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慰安婦問題の「総括」は、リベラルたち自身の「人生総括」の問題だ! 避けるな!総括を!! 2024-11-24 はんぺん 韓国における「従軍慰安婦問題」(注:従軍という言葉は、戦後の一部の運動家による「造語」であり、本来は、存在しなかった。誤解を招くので、存在しなかった「造語」は、使うべきではない・・・と、長年言ってきた。ここでは、韓国側が使ってきた、この造語を、一時的に、解説のために使用したモノ)は、戦後のある時期から、突然飛び出してきた。基本的には、韓国左派(リベラル派?)が、ひんぱんに使用していたが、その出発は、日本のリベラルたち(福島瑞穂:当時弁護士)が、問題提起し、韓国まで出かけて、(証言者探し)を行ったことで、(火が付いた!)モノだ。戦後の戦争責任の問題(賠償なども含めて)は、極めて不十分にしか認識されず、ヒロヒト(裕仁)の始めた戦争で、甚大な被害を被った国民が、本来、補償されなければならないが、実施されてこなかったことに、大きな問題を抱えていたその実態を暴きだすことは、辛苦をなめさせられた内外国民に報いる重要な(運動)だ。日本軍は、海外でも、侵略するなか、多くの被害を現地住民に与えてきたから、きちんと、調査し、謝罪し、補償るのが、当然の流れである。今回の福島瑞穂たちによる、慰安婦問題の(掘り起こし)は、そのこと自体、間違いであるハズは無い。問題は、その(掘り起こし)が、予断と偏見の下、「始めに結論ありき」で、行われた事であった。多くの事実が(捏造)されていく・・・・・・あってはならない事が(事実として開陳)されたことで、それが、一人歩きし、日本と韓国の間に、大きな国際間摩擦を起こしてしまう・・・・・これは、リベラルによる(犯罪)だった。日本軍が、多くの現地の朝鮮人業者を使って、職業としての(慰安婦)募集をしたにもかかわらず・・・いつの間にか、日本軍隊が、直接、強引に拉致監禁して、連れ去った・・・という(大ウソ)が、真実の如く、語られるようになっていく・・・・アジアへの侵略戦争についての(贖罪意識)から(慰安婦問題=補償)は、多くの日本人の関心を買い、支援の輪が拡がった・・・それに参加していた当時の僕も、そういう時期が、長かった!!福島瑞穂たちの(調査)には、多くの(ウソ)が、でっち上げられている。今では、それらが、明らかにされてしまったので、日本の多くの(支援者たち)は、手を引いてしまったが、この(ウソ)が、大手を振っていた時代は、大阪でも(おそらく全国でも)、多くの集会、講演会、デモが、展開され、僕も、その多くに参加してきた。事実が、明らかになっていく中で、当時の運動の中心にいた人たちは、どのような(総括)をしているのだろうか? と僕は気になるが・・・・どうなのだろうか?皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――韓国も日本も真実に基づかない運動に騙されてきた――韓国の歴史学者が実証研究で明らかにした「慰安婦問題」の真実 2024-6-26 朱 益鍾 『反日種族主義「慰安婦問題」最終結論』より#1 出典 : #文春オンライン「日本軍慰安婦問題」は、長年、日韓の間で大きな問題とされてきた。この問題をめぐって、しばしば激しい反日運動が起きたことも記憶に新しい。しかし、韓国の歴史学者、知識人の間で、植民地時代の朝鮮について、実証的な研究を行い、それまでの反日的な歴史観は間違いだったことを論証する人々が現れた。 それが一冊にまとまったのが李栄薫編『反日種族主義』である。そのメンバーの一人である著者の朱益鍾氏は、反日運動の核のひとつであった慰安婦問題を取り上げ、膨大な資料に基づき、「慰安婦問題」の事実を明らかにした。その最終結論ともいえる『反日種族主義「慰安婦問題」最終結論』(文藝春秋)より、プロローグを一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)「反日集会」の参加者が激減 2019年の光復節【注:8月15日。1945年のその日、日本の統治から脱した、として韓国では祝日に定められている】前日である8月14日水曜日、ソウル市の温度計は摂氏35度まで上がっていた。その日の正午、ソウル市鍾路(チョンノ)区にある日本大使館の前で開かれた第1400回水曜集会【注:慰安婦問題に対する日本政府の公式謝罪及び金銭的・法的賠償を要求して開かれている集会。1992年1月8日から毎週水曜、日本大使館前で行われている】の現場はさらに暑かった。 2万人を超える参加者たち(集会主催側の推計)が4車線の道路を埋め尽くし、「日本政府は、日本軍慰安婦が国家の政策として行われた戦争犯罪であることを認めろ」「日本政府は被害者たちに謝罪しろ」と熱っぽくスローガンを叫んだ。その1ヶ月余り前から、いわゆる徴用賠償判決をめぐる日韓の衝突が起きていた。大統領民情首席秘書官職から退いたばかりの曺国(チョグク)法務部長官候補は、日本に対抗し竹槍を持てと煽動し、「行きません、買いません」という日本への旅行の忌避や日本商品の不買運動が広がり、商店の棚から日本のビールが姿を消すなどの、まさに反日の暴風が韓国中に吹き荒れていた。 それから3年7カ月経った2023年3月15日の水曜集会には、20人余りの参加者が本来の集会場所から離れた所に集まった。一方、彼らを批判する反日銅像撤廃及び慰安婦法廃止を目指す運動家たちの集会には、それより遥かに多い九〇人余りが集まった。反水曜集会が水曜集会を圧倒したのである。その間、いったい何が起きていたのか。実証研究がベストセラーに 2019年の夏、韓国の幾人かの知識人たちが『反日種族主義』という本を出し反日の暴風に立ち向かった。編著者の李栄薫(イヨンフン)教授は生涯をかけた経済史研究を通し、朝鮮後期の資本主義萌芽論や日本による植民地収奪論などの韓国史学界の虚構の歴史認識を打ち壊した。さらに朝鮮王朝がなぜ衰亡したのか、植民地化とともにどのように近代文明が導入されたのか、独立後の大韓民国の驚くべき発展がなぜ成し遂げられたのか等を徹底して事実に基づき究明した。彼は後に続く学者たちとともに、当代の韓国人たちの間に広がっていた反日種族主義を打破しようとした。 筆者も執筆に加わったその本は、韓国人が植民地時代に対して持っている歴史認識というものは作り出された話、すなわち虚構(フィクション)であることを痛烈な筆致で暴露した。 今日多くの韓国人たちは、帝国主義下にあった日本が、大韓帝国末期の混乱期に朝鮮の領土だった竹島(韓国名は独島(トクト))を奪い取り、土地調査事業の過程で朝鮮人を虐殺し、土地を奪い、米を収奪し、朝鮮人数百万人を労働力として強制動員し、かつてアフリカで行われた奴隷狩りさながらに朝鮮の少女たちを銃剣で脅して連行し、日本軍の性奴隷にしたと信じている。この本は、このような韓国人の近現代史認識は根拠のない作り話であり、この嘘の話を鵜呑みにしている韓国人たちが日韓関係、更には米韓関係を破綻させているのが現在の大韓民国の危機の根源であると喝破した。 この本に対し、反日種族主義に染まった学界と言論界に従事する者たちが悪意に満ちたとげとげしい非難を浴びせかけてきたが、一方で本に共感する人々も多かった。この本は学術教養書としては異例の11万部以上の超ベストセラーとなった。慰安婦運動内部で次々不正が発覚 2020年5月には、慰安婦運動を牛耳ってきた正義記憶連帯(以下「正義連」とする)の前理事長・尹美香(ユンミヒャン)による後援金横領疑惑が暴露された。驚くべきことに暴露したのは、尹美香と手を結び慰安婦運動の顔ともなっていた元慰安婦の李容洙(イヨンス)だった。彼女は、尹美香が元慰安婦たちを利用して集めた国民からの寄付金を私的に流用し、更には私欲にかられて国会議員にまでなったと批判した。このことはすぐにソウル市と政府から支援金を貰っている慰安婦運動組織・正義連と、その前身である韓国挺身隊問題対策協議会(以下「挺対協」とする)の会計不正及び寄付金橫領疑惑へと広がった。 警察による捜査が進んでいた6月、この横領疑惑の内幕を知る麻浦(マポ)区にある慰安婦センター「平和のわが家」の管理所長が謎の自殺を遂げた。文在寅(ムンジェイン)政府の検察はその年の9月、尹美香を業務上横領、詐欺などの疑いで起訴した。しかし、文在寅(韓国左派大統領)が任命した金命洙(キムミョンス)大法院長【注:日本でいえば最高裁判所長官】のもとにある地裁は2年半にもわたるモタモタ裁判の末、2023年2月、1700万ウォンの横領のみを事実として認め、1500万ウォンの罰金刑を宣告した。尹美香はこの判決で免罪符を得たかのように意気揚々としていたが、9月の二審判決では懲役1年6カ月、執行猶予3年を言い渡された。(略) 慰安婦運動家らが主張し、その間、大多数の韓国人が信じてきた慰安婦の物語は、果たして本当なのかという懐疑が広がり始めた。朝鮮人少女は本当に日本の官憲に強制連行されたのか、彼女たちは本当に慰安所で報酬も貰えず日本軍に集団強 姦され、日本の軍人と業者に暴行拷問されたのか、そして本当についには日本軍が敗走する戦場に捨てられ虐殺されたのか、と。事実と食い違う証言 実のところ、慰安婦運動に関わる韓日の慰安婦問題研究者たちの行ってきた研究自体が、その運動の真実性に疑問を抱かせるものだったのである。1990年11月の挺対協の結成、1991年8月の元慰安婦・金学順(キムハクスン)の最初の証言、1992年1月の水曜集会の開始から今に至る30年余りの間、慰安婦関係の資料が数多く発掘され、それらを分析した研究が多数出された。そして、その大多数の研究者は、結論として一様に「慰安婦は強制連行された性奴隷だった」と主張してきたが、彼らが資料の分析を通して実際に示した事実はその主張とは食い違っていた。 強制連行、強制動員の客観的証拠はなかった。日本の軍人や官憲に強制連行されたことが客観的資料により明らかにされた慰安婦は一人もいなかった。性奴隷であったことは事実として立証されておらず、「私たちがなぜ性奴隷なのか」と反発する元慰安婦もいた。慰安婦運動家たちができるのは、「被害者がまさか噓をつくわけがない」「被害者の涙が証拠だ」と元慰安婦たちの証言の肩をもつことだけなのである。日本軍による強制連行、虐待、暴行を語った元慰安婦の証言。しかし、それらの証言をあらためて検証すると――? 『反日種族主義「慰安婦問題」最終結論』より#2 朱 益鍾朱 2024/06/19「日本軍慰安婦問題」は、長年、日韓の間で大きな問題とされてきた。この問題をめぐって、しばしば激しい反日運動が起きたことも記憶に新しい。しかし、韓国の歴史学者、知識人の間で、植民地時代の朝鮮について、実証的な研究を行い、それまでの反日的な歴史観は間違いだったことを論証する人々が現れた。 それが一冊にまとまったのが李栄薫編『反日種族主義』である。そのメンバーの一人である著者の朱益鍾氏は、反日運動の核のひとつであった慰安婦問題を取り上げ、膨大な資料に基づき、「慰安婦問題」の事実を明らかにした。その最終結論ともいえる『反日種族主義「慰安婦問題」最終結論』(文藝春秋)より、プロローグを一部抜粋して紹介する。(全2回の2回目/1回目から続く)辻褄の合わない慰安婦証言 挺対協が関わる慰安婦証言集の中から、「慰安婦」キム・ウィギョンの証言をかいつまんでみてみよう。 **************** 1918年、京城(注:現・ソウル)の太平(テビョン)通りで生まれたが、家は貧しかった ……20歳になった1938年の春だったか秋だったか、2人の日本の軍人が、私が一人でいる家に来た。彼らは「軍人たちの所に行こう」と噓をつき、汽車の駅に私を連れていった。 そして馬を載せる貨車に八人の女性と一緒に乗せられた。京城の女性、全羅道の女性、慶尚道の女性など、みな捕らえられて来たのだった。…… 突然汽車が止まったと思ったら、一群の日本軍が汽車に押しかけてきて、無理やり貨車の戸を開けた。汽車には全部で30人余りの女性たちが乗っていたが、日本軍は私たちをみな野原に引きずり出し輪姦した。女性たちが死に物狂いで反抗すると、日本軍は刀で威嚇し銃床でなぐり始めた。私はなぐられ、身体中傷だらけになり血まみれになった。幾人かの女性は逃げようとしたが、むやみやたらに銃で撃たれ弾に当たって死んだ。…… 汽車は南京の、とある河の北側に到着した。私たちは馬小屋で過ごしたが、数日間は食べるものもなく飢えるしかなかった。私たちは昼は日本軍の服を洗い、夜は日本軍に蹂躙された。この部隊はときには数百人にもなった。…… 南京に一年ほどいたが、その後、車に乗せられて部隊について回り、宣昌(2年)や長沙(4年)に移った。……日本の軍人たちがお金をくれたが、日本が負けるとそれには何の価値もなくなった。(韓国挺身隊研究所 2003年) ****************** 私には理解しがたい証言である。日本の軍人が白昼に京城のある民家に押し入り「軍人たちの所に行こう」と言って女性を引っ張っていった、そうやって引っ張っていった女性たちを汽車に乗せ、遠く中国にまで連れていった、そして、どこかで汽車が止まると、別の日本軍が束になって押しかけてきて女性たちを強 姦し、逃げる女性たちは銃で撃ち殺したというのである。女性たちが逃げたとしても、軍人だったらたやすく捕まえられたはずで、せっかく遠くまで連れてきた女性たちを、そんなに簡単に銃で撃ち殺したりするだろうか。そもそも、苦労して女性たちを引率してきた側の軍人たちは、押しかけてきた側の軍人たちが彼女たちを銃で撃ち殺したりしても、指をくわえて見ていたのだろうか。年老いた元慰安婦が辻褄の合わない話をするというのは、ありがちなことではあるが、この証言を採録した者が何の事実確認作業もしなかったというのは、私にはまるで理解できない。理解しかねるのは、有名な慰安婦運動家の李容洙の証言も同じである。1993年に刊行された初の慰安婦証言集で李容洙は、友人の母親から、友人と一緒に良い所に仕事に行くよう提案され、こっそり家出したと証言している。日本人の男から赤いワンピースと革靴を貰い、とても嬉しくて彼についていったという話だった。李容洙は1992年8月15日に放送されたKBSテレビの「生放送 女性、私は女子挺身隊」という番組でも「私はそのとき16歳で、貧しくてボロしか着られず、ろくに物も食べられずにいたのだけれど、誰だったか赤いワンピース一着と革靴一足を持ってきてくれました。それを渡されながら行こうと言われ、それを貰って、そのときは何も知らずに、いいよと言ってついてゆきました」と証言していた。 ところが後日、李容洙は、日本の軍人や官憲に強制的に連れてゆかれたと証言を変えた。 特に2007年2月16日の米国議会の聴聞会では、「軍人と女の子が入ってきて肩をこう摑み、片手で口を塞ぎ、背中に何かを突きつけながらそのまま連れてゆきました、夜に」と証言した。米国議会の聴聞会という重要な席でようやく、それまで口にできなかった真実を述べたのか、それとも、あまりにも重要な場だったので意図的に噓をついたのか。このことについて慰安婦運動家たちは、何の言及もしようとしない。透き通った目で資料を読む 慰安婦がいかなる存在だったのか知っていた同時代の人たちは、慰安婦を日本による植民地支配の被害者とはみなさなかった。韓日請求権交渉においても、慰安婦は韓国側の被害事例として提起されなかった。日本軍慰安婦が存在していたときから40年余りが経ち、その記憶を持つ人たちがいなくなると、新たな慰安婦の物語が作られ始めた。 道ばたで、村の井戸ばたで、あるいは我が家で日本の軍人や官憲に捕まえられた朝鮮人少女が、 日本による侵略戦争の戦場に引っ張ってゆかれ慰安婦にさせられた。朝鮮人少女は日本軍の性の慰み者として酷使されたばかりでなく、日本の軍人に虐待され暴行された。そしてついには日本の敗戦時、その少女らはふるさとに帰れず虐殺された。運よく生きて帰ってきた少女らは、後日おばあさんになってようやく慰安婦の実態を告発し、日本を糾弾した。・・・・・・・ この慰安婦の物語は、強制動員された徴用工の物語とともに韓国人に強烈な反日感情、反日主義を呼び起こした。自分の姉妹が、娘が日本軍に連れてゆかれて性の慰め者になったとしたら、どうして怒らずにいられるだろうか。この物語を作り出し慰安婦運動を主導した挺対協、正義連は、ついに政府の対日外交まで牛耳るに至った。その結果、2010年代末の慰安婦運動と徴用工運動は韓日関係を破綻状態に追い詰めた。 歴史の真実を明らかにしようとする幾人かの勇気ある歴史家たちが、慰安婦の真実を語り始めた。そしてまた、慰安婦運動家たちの間の内輪揉めによりその黒い内幕も一部露わになった。ついに真実の時間が訪れた。慰安婦関連資料はその間、とてつもない量にまで蓄積された。反日の色眼鏡をはずし、透き通った目でこれらの資料を読みさえすれば、日本軍慰安婦制がどのようなものであったのか、きちんと把握できる。さあ、一緒に日本軍慰安婦制の内幕を探る旅に出よう。―――――――――――――――――――――――――韓国検察、尹美香議員に懲役5年求刑…「元慰安婦のためのお金、小遣いのように流用」 2023-1-7 韓国中央日報日本語版6日にソウル西部地裁の審理で行われた結審公判で、正義記憶連帯(正義連)後援支援金を私的に流用した容疑などで起訴された無所属の尹美香(ユン・ミヒャン)議員(58、元正義連理事長)に対し、検察が懲役5年を求刑した。共に起訴された正義連理事であり元韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)常任理事のキム被告(48)には懲役3年を求刑した。検察は尹美香被告について「長期間にわたり犯罪行為の種類が多いだけでなく罪質も重く、団体最高責任者であり実務責任者として犯行を主導したにもかかわらず反省する姿を見せていない」と主張した。続いて「長い歳月の間、苦痛を受けたおばあさんたちのために市民が少しずつ募金した資金を自分の小遣いのように使用し、挺対協の資金をあたかも個人事業家のように使う過程で横領の犯行をした」と叱責した。尹被告は最終弁論で「2年間の裁判で行政と会計上の未熟があったことを痛感した」とし「その責任があるのならば、すべて代表の私にあると考える」と述べながら頭を下げた。その一方で「検察が主張するように私益を追求する意図を持って挺対協で仕事をしたのではない」とし「私と私の同僚がまた旧日本軍慰安婦被害者とした約束を守って、平和活動を活発にできるよう賢い判決を下してほしい」と訴えた。尹被告とキム被告は管轄官庁に登録することなく2015-19年に団体の口座で計41億ウォンの寄付を受け、慰安婦被害者・金福童(キム・ボクドン)さんの葬儀費や海外展示性暴行被害者支援などの名目で1億7000万ウォン(約1780万円)の寄付金を個人の口座で募金した疑い(寄付金品法違反)で2020年9月に在宅起訴された。また2011年-20年に個人の口座で募金した慰安婦被害者の葬儀費など1億ウォンを私的な用途に使った業務上横領容疑と、2013年-20年に政府とソウル市から補助金3億ウォンを不当に受領した補助金法違反容疑もある。さらに重度認知症と診断された吉元玉(キル・ウォンオク)さんの心身障害を利用して女性人権賞の賞金1億ウォンのうち5000万ウォンを正義記憶財団に寄付させた疑い(準詐欺)、慰安婦被害者施設を相場より高値で取得した容疑(業務上背任)もある。尹被告とキム被告に対する判決は2月7日午後2時に言い渡される。――――――――――――――――――――――――慰安婦被害支援施設「ナヌムの家」後援者、後援金返還訴訟1審で敗訴 2022-12-21 韓国中央日報日本語版 韓国京畿道広州市(キョンギド・クァンジュ)にある日本軍慰安婦被害者支援施設「ナヌムの家」の後援者が後援金返還訴訟1審で敗訴した。 ソウル中央地裁民事68単独(部長パク・ジンス)は20日、後援者50人余りが同施設の運営会社である社会福祉法人「大韓仏教曹渓宗(チョゲチョン)ナヌムの家」に対して起こした後援金返還請求訴訟で原告敗訴の判決を下した。当時、同施設の一部職員は運営会社が慰安婦被害者のために後援金を使わないで不動産や現金資産として保有するなど、違った目的のために使用しているという疑惑を提起した。これに対して「慰安婦ハルモニ(おばあさん)寄付金および後援金返還訴訟対策会」は2020年5月、同施設に対する後援金流用論争が持ち上がったことを受け、約9000万ウォン(現レートで約923万円)を返還するよう求める訴訟を起こした。ただし、この日裁判部は返還訴訟1審で原告敗訴の判決を下した。後援者側は「ナヌムの家関連の疑惑が事実かどうか明確にならなかった状況でこのような結果が出て残念」としながら「判決文を入手した後、控訴するかどうか決める」と話した。後援者は韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)と日本軍性奴隷制問題解決のための正義記憶連帯(正義連)の理事長を勤めた尹美香(ユン・ミヒャン)無所属議員に対しても後援金の返還を請求している。裁判所は尹議員の刑事裁判1審結果を見守った後、審理を続ける方針だ。尹議員は政府補助金を不正に受け取り後援金を個人口座で募集するなど私的流用容疑で2020年9月に起訴されて1審裁判を受けている。
2024.11.24
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日本人拉致救出に動くどころか、報道もせず、無視を決め込むリベラルたちの(残酷!) 2024-11-23 はんぺん 本来、もっとも人間を大切にするべきハズの社会主義国(中国・北朝鮮・ロシア)が、率先して独裁体制を堅持し、率先して民衆を弾圧している・・・その事実から、目を背けてきたのが、日本のリベラルたちだ。そう社民党・新社会党・MDS・アサートの人たちの事だ・・・・(MDSとは、民主主義的社会主義運動という、泡沫的社会主義政党の事だが)彼らが、中国・北朝鮮・ロシアの人権弾圧を 非難・糾弾することは、ほとんど無い・・・これに、ずーっと違和感を持ってきた。これが、リベラル? これが、進歩的??? と。我々は、歴史上において、全体主義、共産主義の蛮行をイヤというほど見せつけられてきた。にもかかわらず、「民主的な新しい社会主義社会をめざします」(新社会党綱領=『21世紀宣言』)などと、社会主義の(洗脳)の呪縛から解放されない(守旧派)の現状を見ていて、リベラル派の凋落が、理解できる・・・・新潟市の中学生だった(横田めぐみ)さんが、全体主義=北朝鮮の工作員に誘拐され、北朝鮮に連れ去られてから、47年になる。この日本人拉致問題については、僕が、いつも思う事は、この(人権不在)の独裁国家に翻弄されまくる(民主国家=日本)という構図だ。日本自身が、国内に多くの問題を抱えていることは、間違いないし、それを改革することは、重要ではあるが、この独裁国家の(人権問題)は、レベルが違う!!ところが、不思議な事に、日本の進歩的と言われる人々やグループは、この独裁国家、共産党国家が、本質的に内包している(人権不在)などの諸問題に、一貫して目をつぶり続けてきたことだ!!この人たちは、恥ずかしくないのだろうか? と、言ってきたが・・・一向に反省する様子は、無さそうだ・・・13才だった横田めぐみさんが、拉致されたのは、1977年11月のことだった。学校から帰る途中に、拉致されたという。今年、60歳になった。なんという(むごい)こと(むごたらしい)ことだろうか・・・・しかし、日本リベラルからの(コメント?)は、この47年の間、ほとんど無かったことに、僕は、驚きを通して、呆れ果てている・・・・無視され続けてきたのだ・・・・ 彼らが、(人権)の立場から、日本人救出に動いたという話も、まったく聞かない!! これが、真実だ・・・・そして僕は言う・・・「あなたたちに、人権を語る資格は無い!」と。違うだろうか??皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――早紀江さん「長い間、何も見えない」 横田めぐみさん拉致から47年 2024年11月13日 朝日新聞 横田めぐみさん拉致から15日で47年となるのを前に記者会見した母の横田早紀江さん=12日午後、川崎市川崎区 新潟市の中学1年だった横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されてから15日で47年となるのを前に、母の横田早紀江さん(88)が12日、自宅のある川崎市で記者会見した。救出に向けた交渉が進展しない状況に「どうにもならない気持ち」と落胆の思いを吐露しつつ、「助けてあげるんだという思いだけで家族は頑張っている」と訴えた。 13歳だっためぐみさんは1977年11月、学校から帰る途中で拉致された。帰国を果たせないまま先月60歳の誕生日を迎えた。早紀江さんは「(拉致から)47年って口で言いたくないぐらいの長い間、何も見えない」と打ち明けた。さらに、これまで14人の首相に早期救出を要請してきたことをあげ「石破さんの代で生命を救うと第一に掲げて取り組んでいただきたい」と注文した。 トランプ次期米大統領については、早紀江さんら家族会のメンバーが過去に面会した時のことを「覚えていて下さっていると思う」とした上で、「真剣に動かれると思っています」と期待感を示した。 政府が認定している拉致被害者17人のうち帰国できていない人は12人。この12人の親のなかで存命なのは早紀江さんと有本恵子さんの父の明弘さん(96)の2人だけだ。早紀江さんの夫の滋さんも2020年、87歳で亡くなった。改めて国民に呼びかけたいことを問われた早紀江さんは「もし自分の家族が煙のように消えちゃって、40年も放っておかれるということがご自身に起きたときにどう思われるのか。そのことをわかってください」と語った。
2024.11.23
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「ウクライナ侵略戦争反対」を掲げて進め!!! 現役・次世代への啓示は、これしかない・・・ 2024-11-22 はんぺん ロシアによる「ウクライナ侵略戦争」は、全体主義の実態そのものだった。(ロシア居留民の保護) どこかで聞いた言葉だ。そう満州国を「建国?」した日本帝国陸海軍が、大陸侵略に際して、頻繁に用いた言葉だ。ヒロヒト(裕仁)の天皇制絶対主義により、始められた、日中事変、その軍事侵略により、極東アジアでは、数千万人の人命が、奪い去られた。この諸悪の最高責任者は、ヒロヒト(裕仁)だった!! そう戦後、白々しく生き延びた男、天寿を全うできた、幸運な男・・・・この男の命令で、300万以上の日本人、数千万人のアジア民衆が、貴重な人生を、ムダにしてしまったのだ。今、手元に「新社会大阪 NO,177」という、新社会党大阪府本部発行の機関紙が、ある。2024年11月発行というが、相変わらず、偏向した内容で、がっかりしている。「社会主義」への総括、反省の無い、自我自尊の宣伝紙・・・・自分たちだけが、正しくて、みんなは、この旗の下に集まれ・・・という(呼びかけ=アピール)なのだろう。僕たちが経験した、あの1970年安保闘争時の雰囲気そのままの(進歩の無い)リベラルの現実だ・・・・あの時代から、もう54年が過ぎ去っている。この長い時間、彼らは、相変わらず「平和憲法守れ!」「自衛隊反対!」「安保反対!」「沖縄基地反対!」と、オウムのように繰り返してきた。それが、正しいという(信仰)の下に・・・・だ。その「過ち」を何度も指摘してきたが・・・ 「過ちて改めざる是を過ちと謂う」・・・これは、間違うことよりも、それを改めないことの方が、より重大な間違いだ、という戒め・・・だが。 彼らには、この世から消え去るまで、その(過ち)に気づくことは無いと思う。気の毒だが・・・・仕方がない。皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――ロシアのウクライナ侵攻を「平和と人権」の観点から考える 2022年04月21日 (公財)世界人権問題研究センター所長 坂元 茂樹https://khrri.or.jp/blog/2022_04_21_post_5.htmlロシアによるウクライナ侵攻 2022年2月24日、ロシアによる「特別軍事作戦」と称するウクライナ侵攻が始まった。ロシアは、その3日前の同月21日、親ロシア派がドネツク州とルハンシク州の一部を実効支配する地域の国家承認を行った。 翌25日、国連安全保障理事会(以下、安保理)において、米国とアルバニアによって共同提案された、ロシアの侵略はいかなる国の領土保全又は政治的独立に対する武力による威嚇又は武力の行使を禁止する国連憲章第2条4項に違反すること、ロシアはウクライナに対する武力行使を即時に停止し、すべての軍隊を即時、完全、無条件に撤退させること、2月21日のロシアの決定[国家承認]はウクライナの主権及び領土保全に違反し、即時かつ無条件に同決定を撤回することを内容とする決議案は、ロシアの拒否権行使によって否決された。ロシア以外の理事国は11カ国が賛成し、3カ国(中国、インド、アラブ首長国連邦)が棄権した。 ロシアのネベンジャ国連大使は、反対票を投じた理由を、「決議案は、8年以上にわたり、悲劇を経験しているウクライナの人々の利益に反しており、2014年のクーデターにより権力を握ったキーウ政権はドネツクとルハンシクの人々を爆撃しており、ウクライナはミンスク合意を履行していない」などと述べ、大量虐殺を受けている人々を守ることだと説明した。ここでいう人々とは、ウクライナ東部にある「ドネツク人民共和国」及び「ルハンシク人民共和国」の独立を宣言しているドネツク州とルハンシク州の「ロシア系住民」を指す。 今回の軍事侵攻に対し、ネベンジャ大使は、「国連憲章第51条に基づき決定した」と説明する。国連憲章第51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と規定し、加盟国による個別的・集団的自衛権の行使を認めている。ロシアのロジックによれば、ロシアが国家承認したドネツクとルハンシクの両人民共和国からの軍事支援の要請を受けたので、承認時にロシアとの間で締結した協力協定に従って集団的自衛権に基づき軍事支援を行ったということになる。また、個別的自衛権で正当化しようとすると、「自国民」保護のための個別的自衛権に基づく武力行使となる。 ロシアは、その周辺国への軍事介入に際して、しばしば「ロシア系住民」の保護を名目にしてきた。2008年のグルジア(現ジョージア)紛争では、親ロシア派の南オセチア共和国とアブハジア共和国のロシア系住民の保護を理由に軍事介入し、両国の独立を一方的に承認した。確かにロシアは、2008年の時点で90%近くの住民に自国のパスポートを付与していたが、それが、国際法が要求する現実かつ実効的な国籍の要件を満たしていたかどうか疑わしい。ロシアのウクライナ侵攻に対する国連の対応 ロシアは、今回の「特別軍事作戦」の目的について、ウクライナの「非軍事化と中立化」あるいは「非ナチ化」を挙げている。しかし、ウクライナにおけるナチズムはそもそも現実には存在せず、「ロシア系住民」の保護を必要とするようなウクライナによる攻撃も存在しなかった。今回のロシアの軍事侵攻を正当化する事態は何ら存在しない。 安保理決議が採択できなかったことで、安保理の要請で2月28日に国連総会緊急特別会合が開催された。同特別会合は、3月2日、16項目からなる「ウクライナに対する侵略」と題する決議(A/RES/ES-11/1)を、193カ国の加盟国中、賛成141カ国、反対5カ国(ロシア、ベラルーシ、シリア、北朝鮮、エリトリア)、棄権35カ国(中国、インド、イランなど)で採択した。本決議は日本を含む共同提案国96カ国、共同提案国以外の賛成国45カ国という圧倒的多数で採択された。国際世論のフォーラムとしての国連総会は、ロシアによる力による現状変更の試みに対して明確に「否」を突きつけた。 その後、国連総会緊急特別会合は、2022年3月24日に、ロシア軍によるウクライナの人口が密集した都市、特にマリウポリの包囲、砲撃及び空爆を含む敵対行為におけるジャーナリストを含む文民や民用物、特に学校や医療用施設、輸送手段への攻撃や地方の首長の誘拐など、「国際人道法のすべての違反及び人権の違反や虐待を非難し、1949年のジュネーヴ諸条約及び1977年のジュネーヴ第一追加議定書をすべての武力紛争当事者が厳格に尊重することを要請し、適用可能であれば、追放送還の禁止原則を含む国際人権法及び国際難民法を尊重することを要請する」(9項)ことを含む、「ウクライナに対する侵略の人道的結果」と題する決議(ES-11/2)を採択した。国連人権理事会におけるロシアの追放決議 国連人権理事会は、こうしたロシア軍の行動に対して、2022年3月4日、ロシアのウクライナ軍事侵攻で起きた人権侵害に関する独立した国際調査委員会の設置をめぐる決議案を、47カ国の理事国中で賛成32カ国、反対2カ国(ロシアとエリトリア)、棄権13カ国(中国、ベネズエラ、キューバなど)で採択した。当然のことながら、この調査委員会は迅速に設置される必要があるが、実際に設置されて調査を開始するまでに、ウクライナの戦況次第で実効的な調査ができるかどうかという問題が生じるであろう。ウクライナの現政権は調査に協力的態度をとるであろうが、ロシアは今回のウクライナ侵攻で支配した地域の実地調査を認めない可能性がある。 2022年4月3日、ウクライナの検察当局は、ロシア軍が撤退した後のブチャを含むキーウ近郊の複数の地域で民間人410人の遺体を発見したと述べた。ウクライナのゼレンスキー大統領は、「ジェノサイド」と批判し、クレバ外相は、ロシアによる戦争犯罪の証拠を集めるようICCに要請したと述べた。また、グテーレス国連事務総長も、ウクライナのブチャで殺害された文民の映像は大きな衝撃であり、効果的な説明責任を果たすような独立した委員会の調査が不可欠であると述べた。米国のバイデン大統領は「ジェノサイド」とロシアを非難したが、ドイツやフランスは「ジェノサイド」の認定に慎重である。 ジェノサイド条約第2条は、ジェノサイドの定義として、「集団殺害とは、国民的、民族的、人種的又は宗教的な集団の全部又は一部に対し、その集団自体を破壊する意図をもって行う次のいずれかの行為をいう」として、「(a)集団構成員を殺害すること。(b)集団構成員の身体または精神に重大な害を与えること。(c)集団の全部又は一部に対し、身体的破壊をもたらすことを意図した生活条件を故意に課すること。(d)集団内部の出生を妨げることを意図する措置を課すること。(e)当該集団の児童を他の集団に強制的に移すこと」の5つの行為を規定する。この「意図」の要件がジェノサイドの認定を困難にする。 実際、これまでジェノサイドと認定されたのは、ルワンダ国際刑事裁判所(ICTR)のアカイェス事件判決(1998年9月2日第一審裁判部判決)でのルワンダの大虐殺(1994年)、旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)のクルスティッチ事件判決(2001年8月2日控訴審判決)でのスレブレニツァの虐殺(1995年)の2例に過ぎない。 ロシア軍による民間人への攻撃の事態を受けて、2022年4月7日、米国やEU加盟国などは、国連総会緊急特別会合において、2006年3月16日の国連総会決議60/251の「人権理事会設置決議」第8項の「総会は、出席しかつ投票する三分の二の多数により、重大かつ組織的人権侵害を行う理事国の理事国としての権利を停止することができる」との規定に基づき、人権理事会の理事国であるロシアの資格停止を求める決議案を提出した。同決議案は、賛成93カ国(米国、ウクライナ、日本、EU各国など)、反対24カ国(中国、北朝鮮、イラン、ベラルーシ、シリアなど)、棄権58カ国(ブラジル、インド、メキシコ、タイなど)、無投票18カ国で採択された。賛成国が伸びなかった背景には、棄権に回ったブラジルやメキシコなどが、残虐行為の疑惑に関する独立した委員会の調査結果を見て判断したいとの考えを表明したからである。なお、第8項による資格停止の決議は、2011年3月のカダフィ政権当時のリビアに対する決議以来2度目である。 採択された決議は、「ロシア連邦の人権理事会における理事国の権利を停止することを決定する」(1項)とともに、「この問題を適宜見直すことも決定する」(2項)としていたが、ロシアは、この決議に反発し、国連人権理事会からの脱退を表明した。ロシアによる国際人道法違反 2022年のロシアのウクライナ侵攻でわれわれが目撃しているように、戦争は無辜の人々を襲う。従来の戦争法や武力紛争法に代わり、国際赤十字(ICRC)が1971年の「国際人道法の再確認と発展」に関する政府専門家会議で「国際人道法」という用語を用いて以来、国際人道法の考え方が、多くの国の間で定着するようになった。ICRCの説明によれば、国際人道法は「ジュネーヴ諸条約のみならず、人道的理由から敵対行為、兵器の使用、戦闘員の行動及び復仇の使用において遵守されるべき制限を定めた条約又は慣習法の諸規則、並びに、それらの諸規則の適切な適用を確保するための諸規範を含む」と定義される。1977年のジュネーヴ第一追加議定書及び第二追加議定書は、それを条約化したものである。 かつて空戦規則案は、爆撃の目標として、「空中爆撃は、軍事的目標、すなわち、その破壊又はき損が明らかに軍事的利益を交戦者に与えるような目標に対して行われた場合に限り、適法とする」(第22条1項)としながらも、「陸上軍隊の作戦行動の直近地域においては、都市、町村、住宅又は建物の爆撃は、兵力の集中が重大であって、爆撃により普通人民に与える危険を考慮してもなお爆撃を正当とするのに十分であると推定する理由がある場合に限り、適法とする」(同条4項)と規定し、文民の生命権よりも国家の軍事的利益(国家利益)が優先されていた。 しかし、ベトナム戦争後に締結された第一追加議定書は、「軍事行動を行うに際しては、文民たる住民、個々の文民及び民用物に対する攻撃を差し控えるよう不断の注意を払う」(第57条1項)と規定するとともに、「攻撃については、その目標が軍事目標でないこと若しくは特別の保護の対象であること、又は当該攻撃が、予期される具体的かつ直接的な軍事的利益との比較において、巻き添えによる文民の死亡、文民の傷害、民用物の損傷若しくはこれらの複合した事態を過度に引き起こすことが予測されることが明白となった場合には、中止し又は停止する」(同条2項(b))と規定し、軍事的利益(国家利益)よりも文民の生命権(人権)を尊重する姿勢に転換している。 ロシアが締約国であるジュネーヴ第一追加議定書(1977年)が定める、「紛争当事者は、文民たる住民及び民用物を尊重し及び保護することを確保するため、文民たる住民と戦闘員とを、また、民用物と軍事目標とを常に区別し、及び軍事目標のみを軍事行動の対象とする」(第48条)や「危険な力を内蔵する工作物及び施設、すなわち、ダム、堤防及び原子力発電所は、これらの物が軍事目標である場合であっても、これらを攻撃することが危険な力の放出を引き起こし、その結果文民たる住民の間に重大な損失をもたらすときは、攻撃の対象としてはならない」(第56条)に違反する戦闘行為がロシア軍によって行われている。今では、禁止されている生物兵器・化学兵器の使用でさえとりざたされている。こうした行動により、人権の中でも最も重要とされるウクライナの文民の生命権が奪われている。 2022年4月13日、欧州安保協力機構(OSCE)は、ロシア軍のウクライナ侵攻に伴う「国際人道法と国際人権法、戦争犯罪及び人道に対する罪の違反に関する報告書」を公表し、ロシア軍によるマウリポリの産科病院に対する攻撃を「明確な国際人道法違反であり、責任者は戦争犯罪を行った」と認定するとともに、婦女子が避難していた劇場への空爆も「国際人道法の重大な違反の可能性が非常に高く、命令者や実行者は戦争犯罪を行った」と認定した。普遍的価値としての平和 人間が戦争その他の恐怖にさらされることなく、平和のうちに生きる権利を持つべきだとの議論の先駆けとなったのは、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領による「4つの自由」と題する議会演説(1941年)である。彼は、この演説の中で、軍縮とどの国も隣国へ侵略行為を行わないことを内容とする「恐怖からの自由」を人間の主要な自由の一つとして提起した。 第二次世界大戦後に設立された国連憲章の前文は、「われらの一生のうち二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、......このために......善良な隣人として互いに平和に生活」することを誓った。しかし、われわれは、その前提が崩れてしまったことを目撃している。 少し古い数字になるが、2022年3月20日現在、グランディ国連難民高等弁務官によれば、ロシアによるウクナイナ侵攻によって、約4,200万人のウクライナの人口の4人の1人に当たる1,000万人が避難を強いられ、約339万人が国外に逃れ、650万人が国内避難民となっているという。これらの人々が、恐怖及び欠乏からの自由を奪われていることはいうまでもない。また、マウリポリ市議会によれば、マウリポリ市民4,500人がロシア側に強制移住され、ウクライナのパスポートを奪われているとの報道もある。仮にこうしたことが事実だとすれば、国際刑事裁判所(ICC)規程第7条(人道に対する犯罪)のいう「住民の追放又は強制移送」(d)に該当し、こうした犯罪に責任を有する者は刑事訴追されることになる。ICC規程が、「重大な犯罪が世界の平和、安全及び福祉を脅かすことを認識し、国際社会全体の関心事である最も重大な犯罪が処罰されずに済まされてはならないこと」(前文)を謳っていることを忘れてはならない。 国際社会において国際法は無視されてはならないし、また戦争であっても無秩序ではない。ロシア軍のウクライナにおける振る舞いはあたかも戦争が無秩序な状態であるかのようであるが、彼らの行為は国際人道法に違反する明白な戦争犯罪であってその行為者を不処罰に終わらせてはならない。もしそれを許せば、国連憲章もジュネーヴ第一追加議定書もICC規程もその存在意義を失うからである。平和を人権の観点から見直す必要性 ウクライナにおける多数の文民の意図的な殺害を見ていると、自由権規約が定める、「すべての人間は、生命に対する固有の権利を有する」(第6条1項)との規定とその履行確保の重要性が改めて思い起こされる。こうした生命権を脅かされている人々にとっての一縷の望みは、国際人権法の考えに裏打ちされた国際法の存在それ自体である。 平和の破壊によって影響を最も受けるのは、何よりもまず個人である。国連安全保障理事会は、諸国家間における平和の維持や実現を協議、決定する機関であって、個人の立場や利益が直接に反映される場ではない。 平和でなければ人権の保障や発展が望めないことは明らかである。平和と人権の関係については、世界人権宣言が、「人類社会のすべての構成員の固有の尊厳及び平等で奪い得ない権利を認めることが世界における自由、正義及び平和の基礎をなすものである」(前文)と述べて、人権の保障が平和の基礎と条件であると位置づけた。1968年に開催された第1回世界人権会議で採択されたテヘラン宣言は、「平和は人類の普遍的な熱望であり、平和と正義は人権と基本的自由の完全な実現にとって不可欠である」と述べた。このように、人権と平和の不可分性についてはことあるごとに確認されてきた。平和を人権の視点から見直すことにはそれなりの意味がある。 2006年に国連総会で採択された「国連平和に対する権利宣言」は、その第1条で、「すべての者は、すべての人権が促進され、保護され、及び発展が完全に実現されるような平和を享受する権利を有する」と規定し、平和を享受する権利をすべての個人が持つとした。もちろん、国連の場でこれを支持してきた諸国の中には、ロシアや中国、北朝鮮などがあり、これらの諸国の欺瞞性は非難されて然るべきであるが、宣言自体の重要性は変わらない。 同時に、われわれは、2005年9月16日に国連総会で採択された2005年の世界サミットの成果文書で、「我々は、国連憲章の目的と原則に従い、世界に公正で永続的な平和を打ち立てることを決意する」(5項)と誓うとともに、「我々は、平和と安全、発展及び人権が国連体制の柱であり、集団的安全保障と福利の基礎であることを承認する。我々は、発展、平和と安全及び人権は相互に連関し、相互に補強しあうことを承認」(9項)したことを忘れてはならない。 日本国憲法は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」(前文)と述べており、先の「国連平和に対する権利宣言」と同じ理念を共有しているといえよう。同時に、恐怖と欠乏から個人を守る「人間の安全保障」を外交の柱とする日本の外交政策にも合致する。われわれは今一度、ロシアのウクライナ侵攻を契機に、平和と人権の関係について真剣に検討する必要がある。
