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ゴッホについて詳しく調べてまいりました〜しかし年表はザックリと「ゴッホの足跡」を辿りつつ作品を振り返ってみましょうフィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホVincent Willm van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ファン・ゴッホの年表と作品1853年3月30日(ゴッホ・0歳)牧師の父のもと、 オランダの北ブラバンド地方フロート・ズンテルト村に生まれる。1857年(4歳)弟:テオが生まれる。1867年(14歳)第2回『パリ万国博覧会』で日本美術が紹介され、注目を浴びる。1869年7月(16歳)伯父が設立した美術商「グービル商会」ハーグ支店に勤める。1873年6月(20歳)グービル商会のロンドン支店に転勤する。 下宿先の娘に恋するも失恋この頃から勤務態度が悪くなる。1874年(21歳)第1回『印象派展』が開催される。1875年5月(22歳)パリ本店に勤務。 聖書を熱心に研究し、また美術へふれる機会が多くなる。1876年4月1日(25歳)グービル商会を解雇され退職。 イギリスの私立学校でドイツ語とフランス語を教える。1877年5月(24歳)神学部の受験準備を始めるが、途中で挫折1878年7月(25歳)福音伝道師になるためブリュッセルで訓練を受けるが 資格をもらえず家族のいるエッテンへ戻る。 1879年1月(26歳)ポリナージュで炭鉱夫たちに伝道活動を行う。 7月 伝道委員会より伝道活動の仮免許停止を告げられる1880年冬(ゴッホ・27歳) ポリナージュからフランスのクリエールに旅行中、 画家になる決心をする7月 弟:テオからの仕送りを受けるようになる。1881年夏(28歳) 従姉で未亡人の「ケー」に恋をするも失恋 ハーグにいる従兄の画家:アントン・マウフェのもとで 絵画を学ぶ。1882年1月(29歳)マウフェとの関係が崩れる。1883年7月(30歳)テオの仕送りが遅れ、経済的に苦しくなる。1884年2月(31歳)援助の代償に、テオに作品を送り始める。1885年3月26日(32歳)脳卒中で父が死去。『じゃがいもを食べる人たち』1885年4月〜5月10月 友人とアムステルダムに3日間滞在。 会館間もない『アムステルダム国立美術館』で レンブラントなどに感銘を受ける。11月 アントウェルペンに移住。【パリ時代】1886年3月(33歳)突然パリへ向かい、テオのアパルトマンに住み始める。 画家:フェルナン・コルモンの教室で、 ロートレック、ベルナールらなどと知り合い交流を持つ。 テオを通じて『印象派』『新印象派』を知る。6月 テオとともにモンマルトルのルビック通りに引っ越す。 第8回『印象派展』が開催。 世界初となるガソリン式自動車が開発される。1887年3月〜4月(34歳)収集した浮世絵の展覧会をカフェ・ル・タンブランで開催。4月〜5月 ベルナールやシニャックらとアニエールのセーヌ河畔で 印象派、新印象派風の技法で製作する。1887年8月〜9月『2本の切ったひまわり』8月〜10月『盛りを過ぎた4本のひまわり』11月 レストラン・ドゥ・シャレで展覧会を開催。12月 パリ生活に疲れ、次第に精神に異常をきたす。1888年2月22日(35歳)アルルに到着。【アルル時代】〜3月〜4月『果樹園』の製作にとりかかる。3月『ピンクの桃の木』マウフェのかたみ3月『アルルの跳ね橋』ラングロワ橋 5月 黄色い家を借りるが、経済的な問題から、ジーヌ夫婦のカフェの2階で暮らす。6月 地中海沿岸の漁村サント・マリー・ド・ラ・メールに小旅行する。7月 ピェール・ロチの異国趣味小説「お菊さん」を読み心踊らされアルルの少女を日本人風の顔に描いた『ムスメの肖像』8月『ひまわり』9月『黄色い家』に住み始める。9月16日、17日?『夜のカフェテラス』10月 ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活を始める。11月 生涯で唯一売れた『赤い葡萄畑』を製作。12月23日 ゴーガンとの口論の末に、自身の左耳の一部を切断。病院に入り、ゴーギャンはアルルを去って、パリへ。ピエール・ロチ「お菊さん」刊行。12月『石膏像、バラと2冊の小説のある静物』1889年1月(36歳)退院して製作を開始。2月〜3月『ジョセフ・ルーランの肖像』1889年3月『子守唄(ルーラン夫人の肖像)』5バージョン1889年3月『子守唄(ルーラン夫人の肖像)』4月18日 弟:テオとヨハンナが結婚。 エッフェル塔が完成。5月8日 自らサン・レミの療養院へ入院する。5月の終わり『日が昇る壁で囲まれた麦畑』1889年6月『オリーブ園』6月『オリーブ園』6月『糸杉』6月『星月夜』7月〜9月 激しい発作を繰り返す。第5回『アンデパンダン展』に出展。8月『自画像』 9月『ファン・ゴッホの寝室』9月『自画像』10月 戸外での製作に励む。ゴーギャンらによる『印象派と総合主義展』が開催される。1890年1月(37歳)ブリュッセルで『20人展』開催。テオとヨハンナに息子が誕生。1月『初歩き(ミレーによる)』『医師ガシェの肖像』2月『アルルの女』ジヌー夫人3月 第6回『アンデパンダン展』に10点出品。4月〜5月『悲しむ老人』永遠の門5月 サン・レミの病院を出て、パリにて甥:フィンセントに初めて会う。 文芸誌「メルキュール・ド・フランス」が創刊される。5月『ピンクのバラを生けた花瓶』5月『アイリス』【オーヴェル時代】5月20日 オーヴェール・シュル・オワーズに到着。精神科医で、アマチユア画家でもあるガシェ医師の診察を受ける。5月『オーヴェールの教会』 6月8日 テオとヨハンナと子どもがオーヴェールを訪れる。「鴉のいる麦畑」7月6日 テオからの手紙でパリに出向く。テオの家でロートレックらと会う。7月27日 拳銃自殺を図る。7月28日 テオがオーヴェールへ駆けつける。7月29日 午前1時30分、息を引き取る。7月30日 オーヴェールの共同墓地に埋葬される。1891年1月 弟:テオがユトレヒト近郊の病院で亡くなる。(参考資料:東京美術・もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホにぽち
2021.01.31
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ファン・ゴッホは10年という短い画業で自画像を37点も描いたとされています。どうしてなのでしょうかゴッホが自画像を描いた理由 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent willem van gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ファン・ゴッホの画業は、10年ほどで、パリに移住して以降・・・37点の自画像を描きました。ゴッホが、自画像を多く描いた理由・・・とは?印象派や浮世絵との出会いによる意識や画風の変化以外に現実的な理由として・・・ファン・ゴッホがモデルを雇うお金がなかったこと。自画像を描くことで他人の肖像画をうまく描けるようになるための習作という理由があった。パリ移住以前の自画像が無いのは・・・像が映るほどの大きな鏡を持っていなかったとされている。【パリ時代】『パイプを加えた自画像』1886年秋ファン・ゴッホは、1886年3月にパリへやって来て半年後に描かれた自画像であるにも関わらず、オランダ時代の暗い画風で描かれています。すでに印象派の明るい色彩を知っているはずですが『自画像』1886年〜1887年1月?41.0cmx32.0cm『麦わら帽をかぶった自画像』1887年〜1888年パリ時代 油彩 カンヴァス ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。1887年〜1888年初頭の自画像は、麦わら帽子をかぶった農民のような姿で黄色を基調に明るい色で描かれています。『画家としての自画像』1887年〜1888年パリ時代 油彩 カンヴァス65.1cmx50.ocmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。イーゼル(画架)を前にして、絵筆とパレットをしっかりと持った自画像からは、画家としての自負が強く感じられる。ゴッホが、パリで最後に描いた自画像とされ、赤と緑、黄と紫、そして青とオレンジという様々な捕色の効果が、画面上に入念に配されている。南仏アルルに旅立つ直前に描かれた本作は、当時の美術界の最前線であったスーラやシニャックの点描画法を解釈したゴッホの努力が「記録」されている『灰色のフェルト帽子の自画像』1887年夏 グレーのフェルト帽の自画像パリ時代 油彩 カンヴァス44.5cmx37.2cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。(館内撮影禁止の為:近くの売店にてレプリカを撮影)点描画法よりやや長く太い筆遣いで色を塗り重ねている。パリ時代後半のゴッホは、印象派や新印象派の画家たちと関わりながら彼らが考える色彩理論を研究していたスーラの点描画法に対抗したのかゴッホ独自の線描画方を模索しているようですね。【アルル時代】『耳を切った自画像』頭に包帯をした自画像 1889年1月1888年2月22日 南仏アルルに到着。9月 黄色い家に住み始める。10月 ゴーギャンがアルルに到着。12月23日 耳切り事件で入院。1889年1月 耳に包帯を巻いた痛々しい姿でピーコートを着て背景には、浮世絵が見えます。【サン=レミ時代】『自画像』1889年8月1889年5月8日 サン=レミの療養院に自ら入院。サン=レミ=ド=プロヴァンス時代の自画像では、画家の頭部は、すべて左向きに描かれています。つまり耳切り事件で右耳を失ったからです。『自画像』1889年9月サン=レミ時代 油彩 カンヴァス65.0cmx54.2cm パリ「オルセー美術館」所蔵。ファン・ゴッホは、サン=レミの療養所での制作中は、いつもピーコート(船員用の防寒コート)を着ていたが本作では、きちんとしたスーツを着て身につけている険しい表情を浮かべたモデルは微動だにしすることなく圧倒的な存在感を放っている。その一方で、うねるような細長い筆遣いで埋め尽くされた背景は、アラベスク模様のようであり、強烈な幻覚でも見せられているかのような印象を与える。自己の内面を奔放な色彩を用いて激しく描き出したゴッホ。表現主義の先駆けとされるゆえんである。【オーヴェル時代】1890年5月20日 オーヴェル=シュル=オワーズに到着。7月?「鴉のいる麦畑」絶筆?オーヴェルの風景画を多く制作。7月27日 拳銃自殺。7月29日1:30 37歳にて死去。オーヴェル=シュル=オワーズ時代の自画像は、現存する限りでは描かれていないようです。(参考資料:朝日新聞出版、ゴッホへの招待より)(参考資料:Wikipediaさまより)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.30
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ファン・ゴッホが一番最後に描いた絶筆は、どの作品なのでしょうかね?最晩年には弟:テオとの手紙が少ないことから解明されていないことがありますゴッホの絶筆・・・とは?『雨空の干草の山』1889年10月 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没) からす『鴉の群れ飛ぶ麦畑』は、今日このタイトルで一般的に知られ、しばしばゴッホの絶筆として語られてきた作品である。しかし、画家本人がこの絵にタイトルをつけた形跡はないし、絶筆だという確実な根拠が示されたことも一度もない。にもかかわらず、この作品はなぜか「絶筆」扱いされてきた。画家の死後、20年ほど経ってから展覧会や出版物などで、「鴉の群れ飛ぶ麦畑」や「絶筆」という記述が次第に広がり始め伝記小説や映画を通じて世界中に絶筆神話は定着する。絵が描かれてから半世紀もあとのことである。この神話形成の根底にあったのは聖書の中にしばしばあらわれる麦のたとえ話であり、種まきは人の誕生、麦刈りは人の死を象徴する。『鴉の群れ飛ぶ麦畑』に描かれた「熟れた麦畑」は、キリスト教社会では「刈入れ時が近づいた」こと、つまり「死期が近づいたこと」を容易に人びとに感じさせる。不吉な黒い鳥、熟れた麦畑、荒れ模様の空、これらの組み合わせが人の死にふさわしいゆえに確かな根拠がなくてもこの絵は「絶筆」と信じられたのである。キリスト教社会が画家ファン・ゴッホの伝記を物語るにあたりその物語の「結び」にはこの絵が最も適していた。物語に「真実らしさ」を与えるため、事実は無視され、曲がられたのである。『鴉の群れ飛ぶ麦畑』1890年7月油彩 カンヴァス 50.5cmx103.0cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。1890年7月初めの手紙にこの絵についての記述らしいものがあるため制作時期は、自殺の3週間ほど前と推測できる。画家の死後間もなく開かれた展覧会では「黒い鳥のいる麦畑」というタイトルがつけられていた。ところが、1908年にドイツの画廊を巡回した展覧会のカタログでは、なぜか?「『雷雨』巨匠最後の作品」と記述され、その後、1914年にアントウェルペン(ベルギー)の展覧会に出展された時のカタログで「『鴉のいる麦畑』画家最後の作品」と記述されている。この絵を大きく特徴づけてきた2つの言葉、「鴉」と「絶筆」は、画家の死後24年も経ってから出揃ったことになる。3つに割れた道、不穏なタッチの並ぶ空と麦畑、飛ぶ鴉、その劇的な表現ゆえに絶筆神話が絡みつくことになる。『刈り取りをする人のいる麦畑』1889年サン=レミ時代 油彩 カンヴァス72.0cmx92.0cmオランダ・オッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。サン=レミの療養所で暮らし始めた当初、ゴッホには外出が許されていなかった。自室から、燦々と照る太陽のもとで、ひたすら麦を刈る労働者の姿が見える。「僕はその時、 この刈る人に、 酷暑のもと 自分の仕事をやり遂げようと 悪鬼のように闘っている人物に、 人間は刈り取られる麦のようなものだという意味で 死のイメージを見たのだ。 だからこれは、 いわば前に試みた種まく人と対をなすものだ」。ゴッホにとって「刈る人」とは・・・「自然という偉大な書物が われわれに語ってくれる死のイメージ」であった。『花咲くアーモンドの木』1890年サン=レミ時代 油彩 カンヴァス73.3cmx92.0cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。息子が生まれた弟:テオ夫婦に叔父:ゴッホがプレゼントした作品。時には、絡まりながら様々な方向に伸びたアーモンドの枝は、入念に肉付けがされている。背景の青の色合いも一様ではなく、咲き誇る花に近い部分は薄く、そして花から遠ざかるにつれて濃くなっている。浮世絵の影響を強く感じさせる作品ですが、平面的な描写に満足するだけでなく、ゴッホが様々な技法の実験を行なっていたことがわかる『星月夜の糸杉のある道』1890年サン=レミ時代 油彩 カンヴァス90.6cmx72.0cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。サンーレミの療養院を離れる直前に描かれた作品。三日月と眩いばかりの輝きを放つ星の組み合わせからは、この風景が現実のものではなく、ゴッホが想像力を働かせて描いたものであることがわかる。サン=レミ時代の作品には・・・リズミカルな筆遣いが網目のように配されており、時には、渦を巻いていることすらある。ゴッホにとって糸杉とは、プロヴァンスの象徴でありゴッホは古代エジプトのオベリスクに例えるほどその存在に心を奪われていた。『星月夜』1889年6月(サン=レミ時代)ニューヨーク「近代美術館」所蔵。サン=レミの療養院に入院したゴッホは、2度の激しい発作に見舞われながらも、病室から見える景色を描いたり、オランダ時代に学んだミレーやドラクロワの素描の模写などをして過ごしました。『星月夜』や『刈り取りをする人のいる麦畑』を描いたのもこの頃。およそ1年間の療養生活を経て、5月16日 サン=レミの療養所を出ます。パリで弟:テオとテオの妻:ヨーに初めて会いこの年の1月に生まれた同じ名前の甥:フィンセントと対面。5月20日 パリ郊外の村オーヴーェル=シュル=オワーズに到着。『花咲く栗の木』1890年3月22日〜23日オベリスクの糸杉とうねった筆遣いがいっぱい『糸杉と2人の女性』1889年6月〜1890年2月サン=レミ時代干草にカラスが飛んでいます『雨空の干草の山』1889年10月(オーヴェル時代)ラヴーの館に宿泊。同日、テオから紹介されたポール・ガシェ博士に面会しています。静かなオワーズ川沿いの町でゴッホは、製作再開。『オーヴェールの教会』や『ガシェの肖像』など、意欲的に作品を描きます。しかし・・・7月27日 村の外れの麦畑で、ゴッホは、自らの腹部めがけてピストルの引き金を引き、2日後に息を引き取ります。自らの手で、ゴッホは画家人生に幕を下ろしたのです。『プロヴァンスの干し草の山』1888年6月12日〜13日頃「アルル時代」には、カラスは飛んでいませんね(参考資料:朝日新聞出版、ゴッホへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2021.01.29
