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それは特急湘南かいじ平塚発甲府行き。9月、10月に走ったがガラガラだったらしい。年末、期待してたんだけどねえ。きのう年末年始時刻表にはのっていなかった。次回、チャンスがあればのってみたい。
2009.11.23
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そもそも、高崎線と東海道線を結ぶ事自体が間違っていた。本来、東海道線とは関係のない新宿のトラブルが、東海道線にも影響が及ぶ。はたまた、東京駅で東北線と乗り入れになると、藤沢の事故が、東北線の遅延に影響することになる。ただ単に、運用のしやすさを優先に考えた直通運転はやめたほうがいい。きょうみたいなトラブル、いったん起きたら、首都圏全体に波及する。トラブルをおこさなければいいというのも一考かもしれないが、トラブルはおきるものと考えて鉄道の運用は考えるべきだよ。
2009.11.09
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日本航空が羽田で国際線を展開するのは難しいだろう。整備工場とか、すでに成田にある機材、人をうごかさなければならない。経営再建中の日本航空にその余力はないのではないか?だったら、全日空のスターアライアンスグループが、羽田に移動し、のこりの航空会社が成田を使えばいい。高速鉄道が開通すれば成田日暮里が30分というではないか?だったら、成田に日本航空が残っても、別に問題はないのではないか?これで空いた第一ターミナル半分は、国内線増便もよし、あき待ちの航空会社をいれるもいいのではないか?これだと、来年からでもできる。ただ、スターアライアンス系各社の引っ越し費用をどうするか、それでも問題は多いけどね。
2009.10.15
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相鉄線が日吉までいくとなると、湘南台の慶應SFCの連中は、大助かりだね。でも、湘南台から東京にいくときは、フツウは小田急で新宿にでるか、もしくは藤沢経由で東海道じゃないか?でも、相鉄線が最終的は平塚までいくという話、聞いた事あるけど、どうなったんかなあ。
2009.07.26
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どの駅も「瀬戸の花嫁」?たしか、何年か前いったとき高松も松山もそうだったような.....きょう予讃線のルポをテレビでみていて、ちょっと思いだした。
2009.07.18
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一番安いのは小田急で新宿。570円つぎは、中央林間から田園都市線で渋谷590円JRは東京駅まで950円なんだけど、横浜まで行ってそこで券を東京までかうと850円!さらに藤沢名店ビルのチケット屋さんで藤沢横浜駅の券をかうとトータル830円。われながら、よく調べたなあ。
2009.07.01
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JR東海の松本正之社長は8日、都内で開かれた会合で、2025年の開業を目指す「リニア中央新幹線」について、神奈川、山梨、長野、岐阜の各県に1駅ずつ「中間駅」を設置する方針を正式に表明した。「1県1駅」の正式表明は初めて。(時事通信)神奈川?どこだ?相模湖?新々横浜でもつくるか?東京(新宿か品川)のつぎは山梨でないと、止まり過ぎだぜ。神奈川は東海道新幹線あるし、必要ないよ。
2009.06.08
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この電車をみると、旅心をそそられる。それが、こんど車両があらたまるらしい。でもなあ、そのついでに、いま大船どまりの成田エクスプレスを 平塚か小田原まで延伸してもらえないかなあ。藤沢は、中途半端なんだよなあ。バスはもう一回のったら、もういいや、って感じだったしね。あ~あ、旅がしたくなったなあ。
2009.05.20
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はやぶさ、富士の廃止はちょっとこたえた。この写真はきょう藤沢駅通過時の写真。こんなに人がいたから上の写真をホームでひっそりと撮った。でも寂しいなあ。富士といえば、はじめて乗った特急のブルトレが富士だった。広島から熱海まで乗った。広島から乗ったら別の人がベットに寝ていてその人が日にちを間違えて乗ったことがわかり、寝台を譲ってもらった。また学生のとき下りの富士で同じ寝台に居合わせたサラリーマンと意気投合、ビールを飲みまくった。食堂車で横浜あたりから名古屋までビールとおつまみで通した。本当はフェリーで宮崎まで行く予定が、免許停止になりしかたなく富士で宮崎に向かうと言ってた。あのサラリーマンも定年なんだろうなあ。はやぶさというと夕方に駅まで行くと、定期券がないことに気づいた。気がつくと親父が自転車で片手に定期券を持ってこっちに向かってるというではないか?あのときの親父の顔は、なぜか忘れられない。『間に合った』とほっとした表情をしていた。『気をつけてのう』に、思わずぐっぐとくるものがあった。ありがとう、親父。こんなこともあった。はやぶさだったが、起きてもまだ名古屋に着いてない。車掌に聞くと地震があった関係で2時間近く遅れているという。10時過ぎにつくはずが、12時をまわっていた。当時当時住んでいた住所の最寄り駅の荻窪の改札で、遅延の払い戻しを受けた。駅員は不信に感じたのか、どこかに確認をしていた。寂しいなあ、そんな富士、はやぶさにもう乗れないなんてね。そりゃね、最近は広島に帰る用があるときでも、飛行機をつかったり、乗っても新幹線。九州にはいくことないがおそらく新幹線か飛行機でしょう。でも、いつでも乗ろうと思えばのれるブルトレがなくなったというのは、やっぱ、寂しい。藤沢駅を通過の車両をみてもいつもガラガラだったからなあ。仕方ないのかもしれないけど、利益最優先というのは、ちょっとついていけないところはある。まして、サンライズ瀬戸が JR西日本と東海の共同開発だから残って、そうでないから(東海のメリットがないから)ブルトレ全廃というのは、ちょっとね承服しかねるところだよ。ちなみに最後のブルトレは、あさかぜで福岡の出張帰りに博多東京を乗ったことか。もう、あの日はかえってこない。PS 東京と九州を結ぶ豪華寝台特急なんていけると思うんだけどね。
2009.03.14
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なにがって、はやぶさ最後の疾走を撮らないと!9時36分横浜だから、9時すぎには藤沢を通るはず。最後の英姿に、『ありがとう』と声をかけてやりたい。寂しいなあ。
2009.03.13
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富士、はやぶさのラストランまであと二日。結局、乗れなかった。東京駅から広島を結ぶ夜行はこれでなくなった。岡山、高松、出雲はあるけど、広島はかすりもしない。帰省のとき、あさかぜあたりだと起きれば広島という便利さもあってよく乗ったし、帰りも夕飯を食べて乗れるはやぶさとか富士はよくお世話になった。これで東海道、山陽路を通して快走する特急はなくなる。寂しいなあ。
2009.03.12
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さくらはないだろう。まだ、ブルートレインの長崎東京の寝台特急さくらがなくなってまだ時間もそんなにたっていないんだから。結局、ブルートレインを廃止して新幹線ということか。でも不思議なのは仙台発博多行き山形発博多行きてなのがなんで話ででてこないんだろう。違う鉄道会社とはいえ、同じJRグループでもある。東日本と東海は、仲がよくないってことなんだろうな。
2009.02.26
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東京駅東海道線の9番線、10番線といえば、華のあるホームだった。夕方になれば、さくらみずほはやぶさ富士あさかぜ出雲銀河といった長距離寝台列車が発車して行く華やかさがあった。同じ東海道線でも、7番8番とはちょっとちがった。幅も広く、ホント華があった。食堂車も連結され、東京駅出発のときは、食堂車のウエイター、ウエイトレスは列をつくり、皇居方面にむかって一礼していた。国鉄時代からの風習と聞いた。でも、ひとつひとつ列車が消えて行き、食堂車が消え、そして最後に残った富士はやぶさが消えて行く。朝、飛行機で熊本に向かい、昼過ぎのはやぶさに乗って東京までいく、なんてしてみたいけどなあ。
2008.12.19
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この記事、いささかJRのPR臭くもあるが、ブルートレインの九州行きの寝台、なくなっちゃうのかあ。広島に帰省のとき、ときに利用した。よく使ったのは「あさかぜ」だったけど、尾道あたりで起きて車内販売のコーヒーを飲みながら、セノハチ越えしていたものだ。それが、さくらが散り、みずほが刈り取られ、銀河は見えなくなった。たしかに、はやぶさの出る夕方6時の新幹線に乗れば、その日のうちに博多だもんなあ。なくなるわけだ。でも、こうなると鉄道は目的ではなく、たんに手段のひとつってかんじになったね。新幹線もはやくなって、食堂車さえもなくなった。でも、こういう味気ない旅なら、飛行機でいいか、って気にもなるね。
2008.12.10
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ニュースで東海道線茅ヶ崎市の踏切で、貨物列車に男性が接触してなくなった。なんでも、近々なくなる寝台車を撮りに行くって言っていたらしい。そのニュースを聞いて『!!???』寝台車がなくなるって、富士はやぶさも3月あたりになくなるんかいな?東海道で心当たりはこれくらい。茅ヶ崎で9時ごろといえば、これしかないもんな。もしそうなら、乗って熊本まで行ってみたいな。でも、なくなった方はそれどころではない。合掌
2008.11.29
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きょうの朝、NHKで、韓国からロシアにむかう貨物列車の話をしている。貨物が走るなら、旅客もありだろう。北朝鮮を通過するというのも『刺激的』もし、一番列車が走ることがきまったら、絶対に乗りにいこう!
2008.10.31
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休日でも、平日のライナーは、お客を乗せる事なく、同じ時間に走っている。走らせるんなら、お客をとるか、普通電車扱いで走らせればいいと思う。たとえば、快速アクテイーを、休日アクテイーとでもしてね。なんか、空の車両が通りすぎるの、無駄な感じがするんだけどなあ。
2008.10.13
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朝日新聞、朝刊。東京駅発車時間が早くなって、18きっぷでの利用にメリットがなくなったというが、だったら、いっそのこと東京駅を0時まわった時間にたつようにすればいいのではないか?臨時列車に格下げと言うのは寂しいね。いくら深夜バスが安くなったといっても、18きっぷファンも多い。結局、利用者よりも、ダイヤ編成、商売重視ということか。イヤだなあ。
2008.09.01
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週末だけかと思ったら、きょうも遅れまくり。急行を走らせたり、池袋乗り入れが西武と東武両方だったり、出勤時間は3分間隔だったり、意欲はかうけど、ここまで混乱すると、渋谷の新奇な駅舎も、だうだろう。そのまえにやることあるだろうって。それにだ。ここんとこ、駅のホームから駅員がいなくなって、こんなインタホンしかなかたりする地下鉄の駅は多くなってきている。こんなもんで、乗客の安全は守れるんだろうか?利益を考えるのは、けっこうなことだけど、鉄道たるもの、安全には投資しすぎることはないと思うけどな。ましてや、副都心線、ワンマン運転だからね。安全な定時運行が、日本の鉄道のウリとおもったが、もう昔話か?
2008.06.16
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きょうは東京駅で、富士はやぶさの発車時間に居合わせた。いまから半日がかりで、大分、熊本にむかう。でも、乗客は満員とはいかない。ほぼ同じ18時10分発の新幹線に乗れば、今日のうちに関門海峡を越え、博多に着いてしまう。おまけに、ブルートレインのブルーも幾分か疲れたように感じられた。なくなるのも時間の問題か?