2024.11.22
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松本人志のパワハラ・セクハラだけではない・・・・この人間社会の(真実) を考える・・・ 2024-11-21 はんぺん 何度か、書いてきたが、人間は、動物であり、種の存続のための生殖活動は、欠かせない・・・・湧き上がる性欲、それを一定のルールの下、コントロールしながら、社会の安定度を高めながら、お互いが共存できる社会を作り上げていく責務が我々にはある・・・・という事だ。権威をかさに着た弱い者いじめであるパワハラ、とかセクハラが、社会的に糾弾の対象になるのは、正常な社会である証拠だろう。松本人志(僕は、この人物をよく知らない)が、「“上納システム”接待」で、複数の女性の人生を 深く傷つけた・・・・そのことの(罪)は、明白だ。ジャニー喜多川(僕は、この人物も よく知らないが)が、多くの若者の人生を、貶めたことは、今なお、人々の脳裏に焼き付いているのではないか?樋口健一は、写真家、そして反原発運動への関りで、注目すべきリーダーであると思われていたが、その権威を利用して、複数の女性の人生を大きく傷つける(罪)を犯した・・・・岡村隆史という芸人は、自身が風俗通いで有名だったが、コロナ過の不況時、2020年4月23日の深夜の生放送で「コロナが終息したら絶対面白いことあるんですよ。美人さんがお嬢(風俗嬢)やります。短時間でお金を稼がないと苦しいですから」などと発言。経済的に困難を抱える女性の風俗への転落を、待ち望んでいるような発言をして、多くの視聴者から、糾弾されている。かって、権威を笠に着た多くの有名人が、社会的に糾弾されたのは、至極当然のことだ。そのことで、泣かされてきた弱者が、多くいたという事だ。人間は、スーパーマンでは無い・・・・と言ってきた。世界的シンガーのレディーガガも、昔、性加害を受けたと告白している。表に出ないだけで、多くの女性や男性が、性加害を受けてきたことが、真実だ。有名人ではない僕自身も、かってセクハラ事件を起こしたことがある。自戒を込めて、当事者たちは、居直りすることなく、社会的制裁を受けて、しっかり再生してほしいと思うばかりだ・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――「会見拒否」で自滅する松本人志を吉本興業が「切り捨てる」しかない理由 2024-11-19 ニューズウィーク日本版<松本人志が代理人を通じて「会見拒否」の態度を表明した。訴訟取り下げによって性加害への疑念と今回の対応への疑問はかえって深まっており、このままテレビ復帰はあり得ない。大阪万博をはじめとする「公共事業」を数多く請け負っている吉本興業にも説明責任がある>松本人志は11月15日、性加害疑惑について記者会見しない旨を代理人弁護士を通じて発表した。理由については、こう書かれている。「すでに公表済みのコメント以外の情報発信を行うことは、関係者との協議及びその結果の趣旨・内容に鑑み控えざるを得ません」何度読んでも、意味が分からない。「関係者」というのは、誰を指しているのだろうか。週刊文春だろうか。だとすると、文春側が「これ以上は情報発信しないで欲しい」と依頼したのだろうか。いや、まさかそんなはずはなかろう。わざとらしく法律用語を散りばめているが、要するに「会見はしません。理由は、したくないからです」と言いたいのだろう。■「虚勢と威迫と逃亡」だけ横山やすしはダウンタウンの漫才を「チンピラの立ち話」とかつて酷評したが、これまでの流れを振り返ると、松本人志の言動はまさしく 「チンピラ」的だった。SNSで虚勢を張ったあとはスラップ訴訟とも言うべき巨額の賠償請求を行い、さらには探偵を雇って法廷の外で女性を威迫し、最後は敵前逃亡して長年のファンをも裏切った。・・・・・・虚勢と威迫と逃亡。性加害疑惑が報じられて以降、松本人志が行ったのはこれだけである。訴訟取り下げにともない、被害を訴えている女性たちに対する謝罪らしき文面を代理人が発表したが、あれを謝罪と言えるのかどうかは、意見が分かれるだろう。「私がやったかどうかは分かりません。被害者がいるのかどうかも分かりません。でも謝ります」という二律背反的な不可解なメッセージを、謝罪の言葉と見なすことは困難である。ネット上では「事前に文春側と文面をすり合わせ、双方合意の上で発表したはずだ」という憶測も流れているが、私はその可能性は低いと見ている。なぜなら、双方がコメントを発表した直後、被害を訴えていた女性は朝日新聞の取材に対し「私は仮定ではなく、実在するので深く傷ついた」と語っており、松本人志のコメントへの不満を吐露しているからだ。週刊文春にとって、記事の真実相当性を担保する存在である女性たちは、命綱に等しい。それを念頭に置いて考えれば、「直接に示す物的証拠はない」だの「いらっしゃったのであれば」だの、こんな自己弁護にまみれたコメントを文春側が事前に了承していたとは、考えにくい。ネット上には、双方のコメントをめぐって論理の飛躍した陰謀論的な言説も流れている。週刊文春は事前に相手のコメントを確認し了承していたのかどうか、文春側からも説明して欲しいと思う。■吉本興業にも「説明責任」がある一部では「松本人志復帰論」も出ているが、地上波のテレビ出演など夢のまた夢だろう。松本人志が出演する番組のスポンサー企業は、「お金を払って自社のブランドイメージを下げる」という愚かしい結果を選択することとなる。そういう企業はあるだろうか。私は「松本人志の性加害疑惑」について、週刊文春の第一報が出た直後は五分五分に近いグレーと見ていた。だが、その後の対応を見てだんだんクロの濃度が強まり、訴訟取り下げに至った現在は「真っ黒に近いグレー」と見ざるを得なくなった。なぜなら、松本人志が一切の説明を拒んでいるからだ。「直接的な物的証拠」がなかったとしても、多くの証言や間接的な物証により、記事内容には「真実相当性があった」と捉えるのが妥当だろう。今後は、吉本興業と万博協会(日本国際博覧会協会)の動きにも注目したい。吉本興業は性加害疑惑が報道された直後には 「当該事実は一切なく、本件記事は本件タレントの社会的評価を著しく低下させ、その名誉を毀損するものです」 と極めて強硬な姿勢を見せていたが、わずか1カ月後の24年1月になると 「当社としては、真摯に対応すべき問題であると認識しております」 「外部弁護士を交えて当事者を含む関係者に聞き取り調査を行い、事実確認を進めているところです」 と急激に態度を軟化させた。言い換えれば「まともな会社」に変わっていこうとする姿勢を見せた。こうなると、最初に「当該事実は一切ない」と断言していたのは、いったい何だったのかと思ってしまう。「『当該事実は一切ない』という発表は誤りだった」と訂正しなくて良いのだろうか。また、「事実確認を進めている」のであれば、その結果はいつ、どのように聞けるのだろうか。すでに10カ月という時間が経過している。■「大阪万博の顔」でいいのか?吉本興業は大阪万博で「よしもと waraii myraii(ワライミライ)館」を出展することが決まっており、ダウンタウンの二人はアンバサダーに就任している。すなわち、わが国の国家事業の一端を担う立場にある。アンバサダーは、“大阪万博の顔”として万博の魅力を伝える役割があるという。そんな公共性の高い事業を、今の吉本興業や松本人志に任せて良いのだろうか。近いうちに、吉本興業は松本人志を「切り捨てる」必要に迫られるだろう。体面を保つため、きっと「独立」というフレーズを強調するに違いない。濃厚な性加害疑惑を抱えたまま、すべての説明から逃げ続けている人間を自社の看板として掲げ続けることは、吉本興業にとってリスクでしかない。松本人志を今なお「大阪万博の顔」として起用していることについて、万博協会や吉村洋文大阪府知事は、どう考えているのだろう。本当にふさわしいと今でも思っているのだろうか。■松本人志は「嫌知らず」ではないかところで、しばらく前にX上で「嫌知らず」という言葉が注目を集め、話題となった。相手が本気で嫌がっていることを理解できず、「嫌じゃないでしょ」「まあいいじゃん」「俺は大丈夫」などと自分本位に捉え、相手の嫌がることをゴリ押ししてしまう人や態度を指す。松本人志は典型的な「嫌知らず」だったに違いない。そう考えると、色々と辻褄が合う。密室で 性 行為を迫った際、松本人志は「相手は嫌がっていない」と信じ込み、「まあいいじゃん」「俺は大丈夫」と思い込んでいたのだろう(今でもそうかもしれない)。だからこそ、今なお真摯な謝罪や説明ができず、表舞台からついに姿を消そうとしている。「笑いの天才」と讃えられ、一つの時代を築いた人間の晩節としては、あまりに哀しい末路である。とはいえ「人生は近くで見ると悲劇だが、遠くから見れば喜劇である」とチャップリンは言っている。なるほど、そうかもしれない。松本人志は今、確かに喜劇を演じている。西谷 格(にしたに・ただす、ライター)――――――――――――――――――――――――――松本人志を自分の「家族」と見なす人々への違和感 (西谷 格:取材記者の妄言多謝) 2024年1月13日 ニューズウィーク日本版<週刊文春が報じた「松本人志の性加害疑惑」が世の中を賑わせている。ネット上ではさまざまな誤解や偏見もあるが、最大の問題は多くの人が松本人志を自分の「家族」と同列に見なしていることではないか>松本人志の一件にどうしてこれほど注目が集まるかと言うと、令和6年現在の日本人の価値観や日本社会の目指している方向が、ありありと映し出されるからだろう。この問題は一人のお笑い芸人の醜聞という範疇をすでに超えており、日本社会の未来像にまで関わる話になっている。この件について何かを語る時、その人のお笑いに対する態度や芸能人への意識、性加害に関する見識、男女の性差についての考え方など、内面のさまざまな価値観や人間性が露呈してしまう。つまり、少々危険な話題である。X(旧ツイッター)上は例によって過激な言葉があふれており、それだけでお腹いっぱいという人も多いだろう。本コラムは良くも悪くも、それほど極端なことを書くつもりはないので、Xで疲れた心を休ませるつもりでお読み頂けたら幸いだ。「ホテルに行く女が悪い」説松本人志は、日本のお笑い界のスターである。その彼に、重大な性加害疑惑が持ち上がっている。この件を私はどう捉えたら良いのだろうかと、年末から頭のなかがモヤモヤし続けている。すでにネット上で出回っている言説とカブってしまうかもしれないが、私の考えをまとめてみたい。まずは、Xに転がるフェイクや極論について、きちんと否定しておく必要がある。まず第一に「芸能人からホテルの部屋に誘われてのこのこついて行く女が悪い」との説。ひろゆきやたぬかなが盛んに広めているのを瞥見したが、彼らは文春記事を読んでいないのではないか。あるいは読んだけれども誤読し、勝手に怒っているのである。記事を読めば分かる話だが、小沢一敬はまず「VIPの参加する飲み会」に誘い「ドタキャン厳禁」と釘を刺した上で、飲み会当日に「撮影防止のため、会場はホテルのスイートルームになった」旨を伝えている。この流れで危機感を感じて誘いを断るのは、どう考えても「警戒しすぎ」であろう。芸能人が個室を選ぶのは至極当然であり、それがホテルの広々としたスイートルームであれば、それほど不自然なことではなかろう。つまり、小沢はそれほど巧妙に女性たちを誘い出していたと考えられる。「警察に訴えるべき」説次に「週刊誌記者に暴露するのではなく、警察に行ってシロクロつけるべき」との説。立川志らくなどが喧伝しているが、今回のようなケースでは女性が警察に行っても証拠不十分で相手にしてもらえないケースも少なくない。たとえ事実であっても、それを事件化できるレベルまで第三者に証明するのは、決して容易ではない。そもそも、文春が報じた証言者は強制わいせつ罪の時効(7年)が過ぎており、もはや警察に相談しても意味がない段階である。また、芸能界を目指している女性が、業界の大物である松本人志を相手に被害届を提出するなんて、怖くてできるはずがない。日本では20歳以上の女性の約7%が性被害の経験を持つ。だが、被害者のうち警察に相談する人はたった5.6%に過ぎない。誰にも相談しない人がもっとも多く、約6割を占める。なお、ここで言う「性被害」は「暴力や脅迫を用いたものに限らず、無理やり性交等(性交・肛門性交・口腔性交)をされた経験」を指す。(2020年度「男女間における暴力に関する調査」男女共同参画局)警察に相談することは、被害者にとってとても困難なことなのだろう。勇気を出して警察に行き、被害状況を何度も思い出して言語化し、事務的な手続きを繰り返した挙句に「何もできません」と言われたら、疲弊するだけである。この辺り、改善の余地があるかもしれない。あまりにも「不都合な真実」であるため大きな声では語られないが、日本社会は性犯罪者にとって極めて有利な国と言える。痴漢や強制わいせつ、強制性交などの犯罪を実行しても、めったに罪に問われることはなく、逃げ切ることが可能というのが現状だ。教育社会学者の舞田敏彦は、2007年から2011年の統計資料を基に、レイプ事件のうち裁判所で罪が裁かれるのはたったの1.92%と推定している。今回のように警察に行ったり裁判を起こしたりすることが困難な場合、メディアを通して不正を訴えることは、何も間違ったことではない。「お礼メッセージは同意を意味する」説続いて「直後にお礼のメッセージを送っているから、女性は嫌がっていなかったはずだ」との説。これはもう多くの有識者が説明しているので付言は不要だが、恐怖を感じている時こそ、ああいう文章を送ってしまうものではないか。「松本さんも本当に本当に素敵」「小沢さんから頂けたご縁に感謝」といった過剰に相手を持ち上げる言葉遣いやキュートな絵文字満載の画像から、私には北朝鮮の喜び組のような関係性が連想され、痛々しさすら感じられた。......と、明らかな誤謬を指摘しているだけで、かなりの文章量になってしまった。それほど、日本社会にはまだまだ性加害に関する誤解と偏見が溢れているということだろう。被害を口にすれば一斉にバッシング(セカンドレイプ)を受けるこんな世の中では、多くの被害者が沈黙してしまうのも無理はない。「me too」が続けば信憑性は高まる多くの人々は今、躍起になって松本人志を擁護する材料を求めている。そうしないと、精神的に落ち着かないのだろう。動揺のあまり「松ちゃんを奪った被害者が憎い」という思考回路に陥っている人もいるのではないか。もちろん、加害行為があったと断定できる状態ではない。だが、松本人志には今、重大な疑惑がかけられていて複数の証言と物証がある。「事実無根なので闘いまーす」だけでは、何も説明したことになっていない。かっこよければそれで良い、面白ければそれで良いという具合に、芸能人というのは昭和から平成の長い間、一般の社会常識や倫理観からは少し遠い、別世界の人間として生きていた。私はいっそのことそれもアリじゃないかとチラリと思うが、世の趨勢はそうではない。記事内容が事実であれば、松本人志の今後の芸能活動は極めて困難になるだろう。今後の展開としては「me too」と声をあげる人、つまり被害を訴える人の数がさらに増えれば信憑性は高まっていくだろう。ジャニーズ問題同様、顔や実名を出して語れる人がいれば風向きは大きく変わると思うが、すでに激しいバッシングが行われているなか、巨大なリスクを背負って松本人志に立ち向かえる人がいるかどうかは分からない。「障害者は穀潰し」「子供を産めない女性は価値がない」「同性愛は病気の一種」。今ではほぼ聞くことのないこうした差別的な言葉は、戦前〜昭和の頃まで珍しくなかったに違いない。そう考えると、日本社会は少しずつ前に進んでいるのだろう。「被害者が悪い」という暴力的な言葉も、数年後には時代遅れになっていると良いのだが。親近感が生み出す誤謬「週刊誌報道が事実かどうか分からない以上、何も論評できない」という誤謬もある。先日のワイドナショーでは、松本人志の子分たちが口々にそう述べていた。でも、本当にそうだろうか。例えばかつて存在した 雑誌「噂の真相」の一行情報のようなものであれば、「論評できない」というスタンスもありだろう。だが、今回の文春記事は物証付きで5人もの証言者が具体的に体験を語っている。証言がすべて事実かどうかは分からないものの、「どっちもどっちだね」みたいな粗雑な判断を下せるものではない。被害を訴えている人の声を無視することは、公正中立な態度なんかではなく、加害者の側に着く行為である。被害を訴えている人がいる以上、松本人志は説明をしなくてはいけないのに、休業を発表してしまった。にも関わらず松本人志をアクロバティックな論法で擁護する声が止まないのは、多くの人々(国民の大半かもしれない)が、松本人志のことを家族同然のように思っているからだろう。「松本人志に笑わされたことがない人」は探すのが難しいぐらいだ。友達や家族、あるいは親戚ぐらいに思ってしまうのは、まったく無理もない。かたや、被害を訴えているA子さんやB子さんは、赤の他人に過ぎない。「松ちゃんを信じる」という残酷さ「本人がやったと言うまで、信じます」というのは、犯罪加害者の家族がしばしば言うセリフである。私も、もしも自分の家族が加害者として容疑をかけられた場合は可能な限り信じたいと思っている。と考えていくと、松本人志をやたらに擁護している人々は、「迫害と結束のストーリー」に囚われているのかもしれない。ファンというのは、スターがピンチの時ほど結束する。つい最近、ジャニーズ問題でさんざん見せつけられた光景だ。善悪の判断や合理性は二の次で、「大好きなスターがピンチだから、ファンとして助ける」という思考回路をたどるのだろう。それは本当の家族や友人であれば美しく見えるかもしれないが、大量のファンが一人の芸能人に対して発動すると暴力的ですらあるし、新興宗教のようでもある。「松本人志を信じます」という声は、「被害者の話は信じません」と言っているに等しい。加害者が「松本人志」や「小沢一敬」だと思うから、思考が歪むのである。「港区在住のIT社長ヤマモトさん」あたりに置き換えて記事を読み直せば、もう少し公平に物事を見ることができるのではなかろうか。つまり、松本人志は現状「かなり疑わしい」のである。 是非、試して頂きたい。
2024.11.21
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良心的な民衆を押し潰し続ける共産党一党独裁。それを非難・糾弾しない日本リベラル・・・あなたたちは、いったい誰の味方か? 2024-11-20 はんぺん これが、全体主義の真実だ! 中国では、多くの民衆が、知りたい情報が、共産党独裁により、隠され続けている! この国には、報道、言論の自由が無い。知る権利が、無い。日本のリベラルたちは、わが国内での(言論の自由)、(知る権利)を全幅に享受しながら、この(人権不在の)独裁国家の蛮行を 非難・糾弾してこなかった・・・・こんな理不尽が、あるだろうか?昔、毛沢東や文化大革命に憧れて、友誼団の一員として、文革下の中国に(学び)に行った、僕の高校の同級生がいた。帰国後、諸権利の制限(人権の制限)のある中国を見てきたにもかかわらず、非難することはなかった。その後、日本の(言論の自由)や(知る権利)を享受しながら、地方議会選挙に立候補したので・・・ちょっと待てよ! それは、おかしいだろう・・・中国の人権不在、全体主義批判をしてから、日本での権利行使(被選挙権)してもらいたい! と強く思った。どうだろうか? 僕が、間違っているのだろうか?人権を守ることは、人間の尊厳を守ることだ。人権不在で、民衆(紅衛兵たち)が(洗脳)されまくって、踊らされている(惨状)を見て、非難・糾弾しない人間が、都合のよい時だけ、自分の権利行使を主張するのは、どう考えても、僕には違和感しかない!!!中国では、このような良心的な人間が、たくさん、共産党一党独裁の犠牲になって、殺されてきた・・・本当に、愚かしい事だ。そして、(社会主義幻想)の(洗脳)により、独裁者たちを狂喜させ続けている、日本のリベラルたち・・・の(犯罪)の事を、いつも思う。どういうわけか? たまたま?? 日本社会党の流れを汲む社民党・新社会党は、元社会党員だった僕とは、強い関係が会ったし・・・ MDS,アサートは、僕が学生運動の時に、所属していた民学同(民主主義学生同盟)のOBたちが中心になって、作られたグループだという。なんでか? このリベラルたちと 僕とは(たまたま?)深い関わりがある・・・ので、彼らの決定的な過ち(=護憲や社会主義幻想)については、簡単に見過ごすことができないでいる。皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――新型コロナウイルス危機を速報した市民記者、衰弱死の危機 (中国) 2021年11月 8日 アムネスティ国際ニュース 中国武漢で新型コロナウイルスの感染拡大が始まった当初、武漢を訪れ、ただならない状況をソーシャルメディアで伝えた市民記者、張展(Zhang Zhan)さんが、今、命を落とすかもしれない事態に直面している。不当な勾留・収監に抗議して長期間ハンガーストライキをしてきたにもかかわらず、保釈も適切な治療を受けることも許されなかったからだ。元弁護士の市民記者、張展さんは昨年2月、武漢に入り、独立系メディアの記者が拘束され、感染者の家族が当局の嫌がらせを受けていることをソーシャルメディアで投稿した。昨年5月に、行方がわからなくなった。後に、当局に連行されて上海で拘束され、騒乱挑発容疑で起訴され、見せかけの裁判で昨年12月、懲役4年の実刑判決を言い渡されていたことが明らかになった。中国で市民記者は、新型コロナウイルス感染症に関して、検閲を受けていない生の情報を得るための重要な情報源だった。一方、政府が公表されたくない情報を暴くがゆえに、常に嫌がらせを受ける。張展さんは、感染拡大の中での国の対応をSNSで報じただけであり、なんの罪も犯していない。SNSで伝える行為の摘発は、まぎれもない表現の自由の権利の弾圧だ。中国当局は、張展さんがハンストをやめ、適切な治療を受けられるよう直ちに釈放しなければならない。張展さんは昨年6月からハンストに入った。体力は衰え、昨年12月の公判には車椅子で出廷した。 頑なにハンストを続ける張展さんに業を煮やした刑務官に3カ月以上にもわたり手足を束縛されることもあった。公判前には無理矢理、栄養チューブを付けられ、チューブが外せないように縛り付けられた。今年7月末、栄養失調が深刻化したため、病院での診察を認められた。その後も何度か、身の危険を承知でハンストに入ったため、体調の悪化が進んだ。家族は、張展さんが直ちに釈放されなければ、この冬を越すこともできないだろうと危惧している。公判開始以来、張展さんは、弁護人や家族との対面での面会を認められなかった。監視下での電話やビデオ通話が、時に許されるだけだった。張展さんの兄は10月30日に「妹は、この冬を越せるかどうかわからない。妹のことを覚えておいてほしい」とツイッターに投稿した。アムネスティは、世界最大の人権イベント、ライティングマラソンを毎年12月の人権デーの前後に実施するが、今年は対象者の1人に張展さんを取り上げ、即時釈放を求める。表現の自由の権利を行使しただけで収監された張展さんが、即時無条件で釈放されるのは当然だ。政府当局は、張展さんを釈放するまでは、家族や私選弁護人との面会を制限なく認め、また虐待や暴力を受けないよう、適切な対応を取らなければならない。もし、張展さんの命が尽きるようなことがあれば、その責任は中国政府にある。背景情報中国で投獄された活動家が、収監中や入院中に亡くなることが多いのには驚くばかりだ。 2017年、人権活動家でノーベル平和賞受賞者の劉暁波(Liu Xiaobo)さんは、海外での癌の治療を希望したが受け入れられないまま、息を引き取った。同じ年、作家で政府に批判的な楊同彦(ペンネームは楊天水)さんは脳腫瘍を患い、仮釈放され摘出手術を受けたが、3カ月後に亡くなった。活動家の曹順利さんは、2014年に数カ月間の拘束中、適切な治療を受けられずに臓器不全で死去した。アムネスティ国際ニュース 2021年11月4日
2024.11.20
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北朝鮮全体主義による韓国政権転覆に利用された(慰安婦支援運動)と日本リベラルの「罪と罰」 2024-11-19 はんぺん かって日本では、多くのリベラルが、この慰安婦訴訟を支援した。これが(黒歴史)だったなんて、誰が、想像したことだろうか。そう、福島瑞穂(弁護士→社会党→社民党)たちが、韓国にまで出向いて、(慰安婦証人探し)を、しまくって裁判に(こぎつけた!)事自体の(評価)も、おそらく日本の支援団体の中では(割れている!)ことだろう・・・これまで、注目されてこなかった植民地統治の負の歴史を明らかにしたことについては、僕は、一定の評価は、必要だと思っている。ただ、そのやり方は、(あこぎ)だった・・・・禁じ手を福島瑞穂は、使ってまで(始めに結論ありき)で突っ走ってしまったのだ。(慰安婦探し)は必要だが、裁判で・・・(あれは言うな、これは言え)の証言指導まで、行う中で、多くの(ウソ)が捏造されていく・・・特に、日本軍が、多くの現地の朝鮮人業者を使って、職業としての(慰安婦)募集をしたにもかかわらず、いつの間にか、日本軍隊が、直接、強引に拉致監禁して、連れ去った・・・という(ウソ)が、真実の如く、語られるようになっていく・・・・実は、僕自身が、その(洗脳)を真に受けて、それを真実であると思い込み、慰安婦支援の集会や講演会、デモなどに、何度も参加している。今となっては、(残念)な気持ちで、一杯だが、反戦平和運動においては、とかく(始めに結論ありき)が、横行しがちになることに、我々は、あまり関心が無かった・・・反省しきりだ!!!!!韓国内では、この福島瑞穂たちの(あこぎさ)を悪用して、北朝鮮の影響を受けた韓国左派や 挺対協(韓国挺身隊問題対策協議会=現正義連)が、北朝鮮スパイの(指導)で、韓国内の反体制運動に利用されていく・・・・(北朝鮮全体主義政権による、韓国政府転覆と武力統一は、金3代王朝の最終目的だった)たまたま、この韓国の支援団体のトップが、公金をネコババしたので、大きくクローズアップされたが・・・この(事件)が無ければ、まだまだ北朝鮮スパイによる韓国政府転覆策動は、続いていることになる!韓国国内では、まだまだ多くのスパイが、今現在も、政権転覆策動で蠢(うごめ)いていることは、毎日の新聞報道を(深読み)すれば、すぐにわかること!! 極東の緊張関係は、能天気な日本の平和主義者たちが、考えもしない危険な状況下にある・・・という認識が求められているのだ!皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――元慰安婦支援団体の前理事長、韓国最高裁でも有罪。 寄付金流用の罪 2024-11-4 ソウル=貝瀬秋彦 朝日新聞 韓国の元慰安婦の支援団体「正義記憶連帯」(正義連、旧挺対協)への寄付金を私的に流用したなどとして、業務上横領などの罪に問われていた前理事長の尹美香(ユンミヒャン)被告の上告審で、韓国の大法院(最高裁)は14日、懲役1年6カ月執行猶予3年とした二審判決を支持した。 昨年2月の一審判決では起訴内容の多くが無罪となり、罰金1500万ウォン(約167万円)を言い渡されたが、昨年9月の二審判決では約8千万ウォン(約890万円)の横領が認定されるなど、より多くの起訴内容が有罪と判断された。 尹被告は無罪を主張しており、大法院の判決を「不当だ」とするコメントを出した。一方、正義連は「大法院の判断を重く受け止め、責任を履行する」としたうえで、慰安婦問題の解決に邁進(まいしん)していくとの立場を表明した。 尹被告は2020年の総選挙で国会議員に当選。21年に当時の与党だった「共に民主党」から除名されて無所属になり、今年5月に任期を終えていた。―――――――――――――――――――――――――――――韓国元慰安婦支援団体の前理事長 有罪判決確定 業務上横領など 2024-11-4 NHK NEWS WEB 韓国の元慰安婦を支援する団体の前の理事長だった元国会議員が寄付金を私的に流用したとして業務上横領などの罪に問われた裁判で、韓国の最高裁判所は14日、上告を退ける決定をし、執行猶予が付いた懲役1年6か月の有罪判決が確定しました。韓国の元慰安婦を支援する団体の前の理事長でことし5月まで国会議員だったユン・ミヒャン(尹美香)被告は、虚偽の申請で国や自治体から補助金をだまし取ったとする詐欺や、団体への寄付金を私的に流用したとする業務上横領などの罪に問われました。1審の判決は、起訴された内容の多くについて無罪とした上で横領の罪について認定し罰金の判決を言い渡しましたが、2審では1審より重い懲役1年6か月、執行猶予3年の判決を言い渡しました。これに対しユン元議員側と検察側の双方が上告していましたが、韓国の最高裁判所は14日、上告を退ける決定をし、執行猶予が付いた2審の有罪判決が確定しました。2審判決の際に法廷に姿を見せていたユン元議員は、14日の裁判には出廷しませんでした。
2024.11.19
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メディアを独占し、国民の知る権利を平気で蹂躙する共産党の習近平政権。この蛮行に、何時になったらリベラルたちは、抗議・糾弾するのだろうか? 2024-11-18 はんぺん日本でも、交通事故や犯罪のニュースは、相当、詳しく報道されている。そこには「報道の自由」「言論の自由」が、保証されているから・・・・共産主義の中国では、どうか??????「体育館の入口に立つ警備員は「一般人はこれ以上中には入れない」と私たちを制止した。」(本文)「同様の取材をしていたイギリスのBBCや別のメディアの記者らが、地元当局によると思われる取材の妨害を受け、別の場所に連れて行かれた」(本文)「こうした事件現場では自由に取材が出来ないことは中国では多々ある。」(本文)「最近でも、北京市で下校中の小学生が男に刺された事件を取材していた際、私を含む多くの記者が、現場で何らかの理由をつけられ、取材活動の妨害を受けている。」(本文)共産党当局が、一般の民衆には、知らせたくない事は、民衆の人権を犯してでも、暴力を使ってでも、阻止する・・・それが、独裁国家だ!こんな(人権不在)の共産主義を、持ち上げてきた日本のリベラルたち・・・・彼らは、このような都合の悪い事柄には、いつも(見て見ぬ振り)を貫いてきた・・・・こんなことで、日本の国民を納得させられるのか? それは、あり得ない事だろう。「事件発生の翌日、警察から今回の事件で死者35人、怪我人43人が出たと発表された。」「男の犯行動機は「離婚後の財産分与の結果について不満を持っていた」というものだった。・・・・・これだけ多数の犠牲者や被害者が出ていることを考えると、日本では警察が犯行の動機などについて発表するのが一般的だ。だが、中国においては当局が犯行動機などについて発表することは珍しい。」(本文)日本人が、これまで何度も、(スパイ容疑?)等で、中国国内で、逮捕されてきたが、その際、中国当局は、逮捕理由、拘束理由を、なかなか公表しないことが、普通の事であり、それは、日本の警察では、ありえない異常事態だ・・・・と何度も指摘されてきた・・・・このような国に住んでいると、いつ逮捕・拘束されるか、不安で仕方がない・・・と思うのが、正常な人間ではないか?「この場所には12日の夜から市民がやってきて、花束を手向けたり、犠牲者を追悼するためロウソクの火が灯されたりしたが、こういった追悼の動きさえも当局は伏せたいのか、翌日の朝には花やロウソクが撤去された。」(本文)・・・・これって、ありえない話だろう・・・・!!!! 追悼さへ許さない国家権力とは、一体なんだ! これって、日本のリベラルたちは、どんな思いで、この報道を知るのだろうか? これでも(社会主義は良い))(共産党は、良い)と言うのだろうか???「中国外務省の記者会見の中で、報道官は「珠海で起きた事件は極めて悪質で、習近平国家主席も重要な指示を出した」と述べた上で「外国人の死傷者は出ておらず、中国は世界で最も安全で、刑事事件の犯罪率が最も低い国の一つ」と強調した。」(本文)「自国民が一度に35人死亡し、43人が怪我を負ったこの事件で『外国人の死傷者は出ていない』という言葉を遺族や被害者が聞いたらどう思うのだろうか。」(本文)この国が、日本の常識では、考えられない(人命軽視)の見栄っ張り国家であることを今回の事件は、示して余りあるといえる。こんな国に、住んでみたいと思うのは、オメデタイ・・・リベラルたちだけでは無いだろうか??皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――35人死亡の無差別殺傷事件で“情報統制”か…SNSには真相解明を望む声も 善良な市民が監視される中国社会 2024-11-16 FNNプライムオンラインその情報は突然入ってきた。私は11月12日から始まる中国最大の航空ショーを取材する為、前日の11日から広東省珠海市に来ていた。会場の下見取材を終え夜ホテルに戻ると、北京にいる同僚から「珠海市でこんな事件が起きているらしい」とSNSに投稿された動画が送られてきた。【画像】現場では手を合わせたり涙を流したりする市民の姿も(2024年11月13日)動画には、多くの市民が道路に倒れ血だらけになっている人や、泣き叫ぶ声の先に倒れたまま、動かなくなっている人の姿があった。また、1台の車が暴走する様子も捉えられていた。 私が最初に思ったのは「運転手が何らかの理由で運転を誤ったか?」というものだった。日本でも運転手がブレーキとアクセルを間違え暴走し、負傷者が出てしまう交通事故は、たびたび起きている。しかし、次々にSNSにアップされる動画からは、過失による事故ではないことが確実にうかがえた。一方で「ただの交通事故でなければテロ事件か?今の中国でそんな事件が起きるのか?」、こんな気持ちを抱きながら、宿泊しているホテルから出てタクシーに乗り、現場へと向かった。 現場に近づくと乗っていたタクシーは動かなくなった。付近では交通規制が行われ、その先から救急車が次から次へと出てきていた。規制された現場で拘束されたメディアも「ここが現場で間違いない」。そう確信し、さらに中に入ろうとしたが、体育館の入口に立つ警備員は「一般人はこれ以上中には入れない」と私たちを制止した。 私は中に入れないのであれば、まずは目撃者に話を聞こうと考え、体育館から出てきた人たちに話を聞いた。「被害に遭ったのは50人以上」という話もあれば「100人近くがはねられた」という話もあった。ある目撃者は「十数人が死んでいた」と話すなど、現場の混乱と壮絶な状況が感じられた。一方で、同様の取材をしていたイギリスのBBCや別のメディアの記者らが、地元当局によると思われる取材の妨害を受け、別の場所に連れて行かれたという話も耳に入ってきた。こうした事件現場では自由に取材が出来ないことは中国では多々ある。私たちは中国外務省が発行する記者証を持っていて、本来ならばこの記者証があれば中国の法律を守っている限り、原則、取材活動は認められているはずだ。しかし、実際には多くの場面で様々な理由をつけられ、取材活動が妨害される事は珍しくない。最近でも、北京市で下校中の小学生が男に刺された事件を取材していた際、私を含む多くの記者が、現場で何らかの理由をつけられ、取材活動の妨害を受けている。事件翌日に発表された犯行動機事件発生から約2時間後、地元警察が事件についての情報を出した。それによると、犯人は62歳の男で、犯行後に現場近くで拘束されたという事だった。さらに事件発生の翌日、警察から今回の事件で死者35人、怪我人43人が出たと発表された。 また62歳の男は、事件後に自らの首を刃物で切り付け、現在は意識不明の重体となり病院で治療を受けているという。そして、男の犯行動機は「離婚後の財産分与の結果について不満を持っていた」というものだった。これだけ多数の犠牲者や被害者が出ていることを考えると、日本では警察が犯行の動機などについて発表するのが一般的だ。だが、中国においては当局が犯行動機などについて発表することは珍しい。さらに発表のタイミングが早く驚いた。同じ広東省の深セン市で、9月に日本人学校に通う男子児童が被害にあった事件では、今になっても事件の背景や拘束された男の動機についての情報は出ていない。当局の一連の対応からは今回の事件はあくまで「個人間のトラブル」ということを強調することで、事件を早期に収束させたい思惑があるとみられる。一方で、男は意識不明で重体であり本人の口から直接聞けていない以上、所持していたスマホの解析などを進めたとしても、どのようにして犯行動機がわかったのか、疑問は残る。犠牲者を悼むことさえ許されない現場となった体育館の入り口では、事件発生の翌日から、犠牲者を悼む市民が花を手向ける姿があったが、ここでも中国当局の対応は早かった。この場所には12日の夜から市民がやってきて、花束を手向けたり、犠牲者を追悼するためロウソクの火が灯されたりしたが、こういった追悼の動きさえも当局は伏せたいのか、翌日の朝には花やロウソクが撤去された。「中国は世界で最も安全で、刑事事件の犯罪率が最も低い国の一つ」事件が起きた2日後の13日に行われた中国外務省の記者会見の中で、報道官は「珠海で起きた事件は極めて悪質で、習近平国家主席も重要な指示を出した」と述べた上で「外国人の死傷者は出ておらず、中国は世界で最も安全で、刑事事件の犯罪率が最も低い国の一つ」と強調した。しかし、世界に向けて発信する外務省の会見とは言え、自国民が一度に35人死亡し、43人が怪我を負ったこの事件で「外国人の死傷者は出ていない」という言葉を遺族や被害者が聞いたらどう思うのだろうか。検閲され削除され続ける市民の声一方、中国では表立って抗議することはできないが、SNSでは市民のやるせない怒りは、決して小さいものではなくなっていた。こうした状況を抑え込むため、中国当局は、事件に関するSNSへの投稿を検閲し、さらに事件に関する報道をコントロールしているとみられる。日本であれば、これだけの犠牲者が出た事件の場合、1週間は現場で記者やカメラマンが取材を続け、連日トップニュース扱いとなるが、中国では大きく報じられることはない。繰り返しになるが、何の罪もない35人の市民の尊い命が一瞬にして奪われている大事件にも関わらずだ。SNSでは、事件の背景や中国政府の対応について問う声が上がるものの、今も当局によって削除され続けている。現場の検証も事件の背景を伝える報道もされないまま、全てが無かったことのように時間が過ぎていく現実に対して、ある市民は「無実の人がこれだけ犠牲になったが、彼らが一体何をしたというのか」と嘆いていた。善良な市民がさらに監視される社会「国家の安全」を最重視する中国にとって、今回の事件は習近平指導部に衝撃を与えた。 それを裏付けるように、習近平国家主席は事件翌日の12日に、今回の事件は「性質が極めて凶悪」と述べ、「関係部門は今回の教訓をくみ取り、リスクをコントロールし、極端な事案の発生を防ぐべきだ。人民の生命、安全と社会の安定を守る必要がある」と指示を出している。経済の低迷が続く中、中国では刃物による無差別の切りつけ事件などが相次いでいる。習近平政権が恐れているのは、こうした事件への怒りの矛先が共産党や政府に向かうことだ。香港紙サウスチャイナ・モーニング・ポストは、10月14日の記事で、「中国当局は多発する無差別殺傷事件を受け、村や町の幹部に犯罪を起こしそうな人物を洗い出すよう指示した」と報道している。事実であれば、今回の事件を受けて、この動きはさらに加速するだろう。善良な市民が犠牲になったことで、当局によって更に市民が監視される対象となる。この事件を通して2002年に公開されたアメリカのSF映画『マイノリティ・リポート』(スティーブン・スピルバーグ監督)を思い出した。予知能力者を中心に構成されたシステムを導入し、殺人事件が起きる前に当局が「犯人」を拘束し、事件を「予防する」というストーリー設定だ。殺人事件が起きる前に殺人事件を防ごうと、当局が常に市民を監視し続けている。今、まさに中国で、この映画のような状態が起きようとしている。【取材・執筆:FNN北京支局 河村忠徳】
2024.11.18
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リベラルたちは、この全体主義を いつまで黙認し続けるのか? あなたたちの目指す社会主義・共産主義とは、こういうモノなのか?? 2024-11-17 はんぺん全体主義国家のソ連・・・ロシアでは、これまで、多くの民主化活動家が、弾圧を逃れて、やむなく国外に避難する中、ロシアの暗殺部隊によって、殺された事例が、あまりにも多かったことを、このブログでも、何度も取り上げてきた。あのスターリンの宿敵だった、トロツキーは、スターリンにより、国外追放されたが、1940年、亡命先のメキシコで、スターリンのはなった刺客により暗殺された。反体制活動家のナバリヌイ氏は、西シベリアの街トムスクからモスクワに戻る機中で体調が悪化。集中治療室で人工呼吸器をつけられるほどの深刻な状態となった。ロシアの病院は「毒物は検出されなかった」としているが、側近は、その前に飲んだお茶を疑い、「政権に毒物を盛られた」と主張。治療と安全のため、国外への転院を求めた。受け入れたドイツ・ベルリンの病院は、神経剤の成分を体内から検出したとしている。実は「お茶」は、以前にもロシア関連の暗殺事件で登場した道具だ。中でも記憶に残っているのが、チェチェン紛争でのロシア政府による残虐行為などを批判してきたノーバヤ・ガゼータ紙のアンナ・ポリトコフスカヤ記者が2004年、機内で出された紅茶を飲んで意識不明の重体になった事件。このときは奇跡的に回復したが、わずか2年後の06年に自宅アパートのエレベーター内で射殺体で見つかった。くしくも、この日は10月7日で、プーチン大統領の誕生日。そのため「誕生日プレゼント」という見方が出た。このことも強烈に記憶に残る理由となった。これまでもソ連やロシアの情報機関は国内だけでなく、国外の殺害事件でも関与を疑われてきた。59年、ドイツ・ミュンヘンで起きたウクライナの民族主義運動の指導者ステパン・バンデラ氏の暗殺。78年には、ブルガリアから亡命してソ連圏の言論弾圧などを批判した作家ゲオルギー・マルコフ氏がロンドンで毒を仕込んだ傘で刺され、殺された。ソ連が崩壊し、ロシアになってからも、上記の事件のほか、04年にもチェチェンのヤンダルビエフ元大統領代行がカタールの首都ドーハで、乗車中の車を爆破されて死亡。一時より減ったとは言え、最近も政権の関与が疑われる事件が続いている。このような陰湿な雰囲気が、なぜか、密告社会、監獄国家、秘密警察の共産主義国家につきまとってきた・・・・旧ソ連、東ドイツが、その典型国家として有名だったが、人権無視、人命軽視のマルクスレーニン主義国家の宿命なのだろう・・・・ここであらためて問いたい・・・リベラルたちは、この全体主義を いつまで黙認し続けるのか? あなたたちの目指す社会主義・共産主義とは、こういうモノなのか?・・・・と。皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――ウクライナ侵攻批判の有名ロシア人シェフ、遺体で発見 (セルビア) 2024-11-15 AFP=時事【AFP=時事】ロシアのウクライナ侵攻を強く批判してきた有名なロシア人シェフ、アレクセイ・ジミンさんが、訪問先のセルビアの首都ベオグラードで遺体で発見された。複数の情報筋が13日、明らかにした。ウクライナ侵攻を批判する在外ロシア人の死が相次いでいる。ジミンさんは長年、英ロンドンを拠点に活動してきた。同地のレストラン「ZIMA」のインスタグラム投稿によれば、ジミンさんは同店を共同設立。数多くの雑誌に寄稿したり、書籍を共同執筆したりしてきた。捜査関係者がAFPに語ったところによると、ジミンさんの遺体は12日夜遅く、新刊「Anglomania」を宣伝するために訪れたベオグラードで借りていたアパートで発見された。検察は英BBCに対し、アパートは内側から施錠されており、状況に不審な点はみられないが、司法解剖が行われると語った。ジミンさんは1971年ロシア生まれ。モスクワで複数のレストランを経営していたが、2014年にロシアがウクライナ南部のクリミア半島を一方的に併合したことを機に出国。2022年2月にウクライナ侵攻が始まると、反戦メッセージを投稿し、ロシア政府寄りのテレビ局で土曜日に放映されていた料理番組を打ち切った。 ――――――――――――――――――――――――――反戦ケーキ作り投稿、パン店経営の女性に罰金 (ロシア) 2023年4月29日 AFP(発信地:モスクワ/ロシア)【4月29日 AFP】ロシア・モスクワのイズマイロボ地区裁判所は28日、親ウクライナのデコレーションをしたケーキを作った女性に対し、ロシア軍の名誉を傷つけたとして罰金3万5000ルーブル(約6万円)の支払いを命じた。 ロシアでは昨年2月のウクライナ侵攻開始以来、侵攻に対する批判が禁止されてる。 罰金支払いを命じられたのは、パン店を経営するアナスタシア・チェルニシェワさん。2万5000人以上のフォロワーを持つ自身のインスタグラムに、侵攻に反対するスローガンを書いたカラフルなケーキの写真を投稿していた。 超保守的なメディアが、チェルニシェワさんが1月に作ったケーキの写真を取り上げたことから、今月27日に一時拘束される事態となった。 チェルニシェワさんは先月には、白いケーキの上に虹色のアイシングで反戦メッセージを書いたケーキの写真を投稿したほか、ウクライナの国旗色である青と黄色のケーキも載せていた。 さらに、男性器の形をしたケーキに、ロシア語で男性器をほのめかすののしり語を含む平和のメッセージを書いていた。このほか、ハートと花の模様に加え「愛が勝つ」「アイ・ラブ・ユー!」など書かれたケーキも作っていた。