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パリ「オルセー美術館」で一段と人が集まっている作品はファン・ゴッホが最晩年に描いた「オーヴェールの教会」この深い青に惹きつけられてしまいますねオーヴェールの教会1890年5月 ファン・ゴッホは、2年余り住んだ南仏を後にし、パリ郊外のオーヴェール・シュル・オワーズに転居した。オーヴェールは、小さな町だが、かつてはバルビゾン派の画家:ドービニーも住みセザンヌが制作した場所としても知られている。ファン・ゴッホの主治医となる精神科医:ガシェ博士は・・・絵画コレクターであり、自ら絵を描くアマチュア画家でもあった。ファン・ゴッホは・・・人生最後の二ヶ月余りをここオーヴェールで過ごすことになる。7月の末、自らの腹に銃弾を打ち込み、37年の短い生涯と、10年間の短い画業を絶つことになった画家の作品は・・・残された人々の手を借りてひとり歩きを始める。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1890年6月(ファン・ゴッホ37歳)オーヴェール・シュル・オワーズには、小さいながらも教会がある。ファン・ゴッホが、教会をこれほどモニュメンタルに描いたのは、何年ぶりだろうか?パリでも、アルルでも教会をこのような描き方をしたことはないので、ニューネンの教会の廃墟で、そのはかなさを描いて以来、5年ぶりということになる。ファン・ゴッホの晩年の作品に特徴的なうねるようなタッチが、空、教会、地面と、いたるところにあらわれていて、これまでにない存在感で教会が描かれている。『オーヴェールの教会』1890年6月油彩 カンヴァス 94.0cmx74.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。「この作品は、 僕がニューネンで描いた 古い塔と墓地の習作と ほとんどそっくりな感じだが ただ、今は色がおそらく もっと表現的で豊かになっている」。ニューネンの教会・・・とは?ゴッホが描いたニューネンの荒れ果てた教会『古い教会の塔、ニューネン』農民の墓地1885年 ニューネン時代 油彩 カンヴァス 65.0cmx80.0cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。小さな木の十字架に取り囲まれた屋根の先の尖塔が取り払われた教会が、ずっしりとたたずんでいる。聖職者を目指しながらも挫折を経験したゴッホは、教会という信仰のシンボルが荒れ果てていく姿に土にまみれて土に還るという、当時の農民の宿命を重ねた。信仰は過ぎ去り、神は残る。敬愛する詩人:ヴィクトル・ユゴーを引用しながら、本作を説明する言葉は、信仰と現実の間で葛藤を重ねたゴッホならではのもの。ニューネンの教会を描いて以来、ゴッホは5年ぶりにモニュメンタルな教会を描いた。青、コバルト、ウルトラマリン、すみれ色、オレンジ、緑、そしてバラ色・・・。ゴッホが、手紙の中で本作を説明するために触れた色の種類だがこれほどまでに異なる色彩をコントロールする技術を、オーヴェール時代のゴッホは、習得していた(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(参考資料:朝日新聞出版、ゴッホへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.28
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ファン・ゴッホは、最後のテーマ糸杉に魅せられています。糸杉でひまわりのような絵を描きたいと研究しているのですが、死のイメージへと徐々に・・・星月夜と糸杉のある道南仏のユートピアが崩壊したのち、ファン・ゴッホの内面で「宗教」と「自然」の壮絶な戦いが始まる。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)アルルで、精神病の大きな発作を起こして以来、ファン・ゴッホは発作を繰り返すようになり、南仏のサン・レミにある精神病院に入院して治療することになった。病名は、わからないが、絵具を食べるようとしたり、宗教的な幻覚、幻聴も経験したという。発作の危険から、屋外で制作ができない時期もあった。自然を前に描くことを望んだファン・ゴッホも模写をしたり、想像で描いたりすることが増え、作品の様相は一変する。様式もアルル時代の原色に近い平坦な色面表現から、力強く、荒々しいタッチによる表現に変わる。『星月夜と糸杉のある道』1890年5月(サン・レミ)(プロバンスの夜道)油彩 カンヴァス 92.0cmx73.0cmオッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。ファン・ゴッホを代表し、彼の南仏滞在の最後を飾る作品のひとつである。糸杉をはさむように配された星と月、2人連れの男と彼らを乗せた馬車、これらのモティーフは、いったい何をあらわそうとしているのだろうか?この問いを解く鍵はファン・ゴッホの手紙には見られない。絵は、謎に包まれたまま一切の説明を拒み続けている。1890年の春サン=レミの病院で入院していた最後の数ヶ月間にファン・ゴッホが、描いたのは・・・オリーブの木だけではありません糸杉も・・・彼にはプロヴァンス地方を象徴する典型的なモティーフでした「僕は、今も糸杉に虜にされている」と、彼は弟:テオに手紙で伝えています。「糸杉で、ひまわりのような絵が 描けたらなぁと思っている。 僕が心に描くような糸杉がまだ 絵にできてないのは、 僕自身まったく信じられないくらいだ。 糸杉の美しい姿、 エジプトのオベリスクのように見事な均整。 あの独特な緑。 明るい日差しの中では、 黒々としているけれど、 それはかえって魅力ある音を出す 音符みたいなものだ。 これをうまく絵にするのは難しい。 これまで一番難しい。 こいつはね、青をバックにというか、 青そのものにドップリと 浸して描かなきゃいけない。 ここの自然を絵にするには、 ここに長く住まなきゃいけない。 まあ、これはどこでも同じなんだけどね。」しかしこの作品は・・・ファン・ゴッホが実際に風景を見ながら描いたものではありません。これはおそらくサン=レミの最後の記憶として、プロバンスで見た様々な風景の印象を拠り所に、一枚の絵としてまとめて構成したものです。1890年6月17日 彼はゴーギャンに手紙を書いています。「プロバンスにいた頃から考えていた 頭の上に星を掲げた糸杉を描いている、 これが最後の挑戦だ。 爪のような形のぼんやりと 輝きのない月が浮かんだ夜空(・・・) オレンジ色の灯火が窓から漏れている宿屋 それからとても背の高い糸杉、 まっすぐに伸びた真っ黒な糸杉だ。(・・・)君が望むような、 とてもロマンチックな雰囲気、 でもすごくプロバンス風だとも もくは感じている。」『刈る人のいる麦畑と太陽』1889年6月油彩 カンヴァス 72.0cmx92.0cmオッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。精神病治療のために入ったサン・レミの部屋から見た風景。ゴッホは、外出が許されていなかった。自室から燦々と照る太陽のもとで、ひたすら麦を刈る労働者の姿が見える。麦刈りは聖書にしばしば出てくる「人の死」のイメージ。ほぼ同構図で3点の油彩が知られている。ファン・ゴッホの言葉「僕はこの刈る人のなかに 炎熱のもと仕事をやり遂げようと 悪魔のように戦っている 朦朧とした人物のなかに 人間は、彼が 刈る麦みたいなものだという意味で、 死のイメージを見たのだ。 しかし、この死のなかには 何ら悲しいものはなく、 純金の光にあふれた太陽とともに 明るい光のながことがおこなわれるのだ。(・・・)これは自然という偉大な書物が われわれに語ってくれる死のイメージだが、『ほとんど微笑みながら』という姿だ」ファン・ゴッホにとって「刈る人」とは・・・?「自然という偉大な書物がわれわれに語ってくれる死のイメージ」であった。(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(参考資料:クレラー・ミュラー美術館日本語版より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.27
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ファン・ゴッホの最晩年に描かれた「悲しむ老人」は過去に描かれ再度、サン=レミで描かれたものです。美しいバラとアイリスも私は大好きな作品ですバラ・アイリス・永遠の門『悲しむ老人』永遠の門 1890年4月〜5月油彩 カンヴァス 81.0cmx65.0cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。最初期に制作したリトグラフを模写した作品。小屋の中のシンプルな家具、火が燃えているだけの暖炉、悲嘆にくれる老人というお馴染みのレパートリーをここでも見ることができる。健康に過ごせる時もあるものの、自分の発作がこれからも繰り返し起こることや画業を通してしか慰めが得られないことをゴッホは、悟り始めていた。そのことをこの絵は、どの作品よりも強く物語る。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1890年サン=レミ時代(ゴッホ=最晩年37歳)『アイリス』1890年油彩・カンヴァス 92.7cmx73.9cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。アイリスの青と、背景の黄色の対照が鮮やかです。「花束とその周囲のものは 比較にならないほど激しい 補色の効果を持っており、 その対照の激しさで 互いに強めあっている」というゴッホの言葉からは、色彩の効果を劇的に高めることを望んだその姿勢が窺える。しなだれたアイリスの花びらの一群をよく見ると、花びらの輪郭の上から、ゴッホが、地の黄色を塗り重ねている箇所があることがわかる。アイリスは、2点描かれました。『アイリス』1890年5月油彩・カンヴァス 73.7cmx92.1cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。メトロポリタン美術館のアイリスの背景は・・・白に見えますが、ゴッホはピンク色に塗っています。絵の具の質が悪いことで色が褪せたと思われます。同じ展示室にあるバラの花びらも元々はピンク色だったのです。静物『ピンクのバラを生けた花瓶』1890年5月油彩 カンヴァス 92.6cmx73.7cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。ゴッホにとって花は・・・生を肯定する喜びに満ちたものだった。花々は「にぎやかに」咲き乱れ、自らを「絶えず更新」していた。おびただしい数の白いバラが緑の背景に映える本作には、4点の静物画の連作・・・2点のアイリスと2点のバラの絵・・・の1つで、1890年にサン・レミの療養院を退院する直前に仕上がった作品である。この絵の本来の姿は、今とは全く異なっていたことが近年判明した。元の知色は、蘇芳色だったが、徐々に退色して、今日ではかつての輝くような色彩の名残りを留めるのみである。この責任の一端はタンギー爺さんが扱う絵具の質や値段についての不満が長々と綴られているからだ。(参考資料:マイケル・ハワード著、VAN GOGHより)(参考資料:朝日新聞出版ゴッホへの招待)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.26
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ファン・ゴッホが一番情熱を感じるのは肖像画であると晩年の手紙に記しています。その情熱の成果とは・・・ゴッホが描いた友人の肖像画『アルルの女(ジヌー夫人、手袋と傘)』1888年油彩 カンヴァス アルル時代 92.5cmx73.5cmパリ「オルセー美術館」所蔵。アルル時代にゴッホが通ったカフェ「カフェ・ド・ラ・ガール」のオーナージョセフ・ミシェルジヌーの妻:マリー・ジヌー(1848年6月8日〜1911年8月2日)を描いた複数の作品の中で第1バージョンである。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ファン・ゴッホは・・・「最も情熱を感じるのは肖像画だ」とその晩年の手紙に記し、『医師ガシェの肖像』に関して「僕は、1世紀の人々に幻影のように見える肖像画を描きたい」と述べている。『アルルの女(ジヌー夫人)』は・・・『アルルの女』ジヌー夫人 1890年油彩 カンヴァス 65.0cmx49.0cmオッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。ゴーギャンのデッサンをもとに描いた油彩画で、『カフェ』原画のデッサンにはない2冊の本、ディゲンズのクリスマスの物語とビーチャー・ストウの「アンクル・トムの小屋」を描き込んだ。ガシェ家に伝わるパレットは、ファン・ゴッホが『ピアノを弾くマグリート・ガシェ』を描いた時に使ったものと言われている。ガシェ・・・と言えば、『医師ガシェの肖像』1890年油彩・カンヴァス 68.0cmx57.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。ゴッホは、謎めいたガシェ医師・・・ゴッホ自身と同様に鬱症状に悩まされる人物・・・と親しくなり、心臓を患うガシェ医師が他人を癒すことを仕事としているのに自分を癒すことのできないというアイロニーに驚きを覚える。画中で医師が手に持つジギタリスは古くから心疾患の治療に使われてきた。医師のポーズや眉間のしわ、構図を占める青い色彩にガシェのメランコリーが現れている。絵の陰鬱なムードを高める壁紙には一筋の波打つようなラインが横に走り、周囲に波及する医師の病いの本質を示している。『ピアノを弾くマルグリット・ガシェ』1890年6月油彩・カンヴァス 102.5cmx50.0cmスイス「バーゼル美術館」所蔵。おそらくトゥルーズ=ロートレックの絵が着想源となった作品。縦長のカンヴァスには、1890年代がアール・ヌーヴォーの時代だったことを思わせる。ピアノを弾くガシェ医師の娘を描くことで、ゴッホは、カンヴァスを目で楽しむ音楽に見立てているのだろう本作は、対象を描写することを意図した絵ではなく、見る者の感情を刺激することを目的とした絵画である。赤い地色に緑の力強い短棒タッチを散りばめた床は、補色同士が反転して、緑の地色に赤い水玉模様の入った背景となり、ピアノの角張った形がマルグリット・ガシェ自身の流れるようなフォルムと対照を成している。『アルルの女(ジヌー夫人)』1888年又は1889年油彩 目の粗いジュート布アルル時代 91.4cmx73.7cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。ゴッホが足しげく通ったアルルのカフェラマルティーヌ広場の「カフェ・ド・ラ・ガール」の女主人マリー・ジヌー。黒く長い髪を伸ばした彼女は、地元の衣装を身につけており、ゴッホとゴーギャンは、彼女を伝統的な「アルルの女性」とみなしていた。色彩と輪郭の独特な表現よりもむしろジヌーの温かみのある表情が印象的である。ゴッホの没後、1895年に画商:ヴォラールの手にわたるまで、ジヌーは、ゴッホからプレゼントされたこの作品を手元に置いていたお気に入りです『恋する人(ミリエ少尉の肖像』1888年アルル時代 油彩 カンヴァス 60,3cmx49.5cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。フランス軍のアルジェリア人を中心に構成された歩兵隊いわゆる「ズアーヴ兵」の少尉だったミリエは、フランス領インドシナへの派遣の後に、アルルの兵舎に入った。絵を嗜んだ少尉とゴッホは、共に飲み明かす中でもあった。女性に奥手であったゴッホは、愛らしくも時には、羽目を外しがちなミリエを気に入っていた。ゴッホが「恋人の典型」としてミリエを描き出したのが本作であり、右上に描かれた星と月は、ミリエの部隊の紋章である。(参考資料:小学館、100%FanGoghより)(参考資料:朝日新聞出版ゴッホへの招待より)(参考資料:マイケル・ハワード著、VAN GOGHより)(写真撮影:ほしのきらり。)世界遺産にぽち
2021.01.25
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ファン・ゴッホの作品で一番ロマンティックな星空です。黄色と青の組み合わせは、ゴッホが好んだ色の対象効果ですローヌ川の星月夜『ローヌ川の星月夜』 1888年9月 アルル時代 油彩 カンヴァス73.0cmx92.0cmフィンセント・ファン・ゴッホ(35歳時の作品)パリ「オルセー美術館」所蔵。真っ暗な夜空に・・・おおぐま座北斗七星の星々が放射線状に輝きを放っているローヌ河畔は・・・人口の灯りで溢れており、暗闇のなかの川面を背景として、その反映を表す黄色がとりわけ際立っている散歩する2人の恋人たちが歩く地面の緑まで見える豊かな色彩のグラデーション。夜の星々の輝きはゴッホが好んだ青と黄の対照の効果を確かめるのに、うってつけだった。夜空にきらめく星の中心の明るい部分には、ゴッホがチューブから絵の具を直接絞り出して加えたものもある フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ファン・ゴッホは自ら、伝統的な絵画教育を受けなかったのですが、誰よりも色彩理論を究めようとした画家でしたそのためゴッホは、色の組み合わせを検討する道具まで発明しています。赤い朱塗りの道具箱で、16個の毛糸と、束ねていない数本の毛糸が入っています。とてもカラフルな毛糸玉ですゴッホは、これらを並べたり、別の色の毛糸を巻いたりして、色の組み合わせによる効果を研究したのです。そう〜感覚的にカンヴァスに塗ったのではないのですねこの方法は、参考になりますね。「宗教とでもいうべきものが どうしても必要になると、 僕は外に出て星を描く」と、ゴッホは記している。こうした絵画は、夜空の自然現象を示しているという最近の調査結果もあるが、どの芸術家もそうであるようにゴッホ自らの体感を再構築して力強い絵画的メッセージを生み出してきた。この時期の絵画の多くには真筆でひたむきな雰囲気が漂っている。『ジーヌ夫人』1888年〜1889年アルル時代 油彩 カンヴァス91.4cmx73.7cm「ニューヨーク・メトロポリタン美術館」所蔵。ファン・ゴッホが、足繁く通ったアルルのカフェ、ラマルティーヌ広場の「カフェ・ド・ラ・ガール」の女主人マリー・ジーヌ、黒く長い髪を伸ばした彼女は、地元の衣装を身につけており、ゴッホとゴーギャンは、彼女を伝統的な「アルルの女性」とみなしていた。色彩と輪郭の独自な表現が印象的ゴッホの没後、1895年に画商:ヴォラールの手に渡るまで、ジーヌは、ゴッホからプレゼントされた本作を手元に置いていた。(参考資料:朝日新聞出版ゴッホへの招待P .57より)(写真撮影:ほしのきらり。)星月夜にぽち
2021.01.24