2008.05.01
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この喫茶店、チェーン店でもない、手作りの香りのするいい店で、新宿駅東口の有料トイレそばにあるんだけど、ここが立ち退きを迫られているという。この東口、つい最近までそれはMy cityって言われていたけど、それがルミネイーストにかわり、こういった飲食店にJR東日本は個室によびだし、退店を迫っているという。JRはおしゃれな店でこのルミネを固めたいようなのだ。でも、ちょっと待って欲しい。どこにでもあるようなブランドショップばかりになって、それで利用者は満足してるのか?駅っていうのは、ちょっと待ち合わせたり、電車の出発する時間まで、ちょっとなにかを食べたり、または、出勤や通学の途中で、ちょっと食べたりするところあってもいいんじゃないか?それも、全国チェーンのファーストフードじゃなく、こういった新宿駅でしか味わえない店を追い出す姿勢。ちょっと納得いかないなあ。
2008.04.18
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アド街ック天国で『東京駅』が特集。この駅は、やはり思い出深い。上京のとき、新幹線の車窓から日劇と朝日新聞の社屋が見えるとそろそろだなと思い、有楽町駅のホームで山の手線を待っているサラリーマンやOLをみると東京に帰ってきたんだんあと思った。そういえば、東京駅の特集ででるかと思ったが出なかったのは、新任の大使が皇居に出向く際、丸の内口からでる馬車のこと。いままで二回みたけど、この話はでなかったなあ。でも、東京駅はいつもどこかで工事をしている。30年前は東北上越新幹線はなかったし、中央線のホームも一階だった。丸の内駅舎を高層にしようと言う案は消えたが、そのかわり、八重洲側が大変身。前に大丸が入っていたビルが壊されて低層ビルになりツインタワーがつながれる。寂しいのは東海道線のホーム。長距離列車が、銀河がなくなると数える程しかなくなる。はやぶさ富士だっていつまでつづくか.....。
2008.02.16
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新幹線と同じ広軌の貨物列車だから車体がでかい。そして連結された車両が長い。そしてなによりも、戦車を貨物列車が運んでいた事。あれはびっくりしたよなあ。いまチタがテレビにでている。俺は北京から満州里を経てこのチタでシベリア鉄道本線に合流した。チタは中国からの貿易拠点と紹介していたが、なるほどなあと思ったね。
2008.01.27
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きのうに引き続き シベリア鉄道を見ている。バイカル湖は、そのむかしは湖面が氷りその上にレールを通したことがあったと聞いた事がある。でも、ここの水はきれいだったなあ。記念に水を持って帰ったけど、捨ててしまった。こうして見てみると、ヨーロッパロシアよりシベリアロシアのほうが好きだなあ。
2008.01.27
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NHKBSでシベリア鉄道。なつかしいなあ。もう30年近く前になるのか。また、行ってみたい気もするな。
2008.01.26
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大学の頃、広島と東京。このゼロ系ひかりのお世話になったものだ。来年には、これもお世話になった急行銀河も廃止らしいし、鉄道のよさをかんじさせるものが、どんどんなくなっていく。トワイライトとか北斗星ばかりが、鉄道じゃないと、おれは言いたいけどね。
2007.12.21
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戸塚に快速アクテイーが停まるらしいが、以西の人にとってはありがた迷惑だな。だって、大船、藤沢から快速に乗っても、普通電車と変わらないんだもの。あと大船と藤沢の間に駅が計画されているらしい。特急東海が廃止。東京と静岡をむすぶJR東海の特急東海が廃止になる。これは、ちと寂しいね。
2007.03.12
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1.西安2.台北来年1.北京2.西海岸、ニューヨーク、シカゴ、ロンドン(スターアライアンス世界一周券を使う)てな感じで計画しています。
2007.03.11
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特急サンライズ瀬戸東京駅を22時といえば、通勤の帰宅にもよく使った時間にたち、横浜、熱海、沼津、富士と停まり、静岡、浜松で乗降のための停車はおわり、深夜の東海道を西へ突き進む。途中、大阪、名古屋でも運転停車もするが、爆睡の乗客には関係ない。でも、この特急のうりは瀬戸大橋。6時31分に岡山をでると、20分強で本州最後の駅、児島をあとに瀬戸大橋にはいる。二階建ての電車からながめる風景は絶景だ。小島が点々と広がる瀬戸の内海。ゴトンゴトンとゆっくりゆっくりと進む。ほんの10数分。じき、坂出のコンビナート群がみえるころには、ショーは終わる。東京高松。飛行機でとべば1時間強だけど、こういう旅もいいと思うね。
2007.03.06
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東京からだと 29,260円。どう行くかというと新下関まで新幹線でいき、下関からフェリーで釜山にわたり、釜山からソウルはKTX号で。駅のみどりの窓口で買える海外というのが面白いね。
2007.03.06
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NHKで「東京駅?高速バスターミナル」を見た。いまひとつ。過日も書いたけど、東京駅と旅を無理矢理二題話でつくったような無理さが感じられたな。まあ、新幹線は旅行で絵にはならないし、その点、高速バスは旅費も安く、なにがしかのストーリ-ができると思ったんだろうけど、その意図は見事にはずれたって感じだね。
2006.12.20
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東海道線が山手、京浜東北よりも一段高いところにホームがあり、長距離列車のたつ駅という趣があった。しかし、いまは、ローカル線の駅になってしまった。長距離夜行寝台列車も3本だけ。売店も閉鎖になったり。(新幹線はあるけどね)そして、東北線、ちがった宇都宮線が入ってくるとも聞いた。そういえば、このまえ、丸の内で改札を出たところに人だかりがあって、なんだろうと思ったら、タイ(だったか)の大使が馬車で皇居にむかうところだった。丸の内駅舎も復元されるらしいけど、どんな雰囲気になるんだろう。東京駅のステーションホテル。天井の高い、いい趣きの駅舎にしてもらいたいな。東京駅は、工事の鎚音が途絶えないときはない。しかし、その音が途切れた時、日本経済の終わりのときかもしれないね。
2006.12.19
