JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Favorite Blog

岡大の「ウユニ塩湖… New! 隠居人はせじぃさん

地元神輿の渡御、茅… New! オジン0523さん

【街路樹のなのみの… Gママさん

バイクのシートが裂… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2019.12.02
XML
カテゴリ: 海外旅行
この日はツアー7日目の10月30日(水)。
この日も早朝起床し朝食を取る。



9:45にホテルを出発し、ここブラショフの南西約33kmにある『ブラン城』の観光に
バスで出発する。
1E号線の山道を進む。
道の両脇の山の斜面には、紅葉も終わり枯れ落ちた落ち葉が敷き詰められていた。



小雨の中、車窓からの風景を楽しむ。



Poiana村を通過。
山裾には雲が低く垂れ込めて。



ルシュノヴ(Râșnov)の街中を流れるGhimbâșl川を渡る。



E574を進むと多くの羊が放牧されていた。



そしてブランの街に入ると前方に『ブラン城』が見えて来た。



ホテル「Casa din Bran」。



バスを降りブラン城に向かって歩く。
土産物屋にはドラキュラの顔とドラキュラが苦手なニンニクが。
「​ ドラキュラは何故ニンニクが嫌いなのか ​」👈リンク を参照ください。




左手にあったのがお化け屋敷(The Castle Of Horror)の建物。



こちらが入口。



そして正面に『ブラン城』。



『ブラン城』入口で添乗員アレキサンダーが入場チケットを購入するのを待つ。
手前には多くの土産物屋が両側にズラッと並んでいた。



ブラン城入場料︰ 40レウ
ルーマニアのほとんどのアトラクションと同様に、観光名所にはローシーズンとハイシーズンがある。
それに基づいて入場時間のスケジュールは異なると。

ローシーズン、10月1日から3月31日までのスケジュールは次のとおりです。

  • 月曜日: 12 PM – 4 PM
  • 火曜日から日曜日:午前9時から午後4時
  • 最終入場:午後4時

ハイシーズンでは、4月1日から9月30日までの間。

  • 月曜日: 12PM – 6 PM
  • 火曜日から日曜日:午前9時から午後6時
  • 最終入場:午後6時


ルーマニアと聞いて、多くの人がイメージするのが吸血鬼ドラキュラ。
15世紀にルーマニアの一地方であるワラキア公国を治めていた、ヴラド三世(ヴラド・ツェペシュ)を
モデルにして書かれた小説が世界的に広まり、日本でも「ルーマニア=ドラキュラ」のイメージが
定着したと。そんな吸血鬼ドラキュラのモデルとなった城が、ルーマニアに残っているこの城。
その名も『ブラン城』。
ブラン村の丘の上60mのところに建っている中世の砦である。
14世紀末にはヴラド・ツェペシュの祖父ワラキア公ヴラド1世が居城としていた。
15世紀に実在したワラキア公ブラド3世(ヴラド・ツェペシュ)、別名ヴラド串刺し公。
ドラキュラと言われた由縁は、裏切り者や当時敵対していたトルコ兵を見せしめのために
串刺しにして処刑するなど、あらゆる残酷な方法で処刑したゆえからだと言う。
ドラキュラとはルーマニア語で「悪魔」も意味している。

『TUNELUL TIMPOLUI』の文字が。『タイムトンネル』の意か。
タイムトンネルが発見されていたが、7月1日から観光客に公開されたと。
ブラン城へのアクセスを容易にするために、メアリー女王の命令で1930年に建てた。
トンネルには、城と公園を約40メートルの距離で接続するエレベーターがあったと。
このように、訪問者は、ショートカットで城に到達したい場合にこのルートを利用したのではと。
エレベータキャビンの再構築、井戸およびトンネルの修復には、ほぼ100万ユーロがかかったと。


『TUNELUL TIMPOLUI』建設の経緯も説明されていた。



タイムトンネルのあった場所。



ブラン城下の下の緑の多い公園(PARCUL CU LACURI)。



この周辺の紅葉もエピローグへ。



目の前にブラン城に登る坂道が見えて来た。



土産屋が並ぶ。



駐車場からブラン城の登り口に行くまでには、土産物屋がこれでもかというほど連なっていた。
そしてチケット売り場を過ぎると、やっと土産物屋の喧噪から逃れて、樹木に囲まれた静かな城の
雰囲気を味わうことが出来たのであった。 



石畳の坂道には、私には無縁な「濡れ落ち葉」が。



坂の途中から公園内の池を見下ろす。



自然の岩山の上に立つブラン城。
山上に聳えるブラン城は、岩と一体化したような造り。



城の前にあった十字架(クロス)。



ブラン城入口。



城内に入って最初の部屋にはブラン城の年代ごとの歴史が絵画や写真入りで。
ブラン城の歴史の始まりは、 1377 11 19 日付のハンガリー王ルイス 1 世の
「ブランの山上に要塞を築く特権をブラショフのザクセン人(ドイツ商人)に与える」という
通達書。要塞は 1438-1442 年、オスマン朝軍との攻防戦に使われた後、ワラキアと
トランシルヴァニアを結ぶ街道の税関として使われたが、ドラキュラ伯爵のモデル、ワラキア領主の
串刺し公ヴラド 3 世( 1448-1476 )との直截的関係を示す事実はないとの由。
1533 年にマジャール王からブラショフ市に所有権が移り、 18 世紀中頃まで軍事戦略拠点として
機能した。 1919 年にトランシルヴァニアがルーマニア領に組み込まれると、翌 1920
ルーマニア王国の所有となり、夏の離宮として使用された。 1948 年、共産党独裁政権が誕生し、
王族は国外に追放され、ブラン城は没収される。
民主政権確立後の 2005 年、政府から財産継承者であるルーマニア国王の子孫に
返還され、 2009 6 月から私設博物館として一般に公開されているとのこと。
オスマン帝国に対する国境を守ることの重要性に加えて、ここは税関の役割も。
トランシルバニアに出入りする商品のほとんどは、この地域を通過したと。