2024.11.17
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居直るリベラルは、日本の恥! 叫ぶ(民主主義)(人権)の偽善には、呆れてしまう・・・・ なぜ、全体主義の蛮行を 非難・糾弾しないのか? 2024-11-16 はんぺん 「オシポワさんは長年、反政府活動を行っており、「サンクトペテルブルクの良心」とも呼ばれている。これまでに何度も抗議活動を理由に拘束されている。」(本文)・・・・この勇気ある反戦画家が 「サンクトペテルブルクの良心」と言われているとしたら、ロシアの蛮行に見て見ぬ振りをしている日本のリベラルは、(日本の恥!)と言われ、糾弾されねばならない!!! 違うだろうか???77歳の彼女が、抗議活動に、全存在を掛けて、反戦平和、民主主義、人権などで闘っている時に、日本のリベラル=社民党・新社会党・MDS・アサートのホームページや機関紙では、ロシアの蛮行が報道されることは無い! ファシスト=ロシアを非難・糾弾する言動は、皆無という惨状だ・・・・ 何が、リベラル? 何が、進歩的? 何が、(人権?)(民主主義?)・・・・・教えてほしいのだが・・・・卑怯なリベラルたちは、たちまち黙り込んでしまう!!!何と言うハレンチな事だろうか???皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――ロシア警察、77歳反戦画家の作品押収 2023年2月2日 AFP(発信地:サンクトペテルブルク:ロシア )【2月2日 AFP】ロシア警察は1日、サンクトペテルブルクで開催されていた反戦画家エレーナ・オシポワさん(77)の個展の強制捜査を行い、作品を押収した。絵画展は前日、リベラル政党「ヤブロコ」の支部で始まったばかりだった。 ヤブロコによると、警察は爆破予告があったとして立ち入った。同党が引用した警察の報告書には、爆発物は見つからなかったが、「ロシア軍に関する偽の情報が含まれている恐れのあるキャンバスや厚紙に描かれた絵が壁に掛かっているのを見つけた」と書かれていた。 絵画展には、約20点が展示されていた。作品の一つには大きな目をした少女が描かれており、ロシア語とウクライナ語で「お母さん、戦争が怖い」という言葉が添えられていた。 オシポワさんは絵画展について、抗議活動であり「反戦展覧会」だと説明していた。 オシポワさんは長年、反政府活動を行っており、「サンクトペテルブルクの良心」とも呼ばれている。これまでに何度も抗議活動を理由に拘束されている。 ウクライナ侵攻開始以来、ロシアでは「戦争」「侵攻」といった言葉の使用も含め「特別軍事作戦」に対する批判が全面的に違法とされた。ロシア軍に関する偽情報を流布した場合、15年以下の禁錮が科される可能性がある。
2024.11.16
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リベラルたちは、これを見て、何とも思わないのか?? 信じられないリベラルたちの腐敗!! 2024-11-15 はんぺん 典型的な全体主義の国家が、社会主義・共産主義国家だったことに、僕は、とても驚いたし、戸惑った・・・・ レーニンの文献では、帝国主義列強による反革命の干渉戦争から、ロシア国土を防衛するために、強制収容所などが、必要とされたし、レーニン自身が、強制収容所を作った。(スターリンは、それを全国に、拡散・常置した)この強制収容所は、反体制派の弾圧の道具として、共産主義・社会主義国家では、当たり前のように作られ、運用されていった。この北朝鮮でも同じで・・・・悪夢の国家、監獄国家が、親子3代(金日成→金正日→金正恩)にわたり続き、民衆を苦しめてきたのだ・・・・その独裁国家の本質を見抜けなかった日本の多くのリベラルたちがいた・・・「私には、どうしても許せない人がいる。1971(昭和46)年に日教組執行委員長になった槙枝元文氏は、1973年に北朝鮮を訪朝し、金日成についてこう語った。『金日成主席は大衆の心を大切にした偉大なる人だ。この国は共産主義経済理論を徹底的に教育し、自覚的に労働意欲を高めている。生活必需品はべらぼうに安い。従って生活の不安は全くないから、この国には泥棒もいないし警察官もいない」と賛美した。』教職員はもとより、北朝鮮のことをよく知らない国民は、この言葉を信じて、子供たちに北朝鮮の教育をしたのである。これほど罪深いことが許される訳がない。しかし、槙枝氏は一度も謝罪しなかった。(足立勝美、元兵庫県立高校教諭)何と言う事だろう・・・・この日教組委員長の言葉の持つ効果は、抜群だったのだ。多くの小中高などの教師が、社会主義・共産主義の独裁国家を称賛することになる・・・・僕の中学生時代、教師の多くは、社会主義・共産主義の実態も知らずに(洗脳)されて、偏見に満ちた(偏向教育)を行っていたのだ!! 在学していた中学校の教員には、社会主義かぶれの教師が、多くいた(大阪市阿倍野区の公立中学で、進学校だったが)予断と偏見で、洗脳されて、後悔し続けた教員も、多かったと思う・・・何しろ、1991年には、社会主義のソ連や東欧が、雪崩のように崩れ去ったのだから・・・きちんと(総括)してほしい・・・自分の為だけでなく、後世のため、後に続く世代のためにも・・・・だ!!皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――中国から送還された脱北者に5~10年の重刑 家族も連座して追放 コロナ後に厳罰化<北朝鮮内部> 2024-10-9 アジアプレス・ネットワークコロナパンデミックの収まりを受けて、2023年8月から朝中間の人的往来が再開されたが、同時に中国は逮捕した脱北者の強制送還も始めている。北朝鮮北部地域に住む2人の取材協力者が調べたところ、北朝鮮当局は被送還者に重罰を科していることが分かった。(石丸次郎/カン・ジウォン)◆かつては送還されても刑期1~2年だったが咸鏡北道(ハムギョンブクト)の会寧(フェリョン)市に住む取材協力者A氏によれば、パンデミック以降に会寧に移送されてきた脱北者は、ほとんどが鴨緑江下流の新義州(シニジュ)に強制送還された人たちだという。会寧にも通称口があるのだが、北朝鮮当局が防疫を理由に入国を認めていたないためだと考えられる。A氏によれば、中国から送還されてきた場所で最初の調査が行われ、元の居住地に移送された後、保衛局(秘密警察)の取り調べを経て保安署(警察署) に送られる。かつては概ね「労働鍛錬隊」に収容されるのが普通だった。ただ、韓国や日本への逃亡を図ったと見なされると政治犯として扱われる可能性が高い。また人身売買業に関わっていたり、中国からの送還が2回目以上の場合は、1~2年程度の教化刑(懲役刑)を受けるのが「相場」だったという。※労働鍛錬隊とは、社会秩序を乱したと見なされた者、軽微な罪を犯した者を、司法手続きなしで1年以下の強制労働に就かせる「短期強制労働キャンプ」のこと。全国の市・郡にあり警察が管理する。◆少なくとも懲役5年か コロナ後に厳罰化ところがA氏は、パンデミック以降は重刑に処されるようになったとして、次のように説明する。「最近は中国から送還されてきた人は刑期が5年以上になっているようだ。私の知人の娘が8月に中国で捕まって送還されてきた。10代の時に行方が分からなくなり死んだと思われていたが、中国に逃げて子供を2人産んで暮らしていた。彼女は5年の教化刑になったと聞いた」また、A氏によると、中国から送還されてきても家族に知らせず、教化所に収監された後に通知するケースが多いという。ただ、「送還されてきた脱北者が管理所(政治犯収容所)に入れられたという話は聞いたことがない」という。両江道(リャンガンド)に住む取材協力者B氏も、最近強制送還されてきた脱北者が教化5~10年の重刑を科されていると伝えてきた。「少なくとも教化5年の判決を受けいると思う。ほとんどは7~10年だ。なぜ中国に行ったのか、中国でどんな境遇だったのか、子どもはいたのか、何の仕事をしていたのかなどによって、刑期に1~3年ほど差が出るようだ」脱北した理由が貧困の場合や、中国で監禁されていたなど不遇のケースは、情状酌量の余地があるとのことだ。「知り合いの娘で、去年中国から送還されてきた女性がいる。20代で中国に売られて行って子供が二人産んで今は30代。この女性は教化7年の刑期を受けて、全巨里(チョンゴリ)教化所(咸鏡北道にある12号教化所)に送られた後に、安全局から家族に通知があり面会に行って来たそうだ。教化所の中では『農産班』で働いているが、中国や教化所の外のことを話しただけで処罰を受けるので、一言もまともに話せないそうだ」◆残された家族は連座して追放中国に逃亡した人については、北朝鮮当局は、証拠がないがきり行方不明者として扱わざるを得なかった。残された家族の中には、韓国や中国から地下送金を受ける場合が少なくないが、家族は監視対象となることはあっても、連座して処罰を受けるようなことはほとんどなかった。ところがバンデミック以降は、逃亡を疑われただけで処罰を受けるようになったという。B氏は次のように言う。「今では、行方が分からなくなって、中国に逃亡したのではと疑われただけで、容赦なく家族を追放するようになった。両江道では、雲興(ウンフン)、三水(サムス)、白岩(ペクアム)の方に送っているそうだ。中国に逃げるのは、もう家族が犠牲になることを覚悟しなければできなくなった」※追放は、拘留ではなく山間僻地の農村に強制移住させる形で行われる。◆「子供が逃げても申告せよ」と住民に通告仮に家族が中国への逃亡を知らなかったとしても通用しないという。B氏によれば、人民班会議に、安全員(警察官)が度々来て、中国への逃亡を申告しなかったり隠したりした場合も処罰を受けると警告し、自分の子供であっても、少しでも逃亡の疑いがあれば申告せよ通知したという。また、中国は監視カメラと顔認識技術が発達したので、身分証がなければ移動もままならず、すぐ捕まると、当局が頻繁に宣伝しているという。「中国側に助けてくれる人がいなければ、越境するなんて考えられなくなった」とB氏は嘆いた。※アジアプレスでは、中国の携帯電話を北朝鮮に搬入して連絡を取り合っている。
2024.11.15
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あの3.11東日本大震災・・・多くの外国の援助が、寄せられたが・・・えげつない国が存在した。当時の韓国左派政権の事だが・・・ 2024-11-14 はんぺん 災害援助などは、本来、政治的思惑で、左右されるべきモノなのだろうか?本当に困っている人々のために、集められた義援金が、なぜ政治的思惑により、歪められ、本来の趣旨とは異なる目的に、使用されるのだろう?? 昔の韓国の左派政権(親北朝鮮政権)は、えげつなかった! 今でも、彼らが、国内で、蠢(うごめ)いていること、政権転覆を狙っていることは、間違いない・・・北朝鮮スパイ網の発達した韓国国内の状況は、今でも不安定状況は、極まっている!!!今は、(反日)から、(親日)に変わってきたという韓国政府だが、僕は、韓国ウォッチャーとして、北朝鮮の独裁政権に寄り添った韓国左派政権の(犯罪)を多く見てきたので(今は、あまり悪くは、言いたくないのだが・・・) 当時の左派政権の事だから、これだけは、みんなに知っておいてほしい・・・・との思いで、再録してみた・・・・このありえない情報に、北朝鮮を非難・糾弾してこなかった、社民党・新社会党・MDS・アサートなどのリベラルの人たちは、今でもなお、独裁者に寄り添い続けるのだろうか?それとも(見て見ぬ振り)で、ごまかそうというのだろうか?教えてほしい・・・リベラルたちよ!!!!皆さんは、どう思われるか? はんぺん(追記) 韓国は募金の使用目的に「日本の地震被害支援募金の使用方法について」と称するアンケートを実施し、回答の「主旨通りに使う」20%/「独島の守護活動を支援する」70%/その他が10%のアンケート結果を尊重して、募金の20%を日本へ、70%を独島守護活動団体に、10%を戦争性被害者(元従軍慰安婦)の団体に寄付を決定し実行。 そんな韓国の国民の中から、知ってか知らずか日本赤十字社が発表した義援金一覧の、数値と順位がおかしいとの難癖付ける事態も出てきた。 それもそのはずで、以下 日赤発表2億1557万9474円と異なり、韓国公式発表の義援金は、566億ウォン(約43億円)で、目的外流用は、国民の多くには、知らされていなかった!!親北朝鮮の左派政権は、こんなえげつないことも、平気で、堂々と実行する・・・僕には、恐ろしい政権だと思えるが・・・ 皆さん、どうでしょうか?――――――――――――――――――――――――――韓国の義捐金 20%を被災地に、70%を“独島守護活動”に 2011-4-20 週刊ポスト 近年の韓流ブームやアイドルグループの日本進出により、犬猿の仲といわれた日韓のわだかまりはすっかり解消されたかのようだ。 そして東日本大震災の発生後、世界の主要国と同様に、韓国もいち早く日本支援に動いてくれた。震災翌日の12日には救助隊を派遣し、韓国の赤十字社には1日1億円以上の寄付が集まった。韓国ではARSという電話での募金システムが普及しており、1回の電話で2000ウォン(約150円)の募金をしようと多くの人々が日本のために受話器をとったという。 ソウル・衿川区の職員たちも当初は、被災した日本人を思いやってくれる善意の人たちだった。衿川区は人口60万人で、日本人も63人が在住している。約1000人の区職員たちはお金を出し合い、1200万ウォン(約92万円)もの浄財が集まった。 本来ならばそのまま何事もなく日本に全額送金されたことだろう。しかし、3月末、日韓双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題が、日本の中学教科書の検定結果が明らかになったことで再び注目を集める事態になってしまった。 衿川区の広報課長、シン・ジョンイル氏が語る。「独島を自国領土と捏造した内容をすべての中学校教科書に採択するような敵対的な態度を見せる日本に義捐金を送る必要などないという意見が多数出てきたため、3月31日と4月1日の2日間、職員を対象に『日本の地震被害支援募金の使用方法について』のアンケートを実施しました。330人から回答が集まり、『主旨通りに使う』が20%、『独島の守護活動を支援する』が70%、その他が10%という結果になりました」 衿川区長チャ・ソンス氏は4月5日、アンケート結果を尊重して、募金のうち20%を日本へ送り、70%を独島守護活動団体に、10%をなぜか戦争性被害者(元従軍慰安婦)の団体に寄付することを発表した。※週刊ポスト2011年4月29日号
2024.11.14
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リベラル派は、ロシアによるウクライナ侵略戦争反対で、全体主義ロシア・北朝鮮による戦争挑発を厳しく、断罪せよ! 2024-11-13 はんぺん 旅行中に、悪いニュースが、続々と飛び込んできていた・・・・全体主義ブロックの(団結)模様が・・・・・毎日、歯がゆい思いをしていたのだが・・・イスラエルの戦争とも、絡めて、世界は、諦めと絶望の様相を呈しているかのようだ。以前から、危惧していたが、全体主義の中国・北朝鮮は、侵略者=ロシアに対する経済制裁に反対して、その(抜け穴)になるだろう・・・と書いたが、その時は、中国・北朝鮮は、経済支援として、ロシア原油を買い付ける、ロシアの天然ガスを買い付ける暴挙にまで、踏み込んでいた。今回は、さらに、北朝鮮が、軍隊の派兵にまで、踏み込んだ・・・・これは、かっての日独伊枢軸連合の現代版のようだ。一応、国連という国際機関が、間に入って、世界戦争的な状況には無いが、民主主義と全体主義との(新冷戦)構造が、厳然と存在している。あろうことか、日本のリベラル?たちは、この全体主義国家の蛮行を 容認する態度で、多くの日本の国民の失望を買ってきたが、いつまで、彼らは、狂犬たちに寄り添い続けるのだろうか??皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――北朝鮮のロシア派兵「絶望的」 英国防相が強い懸念 2024/10/22 共同通信 【ロンドン共同】英国のヒーリー国防相は22日、北朝鮮がロシアのウクライナ侵攻に協力するため、兵士を派遣したとの情報について「数百人の戦闘部隊の移動が始まったのはほぼ確実だ。衝撃的であり絶望的な状況だ」と強い懸念を示した。 ヒーリー氏は「北朝鮮は既にロシアに大量の武器を送っている。両国の軍事協力は、欧州とインド太平洋地域の安全保障に深刻な影響を及ぼす」と述べ、北大西洋条約機構(NATO)として対応する必要があるとの認識を示した。――――――――――――――――――――――――北朝鮮兵2千人、ロシア西部へ 先遣隊準備とウクライナ軍 2024-10-24 共同通信 【キーウ共同】ロシア東部の演習場で訓練を終了した北朝鮮兵約2千人が、ウクライナ国境に近いロシア西部に向けて列車などで移動していることが24日、分かった。ウクライナ軍筋が共同通信に明らかにした。ウクライナが越境攻撃を行っているロシア西部クルスク州には10月初めごろ、北朝鮮軍の士官らが先遣隊として入り、受け入れ準備を進めていることも判明した。 ロシア国内で訓練を終えた北朝鮮軍の具体的な動きが判明したのは初めて。同筋によると、約2千人はクルスク州かロシア南部ロストフ州に向かっている可能性がある。 米政府は23日、10月上旬~中旬にロシアに渡航した北朝鮮兵少なくとも3千人が、ロシア東部の複数の軍事施設で訓練を受けていると発表した。 ウクライナ軍筋によると、先遣隊は士官ら約10人で構成されている。クルスク州では、北朝鮮兵を受け入れる拠点の確保や通信網の整備のほか、周辺の安全確認などを行っているとみられる。2千人の到着は確認されていない。
2024.11.13
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「権力を批判する自由」を守れ!! リベラルたちは、真摯な反省を恐れるな! 独裁者を非難・糾弾せよ! 2024-11-12 はんぺん 日本には、(権力を批判する自由)がある。それを我々は、当たり前のこととして理解してきた。しかし、世界には、この(当たり前の事)が許されない国家が、数多く存在する。その多くが、全体主義国家であり、その典型は、共産党独裁国家だ。日本の進歩的と言われてきた人々は、悲しい事に、(社会主義)に(洗脳)されたままで、変わることなく現在に至る。そのため、社会主義・共産主義による、凄惨な蛮行に対して、見て見ぬ振りを続けてきた。たとえば、あれだけ(アメリカ帝国主義による侵略戦争反対)を叫んできた人たちは、社会主義ベトナムにおいて、なされた、大量の住民弾圧、人権弾圧・虐殺に対して、非難・糾弾することは無かった。たとえば、北朝鮮・金日成による(在日朝鮮人の帰国運動)の無残な結果に対して、あれだけ扇動を繰り返してきたにもかかわらず、知らなかったから・・・という言い訳で、自己批判も無く、地獄に送り込んだ在日朝鮮人の救出に動くことも無かったのだ。たとえば、社会主義協会などは(ソ連バンザイ)の論調を 長年張り続けて、扇動を繰り返し続けたが、ソ連の崩壊、社会主義の人権不在の現実が、暴露されたにもかかわらず、真摯に向き合うことは無く、今も国民を愚弄し続けている!!たとえば、僕の友人は、毛沢東に心酔し、文化大革命の最中に、親中友誼行に参加しながら、その後の(文革の惨状)が、明らかにされる中で、真摯な反省(自己批判)をしたという知らせは、ついぞ無かったのだ!たとえば、北朝鮮礼賛だった社民党(日本社会党)・・・「北朝鮮が拉致するハズは無い」(土井委員長)と大見えを切ったにも拘らず、2002年の小泉訪朝で、金正日が(拉致を謝罪)する中、見苦しい言い訳ばかりで、その後の反省(行動)は、皆無だ!!!これが、日本リベラルの惨状だ。何と言う事だったのだろう!!! きちんと反省できない彼らには、政権を取ってほしくない! と言ってきたが、今も、それは変わらない!!下記の朝日新聞の「天声人語」は、全体主義の本質を紹介したモノとして、評価する。いかに、この共産党独裁国家の下では、国民の(いのちとくらし)が、軽く見られているかを端的に示す事例だ。選挙制度は、形式だけ・・・アリバイづくりのため。 いったん権力を握れば、自民党の利権集団と何ら変わらない、がめつさ、そして権力争い・・・・・だ。 国民は、その(おこばれ)に預かることはできるが・・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――――お薦めの候補者 天声人語 2024-10-27 朝日新聞 投票用紙を手にすると、思い出す光景がある。10年ほど前、中国の選挙を取材していたときのことだ。実際に有権者が投票するところを見たいと思い、友人に相談すると、「じゃあ一緒に投票に来たらどう?」。付き添いとして投票所に入らせてもらった▼北京の地区の代表を選ぶ選挙だった。投票用紙をもらう場所と、投票箱との間に相談コーナーがあって、係の女性が笑顔で話しかけてきた。「この人がお薦めですよ」。ひとりの候補者の名前が指さされていた▼中国の選挙は、立候補が自由にできない。選挙運動もほとんどできない。だから、候補者を知らずに投票所に来る有権者が多く、その場で誰に票を投じるかの相談に応じているのだという▼「茶番」という文字がくっきりと頭に浮かび、思わず笑ってしまった。当局が認めた候補者のなかから、特定の人物への投票をさらに薦める選挙とは何なのか。〈民の欲する所は、天必ずこれに従う〉と古人は言ったが、「これでは、何も選べないよね」。友人も苦笑していた▼翻って、日本の選挙を思えば、問題は多々あれど、それは重く、尊い制度である。大事にすべきものだけに、昨今の投票率の低さが心配になる。民主主義も、自由も、空気に似ている。失ってから気づいても、もう遅い▼きょうは衆院選の投開票日。期日前投票が広がるなか、投票できる最終日ともいえようか。私はきのう投票した。投票用紙を前に背筋を伸ばし、鉛筆を握る手に、ギュッと力を込めて。
2024.11.12
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民主主義の後退は、アメリカだけではない・・・・地球規模での全体主義の膨張に最大の注意を!! 2024-11-11 はんぺん 負けるべくして負けた・・・・今回のアメリカ大統領選挙での民主党:ハリス候補だった。 彼らには、民衆の声は、届かなかった・・・というか、インフレに喘ぐ民衆の真の姿が、見えて来なかったのだろう。 民主主義は、民衆の声が、ベースでなければならない。 生活にあえぐ民衆に寄り添えずに、選挙戦は、闘えない!!!そう言う意味では、エリートのカマラ・ハリスや ヒラリー・クリントンには、最初から、選挙戦は、大きな(過ち)を抱えていた。本当に、民衆に寄り添ったのは・・・・というか、寄り添うふりをしたのは、トランプだった。 トランプが、物価高、失業などの民衆の不満の受け皿になったという事だ。最大の問題は、この結果が、世界政治に、あまりにも大きな災難を及ぼすかもしれない・・・という事だ。トランプに、大統領としての資質があるかいえば・・・・彼の過去の4年間の大統領の現実を見れば、明らかで・・・・どうしようもない(先見性も知性も無い)大統領であり、世界に、災難をもたらすばかりのゲスな大統領だ!!! 彼のような人物を国のトップに押し上げるようなアメリカの(民主主義?)には、呆れるほかないが、それが、アメリカ国民の過半数のレベルでもあるという事も真実だ。皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――トランプに熱狂する白人労働階級「ヒルビリー」の真実渡辺由佳里 2016年11月04日 ニューズウィーク日本版<知識層からときに「白いゴミ」とまで蔑まれる白人の労働者階級。貧困と無教養を世代を越えて引き継ぐ彼らに、今回の選挙で「声とプライド」を与えたのがトランプだった>(写真:筆者が取材したニューハンプシャー州のトランプの選挙集会) 無名の作家が書いたメモワール『Hillbilly Elegy』が、静かにアメリカのベストセラーになっている。 著者のJ.D.ヴァンスは、由緒あるイェール大学ロースクールを修了し、サンフランシスコのITベンチャー企業の社長として働いている。よく見るタイプのエリートの半生記がなぜこれだけ注目されるのかというと、ヴァンスの生い立ちが普通ではないからだ。 ヴァンスの故郷ミドルタウンは、AKスチールという鉄鋼メーカーの本拠地として知られるオハイオ州南部の地方都市だ。かつて有力鉄鋼メーカーだったアームコ社の苦難を、川崎製鉄が資本提携という形で救ったのがAKスチールだが、グローバル時代のアメリカでは、ほかの製造業と同様に急速に衰退してしまった。失業、貧困、離婚、家庭内暴力、ドラッグが蔓延するヴァンスの故郷の高校は州内でも最低の教育レベルで、2割は卒業できない。大学に進学するのはごく少数で、トップの成績でも他の州の大学に行くという発想などない。大きな夢の限界はオハイオ州立大学だ。 ヴァンスは、そのミドルタウンの中でも貧しく苦しい家庭環境で育った。両親は物心ついたときに離婚し、看護師の母親は新しい恋人を作っては別れ、そのたびに鬱やドラッグ依存症を繰り返す。そして、抜き打ちのドラッグの尿検査があって困ると、当然の権利のように息子に尿を要求する。それを拒否すれば、泣き落としや罪悪感に訴えかけてくる。母親代わりの祖母がヴァンスの唯一の拠り所だったが、十代で妊娠してケンタッキーから駆け落ちしてきた彼女も、貧困、家庭内暴力、アルコール依存症といった環境しか知らない。小説ではないかと思うほど、波乱に満ちた家族の物語だ。 こんな環境で高校をドロップアウトしかけていたヴァンスが、イェール大学のロースクールに行き、全米のトップ1%の富裕層にたどり着いたのだ。この奇跡的な人生にも興味があるが、ベストセラーになった理由はそこではない。 ヴァンスが「Hillbilly(ヒルビリー)」と呼ぶ故郷の人々は、トランプのもっとも強い支持基盤と重なるからだ。多くの知識人が誤解してきた「アメリカの労働者階級の白人」を、これほど鮮やかに説明する本は他にはないと言われている。 タイトルになっている「ヒルビリー」とは田舎者の蔑称だが、ここでは特に、アイルランドのアルスター地方から、おもにアパラチア山脈周辺のケンタッキー州やウエストバージニア州に住み着いた「スコットアイリッシュ(アメリカ独自の表現)」のことである。 ヴァンスは彼らのことをこう説明する。「貧困は家族の伝統だ。祖先は南部の奴隷経済時代には(オーナーではなく)日雇い労働者で、次世代は小作人、その後は炭鉱夫、機械工、工場労働者になった。アメリカ人は彼らのことを、ヒルビリー(田舎者)、レッドネック(無学の白人労働者)、ホワイトトラッシュ(白いゴミ)と呼ぶ。でも、私にとって、彼らは隣人であり、友だちであり、家族である」 つまり、「アメリカの繁栄から取り残された白人」だ。「アメリカ人の中で、労働者階級の白人ほど悲観的なグループはない」とヴァンスは言う。黒人、ヒスパニック、大卒の白人、すべてのグループにおいて、過半数が「自分の子供は自分より経済的に成功する」と次世代に期待している。ところが、労働者階級の白人ではその割合は44%しかない。「親の世代より経済的に成功していない」と答えた割合が42%だから、将来への悲観も理解できる。 悲観的なヒルビリーたちは、高等教育を得たエリートに敵意と懐疑心を持っている。ヴァンスの父親は、イェール大学ロースクールへの合格を知らせると、「(願書で)黒人かリベラルのふりをしたのか?」と尋ねた。ヒルビリーにとって、リベラルの民主党が「ディバーシティ(多様性)」という言葉で守り、優遇するのは、黒人や移民だけ。知識人は自分たちを「白いゴミ」と呼んでバカにする鼻持ちならない気取り屋で、例え自分たちが受けている福祉を守ってくれていたとしても、その事実を受け入れるつもりも、支持するつもりもない。 彼らは「職さえあれば、ほかの状況も向上する。仕事がないのが悪い」という言い訳をする。 そんなヒルビリーに、声とプライドを与えたのがドナルド・トランプだ。 トランプの集会に行くと、アジア系の私が恐怖心を覚えるほど白人ばかりだ。だが、列に並んでいると、意外なことに気づく。 みな、楽しそうなのだ。 トランプのTシャツ、帽子、バッジやスカーフを身に着けて、おしゃべりをしながら待つ支持者の列は、ロックコンサートやスポーツ観戦の列によく似ている。 彼らは、「トランプのおかげで、初めて政治に興味を抱いた」という人たちだ。「これまで自分たちだけが損をしているような気がしていたし、アメリカ社会にモヤモヤした不満を抱いてきたけれど、それをうまく言葉にできなかった」という感覚を共有している。 「政治家の言うことは難しすぎてわからない」「プロの政治家は、難しい言葉を使って自分たちを騙している」「ばかにしているのではないか?」......。そんなモヤモヤした気持ちを抱いているときに、トランプがあらわれて、自分たちにわかる言葉でアメリカの問題を説明してくれた。そして、「悪いのは君たちではない。イスラム教徒、移民、黒人がアメリカを悪くしている。彼らをひいきして、本当のアメリカ人をないがしろにし、不正なシステムを作ったプロの政治家やメディアが悪い」と、堂々と「真実」を語ってくれたのだ。 トランプの「言いたいことを隠さずに語る」ラリーに参加した人々は、大音響のロックコンサートを周囲の観客とシェアするときのような昂揚感を覚える。ここで同じ趣味を持つ仲間もできる。しかも、このロックコンサートは無料だ。 「トランプの支持者は暴力的」というイメージがあるが、それは外部の人間に向けての攻撃性であり、仲間同士ではとてもフレンドリーだ。 この雰囲気は、スポーツ観戦とも似ている。特に「チームびいき」の心境が。レッドソックスのファンは、自分のチームをとことん愛し、ニューヨークヤンキースとそのファンに強い敵意を抱く。この感情に理屈はない。 トランプの支持者に取材していた筆者は、ヴァンスの本を読んでいて「まったく同じ人々だ」と感じた。ヴァンスが説明するアパラチア山脈のヒルビリーに限らず、白人が多い田舎町では同じように「トランプ現象」が起こっている。 ヴァンスは家族や隣人として彼らを愛している。だが、「職さえあれば、ほかの状況も向上する。仕事がないのが悪い」という彼らの言い訳は否定する。社会や政府の責任にするムーブメントにも批判的だ。 困難に直面したときのヒルビリーの典型的な対応は、怒る、大声で怒鳴る、他人のせいにする、困難から逃避する、というものだ。自分も同じような対応をしてきたヴァンスが根こそぎ変わったのは、海兵隊に入隊してからだった。そこで、ハードワークと最後までやり抜くことを学び、それを達成することで自尊心を培った。そして、ロースクールでの資金を得るためにアルバイトしているときに、職を与えられても努力しない白人労働者の現実も知った。遅刻と欠勤を繰り返し、解雇されたら怒鳴り込む。隣人たちは、教育でも医療でも政府の援助を受けずには自立できないのに、それを与える者たちに牙をむく。そして、ドラッグのための金を得るためなら、家族や隣人から平気で盗む。 そうなってしまったのは、子供のころから努力の仕方を教えてくれる人物が家庭にいないからだ。 ヴァンスはこう言う。「僕のような子供が直面するのが暗い将来だというのは統計が示している。幸運であれば福祉の世話になるのを避けられるが、不運ならアメリカの多くの田舎町で起こっているように、ヘロインの過剰摂取で死ぬ」と。彼がアイビーリーグのロースクールに行って弁護士になれたのは、ずば抜けた天才だったからではない。幸運にも、宿題を強要する母代りの祖母や、支え合う人間関係について身をもって教えたロースクールのガールフレンドなど、愛情を持って支えてくれた人たちがいたからだ。ヴァンスのように幸運でなかった者は、「努力はしないが、バカにはされたくない」という歪んだプライドを、無教養、貧困とともに親から受け継ぐ。 この問題を、どう解決すればいいのか? ヴァンスは、ヒルビリーの子供たちに、行き場や自分のようなチャンスを与えるべきだと考える。そして、悪循環を断ち切ることだ。だが、その方法については「僕にも答えはわからない」と言う。 「だが、まずオバマやブッシュ、顔のない企業のせいにするのをやめなければならない。そして、どうすれば改善するのか、自問するところから始めるべきだ」 これは、ヒルビリーだけではない。私たちもそうしなければならないだろう。
2024.11.11
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恥を知れ! リベラル! 独裁者容認ではなく、民衆を守る立場に、立ち還れ! 2024-11-10 はんぺん我々が住む日本では、とうてい考えられない事態が、共産党独裁国家では、進行している。決して、日本リベラルの機関紙やホームページには、紹介されることは無い、厳しい現実だ。これらの情報を 彼ら、リベラル派が報道すること自体が、彼らの目指す(社会主義)を否定することになるからだろう日本リベラルとは、社民党・新社会党・MDS・アサートたちのグループの事だが、この多くに、以前、僕は、相当に関わってきた(因縁)がある。 (MDSとは、民主主義的社会主義運動という、泡沫的社会主義政党の事)・・・・彼らの機関紙やHPは、岸田批判、バイデン批判で、埋め尽くされてきたが、今後も、石破政権非難、トランプ政権非難の記事で、埋め尽くされることになるのだろう・・・・何という(偏向)(偽善)なのか!!! こういう(情報の遮断!)は、本来(民主主義)(人権)が叫ばれる日本では、あってはならない事なのだが、さすがに、自身を全否定する情報は、知っていても、出せないのだろう・・・ 思い返せば、あの65年前の在日朝鮮人の帰還事業。 在日朝鮮人やその家族たちの(帰還事業)・・・1959年から1967年にかけて、「朝鮮」籍約50万人弱のうち、北朝鮮に永住帰国したのはおよそ9万3,000人(うち、北朝鮮に渡った『日本人妻』は約1,831人)であった。(人権)を声高に叫び、その運動の中核を担ったのは、日本共産党、日本社会党の両党だったが、「地上の楽園」は「地上の地獄」とわかっても、まったくの自己批判無しに、うやむやに、されてしまったのだ・・・・自分たちの(社会主義幻想)が、否定される事のみを恐れ、無かったことにしようという姑息な彼らが、今の日本リベラルと繋がっていると強く感じる昨今である。皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――――――狙われた美人ウェイトレス…北朝鮮で「水抜き」処刑 2024-11-3 高英起(デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト)2008~10年頃にネット上で話題になった北朝鮮レストラン従業員(デイリーNK)北朝鮮当局は最近、主に中国にいる海外派遣労働者を対象に、思想的な締め付けをつよめていると、デイリーNKの現地情報筋が伝えている。具体的には、「外来文化を打ち破ろう」と題した反復的な学習を通じて思想強化を促しているという。「特に先月中旬頃から関連教養事業が集中的に進められているとされる。 北朝鮮が最近、改正憲法で韓国を敵対国家と規定し、国民の対南敵愾心を煽っているのと歩調を合わせ、海外派遣労働者に対しても反韓感情を鼓吹しているもようだ」(情報筋)ここで思想締め付けの基準となるのは、2020年12月に制定された反動思想文化排撃法で、とくに韓流などの海外文化を流布した事実が発覚すれば、無期懲役や死刑もありうる。こうした思想キャンペーンでもっとも危険な立場に追いやられるのは、北朝鮮レストランの女性従業員たちだ。中国には、アパレル工場や水産物加工工場で働く北朝鮮の女性労働者が数多くいる。彼女らは監視の厳しい寄宿舎での集団生活を強いられており、外部の人々との接触はごく限られている。それに対して北朝鮮レストランの従業員は接客業という職業柄、外部とのかかわりを遮断するのは不可能だ。近年では、帰国後に行われる「水抜き」という思想点検作業で「不合格」となって処刑されるのを恐れ、中国から韓国へ亡命する従業員らが相次いだ。これは、決して彼女らの杞憂ではない。たとえば読売新聞は昨年12月23日付の報道で、北朝鮮の内部事情に詳しい消息筋からの情報として、次のように伝えている。「北朝鮮が新型コロナウイルス対策で約3年7か月間封鎖していた中国との国境を8月に開放して以降、帰国した外国派遣労働者や留学生、在外公館員など6000人以上に対し、 金正恩朝鮮労働党総書記の指示で厳しい思想調査や検閲を実施したことがわかった。韓国映画・ドラマを日常的にみていたことがわかり、銃殺刑に処されたケースもあったという」北朝鮮が、憲法にまで韓国を敵国として定める条項を盛り込んだのならば、こうした動きは今後もますます強まる可能性がある。かつては北朝鮮の人々にとって憧れだった海外勤務も、今後は忌避の対象になっていくかもしれない。―――――――――――――――――――――――――高英起 デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。
2024.11.10
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リベラルの目は、節穴か? 独裁国家の蛮行を見逃すのは「犯罪」だ!!! 2024-11-9 はんぺん 弾圧で、自由と人権の抑圧が続く共産党の中国。独裁者の習近平は、権力固めを緩めず、中国や世界全体を灰色に染めようと画策してきた。そのファシストたちを、非難・糾弾せず、彼らを狂喜させてきた日本リベラルたちを憂う事態が、長年、生じている。リベラルとは、社民党・新社会党・MDS・アサートたちの事。(MDSとは、民主主義的社会主義運動という、泡沫的社会主義政党の事) 岸田政権、バイデン政権を、口汚く罵ることはあっても、独裁者の人権弾圧非難は、こっそりと、静かに・・・アリバイ作りのように、行うのみ・・・これが、日本リベラルたちの、これまでの所業だった・・・何という事だろうか!!恥を知れ!! と言ってきた。いつから全体主義の蛮行について、傍観者の立場に、堕落してしまったのだろうか?? 僕は、信じられない!!!世界は、民主主義と全体主義の(新冷戦)の時代の真っ只中にある。中国・北朝鮮・ロシアなどの全体主義派は、協力し合って(昔の枢軸連合のように)、民主主義派に対抗しようとしている。ロシアのウクライナ侵略戦争に対して、北朝鮮は、派兵を実行しているようだ。軍事大国ロシアを前にして、ウクライナ国軍の劣勢の情報が、伝えられている。 これの意味するところは、大きいだろう。民主主義国家の中でも、全体主義的傾向が、顕著に現れてきたという。全体主義勢力の膨張は、何を意味するのだろうか?アメリカの大統領選挙では、アメリカ第1主義のトランプが、当選した。自国の利益第1主義のアメリカが、ますます全体主義の膨張に手を貸すような事態も、危惧されてきた。ウクライナ侵略戦争の帰趨は、世界的規模の全体主義派の跋扈の口火となる可能性がある。世界の民主派の、これまで以上の支援と団結が求められているが、状況は、厳しいようにも思える。世界は、今後、どうなっていくのだろうか? 僕たち団塊の世代が、消え去った後の事ではあるが、気になる。我々の世代は、後の世代に、何を遺せるのだろうか?我々の世代の歴史的責任の事を考える。人間は、スーパーマンでは無い・・・どころか、短所も多いのが現実。取り返しのつかない未来が、今後、待ち受けているとしたら・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――香港 亡命中の元民主派活動家ら5人に懸賞金 (中国) 2023年12月26日 アムネスティ国際ニュース 香港警察は、国外にいる元民主派活動家5人を指名手配し、有力情報の提供に100万香港ドル(およそ1,800万円)の懸賞金を提供するとした。また、すでに懸賞金の対象となっていた在外活動家を支援した罪に問われている4人も香港で逮捕した。一連の香港当局の対応は、当局による人権の侵害や制約が国外に波及していることを示している。「西部開拓時代」のように活動家の首に懸賞金をかけるという露骨な手段が、反対意見を封じる手段の選択肢として浮上した模様だ。懸賞金は、対象となった活動家の自由と安全を脅かすだけでなく、どこにいても身の安全を脅かされている他の人たちにも幅広く影響する。国家安全保障の名のもとでの懸賞金の呼びかけは、国境を越えた威嚇行為であり、居住国を問わず異議を唱える声を封じ込む狙いがある。当局は、この馬鹿げた、危険極まりない懸賞金を直ちに撤回し、亡命活動家を支援したとして拘束されている人たちを釈放すべきだ。懸賞金の対象となった活動家の受け入れ国は、活動家の権利を保護し、人権侵害を受けた場合は救済することが求められる。活動家は人権を行使しているだけであり、香港当局による海を超えた迫害から保護されるべきだ。背景情報懸賞金をかけられたのは、サイモン・チェンさん、フランシス・ホイさん、ジョーイ・シウさん、ジョニー・フォクさん、トニー・チョイさんの5人。チェンさんらは、国家安全維持法(国安法)の「分離独立扇動」と「外国勢力との共謀」の容疑に問われていて、終身刑を言い渡されるおそれがある。香港警察は7月にも8人に100万香港ドルの懸賞金をかけており、国家安全維持法のもとで懸賞金の対象となったのは、これで13人となる。8人は、ネイサン・ローさん、アンナ・クォックさん、フィン・ラウさんの活動家3人、元議員のデニス・クォックさん、テッド・ホイさん、弁護士で法学者のケビン・ヤムさん、組合活動家のムン・シウタットさん、コメンテーターのユアン・ゴンイさんで、米国、英国、豪州のいずれかに亡命しているが、「外国勢力との共謀」の容疑にも問われている。国安法違反の「逃亡者」として懸賞金がかけられている13人のうち2人は、現在居住する国の市民権を持っている。また12月14日、クラウドファンディングで亡命者を資金援助した容疑で香港にいる4人が逮捕された。香港の国安法が2020年6月に施行されて以来、香港の人権状況は劇的に悪化し、表現の自由、集会、結社の自由などへの弾圧が続いている。香港当局は、当局が認めない外国の組織や個人との連携を「外国勢力との共謀」と同一視しする。警察当局は、活動家と外国の関係者との日常の、なんら悪意のないやり取りを「国家の安全を脅かすおそれがある行為」とみなしている。アムネスティ国際ニュース 2023年12月14日―――――――――――――――――――――――――香港で国歌に背を向けて逮捕。表現の自由の侵害 (中国) 2024年6月15日 アムネスティ国際ニュース 6月6日に香港で開催されたサッカーのワールドカップ・アジア予選での試合前の中国国歌演奏時、ピッチに背を向け、起立しなかったのは国歌への侮辱にあたるとして3人が逮捕された。またしても香港での平和的な抗議行動が、表現の自由を封じ込めるために施行された抑圧的な法律(今回の場合は国歌法)によって、強硬な警察の対応を受けることになった。わずかな反対の兆候さえも厳しく監視され、重罰に処される香港では、警察国家であることをますます浮き彫りにする事件が続いている。国歌やその他の国家シンボルについて思いを表現する権利は、国際人権法によって強く保護されている。しかし、香港では中国の国家を「侮辱」することは、たとえ座り続けるという単純な行為であっても、犯罪になる。逮捕された人たちは表現の自由の権利を行使しただけであり、当局は彼らに対する処分を直ちに取り下げるべきだ。背景情報地元メディアによると、中国国歌が演奏された際、観客を監視する私服警官が、観客の様子を撮影していた。2020年に成立した香港の国歌法では、中国国歌に対する「侮辱」とみなされる行為は犯罪であり、最高3年の禁錮刑が科される。6月6日に逮捕された人たちは全員保釈されたが、捜査は続いている。この数週間、香港では平和的な活動に対する取り締まりが続いている。6月4日、35年前のこの日に起きた天安門事件の犠牲者を追悼する集会で4人が逮捕され、その数日前には、この弾圧の犠牲者を追悼した8人が、3月に施行された「国家安全条例」法の「扇動罪」で逮捕された。国際人権法の下では、表現の自由は、差し迫った暴力を煽動する意図や可能性がなければ、一部の人が不快に思うような思想や言論でも保障される。国際人権基準では、国家やその象徴に対する批判や侮辱は、たとえ不快であっても国家の安全に対する脅威にはならず、他の理由による禁止を正当化するものでもないことが明記されている。アムネスティ国際ニュース 2024年6月7日