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いまでこそ、東京を夕方6時に新幹線に乗って、その日のうちに博多につくが、30年前は、広島も6時間近く新幹線はかかった。だから、食堂車は必須の車両だった。大学に入学が決まって、母とその新幹線で広島に二人で帰ったことがある。二階建ての食堂車だった。込んでいた時間帯だったが、なぜか、偶然に、二人連れのサラリーマンのいた窓際の席があき、そこにすわることが出来た。名古屋をすぎて、もうじき京都といったころ、外は漆黒の闇。ときどき、民家の団らんのあかりが、線のように通り過ぎていく。オーダーは、ハンバーグ定食のようなものを頼んだ記憶がある。メニューは、B5大のメニューに申し訳ない程度の料理と飲み物、おつまみ。そのなから、自分は好物を選んだんだろう。ビールも頼んで、ちょっと乾杯した。黒い窓ガラスに、ときおり、車内のあかりが、二人の夕餉の風景を窓のスクリーンに写しだした。なにを話したか、まではよく覚えていない。でも、なぜかときどき思い出す風景なんだなあ。そう、新幹線にも旅情というもんがあったんだなあ。
2006.12.13
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建てられたとき、高さでさんざん物議をかもした京都駅だが、通りすがりの旅人風情の分際であえていえば、嫌いだ。猥雑な入り組んだ(ように見える)構造それから派生するわかりにくさ東京に本店のデパートがキーテナントの不可解さ京都で三省堂書店には入りたくないのだ。それは、正直なところ、そう思う。
2006.11.21
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中央線のオレンジ色の電車が25年ぶりに更新されてステンレス車両になるらしい。25年。ちょうど大学のころだな、いまの車両に変わったのは。主要幹線の電車にしては、いまだに国鉄時代の電車。東海道線から湘南電車消え、今度は中央線か。国鉄は遠くなりにけり、だね。
2006.11.20
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東海道線。17時22分から21時近くまで東海道線がとまった。4時間、これは長いね。おまけに帰宅ラッシュの一番乗降客の多い時間だ。でも、終電組や、一杯組には、関係ないか。ただ、新宿から小田急経由はさすがにつかれんな。
2006.10.26
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むかしwowwowで放送した鉄道番組がCSで再放送されていて、きのうきょうはインド。彫りの深い顔その奥底からのぞく白目と黒目東洋と西洋が混在した街そこをはうように走る鉄道インドも不思議な魅力を覚えるな。いま、IT大国といわれるインド。一度は行ってみたいな。
2006.10.24
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7/1、北京とラサ間4000キロを48時間で結ぶ中国の青蔵鉄道が開通したとニューズウイークが報じている。そんでネットでしらべると金額までもある。18400円。48時間。まあ、いろいろ政治的には問題のあるところではあるけど、行ってみたいなあ。飛行機だといきなり3700メートルの高地におりたつことで、高山病になりやすい。ホテルには、酸素ボンベが常備されていると聞いた。でも、列車だと、ゆっくりゆっくり上っていくから、そんなこともないんじゃないかな。甘いかな。
2006.07.22
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横須賀線走っている217系が緑とオレンジに塗り替えられて東海道を走っている。なぜわかったかというと、行き先表示が電光掲示になったないんだな。それに、もうひとつわかるのは、グリーン車。二階席と一階の間の帯がやたら広いオレンジ帯になっている。おそらくスカ電色を塗り替えたためなんだろうな。だからなんだ?といわれれば、それまでなんですが.......(笑)
2006.07.03
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外国で乗る鉄道には、趣ぶかいものがある。 きょうは、基隆から台北までのこと。 駅の天井の高いホールの壁の上の方にはってある時刻表をみると、特急もなく、普通列車で台北にむかうことにした。駅舎は、さほどの大きさではない。日本でいうキオスクのような売店があって、新聞や雑誌、キャンデイー類を売っていた。 日本の駅はエキナカとかいって、鉄道業以外の収益確保に熱心だが、こういった駅にたたずむと、鉄道の本業は旅客輸送であることを痛感する。 駅舎のまえは港。ここから、那覇、ときに名古屋、大阪までの船もでている。もちろん、旅客船。 港の規模は、横浜とか神戸と比べたら小さくも感じるが、周辺には船員相手の木賃宿がめだった。台北と比べたら規模は小さいが、あかぬけたセンスを町全体におぼえた。 鉄道駅の右手には長距離バスの発着ターミナルがあった。台北方面もある。そばにパン屋もあったが、バス車中での飲食用なんだろう。 でも、バスもいいが、列車だね、鉄道好きとしては。 ちなみに、台湾は九州とほぼ同じ大きさ。電車をうまく乗り継ぎしていけば、一日で一周できるらしい。 発車の少し前にホームへ。すでに乗る電車はきていた。というか、終点だから、折り返しのため、ホームにて体をやすめているというべきかな。 切符は、柔らかい紙で台湾鉄路局 通勤電車 基隆→台北とかいてあった。とくに車両の指定はない。 ホームは大きな屋根でおおわれていたが、あかり少なく薄暗い。改札口を通ってその台北方面にむかう新竹行きに乗る。 不安になって再度、行き先表示版を確認。停車駅に台北があることを確認する。 ホームの駅舎サイドは、白い幕がはられ工事をしていた。一番ホームだったが、そのための建材がおかれ、本当は広いホームを狭く感じさせていた。 乗る電車の車体全体はすすけたような印象。窓もスモークガラスのよう。ここが日本の電車とちょっとちがう。 そして、通勤電車とあるだけあってロングシートの座席。乗車率は20%くらいか。 前にすわった少数民族(この表現はすきではない。漢民族自体が勝手に移り住んで多数派になったにすぎないからだ)のふたりは、買いこんだジャンクフードをたべながら、台湾語で話をしている。 ほどなくして発車。途中、九分に近い瑞芳からの本線と八堵駅で合流。日曜であったこともあるのか、台北郊外で遊んで台北の家に帰るふうな人が多かった。 それをいうなら、九分はすごい込みようだった。非情城市の趣はなかった。東京で言えば、どこだろう、箱根というより、デイズ二ーランドかな。そうぞうしさは。 所要は40分くらいだったか。気がつくともう松山駅。台北郊外で、ここには空港があり、国内線が発着する。 次回くることあれば、特急自強号なんて乗らなくて大丈夫だな、そんな思いをいだきつつ、台北駅に降り立った。
2006.05.24
