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2016.06.13
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カテゴリ: 北朝鮮

[ 書評 ] サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか(新井佐和子) 2004-9-17   極東ブログから

 個人的になのだがこの夏はサハリンや沿海州の朝鮮人についていろいろ思うことがあり、その関連で 「沿海州・サハリン近い昔の話―翻弄された朝鮮人の歴史」 (参照)などを読んだ。この本については先日簡単な書評のようなものを書いたのだが(参照)、そのおり、コメント欄で強く勧められたのがこの「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか―帰還運動にかけたある夫婦の四十年」(参照)だった。精読にはほど遠いが二度読み返した。この問題に結果的に人生の大部を費やした著者ならではの貴重な記録だということがわかる。確かに、この本は、サハリン問題についてまず最初に読まれるべき本だろう。本の概要がてらに帯分を引用する。

戦前、戦中、開拓民として、また戦時動員によってサハリン ( 樺太 ) に渡り、終戦後も同地にとどまらざるをえなかった韓国人を故郷に帰還させるべく、黙々と運動を続けた日韓夫妻がいた。

昭和十八年末、樺太人造石油の労働者募集に応じて渡樺した朴魯学と、戦後朴と結婚した堀江和子である。昭和三十三年、幸運にも日本人妻とその家族の引揚げに加わることができた朴は、その後半生を同胞の帰還運動に捧げ、和子は献身的にこれを支えた。

だが、昭和五十年、サハリン残留韓国人帰還のための裁判がはじまると、この問題はにわかに政治的色彩を帯びて、日本の戦争責任、戦後補償問題へと発展してゆき、夫妻の活動は忘れ去られていった。

サハリン残留韓国人はなぜ祖国に帰れなかったのか。その責任は本当に日本にあるのか。だれがこれを政治的に利用しようとしたのか。夫妻の足跡をたどり、ことの真相を明らかにした労作。

サハリンの韓国人は、なぜ帰れなかったのか

 私は当初、サハリン韓国人の帰還者問題に強い関心を持っていたわけでもなかったので、この問題にゼロのスタンスに近い。そのような人がこの本を読んだ場合、その豊富な情報がきちんと読み込めるものだろうか、と少し気になった。というのは、この本の主眼は、後半部に描かれる、朴魯学と彼と結婚した堀江和子のサハリン残留韓国人帰還運動の苦難の歴史にあるのだが、私のように、むしろその前史のほうに関心を持つ人もいるだろう。

読み返して驚愕することはいくつもあった。が、なかでも、すでに先の書物で知ったことでもあるのだが、戦後サハリンの朝鮮人の区分については考えさせられた。少し長くなるが引用したい。

戦後サハリンには朝鮮族に三つのグループがあった。


ひとつのグループは、先住朝鮮人であった。戦前から入植していたり出稼ぎでやって来た者、戦時動員で来た労働者が含まれる。その出身地はほとんどが朝鮮半島の南であり、心情的にはのちの北朝鮮を忌避していることから、現在は自らを「韓国人」または「韓人」と称している。


 もうひとつのグループは戦後にやって来た「派遣労務者」である。朴の手記には彼らののことがつぎのように記されている。

 二十一年五月ごろだろうか、北韓 [ 北朝鮮 ] からの派遣労務者が四千トン級の船で千名もやって来た。長いあいだ戦争に疲れた耐乏生活のためか、その服装は同じ同胞でありながら恥ずかしいぐらいみじめであった。他の先住民らはその憐れな同胞を接待してやった。その後何回となく船は着いた。労務者の数は約五万人。しかしこの人たちは私たちと思想がちがっていたせいか、常に双方のあいだは不和であったので、たびたび喧嘩が起きたのである。

 私は朴のこの記述を読み、戦後のサハリンには北朝鮮から派遣された労働者がいると知った。雑誌にこのことを書いたりもしたが、さしたる反響もなかった。しかし、平成七年(一九九五)三月二十八日、韓国の「連合通信」の報道によって、朴の手記にあるように、戦後まもなく派遣労働者がやってきたことが証明され「産経新聞」がこのニュースを伝えた。