2024.11.09
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これでも、非難の声を挙げないリベラルたちって? 共産党独裁の悲劇、再び・・・ 2024-11-8 はんぺん独裁政権の歴史を、我々は何度も 学校の授業で、習ってきた・・・それが、民衆にとって恐怖であり、怨嗟の対象であることも・・・ リベラルたちは、何を勉強してきたのだろうか??独裁政権、共産党政権による蛮行、非道に見て見ぬふりをつづけてきた、社民党・新社会党・MDS・アサートの論者たち・・・・あなたたちの「犯罪」は、厳しく断罪されねばならない! (MDSとは、民主主義的社会主義運動という泡沫的社会主義政党の事)あなたたちの言行不一致、2枚舌が、いかに、リベラルの道を踏み外しているかを、はんぺんは、厳しく非難してきたが・・・これまでのところ、一切の反省=自己批判は、無いようだ。このような組織・運動体が、(人権)(人権)、(民主主義)(民主主義)と叫ぶことの異常さは、際立っているとしか、言いようがない・・・・違うだろうか? 歴史は、残酷だと思う。(歴史から学ぶべき)と言われ続けてきたが、いったい、どの国の指導者が、真摯に学んできたのか? 民衆の阿鼻叫喚を尻目に、独裁権力の甘い汁を吸い続けてきた(愚かな人間たち)が、あまりにも多すぎる・・・ 共産主義思想から、1億人の犠牲者が、出たという。(共産主義黒書:フランス) その凄惨な事実を、我々は、ごく身近に見てきた。毛沢東、金日成たち、ポルポトのカンボジアでも・・・・ これらは、まさに(地獄)だった。 それでも、(社会主義)の(洗脳)に、絡めとられた社会主義者(!)がいる・・・・彼らは「新しい社会主義を目指す」(新社会党)という。「民主主義的社会主義をめざす」(MDS綱領)という。 そして、全体主義を指弾することを避け続けて、独裁者を狂喜させ続けている・・・・ 歴史から学べない彼らの人生とは、一体何だったんだろう・・・??? いつもそのことばかりを思うのだ。 一度しか無い人生を、あの戦時中の特攻兵のような(無駄死に)を、再び繰り返そうとしている彼らの事を・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――金与正を批判した人々が相次ぎ失踪「家族ごと一夜にして消えた」2024-11-5 高英起(デイリーNKジャパン編集長)北朝鮮の金正恩総書記の妹、金与正(キム・ヨジョン)朝鮮労働党副部長を批判した黄海南道(ファンヘナムド)の住民2人が保衛部に逮捕され、その家族までが行方不明となる事件が最近発生したと、デイリーNKの内部情報筋が伝えている。道内の海州(ヘジュ)市在住の情報筋によると、「先月中旬、金与正同同志が平壌への『無人機浸透事件』と関連して出した談話文を見て批判的な発言をした市内の住民2人が、保衛部に逮捕された」とし、「その後、彼らの家族までが行方不明になったことで、地域の人々が不安を覚えている」と伝えた。情報筋によると、保衛部に逮捕された2人の住民は、国家に対する批判的なことも話し合える親しい間柄だった。 彼らは逮捕される前日にも会い、密かに北朝鮮当局を批判していた。それを盗み聞きした他の住民が保衛部に密告して逮捕されたという。彼らは、特に最近の南北間の緊張に対する憂慮を表わし「この国が早く滅びるためには戦争が起きなければならない。戦争が起これば、人々は皆、韓国や中国に逃げるだろう」と発言したという。さらに彼らは、韓国との「統一」「ひとつの民族」の概念を消し去ろうとする当局の措置についても意見を交わした。 金日成・金正日時代と比較しながら、「わが国の住民は誰もが統一を目標にしているのに、今日の国家は統一を望んでいない。国家は中途半端な形で残ることになり、我々の希望も消えた」と話したという。そうかと思えば、彼らは率先して対韓国非難談話を出している金与正氏に対して「スカートをはいた女性があんな風にでしゃばるのは見たくない」「女に何がわかるのか」と女性蔑視的な発言を重ね、同時に「人民がどれほど苦労しているのか、国の経済的な状況はどうかをよく見て、助けてくれなければならないのではないか」などの批判を繰り返した。北朝鮮当局が知れば、ぜったいに許されることのない内容と言える。彼らの消息は詳らかでないが、当局の取調べは凄惨をきわめるだろう。さらに、彼らの家族までが一夜にして消えたことで、「地域住民は驚愕し、恐怖に震えている」(情報筋)という。家族らは管理所(政治犯収容所)送りになったか、僻地に追放されたと見られる。――――――――――――――――――――――――――高英起 デイリーNKジャパン編集長/ジャーナリスト北朝鮮情報専門サイト「デイリーNKジャパン」編集長。関西大学経済学部卒業。98年から99年まで中国吉林省延辺大学に留学し、北朝鮮難民「脱北者」の現状や、北朝鮮内部情報を発信するが、北朝鮮当局の逆鱗に触れ、二度の指名手配を受ける。雑誌、週刊誌への執筆、テレビやラジオのコメンテーターも務める。主な著作に『コチェビよ、脱北の河を渡れ―中朝国境滞在記―』(新潮社)『金正恩核を持つお坊ちゃまくん、その素顔』(宝島社)『北朝鮮ポップスの世界』(共著)(花伝社)など。YouTube「高英起チャンネル」でも独自情報を発信中。
2024.11.08
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ヒットラーとトランプ・・・洗脳と熱狂と! 全体主義に、なびく世界情勢を危惧する!! 2024-11-7 はんぺん あのワイマール憲法下での ナチス党(国民社会主義ドイツ労働者党)の選挙勝利(第1党)と 今回のトランプのSNSと巨額の選挙資金を背景にした選挙勝利とは、多くの共通点がある・・・と見ている。 ナチス党は、第1次大戦後の巨額の賠償金のプレッシャー、世界大恐慌の後の打ちのめされた民主国家:ドイツ国の救世主として、立ち現れた。そして、ユダヤ排斥を始めとした、極端な排外主義キャンペーンの(洗脳)により、疲れ切った国民に希望を示して、熱狂的支持を獲得した。「溺れる者は藁をも掴む」というわけで、正常な判断が不可能な状況下で、国民は(洗脳)により、変えられていったのだ・・・猛烈な排外主義キャンペーンで、目くらまされた国民は、ナチスを第1党に押し上げた・・・そして、悪夢が始まった・・・・トランプの(アメリカファースト)は、異常なインフレに、打ちのめされているアメリカ国民にとっての不満の受け皿になるのに、たいした時間を要しなかった。多くのアメリカ国民にとっては、何よりも、目の前のインフレ、明日の食事が、喫緊の最重要課題だった・・・そのことが、ハリス(民主党)には、充分には、分かってなかったということだ。ハリス候補の最大の敗因は、ここにある。逆に言えば、トランプにとって、前政権が、充分な対策を打てなかったインフレ・・・が、最大の攻撃目標だった。 トランプに名案があるかどうかは、未知数だが、今回の選挙では、国民の不満の受け皿になるには、充分だったのだ。2016年の大統領選挙で、民主党のヒラリークリントン候補が、敗れたのも、、「ラストベルト(さびついた工業地帯)」とよばれる、アメリカ分断の象徴に対する理解と対策が、極めて不十分であり、トランプ候補にとっての最大の攻撃目標となった事だろう。 したたかなトランプの戦略に、対応できなかったクリントン候補、ハリス候補の敗北は、必然だったのだろう。トランプの選挙手法は、巧妙であり、民主党のそれを上回っていたことは、確かだ。SNSと自派のマスメディアを最大限利用しながら、囲い込み運動を繰り返し、(洗脳)による熱狂的支持者を拡大してきた・・・・あのヒットラーの排外主義的な大規模集会の記録などを見ていて、その行きつく先を知っている我々は、同じことは、無いとしても、危惧の念を抱かざるを得ない。このトランプの政策の中身であるアメリカ第一主義は、今後の世界の混乱の原因となることが、言われてきたし、その危険性は、とてつもなく大きいと思われる。皆さんは、どう思われるか? はんぺんん――――――――――――――――――――――――――なぜトランプ候補は勝利したのか(1):選挙結果の背後にある政治の構造変化と進むZ世代の保守化 中岡望(ジャーナリスト) 2024-11-7 【目 次】■明確な政策を示せなかったハリス候補■背後にある共和党支持の高まりと若者層の保守化■民主党離れを加速する黒人とヒスパニック系有権者■健在だった「トランプ連合」とキリスト教右派の支持/////////////////////////////////////////////////////////■明確な政策を示せなかったハリス候補 大統領選挙は、様々な世論調査が示していたように“接戦”だった。だが民主党の伝統的な地盤と考えられてきたペンシルバニア州やミシガン州などの”青い壁(Blue Wall)“が崩れた時、ハリス候補の勝利は消えた。トランプ候補がペンシルバニア州で勝利すると、アメリカのメディアは一斉に「トランプ勝利」というニュースを流した。 2016年の大統領選挙でも、トランプ候補は青い壁の州を獲得することで勝利を得た。2020年の大統領選挙では、バイデン候補が青い壁の州を手中に収めることで勝利を得た。今回の大統領選挙は2016年の大統領選挙の再演でもあった。 選挙の終盤、トランプ候補はハリス候補や女性に向かって耐えがたい暴言を繰り返し、焦りからか憔悴した姿を見せることもあった。トランプ候補の暴走でトランプ陣営の足並みの乱れもあった。選挙速報を報道するCNNは、投票を済ませた若者に「誰に投票したのか」とインタビューしていた。若者は「トランプはいつも人の悪口を言い、子供じみた行動を取っている。そんな人物に大統領になって欲しくはない」と答えていた。おそらく多くのアメリカ人も同様な感想を持っているのではないかと思われた。 多くの世論調査は、中絶問題で郊外に住む高学歴で保守的な女性がハリス支持に傾いていると伝えていた。2022年の中間選挙では共和党が「赤い波(red wave)」に乗って両院で圧勝すると予想されていた。だが同年に出された最高裁の女性の中絶権を否定する判決を受け、多くの女性が民主党候補に投票した。共和党は下院で勝利したものの、民主党との議席差はわずかであった。上院では過半数を制することができなかった。トランプ前大統領が支援した候補者は軒並み落選し、共和党内でのトランプ元大統領の影響力が低下したと言われた。 今回の大統領選挙も中絶問題が大きな争点であり、10州で中絶問題に関する住民投票が行われることから、再び女性票がハリスに流れると予想されていた。女性の投票率は男性より高く、その投票動向で選挙が左右される。だが、女性票は思ったほど、ハリス候補に流れなかった。中絶問題は深刻だが、大統領選挙に決定的な影響を与えることはなかった。最大の問題は経済であった。 ハリス候補は準備する時間もなく民主党の大統領候補に指名され、選挙に突入した。3か月余りの選挙運動期間中、明確な政策を打ち出すことはできなかった。政策の多くはバイデン政権の政策を踏襲するものであった。バイデン政権の副大統領という立場から、政権批判を行えず、バイデン大統領との差別化ができなかった。イスラエル・ハマス戦争など微妙な問題に対しても明確に答えられない場面も見られた。アメリカ人は“強い指導者”を好む。ハリス候補の演説を聞いていても、圧倒するような熱気は伝わってこなかった。むしろ筆者の目には、優柔不断に見えた。最後まで「自分は何者か」を有権者に十分に伝えることはできなかった。 それでも、筆者はハリス候補が勝利する確率は高いと感じていた。ハリスが勝利すると感じるもうひとつの根拠は、共和党穏健派あるいは伝統的な保守主義者がハリス候補に投票すると予想していたからだ。リズ・チェイニー元下院議員をはじめ、多くの穏健派共和党員がハリス支持を表明していた。共和党の大統領予備選挙でトランプ候補と争ったニッキー・ヘイリー候補は20~30%の票を獲得していた。そのうちの10%でもハリス候補に流れれば、状況は大きく変わる。だが、それは起こらなかった。ハリス候補の敗北に終わった。 さらに深刻なのは、議会選挙の結果である。本稿を執筆時点で、共和党は上院の過半数を確保し、下院でも勝利する勢いである。もし共和党が両院を支配すると、大統領と議会は共和党の支配下に置かれる。最高裁も9人の判事のうち6名が共和党系の判事である。アメリカ民主主義は「三権分立」による権力間の相互チェックを基本とする。だが、もはやそうした機能は期待できない。トランプは圧倒的な力で議会と最高裁を支配するだろう。 最高裁は大統領の“免責特権”を認める判断を下しており、在職中の行為で大統領に刑事罰を問うことはできない。誰も大統領に就任したトランプをチェックできない。彼は「独裁的権力」を行使すると公言して憚らない。バイデン大統領とハリス副大統領は、有権者に「トランプは民主主義の脅威である」と訴えたが、有権者の耳には届かなかった。■背後にある共和党支持の高まりと若者層の保守化 選挙が終わり、これから様々な選挙分析が行われるだろう。上で指摘したような選挙分析だけでは、アメリカの政治の構造的な変化を理解することはできない。アメリカ社会は、私たちが想像する以上に大きな変化が起こっているのかもしれない。 選挙直前に興味深い調査結果が発表された。2024年9月24日にギャラップ社は「2024 Election Environment Favorable to GOP (2024年の選挙環境は共和党に有利)」と題する調査報告を発表している。この調査は、今回の選挙結果を予兆するものであった。その調査によれば、アメリカ社会は「共和党支持」に傾いているのである。移民問題、インフレ問題などの課題も共和党に有利に働いている。同報告は「ギャラップのすべての指標は民主党よりも共和党が有利を示している。成人の多くは共和党員あるいは共和党支持であり、民主党よりも共和党の方が国が直面する重要な問題に上手く対処できると信じている」とアメリカ社会は共和党支持に傾いていると指摘している。 共和党支持と共和党寄りと答えた成人は48%、民主党支持と民主党寄りは45%である。重要な問題の処理能力については、共和党が46%、民主党が41%である。「大統領選挙が行われる年で共和党が民主党より優位に立ったことはない。過去30年間、共和党が民主党を上回ったことはほぼない」。 若者の意識にも変化がみられる。2024年秋にハーバード大学ケネディ政治大学院の政治研究所が発表した調査「Harvard Youth Survey」では、18歳から24歳では、リベラル派が22%、保守派が26%、穏健派が48%であった。25歳から29歳では、リベラル派が27%、保守派が21%、穏健派が48%であった。また18歳から24歳の層の女性も保守派がリベラル派を3ポイント上回っている。調査担当者は「この世代はコロナ感染で最も深刻な影響を受けた世代であり、それが政治的な立場に影響を与えている、彼らはトランプを悪役ではなく、アンチ・ヒーローだと考えている」と説明している。若者がリベラルであるという考え方はもはや通用しない。2008年の大統領選挙で大学生が大挙してオバマ陣営の選挙活動にボランティアで参加したのは遠い昔の話である。今回の大統領選挙では、そうした学生の動きは見られなかった。■民主党離れを加速する黒人とヒスパニック系有権者 ハリス陣営には、もうひとつの大きな誤算があった。それは黒人票とヒスパニック票、さらにイスラエル・ハマス戦争に対するバイデン政権の取り組みに対する不満からアラビア系の有権者が民主党から離反したことだ。 従来、黒人やヒスパニック系の有権者は民主党の支持層であった。現在でも、民主党の支持基盤であるが、彼らの一部は民主党離れを起こしている。その数は多くなくても選挙では決定的な影響を与える。有権者の15%の約3600万人がヒスパニック系の有権者である。彼らの人口は着実に増加しており、それに伴って政治的な力も強くなっている。カリフォルニア州、フロリダ州、テキサス州などの大きな州や、アリゾナ州やネバダ州などの激戦州では大統領選や議会選挙を決定する重要な存在になっている。州の選挙では、数万票あるいは数千票の差で勝敗が決まる。UnidoUSとBSPの調査では、アリゾナ州ではヒスパニック系の25%、ネバダ州では24%、テキサス州では31%が、トランプ候補に投票すると答えている。 『ニューヨーク・タイムズ』は2024年10月13日に、同社とシエナ大学の共同調査に基づいて「なぜトランプは黒人やヒスパニック系の有権者を獲得しているのか(Why is Trump Gaining with Black and Hispanic Voters?)」と題する記事を掲載している。 2026年の大統領選挙の時、トランプ候補はメキシコ移民を「強 姦犯」と呼び、今回も不法移民の大量に強制送還を主張するなど、厳しい移民政策を掲げている。それでも、なぜヒスパニック系有権者はトランプ候補に投票するのだろうか。 同記事は5つの理由を指摘している。第1に、一部の黒人やヒスパニック系は、トランプ候補の人種差別的な発言を気にしていないという。黒人の約40%、ヒスパニック系の43%が、不法移民の流入を阻止するためにメキシコとの国境に壁を建設することを支持し、黒人の41%、ヒスパニック系の45%が不法移民の強制送還を支持している。同記事は「トランプのポピュリズム的、保守的なメッセージには、黒人やヒスパニック系が共鳴するものがたくさんある」と指摘している。 2つ目は、トランプ候補の人種差別的な発言に対して、少数派であるが一部の黒人やヒスパニック系は「それほど気分を害してない」。ヒスパニック系の40%は「トランプの発言に気分を害している人はトランプの言葉を真剣に受け止めすぎている」と答えている。ヒスパニック系の53%、黒人の5%は、「トランプの発言に不快だとは思わない」と答えている。リベラル派の人々が大騒ぎするほど、当該者は気にしていないということだ。 3つ目は、民主党は黒人やヒスパニック系の支持を得るために人種平等を主張する必要があると考えているが、彼らにとってもっと重要なのは経済問題である。「経済的な利益を過小評価してはならない」のである。トランプ候補に投票した多くの有権者は、バイデン政権の経済政策に不満を抱いていた。 4つ目は、「希望と変化の終焉」である。ハリス候補は「希望」と「変化」を主張した。だが黒人やヒスパニック系の有権者は「民主党に投票しても何も変わらない」と感じている。同記事は「黒人やヒスパニック系の有権者は民主党の意図を疑っているわけではないが、結果には失望している」、「ハリスが自分たちの生活に変化をもたらすと確信している黒人やヒスパニックはほとんどいない」と指摘している。その遠因として、「オバマ大統領が多くの人が望んでいたような変化をもたらさなかったと認識されている」ことがある。 5つ目は、トランプ候補は若い黒人やヒスパニックの最大の支持を獲得していることだ。「トランプは45歳以下のヒスパニック系男性の55%の支持を得ている。ハリス候補は38%である、45歳以下の黒人では69%の支持を得ている(ハリス候補は27%)。また若者は2016年の大統領選挙でのトランプ候補の強烈なイメージを追っており、彼らにとってトランプ候補は「普通」の存在にしか見えない。リベラル派や高齢者のような反応をしないのである。 黒人とヒスパニック系は民主党の支持基盤であるという考えは、もはや通用しなくなっているのかもしれない。公民権運動を知っている世代はいなくなり、共和党に違和感を抱かない若い世代が増えているのである。 忘れてはならないのは、アラブ系の住民である。中東のメデフィア『アルジャジーラ』は2024年11月1日に「Why many Arab voters in Michigan are flocking to Trump ahead of US election(なぜ選挙を前にミシガン州の多くのアラブ人はトランプに群がるのか)」と題する記事を掲載している。ミシガン州はハリス候補が力を入れていた州である。激戦州のミシガン州では数万人のアラブ系有権者が決定権を握っているのである。結論から言えば、ハリス候補は同州で敗北した。 同記事は「反イスラムや反移民の発言にもかかわらず、トランプは、そのような不満を抱く有権者に手を差し伸べ、ディアボーン市での選挙運動では数十人のアラブ系アメリカ人と面談し、選挙活動はクライマックスを迎えた」と、トランプ候補の動きを紹介している。そしてトランプ支持は「バイデン・ハリス政権による前例のない軍事支援に対するハリス候補の責任を問う」ためであるというアラブ系住民の声を伝えている。同記事は、あるアラブ系有権者は「私はトランプ候補が戦争を止めてくれると信じている」という発言を紹介している。ここでもハリス候補は明確な政策を語ることはなかった。■健在だった「トランプ連合」とキリスト教右派の支持 2016年の大統領選挙でトランプ候補を勝利に導いたのは、白人労働者であった。彼らは低学歴で、ワシントンのエリートから見捨てられ、小馬鹿にされてきた存在であった。彼らの心の底には「エリートに対する反発」があった。また民主党のエリートが進める国際化の犠牲者でもある。最も規制緩和を進め、国際化を促したのは、民主党のクリントン大統領とオバマ大統領であった。白人労働者は、組合からも見放され、組合は自分たちを搾取していると組合に反感を抱いている。彼らは「新自由主義」の犠牲者であった。トランプ候補は2016年の大統領選挙で彼らを「忘れられた人々」と呼び、共和党の陣営に組み込んだ。その関係は「トランプ連合(Trump Coalition)」と呼ばれている。 バイデン大統領は自らを「歴史上最も親組合の大統領」であると主張し、白人労働者の支援を取り戻そうとした。だが、その効果はなく、逆にトラック運転手の組合であるチームスターなど幾つかの大きな労組は、ハリス支持を保留した。逆に今回の選挙で「トランプ連合」が健在であることが示された。青い壁の州はもともと製造業を中心とし、民主党の牙城であった。だが、ペンシルバニア州やミシガン州などの激戦州でハリス候補は敗北した。こうした州の白人労働者は再びトランプ候補を選んだのである。 トランプ支持の最大の組織に「エバンジェリカル」と呼ばれるキリスト教右派がある。彼らは親イスラエル派であり、パレスチナはユダヤ人の土地だと主張している。トランプ候補は第1期政権の時、エバンジェリカルの要求を受け、イスラエルのアメリカ大使館をエルサレムに移している。 またエバンジェリカルは「キリスト教ナショナリズム」を唱え、アメリカ社会をキリスト教倫理に基づいて再構築を主張している。家父長的な家庭観を持ち、中絶禁止やLGBTQの権利を否定している。さらに「政教分離」の廃止を求め、政府はアメリカを「キリスト教国家」であると宣言するように求めている。宗教的信念に基づき、「差別」することを「宗教的自由」であると主張している。トランプ候補はエバンジェリカルに対して「4年後、あなたたちは投票する必要はなくなるだろう」と語っている。要するに4年間の間にエバンジェリカルの主張を実現すると約束しているのである。トランプ候補が暗殺未遂事件にあったとき、エバンジェリカルは「トランプは神に守られている」と主張し、「トランプは神がよこした候補者」であると本気で語っていた。多くの白人労働者も毎週教会に通う敬虔なキリスト教徒である。 従来のような政治的枠組みでは、現在のアメリカの政治の現実を語ることはできないのである。今回の選挙はアメリカ政治の現実の変化を示すものであった。本記事の2回目では、出口調査で、1回目で紹介した事柄を裏付けることにする。――――――――――――――――――――――――中岡望(ジャーナリスト) 1971年国際基督教大学卒業、東京銀行(現三菱東京UFJ銀行)、東洋経済新報社編集委員を経て、フリー・ジャーナリスト。アメリカの政治、経済、文化問題について執筆。80~81年のフルブライト・ジャーナリスト。ハーバード大学ケネディ政治大学院研究員、ハワイの東西センター・ジェファーソン・フェロー、ワシントン大学(セントルイス)客員教授。東洋英和女学院大教授、同副学長を経て現職。国際基督教大、日本女子大、武蔵大、成蹊大非常勤講師。アメリカ政治思想、日米経済論、マクロ経済、金融論を担当。著書に『アメリカ保守革命』(中央公論新社)など。
2024.11.07
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蠢(うごめ)く 中国・北朝鮮の全体主義・・・まったくの能天気なリベラルの面々 2024-11-6 はんぺん最近の新聞記事から・・・・・「最大級の海警船 尖閣周回」(読売11/3) 「北朝鮮、南北結ぶ道路爆破」(朝日10/16)「中国軍、台湾包囲し演習」(朝日 10/16)「北朝鮮兵3000人、ロシア軍に所属か」(朝日 10/16)「『韓国は敵』と改憲か」(朝日10/18)「北朝鮮がロシアへ 1万人規模派兵か」(朝日 10/20)日本を取り巻く、キナ臭い事件が、毎日の新聞を賑わせているが、日本のリベラルたちは、この記事を どのように見ているのだろうか??そう、社民党・新社会党・MDS・アサートなどの論客の皆さんたちの事だが・・・・またまた、見て見ぬ振りで、やり過ごそうというのだろうか?? (MDSとは、民主主義的社会主義運動という、泡沫的社会主義政党の事)そして、またまた、周辺の独裁国家(中国・北朝鮮・ロシア)のトップ(習近平・金正恩・プーチン)を狂喜させ続けるのだろうか???日本では、第50回総選挙が、10/15に公示され、選挙戦は、10/27投開票で、終了した・・・・その最中に、日本周辺では、上のような事件が、頻発した。そう、能天気に選挙をやっている最中にも、周辺海域では、キナ臭い事態が、どんどん進展していったのだが・・・・注目したいのは、日本の尻に火が付きかけているのに・・・「がんこに平和」(社民党) 「緊急事態条項などの憲法改正に反対」(れいわ新選組)「憲法9条をいかした平和外交」(日本共産党)・・・・いずれも、今回の総選挙(10/27執行)でのリベラルたちの選挙公報である。何という事だろう・・・ 全体主義、軍国主義に囲まれた日本の平和を求めるハズのリベラル政党のスローガンだとは、思えない能天気さだ!!!彼らには、(情報を無視する権利!)がある。(見て見ぬ振りをする権利)がある。しかし、それでは、天下国家を論じ、国民の命と暮らしを守るべき政党、政治家としては、失格でないか!と、僕は、思っている。そもそも「がんこに平和」って、何だ? 平和を守るために、皆が、知恵を出しあっていかねばならない時に、誰もが反対するハズも無い「平和」を叫ぶって、信じられない。これは、何も語っていない事と同じやんか! 「がんこに平和 くらしが一番」・・・誰が、異を唱えるのだろうか? これは、争点には、ならないし、選挙公報の(あたま)に持ってくるのは、絶対におかしい!!この社民党は、「沖縄・日本を再び戦場にさせない! 憲法いかす政治」とあるが、今、予想される戦争は、昔のような、日本が帝国主義的に、海外に進出・侵略するというものなのだろうか? このことは、ずーっと言ってきた。 一定のシビリアンコントロールが効いている今の日本にとっての戦争は、むしろ周りの全体主義・軍国主義国家群により、侵略されることの可能性の方が、はるかに高いのではないだろうか? そのための「防衛力の強化」こそが、日本人の命と暮らしを守るための最大の喫緊の課題では無いのか? それが、平和を追求する政治家の重要な仕事では無いのか??社民党を率いる福島瑞穂は、そのことが全く理解できないで、何十年も能天気に(護憲)を叫んできたが・・・その誤りは、決定的だった。日本社会党時代からの(護憲運動)の(過ち)は、ボデイーブローのごとく、護憲派を叩きのめすまでに、なっているのだ。 何と言う事だろう! こんな大きな、決定的な(過ち)を長年にわたって、犯し続けてきた政治家(福島瑞穂)の「罪」は、どのようなものか??今回の総選挙での この社民党の選挙公報を見て、改めて、彼らの無責任体質をまざまざと見せつけられた思いだ。(僕は、この前身の日本社会党に、25年近く、平党員として在籍・活動したという黒歴史を持っていて、今、苦々しい思いで、それを振り返っている。そう・・・懺悔しか無いのだが・・・)「地上の楽園」を叫びまわって、多くの在日朝鮮人やその家族たちを「地上の地獄」に追い込んだ、日本共産党・日本社会党・・・その時の真摯な自己批判も、なされず、うやむやにされたままだ・・・・「帰国運動」は、、1950年代から1984年(昭和59年)にかけて行われ、9万3,000人(うち、北朝鮮に渡った『日本人妻』は約1,831人)が、「地上の地獄」に送り込まれた。(歴史から学ぶ)とは、どういうことなのか? 我々は、いつまでも誠実な人生を目指すべきだと思うが、リベラルに人たちに 誠実さは、あるのだろうか? といつも考えている・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――――“在日2世”の脱北者が、北朝鮮の「大嘘」を暴く…! 日本から「北朝鮮に送られた人たち」の“生存率”と“現在”を徹底調査した…! 2022.11.20 李 泰炅脱北者 現代ビジネス1960年代、北朝鮮は「地上の楽園」であるという偽りの宣伝文句で、「北への送還」旋風を巻き起こした。1959年12月14日から1984年まで、93,339人が北へ送還されたが、その多くは「楽園」とは偽りの「地獄」での生活を余儀なくされ、いまも苦しんでいる。では、約9万3千人の北へ送還された在日同胞のうち、現在どれくらいの人々が生存しているのだろうか。この疑問は、「北への送還事業」を知っている多くの人々の関心事である。しかし、現在、北への送還問題の真相解明と解決方法は、歴史の渦の中、露のように消えかけている。そこで在日脱北者である著者は今回、多くの統計からその実態を洗い出す作業を行った。そこから浮かび上がってきた「現実」とは――。嘘だらけの「統計」から読み解く!北へ送還された在日同胞93,339人中、現在の生存数を確認するのは、彼らを独裁から救出するための事業を案じるためには、とても重要な基準となるだろう。現在「在日同胞北送事業」はしばらく来て消える夏場の梅雨のように、歳月の流れの中で煙のように消えている。 統計と情報はすべての分野の礎石となる。しかし、北朝鮮というもっとも閉鎖された国家で、現在の「北へ送還された在日同胞」の生存者数を算出することは、かなり難しい。すべてのことが国家秘密に属する北朝鮮において、統計は、有利不利によって数字が改ざんされているため、意味をなさない。まだまだたくさん残っている・・・・簡単な例として、1990年代中盤の「苦難の行軍」によって、数百万の餓死者が出たということは広く知られたことである。正確ではないが、2010年11月に、大韓民国統計庁が国連の人口センサスを基に発表した北朝鮮の人口推計によれば、1996年~2000年の間で、33万人が餓死したとしている。米国統計庁は、1995年~2000年の間で、50万~60万人と推計した。メディアによっては、2000年初中盤までで、300万人の餓死者という主張がされることもあった。いずれにしても、北朝鮮に関するすべての統計は、仮説に過ぎなく、資料的にも証拠となる部分が希薄であるということだ。「北への送還事業」から、62年も経過した現在、「北へ送還された在日同胞」、とくに1,831人の日本人妻の生存の可能性が薄いことから、「帰郷と救出」事業も、もはや風前の灯火のようになっている。日本人妻はそうだとしても、北への送還当時、日本人国籍で「北へ送還」された日本人たちが、まだ相当数残っているし、日本で生まれて、縁もゆかりもない北朝鮮に「帰国」し、「誘引抑留」となった「北へ送還された在日同胞」も、やはり、相当数生きている可能性が高い。年齢から「生存率」を推計する彼らの生存率を調査することは、今後、彼らの「帰郷」を支援して救出するための、目的と方向性を提示する重要な統計資料として、位置付けることができるだろう。今回、調査として、北への送還60周年関連の主な年表、在日朝鮮人帰還状況一覧表(昭和34.12~41.3)などの資料によって、北への送還回数、出発年月日、帰還人員、帰還総人員などの情報を得ることができた。北への送還当時の年齢が分かれば、現在の生存率を推測できるだろうと考えたわけである。 なかなか困難な作業ではあったが、1959年~1984年までの年度別の北への送還統計資料を求めることができたうえ、10年単位での「北への送還」年齢別統計資料に基づき、生存率を算出することができた。日本で得たいくつかの北への送還資料と、韓国統計庁が発表した北朝鮮国民の平均寿命、死亡原因の人口割合によって、現在の生存率を推計した。結論としては、1959年12月から1984年まで、93,339人が北へ送還された。北への送還60周年関連の主な年表、在日朝鮮人帰還状況一覧表、年齢別統計資料、韓国統計庁が発表した北朝鮮国民の平均寿命、北朝鮮の死亡原因などによって、89.1%にあたる88,611人について、概略的に統計を取ることができた。「国別」の人数北への送還60周年関連の主な年表によれば、1959年から1984年までは公式的な北への送還記録が残っているが、それ以降、訪問団の形で北へ送還された人々は、記録されなかった。ゆえに、実際の北への送還者は、93,339人以上いるはずである。1965年に「日韓基本条約」が締結され、その関係で、1968年から1970年までの3年間は、北への送還事業が中断された。このときにはすでに、在日同胞と日本政府、いや全世界が、北朝鮮が「地上の楽園」であるということは、完全な嘘であることが分かっていた。日本がもう少し、「人道主義的な立場」に立っていたら、自国民を含む「在日同胞」の北への送還を再開することに、反対の意を唱えたはずである。 国籍、性別、年齢別による北への送還統計から、朝鮮人81,962人、中国人7人、日本人6,642人が、北へ送還されたことが分かった。男性:47,888人(54%)、女性40,723人(46%)で、男女比率は大差なかった。北朝鮮の「平均寿命」韓国統計庁に発表によれば、北朝鮮国民の期待寿命は、男性:67.0歳、女性:73.8歳だ。 北への送還が始まった1959年度を基準として、1950年代生まれの人が全員生存しているのならば、数字上では、1950年~1960年生まれ(73~62歳)の生存者数は、23,016人だ。これは、計算上の数字なので、韓国統計庁が発表した北朝鮮国民の平均寿命などから、北へ送還された在日同胞が、北朝鮮で60余年間暮らして、今も生存している可能性を推測してみた。2019年9月、国連傘下のWHO世界保健機構の報告によれば、北朝鮮住民10万人あたり、死者数193人の脳卒中がもっとも多い。その他、新生児感染症をはじめとする感染症、肺疾患、心臓疾患、下痢、マラリア、交通事故、結核、エイズ、肝硬変などがつづいている。 もちろん、1990年代の「苦難の行軍」につづき、コロナ19、自然災害、さらに深刻な食糧難といった要因が、北へ送還された在日同胞の生死にも、強く影響を及ぼしたに違いない。「地上の楽園」は「地上の地獄」だったこのような統計資料に基づいて、「北へ送還された在日同胞」が、今までの60余年間の北朝鮮生活に適応して生存できる確率は、約半分だと仮定すれば、その生存者数は、11,508人となる。 93,339人の北へ送還された在日同胞のなかで、日本人が6,839人(子供含む)であることから、生存者推計数11,508人の7.3%にあたる、840人あまりの日本人が生存しているといえる。カルカッタで締結された「北への送還」協定によって、1959年12月14日、最初の「北への送還」船が出発してから、63年が過ぎた。 北朝鮮は「地上の楽園」と謳って、在日同胞を歓迎したが、歓迎された彼らは、到着したその瞬間から、ここは「地上の地獄」であり、騙されたことがわかったのだった。 脱北を試みたり、不平や不満を表すと、政治犯収容所に連行された。言論の自由、居住、移動の自由もなく、生存権まで脅かされた。果てしない「奈落の底」そんな北朝鮮の本当の姿を、日本にいる親族たちに教えようと、先に北へ送還された者たちは、あらかじめ約束していた方法で、「地上の地獄」の現状を知らせた。 先人の犠牲の対価として、日本に残った両親、兄弟、親族らは、彼らに送金し、救援した。当時、日本からの支援なしでは、とても生きられない「地上の地獄」であった。日本から、果てしなく送金を繰り返したが、地獄での人生は、果てしない奈落の底に落ちて行った。 日本の社会でも、「北朝鮮難民救援基金」、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」、「NO FENCE(北朝鮮の強制収容所をなくすアクションの会)」、「日本人妻自由往来実現運動の会」など、「北へ送還在日同胞」と「北へ送還日本人」のための事業が発足し、活発に活動開始した。しかしながら、「北へ送還された日本人」と「北へ送還された在日同胞」に対する、終わりなき支援事業と訴えてお願いして泣き叫んでも、微動だにしない北朝鮮当局に対して、多くの団体は北朝鮮人権運動に疲れて果て、その活動は徐々に弱体化している。 そのうえ、「北へ送還された在日同胞」と「北へ送還された日本人」の生存の見込みも希薄であるという状況が、私たちの勇気をさらに鈍らせている。「いまも助けを求めている人たち」がいるそれでも、母国が日本の「北へ送還された在日同胞」約11,500人と、日本が故郷の「北へ送還された日本人」 約800人は、いまだに北朝鮮という地獄のなかで、助けを求めているのだ。 北朝鮮というもっとも閉鎖された国家から、現在生存している「北へ送還された在日同胞」を救い出すことは、かなり難しいだろう。 だが、ひとりの人権が保障されることが、全体の人権も保障されることにつながる。 「北へ送還された在日同胞」と「北へ送還された日本人」の「帰郷」と「自由往来」のために、最後まで一緒に努力してくれることを、心の底から嘆願してやまない。 さらに連載記事『「在日2世」だった私が、北朝鮮に騙されて行かされて「地獄の数十年」…“脱北者”が明かす「苦悩」と「悲しい現実」』では、私が実際に体験した北朝鮮の“地獄の現実”についてレポートしよう。――――――――――――――――――――――――――脱北者:李 泰炅1952年、山口県下関市で生まれる。1959年、下関朝鮮初中級学校に入学。1960年、在日朝鮮人の帰還(北送)事業により家族で北朝鮮へ渡る。1971年、朝鮮人民軍に入隊。1986年にP医学大学を卒業、医学研究所の研究院を経て、2001年に病院長となる。2005年に脱北するが、ヤンゴンで「不法入国」の罪に問われ2年3カ月服役する。2009年に韓国入国。現在「北送在日同胞協会」会長として北朝鮮の自由民主化のために在日脱北者たちと活動している。
2024.11.06
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2024-10/16~11/4 越後・東北南部行全行程(20日間)走行距離 一覧 (記録用)10/16(水) 17 KM10/17(木) 85 KM10/18(金) 97 KM10/19(土) 31 Km10/20(日) 48 KM10/21(月) 131 KM10/22(火) 50 KM 10/23(水) 50 KM10/24(木) 123 Km 10/25(金) 141 KM10/26(土) 90 ㎞10/27(日) 131 ㎞10/28(月) 55 KM10/29(火) 116 KM10/30(水) 76 ㎞10/31(木) 49 ㎞11/1(金) 183 KM11/2(土) 132 ㎞11/3(日) 128 ㎞11/4(月) 15 ㎞全走行距離 1,748 ㎞
2024.11.05
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2024-10-26越後・東北南部行 11日目 登米→南三陸→気仙沼 (記録用)登米インターから、三陸道に。南三陸に向かう山越えでは、濃い霧が立ち込めていて、太平洋岸の南三陸に入ると、快晴に戻る。志津川インターから、一般道へ。8:40 道の駅:さんさん南三陸のⓅへ。南三陸町は、あのマグニチュード9.09の3.11大震災では、津波の高さが、16、5mで、死者・行方不明は、831人に上ったという。南三陸町震災復興祈念公園では、祈りの丘に上ってから、テレビなどで、多く報道された旧南三陸町役場の防災対策庁舎の無残な姿を見た。その後、伝承のために、作られた伝承館=南三陸311メモリアルを見学した。 10:30~Ⓟを後にする。南三陸海岸インターから、三陸道に入り、大谷海岸インターで下りて、11:15~気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を見学。津波で4階まで被災した気仙沼向洋高校の旧校舎が、被災直後の姿を留めたまま保存され、内部を観覧できるように整備されている。気仙沼では、東日本大震災による大津波とその後の大規模な火災により、死者1,143人(震災関連死を含む。)、行方不明者212人の 大規模な被害を出している。映像も、インパクトがあり、こういう伝承館は、大事にしてほしいと思った。12:50 神明崎の 浮見堂・恵比寿像を見学。13:15~ 気仙沼市復興祈念公園を歩く。その後、気仙沼大島大橋を通り、14:20~龍舞崎を歩く。遊歩道で、灯台まで往復した。15:15 休暇村:気仙沼大島に、チェックイン。大型の台風21号が、次第に暴風域を伴い「非常に強い」勢力へと発達して、沖縄に接近中で、今後の進路が、気になっている。きょうの走行距離は、90㎞だった。
2024.10.26
