったのか。亜紀は働いたことすらないようだし。一人目の夫有馬と別れた後も働こうとはしていない。家を出て、自立しようともしていない。お手伝いさんのいる親の家で、暮らすことは彼女にとって当たり前のことなのだろうか。もし、母親が生きていたら、実家を出ていたかもしれないし、有馬との離婚をとめてくれたかもしれない。二人目の夫との結婚後も実家に戻らないよう助言してくれたかもしれない。彼女が業とよんでいる障害のある子供も、あまりにも苦労のない彼女の人生に神が与えた試練だとも思える。だって、二人の夫と別れてもなお、彼女は暮らしに困ることがない。作者はこの父親が彼女の人生をいかに支配しているかを承知の上でこの物語をこんな設定にしたのだろうか。別れた二人が死について語る舞台設定を作り上げるために。美しい秋の先に、厳しい冬が待っている。二人もまた、これから先の冬のような厳しい人生を生きていかなければならない。それにしても、亜紀の文章は、今どきの女の人はこんな文章書かないという違和感でバリバリでした。男が作る理想の架空の女性だなぁ。錦繍改版 (新潮文庫) [ 宮本輝 ]価格:561円(税込、送料無料) (2017/10/25時点)
2017年10月25日
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更年期ゆえの体の不調。足が痛くて、整体にかよっっている自分としては、同じ年代の作者の体の不調や、そのために通いだした、漢方薬局。そこで受けた、リンパマッサージの様子や、薬の処方、先生との対話を通しての、東洋医学のものの考えかたが、西洋医学とはずいぶん違うことなど、とても、ためになった。ここに書いてあることを考えながら、テレビの医療番組を見ていると、漢方のルールに正反対。漢方のルールを守ろうとすると、医療番組で、進めていることは、いっさいできないという、矛盾に、ちょっと驚いた。特に現代の日本人の多くが、体に水をためすぎているという話。私自身は、冷えよりは、熱さに困っているのだけれど、うちの息子や私の母が異様な冷えに悩んでいるのは、水分のとりすぎかもしれないと、思い至った。息子には、水分を取りすぎないように、注意したし、今度、母にも言ってみようと思う。なにしろこの二人、異様にがばがばと水分を取る。たぶん、本人たちも自覚していないはず。ところで私が自分で感じている熱っぽさは、漢方的には、どうなのだろう。西洋医学の薬をたくさん飲んでいるので、今は、漢方にはかかれない気がするけれど、一度くらい、診断してもらいたいなあと思っている。久々とてもためになった一冊。■商品名:ゆるい生活 /朝日新聞出版/群ようこ / 群ようこ / 【中古】afb■レビュアー:civaka ※投稿時■レビュー内容同い年の作者の年齢ゆえの体の不調に対しての考え方や、漢方、リンパマッサージなど、とても参考になりました。読みやすくて、すぐに読んでしまいました。正反対の考え方も書いてあるところがやっぱり、作家さんだなと思いました。 もっと詳しく見る
2017年07月16日
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実はまだちょっとしか読んでいないのだけれど、アメリカの株式投資の世界が、実は、裏でとんでもないシステムが作られ、一般の投資家は、ほぼ、もうけられないという事実の暴露本。まるで小説のようにストーリー調で書いてあるけれど、事実。この本が出版された時、アメリカ国内では、ものすごい騒ぎになったとか。相当すごいニュースだったはずなのに、日本で、そんなニュース聞いた覚えがない。ニーサなどを実施して、国内の株取引を活発にしたい政府は、報道規制を行ったのだろうか。このニュースが、国内で報道されたら、国内の一般投資家は、ほとんど株をやめてしまい、国内の株式市場は、大ダメージになりそうだ。たとえ、事態のおきているのが、アメリカだとしても、日本でも、同じようなことが行われていないとは、言えない。やっぱり、株って儲からない。とは、思ったけれど、それにしたって、国家レベルの報道規制ってやっぱり、現実にあるんだ、と、そっちのほうが驚いた。そして、とても怖い。ニュースは毎日流されているけれど、日本国内で流されていない、海外のニュースっていったいどれほどあるのだろう。ただ、この本、かつての「金持ちとうさん貧乏父さん」のように、長々と延々と描写が反復して続いていて、読むのがとてもたるい。事実を信じてもらうにはこれくらい書き込まなければならなかったのかもしれないけれど、たるい。実質、この三分の一くらいの量で足りるだろうし、ダイジェスト版とか、ほしいかもしれない。オンラインゲームをやっていても感じるけれど、コンピーターの世界は、秒単位の世界。アクセスの良さがものをいう世界。フラッシュボーイズの正体はいったい....。やっぱり、頭がよくて、ずるがしこい人間だけがお金持ちになっていくんだな。フラッシュ・ボーイズ [ マイケル・ルイス(ノンフィクション作家) ]
2017年02月05日
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前から気になっていて、本屋に行くたびに目につくので、とうとう買ってみた。今話題の一冊。ベストテンに入っていたこともあったはず。確かに、面白い。そして、うならされた。要は、人の能力や、性格や、癖のほとんどは、遺伝。実際、子どを育てていると、つくづく、どんなに親が頑張っても遺伝には、かなわないなあと思う。頭の良さも、こまった癖も、遺伝なんだから、親として、子供のために少しでもなんとかできないかと頑張ってみても、限界がある。本当に残酷すぎる真実だ。そして、もう一つ、いろいろ書いてある中で、特にこの本で納得したのが、子供は、子供の中で、育つ。育てらるということ。今でこそ、子供は母親が育てるといわれているが、現代のように母親が子供にべったり張りついて、その人生のほとんどを費やして、子育てするなんて言うのは、人類史上すごく珍しい。私たちの世代は、子育ては母親がするものとか、3歳までは母の手でとか、まるで、昔からずーっとそうであるかのように言い含められ、洗脳されて、えんえんと子育ての責任を負わされてきたれど、実際には、今の社会体制がその方が都合がよいから、そういうことになってるだけで、会社としては、女性に子育てや家事を一任したほうが男性をきっちり会社に縛りつけて、好きなように使えるからに過ぎないし、嫁姑の抗争だって、若い夫婦から親の世帯をはがしたほうが、どこにでも、転勤させやすいからつくられた、ドラマによる洗脳のようにも思えるのだ。もちろん、嫁姑、もめている家は、いっぱいあるのではあるが、なんか、無意識のうちに、嫁と姑は、もめなければいけないと、思いこまされ、ほんとにちょっとしたことで、怒っている気がしないでもない。会社が日本にはびこる前までは、家族は、大人数で暮らしていたし、子供は、立って歩けるようになれば、母親ではなく、子供たちの集団にマジてその中で、育っていった。もちろん、最終的な責任は、親がとるのはもちろんなんだけど。私たちが、子育てしている時も、子供たちは、3歳になる少し前くらいからもう、母親だけとの生活に物足りなさを感じ始める。親として、どうすればいいのか、子供が何を求めているのか、なんだかわからなくて、当時は、本当に途方に暮れた。だから、3年保育で、幼稚園に入れるとホッとする。子供は母親が好きで母親とさえ一緒にいられればいいんだなんて、嘘だ。昔の人間社会も、子供は、乳離れすれば、子供の集団の中で暮らし、母親は農作業や、草木の採集など、いろいろと忙しい。生活に手いっぱいなのに、いちいち子供にはりついて、面倒なんて、見ていられない。私自身もそんなにべったりは母親に育てられた記憶もない。今の母親たちが、子育てに苦しくなってきたり、若い夫婦が子供を殺してしまうのも無理はない。もともと、子供は、村社会の中で、年長の子供たちと村全体とで育てられていたのだから。そして、家事が昔ほど大変でなくなり、人口が減って、優秀な人材の少なくなった現在。女性たちが、子育てを保育園などに任せて、社会に出ていくことが、社会的に要求されるようになってきているのも、当然の流れなのだろう。それは、新しい時代というよりも、もとに戻るということだ。今の日本は、3歳くらいにならないと幼稚園に入れられないし、保育園の数も少ない。でも、アメリカや先進国は、もっと保育施設の数や質も充実している。0歳児からどんどん保育園に預けて、女性は社会に出るのは、どんどん普通のことになっていくのだろう。そういう風に読んでいて、子供がいじめで親に相談もせずに自殺してしまうのも、こういう事情なのかと思った。子供は、子供の社会の中で生きていくことが、絶対だからなのだろう。子供の中で生きていけなければ、その先はあり得ないのだから。ただ、今の社会は、いろんな年齢の集団ではなく、どうしても、大人の都合で、年齢ごとに集団が作られていしまっていて、年長の子供が責任をもって、年下の子供を面倒みるという構造じゃない。だから、子供社会がゆがむ。年齢で区切るのではなく、もっと、年齢間の交流のできる、保育園や、学校のシステムが必要なんだと思う。もうひとつ、面白いのが、人間のあり方は、一夫一妻制よりも、そもそもは、乱婚だったのではないのかという話。そう思えば、男性がやたら、浮気するのも、カップルが3年くらいで、飽きてくるのも、ありかもしれない乱婚でできた子供は、村の中で、村全体で育てる。実際、経済力も、子育て力もない、若い人たちに子育てさせるよりもいいと思う。特に、これからの少子化の社会では、ちゃんとしたカップルが結婚して子育てするのを待っていたら、人口は、減るばかりだろう。まして、金持ちほど、子供の数は少ない。一人っ子のところも多い。子供の多い家庭は、貧乏だっりもするし。それでも、幼稚園や、学校が、子供たちの面倒を見てくれていたから、一夫一妻制でも、子育てしてこられたのだろう。社会が多くの部分の子育てを引き受けていたから。けれどこれからは、さらに、0歳児からの保育、高校、大学教育、までも、社会で負担しないと、子供は育てられないし、人口減少を改善できないかもしれない。それにしても、乱婚。ちょっと面白そうだけど、もし、現代の社会で、乱婚のシステムが実行されたらどうなるんだろう。まあたしかに、アメリカなんかでは、すでに、スワップとか、あるもんねえ。ほかにもいろいろ、興味のある話題が多い。面白かった。言ってはいけないー残酷すぎる真実ー(新潮新書)【電子書籍】[ 橘玲 ]
2017年02月04日
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楽天のこちらのブログは、やめたのだけれど、エキサイトだと、アフィリエイトが使えなくて、面倒なので、本の記事だけだけ、こっちにも、アップすることにしました。我が家は次男で、新屋なので、当然先祖代々の墓もない。いつか買わなくちゃいけないんだろうかと思いつつも、どうしたものかと、思っていた。なにしろ、葬式とか、仏壇とか、って、いろいろ細かいいろいろなしきたりも、私たちには、まったくわけわからない。なにしろ、葬式なんて、人生にそう何回もあるイベントじゃないし、予想外の時期に突然やってくる。わからないことが多すぎ。というわけで、読み始めた今回のこの本。とてもよくわかりました。特に、戒名の意味とか、その値段とか、相場とか、きまりとか。お寺にお墓を持つ限り、どうしても、葬式の時には、お経代とか、戒名代とかかかるということです。というわけで、それじゃあ、霊園で、お墓を買うかなあと思ったけれど、公立の霊園は倍率高いし、申し込みの時に、骨をもっていないと、いけないし、民間の霊園だと、運営会社がつぶれるかもしれないし。でもこれからの時代、お寺だって、経営破たんしかねないし。たとえ、お墓をかったとしても、はたして、自分の子供たちが、そのあとも、子供を作って、家を続けていくかわかないし、それなのに、高いお金をだして、お墓を買うことに意味があるのかと、悩んでしまうのだ。キリスト教なら、ずっと信者として、協会とかかやー割り続けているし、お墓も個人単位だから、いいなあと思う。今の日本で、お墓が、家単位なのは、もう、無理があるなと思う。しかも人口が、どんどん年に集まっていて、その土地代の高い都市に、さらに、お墓も集中するのだろう。海などへの散骨もだんだん普及し始めてはいるし、樹木葬とかも、あるけれど。それはそれで、お金かかりそうだ。さらに、お葬式も、直葬、家族葬など、以前より、お金のかからないシンプルなものが増え始めているらしい。とにかく、今までのお葬式はお金がかかりすぎる。ようするにもお経もせず、通夜も告別式もカットして、いきなり、火葬場で、燃やしてしまうとか、近所の人とか、親戚とか、そもそも普段それほど交流のない人を会葬者として、無理に呼んだりしないということで。すし屋や床屋が、最近値段やシステムをリセットして、廉価なのものが普及したように、葬式や、お墓も、だんだんシンプルでわかりやすくて、安いものに、リセットされるのだろうと思う。ただ、日本人みたいに、地味な人たちには、葬式や、法事は、明るくなくても、罪悪感も感じなくても済むけれど、親族が時々顔を合わせて、話のできる一種のパーティとして、それはそれで意味のあるシステムなんじゃないかとも思える。だから、無理にやる必要はないけれど、やることを必要以上に義務とも、思う必要も、ないし、やりたかったら、やってもいいんだろうと思う。とりあえず、わけわかんなかった感がなくなって、少しほっとしたかも。それでも、葬式とか、お墓とか、すごくめんどくさくて、心に重い仕事だなと、思う。お金がかかっても、先祖代々のお墓がすでにある人はいいなあ。とも、思う。【楽天ブックスならいつでも送料無料】葬式は、要らない [ 島田裕巳 ]価格:799円(税込、送料込)にほんブログ村にほんブログ村
2016年02月27日
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池上彰さんの本。まいどとってもわかりやすい。第二次世界大戦以降の世界。東西冷戦。ベトナム戦争。イライラ戦争。私が生まれてから、育って、今に至る間の年月の歴史です。現代史すぎて、学校ではならってないし、ニュースをぼんやりみていても、なんだかいまひとつよくわかっていなかった、現代史が、とても、よくわかりました。すっきりです。それで、私がずーっとなぞだった共産主義の国は、なぜ独裁政権になってしまうのか。独裁政権はどうして、粛清はじめてしまうのか。著者の池上さんもなぜだろうかと、悩んでいます。でも、社会主義でなくても、独裁政権は、粛清になってしまうのですね。民主主義のはずの南ベトナムも、ヒットラーも、そうです。大河ドラマをみていたら、豊臣秀吉も、千利休や、おいの秀次など、粛清し始めてしまいました。うーん。なんでだろう。どうすればこういうのなくなるのでしょうね。たったひとりで一つの国全部の責任を背負うって、すごく心理的につらいんじゃないのかな。独裁者はみんな軍人だから、政治的な能力がないからでしょうか。きちんと、勉強していないからでしょうか。知識がたらないのでしょうか。そういえば、明治維新。あれだって革命なわけですし、時の政府をたおしたのに、独裁政権にはならなかったんですねぇ。幕末の志士は、吉田松陰先生に教えをうけているのですよね。そして、みんなでがんばった。だからかな、とかも、考えてみました。アメリカとソビエトの戦い。資本主義と社会主義の戦い。でも、実は戦っているものは、同じなのでは。お金ってね、さびしがりやだから、あつまりたがるんだって。お金って集まる習性がある。いったんお金持ちになると、どんどんたまる。一方で、びんぼーになるとどんどんピンポーになる。あつまろうとするお金をどう集まらずに、均一なままにしておくかが、社会主義の目指すところ。集まっているお金を維持したいのが、資本主義世界に住んでいるお金持ちの人たち。だから、お金をばらばらにしようとする共産主義がこわい。たたかってっいる相手は、どちらの国も同じなんですねぇ。どうすればお金を集めずにできるのか。そんなことを考えていたら、日本の相続制のシステムは怖いくらいすごい。三代相続すると、だいたいなくなってしまいます。一人で頑張ればお金は貯められるけれど、子孫には伝えられない。しかも、日本の社長さん達って、世界的にみるとかなりお給料がすくないらしい。個人ががんばれば成果は得られるけれど、そこまで。子孫には伝わらないから、それほどお金が一か所に凝縮しない。日本の相続税は世界有数の高さなのです。その一方で、教育も健康保険もけっこう充実しているので、収入がすくなくても、ほどほどの教育はうけられるし、病気になっても大丈夫です。ある意味すごい国なのかも。などと、いろいろ考えました。ベトナム戦争の背景がわかったので、興味が出てきて、今片っ端から、ベトナム戦争の映画を見まくっています。時代背景をしっていると、ぜんぜんちがう。おもしろいです。そして、考えさせられます。今日はここまでーーーー♪ 【送料無料】そうだったのか!現代史価格:760円(税込、送料別) 【送料無料】そうだったのか!現代史(パート2)価格:760円(税込、送料別)
2011年07月27日