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ファン・ゴッホの『糸杉』は、明るい南仏の風景に対照的にも見える姿で大きくうねって立っていますゴッホが読んだ小説をざっくり読んでみましょう糸杉・ゴッホを知るヒント『糸杉』1889年6月(サン・レミ)油彩・カンヴァス 93.3cmx74.0cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。『糸杉』は・・・オリーブや夾竹桃、ひまわり、松などと並んで南仏の風景を特徴づける植物である。明るい風景の中に点在する黒っぽい樹影は、とくに印象的で、ファン・ゴッホは、この糸杉を「エジプトのオベリスクのよう」とも形容している。糸杉それ自体、独特の質感を持っているが、ファン・ゴッホの描く糸杉の質感は、さらに凄まじいまでの個性を備えている。うねるような厚塗りの筆触りで描いたり、時には短い直線を密に書き込んだりしながらファン・ゴッホは、この木の醸し出す雰囲気に感情をのせて描きあげている。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1889年6月(ファン・ゴッホ=36歳の作品)糸杉の高いシルエットの垂直性が、水平方向に広がる風景に活力を与えている。エジプトのオベリスクを思わせる糸杉の示唆に富む暗いフォルムにゴッホはとりわけ魅了された。古くから「死」のイメージと結びつけられてきた糸杉は、ゴッホ芸術においても同様の意味で使われている。「糸杉のことがずっと頭にあるが、 何とか、ひまわりの絵のような 作品にしたいものだ。 というのも、 僕に見えているように描いた人が いないのが不思議に思えるから。 線といい比例といい美しく、 まるでエジプトのオベリスクのようだ」 (1889年6月、書簡596) 糸杉は、ひまわり以上に南仏で印象に残る植物である。しかし、ファン・ゴッホは、アルルでは、この木をあまり描いていない。中心的モティーフとして描き出すのはサン・レミに移ってからで、厚塗りの強烈なタッチで燃え上がるように描いている。しばしば月とともに描いているが、その理由は、まだわからない。糸杉は、しばしば墓地に見られること、その黒いシルエットなどから、「死」の象徴と解釈されたりするが、そのような短絡的な読みは絵の豊かさ、深さを決してしまいかねない。「僕に見えるように描いた人がいない」と書いているとおり、他の画家が描いた糸杉も、実際の糸杉も、ファン・ゴッホが、描くようには見えない。なぜ、アルルではなくサン・レミで、このような鮮烈な厚塗りのタッチで、三日月とともに描いたのだろうか〜〜〜〜〜〜エミール・ゾラの「ムーレ神父の罪」という小説がある。ずっと、教会のセミナリオで育ち、南仏のアルトーという村に赴任した若い神父:セルジュ・ムーレの物語である。ある日、ムーレ神父は教会で失神し、気がつくと村はずれの「バラドゥー」でアルピーヌという美しい少女に看病されていた。バラドゥーは、花の咲き乱れる「地上の楽園」である。記憶を失ったセルジュは、アルピーヌと恋に堕ち、楽園で生活を満喫する。ところがある日、「生命の樹」の下で2人が裸でいるところを修道士アンシャンジアに見つかり、教会へ連れ戻される。過去を全て思い出した神父は、罪を犯したことを知る。神父は村の教会に戻り、アルピーヌの懇願を拒んで教会に留まろうとするが、ある日、幻覚に襲われる。幻覚の中では、「自然」が教会に襲いかかる。最初は陽光、鳥、そしてついには・・・巨大化するナナカマドの木によって教会は破壊される。「自然」の勝利を見た神父は、アルビーヌのもとに行こうとするが、アルビーヌは、すでに神父の子を身ごもったまま自殺した。〜〜〜〜〜〜ファン・ゴッホはこの小説を1882年に読んでいて、弟への手紙でも何度かふれていいるが、そのなかで、しばしば「パラドゥー」という南仏の楽園にふれている。興味深いのは、ファン・ゴッホがオランダ時代にすでにこのパラドゥーを楽園追放のモティーフとしての「掘る人」と対置させていること、そして「パラドゥーは美しい。しかし、ゲッセマネはさらに美しい」と書いていることである。つまり、オランダ時代、ファン・ゴッホは、この「パラドゥー」的テーマに惹かれてはいたものの楽園よりは「悲劇的なもの」、「掘る人」「ゲッセマネ」を選択していたことになる。しかし、ファン・ゴッホ自身、「いつか自分もパラドゥー的テーマと取り組むかもしれない」と感じていた通り、彼もまた南仏の太陽の下「楽園」でわれを忘れていった。それにしても、小説のなかのセルジュ・ムーレとファン・ゴッホの運命はあまりにもよく似ている。ゾラが、執筆にあたって聖書の「創世記」、特に楽園追放の場面を研究していたこともわかっているが、この小説は、まるで・・・ファン・ゴッホの生涯を予言しているようですらある。さらに、偶然とはいえ、ムーレ神父の侍者:ヴァンサン(Vincent)は、ファン・ゴッホ(Vincent Willem van Gogh)と同名。楽園場面の第2部をはさんで、第1部と第3部にだけ「掘る人」が現れるし、アルビーヌを自殺に追いやった修道士:アルシャンジアが、アルビーヌの父に耳を切り落とされる場面でもある。しかし、何と言っても、ムーレ神父の見る壮大な幻覚光景は、ファン・ゴッホが巨大な糸杉と小さな教会を描き込んだ『星月夜』を想起せずにはいられない。その場面を引用しよう。「これから、にわかに終わりがやってきた。 高い枝をヴォールトの下の壊れたガラス窓から 吹き出していたナナカマドは、 激しい勢いで緑の枝を 教会のなかに伸ばしてきた。 木は、主廊の中央に張り出し、 そこで並外れた速さで大きくなっていった。(・・・)今や巨大な木は星に届かんとしていた。(・・・)生命の樹は天空を裂き、 星の彼方にまで伸びていった。 ムーレ神父は、 まるで墜した亡者のように 狂わんとばかりこの幻覚に喝采した。 教会は打ち負かされたのだ。 もはや神が自分を妨げることはない。 アルビーヌのもとへ行ける。 彼女が勝ったのだ。」(参考資料:小学館、100%VanGoghより)(参考資料:マイケル・ハワード著VAN GOGHより)(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.23
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ゴッホの名作『星月夜』うゎ〜っ!!ファン・ゴッホの生涯においてクライマクスであります〜なんという躍動感なのでしょうか。『星月夜』サン=レミ療養所の寝室の窓から見えた東の星空を記憶と想像とによって描いた作品。空に渦巻くタッチが不安な効果を高めている。中央に見える小さな教会は、実際にはこの風景の中にはないかった架空のモティーフである。この謎めいた絵については・・・聖書の一節を絵画化したという説、プラネタリウムを駆使して宗教的意味を排除した説、など、さまざまな説が語られてきました。ファン・ゴッホが、アルルで描こうとして失敗し、掻き削った「オリーブ園のキリスト」の絵の色と似ていることから、この絵が「オリーブ園のキリスト」の「苦悩」を表現したものだという説が有力である。「苦悩」の表現は色よりもむしろ、渦巻くようなタッチによって表現されている。空全体は大きくうねり、月と星を渦巻きの中に包み込む。巨大な糸杉も、背景の山もまた同様のうねるようなタッチで描き上げられている。自然の形を借りながら、色と筆触だけで宗教的幻覚を感じさせる。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1889年6月(ファン・ゴッホ36歳)最も有名なゴッホ絵画の1つであるゴッホは、天と地の結合大なるものと小なるものの結合奇想天外なイメージをまたもや創りあげた糸杉が、地上とそれを取り巻く宇宙とを結びつけ、月と星が夜の景色を明るく照らすうねるような山並みと夜空の渦巻くフォルムが響き合いゴッホの故郷の教会を思わせる聖堂と糸杉のフォルムが相似形を成している『星月夜』1889年6月(サン・レミ)油彩 カンヴァス 73.0cmx92.0cmアメリカ「ニューヨーク近代美術館」所蔵。1889年6月、サン・レミの精神病院でファン・ゴッホにあてがわれた寝室には、東向きの窓があった。本作は、窓から眺めた明け方の東の空の風景を描いたものとされている。山並みは確かに病院の東に見える山々に似ている。プラネタリウムにより当時の星空の再現によれば、月の位置や、ひときわ明るい金星(明けの明星)の位置が、実際の星空に一致していたことも分かっている。ただ、月の形は三日月のようなものではなく、半月と満月の間であったし、画中で虚空に浮かんでいる渦巻き状の形の正体もわからない。山の手前に見えるような町、尖塔のあるオランダ風の教会は、実際の風景にはない。左前景に見える糸杉も・・・実際に見えたものなのかどうか疑わしい。そもそも、ファン・ゴッホは、東向きの寝室を与えられていたものの、絵の制作は別方向に向いた部屋で行なっていたこれらの事実を総合すると、この絵は・・・ある明け方の東の空の記憶をもとに描かれた虚構の世界らしいのである『星月夜』は、多様な解釈を生み出してきた作品のひとつである宗教的な幻覚の光景、聖書の一場面といった宗教的・聖書的解釈、絵の描かれた時期と方角の星空を再現し、絵の写実性を強調する解釈、普仏戦争のフランスの社会状況を反映しているという解釈などである。諸説を概観すると、絵をめぐる解釈は・・・宗教的な解釈と世俗的、自然主義的な解釈との間を揺らぎ続けてきたことになる。しかし、「宗教」か「自然」かという問いには、結局決着がついていない。おそらく、『星月夜』は・・・「宗教」と「自然」の二者択一で理解できるような絵ではなく両者の内なる葛藤そのものを根源的な主題にした絵だと考えられる。(参考資料:小学館、100%VanGoghより)(参考資料:マイケル・ハワード著VAN GOGHより)(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.22
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ファン・ゴッホは、自然、樹木、太陽、星空、月の晩年の名作を描いた意味深い理由がわかってきましたう〜これは納得です。オリーブ園は、聖書の主題?『オリーブ園』1889年6月19世紀は、科学と産業革命の時代である同時に人々の教会離れが始まった「世俗化」の時代でもあった。教会と聖職者たちの努力にも関わらず、教会離れはおさまらない一方で、教会を離れ、作家や芸術家になった多くの若者も、自身のなかに培われてきた信仰を容易には捨てきれない。新たな時代の到来を感じながらも、人々は偉大な神の存在を感じ続けずに生きていくには、自身があまりに弱すぎることを痛感するようになる。世界の激変に人々の心は、ついていけなかった。そうした心の不安・・・緊張感を取り除くため、人は「自然」にすがりついた。教会、神学、聖職者の位階といった制度的なものを取り除き、従来のキリスト教のにおいを感じさせない信仰の対象、神の大替物、それがロマン主義の作り上げた「自然」概念であった。フランス、イギリス、ドイツなどでは、ファン・ゴッホが画家に「改宗」する数十年前に、世俗化にともなう「自然」崇拝が誕生していたのである。やや遅れて世俗化の波は、オランダにも一気に訪れ、ファン・ゴッホ自身も「教会離れ」をする。牧師の子としてキリスト教社会の只中にいたファン・ゴッホにとってこの急激な変化がもたらした緊張感は、とりわけ大きかったに違いない。彼もまた、ロマン主義の芸術家たちと同様、「自然」に、「太陽」に、そして「星空」に、神の大替物を求めてすがりつく。ファン・ゴッホは・・・宗教から最も遠いところにいたように見えるアルル時代でも、手紙で神や星空について語っている。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ゴッホの言葉「僕は人生においても、 絵画においても、 神などなしでもやっているが、 僕のような苦しみの多い人間は、 自分よりも偉大な 何ものかなしにはやっていけない。 それは僕の生であり、 創造の力だ。」 (1888年9月、書簡531)「それでも僕は、 ・・・この言葉を使っていいなら ・・・宗教の必要を強く感じることがある。 そういうとき、僕は夜、 外へ星空を描きに出る。」 (1888年9月、書簡543)『オリーブ園』1889年6月油彩・カンヴァス 72.5cmx92.0cmアメリカ「ニューヨーク近代美術館」MOMAファン・ゴッホは・・・ 『星月夜』と『オリーブ園』を対作品と見ていた節がある。2点の描かれる前年、ゴーギャンの影響を受けて、めずらしく聖書を主題にした絵を描こうとしていた。彼自身の手紙によれば、キリストの処刑の前日に赴いて祈ったと伝えられるオリーブ山麓の園「ゲッセマネ」を主題とした絵画『オリーブ山のキリスト』を製作したようだが、2度にわたって掻き削ったという。この絵は、おそらく現存しないと思われるが、手紙の記述から、おおよその色は分かっている。祈るキリストは・・・青、キリストに力添えをする天使は・・・黄色である。この色合いは『星月夜」の色合いと一致しているさらに、星空とオリーブ園を描いたこの2点を並べると「ゲッセマネ」の風景が出来上がり、前年に描いた「オリーブ山のキリスト」に類似した青と黄色の絵になる。どうやらファン・ゴッホは・・・自然のモティーフを使って「ゲッセマネのキリスト」の苦悩を表現しようとしたらしいのだ。アルルで聖書主題の絵を描こうとしていた当時、ファン・ゴッホは、「ゲッセマネを描きたければオリーブを描けばいい」と手紙に記している。自然主義の信奉者としては、聖書主題や、キリストを描くことはどうしてもできなかったが、それを描く衝動には駆り立てられる。そこで・・・風景に宗教的感情を込めることができないかと考えたのである。この絵はファン・ゴッホ生涯の心の葛藤を視覚化したものであり、彼が全画業で繰り広げていた「宗教」と「自然」に対する人間の内なる闘争の絵画化である(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.21
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1889年、ファン・ゴッホは自ら進んでサン・レミの病院に入院し、即座に風景画を描き始めます。くるくると曲がりくねった特徴ある筆使いが曲がりくねった樹木・オリーブ園 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1889年5月8日、サン・レミの病院に入院します。『サン・レミにある精神病院の庭』1889年5月油彩・カンヴァス 91.5cmx72.0cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。1889年5月8日(ゴッホ=36歳の時)フィンセント・ファン・ゴッホは自ら進んで、アルルから遠くないサン・レミにあるサン・ポウル・ド・モゾル精神病院を訪ねました。医師はおそらく、てんかん性の病気であろうと診断し観察のため入院させました。ところが入院するとすぐファン・ゴッホは、再び絵筆をとります。まず手始めに、「大きな松の木があり、その下には高く 伸び放題になった芝生と 様々なつる性植物とが雑多に混じって、 あまり手入れの行き届いていない病院の庭」の数点の絵を描いたと、ファン・ゴッホは言っています。この作品「サン・レミにある精神病院の庭」で、ファン・ゴッホは、病院の壁ぎわに立ち位置を取っています。石造りのベンチがある小道が絵を対角線で区切り、ダイナミックな空間効果をあげています。旺盛な生命力そのままに伸び広がった灌木と木々は、まだ乾いていない内に次の絵の具をかぶせて絵の具を厚く塗った筆のもつれるような動きで表現されています。花咲生い茂る植物を描いた絵には、様々な形や色がとりとめもなく交錯するにも関わらずファン・ゴッホにより確かな奥行きと構成が見事に表現されています。この年の9月アルルから姉:ウィルに宛てて、色が彼にとってどんな意義を持つのか、手紙でこう知らせています。「お姉さん、僕は今 自然の豊かで美しい側面を 絵にしなきゃならないと考えている。 明朗さと幸運、そして 希望と愛情が僕らには必要だ。 醜くなればなるほど、 年を取れば取るほど、 運が尽きれば尽きるほど、 病めば病むほど、 貧しくなればなるほど、 力強くしっかりと配列された 美しい色で仕事をしたいと、 僕は強く感じている。」『日が昇る壁で囲まれた麦畑』1889年5月の終わり油彩・カンヴァス 73.5cmx91.5cmオランダ・オッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」病気が順調に回復している時には、病院内でも戸外でも ファン・ゴッホは、出来るだけ絵を描いて過ごしました。彼は、この時期、たった一年ほどの間に140点以上の油彩、チョークや鉛筆、竹ペンを使った数多くのデッサン、それに水彩画の連作も制作しています。絵のモティーフは・・・病室の窓から見える壁で囲われた麦畑、病院の庭、オリーブ園、糸杉、そして周辺の丘陵風景など、どれも身近なものでした。そして、サン・レミでも時々、ミレーやドラクロワ、レンブラントなどの尊敬していた画家たちの絵に倣った作品を制作しました。この「日が昇る壁で囲まれた麦畑」は、病院で麦畑をモティーフにしたおそらく最初の油彩作品です。病院二階にあった彼の病室の窓から、きっと、このような景色が見えたのでしょう〜ファン・ゴッホは、この眺めが好きだったようで、「なんて美しい田舎だろう、 すばらしく青い空と太陽! とは言っても、 まだ窓から見える景色と 病院の庭だけしか見えないんだが。」と書いています。この作品は、麦畑に奥行きを出すためにファン・ゴッホは、少々苦心したようです。画面下には・・・麦と花々がすぐ手前から描いたように見えるのですが、麦畑の中央部は、どこか別のもっと高い位置から眺めて描いたような印象を受けます。背後に見える壁は、右に向かって高くかなり斜めに描かれており絵にダイナミックな動きを与えています。「日が昇る壁で囲まれた麦畑」と同じ麦畑をモティーフにしたデッサンは、この作品とほぼ同時か多少後になって描かれた物のようです。デッサンのスタイルは、プロバンス時代のファン・ゴッホの特長がとてもよく現れています。竹ペンで細く太く、短く、長く、様々な線でデッサン紙全体にくまなく描き込んでいます。色を使わなくても、ファン・ゴッホは、こうしてモティーフを力強く描くことができたのです。『オリーブ園』1889年6月油彩・カンヴァス 72.4cmx91.9cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。プロヴァンス地方の灼熱の暑さと乾いた大地、樹液を含んでくねり曲がる幹と枝、そしてオリーブ畑の雰囲気、これらを一枚の絵に凝縮させたとしたら、このフィンセント・ファン・ゴッホの「オリーブ園」に勝るものはないでしょう。体調が良好で絵を描く許可を得た時には、彼はよく近くのオリーブ園に出かけました。「この辺りには、 とてもきれいなオリーブ畑がいくつもある。 ばっさり剪定されたこぶ柳のような、 あのシルバーグレイの緑。 そしてあの青い空、 あの空に飽きてしまうなんて 決してないだろうな」と、彼は、母親に手紙で知らせています。この自然を描いた作品では、長めの筆の線で樹木の幹と枝枝そしてその輪郭が描かれています。しかし、地面やオリーブの葉、空など大部分には、短く曲げた筆のタッチが見られます。この筆の動きが絵の中の空気を震わせ、見ている私たちにまでオリーブ園の灼熱の暑さを伝えてくるようです。作品の中に太陽は、描かれていません。けれども、強烈なエネルギーを放ち厳然と自然界に君臨する太陽の存在が、私たちはありありと感じとれます。(参考資料:クレラー・ミュラー美術館日本語版より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.20