三つめのグループにソ連系朝鮮人がいる。ウズベキスタン、カザフスタンなどの中央アジアに移住していた朝鮮族のうち、共産党、軍人、ロシア語のできる者が、先住朝鮮人や派遣派遣労働者を管理し、思想教育をほどこすために派遣されてきたのである。エンゲーベーの市町村支部にはソ連系朝鮮人の役人がひとりずつ配属されていた。この中央アジアの朝鮮族とは、一九三七年(昭和十二年)、スターリンの強制移住政策によって、朝鮮の国境近くの沿海州から移住させられた人びとであった。現在約五十万人いるが、この人たちはいま、自らを高麗人と称している。

 引用を書き写しながらこの歴史にいまだ私は呆然とする。歴史に関心を持つものとしては、高麗人・ソ連系朝鮮人の実体や総数がさらに知りたいと思う。

金日成こと金成柱(キム・ソンジュ)は平壌西方万景台に生まれ、後、中国に移り、吉林の学校に通った。その意味で、金成柱は高麗人ではないが、サハリンのソ連系朝鮮人に近い。金成柱はその後、ソ連領に移った。金正日こと「ユーリ・イルセノビッチ・キム」はハバロフスク近郊の軍事教練キャンプで生れたソ連人でもある。


 近世における朝鮮族の全貌と中ロの関わりがもう少し包括的に見えないものかと思う。あまり粗雑に書いてはいけいないが、先日のオセチア事件にも高麗人が関わっているとの情報もある。

 もう一点、私自身無知だったのだが、北送と北朝鮮籍についての関連だ。金石範の「国境を越えるもの 在日の文学と政治」でも考えさせれたのだが、依然、北朝鮮籍(朝鮮籍)についてよくわかっていなかった。しかし、「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」の「北朝鮮帰還事業」のくだりでわかった。ここも長いのだが、重要なので引用する。

話は朴と和子の引揚げからしばらくたったころにもどるが、昭和三十四年(一九五九)、在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業がはじまった。北朝鮮を支持する在日朝鮮人が、祖国への帰国を希望したのに応えて、日本赤十字社が中心となっておこなった事業で、総費用を日本政府が持ち、運営面では主として日本共産党と朝鮮総聯が協同であたった。

共産国の生活からようやく逃れてきた朴ら引き揚げ者は、自分たちの考えとはまったく逆のことをしようとしているこの帰還事業にどれほど驚かされたかわからない。

日本のなかでは北朝鮮が「地上の楽園」だとさかんに宣伝されていたが、それがまったくのウソであることは、サハリンにいた者ならよく知っていた

一九五〇年代の後半、朝鮮民族学校の中学科を卒業した多くの子弟が、北朝鮮の宣伝を聞き、民族的向学心に燃えて帰国していった。だが宣伝と実情のあまりの格差に耐えかねて、サハリンにもどりたいと訴えたが聞き入れられず、脱走してきた子どもが途中で力尽きて死亡するという事例もあった。このとき北朝鮮に帰国した子どもたちの大半は消息不明のまま連絡が絶たれている。

本当のことを知っている自分たちが声を大にしていわなければ、多くの在日同胞がまた同じ憂き目にあわされる。朴は昭和三十四年の二月十二日に数十名の引揚者仲間とともに外務省へ北朝鮮帰還事業反対の陳情にいき、国会周辺で反対の気勢をあげた。さらに代表十人が藤山愛一郎外相に会いにいって談判したが「人道的的立場からの送還」との答であった。

もしこのとき日本政府が朴たちの声に耳を傾けていたら、「日本人妻」の悲劇は起きなかったかもしれない。

結局、昭和三十四年から平成元年(一九九八)までのあいだい、日本人家族を含めて、およそ九万三千人が帰国したという このうち日本人妻が千八百名、日本人夫とその子ども等が約五千人いた。合計六千八百余名が日本国籍所有者である。