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物語の冒頭はイギリスからはじまりますが、中世イタリアを舞台にした物語です。ハーレクイーンヒストリカルみたいだなと、思って買ったのですが、まさにハーレクインな内容でした。 でも、700ページ以上もあるやたら分厚い文庫本です。持ち歩くのが大変でした。最初の100ページ位を我慢して読むと、後は、結構おもしろかったですね。ネットのいろんなブログ書評を読むと、賛否両論でおもしろくなかったという意見も結構ありましたが、私は面白かったです。 久々に読んだラブロマンスでしたが、読んでいくと、途中から二人のラブシーンがSMになってきて、「うわっ、なんで?」と、ここで読者は戸惑います。セックスの時にヒロインのエレナが相手のアレグレートの体に噛み付いたり、二人で、女王様と奴隷というSMプレイを始めたり。ほのぼのしたファンタジックであまーいラブロマンスを期待して読んでいた読者にするとびっくりです。 でも、作者はどうして、こんなシーンをいれたのかなと、ちょっと考えてみました。 イギリスで育ったヒロインエレナは、故国イタリアへと嫁ぐことになります。ところが途中で海賊につかまってしまい、その海賊アレグレート・イル・コルヴォと、結婚することになってしまいます。 この物語のテーマは、「人は愛によってしか支配できない」ということだと、私は思います。 人を支配する方法は二つあります。一つは、力で、もう一つは愛で。殴られるのが怖くて他人の言うことを聞く場合と、愛する人からの願いや頼みだから聞く場合があるのです。そして、一つの国家もまた、武力による支配と、支配者の国民への愛、国民のリーダーへの愛である場合とがあります。 フランコ・リアータの力によって支配されていたエレナの故国モンテヴェルデが、故国に戻ったエレナのその愛によって、統治されるようになるという物語なのです。 愛しているはずの父親に、力と恐怖によって支配されていたアレグレートは、エレナと出会い、愛によって支配されることになるのです。SMプレイのシーンで、アレグレートは、エレナにしばられ、ムチ打たれます。けれど、力の上では、アレグレートの方がずっと上です。彼がいやなら、逆らうこともできます。それなのに、エレナの為すがままにされていく上で、しばられ、痛めつけられていたはずの彼は、エレナとの愛の行為の中で、絶頂の愛の喜びに浸ります。彼を幸福の快楽に導いたものは、チカラや暴力でしょうか。いいえ、どんな状況にあっても、愛する彼女との行為ゆえに彼は、幸福であり、喜びを感じたのです。アレグレートの心をの描写がこんな風にかかれています。 「征服されたのだ。私は、何千もの軍勢に勝る力で」 この行為によってエレナは、力によって人を支配することは無駄なことであり、無理なことなのだと、実感させたのです。そして、これ以降彼の中で何かが変わっていきます。 そしてまた、この描写は、物語の後半、女大公となるエレナと、その家臣となるアレグレートという立場、人間関係へと変化していく複線でもあります。その時までは、絶対的に、アレグレートの方が上の立場にいたはずなのですから。 最初の時にはまだ、アレグレートの方が力があり、エレナは何の力も持たず、ただ彼の為すがままになるしかありませんでした。けれど、エレナは、力によって征服されることに抵抗したのです。その時できた唯一の方法が彼のからだに噛み付くこと。彼女は力よって支配されることに徹底的に抗い、そしてまた決して、他者を力で支配することもしませんでした。 中盤から物語は意外な展開になります。宿敵フランコを殺すために訪れたモンテヴェルデで、微妙な状況の一瞬を捉えて、モンテヴェルデ共和国の正当な相続権をもつエレナは、故国モンテヴェルデの女大公となったのです。この展開には私はとてもびっくりしました。もともと彼女の祖父が大公として支配していたモンテヴェルデは、フランコ・ピエトロ・リアータの武力と、暴力によって支配されていました。リアータ家に対立するモンテヴェルデ共和国のもうひとつの名家の非嫡出子という微妙な生まれであったアルグレート・イル・コルヴォ・ナヴォナは、宿敵フランコを殺害しようとしたはずなのに、その瞬間、大公となったエレナに捕らえられてしまうのです。 大公となったエレナは、フランコとアレグレートの二人をけれど、死刑にするでもなく、武力や暴力で支配するでもなく、それぞれの城に高待遇で幽閉し、あくまで二人が、仲直りすることを平和的に説得し続けるのです。 そしてそれは、モンテヴェルデを狙う他国の策略にはまり、窮地となったエレナたちを、フランコとアレグレートの二人が協力して助け出すことで、かなえられていきます。大公となったエレナは、自分の国も、自分の国の国民たちも、自分の部下たちも、すべて、彼女の持つ愛の力だけで、支配していく。そういう物語なのだと、思います。 二人は、SMなのかなと、思う描写にびっくりしましたが、それ以降の二人の愛のシーンは、もっとずっとふつうですし、状況的に妊娠できないエレナのために、アレグレートは、いろいろと彼女に気遣いもしてくれています。 そしてアレグレートは、愛するエレナには、決してあらがえないけれど、いざ敵の前に立った時には、驚くほどの英知と、勇気と、剣さばきやたくましさを見せてくれます。そしてなにより、ものすごーくきれいないい男らしいのです。もし、映画化されたら、どんなかっこいい俳優さんが、彼の役をやってくれるのか。ちょっと楽しみなくらい。 そして、もう一つ。この物語の中にでてくる西洋人の信仰心。ほとんど宗教のない日本人には、彼らの感覚や価値観はかなり、理解しにくいものですが、この物語における重要な部分でもあります。そして、当時のキリスト教がどんな意味とどんな社会的位置を持っていて、西洋社会の中で、どんな意味を持っていたのかを知らないと、この物語は、分かりにくいのではないかと、思います。 司祭さまに自分のやった悪行を告白するだけで、許されると、本気で信じているなんて、私たち日本人には到底理解できないです。それでも、自分の行動を常に第三者的な視点で捉え、言葉にして、他人に話すことで、自分という人間と、その行動を冷静に見直すという行為を、日常的に繰り返していくということは、とてもいいことだと思います。許されるかどうかは別として。 そして、物語の中で結構悪いことをくりかえしているフランコも、アレグレート、エレナも、司祭に告白することで、許されるという部分をすごく大切にしているし、それがなければ死後は、地獄に落ちると、本気で信じている。そのあたりがすごく不思議です。そして、そこまで信じていながら、アレグレートのために司祭への罪の告白をしないということで、エレナのアレグレートへの愛がいかに深いものかが、描かれているのです。日本人には、分かりづらいけど。 また、どんな状況にあっても、しかたないとか、自分にはできないとか、どうしようもないとか、そんな風にあきらめずに、どんな苦しい状況でも、自分の信念を決して曲げずに、生きていく、突き進んでいくヒロインエレナの生き方が、全編を読んでいて、すごく素晴らしくてステキだったです。 タイトルの原題は、『SHADOWHEART』です。コレを意訳して邦題は『黒き影に抱かれて』となっています。黒き影とは、カラスの異名をもつ海賊アレグレートをあらわし、彼に守られるエレナをイメージさせますが、原題は、シャドウハーツ、つまり、心の影。非嫡出子として、名家ナヴォナの血をもちながら父親の愛を得ることができず、力と恐怖に支配されていたアレグレートが、その身の内に持ち続けていた心の影、闇を意味しているのではないかと、思います。そして、彼のそんな心の闇の部分を解きほぐし、愛によって、彼を支配し、人の心は、愛よってしか支配できないことを、国もまた愛によってしか支配できないことを示した、ヒロインエレナの物語なのです。 人も国も、剣や武力ではなく、愛によってしか支配できないことを、世界の全ての人たちが、理解できたら、世界から戦争はなくなって、平和になるのになぁっと、ずっとずっと、思っています。
2009年09月06日
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今話題の一冊。有名なブロガーさんたちが、ブログで賞賛したので、アマゾンの売り上げ一位になったとか。それにのせられて私も買ったのだから、おんなじか。 いままさに、世界中の言語が英語になりつつあり、日本人はきちんと勉強してまともに通じる英語を習得しないと、日本語自体が亡びるということ。 日本語を保存するために、英語を習うべき。というのが、この本の最終的に言いたいことなんだけど、えーっと、どうしてそういう結論になるのかが、やっぱりなんだか、いまひとつ、よくわからなかった。なんとなくは、納得するんだけど、それでどうして、そういうことになるのか、読み終わって考えてみると、やっぱり、分からなかったりする。 言葉には、「普遍語」と、「国語」と、「現地語」があるというのがまず、この本の言わんとするところ。国語は普通に、その国の言葉。現地語は、その国、ないしは、その土地で、普通の人たちが話す言葉。国語より、少し格がおちるらしい。 で、「普遍語」というのは、社会の上層階級の人たちだけが使う、教養のある各国共通の言語であり、書き言葉。 これが、昔のヨーロッパの「ラテン語」であり、日本や、アジア圏の「漢文」である。そして、近代以降では、ラテン語が消失した代わりに、「英語」、「フランス語」、「ドイツ語」がヨーロッパにおける「普遍語」になったのだ。 そして、現在、「英語」が、世界共通の「普遍語」となりつつあり、全ての情報や、教養は、この英語によって、やりとりされるようになりつつあるのだから、日本人は、英語を習得しておかないと、世界から立ち遅れてしまう。ということ。 かつて、ヨーロッパの寄宿学校で、なぜ生徒たちがラテン語を習っているのかすごく不思議だったのだか、この本を読んで納得した。そして、現在日本や外国の大学で第二外国語を習う本当の理由が、こんなことにあったのだと、初めて納得した。 ヨーロッパにおいては、この普遍語を習得してさえいれば、それぞれの文学を作者の書いたことばのまま読めるからだ。 それにしても、ここまでは納得できるのだけれど、最後の部分で、よく分からなくなってくる。英語を学ぶのは大事なことだとして、そうすることが日本語の保存につながるというあたりが、いまひとつよくわからない。 それと、「普遍語」「国語」現地語」という表現だけど、わたしなりに、解釈すると、「普遍語」は、「エリート語」、そして、「現地語」は、「庶民語」と、言ったほうが、分かりやすい気がする。 いくら世界中に英語が浸透していて、かつて、イギリスの植民地だったところまで、英語を使う人々が多いとはいえ、矛盾がある気もする。 だって、正しい英語って結構、英語を母語にするアメリカの庶民の人たちですら、ちゃんと使いこなしてはいないらしいし、まして、一応英語が標準語になっていたりする国でも、結構現地のスラング化していたり、とりあえず英語だけど、かなりくずれていたり、するらしい。 だいたい、英語だって、アメリカではすでに、「米語」といわれていて、本国イギリスのものともかなりずれてきているらしいし、英語を使うオーストラリアの英語は、また、豪語になっている気配。 でも、作者が求めているのは、きちんとして英語。回りくどい言い回しすらこなせるようなハイレベルの英語なのだ。そういうエリートイングリッシュは、英語を使える国の人たちだって、社会の上層のエリート層だけなのでは。 そして、日本語だって、普通の庶民は普通の日本語しか知らない。教養のある人たちだけが知っているハイレベルの言葉や、表現はやはり、教養のあるエリートしかしらない。 だとすると、普遍語というより、エリート語というべきものが、世界の中に存在するのであって、それはまた、普通の英語とも違うのでは。 学ぶべきは、普通の英語なのか。普遍語として、「エリート英語」なのか。 そして、作者が憂えているのは、世界の中でも高い評価を得ている日本近代文学の喪失だ。けれど、今の日本に、作者の納得できるような文学がないのは、既に、「魂の叫びを表現するような作品」の表現形態が、小説を離れ、漫画や、アニメーションにいってしまっているからなのでは。そして、素晴らしい表現者たちもまた、小説ではなく、漫画家や、アニメーターという選択をしているからなのでは。 作者は、これから日本の作家はもう、この英語の世紀の中では、小説を英語で書くようになること、だから、日本語では書かなくなってしまうことを危惧している。けれど、今現在すでに、高位の表現者は、小説ですらなく、漫画や、アニメーションを選んでいる。そして、普通の人たちも、あるいは、本を書いている人たちすら、話の引用に小説ではなく、漫画を使うようになっているのだ。 いったい、この作者は、漫画やアニメーションは、今の時代に生きていても、見ないのだろうか。 「エヴァンゲリオン」や、「20世紀少年」なんて、子供や、教養のない一般庶民のものだとでも、思っているのだろうか。 英語の世紀の中で、日本の優れた作品が、英語に翻訳されなくなるかもしれないというけれど、日本の漫画やアニメが見たくて、日本をおとずれ、日本語を学ぶ人たちがいる。日本の漫画が翻訳されて、パリのブックショップに並んでいる。すでに、時代の表現形態は、小説ではないものへと、変化していることに、作者はきづかないのだろうか。それはやはり、作者が小説家であり、すぐれた文学の表現者であるゆえのこだわりなのだろうか。 本当においしいものをもとめて、グルメは、山奥の隠れ家まで、訪ねていくものだし、本当にいい作品であれば、やはり、見つけ出され、掘り起こされ、翻訳されて、世界中に伝わっていくのでは。 そして、そんなことに興味のない人たちは、街中で、マックやデニーズで満足するように、三流週刊誌で満足する。そういう人たちに、すぐれた日本文学を訳して渡しても、もちろん、読まないだろう。夏目漱石が今の時代に生まれたら、英語で書くというより、漫画家になってしまっいるのではないのだろうか。だとすると、手塚治こそが現代の文豪であり、あるいは、夏目漱石の生まれ変わりかもしれない。 もちろん、美しく、教養高い日本語が失われるのはおしいし、その継承者がい続けて欲しいとは思う。しかし、それは、やはり時代の変化の中で、どうにもならないのかもしれない。 そう考えてくると、英語を学び、漫画やアニメをみるという麻生さんというのは、今の時代の政治家としては、結構分かっているのではないかと、思ってしまった。日本語の教養も大事だけれど、あれもコレもできるはずもなく、日本語が瑣末でも英語を優先し、日本文学にさく時間を漫画やアニメに触れて過ごしているのだとしたら、結構そっちの方が正しいのかもしれない。新聞記者や、マスコミさんたちは、麻生さんの日本語教養を揶揄するけれど、それは、自分たちのエリート語へのプライドでもあり、それをあっさり捨てている麻生さんへの微妙な反感なのかもしれない。 この本を読んでいて、もし、第二次世界大戦で、日本とドイツが勝っていたら、世界の普遍語は、日本語と、ドイツ語になっていただろうかと、考えてしまう。 はたして、世界の普遍語になるには、英語というのは、いまひとつ使い勝手が悪い。何しろ必ず文章は、主語、述語、修飾語という順番に並べなければならないし、英語を母国語にする人たちすら、正しい文法を使いこなせないのだから。しかも、発音にくせがあり、日本人には、どうしても、聞き取れない音声が存在するのだ。 日本語なら、文法があるとはいえ、単語をどんな順番に並べても、言葉として、通用するし、発音も、習ったばかりの人がしゃべってもわかるくらいくせがない。 そして、英語でつくられているはずのコンピューターの言語の中にも、英語ではなく、日本語的表現や文法が使われていたりする。 かたや、ドイツ語も、発音はほぼ、ローマ字読みで、そのまま読んでもいいのだから。 そして、世界で一番美しいと言われ、日本でも、著名な人物が、日本の母語をフランス語にしたいと、考えたほどだけれど、実際のところ、フランス語は、アールとエルの発音の違いを日本人にはどうしても、聞き分けられないし、発音し分けられない。そのうえ、フランス人は、Hの発音ができないから、フランス語には、Hの発音が存在しない。そういうフランス人だけに共通のくせや、単語の一つ一つに女性、男性の性別わけが存在していて、それにあわせて、他の部分が変化しなければならなかったり、リエゾンがあったりして、世界の普遍語にするには、くせがありすぎると思う。 いったい、世界の普遍語にちょうどいいのは、どんな言葉なのだろう。 あのエスペラント語も結局は、普及せずにそのままなのだし。 日本とドイツが勝っていたら、アジア圏は、日本語、ヨーロッパ圏は、ドイツ語、ということは、ありえただろうか。 出来れば、世界の言葉がミックスされた一番効率のいい言語が世界のグローバル化の中で、できあがってくれればいいのにと、思う。 しかしまあ、実際、世界で一番通用しそうな言葉が英語であるという現実は、確かにある。そして、一番英語を習得させるべきなのは、政治家なのだろう。だとしたら、大学の法学部や、経済学部では、もっともっと、英語を教えるべきなのかも知れない。 けれど、母語以外の言語の習得というのは、ものすごく時間と、労力を費やすものだ。やはり、翻訳のできるプログラムの開発をして欲しいと、思う。世界の情報をより早く得るためには、やはり翻訳機の開発が、一番早くて楽だし、この先えんえんと、子供たちが英語を学び続けなくてもすむだろう。作者は、今の翻訳の性能はひどいものだし、翻訳機には期待できないと、言うけれど、日本の技術が本気をだせば、決して出来ないことはないと、私は思う。だって、一昔前にいわれていた、未来の機械としてのテレビ電話は、もう開発されてし、しかも、それがケイタイに普通のセットされているというほどの状況なのだから。 とりあえず、この本を読んで日本の近代文学を読むべきだと、思った。でも、本音はメンドウ。英語がどうという以前に、日本語のできる人間がすでに、日本の近代文学をおよそ読まないという状況自体のほうが、よっぽど問題だと、思う。 そして、英語を学ぶべきなんだなと、思った。けれどこれもやはり、メンドウ。どんなに勉強しても、日本に住んでいる限り、覚えたはたから、忘れていくだろう。言語ってそういうものだ。だって、知識や、教養や、学問とはまったく別のものなのだから。 そして、コレだけ完成されていて、使いやすくて、しかも、安全で住み心地良い国の言葉がある以上、外国語として英語をみにつけるのは、しんどい。なにせ。英語の教師や、英語の仕事をする人たちすら、英語を使うことにしんどさや面倒くささを感じてしまうのだから。 にほんブログ村
2009年04月07日
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私立最高峰ともいわれる慶應義塾の付属校を舞台にしているといわれていると聞いて、興味があって、読んでみた。 物語は、慶應義塾大学の経済学部を卒業後、大手企業に就職した、エリート女性社員が、渋谷で娼婦とした働いていた末に、その客に殺されたという実話から、作者が、その事件の内面を想像して描き出したもの。 物語の最初の舞台であるQ学園女子高校は、慶應女子校らしい。慶應女子といえば、高校受験における最高峰で、いまや、偏差値がたおちの都立高校のおかげで、ほんとに最高峰。この学校に受かるには、並みの努力と才能じゃあ、まず無理というもの。 中学受験なら、女子御三家があるし、大学受験なら、国立大学があるけれど、高校受験は、公立が低いせいで、早慶がダントツに偏差値高いのですよね。 で、その高校受験で慶應に受かり勝ち誇って入学してみると、中には、中学から、あるいは、小学校から、既に慶應という生徒たちがいて、高入組は、非情に肩身が狭くて、いじめられたり、差別されたり、、友達もろくろく出来ないという、結構しんどそうなお話がえんえんと書いてあります。 実際のところ、付属のある高校は、わが子も受験の段階でいやだと、言ってましたし、多少の想像もつく。そんなことはないですよと、説明会で言う学校もあるけど、私は、入ったこともないし、息子の学校は、高入は、いっさいなかったので、分かりません。学校にもよりけりなのかもしれないし。 ただ、この学校を知る人は本当にこの通りだったと言うそうです。誰もがあこがれる学校だけど、いざはいってみると、ぜんぜん楽しくないということでしょうか。 物語の中では、付属上がりは、イコールエリートという、なんかすごい世界です。 物語の主人公の友達佐藤和恵が、ようするに、渋谷で殺されたエリート会社員なんだけど。それを物語の最初では、主人公が、第三者的な目で、見ているわけです。 で、渋谷で、娼婦をしているあたりの描写もかなりえぐくて、ほんとにグロテスクですが、読み終わってみると、で、結局、和恵はなんでエリート社員だったのに、娼婦になったのかという、肝心のところ、女性の心理は、書いてないのですよね。 ただね。たとえ、名門の学校をでて、大企業につとめて、エリートになっても、女はそれだけでは、しあわせにはなれないという難しさって言うか。 男なら、仕事で成功ししたり、出世したりすれば、金も女も幸せも、よってくるけど、女の子は、逆に、仕事で成功すると、女としての幸せを掴みにくくなるというか。日経ビジネスの記事なんかでも、時々読んでいると、「成功女子」と、『幸せ女子」は、ちがうと、書いてあるんだけど。 もちろん、大学を出て、仕事して、それと平行して、結婚して、子供もできて、という、ちゃんと両方手に入れてしあわせになってる女の人たちだって、たくさんいるとは、思う。 けれどやはり、女の子は男の子のようにがむしゃらにがんばらせて、高学歴、高収入、エリートという方向性だけで、育てるわけにはいかないむずかしさがあって、いつもとまどってしまう私の普段の思いがある。 それで、この物語の佐藤和恵は、成功はしたけれど、恋人もなく、結婚もなく。 そんな時に、ふらっと、町で声をかけられて、知らない男性と、ホテルに行ってしまった。そのあとに、お金を渡されて、自分が娼婦と思われてしまった。それがきっかけとなり、娼婦の道に入り込んでしまう。独身のまま、セックスもしらない、恋人もいないという、寂しさから、恋人もなく、でも、セックスするには、娼婦のふりをするしかなかったのかもしれない。女は男のような種類の性欲はないけれど、でも、独り身は嫌だし、さびしいし、だれかに抱かれたいとは、思うんじゃないかと、思う。 と、私なりに、佐藤和恵が、娼婦になった心理的ないきさつを想像してみたりもした。 物語の中にでてくる和恵を殺したと予想される中国人チャンについても、その生い立ちからずっと、描かれていて、すさまじいものがあります。とにかくものすごく貧乏なのですよね。なにしろ彼の家族は、住むところがなくて、洞穴にすんでいる。で、都会に行こうとした彼がのった列車は蝶満員で、トイレにも行けない。だから、たったまま、その場で、用を足すしかない。という。 物語り全体がとても壮絶で、本当にグロテスクに書いてあります。気持ちに余裕のある時でないと、よめません。 で、社会の中の極貧の世界と、お金持ちの富裕層のひとたちが、接点をもつ部分がえんえんと書いてあるのです。エリートで富裕層の多い学校に通う主人公は、公団住宅に住む祖父のところに住んでいたり。父親が東大生なんだけど、結局のところそれほどの財も成功もなく、庶民的にはちょっとお金持ちにみえる家に住んでいたり、でも、母親は高卒で、という佐藤和恵の家族描写とか。 で、作者の言いたかったことは? えっと、分からなかった。 ちなみに、読みながら配役を考えてしまった。 佐藤和恵は、光浦靖子。 主人公のわたしは、成海璃子。設定では、そんなに美人じゃないんだけど、なぜか読んでいて、彼女のイメージがわいてしまった。つめたい感じがピーンときた。だいいち、妹がすごい美人なんだから、そんなにブスなはずはないし、彼女は本当は美人なんだけれど、自覚がなくて、しゃれ方が下手なだけなのでは。ドラマ化または、映画がされるときに、彼女がうまく、ブスでださい女性にみえるように、メイク演出してくれると、いいですね。 主人公の妹のユリコは、沢尻エリカ。一見馬鹿そうで、ものすごく美人なんだけど、自分の意志もなさそうで、本当は結構賢こかったけれど、美人すぎて周りの男たちに遊ばれてしまう。でも実は、それが大好きという女の子。かなり、微妙で難しい役どころ。 慶應女子の中でも成績トップで、東大に進み、医者と結婚したのが、ミツルなんだけど、ミツルはだれがいいか、思いつきませんでした。 それにしても、すごい小説だった。