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2024-10-26越後・東北南部行 11日目 登米→南三陸→気仙沼 (記録用)登米インターから、三陸道に。南三陸に向かう山越えでは、濃い霧が立ち込めていて、太平洋岸の南三陸に入ると、快晴に戻る。志津川インターから、一般道へ。8:40 道の駅:さんさん南三陸のⓅへ。南三陸町は、あのマグニチュード9.09の3.11大震災では、津波の高さが、16、5mで、死者・行方不明は、831人に上ったという。南三陸町震災復興祈念公園では、祈りの丘に上ってから、テレビなどで、多く報道された旧南三陸町役場の防災対策庁舎の無残な姿を見た。その後、伝承のために、作られた伝承館=南三陸311メモリアルを見学した。 10:30~Ⓟを後にする。南三陸海岸インターから、三陸道に入り、大谷海岸インターで下りて、11:15~気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館を見学。津波で4階まで被災した気仙沼向洋高校の旧校舎が、被災直後の姿を留めたまま保存され、内部を観覧できるように整備されている。気仙沼では、東日本大震災による大津波とその後の大規模な火災により、死者1,143人(震災関連死を含む。)、行方不明者212人の 大規模な被害を出している。映像も、インパクトがあり、こういう伝承館は、大事にしてほしいと思った。12:50 神明崎の 浮見堂・恵比寿像を見学。13:15~ 気仙沼市復興祈念公園を歩く。その後、気仙沼大島大橋を通り、14:20~龍舞崎を歩く。遊歩道で、灯台まで往復した。15:15 休暇村:気仙沼大島に、チェックイン。大型の台風21号が、次第に暴風域を伴い「非常に強い」勢力へと発達して、沖縄に接近中で、今後の進路が、気になっている。きょうの走行距離は、90㎞だった。
2024.10.26
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2024-10-25 越後・東北南部行 10日目 名取→仙台→登米 (記録用)9:00すぎ、青葉城本丸会館駐車場に着き、伊達政宗公騎馬像の前で、仙台城ガイドボランティア会のガイドさんと合流。仙台城跡を案内してもらう。中町インターから高速道へ。仙台南部道路と、三陸道で、北進。矢本PAで、トイレ休憩。登米インターで、下りる。12:10~登米のみやぎの明治村の警察資料館を見学。13:10、移動して 北上川河川歴史公園のⓅに着く。ガイドさんとの合流場所については、公園のⓅが、よくわからず、少し混乱したが、とよま振興公社のガイドさんと無事合流。13:20~ 北上川河川歴史公園を中心に、洗堰、水門などの旧北上川分流施設についての説明を受ける。その後、移動して 登米のみやぎの明治村のとよま観光物産センターの遠山の里のⓅへ。14:06~みやぎの明治村の教育資料館、水沢県庁資料館を ガイドさんに案内してもらう。15:50~ 石ノ森章太郎ふるさと記念館を見学。16:50 ホテルルートイン登米に、チェックイン。きょうの走行距離は、141㎞だった。 (注) 登米、同じ漢字で、市は「とめ」、町は「とよま」と2通りで読む→ 登米市登米町(とめし とよままち)
2024.10.25
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2024-10-24 越後・東北南部行 9日目 山形市→蔵王→名取 (記録用)8:30~出発。朝から、好天模様で、出発時、気温19度C。9:10 蔵王温泉観光案内所で、情報収集。 9:30~10:15 鴫の谷地沼を1周散策。気持ちの良い遊歩道だった。どんぐりが、たくさん落ちていた。蔵王エコーラインを走る・・・11:00 刈田峠レストハウスで、トイレ休憩。エコーラインから、蔵王ハイラインに。11:15~11:45 蔵王山頂レストハウスのⓅで、車を置いて、(お釜)の見えるところまで歩いたが、ガスのため、ほとんど見ることは、出来なかった。その後、エコーラインを日本海側から、太平洋側へ、東進。12:07 不動の滝などの滝見台などに寄る。 13:40~14:25 ジョイフル(名取バイパス店)で、昼食。14:40~ 名取市震災復興伝承館を見学。団体さんの見学の語り部のそばで、震災時の体験を聞いて、とても勉強になって良かった。人口約7万人の名取市では、地震 の揺れは長く3分間も続き、名取市全体の人的被害は、死者884人、行方不明者が39人、 重軽傷者は208人であったという。 伝承館のそばの貞山堀運河も、見ることが出来た。その後、震災メモリアル公園を 見学。日の落ちるのが早く、暗くなるのが早い。16:45~ ガスト(名取田高店)で、夕食。18:15 ホテルルートイン名取に着き、チェックイン。きょうの走行距離は、123㎞だった。 きょうは、最初は、蔵王中央ロープウエイで、蔵王中央高原に登り、高原歩きを 計画していたが、接続する中央第1リフトが動いてなかったことがわかり、そのため、高原ウォークを中止し、蔵王温泉近くの鴫の谷地沼の1周散策に 変更したが、快適ウォークだった。
2024.10.24
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2024-10-23 越後・東北南部行 8日目 山形市→上山(かみのやま)→山形市 (記録用)9:07~上山城(かみのやまじょう)の第1広場のⓅへ。上山市内観光ボランティアガイドのガイドさんと、合流。上山城と武家屋敷を案内してもらう。12;45~楢下宿案内人のガイドさんと合流。大黒屋、庄内屋、新橋、山田屋、覗橋などを回る。山形市に戻り、14:36~教育資料館(旧山形師範学校 本館)を見学。15:42~サイゼリヤ(桜田東店)で、食事。16:45 ホテルルートイン山形南:大学病院前に戻る。(連泊)きょうの走行距離は、50㎞だった。
2024.10.23
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2024-10-22 越後・東北南部行 7日目 山寺→山形市 (記録用)8:55ホテルを出発。9:23山寺に着き、有料Ⓟに、車を停める。10:00までに根本中堂、芭蕉句碑、日枝神社、山門など、見学。10:40~斎藤茂吉記念館を見学。 12:15~サイゼリヤ(桜田東店)で、昼食。13:20~山形市の霞城公園の大手町駐車場に車を入れて、13:30 東大手門前で、山形市観光ボランティア協会の霞城まちなみ案内人のガイドさんと合流。霞城公園(山形城跡)、山形市郷土館(旧済生館本館))、文翔館、教育資料館などを、案内してもらった。17:22 ホテルルートイン山形南:大学病院前に チェックイン。きょうの走行距離は、50㎞だった。 斎藤茂吉記念館の見学は、最初、10/23に予定していたが、水曜日で、休館日だったので、諦めていたが、きょう火曜日、時間の隙間を見つけて、行くことができた。
2024.10.22
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2024-10-21 越後・東北南部行 6日目 羽黒山→最上川→銀山温泉→天童 (記録用)8:37ホテルを出発。最上川の舟下りの乗船場に向かう。 舟下り事務所から、電話があり、回遊コースで、実施するとのことで、予約時間を10:50から、9:50に変更する。9:12 舟下りのⓅで、チケットを購入。舟番所の周辺で、時間つぶし。9:50~10:40最上峡芭蕉ラインの舟下りの回遊コースで、乗船。その後、東北中央自動車道で、尾花沢へ。11:40~12:25 芭蕉、清風歴史資料館を見学。12:40 銀山温泉の大正ロマン館のⓅに着く。ここで、車を置いて、シャトルバスに乗り換え、温泉街に入る。風情のある温泉街を街歩き。白銀の滝までの往復。また、シャトルバスで、大正ロマン館のⓅに戻る。外国の団体旅行が、とても多かった。 大正ロマン館の中で、(そば)を食べた。15:00~ 河北町の紅花資料館を見学。16:55~ガスト天童店で、夕食。17:50 ルートイン天童店にチェックインする。きょうの走行距離は、131㎞だった。
2024.10.21
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2024-10-20 越後・東北南部行 5日目 酒田→羽黒山 (記録用)当初の計画では、今日は、鳥海山ブルーラインのドライブから、始める予定だったが、一日のスケジュールが、きつそうなのと 昨日からの天候悪化だったことにも鑑み、鳥海山をパスする決断をした。9:15出発。日本海東北自動車道で、酒田から、鶴岡へ。9:50 AU鶴岡新斎町店で、ワイフのスマホの修理。10:51 羽黒山の麓のいでは文化記念館のⓅへ。ここで、長靴を借りる。隋神門から、石段を下る・・・赤の神橋を渡り、須賀の滝を見る。羽黒山・五重塔(国宝)へ。いでは文化記念館に戻る。12:40 休暇村:庄内羽黒のⓅで、車内で、買い出し食材で、昼食。そして、羽黒山有料道路を通り、羽黒山頂域へ。レストハウスの前のⓅに車を置いて、三神合祭殿を見学。出羽三山歴史博物館を見学。14:10 Ⓟのそばのみやげ物屋で、玉こんにゃくと山菜そばを食べた。14:35 休暇村:庄内羽黒のⓅへ。チェックインまで、時間があったので、羽黒自然の小径(こみち)を歩く。歩きやすい小径で、途中、月山ビジターセンターに寄る。15:30 休暇村:庄内羽黒に、チェックインする。きょうの走行距離は、48㎞だった。明日予定の最上峡芭蕉ラインの舟下りについては、きょう電話したところ、今日は、強風波浪注意報が出て、欠航だったという。明日のことは、明朝の判断だとのこと。一応、事前に予約しているが、どうなるかは、全く未定。
2024.10.20
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2024-10-19 越後・東北南部行 4日目 鶴岡→酒田 (記録用)朝から、雨模様・・・9:00前に、鶴岡商工会議所会館の1Fの鶴岡観光プラザで、鶴岡市観光ガイド協会のガイドさんと合流。藩校致道館、大寶館、丙申堂、日和山、山居倉庫草 などガイドしてもらう。酒田市に向うう。12:20~土門拳記念館を見学する。13:30 酒田市観光ガイド協会のガイドさんと記念館の前で合流。激しい雨もあったので、こちらの車を山居倉庫に置いて、ガイドさんの車に便乗。旧本間邸、本間美術館と鶴舞園、日和山公園、山居倉庫などを案内してもらった。16:40~17:35ガスト酒田店で、夕食。18:05 ホテルルートイン酒田にチェックインする。ワイフのスマホが、故障。きょうの走行距離は、31㎞だった。
2024.10.19
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2024-10-18 越後・東北南部行 3日目 村上→鶴岡 (記録用)9:10笹川流れの遊覧船発着所に着く。9:40~笹川流れ遊覧船に乗船。11:00 鼠ヶ関公民館で、職員さんから、少し説明を受ける。11:15~厳島神社横に、車を停めて、神社と鼠ヶ関灯台まで、弁天島を歩く。11:45~ 念珠の松庭園を散策。その後、鼠ヶ関駅に寄ってから、「古代鼠ヶ関址」に寄る。そして北上・・・13:05~クラゲで有名な加茂水族館を見学。14:55~ ガスト鶴岡南店で、遅い昼食。15:42~鶴岡カソリック教会天主堂を見学。16:30 ホテルルートイン鶴岡に、チェックイン。19:00~その隣のガスト鶴岡店で、夕食。きょうの走行距離は、97 ㎞。
2024.10.18
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2024-10-17 越後・東北南部行 2日目 新潟→新発田→村上 (記録用)日本海東北自動車道の新潟中央ICから高速道に入り 聖籠新発田ICで下りて、新発田市内へ。9:20~清水園のⓅで、新発田市観光ボランティア協会のガイドさんと合流し、清水園・足軽屋敷、武家屋敷、寺町通の一部などを案内してもらう。11:00~蕗谷紅児記念館を見学。11:55~新発田城を見学。その後、村上に向かう。日本海東北自動車道の聖籠新発田ICから高速道に入り、荒川PAで、トイレ休憩。村上瀬波温泉ICで下りて、村上市内へ。13:50 おしゃぎり会館のⓅで、村上市観光協会のガイドさんと合流し、おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)、若林家住宅(武家屋敷)、鮭の遡上場所などを案内してもらう。17:05 Premium 汐美荘に、チェックイン。きょうの走行距離は、85㎞。
2024.10.17
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2024-10-16 越後・東北南部行 1日目 自宅→伊丹→新潟 新潟市内観光 (記録用)6:40 自宅を出発。近鉄とリムジンバスで、伊丹空港へ。8:15空港着。チェックイン、保安検査などの後、朝食を摂る。伊丹空港9:55発のANA1657便で、11:00新潟空港着。トヨタレンタカー新潟空港店で、レンタル手続き。11:55出発。12:15 みなとぴあ(新潟市歴史博物館)で、ガイドさんと合流。みなとぴあ(新潟市歴史博物館)の見学と日和山コースをガイドしてもらう・・・15:50 NEXT(ネクスト)21の地下Ⓟへ。1Fで、新潟シティガイドのガイドさんと合流。古町(花街)と萬代橋を案内してもらう。ステーキガスト(新潟 堀之内店)で、夕食。20:00ルートイン新潟県庁南店に、チェックイン。今日の走行距離は、17㎞だった。
2024.10.16
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2024-10-16~11-4 越後・東北南部行にチャレンジ・・・ 2024-10-15 (記録用)これは、出発までの準備関係部分だけを日記から抜き出したもの。 関東沿岸行(2024/5/13~30)の後、秋の越後・東北南部行を考えた。体力的にも、そろそろ・・・とも考えるが(今できる事はやる)というスタンスなので、(予定は未定)ということで、企画・準備に入る・・・が、次々と難問が・・・・7月の初めには、概要(日程と行き先)が、固まりつつある。7/11~13 連日、各地の観光協会に資料請求の電話をかけまくる・・・各地の観光協会から届いた、観光資料の読み込み、図書館で借りたガイドブックの読み込みに、かなりの時間が必要、ガイドブックのコピー取り作業も。7/17(水)各地の観光協会に資料請求の電話かけを続行する。10数件。観光資料の読み込み、ガイドブックの読み込みに、集中する。コピー取り作業も。7/23(火) 出発地点(レンタカー)を糸魚川から、新潟に変更する事を決める・・・そして往きは、新幹線から飛行機に変更。帰路は、飛行機にするか?新幹線にするか、未定。7/25(木)昨晩から、降り続いた、東北などの日本海側の豪雨が、線状降水帯の発生などで、大きな被害が出ている、ちょうど今、越後・東北南部行の準備作業の真っ最中だが、旅程の中に組んでいる鶴岡・酒田・最上・新庄・山形などに、相当の降雨があった模様・・・8/4(日)旅程の概要を ほぼ確定した。19泊20日(10/16~11/4)で、そのうち、気になっているホテルを5か所、予約。秋の東北は、相当、混みそうな気がするが、ルートインなどのビジネスホテルは、大丈夫だと思うが、それ以外の観光地は、早く満室になりそうなので、気になっていた・・・また、自宅玄関周りの改装の件は、旅行が終わってからの11/10ごろからを、考えている。 8/7(水)ホテルの予約。6件程完了。計11件が、完了したことになる。8/8(木) ホテルの予約・・・19泊のうち、15泊の予約が、完了。8/9(金)レンタカーの予約を完了。 飛行機の予約を完了。8/10(土) 越後・東北南部行の19泊分全部の予約が、完了して・・・ホッとする。内訳は、休暇村3件、民間ホテル3件、ルートイン(ビジネス)13件。8/12(月)台風5号が、迷走・・・東北地方の太平洋(大船渡)あたりに上陸し、西進、日本海側の秋田地方に抜ける・・・・またまた大きな被害。秋の旅行を前に、ますます不安が・・・8/17(土)大型台風7号が、房総沖を北進。東北南部に、大雨が降るという事で、旅行先の宮城県、福島県の被害が、心配されたが、思ったよりも、少なくて済み、ホッとした。8月に入っても、先の見えない資料の読み込みや 計画の見直しが続く。ファミレスで、長い時間を過ごすことが多くなったが、この方が作業が、効率良く進む・・・8/28?? 台風10号 西日本に上陸のおそれ 最大瞬間風速60メートル? 8/29(木) 昨日あたりから、テレビは、西日本に上陸のおそれのある 最大瞬間風速60メートル?という大型台風10号のニュースを盛んに流す。自転車並みのゆっくりした速度で、きょう鹿児島に上陸して、九州を横断中。速度が遅いので、その分、被害も大きくなりそう。大阪は今のところ、まだ影響は無いが 東海地方、関東地方は、台風のため、大雨になり、大きな被害も出ている。9/9~9/11の3日間で、電話の問い合わせをしながら、ガイド関係の申込(FAXなど)をほぼ終える。新潟・村上・鶴岡・酒田・山寺・山形・上山。楢下宿・仙台(2件)・登米・女川・石巻・松島・村田・会津若松(2件)・大内宿・前沢曲家・白河の関・・・・といったところ20件近くになり、ガイド費用だけでも、相当かかりそう。また、喜多方(重伝建)は、ガイドを休業中とか。三陸海岸の震災遺構のある、南三陸・気仙沼・大川小学校・名取・・・などは、いずれもガイド料が高くて、ちょっと手が出なかった。自力で、回るしかない・・・・10/6(日) (最上川芭蕉船下り)について、電話で問い合わせしたところ、やはりこの7月~9月の何回かの大雨で、相当の被害があった模様で、最上川の船下りの16艘の船のうち、11艘が、流されしまったとかで、当面5艘で、やり繰りしているとか。大雨のため、川底が変わってしまったので、現在安全確認しているという。予定日(10/21)までに、間に合えば、フルコースで運行できるとか。(今は、本数を減らして、短距離限定運行している)とりあえず、予約を入れておいた。10/7(月) 国内旅行保険契約完了。 (カーナビ一覧)(旅行詳細資料)の作成に入る段階・・・・プリントアウトする必要があるが、これがまた大変な事務作業・・・いつもアナログ作業で、イヤになるが・・・・郵便局と朝日新聞への不在連絡も完了。10/8(火)旅行資料の整理などのPC作業。現地への問い合わせ。衣類などの持ち物も、準備など。10/9(水) きょう、衆院が、解散された。10/27投開票になるという。10/15告示で、期日前投票が、10/16から開始されるというが、旅の出発は、10/16早朝なので、今回は、投票はパスすることになる。10/10(木) 旅行の細部の詰め・・・資料作り。印刷も。旅行用にSDカードと単4電池、靴と中敷きなどを買う。散髪も・・・10/12(土) 懇意にしていたジム仲間の病死の連絡。先日、見舞いの品をご自宅に持参したばかりだったが・・・慌てる。10/13(日) ジム仲間の「お通夜」に参列。旅行の持ち物の用意。PC作業で、カーナビ一覧表を ようやく印刷できた。25枚分あるが・・・これが無いと、ナビで効率的には、動き回れない。10/14(月) 旅行の資料の整理。明後日からの旅行に、持っていく資料の仕分け。20日分なので、相当ある。航空便は、スーツケース、手荷物などの重量制限があるので、いつも悩ましい・・・10/15(火) 実家に行き、庭仕事30分で、汗だくになる。シャワーを使う。あと、長期の旅行を前にして、実家の部屋の整理。燃えるゴミ出しも。15:40帰宅。旅行準備。スーツケースの重量は、21~22㎏ぐらい。手荷物は、5~6㎏ぐらいか。 総選挙の告示日。明日から、期日前投票ができる事になっているが、僕たちは、朝早くから、旅行に出るので、今回の投票は、キケンすることになる。10/16(水) きょうから、旅行だが、12月には75歳の後期高齢者になる。自分ながら(身の程知らずで、よくやるな・・・と呆れるが、(人生、一度しかない)ということで、やれる間は、やれることは、やってやろう・・・ということだ。 特段、旅行が、好きでもない・・・何か、目標があれば、良い・・・認知症予防にもなるかもしれないし・・・それにしても、企画から実行までの作業の煩雑さは(大変)の一言に尽きる。まあ、なんとか、ここまで、こぎつけたが・・・どうなるやら。旅行が、好きでもない・・・と言ったが、非日常の世界についての好奇心は、人一倍ある・・・そして、自然に囲まれて、のんびりしたい・・・嫌らしき人間の世界をひと時、忘れたい・・・という願望もある。グルメとは、無縁だし、歴史学などは、必要だが、僕にとっては、相当の距離がある・・・それでも、時々出かけるのは、なぜか? ・・・・・まあ、それはいい。
2024.10.16
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越後・東北南部行の概要(2024/10/16~11/4) (記録用)10/16(水) 伊丹空港9:55発のANN1657便→11:00新潟空港着 →レンタカー →新潟観光市内観光(G)路地連新潟・日和山五合目)→新潟市内観光(G)新潟シティガイド)→ 新潟(泊) 10/17(木) 新潟→新発田(G)清水園・足軽屋敷、武家屋敷、寺町通→蕗谷紅児記念館→新発田城→村上市内観光(G) おしゃぎり会館(村上市郷土資料館)、若林家住宅(武家屋敷)、鮭の遡上場所→村上(泊)10/18(金) 笹川流れ遊覧船、鼠ヶ関、加茂水族館、鶴岡カソリック教会天主堂、 鶴岡(泊)10/19(土)鶴岡市内観光(G)藩政致道館、丕寶館、荘内神社、致道博物館、丙申堂、釈迦堂 →土門拳記念館→酒田市内観光(G) 旧本間邸、本間美術館、日和山、山居倉庫、 →酒田(泊)10/20(日) 酒田→ 羽黒山 羽黒山観光、羽黒山 五重塔、三神合祭殿、いでは文化記念館、出羽三山歴史博物館 →羽黒自然の小径(こみち) →羽黒山(泊)10/21(月)最上峡芭蕉ラインの舟下り、 芭蕉・清風歴史資料館、 銀山温泉町歩き →河北町の紅花資料館、 天童市(泊)10/22(火) 山寺観光、 山形市内観光(G) 霞城(かじょう)公園(山形城跡 山形市郷土館(旧済生館本館)) 教育資料館、 斎藤茂吉記念館 山形(泊)10/23(水)上山市内観光(G)上山城、上山藩 武家屋敷、 → 楢下宿(G)大黒屋ほか 山形(連泊)10/24(木) 蔵王スカイライン、蔵王ハイライン、ハイク、お釜、名取市震災復興伝承館、 名取(泊) 10/25(金)仙台城跡観光(G) 登米市観光(G)北上川河川歴史公園 登米のみやぎの明治村:警察資料館、 登米のみやぎの明治村(G)教育資料館・水沢県庁記念館、 →石ノ森章太郎ふるさと記念館 登米市(泊)10/26(土) 南三陸 震災遺構(南三陸311メモリアル)南三陸町震災復興祈念公園、祈りの丘、旧南三陸町役場の防災対策庁舎、 →気仙沼 震災遺構(気仙沼市東日本大震災遺構・伝承館) 浮見堂、気仙沼市復興祈念公園、気仙沼大橋、龍舞崎、→気仙沼(泊) 10/27(日)震災遺構:大川小学校(大川震災伝承館)、→女川震災遺構、道の駅おながわ(ハマテラス)、倒壊した旧女川交番、石巻のみやぎ東日本大震災津波伝承館、震災遺構:門脇小学校 石巻(泊) 10/28(月) 石巻南浜津波復興祈念公園、「がんばろう!石巻」の看板、→東松島市震災復興伝承館、旧野蒜駅プラットホーム(震災遺構)、祈念広場、震災復興伝承館、 →松島観光、五大堂、 瑞巌寺(G) 松島観光ガイド(G)観瀾亭、松島博物館、どんぐりころころの碑、雄島(渡月橋)など →松島島巡り観光船 多賀城市(泊) 10/29(火) 仙台市内観光(G)仙台藩祖伊達政宗公霊屋:瑞鳳殿、大崎八幡宮、定禅寺通り →村田町(重伝建)観光(G)蔵の観光案内所(ヤマニ邸)、やましょう記念館(旧大沼家住宅)、カネショウ商店など、蔵の街並み。 →古関裕而記念館(福島) 福島(泊)10/30(水) 磐梯吾妻スカイライン、浄土平レストハウス、ハイク、吾妻小富士、浄土平ビジターセンター。浄土平湿原散策。磐梯吾妻レークライン、五色沼自然探勝路ウォーク、磐梯山噴火記念館、磐梯山3Dワールド。 裏磐梯(泊)10/31(木)磐梯ゴールドライン、 会津若松観光(G)、鶴ヶ城天守閣、茶室麟閣、 → 御薬園(松平氏庭園) →飯盛山観光(G)滝沢本陣、戸の口(用水)堰洞穴、さざえ堂、白虎隊十九士の墓、白虎隊自刃の地、白虎隊記念館、白虎隊奮戦の地、強清水物語、戸ノ口原古戦場跡、十六橋・・・ 会津若松市(泊) 11/1(金) 大内宿(重伝建:(G)大内宿町並み展示館など、下野(しもつけ)海道の大内宿、 前沢曲家(重伝建:(G)曲家資料館など、前沢曲家(重伝建)、 →白河市(泊)11/2(土) 白河ハリストス正教会 →白河の関(G)、南湖公園、小峰城・・・ →会津へ戻る、→天鏡閣 会津若松市(泊)11/3(日)福島から、新潟へ 狐の嫁入り屋敷、 吉田東伍記念博物館、 豪農の館「北方文化博物館」、 新潟新報メディアシップの20階の展望フロア―で、360度の展望。そばの萬代橋、 新潟(泊)11/4(月)ヤマト便(荷物自宅発送) 白山公園内の延喜館、レンタカー返却に向けての満タン給油。トヨタレンタカー新潟空港店で、レンタカーの返却。新潟空港:12:45発のANA1660便、13:53 大阪伊丹空港着。(G)は、ガイド。 (館内ガイド、常駐ガイド、定時ガイドは、除く)
2024.10.15
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越後・東北南部行(2024/10/16~11/4)ホテル一覧 (記録用)10/16(水)① ホテルルートイン新潟県庁南 025-280-9811 ツイン 10/17(木)② 大江戸温泉物語Premium 汐美荘 050-3852-3598 和室 2食付 10/18(金)③ ホテルルートイン鶴岡インター 0235-26-2255 ツイン 10/19(土)④ ホテルルートイン酒田 0234-21-3301 ツイン 10/20(日)⑤ 休暇村:庄内羽黒 0235-62-4270 ツイン 2食付(夕→和会席) 10/21(月)⑥ ホテルルートイン天童 023-656-9511 ツイン 10/22(火)⑦ ホテルルートイン山形南 050-5576-8200 ツイン 10/23(水)⑧ ホテルルートイン山形南 050-5576-8200 ツイン (連泊) 10/24(木)⑨ ルートイン名取 022-784-4450 ツイン10/25(金)⑩ ホテルルートイン登米 050-5847-7600 ツイン 2食付き 10/26(土)⑪ 休暇村:気仙沼大島 0226-28-2626 和洋室 2食付(夕→会席) 10/27(日)⑫ ホテルルートイン石巻中央 050-5847-7551 ツイン 10/28(月)⑬ ホテルルートイン多賀城駅東 050-5847-7301 ツイン 2食付 10/29(火)⑭ ホテルルートイン福島西インター 050-5211-5815 ツイン 10/30(水)⑮ 休暇村:裏磐梯 0241-32-2421 ツイン 2食付 10/31(木)⑯ 東山グランドホテル(会津若松) 050-3538-5791 和洋室 2食付 11/1(金)⑰ ホテルルートイン新白河駅東 0248-24-1211 ツイン 11/2(土)⑱ 東山グランドホテル(会津若松) 050-3538-5791 和洋室 2食付 11/3(日)⑲ ホテルルートイン新潟県庁南 025-280-9811 ツイン
2024.10.15
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あの文化大革命の惨事が、今も続いている・・・それが、多民族抑圧の全体主義・・・毛沢東路線の継承を目指して、反対意見を弾圧し続ける習近平による(蛮行)だ 2024-10-9 はんぺん 新社会党・社民党・MDS・アサートなどのニセものリベラルは、この人権弾圧に、正面から糾弾したということを 僕は聞いたことが無い。 (MDSとは、民主主義的社会主義運動という、泡沫的社会主義政党のこと) ふだん(人権)の大切さを訴えるフリをしながら、実際には、その正反対の事ばかりやってきた・・・習近平・金正恩・プーチンたちは、彼らニセものリベラルたちの妄動を見て、ほくそ笑んでいることは間違いない。何と言う事だろう・・・・ 言動の不一致は、あの連合赤軍や中核派、革マル派たち、トロツキストに、顕著に現れていた!! 革命をすると言いながら、権力と戦うのではなく、敵対セクトと闘って、内ゲバで、殺し合いをしていた。 学生時代・・・70年安保闘争時代だったが、(佐藤内閣打倒!)のスローガンとは相反する(仲間殺し)で、トロツキストたちは、敵対するセクト(=反権力の仲間たち)と戦っていた!!! これが、彼らの(反権力闘争)だった。結果・・・多くの若者たちが、愛想をつかせて、闘いから去っていったのだ。僕も、その一人だった。所属する組織の分裂騒ぎで、正直、消耗したし、幻滅した。 僕が、希望を抱いて、飛び込んだ(学生)運動は、こんなハズでは無かった・・・自分が(青2才)だったという事実を認めたくなかった(=社会主義の洗脳のため)ので、一時的退却・・・転進路線に・・・ (社会主義幻想)脱却までの25年近く、阿呆にも、地元の日本社会党で、一兵士として、活動を続けることになる。取りかえしのつかない貴重な人生の かなりの部分を ドブに捨ててしまったのだ・・・・人生・・・いろいろある・・・振り返ってみて、反省することしきりだ!! 僕の世代・・・反省も、叶わず、仲間に殺されたりしたものもいる。石やゲバ棒で、暴れまくって、機動隊に硬い芯の入った樫の警棒で、ヘルメットを叩き割られ、脳挫滅、脳挫傷、頭蓋骨陥没、眼球破裂などで、一生を棒に振った者も多い。 無責任なリーダーは、その後も(知らぬ顔)で、居直るものが多い。黙り込んで、世捨て人のようになった者も・・・(後悔、先に立たず)で、その惨事に巻き込まれた(必然性)は、苦労して?入学した学生たちに、(平等に?)敷かれていたのだろう??? 偽リベラルたちが、いつまで、独裁国家の(蛮行)に見て見ぬ振りを続けられるか? 僕は注目している。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――中国:今こそ新疆ウイグル自治区の人権問題に対応を 2023年9月12日 アムネスティ国際ニュース 昨年8月31日、国連人権高等弁務官事務所は新疆ウイグル自治区の人権状況に関する調査結果を公表し、ウイグル人などイスラム教徒らに対する人権侵害を明らかにした。 公表から1年、国連を含む国際社会は、中国の国際法違反の人権侵害に対して行動を起こすどころか、公正と真実、被害者への補償を実現する上で必要な断固たる措置を回避してきた。調査結果が公表されたのは、当時のミシェル・バチェレ人権高等弁務官の任期最終日だった。メディアが暴露したバチェレ氏に宛ての中国政府の書簡草稿には、「新疆の状況に関する報告を公表しないよう要請する」とあった。昨年10月、国連人権理事会加盟国は報告内容の討議を呼びかける決議案をわずかな差で否決した。この発議自体、中国の人権侵害の問題を協議する特別会議の招集を求めた国連の専門家の要請とは程遠いものだった。 バチェレ氏の後任、ヴォルカー・ターク氏は昨年12月、前任者の報告で明らかになった重大な人権侵害について「自ら当局に働きかける」と約束した。だが、その後の対応はお粗末極まりなく、今年3月、「北京との対話のチャンネルを開設した」と報告し、6月には「さらなく関与を模索する取り組みをする」と語るだけだった。高等弁務官のような人権担当官を含め、国内外の関係者が、官民を問わず、あらゆる手段を用いて、中国の人権侵害について当局と率直かつ証拠に基づく対話を行うなど、中国の抑圧的な政策に意味のある変化を求めていくことが必要だ。アムネスティをはじめとする団体は、拷問や虐待、性暴力やジェンダーに基づく暴力などの人権侵害事例を調査で確認し、OHCHR報告にも反映されている。 国連報告書は、ウイグル人などのイスラム教徒が大多数を占める集団に属する人びとの恣意的、差別的な拘束は、国際法上の犯罪、特に人道に対する罪にあたる可能性があると指摘している。報告から1年経った7月下旬、習近平国家主席は新疆のウルムチ市に抜き打ち訪問し、違法な宗教活動への規制強化を担当当局に求めた。国際社会は、OHCHR報告から1年たった8月31日を行動喚起の機会とすべきだ。新疆ウイグル自治区での国際法に反する犯罪やその他深刻な人権侵害を調査する国際的機関の設置が喫緊の課題だ。恣意的拘束、強制失踪、虐待被害者などの家族は、妥協や遅延ではなく、答えと責任追及を求めている。 新疆で囚われている人びとの釈放を求めるアムネスティのキャンペーンは、これまでに126人の収容者の名前などを確認した。この人数は、2017年以降に新疆の収容所や刑務所に恣意的に拘禁されているおそらく100万人以上の人びとのごく一部にすぎない。 アムネスティ国際ニュース 2023年8月31日
2024.10.09
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ウソの北朝鮮に騙され続けた僕の友人、社会主義を妄信した僕の友人・・・あなたたちの(反省する勇気)が試されてきたが、最後まで応えられなかった惨状! 2024-10-8 はんぺん人生いろいろ・・・だ。死ぬ間際に、いったいどんな事を考えるのだろうか?この歳になると、総括できなかった人、総括しようとしなかった人たちの事が、頭に浮かぶ。 そう、誤った情報をまき散らしてきた人々の事だ。真実を語らず、(幻想)を振りまいてきた人たちの事・・・・その宣伝・扇動で、まわりの多くに、(洗脳)し、間違った運動を促してきた。多くの知人・友人の人生を傷つけた・・・これは、(犯罪)だ!!! 「1960年代、北朝鮮は「地上の楽園」であるという偽りの宣伝文句」(本文)で、北朝鮮の独裁者:金日成は、多くの在日朝鮮人や日本人妻を(地上の地獄)に引きずり込んだ! その数は、94,000人以上に、のぼる。「1959年12月14日、最初の「北への送還」船が出発してから、63年が過ぎた。北朝鮮は「地上の楽園」と謳って、在日同胞を歓迎したが、歓迎された彼らは、到着したその瞬間から、ここは「地上の地獄」であり、騙されたことがわかったのだった。 脱北を試みたり、不平や不満を表すと、政治犯収容所に連行された。 言論の自由、居住、移動の自由もなく、生存権まで脅かされた。」(本文)何と言う(罪深い)ことだったのだろうか! 「先人の犠牲の対価として、日本に残った両親、兄弟、親族らは、彼らに送金し、救援した。」(本文) 「当時、日本からの支援なしでは、とても生きられない「地上の地獄」であった。日本から、果てしなく送金を繰り返したが、地獄での人生は、果てしない奈落の底に落ちて行った。」(本文) 「日本の社会でも、「北朝鮮難民救援基金」、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」、「NO FENCE(北朝鮮の強制収容所をなくすアクションの会)」、「日本人妻自由往来実現運動の会」など、「北へ送還在日同胞」と「北へ送還日本人」のための事業が発足し、活発に活動開始した。」(本文) 僕が、強調したいのは、これら多くの民間団体が(救援)に動いている時に、日本のリベラルたちは、冷たい視線を送り続けたことだ。彼らが、懸命に、救援の手を差し伸べたという話は、皆無だった。(社会主義幻想)に洗脳されたリベラルったちの(無残な姿)だったのだ!!!何と言う事だろう!!! 僕は、今でも、この事実を悲しく思い出す。あの北朝鮮の独裁者(金正日)が、ミサイルを打ち上げた時、僕の友人(新社会党員)は、「北朝鮮が(人工衛星だ)というのだから、あれは人工衛星だ! あれはミサイルではない」と のうのうと言ってのけたモノだ。人生を誠実に生きることで、人生を終えたいといつも思う自分には、こんな(でたらめ人生)は、認められない! 恥かしくないのだろうか??この歳まで、生きてきて、人生を振り返ってみて、皆さん(自分も含めて)、どれだけの(総括)ができているのだろうか? 自身に問い続けていただきたい・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――――“在日2世”の脱北者が、北朝鮮の「大嘘」を暴く…! 日本から「北朝鮮に送られた人たち」の“生存率”と“現在”を徹底調査した…! 2022.11.20 李 泰炅脱北者 現代ビジネス(週刊現代)1960年代、北朝鮮は「地上の楽園」であるという偽りの宣伝文句で、「北への送還」旋風を巻き起こした。1959年12月14日から1984年まで、93,339人が北へ送還されたが、その多くは「楽園」とは偽りの「地獄」での生活を余儀なくされ、いまも苦しんでいる。では、約9万3千人の北へ送還された在日同胞のうち、現在どれくらいの人々が生存しているのだろうか。この疑問は、「北への送還事業」を知っている多くの人々の関心事である。しかし、現在、北への送還問題の真相解明と解決方法は、歴史の渦の中、露のように消えかけている。そこで在日脱北者である著者は今回、多くの統計からその実態を洗い出す作業を行った。そこから浮かび上がってきた「現実」とは――。いったい、どれだけ生きているのか 嘘だらけの「統計」から読み解く!北へ送還された在日同胞93,339人中、現在の生存数を確認するのは、彼らを独裁から救出するための事業を案じるためには、とても重要な基準となるだろう。現在「在日同胞北送事業」はしばらく来て消える夏場の梅雨のように、歳月の流れの中で煙のように消えている。 統計と情報はすべての分野の礎石となる。しかし、北朝鮮というもっとも閉鎖された国家で、現在の「北へ送還された在日同胞」の生存者数を算出することは、かなり難しい。 すべてのことが国家秘密に属する北朝鮮において、統計は、有利不利によって数字が改ざんされているため、意味をなさない。まだまだたくさん残っている簡単な例として、1990年代中盤の「苦難の行軍」によって、数百万の餓死者が出たということは広く知られたことである。 正確ではないが、2010年11月に、大韓民国統計庁が国連の人口センサスを基に発表した北朝鮮の人口推計によれば、1996年~2000年の間で、33万人が餓死したとしている。 北朝鮮のリアルとは 米国統計庁は、1995年~2000年の間で、50万~60万人と推計した。メディアによっては、2000年初中盤までで、300万人の餓死者という主張がされることもあった。いずれにしても、北朝鮮に関するすべての統計は、仮説に過ぎなく、資料的にも証拠となる部分が希薄であるということだ。 「北への送還事業」から、62年も経過した現在、「北へ送還された在日同胞」、とくに1,831人の日本人妻の生存の可能性が薄いことから、「帰郷と救出」事業も、もはや風前の灯火のようになっている。 日本人妻はそうだとしても、北への送還当時、日本人国籍で「北へ送還」された日本人たちが、まだ相当数残っているし、日本で生まれて、縁もゆかりもない北朝鮮に「帰国」し、「誘引抑留」となった「北へ送還された在日同胞」も、やはり、相当数生きている可能性が高い。年齢から「生存率」を推計する彼らの生存率を調査することは、今後、彼らの「帰郷」を支援して救出するための、目的と方向性を提示する重要な統計資料として、位置付けることができるだろう。今回、調査として、北への送還60周年関連の主な年表、在日朝鮮人帰還状況一覧表(昭和34.12~41.3)などの資料によって、北への送還回数、出発年月日、帰還人員、帰還総人員などの情報を得ることができた。北への送還当時の年齢が分かれば、現在の生存率を推測できるだろうと考えたわけである。なかなか困難な作業ではあったが、1959年~1984年までの年度別の北への送還統計資料を求めることができたうえ、10年単位での「北への送還」年齢別統計資料に基づき、生存率を算出することができた。 北朝鮮でどう生活しているのか日本で得たいくつかの北への送還資料と、韓国統計庁が発表した北朝鮮国民の平均寿命、死亡原因の人口割合によって、現在の生存率を推計した。結論としては、1959年12月から1984年まで、93,339人が北へ送還された。北への送還60周年関連の主な年表、在日朝鮮人帰還状況一覧表、年齢別統計資料、韓国統計庁が発表した北朝鮮国民の平均寿命、北朝鮮の死亡原因などによって、89.1%にあたる88,611人について、概略的に統計を取ることができた。「国別」の人数北への送還60周年関連の主な年表によれば、1959年から1984年までは公式的な北への送還記録が残っているが、それ以降、訪問団の形で北へ送還された人々は、記録されなかった。ゆえに、実際の北への送還者は、93,339人以上いるはずである。 1965年に「日韓基本条約」が締結され、その関係で、1968年から1970年までの3年間は、北への送還事業が中断された。このときにはすでに、在日同胞と日本政府、いや全世界が、北朝鮮が「地上の楽園」であるということは、完全な嘘であることが分かっていた。日本がもう少し、「人道主義的な立場」に立っていたら、自国民を含む「在日同胞」の北への送還を再開することに、反対の意を唱えたはずである。国籍、性別、年齢別による北への送還統計から、朝鮮人81,962人、中国人7人、日本人6,642人が、北へ送還されたことが分かった。男性:47,888人(54%)、女性40,723人(46%)で、男女比率は大差なかった。北朝鮮の「平均寿命」韓国統計庁に発表によれば、北朝鮮国民の期待寿命は、男性:67.0歳、女性:73.8歳だ。北への送還が始まった1959年度を基準として、1950年代生まれの人が全員生存しているのならば、数字上では、1950年~1960年生まれ(73~62歳)の生存者数は、23,016人だ。これは、計算上の数字なので、韓国統計庁が発表した北朝鮮国民の平均寿命などから、北へ送還された在日同胞が、北朝鮮で60余年間暮らして、今も生存している可能性を推測してみた。 2019年9月、国連傘下のWHO世界保健機構の報告によれば、北朝鮮住民10万人あたり、死者数193人の脳卒中がもっとも多い。その他、新生児感染症をはじめとする感染症、肺疾患、心臓疾患、下痢、マラリア、交通事故、結核、エイズ、肝硬変などがつづいている。 もちろん、1990年代の「苦難の行軍」につづき、コロナ19、自然災害、さらに深刻な食糧難といった要因が、北へ送還された在日同胞の生死にも、強く影響を及ぼしたに違いない。 「地上の楽園」は「地上の地獄」だったこのような統計資料に基づいて、「北へ送還された在日同胞」が、今までの60余年間の北朝鮮生活に適応して生存できる確率は、約半分だと仮定すれば、その生存者数は、11,508人となる。93,339人の北へ送還された在日同胞のなかで、日本人が6,839人(子供含む)であることから、生存者推計数11,508人の7.3%にあたる、840人あまりの日本人が生存しているといえる。 カルカッタで締結された「北への送還」協定によって、1959年12月14日、最初の「北への送還」船が出発してから、63年が過ぎた。 北朝鮮は「地上の楽園」と謳って、在日同胞を歓迎したが、歓迎された彼らは、到着したその瞬間から、ここは「地上の地獄」であり、騙されたことがわかったのだった。脱北を試みたり、不平や不満を表すと、政治犯収容所に連行された。言論の自由、居住、移動の自由もなく、生存権まで脅かされた。 果てしない「奈落の底」そんな北朝鮮の本当の姿を、日本にいる親族たちに教えようと、先に北へ送還された者たちは、あらかじめ約束していた方法で、「地上の地獄」の現状を知らせた。先人の犠牲の対価として、日本に残った両親、兄弟、親族らは、彼らに送金し、救援した。 当時、日本からの支援なしでは、とても生きられない「地上の地獄」であった。日本から、果てしなく送金を繰り返したが、地獄での人生は、果てしない奈落の底に落ちて行った。 日本の社会でも、「北朝鮮難民救援基金」、「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」、「NO FENCE(北朝鮮の強制収容所をなくすアクションの会)」、「日本人妻自由往来実現運動の会」など、「北へ送還在日同胞」と「北へ送還日本人」のための事業が発足し、活発に活動開始した。 しかしながら、「北へ送還された日本人」と「北へ送還された在日同胞」に対する、終わりなき支援事業と訴えてお願いして泣き叫んでも、微動だにしない北朝鮮当局に対して、多くの団体は北朝鮮人権運動に疲れて果て、その活動は徐々に弱体化している。 そのうえ、「北へ送還された在日同胞」と「北へ送還された日本人」の生存の見込みも希薄であるという状況が、私たちの勇気をさらに鈍らせている。 「いまも助けを求めている人たち」がいるそれでも、母国が日本の「北へ送還された在日同胞」約11,500人と、日本が故郷の「北へ送還された日本人」 約800人は、いまだに北朝鮮という地獄のなかで、助けを求めているのだ。北朝鮮というもっとも閉鎖された国家から、現在生存している「北へ送還された在日同胞」を救い出すことは、かなり難しいだろう。 だが、ひとりの人権が保障されることが、全体の人権も保障されることにつながる。 「北へ送還された在日同胞」と「北へ送還された日本人」の「帰郷」と「自由往来」のために、最後まで一緒に努力してくれることを、心の底から嘆願してやまない。――――――――――――――――――――――――――脱北者:李 泰炅1952年、山口県下関市で生まれる。1959年、下関朝鮮初中級学校に入学。1960年、在日朝鮮人の帰還(北送)事業により家族で北朝鮮へ渡る。1971年、朝鮮人民軍に入隊。1986年にP医学大学を卒業、医学研究所の研究院を経て、2001年に病院長となる。2005年に脱北するが、ヤンゴンで「不法入国」の罪に問われ2年3カ月服役する。2009年に韓国入国。現在「北送在日同胞協会」会長として北朝鮮の自由民主化のために在日脱北者たちと活動している。