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ゴッホは、1888年南仏アルルで肖像画を多く描いていますが、その中で顔が平らな日本人のような肖像画を描いています。なぜ?日本人なのでしょうか日本人のような肖像画「ムスメ」 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)南仏「アルル」で、ファン・ゴッホは・・・ピエール・ロチの異国趣味小説「お菊さん」を読んだピエール・ロチ(ロティ)・・・とは?Pierre Loti(1850年1月14日〜1923年6月10日)フランス海軍士官として世界を周りその航海中に訪れた土地を題材にした小説や紀行文、当時の女性との恋愛体験をもとにロマンチック小説を多く書き残す。日本には、1885年と1900年の2度来日。鹿鳴館のパーティーで日本人女性と踊った体験記など。小説『お菊さん』・・・とは?西欧人が日本に対して抱くイメージに一時大きな影響を与え、日本に憧れていたファン・ゴッホは、この作品から日本の情報を得ていた。ファン・ゴッホは・・・『お菊さん』を読み終えて間も無くアルルの少女を日本のムスメの風貌で、そして自分自身を日本の僧侶の風貌で描いている。アルル時代の手紙でファン・ゴッホは、頻繁に「日本」や「日本人」観を述べている。ファン・ゴッホの言葉「日本美術を研究すると 明らかに賢者であり、 哲学者であり、 知的な人物に出会う。 その人は何を過ごしているのだろうか。 地球と月の距離を研究しているのか。 ちがう。 ビスマルクの政策を研究しているのだ。 しかし、この草の芽がやがて 彼にありとあらゆる植物を ついで四季を、 山野の大景観を、最後に動物、 そして人物を描かせることになる。(・・・)どうかね、 まるで自身が花であるかのように 自然の中に生きる こんなに単純なこれらの日本人が 推しててくれるものこそ、 まずは真の宗教ではないだろうか」 (1888年9月、書簡542)日本人は、自然科学者でも社会科学者でもなく、自分自身が花であるかのように自然のなかに没入して生きる哲学者であり、素朴な労働者、空想的社会主義者であり、兄弟愛に満ちて生き、真の宗教を持つ自然人なのだという。この「日本人」は・・・ファン・ゴッホの理想にほかならない。ファン・ゴッホは、未知の「日本人」という核の周りに自らの理想の全てを結晶させていった。そして、そのなかでも「真の宗教を持つ自然人」こそおそらく、彼が最も切望した理想である。現実世界のどこにも居場所を見つけられなかった彼の宗教的情熱は、想像上の「日本」のなかに、そして、フランスの「日本」にあたるアルルと、そこにある黄色い家についてその居場所を獲得するかに思われた。『ムスメの肖像』1888年7月(アルル)油彩・カンヴァス 74.0cmx60.0cmワシントンD.C「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。ロチは『お菊さん』で「ムスメ」という日本語を次のように説明している。「ムスメとは少女または とても若い女をさす言葉である。 それは日本語のなかでも もっとも若い女をさす言葉である。 それは日本語の中で もっとも綺麗な言葉のひとつで、 この言葉には、moue(ム) (彼女らがするような、おどけたような可愛い) 小さなmoue(口をとがらせること)や それから特にfrimousse (彼女らの顔のような愛嬌のある顔つき) といった含みがあるように思われる。」なぜ?日本のムスメにこのような特徴があるとされたのかは不明だが、「お菊さん」を読んだファン・ゴッホは、早速、アルルの少女の風貌を日本の「ムスメ」に変えて描いている。ロチの説明を鵜呑みにしたせいか?口も、とがらせているファン・ゴッホの肖像画で日本人のように描かれた人々は『イタリア女』イタリアの女1887年油彩・カンヴァス 81.0cmx60.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。「イタリア女」は、パリで浮世絵に夢中になっていた頃カフェの女主人:アゴスティーナ・セガトーリを描いたものではないかとされている。浮世絵の装飾と平坦な色面で描かれ縮緬紙のような質感を縦横のタッチで出そうとしている。『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』1888年油彩・カンヴァス 81.3cmx65.4cmアメリカ「ボストン美術館」所蔵。友人の郵便配達人を描いたもので、ファン・ゴッホは・・・モデルを「ソクラテスのよう」だと評している。私的には〜日本の戦国武将のようにも見えてきますね(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(参考資料:ウイキペディア。さまより)(参考資料:小学館100%VanGoghより)ゴッホにぽち
2021.01.19
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ファン・ゴッホが一番に描きたかったのは何よりも人間であります。アルル時代には、何度も同じ人物の肖像画を描いています郵便配達人ジョセフ・ルーラン南仏アルルの「黄色い家」の数件先に住んでいた郵便配達員:ジョセフ・ルーラン一家は、ゴッホにとって擬似家族のような極めて重要な存在となった フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVicent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1888年 ファン・ゴッホ(36歳)アルルにて『郵便配達人ジョセフ・ルーラン』1888年油彩・カンヴァス 81.3cmx65.4cmアメリカ「ボストン美術館」所蔵。ファン・ゴッホは・・・この共和主義者の友人が自分に対して「無言の貫禄といたわりの気持ち」を持っていると手紙に細やかに記している。ルーランの豪華な金髪の髭、血色の良い肌、品格のある帽子や制服の青と黄の衝突・・・それらを絵にした時のドラマティックな効果にゴッホは魅了された椅子は、『ラ・ムスメ』と同じものだが少女の身体が緊張して硬くなっていたのに対し、ルーランの身体は、くつろいで開かれている。『郵便夫ジョセフ・ルーラン』1889年4月油彩・カンヴァス 64.0cmx54.5cmアメリカ・ニューヨーク「ニューヨーク近代美術館」所蔵。描線と色彩と筆触の諸要素が連携して、目を見張る絵画空間を構成した。容貌と制服と背景が溶け合い、リズミカルな画面を作り上げている。ルーランの口髭と顎髭に施された緑のタッチが唇と頬の暖色系の色合いを引き立て、壁紙の動きのあるデザインと共鳴している。『ジョセフ・ルーランの肖像』1889年2月〜3月油彩・カンヴァス 65.0cmx53.9cmオランダ・オッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵ゴーギャンとの事件があってからの数ヶ月の間にファン・ゴッホは、肖像画を数点制作しましたその中には・・・郵便配達人:ジョセフ・ルーランとその妻:オーガスティヌ・ルーラン夫人「子守唄」の肖像画もあります。どちらの肖像画も、友人の画家や肖像画のその人のためにいくつかの異なるバージョンで描いています。このジョセフ・ルーランは6点描かれてその内3点は、背景に花のモチーフが描かれています。ジョセフ・ルーランは・・・ファン・ゴッホのアルルでの良き友人で、彼が入院していた時にも、大きな支えとなってくれました。ファン・ゴッホは、ジョセフが大好きでしたこの友人について、彼は親愛を込めてこう書いています。「ソクラテスのような顔をして、 鼻はね、ないんだよ。 額がぐっと前に突き出し、 頭頂部は禿げている。 目はグレーで、 丸くて赤い頬、 たっぷりとしたヒゲには 白髪が混じっている。 それから大きな耳。 かなりの共和主義者で社会主義者。 けっこうな理論家で、 物事もまったく知らないわけじゃない。(・・・)ルーランは、 僕の親父としては若すぎるけど 若い兵士が老兵に感じるような 静かな威厳と優しさみたいなものがある。(・・・)これが、ルーランのように けっして厳格じゃなく、 陰鬱でもなく、 完璧でも特に幸運な人間でもなく、 いつも正直なわけでもない、 そんな人間から感じられるから すごくいいんだよ。 賢くて、感受性もあって、 信心深い、ほんとにいい奴だ。」 (参考資料:マイケル・ハワード著、VAN GOGHより)(参考資料:クレラー・ミュラー美術館日本語版より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.18
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ゴッホの切ったひまわりは、アルルにゆく少し前でパリ時代に4点描かれたものです。明るい色調のひまわりですよね切ったひまわりの意味・・・とは?『2本の切ったひまわり』1887年8月〜9月油彩・カンヴァス 43.2cmx61.0cmニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。ファン・ゴッホ34歳この時期、ゴッホは切り捨てられた2本のひまわりの習作をいくつか描いており、本作は、そのうちの1点である。まるで人間のような鮮烈で印象的な存在感をもつこのひまわりは「喪失」と「犠牲」の象徴でありそこに宗教的な意味が込められていることは疑念の余地がない。しかし・・・ フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincwnt Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1887年8月(ファン・ゴッホ34歳)夏〜夏の終わりの作品『4本の切ったひまわり』『盛りを過ぎた4本のひまわり』1887年8月〜10月油彩・カンヴァス 59.5cmx99.5cmオランダ・オッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。『切ったひまわり』の次に描かれた『盛りを過ぎたひまわり』は特殊な作品です。描かれているのは花瓶や鉢の花ではなくまた様々な花のブーケや花冠でも花をパックしたのでもありません・・・数本の枯れかかったひまわりの切花です。ひまわりは、カンヴァス全体にほぼ実物大の大きさで描かれています。パリ滞在が終わりに近づくころ、ファン・ゴッホは、ひまわりを4点描きました。その内3点は、ひまわり2本の比較的小さい作品そして、このひまわり4本を描いた大きい作品ですその後、アルルでもゴーギャンのために「ひまわり」を描きました。パリで、ファン・ゴッホは数多くの花をモティーフにした静物画を描きましたがおそらくこれはモティーフの内容や思考的な理由によるものです。印象派の影響で、オランダ時代数年間を特徴づけた暗い色彩のパレットに終止符を打ち、作品は、次第に明るい色彩豊かなものに変わり始めます。「モデルに払うお金があったら とっくに人物画に没頭しているんだけどね、 色の習作として花を連作したよ。 赤いひなげし、 青い矢車菊、 それに忘れな草、 白とピンクの薔薇、 黄色い菊の花こんなふうに 青とオレンジ、赤とグリーン、 黄色と紫のような きっぱりとした反対色を選んで、 色同士の激しい対立を うまく調和させてる中立的で ニュアンスのある色がないか あれこれ模索している。 無難で面白みのないグレーじゃなく 鮮烈な色を求める試みだ」1886年、彼は友人にこう書き送っている。ファン・ゴッホの試みが成功したことは、この作品中の黄色とオレンジ、深い青と明るい青、赤とグリーンのコントラストの強い色調から分かりますこうした寒暖色の新たな組み合わせだけでなく様々な方向に向かい渦巻くような筆のタッチ、そしてひまわりが置かれているのがどこなのか判然としない不思議な場所の雰囲気とが相まってこれはパリ時代の傑作のひとつとされています (参考資料:マイケル・ハワード著VAN GOGHより)(参考資料:クレラー・ミュラー美術館日本語版より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.17
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ファン・ゴッホのアルル時代に描かれた「ルーラン夫人の肖像画」を6点も描いています。母親の愛情を求めたフィンセントの理想の母親とは子守唄・ルーラン夫人の肖像ニューヨーク『メトロポリタン美術館』所蔵 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincwnt Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ファン・ゴッホがこのモティーフを描いたのは・・・36歳頃で、亡くなる前年の作品です。アメリカ合衆国『ボストン美術館』所蔵ゴッホ『ルーラン夫人の肖像画』は6点あるそうです。アメリカ・ニューヨーク州『メトロポリタン美術館』オランダ・オッテルロー『クレラー・ミュラー美術館』アメリカ・マサチューセッツ州『ボストン美術館』オランダ・アムステルダム『ゴッホ美術館』アメリカ・イリノイ州『シカゴ美術館』おっと〜あと1点はどこに?もしかして『ルーラン夫人と赤ん坊』1888年11月〜12月油彩・カンヴァス 63.5cmx51.0cmアメリカ・ニューヨーク州「メトロポリタン美術館」所蔵。ペンシルベニア州「フィラデルフィア美術館」にもありますが92.0cmx73.5cm母親と母性という主題は、ゴッホをはじめ19世紀の画家にとってとりわけ重要な意味を持っていた。ゴッホの好きな画家や作家の多くもこのテーマを作品の中心に据えている。当時、伝統的な家庭構造や社会構造は、産業化と都市化の波によって変革を迫られていた。ここでもゴッホは、家庭的な親愛の情と厳かな宗教性を融合させている。オランダ『クレラー・ミュラー美術館』所蔵『子守唄(ルーラン夫人の肖像)』1889年3月油彩・カンヴァス 92.0cmx72.5cmオランダ・オッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。ファン・ゴッホは、友人の郵便配達人ジョセフ・ルーランの妻であるオーガスティーヌ・ルーラン夫人の肖像画を6点制作しました。この作品で、彼女は母親の象徴として描かれています。彼女は、手にしている紐でゆりかごを揺らし、絵の中では、画面上で見えないゆりかごには、生まれたばかりの娘:マルセラが寝かされているのです。ゆりかごを揺らし子をあやす母親というテーマは、「船乗りたち、人の子であり 殉教者である船乗りたちは、 その船室にあった(・・・) 波のうねりに ゆりかごの中にいた遥か昔と、 ゆりかごの中で聞いた子守唄を 思い出すだろうか」というシーンをこの絵に重ねようとしました。実は、ファン・ゴッホは・・・自分の描いたひまわりの絵を2点、この絵の左右に配置して飾るつもりでした。 船室に絵が飾られるように、この3枚の絵が家を遠く離れた船乗りのために飾られ、彼らを慰めることを想像したのです。「この3枚をこういう配置、 子守唄を真ん中にして ひまわりを左右にして並べ、 三枚組み絵になる。 すると左右の黄色い二枚が 真ん中の黄色とオレンジの頭を もっと際立たせる結果になる。」フィンセント・ファン・ゴッホは・・・風景画や静物画よりも肖像画に特に力を入れていました。「現代的な肖像画」については、1890年6月になってこう書いています。「僕が天使のように感じるのは、 他のどんなモティーフにもまして、 肖像画、現代的な肖像画を描くことなんだ。(・・・)君にも分かるように、 僕にそれが上手くできているとは言わないが とにかく試してはいる。 これから百年も経って、 その頃生きている人たちが 僕の肖像画を見て何かの天啓を得られる そんな肖像画を描きたいと思う。 だから、写真のように 人物をそっくりそのまま似せて描くんじゃなく 僕たちの絵画技法と色についての 現代的な感覚を使って、 情熱的に人を表現したいんだ。」(参考資料:マイケル・ハワード著、VAN GOGHより)(参考資料:クレラー・ミュラー美術館日本語版より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.16
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ファン・ゴッホは、アルルで画家たちと共同生活をする夢を持っていました。それは修道士のように?そして日本人のようにファン・ゴッホの寝室Vincent Willem van Gogh1888年(35歳)フィンセント・ファン・ゴッホは・・・南仏アルルで、ある夢を実現しようとします。「日本人」のように、芸術家が兄弟愛に満ちた共同生活をする家を作りあげるという夢であります フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)南仏の太陽を信仰する画家たちが集まる家の室内をひまわりなどの絵で飾り入り口には手紙で「愛を語る」花と記述した夾竹桃を植え、画家仲間をアルルに誘ったこの共同体のモデルとして・・・ファン・ゴッホが想定していたのは、修道僧たちの修道院生活である。弟:テオも誘っており、「もし君も来ることになれば、 君は歴史上最初の〈画商・使徒〉になる」とまで書いている。この共同体は、あきらかに「擬似宗教的共同体」として構想されていたのである『黄色い家』1888年9月(アルル)油彩・カンヴァス 72.0cmx91.5cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。ゴッホは「黄色い家」を借りて住むことになった。この黄色い家に画家の友人たちを呼び、そこで芸術家のユートピアをつくろうとする。室内を自作の『ひまわり』や『詩人の庭』シリーズで装飾し、『椅子』は、12脚も買った そんなに多くの友人が移り住むという予定もなく、実際に来たのはゴーギャンひとり。キリストの「最後の晩餐」と同じ数の椅子を買ったのは単なる偶然だったのでしょうかファン・ゴッホの寝室は・・・3点あります第1バージョン『ファン・ゴッホの寝室』1888年10月72.0cmx90.0cmアムステルダム「ゴッホ美術館」所蔵。ゴッホが、アルルに来る直前に描かれたもの。誰もいない部屋だが、室内の全てがペアになっていることが間近に迫ったゴーギャンの到着を予感させる。ゴッホは・・・画中の色が休息と眠りを誘うと信じていた。ドラマティックに誇張された透視図法が、同じ空間を共有しているかのような感覚を見る者に抱かせる。構図的には『夜のカフェ・テラス』とよく似ているが絵に込められた意味は全く異なる。素朴な家具とゴッホの2人の友人ウジェーヌ・ボック(1855年9月1日〜1941年1月3日)とポール=ウジェーヌ・ミリエの肖像画が並んで右上に飾られている。この2枚ならぶ肖像画は、3点とも人物が違っています。第2バージョン『ファン・ゴッホの寝室』1889年9月73.6cmx92.3cm米国「シカゴ美術館」所蔵。この第2バージョンは、サン=レミで描かれた。オリジナル第1バージョンが損傷を受けたため、その複製画を描くように弟:テオがゴッホにアドバイスをした。弟が作品を評価したことに気を良くしたゴッホはさらに2バージョンを製作し、そのうち1点を母と妹に贈った。図のバージョンは、オリジナルとは異なるが同じように奇妙な遠近法で描かれ部屋のプロポーションも歪んでいる。ただし、本作では配色を変え描線を誇張するなど、インパクトのある表現法が採られている。第3バージョン 『ファン・ゴッホの寝室』1889年9月(第3バージョン)油彩・カンヴァス 57.5cmx74.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。ゴッホの母のためにサイズを縮小して描かれ構図は、第1バージョンとほぼ同じです。2枚並んで掛かる肖像画は・・・第2バージョンと、この第3バージョンの左の肖像画は、どちらもゴッホに似ている右側は、女性のようで・・・第2バージョンは、金髪の女性第3バージョンは、黒髪です。これらの女性は、絵を贈る相手の肖像画であるかもとなると第3バージョンに描かれたのは、左がゴッホ。右は母親かもしれないこの絵はのちに「松方幸次郎」が購入し、いわゆる「松方コレクション」に加えられたが第2次世界大戦でフランスに残され1959年、フランス国有となりオルセー美術館所蔵となる。えええ・・・これって日本にあるべき絵みたいファン・ゴッホの言葉「日本の画家たちが お互い同士実際によく作品交換したことに 僕は、前々から心を打たれてきた。 これは、彼らが互いに愛し合い、 助け合っていて、 彼らの間にはある種の調和が 支配していたということの証拠だ。 もちろん、彼らはまさしく兄弟同士のような 生活の中で暮らしていたのであって 陰謀のなかで生きたのではない。 この点、彼らを見習えば、 それだけわれわれもましになるのだ」 (ベルナール宛、1888年10月、書簡B18)「人は、画家だと聞くと、狂人か 金持ちかのどちらかだろうと思うだろう。 1杯のミルクは1フランもし、 2枚のバター付パンは2フランになるが 絵は売れない。 だからこそ昔の修道士のように、 オランダの荒地のモラヴィア修道団のように 共同生活をしなければならないのだ」 (1888年10月、書簡524)この時期のゴッホは、愛する人々に贈るために絵を描いていたようです。同じ構図でレプリカを何枚か描いています。幸福だったアルルの日々の記憶を反芻するかのようにそれは、すでに「死」を身近に感じ始めていたゴッホが幸福な日々の自分を愛しい人々の記憶にとどめてもらうためだったのかもしれません(参考資料:マイケルハワードVAN GOGHより)(参考資料:東京書籍、もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.15