2009年04月06日
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タイトルが少し中身と違うかもしれない。もっと違うタイトルにした方がよかったのでは。と、思います。 就職したはいいけれど、今の日本企業の内部のつまらなさに耐えられなくなってやめた、東大を代表するエリートたちが、その後自分で企業を立ち上げていたりする。また、地方の公立大学卒のサラリーマンが、入った会社を辞めた後、自分のスキルを磨くためにあえて、大企業をやめて、中レベルの企業に入って、いろんなことも適当に経験しこなせる能力ではなく、ある一部のスキルを専門的に磨いていくサマを報告して、その重要度を述べていたりする。 価値観という言葉、私も好きでよく使いますが、この本の中では、昭和的価値観を否定し、考え直し、今新しく生み出されようとしている平成的価値観とは、どんなものかを、検証し、提示していきます。 私たちが当たり前だと思っていたもの、とくに、仕事は我慢ということを、「本当にそうか?」と、問い直していくのです。 若く能力のあるエリートを単純労働に使う日本の大企業。その一方で若くてもどんどん責任の有る仕事をまかせていく外資系企業。それゆえに、日本企業に見切りをつけて、外資に流れていく、若者たち。 けれど、この本の記事が書かれたのは、2007年なので、新卒の就職は売り手市場だったし、外資が人気でしたが、2008年の現在、たったの一年で、リーマンの倒産、不況と、外資は敬遠されはじめ、去年の内定はとりけされ、就職市場は厳しくなり、状況は見事に180度変わっているので、作者の城さんは、今ごろ何考えてるか、気になるところです。 それでも、大学生の子供をもつ親としては、今の社会の状況や、就職、企業の内部など、家にいては分からない部分を知りたいわけですし、ためになりました。 いままで、大学生は、イコール遊ぶもの、授業なんて出なくても、学歴さえあれば、というものでしたが、今現在そんな昭和的価値観で大学生活をすごさせてしまっていいのか。 大学に入って、少し落ち着いて、そろそろ勉強にも飽きて、サボリ始めた息子をみて、はらはらしている母です。 長い季節休みをどうするか。悩んでいたのですが、その中で、この本でも、すすめているインターシップ制度。塾のバイトは、いまどきわりにあわないし、だからといって、ただひたすらつまらない普通のバイトをさせることにもためらいのある私には、いいかもというもの。当然わが子の大学にもありました。 ただ、本人がその気もないのに、親の勧めで無理にいかせても、逆効果になる可能性もあるわけで。悩みます。 ところで、大企業の仕事のあまりのつまらなさにやめちゃういまどきのエリートの話を読んでいて、そういえば、わたしが専業主婦やってるのも、同じ理由であることに気が付きました。わたしは、別に、家庭にこもっているわけでも、専業主婦をやってるわけでもないのですよねえ。 ただ、会社で働くことがあまりにもつまらなくて、一日が長くて、時間がもったいなくてしょうがなかったお勤めしていた頃。キャリアウーマンになれるほどの学歴も職歴もなく、意識もなく、お茶くみと、ワープロ(あのころまだ会社にパソコンもコンピュータもインターネットもなかったので、ワープロの導入自体がすごく画期的だったのです)と、お使いの日々。 で、子育てと家事さえしていれば、毎日家にいて、本を読もうが、テレビを見ようが、パソコンをやろうが、ゲームをしようが、引きこもりをしようが、とりあえず、専業主婦と評価されて、ニートとも、引きこもりとも言われずにすむのが、既婚女性なわけですよ。 だから、わたしは、別に家にいるけど、家事や家族に自分の人生をささげてるわけでも、家庭にこもってるわけでもないんだけどね。 大企業の仕事がつまらなくて、仕事を辞めたいまどきのエリートと、感覚は同じなんだよなーっと、思ったのです。 仕事しないで家にこもってるなんてもったいないというのが、今の価値観なんだけど、ホントに生きがいをもってできる仕事についてる女性なんていったいどれだけいるのでしょうね。 だいたいは、生活費のため、教育費のため、家にずーっといて誰にも会わない生活がいやだから、というのが、ほとんどの場合の理由だと思います。 ただ私には、働いたからといって、社会につながっているとか、外が見えるとも思えないわけです。 ま、それは、おいといて、この本の結末のところまで読むと、要するにいいたいのは、会社の利益と都合優先でやたら社員に我慢と忍耐と犠牲をしいる今の日本の企業社会を変えていくためには、どうすればいいのか。そして、新卒以外採用しずらい、年功序列、年齢によって決められる給与体系をやめて、職能によって、給与を決めるべきなのではないかということです。 日本は年齢によって、給与をきめるので、中途採用がしずらいのだそうです。なるほどね。 実際、私も働くなら、週に一日か二日くらいだったらいいのにと思いのます。かならず、週5日勤務とか、三日以上とか、残業があたりまえとか、いろいろ制約多すぎる。有給休暇や、忌引きすら、おちおち取れないのが今の日本の会社なのだもの。あまり働きたくないという感情や、考え方をただの怠け者と決め付けていたのが、いままでの日本の価値観だけど、みんなに仕事がいくようにするには、もっと、一人当たりの仕事量をへらしたり、フリータイムにしたり、ワークシェアが必要だ。 給料が上がっても、それが物価上昇につながるのだから、昇給って意味あるのかね。 ただの怠け者としてきた今までの昭和的価値観から抜け出すと、毎日仕事するのがいやなのも、残業するのがいやなのも、仕事がつまらないと感じるのも、当たり前すぎることなのだ。 ところで、年長者ばかりに仕事の決定権のある日本企業に比べて重要な仕事にどんどん若い人が使われている外資。じゃ外資の中高年の人たちはなにしてるのだろうと思ったら、本の最後の方まで読んでわかった。外資の中高年は会社の効率化のためにリストラされたのだそうだ。日本は、すでにいる中高年の正社員のために、若者を犠牲にしたり、切り捨てたりしているけれど、アメリカの場合は、逆に中高年の方を切り捨てたらしい。結局、どちらも、方法は違うけど、やってることは同じ。一見よさそうに見える外資だって、年取れば簡単にクビにされるのだし、能力がなければすぐ解雇なわけだから、大変なのは、同じなのだ。目に見えるものだけ見て、外資はいいなんて単純に考えない方がいいと思う。もっとも、日本も最近は、中高年までリストラが増えたのだから、もっと怖いのかも。 それで、年齢給をやめて職歴給や、能力給にするのは、いいかもしれない。けど、能力がない人が仕事につけなくなっていったとしたら、それ以外の能力有る高給の人たちが結婚したり子供をたくさん育てたりするわけではないのよね。 能力にだけ給料をはらっていると、まちがいなく子供の数は減っていくはず。 能力にみあった対価を支払って欲しいと私もいままで考えていたけれど、たとえ、無仕事が出来なくても、子供を育てている人たちに、それなりの給料をはらっていかないと、日本はかならず、今以上の少子化に困るはず。 確かに、現在でも、扶養手当や、教育援助はある。けれど、子供を一人育てるには、ものすごくお金がかかるのだ。そんな少しばかりの補助費ではとても足らないし、無能だというだけで、収入を減らしていけば、日本から子供はいなくなるし、たくさんの子供に同じように教育し、チャンスを与えてきたことで、その中から輩出される優秀な人材によってなりたっていた日本という国はあぶなくならないのだろうか。 能力にみあった収入も仕事もほしいし、でも、子供もたくさん育てないとならないし。全てに都合のよい社会を作るのって本当にむずかしいことだと、思う。 まあ、この本では、あまりにももらいすぎている人たちの分を減らしたいということのようだけれど。では、理想的な社会とは?この本のラストでは、外国の、労使交渉、昇給のない労働者社会。ワークシェアのすすんだ社会が提示されている。日本の場合は、コレと同じ道をたどることになるのだろうか。それともまた、違った道があるのだろうか。不況のニュースを聞きながら、この先どんな社会になっていくのかと、考えてしまう。
2008年12月03日
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なにせ、子供が大学生。気になるネタです。 タイトルは、早稲田と慶應なので、この二つの大学の歴史やなりたちが書いてあるわけですが、この二つを語るには、それ以外の大学のことも書かないとならないし、明治に始まる近代教育史、大学の成立史もかかれています。うちのこの大学は早稲田でも慶應でもないけれど、国立大学や、他の私立大学のこともいろいろとかいてあって、とーってもためになりました。 大学の内情や、システムも、大学に絡むそれ以外のことも、ほんとにいろいろかいてあって、大学生本人も、大学生をこどもにもつ親御さんにとっても、これから大学受験をひかえる受験生にも、その親にも、ためになります。偏差値と学部と立地でしか判断しようのない大学以外の視点で、見られるようになるのではないかと思います。 すでに入った後なのに、どうしてこの大学を選んだのか既に分からなくなっていたりして、迷いのある我が家には、何で今の大学を選んだのか、もう一度再認識できたし、今の大学の立ち居地や、メリットもわかったし。 いまの日本の大学をとりまく状況もわかったし。 とにかく参考になりました。
2008年12月01日
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なんかショック。すごいショック。いままで、いい事正しいこと、と、思ってやってきた、エコロジーなことが、みんな、無意味だったなんて。 今話題のこの本は、一方で、必ずしも中に書いてあることは正しくない、間違ってこるとも多いと、いろいろ批難、指摘されている部分もおおく、どこまで、本当なのかは、分からないんだけれど、それでも、ショックだった。 レジ袋や、割り箸が、地球の資源やエネルギーを大切にするためのエコロシーの行動だと思っていた。けれど、この本の注釈に実は、それらは、環境省が、ゴミを減らすためのキャンペーンとしてやっていたことだと、書いてあって、私は、かなり、驚いた。 今までやってたことはみんな無駄? 環境省が影のおおボスだったのか。考えてみれば確かに、レジ袋とか、割り箸って、ゴミの元。それも、ドレも、ただで配られるもの。お役所だから、政治家と、経済界ってのは、密接に関係しているわけで、企業の利益や売り上げや景気に影響するような、ことは出来ないのだろう。みんなが余計なものを買うこと自体をやめれば、売り上げ自体がへって、売り上げや景気に影響するわけで、お役所としては、そういうことはできない。となれば、ただで配られている、レジ袋や、割り箸をやめるという対策くらいしか出来ないんだろう。お役所って、非力。ていうか、いろんなシバリが多くて、その中で、仕事をするのは、たいへんなのね。 でも、ゴミを減らしたいなら、庭のある家庭に、コンポストを無料で配ってくれればいいのに。希望者だけでも、くばって、庭で、生ゴミを処理できれば、随分生ゴミは、へると、思うんだけど。生ゴミっていうのは、臭いので、ゴミとして、ゴミの日まで保存しとくのも、いやなんですよね。 コンポストあればいいなとは、思うけど、高いから、いまひとつ買う決心がつかない。各家庭で、生ゴミだけではも処理できれば、大分減るのに。 ゴミの分別も無駄らしいです。でも、週に二日しか、燃えるゴミの回収がないのでは、分別しないと、ゴミも全部一緒にしちゃうと、全てのゴミがくさくて、ゴミの日までがつらいのも、事実なので、エコのためだけじゃなくて、臭くないゴミだけで、ひとまとめにしといた方が、楽なのも事実です。プラゴミだからというより、臭くないゴミとして、ひとまとめにしときたい。 古新聞や、缶や、ビンを分けるのも、エコのためじゃなくて、ゴミをへらすためだったのですね。 この本ではほとんどのものは、分別するより、ゴミとして、燃しちゃった方がいいと書いてあるけど、みんなゴミにされると、清掃局は大変なのですよね。それは確かにそうですねえ。 この数年で、ゴミ償却場はかなり増やされました。自治体のゴミは、自治体の中で、処分できるように。 ほとんどの資源は、リサイクルがむずかしい。ものはみんな、使えば劣化するから。運ぶ手間も、分ける手間も、リイメドいることによる、劣化もあるから。 ゴミの元といえば、中元やお歳暮もそうだと思う。あれは無くても困らないもの。いらないもののやり取りと梱包でますますゴミはふえるし。もともと日本にあった習慣でもないので、やめればさぞや、ゴミはへるでしょうねえ。ものによっては、届いたものの中身をだすと、ゴミのほうがおおかったりしますからねえ。 資本主義ってのは、ゴミを出すことが目的みたいなもの。いらなくてもいいから、とにかく、商品を売ることが大事なんだもの。 まー。余計なものは買わない、もらわないしかないのですね。バーゲンで、安いからってことで、いまいち気に入らないものを買うのは、やめようかなあとも思う、このごろです。 でも、プラスチックとか、今無理に燃さなくても、埋めておけば、いちか未来で、科学力が上がった時に、それらを掘り起こしてもう一度使える時代も来るかもしれないのに、燃さないで、埋めといた方がいいかもしれないじゃんと、思うのです。実際にはもう、埋めるところが無くて、もやしはじめてるんですが。 廃家電や、中古家電、テレビとか、を発展途上国に売ることで、ゴミがみんな発展途上国にたまるから、やめようっていうのも、あったけど、でも、安く家電を変えるんだから、それはそれでいいのにと、思う。そのあとのゴミは、ためて保存しとくと、いつか未来で、資源になってるかもよ。だって、石油だって、大昔のゴミなんだよね。それを中近東とか、発展途上国で、今、売って、儲けてるんだから。 将来なにがどうなるかなんて、わからない。いま、の判断が本当に正しいかどうかも、未来になって見ないと、わからないんだし。とりあえず今、安くテレビわみられる恩恵は、大きいのでは。 などと、いろいろ考えさせてくれる本でした。いろんな批難をあびて、他の人が正しい意見や情報をあげているけれど、その情報開示のきっかけになったのだという、その部分でも、この本の意味はあると思うし、批難をあびつつ、本をだした、著者の人は、偉いじゃんと、思う。のです。この本のタイトルは、『偽善エコロジー』というよりは、『偽装エコロジー』にした方がぴんとくるのでは、と、思います。
2008年09月25日
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片付け本を読んでみた。でも、特に目新しいことは書いてない。というより、何でこんなこともしらないの?と、思う。つまり、ここに書いてあることは、既に私は知っていて、実践してるのだ。じゃあどうして、知っているかというと、結婚した時家事の本や、家の管理の本を何冊か読んだその中に既に書いてあったからだ。既にその手の本に書いてあるのに、何でいまさらなのか。今は、情報化社会とかいわれて、情報、情報といわれるわりに、実際には、その情報を自分の中に取り入れて活用していないのだと、思う。 わたしは、自分がその本を読んで、整理整頓収納の基本は一応覚えた。それでそれは、生活の中で、ある程度活用してきた。本を読んで情報を入手してという行為は忘れてしまったけれど、読んだ情報と、知識は、チャンと覚えていて、意識的にか、無意識的にかで、チャンと活用してきていたのだと、思う。 いくら情報と接触する方法ほいろいろ考えても、それをきちんと理解して自分の中に取り入れて活用できなければ、何の意味もないだうと、思う。 著者が一人暮らしなのに、何でこんなに散らかせるのか。片付ける、暮らしの基本自体が今はしつけられていないのだろう。私の親もそのあたりは、ぜんぜんしつけてくれていない。それでもわたしは、疑問点は全部本で情報収集して、解決するという習性だけはあるので、いろんな事態にであっても、全部そうしてクリアしてるわけだけど。もちろん、クリアできないこともあるんだけど。情報化社会といいながら、情報をどう取り入れるのかは、あんまり、理解されていない。それが今の時代なのかも。ということは、情報化時代はまだまだ発展途上なんだ。 片づけが雑誌などで特集されている場合には、それは一つの、話のネタであり、ファッションでしかない。著者はそういう雑誌などの表面的な情報だけで、片づけをしようとしてなんども、失敗している。一冊の本として、書かれている場合、かなり論理的にプロフェショナるに書いてあるけれど、雑誌やテレビのワイドショーの場合は、表面的で浅い。それをみたイメージで形だけでやると、片付けは浸透しない。まず、収納家具を買って、そこに入れれば片付くという幻想。それで、収納家具を買っても片付かないという現実。主婦であれば、まず、こんなにどんどんものは買えないので、そのあたりが先ず根底で違うのだけれど。まず、ものを不用意に買いすぎる。それから、片付けには、時間がかなり必要だということの認識が無い。家のメンテナンスというのは、かなり時間がいるものだ。だからこそ、この国には、専業主婦という人たちがいるのだし、主婦という言葉があるのだろう。片付けるには、収納家具を買っただけでは片付かない。片付けには時間が要る。気力がいる。頭を使う必要がある。方法論を理解して工夫する必要がある。良く使うものは、すぐ手の届くところに。あまり使わないものは、高いところや奥の方にしまう。物を増やさない。 そもそもそういうことを理解すること自体にかなりの時間が必要だってことだ。ちなみに、こんなこと書いてるからには、私の家はさぞや整理されてきれいかと、言うと、そんなにきれいじゃないです。適度にものは、散らかっています。それは、家の中が見た目きれいであることが大事なんじゃなくても、住んでる人間が快適かどうかが大事なことだから。それと、家族四人で住んでいれば、私の意識とは別に、家族がちらかしてくれるので、そのあたりはもどうにもならん。ちなみにこの人、前作であるこの本で話題になってるわけですが、こんな本もだしてるんですね。あれ?なんなの?だ?