2024.10.08
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リベラルたちは、それでも(見て見ぬ振り)を続けるのか? 独裁者の蛮行を糾弾しないリベラルの裏切りを僕は許せない!! 2024-10-7 はんぺん この独裁国家の本性を見てほしい・・・リベラルたちに。それでも(見て見ぬ振り)を続けるのか? と。今や、言行不一致の彼らの実態に、多くの支持者が不信を募らせているのではないだろうか?? 彼らが、政権を執ったら、こういう事を容認するのだろうか?考えられない(リベラルの真実)だ。 「法廷で被告人の発言に拍手するなどした6人が4月6日、「迷惑行為」を働いたとして扇動容疑で逮捕」(本文)とは、どういう事だ?? 「傍聴中のささやかな抗議に対する当局の対応は、異論をつぶやくことさえも根こそぎにするという手段を選ばない強権的姿勢を示している。」(本文)そうだ・・・「6人は扇動罪に問われ、有罪なら実刑2年を言い渡されるおそれがある。」(本文)・・・こんな事は、日本ではありえないし、許されない・・・ 何故、リベラルは、機関紙やHPで、非難・糾弾しないのか? (人権)を叫びながら(社会主義? 共産主義?)の中国や北朝鮮、ロシアなどの(蛮行)に目を背ける・・・これが、この間、彼らの果たしてきた役割だ・・・・何と言うハレンチだろうか! 民主国家の日本では、想像もできない。(モノ言えば唇寒し)が、全体主義の実態だ。いたるところにスパイ網を張り巡らし、国民の一挙手一投足に、目を光らせている・・・そして密告を奨励する・・・こんな世界をリベラルたちは、容認するのか?そうでないと言うのなら、何故、全体主義による蛮行を、鋭く糾弾しないのか? 何を恐れることがあるのか? どうだろう・・・僕が、間違っているというなら、きちんと反論するべきだ。新社会党・社民党・MDS・アサートの論者の事を言っているのだ・・・少なくても、これまでの、あなたたちの言動は、民衆の人権に、全く寄り添ってこなかったという(卑劣さ)を持っている。 僕は、許せないし、絶対に、あなたたちに政権を取ってほしくない・・・どんな反人権国家になるかを考えれば、恐ろしい事だと思えるから・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――中国:法廷での拍手で扇動容疑 まずます悪化する人権状況 2022年4月13日 アムネスティ香港の法廷で被告人の発言に拍手するなどした6人が4月6日、「迷惑行為」を働いたとして扇動容疑で逮捕された。 傍聴中のささやかな抗議に対する当局の対応は、異論をつぶやくことさえも根こそぎにするという手段を選ばない強権的姿勢を示している。 香港国家安全維持法で実質的に無制限な捜査権を与えられている治安警察が、治安に無関係な行為を摘発する事態が増えている。6人の逮捕はその裏付けでもあり、香港の人権状況が、一層悪化しているということでもある。 香港警察は、適用範囲が過度に広い扇動罪の乱用をやめるべきだ。拍手が犯罪になることなどありえない。 背景情報昨年12月から今年1月にかけてあった公判のいずれかを傍聴していた6人は、迷惑行為をしたとして逮捕された。6人は扇動罪に問われ、有罪なら実刑2年を言い渡されるおそれがある。 1月4日にあった活動家・鄒幸彤(チョウ・ハントゥン)さんの公判で、天安門事件の犠牲者を擁護する発言をした鄒さんに拍手した傍聴者数人が退席を求められた。退席させられた一人で、解散した香港職工会連盟の副議長だった鄧建華(タン・チンファー)さんは、警察が要求した情報を連盟が提供しなかったとして3月31日、連盟の仲間2人とともに連行された。 香港政府は一昨年から植民地時代の扇動法を適用して、活動家、ジャーナリスト、作家らを起訴してきた。昨年7月、子ども向けの本を出版した言語療法士5人が逮捕され、扇動的書籍の出版共謀の罪で起訴された。 昨年12月、業務を停止したメディア「立場新聞」の幹部らが、扇動的出版の容疑で逮捕された。 今年3月、表現の自由の権利を行使して扇動罪に問われていた政治活動家の譚得志(タム・タクチ)さんが、有罪判決を言い渡された。 アムネスティ国際ニュース 2022年4月6日
2024.10.07
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臭いものに蓋をするな! 中国共産党の蛮行に、リベラル派は本気で抗議せよ! 見て見ぬ振りの二枚舌を国民は見逃さない! 2024-10-6 はんぺん 日本のリベラルは、欧米の資本主義国家やその指導者に対しては、非難することが多いが、社会主義国家による蛮行には、いつも、いつも、大きな声を挙げてこなかった・・・ 彼らは、(社会主義)(共産主義)の洗脳から、解放されることが無く、今に至っているわけだが、そのことで、国民の多くの信頼を失ってしまった!!(社会主義は、善!)という(刷り込み)は、彼らの人生を(無駄死に化)してきたのだ・・・ これを見て、気の毒だという思いは、正しくない・・・彼らは、間違った情報を発信し、多くの民衆を間違った方向に向かわせてきた・・・その(罪)を忘れてはならない!! 学生運動についてのブログの中で、(青2才が、青2才を洗脳した)と書いたが、まったく同じことが、ここでもあては丸野だから・・・そう(青2才もどきのリベラルたちが、間違った情報で、国民を洗脳しつづけている)のだから・・・ しかし国民は、いつまでも(青2才)では無い・・・(社会主義・共産主義の現実)を見て、学習してきたから・・・いつまでも、彼らに騙され続けることは、無い・・・どうだろうか? 「部隊はデモ参加者や見物人に向かって銃を乱射、さらに、動けなくなった市民を装甲車で轢き殺しました。北京市内を制圧した後も、軍は独断で人びとを銃殺しました。」(本文) 「同年6月末に中国政府が発表した公式報告書によると、3000人以上の市民が負傷し、36人の学生を含む200人以上が死亡しました。アムネスティは、さらに多くの人が殺害され、中国全土で数万人が逮捕されたと推測していますが、中国当局は真相解明を拒み続けているため、詳細はわかっていません。」(本文) 「中国政府は、今もなお、事件に関する公開討論を禁じており、今なお、雑誌、新聞、教科書、インターネット・サイトから、事件に関する記述を消しつづけています。」(本文) 共産党の習近平指導部は、国民の不満を抑え込みながら、独裁体制を国内外に、その触手を拡げてきた。中国周辺の諸国は、戦々恐々! と言ったところだ。 ベトナム・インドネシア・フィリピン・台湾、そして日本が、結束して、この独裁国家による蛮行を 未然に阻止しなければ、東南アジア・極東だけでなく、地球の未来に、ますます暗雲が立ちこめてくるだろう。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ―――――――――――――――――――――――――中国の人権 - 天安門事件から35年 真相解明を求める人びとに弾圧が続く アムネスティ 35年前の1989年6月3日の夜、天安門広場に集まった民主化を求めるデモ隊を排除するため、重装備の部隊と数百の装甲車が北京市内に入りました。 部隊はデモ参加者や見物人に向かって銃を乱射、さらに、動けなくなった市民を装甲車で轢き殺しました。北京市内を制圧した後も、軍は独断で人びとを銃殺しました。 同年6月末に中国政府が発表した公式報告書によると、3000人以上の市民が負傷し、36人の学生を含む200人以上が死亡しました。アムネスティは、さらに多くの人が殺害され、中国全土で数万人が逮捕されたと推測していますが、中国当局は真相解明を拒み続けているため、詳細はわかっていません。 事件の真相解明を求める声は今でも続いていますが、そのような声を上げる人びとを中国当局は弾圧の対象とし、今も厳しく取り締まり続けています。 1989年 天安門で何が起こったのか? 1989年4月15日、中国共産党の胡耀邦元総書記(こようほう)が心筋梗塞で亡くなり、翌16日、胡氏を追悼するために北京市内の学生たちが天安門広場に集まりました。胡氏は、言論の自由を含む、中国の政治・経済の改革派として知られていたからです。 胡氏の追悼集会はまもなく、中国の民主化を求める動きとなって拡大していきました。公務員の汚職を非難し、政治・経済の改革を求める学生たちは一般市民にも広く支持され、天安門広場には10万人を超す人びとが集結し、地方都市に広がっていきました。政府とデモに参加する市民との緊張は高まり、5月20日、戒厳令が発令されました。 34年前、1989年6月3日の夜、天安門広場に集まった民主化を求めるデモ隊を排除するため、重装備の部隊と数百の装甲車が北京市内に入りました。部隊はデモ参加者や見物人に向かって銃を乱射、さらに、動けなくなった市民を装甲車で轢き殺しました。北京市内を制圧した後も、軍は独断で人びとを銃殺しました。 同年6月末に中国政府が発表した公式報告書によると、3000人以上の市民が負傷し、36人の学生を含む200人以上が死亡しました。アムネスティは、さらに多くの人が殺害され、中国全土で数万人が逮捕されたと推測していますが、中国当局は真相解明を拒み続けているため、詳細はわかっていません。 拘束された市民の多くは警察や軍によって拷問を受けました。その中には、刑務所に送られた後も拷問され続け、身体と精神に長期の後遺症が残った人もいました。また、デモに加わったとして死刑判決を受け数日のうちに処刑された人もいます。多数の市民が不公正な裁判によって、長期の懲役刑を言い渡されました。 天安門の母たち~闘い続ける勇気ある人びと~ 「天安門の母たち」は、元人民大学教授の丁子霖さんが創設した、1989年の天安門事件で、我が子や愛する人を失った遺族のグループです。 丁子霖さんを中心に、メンバーは天安門事件の犠牲者遺族を一軒一軒訪ねるなどして、事件で殺害された180人以上と負傷した70人以上の名簿を作成しました。そして当局に対し、合法的な人権擁護活動を認めるよう訴えつづけてきましたが、その結果、嫌がらせや差別、恣意的拘禁に遭ってきました。 中国政府は、今もなお、事件に関する公開討論を禁じており、今なお、雑誌、新聞、教科書、インターネット・サイトから、事件に関する記述を消しつづけています。 遺族にとって厳しい状況が続く中、2012年5月末、悲しい事件が起こりました。メンバ-の一人、軋偉林さんが自宅下の車庫で首を吊って自殺したのです。 死の直前、息子の死について書かれたメモを家族が見つけました。軋偉林さんは、政府が抗議の声を聞くことを拒絶したことに対し、死をもって抗議するとメモに記していました。天安門事件の夜、当時22歳だった息子を銃殺されました。20年以上、軋偉林さんと妻の張振霞さんは、政府が1989年の犠牲者と遺族に対し償いを求める署名をし、抗議活動に参加していました。 アムネスティはこれからも「天安門の母たち」や他の人権擁護活動家たちを支持し、天安門事件に関して、「非暴力の活動をして捕らわれた人たちの釈放」「徹底かつ独立した公正な調査」「加害者への法的処罰」「犠牲者やその家族への賠償」を要求していきます。
2024.10.06
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「帰国事業」は、取り返しのつかない(地獄への片道切符)。「無償治療」「無料教育」は大ウソ!!それを後押しした日本リベラルの黒歴史! 2024-10-5 はんぺん 多くの若者たちが、明るい未来、希望のある未来を夢見て、「帰国船」に乗った。それが、取り返しのつかない(地獄への片道切符)だとは、誰も知らなかった・・・というか(真実)は、隠され続けていたのだ。 帰国者からは、北朝鮮当局の目に触れないような形で、後から(帰国)しようとする同胞たちに、「来るな!」「絶対来るな!」という(合図)が、何度も送られたという・・・その結果 「あちらこちらから色々怪しげなうわさが立つようになった」(本文) 北朝鮮や朝鮮総連の(大ウソ)が広まり、帰国事業は縮小していく・・・が、すでに帰国した約93,340人の在日同胞は、見捨てられていった。 多くの帰国者たちの乗った、帰国船(万景峰号)が、清津港に着いた時に、自分たちの(選択)の、取り返しのつかない大失敗に気が付いたという・・・しかし、後戻りはできない!!そこから、飢えと貧困、病魔との壮絶な闘いが始まった・・・・ そこは(共産主義の大躍進)(地上の楽園)とは、ほど遠い現実だった。・・・朝鮮総連や朝鮮労働党は、偽の宣伝で、在日同胞を(洗脳)して、この帰国事業を強行したが、これに、もろ手を挙げて協力したのが、新聞・ラジオなどのマスコミと 在日同胞の人権の御旗を掲げて、主導した(日本共産党)(日本社会党)だった・・・・ 戦後リベラルの(黒歴史)というわけだ。(自民党などは、差別的に在日朝鮮人を(やっかい払いできる)として 消極的に支持したが、社会主義バンザイの共産党、社会党の果たした大きな役割は、(犯罪的)であり、その(罪)は、あまりにも大きすぎた! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――北朝鮮に「23歳で送られた男」の告白…日本で憧れた「地上の楽園」に渡るまでの“壮絶すぎる半生”李 泰炅脱北者・・・「地上の楽園」の生き証人 2023.03.09 現代ビジネス(週刊現代)1959年から1984年まで、約93,340人の在日同胞が、北へ送還された。彼らは、身体の具合が悪ければ無償で治療を受けることができ、学びたければ無料で勉強することができるという謳い文句にのせられて、すべての人々が平等に暮らす「地上の楽園」に住めると、胸に希望を膨らませ、北朝鮮へ渡ったのだった。1959年に、日本で生まれてすぐ北へ送還されたとしたら、現在、63歳になる。彼らは、生まれたときに日本の風に当たっただけで、物心がついたときは、すでに、北朝鮮の領土にいたことになるわけだ。しかし、日本での生活と北への送還を鮮やかに記憶し、北朝鮮で死ぬような経験をし、その後韓国に定住した、歴史の証言者がいる。 北朝鮮に渡ってわかった「真実」1961年1月、23歳で北に渡った、「北に送還された在日同胞」脱北者であるキム・チェク氏は、今年、86歳だ。彼は、韓国に定住している「北に送還された在日同胞」として、存命する証言者なのである。先日、私は、7〜8年前から存じ上げていたキム・チェク氏に電話をかけた。ちっぽけなスマートフォンから、勢いよく、今にも唾が飛び出してきそうな声が、鼓膜を震わせた。 「あ! お久しぶりです。忘れずに電話していただき、ありがとうございます」15歳以上年上のキム・チェク氏だが、彼はいつでも、私に対して礼儀正しい。「ご連絡が遅くなってすみません。一度お目にかかりたいと思っています」私は、控え目に言葉をつないだ。祖国への思い・・・・「私は今、身体の自由が利かなくて、老人ホームに居ます。今は、すべてを放棄しました。話し相手ぐらいにならなれるかと…」 彼は、人生の晩年に、天涯孤独な人間として、老人ホームで、ひとり寂しく、死を待つ身に置かれているようだ。 できることなら、私は、キム・チェク氏を、日本、北朝鮮、韓国と渡り歩いた在日同胞の歴史の証言者として、『世界ギネスブック』にでも登載したい心情である。 キム・チェク氏は、1937年、宮城県の仙台で生まれた。彼の父は、炭鉱で働き、必死になって家族の面倒をみたが、貧乏からは抜け出せなかった。貧しいからこそ勉強しなければと、小学校、中学校、高等学校にまで通ったが、大学入学は不可能だった。 それでも、希望と勇気にあふれた彼は、17歳の若さのとき、ひとりで東京に上京し、2年間、夜間大学の社会学科に通った。おカネがなくて、衣食住に困ることも多々あったが、マルクス哲学と『資本論』という本は、一時でも手放すことはなかった。 1958年8月、20歳という血気盛んな青年時期に、在日韓国人の北への送還事業の火付け役となった、在日本朝鮮人総聨合会川崎支部永留分会の同胞たちによる、帰国実現デモに参加した。 デモに参加した在日同胞たちは、集団決議として、その切実な心情を訴えた手紙を、金日成主席に送った。金日成主席は、祖国の懐に帰りたいという、差別され無視されている在日同胞たちの念願を熱裂に歓迎すると演説し、それをきっかけとして、翌年、「帰国」という名の悲劇が始まったのであった。青年キム・チェク氏も、他の同胞と同様に、先頭に立って、その運動に一役買った人物のひとりだった。 「無償治療」に「無料教育」と…資本主義の矛盾、社会主義の優越性、誰もが幸せに暮らせる平等な社会、「千里馬」運動、大躍進する朝鮮、「無償治療」、「無料教育」など、「地上の楽園」に憧れる心が、日増しに強くなっていった。 こうしてキム・チェク氏は、不公平な社会に対する不満と、社会主義とマルクスの共産理論に憧れ、ソ連留学を夢見て、「世界革命」という大きな抱負を抱いて、北への送還を決心したのだった。 1959年12月に最初の「北朝鮮帰還船」が出航し、約1年が過ぎた1961年には、北朝鮮について、あちらこちらから色々怪しげなうわさが立つようになった。だが、信念を貫く強靭な心を持つ彼は、うわさはあくまでもうわさとみなし、「帰国宣伝」の広告塔として先頭に立った。彼を通じて、数多くの在日同胞が、北へ送還されたのだった。 このとき、朝鮮総連の人間が模範となり、率先して帰国しなければならないという指示が伝わってきた。キム・チェク氏も、切望した北への送還を決心することになったのだが、「万が一怪しいうわさが本当だったらどうする? うわさが本当なら、ソ連に逃げよう! 世界革命の発信地であるソ連に行って、社会主義革命にこの身を捧げよう」と、心に決めたのであった。 そうして、「地上の楽園」の広告塔として、幾多の在日同胞を「北へ送還」させてきた、自分自身も、第25次帰国団の青年団長として、「帰国」することになったのだった。 「審査」から「帰国」まで「北への送還」から63年が経ったが、北への送還事業に関心を持つ、人権活動家、北朝鮮専門家は、いまだに数多くいる。当時、20歳以上の大人に限っては、最後の帰国審査を行ってから北へ送還させたのだから、人道主義的であった・・・ということに対して、現在では反対に、北朝鮮と朝鮮総連の宣伝によって北へ送還させたのだから、非人道主義的であり、詐欺であると叫ばれている。 当時23歳だったキム・チェク氏のおぼろげな記憶によると、「帰国審査」室には、日本および国際赤十字社の審査員や、記録係など、数多くの人たちがいたということだ。 うわさによれば、審査過程で、帰国しないと言い出して大騒ぎが起きたこともあるという話だったが、キム・チェク氏によれば、少なくとも自身が帰国するときまでは、そんな奇跡的な事件は、一度たりとも起こらなかったという。また、朝鮮総連からの注意事項で、食べ物は伝染病の可能性があるので制限したという話はあったが、強制的に食べ物を集めて海に捨てたというようなこともなかったという。 63年前、第52次北朝鮮帰還船に乗った23歳の青年団長キム・チェク氏は、甲板で両手を広げ、冷たい風を受けながら、近づく世界革命を夢見て、2泊3日の旅程を終えたのだった。これは、歴史的にいろいろと問題を残した、93,340人の北への送還における、ある特別な物語のひとつである。 さらに連載記事『“在日2世”の脱北者が、北朝鮮の「大嘘」を暴く…! 日本から「北朝鮮に送られた人たち」の“生存率”と“現在”を徹底調査した…!』では、日本から北朝鮮に渡った人たちの“知られざる真実”についてレポートしよう。
2024.10.05
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100歳以上の長寿者が増える一方、未婚男性は、飛びぬけて短命が多い・・・変わる日本 2024-10-4 はんぺん昨年、オフクロが、老人ホームで、100歳で、亡くなった。眠るような、静かな最期だった。オヤジが、64歳で、胃がんで、亡くなったのは、1984(S59)年。早死にだった。もう30年になる。33回忌もすませた。 それにしても、女性の長寿は、惚れ惚れするとしか言いようがない。老人ホームには、何度も行ったが、女性の多さには、びっくりした。男は、数えるぐらいにポツポツといるだけ・・・それも、隅っこで、居心地悪そうに・・・ 僕も、12月には、後期高齢者になるわけだが、周りを見れば、亡くなった友人・知人の多さには、びっくりする。そして少しづつ近づいてくる自分の(その時)をあまり気にしなくなっている自分に驚いている・・・・ 若い頃は、そうでは無かった。(死)についての(恐怖)を強く意識した時期もあった。自分の(身も心も消えてなくなる→無になる)ことへの恐怖・・・逃れられない・・・誰でも いつかは(死)を迎えるという(自然事象)を受け入れることができなかった自分・・・ しかし、この歳になれば、(悟り?)(諦め?)が支配的に・・・面白いものだ。まだまだ、勉強したい・・・更新したい・・・真実に迫りたい・・・と思う気持ちは、変わらないが、肉体的な劣化と相談しながらのチャレンジになる。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――全国の100歳以上、9万5119人に 過去最多を更新 厚労省 吉備彩日 2024年9月17日 朝日新聞 全国の100歳以上の高齢者は、「老人の日」の15日時点で、9万5119人となった。前年より2980人増え、54年連続で過去最多を更新した。今年度中に100歳となる見込みの人は4万7888人(9月1日時点)で、前年度より781人多く、過去最多を更新した。 厚生労働省が17日に発表した。住民基本台帳に基づいて都道府県などから報告を受け、集計したところ、15日時点で100歳以上の女性は8万3958人、男性は1万1161人で、女性が全体の約88%を占めた。都道府県別にみると、人口10万人あたりの人数では、島根県が159.54人で、12年連続で最も多かった。最も少ないのは、35年連続で埼玉県の45.81人だった。 国内の最高齢者は、兵庫県の糸岡富子さん(116)。男性では静岡県の水野清隆さん(110)となっている。 100歳以上の高齢者数は、老人福祉法が制定された1963年は153人だったが、98年には1万人を突破。2000年代には急速に伸び、12年に5万人、22年に9万人を超えた。(吉備彩日)――――――――――――――――――――――日本の未婚男性はなぜ、飛びぬけて死ぬのが早いのか? その「死因」と50歳を過ぎた未婚男性の”ガチの敵”とは? 2024-10-2 集英社オンライン67歳で死ぬのは早すぎる生涯未婚男性の死亡年齢の中央値は、男性全体の平均年齢81歳 と比べると飛びぬけて低いという厚生労働省の統計がある。未婚男性は死ぬのが早いということである。「孤独は健康によくない」と医師や研究者が日々警鐘を鳴らすなか、中年独身男性に向けた婚活指南本『中年婚活 50歳、年収450万円からの結婚に必要な30の法則』(大洋図書)より一部抜粋・再構成して「未婚男性の死因」についてお届けする。かつてはほぼ全員が結婚する社会だった令和4年版少子化社会対策白書によると、50歳時点で一度も結婚をしたことがない生涯未婚の割合が男性28・3%に達しました。生涯未婚率が「50歳時点での未婚者」で計算されるのは、その年齢になったらもう生涯結婚することはないだろうとされているからです。 男性の生涯未婚率はまだまだ上昇して、2040年には29・5%に到達して、単身世帯の割合は40%に達すると予測されています。 2040年といえば、現在50歳の人々が前期高齢者になる年齢です。定年後に仕事と居場所を失って単身で暮らしているとなると、誰とも話さない日々が延々と続き、得体の知れない孤独に襲われているかと思います。 いまでこそあたりまえの生涯未婚の独身男性ですが、それは平成以降に起こった特異な現象です。50歳のみなさんが生きてきた間に、自由恋愛の時代となり、女性が社会進出して、非正規雇用が推進されるなど、様々な変化がありました。その結果、結婚しない、結婚できない男性が激増することになったのです。 みなさんが結婚できない、しない選択をしたことで、生涯未婚率の上昇がはじまって、未婚者の独身だらけという現在に至っているのです。 以前はどうだったのでしょうか、過去の生涯未婚率を見てみましょう。高度経済成長期の1960年は1・3%、平成に突入した1990年は5・6%、2000年は12・6%と、独身男性は圧倒的な少数派でした。中年の未婚者は、めずらしい存在だったのです。 この数十年間で、ほぼ全員が結婚を経験する社会から、3人に1人が生涯未婚のまま人生を終える社会に変貌したのです。 皆婚時代が続いたので、現在の独身だらけ、単身世帯だらけという孤独な人々の増加は、歴史的に前例のないことだといえます。 よって、みなさんがどのような末路を迎えるのか、前例がないので誰もわからないのです。少なくとも、幸せではない未来が見えてきます。みなさんが結婚しなかった理由は、なんだったのでしょうか。 「孤独は毒である」モテないことは置いておくと、「人生を束縛されたくない」「自由を求めて」「自分のためだけにお金を使える」などなど、そんなところでしょう。 しかし、若い頃はそんな時間的、経済的自由を満喫できても、40歳を超えたあたりから孤独を感じる時間が増えていませんか。それに自分のためだけにお金を使うと張り切っても、パチンコしたり、風俗に通ったり、キャバ嬢や地下アイドルに貢いだり、みたいな使い方も少なくないでしょう。50代単身世帯の貯金額の中央値は約53万円(令和4年家計の金融行動に関する世論調査/金融広報中央委員会)と、なかなか厳しい金額となっています。経済的自由を求めた結果として、なにか残るものがありましたか?と聞いてみたいです。みなさんは実感していると思いますが、中年になると友だちは減ります。40歳を超えたあたりから友だちと会う頻度は減り、いまではそのような機会はほとんどなくなっていませんか。そして、新しい出会いは極端に少なくなっているはずです。若い頃に束縛されたくないと未婚の選択をしても、中年になると束縛どころか周囲に誰もいなくなって、気づけば孤独になりがちです。 仕事を頑張ってきた方でも、役職定年や早期退職になれば、人はどんどん離れるので仲間も居場所もなくなってしまいます。 それだけではありません。年齢を重ねると、家族にも変化が起こります。ちょっと前までは元気で、偉そうにしていた親も、気づけば後期高齢者です。まともに建設的な会話ができなくなって、認知症になって周囲に迷惑をかけて、やがて歩けなくなって自立できない要介護状態になって、死んでしまいます。50歳を過ぎると、友だちも仕事も家族もなくなって、ガチな孤独に陥るのは時間の問題なのです。孤独は健康によくありません。若い頃は束縛されたくないとイキっていた人も、どうして自分が生きているのか、わからなくなるでしょう。「孤独は毒である」と、様々な医師や研究者が日々警鐘を鳴らしています。 そのような警鐘を自分には関係ないと、ずっと聞き流してきたかもしれません。でも、事実として生涯未婚男性の寿命が極端に短いことはご存じでしょうか。日本人男性の寿命の事実を知ったとき、筆者は驚きました。令和4年簡易生命表(厚労省)では、男性の平均寿命はおよそ81歳となっています。その年齢はみなさんの寿命の共通認識だと思うのですが、未婚男性の死亡年齢の中央値は67・2歳として刻まれています(参考:荒川和久「『いのち短かし、恋せぬおとこ』未婚男性の死亡年齢中央値だけが異常に低い件」/Yahoo!ニュース)。未婚男性は飛びぬけて死ぬのが早いのです。 早すぎる未婚男性の死因中央値とはデータを若い順番に並べて、ちょうど中央に位置する値のことをいいます。となると、生涯未婚男性の完全に半数が67歳までに死んでいるのです。みなさんも十数年後、すでに半分の方々は死んでいることになります。未婚男性の寿命は男性全体の平均寿命81歳には遠く及ばず、知らなかった筆者は愕然としました。 最近、人生100年時代と騒がれています。しかし、100年間も生きるのは、家族や人間関係、経済的に恵まれた、孤独とは縁遠い人たちです。未婚の単身暮らしで、孤独を抱えながら生きる未婚男性は長寿とは無縁なのです。 50歳のみなさんの世代は社会保障が現在と比べると極端に縮小して、もっと状況が悪化していることでしょう。実際にアラフィフである筆者の同年代の友人、知人は、すでに何人も死んでしまいました。みんな結婚をしなかった、できなかった人たちです。最期のゴングは、もう鳴りはじめているのです。 67歳で死ぬのは早すぎます。年金受給がはじまって2年目、100年生きると張り切る親より早く死ぬ人もたくさんいるでしょう。葬式は終末期の親に見送られ、みなさんが核家族育ちの一人息子だとすると、親の財産を相続することもできません。親とみなさんがせっかく築いた財産も、一人息子が死んでしまったので国庫に納めることになります。 早すぎる未婚男性の死因は、もちろん老衰ではありません。死因を見てみると、腎不全、糖尿病、高血圧性疾患などの生活習慣病に、悪性癌となっています。未婚男性の食生活はカップラーメンやコンビニ弁当、ポテチとかファストフードでしょうか。安価な外食や間食が中心で、手料理が中心の有配偶者とは食生活が異なります。それと、孤独による精神的なストレスで早期に悪性癌を誘発したのかもしれません。 残念ながら現在50歳の生涯未婚のみなさんに、残された時間は長くはありません。現在は医療が発達しているので、人間は簡単には死にません。寿命の前に、健康寿命を通過します。 健康寿命とは健康上の問題で制限なく、日常生活を送ることができる期間のことで、寿命−健康寿命は9年といわれています。となると、現在50歳のみなさんは、8年後あたりを目安になにかしら健康を壊し、数年間は苦しみもがく闘病して寿命を迎えるということです。 生涯未婚で50歳は、10年生存率50%の重病を患っているのと同等の危険な状態だといえるのです。若い頃のように「束縛されたくない」「自由でいたい」「お金を自由に使いたい」なんて言っている場合でないことは、終焉が迫ったみなさんにはわかっていただけたかと思います。 文/ 中村淳彦
2024.10.04
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だまされた在日朝鮮人と日本人妻の悲劇を忘れるな! 「地上の楽園」は、「地上の地獄」だった!! 2024-10-3 はんぺん「洗脳」とは、恐ろしいモノ・・・というしかない。(社会主義)に洗脳された日本共産党員の小島さん・・・(見たこと)を封印して、(北朝鮮のウソ)で、日本人や在日朝鮮人をオルグ(勧誘)し続けたのだ・・・ 言いたいことが、素直に言えない組織って、何だ??? 朝鮮総連が、民主的組織? 日本共産党は、民主的組織? 当時は、(社会主義全盛)の時代。社会主義そのものを否定する言論などは、無視されたり、排除されたり・・・・組織の中に(民主主義)は無く、(共産党)(共産主義)は、美化され続けた・・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――知っていたのに「何も心配ない」 “地上の楽園”北朝鮮へ人々を見送った男の懺悔 2013-11-10 週刊朝日 1959年12月14日から84年まで続いた北朝鮮帰国事業。在日朝鮮人と日本人妻ら9万3340人が新潟港から北朝鮮に渡った。北朝鮮が「地上の楽園」だという話を信じて渡った在日朝鮮人たちだったが、現実は大きく違っていた。当時、共産党で帰国事業に関わっていた小島晴則さん(82)は、朝鮮総連でも一部の最高幹部しか北朝鮮の実情を知らなかったと話す。当時の話をジャーナリストの前川惠司氏が聞いた。* * * 北朝鮮の実像の片鱗に触れたのは、64年7月だった。日朝友好青年使節団5人の一人として訪朝したのだ。小島さんの資料では、すでに8万1539人を「北の楽園」へ見送っていた。平壌の夜は真っ暗だった。街角で見かける女性の肌が汚れていた。車のタイヤはすり減り、ひびがはいっていた。全く予想外だった。東海岸の都市、元山(ウォンサン)で、向こうから歩いてくる30人ほどの男たちの一団が日本語でしゃべっていた。帰国者だと直感した。近づいた途端、案内人が、「小島さん、しゃべらないでください」と止めた。しかし持ち前の気性で構わず小島さんは、「あんたたち、帰国者か」と声をかけた。 「そうだ」と返事が返ってきた。案内人がまた、「しゃべらないでください」と叫んだ。すると、男たちは沈黙し、もう口を開こうとしなかった。3週間の旅だったが、5日目には嫌になっていた。 北朝鮮社会のすばらしさを謳(うた)い、多くの在日朝鮮人に「日本人が書いた本だから」と地上の楽園を信じさせた『38度線の北』の著者、歴史学者の寺尾五郎氏(99年没)に帰国後会うや、「聞くと見るとは大違いでした」と率直に吐露した。「そうなんだよ」と、平然とうなずく寺尾氏に、この人は自分をごまかしていると直感した、と小島さんは言う。 しかし、小島さんも同じだった。朝鮮総連の幹部から、「私がまだ見ていない祖国はどうでした」と尋ねられ、「お国はすばらしかった」と答えた。本当かなという表情を浮かべる幹部もいた。すでに帰国者は激減し、月に1度、船が出航するかどうかになっていた。 小島さんは新潟県内80カ所で、訪朝報告会を開いた。ここでも平然と、「帰国者はなんの心配もなく幸福に暮らしている」としゃべったという。「まだ、社会主義への幻想があったから」と釈明するが、それだけではなかったろう。帰国事業は「仕事」だった。やめたら飯の食い上げだ。訪朝後、帰国しようか迷っている人に、「何も心配ない」と背中を押すこともあった。「希望を持って帰る人たちに、帰るなとは言えなかった。頑張ってください、と言うしかなかった」と語った。 ※週刊朝日 2013年11月15日号
2024.10.03
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威嚇と挑発は、全体主義の常套手段。民主派は、結束して、独裁国家群を抑止せよ!! 2024-10-2 はんぺん「ウクライナで起きていることを見ればロシアが空洞化するのは時間の問題。未来はアジアにある。われわれは中国が台湾を侵攻するようなおかしなまねをできないよう太平洋に駐留しなければならない」(本文:英国政府消息筋)・・・・大賛成だ。世界の、人類の最大の脅威は、全体主義=中国だ。(備え)は、民主派にとっては、最大の義務だ!! おそらく、この記事を見て、リベラルたちが、批判するだろう・・・「帝国主義的挑発だ・・・・」と。そうだろうか? 歴史から学ぶとしたら、第2次世界大戦後の全体主義による蛮行は、忘れてはならない・・・ この間、中国やロシアなどの独裁国家群による 日本の領海・領空への侵犯事件が、相次いでいる。北朝鮮や中国は、ミサイルやICBMの打ち上げで、威嚇と挑発を止める様子も無い・・・ 日本政府には、毅然とした対応をしてもらいたい・・・習近平の中国は、既成事実の積み重ねで、陣地を拡げて(サラミ戦術)、台湾・尖閣・沖縄に圧力を加えているが、能天気な日本政府やリベラルたちの鈍感さには、呆れてしまう・・・・ 今や、この世界の最悪の独裁者に対する(忖度)は、(犯罪)だ。南シナ海で、主権が脅かされているフィリピンやベトナムの現実に、目を背けて、日本の平和と安全は、守れない・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――台湾海峡を初めて通過した海自護衛艦「さざなみ」、米国・豪州など4か国と共同訓練実施 2024-9-28 読売新聞オンライン 防衛省は、海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」が28日に南シナ海で米国、豪州、ニュージーランド、フィリピンの4か国と共同訓練を実施したと発表した。さざなみは25日に台湾海峡を初めて通過して訓練に向かっており、覇権主義的な行動を強める中国をけん制する狙いがある。 共同訓練は「自由で開かれたインド太平洋」に賛同する多国間の「海上協同活動」の一環で、今回で4回目。さざなみは、各国の駆逐艦やフリゲート艦などとフィリピンの排他的経済水域(EEZ)内で隊列を組んで航行するなどした。――――――――――――――――――――海自護衛艦「さざなみ」の台湾海峡通過、中国海軍の艦艇が追尾…全航程の警戒監視認める 2024-9-27 読売新聞オンライン 海上自衛隊の護衛艦「さざなみ」が25日に台湾海峡を通過した際、中国海軍の艦艇が追尾していたことが日本政府関係者への取材でわかった。海峡通過を強く警戒したとみられる。海峡通過は軍事的な威圧を強める中国への対抗措置で、今後も台湾海峡に海自艦艇を派遣するかどうかは中国側の出方を見て判断する。 中国国防省も26日、日本の護衛艦とオーストラリアの駆逐艦、ニュージーランドの補給艦が25日に台湾海峡を通過し、中国軍が全航程を警戒監視していたと認めた。 海峡通過について、林官房長官は26日の記者会見で、「自衛隊の運用に関する事柄で、答えは差し控える」と述べるにとどめた。「自衛隊の活動は、すべからく国際法と国内法令に従って行われている」とも語った。 台湾海峡は最も狭い部分でも幅が約130キロ・メートルある。沿岸国の主権が及ぶのは沿岸の基線から12カイリ(約22キロ・メートル)の領海で、米国などは台湾海峡について、どの国の領海にも属さない国際水域だとの立場をとる。日本政府も「中国の領海外は航行の自由が認められ、護衛艦が通過することに問題はない」(防衛省幹部)との見解だ。 中国軍は8月以降、領空侵犯や空母による日本の接続水域の航行などを繰り返してきた。日本の歴代政権はこれまで中国側の反発を考慮し、海自艦艇による台湾海峡通過を控えてきたが、岸田首相が護衛艦の派遣を指示した。 中国外務省「意図を警戒」 【北京=東慶一郎】中国外務省の 林剣リンジエン 副報道局長は26日の記者会見で、海上自衛隊の護衛艦が25日に自衛隊発足以来初めて台湾海峡を通過したことについて「中国軍は法に基づいて対処した。今回の日本の行動の政治的意図を警戒している」と述べた。その上で「日本に対して厳正な申し入れを行った」と明らかにした。 また、中国国防省の報道官は26日の記者会見で、「『台湾独立』勢力に誤ったシグナルを送り、中国の主権に危害を及ぼす挑発行為に断固反対する」と反発した。 ――――――――――――――――――――――――「中国が台湾侵攻のようなおかしなまねできないように」…英軍艦アジアに追加配備 2023-4-18 韓国中央日報日本語版英国がアジア地域に軍艦を追加で常時配備する案を推進している。米国のインド太平洋戦略に積極的に参加し中国に対する牽制レベルを大幅に引き上げるという意味だ。 英紙タイムズは17日、英国防当局が1隻以上の31型護衛艦をインド太平洋地域に常時配備するとみられると報道した。31級護衛艦は満載排水量6600トンの次世代軽量護衛艦だ。 大型戦闘艦より小さいが建造費用が低く、対潜作戦など多様な任務に投入可能というのが長所だ。英海軍は2028年までに31型護衛艦5隻を引き渡されることになっているが、このうち2隻は2年後に運用が始まる計画だ。 英国はすでに2021年から「テイマー」「スペイ」の哨戒艦2隻をインド太平洋地域に常時配備している。配備当時F35Bステルス機などを搭載した空母「クイーン・エリザベス」と空母打撃群は南シナ海、インド、シンガポールを通り韓国と日本を訪問している。 中国の領有権紛争地域を意図的に選んで通過したのだ。これは中国牽制を骨子とする米国のインド太平洋戦略に呼応する次元だった。 今回の追加配備もやはり同じ流れと解説される。英スナク政権は今年の外交政策検討を通じロシアを現在最も深刻な脅威、中国を重大な挑戦と表現した。タイムズによると英国政府消息筋は「ウクライナで起きていることを見ればロシアが空洞化するのは時間の問題。未来はアジアにある。われわれは中国が台湾を侵攻するようなおかしなまねをできないよう太平洋に駐留しなければならない」と話した。 最近英国は米国を中心軸としてインド太平洋地域での軍事的影響力を着実に拡大している。AUKUSという安保協定を通じて米国、オーストラリアと共同戦線を形成しており、グローバル・コンバット・エア・プログラム(GCAP)と呼ばれる第6世代戦闘機の共同開発プログラムを日本とともに推進している。スナク首相は先月BBCとのインタビューで「中国の挑戦を深刻に受け止めている」として国防費増額の意向を明らかにしている。
2024.10.02