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西武は、軽井沢まで線をのばすつもりだった。しかし、秩父どまり。軽井沢の投資は浮いてしまった。それで、長野オリンピックをひっぱってきた?!でもさ、西武線は地上を走るため、踏切だらけで、街の流れを寸断している。こっちになぜ、投資をしなかったんだろう。あと、西武新宿。あれも、ほんとうはJR新宿駅に乗り入れる予定だった。だって、西武新宿戦の線路をまっすぐ延ばしていくと、新宿駅マイシテイーにぶちあたる。東口。アルタ前が変則的な広場みたいになってるのは、このためだった。そう、西武新宿はかりそめの駅舎だったんだね。これが、新宿駅にのりいれていたら、高田馬場、歌舞伎町の様子もかわったかもしえないね。結局、西武鉄道は、堤さんのおもちゃ箱だったのかな。ほかの私鉄。国立駅には放射線に道路が走っているが、これは本当は京王線が乗り入れるはずだった。それがぽしゃったのが、国立市にとっては吉となったね。神奈川の相鉄線。いまも計画は残ってるかもしれないが、平塚までのばすつもりらしい。以上、関東私鉄のトリビアでした。
2006.05.20
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今月の小説新潮に、酒井順子の地獄の24時間耐久列車というのが出ている。横浜駅を0時すぎにでて、翌2400に熊本八代にたどり着く行程を描いたものだが、なにか、わくわくと脈うつものを感じなかったね。はっきりいって、期待はずれ。この人は社会評論のひとだ。でも、ここんとこ旅行をしていない。このムーンライトながらも、決算残業のおり、ふとめにした。また、旅行記かきたくなるような旅がしたいなあ。
2006.03.25
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きょう駅におりたつとホームに電車が.....と思ったら、改装したKIOSK。何日かまえに新聞にのってたな。そういえば、この113系もあと一週間で東海道から姿を消す。あすあたり、リクライニングのない、113系のグリーン車のりおさめするかな。休日はやすいからね。
2006.03.10
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神戸に空港ができた。あと、静岡にもできるらしい。しかしまあ、そんなに空港つくってどうすんだろう。神戸は市有地を売却したお金で賄うから、税金の投入はない、と。でも、売れた土地は全体の0.3%。それに関空、伊丹、神戸、セントレア、羽田、成田と、新幹線で三時間以内(成田はちょっとちがうが)に、こんなに空港必要か?そうだ、静岡も。のぞみで三時間関西東京なんかかからない時代だぜ。地方なんか、維持費がたいへんだから、韓国便をふやして、成田ではなく韓国の仁川空港経由での日本人の海外渡航需要を掘り起こそうとしている。毎日、わんさか海外にみんないくとは思えないんだけど。おれは思う。こんなね、滑走路1本の空港を各駅停車のようにつくるのではなく、国家プロジェクトとして、24時間使用可能な滑走路も何本もある、巨大空港をひとつ、つくるべきだよ。首都移転とかいろいろ、プロジェクトは消えては浮かびしてきたが、求められるのは巨大空港じゃないか。いま、ハブ空港は、仁川、上海浦東なんかがすごい勢いをみせている。でも、成田なんて1.5本の滑走路で、お寒い限り、関空にいたっては、沈没(?)危機なんていわれた。こうなったら、羽田を沖合いで巨大展開するもよし、横田をつかったものでもいい。でも、横田は24時間、内陸だからむつかしいか。それなら、それで、あっというようなプランを、新しい発想でつくればいい。そうしないと、いまに、人も、モノも日本を素通りするようになるよ。とはいっても無理か、地方の空港は、新幹線がひと段落して、つぎは「おらが街に空港できた」だからな。ただ、そういう発想は、そろそろやめにしないと、軽くやばい。否、重くヤバいんじゃないか。お金をかけるなら、効果的にどんと使わないと。
2006.02.17
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113系の車両が東海道から消える。113系とは、緑とオレンジに塗りわけられた東海道線を走る車両だ。それが、231系の登場で引退となる。とくに惜しいのは、グリーン車。リクライニングがきくわけでなし、シートも固めなのだが、歴史をかんじさせる。おそらく、グリーン車が一等車といわれたころから現役だった車両だろう。それが、リクライニングで、二階建て、スイカでピッピッで改札なしにかわる。車内販売もできる。便利になって、去り行くものもあるということか。でも、なんか寂しなあ。
2006.02.11
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よく石川啄木のせいか、演歌にもよく歌われるせいか、ふるさと=上野駅というところあるけど、世間一般にね。おれにとっては東京駅だな。ふるさと行きは東京発だからね。でも、かつては長距離電車がバンバン走っていた東海道線も、すっかり中距離電車の線になったし、ブルートレインも減って、さびしいかぎりだね。ただ、ブルートレインの出る時刻に新幹線に乗ればその日に九州とかいけちゃうからね。これも時代かなあ。のぞみばっか増えて、ビジネス特急になったようで、ちょっと味気ない。まだ、0系ひかりはまるっこい胴体で人間味あったんだけどね。ブルトレは、同じ寝台でいっしょになった人と酒を飲んだこともあったし、食堂車でチビチビやるのも、よかったんだけどね。時代がそれを許さなくなったってことか。それに数少ない長距離列車だった、大垣行きも特急車両で快速。全車指定だからね。丸の内の駅舎も、バブルのころだったか、一時期、高層化が取りざたされたが、それは立ち消えた。あの中にあるホテルは二度ほどとまったが、丸の内からまっすくグ皇居にむかう道路をみながら朝食をとるのもいいものだ。あのホテル、天井がたかいのもいいね。東京駅といえば、外国の大使が東京に赴任したとき、宮内庁の仕立てる馬車にのって、東京駅から皇居までいき、天皇に謁見する。その機会に一度だけ遭遇したことがあるが、不思議な雰囲気だったね。もちろん、サラリーマンとか、みんな立ち止まってみていた。いま八重洲は、大改造。国際観光ホテル(だったかな?)がなくなり、そこに大きなビルを森ビルがたっている。構内もいつもどこかで工事をしている。まだまだ変化するんだろうな。この項、不定期にまたかきます
2005.12.10
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先日、常磐道をとおって日立市に行く用があった。その帰り立ち寄ったサービスエリア。よく見ると、そのサービスエリアの上のほうに線路が走っている。みると『つくばエクスユプレス』とある。そうか、秋葉原で工事をしているあの線か、と思ったが、と同時に大丈夫か?と思ってしまった。なぜって、高速道路に並行して走る鉄道ですよ。いま、みんな鉄道がなくて車で東京とか行っている(と思う)。ある意味で車生活が染み付いている。それが、開通して、電車に人が流れるだろうか?駅まで距離があるとすると、家族が多いと、車でいこうということになるんじゃないか?もちろん、通勤では使われるだろう。しかし、それ以外の利用はどれくらいが見込まれているのだろう?結局、その負担は、利用者が高運賃で負担することになるのか?