2008年09月02日
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えーと、ネタバレしてます。ネタバレすると、この本は読む面白さが激減すると思われますので、以下、読む気はないからネタバレしてもいいという人と、もう読んだからという人だけ読んでください。 文庫本の後ろには、名作『白夜行』の興奮がよみがえる傑作長編と書いてあるし、本編を読めば、どうやら、ヒロインは、『白夜行』の雪穂と同じ人物らしいと、想像できる。あとがきでは、『白夜行』の第二部とも書いてもある。 しかし、この本を読んでみて、私としては、この作品は『白夜行』の 書き直し だと、思う。 『白夜行』では、かなり伏せられていた、多くの事件の詳細や二人の男女の関係性が、幻夜では、かなり詳しく書き出されている。「白夜行」で、19年がかりの話だったけれど、この『幻夜』では、五年くらいの間の話になっている。『白夜行』では、かなり挙げられていた社会的事象も、『幻夜』はサリン事件くらいだ。 たぶん作者は、前回あまりにも、トリックを駆使しすぎて、名作ではあるけれど、懲りすぎて作者の意図が伝わりきらず、よみこめないつくりにしすぎたかもしれないことを考えて、『幻夜』では、主人公雅也と、ヒロイン美冬の二人の最初の出会いから、その後の関係性、までをかなり明確に書き出しているし、二人でおこなった事件も、かなり克明に描き出している。 『白夜行』は、トリックすぎてわかりずらかったし、テレビドラマ化においては、そのテーマはあきらかに、改変され、原作では分かりづらかった部分を詳細に説明するようなものになっていた。 名作と評されながらも、けれど、作者の意図は、伝わらずに終ってしまったことが、今回の作品へと、つながっているのではないのか。 自分の正体を隠し、自分の身を守り、企業して、経済的成功をめざし、そのためには、自分の周りの男たちを使い、どんな犯罪も、殺人もいとわない冷酷で非情な美女の物語。 そういう話だけれど、作者ははたして、冷酷な魔性の美女が書きたかったのか。物語としては、見事なまでの美冬の行動にひどいと思いつつ、すごいなという面白さはある。 けれど、作者がこの物語で書き出そうとしているものは、なんだろう。 「世の中はもっと悪くなる。自分の懐をこやすことしか考えてない連中がこの国を仕切ってるんだから当然のことだ。今までは庶民が強かったからなんとかなった。だけどもうだめだ。がんばりにも限界がある。」 これは、作中の第11章、刑事の加藤が雅也のつとめていたフクタ工業の社長に会いに行ったときに社長の福田が言った言葉だ。 一人の女がこんな行動をとればそれは、犯罪であり、ひどいことだけれど、それを同じようにしていても、それが企業であれば、どこかで許されてしまう。 底辺にいる人間がどんなにがんばっても成功することも、のし上がっていくことも出来ない社会。 そして、企業ですら、社会的不正や、偽装や、犯罪ぎりぎりのことをしていかなければ、維持できないような社会。 美冬ほどの才気があれば、こんな犯罪をしなくたって、企業家として成功できそうな気もする。それでも、今の社会では、無理なのか。 雅也も美冬もフクタ工業の従業員も社長も雅也の父親もみんな社会の底辺に近いところで生きている。のし上がっていくことも人並みの普通の生活をすることすらも、もう、この国では難しいことなのだろうか。 もしも、これが、『白夜行」の第二部だとして、もし、第三部が描かれるとしたら、どうなるんだろう。一部、二部では決して、暴くことのできなかったヒロインを暴きだすのは、だれだろう。たぶん、男性には無理だろうな。『幻夜』の中でも、「女のことは、女でないとわからない」と、ヒロインの夫の父親に言わせている。だとすれば、ヒロイン美冬の正体を突き止めるには、女性の目が必要だろう。たとえば、第三部で美冬の正体を暴く人物がいるとしたら、それは『幻夜』の中で、美冬に夫を殺された曽我の妻、雅也に惚れていた美冬の義理の姉頼江あたりじゃないかと思う。けれど、やっぱり女だけでは、突き詰めきることは出来ないかもしれない。やはり男性もまた、必要だと思う。美冬にかかわれば、どんな男でも、彼女の魅力に捕らわれてしまうとしたら、決して彼女に直接会ったり、関わったりしてはならない。その上で、女性を裏で補助する男として、刑事加藤の父親で、それも、元刑事という高齢の世の中のすいも辛いも知ったような熟達した男性が必要かもしれない。こんな登場人物も用意して、第三部、美冬激闘編なんかできると、面白いかもしれないですね。 今の社会はとても厳しくて、のし上がっていくこと、経済的に成功して幸せになることはとても大変なことかもしれないけれど、人の幸せは、それだけじゃない。夫や家族を愛して日々ささやかに暮らすこと(曽我夫妻や、新海夫妻のように)も、人の世界の知を突き詰めて知り抜いていくこと(加藤の父親のように)も、人が人として情を持って生きていくこと(頼江と雅也の関係のように)も。と、そういう、世界があってもいいと、。 分厚い本でしたが、それなりに気合をいれて読破しました。東野圭吾の本はドレも分厚いので、持ち歩くのが大変。です。バックの中でおもくてーーーーー。
2008年08月28日
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かたづけられない女が話題だが、私は、部屋は片付けても、本だけは片付けない。どんどん買うので、家にある5つの本棚はすでにいっぱいで、ダンボールに入れてつまってある本もあるし、文庫本用のきれいで透明なプラスチックケースに入れて階段の踊り場に積んであるものもある。そのほかにも、小さな箱に入れて箱ごと階段に積み上げて、即席本棚まである。それでも収納しきれずに、出窓に詰んであり、なおかつそれでも、あふれて家の中のどの部屋に行っても、本がそこらにある。 かつて、父に本だけは売るなと、言われた。それをまじめに守りつつ、あまりにもつまらない本だけは、最近流行のブックオフに売りに行く。しかし、ブックオフというのは、本の価値を見た目のきれいさだけで評価するという、すばらしい発想の本屋さんなので、もうこれはどうしても読まないというような、古びて汚れて変色した本は、買い取ってくれない。だから、ますます本が増える。 子供を読書家にしたいなら、まず、親が読んで、その読んでいる姿を子供に見せることなのだそうだが、そのうえで、家の中のいたるところに本を積み上げて置くべしなのだそうだ。本はきちんと片付けて、きれいに収納してはいけない。きれいに収納して、本棚なんかに順番をまもってきちんと収納されていたら、おそれおおくて、子供はそんな本には、手を出さない。 本というのは、中身こそが大事なものなのであって、(いまどきはね)、だから、そのあたりに、ほっぽらかされている。そうすると、なんだか疲れて、ごろっところがってぼーっとしていた子供が、ふっと退屈になって、横になった時にちょっと目のはしにはいった本を手にとって見る。ぱらぱらっと読んで、あれ、なんかおもしろいじゃんとか思って、ついつい、読み始めてしまう。そのまんまごろごろしながら、読みすすめていく。途中トイレにいきたくなって、立ち上がる。そのまんま、本はそこにほっぽらかされたままになることもある。その続きを読むかどうかは分からない。 でも、読んだ本はそのあと、きちんと片付けろなんてこうるさくいわれたら、子供はもうめんどくさくなって、本を読むのはやめてしまう。 子供に本を読ませようと思って、本屋に連れて行って、子供に選ばせても、その本をあれだめこれだめと口出ししちゃいけないらしい。そりゃそうだ。どんな駄本でも、こどもに選ばせたなら、それをそのまま無言で買ってあげる覚悟がいる。いやー、私はあんまりそんなことはやったことないけどね。 本を買って、読み終わったら、そのまま、ブックオフに売り飛ばしたりしないで、部屋のそこらに積んでおく。そのうちいつかそれを子供が読み始める日がやってくる。でも、子供がどの本を読むかは、分からない。ある意味ギャンブル。だからといって、子供がえらびそうな本を買っちゃだめ。あくまで、自分が読みたい本を買う。でも、買っても読まずに詰んどく本もいっばいある。それをうちの息子が、なんで読まないのに、買うの。もったいないでしょ。と、小ざかしく、親の私に向かって、説教するところまで、成長してくれた。ありがたいことに。でも、そんなこといっても、読むか読まないかは、買ってみないと分からないし。絶対きっちり読むかどうか吟味してから、買うなんて無理。漫画なら、買ったら、かならず読むけど、本は時間がかかるんだもの。読み終わってから、次を買うなんてことしてたら、いい本を買いそびれるじゃないですか。 とにかく、それで、家の中にある本を子供たちが読み出して、読んだ後で、その本のことを話してくれる。うんうんそうそうあの本はね。と、話が盛り上がる時もあるし、あ、その本は私読んでないものー。という時もある。で、どうだったー、面白い?と、逆に聴き返すときもある。子供の宿題の指定図書の何冊かは家の中にあるよーという時もある。で、子供はその本を探し出して、読んで感想文の宿題を書く。 それにしても、最近ちっょと本が多すぎ。(半分は漫画ですが。)少しは、片付けないと。でも、どうやって…。 アンティーク調仕上げ猫脚本棚
2008年07月28日
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昨今は「速読」流行り。でもどうしても私には出来ない。でも、出来なくて当たり前なのだそうだ。そりゃそうだよね。さーっと字面だけ追って読んだって、本の中身が頭にはいるわけないし。第一、そんなの、本を読む楽しみ、活字を追う楽しみを放棄している。本はやっぱり、ゆっくり味わって読んだ方がいいに決まってる。 それでも、最近の本の出版量はすごい。本屋に行くと山のようにある本。どれもこれも読みたいけれど、結局のところ、私の一生を費やしたって、読みきれるはずもない。それでも、読める本だけでもなるべく読みこなしたい。 速読をすすめる本をよく読むと一種の自己啓発で、速読によってたくさんの本を読むことでいかに人生が変わるかみたいな内容だという指摘である。言われてみれば確かに。 というわけで、本をゆっくり、というか、普通のペースで読むって当たり前のこと。 その上でこの本に書いてあったいろんなことは、今までの私の読書生活を再認識させてくれた。この手のハウツー新書本は、大概いつも好奇心で読んで、それほどのものではないのだけれど、今回のこの本は買ってよかった。読んでよかったとつくづく思える本だった。だから、一日に1ぺーじくらいとかしか読み進まないようなそんな読書もありなのだそうだ。そりゃそうだ。名作文学なんて、難しくて、ほんとにちっょくり読み進まないもの。でも、さくさく読める本だけ読んでたら、読書世界は浅いもので終ってしまうじゃないか。だから、のんびりのんびり読む本もあってもいいのだって。 そして、たとえば、読んでいて、ひっかかる表現、不思議に思える描写。実はその謎にこだわることこそ大事だということ。その謎こそが作者が読者に伝えたいことの、謎をとく鍵でもある。 それをきっかけに読者は作者の言わんとすることを解いていく。そして、その先。作者の訴えたいこと以上のもの。あるいは、作者の意図とは違う解釈を読者がする、「誤読」もまた、それはそれでいいものなのだそうだ。 私も時々。これは作者の意図とは違うかもと思うような解釈を考えて、ブログにアップしたりするんだけれど、それはそれでいいんだってことがわかって、うれしかったりした。 また、読書を深めていく上で、読んだ後、そのことをずーっと考えたり、それを文章にしてみたり、つまりは、今流行のブログに読んだ本のことを記事として書くことが、読書の向上にとてもいいことなんだって。納得なのでした。 ところで、学校なんかでも、子供たちに読書ノートなんか書かせるといいわけだけど、あれは実際にやるとなかなかすすまなかったり、やらなくなっちゃったり。いいことなんだけど、学校の授業で生徒一人ひとりにブログはなかなかやらせにくいし、でも、普通の紙のノートだとあまり進まない。でも、あれって、結局ノートを読むのが先生だけだからだと思う。子供たち同士でも読ませて、お互いに評価しあうようなシステムづくりをすれば、大人の読書ブログと同じ効果が出るかもよ。たとえば、読んでおもしろかった読書ノートには、子供同士で、シールをはりあったりして。誰が一番たくさんシールを集められるか競争したりね。子供ってあの手のシール集めるの好きだから。 でも、私も、ブログに、読んだ本や、見た映画のことを記事にするようになってから、なんだか、理解力が上がった気がします。だって、ただ、よかったとか、面白かっただけじゃ、記事にならないし、つまらないから、何かもっと、「アハ」を書きたいと思って、読んだ後、見た後に、何日か日常を送りながら、頭の中でもくもくと考えるのです。そうしていると、ある時突然「アハ」がでてくるんだよねー。 昔の学校の国語の授業より格段に国語力や読書力があがったと、思えます。 そのほかにも、この本。いろいろと読書のコツなど書いてあり、珍しくすごく役に立つ充実した本でした。
2008年06月05日
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タイトルのわりに、この本のほとんどは松田聖子のことが多くて、中森明菜のことは少ない。 私は、二人とも、好きなんだけれど、明菜ちゃんの歌も踊りも、笑顔も好き。キャラクターイメージとして、つっぱりと、暗い恋の歌の多い明菜ちゃんが、一生懸命、本当の私は違うんだよと、言おうとして、作る笑顔が好き。 ツッパリがテーマの歌が多かったせいで、なぜか、悪評の多かった明菜ちゃん。 俳優が映画で殺人犯や悪役をやったからって、誰も、その俳優が殺人者や犯罪者だとは思わないのに、どうして、明菜ちゃんはツッパリの歌を歌うだけで、つっばりとか、生意気とか思われたんだろう。 アイドルというのは、歌と一緒のキャラクターイメージを売っている商売だからだろうか。山口百恵は、自己主張をしはじめたとたんに寿退職をしちゃったから、それ以降あまりたたかれずに、いいイメージを残したけれど、彼女によってはじまった、アイドルの自己主張は、それ以降、松田聖子、中森明菜、小泉今日子たちによって、引き継がれていく。アイドルの自己主張と、同時代のふつうの女の子たちの変化は、平行しているかもしれない。 アイドルは一年、長くて二年しか持たないといわれたけれど、あんなおじさん趣味のかわいくない女の子ばかり選んでデビューさせてたんだから、当たり前だと思う。 明菜ちゃんは真冬の寒い時に、夏に出すレコードの写真を撮るために、冷たい海に入れと言われて嫌だと言ったそうだ。そういう行動が彼女をわがままといわせたらしい。けれど、いくらアイドルだって、冷たい水に入るのが辛いのはあたりまえだ。それまでの命令すればなんでも言うことを聞いたアイドルたちとは、違った。言うことに従わないアイドルはたしかに、スタッフにすれば、困りものかもしれないけれど、別になにも、無理して海にはいらなくたって、他の方法で、夏のイメージをだす状況設定の写真を撮ることは出来たはずだ。夏、イコール海なんて、そんなことしか思いつかないスタッフ側のイメージの貧困、能力のなさは、どうなんだろう。 アイドルの歌番組を見ていて、いつも思っていたのが、アイドルたちの着ているおそろしくとっぴでへんちくりんな服の数々。今みなおしてみると、小泉今日子の服もひどい。デビューの時は、ドピンクのふりふりドレス。ちっょと信じられない。そのあとの、「トップテン」の服もどれも、ひどいセンスだ。当時、「なんだろうこの変な服は。アイドルだから、仕方ないのかなむと思っていたくらい。しかし、よくよく考えてみれば、芸能事務所のスタッフたちが考えているわけで、なんて彼らはファッションセンスがなくて、ひどいのだろう。アイドルを売るのにどうすればいいか考える前に、もう少しセンスをみがく勉強をした方がいいと思う。 聖子ちゃんや、明菜ちゃんは、自分で自分をコーディネートしていたので、いつもかわいくて、素敵な服を着ていたけれど、それ以外のアイドルたちは結構ひどいものが多かったような気がする。聖子ちゃんが着たいと思うピンクのフリルのドレスと、芸能プロダクションのスタッフのイメージするピンクのフリルのドレスは、同じようでいて、実はぜーんぜん違うのだ。 いまでこそ、センスのいい先端的な着こなしとファッションの小泉今日子も、デビュー当時はかなり悪趣味な服を着せられ、聖子カットをして普通のかわいい笑顔のアイドルを演じさせられていたように見える。松田聖子はあえて、自覚的にかわいいアイドルを演じていたけれど、他のアイドルたちは、まだまだ、スタッフの言うことに逆らえなかったのかもしれない。そんな中でまさに、自分らしさ、脱かわいい系アイドルを目指して、悪戦苦闘していたのが、小泉今日子なのだなと、今になってよくわかる。突然脱聖子アイドル系を思って、髪をカリアゲにしてみたり、甘ったるい恋の歌ではなく、まさに自己主張をする女の子を歌い始める。自己主張するアイドルという売り方が始めて表立って、わかりやすく表現され始めたのがまさに小泉今日子だったのだなと、再確認しました。 ところで、最初から自己主張していたために、周りの反感を買って、芸能界でずっと居心地の悪い思いをしていた明菜ちゃん。生き方はうまいけど、演技の下手な聖子ちゃん。歌も演技もうまいのに、生き方が下手な明菜ちゃん。本当はすごい才能があるのに、どうして、この子にはいい補佐役の人がいないんだろうといつも思っていた。明菜ちゃんはものすごく感受性が高い。だから、あの若さで、あれほどの演技力と表現力のある歌が歌えたんだろうに。「これほどの才能のある子がどうして、フォローしてくれる人がそばにいないのかな、かわいそうにな」と思っていた。聖子ちゃんの場合は、どうやら松本隆が、彼女の歌の作詞だけでなくて、『松田聖子』という商品のプロデュースと、聖子ちゃんの心理的なフォローを引き受けていたようなのだ。だから、聖子ちゃんはファッションや、髪型は、自分で考えたけれど、歌に関してはすべて、松本隆に任せてほとんどクレームは言わなかったらしい。 でも、明菜ちゃんはあれほどの売れっ子なのに、どうして、大切にしてもらえなかったのだろう。 聖子ちゃんのラッキーは、きちんとした家庭で育てられ、両親に大切にされたのと、一応高校は出ていること。デビューした時期が18歳と、ある程度大人になっていたこと。 明菜ちゃんの場合は、家族の多い家庭で、にぎやかに育ってはいたかもしれないけれど、保育園より、バレエ教室を優先したり、学校や、勉強はいい加減なのに、テレビだけはきっちりみせていて、母親が子供を計画的に芸能人にして、稼がせようと画策していたのがわかる。だから、デビューの時もたぶん、一番契約金が高いという理由で所属する事務所を決めていて、内容や、事務所の力は、二の次になっていただろうと思える。 才能があるのに、それ以降いろんな不幸がなんとなく、彼女の周りに絡んできて、歌もだんだん悲しいものになっていった。 『瑠璃色の地球』という松田聖子の歌は、聖子ちゃんが歌うと、子供をもった母親がわがこのために、地球の環境保護や、平和を願う未来への明るい展望を感じさせる歌だ。 それを明菜ちゃんがめずらしく、カバーしていて、ネット動画で見つけた明菜ちゃんのうたう、『瑠璃色の地球』は、同じ歌なのに、すごく悲しくて、さびしげで、同じ歌とは、思えないほど違う。未来への明るさがまったく感じられないのだ。おなじ歌が歌手によってここまで違うのかと驚いた。 歌が下手でもかわいいからという学芸会のようなアイドル市場という『場』があったことで、本当に歌のうまい二人の歌姫が出現することが出来た。 聖子ちゃんも明菜ちゃんも、才能がありすぎて友達がいないんじゃないのかと思えるんだけれど、才能ゆえにトップにたつものの孤独を知るトップアイドル同士、この二人同士でなら、本当の友達になれそうなのになーと思った。かつての百恵ちゃんたち花の中三トリオは、年もデビュー時期も一緒で、お互いに同じくらい才能があって売れていたので、仲良くすることで芸能界で暮らす孤独を紛らわせることができたけれど、聖子ちゃんと明菜ちゃんは、年もデビュー時期も違うせいで、友達になりそびれちゃったみたい。 でも、明菜ちゃんは聖子ちゃんにあこがれてて、尊敬してて、好きなんだと思う。二人がもう少しタイミングよく、仲良しに慣れたら、明菜ちゃんの青春時代はもう少し幸せだったかもしれないのにとも思う。 聖子ちゃんや、明菜ちゃんや、今日子ちゃんを見ていると、アイドルが、あるいは、ふつうの女の子が、自己主張をすること、自分の意見を表に出すこと、そしてそれを人にわかってもらうこと、自己主張しつつ、他の人と上手に関わって生きていくことはむずかしいんだなと思う。関連記事↓『松田聖子と中森明菜』その1『松田聖子と中森明菜』その2『松田聖子と中森明菜』その3
2008年05月26日
