JINさんの陽蜂農遠日記

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2024.03.17
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カテゴリ: JINさんの農園
第1展望台からの眺め
清流で知られ、水温は季節を問わず15℃前後。
流量も年間を通してほぼ一定を保っていると。



水が地下から湧き出しているところがハッキリ見える「​ わき間 ​」👈️リンク が湧き出る
様子は感動的!。




過去の仕事から砂濾過器の逆洗時の濾材表面の状況を想い出す。 



ズームして。



再び第1展望台から柿田川の流れを。



いつまでも見ていたい光景なのであった。



「第1展望台」。



公園案内図。
現在位置 はここ!!



再び「 火山がもたらす柿田川の湧水
約10万年前、伊豆と本州の境界付近に富士火山が誕生しました。富士火山は、約1万年前を境に
新富士火丘と古富士火山に分けられています。新富士火山がはしまったばかリの約1万年前の
噴火では、愛鷹山と箱根にはさまれた谷を大量の溶岩が流れ下り、現在地付近まて到達しました。
三島駅周辺に露出する「三島溶岩」と呼ばれるこの溶岩は、柿田川付近ではその後の土砂などに
よって地下数10mに埋もれています。
富士山の雪解け水や雨は、亀裂やすき問の多い新富士火山の溶岩や火山灰の中にしみ込み、水を
通しにくい古富土火山などの地層の上を地下水として流れ下ります。三島溶岩の中を流れてきた
地下水は、溶岩の末端に近い三島付近から柿田川にかけて豊富な水をもたらしています。」



自然石に彫られた「 柿田川公園 」。 



ここにも「 柿田川公園 案内図 」。



柿田川公園 見どころ紹介
柿田川(国指定天然記念物)
市街地のまん中で、こっ然と湧き出した水は、集まって川幅30 ~ 50メートル、延長約
1,200メートルの河川となって、伊豆天城山を源とする狩野川と合流します。
柿田川の水は、豊富な水量に加えて、水温は15℃と夏も冬もほぼ一定を保っています。
水質もきわめてよく、静岡県東部地域の飲料水・工業用水として大切な水源となっています。
水が地下から突然湧き出して、そのまま河川となっている柿田川は、その流域に豊かな
自然環境をつくり、貴重な生態系を維持しています。」
おすすめ見どころコース 」が紹介されていた。



清水町内のジオポイント



「柿田川公園建設の記
柿田川は、富士山の雪溶け水が無数の湧水群を形成し、千古の昔から・・・」



池に水や噴水はなく。



池の先に石碑が見えた。



石碑に近づいて。



柿田川讃歌」
天地のゆたけき 心ここにあり この富士の山 この柿田川 」と刻まれていた。



太古よりこの豊けさにここに湧く泉頭に今日も息呑む
若鮎とあまごの群れか影なしていま湧水の釜に近づく
水霞は見る見る消えて沈透きたる川藻さ緑になびきつつあり
日日に湧く百二十万トンこの水を護りて永久に傳へざらめや
                        利雄


作者紹介
大悟法 利雄(1898~1990)
歌人 若山牧水記念館初代館長
柿田川をこよなく愛し、その感動を
「柿田川讃歌」40首に詠んだ。」



大悟法利雄
大悟法利 雄  略歴
歌人、大分県生まれ。明治31年12月生まれ、平成2年11月没。享年91歳。
大悟法利雄氏は、大正1 1年に沼津で初めて若山牧水に出会い、以後牧水の高弟、助手として
牧水宅に同居し『創作』や『詩歌時代』の編集助手として青年期を沼津で過ごしました。
牧水没後は、『牧水全集』の編集をはじめ『若山牧水伝』『牧水新研究』等、数多くの著書を
出版して師の顕彰に努め、沼津市若山牧水記念館の初代館長に就任するなど、牧水研究家として
不減の業績を残す傍ら、自身も『翼』「伊豆』『薔薇の散歩』等の歌集12冊を発行しています。
氏は晩年、しばしば柿田川を手漕ぎの船で遡行、湧水噴出のさまをつぶさに観察し、その美しさに
感銘を受け、「人里の秘境」と称し、「柿田川讃歌」40首 (歌集『飛魚とぶ』に所収)を詠み、
人々にその素晴らしさを広めました。
大悟法利 雄  略年譜
以下 略」



柿田川讃歌抄
①太古よりこの豊けさにここに湧く泉頭(いづみがしら)にけふも息呑む
②日日に湧く百二十万トンこの水を護りて永久(とは)に伝へざらめや
③若鮎とあまごの群か影なしていま湧水の釜に近づく
④静もるやまた湧き立ちて黒々と砂の躍れるここの湧釜
⑤さ緑に白玉の小花ちりばめてしづきつつそよぐ三島梅花藻
⑥水靄は見る見る消えてしづきたる川藻さ緑に靡きつつあり
⑦川とんぼ一つ草葉に想ひたる姿にも見るこの川の味
⑧若葉のなかみなぎり走る柿田川を思ひつつ寝しゆゑの夢らし
⑨ここよりは靡き見えねどしづきつつ続く川藻のとりどりの色
⑩妻つれて必ず来むぞこの川に影映しつつ富十晴るる日に
⑪山翡翠(やませみ)を時に見るとふこの川にせめてとわれは翡翠(かはせみ)を待つ
⑫ひとすぢの雪糸引きて夏の朝の富士ま上なり柿田川の富士
⑬今朝時れし柿田川の富士見せましと起きぬけのわれを友のみちびく
⑭遂に師は知り給はざりき湧水(わきみづ)のみなぎり走るこの柿田川
⑮天地(あめつち)のゆたけき心ここにありこの富士の山この柿田川