2005.06.21
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モスクワは、ホテルコスモスというモスクワオリンピックにあわせてつくられたホテルだった。白亜の建物で、地下には大盗聴施設があると聞いていたが、部屋のつくりをみていると、どれもが盗聴器にみえてくるから不思議だった。また、男性だと必ず、コールガールらしき女性が電話をかけてくるときいていたが、チェックインして部屋のドアをしめて、ひと休みしていると早速、電話がなった。とると英語かロシア語か、よくききとれないかんじの早口で女性がまくしたててきたが、もちろん、受話器をそのまま置いた。その後も、夜に一度かかってきた。ノーサンクスというと、わらって今度はむこうから電話を切った。私はH氏とモスクワ大学にむかった。私とH氏は同じホテル、あとモスパックのメンバーもこのホテルだった。H氏とそこにむかったのは、モスクワ大学がモスクワを見下ろす小高い丘の上にあり、そこから見る夜景がきれいだと聞いていたからだ。しかし、なかなか暗くならない。時計をみると9時近くなのにである。モスクワ大学の大きな塔の前で北朝鮮からの留学生(もちろん金日成バッチをつけていた)が、記念撮影なのか、カメラで写しあっていた。屈託のない、北朝鮮の人はこのときはじめてみた。国際列車で途中みた北朝鮮の人とは、雰囲気がちがっていた。やはり、開放感がそうさせているのだろう。あまり遅くなると、あすにさし支えるので、ホテルへ帰ったが、ここで困ったことがおきた。時計は10時。すでに、どのレストランも食事のサービスは終わっており、酒とつまみしかないという。たしかにお金をだせば、それなりのものは食べられるが、贅沢をしない旅行のため、それはNG。しかたなく、ホテル内のキオスクのような売店で、ウオトカ一ひと瓶と、なんとシュークリームを買い求め、部屋で二人で食した。シュークリーム?と思ったが、それ以外、お腹に入れるものがなかったのだから、仕方がない。当然、翌日は二日酔いになったが、ホテルの蛇口に口をつけて飲むわけにもいかず、これまた売店で買ったオレンジジュースで、肝臓機能に水分を送り込んだ。次の日は、おきまりのようにクレムリン、赤の広場、そしてグム百貨店などを見て回った。グム百貨店は、赤の広場、クレムリンの向かい側にある古いデパートで、ごったがえしていた。私はペンを求めたかったが、日本の文具みたく手ごろなものがなく、あきらめた。イルクーツクでみたトラックといい、ボールペンといい、すべてが軍需最優先の弊害なんだろうと思った。街中の移動は、地下鉄を使った。この地下鉄駅は宮殿のように豪華で雄大なつくりで、それも地中奥深くつくってある。そこへ至るエスカレーターが超高速。地下シェルターかわりという評判もさもありなんというところであった。その夕刻、H氏は飛行機で最終目的地ロンドンに向かい、私は列車で当時の地名でレニングラードにむかった。この列車は赤い矢号といい、夜2355にモスクワをたって、レニングラードに翌朝に着く。じつを言うと一週間もの間、寝台の生活をしていると、ホテルの揺れないベットに物足りなさをかんじた。しかし、車中一泊だけだと、これまたあっという間に感じられた。その列車では北京で一緒になった3人組と合流したが、レニングラードにつくと、また、別のホテルにつれて行かれた。わたしは、ホテルアストリアという由緒あるホテルに落ちついた。レニングラード攻防戦で、おとしたらここで祝杯をあげようとヒトラーが目論んでいたホテルである。エルミタージュ美術館も近い。聖イサク寺院が、部屋の窓からみえた。ベットはなんと、そのまわりに白いレースのカーテンが囲むようにかけられている。まるで、クレオパトラとか、楊貴妃がいつも寝ていそうなつくりのベットで、不思議なかんじがした。次の日にはもう、帰ることになっていたから、さっそくフロントにおりて、サーカスでもとおもったが、サーカス、オペラ、バレーいずれも月曜はお休み。月曜休みとは、日本の公立図書館もそうだけど、万国共通なのか、と思った。その日は、夏の宮殿をみたあと、エルミタージュ美術館を見て歩いた。夏の宮殿は船で、エルミタージュ美術館うらのネヴァ河のほとりから出ていた。鉄道にのって、9000キロをとびこし、ついにその先にある水辺にたどりついた。これは、ひとつの感動だった。夏の宮殿には、奇妙奇天烈な噴水がたくさんある。まるで、噴水をつかったテーマパーク。ひととおり見て回ったあと、ここで昼食をとった。ようやく読めるようになったロシア文字でボルシチをみつけ、たのんだものの、でてきたのはさめたボルシチ。二つボルシチが並んでいたが、もうひとつにすればよかったと思ったが、後の祭りであった。ふたたび市内へ船でもどる。ネヴァ河ぞいにある刑務所あととか、を見てまわる。このネヴァ河の浜辺には、水着を着た老若男女が、短い夏を身体にとりこもうと必死になっているようにみられた。ちなみに、街角の温度計をみたら、午後2時で18度だった。ときは8月17日。ネフスキー大通りを歩く。時刻はそろそろ夕方。バレーやサーカスといった出し物がないからといって、これで部屋に帰るのも脳がない。それで、たまたま通りかかった映画館にはいった。ふたたび断っておくがロシア語は話せない。分からない。でも雰囲気をあじわってみたくはいった。喜劇映画のようだったが、席はそこそこ、うまっていた。最初は白黒のニュースフィルム。