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傑作「夜のカフェテラス」をゴッホは、南仏アルルで1888年9月16日か?17日に描いたことがゴッホの描いた星空を天文学的にのちの研究で証明されています夜のカフェテラスVincent Willem van Gogh『夜のカフェテラス』1888年9月「アルルは夜も美しい!」とファン・ゴッホは手紙に記しているゴッホは、夜を暗い闇としてではなく、色彩豊かな光景として描き出そうと考えた。実際、ゴッホは夜にカフェのある広場で街灯の明かりを頼りに描いている。空は、黒ではなく深いニュアンスに富んだ青で描かれその補色の黄色で描かれたカフェ・テラスが、夜の中に色彩豊かに浮かび上がっている。テラスの上のランタンは、厚塗りで盛り上がって描かれその下のテーブルや人々、地面にも鮮やかな色彩が散りばめられている。空は、縦横の平坦で豊かな直線なタッチで描かれ、手前の舗道は、波状の短いタッチで、リズミカルに仕上げられている。タッチの違いで、天と地を描き分けるとともに全体にも生き生きとした雰囲気をつくりだしている フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVivcent Willem vwn Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1888年9月8日(ゴッホ34歳)「僕は、赤と緑によって、 人間の恐ろしい情念を表現しようとした」 「僕は『夜のカフェ』の絵の中で カフェという所が人が身を破滅させ、 狂い、罪を犯しかねない場所だと いうことを表現しようとした。 つまり、僕は、柔らかな薔薇色と 鮮血や葡萄酒の赤とを対象させ また、ルイ15世風、ヴェロネーゼ風の 柔らかい緑と固い黄緑や青緑色と対象させ それらすべてを青白い硫黄色の地獄の かんかのような雰囲気の中に放り込んで、 居酒屋の闇の力のようなものを表現しようとした。 ただし、外見は日本風の陽気さと タルタランの人の良さで蔽ってね」 (1888年9月=ゴッホの書簡)色彩豊かな、南仏の夜にファン・ゴッホは魅せられるアルルの中心部にある広場のカフェ・テラスを描いt作品。暗い青、紫系の色と黄色の対比が美しいこの絵の前に座ってしばらく時を過ごす・・・私なんと〜幸せなのでしょう『夜のカフェテラス』フォーラム広場1888年9月16日、17日?油彩・カンヴァス 80.7cmx65.3cmオランダ「クレラー・ミュラー美術館」所蔵。ファン・ゴッホは、もう長い間、夜の光景を描きたいと考えていました。けれども、それは黒とグレーの色調の「ありきたりの方法」で描かれたものではなく互いにコントラストとなる様々な色で描かれなければなりません。1888年9月の半ば、アルルに来てほぼ半年が過ぎた頃、ファン・ゴッホは、店の前の広場も部分的に描かれたこのカフェ・テラスの絵を制作しました。ファン・ゴッホの作品の中でも、これは・・・傑作中の傑作ですこの作品では、プロバンスにある街の心地よく暖かな夜の雰囲気が描かれています。テラスは、おしゃべりを楽しむ人々で賑わい店先の広場を歩いて通り過ぎる人々もいます。通りの奥には、御者の駆る馬車が近づいています。この絵で私たちが特に惹かれるのは、テラスのひさしの下の温かい黄色とグリーン、オレンジそして星空の深い群青色と通りの奥の家並みの深い青が織りなす魅力的なコントラストですテーブルの板は、怪しいようなライトグリーンが使われていますがこれはガス灯の光が反射しているからです。ファン・ゴッホが、実際にこの場所でこの場所に立ち、見たままにこの作品を描いたことは、この絵が描かれたずっと後に行われた天文学調査が証明しています1888年9月16日か17日の星の位置を彼は、学術的にも正しく描き込んでいるのですファン・ゴッホ自身もこの絵にはとても満足していてこう書いています。「ガス灯の明るすぎるほどの光が これが溢れるばかりの黄色とオレンジでね 青い色をぐっと強く生かしているんだ」そして、「夜、その場にいて絵を描くのは すごく楽しいことだったよ。」自然は、神が創ったものと考え、自然を正確に描こうとするゴッホらしいエピソードです。美術館でのお買い物夜のカフェテラスのアルルで生活費を弟:テオの仕送りに頼っていたゴッホは、絵の具や画布などの画材も安くはなく食事代を切り詰めるほかなかった時には、4日間をパンとコーヒーだけで過ごすことも。そのため、本作の舞台となったカフェには、ほとんど行ったことがなかった。しかし、本作を描いた9月にアルルに来た友人の画家:ウジューヌ・ポックにカフェに連れられて行ったことがあり、『ウジューヌ・ポックの肖像』1888年9月制作油彩・カンヴァス 60.0cmx45.0cmパリ「オルセー美術館」所蔵。そのすぐ後に『夜のカフェテラス』を描いたとされている。ゴッホは、友人ポックについてこう述べている。「芸術家の彼は、壮大な夢を抱き、 ナイチンゲールが歌うように仕事をする。 なぜならそれが 彼の生まれ持った性分だから・・・ 僕がつくり出せる中で 最も豊かで鮮明な青が広がる背景を描き そこに無限を表現する。 鮮やかな青の背景と それに映える金髪の頭を シンプルに組み合わせていることで、 紺碧の夜空の彼方で輝く星のような 神秘的な効果が得られるだろう」。ゴッホは、ポックに1日2回すわってもらって肖像画を描いた。 この絵の下絵では、画面の右端に樹木が入っていないことから実際には、広場には樹木が無かったと思われる。この作品には、樹木の緑が画面に和やかさを与えている。下絵では、わずか一部しか無かった夜空を、作品では、大きく取って「青」を強調している。人々が夜に出歩くようになった19世紀末から、夜の街が多く描かれるようになります。ゴッホは・・・友人の画家:ルイ・アンクタンが夜のパリを描いた『クリシー通り、夕刻5時』を参考にしたと思われる。また、ゴッホが愛した歌川広重の『猿わか町よるの景』にも構図が似ていますゴッホが、描いたように19世紀後半には、夜間照明が飛躍的に発達した。パリの街路の照明は、16世紀から始まり、18世紀後半には、5000基を超えていたといわている。灯油には当時は主に獣油が使われていたが、のちに石油が替わり、19世紀初めには・・・石炭を燃料とする「ガス灯」が中心になった。そして、19世紀後半には「電灯」の実験も行われ、1890年代には・・・「電灯」が急速に市内全域に広まり、パリは不夜城と化した。夜間照明は地方にも普及し、フランス全土で人々の生活は夜型化。アルルも例外ではなく、都市を離れてアルルに来たはずのゴッホだったが、「とても大きな街灯が、 テラスやファサードや歩道を照らしていた」と、近代文明の普及を書き残している。(参考資料:朝日新聞出版、ゴッホへの招待より)(写真撮影:ほしのきらり。)美術館にぽち
2021.01.14
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オランダ「クレラー・ミュラー美術館」には、フィンセント・ファン・ゴッホのモティーフ「果樹園」を見つけることができました明るい空に桃の花に癒されましょう花盛りの桃の木ピンクの桃の木Vincent Willem van Gogh1888年3月【アルル時代】色彩の輝きを増しただけではなく、他の時期には見られない一群のモティーフが作品上に躍る。太陽、ひまわり、夾竹桃、日本的モティーフ・・・。ファン・ゴッホにとって取り付いて離れなかった楽園追放のモティーフ「掘る人」は、見事に姿を消すファン・ゴッホは・・・あの教会の白樺も父親たちの世界も、忘れたかのように白昼夢に陥っていく。あたかも楽園をとり戻したかのように フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1888年3月はじめ頃ファン・ゴッホは、アルルでデンマークの画家:クリスチャン・ベーターセン (1858年〜1945年)と知り合いになった。ベーターセンは友人への手紙で、ファン・ゴッホのことをこう記している。「私は最初、 彼のことを気ちがいだと思った。 だが、次第に彼の狂気には ちゃんと方法があることがわかってきた」ベーターセンは、ゴッホの『花ざかりの桃の木』と同一モティーフで『果樹園』1888年を描いている。ほとんど同じ構図で、もしかして2人はカンヴァスを並べて描いたのかもファン・ゴッホは・・・南仏での最初の春に果樹園の絵を数多く描いています。Vincent Willem van Gogh『花ざかりの桃の木』『ピンクの桃の木』マウフェの想い出 マウフェのかたみ 1888年3月油彩・カンヴァス 73.0cmx59,5cmオランダ・オッテルロー「クレラー・ミュラー美術館」所蔵「まるで気でも 違ったんじゃないかってぐらい仕事をしている、 木に花が咲いているからさ。 プロバンスの果樹園の 信じられないくらいの朗らかさを描きたいと ずっと考えていたんだ」1888年春アルルの果樹園が花で満開の時季、ファン・ゴッホは、1日も欠かさず毎日描き続けていました。こうしてとても短期間のうちに花咲く果樹園をモティーフに油彩=14点、デッサンとスケッチ数点が制作されたのです中でもこの『ピンクの桃の木』は・・・ファン・ゴッホ自身も良い出来栄えだと感じていましたある晩この絵を抱えて帰宅すると、姉から画家:アントン・マウフェの逝去を知らせる手紙が届いていたのです。ファン・ゴッホは、この絵をマウフェに捧げようと決めます。マウフェは・・・従妹の夫だったというだけでなく彼に油彩と水彩の技法も教えてくれた人でした。弟:テオへの手紙には、こう書いています。「驚きで息が詰まり、 悲しみで胸が塞がれてしまう思いだ。 それでこの絵に『マウフェのかたみ、フィンセントとテオ』 と銘を入れたんだ。 君が同意してくれるのなら、 これを僕たち2人の名前で マウフェ夫人に送ろうと思う。(・・・)マウフェを憶うには、 何か優しくて朗らかなものがいい、 まじめで堅苦しい習作はだめだ。」ゴッホは3枚の絵を並べて飾ることを考えていた 『桃色の果樹園』『マウフェの思い出』『白い果樹園』ゴッホは、『花ざかりの桃の木(マウフェの思い出)』と、同時期に描いた2枚の果樹園を並べて壁に飾ろうと考えていました。三幅対の絵画は、ルネサンス期から教会の祭壇を飾る宗教画に見られるもので、珍しくはありませんよね!!同時代には、ナビ派や親密派と呼ばれる画家たちが連作による装飾画を始めており、ゴッホは、それを知っていた可能性もあります。「全部が統一した調和をもつように」と語ったことからもわかるようにゴッホは、装飾画を『色彩の冒険』の重要な手法の一つと考えていたのです(参考資料:クレラー・ミュラー美術館日本語版より)(参考資料:朝日新聞出版ゴッホへの招待より)(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホにぽち
2021.01.13
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今日は、オランダ・アムステルダム郊外オッテルローまで飛んで行きましょう現在新型コロナで休館中ですが・・・公園の中にある静かな環境に『クレラー・ミュラー美術館』がありますゴッホ『アルルの跳ね橋』1888年『アルルの跳ね橋』ラングロワ橋 1888年3月油彩・カンヴァス 53.4cmx64.0cmオランダ・オッテルロー『クレラー=ミュラー美術館』所蔵クレラー・ミュラー美術館は、2021年1月12日現在新型コロナウィルス感染拡大防止措置により休館中で残念ヨーロッパ最大の彫刻庭園のひとつであります。交通は、とても不便で列車とバスを2台乗り継いで行きました。オッテルロー『クレラー=ミュラー美術館』アムステルダム『ゴッホ美術館』と並ぶファン・ゴッホのコレクションで知られる美術館です。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月27日(37歳没)ファン・ゴッホは・・・1888年2月22日 南仏アルルに到着します。日本の浮世絵に見られるような明るく鮮やかな色彩世界を求めてファン・ゴッホは、南仏に移り住んだ。アルルに着いたときは、一面の雪景色だったが、春の訪れとともに風景が明るさを増してゆくなか、この作品は3月に描かれた。みずみずしい色と空気感、水面や跳ね橋の質感、跳ね橋上の馬車や水面の波紋が醸し出す穏やかな動き。そのような効果が、たしかなデッサン、色彩、筆触で描き出されている。そのみずみずしさと透明感において、アルル時代(1888年2月〜5月)初期を代表する傑作と言ってよいだろう。川で洗濯をする女性たちの声と水面の波紋が絵に近寄ると跳ね橋の上には、幌馬車がコトコト音をたてゆっくりと渡って行きます。1888年2月22日 ファン・ゴッホは・・・念願の南フランスへと向かった。アルルに着いたのはまだ2月で、明るい陽光どころか雪が積もっていた。それでも、ゴッホは・・・その雪景色を見て「日本のようだ」と書き記している。季節が巡り・・・春の兆しとともに、彼のカンヴァスも眩しいほどの輝きを放ち始める1887年、1888年は、ファン・ゴッホにとって特別なそして、おそらく最も幸福な時期であったが。パリ時代の後半からアルル時代の前半にわたるこの2年間はユートピア時代!!この時期、彼は・・・「日本」と「日本人」をモデルに芸術家のユートピアを夢想し、芸術家の共同体を実現しようとする。それは、他人の目には、子どもじみた夢以外の何ものでもなかった。この共同体に加わったのは、ゴーギャンひとり。しかも、共同生活は、悲惨な結末とともに崩壊することになる。しかし、それでも「夢」は画家の心を支え、画家に恐ろしいほどの霊感と力を授けたフェン・ゴッホの言葉「僕らは、日本の絵画を愛し、 その影響を受けている。 このことは全ての印象派画家に つまり日本にあたる南フランスへ 行かずにいられようか」 (1888年6月、ゴッホの書簡500)弟:テオから、妹:ウィルへの手紙「フィンセントは、前日の日曜日、 南へ旅立ちました。 まずアルルで様子を見て、 それからおそらく マルセイユへ行くでしょう。(・・・) 2年前に彼がここに来た時、 僕たちが、これほど強く結びつくとは 思っていませんでした。 というのも、アパルトマンに ひとりになって今、 全く空虚な感じがするからです。 誰かを見つければ、 一緒に住むこともできるでしょうが、 フィンセントのような人間の代わりを 見つけるのは容易ではありません。 彼は、信じられないほど多くのことを知り 世界に明快な視線を向けています。 だから僕は、彼があと何年か生きられれば きっと名声を得るだろうと思っています。 (1889年2月24日)(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(参考資料:小学館、100%Van Goghより)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホに日本を見せてあげたかったですね〜1888年、当時の日本は、明治21年ですがゴッホにぽち
2021.01.12
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ゴッホの代名詞にもなっている「ひまわり」ですが、ゴッホがひまわりを描いた時期は限られた短い期間だったのですゴッホは何故ひまわりを描いたか?アムステルダム「ゴッホ美術館」にて フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)ファン・ゴッホ・・・と言えば「ひまわり」ゴッホの代名詞にもなっていますが、『ひまわり』1888年8月実は・・・ゴッホは、そんなにたくさん「ひまわり」の絵を描いたわけではありません描いた時期も限られていて、画中に小さく描かれているものを含めても、『盛りを過ぎた4本のひまわり』1887年8月〜10月パリ時代後半の1年、1887年〜アルル時代前半の1年弱、1888年つまり、1887年春ころから1889年1月までの2年間に・・・ほとんど全てのひまわりは、描かれたのです1887年8月〜9月『2本の切ったひまわり』パリ時代にこのモティーフが描かれ始めたのは、ファン・ゴッホが、南仏の太陽にあごがれ始めた時期と重なっていますファン・ゴッホに「ひまわりの画家」という名がふさわしいとすればそれは、単に彼が「ひまわり」をしばしば描いたからでもこれらが彼の全作品中、最も素晴らしいからでもないひまわりは・・・西洋の図像伝統のなかで明確な象徴的意味を担っていた花である実際のひまわりは・・・太陽に顔を向け続けるわけではないが、人はこの花に向日性があるとみなし、太陽を神やキリストにたとえ、ひまわりを「信仰心」や「愛」の象徴としてきたのである。南仏の太陽を崇める画家たちが集まり、兄弟愛に満ちた生活を送る共同体の実現を夢見ていたファン・ゴッホにとって、ひまわりが持つ象徴的意味は・・・間違いなくこの共同体に最もふさわしかった。牧師の息子だったファン・ゴッホが、その豊かな伝統的意味を知らずに、この花を描き「黄色い家」の装飾に選んだとは考えられない。ゴッホの言葉「僕は、 ブイヤベースをむさぼり食う マルセイユ人のように、 絵を描いているところだ。 別に驚くようなものではない。 大きなひまわりの絵を 描いているだけだからね。(・・・)ゴーギャンと一緒に 僕のアトリエのための装飾画を 描いてみたいと思っている。 大きなひまわりだけの装飾を 君の店の隣のレストランに、 とても美しい花の装飾画があったね。 僕は、あそこのガラスケースにあった 大きなひまわりをいつも思い出す。 この計画を実行したら、 12点ほどの装飾画ができることになるだろう。 全体が青と黄とのシンフォニーになるだろう」 (1888年8月、書簡526)ひまわりは・・・決して多く描かれたモティーフではなく、描かれた時期も限られているそれは、芸術家共同体の象徴として最もふさわしい花だったからこそ「黄色い家」の装飾画で重要な位置を占めたのちに起こるゴーギャンとの「耳切り事件」で、この共同体が崩壊した直後には、何点かのレプリカが制作されるが、その後には、ひまわりを主要モティーフとして描いた作品は、全く知られていない。(参考資料:東京美術、もっと知りたいゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.11
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ゴッホは37歳と濃くて短く謎多き生涯ですよね〜特に最晩年の1年間について知りたいことがいっぱいです・・・。ファン・ゴッホ最晩年の話 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincwnt Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)亡くなる1年2ヶ月前のことパリの弟宅に3日間滞在し・・・1889年5月21日フィンセント・ファン・ゴッホは、ガシェ医師宛の紹介状を手に、オーヴェールに向けて出発しました。このガシェ医師の真摯な友情こそ、短い期間ではあったにせよオーヴェールでのフィンセントにとって最も大切な支えとなった。私たちは、近いうちに会いに行くと約束し、(弟:テオ夫妻)フィンセントもまた数週間後には、私たちの肖像画を描きに戻ってきたい、と言ってくれた。そして、彼はオーヴェールでは質素な宿に部屋を借りるとすぐさま制作にとりかかった。斜面になった畑と藁葺き屋根の点在する丘陵地の風景を見てフィンセントは、嬉しくなったがいちばんの喜びは、再びモデルを得て人物画を描けるようになったことだったはじめにいくつか描いた肖像画のひとつは、ガシェ医師をモデルにしたもので、医師は、すぐにフィンセントに強く共鳴した。ふたりは長い時間をともに過ごし、素晴らしい友情を育んだ・・・そしてこの友情は、フィンセントが亡くなった後も続いてゆく。ガシェ医師もその子どもたちもフィンセントの思い出を稀にみる敬虔な想いで讃え続けた。のちに崇拝に近くなるほどの純真で真摯なこの想いは、胸に迫るものであった。「考えれば考えるほど フィンセントは、偉大でした。 彼の絵を目にせずに過ごす日など、 1日たりともありません。 見るたびに新しい発想や、 以前と違った何かを見つけることができます・・・ そしてまたこの画家のことを考えると 彼がどれだけの巨匠だったかと気付かされるのです。 さらにまた彼は、 思想家であります」 ガシェ医師は、フィンセントの死後間も無くテオに宛てた手紙にこのように書いている。そしてフィンセントの芸術に対する愛情については、こうも言っている。「芸術への愛、 というのは正確ではありません。 むしろ信仰というべきです・・・ 殉教者を生みだす信仰なのです!」同じ時代にこのガシェ医師以上にフィンセントを理解していた人はいないだろう。面白いことに、このガシェ医師の外見はフィンセントにどこか似ていた(ガシェ医師の方がずっと年上だったが)そして同じようにガシェ医師の息子のポールも・・・15歳の少年だったが・・・テオに少し似ていた。ガシェ医師の家は丘の上に立っていたが絵画や骨董品で溢れかえっており、室内の明かりといえば小さな窓からわずかにさす日光くらいだった。家の前には階段状のみごとな花壇があり裏手にある大きな庭には、いろいろな種類のアヒル、雄鶏、七面鳥、孔雀などが4〜5匹の猫と仲良く歩き回っていた。決してその辺で良く見かけるような家ではなく、素晴らしく趣味のよい家だった。ガシェ医師は、オーヴェールでは開業しておらずパリの医師で、週に何日か診断をしていた。そして残った時間に中世の錬金術師の作業場のような自分の部屋で、絵画や銅版画を制作していた。ほどなくして、6月10日に、私たちは、赤ん坊を連れてオーヴェールで一日過ごさないか、とガシェ医師から誘われた。フィンセントが列車のところまで迎えに来てくれた。手には自分と同じ名前の甥が遊べるように、と鳥の巣を携えていた。彼は、赤ん坊を抱いて歩きたいんだと言い張って、息もつかずに庭の動物をひととおり見せようとした。うるさすぎる雄鶏の鳴き声に赤ん坊がおびえて真っ赤になって泣きだすとフィンセントは、笑いながら その鳴き声を真似て「鶏は、こうやってコケコッコーっと鳴くものなんだよ」とそれは誇らしげに動物たちの世界を自分の甥に教えた。私たちは外で昼食をとり、そのあと時間をかけて遠くまで散歩した。あの日はとても平和で、穏やかで、ほんとうに幸せで、だからまさかその数週間後に悲劇に襲われることになるとはだれひとり思いもしなかった。7月のはじめフィンセントは、もう一度パリにやってきた。息子がひどい病気にかかりテオと私はクタクタになっていたところでテオは、またグーピル商会を辞め、自分で事業を始めるという以前からの計画のことを考えていた時だった。そして、フィンセントはフィンセントで、私たちが彼の絵を保管している場所が気に入らずもっと広い部屋へ引っ越したらいいと言い出したりと・・・何かと気苦労の多い日が続いた。しかも、たくさんの人が、フィンセントに会いに来た・・・フィンセントについての有名な記事を書いたばかりだったオーリエもそのひとりで、もう一度本人と一緒に絵を見たいとやってきたのだった。トゥールーズ=ロートレックは、昼食をともにしたいということで来ていてふたりが階段で出くわした葬儀屋のことで冗談を飛ばしあっていた。ギョーマンも来ることになっていたがすでに疲れ気味だったフィンセントは、彼が着くのを待たずにさっさとオーヴェールに戻ってしまった・・・彼は、あまりに疲れ、気持ちを高ぶらせてしまった。それは、彼の最後のいくつかの手紙と絵にも表れている。不吉な黒い鳥が嵐のなか麦畑を横切って近づいてくるように、恐ろしい惨事が迫りつつあった。「憂鬱になったり、また発作に 襲われたりしていないといいんだけど。 最近は、すべてがうまくいっていたから」と7月20日、テオは私に手紙を書いてきた。その時、彼はまず私と息子をオランダに連れてゆき、自身はそのあと休みが取れるまでの短期間パリに戻っていたのだった。そして、7月25日の私宛の手紙には、「フィンセントから手紙をもらった。 なにかわけのわからないことが書いてある。 いったいいつになったら、 彼に幸せな時が訪れるんだろう? あんなにいいひとなのに」とある。幸せな時、それはフィンセントにはついに訪れなかった。迫り来る発作に対する恐怖かあるいは発作そのものが幸せが訪れる前に彼を死に追いやってしまった。7月27日の夜、フィンセントは、回転銃を自分に向けて引き金を引いた。ガシェ医師はその夜、テオにこう書き送っている。「休暇中にたいへん申し訳ありません。 早急にお伝えしなければならないことがあります。 本日、日曜日の夜9時に、 お兄さんがすぐにきて欲しいというので 駆けつけました。 彼が非常に悪い状態でそこにいました。 自分で自分を傷つけたのです。 ・・・あなたの住所がわからず フィンセントもかたくなに教えようとしないので このメモはグーピル商会を通して お届けすることにします」。結局、この手紙がテオの手元に届いたのは、次の日の朝だった。テオは、手紙を読むとすぐさまオーヴェールに向かった。同じ、7月28日テオがオーヴェールから私に宛てて書いた手紙にはこうある。「今朝オーヴェールに住むあるオランダ人画家が、 ガシェ医師からの手紙を持ってきた。 内容は、フィンセントに関する悪い知らせで、 僕にきて欲しいと書いてある。 もう何もかも放り出して、 フィンセントのところに向かった。 状態は思ったよりは悪くない。 あまりに悲しいので詳細は省く。 でも愛する君にはとにかく知らせておきたい。 フィンセントの命は危険な状態だ・・・」「フィンセントは、僕が来て、 ずっと一緒に居られると喜んでいる。 かわいそうに、フィンセントには ほとんど幸せなんてやってこなかったんだよ。 彼はもう、 どんな夢すら見ることができない。 時に一人で重すぎる荷物を背負ってたがために ひどい孤独のうちにとり残されてしまったんだね。 君と赤ん坊のことを何度も尋ねてくる。 そしていうんだ。 おまえは人生にこれほどの 悲しみがあることを想像できるかって。 ああ! 彼に少しでもこれからを生きる勇気を、 あげられたらいいのに。 でもあまり心配しすぎないでほしい。 これまでも同じくらい 望みの薄い状態はあったけど 彼はその度に持ち前の強さで 医者連中を驚かせたのだから」しかし、テオのこうした望みも虚しく、7月29日の早朝、フィンセントは帰らぬ人となった。テオは手紙に書いた。「フィンセントの最後の言葉の一つは、『こんなふうに死ねたらいい』だった。 その願いは叶えられたということになる。 わずかな瞬間に全部が終わったよ。 彼は、この地上では 見つけられなかった安らぎを、 とうとう見つけたんだ。 ・・・翌朝、パリやその他の場所から 友人が8人やってきて、 棺の置かれた部屋を フィンセントの絵で飾ってくれた。 それは素晴らしい部屋になったよ。 花やリースもたくさん届いた。 ガシェ医師は大きなひまわりの 花束を持ってきてくれた。 フィンセントが大好きな花だったから・・・」「彼は麦畑のなかの陽の当たる場所に、 安らかに眠っている・・・」テオが母親に宛てた手紙には、こう書いてある。「どれほど悲しいか、 ことばでは書けない。 そして何も慰めにならない。 この悲しみは 僕が生きている限り続くだろう。 いっときも忘れることのできないものになるだろう。 ひとつだけ言えることがあるとすれば、 彼はずっと求めていた安らぎを やっと手にいれたということだね・・・ 人生は、彼にとってやっぱり重荷だったんだよ。 なのに、これはよくあることだけれど、 いまになってみんな言葉を尽くして フィンセントの才能を賛美してやまないんだ。 ・・・ああ、母さん! 彼は僕の、僕だけの兄さんなのに。」そして、すでに体調を崩していたテオも、ついに限界に達した。半年後の1891年1月25日、彼もまた兄を追うようにしてこの世を去る。ふたりはいま、並んで眠っている。オーヴェールの麦畑に囲まれた、小さな墓地に。(参考資料:東京美術、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり)また1冊の本を読み終わりました〜ゴッホの死後の言葉は・・・『こんなふうに死ねたらいい』ゴッホは、疲れ果ててしまったのでしょうか?さらに作品について知識を深めてまいりましょうつづくゴッホにぽち
2021.01.10
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フィンセント・ファン・ゴッホは、サン=レミからオーヴェールに移る前、パリの弟テオ一家の家に3日間滞在し自分の作品群を目にするのですゴッホ:3日間のパリ訪問「不幸をこぼさずに辛抱する」・・・確かにフィンセントは、このことを教訓として学んでいたのだしかし、油断のならない悪魔がそこに再び忍び寄る フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日=1890年7月29日(37歳没)ポスト印象派のオランダ人画家。1889年8月(ゴッホ36歳)、ちょうど病気は完治したという望みを彼が持ちかけたときだった。フィンセントは落胆し、ただ「もはや勇気も希望も持てる気がしない・・・」とだけ口にした。ずっと辛い思いをしながらもがいていた冬の間にもフィンセントは・・・ひときわ美しい作品の数々を描いていった。ドラクロワを模した『ピエタ』こちらもドラクロワを模した『善きサマリア人』1890年5月レンブラントを模した『ラザロの復活』ミレーを模した『1日の4つの時』など。だが、その後に制作もできないままの数カ月が続くと今度はもう〜これ以上こんな死に直結した環境にいたら自分の活力は失われてしまうと考えるようになる。やはり彼は、サン=レミ から離れるべきだった。しばらくの間、テオはフィンセントが暮らすのに向く場所・・・パリに近く、それでいて田舎の・・・を探していた。それも医者でありながら時には友人にもなってくれるような人物の看護のもとで、暮らせる場所を。ピサロの勧めでパリから1時間ほど行ったオーヴェール=シュル=オワーズに、ようやくそうした場所が見つかった若き日には、セザンヌやピサロそして、ほかの印象派の画家たちとも親交のあったガシェ医師の住んでいる場所だ1890年5月17日、フィンセントは南仏から戻る。はじめのうち数日は、パリで私たち(テオと妻)と一緒に過ごすことになっていた。タラスコンからの電報では、夜のうちに移動して、パリには翌朝の10時に到着するということだったがその晩テオは、道中フィンセントに何か怒るのではないかと心配で眠れなかった。長く深刻な発作から快復したばかりだというのにフィンセントは、誰かに付き添ってもらうことを拒んだからだった。ようやく予定通り、テオが駅に迎えにゆく時間になった時私たちがどれだけ安堵したことか。パリ市内のピガール街から、リヨン駅まではかなり距離があったから家で待っている私には、ふたりが戻ってくるまでの時間が永遠のように感じられた。やっぱり何かあったのでは?と心配し始めたその時、ようやく辻馬車が街に入ってくるのが見え、ふたりが朗らかに私に会釈し、ともに手を振ったと思ったのもつかの間、フィンセントが私の前に立っていた。病人を想像していた私の前に現れたのは、がっしりとして肩幅が広く、健康的な肌をした男性だった。その表情は、幸せそうで、また意思の強さも感じさせた。この時期のフィンセントは、数ある自画像のなかでいえばイーゼルの前のそれに一番よく似ていた。すでに一度アルルでサル牧師を驚かせた時のように彼の病状はまた突然、原因不明の変化を起こしていたのは明らかだった。「どこも悪くなさそうよ。テオよりよっぽど丈夫そうじゃない」それが最初の私の印象だった。テオはそのあと、フィンセントを私たちの息子のゆりかごのある部屋に連れて行った。私たちの息子の名は、このフィンセントからもらっていた。テオとフィンセントのふたりは、スヤスヤと眠る赤ん坊を静かに覗き込んだ・・・ふたり揃って目に涙を浮かべながら。やがて微笑んだまま振り向いたフィンセントは、私の方を見て、ゆりかごにかかっていたかぎ編みの簡素な肌がけを指差しながら、こう言った。「妹よこの子の頭にあまりレースがかからないようにしてやってくれ」フィンセントは、私たちのところに3日間滞在し、その間ずっと明るく、元気そうに過ごした。サン=レミでのことは話題に出なかった。フィンセントは、自分が毎日食べていたオリーヴを買いにひとりで出かけてゆき私たちにも食べるように言ったりした。初日の朝は、とても早い時間に起き出してシャツを着て立ったまま私たちの住まいを埋め尽くす自分の絵を眺めていた。壁はどこもかしこもフィンセントの絵で埋まっていた・・・寝室には『花咲く果樹園』の数々食堂の暖炉の上には『ジャガイモを食べる人々』居間(大広間と呼ぶにはあまりにこじんまりした小さな部屋だった)には、傑作『アルルの風景』と傑作『ローヌ川の星月夜』がかけてあったそのほかにも、家の掃除婦がうんざりするほど夥しい量のまだ額に入っていないカンヴァスがベッドやソファー、飾り戸棚の下、狭い控えの間などに、ところ狭しと散らばっていた。フィンセントは、それらの絵をすべて床に広げ、じっと見つめていた家に遊びに来てくれる人たちもたくさんいたが、フィンセントはすぐに、こうしたパリのせわしなさは、自分には良くないと感じまた制作に取り掛かりたいと思うようになった。そこで、1889年5月21日、彼はガシェ医師宛の紹介状を手に、オーヴェールに向かって出発した(参考資料:東京美術、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホにぽち
2021.01.09