地図の番号はそれぞれ短歌を詠んだ場所を示しています。



柿田川公園案内図



その先にあったのが 「泉頭城(いずみがしらじょう)」案内板



泉頭城
泉頭城は柿田川の水源地泉頭に築かれた戦国時代(15 ~ 16世紀)の城郭です。城或は東西400m、
南北500mあり、ニノ洞と三ノ洞に区切られた中央の本曲輪を中心に、これをとり囲んで北ノ曲輪、
東ノ曲輪、西ノ曲輪、舟付曲輪、小郭(おぐるわ)、第六天曲輪、南ノ曲輪があり、水源地の西側に
堂ノロ出丸が築かれています。それぞれの曲輪は泉ノ川と自然の深い洞、人工の空掘で防禦されて
おり、土橋と木橋で結ばれていました。
この城は戦国時代の終り頃には小田原後北条氏の持城で伊豆を守る国境の城としての役目を
はたしていました。永禄12(1569 )年後北条氏は家臣多目周防守と荒川清兵衛を城将とし、沼津
三枚橋城や清水町の戸倉城、三島の伊豆徳倉城と連絡して、甲斐武田信玄の侵攻に備えました。
天正8 (1580)年武田勝頼の攻撃には、荒川豊前守、大藤長門守、多目権兵衛を城将とし、それに
高橋、市南の足軽大将が各々百騎づゝ従えて城を守り、戸倉城とは舟で連絡していました。天正9
(1581)年戸倉城が武田軍に降参すると泉頭城のまわりの村々は武田軍の安井治太夫らの手に
よって焼き払われてしまいました。天正18 (1590)年豊臣秀吉の小田原征伐が始まると、
後北条氏は泉頭城を破壊し、城兵は韮山城と山中城へ引上げました。
元和元(1615)年徳川家康は泉頭の城跡が大変気に入り、自ら老後の憩いの場所と定め家臣土井利勝、
本多正純に、隠居御殿の城を造営することを命じましたが、翌年早々、急遽中止となり、隠居所は
駿府(静岡市)へと変更されました。
その後城域はまわりの村人によって開墾され、田や畑になりましたが、大正の頃まで城跡はよく
残っていたということです。
現在、城址の一部は柿田川公園として多くの人々に親しまれています。」



泉頭城復元見取図 」。
現在地 はここ。



泉頭城址 」と。



国道1号・三島バイパス沿いにあった「 柿田川湧水群 」案内板。



そして次に、 豆腐料理店「食事処かわせみ本館」 を訪ねた。

案内図。



食事処 かわせみ本館 」。



「高野ニ三」像



近づいて。



高野ニ三(胸像人物)
明治十六年、福井県今立町の和紙漉きの家に生まれました。製紙に適した水を求めて富士山麓を
探索し、柿田川の水が最適であると決め昭和六年当地に高野製紙所を設立しました。
現在の町営駐車場の場所に高野製紙所があり境川から水を引き柿田川に井戸を掘り、汲み上げた
水で特殊な紙(海図・壁・襖などに使う和紙)を作り、作られた和紙は施設内にある蔵に保存されて
いました。
    昭和十五年十一月ニ十日建設」



高野ニ三の母屋 」。



高野ニ三の母屋
この建物は昭和十ニ年高野ニ三がこの地に製紙会社を設立に当たり住居として建てられました。
高野ニ三の生誕地が福井県のため使われている木材はすべて福井県産を使用し職人も呼び寄せ
越前の風土に適した構造で建築されました。
一、ニ〇〇坪の庭園には茶窒も設けられています。」



柿田川豆腐館 」・「 名物 とうふアイスクリーム 」。



「とうふアイスクリーム 」。

とうふアイスクリーム」 柿田川湧水の道(静岡県三島市)

「キッチンかわせみ」。
富士山の恵みである柿田川百年水豆腐の料理が楽しめると。




「cafe lirio」案内板。



人形の猫が。



家康が求めた幻の隠居所
泉頭城址
泉頭城は、北条氏が柿田川上流部東側の自然の川を堀として利用し、築城したといわれているが、
豊臣秀吉の小田原攻めのときに廃城となった。
徳川家康は、親しみのあったこの泉頭の地を、側近の以心崇伝が記した
『本光国師日記』にも記載されているように、元和元年(1615年)の年末に隠居場所として
決定した。
しかし、家康が縄張リのためにこの地を訪問する予定まで決まっていたにもかかわらず、
翌年早々、急遽中止となり、隠居所は駿府(静岡市)へと変更された。
現在、域址の一部は柿田川公園として多くの人々に親しまれている。柿田川は、1985年
(昭和60年)に「名水百選」に選ばれ、2011年(平成23年)には「国指定天然記念物」に指定された。」



「稲荷大神」。



扁額「稲荷大神」。



社殿。



柿田川の 水汲み場



幹が黒い竹の姿 が。



黒竹(くろちく) 」であっただろうか。



「クロチクは、イネ科マダケ属の常緑タケ類。 桿の直径は2~3センチほどで、高さは
3~5メートルほどになる。 桿ははじめ緑色で、夏を過ぎるとだんだん黒くなり、2年ほどで
真っ黒になる。 60~120年周期で開花をする。 そのため滅多に見ることが出来ない。
日当りのよい乾燥地では鮮やかな黒色となる。」とウィキペディアより。



そして駐車場に戻り、再び河津桜を。



そして、この日の宿のある伊豆の国市に向かったのであった。

                             ・・・もどる・・・



                    ・・・完・・







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Last updated  2024.03.17 06:10:00
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