意味がわからなくても、この農場ではこれだけ頑張っている、なんていう内容。それを共産党幹部が視察なんて内容であった(と思う)。はっきりいって、おもしろくない。みんな寝ていた。しかし、いったん本編がはじまると、爆笑の連続になった。わからなかったが、つられて笑った。でも、この頃、「モスクワは涙を信じない」なんていう名作映画もあった。さかのぼれば、「誓いの休暇」ってのもよかった。ソ連、ロシア映画は質が高かった。いまは、あまり聞かなくなったが、私が知らないだけか。部屋に着く。古いホテルゆえ、電気を消すと、古い時代の霊気が室内を渦巻いているように感じられ、すこし背筋が寒く感じられた。しかたなく、ラジオをつけっぱなしにし、電気をつけっぱなしにして寝た。薄暗い、まだ、闇夜がおりきっていない夜11時。聖イサク寺院のシルエットが印象的だった。次の日は、再度、エルミタージュなどを見てまわり、ホテルへ戻る。喫茶室でコーヒーを飲んで、空港にいくまでの時間を待っていたら、フランス人の大学教授に話し掛けられた。一泊で帰るというと、なんともったいないと言われた。たしかに、この街は、運河が縦横に走り、モスクワがあるいみで政治の都市だったのかもしれないが、このレニングラードには、古い建物がそこかしこにみられ、とても、この地がかつて沼地だったとは信じられない。一人旅に近いこの街での思い出を胸に空港にむかった。今度は、はじめての夜行便で、9000キロを一気に駆け抜ける。しかし、空港に早く着き過ぎたので、腹ごしらえをする。熱いボルシチに黒パン、そして紅茶。これをトレイにのせてもらい、食した。みると、乗組員も食べている。ロシアで食べた、数少ないまともな食事だった。でも、ここで食べたのは正解だった。飛行機ででた機内食は、ビニールの袋に入った固めのりんごに、ビスケット、固いパン。とても食べられたそろものではない。それでも、下は漆黒の大地。反対側の窓は夕日があたり、反対側は闇夜。不思議な感覚だった。翌日、ハバロフスク着。掘建小屋のようなターミナルで荷物をうけとると、久々に暑い太陽にめぐりあった。軽い時差ぼけにはなったように記憶するが、ハバロフスクのホテルインツーリストにチェックインしたあと、私は例の3人組と、ハバロフスク市内を歩き回った。市内の博物館にはいると、アイヌの紹介コーナーもあり、この地区が、北海道、北方領土とアイヌ民族にとっては、国家の枠をこえて生活の場であったことがしのばれた。ホテル近く、ベリョースカという外貨ショップに行き、土産物を買い、そとにでたところで、朝鮮族らしき50代くらいの男性に日本語で話し掛けられた。「ベリョースカいきますか?」「サントリーのビール買ってきてください」想像するに、樺太とか北方領土につれていかれた朝鮮人なんだろうか、けっこう、うまく日本語を喋っていた。「わたし京都に知り合いいます」京都に知り合いがいるということで、警戒感を解こうとしたのだろうか?なんとなく足早にその場を去ったが、あれからどうしたのだろうか?翌日は、列車でナホトカへ。またまた一泊の列車泊。この列車はみんなナホトカから横浜にむかう船に乗る乗客ばかり。1週間かけてレニングラードまで行き、2日でその距離を逆もどり。船の旅も陸中海岸沖の漁り火も幻想的な雰囲気でよかったし、時間ができるなら、今一度、同じルートを旅してみたいものだ。 (終)
2005.06.18
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さすがに20年前ともなると、記憶も断片的になる。それに、シベリア鉄道の旅行記で有名な、故宮脇俊三さんの「シベリア鉄道9400キロ」をあらためて読んでも、後半はページ数がうすい。これは思うに、おなじ質量で書き続けることが難しいことの証左ではないかと思う。それでも、記憶の鮮明な部分をつなぎ書くと、そこそこの量になってくる。それだけ、私にとって大きな経験だったということかもしれない。閑話休題。モスクワまでの間に、駅名は失念したが、何度かドキッとすることがあった。それは、15分近くあるので、ホームに面した駅舎をくぐりぬけ、駅前まででてみたことだ。イルクーツクのように町の中心に位置しているわけではないのか、トロリーバスが走っているが、車の量はさほどでもなかった。そういえば、元TBSの記者だった秋山さんがソユーズに乗って、宇宙に行ったことがあったが、あのとき、NASAはいろんなシステムの上にのっかって宇宙プロジェクトがすすんでいるけど、ソ連は、どこか人の力であげているという感想をもった記憶がある。人間くささと言おうか。あえていえば、NASAは新幹線。ソユーズは蒸気機関車といった感じだ。そんな駅前の風景をたのしみながら、ホームに戻ってみると、列車が動き始めているではないか。こんなシベリアの辺境の地で、一人おいてけぼりをくってはたまらない。幸いにして、動き始めてまもないころだったこともあって、女性車掌に手をとってもらい、なんとか車内におさまることができた。シベリア鉄道は、発車ベルや合図はないのである。へたをすると、かえってみると、ホームに列車がいないということにもなりかねない。気が付くとその女車掌、カップラーメンを食べている。三人組が日本からもってきたものを、車掌にプレゼントしたらしい。サモワールであつあつのお湯をいれて、おいしそうに食べていた。もう一つのドキッは、おなじ列車で北京からのりあわせたW氏。