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最晩年のフィンセント・ファン・ゴッホは、自ら入院を決めてサン=レミに向かいます〜その様子は、いくらか心揺れるゴッホの決心・・・とは? Vincent Willem van Gogh フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)オランダ人「ポスト印象派」の画家。1889年春、弟:テオをヨハンナが結婚テオが随分と頭を悩ませていたのもこのろのことだった。ヨハンナは、テオと結婚する少し前、アルルにひとりで住むフィンセントについて、私は、手紙の中で尋ねたことがある。もし、フィンセントがパリに戻りたくないというなら、オランダで少しのあいだお母様や妹さんと暮らしてもらったらいいんじゃないかしら、と。テオからの返信にはこうあった。「そうなんだ、 もっとも困ったことのひとつは、 健康状態の良し悪しに関係なく、 フィンセントの暮らしが 世界からすっかり切り離されて しまっていることなんだ。 でも彼のことを知れば、 君にもこの複雑な問題を解決する 難しさがわかってくると思うよ。 つまり私たちが彼に対して何をすべきかと、 何ができるかを同時に考えなければ いけないということなんだ」。「知っての通り、 フィンセントには昔から いわゆる世の中の決まりごとという 感覚が欠落している。あの出で立ちや 態度は、そのまま兄が 一風変わった性格の持ち主であることを 示しているけど、兄に会った人が、『彼はおかしいよ』とどれほど言おうと 僕にとっては大したことじゃない。 でも僕の母は、気にせずにはいられないんだよ。 そのうえフィンセントの喋り方は、 すごく惹きつけられるか、嫌悪感を抱くか、 人によって両極端な反応を引き起こすんだ。 彼に同情してくれる人はいつも周りにいる。 けれどそれ以上に敵も多いんだよ。 適度な距離を置いて人と付き合うっていうことが フィンセントにはできない。 白でなければ黒なんだ。 親友と呼べる人たちでさえ、 兄とずっと仲良くやっていくことは難しい。 兄は誰に対しても気遣いができないから。 僕に時間さえあれば、 兄のところへ行くんだけれどな。 そして例えば一緒に歩いて旅行でもするのに。 僕が、思いつくのはそれくらいだけど、 きっとどれもフィンセントのためになるだろう。 もし画家で僕と同じことをしたいという人がいれば その人にフィンセントのところへ行ってもらうのに。 でもフィンセントが一緒に 旅行に行きたいと思うような人でも フィンセントに、そして彼を取り巻く あのゴーギャンが来ても変わらなかった状態に どこかで恐れをなしてしまうだろうね」。 「もうひとつ、僕がフィンセントを ここに呼ぶのを恐れている理由がある。 パリでは、 描きたいものをたくさん見つけていたが それでも描けない状況に何度も陥った。 モデルたちは、フィンセントのために ポーズを取るのを拒むようになり、 それなら道端で通行人を描こうと 思ったらそれも禁じられてしまった。 彼は、かんしゃく持ちだから 他人が不愉快になる状況を 生み出してばかりで、 それがさらにフィンセントを刺激し、 いっそう近寄り難くさせる。 そして、最後には パリというところに向かって 激しく嫌悪をぶちまけるんだ。 もしフィンセント自身が戻って来たいのなら 僕は、少しもためらわないで 迎え入れるんだけれど・・・ ただ結局は彼自身の意向に従うしかない。 自然の中でひとり暮らすか、 ルーランのような素朴な人でなければ 彼が静かに暮らすことはできないね。 だって彼は、どこを歩いても素通りできず、 必ず自分の痕跡というものを 残そうとしてしまうんだから。 間違ったことを見つけたら 批判せずにはいられず、 それが争いのタネになる」。「いつかとてつもなくフィンセントを愛し、 人生を分かち合ってくれるような妻が 見つかってくれることが僕の願いだが、 そう簡単なことじゃないね。 ツルゲーネフの『処女地』の中に出てくる、 虚無主義者たちと一緒に国境を越えて 密書を運ぶ女の子を覚えてる? 想像だけど、フィンセントで 落ちるような苦悩を経験した人・・・。 フィンセントのために 何もしてあげられないのは辛いけど、 非凡な人には非凡な治療法が必要で、 それは凡人たちが 思いもしないようなところで 見つかるものなんだと思う」。そしてフィンセントは、今度は自分でサン=レミに行くことを決めたテオは最初、フィンセントの決心はもうだれの邪魔もしたくないという、一種の自己犠牲の精神なのかも知れないという印象を受けた。だからもう一度手紙で、ポン=タヴァンに行くか?パリに来るかする方がいいんじゃないかと?彼は念を押してみた。それでも、フィンセントは決意を変えなかったので、テオはこう書いた。「サン=レミ に行くには、 兄さんが言うような非難ではなくて 単に一時の静養なんだと僕は思うことにするよ。 それでまた元気を取り戻すつもりなんだね。 僕に言わせれば、兄さんの病気は、 まず自分が生身の人間であることを 無視しているところから来ていると思う。 サン=レミのようなしっかりした施設なら 決まった時間に食事も出てくるだろうだし、 生活もとても規則正しいでしょう。 そういった規則正しさが 兄さんにとって悪いわけはないよ・・・ むしろその逆だろうと思う」。テオは、フィンセントにいつでも自由に出入りできる部屋とは別に好きなだけ絵が描ける部屋、それから好きにあちこち歩き回れる自由を含めて、あらゆる手はずを施設のペロン院長とともに整えた。その後フィンセントは、サル牧師に付き添われ1889年5月8日、サン=レミへと出発した。翌日、 サル牧師はテオ宛にこう書いている。「サン=レミ への移動は、 最後まで良好な状態のまま 終えることができました。 フィンセント氏は、全く落ち着いていて、 自ら院長にご自身の症状を説明したほどです。 完全に自分の病状を 把握していらっしゃるのですよ。 私が、帰るまで一緒にいてくださって、 お別れするときには、 丁重な言葉でお礼を述べられ、 そしてこれからの場所で 始まる新しい暮らしのことを思ったのか いくらか心揺れている ご様子ではありました。 またペロン先生は、 お兄様の健康状態に合わせて できる限り面倒を見て配慮すると 約束してくださいました」。同行してくれたこの誠実な牧師との別れに際し、彼が書く「いくらか心揺れている」というこのひとことが、どれだけ切なく響くことだろうサル牧師との別離は、外の世界とフィンセントを結ぶ最後のつながりが断たれることを意味する。フィンセントが取り残されたのは・・・この上もない孤独にも増してひどい、神経症、精神疾患の患者に囲まれ、話しかける相手も理解してくれる人物ではあったが、控えめで物静かな人だった。彼がフィンセントの近況を知らせるために毎月テオに送った手紙からは、アルルの病院の先生のような温かい思いやりは感じられなかった。 フィンセントは、丸一年の間、陽気な環境の中で過ごした。繰り返し襲ってくる病気の発作にも、不屈の精神力で抗い続け、しかも昔からのたゆまぬ情熱を持って制作を続けた。その情熱だけが、いまや何もかも失った彼を支えていたのだ。彼は、夜明けと日暮れのひとときを持って、窓から見える荒れ果てた風景を描いた。アルプス山脈の麓近くの広い野原を描くために遠くまで歩き回った。くねくねと曲がった枝を持ったオリーヴ園を描き、陰気な糸杉や、療養院のくすんだ庭、そして、『麦刈る人』を描いた。「自然という 偉大なお手本が教えてくれるもののひとつ、 それは死のイメージだ」。それらは、もうかつてアルルでの浮き立つような陽光にあふれた、そして勝ち誇るような作品ではなかった。そこには、より深く悲しげな調べが鳴り響き、前年にみられた黄色のシンフォニーの中をつんざく甲高いラッパの音は、いまやなりをひそめ、フィンセントの選ぶ色彩は地味になり、その絵画のハーモニーは短調に転じた。(参考資料:東京書籍、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホにぽち
2021.01.08
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南仏アルルでフィンセント・ファン・ゴッホは、有名な事件を起こします。黄色い家には近所の人々が見物にわんさか来たそうです。困ったものですねその解決策とは・・・アルル耳切り事件のその後Vincent Willem van Gogh『善きサマリア人』ドラクロワを模して、1890年5月(サン・レミ)1888年2月22日、南仏アルルに到着。3月〜4月、『果樹園』制作。6月、地中海に小旅行。9月、「黄色い家」に住み始める。10月、ゴーギャンがアルルに到着。11月、生涯唯一売れた「赤い葡萄畑」制作。12月23日、耳切り事件で入院。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日=1890年7月29日(37歳没)1889年1月7日(35歳)フィンセントは、退院した。すっかり快復したように見えたからだ。だが悲しいことに、あまりの気の高ぶりからか?それとも疲労からか?神経の発作が再発した発作の長さは、時によって異なりかつてのような活力を取り戻し制作ができるほど完全に健康な状態の時もあるにはあった。しかし、2月になると・・・フィンセントは、再度、病院に連れ戻されてしまう。「黄色い家」に戻ったフィンセントだったが・・・彼に対する恐怖心を募らせた近所の人たちが市長に請願書を出し、フィンセントを自由にさせておくのは危険だと苦情を申し立てたのだ。その結果、1889年2月27日にフィンセントは、・・・この時、何の理由もなしに・・・病院に送られることになったフィンセント自身は、この不幸な出来事について丸一ヶ月の間、完全に沈黙を守っていたが、サル医師は、それを忠実にテオに報せている。1889年3月2日の手紙にはこうある。「近所のひとたちが、 何でもないことで騒ぎ立てています。 彼らが、非難しているフィンセントの行動は(たとえ彼らの言い分が正確に事実に即していたとしても) 決して精神に不安を抱えるひとを訴えたり またその自由を奪ったりすることを 正当化できるものではありません。 ですが不幸なことに もともとフィンセントが入院する羽目になった 自分の耳を切るという 馬鹿げた行動のおかげで、 ひとびとは、この哀れな若者の変わった言動を いちいち誤解するようになってしまったのです。 ひとから見ればささいな行為でも、 フィンセントにしてみれば、 全てが特別で大切なことです。 昨日、お話ししたとおり、病院では、 フィンセントはみんなに好かれています。 結局、このことに関して 本当に正しい判断ができるのは・・・ 所轄の警察署長ではなく・・・ 主治医なのです」。この一連の事件は・・・フィンセントの心に深い傷を残し、また新たな発作を引き起こした。だが、彼はその発作からも、驚くべき早さで快復したそして、このことをテオに報告したのは、またもサル医師である。1889年3月18日のテオ宛の手紙に彼はこう記している。「あなたのお兄さんは、 体調の話をしている時も、 近所のひとびとが署名した 請願書の話をしている時も まったく落ち着いていて、 そして明晰に話すんですよ。 請願書のことについては 本当に辛そうです。 こう言っています。『あのとき警官が、 僕のことをそのまんま 見守ってくれたら良かったんだ。 子どもや大の大人までが わんさか僕の家を取り囲み、 窓によじのぼるようにして僕を見物していた(まるで珍獣でも見るみたいじゃないか)。 警官が連中をあんなに好き勝手させなければ、 僕は、もう少し冷静でいられたはずだ。 とにかく、何をしたにしても、 僕は、誰にも危害を加えたりはしていないんだよ』 要するに、フィンセントはすっかり以前とは 別人になってしまったようなんですね。 この変化を維持できているのは、 まるで神の思し召しと説明するしかありません。 これほどまでに急激で、 また大きな変化が 彼の中で起こることがあるのですね。 いま私が見ているような状態が続いてくれるのなら 彼を療養所に入れるなんて はっきり言ってありえない話です。 実際いま私の知る限りでは、 誰もそんな悪意を発揮する度胸は もってはいないようです」。このサル医師との面会翌日、フィンセントは再びテオに手紙を出し、こんな感情が繰り返し沸き起こっては、一時的なはずの神経症の発作も慢性的な憎悪に変わってしまう、とじつにまともな不安を訴えている。そして静かに、また諦めたかのように、「・・・不平不満をこぼすことなく 辛い日々に耐えることこそ、 人生で学ばなければならない教訓のひとつだ」とそこに加えている。フィンセントの拘束は間も無く解けたが、サル医師が町の別の地域に住むところを見つけてくれるまでは彼は病院で暮らした。健康状態があまりに良かったので、サル医師は、1889年4月19日、「彼にむごい影響を与えた病気のあとさえ、 すっかり消えてしまったように思える時がある」とまで書いている。だが、彼はいざ新しい家主のところに移る時になると突然、サル医師に向かって新しいアトリエを構える自信なんかない、何ヶ月か療養院に入った方がいいんじゃないかと言い出した。「フィンセントは、 自分で自分の状態をよくわかっていて、 いじらしいほど素直に、 そして純粋な想いから自分は、 また病気に襲われるんじゃないか という恐怖を語ってくれます」と、サル医師は記す。その2日前、フィンセントは、彼にこう語ったという。「自分自身や自分のやるべきことを 把握して進めることが どうしてもできないんだよ。 以前の僕とは、 別人になったようだ」。そこでサル医師は、あちこち探し回り、アルルの近くにあるサン=レミの療養院が良いのではないかと助言した。さらに同じテオ宛の手紙には、アルルの主治医も承諾してくれていることだし、「退院したらしたで 村で孤立することになるだろう お兄さんの状況を考えれば それが良いのではないでしょうか?」と書き加えている。さぁ〜フィンセントは、いよいよ・・・サン=レミへ行くことになります(参考資料:東京美術、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホにぽち
2021.01.07
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ゴッホの弟テオの妻は、ゴッホの遺産としてゴッホからの手紙を相続し、それをまとめて書簡として整理しています。その中にはあの有名な事件についても書かれています。ゴッホの耳切り事件についてVincwnt Willem van Gogh フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincwnt Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1888年12月・・・ゴッホ35歳の時、テオの妻「ヨハンナ」による回想・・・その年のクリスマスの前日、婚約したばかりのテオと私は、一緒にオランダに行くことになっていた。私は、その時パリまで、テオとフィンセントの友人でもあった私の実兄A.ボルゲルのところに滞在していた。ところが、そのテオのもとにすぐにアルルに来てくれという電報がゴーギャンから届いた。12月24日の夕方、フィンセントは、激しい興奮状態、つまり「高熱による発作」に襲われ、自分の耳の一部を切り取り、娼館の女性に贈り物として持って行ったのだ。そのあとは大騒ぎになった郵便配達人のルーランがフィンセントを家まで送り、そこに警察の捜査が入って、部屋のベッドで血を流し意識を失ったフィンセントを見つけ病院へ連れて行った。フィンセントが相当〜危険な状態に陥っていることがわかると、テオは、クリスマスの期間を彼と一緒に過ごすことにした。医者もフィンセントがとても深刻な状態だと考えていた。「僕がいる間に調子がいい時もあったよ。 でもフィンセントの頭の中には、 すぐに哲学や神学をめぐる 悩みに逆戻りしてしまう。 それを目の前で見ていなければ いけないのだから 苦しいし辛かったよ。 というのも、ときに 苦悩の波に飲み込まれた兄は、 泣きたいだろうに 泣くことさえできないんだ。 闘うのもへたなら、 苦しむのはさらにへた。 いまとなっては誰がいても何があっても 彼の悲痛を和らげることはできないね。 しかも、彼は、 何でも深く強く感じてしまう人間だ。 もしこれまでひとりでも 本心を打ち明けられる ひとに出会っていたなら、 ここまで酷いことには ならなかったかもしれないけど」 ゴーギャンとともにパリに戻った後の私の手紙に、テオは、そう書いてきた。そしてその翌日、「望みはほとんどないに等しい。 でも兄はここまでの人生で、 大多数のひとよりも たくさんのことを成し遂げ よりたくさん苦しみ、 もがいてきた。もし、 死が彼を待ち受けているというのなら 受け入れるしかないが、 それを考えると胸が張り裂けそうだ」不安な状態はその後も数日のあいだ続いた。テオが、病院の主治医レイ医師にフィンセントを急患として頼んだところ医者は、頻繁にテオに様子を知らせてくれた。「お兄様の近況を お伝えすることでお役に立てるのは いつだって嬉しいことなんですよ。 私にも兄弟がいますし、 私も家族から離れて暮らしているので」。まだ回復の兆しの見えない12月29日、レイ医師はそのように書いている。プロテスタントの聖職者のサル牧師もフィンセントを見舞い、テオに手紙で兄の具合を知らせてくれた。そして、忘れてはならないのが、郵便配達人ルーランだ彼は、友人フィンセントに降りかかった災難にひどくうろたえてしまった。以前から、ジョセフ・ジヌーの経営する駅前カフェで、フィンセントを幾度となく楽しい時間を過ごしたルーラン。フィンセントは・・・彼とその家庭の素晴らしい肖像画を描いていた。ルーランは、毎日病院に通い、何か報せがあれば、忠実にパリにいるテオに伝えた。しかもルーランは・・・文章を書くことが苦手だったので、そのふたりの息子、アルトマンとカミーユが順番に代筆をかって出てくれた。『子守唄』のためにポーズをとってくれた彼の妻も病床の友人をたびたび見舞った。そして、フィンセントがはじめて快復の兆しを見せたのも少し前に描いたこの一家の可愛い赤ちゃん、マルセイユのことをルーランの妻に尋ねた時のことだった。その後、フィンセントの容態は急速に良くなっていった。1888年12月31日、サル牧師は・・・フィンセントがすっかり平静を取り戻し、また絵を描きたがっていると書き送っている。そしてその翌日には、フィンセント本人から、テオを安心させようと鉛筆で描かれたメモ書きが届きさらにそのあと届けられた1889年1月2日のメモ書きには、快復したことを証明しますというレイ医師の言葉が添えられていた。1月3日には、ルーランから熱のこもった手紙が届いた。「フィンセントは、 もう完全に快復しました。 あの不幸な事故の前よりも、 ずっと元気になりました」。ルーランは医師のもとにゆき、フィンセントが再び絵を描くことを許可してほしいと頼んだ。その次の日、ルーランはフィンセントと出かけ、そのまま屋外で4時間過ごした。ルーランから私たちフィンセントの家族に宛てた手紙にはこうある。「私の最初の手紙が あなたを不安にさせるような内容だったことを どうかお許しください。 この件に関しては、 私が間違っていて 本当に良かったと思っています。 みなさんも安心してください。 彼の気晴らしになるよう、 私もできるだけのことをしたいと思っていますから」 (参考資料:東京書籍、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.06