帰国といっても、もともと地理的に北朝鮮から来た人の多くは戦後の引揚げで帰国しているからこの九万三千人の大部分は南部 [ 韓国 ] 出身者である。

 先日「プリンス正男様、母の生まれた国へ、またいらっしゃい」(参照)で金正日の後妻高英姫(コ・ヨンヒ)について触れ、その父高泰文が済州島の生まれらしいという噂に言及したものの、済州島出身者がなぜ朝鮮籍(北朝鮮)なのかよくわからなかった。しかし、 実態は北送(北朝鮮帰還事業)の人は南韓出身者であったのだ 。多少は南韓出身者もいるだろうくらいに思っていた私はまったくの無知であった。

 なお、北送について朴は、彼の経験からか、北朝鮮の労働力不足を補うためのものだと推測していたようだ。

 サハリンの韓国人帰還の問題は、あまりに長い月日が経ち、すでに問題は、当初の様相とは異なっている。そのあたりも「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」はよく描いている。

現在ではサハリン帰還という問題ではなくなっている。例えば、最近の朝鮮日報「サハリン同胞 80 名、 16 日故国訪問」(参照)で、サハリンに移住した韓国子孫80名が短期間だが母国を訪問をしているようすが伺える。記事では 「日帝時代にサハリンに強制移住させられた韓国同胞たちの子孫」 と記載されているが、それを直接批判するよりも歴史を知る者の眼で見守りたいと思う。

 同様に、関連するすべての物語はもう昔のことという感もあるが、そうでもないのかもしれない。余談めくが、昨日の朝日新聞系「北朝鮮帰還事業で新資料 政府や日赤の積極関与明らかに」(参照)を見て、少し気が重くなった。

在日朝鮮人9万人余が北朝鮮に渡った帰還事業(59~84年)に先立ち、日本政府や有力政治家、日本赤十字が55年から赤十字国際委(本部・ジュネーブ)に積極的に働きかけていたことを示す秘密文書が、オーストラリア国立大学のテッサ・モーリス・スズキ教授(日本史)の調査で明らかになった。大量帰還をめざして日本の政治・行政が早い段階から主体的に関与していたことが、文書で裏付けられた。

文書は、赤十字国際委が秘密扱いを解き今年公開した。帰還事業は一般に、58年の在日関係者の運動や北朝鮮政府の呼びかけなどで機運が高まり、それを受けて59年2月に日本政府が実施を閣議了解したと説明される。公開された文書は56年7月に国際委が帰還実現へのあっせんを提案する以前のもので、この時期に日本の政治・行政が積極的に行動したことを示す資料はほとんど知られていない。

 私はまだこの歴史事実について実態がわからないので言及できないが、印象としては、トホホである。

 そして、「サハリンの韓国人はなぜ帰れなかったのか」の後書きで、新井佐和子はこう書いていることが痛感される。

 半世紀にわたる出来事を一冊の本にまとめるには、初稿を多く割愛したが、その中で最後までためらった部分がある。 それは、執筆をはじめるにあたり、堀江和子さんに書いていただいた手記のうち、和子さんが最も訴えたかったこと、それは、ご主人の魯学さんが亡くなられたあと、社会党をバックにした一時帰国招請グループから受けた、口ではとうてい言い表せない侮辱とあからさまな妨害のかずかず、これがつもって韓国流でいえば大きな「恨」となり、彼女の胸中に十年近くしこっていたのだが、その具体的な一つの例を、私はこれが公に訴える最後の機会でもあるにもかかわらず、あえて載せることをしなかった

ずっと行動を共にしてきた私には、そのころの悔しさがいつまでも強くこみ上げてくる。だが一方ではこの「恨」をバネにしなければ、女ふたりがあのような仕事を出来るはずもなかったという思いもあるので、この際、胸に去来する個人的な思いはすべて呑みこんで、二人だけの老後の語りぐさにとっておこうと考えた。

 個人的にはその話を伺いたいとも思う。だが、その大きな「恨」を胸秘める徳こそが朴魯学が日本人に伝えたいものであったのかもしれないとも思う。






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最終更新日  2016.06.13 05:44:43
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