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死刑廃止派の人権感覚を疑う!どこまで加害者に寄り添うのか? ヒトの(命の重み)がわからず、被害者に寄り添えない惨状! 2024-10-1 はんぺん「ヒットラーでも死刑にしないの?」(中山千夏著)には、すごく違和感を覚えた・・・と、前に、このブログで、何回か、書いた・・・・これが、日本リベラルの(正論)のようだが・・・僕的には信じられない!!(重罪人の人権)を主張する人たちは(人権を犯された被害者たち)の事を、どう考えているのだろうか? 殺された者は、この世から消えてしまったから、その人たちの(抹殺された人権)のことなど考えなくても良いと考えているのだろうか? よく言われる・・・(被害者の身になって考えるべきだ・・・)と。リベラルに人たちは、加害者の身になって考えてばかりのような気がしてならない・・(そうではないと彼らは言いつつも・・・) 自分が被害者の身になって、考えたことがあるのか??? と。殺されたりした(命)の重さを考えてほしい・・・被害者は、死んだから、どうすることもできない・・・と言うのだろうか? それで(生きている加害者=重罪人の人権守れ)だけになってしまうのだろうか????? 教えてほしい・・・リベラルの人たちよ!!!僕は、今、75歳になろうとしている・・・この歳まで生きれた事自体、恵まれた事だと自分的には、感謝している。しかし、重罪により、命を奪われた被害者たちの事を考えると、僕だけ喜んでばかりでは、いられない・・・ 被害者たちも、もし、その事件が無ければ、75歳とは言わず、100歳まで、天寿を全うしたかもしれないのだ・・・それだけ、(罪)の重さを、リベラルの人たちは、どれだけ、理解しているのだろうか? 「分かっている」「理解している」と口先だけでは、誰でも言う事ができる。しかし、それは、行動としては、見えて来ない??? これって、(社会主義の数々の蛮行)を指摘されたら、仕方なく(分かっている)(理解している)と言いながら、行動では・・・(社会主義の洗脳が解けずに)北朝鮮・中国・ロシアなどの独裁国家群による蛮行に、見て見ぬ振りをしてきたのと、そっくりではないか??被害者に、一貫してリベラルたちは、寄り添ってこなかった・・・と、僕は、断言できる。「ヒットラーでも死刑にしないの?」(中山千夏著)って、僕的には、あり得ない!!! あの連合赤軍による(あさま山荘事件)では、犯人による銃撃で、警察官2人と民間人1人が死亡、27人が重軽傷を負った。つくられた「革命」の大義の下、奪われた多くの被害者の事を考えるのだ。彼ら赤軍派にとっては、人間の生命は、かくも軽いモノだっということだろう・・・・それが、(共産主義の天国を目指す)彼らの「革命」だった!!! そのことで、天寿を全うできなかった人間とその家族の悲嘆・・・ 如何なる情状酌量もあり得ないし、あってはならない・・・と考えるのが、正論ではないか!また、日本赤軍の最高指導者=重信房子たちが、首謀したテルアビブ空港乱射事件(計26人の民間人が殺害され、80人が重軽傷を負った無差別テロ)では、何の関係も無い多くの人間が殺された。首謀者であることが明らかな重信たちを、なぜ(死刑)にしないのか?と、僕は、このブログで、何回か、訴えてきた。下記の記事・・・・(無期懲役を狙った犯行)で、現行犯逮捕されたのは、当時22歳の小島一朗だった。「東海道新幹線のぞみの12号車で、乗客の女性2人がなたで切りつけられ、それを止めようとした兵庫県の会社員の男性(当時38歳)が首などを切られ死亡した。」(本文)「刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ」(小島の手紙)「判決に万歳三唱 ”狙った”無期懲役」(本文)「一生刑務所に入りたい」「無期懲役になりたい」 そう述べた小島に対し、横浜地裁小田原支部は2019年12月18日、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。」(本文)「報道によると、小島は判決を聞いた後、法廷で手を上げながら「ばんざーい」と3回大きな声で叫んだという。」(本文) 「現在も服役している受刑者には、あえて無期懲役を狙って事件を起こし刑務所での生活を「とても幸せ」と表現する若者や、「有期刑なら深い反省はなかった」と考えを改め仮釈放の機会を自ら放棄した者など、様々な人がいる。彼らと手紙をやり取りする中で、無期懲役という刑罰の限界が見えてきた。」(本文) 収容されている刑務所からの小島受刑者の手紙には、「下書きした跡が残る手紙には、つらつらと余生に関する投げやりな記述が続く。自身の罪を悔いたり被害者や遺族に謝罪したりするような言葉はなかった。期待通りの獄中生活は「幸せ」小島一朗は手紙で「無期なら死ぬまで国が面倒を看てくれる」と書いてきた<信じられないかもしれないが、私は今とても幸福です。こうなることは人を殺す前から分かっておりました> <日本の刑務所は素晴らしい。ここにはまだ希望がある> <仮釈放は怖い。もう二度とシャバには出たくない><死ぬまで刑務所に居てもよい無期でこそ、私と国は一つとなる。無期なら国が死ぬまで面倒を看てくれる> 死刑でも有期の懲役刑でもなく、あえて無期懲役となるように意図した小島は、手紙で「刑務所と社会はあべこべである」と日本の刑事司法の矛盾に触れている。」(本文) 死刑反対論者の多くが リベラル派で、死刑を無期刑に・・・と主張してきたが、被害者に寄り添わず、加害者に寄り添ってばかりの彼らが、(被害者の命)を軽く見ていると非難されているのが、理解できないようだ。 無期懲役囚の一人が、「無期懲役刑について、彼は「死刑よりきつい」と話す。」(本文)とあるのが、なんとも皮肉っぽい!!! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――無期懲役を狙って新幹線に乗り込んだ22歳の凶行、期待通りの獄中生活に「とても幸福」 死刑に次ぐ刑罰の意味とは 2024-9-4 弁護士ドットコムニュース「刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ」。新幹線殺傷事件を起こした無期懲役囚の小島一朗から届いた手紙にはそう書かれていた(弁護士ドットコムニュース撮影) 多くは人の命を奪う重大な事件を起こしながら、刑が確定した後は社会から忘れ去られていく無期懲役囚。期限のない刑罰によって、人間はどう変わり、どう変わらないのか。 現在も服役している受刑者には、あえて無期懲役を狙って事件を起こし刑務所での生活を「とても幸せ」と表現する若者や、「有期刑なら深い反省はなかった」と考えを改め仮釈放の機会を自ら放棄した者など、様々な人がいる。彼らと手紙をやり取りする中で、無期懲役という刑罰の限界が見えてきた。(弁護士ドットコムニュース・一宮俊介) ●判決に万歳三唱 ”狙った”無期懲役無期懲役囚の小島一朗は新幹線の車内で乗客を殺傷する事件を起こした。凶行は時速300キロ近いスピードで走行する新幹線で起きた。 2018年6月9日午後9時45分ごろ、新横浜ー小田原駅間を走行していた東海道新幹線のぞみの12号車で、乗客の女性2人がなたで切りつけられ、それを止めようとした兵庫県の会社員の男性(当時38歳)が首などを切られ死亡した。現行犯逮捕されたのは、当時22歳で住所不定の無職、小島一朗(28)。「一生刑務所に入りたい」「無期懲役になりたい」そう述べた小島に対し、横浜地裁小田原支部は2019年12月18日、求刑通り無期懲役の判決を言い渡した。報道によると、小島は判決を聞いた後、法廷で手を上げながら「ばんざーい」と3回大きな声で叫んだという。●今は寝たきり「もういつ死んでもよいや」望み通り無期懲役囚となった彼はその後、どんな受刑生活を送っているのか。今年4月、小島が収容されている刑務所に手紙を送ると、約1カ月後、計21枚の便箋が2回にわたって届いた。小島は服役してから食事を拒否したり暴れ回ったりするなど、刑務所内で度々トラブルを起こしているようだ。現在は「寝たきり」の状態で、他の受刑者と隔離された保護室に入っており、着替えや入浴、トイレなど日常生活を刑務官らの介助によって送っているという。<私はもう、あとは栄養失調で心停止、すなわち餓死するのを待つ。もういつ死んでもよいやというかんじ>下書きした跡が残る手紙には、つらつらと余生に関する投げやりな記述が続く。自身の罪を悔いたり被害者や遺族に謝罪したりするような言葉はなかった。<私は死ぬまで保護室ないしは観察室に入っているために人を殺して、刑事施設に入ったのです>●期待通りの獄中生活は「幸せ」小島一朗は手紙で「無期なら死ぬまで国が面倒を看てくれる」と書いてきた受刑者となってまだ5年にも満たないが、彼は塀の中での生活が期待していた通りであることを度々強調する。<信じられないかもしれないが、私は今とても幸福です。こうなることは人を殺す前から分かっておりました> <日本の刑務所は素晴らしい。ここにはまだ希望がある> 一方で手紙には、小島が社会にうまく適応できずに苦しんでいたと思わせる記述もあった。<刑務所は衣食住があたりまえであり、友人も仕事も娯楽も全て用意してもらえる。社会ではこれらを得るために努力しないといけないのだ。ところが刑務所は努力しなくてよい。社会にいる時にあれだけほしかった食物、どうしても得ることができなかった食べ物が、ここでは食べないと食べてください(と)お願いされる> 小島は事件を起こす前、半年にわたって野宿生活を送っていた。この「家出」中に新幹線での無差別殺人を計画したとされている。<仮釈放は怖い。もう二度とシャバには出たくない>裁判の判決では、裁判長が「刑務所での服役の日々を送らせ、受刑の現実に直面させることで、その刑責の重さに向き合わせることが相当である」と述べた。これに対し、小島は「裁判長が『受刑の現実に直面させる』と仰っていたが、さて、どうだったでしょうか」と挑発するように続ける。<死ぬまで刑務所に居てもよい無期でこそ、私と国は一つとなる。無期なら国が死ぬまで面倒を看てくれる> 死刑でも有期の懲役刑でもなく、あえて無期懲役となるように意図した小島は、手紙で「刑務所と社会はあべこべである」と日本の刑事司法の矛盾に触れている。 ●獄死を決めた無期囚 理由は「倫理の対称性」美達大和(ペンネーム)は現役の無期懲役囚として獄中から多くの著書を出している。 刑務所に入るために事件を起こす人がいる一方、事件を機に考えを改める者もいる。 美達大和(みたつ・やまと)のペンネームで多くの本を出している男性は、今もある刑務所に服役している現役の無期懲役囚だ。 美達は2件の殺人を犯した。すでに30年近く服役しているが、著書などを通して仮釈放の可能性を放棄したと公言している。 仮釈放されないことを受刑者自身が決められるのかという疑問に対して、美達は著書で、「工場に出ることを拒否し、単独での処遇を受けることによって可能」と説明している。 今年6月、美達に手紙を送ると、本名や収容されている刑務所、事件の詳細を明かさないことを条件に書面での取材に応じた。 無期懲役囚として獄死することを決断した理由について、美達は「倫理」を引き合いに次のように表現する。<反省した結果、自分にも非があり(自己の信条により他者の生命を奪う事は断じて許されないと)、相手が生き返らぬ以上、自己を殺すか、人生を捨てるとせねば倫理の対称性の点からも納得できず、出ない(社会での人生を捨てる)としました。今、生きているのは、善行も行ってから終わろうという意味で、被害者遺族の年齢を鑑み、その人の死より早く人生を終える事にしています。全く逡巡も迷いもなく、さっと決めました> ●「有期刑なら深い反省はなかった」「反省した結果、自分にも非があり、相手が生き返らぬ以上、自己を殺すか、人生を捨てるとせねば倫理の対称性の観点からも納得できず、出ないとしました」。無期懲役囚として獄死することを決めた理由を美達大和は手紙でそう説明した美達は同じ刑務所に収容されている無期懲役囚を観察する中で感じ取ったことを著書に記している。 <無期囚が仮釈放になる服役期間の三十年、三十五年という年月は、それだけを考えれば長い年月ですが、口を開けば娑婆のことばかりで、被害者と遺族について話すことはほとんどありません>では、美達自身は無期懲役に服する意味をどう考えているのか。<物事の受けとめ方につき、複眼的、多様性が加わりました。また、仮に自分が正しく、相手に非がある場合でも、「ちょっと待て。世の中にはこういう人もいるのだ。ま、いいか」となる事が増えています。 「ま、いいか」は妥協的で大嫌いな言葉・態度でしたが、今はこだわりません。有期刑なら、社会で次にどうするのか、また野心マンマンになるのは明白なので、深い反省、省察はなかったのではないか、と捉えています> 社会に戻れることが確約されていない「無期刑」だからこそ、自身が犯した罪に深く向き合えている。美達の手紙からはそんな思いを読み取ることができる。 ●性犯罪繰り返した囚人 無期刑は「死刑よりきつい」無期懲役囚は今、ほとんどが塀の外に出ることがないまま獄死している。”終身刑”化しているのが現実だが、その中で開き直る者もいる。 西日本のある刑務所で服役する男性は、これまで性犯罪を繰り返してきた。刑務所に2度入り、出所して2年後、街で偶然見かけた女性を強 姦目的で襲った上、命を奪った。無期懲役刑について、彼は「死刑よりきつい」と話す。その理由が手紙に書かれていた。 <無期囚は仮釈(放)率が少なく、刑務所内で亡くなるか、出所後2年以内に亡くなる人がほとんどだからです。特に(今いる)刑務所には、私が生まれる前からおられる方や私が来てから、中で亡くなられた方などがいるので、そう思うのかもしれません。一般的な死刑と違い、無期懲役は時間をかけて行われる死刑であり、終身刑と同じだと感じています> その上で、過去の服役とは異なる受刑生活を送っていると明かした。 <これまでは有期刑でしたので、懲罰のことを全く気にしていませんでした。今回は無期刑なので、なるべく懲罰を受けないようにしようと思っています。そのかわり、仮釈放なんてないと思っているので、所長や監査官に対し、苦情を出したり、訴訟を起こしたりしています>●無期懲役刑の意味、当事者は「効果につき疑問」記者が取材している無期懲役囚たちから送られてきた手紙の一部。解読が難しい字を書いてくる人もいれば、丁寧な字できれいに書かれたものもある無期懲役刑は日本で、死刑という極刑に次ぐ重さの刑罰だ。その意味はどこにあるのか。美達大和(ペンネーム)からはこう返信があった。<よほどの覚悟がないと仮釈放には至らぬ刑(ただし、大半の芯がない腰抜けの者にはどうってことのない)です。という刑の反面、ほとんどの者は反省より社会に出ることのみしか眼中にない刑でもあり、効果につき疑問です。現実は更生、改心より懲罰、社会の保安上、獄に入れておく刑となっていますし、それが妥当です>※この記事は弁護士ドットコムニュースとYahoo!ニュースによる共同連携企画です。////////////////////////////////////藤野 10時間前 精神科医見解とても考えさせられます。私はここ4年ほど医療刑務所で精神科医として勤務していますが、確かに全ての受刑者が罪を悔い改め償う気持ちでいるかと言われればそうではない現実があります。医療刑務所においては精神疾患や知的障害、認知症などから一般刑務所での受刑が困難である方がいるため内省を十分にできない部分もあるかと考えられますが、再犯のたびに一般刑務所より作業が単純で融通もきく医療刑務所への移送を願う受刑者もいます。世間は出所がめでたいことと考えますが、外に居場所のない受刑者たちは出所前に不安になり調子を崩します。疾患などを抱え、生活が困難な人への保障が行き届いておらず、最低限度の生活が保証されず「刑務所の方が良い」現状をなんとかせねば同じような考えに至る人はまた出るでしょう。ただ、もちろんきちんと罪を償い生きていこうと思っている方も多くいるので、一部を見て偏見を深めないで欲しいとも思います。//////////////////////////出口 9時間前 犯罪心理学者/東京未来大学こども心理学部教授無期懲役を含む長期刑の受刑者を多く収容する刑務所に勤務していました。「幸せ」かどうは別として、プリゾニゼーションという現象が起こることは事実です。プリゾニゼーションとは刑務所化という意味。刑務所内では職員の言うことに絶対に従わなければなりません。これは受刑者同士の争いをなくすために必要なことです。一方、自分で判断しなくとも職員が判断て指図してくれる生活に慣れてしまうと、自主性はなくなっていきます。これがプリゾニゼーション。ある意味、自分でものごとを決めなくてよい、他律的な生活を「楽」であると感じている者が一定数いたことは事実です。この刑務所に勤務していた際、死刑囚のカウンセリングも行っていたので、死刑囚と無期懲役受刑者の違いは肌で感じ取っていました。死刑囚は執行が今日か明日かという状況の中で日々過ごしているので、緊張感が異なります。無期懲役受刑者に対する処遇の在り方は問われ続けます。//////////////////////////////K-V.L 無期刑の者たちには極力質素にした食事と厳しい労務作業を科すべきであろう。刑務所はホテルや介護施設ではない。罪を犯したことを後悔させるような場所でなければ、意味が無い。被害を受けた人たちと同等の苦しみを与える場所にしなければならない。軽い犯罪ならまだしも、情状の酌量の余地が無い重罪人には更生する可能性がほとんどないことを前提とした処遇にし、過酷な環境下で、服役させることが必須である。////////////////////////////zcf********何故、このような考えの者を刑務官が介護せねばならないのか。受刑者の人権もあろうが、他人のそれを無視した者。相応の待遇であっていいのでは。それがいかんと言う者は、己でこのような者の介護に携わってみれば良いのでは。///////////////////////////cam*****規則正しい生活、規則正しい食事と、不便のない生活が保障されているようなものになってしまっています。現状で貧困にあえぎながら日々を送られている方々よりも恵まれている環境ともいえるかもしれません。服役刑の見直しをする必要があると思いますが、もちろん最低限の人権は保つ必要性もあるでしょう。無期懲役であっても反省や更生を求めるものであるはず。更生が見込まれない場合、その状況を含めて刑を最裁する必要もあると思います。//////////////////////////haf********刑務所の囚人に人権を持ち出すから、このような考えに至るのでは?罰なんだから、食事にもっと差をつけてもいいし、満期になったら出るのではなくて、さらにそこで審議するとかね。刑務所は人権のないところとは言わないまでも、薄いところ。もう入りたくないと思わなければ抑止力にもならない。そもそも相手の人権を無視した結果、刑務所にいるのである。他人の人権を蹂躙するとはこういうことであるということを前提にしないといけないと私は思う。///////////////////////////mic*****欧州に比べればだいぶんマシだとは思いますが、犯罪者の人権を弁護士が必死に守る我が国の制度は許し難い面もあります。本来死刑は判決が確定後半年以内に執行しなければならないとなっています。なのに数十年も経ってもまだ100人以上も執行されていない。死刑囚は懲役犯と違って労働義務もありません。本当にただ日々時間を浪費するだけ。現在の法務大臣がサインしないと執行出来ない制度を改めて、エスカレーター方式で執行していくべきだと思うね。犯罪者の権利が一般人と同じ、と言うのも一考の必要があるとは思う。「刑務所へ行きたくない」と思われなければ刑罰にならないからね。////////////////////////////baba****海外の刑務所は日本のような更生施設でなく劣悪な懲戒場です。なので受刑者も、またムショ送りはたまったもんじゃないと考えます。日本のよい所かもしれませんが、一定、刑務所はもう絶対勘弁と思われるような設計も重要かと。 後は維持費コストが嵩む懲役より、シンガポールや中東のような鞭打ち刑の導入も犯罪抑制の選択肢にはなるかと思います。////////////////////////////////pea********こういう記事を見ると、日本は本当に犯罪者に優しい国だなと痛感させられる。真面目に必死に道を外さず生きていることが馬鹿らしく思えます。 殺人や性犯罪、弱者などへの虐待を犯したものには人権など考慮すべきではないんじゃないかな。人の命や心を殺した人間が三食寝所も保証されのうのうと生きていられたら、被害者やその家族はたまったものじゃないです。//////////////////////////bun********金銭的な面から受刑者を見ると、公表はされていないが、一人当たり約4百万円以上の負担が生じている。これらは、もちろん我々の血税からである。我々は日々まっとうに暮らし、税金を納めているが、決して生活は楽ではない。一方、刑務所で何も社会に貢献せず、のうのうと生きている受刑者もいる。どうすれば良いのか自分には分からないが、心のモヤモヤ感はぬぐえない。////////////////////////////bxj********殺人を犯し無期懲役で済んでしまうのが、問題だと思います。それまで死なないように守る必要もないと思います。少なくともここ居たくはないと思えるような環境でなくては意味がないと思います。もし今よりも劣悪な環境だろうと生きていける。亡くなった被害者はどんな罪の償い方をしようが、二度と帰ってくることは無い。出会いさえしなければ今も生きていられたかも命。再び社会に戻れる可能性のある懲罰は無意味だと考えます。//////////////////////////社会から永遠に隔離され、悟りか開き直りかの様な心境となっている受刑者もいるんだろうが、反省がなければ社会復帰なんてまずあり得ず、無期懲役の意義は「有害な個人を永遠に隔離する」ことに集約されてしまうだろう。反省も贖罪もなく、檻に繋がれても「幸福」と宣う(のたまう)のでは、なんともやりきれない気持ちになる。///////////////////////////社会から永遠に隔離され、悟りか開き直りかの様な心境となっている受刑者もいるんだろうが、反省がなければ社会復帰なんてまずあり得ず、無期懲役の意義は「有害な個人を永遠に隔離する」ことに集約されてしまうだろう。反省も贖罪もなく、檻に繋がれても「幸福」と宣う(のたまう)のでは、なんともやりきれない気持ちになる。
2024.10.01
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「洗脳」とは、かくも恐ろしいモノだ! 我々は、歴史から何を学ぶのか? 2024-9-30 はんぺんこの1966~1976年の10年間の文化大革命の時代は、中国だけでなく、世界中が、大混乱の時代だった。日本では、学生運動が、ベトナム反戦、反安保で、盛り上がっていたが、社会主義の実態は、隠され続けていた。日本では、この(文化大革命)は、何か?これまでの社会主義運動とは違った、何か新しい(運動=試み)のような(言論)が、横行したのを覚えている。チェ・ゲバラや毛沢東の肖像が、先進国の反戦デモで、掲げられ、(希望の星)と夢想する知識人もいた。実態(真実)を知らされなかった我々は、もっと慎重に、思考を進めるべきだったが・・・世界中の若者たちは、熱に浮かされたように、舞い上がってしまったのだ。当時の日本では(社会主義)の(権威主義的傾向)は、スルーされ、「社会主義者でなければ、人にあらず・・・」というような風潮が、蔓延していた。僕も、その風潮の渦中にいて、きっちり(洗脳)されていったのだ。本当に(プロパガンダ)による(洗脳)は、恐ろしいと思う。そういう空気の中で、人々、特に知識人や学生たちは、流されていったのだ。毛沢東は、文化大革命の中では、(神)のような存在だった。神格化された毛沢東に、歯向かう事は、許されなかった。多くの民衆は、自分たちこそ「造反有理」の下での(正統な造反派)だと宣言しあって、造反派同士の悲惨な(殺し合い)に励んでしまった!!文化大革命の本質が、独裁政権下における、ごくありふれた権力闘争であったことは、その後、検証されてきたが、そのことで(犠牲)になった、あまりにも多くの民衆の事を考えると、全体主義の(罪深さ)に おののくばかりだ! 「毛沢東は公衆衛生政策について「書籍を読むほどに愚かになる」と主張していた。ゆえに文革中は、医療現場で専門知識が極度に軽視された。」(本文) 「多くの農民や、文革で下放された青少年らに初歩的な医療教育を施しただけで農村部の医療を担わせた「はだしの医者」計画は、その産物だ」(本文) 「当時、西側の『帝国主義』と自国の封建思想を敵視した中国では、西洋医療と伝統医療の双方が否定された。いっぽう、「革命的」な治療法として、患者のうなじに太い針を10センチも突き刺す文革式の危険な鍼灸(しんきゅう)治療「一根針(イーゲンヂェン)」が流行する。」(本文) 「独裁者の指示によって、非合理的な医療行為が横行した文革期の中国の姿は、決して過去のものではない。 近年、ゼロコロナ政策にこだわる習近平(シーチンピン)政権のもと、硬直的なロックダウンや全住民が対象のPCR検査が頻繁に繰り返され、国民の強硬な反発が起きた事件(白紙運動)は記憶に新しい。」(本文) 毛沢東の(大犯罪)の流れを継いだ、今の習近平の独裁政権は、東南アジア最大の脅威となっている。周辺国に対する威嚇と挑発は、止むことは無い。 中国広東省深圳では9月18日、日本人学校に通う10歳の日本人男児が中国人男性に刃物で刺され、死亡する事件が発生。また、23日にはロシア軍機が日本の領空を3回にわたって侵犯する事案が起き、25日には中国が大陸間弾道ミサイル(ICBM)を太平洋に向けて発射した。 国民の命と暮らしを守るための最低限の政治家の義務は、防衛能力の強化以外は、無いだろう。そのうえで! 外交努力による平和的な話し合いが、求められる。実力(軍事力)の裏付けの無い(話しあい)が、なんの効果ももたらさなかった事を、いまこそ噛み締めるべきなのだ!!野党やリベラルたちの「非武装中立」「米軍基地反対」「自衛隊反対」「防衛費増額反対」「安保反対」などで、国民を(洗脳)することは(犯罪だ)と言ってきた。 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――「はだしの医者」の過ち、今も 安田峰俊 2024-9-26 朝日新聞 近年、自国の体制を避けて日本に脱出した中国の知識人の間で、サロンの開設がブームだ。9月15日、そんな場所のひとつである東京・神保町の局外人書店で、興味深い催しに参加した。 1960年代の文化大革命中の感染症流行と、医療現場における反知性的な治療の横行についての勉強会である。発表者は中国を代表する歴史学者で、文革研究者でもある秦暉(チンフイ)氏だ。 秦氏はリベラル派の著名な知識人で、現在は東京大学客員教授として実質的な亡命生活を送る。こうした人物がわが国で暮らし、気軽に勉強会を開いている昨今の状況には驚かされる。 秦氏によると、66年から翌年にかけて、中国では「流脳(リュウナオ)」(流行性髄膜炎)のパンデミックがみられた。特に「大串聯(ダーチュアンリエン)」(革命の連帯)を合言葉に全国を移動していた紅衛兵の間で流行し、若者を中心に16・8万人が犠牲になった。本来は衛生に気をつければ予防が可能な細菌性伝染病としては、戦後の世界で最悪の被害という。 また、文革期に長江流域への下放(かほう)(知識人の地方学習)に追い立てられた北京大学や清華大学の関係者の間では、住血吸虫症が数千人規模で発生し、後遺症に苦しむ人が続出した。だが、毛沢東がこれより前に現地の疫病鎮圧を詠んだ詩を発表していたことで、被害はながらく表に出なかった。 また、毛沢東は公衆衛生政策について「書籍を読むほどに愚かになる」と主張していた。ゆえに文革中は、医療現場で専門知識が極度に軽視された。多くの農民や、文革で下放された青少年らに初歩的な医療教育を施しただけで農村部の医療を担わせた「はだしの医者」計画は、その産物だ(今回の勉強会を開いた秦氏も、若き日にこの即席農村医師となった経験を持つ)。 当時、西側の「帝国主義」と自国の封建思想を敵視した中国では、西洋医療と伝統医療の双方が否定された。いっぽう、「革命的」な治療法として、患者のうなじに太い針を10センチも突き刺す文革式の危険な鍼灸(しんきゅう)治療「一根針(イーゲンヂェン)」が流行する。 独裁者の指示によって、非合理的な医療行為が横行した文革期の中国の姿は、決して過去のものではない。近年、ゼロコロナ政策にこだわる習近平(シーチンピン)政権のもと、硬直的なロックダウンや全住民が対象のPCR検査が頻繁に繰り返され、国民の強硬な反発が起きた事件(白紙運動)は記憶に新しい。 社会がゼロコロナ政策で負った傷は尾を引き、近年の人心の荒廃や、中国経済の不振の大きな要因となった。 人々のストレスは外国に対して向く。9月18日に広東省深セン市で発生した日本人学校児童の殺害事件の本質的な背景として、中国社会の閉塞感を指摘する中国人は決してすくなくない。 もっとも、正規の医療を否定して反知性的(陰謀論的)な解決策を求める風潮自体は、近年の日本でも強まり、社会問題となって久しい。往年の文革中国の医療の悲劇は、中国にも日本にも決してひとごとではないはずだ。(やすだ・みねとし ルポライター。近著「中国ぎらいのための中国史」)
2024.09.30
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きょう 日曜日 深夜のテレビ 必見です MSBテレビ (関西地区は 4チャンネル)1:50~2:50 「北朝鮮に渡った日本人妻の悲劇」 今でも、観れます・・・・https://dizm.mbs.jp/program/eizou_series/episode/89 かつて「地上の楽園」と呼ばれた国がある。その言葉を信じ1959年から1984年の間に9万人以上の人たちが、北朝鮮に渡った。だが実際は「地上の楽園」の生活とは程遠く、食うに困る生活を強いられることに。帰国者には、およそ1800人の日本人妻がいて、大阪、八尾市に住む斉藤博子さんは「3年したら日本に帰ることができる」と説得されたそうだ。だが、困窮した自由のない生活を強いられ、6人いた子どものうち4人と夫は、餓死や病死で失うつらい経験をした。 斉藤さんたち4人は「北朝鮮に騙されて人生を狂わされた」として2018年、北朝鮮政府を相手に損害賠償を求めて裁判を起こす。東京地裁では除斥期間を理由に敗訴したが、去年に東京高裁は、出国させずに留め置いたことに関しても日本で裁判ができ時効ではないとして東京地裁に差し戻し、いまは裁判の再開を待つ日々だ。 帰国事業を巡っては当時、マスコミが好意的にとらえ、実際に訪朝団として訪れた新聞記者たちが好意的に報じたことも帰国事業をあと押ししたと指摘されている。なぜ、「国家の嘘」を見抜くことができなかったのか。当時、記者だった人たちからの証言を得て「報道の任」を再確認する。///////////////////////////////////日本のマスコミの責任は、重大だ。社会党や共産党は、加担したというものではなく、主謀者という犯罪的役割を果たしたが、未だに、彼らの真摯な反省は無い!!!! 何という事だろう・・・・
2024.09.29
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「差別」の頂点に立つのは「天皇」。差別をなくすためには(天皇制)の廃止を。そして 社会の各種不平等を無くす(人権)の取り組みを! 2024-9-28 はんぺん この福本まり子は、看護士で、入院中の患者から、結婚を申し込まれた。帰宅して、相談した両親から、自分が被差別部落民であることを初めて知らされて、驚く18歳。前年のS36年3月に、大阪、貝塚市の准看護学院を卒業し、准看護師として、そこの病院で勤務を始めるが、人間関係などの悩みが多かったという。その後、奈良県の病院に転院したが、前の病院時代の患者の一人から、求婚されていた。 父親は、奈良県五條市の共産党の市会議員。父親の勧めで、気分転換を図るためにも・・・という事で、地元の民青(民主青年同盟)に加盟して、(活動)を始める。 福本まり子は、 もう一人の幼馴染との淡い付き合いもあったというが、彼も、次第に距離を置き始める。そして、実の母親が駆け落ちして行方不明。父親の再婚・・・・うつ病を患い、精神的に追い詰められて・・・ 「 部落という言葉はたくさんです。だれも心から部落の人間の気持ちがわかるものか。『可哀そうに!!』 同情と言葉でしか現わせないんだろう。解放運動をしようとしかいえないんだろう。誰にこの気持ちがわかるものか…」 (福本まり子の日記から)///////////////////////////僕の学生時代、大学では、文科系、体育会系など、多くのサークル(クラブ、同好会など)があった。学生運動の盛んな大阪市大では、当時は、かなりのサークルは、それぞれ学生運動の各セクトが、主導して、囲い込みで、新入生などを勧誘して、(社会科学関係などの)学習をさせて、運動への関りを深めさせていく(流れ)が、あった。 部落問題研究会、社会科学研究会、文学論研究会、市大平和委員会などは、僕が関係していた民学同(民主主義学生同盟=DSL)が、 セツルメントや政治法律研究会などは、日共=民青が・・・といった具合・・・部落問題研究会は、全国的には、日本共産党が主導権を握っていて、日共系で無い(反日共系)は、全国的には、各大学、各県などは、(部落解放研究会)を名乗っていた。ただ、大阪市大では、戦後、大阪市大:部落問題研究会の中心だった活動家(日共党員)が、日共系の(全国)部落問題研究会の「方針」とは異なる考え方を 同和対策審議会答申(1965年8月11日に出された政府審議会の答申は、部落差別の解消は「国民的な課題」であり、「国の責務である」と明記)の頃から採用して、独自の運動を大阪の部落解放同盟と一緒に、研究・実践活動に取り組んできた。そして、部落解放同盟のリーダーを多く輩出してきた。それで、歴史ある(部落問題研究会)の名前を堂々とその後も、名乗ってきた経過があった。(少し前に、呼称変更をしたとかいう情報も)//////////////////////////// 自殺した福本まり子さんの父親は、皮肉なことに(差別は、無くなってきた・・・)と主張して(国民融合論)を唱えてきた日本共産党の市会議員だった・・・・部落差別は、単なる封建遺制ではなく、差別構造自体を 他の様々な差別同様に近代社会の統治者が、支配確立のために必要としてきた・・・という現実に向き合うべきだった・・・そこから(あらゆる差別)との闘いの共同作業が、提起されていく・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――"悲涛 : 差別に死の抗議した愛と悲しみの記録 福本まり子遺著"福本まり子著 集英社 出版年月 1966福本まり子という若い女性の遺稿集で「悲濤」悩み苦しんだ末に自ら命を絶った福本まり子という若い看護婦の日記や手紙などをまとめた本・・・・ なぜ彼女は自ら命を絶つにいたったか。 彼女は関西地方(奈良県だったか?)の被差別に生まれ育った「民」でした。彼女はそんな意識は全くなく、普通の明るい女の子として看護婦の道に進み、恋もして、結婚の約束をするところまで進んだのですが、突然破談になってしまいます。理由は彼女が「出身者」だからという理不尽なものでした。 悲嘆にくれた彼女は、結果的に自殺をしたのです。(京都の山中で白骨死体となって、発見された)――――――――――――――――アマゾンのカスタマーレビューから柳生聡・・・切ない…慟哭なくして読み切ることのできない遺稿著者福本まり子さんは、1963年暮に亡くなったと思われます。19歳でした。このように切なくも慟哭(どうこく)なくして読み切ることのできない遺稿を拝見したことは、かつてありません。 著者は奈良県の小都市で生まれ中学卒業後、准看護学校を経て准看護師となり懸命に生きました。しかし使命と挫折の狭間で身もだえ、真摯に生きようと葛藤したものの、自ら死に憑りつかれて逝った様子がよく伝わってきます。死に至る心の葛藤を記録したまり子さんの日記や書簡、遺書などをお父様の協力で編集し世に問うた作品です。 記録は昭和19年生まれの彼女が15歳(昭和34年)、中学を終わるころから書き起こされています。16歳、17歳、18歳、そして19歳のクリスマス直後に勤務先の病院の寮から失踪し、おそらくはその日のうちに服毒死したであろうその直前までの、彼女の血を吐くような心の叫びが綴られているのです。 まり子さんが勤務先病院の寮に遺書を残して失踪したのは、昭和38年の12月27日。1年以上行方不明のままでしたが、同じ奈良県内、生まれ故郷にある名刹の裏山で白骨化した遺体が発見されたのは、昭和40年1月のことでした。 まり子さんのお父さんは熱心に社会主義運動に取り組む共産党市議。家庭を顧みる時間もないほど社会のために奔走していたようです。そういう父の背中を見て育ったまり子さんも、「共産党の子」という冷たい視線の中で、孤独に耐えながらも父親を誇りに思っていたようすが作品中の書簡からうかがわれます。 転機となったのは、18歳の4月のこと。勤務先に入院していた元患者と恋に落ち求婚されたことで、まり子さん自身が被差別部落出身者であることを初めて父親に明かされます。その衝撃たるや、想像を超えるものだったろう。青ざめ、全人格をひっくり返され、踏みにじられるほどの苦しみもがき…。 案の定、求婚した男性は、自分はともかく姉妹が離縁されるだの結婚できなくなるだのと言い訳して手の平を返すように別れを告げました。 まり子さんには東京へ就職した幼馴染の彼がいました。日記には二人の男性との間で恋に揺れ動く乙女心がいじらしいほど綴られています。懸命に働くことで、差別ゆえの失恋から立ち直りを図ったのでしょうが、党関係者の病院に勤めていたこともあり、共産党の青年活動に心のよりどころを求めて没頭していきます。 東京の彼もそんなまり子さんと距離を置き始める。また同時期にまり子さんの実の母親が妻子ある男と駆け落ちして行方不明になります。父も再婚し、まり子さんは苦悩を抱え込んだまま相談する相手もなく、それでも家族、社会の支えになろうと懸命に生きようとする。 ご本人も書いているが、例年秋から冬にかかるころ、まり子さんはうつ病的な精神状態に支配される。自分の前向き、ひたむきにやってきたことがつまずき始めたと感じると、自分の責任だと、自身を追い込むほうへ思考の堂々巡りを始め、負のスパイラルから抜けられなくなっていったようです。 「精神病院に入るくらいなら死を選びたい」。逃げ場を失った人間の最後の心の慟哭(どうこく)でしょう。死の直前まで家族や周囲の友人・同僚を思い、細やかな心遣いを見せている彼女のいったいどこに、死神が憑りついたことを見抜ける知己がいたでしょうか。 「 部落という言葉はたくさんです。だれも心から部落の人間の気持ちがわかるものか。『可哀そうに!!』 同情と言葉でしか現わせないんだろう。解放運動をしようとしかいえないんだろう。誰にこの気持ちがわかるものか…」 (日記から) 私事ですが、私も17歳の息子を精神的ないじめで失くしました。まり子さんのように社会に貢献することもないままではあったが、追い込まれ誰にも打ち明けられぬままに、その苦しさから命を絶った我が子の心情をまり子さんの苦悩に重ねてみる。 同和問題で恋人と別れ、あるいは婚約破棄をされた知己の苦悩にもずいぶん触れてきた。みな血を吐く思いであったろう。現代の若者たちに「命を粗末にしない」という教育をする以前の、もっと大切なことがあります。 「他人に痛み、苦しみを与えない」人格へと若者たちを導くことが教育だと感じます。そしてそのことが、差別やいじめで追い詰められて自ら命を絶った人々の苦しみを慰める私たちの使命であるとあらためてかみしめました。 出版が古く手に入りにくく古書となっていますが、同和問題そして精神的ないじめ問題についても、何の解説書にもまして、核心を突いた著作でありましょう。ここに資料を提供され「遺著」として出版することに協力されたご遺族に敬意を表し、まり子さんのご冥福を祈りたいと思います。(終)
2024.09.28
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短期間で消えることはない「差別思想」。日本共産党は、間違った方針で、墓穴を掘ってしまい・・・そのツケは、大きかった 2024-9-27 はんぺん 僕が、部落問題に真剣に関心を持ち始めたのは、大学に入ってからだ。たまたま・・・本当に、たまたま 学生運動絡みで、わが大学の(部落問題研究会)から、オルグ(勧誘)された・・・それが、僕の運命にも大きな影響を与える事になっていった。その(部落問題研究会)は、大阪府下でも、部落問題への関りが突出していたことは、後で、だんだんと分かってきた・・・が、その研究会は、たまたま民学同(民主主義学生同盟)のメンバーが、主導権を握っていて、僕は、その囲い込みに合ったわけだ。 島崎藤村の「破戒」を読んだのは、いつごろだったのか(中学生?高校生?)思い出せないが、部落研に入会するまでには、読了していた。それでも、理解は不十分で、部落研では、相当に、知らなかったことを教えてもらった。 多くの結婚差別事件、就職差別事件などを具体的に知り、認識を深めていったが・・・ちょうど、1969年の3月に大阪の矢田で、(矢田教育差別事件)が起こり、目の前の(差別事件)に、驚いたモノだった。 事件は、1969年の、大阪市教職員組合の役員選挙に立候補した(日本共産党系の)教師が、労働条件の改善と同和教育の推進を対立させるような主張(選挙公約)をしたため、部落解放同盟は差別事件として糾弾したモノだった。日本共産党総体の(差別)への関りが、大きく問われる事件で、日頃から自分たちは(一貫して正しい)という(無謬性)神話の崩壊を象徴的に示したという意味では、画期的なものだったと思う。 背景には、日本共産党と部落解放同盟の対立があり、(部落差別は、社会の中で、次第になくなりつつあるので、騒ぎ立てるな)という、日本共産党の一方的な独断があった。しかし、現実には、そのころも 僕たちのまわりで(今でもだが)「差別事件」は多発していたので、(差別は無くなりつつある・・・)という主張は、明らかな間違いであった。 その結果、・・・部落解放運動における日本共産党の影響力が、その後、どんどん凋落していく・・・政党の方針の過ちにより、どんな結果を招いたか・・・を、日本共産党は、いまだに(反省)していないように見える! 皆さんは、どう思われるか? はんぺん――――――――――――――――――――――――被差別部落情報サイト運営側に記事の削除命じる決定 大阪地裁 2024年5月7日 NHK被差別部落の情報をまとめたウェブサイトに、自宅が写り込んだ写真などを投稿されたとして、大阪の70代の男性が削除を求めた仮処分の申し立てについて、大阪地方裁判所は「差別を助長するものだ」などとして、サイトの運営側に削除を命じる決定を出しました。 大阪府に住む70代の男性は、川崎市にある出版社が運営する、被差別部落の情報をまとめたウェブサイトに、自宅が写り込んだ写真や「同和事業で整備された」などと書かれた記事を投稿され「差別されない権利」を侵害されたとして、去年11月、大阪地方裁判所に記事の削除を求める仮処分を申し立てました。 これについて大阪地方裁判所の井上直哉裁判長は、7日までに決定を出し「その地域の居住者というだけで否定的な評価をするという誤った認識が、根強く残っていることなどを鑑みると、投稿された記事は差別を助長するものだ」と指摘しました。 そのうえで「地域の秩序や治安に問題があるように示しており、差別されるおそれがなく平穏な生活を送る利益を侵害するものだ」などとして、男性の申し立てを認め、サイトの運営側に記事の削除を命じました。 申し立てをした男性は、7日記者会見し「裁判所には踏み込んだ判断をしていただいた。私たちには苦しみがあり、サイトに載せているだけでも差別につながることを受け止めてほしい」と話していました。 一方、サイトを運営する出版社はホームページ上で「仮処分の命令は履行しました。記事の削除などを命じられたもので、当該地域を再び訪れることは禁止されていません」などとコメントしています。
2024.09.27