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「松田聖子の歌の歌詞は、意味のないものの羅列で、理解できない表現が多い」、とこの作者は言う。私にすれば、普通にわかりやすい表現だと思うし、男の人が書いた詩とは思えないほど女の子の気持ちを実に微妙によく表現してある。少しもおかしくない。 この本の中で作者は「渚のバルコニー」という表現で、「渚にバルコニーなんてない」というけれど、別に普通に海岸にあるホテルかコテージにあるバルコニーのことであって別になんにも違和感はない。「赤いスイートピー」という題名も赤いスイートピーなんて存在しないというけれど、歌なんてもともと空想や想像や、比喩表現を楽しむもので、現実にないからってなんでいけないのだろう。赤は情熱を表す色で、スイートピーは、恋心を表していると思う。心の岸辺に咲いた赤いスイートピーという歌詞は、心の中に芽生え始めた恋心が赤く燃え始めているイメーシだ。少しもおかしくない。 『春色』とか、『映画色』とかも、作者はどんな色か、わからないというけれど、別に春のようなとか、映画のようなとかいう意味の表現であって、不思議でも何でもない。「春色の汽車」は、春ののどかであたたかくて、わくわくする季節の中を走る列車のことだし、映画色の街は、映画のシーンのように、自分の過去の恋人とすごした街の中での思い出が思い出されるヒロインの記憶のなかのシーンをあらわしているだけだと思う。 松田聖子の歌は単語の羅列が多くて、文章になっていない分わかりにくいものかもしれないけれど、歌というのは、限られた字数制限の中でイメージの表現をするものなのだから、もともとそういうものだと思う。なにも不思議ではない。理論的な文章のような表現をしていたら、歌としては、まどろっこしくて聴いてられない。文学的センスがないのに、こんな論文なんか書くなよと思った。 『青いさんご礁』とか、『白いパラソル』など、南国のリゾートにあこがれ、恋にあこがれる十代の女の子の日常の微細な感情がとても細やかに表現されている。これらの一連の松本隆と、松田聖子の歌を、ヒットして売れはしたけれど、内容的に意味がないと作者は言う。 けれど、私はそうは思わない。松田聖子が歌う、南国リゾートや、若い男女の恋を歌う日常。これらは、つまり、人間が求める究極のものなのではないのか。むずかしい仕事も、ビジネスも、技術開発も、政治も、戦争も、全ては、人が人として幸せに暮らせる世界、社会を作るためのものだ。ふつうの女の子や男の子が恋をして、結婚をして、子供を生んで、安心して暮らせる世界。それを目指して、政治も、経済も、技術研究も、戦争もあるのだ。 それなのに、戦争のために、会社のために、苦しいこと、辛いことを我慢しなければならないとしても、それでもやっぱり、最後は、松田聖子の歌う、明るくてハッピーな普通の人たちのフツウの平和な日常を目指しているのだ。 そのこと自体を忘れてしまうと、過労で死ぬまで働いたり、安い給料でこき使われた挙句、社員の給料を削ってできた、会社の利益が、資本家、経営者、株主のところにいってしまって、働いている労働者たちは苦しいままなのに、苦しくても働くこと自体が意義があるとか、そういう、どこかマゾヒスティックな感覚が自己満足をうんでしまいかねない。 アイドルポップスが出てくる前の演歌のような、ふられたつらさや、生活の苦しさや、うらみつらみを歌う歌の悲しさによって、どこかでそれを楽しんでいるような感覚。不幸で辛いのがいいことというような、自己陶酔の世界。 そんな感覚が当たり前になっていると、搾取され、こき使われ、愛人にされ、遊ぶだけあそんでふられても、その不幸によったまま、それにいたったまでの原因がなんなのか、追求しないまま、流されて、常習化しかねない。 アメリカのビジネスマンたちは、激烈なビジネス社会で働いて、お金をためた後、引退して、南国の島でのんびり暮らすのが夢なのだそうだ。それは、まさに松田聖子の歌の世界そのものだ。 めざしているのは、南国、楽園、快適で楽しい日常。普通の恋が普通にできる平和な社会。普通の生活こそが、パラダイスである世界。 松田聖子が日々、歌う歌によって、社会が何をめざしているのか、私たちは無意識に再確認してきたのではないか。だとしたら、松田聖子の歌に意味がないとは思えない。 忍耐と不幸の世界を歌う、演歌から、明るく楽しい日常を当たり前に送ることをめざす松田聖子の歌へ。アイドルポップス、Jポップスへ。社会の変化と一緒に、歌謡曲も変容していった。そういうことなんだと思う。 だから、松田聖子の歌に意味がないなんてことはない。 政治も経済もむずかしい仕事も勉強も研究も、重要で意義深くて大切なことだけど、だからって、それよりも、恋や結婚や娯楽が、それより下の劣るものなんてことは絶対ない。 めざしているのは、なんなのか。忘れないように、私たちはいまも、聖子ちゃんの歌を口ずさむ。頑張って働いたお金で南の国のリゾートに遊びに行く。 恋をする。結婚をする。子供を生んで、育てる。家族で仲良く暮らす。全てはそんな普通の日常のためにある。関連記事↓こっちも読んでね。『松田聖子と中森明菜』その1『松田聖子と中森明菜』その2『松田聖子と中森明菜』その4
2008年05月24日
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その1からつづいてます。山口百恵は歌っていた。 「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ」と。 前半期の山口百恵の歌は、ハレンチなとんでる女の子として騒がれたけれど、その歌詞を良く見れば、男の望みに応える、男にとっての都合のいい女だ。 「あなたが望むなら、私はなんでもオーケーよ。」なんて冗談じゃない。 そして、そののち、「ばかにしないでよ、女の子のことなんだと思ってるの。私は男にとって都合のいい女なんかじゃない。」と歌い始める。 私生児だった彼女。彼女の母は、妻子があって、別れる気もないくせに、山口百恵の母親といい仲になって子供を産ませて、それでも、私生児のままほっといて、けれど、母親との関係は続けた。そんな自分勝手な男と結局別れられず、ずっと男にとっての都合のいい女であった母親。母の不幸は、そういう自主性のなさ、自己主張のなさ、責任感、道徳観のなさにあったのかもしれない。 男にとって、他人にとっての都合のいい、いい子ちゃんの素直でかわいい女のままでは、幸せにはなれない。 時代は変わり始めていた。もはや、男のいうこと、大人のいうことを素直に聞いて、自分ではなんにも考えないような女の子がのぞまれる時代ではなくなっている。 デビュー当時の二人、松田聖子も中山圭子も、顔は十人前で普通だし、やぼったくてあかぬけてないし、スタイルも大してよくない。歌は二人ともそれぞれにうまいし、所属事務所も時期も同じ。化粧品近辺の洗剤系の商品とのタイアップ効果によるデビューというスタイルもにている。それほど変わらない二人のどこが運命を分けたのだろう。 デビューにさいして、父親と事務所がかわした契約によって守られていた中山圭子と、父親に反対されても一人でも東京にでてきた松田聖子とは、みごとなくらい対称的に違う。 暗い人生を背負ってツッパリ系のしっかりした女性という山口百恵とは、まったく正反対のキャラクターであることで松田聖子は売れたと、この本には書いてあるけれど、山口百恵も、松田聖子も、「自分の意志で自分の人生を選びとる女」という部分は同じなのだ。自分で自分の人生を選ぶ女を松田聖子はそのまま山口百恵から踏襲して、「ポスト山口百恵」として、そのあとの芸能界のトップアイドルという立ち居地を引き継いだのだと思う。 時代の価値観がアイドルを作ったのだろうか。それとも、アイドルたちの生き方が、時代の価値観を作ったのだろうか。 こののち、松田聖子は、男の子の望みに応える女の子ではなく、男の子に対して、女の子である自分の要求をあれこれと要求する歌を歌い続けていくのだ。 たとえば、電車に乗って海に行きたいとか、海辺のコテージで待っててとか、自分の気持ちにきずかない男の子はさっさとふって、もっと積極的な男の子を見つけたり、選ばれるのではなくて、自分で男性を選ぶ女の子なのだ。 やりたい放題の松田聖子の生き方がいっそ爽快で気持ちよくて、楽しい。女の子ってホントウはこんなにわがままなものなんだ。 えーつと。この本はまだ読んでる最中で、まだ読了してませんが、なかなかおもしろいです。この本を読んで、ネット上の動画を見直してみたり、いろいろと考えたりして書いたのが今回の記事です。ほかにも、明菜ちゃんのこととか、いろいろ書いてあって、ネタはいろいろありそうです。関連記事↓『松田聖子と中森明菜』その1『松田聖子と中森明菜』その3『松田聖子と中森明菜』その4
2008年05月16日
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ちょっと面白い本を見つけた。趣味が読書という割には、めんどくさい文学作品なんかはちっとも読まないでもこのての新書版ばかり買ってしまいます。 1980年当時、もっとも売れたアイドル歌手二人。当時は『ベストテン』を知らない人、見てない人というのは、いなかったんじゃないかというくらい有名な音楽番組で、いつもかならずでてきたこの二人。この二人が見たくて、この番組を見ていたのじゃないかと思う。 山口百恵のデビュー、引退から始まって、松田聖子、中森明菜のデビューとアイドル史が続く。思わず、「ユーチューブ」で、昔の画像を探して見まくってしまった。当時の「ベストテン」や、゜夜のヒットスタジオ」で歌うこの二人の動画が、あるわあるわ、見放題。便利な時代になったものですね。当時、出始めたばかりのビデオデッキでせっせとアイドルのでる番組を録画していた人はたくさんいたんでしょうねえ。 で、この動画をみていたら、横で見ていた娘が「すごいふるくさーい。ださーい。なにこれ。ありえなーい。」と言った。今の子達はすでにもう音楽番組なんか見ないのですね。それとうちの子たちは、音楽を聴くなんてこともほとんどやらないし。彼女たちにはもうこんなのはふるいんですね。 しかし、昔、「昭和のなつかしのメロディ」なんて番組を年寄りや大人が見ていたのをげげげげーって思って見ていたのに、すでに、松田聖子も「なつメロ」で、若い子からみれば、古臭くてダサくて、私ももう「昭和のなつメロ」を懐かしがって見る年になっちゃったのでしょうか。 でも、松田聖子、かわいいですね。歌もうまい。声がすごくかわいい。そして、明るい。アイドルとしては、天才だったのですね。どんなこった歌を作っても、さらっと歌いこなしてしまう。明るくかわいく歌ってしまう。 そのあと、山口百恵の動画も見てみたら、ものすごく大人っぽい。当時二十歳くらいなのに、すでに40歳くらいと言われても信じてしまいそうです。ものすごく大人っぽくて、存在感がある。「プレイバックパートツー」なんか、どすが利いてて怖いくらい。こんなにどすのきいた声だしてたのに、百恵チャーンなんて呼ばれていのたのですね。このあとで、あの松田聖子を見たら、「ブリッコ」に見えるはずです。 ところで、当時、松田聖子のいた事務所には、もう一人アイドルとしてデビューする予定だった『中山圭子』という子がいたのだそうです。私は始めて聞きました。昔音楽番組をいろいろ見ていても、こんな子を見た記憶はない。もしかして見ていたかもしれないとしても、まるで記憶に残らないほど印象もインパクトもなかったのかもしれません。 当時、中山圭子はすごく期待されていて、大型新人として、売り出される予定だったそうです。しかも、親との契約で、彼女のデビューのために、その事務所からはそのあと二年間他の歌手はいっさいデビューさせないことになっていたとか。その事務所に松田聖子が、入ってしまったのです。そのままでは、松田聖子がデビューできるのは、かなりあと。のはずだった。 ところが、外国から輸入して発売する予定だったシャンプーの成分の中に日本では許可されていないものが入っていることがわかって、発売予定がとまり、そのシャンプーの宣伝とタイアップしてデビューするはずだった中山圭子はデビューできなくなってしまった。のだそうです。 やむをえず、サンミュージックと、ソニーでは、もう一人用意していた新人松田聖子を急遽デビューさせることにした。しかも、資生堂の洗顔剤の新製品のCMソングを歌う形で。 この洗顔剤「エクボ」というのは、当時かなり画期的な商品で、それまでは、固形石鹸を泡立てて使うしかなかっのに、このエクボはクリーム状になっていて、すごく使いがってのいいものでした。私も買いましたが、洗顔といえば、洗顔フォームを使うのが当たり前になったのは、これ以降なのですね。商品自体がすごくいいもので売れたので、その宣伝効果はたいしたものだったはず。コマーシャルでは顔をだせず、歌だけだったとしても、資生堂という超有名企業の新製品のコマーシャルで歌をだせるというのは、かなりいい戦略で、この時事務所のスタッフは、そうとう頭を使い、技をつかい、力を使ったはずです。 本の記事やネット上の記事を読んでいると、中山圭子はすごい不運だった。松田聖子は、たまたまめぐってきた幸運によってデビューできた。というようにみえます。 しかし、本当にそうでしょうか。デビュー直前になって発売禁止なんて話が出来すぎている。 動画でたった一つだけ、『中山圭子』のものを見つけ出すことが出来ました。見てみると、たしかに声はすごくいいんだけど、とにかく、全然かわいくないし、太目だし、すごく野暮ったい。それは、今見るからそう見えるのか、当時見てもそう見えるのか。 いったいどうしてこんなにぜんぜんかわいくなくて、野暮ったい子を大型新人なんていって売り出そうとしたのか。私にはまるでわからない。ただ、見ていると、なんとなく、山口百恵ににている。それも、「ヨコスカストーリー」などのツッパリ系の歌を歌いだす前の素直でおとなしそうで、いい子を演じていた頃の百恵ちゃんに。 つまり、おじさんたちのいうことをスナオに逆らわずに聞くおじさんたちにとってのいい子ちゃん路線なのだ。 私が昔いろんなアイドルを見ていて思ったのは、かわいいアイドルたちがどの子もみんなおじさん視点でのかわいさだなということだった。芸能プロダクションのおじさんたちにとってのかわいい女の子なのだ。 実際のほんものの女の子だった私からみると、ちっょと違和感があった。でも、当時のアイドルはみんなそんな子ばかりで、他に選択肢はなかったから、男の子たちもそんないい子ちゃんのアイドルのファンになるしかなかった。 そのあと、「ミスマガジンコンテスト」で、出てきた、南野洋子や、斉藤由紀は、違う。ほんものの若い男の子が好きそうな女の子だと思う。「ミスマガジンコンテスト」は、たしか、漫画雑誌『少年マガジン』の誌上で、応募された女の子の写真の中から、読者であるナマの若い男の子たちが選んだホントに「若い男の子の好みで選ばれた女の子」なのだ。 だから、当時のアイドルと、ファン層の男の子たちの実際の好み、には実は微妙にずれがあるのだ。 そんななかで、「ばかにしないでよ」と、自分の自身の本音、おじさんとか、大人とかの都合のいい女なんかじゃないわと自己主張をし始めてしまった山口百恵の、その以前のまだおじさんたちの言うことをきくよい子だった「山口百恵ににている少女」として「中山圭子」は選ばれたのではないかと思う。 ところが、やはりソニーの感性はすごい。中山圭子ではなく松田聖子の方がこれからの時代には売れると読んだのは、たぶん、「ソニー」かまたは、「サンミュージック」の中にいたスタッフの誰かなのではないかと私は思うのだ。 そのために、松田聖子を売り出すための画策が内部で起きたのではないかと思う。 表立っては、タイアップするシャンプーがだめになり、その担当者が責任を感じて、中山圭子をデビューさせるのが無理なったから。ということになっている。けれど、その程度の理由で駄目になるとは思えない。ソニーほどの力があれば、そのきになればナンとでもなったはずだ。二人のアイドルを同時にだすことができなかったのは、中山圭子側との契約がしばりになっていたからだ。だとすれば、中山圭子のデビュー自体を無しにするしかない。 そのための裏工作があったとしても、不思議ではないと思う。 実際、中山圭子は、このあとデビューしたのだが、結局大して売れなかった。私も知らない。 自分のかわりに松田聖子がデビューすることになったことに対して、中山圭子が「他人の不幸を犠牲にしてまで自分のことを優先したくない」というあまりにもいい子すぎる言葉があったとかなかったとか。出来すぎな話だ。 馬の目をぬくような芸能界でそんないい子ちゃんでやっていけるはずがない。 かくして、中山圭子のかわりに松田聖子がデビューした。驚くほどのヒットを飛ばし続けた。それまでの、おじさんや大人の言うことを聞くいい子ちゃんとは対照的に、松田聖子は、わざと、戦略的に、おじさんたちの要求する「かわいい女の子」を過剰なほどに演じて見せた。それがあまりにも、過剰で演技も下手だったために、同性から「ブリッコ」と、いわれるほどに。 けれど、松田聖子のしたたかな強さは、素直でかわいい女の子を演じつつ、実際には、自分の望むヘアスタイルやファッションにこだわり、自己主張をし、他人の要求する女の子ではなく、女の子自身が望む自分のための人生を演じ、歌っていて、そしてそののち彼女自身もまた、、同性たちの羨望を集めるほどに鮮やかにそれを実現していく。 デビュー当時の松田聖子は、ぼーっとしたまのぬけた馬鹿そうな顔をしていた。そのやぼったさは、中山圭子とそれほど変わらなかったかもしれない。けれど、父親の反対を押し切ってデビューのために一人で東京に出てきたその強さをしめすエピソードを聞いた時私は、松田聖子に対しての認識を変えた。 その2につづきます。関連記事↓『松田聖子と中森明菜』その2『松田聖子と中森明菜』その3『松田聖子と中森明菜』その4
2008年05月16日
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副題 -巨大掲示板管理人のインターネット裏入門-かの有名な巨大掲示板2チャンネルの管理人、西村博之氏の本。彼へのインタビューをそのまま文章にしてあるので、彼自身の文章ではないけれど、その人となりや、彼の考えるネット世界観がわかって面白い。世間ですごい評価されているユーチューブやクリスピークリームドーナッツなんかをたいしたことないと、一刀は両断にばっさばっさきり捨ててある。 彼自身はいまの学歴主義の世界とはぜんぜん別のところにいきている感じがする。都立高校からアメリカの大学をでて、自分であの掲示板をつくりだし、その管理を続けている。あれだけで彼は飯を食っているのかどうかがよくわからないんだけど、そのあたりの彼の経済収支なんかも知りたいなーと思う。 学歴社会に生きていないから、日本の近代史なんかもあまり知らないらしい。自分で掲示板をつくりだしたり、それを運営したり、そこから発生する裁判なんかも、一人でこなしているらしいし、行動力もあり、頭も切れるし、もし彼が、受験勉強特有の暗記や演習を無視して、受験がらみで身につくはずの高校生から大学に向かう知識をきちんと吸収したら、また、もう少し物事への考え方や、現代日本の状況への認識、価値観が変わってきておもしろかったのじゃないかと思うので、そのあたりがちょっとおしい。 2チャンネルがつぶれないのは、たとえ、2ちゃんがなくなったとしても、同じような場は、今の社会、ネット社会の中でかならず必要なものだから、なくなっても別の形で、出てくるはずで、もしそれが、外国人が作った場合は、結構こわい。現在は2チャンがらみでおきた事件や書き込みに関しては、その情報を彼が国に提出しているけれど、もし、2ちゃんがつぶれて日本人以外がそれをつくりだしたら、国が困るはずだから。というわけで、2ちゃんはつぶれちゃいけないのだそうだ。 でも、今現在、著作権の発生するいろんな動画なんかが、ユーチューブでは、見られなくなってるけど、韓国あたりのサイトで見られるようになっている。それと同じように、2ちゃんが存在したまま、外国の掲示板に国内だと具合の悪いことなんかが書き込まれていくようになる可能性はあるかも。でも、韓国のパンドーラテレビって、日本のドラマとかみられるけど、それ以外の画面の文字はみーんな韓国語なのよね。読めない。だから、外国のサイトだけど、日本語の書き込みができるような掲示板なんてのもいずれできちゃうかも。もしかして、もうあるのかな。 そのほか、ミクシィのこととか、梅田望夫さんのこととか、いろいろ。 これを読んで初めて彼が作ったという『ニコニコ動画』のことを知った。これはようするに、動画の画面にそのまま書き込みの文章がでてくるやつで、ちょっとみてみたら、なかなかおもしろかった。 彼がネットでやっていることは、つまり、ネットを通してのコミュニケーションのとれる場を作ることなんだと思う。ただ、見て楽しむだけじゃなくて、見る側が参加して、自分の意見も他人の意見も表現される。自分とは違う言葉。自分が思っていたことそのままの言葉。それを見つける楽しさかな。動画までが書き込みの場になっちゃうとは思わなかった。
2008年04月24日
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東野圭吾がいいというので読んでみました。私、基本的には、ミステリーってあんまり好きじゃないんですよ。読んでる間はずーっと謎にひきずられて、いらいらはらはらしながら読むんだけど、最後になっていざネタばれされてみると、なにこれ、こんなので今までずっとハラハラさせられてたのかなと思って腹立つんですよね。で、これだけ、ひきづられて読んだのに、得るものが何にもなかったりして、なんか時間の無駄だったなあと。 先日読んだ東野圭吾の『バラレルワールド・ラブ・ストーリー』も、やっぱり、それに近かったですね。唯一、ミステリでありながら、得るもののあったミステリというと、有名な『砂の器』ですね。昭和の時代背景をバックにライ症候群の親子の不幸が描かれていた、名作ですね。 理系の作家というのは、文系の作家のようなまわりくどい比喩表現をあんまりしないので、結構スッキリしていて読みやすいので、私は理系の人の書く文章は好きです。東野圭吾も、すごく読みやすいですね。どの本もみんな分厚いけれど、たぶん、どれも、わりとさくっと読めてしまうのでしょう。 以下ネタバレしますが。 それで、この『白夜行』。非常に分厚かったけど、読みやすかったし、ひっばられたし、面白かったです。最後まで読んで、いつものイライラムカツキを感じなかったのは、結局最後まで、質屋殺しの犯人が明言されなかったから。この物語は、いろんな事件が次々と描かれていて、読んでいれば、大体の犯人は想像できるようになっているのですが、物語の最大のポイントである質屋殺し事件の真実だけは、ほのめかしだけで、はっきりと描かれることはなかった。 で、だいたい、読んでいくと、数々の事件が二人の主人公、桐原亮司と、唐沢雪穂によって行われているだろう事は大概の人は察しがつくだろうと思います。というより、はっきり書いていないので、読者はそれが自分の推理であり、そして、その推理はほぼ当たっているだろうと思いながら、自分の推理が最後に明かされるであろうと半ば期待しつつ、読んでいく訳です。でも、結局最後まで事件のホントウの真相は明かされずに終ってしまう。 うまいですね。東野圭吾。事実を書かずになおかつ事実が分かるように書くことで、読者が推理できる推理小説を書いてあるわけです。ものすごく精緻に組まれたトリックなので、ものすごくむずかしい推理小説であるように思わせながら、実はすごく分かりやすい展開によって、自分たちが既にきずいている事件の真相に、物語にでてくる刑事や探偵がいつまでもきずかず、事件の謎にたどり着かないことに、読者に半ば優越感に近いような快感をあたえつつ、最後までひっぱっていってしまうのです。 視聴者が犯人を知っていて、コロンボがどう事件を解決していくかを見せる『刑事コロンボ』は、物語の最初に事件をはっきり見せてしまっていますが、『白夜行』では、どの事件も絶対事件自体は読者に見せない。でも、事件の真相が読者に分かるようにちゃんと書いてあるのです。でも、話が複雑だから、むずかしそうに見えてしまう。 アガサ・クリスティとか、今まで私が読んだ推理小説やミステリでは、最後に探偵が出てきて、読者が全く知らない情報を知らないうちに探偵が調べていたりして、その結果として、事件が解決する。それってないんじゃない。馬鹿にしてると思わされるんだけど、この『白夜行』においては、すべての情報は読者に与えられています。にもかかわらず、肝心の質屋事件の犯人だけは、最後まで語られない。 ドラマ化されてるんですね。亮治役は山田 孝之、雪穂役は、綾瀬はるか。 ドラマでは、犯人は、亮治です。小説を読んでいても、たぶん亮治だろうなという感じです。 でも、本当にそうでしょうか。この小説は最後まで結局真実がわからないことで、いろいろと分からない部分を多くの人が推理したようですが、たしかにいろいろと自分なりの解釈ができそう。 たぶん、犯人は、亮治。でもね。それじゃちょっとつまらないかなとかも、思う。ていうより、亮治が父親を殺す心理がいまひとつ納得いかない。かなりショッキングな場面を見たとしても、あの状況で本当に父親を殺す心理にいたるとは、私には、思えない。だとすると、やっぱり、金で自分を買い陵辱する男に対しての殺意を抱くとしたら、雪穂の方がすんなり納得できる気がする。 そう考えれば、そのあとに、自分を男に売った母親を殺しても、不思議じゃない。そのあとの数々の事件も雪穂にとって都合の悪い人間が殺されたり、ひどい目に会わされたりしているのだし。 雪穂と亮治。二人の不幸な人間が平行して物語の中を歩いているように見える。二人の立場はフィフティに思える。けれど、本当にそうだろうか。雪穂が富裕な家にもらわれて、お金持ちの男と結婚し、ビジネスの成功をおさめる影で、亮治はきまった家もなく、恋人も家族も妻ももてず、定職につくこともない。そして、数々の事件はすべて亮治によって実行されているのだ。 亮治は雪穂に惚れていて、質屋事件でも、雪穂が犯人にならないための工作を手伝い、それ以降の事件でも、雪穂のために動いているのではないか。 亮治は、どうしても、性交渉の時に最後までいけない。なぜだろう。質屋事件のことが彼のトラウマになっているせいだろうと読者は想像する。でもね。十歳の亮治は同い年の十歳の少女雪穂に恋をした。普通の幼い恋に見える。けれど実は、彼もまた、父親と同じロリコンで、少女にしか、性的欲望を感じない体質であったとしたら? 大人の女性相手には出来ない。だから、少女の雪穂には、惚れている。でも、雪穂もいずれ、大人になってしまって、けれど、やっぱり、少女雪穂の面影に惚れたまま、亮治は雪穂からの依頼を断れない。雪穂のために影武者となって、雪穂の成功のために数々の事件、殺人を繰り返していく。雪穂のビジネスの成功のために自らの才能のすべてを使って、彼女に奉仕する。 ラストで、亮治が死んだ時、彼に助けれられて生きていた雪穂はこの先どうするのだろうと、思った。けれど、もし、読者の想像とは別に、雪穂が亮治を所詮使っているだけだとしたら、彼女はこのあとも数々の男を餌食にしていく、やはり魔性の女なのだろうか。 雪穂にかかわる数々の人間が見事なほどに不幸になっていく。 亮治もまたその一人に過ぎない。のかもしれない。平行して二人で歩いているように見える二人だけど、実は亮治もまた、雪穂によって不幸になってしまった男にしか過ぎないのかもしれない。もし、彼が雪穂に出会わなかったら。 そして、雪穂がおこした事件にとらわれてその生涯をついやしてしまう笹垣も。また。 ちなみに亮治は私のイメージでは、細面の顔、切れ長の目、ロンゲの茶髪。とても、冷徹でシビアな男だ。そして、人物的には、2チャンネル管理人のヒロユキくんだったりした。彼はこんなに冷たい人間じゃないとは思うけどね。亮治はものすごく頭いいし、商才も才覚もあるし。普通に成長して、商売始めていたら、大成してたかもしれないのになあと思う。 雪穂を怒らせたり、事件を暴こうとすると、かならず、殺されたり、とんでもない目に合わされる。ものすごく怖い女性だ。彼女がこんな風になったきっかけとして、母親によって体を売らされたからなのか。それとも、それだけじゃなくて、天性のものを持っていたのだろうか。これだけの不幸を味わって、そのまま身を持ち崩してぼろぼろの人生を送ってしまう女性の方が多い。その中で、その不幸を踏み台にしてのし上がっていくその強さはどこから生まれたのだろう。彼女もまた、非常に聡明で努力家で商才も才覚も持っているのだから。 そして、決して実際には物理的に会うはずのない二人がどうして、ラストシーンで同じ場所にいたのか。私にはありえないとしか思えないのに、刑事たちはどうして、ラストで亮治が来ると思ったのだろう。 決して同じ空間にいることのなかった二人がなぜラストで同じ場にいるのだろう。ラストの亮治の死もまた、そろそろ亮治を切りたいと考え始めた雪穂による策略だとしたら。そろそろ刑事たちにきずかれはじめている二人の関係。はじめて同じ場に二人がそろうであろうと刑事に予想させるような状況設定は、雪穂によって作られているとも読める。 亮治の死体の前で、こんな男は知らないと歩き去ってしまう雪穂。二人の関係がばれないようにわざと知らん振りをしていると想像してしまうが、本当にただの御用聞きとしてしか、亮治のことを考えていなかったとしたら、雪穂が冷たく立ち去ってしまうのは少しも不思議ではない。 ずいぶん冷たい人ですよねえ。でも、昭和から平成にかけての日本の経済の発展もまた、これと同じように多くの人々を切り捨て、まずい奴は、抹殺して、一部の人たちを犠牲にして、出来上がってきたものだとしたら、彼女の非情をいったいだれが責められるのだろう。バブルの地上げに泣かされた人。経費節減のための社員切捨てや解雇。税金を使い込む役人たち。会社のために必死に働き、才能のすべて、人生のすべてをつぎ込んできた社員を切り捨てていく日本の企業。営利中心主義の非モラルな企業によって泣かされた多くの人々がいたはずだ。雪穂の生き方は、日本の現代史そのものなのかもしれないじゃないか。会社の利益のために社員のことも、社員の家族のことも犠牲にすることを要求してなんら迷わない、日本の企業そのものじゃないのか。 19年という長い時間をかけて描かれる物語の中で、要所要所に描かれる時代描写がなぜなのだろうと思った。けれど、唐沢雪穂という女が日本経済というものであれば、国家権力の象徴である刑事の笹垣が、どうしても謎にいきつけずに、雪穂を捕まえることが出来ないのも無理はない。左遷されている篠塚に出世したのですねという陳腐にことを言う笹垣。国や役人というものはかくも国民や一人の人間に対して、無頓着であるものか。白夜にいる二人に読者は同情するけれど、私たちだってこんなに過酷で不正を正すことも容易に出来ない白夜のような社会の中にいるのではないのだろうか。一人ひとりの幸せが大切にされる社会にならなければ、日の当たる暖かいすみ易い国にはならない。 理系作家である東野圭吾がただの人情ものとしての物語を描いているはずがない。 そしてまた、女を土台にして男に都合よく作られた日本社会の中でなお、けがされても汚れることなく、気高く気丈にたくましく生きていく雪穂という女を表すように、ラストシーンで雪穂は、真っ白のスーツを着て歩いていく。
2008年04月11日
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「○ッセイのおばちゃん~今日もまた~笑顔をはこーんで~~~♪」 という歌は結構知っている人多いと思う。かつては生命保険というと女性の勧誘員によって契約するものだった。会社の出入りの生命保険のおばちゃんととか、ばあいによっては、子育てに一段落した主婦が、生命保険をはじめて、また最初だからぜひ入ってと、人脈だよりに、親戚や友達に勧誘していたものだ。しかし、それらの人たちはひととおり知り合いへの勧誘が終ると、それ以上の人たちになんのコネもなく、しらない人に生命保険を勧誘するほどの力などあるわけもなく、そのうち人脈で入ってくれたひとでも、保険料の支払いが滞れば、勧誘した本人が自腹で払うしかなく、ほどなく、どうにもならなくなってやめていく。かんゆうにさいしては、もちろん納得のいく詳しい説明なんてものもされない。なにがどうなっているのかもわからないまま、なあなあのながれのまま、生命保険に入っていた人がほとんどなのではないだろうか。 ところが、ここ数年。テレビでの保険コマーシャルが異様に増えたことにきずいている人は多いだろう。バブルあたりから、理系出身者が文系の職場である、金融関係の会社に就職し始めたからのようだ。 それまで、人脈や人情や接待が押しの一手で売り込んでいた金融商品を理系出身の社員たちがきちんと理詰めで顧客に説明して、金融商品を販売する。理系の能力を使い、ただしく、理論を使い、きちんともうかる金融商品を作り始めてからのようなのだ。 だから、最近は、保険勧誘員を使った保険販売ではなく、きちんとした商品をきちんと説明して販売するという方向に、変わり始めているらしいのだ。 テレビコマーシャルの保険は電話でという時代の変化がどんな意味をもつのか。この本を読んで改めて理解できて感じだ。なるほどーーーーー。 保険だけでなく、株や銀行にも理系出身の人材が流れた。かつて、理系学部をでたら、大学に残って博士になるか、メーカーにはいって商品開発のための研究をする。そんなコースを選ぶはずだった理系の学生たちが、バブルの時期、文系の会社の給与のよさにひかれて、人生の方向を変え始めたのだ。 その結果、成功したものもいるし、逆に文系の世界があわなくて、結局理系の世界に戻ったものもいるし。一時期、新卒の社員が三ヶ月から三年以内に会社を辞めてしまうと騒がれたけれど、もしかすると、こういった理系出身者のせいかもしれない。かれらは、文系の会社は辞めたけれど、もともとの理系の知識で自分たちにあう職場や大学の研究室に戻った行ったようだ。 一方で、文系社会に入り込み成功したものもいる。かれらはその数学的センスを駆使して、理にかなった商品やよいものをつくったり、売り始めたりしているらしい。それまでの、人脈や接待による営業ではなく、本当に商品を説明することで営業活動をするといったことで、文系の会社社会を変え始めているようなのだ。 これからは、いらない残業や、くだらないゴルフ接待、料亭接待がなくなって、本当にいい商品が世の中に出回ってくるのだろうか。そうだといいなあとわたしは思う。 だって、ゴルフ接待や、料亭接待にかかったお金って回りまわってわたしたち消費者が負担しているわけだし。しかも、そういう売り方で売られている商品て。いいものを作るっていうことから離れてるでしょ。本当に売るためには、いいものを作ることが一番大事なのに。 ゴルフ接待がなくなれば、男の人たちは家庭に戻って、チャンと子育てをてつだってくれるのかな。そうだといいですね。
2008年01月30日
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女流作家佐藤愛子の実体験がえんえん書かれている。北海道に夏の別荘を建てたところからはじまって、その山荘でのオカルト、心霊体験。それはやがて東京の彼女の自宅にまでおよび、実に30年近い歳月の戦いの記録。 それらの霊を払うために佐藤愛子は数々の霊能力者にたのむのだが、ドレもこれもみんな失敗におわり、最期にやっと解決のめどがつく。 いやあそれにしてもね。こんなにたくさんの人たちがいろいろとお祓いをやってくれたのに、どれもこれも失敗していてね。いろんな霊払いの儀式があって霊能者から、大学の先生まで、実に最もにやってくれるんだけど、失敗に終る。つまりかれらは、実際には、確証なしに、やってるんですね。ものすごい仰々しい儀式や、いろんな料理、供物など、そのルールを細かく指示して教えてくれる割には、結局失敗してるってことは、かれらにすれば、確証ないけど、とりあえずやってるわけで。ほとんどの霊払いは、そんなものなんですねえ。ほとんどはいんちきに近いともいえるし。もちろん、作者の佐藤さんはいんちきだなんて、書いてないし、いろんな人に手伝ってもらって、感謝してるけど。 ああいうのって、大概は、よくわからないままやってる人のほうが多いのですかね。それを佐藤愛子さんは、霊能者にも見える範囲があって、能力にも上のもの下のものなどいろいろといるという書き方で説明されているのですが。見えるだけの人。払うことの出来る人。低レベルの霊だけ払える人。もちろん、高レベルの力の強い霊を祓えるような能力のある人なんてそんなにいっぱいいるわけないでしょうし。 霊がいるかどうか、霊の存在を信じるかどうか。この手の話には、必ず出てくるテーマですが、わたしは、とにかくみたことないので、わかりません。 それにしても、オカルトとか、心霊の描写って、怖く書かなければ、こわくないんですね。ぜんぜん。佐藤愛子の心霊体験の書いてある本だっていうんで最初はどきどきはらはらしながら、読み始めたんだけど。 あまりにも、当然のようにしかも、具体的に理路整然と書いてあると、怖くないんですね。心霊体験の話でも。 オカルトやホラーなんかの映画はあれは、怖く感じるように作ってあるんだって言うけど、ほんとだね。 幽霊とかなんて怖いから、私は絶対見たくないし、経験したくないんだけど、もしかすると、霊能者の人たちは、普通の人が普通に他の人が見えるのと同じように普通に霊の姿が見えるだけなのかもしれないですねえ。 ところで、人というのは、いろいろとつらい思いやいろんな経験をしながら生きて、なんども生まれ変わって魂を磨いていくものなのだそうなのですが。その魂の修行の一環として、一度死んだ時その霊だけの状態で、生きている人の守護霊として、その人につくのも、修行のうちなんだそうです。 で、私個人的な感想としては、げげっと思ったんだけどねえ。 だって今現在の自分の人生生きるだけでも大変なのに、死んだ後もその意識が残ってたり、しかもそのあと、見ず知らずの他人の人生に付き合わなきゃいけないなんて、ちょっとしんどくない? しかもそれが自分のきらいなタイプのやつだったらどうするのよ。そんなやつとそいつが死ぬまで延々とつきあうんですか。しかも守護霊って霊だから、実際には後ろにくっついてるだけでなんにもできないし。 どうせ守護霊やるならイケメンのかっこいーひとがいいなあ。かわいい子とか。 でも守護霊って、ついてる人のトイレとか、ラブラブの時とかも横で見てるのかなあ。 それとも、それほどいつもべったりなわけじゃなくて、なんとなーくぼやーっとそばにいて肝心なときだけ、バシッとでてきて、そんなときだけ助けてあげられたりするんですか。 などと下世話なことばかり考えてる私。へへへ。 ところで、本の最後の方で、佐藤さんが、「人がこんなにすさんでしまったのは科学文明の進歩のせいなんじゃないか。だから、科学や技術の進歩なんていらない。不便でもいい」というけれど、私はそれは違うんじゃないかと思いますね。 昔から人間は戦争や戦や争いをつづけているし、今より昔の方がもっとずっと倫理や社会ルールはひどかったと思う。むかしは、泥棒なんて当たり前、江戸時代までは、当たり前のように刀をもっていて、人をきったり、女を強姦したり、なんてことが普通に横行していたわけで、今のように安心して街中をあるけるようになったのは、江戸自体以降なんじゃないのかな、人を殺せばきちんと殺人罪として裁かれるようになったのも最近。 科学技術が発達したおかげで多少の不作や凶作でも、とりあえず飢え死にすることもなくなってきたわけですからね。 人の世がすさんできたとしても、それは決して科学文明のせいだけじゃないと思う。それはもっとべっのところにも理由があると思う。そこまでもっと突き詰めて考えてほしいです。ただ、科学文明のシンポがわるいなんて結論の出し方は単純すぎる。 さて、佐藤愛子が心霊に悩まされたのは、山荘を作ったところにいたアイヌの霊と、彼女の祖先の霊などなどのいろいろな因縁が複雑に絡まっての結果なのだそうですが。 いや。あのね。自分の祖先が昔行ったいろいろなことが子孫に影響するとして。でも、それとは別に自分はいろんな人の生まれ変わりなわけで。もし、自分の祖先が、自分の生まれ変わる前の誰かを殺したり、いじめたりしてたとしたら。あるいはその逆に、自分の生まれ変わる前の人が自分の祖先を殺したり、いじめたりしてたとしたら。その場合どうなるの? よく映画なんかで、殺された人が相手にお前の子々孫々までのろってやるとか言うでしょ。 あれがほんとだとしたら。自分の祖先て言うのと、自分の生まれ変わる前の人たちは、自分とどちらも関係してるけど、ぜんぜん別な人たちなわけで。 その二つの経路のどこかでからまってたら、どうなっちゃうのでしょうねえ。 なんて下世話なことも考えてしまいました。
2007年10月12日
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今話題の一冊。ブックスランキング一位の本ですからね。 珍しい「男のダイエット本」だ。基本はレコーディングダイエット。自分が食べたものをノートまたはメモ帳にひたすら、書き記していくところから始まる。 それにしてもさすがに男性のダイエット本だ。まず、なぜやせなければならないかというところで、時代は今や学歴社会や、家柄主義社会、ブランド社会から、「見た目主義社会」へと変化しているから、という論理展開でとうとうと一章書いてある。実際ダイエットの途中で嫌になってくると、太っててなんで悪いのと考え始めるという心理的なわなを回避して持続するためには、最初にしっかりダイエットの必要性を論理的にはっきりさせておいた方がいいもんね。それって、勉強がいやになった子供が勉強なんて何の役に立つのとか言い出すのとよく似ている。人間嫌なことは必要ないと言い出すことで逃げようとするものだ。 最初はただ、食べたものを書くだけ。序盤では、ダイエットは楽しく、つらいなんてことはないと書いてあるんだけど、中盤以降では、結局はカロリー制限によるものになってくる。当たり前といえば当たり前なのだが。結局食事のカロリー制限をしない限りやせるわけはない。前半では運動も説教も要らないといいつつ、結局ダイエットが進んでくると、やはり運動はしたほうがいいとか、体が軽くなれば苦じゃなくなる、停滞期をのりこえるにはも必要となってくるということになってくる。 著者は100キロ以上の巨漢からのダイエットなので、一日1万カロリー以上の生活から最終的に一日1500カロリーにおさえるのだから、やせるのは当たり前。それでもそのあたりは結構壮絶そうだ。 普通の私たちは著者がダイエットをやめたその体重より少し多いくらいあたりから、もっと落としたいと考えているので、そして、普段だって著者のような膨大な量は食べていない。それでも、やせたいと思っているからむずかしいのだし。 なんといっても、いざやりだせば男性の体のほうが生物学的にやせやすく出来ているし。同じ量の食事を毎日一緒に食べていれば、女は太るし、男はやせるらしい。でも、街中のレストランは、男女に関係なく一人前を規定量で売っているし、主婦は家族優先の食事をつくっているのだから、自分のための食事設定はしずらい。こうどう 要は自分の内側から、自分の行動を認識して、自分の生活の何処に太る原因があるかを理解し、それを自分自身の意識として、改善し持続していけるかどうかなのだ。だからこその、レコーディングダイエット。 とりあえず私も、この本を読んで毎日の食事をノートに書き始めてみたりしてるのだった。 やせるかどうかは謎。
2007年10月10日
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『さおだけ屋はなぜ潰れないのか』も読みました。今回の『食い逃げされてもバイトは雇うな』も、読みました。今度の方がさくさく読める。著者の山田真哉さんは、一時間くらいで読めるようにって書いたらしい。前回の作品のそのライン上にあるものをそのままさらに書き進めている感じである。 主婦っていうのは、毎日の買い物でとにかく、節約を使命としているものである。一円でも、十円でも安く、食品を買う。そのこと自体は悪いことではない。しかし、こういうのは、ある意味でちょっとしたストレスがたまったりもするし、なんかの拍子にばばーって使っちゃいかねない。あるいは、日々節約しているのだからと、大物買いをするときなどにけっこう散財してしまうものである。 しかし、そういう大物買いのときにこそ節約すべしと、書かれていて、そりゃそうだなと思った。 だから、たまにかう高額商品、つまり、家電とか、旅行とか。ついつい、いいものとか、高めのものをたまのことだから、とか、普段つましくしてるんだからとか、そんな気分になって、買ってしまう。しかし、冷静に収支決算をすると、こんな時の大雑把な感覚と大物買いによっては、普段の節約よりはるかに巨額の散財をしてしまう場合も多い。 だから、わたしは、普段の節約より、大物買いをするときこそなるべく、ケチる。世界一の電化製品生産力を誇る日本の電化製品を買うのに、なにも高いお金をだして、最新式のものなんか買う意味なんかない。ぎりぎり使える最低ラインより少し上目のものを買って、家計を節約すべし。 大きなものを買うときこそ注意なのだ。 でもって感情で経済を考えてはいけないのだ。 ラーメンのくい逃げをされれば悔しい。でも、食い逃げされないための店番としてのバイトを雇うことを考える時、そのバイト代の方が食い逃げの損金より、高いとすれば、悔しくても、バイトを雇うのはやめて、食い逃げを見過ごすしかない。商売とはそういうものだ。 感情と商売というものは、一緒にしてはいけないらしい。 表面上みえる儲けと実際のもうけとは、かなーり違う。そのあたりを見抜くハウツーを教えてくれる。商売はしないけれど、家計を預かる立場として、主婦でも一度は読んどいても、損はないと思うよ。
2007年07月03日
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毎日ミナコさんのレビューを読んで面白そうなので、読んでみた。 現代小説は歴史的な背景とか、基礎知識とかをいっさい必要とせずに読めるし、今現在の自分の生活や気持ちがダイレクトに描かれているから読みやすいし、わかりやすい。けらけら笑えるようなコミカルで軽いノリだというので、読んで見たけれど、どうしてどうして、やっぱり小説は怖い。 普段無視して、ごまかしてる自分の心の暗部をこんな風に描き出されると、ギクッとする。文学ってのは、実際そういうものだけどさあ。 街中の普通の総合病院にある、ちょっとマイナーな扱いの神経科。やたらマイナーすぎて、めったに患者が来ないので、すこぶるすいてます。おかげで患者は後の人のことをきにせず、ゆっくりたっぷり自分の気持ちを医者に話せる。この医者というのが、実はこの病院のあととり息子のはずなのだが、変わり者のせいで、病院内での扱いはわるい。あきらかに、他の雇われているはずの医者からも、軽視されている。 しかし、そんなことは一向気にせず、ちょっと変わった治療と会話と個性の医者伊良部が、この話の読みどころか。 ちょっと、というか、かなり太目の神経科の医者伊良部。二重あごだって。俳優としては、最初に西田敏行をイメージした。しかし、描写ではもっと太っているので、もっと他のおでぶの男優かなあ。 物語は、五つのエピソード、五人の患者に分けられている。 どれも、それほど深刻な病気ではなく、いまどきよくある現代人ならだれもがちょっとした拍子にかかってしまいそうな、ビヨーキである。携帯依存症や、強迫神経症、運動依存症とか。 その患者たちがだれもみな、自分のコンプレックスを心のそこに沈めながら、表面上の愛想のよさや、笑顔をみせ、そして心とは裏腹に、他人を馬鹿にして、下に見ることで何とか自分を保とうとする。 道徳的にも、倫理的にも、良くないことと知っていながら、いつのまにか心にわくそんな感情と、心理が、実に見事に微細に描写されていて、読んでいて、笑えるというよりも、怖かった。ドキドキ。だって自分も普段やってるもの。おもいあたるもの。 普段、そんな心理や思考が沸きながら、その場でかき消したり、きずかないフリをしたりする、だれもがもつ他者への侮蔑。 普段はそれでとおりすぎてしまうそういった心の闇につかまり、はまり込み、抜け出せなくなっていく患者たちの足元にライトを当て、普通の医者なら、薬や説教だけで済まそうとする部分を自らの言動と行動で、患者たちにきずかせていく伊良部が面白い。 携帯依存症の少年にくだらない自分の日常のことをメールにして、送り続けることで、少年自身の行動が他者にどう感じられているかを実感させようとしたり、女優をめざす美人コンパニオンに同じように俳優志望を演じて、その行動が外側からいかに滑稽に見えるか、実践してみせる。 伊良部の治療にはすべて実践が伴う。 小説だからこそできるこんな方法は、たぶん現実にはもちろん出来ないんだろう。 自分が神経科的な疾患になったら、読んでみるといいのかもしれない。医者に行かずに直せるかもしれない。
2007年06月05日
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春はねー。多いですよね。自殺。 自殺って根性ないからって一般には思われています。でもね。そうじゃないんだって。病気みたいなもの。自分ではとめられないらしい。この本はあの有名なホラー映画『SAW』の解説レポートを書いた精神科の先生の書いた本です。シカゴでうつ病の研究をしてたらしいです。ブロガーにもうつの人意外といますよね。 自殺ってどうやら脳内のセロトニンが以上に減少した時におこるらしい。で、そうなるともう本人は死ぬことしか考えない。だから、周りが気づいてとめるしかない。のだそうです。 日本は世界でも有数の自殺大国なんだって。自慢できない。全然。 何でかって言うと、日本人の価値観の中には、切腹とか、武士道とか、生き恥をさらすくらいなら、死んでお詫びをとか、責任とって自殺とか、自分なんかいても迷惑だからいなくなりますとか、人に迷惑をかけないとか、そういう価値観が重要視されているから。外国とか、他宗教では、自殺は絶対禁止されているのに。なんだって。 根性がないとか、弱いとか、まじめとかいうことじゃなくて、どんなおおらかな人でも、人生の中で背負いきれないような苦しいこと、つらいこと、大変なことなんかがいくつも重なると、だんだんうつになってきて、その途中で本人には止められないような心理状態、精神状態になって自殺になってしまうらしいです。 だから私たちはうつについてよくまなんで自分の周りの人間がうつになっているようなら、助けてあげなくてはいけない。それが自殺を減らしていくのだそうです。 まして、家族に自殺された後の家族のつらさ。そのためにも、自殺をとめられるのは、身内、かぞく、妻、夫なんだそうで、そのためにもいろいろと勉強して、知っておいたこといろいろあるようです。 私も父や夫がごくごく軽いうつになって辛そうだったとき、うつのことを書いた本をかってきたりも借りてきたりして読んでもらいました。本を読んで知識を得ることでずいぶん気持ちが楽になるそうです。後は、家族が説教しないで、本人の話を聞いてあげること。そして、やはりなんといってもお医者さんに行くこと。薬をきちんと飲めばちゃんと直るのだそうです。 人生には、いろいろあるからねー。 かなりためになりました。
2007年04月22日
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あ、映画化するんだ。てことで家捜しした。たしか以前買ってほっぽらかしてあったはず。酒見賢一の中国ものは面白いんだよ。『しゃばけ』と同じ日本ファンタジーノベル大賞をとってそれをきっかけに小説家になった人なんだから。そうはいってもなかなか読み始めなかったこの本。映画化のおかげで火がついた。 本自体はうすーいんです。その気にさえなればあっという間に読み終われる。といいつつ、何日もかかった。 この小説のおかげで中国の隠れた存在、墨子が世界レベルで有名になったのはいいことかもしれません。というのはこの教団は戦争を否定することがその基本となる教えだからです。 大国が小国を攻め落として取り込んでいくことを否定しているわけですね。そういう小国を救うためにあらゆる戦術をを研究し、攻め落とされそうな城を守る。防衛を旨として、戦闘は仕掛けない。そういう趣旨で動いている集団なわけです。 普通人を殺せばそれは殺人。罪なこととして攻められる。それがひとたび戦争になった途端人を殺すことが褒め称えられ、奨励される。それっておかしくない?というのが墨子の言わんとするところで、ほんとにごもっとも。なんだよね。 だから大国に攻められている小国を助けよう。と、そのためにいろいろな戦闘方法を研究している集団なわけです。 で、開祖墨子のあと、その集団をひきついで三代目あたりになってくると、なんかちょっとちがうんじやないの。と考え始めます。たしかに戦争は良くないけど、こんな風に中国の中に大国小国が入り混じっていくつもあるから戦争になるわけでいっそ一つにまとめちゃって大きな一つの国にしてしまえば、こんな内輪もめのような戦争をえんえんと続けなくてもすむんじゃないのか。 そこでこの三代目のリーダーは、秦という国に目を付けます。秦の国を自分たち教団で後押しして、中国を一つにまとめてしまおうと。つまり天下統一ってやつですね。日本の戦国時代もこの天下統一を目指して戦国武将たちが戦ったように、中国もそれをやった方がいいわけです。でも、これって中国の戦国時代のほうが先。日本は真似しただけですけどね。 でも、この物語の主人公の革離は、そういうリーダー巨子の提案を拒否します。そして、巨子に逆らってたった一人で梁に向かうわけです。 小説では壮絶な戦いの末負けてしまいますが。これが漫画になると勝っちゃうのですね。で、そのあと今度は秦と戦うことになるんだけど。 つまりこの物語は戦争を否定するとともに、一つの国がまとまる上で内乱は必要なものなのじゃないのか。という問いかけでもあるわけです。 墨子教団は国内をまとめるためにあえて、今までの主義を翻して秦を助けて戦争の後押しをしていく。革離はいままでの教団の教えどおりに小国を守ることにこだわる。 いったいどっちが正しいのか。 微妙に難しいです。 ただ、戦争や殺人を否定しているはずの革離が、防衛のため人心をまとめ操作するために梁城の中の邑民に賞罰を与えるのです。そして、戦争に不参加だったり、卑劣なことをした梁国人を処刑したりしている。殺人を否定しているはずの墨子がやっぱり城を守る攻防戦のために仲間を殺しちゃうなんて言うのは、どうも矛盾している気がするんです。納得いかない感じ。他にも、仲間を城外で殺しておいて、敵の趙国にやられたと偽って梁の人たちの士気をあおったり。これって明らかに情報操作でしょう。せこい気がした。 しかも革離は部外者なのに、戦闘中は城内の全権を握っていて、明らかに独裁者なのです。独裁者っていい方にいけば確かにいいけど、悪い方にいけばやっぱ怖い。 結局負けたのも革離の独裁者としてのおごりというか、人の心を底辺まで読みきれなかったというところにあるように思えます。というのは、ラスト近くで(ここ反転)城の王子の梁適の寵姫を革離が殺してしまったために梁適に弓で撃ち抜かれて死んでしまった。そのために梁軍はなしくずしになって負けてしまったのです。 戦争否定や内乱の是非のほかに、やはりどんな切羽詰った時でも、人の心を軽んじてはいけないんだなということもまた、テーマの一つであるわけです。 それにしても、映画では趙軍は十万て言ってるけど、原作の小説も漫画も正しくは二万です。いくらなんでも十万てのは無理だと思う。やっぱり映画は宣伝効果を狙ってさばを読んでさもすごそうに宣伝するんですね。 今日の読書日記
2007年02月05日
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やっぱし山本周五郎はいいなあ。ほれぼれ。久しぶりに読んだんですけどね。もう、どれも良作ばっかり。藤沢周平みたいに無理やり手篭めになんてご都合主義な展開もないし。人情があって、情があって、愛があって、道徳観も倫理観もうそくさくなくて、ナーイス!あとのない仮名改版 でも特にこの中のよかったのが、『桑の木物語』でした。いままで読んだ山本周五郎のなかでいっちゃんよかった。 この話には人間のすべて、人生のすべて、がつまってると思います。でもって、子育ての基本とか、何が大事かとか、子育てのポイントとかも書いてあるし。人間てこうやってそだてるものなのかーというのがとーってもよくわかるんじゃないかと思います。とにかく含みがとても多い。 主人公裕二郎は武家の次男坊。生まれてすぐに船宿に養子に出されちゃう。そのおかげでものすごく元気でやんちゃでがき大将な子供ができあがります。裕二郎のおじいさんは藩でも要職につく人。藩主のあととりの育て役。この祖父の考えによって裕二郎はこんな風に育てられたんですね。 実のところ主人公の裕二郎は、この病弱な若殿を健康な人間に育てるために祖父が計画して、育てたように思えます。わざと船宿に預け、あまりしからずに野放図に育てさせたのも、学問よりは、体と健康を重視して、腕白坊主に仕上げて、やがて若殿を健康に育てるための計画だったと思えます。本来武家に生まれ、そのまま普通に育てれば普通に育ったかもしれない裕二郎を、あえて、あのように育てたということは、若殿を育てるための捨て駒であったのではないでしょうか。もしかしたら、船宿に預けても、予定通りに裕二郎は育たなかったかもしれない。そのまま、庶民としても、武士としても、半端なままの人間になってしまったかもしれない。それでも、将来の藩主のためにそんな育てられ方もされてしまう。やっぱり武家社会なんだなあ。 しかし、裕二郎と一緒に屋敷を抜け出して、浅草の町で幾度も遊び、庶民の暮らしを見てすごした若君は、裕二郎とは、違うものを見ていたのです。長じて、藩主となった彼は、裕二郎とともにみた庶民の暮らしぶりを参考にそののち、名君とまで呼ばれるようになります。 同じように遊んで同じものを見ても、やはり人によって見るもの、得るもの、興味の行くところは違う。ただのがき大将にしか過ぎない裕二郎と、藩主となることを覚悟している若殿では、視点が違うんですね。 若君にはもうひとり、勉強のできる学友がいたんですね。若殿は遊びもしたけど、やっぱり勉強もしたようですね。 若殿のおそばに最後まで残って小姓となったのが裕二郎と、秀才のと、のんびりやの。人間に必要な要素ってつまりこの三点なのでしょうか。 さて、長じて藩主となった正篤は、意外なことに裕二郎を退職させてしまいます。もっとも正篤と心を通わせていた、一番の部下であるはずの裕二郎にとっては晴天の霹靂。とうとう、彼は自分の故郷の船宿に戻ってしまい、おさななじみのおみつと結婚し、船宿をついでそこで一生を終えるのでした。正篤との接点がなくなった武家社会は裕二郎にとってはもう意味のない世界になってしまったようです。 ラストで、裕二郎は藩主正篤によびだされ、かつてともにすごした下屋敷で再会することが出来ます。そしてそこでなぜ自分が正篤から離されたのか知ることができます。 正篤は、自分がこれから藩政の改革をする上で必ずそばにいる裕二郎が他の藩士たちの恨みを買うことを予想したのです。裕二郎にそんなつらい立場に立たせたくなくて、涙を呑んで裕二郎を仕事払いしたのでした。正篤は二十代の若さですでに人の憎しみや嫉妬などの感情が本人ではなく、その少しずれた位置にいる人間に向かうことを知っていたのです。すごい。山本周五郎もそういう人間の心の機微を知っていたのですね。こういうことをはっきり小説の中で描写されるのを読んだのは初めてでした。すごいです。 この物語には、ずいぶんたくさんのことが詰め込まれているように思えます。 人は武士として窮屈で堅苦しい世界で生きるのと、庶民の中で、のびのびと生きるのとどちらがいいのでしょう。勉強も大事だけれど、人の心や庶民や普通の人たちの現実の暮らしを知ることの大切さも、リーダーとして人身を読むことの大切さも、人の一生が長さよりも、その濃度にあることも、人の幸せが出世することばかりではないことも、そのほかにもいろいろなことが書き込まれている濃いーお話でした。読書好き集まれ~
2007年01月17日
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しゃばけシリーズ第三弾です。読み終わりました。 この小説を読んでいて困るのは、とにかく、大福とか、饅頭とか和菓子が食べたくなってくることです。とにかく若だんなが自分の部屋に住むあやかしたちにやたらめったら和菓子を食べさせてあげる。友達の和菓子屋の店に和菓子を買いに行く。山盛りの大福。これを読んでいるとだんだんだんだん食べたくなってきて、スーパーに買い物に行った時につい買ってしまうんですね。買った後は家に置いとくと、私以外の家族が食べるからいいんだけど、でももちろん私も食べるからさあ。 小豆を煮るのってそんなに難しくないのに、どうしてあんなに作品中で和菓子屋の跡継ぎ息子は失敗してるんでしょうね。 大店の跡取り息子の若だんなはいつも過保護でお金の心配なんかしたことないのに、今回は、お金に困る話が出てきます。前回は、仁吉の過去のお話があったので、今回は佐助の生まれたところからの話。佐助のお父さんが弘法大師だなんて、しらんかった。あやかしって偉い人から生まれることもあるんだ。じゃ、佐助は悪とか、ダークサイドじゃないんですね。 でも佐助が経済的に苦しくなったお店のためにいろいろ苦労するお話。どきっとしましたが、実はタネありでした。これは、画像のない小説だから出来ることだけど。 次の作品はは、まだ文庫になってないから、読めないですねえ。 書評、レビュー
2007年01月16日
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映画『ダーク・ウォーター』を見たので、原作も読みました。でもこれは短編集になっていた。その一話目のお話が映画になっていたようです。でもって原作では、主人公は死なないし、テーマもちょっと違う。幽霊もちょっとしかでてこなかった。 原作で描かれているのは、都市の持つ恐怖なんだと思う。 幽霊に取り殺されるホラーではなく、都会の持つ得体の知れないものというか、都市ゆえにそれも日本の都市のもつ独特の恐怖なのかな。 映画『ダークウォーター』では母と娘の愛がメインになっていました。でも、原作では違う。 主人公は非常に感覚というか、触覚というか、感性というか、それがものすごく敏感なんですね。夫婦の性生活にすら嫌悪感しかわかないような、現代社会には意外に多い潔癖症の度合いのやたら高いタイプ。だから、夫の無神経にもがまんがならなかった。 そして、この感度の高さゆえに、マンションの屋上にある貯水槽のなかに死体があることにきづくわけです。都市に住むほかの人たちが二年たっても気づかなかった謎にきづくわけです。 そして、死体にきづいた途端、今まで自分が飲んでいた水、風呂に使っていた水、食器を洗ったりしていた水が、死体づけの水だったことにきづいた時、主人公は激しい嘔吐に襲われ、そしても動けなくなってしまう。 物語の中に出てくる幽霊の美津子は、それを主人公に気づかせるための道具立てに過ぎない。だから、これは幽霊話の怖さではない。 ま、敏感な主人公でなくても、わかったら、そりゃー気持ち悪いですよ。十分。昔、マンションの屋上の貯水タンクを調べたら、ねずみの死骸やいろいろなごみ、苔、の生えた非常に汚い水であることがわかったという驚愕のニュースを聞いたことがあります。それからは、法的に定期的にチェックするようになったのじゃないかと思うんですけど、やっぱりこの話のように管理のずさんなマンションはいまでもいっぱいあるでしょうねえ。そして、そのことにきづかないまま、無頓着に使っている人たちは多いはず。 そして、貯水タンクの水にかぎらず、今の都会、だけでなく、現代社会で生活しているということは、今自分たちが口にしているものが実のところなんなのかわからないという恐怖をこそ、この物語は書いてあるわけですよね。ちょっと前の某大手牛乳メーカーのタンクも細菌だらけだったことが発覚して、世間的に大ニュースになりましたよね。 普段の食品だって、いろんな添加物がはいってるわけでして、でも、自分でつくっているのでないかぎり、買ってきたものを食べて生活している限り、本当のわからないまま食べているわけですね。 ある程度はてづくりできるにしても、限度がありますから、もう無神経に無視するしかないかもしれないけどね。 でもこのヒロインがそこまで気づいてしまったら、もう、現代社会では生きていけないかもしれません。 この物語にかかれているのは、そういう恐怖です。 こないだだって餃子に残飯のようなものが入っていたことがわかって、その会社の社長は自殺しちゃったなんてニュースもあったし。今日本にでまわってる安い中国野菜だって、中国の汚染された景色や土壌の写真なんかみちゃったら、怖くて買えないんですけど。 で、こういうことをすごく気持ち悪い質感を感じさせる描写ですごく怖く描写してあるわけですよ。鈴木光司の小説は。 でも、『リング』も、『らせん』も読んだことないし、この本もまだ、一話目しか読んでないけどさ。 そして、それとともに、自分の不愉快、不快にはすごく敏感なのに、他人の不快、不愉快には意外と無頓着な現代の都会の人間たちの無神経振りをも、見事に描写し、指摘してある作品でもあるわけですね。 主人公は自分の不快感にしか意識がいってないし、主人公の夫もとっても無神経。 そういう現代社会の問題点と怖さが描かれているんですね。で、なぜか、これが映画になると、死体入りの水の気持ち悪さなんかはどっかいっちゃって、母と娘の愛の話とかになっちゃう。 原作のテーマを平気で無視している映画製作者側の無神経ぶりもなかなかすてきじゃあないか。はっはっは。 今日の読書日記
2007年01月07日
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『しゃばけ』シリーズ第二段。 今度は短編集ですが、一巻で出てきた登場人物たちのその後なんかもわかってすっきり。 相変わらず面白くて読みやすい。 私は子供に厳しくするのがどうにも苦手で、過保護じゃないけど、甘い親だと自分では思っている。だから、いいのかなあ、もっときびしくしっかりしつけるべきなんじゃと常日頃不安な思い。 でもやっぱり、厳しいことはできない。 しかし、この物語の主人公一太郎は、江戸時代の江戸で大店の跡取り息子でありながら、体がチョー弱いために、やたら、過保護に育てられている。二人も手代がつきっきりで面倒を見てもらい、お金に困ることもない。 それでも、一太郎はわがままで、傲慢で、いやなやつとは程遠い、心根の優しい、人情のある人物である。 わがままに育てたり、物を与えすぎたりしたら、ろくなやつに育たないというのが、子育ての常識として、通っているにもかかわらず、こんなやさしい一太郎のような人物が育つなら、私も子供は思いっきり甘やかして育てたい。その方が楽だもの。 子供がほしがるものをだめーっといウより、ほいほい与えて、子どものうれしそうな顔を見たほうが、楽しいし、うれしいし、楽だもん。 それにしても、どうしてこんなやさしい人物に育つのかなあと、いろいろ考えてみると、私としては、やっぱり、周りに彼を心配しいつもきにかけ、近くから、遠くから彼をいつも愛している沢山の人たちに囲まれているからなのかなあと思う。 なにか行動するとき、自分を大切に思う人がいたら、やっぱり馬鹿なことはできないし、悪いことはできないし、わがまま勝手はしずらいだろうし。 彼自身体が悪くてつらい思いをしているせいもあるでしょうね。 病人てわがままなものというのも、通り相場だけど、そうじゃない人もいっぱいいるからね。 そして、彼自身、自分がつまんない存在価値のない人間にはなりたくないと必死なわけだ。 あやかしの助けを借りているとはいえ、数々の江戸の事件を解決するその聡明さもまた、彼をただのわがままものにしない理由なのかなあ。 甘い甘いといいながら、結構二人の手代は、一太郎にきびしいきがする。だからかも。やっぱ厳しくないとだめか。厳しいというより、とにかくよくみてる。ともいえましょうか。 この二人の手代。実はあやかしなんだけど、CLAMPの『ツバサ/RESERVoir CHRoNiCLE』にでてくる、ファイと黒鋼のイメージで読んでるとキャラぴったりなのよ。ふふふふふ。 最近私は、星占いとか、性格占いとか、なんだかもうばかばかしくなってきて、どうでもいいやと思うようになってきた。若い頃は何にもわかんなくて不安で不安で、いろんなことを占いや、目に見えないなにかの力のせいだと思うことで自分の不安をごまかしていたのかもしれない。でも、そんなものを信じてみてもしょうがないし、めんどくさいし、かったるいし、それより、うまくいかない現実を正直に受け止めた方が話が早いと思うようになった。悪魔のせいでも、運のせいでもない。 でも、それは別に目に見えないものを否定するということじゃない。 あやかしの話は面白いけれど、もし、本当にあやかしが今私に見えてしまったら。それはもう、謎でも不思議でも、目に見えない不思議なちからでも、存在しない得体の知れないものでもなく、はっきり目に見える現実になってしまう。 あやかしが現実になったら、それはもう、あやかしじゃないような気がする。 だからやっぱり、あやかしは見えないほうがいいみたい。 不思議なものはわからないままの方がいい。 そうして物語の中だけで、不思議な力を見せてほしい。 『四布の布団』では、やたら声のでかい店主が出てくる。あんまり声がでかくて、怖くて、いつも怒鳴ってばかりいるから、奥さんも従業員もびくびくびくびくしている。 彼は彼なりに、店を抱え、がんばらなきゃと必死でがんばってきたわけで、それは決してわるいことじゃない。でも、自分ひとりでがんばりすぎて、きりきりしてるものだから、その被害をまわりに及ぼしているんだけど、彼はそのことに気づいてない。 がんばるのもいいけど、しんどいなら、周りに助けを求めたり、泣き言を言ったりしたほうがいい世という話みたい。 私の母がこのタイプです。他人なんてあてにならないといってがんばるのはいいけど、途中で息切れして、周りに迷惑かけてるのに、いくらいってもわかんないんだよねえ。 『空のビードロ』は、一太郎の腹違いの兄松之助の話。当時の江戸庶民の生活がいかにぎりぎりで、仕事を失えばいつ野垂れ死にしても不思議じゃない。そんな時代のぎりぎりの生活ぶりや、人の心の綾がかかれていて、そして、せつない。 この二人が表紙ってめずらしいのよ。
2006年12月22日
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あさのあつこの『バッテリー』が大好きで、そのせいで買ったあさのあつこの新作です。高校生の女の子のお話。舞台は底辺校。主人公たちはあっけらカーンと日々を暮らしながら、卒業後に就職もおぼつかない自分たちの将来への不安を心のそこに沈めながら暮らしている。 こんな底辺校の授業にすらついていけず、勉強が大嫌いで、中退した女の子や、体が悪くて高校に入れたことすら奇跡だと親にちょー甘やかされている女の子。高校野球で天才と騒がれている兄の存在がこころに影を落とす男の子。 今ちゃんと勉強しないといかんのよとわが娘に悟らせるにはいいんじゃないかと思って娘に勧めたけど、娘はいやだといって読みません。こういう親のせこい計算に使われるために作者はこの本を書いたわけじゃないものね。 底辺校だろうと、進学校だろうと、高校時代なんてみんな不安で、将来どうなるかわかんないのは同じ。高校で天才野球少年なんて期待されたってプロになれない方が多いだろうし。 高校生と中学生の子供をもつ母として読みましたけどね。 私が高校の頃はここまで世の中景気悪くなかったしなあ。低羽化、私が高校の頃なんて就職のことなんて考えもしなかったしな。彼らの方がよっぽどしっかりしてるかも。 どんな学校でても、就職のおぼつかない現在ですからね。不安がいっぱいの現実はどうしようもありません。 たいした事件もなく、いまどきの高校生の日常と高校生の本音がなにげなーくだけど、すごくうまく書いてあってさらっと読める本でした。 主人公の女子高生の気持ちの描写など、さすがにあさのあつこらしいするどい指摘。こういう本当の本音を実にうまく書いて見せるところがあさのあつこはすごいんだよねえ。 書評、レビュー
2006年12月20日
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終戦直後の東京裁判でただ一人、文官として、A級戦犯とされ、絞首刑台にのぼった元総理大臣、広田弘毅。 日本を愛し、戦争を嫌い、外交官としてその生涯を日本という国にささげた政治家の一生を、誠実に描いた名作伝記小説です。 日本のために働こうと思うなら、軍隊に入るよりも、外交官となって外国と平和交渉をすることを選んだ彼は、その後、その見識の高さと高潔な人がらゆえに、太平洋戦争真っ只中の熾烈な政界で、なんとか戦争を食い止めようと、請われるままに、総理大臣、外務大臣を歴任し、外交交渉に当たります。 しかし、時代の流れはこれほどの人物の熱意をもってしても、戦争をとどめることはできなかったようでした。 貧しい石屋の子に生まれたにもかかわらず、その優秀さゆえに帝大を卒業した広田は外交官になります。世界各地での任務をこなししていく中で、彼の努力とは裏腹に日本の陸軍は中国という国に戦争を仕掛けていくのです。 満州建国、北支事変、南京大虐殺。 いままで、知らなかった、近代日本の歴史をつくづく勉強することができました。 こんなひどいことをかつての日本は中国や朝鮮にたいしてやってたんですね。これじゃいまだにこの二国が日本に大して怒ってるの無理ないです。 読んでいると、いかにひどいことを当時の日本陸軍がやっていたのかとてもよくわかります。学校の授業では、時間不足も手伝って、あまり詳しくやらなかったので、ほとんどの人は知らないですね。きっと。たとえ、歴史の授業でやったとしても、いくつかの有名な事件の名称とその年を暗記して終わっちゃうもの。 つくづく現代人はもっと歴史の勉強すべきです。そして、古代、中世あたりばかり丁寧によりすぎ。明治までは、暗記とか試験無視してどんどん進めちゃえばいいのに。 話がそれました。 それで、当時の政府はどうしても、陸軍の専横をとめることができなかったのです。なぜかといえば、明治政府が作った法律のせいで、軍隊には、統帥権が与えられていたからです。国会でなにかを決めようとするたびに陸軍が邪魔をするのです。 戦争にならないように政府が必死の外交交渉を続けるにもかかわらず、それを片っ端から、チャラにしてどんどん戦争を仕掛けていったのが、当時の日本陸軍だったのです。 本当にひどい。これが、会議と選挙によって政治を行っているはずの民主主義の国とはいえないですね。当時は帝国主義だったっけ。 ただね、今の価値観で見ると、確かに陸軍が当時やっていたことはひどいことなんだけれども、当時の価値観でみれば、案外陸軍のやっていたことって、もしかすると、当時の近代国家としては、ふつうのこと。と、いえなくもない。だって、ヨーロッパ各国が世界中の国を植民地にして、豊かになったように、日本も満州に植民地を作って豊かになろうとしただけ。当時の満州はとても荒れた土地で、中国政府はあまり手をかけていなかったのです。けれど、その土地は狭い国土にすむ農耕民族である日本人の目でみれば、なんとも魅力的だったのではないでしょうか。 なにしろあのさむーい北海道すら、開拓していったのですから、満州という荒地だって日本人の手にかかれば、開拓していけるはず。実際、満州国建国の後、多くの日本人がやってきて、開拓していったようです。 日本は西洋を真似て植民地を作っただけ。 そして、さらに、日本建国以来長年の夢だった大陸への進出。かつての、はくすきのえの戦いとか、秀吉の朝鮮出兵、など、日本は長年、大陸を征服することにあこがれ続けてきたわけですから。 ただね。時間的にちょっとやるのが遅すぎた。すでに、地球という星の上の陣取り合戦は終盤になっていたようですから、もうそんなことやると、国際的倫理に反しちゃうんだよね。あと、百年早くやってたらねえ。もっともその頃は、江戸時代。日本は鎖国してますから。外国の侵入も日本が外国に出て行くことも大陸征服も、日本の政府みずから、ストップをかけちゃってたからねえ。 というわけで、日本の夢、陸軍の望みは世界レベルでは、却下されちゃったのですね。 でも広田弘毅が、もう少しそのあたりの陸軍の心情を読めるさばけた人間だったらどうだったかなと考えないでもないのです。 広田弘毅はとにかくまじめで、律儀な男でしたから。目の前の自分の価値観しか見てないというか。真面目すぎで、そうじゃない人間の気持ちが読めない。人間的には、すごくいい男なんだけどね。 外交官のときも、上司が勲章をもらって喜んでいる時に彼だけは、「おめでとう」の一言もいわず、だんまりを通して場をしらけさせ、上司の不興を買ってしまった。 外交官だから、接待や外交のためにいろいろと派手な遊びなどが必要なのが外交官なのですが、彼はそういうものが好きじゃなかった。そういううわっついたことがどうしても嫌いだった。 でもね。上司が喜んでると時にちょっと一言おめでとうくらい言えばいいのに。派手なことが嫌いなのは仕方ないとしても、そういう価値観はあくまで自分の中だけにして、他人にまでその価値観を強制している行為に私は思えました。頑固で融通利かないなあ。直情型っていうか。彼がもう少し融通のきくさばけた人間だったら、もう少し早く出世して、もしかして、彼の力で太平洋戦争を止められたんじゃないか。と、ちょっと考えちゃいました。 でも、時代の流れだしね。やっぱり太平洋戦争は日本の越えなければならない試練だったのでしょうか。 広田弘毅。いい男だと思うよ。いまどきこんなに男気のある男いないですねえ。惜しいなあ。 もっといい男が増えないかなあ。 ところで、今、日中でもめていることの原因がこの時の東京裁判によって断罪されたA級戦犯ですが。この裁判の様子もかなり詳しく書かれています。そして、アメリカ主導で、ほとんど、裁判長の独断で、裁判が進められているのです。対する弁護士側が、同じアメリカ人でさえ、その裁判のやり方に怒って、途中が投げ出して、帰国しちゃったりしているくらい。 そもそも、戦争裁判というのは、勝った側の国が負けた側の国を裁く。 これってどうよ。 たまたま勝っただけで、それなのに勝った方が正しいってことなんでしょうか。 そんなばかな。もし極悪非道な大国が戦争に勝って世界中の国をさばき始めたら、どうなるの。 東京裁判のあり方自体を疑問に思う声は結構あるようです。 そういういまひとつフェアじゃない裁判で決まっただけのA級戦犯が祭られているというだけで、靖国神社が問題になるというのも納得いかないですね。 実際、広田弘毅の有罪が決まった段階で、当の検事側ですら、「そんなばかな、広田はちがうのではないか」という意見が多数出たらしいですね。他はみんな元陸軍の、本当に戦争のきっかけとなった人物ばかりなので、そのあたりはいいんですけどね。 日中問題ってそもそも東京裁判あたりから、考え直さないと解決しないのでしょうねえ。 けれど、彼は裁判の間、いっさい証言はせず、自ら甘んじて有罪となることを覚悟していたのです。自分が死ぬことで、天皇陛下のお命が、助かればいい。 自分が助かろうとすれば、ほかの人間を悪者にしなければならなくなる。 広田はそれをいさぎよしとしなかった。息子の座右の書の一冊なんですけど、読んでみて、普段息子がいろいろと話していたことが実はここから来ているんだな、なるほどなと思った本でした。子供が読んでいるものを親も読んでみる。親子の会話と、心の交流を増幅させる意味でも意義深い行為です。身内が面白いと言った本なら面白い確立はかなり高いだろうしね。 分厚くて、中身も濃くて、非常に読み応えのある一冊ですが、読んで損はないと思うよ。 読書
2006年12月04日
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読みたい読みたいと思いつつ、なにしろ昔の小説なので、どうにも見つけられなかったのですが、ひょっこりうちの息子がブックオフで買ってきた。なぜ? そんなことはいいとして、なかなかハードな内容でした。先日の奈良の放火殺人事件とよく似てますね。もっとも、奈良の事件は勉強させてるのが父親で、しかも、暴力つきなので、なおさらひどいですが。 「東大さえ出れば、将来なんにでもなれる。そんな自由な人生を子供に与えたい。」という妄想を信じて、子育てに打ち込む母親と、三流大学出で人生に希望の見出せない父親。 「子育ての啓蒙書の通りに育てさえすればかならず東大に受かる優秀な子供が育つはずだ」と信じているこの母親はすごいです。が、確かに、あの手の本を読んでいると、このとおり育てればすごくいい子供が育ちそうだなっていう気になっちゃうものです。でも、実際、このての本は所詮机上の論理です。ですから、子育てには実際には他のいろいろな要素が絡んでくるので、本の通りには行かないし、子供は思うようには行動してくれないし、しかも本を読んでも実行する母親がその本に書いてあることをきちんと読み取れずに誤解のある解釈で実行してしまうというのもありえます。だから、本の通りになんてまずならないんだけどね。大概の人は途中で、飽きてくるか、めんどくさくなってやめますしね。 まあ、ほとんどの子育ての啓蒙書はごく一部の狭い視野でしか子育てを見ていないものです。大学のえらい先生たちが必死になってこんなくだらない研究を日夜やってるのかと思うと、ちょっとばかばかしくもなってくる。 ところで、東大出たら、もったいなくて、変な職業になんてまずつかせたくないと思うんですけど。普通は。 それにしても、この本。 母親の行動は非常に壮絶ではありますが、どうも、女性としての内面が描き出されていない。人間像の描き方が浅い。ただ本の通りに子育てをするんだということしか考えていない。ここまで妄信するからには、そこにいたるまでの彼女の人生の遍歴、感情の葛藤などがあるはずだと思うのですけど。あくまで作者が描こうとする「勉強と学歴ににおかしくなっていく母親と子供、家族」を描き出すために、「ストーリー構成に都合のよい人物」としてしか、描かれていないところに文学作品としての浅さを感じざるを得ないともいえます。 そして、父親。自分の人生にすでに未来を感じられなくなっている彼は、彼の人生を面白くしてくれそうだという理由で妻を選んでいます。自分の人生を充実させるのは誰でもない自分自身。じゃないのかな。そして、会社や人生で面白くない時、「いいんだ。自分には、将来東大に入るはずの子供がいるんだから」と思うことで自らの心を慰め、ごまかす。ちょっと父親として情けないですよねえ。サラリーマンてこんなものかなあ。この父親像は今現在もぜんぜん変わってないよね。あいかわらず。 さて、幼少期から一切の遊びの時間を削り取られてすべて勉強に向けさせられる長男。思うように伸びない成績にいらつく、母親、そして、子供。だんだん家庭内の状況は壮絶になっていきます。 この状況で、わが子ががすでにどうにもならないつらい状況に置かれていることに父親である彼は気づいていたはずだ。とめられたのは彼だけだったはずなのに、それでも、止めなかったのはなぜなのだろう。 長男が精神障害に陥って入院した段階で、たいがいの親なら、やめてると思うんです。まあ、小説だから、ちっょと過激に描いてあるかなと思いました。 でも、先日の奈良の事件のことを書いた雑誌の記事を読んでみると、この小説とそっくりなんですよね。現在でも、こんなことやってる親がいるんだと思いました。 しかも、この奈良の事件の父親が、彼の母親にやはり同じように育てられたそうです。いるんですね。小説のままの母親って今でも。実際勉強のし過ぎでおかしくなった子供たちや、使えない高学歴者を見て、社会的には、勉強のさせすぎがいかによくないか。子供時代の遊びがいかに大切か、この小説の出た当時、そういう反省が社会の中に生まれたはずなんだけど。長い時間の間にまた、過激な受験勉強の価値観が再生し始めているのでしょうねえ。 最近は、中学受験が再燃してますからねえ。危ない危ない。 それで、この本の物語は生まれる前から、優秀な子供を生むプロジェクトが始まってます。夫婦の食事療法からスタートです。そして、ずーっと母親がついて勉強。さらに、中学受験のための塾通い。しかし、入学はするものの、超難関私立校のなかで、思うような成績がとれずに、だんだん精神的におかしくなっていく長男はやがて、弟を殺そうと考える。 こわいですね。 ところでこの物語に中で、長男と対象的に育てられる次男が以外に成績がいいのです。知能指数も長男よりいいし。幼少期は遊んでばかり。にもかかわらず、一応塾に通って兄と同じ学校に受かってしまう。その後の成績も追いついてしまう。友達のいない長男とは逆に沢山の友達や、彼女。性格的にもごく普通の次男。 子供なんてほっといても育つということもまた、作者の言いたかったことのひとつなのでしょうか。 それにしても、この中に書いてあること。時々、読んでいて自分にも当てはまることがあって、ちょっとドキッとします。たとえば、子育ての啓蒙書に書いてあることを信じて自分の子育てにも応用したことありますものね。 受験に失敗したら、次は孫にもなんて考えちゃうところとか。 なるべく子供にうるさく言わず、好きなように、と育てたつもりだけど、やっぱり教育ママ的なところあったかもなあとちょっと反省します。 ただ、将来のことも大事だけど、子供時代の二十年くらいの歳月は、大人の三十年、五十年に匹敵するすごく大切な時間だと思うのです。その大切な二十年をなるべく大切に楽しく過ごしてほしい。と、母は、思うのです。勉強づけにだけはしちゃいかん。 該当する本のアフェリエイトがなくってね。これで、許してね。好きなんですよ。この小説も。↑今日の読書日記
2006年11月20日
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