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ゴッホと南仏アルルの黄色い家で同居生活を始めた理由とゴッホとのゴタゴタをゴーギャンの書いた手紙から推察してみましょうゴッホとゴーギャンの関係Vincent Willem van Goghゴーギャンが描いたゴッホの肖像画 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1888年(フィンセント・ファン・ゴッホ35歳)は、パリでの生活に疲れ、南仏アルルへと向かいます。フィンセントは・・・マクナイト、ボック、そしてズアーヴ兵のミリエのほかには、まったく友人らしきものもいなかった。しかし自分のためにあらためてラマルティー広場に小さな家を借り、描いた絵を飾るなど自分好みに手を入れ、メゾン・ダルティスト→『芸術家の家』としての形を整えてからというもの、1880年に画家として駆け出しの頃に持っていた昔からの憧れのような思いをまた抱くようになった。つまり他の画家と交流し、ともに暮らし、ともに制作したいと思ったのだ。そしてちょうどそのとき、ブルターニュにいるポール・ゴーギャンから手紙が届いたのだった。ゴーギャンは、この頃金銭的に一段と逼迫しており画商:テオに自分の作品を売ってもらえるよう、フィンセントから頼んでみて欲しいと遠回しな言いかたで切り出していた。「君の弟に手紙を書きたいんだ。 でも彼は、一日中忙しいだろうし 迷惑はかけたくない。 今までに少しだけ売れた分のお金で、 ひと月もすれば無一文になってしまう。 ゼロっていうのはなにもかもやる気を無くすよ ・・・君の弟にこんなことを うるさく頼みたくないんだけど、 君がこのことをちょっとでも伝えてくれたら 僕は気が楽になるだろうし、 少なくとも辛抱強く待てると思うんだ。 まったく、芸術家にとって お金の問題っていうのは、 ほんとうに恐ろしいね」。フィンセントは、すぐさまゴーギャンを援助するための策を思いついた。ゴーギャンにアルルに来てもらい、一緒に住んで制作すればいいと思ったのだ。テオが生活費を払い、ゴーギャンは、その代わりに絵を提供する。フィンセントは・・・持ち前の忍耐力と頑固さで何度も何度もこの計画について力説したもののゴーギャンは、はじめまったく乗り気ではないようだった。ふたりは、パリで会ったことがあったが、表面的に知り合っただけの間柄で、才能も性格もあまりに違いすぎて、毎日をともにするとなったらうまく行くはずがなかった。1848年にパリで生まれたゴーギャンは・・・ブルターニュ人で、パリに住んでいたジャーナリストの父とクレオール人の母の間に生まれた。若い頃は、波乱万丈の日々を過ごし、船室係として海に出たり、銀行家の事務所で働いたり、絵は休みの日に描いていたくらいだった。そして結婚し家庭を持った後で、完全に芸術に専念するようになった。夫が絵では家族を養うことができなくなると、妻は、子どもを連れて彼女の生まれ故郷のコペンハーゲンに戻ってしまった。そして、ゴーギャン自身もマルティークへ旅立ち、そこでは他の作品とともに有名な『マンゴー摘み』を描いた。そして、今は・・・ブルターニュのポン=タヴァンにいるゴーギャンは、収入源となるものがなにもなく何としてもお金が必要だったので、フィンセントの申し入れを受けてアルルにやってくることになった。だが、この一連の計画は・・・無残にもことごとく失敗に終わりさらにフィンセントにとっては致命的とも言える結末をもたらすことになる。数ヶ月間もの間、制作に超人的な努力をつぎ込んだ後だったにも関わらずフィンセントは、ゴーギャンの到着を前に、全神経を奮い立たせ、最後の力を振り縛った。「ゴーギャンは、 僕の作品を見て 感銘を受けてほしいと思うくらいには、 僕は、自惚れている。 ・・・僕には、いま制作している絵を、 できるかぎり進めた。 ゴーギャンには、 何か新しいものを見せたい と強く思っているからだ。 彼の影響を脱してね。 ・・・そこまでやったあとだから、 いまは彼に、 疑う余地のないほどの 独創性を見せられると思うよ」。手紙=556で、フィンセントはそう語っている。このとき最後に制作された一連の作品の中に、最も知られている・・・『ファン・ゴッホの寝室』と『詩人の庭』 があったことを思えば、のちのゴーギャンの主張は、どうも疑わしい。ゴーギャンが来る前までフィンセントは・・・ただ不器用に制作に取り組んでいただけで、自分が教えてはじめて上達した、というあの主張のことだ、そしてそう考えればゴーギャンが、アルルでの出来事について述べている説明全体が、虚実ないまぜになったものだということもいくらか透けて見えてくる。実際のところは・・・すっかり疲労困憊したフィンセントはかえって緊張してしまい、図太い神経で冷静に主張する鉄の男ゴーギャンには、とてもではないが叶わなかったふたりの間で静かな戦いが勃発し、小さな黄色の家でタバコの煙が立ち込めるなか繰り広げられる終わりのない議論は、決してフィンセントをなだめるためのものではなかった。「君のお兄さんは、 確かに少々いきり立っているようだけど、 まぁ少しずつ落ち着かせていこうと思っている」。アルルに着いた直後、ゴーギャンは、テオ宛の手紙にそう書いている。そしてベルナールにはもっと率直に、フィンセントにはほとんど共感するところがないと語っている。「たいていのことで、 フィンセントと意見が合うことはない、 特に絵についてはね。 あの男が尊敬しているのは、 ドーデ、ドービニー、ジアン、 そして偉大なルソー・・・ 私には、耐えられない画家ばかりだ。 逆にあの男がひどく嫌うのは、 アングル、ラファエロ、ドガ・・・ 全員が私が賞賛してやまない画家たちだ。 まぁ〜波風が立たないように、『はいはい准将、おおせのとおりに』 と言ってはいるけどさ。 私の絵のことはかなり気に入っているようだけど。 描いている最中は、 君は間違っているだの何だのと口を出してくる。 それからあの男は、 未来を夢見がちだが、 私はどちらかというと 文明以前の原始的な状態に向かおうとしている」。後年、ゴーギャンは、この時期を思い出して、 「例えるならあの男は火の神ウルカヌスで、 私も最初からぐらぐら煮えたぎっている性格なのだから それは当然揉めることになるよ・・・」と記している。次第に状況は緊迫していった12月の後半には・・・テオがゴーギャンから次のような手紙を受け取っている「親愛なるファン・ゴッホ様。 まことに恐縮だが、 さすがにそろそろこれまでに売れた 私の絵の代金の一部でも 返金していただきたい」。「ともかく、 私はパリに帰らないといけない。 フィンセントを私が一緒に平和に暮らすのは まったくもって無理なことだ。 気質は相容れないし、 お互いの制作のためには 静かな空間も必要だ。 なるほどフィンセントの知性には驚かされるし、 彼のことをとても尊敬してもいる。 ここを去るのは残念だ。 しかし繰り返すけれど、 これはどうにもならないことなんだ。 今回の件で、君が私に いろいろな配慮をしてくれたことには、 感謝している。 だがこの決断を許してほしい」。フィンセントも手紙=565で、ゴーギャンがアルルと黄色い家、そしてフィンセント自身にうんざりしてきたようだと書いている。結局、何とかこの揉め事は収まったようだゴーギャンもテオに宛てた手紙で、自分がパリに戻ると言ったことは一時の迷いで、あの手紙のなかみは悪夢だったと思ってもらいたい、と頼んでいるからだ。しかし、この事件の収束も、続いてやってくる嵐の前の静けさに過ぎなかった。(参考資料:東京書籍、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.05
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ファン・ゴッホは、画家としての絶頂期とも言えるアルルの地へと旅立ちます。弟:テオと画家:ゴッホが交わした手紙を読んでみましょうゴッホの南仏アルルからの手紙Vincent Willem van Gogh フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1888年(ゴッホ35歳)冬も終わりにさしかかる頃にはフィンセントは、もう〜パリに疲れてしまっていた大都会の生活は、やはり彼には耐えられなかったのか?それともパリの冬の空が灰色であまりにに寒過ぎたからか・・・?1888年2月、彼は南仏へと旅立った「不安と不運だらけだったこの数年間のせいか 兄の健康は、少しも回復していない。 フィンセントは、やっぱり もう少し温暖な気候のところで暮らしたいようだ」「まずアルルで様子を見て、 そのあとはおそらく マルセイユまで行くつもりだろう」とテオは書いている。「フィンセントが旅立つ前、 何度かワーグナーのコンサートに 一緒に行った。 ふたりとも演奏を堪能したよ。 フィンセントが、 もうここにいないなんて、 まだ、実感がわかない。 彼の存在は、僕にとっては 今になってまた大きくなっている」ワーグナー・・・とは?リヒャルト・ワーグナーRichard Wagner1813年5月22日〜1883年2月13日(69歳没)作曲家、指揮者「楽劇王」ほとんどの自作の歌劇で台本を執筆。パリでの最後の日、フィンセントは・・・忙しそうにアトリエを整理していたらしい?とベルナールは・・・語っている。それは・・・「僕が、まだここにいるってテオに思ってもらえるようにね」というフィンセントの気持ちの現れだった。アルルに着くと、フィンセントは絶頂期を迎えたパリでの生活のなかで抱えていた抑圧から解放され陽光眩しい南仏で生来の自然への愛情が蘇ったのだそして、そのあとに・・・なににも邪魔をされずにどんどん作品を描くことのできる、幸せなひと時が訪れた。アルルの街には・・・ローマ時代の有名な建築の遺構もあるのに、フィンセントは、街自体にはさして目もくれずアルルの田園風景を描いた。一連の花咲く果樹園を描いた作品の中の春風に散る花びらが見せる荘厳なまでの自由の豊かさ。収穫期の、照りつけるような太陽の下の麦畑。酔いしれたくなるほどに濃い秋の色彩。庭や公園の眩しいばかりの美しさ。ダンテとペトラルカの亡霊が幻のようにそこに現れるのを見た、とフィンセントがいう『詩人の庭』。さらに・・・『種まく人』『ひまわり』、『ローヌ川の星月夜』サント=マリーの海の風景など・・・この頃のフィンセントの創作意欲と画力は、まったく衰えを見せることがなかった。「自分でもぞっとするほど 冴えた状態になることがあるんだ。 自然をとても美しく感じられるここ数日は もはや自分が自分であるという ことさえ意識しなくなる。 そしてまるで夢でみたかのように 絵のほうが 僕のところへやってくるんだよ」。そして有頂天になった彼は声をあげる。「人生は行きつくところ、 ほとんど魔法をかけられたようなものなんだ」。以降フランス語で書かれたフィンセントの手紙は、彼の心のうちで起こっていることを全て映し出す事になる。ときには朝、テオに手紙を書いたというのに、夕方になると座ってペンを執り、いかにその一日が素晴らしい日だったかをまた語るのだ。「こんな機会は今までなかった。 ここでは自然がもはや異様なほどに美しい」。そして翌日も・・・「わかっているよ・・・ ・・・もう今日は、 すでに一度おまえに手紙を書いた。 でも、また今日も素晴らしい1日だったんだ。 ほんとうに残念だよ。 ここで僕が目にしているものを、 おまえが見られないなんて」。それまでになくすっかり制作に没頭した彼は、アルルで自分を取り巻くひどい寂しささえ、苦しいと感じなくなっていた。(参考資料:東京書籍、フィンセント・ファン・ゴッホの思い出より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.04
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ゴッホは1886年「花」を多く描いています。母親がお花が好きだったから?いえいえ花は、文句を言わず口論にもならないモデルですからねゴッホが花を描いた理由・・・とは?Garden with Butterflies (1887)ゴッホは、自分に多大な影響を与えたドラクロワとモンティセリの作品をパリで目にするこの2人の画家の色彩とその対比効果を自らも表現するべく・・・ゴッホは、彼らに倣って花々の習作を数えきれないほど描いた。 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Goho1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)「ゴッホの自画像」とゴッホの花の絵画たちゴッホは、巨匠の絵画に出会いますドラクロワ・・・とは?ウジューヌ・ドラクロワ1798年4月26日〜1863年8月13日(65歳没)フランス・ロマン主義を代表する画家。サロンに出品する巨大な作品を描いた。代表作『民衆を導く自由の女神』モンティセリ・・・とは?アドルフ・ジョセフ・トマ・モンティセリ1824年10月14日〜1886年6月29日(61歳没)19世紀フランスで製作活動を行なった画家。原色を多用した大胆な色彩と、厚塗りによる荒々しく粘質的な筆触による描写表現で独自の絵画黄鐘を確立。力強く強烈な色調の対比による特異的な光の表現や色彩そのものから発せられる生命的な力動感は、ロマン主義の巨匠ドラクロワから高く評価されセザンヌやゴッホの様式形成に多大な影響を与えた。ウジューヌ・ドラクロワの作品については・・・ゴッホは、以前から知っていたが、当時、ドラクロワの著作を読み終えたばかりだったこともありその作品をもう一度見てみたいと思ったようだパリの教会やギャラリーに足を運べば、ドラクロワの絵を見ることができたゴッホは・・・サン・ドニ・デュ・サン・サクルマン教会にあるドラクロワの『ピエタ』1884年、やサン=シュルピス聖堂の聖天使礼拝堂壁画(ドラクロワは1863年に死去したが、その直前1861年完成)を目にした。その時の彼の反応は想像するしかない。多くの画家がそうだったように、彼もドラクロワの記念碑的な『ヤコブ天使の闘い』の前に立ち力強い色彩やドラマチックに組み合う人物、息づく風景、画面下方の静物の精妙に溶け合う色と線を味わったのだろう・・・その影響は、ゴッホののちの作品に明らかにみて取れるアドルフ・モンティセリ については・・・ゴッホは、南仏出身の異色の画家:モンティセリは、1870年代に名を馳せたが、その後はほとんど忘れ去られていた。セザンヌからも敬愛されたモンティセリ は、生まれは貧しくアルコール依存症で、ボヘミアン的生活を送りながら絵に打ち込んだ。ドラクロワやバルビゾン派の影響を受け、豊かな質感と明るい色彩で画面を満たすロマンティックで幻想的な絵画を描いた。プリズムのような色彩と絵具の厚い盛り上げた特徴とする彼の油彩には、何が描かれているのか判然としないものが多い。その自由な技法と時代を先取りした画風にゴッホは、衝撃を受けた。のちにゴッホは・・・「実際に彼の仕事を引き継いでいるように思うことがある」と記している。さらにテオにもモンティセリ の作品を宣伝するように勧めている。忘れられたこの画家に心酔したことが、ゴッホが、プロヴァンス行きを決意した理由の1つでもあった。ドラクロワも、モンティセリも、ルーベンスと同様に花の絵の名手だった1886年夏、ゴッホは・・・彼らの手法を真似て花の絵を徹底的に描き始める。特にモンティセリの影響を感じる絵画『草原の草とバラのある静物』1886年〜1887年現存する30点以上の彼の花の絵は・・・作品ごとに形式・内容・色彩が大きく異なる自画像と同様、花の絵にもモデル料が要らず、場面と花さえ選べば、モデルの気紛れや遠近法に煩わされることなく、色の対比や調和の効果を探求し、自分の絵を発展させられると彼は考えた。モンティセリ の花の絵についてゴッホは、「最も豊かで完璧に調和のとれた色調を 1枚の画板にまとめるための口実」にすぎないと記しているゴッホの花の絵は、深い事情性に満ちているがフィンセント『ボタンとバラのある器』1886年6月それらは、叙情性を意図して描かれたわけではない花の絵の果てしなく独創的なバリエーションの根底にあるのは、色彩と絵肌と構図の飽くなき探究心であります「油彩で色彩の習作シリーズを描いている。 赤いポピー、 青い矢車草菊と忘れな草、 紅白のバラ、 黄色い菊といった花の絵ばかりで ・・・青とオレンジ、 赤と緑、黄色と紫などの 反対色の効果を探り、 さらに混和された中間色によって 正反対の色彩を調和させようとしている。 くすんだ色のハーモニーではなく、 強烈な色彩効果を出したい」と書いている。次々とさまざまな発見をしていくゴッホの興奮が伝わってくるようだ彼は、下描きもスケッチもせず、絵筆に盛り上げるように絵の具をつけて、カンヴァスに直接塗りつけた。彼の熱狂的な制作活動は・・・1886年5月(33歳の時)第8回『印象派展』で受けた衝撃によりさらに熱を帯びる(参考資料:ガイアブック、ファン・ゴッホより)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホにぽち
2021.01.03
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ゴッホの本心は、アカデミックな絵画への憧れがあったようですが、そこに彼が望む刺激や感動を得ることは難しかったようですねそれでも確実に明るい画面をゲットゴッホの画塾時代に得たこと『瓶、レモンとオレンジ』1884年5月フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)「ポスト印象派のオランダ人画家」当時の画家たちは・・・アカデミックな教育を受けている者が多かった。画塾で教えてくれる人物の描き方は、画一的で、新鮮な感動がないファン・ゴッホは・・・アカデミックな教育には批判的だった大好きなのはミレーや、ドーミエなどを手本に独自で描き続けていたが1885年『馬鈴薯を食べる人々』で、顔に比べて人体を正確に把握していないという自分の欠点に気づく人物画の勉強をやり直そう色彩についてしっかりとした考えを固めたい今までの考えを捨てて1888年ゴッホは、アントワープの無料の画塾に入学する。モデルを使って描く勉強や、基本的な油絵の授業など情熱的に学ぼうとするが・・・その熱意が昂じて指導法で教師と衝突3ヶ月で辞めてしまったしかし、「色彩と肉付けがそんなに簡単にモノにできる」ようになったことは大きな収穫だった『石膏像、バラと2冊の小説のある静物』1888年12月パリでも・・・石膏デッサンと裸体デッサンを学ぶために「コルモンのアトリエ」に通うことになった。吸収できることがあれば学びたい同時に、ゴッホ自身アカデミックな物への憧れあるいは、コンプレックスがあったのかもしれないそこで、ロートレックや、ベルナールなどと出会うことになるが・・・石膏像中心の学習方法に飽きて、結局、ここもすぐに飛び出してしまったその間に残した石膏や人物のデッサンや油絵は、習作であるが、どれも力強く説得力がある。100枚ほどにのぼる数は・・・かなりのペースで描いていったことがわかる。周囲の人の数倍の速さで次々と仕上げていったが、コルモンのアトリエは・・・期待していたほど役に立たなかった。集中し、没頭し、冷めた時にそこから去る画塾のような密閉的で一律的な美術教育よりも、刺激と、感動を与えてくれる画材は外にいくらでもあるゴッホは、生きたモティーフで満ち溢れる巷に飛び出すあらら、また辞めてしまいましたね。(参考資料:中央公論社、ゴッホの宇宙より)(写真撮影:ほしのきらり。)ゴッホにぽち
2021.01.02
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令和3年元旦となりました〜昨年の経験し積み重ねた日々をまだ引きずる新年となっております。海外旅行に行きまくる20年間、いや〜バチが当たったのでしょうかね?1年間、どこにも行かず・・・ステイホームの状態。私たち、きっと何かの罰が、いやいや〜何か、そうそう無意識にやらかしていたのかもですが・・・もう、1年も我慢したのでそろそろ許してもらいたいものです。ううう。そんな訳で新年にあたり・・・1年間写真が1枚もありません旅行どころじゃないです・・・寂しいものです。何か無いかしらね〜だいぶ前の写真カリブ海メキシコ一人旅ですよ懐かしいですね〜残念ながら「初日の出」じゃないですが多分、エジプト?そもそも夕日なのか・・・インドかしら?南アフリカか?ジンバブエ?カンボジアアンコールワット機内からの・・・日の出美しいですね〜これも楽しい1人旅アフリカですね〜現地の男性と・・・クロアチアかな?アジアにも・・・小さいな写真がマカオ?エミchanと何度も行った韓国世界遺産旅イスラーム寺院友人との2人旅も楽しいヨーロッパもベルギー冬旅も何度行っても大好きなパリニューヨークだってLOVEだしスペインも好きだしオランダも・・・何度行ってもキリがない昨年の海外旅行の写真が今年は・・・無いです古いものばかり、いやいや〜私だけじゃ無い耐えて、耐えて・・・今年も飽きずに耐えてまいりましょうなんの報いじゃそれだけじゃ無い初詣さえも・・・以前の明治神宮・・・多分。どうもしばらくは、図書館通いいやいや〜賢くなっちゃいますけど・・・うううおっちょこちょい きらり。賢くなったら、おもろくないやんめっちゃ〜大きな声で心から笑える年になりますように2021年1月1日0時、ほしのきらり。世界遺産に初ぽち
2021.01.01
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