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「連合赤軍の時代」2021年 三木武司)を拾い読み 2024-9-26 はんぺん「連合赤軍の時代(2021年 三木武司)」を拾い読みしてみた・・ ・連合赤軍による(仲間殺し)事件が起きたのは1971~1972年で、1958年生まれの著者が、中学1年の頃か? 著者のスタンスは、「できる限り、事実のみをベースにして検証、考察していくこと」で、僕は納得だ。 「連合赤軍事件・・・・28歳を最年長とする20代の若者と19歳、最年少は16歳の少年によって引き起こされた」(P9)「スクラップしていたサンケイ新聞の見出しを並べてみる 「軽井沢で撃ち合い」 「山荘に逃げ込む 管理人の妻人質」「別荘地に恐怖の銃声」 「警官撃たれ2人死ぬ」「狂気の城」 「連合赤軍、仲間殺し埋める」 「裏切り者は死刑」「全裸の男女3遺体発掘」 「目をおおう現場」 「狂った惨劇」「地獄を演出した狂気の集団」 「けものじみた争い」 「遺体にすがり泣きくずれる肉親」 「連合赤軍集団虐殺 地蔵峠また4遺体」 「死臭漂う樹林の共同墓地」 「無造作荷物なみ」 等々・・・」(P9) 僕の在学していた大阪市大は、関西でも有数の学生運動の盛んなところだった。セクトは、民青系、トロツキスト系の社学同、構造改革派系の民学同や革新グループなどが、目立っていた。このトロ系の社学同(ブント)は、後に、関西ブント→赤軍派と関東ブンド(ブント主流派)に分裂する。 僕の入学当初は、まだ社学同は、三派全学連の中にいて、社学同大阪市大支部には、僕が、よく目にしたのは西浦隆男や赤木志郎たちだった。西浦隆男は、森恒夫の、1学年下。(森恒夫は、1963年に市大入学) 当時、西浦は、社学同市大支部のキャップだったようだ。1968年の中執選挙に全学区から立候補している。68年結成の第3府学連の初代委員長にも。羽田闘争や東大安田講堂の「革命ごっこ」にも参加。関西ブンドを引き連れて、何度も上京していたようだ。獄中にいたため、 7.6事件の後のブントの分裂、赤軍派結成を獄中で知る。出獄後には、1971年の赤軍派と革命左派の合同合宿(本栖湖)には、参加しており、赤軍派指導部の重要な一員だった。 しかし、赤軍派と革命左派の合同軍事訓練には、路線・方針の違いから参加しなかった・・・参加していたら・・・(仲間殺し)の加害者か犠牲者になっていたかもしれない。その後、がんを患い2014年10月4日死去。赤木志郎は、僕が、法1回生の時に、彼は、法2回生(1967年入学、一浪)。ぐうぜん1968年5月の中執選挙の学部選挙区に、お互い出馬していたので、少し意識していた。選挙期間中は、僕が、日和って不登校になっていたこともあり、顔を見ることも少なかったが、6月のアスパック反対闘争で、社学同がバリストをするなど、それまでの目立った活動もあって、キャンパス内では、顔を見る事は、よくあった。1970(昭和45)年3月31日の日航機よど号ハイジャック事件で、日本赤軍の一員として、北朝鮮に行き、そこで50年以上(足止め)され続けている。革命を叫びながら、目的地のキューバには行けず、経由地のハズだった北朝鮮の平壌(ピョンヤン)で、自由の無い囚人のような生活を送っている。自業自得の典型と言えるだろう・・・本人たちハイジャック組の夢想した「世界根拠地」は、とうとう作れなかったし、数々の空文句は、雲散霧消した・・・だけでなく、多くの民衆の不幸を生み出してしまった。これは、(革命)ではなく(犯罪)だ!!!! 西浦も赤木も、先輩の田宮や森にオルグされて、赤軍派についていった?ようで(関西ブントから赤軍派)、1969年秋の赤軍派結成の後、大阪市大の赤軍派たちは、「赤軍」のバカでかい旗をひらめかせて、たかだか15人ほどのみすぼらしい集団で、大阪市大の大学構内を「蜂起貫徹!」「戦争勝利!」のシュプレヒコールで、(異様な軍隊行進!)をしていたのを よく覚えている。 「森・永田らが、上位を維持するには、銃が必要だったと思う。常に権力というものは、そういうものが必要なのだと思う。 『総括』要求の基準というものは、何もなかった。森、永田の肚(はら)づもり一つであった。だから永田と森に逆らったら それでおしまいだ。永田をして、『女王』『絶対君主』みたいにした原因は、我々にも責任がある」(P245 連合赤軍派兵士:杉崎ミサ子:証言) 赤軍派に参加した一人に 若宮正則がいる。「1945年生まれ。1968年秋のベトナム反戦集会に参加。その後、ブントに加盟、赤軍派の結成に参加した。マルクスの本を読んだわけでもなく、赤軍派の思想も知らず、ベトナム戦争に反対する組織であれば、どこでもよかったとのことである。」(263P) 「未熟さ」を隠して、舞い上がっていた多くの(活動家?)たちが、冷静な判断ができずに、出来もしない「世界党・世界赤軍・世界プロレタリア統一戦線建設」などをブチあげて、若者たちをだまし続けた・・・その(罪)は、限りなく大きい・・・・「過渡期世界論」「前段階武装放棄」「国際根拠地論」(塩見:赤軍派議長)の妄想と暴走は、不思議なことに、先の戦争で(大きすぎる過ち)を犯した、ヒロヒト(裕仁)や戦争指導部とオーバーラップしてしまう。彼らは、高度な生産力を有するアメリカなどを相手に開戦することで、国民を惨禍に陥れた。(洗脳)によって、アメリカなんぞに負けるハズはないと妄想させたのだ。「鬼畜米英」の精神論で(神風が吹く)と必勝を約束して(洗脳)を繰り返し・・・暴走を止めなかった・・・・ この内容が「クローズアップ現代」(NHK)に放送されたのは、2022/2/24とのこと。そもそも、聞きかじりの言葉で、他人をオルグ(勧誘)するなんて、まずいだろう・・・あり得ないだろう・・・無責任だろう・・・消化しきれていない「革命」とか「社会主義・共産主義」とか・・・言葉遊びに堕していたことは、あの日本赤軍、連合赤軍兵士たち、高野悦子の本、重信房子たちの言動を見れば、明らかだ。当時の(活動家?)たちの遺した記録を見れば、いかに彼らが、背伸びしていたか・・・が、明白だ。 僕は、そんな(青2才)の犯した(過ち)には、吐き気がする思いだ。しかし、その中に、僕自身がいたことも事実だ・・・人生経験が乏しい自分たちが、天下国家を語る時に、現実から遊離して、舞い上がって、唯我独尊に陥った我々の痛恨・・・・人生総括の今、考えることが多すぎるが・・・・皆さんは、どう思われるか? はんぺん―――――――――――――――――――――――男はなぜ「あさま山荘」に立てこもったのか 元連合赤軍幹部・吉野雅邦のたどった道(ネットワーク報道部記者 杉本宙矢)公開:2022年2月24日 「クローズアップ現代」(NHK)「まーちゃん、早く出てきてちょうだい、お願いよ。こんなことしちゃって」母親は真冬の山荘に籠城する息子に対し呼びかけ続けた。かえってきたのは、むなしく響く銃声だけ。ただ、弾を放った息子は山荘内で目を潤ませていたという。 彼の名は、吉野雅邦(当時23歳)。1972年2月に起きた「あさま山荘事件」の実行犯の1人だ。なぜ吉野は、あさま山荘に籠もり、警察と、そして自らの家族とも対峙しなければならなかったのか―未公開の手記や手紙、裁判記録、そして彼を取り巻く人々の証言から、「あさま山荘事件」にいたるまでの行動と心の軌跡をたどる。 ※一部敬称略(あさま山荘)1972年2月19日、過激派組織「連合赤軍」のメンバー5人が軽井沢の「あさま山荘」に押し入り、管理人の妻を人質に立てこもった。 10日後、朝から始まった警察の制圧作戦に、犯人側もライフルや拳銃で応戦し、機動隊員2人が殉職した。午後6時過ぎ、機動隊が山荘に突入して犯人全員を逮捕し、人質を救出した。この事件の捜査の中で、連合赤軍は別の山岳アジトで仲間に対するリンチ事件をおこし、多くの人命を奪っていたことが明らかになった。事件の実行犯だった元幹部の1人・吉野雅邦は逮捕され、裁判では無期懲役の判決を受けた。 恋人とも出会い… “何不自由ない生活”がなぜ(吉野の親友・大泉康雄さん)「生育環境や人間関係を見れば、彼は恵まれていた。けれど、『幸せであることの居心地の悪さ』とでも言うんでしょうか、時代の中でそのような感覚があったようなのです」 こう語るのは、吉野の親友で小中学校の同級生だった大泉康雄さん(73)。当時から現在に至るまで、60年近く手紙のやりとりを重ね、友の姿を見てきた。出版社に勤めるかたわら、吉野の半生を記録した本を出版し、親友がなぜあの事件に突き進んだのかを知ろうとしてきた。吉野雅邦は1948年3月、裕福な家庭の次男として生まれた。父は東大法学部出身で大企業の重役。同じく大正生まれの母は、目立った反抗期もなかったという息子にたっぷりと愛情を注いだ。大泉さんによると、吉野は小中学校では“優等生”だが誰でも分け隔てなく接した。「学級委員」に選ばれクラスでの人気も高かったという。一緒に学級新聞を作り、大泉さんが編集長を担い、吉野が記事を書いていた。 成績優秀だった吉野は都立高校に進学。3年間合唱部に所属し活動に打ち込んだ。大泉さんと学校は別々になったが、一緒に旅行に出かけるなど交流は続いた。吉野は東大受験に失敗して一浪したのち、1967年に横浜国立大学に進学。大学でも混声合唱団に入部し、そこで生涯を誓い合う相手、金子みちよさんと出会う。同学年で年も同じみちよさん。合唱団の新入生歓迎コンパで出会った彼女に一目ぼれだった。 吉野が長い人生の中で最も嬉しかった瞬間は、みちよさんからのデートの誘いだったという。1年生の夏休みのデート。白い縁取りをしたレモンイエローのノースリーブのワンピースに身を包み、肩まであった髪をバッサリと切ったみちよさんの姿に目を奪われた。物怖じすることなく、自分の意見をはっきり述べる姿に魅力を感じていた。「電話でしょっちゅう『こういうアタックをした』とか話していました。“最高の女性だ”と言っていましたね。私にも紹介してくれて、一緒に話をすることもありました。そのうち結婚して幸せになるだろうと思っていましたね」 「幸せであることに居心地の悪さ」(金子みちよさんと吉野)家庭的にも経済的にも恵まれ、恋人もできた吉野。“幸せ”そのものにも見えたというが、その生い立ちにある負い目を感じていた。 彼の兄は生まれたときに脳に障害があり、知的障害者向けの施設に入所。吉野は中学生の時から大学のこの頃まで、毎週のように施設に通っていて、兄は誰よりも弟が来ると喜んだ。しかし、吉野は自分が障害なく生きていることに罪悪感を覚えていた。自己肯定感が希薄で、生き方に迷っていた。高校生の頃には夏目漱石の『こころ』に影響され、自殺を高尚なものと見なしたり、『人間魚雷回天』という映画を見て戦時中の特攻隊員の勇敢さに憧れたりした。(ベトナム戦争)・・・大学1年生の夏休みが明ける頃には状況が一変する。世界中でベトナム戦争への反戦運動の気運が高まると、学生運動は徐々にエスカレート。大学に入学した1967年、時の佐藤栄作総理大臣の南ベトナムなどへの訪問阻止を目的とした“第一次羽田闘争”が起きた。ベトナム戦争の影響で利益を得る企業に批判の声が上がると、吉野は自らの出自をも疑うようになる。 「死の商人だ」・・・・・それまで財閥系の企業の重役として働く父に誇りに感じていた思いが反転。「父に養われてきた自分は、アジアの人民の血と命を踏みにじって生きてきた存在」ではないかと自らに嫌悪感を抱くようになる。父の勤める会社を「死の商人」となじる言葉が、吉野の生きる立場を足下から揺さぶった。 (吉野が大泉さんに宛てた手紙)そんなとき、吉野は社会主義革命の思想と出会う。大泉さんに宛てた手紙には、革命思想に“目覚めた”ばかりの様子が記述されている。“もう俺の生きる道はここだと言うほどの共感を与えた。ピッタリくるという感じ。心の空洞を、なんの抵抗もなしに埋めてくれるもの。そんなふうに入り込んできた。(中略)俺の求めているものは、社会主義社会建設であり、そのための革命である” (第一次羽田闘争 1967年) 吉野は「遺書」を書いて決死の覚悟で羽田闘争に向かい、機動隊との攻防の中で頭を13針縫う重傷を負った。これ以降、吉野は当時の他の多くの学生と同様に、機動隊と衝突する闘争に加わったり、デモに参加し逮捕されたりを繰り返す。みちよさんは向こう見ずな吉野を心配しながら行動を共にする機会が増えていく。一方、別の大学に通っていた大泉さんとは、やりとりする機会は減っていた。「当時は、そんなにわからなかったのですが、後で裁判記録を読むと、こんなにまで自分を追い詰めていたのかと、ひしひしと感じましたね。今よりましな社会に変えようと、突き進んでいたのが当時の状況だったんじゃないかと」 世界を“本気で変える”はずが・・・(東大安田講堂事件 1969年)1969年に入り、全共闘などが東大安田講堂を占拠したものの、機動隊に制圧されると、学生運動は次第に衰退していく。そのころ、吉野はみちよさんとともに混声合唱団を退団。学生生活に見切りをつけ「職業革命家」の道を突き進んでいった。 後に連合赤軍となっていく「革命左派」と呼ばれる過激派組織が誕生すると、吉野とみちよさんもその下部組織に入る。2人はアパートで事実上の結婚生活を送りながら、組織の幹部・坂口弘(死刑囚)の指示の元、工場労働者として働き始めた。 誕生したばかりの革命左派は主張として「反米愛国」を掲げた。組織の“旗揚げ”を示す実力闘争を展開しようと、9月、当時の愛知揆一外務大臣が「訪ソ訪米」するのを阻止する計画を立てる。それは空港の滑走路に侵入し、火炎瓶を飛行機に向けて投げ込むというものだった。 吉野は投獄を覚悟した実力闘争の「決死隊」のメンバーに選ばれる。坂口ら数名とともに、夜のうちに海を泳いで羽田空港の滑走路に侵入。離陸しようとする飛行機の前に火炎瓶を投げ込み、約20分間離陸を遅らせた。 警察による逮捕後も吉野は取り調べに対し、完全黙秘を貫いたとして、保釈後に組織内で評価され、革命左派の党員として昇格を認められることになる。 一方、みちよさんは逮捕された吉野の救援活動に奔走させられる。実はみちよさんは、吉野がこの闘争に参加するのに反対し、こう迫っていた。「私と闘争とどっちが大切なの?」詰め寄る彼女に吉野はこう答えた。「闘争というものはどっちを選ぶというものではないと思う。もし将来、革命のために君を犠牲にしなければならないような状態に直面したら、僕は革命の方を選ぶ」こうした姿勢が後に何をもたらすのか、当時の吉野は全く予想していなかった。 逃避行から「山岳ベース」へ革命左派の活動は広く労働者に訴えるものから、次第に組織の内向きな方向へと変わっていった。 当時逮捕されていた組織の指導者を“奪還”するためには『銃の入手』が必要だと主張する指導部。下部メンバーに交番を襲撃して銃を奪うように命令するも、実行役のメンバーの1人が警察官に撃たれ死亡した。 その後、吉野も銃を入手するため、潜伏しての非合法活動を指示され、みちよさんとも離ればなれの生活を送ることになる。 1971年2月には、栃木県真岡市の銃砲店から銃を強奪し、この事件で吉野を含む革命左派の主要メンバー6人が全国に指名手配される。警察の捜査をかいくぐろうと、北海道へと逃避行が始まり、事実上、組織のトップについていた永田洋子(元死刑囚)と坂口弘は「海外亡命論」まで主張し始める。 そしてその年の5月下旬、永田は「山岳ベース」を拠点にして「銃を軸にした人民革命軍を作る」と主張し、メンバーらは奥多摩の山の中に小屋を設けた。 最初の“同志殺害”銃を入手していた革命左派の指導部は、このころ同じく武装闘争路線を掲げていた「赤軍派」と接近する。労働者を中心として女性も多く、大衆運動を行ってきた革命左派と、学生を中心として軍事的な理論と行動を重んじる赤軍派とでは、主張も組織形態も異なっていた。 しかし両派とも指導者やメンバーの多くが相次いで逮捕され、組織が弱体化する中、1971年7月、両指導部は軍事的な連携強化を確認。事実上「連合赤軍」の結成がこのとき合意された。ただ、そこにはまだ確固たる理念も、統一された軍事組織もなかった。 一方、革命左派の山岳生活では、山での暮らしについて行けずに離脱するメンバーが現れる。最高指導者として永田洋子の権威が確立される中、権力側のスパイの疑いがあるとして離脱者2名の殺害計画が指導部で提案される。この計画を伝えられた吉野は動揺を見せるも、任務として承諾して、以降は実行部隊として積極的な役割を果たしていく。 (印旛沼殺人事件の現場)「印旛沼殺人事件」と呼ばれるこの事件は、組織にとっても吉野にとっても、初めてとなる“殺人”だった。2名の同志殺害のおよそ2か月後の10月、吉野は山から親友の大泉さんにこんな手紙を送っている。組織の論理にすっかり染まっていた。“いよいよ日本の地にも本格的な遊撃戦争の時代が到来しましたネ・・・我々がかちとりつつある“鉄砲とせん滅の軍隊”人民革命軍による『銃』の遊撃戦こそが、今必要とされている緊急な重要な闘いであることを何よりよく示していると思います。人民が武装すること、このことを最もよく組織できるスローガンは『鉄砲を握れ!』であり、この『鉄砲』こそ軍隊の最も基本的な、欠かせない、最も重要な“せん滅”の武器であるからです” 「総括」の始まり2つの組織の合流は凄惨な12人の同志殺しへと発展する。山の閉ざされた空間でその事件は起きた。「総括」は当初、些細なことから始まった。 1971年12月4日、革命左派と赤軍派のメンバーは山のアジトで合流して「合同軍事訓練」として銃の射撃訓練を行っていた。そのとき革命左派のメンバーが水筒を持参していないと、赤軍派から意識の低さを指摘する声があがった。一方、革命左派の永田は赤軍派の女性メンバーが化粧をしていることや指輪をしていることについて「革命戦士としてふさわしくない」などと個人批判を行った。赤軍派の最高指導者・森恒夫(逮捕後に自殺)はこの批判を深刻に受け止め、女性メンバーの問題は赤軍派全体の問題だとして、「彼女が総括できるまで山を降ろさない。山を降りるものは殺す」と宣言。 さらに、どんな状況でも権力と闘える、強い精神力を持った真の「革命戦士」になるためには、一人ひとりのメンバーがお互いを批判し合う中で、自らの“弱さ”や過去と決別しなければならないと主張。森はこれを「主体の共産主義化」と呼んだ。 「連合赤軍」の山岳ベースでは毎晩のように会議が開かれた。その中で、メンバーは上位の指導者からの「総括要求」を受けながら、自ら“弱さ”や“問題点”を次々に告白して自己批判した。 初めて総括に暴力が登場したのは、12月26日の夜から翌朝にかけてのことだった。総括要求されていた男性メンバーが、別の女性メンバーとキスをしていたことに、永田が「新党の場を汚された」ととがめた。 しばらく批判が続いた後、森はこの男性メンバーを殴るように指示。「共産主義化を勝ち取らせるため、新しい指導として殴る」と言って、暴力を同志が総括する「援助」であると位置づけた。指導部メンバーの中でも、吉野は率先して殴打した。「まだ隠していることがあるだろう」「総括しろ!」下部メンバーも次第に同調し始めた。あわせて17人が暴行に加わる。約1時間半にわたり、70回から80回ほど顔面を殴り続け、男性メンバーの顔は2倍くらいに膨れ上がった。 (元連合赤軍兵士・岩田平治さん ) 連合赤軍の元兵士で、「総括」の場にも参加していた岩田平治さん(71)。指導部の指示のもと、他のメンバーを殴打することは必要なことだと思い込んでいたという。「『総括』は、最初はわけがわからなかったのですが、幹部が殴っているうちに、本当に自分の中にある弱さをたたき出すためには、自分も殴らなければならないと思い、かなり積極的に殴ったんですよね。吉野さんなんかは、真面目にきっちりと上からの要求に応えて率先してやっていたと思います」 暴力的総括要求は、次々と他のメンバーにも及んだ。初めての死者が出たのは12月31日。総括のきっかけは、23歳の男性メンバーが他のメンバーを殴るときに個人的な恨みで殴っていたと指摘されたことだった。他のメンバーから殴られた上、「総括する態度ではない」として縛られた。食事も水もほとんど与えられなかった。「スイトン・・・」と食事を求めた発言が不適切だとして、さらに膝蹴りを受ける。縛られたまま絶命した。 メンバーに動揺が広がる中、森は男性の死を、革命戦士になりきれなかった「敗北死」と規定した。死は本人に責任があるとする論理を強調。他のメンバーもその規定に同調した。だが、総括を求められたメンバーが「総括」をやりきったと評価されることはなく、死者は1人、また1人と増えていく。 それに正面から異を唱える者はおらず、しばらく後になるまで逃げ出す者は1人もいなかった。岩田さんは最初の一人が死亡したとき「死体を見張れ」と指示された。違和感を覚えると、指導部メンバーから「前にもこういうことがあった」と言われ、初めて印旛沼事件を知った。殺されていた同志は中高の同級生だった。 元連合赤軍兵士・岩田平治さん:「革命を信じてきて、権力を倒すためには暴力や武力も必要だと思ったことは事実ですけど、仲間を殺すのはどうなのかなと。革命は正しく、指導者は論理的に間違っていないかもしれないけど、感覚的についていけないというのが実感でした」 一時下山して、カンパ集めなどの任務を与えられた岩田さんは、再び山へ戻ることはなかった。暴力の空間から、最初に逃げ出したメンバーだった。 上意下達の組織と“中間管理職”「指導部の指示や命令は、もうこれは無条件に従うしかないという感じで、こんなことやっていていいのかなと違和感をもっていたけれど、『縛れ』と言われれば、『はい、わかりました』という感じでした。僕ら兵士は、もっぱら上意下達的な、上からの指示通りに行動することを求められていましたね」 リンチ殺人に加担し、懲役20年の刑で服役した元連合赤軍兵士の植垣康博さん(73)は当時の組織をこう振り返った。1972年1月2日、赤軍派だった植垣さんは、他のメンバーより少し遅れて山岳ベースにやってきて驚いた。目の前で “同志”が殴られ、縛られている。「総括」で、すでに3人が死亡していた。 「こんなことをやっていていいのか?」そう赤軍派側の幹部に尋ねると、「党のためだから仕方ない」と言われた。自分を納得させようとしたが、動揺は隠しきれなかったという。 赤軍派と革命左派が「連合赤軍」として合流し、共同で銃の射撃訓練をしてから1か月あまり。組織は新たな形で再編されつつあった。山に入ったメンバーは全部で29人。 植垣さんが到着したこの日、「連合赤軍」の指導部として7人の「中央委員」が選出された。 旧赤軍派の森恒夫が委員長に、旧革命左派の永田洋子が副委員長となり、この2人のトップが“独裁的な”地位を有していた。指導部の役割は、組織の方針を決めてそれ以外のメンバーである「兵士」を指示すること。上部からの命令は絶対の上意下達の組織だったという。 吉野は指導部の中に名を連ねたものの、その地位は最下位の7番目で、後の裁判では、自ら「総括」の命令を下したり、実際に方針を提起したりするほどの発言権はなかったと認定される。 「吉野は指導部の方針を、僕ら兵士に伝える存在だった。自ら考えて指導するというより、上位の指導部の指示通りに行動している人間だとみていました。会社でいうなら、中間管理職ですね。個人的な話はほとんどしませんでした」森と永田のツートップを中心に「革命戦士」を育成するとして、下部メンバーには次々と総括要求が突きつけられた。その中では、家族関係や恋愛関係にあったメンバーが自己批判させられ、関係を引き裂かれていく。 兄を殴った未成年の弟たち。妻と子供を連れて入山し、リンチにあった夫。植垣さんもまた、好意を抱いていた女性メンバーを殴るよう命令され、自身にも総括が要求されていた。個人的な感情を振り払おうと、その意を決したときには彼女はすでに凍死していた。山での10番目の死者だった。そして11人目の犠牲者となるのが、吉野の妻で当時妊娠8か月のみちよさんだった。 妻の死を容認した「心の歪み」みちよさんの総括のきっかけは、「男を利用して組織での主導権を握ろうとしている」などと、永田に因縁をつけられたことだった。その総括要求が続く中、吉野はほとんど沈黙し、積極的に止めに入ることもなく周囲に同調していた。指導部に批判的だったみちよさんに対し、森や永田の命令で暴行は次第にエスカレートした。氷点下の極寒の中、食事もろくに与えられず、放置されたみちよさんは2月4日、お腹の子とともに亡くなった。23歳の若さだった。 (吉野が刑務所の中で書いた「省察文」)吉野は後に、刑務所の中で30年以上にわたり、事件を振り返る「省察文」を書き続けているが、そこにはみちよさんに対する後悔の念が記されている。・・・・“私はこのように生きることを許されたものの中で、恐らく人間として最低、最悪の行動をとったものです(中略)自らの子供を身籠もり、八ヶ月まで育て上げてきた内妻、金子みちよを自ら死に至らしめたのです(中略)判決では、そうした一連の対応は、『もしそうしなければ、彼女とともに殺されることが確実な状況の中で、やむを得ずとった行動』として非難が回避されました。しかし私の先の行動は、そうした状況に迫られての受動的なものというよりは、みちよをかばったり同情したりしてはならない、という心の歪みでした” 組織における“個”の解体吉野を始め、「連合赤軍」のメンバーたちが陥ってきた「心の歪み」は、特殊な時代背景の中での特殊な心理だろうか。元兵士の植垣さんは若い世代から当時のことを聞かれると、こう説明する。「個を解体して、個人としての世界を解体していくのが、当時の総括要求だよね。そこに個性はないし、あってはならない。わかりやすくいうなら、“会社人間”と同じ。会社組織に忠実に行動するような個人で、人間関係や恋愛感情含めてすべてを会社に従属させることができる人間に変わっていかなければ駄目だと」 植垣さんがそう考えるようになったのは、刑務所から出た後、若い人たちが受けている学校教育や新入社員研修を見たときだったという。組織の中での人間の心理状況だけでなく、「総括」の過程で暴力が果たした役割も、現代に通じるところがあると植垣さんは自戒する。 「暴力的な総括要求を考えていくと、極めて日本的というか、“しごき”の世界がある。しごきというのは単純に暴力だけが問題ではない。暴力が持ち込まれているか否かだけではなく、しごきの思想自体に問題がある。これは今でも同じようなことが起きていると思うよ」 (あさま山荘事件 1972年)その後、メンバーの逃亡や逮捕が相次ぐ。そして 1972年2月19日、吉野を含む山に残った5人は警察に追い詰められる中、あさま山荘で管理人の妻を人質に取って立てこもることになる。 「あさま山荘事件」では、警察官と民間人あわせて3人が銃撃され死亡した。立てこもりのリーダー格だった坂口弘(75)は死刑が確定し拘置所に収容されている。幹部の坂東國男容疑者(75)は裁判の途中に、日本赤軍がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠した事件で釈放を要求し、日本政府の超法規的処置によって国外に逃亡した。いまも国際指名手配されている。 吉野は逮捕され、裁判の中で全面的に罪を認めた。裁判で死刑が求刑されたが、無期懲役が言い渡され、確定した。 あさま山荘事件から50年、吉野は今も刑務所で服役を続けている。
2024.09.26
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マスコミの戦争責任の罪深さに驚愕する! あなたたちは本当に(反省)しているのか? 「菊タブー」は、今も健在で(洗脳)は続けられている!! 2024-9-25 はんぺん戦争が始まるずっと以前から国民を煽り続けたメディアの責任が、気になっていた。本当に、彼らは、自分たちの(戦争責任)と向き合えているのか? (戦争反対)は、叫べど、戦争の最大の犯罪者=ヒロヒト(裕仁)は、特等席で、特別扱い・・・戦争犯罪を糾弾される事無く、彼はのうのうと生涯を全うした。 多くの国民の被った、むごたらしい惨状とは、あまりにも、違いすぎる・・・ここに(正義)は、あるのか? 歴史を過去から学ぶということは、戦争責任に、きっちりと向き合い、ケジメを付ける事だったが、マスコミは、忖度を積み重ね、同じ(過ち)を繰り返し続けている・・・・ 長いモノに巻かれろ・・・というわけだ。そのバックにあるものは何か?戦後マスコミでは、何度か、戦争責任の問題を取り上げようとした試みはあったが、軍部の強硬派に対する批判・反省だけは見られたが、戦犯ヒロヒト(裕仁)の戦争責任まで、至ることは、無かったのだ・・・・ 当時、軍部に迎合した・・・ある時は、軍部意向の先を忖度して、挑発的な報道を競い合った、醜い過去を我々は、知っている。 戦後マスコミは、本当に、戦争責任を自覚し、自己批判したのだろうか? 前から疑問に思っていた。 戦後の彼らは、一貫して、国体護持(天皇制存続)で、「菊タブー」を固守してきたのではないか?朝日・読売・毎日・産経・日経・東京・・・などの商業新聞は、右並びに(天皇制批判)を避け続けてきたことを 我々は知っている。 日本国憲法の最大の欠陥は、第1章「天皇」である。これは、GHQのマッカーサーが、日本占領政策で、天皇制を利用しようとした結果の産物だ。 (洗脳)されきった日本国民を懐柔し、抵抗を削ぐための、巧妙な(仕掛け)だったと思う。そもそも 君主制度は、共和制のアメリカ民主主義とは、相反するハズだった。アメリカ民主主義のプラグマティズムが、如何なく発揮された。 戦後マスコミは、リベラルポーズを取りながら、天皇制やヒロヒト(裕仁)の戦争責任に対する報道をスルーすることで、(国民洗脳)を開始した。 何という事だろう・・・ 皆さんは、どう思われるか? はんぺん ――――――――――――――――――――――じつは「大本営発表」以上に戦意旺盛だった「社説」…戦争当時、新聞は「沖縄戦」をどう報じていたか 神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家 2023-6-23 現代ビジネス太平洋戦争末期の昭和20年3月23日、南西諸島が敵機動部隊の空襲を受け、26日には米軍の一部が慶良間諸島に上陸。そして4月1日、猛烈な艦砲射撃ののち、米軍は沖縄本島南西部の嘉手納付近に上陸を開始し、民間人も巻き添えにした凄惨な戦いが始まった。あれから78年――。 テレビもインターネットもない時代、人々が戦況を知る手段は新聞とラジオだけである。ラジオのほうの音源はほとんど残っていないが、幸い、新聞は各社のものが縮刷版などとして、現代でも国立国会図書館などで読むことができる。絶望的な戦況のなか、新聞は沖縄戦をどう伝えたのだろうか。情報量が総じて他紙と比較し多かった朝日新聞の紙面を中心に振り返る。(当時の新聞記事は新仮名、新字体に直して表記する) 始まった沖縄戦「竹槍なくば唐手で」沖縄戦が始まるはるか以前から、新聞紙面の多くは戦況の記事で占められていた。朝日新聞の名物コラム「天声人語」も、昭和15(1940)年9月、「有題無題」と改題されたのに続き、昭和18(1943)年1月から20(1945)年9月までは「神風賦」に変わっている。昭和20年には用紙不足のため、新聞は1枚2面だけの簡単なつくりになり、娯楽、文化記事や広告の多くも掲載されなくなって、ほとんど戦争一色の紙面になった。沖縄戦が始まるよりも前から日本本土への空襲がはじまり、また日本の沖合いを遊弋(ゆうよく)する米艦隊への体当り攻撃(特攻)も繰り返され、紙面にはほぼ毎日、その種の記事が掲載されている。新聞だから、掲載されている記事は、前日以前の出来事についてのものである。 昭和20年3月19日の朝日新聞2面には、〈国民学校(初等)を除き 全国授業を停止 向こう一ヶ年 増産へ、防衛へ、〉の見出しで「学徒総動員」の記事が掲載された。また3月22日には、〈硫黄島遂に敵手へ 最高指揮官陣頭に 壮烈・全員総攻撃 敵の損害三万三千〉との見出しで、硫黄島失陥が、最高指揮官栗林忠道中将の最後の無電とともに報じられている。 3月28日、〈敵機動部隊の一部 慶良間列島(沖縄)上陸〉〈沖縄本島を砲爆撃 敵、更に本格的上陸を狙う〉との記事が一面トップに掲載された。いよいよ連合軍による沖縄侵攻が本格的に開始されたのだ。 29日の一面には、〈満十七、八歳召集 召集規則改正公布 区域制限を撤廃〉として、日本全国の徴兵検査未済の満17歳、18歳の少年が、防衛召集、臨戦召集の対象になったとの記事が掲載された。同日の二面には、中央省庁との打ち合わせのため上京した、沖縄県内政部庶務課長への取材記事が掲載されたが、そのタイトルは 〈合言葉は一人十殺 竹槍なくば唐手(からて)で 老幼も起つ沖縄県民〉とあり、内容も〈住居を焼かれたって、家財を失ったって、最後に勝てばいいではないか〉〈鉄砲がなければ竹槍で行こう、竹槍が折れたら唐手(空手)でいこう――この決意だ〉と. その意気はよしとしても、米軍の近代兵器を相手に竹槍や空手で戦えるとほんとうに思っていたのか、いま見れば正気の沙汰ではないような言葉が並ぶ。 また、〈街に村に義勇隊〉と題する記事には、千葉県下の飛行機会社では男は竹槍、女は薙刀の訓練に励み、伊豆下田では町長を隊長とする義勇突撃隊が、静岡県では日露戦争で戦った在郷軍人の老兵を中心に「上澤護国隊」がそれぞれ結成され、八王子では「多摩神武隊」と称する隊が結成、武道の有段者を集めて町道場で練武を始めたなど、幕末にタイムスリップしたかのような内容が記されている。大本営発表以上に戦意旺盛だった社説 そして3月31日、一面トップに〈沖縄本島に船団近接 艦砲射撃、逐日激化す〉と、沖縄本島への敵上陸が近いことをうかがわせる見出しに続き、「リスボン二十九日発同盟」として、〈英の主力艦も参加 敵側発表〉と、沖縄攻略戦にはイギリス海軍も参加しているという外電記事が掲載された。 世界中を敵に回したといっても過言ではなかったこの時期、海外からのニュースは、中立を宣言していたポルトガル・リスボン経由で同盟通信が新聞各社に配信した記事が主で、一部はスウェーデン・ストックホルムやスイス・チューリッヒからの特電、さらにグアム島の敵信傍受から入手したニュースなどに依っていた。 4月1日、沖縄本島に米軍が来襲。日本軍は、18万2千名の米上陸部隊にほとんど無傷のまま上陸を許した。米軍はその日のうちに沖縄の2ヵ所の飛行場を占領し、早くも4月3日には小型機の離着陸を始めている。米軍の上陸を、翌4月2日の新聞は、〈沖縄本島に敵上陸〉と、大見出しで報じた。 この日以降、毎日のように沖縄の地図入りで現地の戦況を伝える記事が掲載されるが、「大本営発表」の誇大な「戦果」(この日の見出しでは「更に十五隻撃沈破」)の部分をのぞけば、比較的正確に状況を伝えているようにも思える。「大本営発表」以上に戦意旺盛に見えるのが「社説」で、この日の社説では、〈周到、冷静にしてしかも果敢なる統帥、用兵をもってせば、再び水際に追い落とすことすら期待し得るであろう。いまこそ、この一戦に総てを集中すべきである〉……などと書かれている。 以下、主な見出しを列挙してみよう。4月3日(一面)〈沖縄本島に上陸の敵、兵力を増強中 撃沈破更に四十一隻〉〈本土侵攻の足場 沖縄に犇(ひしめ)く敵の戦略〉4月4日(一面)〈沖縄本島の守備部隊 果敢な邀撃戦展開 荒鷲、空母等三十一隻屠る〉〈敵、両飛行場押う〉4月5日(一面)〈敵、北谷南方に進出〉〈島袋、泡瀬の線に侵寇〉そして4月6日。前日に小磯内閣が総辞職し、鈴木貫太郎海軍大将に組閣の大命(天皇による任命)がくだったニュースが一面トップになる。鈴木総理は二面のインタビューで「この戦い必ず勝つ」「私はただ戦争あるのみ」などと激越な談話を寄せているが、これは国内の主戦派に対するいわば目くらましであり、鈴木は総理就任を引き受けたときから自分の内閣で戦争の幕を引く覚悟であったと、かつての海軍関係者、たとえば二・二六事件で鈴木貫太郎とともに叛乱軍に命を狙われた岡田啓介元総理の次男・岡田貞寛などは私に語っている。現実にいま、目の前で戦われている戦闘に気を配りながら和平を模索するというのは容易ではなく、誰にでもできることではなかったのだ。 報じられた沖縄上陸4月6日には、沖縄方面の連合軍艦船に対する航空総攻撃「菊水一号作戦」が行われ、7日には沖縄へ向かう途中の戦艦「大和」以下、巡洋艦、駆逐艦が撃沈された。そのことが新聞に報じられたのは4月9日のことである。 〈沖縄周辺の敵中へ突撃 戦艦始め空水全軍特攻隊〉〈空母等十五隻撃沈 撃破十九隻 わが方も五艦沈没〉といった見出しが並ぶ。4月8日17時の大本営発表をもとに書かれた記事だが、過大な戦果はさておき、〈戦艦はじめ空水全軍特攻隊〉の小見出しと、〈我方の損害 沈没 戦艦一隻 巡洋艦一隻 駆逐艦三隻〉と記されているのが目を引く。 じっさいに「大和」とともに沈んだのは、軽巡洋艦「矢矧」と、駆逐艦は「磯風」「濱風」「朝霜」「霞」の計4隻だから、大本営発表は駆逐艦1隻分、損失が過少になっているが、海軍はここで「戦艦一隻」の喪失を認めているのだ。 昭和20年4月9日。「我方の損害 沈没 戦艦一隻」とは、7日に米軍機に撃沈された「大和」である「大和」の存在は秘密とされ、記事にも艦名は書かれていないが、これは、海軍の関係者が見れば「大和」のことだというのが一目瞭然だった。 というのは、日本海軍の戦艦のうち、「武蔵」「陸奥」「扶桑」「山城」「金剛」「比叡」「霧島」の7隻はすでに沈み、かろうじて浮かんでいた残りの戦艦も、「長門」と「榛名」は2月20日付で警備艦に格下げされ、「伊勢」「日向」も3月1日付で呉鎮守府の予備艦(浮き砲台)に指定されていて、艦隊の戦力として残存するのは「大和」ただ1隻だったからである。 NHKで時代考証を担当するシニアディレクター・大森洋平氏によると、佐世保鎮守府で勤務していた父・大森幸男少尉(故人)が無線で一報を受けたとき、「『沈没 戦艦一』って、『大和』しかないじゃないか、『大和』がやられたのか、と、目の前が真っ暗になった」という話をしばしば聞かされたという。同じ4月9日の二面には、〈「神雷」の鉢巻の威力 額で叩割る空母 神風特攻隊沖縄へ発進〉と、やはり現代の目から見れば「鉢巻で戦うのか?」と疑問符がつくような見出しが躍っている。この見出しに続く記事には、「長官〇〇中将」(おそらく第五航空艦隊司令長官・宇垣纒中将)による、〈大激戦に選ばれ特攻隊として敵に突っ込むは諸子の本懐であろう、戦争は腕でやるものではない、十分腹に力を入れ落ち着いてやれ、楽しんでやるのだ。〉との訓示が記されているが、「楽しんでやるのだ」と聞かされた二十歳前後の若い隊員たちはどう感じただろうか。 4月10日の一面には、〈沖縄の敵反復来攻 三千六百名を殺傷〉との記事が載っている。この面にはまた、日本側索敵機が撮影した、海面を埋め尽くすかのような敵上陸部隊の写真が、5段抜き1枚、3段抜き1枚という異例の大きさで掲載された。4月6日の「菊水一号作戦」で、敵戦闘機と戦い、特攻隊の前路を切り拓く任務で鹿児島県の笠之原基地を出撃した第三五二海軍航空隊の植松眞衛大尉は、生前、私に次のように語っている。 昭和20年4月10日の一面には、日本の索敵機が撮影した沖縄の米上陸部隊の写真が大きく掲載された。 「雲の多い日でした。一面の雲海の上を高度5000メートルで飛び、沖縄上空に到達すると、中城湾に、海面を埋め尽くすほど多数の敵艦艇がひしめいているのが見えた。それまでに見たことも想像したこともないほどの数です。私は零戦12機を率いて30分間、上空警戒にあたりましたが、その間にも特攻機が敵艦に突入したと思われる黒煙が、幾筋も立ち上るのが望見されました。しかし、どう見ても味方の飛行機よりも敵艦艇のほうがはるかに多い。たとえ特攻機が全機命中しても、敵にかすり傷程度しか与えられまい、そんなことをふと考えました」 ――植松大尉が空から見て感じたように、この写真で先行きに悲観的な感想を持った読者も多かったのではないだろうか。 特攻隊を大特集4月14日には、ルーズヴェルト米大統領が12日に急死したとのニュースが、リスボン発でもたらされた。新聞には、〈戦争挑発の張本人〉とのルーズヴェルト評のほかにも、〈新大統領にトルーマン昇格〉〈米の戦意変らず〉などの記事が載っているが、じっさい、ルーズヴェルト大統領の死によって戦況が変わることはなく、それどころか後任のトルーマン大統領が日本への原爆投下を決断することになる。 昭和20年4月14日、アメリカのルーズヴェルト大統領死去が報じられた以後も沖縄の戦況については連日、報道されているが、内地への空襲が激しくなると、割かれる紙面は相対的に、4月上旬ほどには大きくなくなる。 5月に入るとイタリアのムッソリーニ元首相が殺害され、ドイツが降伏したとのニュースが入る。5月17日の一面では、〈首里北方で大激戦〉〈那覇近郊に侵入〉〈敵出血四万七千 上陸軍の半数屠る〉の見出しとともに、〈戦局楽観許さず 沖縄に敵の攻勢急調〉と、ここ数日で敵の攻勢がいよいよ激しくなったことが記されている。九州、台湾の基地を飛び立った特攻隊の戦果は連日のように報じられ、5月27、28日には米軍の制圧下にある沖縄の飛行場に強行着陸し、敵機や飛行場施設を破壊する陸軍の「義烈空挺隊」のニュースが掲載されたりもしたが、沖縄の戦況は不利になる一方だった。 〈ロケット機に乘って 敵艦船群へ体当り 本土南方沖縄周辺 神鷲三百三十二勇士〉と4段の大見出しのもと、一面の半分以上を割いて、特攻兵器「桜花」の初出撃の模様と、4月14日の第四次桜花出撃までの特攻戦死者332名の氏名が掲載された。「桜花」は、頭部に1.2トンの爆弾を搭載し、母機の一式陸上攻撃機で敵艦隊近くまで運ばれて、切り離されれば搭乗員の操縦で敵艦に体当りする、まさに人間爆弾だった。 5月30日、毎日新聞は二面の12段を費やし、「桜花」の3本の記事で大特集を組んだ。そのなかに、4月12日、米駆逐艦「マナート・L・エーブル」に命中、撃沈したとみられる土肥三郎中尉の発進の模様を、生還した母機の三浦北太郎少尉が語る記事が掲載されている。「マナート・L・エーブル」の艦体が、沖縄本島から北に140キロ、水深1380メートルの海底で発見されたニュース(2023年6月8日讀賣新聞オンラインほか)は記憶に新しい。 沖縄戦最終局面の混乱6月4日、〈那覇、首里に敵侵入〉、いよいよ沖縄戦も最終局面を迎える。この日の紙面で目を引くのは、二面下段に、日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)によるベートーヴェンのコンサートが日比谷公会堂で6月6日から5回にわたって行われ、前売り中という広告が掲載されていることだ。指揮者は尾高尚忠、現在も指揮者として活躍している尾高忠明氏の父である。プログラムは交響曲「第九」で締めくくられてられているが、3月10日、5月25日をはじめ、たび重なる空襲で焦土と化した東京で、観客はどのような思いで「歓喜の歌」を聴いたのだろうか。 6月12日の一面トップは、〈我、戦線を整理敢闘 小禄、島尻地区に勇戦〉の大見出しで、〈沖縄本島南部地区の我部隊は其の後敵に打撃を与えつつ逐次小禄及南部島尻地区に戦線を整理し優勢なる敵に対し引き続き勇戦奮闘中なり〉との大本営発表が記されている。「戦線を整理敢闘」とは聞こえはいいが、要するに島の南部に追い詰められたのである。 そんななか、当時の日本としては米軍に「一矢を報いた」記事が、6月20日に掲載される。〈沖縄の敵司令官戦死 アッツの宿敵 中将バックナー〉で、グアム島放送局によると、沖縄方面の連合軍最高指揮官である米第十軍司令官バックナー中将は、18日13時15分、日本側の砲弾により即死したとある。「アッツの宿敵」というのは、1943年、アリューシャン列島アッツ島の日本軍守備隊が、バックナーの指揮下にある第七師団の上陸により玉砕(全滅)したことを日本側も把握していたからだ。 だが、6月22日を境に、沖縄からの報告が途絶える。6月24日には〈新垣、摩文仁中心に 拠点を確保激闘 沖縄本島 皇軍血闘続く〉、25日には〈沖縄に輝く牛島部隊の偉功〉として、沖縄の第三十二軍司令官・牛島満陸軍中将とその部隊に感状が授与されたとの記事が一面を飾っているが、じっさいには6月23日未明、牛島中将は参謀長・長勇中将らとともに自決していた。 現在、この日は日本軍の組織的な戦闘が集結した日として、沖縄県が制定した「慰霊の日」とされている。海軍の最高指揮官・大田實少将は、6月6日、多田武雄海軍次官に宛て、「沖縄県民斯く戦えり。県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」との電文を打電し、6月13日、米軍に包囲され孤立した豊見城の壕内ですでに自決している。国民を煽り続けたメディアの責任6月26日の一面トップは、〈沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦敢闘三箇月〉〈二十日敵主力に対し 全員最後の攻勢 殺傷八万、撃沈破六百隻〉〈皇軍の神髄発揮 米、戦史類なき出血に呻く〉などの見出しが躍り、牛島満陸軍中将、大田實海軍少将、島田叡沖縄県知事の顔写真が並んでいる。 19日に牛島中将が訣別の打電をしたことが記され、22日以降の状況が詳らかでないことがここで初めて明かされるが、陸海軍は22日で沖縄が事実上失陥したことは把握していて、航空部隊による沖縄方面への組織的な特攻出撃は22日で終了、以後は散発的になっている。 昭和20年6月26日、〈沖縄 陸上の主力戦最終段階 軍官民一体の善戦敢闘三箇月〉とあるが、6月22日以降の状況が詳らかでないことも明かされている。牛島満陸軍中将、大田實海軍少将、島田叡沖縄県知事の顔写真が並ぶ牛島中将、長参謀長の自決が日本の新聞で報じられたのは6月30日のことで、これは沖縄を占領した敵国アメリカの、サンフランシスコ放送で報じられたニュースから得た情報だった。 牛島満陸軍中将が長勇参謀長とともに自決したことを報じる昭和20年6月30日の記事。すでに沖縄は連合軍に制圧されているため、サンフランシスコ放送からの情報である以上、昭和20年の新聞報道をもとに沖縄戦を振り返ったが、沖縄のニュース以外にも、連日のように日本のどこかの街が空襲で焼けたという記事が掲載されている。戦況としては、もはや連合軍に手も足も出ない状態だったにもかかわらず、特攻隊出撃のニュースも連日報じられている。 太平洋戦争がはじまった当時、軽巡洋艦「長良」航海長だった薗田肇大尉(当時)は、かつて私にこう語った。 「開戦の日、昭和16年12月8日の朝、艦橋に上がってきた艦長・直井俊夫大佐が、何と言われたと思いますか? 開口一番、『こんな馬鹿な戦争を始めやがって!』ですよ。相当大きな声で、艦橋には第一根拠地隊の司令官も参謀連中もいましたが、誰も異をとなえなかった。むしろ、ウチの艦長、相当な反体制派だぞ、と一同痛快に感じたものです」旧海軍の士官の多くは、アメリカ、イギリスを敵に回して日本が勝てるなどとは考えていなかった。戦前の海軍では、海軍兵学校を卒業、少尉候補生になれば、必ず練習艦隊で海外をその目で見る。日本が米英を敵に回しての戦争に勝てるはずがないことぐらい、皆がわかっていたはずである。 陸軍にも良識ある軍人はいただろう。それなのに、現実に戦争は始まった。一人一人は「勝てない」と思っていても、起きるときには起こってしまう、しかもいったん始まってしまえば、終わらせるのはさらにむずかしい。結果的に、沖縄県民や空襲被災者をふくむ多くの民間人までもが犠牲になってしまった。・・・・・なぜそんなことになったのか、戦争が始まるずっと以前から国民を煽り続けたメディアの責任も合わせて、これからもしつこく検証していく必要があるだろう。
2024.09.25
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