なにげに、おりたった駅で、すこし離れたところで動いていた機関車をカメラにおさめていたら、銃を構えた男が、どこからともなく近付いてきて、「なにをとっている!カメラをわたせ!」とW氏によれば、叫んでいたらしい(彼はロシア語ができた)。しかし、ここでロシア語でも喋ろうものなら、ちょっとこっちへこいと言われるのが山なので、日本語でしか応対をしなかったら、あきらめてどこかへ行ってしまった。国境でも感じたが、たしかに鉄道は軍事的に重要な施設に相違ないが、衛星でなんでも見通せるときに、素人のカメラで鉄道車両をとったことで、なんの実害があるのだろうか?それは、不思議でなかった。イルクーツクから4回めの夜。夕ご飯は、モスパックの連中と食堂車でいあわせたら、シャンパンがサービスでふるまわれた。いまにおもえば、その料金はどこかに含まれていたのかもしれないが、それでも、シベリア鉄道での最後の夜というのは、そこそこ感慨をもった。ただ、シベリア鉄道にはヨーロッパとアジアの境に塔がたっていて、それをみたかったが、いかんせん、その地点の通過が深夜のため、あきらめざるをえなかった。明け方、列車はもうモスクワまで3時間くらいのところまで来ている。キロポストも3桁だ。薄暗い外をみると、ローカル駅をいくつも通り過ぎる。あきらかに通勤列車の雰囲気の電車をいくつも追い抜いていく。そして、モスクワ、ヤロスラブリ駅着。北京モスクワ9000キロの終演であった。しかし、旅は続く。
2005.06.17
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北京からイルクーツクまでは、フリーページでそのソ連軍人家族は、にこやかに私とHさんを招き入れてくれた。そして座ると、これを飲めとコップを差し出す。もちこんだ牛乳ビンの中から、ヨーグルトになりかけたような、多少、どろっとした飲み物をくれた。無気味に思いながらも口にすると、けっこうさっぱりとした自家製のヨーグルトのようであった。軍人さんは若き将校と言った感じの男で、小さな女の子をつれた、3人家族だった。奥さんは、ブロンドのそのだんなと同じ年格好の女性であった。むろん、外国人の歳ほどわからないものはない。そのとき30代の日本人女性とモスクワを歩いたが、モスクワっこに高校生か?と聞かれた。これは、ほんとうの話。この家族は、ときに夫婦が深刻そうな雰囲気で話をしたりしていたが、ときに、これまた家から持参してきたらしい、黒パンをふるまってくれたりした。その黒パンは、食堂車のものとはまたちがう風味をもっていたと記憶している。おそらく、食堂車は高いと知っていて、家から持ってきたのであろう。窓際に食料のはいった袋が置いてあり、2、3日はろう城できそうなくらいのパンやら果物がはいっていた。そのなかに、例の牛乳瓶も収納されていた。もちろん、夏でもシベリア、冷蔵庫は必要ない。この家族は、食堂車にいくでなく、この家族はすべてをコンパートメントで過ごしていた。そして、その一家は2晩をすごすまでもなく、二日めの深夜に、ボソボソという話し声とともに深夜の駅に降り立っていった。どこの駅かは覚えていない。おそらく、起こしてはまずいと気をきかせていたのだろうと思う。つぎの、乗客は学校の先生。20代の女性で英語も片言が喋れた。赴任先にむかうのだという。いろいろとロシアの同世代の人の話を聞きたいところであったが、逆に日本のことをいろいろ聞いてきた。質問自体は、休みの日はなにをしているか?とか、大学は難しいのか?とか、生活費はどれくらい東京ではかかるか、とか日常的な内容であったが、それに、四苦八苦しながら、答えた。シベリア鉄道で、ロシア人相手に英語の勉強をすることになろうとは思ってもいなかった。それがまた、鉄のカーテンの向こうにも、生身の人間が生きていること、好奇心にあふれた人がいることを教えてくれたような気がした。乗り合わせたロシア人は、この他にも、ロシア人老夫婦がいた。背広の全面には、勲章がぎっしりとはりつけられていて、ロシア語が分からない私達に、手ぶり身ぶりでなにかを伝えようとしていた。手持ちの会話集や辞書を駆使してわかったのは、モスクワにくるんなら遊びにこいとさかんにさそっていたこと。勲章をいろいろと説明してくれたが、分からなかった。でも、あいづちをうったが、それがよかったのかどうか。おそらく第二次大戦などで戦ったくらいの年輩だったと思う。人のいい、まさに好々爺といっただんなさんに、よりそうような奥さんの姿が微笑ましかった。ところで、イルクーツクからは、インツーリストのガイドの女性が、私たちの監視役(?)についた。彼女は、ハバロフスクからパックでモスクワまで目指すモスパックというツアーの先導者だった。なにかにつけて世話をやきにきた。日本人は五人くらいいただろうか。それにわれわれがくっつく。そのうちの一人は、食堂車できいたところ、イルクーツクに着くまでに一度、ベットの二階から落ちたという。なんという強靭な身体の持ち主がいることか。あとアメリカ人のバックパッカー。騒がしいと思って廊下にでてみると、しゃもじのような細長いものに、マトリョーシカのような民芸品を置いて、それが落ちないように走って、その早さをきそっているようだった。それでそのマトリョーシカが落ちたら落ちたら大騒ぎ。ハバロフスクからもモスクワまで9000キロ。いろいろな出会いがある。
2005.06.16
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