城に入り最初の部屋は、元警備員の部屋であると。
下の写真は歴代の城主で、左から3番目がワラキア公国のミルチャ公。
ドラキュラのモデルであるヴラド・ツェペシュ公の祖父にあたります。
左から4番目のおもしろい帽子を被っているのが、ハンガリーの王、ジギスムント。
右から3番目がドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)。



更にズームして。
右から4番目がヴラド・ツェペシュ公(ヴラド3世 1431-1476)。



ブラン城は創建は14世紀だが、1920年から1947年までは、17世紀後半からルーマニアを
統治していたハプスブルグ家の夏の離宮として使われていた。
マリー王妃(1875-1938)のお気に入りの城であったと。
1938年に末の王女イリアナ(1909-1991)が相続したが、1948年に当時の共産党政権が没収。
以降、荒廃してしまったたが、80代後半に入って修復工事が始まり、1993年にやっと部分的に
修復が完了。現在はもちろん、ルーマニアの人気の観光地の1つ。
それが、2006年5月26日、17世紀後半からルーマニアを統治していたハプスブルグ家の末裔で、
ニューヨーク在住の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルグ氏に返還されたのだと。
写真の中央には王女イリアナ(1909-1991)の姿が。
そして右端の写真は現在の所有者3名(ルーマニア国王フェルディナンド1世の孫であり
リアナ王女の長男であるニューヨーク州の建築家ドミニク・フォン・ハプスブルク
(Dominic Habsburg-Lothringen)と彼の二人の姉妹Maria-Magdalena Holzhausen、
Elisabet Sandhofer)の写真であると。持ち主3人とも現在米国在住とのこと。




木造りの天井には素朴なシャンデリアが。



城は、もともと13世紀にドイツ騎士団が、トランシルヴァニアの南東部を守るため、
木材製の国境の要塞を築いたことから始まると。14世紀には、ドイツ商人が侵入してくる
オスマン朝群をいち早く発見する目的で、石造りの要塞を築いたと。
その後、ワラキア公ヴラド1世がここを居城としたのだと。



実際にこのブラン城に住んでいたのは、ドラキュラ伝説の主人公でヴラド・ツェペシュ
(串刺し公)という別名がある15世紀に実在したワラキア公ヴラド3世ではなく、
彼の祖父ヴラド1世であると。



小さな中庭。



城内にある様々な部屋を訪ねたのであった。
城内は恐ろしい雰囲気を持つものではなく、中世の典型的な城が4階層にわたり、迷路のような
階段と廊下でたくさんの部屋が繋がっており、陶器・家具・武器・甲冑などが展示されていた。
この部屋は『マリア女王の寝室』。



鷲のマークの紋章。



こちらは王冠を被り、口に十字架を咥え、両足に武器を持つ、勇ましくも、何やら忙しい姿。
左足は、モルダビアを象徴する銀(白)のシュテファン大公の剣、右足は、ワラキアを象徴する
銀(白)のミハイ勇敢公の錫杖とのこと。



1893年にビクトリア女王の孫娘であるエディンバラのマリー王女とルーマニアの
フェルディナンド王子が結婚した後、若いカップルはすぐにルーマニアと海外で有名になった。
彼女の優しさ、慈善、そして美のためにすべてに愛された王女は、第一次世界大戦が始まった
直後の1914年に夫が王位に就いたとき、ルーマニアの女王に選ばれたのだ。
マリー王女orイレアナ王女のウェディングドレスであろうか、あるいはお洒落着か?
背後に日傘も飾ってあった。



女王マリーがかつて使用していた衣服、芸術、家具、楽器などが展示されていた。



コウモリの如き形のシャンデリア。



『マリア女王の寝室』の案内板。



女性らしい寝室の家具類。





写真中央に寝室のベッド。
ルーマニア国王フェルディナンド1世が不在の時、一人でいる時の寝室であると。



王妃も王女も美女ですから、写真の日付けが無いと、どちらかを判別するのは大変。
この写真はイレアナ王女(1909〜1991年)の方でしょうか。
第2次大戦中の1944年、アントン公と結婚していたイレアナ王女は、子供達とルーマニアの
ブラン城へ移り住み、城外のブラン村で病院を建設し働いたのだと。



右手には暖炉が。



天井のアーチ状の曲線が美しかった。



次の『ゴシックの部屋』案内板。
ゴシック形式の家具が置かれていたから付いた名であると。



ブラン城の歴史案内板。



天井のアーケードに因んで名付けられたゴシックルームは、かって要塞の礼拝堂であり、前庭に
続く聖なる場所であった。部屋の配置は台形。
ここには暖炉が設置されていた。



『Brașov市長 Lucas Hirscher、1528–1539』や14世紀の壁の案内板。



出口の横の四角い部分は、上の城の塗装を剥がした14世紀のオリジナルの壁の様子であると。
正面のドアからは3階への石の階段が始まるが、昔はドアの前に家具が置かれ、
秘密の階段になっていたのだと。



14世紀のオリジナルの壁の部分をズームで。
この部屋の壁を修理している時に秘密の通路が見つかったのだと。



『秘密の階段(Secret staircase)』案内。



王妃のガウンであろうか?



『応接室 SALA DE CONSILIU(COUNCIL CHAMBER)』



『Brașov市長 Lucas Hirscher、1528–1539』像。




                              ・・・​ もどる ​・・・


                  ・・・​ つづく ​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2019.12.03 06:21:10
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
Create a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: