全30件 (30件中 1-30件目)
1
ゴッホとロートレックは11歳という年の差があるのにも関わらず友情を深めたという意外な事実があります彼らが出会う前のそれぞれの環境と共通点とはVincent Willem van Goghゴッホとロートレック同時進行の年譜ロートレックが生まれた年にゴッホは何をしていたのでしょうかフィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)1864年、ゴッホ(11歳)しばらくフロート・ズンデルトの公立学校に学んだ後、10月1日、近くのツェフェンベルヘンの学校に寄宿生として入り。2年後、ティルバルフのホーヘン・ブルベル学校(高等学校に担当する)に転じた。この間、フランス語・英語・ドイツ語を学んだが、1868年、学業を棄てて両親のもとへ帰った。なぜ学業をやめたかについては・・・彼の協調性の無さと、さまざまの憶測がある。ロートレックは、この年に誕生するのですアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)1864年、ロートレック(誕生0歳)11月24日、南フランスのアルビで、トゥールーズ=ロートレック・モンファ伯爵家の長男として生まれた。正式名は・・・アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥールーズ=ロートレック・モンファで、父は、アルフォンス・シャルル、母は、アデル・マルケット・タピエ・ド・セレイラン。トゥールーズ=ロートレック・モンファ家は・・・その家系を中世のシャルルマーニュ帝時代に遡り、フランス王家の血統をひく名家である。母のタピエ・ド・セレイラン家も、12世紀以来つづいている。18世紀以降、両家の間には数組の結婚が行われ、ロートレックの両親もいとこ同士である。彼の家系には・・・早くから芸術的素養もあらわれ、曽祖父の描いたスケッチなど残っており、以来その子孫の多くは、貴族としての乗馬や狩猟の趣味のかたわら絵を描く人が多い。ロートレックにもその才能は早くからあらわれている。1867年、ロートレック(3歳)8月末、弟リシャール・コンスタンタン生まれる。(翌年、誕生日の前日死亡)結婚するまで槍兵の士官であった父は、乗馬と狩猟を趣味とする誇り高い貴族・・・と言うより、奇矯の人でもあった。一方、母は濃やかで繊細な感情をもつ、つつしみ深く教養ある女性であった。ロートレックは、近親結婚によるこの一家の長子として生まれ、幼時からからだは弱かったが、明るく、何ごとにも興味をもち、いくつも動きまわっているので、「かわいい宝石」とよばれて、一家の、一族のマスコットでもあった。しかし、性格的に合わない両親の不和は、この年の秋あたりから決定的になり、別居が多くなり、母にとってロートレックの成長が生きがいであった。1869年、ゴッホ(16歳)7月30日、セント伯父の世話で、画商:グーピル商会のハーグ支店の助店員として勤める。グーピル商会の本店はパリで、ハーグ、ブリュッセル、ロンドン、ベルリンに支店があった。ハーグ支店はセント伯父と共同経営の形態であり、(セント伯父は間も無く隠居した)、上司は8歳年上のテルステークスで、その指導のもとに、主として複製美術の販売を熱心に行い、また読書にふけり、盛んに美術館通いをした。1872年、ゴッホ(19歳)夏、前年は、はじめからブラバントの小村ヘルフォイルトに就任していた両親の家で休暇を過ごし、近くのオーテルウィックの学校にいる弟:テオにも会った。テオも8月、ハーグに兄を訪ねたが、これを機会に二人の終生変わらぬ文通が始まった。ロートレック(8歳)1870年の戦争とコンミュンの乱が収まってから、ロートレック一家はパリに出て、まずポワシー・ダングラ街のべレイ館、ついでヌイイに移った。10月1日、ロートレックは、リセ・フォンテーヌ(現在のコンドルセ)に入学。ここには既に、母方のいとこルイ・パスカルが通学しており、また、富豪の息子モーリス・ジョワイヤンとは同じクラスで、すぐに親しくなった。のちに著述もし、1890年以降はゴッホの弟テオの店を引き継いで画商となり、当時の前衛画家たちを支持したジョワイヤンについて、本文ではほとんど触れていなかったが、ロートレックとの関係は生涯にわたって極めて深い。彼の初期の展覧会の面倒をみたのもジョワイヤンであれば、ロートレックの死後、その作品を収集整理して、ガブリエル・タピエ・ド・セレイランとともにアルビのロートレック美術館に力をつくし、彼に関する基本的文献ものこした。そしてさらに、ロートレックの父から息子の遺言執行者に指名されたのもこのジョワイヤンである。1873年、ゴッホ(20歳)1月1日、弟テオはグーピル商会のブリュッセル支店に努める。6月、ゴッホはハーグからロンドン支店に転勤。9月、牧師の未亡人:ロワイエ夫人の下宿に移る。未亡人は娘:ウージェニーと、子供のために小さな塾を経営していた。弟テオが彼と同じように画商の道を選んで1月1日から勤務することを知ったゴッホは、暮れの12月13日、テオに宛てて次のような祝福の手紙を書いている。「親愛なるテオ、おめでとう。 いまお父さんの手紙で吉報を知ったところだ。 きっと、その仕事が気にいるようになるだろう。 実に立派な仕事だ(・・・)。 ぼくらがともに同じ職業につき、 同じ商会に努めることになるというのはとても嬉しい・・・」。 (書簡二)ロートレック(9歳)健康のため、父のすすめによって習いだした乗馬ではあるが動くものに興味を持つロートレックは、すぐに馬に夢中になり一方、父の友人である動物画家:ルネ・プランストーの教えを受ける1874年、ゴッホ(21歳)7月、ウージェニーに求婚したが断られ絶望してオランダに帰った。同年半ば、妹:アンナとロンドンに戻ったが、仕事に興味を失ったゴッホは宗教書を読みふける。10月、叔父のはからいで、気分転換のためパリ本店へ一時的に勤務したが、12月末、突然ロンドンに戻った。ロートレック(10歳)病弱のため退学。母とともにアルビに戻って家庭教師から教育を受ける。その後、アルビやル・ポスクのシャトーで、そのときどきを大勢のいとこたちと幸せに暮らし、乗馬にも夢中になったが、一番熱中したのは「描く」ことであった。1875年、ゴッホ(22歳)ロンドンでは次第に店のもてあまし者となり、5月、最終的にパリ、シャプタル街のグーピル商会に勤務した。しかし、仕事に関心をはらわず、同僚や客との口論は絶えず、モンマルトルの自室では聖書や宗教書を耽読する。また、美術館や画廊をまわって、コロー、ミレーや17世紀オランダ絵画に熱中する。12月、クリスマス期を迎えて勝手に休暇をとり、10月以降、新たに父の任地となっているオランダのエッテンに帰った。1876年、ゴッホ(23歳)1月、パリに戻ったが、相変わらず仕事には全く興味を示さない。4月1日、ロンドン郊外のラムスゲートに行き、ストークス氏の経営する貧しい子供たちをあずかる小さな寄宿学校の助教師となり、フランス語とドイツ語を教える。7月〜12月、ストークスの学校の新たな移転先、ロンドンの労働者街アイルワースで過ごす。同時に、同地区のメジスト派牧師ジョーンズの説教助手となり、11月4日、はじめて説教を行い、貧者に対する福音伝道者となることを志す。1877年、ゴッホ(24歳)1月、再び、セント叔父の口利きで、ドルトレヒトの書店に務めたが、ここでも、勤務中も夜も聖書を読んだり、これをさまざまの言葉に翻訳することに熱心で(その間、デッサンも続けたらしい)、4月、早くも辞めてしまった。伝統者への想いが増すばかりである。5月9日、父の許しを得てアムステルダムへ行き、海軍の叔父のもとで、やがて牧師になるため、大学神学部に遊学試験の準備を始めた。伝道者を志す彼の意思について、既に3月、弟テオに次よように書いている・・・「・・・あらゆる意味において クリスチャンの家族だった我が家では、 知られている限りの古いころから 代々いつでも福音を説く人がいた。 こうした家族の一人が、 いまどうしてこの奉仕に召されたと感じて 悪いことがあろう(・・・)。 お父さんやおじいさんの精神が ぼくにも宿るようになること、 ぼくがキリスト者に、 そしてキリストの労働者になること、 ぼくの生活が、 いま名を挙げた人たちの生活に ますます似てくるようになること、 これがぼくの切なる祈りであり、 願いである・・・」(書簡89)しかし、アムステルダムでの入学試験のための勉強には気が進まない特に数学やギリシャ語、ラテン語は、一生懸命に励むのだが見につかぬ、いや、退屈であるそして、いよいよ文学書を読みふけり、足繁く美術館に通う・・・画商のコル叔父の店も魅力である。1878年、ゴッホ(25歳)アムステルダムでの一年半余りの受験勉強は、空しいカラ廻りであった7月、神学部入学を諦めてエッテンに帰った「生きている人間、 現実に苦しんでいる人間に対する献身的な 愛と情熱に魂の炎を燃え上がらせているフィンセントに、 牧師になるための勉強は、 あまりにも空虚であり、死んだ学問であった」8月、折良くエッテンを訪れたジョーンズ牧師の紹介で、ブリュッセルの短期牧師養成所へ入る。ここでは、3ヶ月の課程で伝道師の資格をくれるのであるが、その3ヶ月が過ぎても、彼の気質が衝動的で協調性の無いとの理由で、資格を与えられなかったそれでも彼はみずから志願して、誰も行きたがらない南ベルギーの貧困なボルナージュ炭鉱地帯に赴き、まさに献身的に伝道に従事した。年末になって、ブリュッセルの伝道委員会は彼の犠牲的行為を認め、非聖職者のまま、伝道師として6ヶ月の任務を与えた。ロートレック(14歳)5月30日、アルビの家の広間で、椅子から立ち上がったとき、つまづいて転び、左大腿部を骨折した回復は思うに任せず、療養のため母は彼を連れて温泉めぐりをつづけ、アメリー・レ・バン、ニース、バレージュ等に滞在した。Vincent Willem van Gogh1878年、ゴッホ(26歳)貧困と病苦と搾取のこの炭鉱地帯で、全く自己を犠牲にしての奉仕であったが、炭鉱夫たちに同情のあまり、経営者に激しく立ち向かいもした。しかし、こうしたことは、かえってブリュッセルの伝道委員会の気に入らず、彼は説教師としての資格に乏しいとの理由で、それ以上の任期延長を打ちきられた。彼は一時ブリュッセルに出たが、間もなくボルナージュに戻り、それから翌年にかけて、全くの放浪生活を続けた。それは彼の生涯のうちで最もみじめな時期である。と同時に、まさしく転換期である次第に信仰は薄れ、伝道師への情熱は消え、食うや食わずの放浪の中に、弟テオとの文通も一時期とだえた。しかもこの間、ディンズ、ユーゴ、シェクスピアを耽読する一面炭鉱夫たちのデッサンに熱中した。ロートレック(15歳)8月、バレージュで母と散歩中、転んで溝に落ち、今度は左脚の大腿骨を折ったそれ以後両脚とも発育はとまった。いや、そればかりではない時とともに顔にも異常があらわれた・・・鼻は大きく、唇はぶ厚くなったのである。そして、あれほど好きだった乗馬もあきらめ、專ら描くことに生活のリズムをとるようになった。バレージュでの療養中に知り合った若い友人エティエンヌ・ドヴィスムの短編「牡馬(ココット)」の挿絵を描いたのは、この年か?あるいは翌80年か?いずれにせよ、この年から翌年いっぱいをニース、アルビ、セレイランで過ごし、油絵を、デッサンを、ひたすら描いている。1880年、ゴッホ(27歳)ついに画家になる決意をする7月、当時すでにパリ本店に転勤しており、彼への送金をつづけていたテオとの文通を再びはじめ、画家への送金を打ちあけた。と同時に、炭鉱夫たちのデッサンにいよいよ熱をあげ、他方、ブルトンやミレーの複製による模写も、解剖学や透視画法の勉強もはじめた。10月、ブリュッセルに出たゴッホは、(おそらくテオの紹介)画家のウイレム・ルーロフスと、11月には、彼よりずっと若い同国人アントン・ファン・ラッパルトと交友を結んだ。そしてルーロフスのすすめであろうが、本格的に絵画の基礎を学ぶために、美術学校に入学の手続きをした。しかし、実際に通学した証拠は何もない。したがって、もっぱらボルナージュのときの継続である。1881年、ゴッホ(28歳)4月12日、テオの帰郷を知ってエッテンに帰る。再びブリュッセルには戻る気もなく、風景と人物(モデルが見つかった時だけ)を描く。5月、ラッパルトが訪ねてきて、15日間、ともに描いたり、散歩したりしているし、また、ハーグに従兄弟の画家アントン・マウフェを訪れたりもする。(ゴッホがはじめて油絵の手ほどきを受けたのは、 このマウフェからである)。夏、未亡人になって間もない、アムステルダムの牧師ストリッケルの娘であり、ゴッホには従姉に当たるケイ・フォス・ストリッケルが、保養のため、子供を連れてエッテンのゴッホ家に来た。彼女との不幸な愛については・・・彼女との問題から、彼は父母とも不和になり、クリスマスには、父と激しく争い無断で家を出てハーグに移った。ロートレック(17歳)7月、バカロレア(大学入学資格試験)には失敗するが、11月、合格した。しかし、大学へ進む気は次第になくなった。1882年、ゴッホ(29歳)ハーグでは、マウフェが彼を快く迎え、助言とともに、ときに金銭的援助もしたしかし、ゴッホが石膏デッサンを拒んだことから、早くも二人の関係は冷却し、3月、マウフェから絶交を言い渡された。その直接の原因は・・・ゴッホの、街の女シーンとの同棲だと思われる。1月末、ゴッホは、シーンを知ったと思われる。その後の1年半余りに及ぶハーグ時代は、両親やマウフェばかりか、テオにまで厳しく反対されながら、6月、性病をうつされて入院しながらも、この子持ち女シーンとの生活は、ゴッホの生涯における彼自身の唯一の家庭生活であった。(なおこの時期、彼の愛読書がゾラ、ミシュレであった)ロートレック(18歳)3月、パリに出たロートレックはブランストーのすすめで、当時の官学系の人気画家レオン・ボナのアトリエに入り、厳しいデッサンの指導を受ける。夏、セイランで過ごした後、9月、ボナが教室を閉じたので、友人たちとともに彼もコルモンのアトリエに移った。1883年、ゴッホ(30歳)貧困と病気に疲れ果て、また、シーンを更生させようとの努力も徒労に帰し、テオの計らいによって、ようやくシーンと別れ、北オランダの泥炭地ドレンテに移ったのは9月、しかし、ここの風景の荒涼と貧しさ、暗さは、彼を孤独に誘いこむのみである農民や泥炭坑夫の数枚の油絵、かずかずのデッサンを描いたが、12月初め、両親の新しい任地ヌエネンに移った。(両親は9月に赴任)そしてここで2年間を過ごし(〜1885年11月まで)油絵だけでも、約200点を制作している。(彼がまずアトリエとして使用したのは牧師館付属の洗濯所である)しかし、このヌエネンでの2年間こそ、彼の故国オランダにおける最後の日々であった。ロートレック(19歳)コルモンのアトリエで、アンクタン、ラヴァル、ゴージ、グルニエ、ラシュー、エミール・ベルナール等と親しくなり、いわばグループを作る。この頃になると、コルモンのアトリエに近いモンマルトルの丘には、カフェ・コンセールやキャバレーが増えて、独特の開放的な雰囲気をもって賑わい出した。そして、ロートレックはその仲間とともに、昼はコルモンのアトリエで、夜はモンマルトルの歓楽場で・・・と、次第にモンマルトル界隈が彼の生活の中心となった。日本の浮世絵版画を集めたのもこの頃、売春婦マリー・シャルルとの関係が出たのも、この年の後半か?翌年のはじめ頃?と思われる。5月、母がマルメロにシャトーを買った。夏、ロートレックははじめてここで過ごした。1884年、ゴッホ(31歳)1月17日、母が脚を骨折し、ゴッホは献身的に介護する。5月・11月、それぞれ短期間、ラッパルトがヌエネンに滞在。8月、隣家の娘マルホット・ベーへマンとの恋愛も、周囲の反対にあって実らず、マルホットは自殺を図る。ゴッホには師らしい師はなく、また直接の弟子もいない。しかし、このヌエネン時代の前半、素人画家たち相手ではあるが、絵を教えている。そして彼らとハーグをはじめ各地の美術館を訪れている。彼の自我の激しさ、描くことの情熱、非強性調は、ここでも、よく土地の人たちとトラブルを起こし、彼の悲劇の原因となっているが、それにしても、このヌエネン時代の前半は、マルホットとの恋愛をはさみながらも、比較的平穏であったと言えるのかもしれない。ロートレック(20歳)制作も歓楽街への出現もいよいよ熱を帯びてくる。快い安息の場であるが母との同居が窮屈になるついに母の反対を(どころか父の反対も)押し切って、フォンテーヌ街の友人グルニエ夫妻のところに移る(そのアパルトマンの中庭の奥に尊敬するドガのアトリエがあった)写真家フォレの庭を制作の場としたのはこの年の後半からか・・・。そしてその年、赤毛のカルメンを知り、彼女をモデルに描くことも多くなった。冬になって、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ の大作『聖なる森』のパロディを描いている。1885年、ゴッホ(32歳)3月26日、脳卒中により父死去。4月〜5月、オランダ時代の代表作『馬鈴薯を食べる人々』完成。しかし、認められず、ラッパルトからさえも痛烈に批判され、5年間つづいた彼との文通も交友も終わりをつげた。この時期、農夫を描くとともに、馬鈴薯や鳥の巣も描く。しかも、絵筆は確実に成熟し、次第に色彩の動きも意識するようになった。しかし、土地の人々とは(家族とさえも)ますます不和になり、11月、ついにオランダを棄てた(その直前3日間、 彼はアムステルダムを訪れ、特に惹かれていた レンブラントとプラトンとフランス・ハルスの 作品のある美術館に通う)。【アムステルダム国立美術館】ロートレック(21歳)7月、歌い手で詩人であり、キャバレーの経営者・・・まさにモンマルトルの申し子ともいえるアリスティード・ブリュアンが、キャバレー「ミルトン」を開き、ロートレックと意気投合、たちまち親しくなった。ロートレックは彼のために、その店のために制作する。そしてこの年、おそらく夏まえに、宿命的とも言える彼とシュザンヌ ・ヴァラドンの出会いとなる。二人はすぐに親しくなり、愛人関係になったロートレックにおけるシュザンヌ は・・・ゴッホにおけるシーンであり・・・ゴッホとロートレック二人の、全く違った、しかも相寄る魂の対女性の象徴的存在である(シュザンヌ との終局は恐らく1889年春だと思われる)。(参考資料:朝日選書・嘉門安雄著・ゴッホとロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)友情にぽち
2021.11.30
コメント(0)
ロートレックとファン・ゴッホは、パリで2年間にわたり深い友情を持ちます。そして南仏への旅を勧めたのはロートレックでありましたファン・ゴッホとの深い友情Van Gogh MuseumToulouse-Lautrec『ファン・ゴッホの肖像』1887年パステル 厚紙 54.0cmx45.0cmアムステルダム「ファン・ゴッホ美術館」所蔵。カフェのテーブルに座るファン・ゴッホのプロフィール(横顔)をパステルの早描きで捉えた一枚。色調も斜線を用いた筆触もゴッホから影響を受けている。コルモンのアトリエでのロートレックとゴッホの交友期間は、ゴッホが南仏アルルに旅立つまでの、わずか2年ほどだったが、二人の間に深い友情が通い合っていたことが分かるアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵 雑誌の表紙デザイン、挿絵画家・版画家。1886年3月、パリに来たゴッホは、コルモンのアトリエに入門し、ロートレックと知り合う。貴族の長男で明るいロートレックと、質素な牧師一家に生まれ気難しいゴッホ、生い立ちも性質もまったく異なっていたが、日本美術愛好者でもあった両者は、ともにグループ展を開催するなど、影響を与え合った。ロートレックが1887年にカフェにいるゴッホを、パステルで描いた。生命感に満ちた荒削りな横顔の肖像には、ゴッホに倣った技法が用いられ、盟友への一種のオマージュにもなっている。ゴッホは・・・この後南仏アルルに向けて旅立つことになるが、それを勧めたのはロートレックだったまた、ゴッホの弟のテオは、パリのモンマルトル大通りにあったブッソ=ヴァラドン画廊(旧グーピル画廊)の支配人を務めており、兄:フィンセントの勧めでロートレックの作品を何点か購入している。このテオの後を継いで支配人となったのが、ロートレックの生涯の友にして、のちに画商として仕事上でも協力者となるモーリス・ジョワイヤンである。フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホVincent Willem van Gogh1853年3月30日〜1890年7月29日(37歳没)アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)ゴッホは、ロートレックより11歳年上だった二人が出会った時、ゴッホは、すでに33歳、ロートレックは、まだ22歳。ゴッホは、32歳から34歳にかけてパリに住みロートレックと交友を持った。ゴッホが自ら命を絶ったのは、その4年後であった。(参考資料:東京美術・もっと知りたいロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ゴッホとロートレックについて更に詳しく次回から友情にぽち
2021.11.29
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの重要な仕事の舞台となったのは、出版業界ですが度々、出てくる出版社についても知りたいのですねロートレックと19世紀末の出版文化Pari大衆紙や世紀末の前衛的な雑誌は・・・ロートレックの重要な仕事の舞台となった。出版社とロートレックは、相互に支え合い、芳醇な世紀末の文化を創設しましたアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵 雑誌の表紙デザイン、挿絵画家・版画家。19世紀末の出版文化は・・・像幅する大衆文化の波及のために目覚ましい発展を遂げたロートレックは、ポスター作家として成功する以前から、この出版業界の一端に自身の居場所を求めて、『ル・ミルトン』や『パリ・イリュストレ』など、当時全盛を迎えた挿絵入り雑誌で、「挿絵画家」としてデビューしたなかでも、日刊紙『ル・フィガロ・イリュストレ』には、編集者として、モーリス・ジョワイヤンが在籍していた。友情で結ばれた二人の協力関係によって、雑誌記事や小説は、ロートレックの挿絵で華やかに彩られ、この新聞の人気に拍車をかけた。また、海を越えてアメリカの文学雑誌『ザ・チャップ・ブック』などもロートレックに作品掲載やポスターを依頼。『悦楽の女王』や『ドイツのパビロン』など大衆小説の宣伝ポスターの注文も舞い込むなど、世紀末のイメージの伝播に、ロートレックは欠かせない重要な役割を担ったのである。文学・美術雑誌『ラ・プリュム』「ラ・プリュム」・・・とは?フランス語で「羽根」の意味。1889年、編集者:レオン・デシャによって創刊されたリトグラフ芸術を支える役目を担った。毎月2回発行され、特にミュシャ人気の火付け役となった。ロートレックも1893年11月発行のポスター特集号で批評家から絶賛された。『54号船室の乗客』1895年リトグラフ 65.0cmx50cm東京「三菱一号館美術館」蔵。1895年の夏、ロートレックがボルドーに向かう船上で出会い魅了された女性を描いた作品。この後、文字が加えられ「ラ・プリュム」が運営する画廊で開催された展覧会「サロン・デ・サン(百人展)」の告知ポスターに使われた。版画集『ラ・ルヴェ・ブランシュ』1889年ベルギーで創刊された自由な編集方針をもつ文学美術雑誌。ゾラやマラルメなどの文学者をはじめ、ロートレック、ナビ派の画家たちも参加した。1891年には、拠点をパリに移し、ナタンソン兄弟によって1893年まで刊行が続けられた。『「ラ・ルヴェ・ブランシュ」誌』1895年リトグラフ 129.5cmx93.5cm東京「三菱一号館美術館」蔵。発行人の一人、タデ・ナタンソンの妻:ミシヤをモデルにしてロートレックが制作した同誌のポスター。背景にうっすら引かれた曲線はスケートリンクの縁を表している。『レスタンプ・オリジナル』1893年〜19895年にアンドレ・マルティによって刊行された版画集。年に40回、限定100部が配本され、毎号10点のオリジナルの版画が収められた。ロートレックは、この版画集の第1号の表紙を手掛けた。第1号の表紙には、ジャンヌ・アヴリルを、最終号の表紙には、ミシア・ナタソンをモデルに起用した。週刊誌・新聞『パリ・イリュストレ』1883年に刊行された挿絵入り雑誌。1887年〜1890年にかけては週刊となり、銅版画や多色刷り版画をふんだんに用いて、イメージによって情報を伝える現在の「週刊誌」の先駆け的存在となった。日本美術も積極的に紹介し、パリを拠点に活躍した美術商、林忠正も、日本美術の紹介記事を寄稿した。『ル・フィガロ・イリュストレ』1880年代発行の日刊紙『ル・フィガロ』の付録雑誌。新聞の購読数を伸ばす目的で制作された。ロートレックは、友人:ジョワイヤンの紹介で、ギュスターヴ・ジェフロワの記事「パリの歓楽」の挿絵を担当。カラー印刷を生かした豊かな色彩が人気となり、その後も記事や小説の挿絵を制作した。(参考資料:東京美術・もっと知りたいロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.28
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックは、親しい友人の肖像画も多く描いています親友:アンリ・イベルス・・・とは?Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisHenri-Gabriel lbels(1867-1936),1892-1893『アンリ=ガブリエル・イベルス(1867-1936)』1892年〜1893年 Oil on cardboardニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。Henri-Gabriel lbels「アンリ=ガブリエル・イベルス」は・・・ロートレックの親友であり協力者である。エドゥアール・ヴィヤールやモーリス・ドニとともに「ナビ派」を創設したメンバーの一人である。この油彩は、ロートレックが描いた親友「イベルス」の肖像画である。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。アンリ=ガブリエル・イベルス・・・とは?Henri-Gabriel Ibels1867年11月30日〜1936年1月31日フランスの画家。「ナビ派」の画家・イラストレーター。ポスターや出版物の挿絵で知られる。パリ「アカデミー・ジュリアン」で学び「総合主義」を提唱後「ナビ派」の創立メンバーとなる。「ナビ派」・・・とは?Les Nabis19世紀末のパリで活躍した前衛的な芸術家の集団。「ナビ」は・・・ヘブライ語で預言者を意味する。「ナビ派」は、19世紀を支配していた写実主義を否定。芸術の神秘性を主張するもの。ゴーギャン、オディロン・ルドン、ジョルジュ・スーラなど、「ポスト印象派」が道筋を用意した。「ナビ派」の主な画家・・・とは?ピエール・ボナール(1867年10月3日〜1947年1月23日)Pierre Bonnarudエドゥアール・ヴュイヤール(1868年11月11日〜1940年6月21日)Edouard Vuillardモーリス・ドニ(1870年11月25日〜1943年11月13日)Maurice Denisポール・ランソン(1864年〜1909年2月20日)Paul Ransonアリスティド・マイヨール(1861年12月8日〜1944年9月27日)Aristide Bonaventure Jean Maillolヤン・ヴェルカーデ(1868年9月18日〜1946年6月19日)Jan Verkadeアンリ・イベルスは・・・政治や社会問題に関心が高く、新聞や雑誌の風刺画の分野でも活躍した。1890年から「エミール・プゲ」Emile Pougetlが創刊したアナキズムの新聞「Le Pere peinard」や弟:アンドレが編集した「La Revue anarchiste」などに挿絵を描いた。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、テオフィル・アレクサンドル・スタンランらと並んで劇場やキャバレーのためにポスターを制作した。(ニューヨーク・メトロポリタン美術館解説より)(参考資料:ウィキペディアさまより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.27
コメント(0)
トゥールーズ=ロートレックの描く肖像画は、貴婦人から娼婦、普通の庶民と様々ですが、他の画家たちとは違う描き方なのですロートレックの肖像画の特徴Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisThe Streetwalker,ca.1890-1891Oil on cardboard ストリートウォーカー(売春婦)カスク・ドール1890年〜1891年頃ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。(MET.館内の解説文)As early 1901 the woman in this painting was identified as a streetwalker.Her name,however,has been lost to history;only the nickname La Casque d'Or(Golden Helmet),which refers to her wig,has survived.She sits in the garden of Monsieur Forest,Lautrec's neighbor in Montmartre.The Walter H.and Leonore Annenberg Collection,Bequest of Walter H.Annenberg,20021901年の初めにこの絵の女性は娼婦をしていました。彼女の名前は、特徴あるカツラを示すあだ名で「黄金の兜」と呼ばれた。彼女は、ロートレックの隣人であるフォレストさんの森の庭で座ってポーズしました。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。何点も描かれた肖像画のなかでも、ロートレックがモデルのポーズに独創性を追求したことはない。モデルは、たいてい素人のモデルで、アトリエや住まいの片隅、どこかの緑の木陰など、あまり特徴のない場所を背景にして、横顔や、斜め正面、真正面に顔を向けて座っている。夜の盛り場での前身像の肖像画は例外にすぎない。このモデルカスク・ドール=黄金の兜は、「社会の下層」を暗示する人物である。The Streetwalker=娼婦であり、ギロチンで処刑された無政府主義者の愛人でもあった。すなわち彼女は・・・「上流階級」が拒絶するようなあらゆるものを一身に担っているのである。しかし、ロートレックにとって彼女は、第一に女性であり、その意味においては他のどんな女とも同じような関心を引きつけるに過ぎないが、彼女のあだ名の由来となり、たくさんの踊り子たちがそれを真似たカツラをかぶるほどの成功を収めた彼女の髪型と、その選択の秘密を閉ざして内心を明かさない彼女の顔は、見過ごすことはできないだろう。この肖像画は・・・尊大さも称賛も示してはいない。この娼婦が、自分の内面を明かすことに同意するかもしれないというイメージを植え付けるような配慮もまったく払われていない。薄い唇、真っ直ぐな視線、青白い化粧などを、ロートレックの線影が本物らしく作り出し、同時に解体する。輪郭線で縁取られた上半身が前景に位置する様子は、背景の庭を、まるで写真家が使うような絵に描いた庭に過ぎないように見える。自然を愛好した画家たちとは異なり、ロートレックは自然に対してアトリエの書き割りのような役割しか与えていない。(参考文献:岩波世界の巨匠ロートレックより)(メトロポリタン絵画の解説文より)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.26
コメント(0)
トゥールーズ・ロートレックの作品の中で多く描かれたテーマです。鏡の前に立って女性は全身をチェツクしているみたいですね『鏡のまえの裸婦』1887年Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisWoman before a Mirror,1897Oil on cardboad(厚紙に油彩)『鏡のまえの裸婦』1897年ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。これはロートレックの全作品の中で最も奇妙で、最も目立った油彩画である。何故ならば・・・それはほとんど主題の不快さが強調され痛烈さを帯びている唯一の作品であるからである。1905年〜1908年にルオーが制作した類似の絵画までには、ひとまたぎにすぎないのだ。この油絵、ことに肉体の油絵は、前葉の図版よりさらに力強くそして主題はより芸術家の心に触れている。ロートレックの色彩の変化に注目されたい。全体の色調は前よりも暗くよく響いている。また絵画的要素としての線の重要性が減じていることにも注目のこと。これはロートレックが晩期の作品で用いることとなるいっそう絵画的なスタイルへの第一歩なのである。(館内の解説文)The indolent,cloistered lives of prostitutes was the subject of some of Lautrec's most powerful works.He made about fifty paintings depicting them,as well as numerous drawings and prints,including a suite of color lithographs,Elles,which was completed the year before this painting.Lautrec does not flatter the woman's naked figure,nor does he divuge the expression she sees in her mirror;she appears simply to be taking a stark appraisal of herself.怠惰な売春婦の回廊生活は、ロートレックのいくつかの主題の中でも最も多く描かれました。彼は、約50枚描き、この絵の1年前に完成した油彩画だけでなく多数の版画やカラーのリトグラフも描いています。彼女は鏡の前で自分自身を厳しくチェックしているように見えます。ロートレックもまた女性の裸の姿をありのままにお世辞なく描きました。(参考資料:BSSギャラリー世界の巨匠LAUTRECより)(メトロポリタン美術館内解説文より)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.25
コメント(0)
トゥールーズ=ロートレックは、美しい女優ランデールが舞台でボレロを踊る姿を描きました〜「シルペリック」のボレロを踊るマルセル・ランデール HENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901Marcelle Lender,1895-1896Dancing the Bolero in "Chilperic"『「シルペリック」のボレロを踊るマルセール・ランデール』1895年冬 oil on canvas 1.45mx1.50m「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。美しい姿勢と美しい衣装と優雅さで有名な若い女優「マルセル・ランデール」が、初めてロートレックの目にとまったのは、1893年の終わり、彼女がヴァリエテ劇場において、ファンタジア「マダム・サタン」に俳優:ブラッスールと共演したときのことであった。このときロートレックは、彼女を3枚の石版画におさめた。しかし 1895年2月には、同じ劇場におけるエルヴェ作のオペレッタ「シルベリック」の再上演で驚くべき成功をおさめた。彼女の演技(それには二つのすばらしい踊り、ファンダンゴとボレロが含まれていた)にとらわれてロートレックは20数回も彼女をみにいった。そのたびに多くの粗がきのスケッチ(イヴェット ・ギルベールでやったような)を作り、これらによって、この年に彼女の8枚の石版画の肖像画を作りあげた。これらの一つはランデールが踊っている後ろ姿である。「僕はランデールの後ろ姿を みるだけでいいからそこにいくのだ。 君はこれ以上美しいものを みることはできないだろうからよく見給え」とロートレックがいったと伝えられる。ロートレックの絵は・・・シルベック王が王座につき廷臣たちに囲まれて后ガルスヴィンタ(ランデールの役)がボレロを踊っているのを見守っているさまを描いている。この絵は、ほとんど同じ時期の『ムーラン街のサロン』のように、大きさと構想の点で、ロートレックにとっては例外的なものであり、長時間をかけて慎重に考えぬいて作られたもので、多くのスケッチがこの劇場でかかれた。他の大きな構図ではロートレックは、これほどの絵画的造詣を採り入れようとはしなかった。けれども制作過程において彼の絵は、現実感の多くを失った。と同時にステージだけがこの絵に組み入れられ、ロートレックは慎重に舞台美術の人工的な要素を駆使している。この絵では他のどれよりも奥行の感じが欠けている。床板の線による遠近法を創り出そうとする試みもみられない。眼は青色の小姓たちの足よりも向こうには入り込んでゆかない。他の登場人物と書割りは、踊り子のリズミカルな動きを得てそれらをさらに強調するためにたんに簡潔で静的な枠組みを作り出すように案出されたものである。再びロートレックは、下方からの反射光を用いた。その結果として顔はみな仮面のようにみえ、それらの一つ一つの表現的な特徴が描き出されている。 (参考文献:BSSギャラリー世界の巨匠LAUTRECより)この大作(1.45mx1.50m)は・・・ロートレックがこの女優に長い間魅惑され続けた成果であり、彼女が出演する劇場に毎日のように通い、彼女自身が気詰まりに感じるほどの熱心さで、夥しいデッサンやリトグラフを制作した末のものであった。ある時は、ロートレックはレストランで彼女に向かい合って座り、黙ったままでじっと彼女に視線を捉え、その表情を観察したりしたほどである「シルペリック」は、スペインの祖となる女王ガレスヴィントの統治したメロヴィング朝の叙事詩をパロディ化し、ボレロに振り付けたオペレッタに過ぎない。しかしロートレックはこの芝居のなかに、彼が一人の女性と演劇的表現のうちに求めているすべてのものを見出したのである。優雅、繊細、極限にいたる技巧、見せ場を創るために肉体を完全に制御することなどである。彼の絵画には、フォーヴィスムの先駆のような生の色彩が使われ、舞姫の肉体がつくるグロテスクな半円形の渦巻きを中心に構成されている。マルセル・ランデール自身はこれが気に入らず、友人のポール・ルクレールに譲られたが、ロートレックの劇場への愛情を示すと同時に、彼の絵画の転機を画する重要な作品となったことは間違いない。絵具は前より厚塗りになり、デッサンは暗示的なところが少なくなっている。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.24
コメント(0)
トゥールーズ=ロートレックの絵画ですが、思わずドガの「アブサントと飲む女」を思い浮かべてしまいますね『ダンス・ホールの片隅』1892年冬HENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901A Corner of the Moulin de la Galette,1892oil on cardboard(厚紙に油彩)102.0cmx99.0cm『ダンス・ホールの片隅』1892年「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。ロートレックは・・・再びミュージック・ホールかキャバレーのプロムノワールにわれわれを連れてゆくこのたびはムーラン・ルージュよりは流行らない店ではあっても・・・。この絵は、ムーラン・ド・ ラ・ギャレットを描いているといわれるが、しかしこの照合は疑わしい踊り子と娼婦が、馴染みの客の座っているテーブルの間を縫ってまわっている。そして長い黒いコートを着た女性ひとりが山高帽の男に視線を向けている。ここには短編物語の要素が全部そろっているが、しかしこれはいかなる意味でも文学的な絵画ではない。いつものごとくロートレックは、群がる人波を描かずに、二、三人の人物に集中したこれらは、三人三様のタイプの女性の間のスタイルの対象によって、この絵を作り出す。ここでは彼が下から人物を眺め、こうして背景をシャット・アウトすることによって空間の問題を回避する新しい解決を採用しているのがわかるこれはロートレックにしては珍しく悲しげな絵である。このムードは、全景の女性の陰気な夢みるような表情によって醸し出されている。再び・・・ドガの『アブサント 』(パリ・オルセー美術館蔵)と、マネの『ほろ酔いの女』1877年(ニューヨーク、アーサー・サックス夫妻蔵)さえ想起させる。これは、ロートレックが効果を高めるために容易に誇張とか戯画に筆を染めようとすればそうできた作品なのであるが・・・しかしそのようにしなかったという事実は、ロートレックの本質的な人間性と情熱的に超然と身を保つことができる能力をわれわれに印象づけている。この絵にはロートレックが、もっとも高貴に、もっとも優れたものとしてあらわれている。(参考資料:BSSギャラリー世界の巨匠LAUTRECより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.23
コメント(0)
ロートレックの親友のひとりであった「ドトーマ」をオペラ座の舞踏会に参加しているかのように描いた作品です『オペラ座の舞踏会におけるマクシーム・ドトーマ』HENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901Maxime Dethomas,1896oil on cardboard(カンヴァスにグワッシュ)70.0cmx56.0cm『オペラ座の舞踏会におけるマクシーム・ドトーマ』1896年「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。(チェスター・ディル・コレクション)アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。これはもっと以前にドラポルト氏の肖像と比較できる肖像画である。両者とも、ドラポルト氏は、ジャルダン・ド・パリのお客として、ドトーマ氏はオペラ座の仮面舞踏会にいるように、想像上の情景設定を与えられている。しかし、この絵は芸術家がモデルの性格とか形似性を捉えようとすることには無関心であるから、通常考えられる意味での肖像画ではないゆえに、違っている。黒い服装の雑念とした姿・・・彼の容貌はその一部がみえるだけである・・・はむしろ背景の騒ぎにまつわる連中の引き立て役のように存在している。われわれはこの絵から、彼の個性とか容姿についての多くを知ることはできない。画家で版画家であったマクシーム・ドトーマ(1868年〜1928年)は、1890年代の初めから生涯の終わりまでロートレックの親友のひとりであった。彼は非常に背丈が高く肥満していたが、しかしまた鋭敏な感覚の穏和な男であった。タデ・ナタンソンは次のように書いている・・・「彼は自分自身に注目を ひきつけることになりそうなものを 着たり身につけたりすることを ひどくこわがって、 黒い服装さえもが、 他の人が着ている服よりも 黒っぽく目立つように思ったほどだ」。そしてポール・ルクレルは、ドトーマがロートレックを魅了したものは、「彼の歓楽の巷の中でさえも受動的な態度を保とうとする能力」であるといっている。これをわれわれは、この人物を明らかにする短評として理解でき、それをこの絵にあてはめることができる。1895年、ロートレックは、ドトーマとともにノルマンディー海岸で夏を過ごした。ここでドトーマの肖像を描いた。1897年、彼らはともにオランダに旅行し、ハーレムのフランス・ハルス美術館を訪れた。ドトーマの作品は、ロートレックの作品から多くの影響をうけた。(参考文献:BSSギャラリー世界の巨匠LAUTRECより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.22
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックは、モンマルトルの舞台に立つお笑い芸人たちとも交流しながら大胆な構図でリトグラフを制作しますロートレックが夢中になった芸人とは?Pariアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ・石版画。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。芸人「喜劇役者」を描く ComedienコーデューCaudieuxアルベール・コーデュー「大砲男」とあだ名された。「プティ・カジノ」や「エルドラド」「アンバサドゥール」を中心に活躍した喜劇役者。『コーデュー』1893年リトグラフ 122.1cmx94.0cm東京「三菱一号館美術館」蔵。太った体を揺らして舞台に登場する喜劇役者「コーデュー」を画面いっぱいに大胆にとらえて写楽の役者絵を彷彿とさせる作品。オリーヴグリーンの輪郭線や黒、黄と赤といった色彩が効果的に用いられている。右下には、舞台下からせりふなどを伝えるプロンプターが、舞台の臨場感を表すかのように、ユーモアたっぷりに描かれている。1860年代から、万国博覧会などをきっかけに日本趣味(ジャポニスム)が流行し、ロートレックもまた、日本美術愛好家で、浮世絵を収集し、1880年代〜1890年代にパリで集中的に催された日本美術の展覧会には必ず足を運んだ。ジョワイヤンが企画した「歌麿展」の準備を手伝うこともあり彼の大胆な構図と色使いによるポスターには、浮世絵や役者絵の影響が明らかで、力強い見事な効果を生んでいるシャ=ユ=カオCha-U-KOChahut Chaoschahut=「カンカン踊り・騒音」に由来する。Chaos=「カオス・混沌」に由来。彼女がステージに上がった時の歓声から来ている。La clownesse Cha-U-KO,srtiste au Moulin rouge『女道化師シャ=ユ=カオ』1895年油彩 厚紙 64.0cmx48.0cmパリ「オルセー美術館」蔵。サーカス小屋や「ムーラン・ルージュ」で活躍した女道化師。ロートレックお気に入りのスターシャ=ユ=カオが舞台に上がる前に衣装合わせに没頭している緊張感を表している。『石版画集「彼女たち」:座る女道化師(シャ=ユ=カオ嬢)1896年 リトグラフ 52.5cmx40.5cm東京「三菱一号館美術館」蔵。娼婦を描いた「彼女たち」のなかでは、例外的に女道化師を主役に描いた一枚。大胆に脚を開き、悲哀を含んだ微笑みを浮かべて鑑賞者を見つめる女道化師シャ=ユ=カオは、娼婦たちの世界もまた一種の道化芝居であると告げているかのようである。その背景には、おそらく娼婦と思われる女性と肩を並べるシルクハットの男性の後ろ姿が描かれている。(参考文献:東京美術・もっと知りたいロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)芸人にぽち
2021.11.21
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック晩年のミューズを描いたリトグラフの傑作『マルセル・ランデール嬢、胸像』とは?ロートレックが夢中になった女優とは?Pariアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ。舞台の装飾、芝居のパンフレットのデザイン。版画、メニュー、挿絵。世紀末のパリでは・・・国立のコメディ=フランセーズや名門劇場のルネサンス座だけでなく、前衛演劇の流行とともに誕生した自由劇場や制作座など、多くの劇場で日々さまざまな演目が上演されていた。ロートレックも足繁く劇場に通い、役者の肖像画や演劇空間を主題にした。HENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901Marcelle Lender,1895-1896Dancing the Bolero in "Chilperic"oil on canvas 1.45mx1.5m『「シルペリック」のボレロを踊るマルセル・ランデール』1895年冬 「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。舞台でシルベック王が王座につき廷臣たちに囲まれて后ガルスヴィンタ(ランデールの役)がボレロを踊っているのを見守っているさまを描いている。女優 Actriceマルセル・ランデール本名:アンヌ=マリー・マルセール1889年以降「ヴァリエテ座」のスター女優として活躍なかでもロートレックは、オペレッタ「シルベック」で人気を博した女優:マルセル・ランデールに夢中になった。1895年、リトグラフで『マルセル・ランデール嬢、胸像』を制作。リトグラフ 32.9cmx24.4cm東京「三菱一号館美術館」蔵。版を重ね、試行錯誤の末にできた最も完成度の高い版画作品の一つである。舞台芸術を愛したロートレックは、人気役者兼演出家:リュネ・ポーの依頼で、前衛劇場の舞台装置を制作し、野外舞台の装飾や、芝居のパンフレットのデザインも行なった。『マルセル・ランデール嬢、胸像』1895年は、オペレッタ「シルベック」のランデールを題材にした連作のなかでも、最も洗練された多色刷りリトグラフ。幻想的なスペイン風の衣装に身を包むランデールが聴衆の歓呼に応え。お辞儀をする情景を微妙な色版の組み合わせや「ぼかし」など、繊細な技法で仕上げた。ドイツの雑誌「パン」にも紹介されたが、その斬新さゆえ一部から激しい批判を浴びた。(参考文献:東京美術・もっと知りたいロートレックなど)(写真撮影:ほしのきらり)シルベックにぽち
2021.11.20
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックが18世紀末から19世紀初頭に夢中になった踊り子さんを知りましょう19世紀末〜モンマルトルのスターを知るHENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901Quadrilk at the Moulin Rouge,1892oil on cardboard「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ。版画、メニュー、挿絵など。夜の街「モンマルトル」を舞台に輝きを放つスターロートレックは個性豊かな彼らと交流しながら、その魅力を余すところなく、大胆な構図で切り取っていったモンマルトルのあらゆる娯楽場のなかでも、ロートレックがもっとも愛した場所・・・それが「ムーラン・ルージュ」だったダンサーDanseurラ・グーリュLa Goulue本名=ルイーズ・ヴェルベル『ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ』1891年〜1892年油彩 板 79.4cmx59.0cm ニューヨーク「近代美術館」蔵。「ムーラン・ルージュ」のダンサーで、脚を高く上げるシャイユ踊りで人気を得た。ラ・グーリュは、「大食い」というあだ名客に酒をせがんで幾らかでも飲み干してしまうことから付いたこの店の常連になった27歳の若き画家ロートレックが、店主から注文を受けて制作した記念すべきポスター第1作『ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ』1891年リトグラフ 195.0cmx122.0cm東京「三菱一号館美術館」蔵。この店のスター・ダンサーであったラ・グーリュと骨なしヴァランタンの二人のダイナミックな踊りを4色刷りのリトグラフで効果的に強調した大胆な構図のポスターは、街に張り出されると一晩にして街中の話題をさらい、大成功を収めたジャンヌ・アヴリル Jane Avril(1868年6月9日〜1943年)『踊るジャンヌ・アヴリル』1892年油彩 厚紙 85.5cmx45.0cmパリ「オルセー美術館」蔵。ジャンヌ・アヴリルは、イタリア貴族出身の父と高級娼婦の母の間に生まれ20歳で踊り子として「ムーラン・ルージュ」でデビュー、やがてモンマルトルの大スターとなるはかなげな外見からは想像できないほど生命力あふれる激しい踊りを披露し、「メリニット(爆薬)」の異名をとったジャンヌを人々は「舞踏の化身」と評した。ラ・グーリュとコンビを組み人気を博した。やがてコンビを解消し、「ムーラン・ルージュ」以外でも活躍した。1890年頃彼女と知り合ったロートレックは、その踊る姿を度々素早い筆致でデッサンし、ジャヌ・アヴリル自身の依頼で制作した『ディヴァン・ジャポネ』1893年(日本の長椅子)リトグラフ 81,0cmx62.3cm東京「三菱一号館美術館」蔵。カフェ・コンセール『ディヴァン・ジャポネ』(日本の長椅子)は、その名の通り、日本風の内装と着物を着た店員が売り物だった。その店内の様子を描いている。『ジャンヌ・アヴリル』1893年リトグラフ 130.0cmx95,0cm東京「三菱一号館美術館」蔵。「ムーラン・ルージュ」の別館としてシャンゼリゼ大通りに開店した「ジャルダン・ド・パリ(パリの庭)」にジャンヌ・アヴリルが出演する際の宣伝用に制作された。舞台下のコントラバス奏者をシルエットで描く手法は、歌川広重の『名所江戸百景』から取り入れたものでジャンヌの個性的なダンスを目立たせるのに一役買っている。ロイ・フラーloie Fuller1862年1月15日〜1928年1月1日シカゴ出身のダンサーであるロイ・フラーは、モダンダンスと舞台照明技術両方の分野のパイオニア。衣装の袖を激しく旋回させる「火の踊り」で人気を博した。多色スポット照明の効果を生かしたパフォーマンスである。ロートレックは1890年〜1896年頃にかけて「ムーラン・ルージュ」を題材に30点ほどの油彩画を描いている。19世紀後半から普及した「ガス灯照明」が生む人口的な世界は都市生活者が集う”現代の”モンマルトルの栄華を象徴する一方、画家独特の視点によって、人物の姿を醜くデフォルメする口実となった。「人間は醜い。けれど人生は美しい・・・」こう語ったロートレックは、あえて人物の醜悪さや奇怪さを強調するかのように絵を描いた。そしてその作品を見る者は、人間存在と生々しいまでの「生」そのものを実感させられるのである。『ムーラン・ルージュにて』1892年〜1895年油彩 カンヴァス 123.0cmx141cm「シカゴ美術館」蔵。強烈なインパクトを与えている、光が当たって浮かび上がった右側の女性の一瞬の表情からは、その人物の内面だけでなく虚飾の世界モンマルトルに生きる人間の悲哀までもが透けて見えるかのようである。メイ・ミルトンMay Miltonイギリスのダンサー。パリでは短期間しか活躍しなかったが、アメリカ公演のポスターをロートレックに発注した。『メイ・ミルトン』1895年リトグラフ 80.3cmx61.5cm東京「三菱一号館美術館』蔵。ヴァランタン体が柔らかく「骨なしヴァランタン」といわれた。ラ・グーリエとともに「ムーラン・ルージュ」の看板スター。『骨なしヴァランタンによる新入りたちの訓練』(ムーラン・ルージュ)1890年油彩 カンヴァス 115.6cmx149.9cm「フィラデルフィア美術館」蔵。総勢26人の群衆を大画面に配した野心的作品。「ムーラン・ルージュ」のスターや友人たちなど、貴族から娼婦まであらゆる階級の人々が画家の鋭い観察眼によって描き出されている。画家は、踊り子の躍動感あふれる動きだけでなく、前景の高級娼婦の横顔に、一瞬だけ浮かんだ孤独感をも見逃さずに捉えている。(参考文献:東京美術・もっと知りたいロートレックなど)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレック にぽち
2021.11.19
コメント(0)
ロートレックは、夜のモンマルトルで個性豊かな歌手・踊り子・芸人たちと交流しながら彼らを描き続けました。Pari Montmartre19世紀末〜モンマルトルのスターを知る夜の街「モンマルトル」を舞台に輝きを放つスターたちロートレックは、個性豊かな彼らと交流しながら、その魅力をあますところなく大胆な構図で切り取っていった。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。歌手 Chanteurメイ・ベルフォールMay Belfort1890年頃〜1929年アイルランド出身の歌手(アイルランド民謡を得意とした)ロンドンのミュージックホールでコメディアンと歌手をしていたパリに渡り Petit Casino「プティ・カジノ」に出演する際にロートレックにポスターを注文して描かせたのがこの赤いドレスを着て黒い猫を抱いたポーズです。アリスティド・ブリュアンAristide Bruant1851年〜1925年1885年にキャバレー「ミルリトン」を開店し、破天荒なパフォーマンスで人気を博した。“モンマルトルのナポレオン”黒のつばの広い帽子と赤いスカーフがトレードマーク。誰もが認める「カフェ・コンセール」のスターロートレックをモンマルトルの世界へ引き込むきっかけの一つを作った!ロートレックは、ブリュアンのために4種類のポスターを制作しブリュアンの姿を人々に強烈に印象付けた。背景を省略しブリュアンのカリスマ性を強調した構成の2作目『アリスティド・ブリュアン、敵のキャバレーにて』1893年 リトグラフ 134.0cmx99.6cm東京「三菱一号館美術館」所蔵。ブリュアンは、元鉄道員だった。荒っぽいののしるようなブリュアンの語り口とその圧倒的な存在感に魅了されたロートレックは、彼の店に通い詰め、歌の世界を絵にするだけでなく、ブリュアンが手掛ける会報誌「ル・ミルリトン」(1886年12月刊)の表紙をスイスの画家:スタンラン(1859年〜1923年)と共作した。ブリュアンは、ロートレックの大胆な作風を好んだカフェ・コンセール「アンバサードゥール」のポスターは、あまりに大胆な構図から、支配人が受け取りを拒否したが、ブリュアンは・・・このポスターを使用しなければ出演しないと主張彼もロートレックの美意識を深く愛した一人であったイヴェット・ギルベールYvette Guilbertエマ・ロール・エステル・ギルベール1865年1月20日〜1944年2月3日長身を生かした大きなジェスチャーと独特な歌唱スタイルで一世を風靡したスター黒い手袋がトレードマークだった。(参考資料:東京美術・もっと知りたいロートレック他)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.18
コメント(0)
とてもカワイイ人気歌手「イヴェット・ギルベール」を描いたロートレックですが、デフォルメし過ぎて激怒されてしまいます人気スター「イヴェット」を描くがボツに!Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisYvette Guilbert,1894『イヴェット・ギルベール』1894年(未完のポスターの下絵)スペイン「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。ロートレックが「アンバサドゥール」に出演するイヴェットのためにデザインしたポスター。あまりにもダイナミックな表現と醜く誇張された表情がイヴェットの不評を買い完成に至らなかった。イヴェット・ギルベール・・・とは?Yvette Guilbertエマ・ロール・エステル・ギルベール1865年1月20日〜1944年2月3日黒い長手袋がトレードマークのイヴェット・ギルベールは、20歳のとき、役者としてデビューしますが、のちに歌手に転身してスターダムを駆け上がった。長身を生かした優雅なジェスチャーと辛辣で卑猥なシャンソンを語るように歌うギャップが、観衆たちを熱狂させた。画家に限らず、彫刻家、写真家など・・・多くの芸術家が彼女の姿を作品に表した。もちろんロートレックも彼女の舞台に魅せられ、その個性的な演技姿を油彩画やリトグラフ、そして挿絵などさまざまな形で残した。ロートレックは、ときに本人を不快にさせるほど、その特徴を辛辣にデフォルメして描いたが、「アンバサドゥール」用のポスターでは、イヴェットも大いに困惑した。結果、ロートレックの案は退けられ、舞台から観客を見下ろす威厳と風格に満ちた姿を描いたスタンランの案が採用された。しかしその後ロートレックの挿絵が採用された小冊子、アルバム『イヴェット・ギルベール』の出来には、歌姫もいたく満足したという。アルバム『イヴェット・ギルベール』・・・とは?1894年に出版者で画商のアンドレ・マルティにより刊行されたこのアルバムは・・・批評家:ギュスターヴ・ジェフロワが、カフェ・コンセールを描写したテキストと、ロートレックのリトグラフ16点からなる。100部限定番号入りで刷られ、1点ずつ奥付にイヴェットの署名がされ、さながら今で言う限定版「アイドルのサイン本」といった感じ!カフェ・コンセール到着場面から、 Cafe Concertカーテン・コールまで、さまざまなポーズと喜怒哀楽に満ちた演技姿をあますところなく伝えている(参考資料:東京美術・もっと知りたいロートレックなど)(彼女についてもっと詳しく知ってみましょう)ロートレックがある時期に特別に情熱を傾けたのは、有名なシャンソン歌手:イヴェット=ギルベールである。ギルベールは1894年におけるロートレックの中心的画題でであるが、彼女は単に画家のモデルというのでなしに、まさに彼の好敵手といった方が良いかもしれない。両者は、芸術家として互いに相手を意識しながら、ビジネスに関しては決して妥協はしないという間柄だからである。ギルベールは富裕階級の出身であり、知的な歌手であった。とびきりの美人でないにしても、歌が巧く、話術も達者で、きわどい内容を表現しながら、決して下品にならないところが・・・彼女の品性と知性のなせる技であった。1886年にデビューしたギルベールは、最初音楽専門の会場で歌うことを目差すが、のちカフェ=コンセールに転じ、ムーラン=ルージュとディヴァン=ジャポネで歌った。裾の長いシンプルな袖なしのドレスと、肩に届きそうな長い黒の手袋とが彼女のトレードマークであり、鈴を振るような美しい声で身じろぎひとつせず無表情に歌うのが特徴であった。ギルベール自身の回想録「私の人生の歌」(1926年)によると、彼女は・・・〈色白の背の高い女で髪は赤毛、 鼻は大きく、口は細く長く、胸はなかった〉ということであるが、写真で見るかぎり、どうしてなかなかの美人である庶民から、貴族まであらゆる階層の人々を魅了したといわれるギルベールは、ジャーナリズムの格好の対象になり、絶えず華やかな話題を提供した。多くの作家が彼女に興味を示し、歌詞の提供を申し出る者、伝記を描きたいと申し出る者などが後を絶えず、彼女に関心を示した作家の中には・・・モーリス=ドネイ、ジャン=ロラン、ジュール=ルナール、アンリ=ラヴダンなどがおり、そして、エミール=ゾラも彼女を礼讃したという。彼女は・・・1894年のイギリスの公演、1895年のアメリカの公演でともに成功を収めている。とくに最初のロンドンの際には、バーナード=ショウが、〈ザ・ワールド〉に賛辞を捧げたほどである。これほどの魅力的な芸能人を同じ土地に住むロートレックが放っておくはずはない彼は1894年、作家:モーリス=ドネイの紹介で彼女と会った。どちらの希望かわからないが、とにかくギルベールのポスターをつくるためである。しかし、のちに彼の下絵を見たギルベールは度肝を抜かれ、それ以後決してポスターを頼もうとはしなかった。そこにはデフォルメされ、滑稽で驚くほど個性的なひとりの歌手が描かれていたからである。それについては下絵を見た彼女の母親の方が本人以上にショックを受けたとも伝えられている。そこで彼女は下絵にこう書き添えた。「ちびの怪物さん、 あなたは何と恐ろしい絵を描く人でしょう」 (幸田礼雅訳)次は、その後ギルベールがロートレックに送った手紙の一節である「話は先にのばしていただきたいんです。 でもお願いですから、 あんなにも醜く私を描かないでくださいな。 もう少しなんとかなりませんの・・・。 家に見えておられた大勢の方が、 あの彩色の下書きを見て 無作法な叫び声をあげました・・・。 みんな、 芸術的な面からだけでは見ませんものね・・・。 仕方がありませんわ」 (千葉順訳)ギルベールは結局、別のポスター作家スタンランにそれを依頼することにし、その結果、ごく常識的な広告(アンバサドゥール出演のもの、1894年)が出来上がった。そして、ついでながらもう一点、エミール=バックの制作になる女神のような美しいギルベールのポスター (スカラ座出演、1893年)がある。1894年、ロートレックは、『イヴェット=ギルベール』と題する石版画を発表している。それは、ギュスターヴ=ジュフロワの文章とロートレックの挿絵とで成り立つ16枚ひと組の作品である。しかし、ギルベールはそこに描かれた自身の姿の奇怪ぶりに辟易し、長い間署名をためらったという。そして、1998年、ロートレックは再び版画集『イヴェット =ギルベール』を発表している。それは、8枚ひと組の作品で歌唱中のギルベールを写しており、それぞれの紙葉に彼女の歌う別々のシャンソンの題名が付けられている。これらについてフェルミジェは、「いずれも天才的な出来映えでロートレックの真髄を示す作品」と絶賛している。しかし残念なことに、その後ロートレックのポスターの主題にギルベールが登場することは無かった。彼女は芸術家:ロートレックを愛しており芸術家の方も女性歌手に愛着をもっているのに、なぜ両者の接点ともいうべきポスターの実現に至らなかったのか?おいおい探求してまいりましょう。ギルベールは、どんなシャンソンを歌っていたのか?持ち歌のひとつ『酔いどれ女』の一節を紹介いたします。「クリシー辺りの酔いどれ女 寄辺もなければ金もなく ねぐらは地べたか屋根の裏 朝は早くからきこしめし 町の歩道に姿見せ 顔つきすごく千鳥足 おどけた顔の飲み屋の親爺 店の敷居で言うことにゃ〈飲んだくれだぜ、あの女は〉」(シュール=ジューイ:詩 幸田礼雅訳)(参考資料:新潮選書・ロートレックの謎を解く・高津道昭様より)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.17
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックは、37歳という若さで亡くなります。その短い最晩年を詳しく知りましょう。晩年のロートレックを知る Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisWoman before a Mirror,1897Oil on cardboad(厚紙に油彩)『鏡のまえの裸婦』1897年ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ。版画、メニュー、挿絵など。1897年(33歳)ロートレックは、フロショー通り15番地に新しいアトリエを構え、この引越しを祝うために友人たちを招待した。彼らに送った小さなリトグラフには、雌牛の乳を搾ろうとしている牛飼いの姿で自分を表している。つまり招待状に書かれた「一杯のミルク」の味見をすることにひっかけているのだが。フロショー通りは、ロートレックがいつも疲れを癒しにいく母親の家にやや近づくことになった。彼の表現によれば、彼女は「母であるとともに聖女」であり、ポール・ルクレールの言に従えば「毎日ミサに通うきれいな手をした老婦人」であったが、つねに息子の健康や交際相手に対する不安で心を悩ませていた。しかもフロショー通りは、元のトゥールラック街よりも、「ラ・スーリ」やもう一つの女性用(レズビアン)バー「アントン」に近くなったのだ・・・。このアトリエでロートレックは友人ルクレールの肖像画を描き、『彼女たち』と題された11枚のリトグラフからなるシリーズの構想を実現させた(訳注:制作されたのは、フロショー街のアトリエに移る前の1896年である)。そのうち6点は前年に油彩でも制作されている。扉となる版画は拡大されて「ラ・プリュム」誌のギャラリーで開催されたリトグラフ集刊行記念の展覧会ポスターとしても使われた。『彼女たち』は、シャ=ユ=カオ1点を除いては、私生活のさりげなさのなかで捉えられた娼婦たちを描いたものである。「客」が描かれている図も唯一あるが(『束の間の征服』という最初の題名から 『コルセットを付ける女』と改題され、 特別な場合ではないことを表している)、すべての場面が、一貫して偏りのない視線のもとでふだんは気づかない親密さを取り戻している。彼女たちの自然な仕草や姿勢は覗き見の意図からかけ離れており、道徳的な判定を是とする信念にこり固まった作品などではなく、あるがままに存在する瞬間を穏やかに分かち合う共犯めいた気分に導く。ロートレックは、さらにもう一度判定するのを拒絶している。すなわち『彼女たち』という題名は、普通の女か「商売女」かの区別に無関心なことを意味する。彼は決して社会の周縁に生きる女たちを珍しい獣のように表すことに同意しはしなかったのである。この版画集・・・とは?出版者ペレの注文を受けて制作されたものだが、ロートレックは多色刷りの5点と残りの白または地色のついた紙に単色刷りの版画において、それ以前に得意であった激しい色彩の面による構成とは対照的な微妙な陰影と中間色に対する趣味を披瀝している。デッサンに関してはより軽やかになり、神経が細やかになることで失われた大胆さは、新たな暗示力によって埋め合わせている。この版画集『彼女たち』は、その希有の価値にもかかわらず、商業的には失敗し、最終的にペレは画集を解体して一枚ずつバラ売りすることを決意する羽目になったそれはおそらく版画の内容が、愛の場面や艶笑画を愛好する蒐集家を深く失望させたからであろう。彼らにはお気の毒さま1898年(34歳)秋ころから、ロートレックは精神の不均衡の兆候を示し、周囲の者に次第に深刻な不安を抱かせるようになった。酒場での毎夜に疲れ切り、完全に酔い潰れた彼を家まで連れ戻さねばならないことが度重なってが、そういう時の彼は苛々して理不尽な怒りを爆発させずにはおかなかった。そうした日々にもかかわらず、彼はジュール・ルナールの「博物誌」の挿絵の仕事に取りかかり、その下絵を描くためにブローニュの森の動物園で何日も日が暮れるまで過ごした。この本は翌年刊行されたが、またしても売れ行きはさっぱりだった1899年(35歳)1月から、彼の母はパリに住むのをやめてマルロメに常住することになり、ロートレックはこれをまったく裏切りだと感じたのだが、母は自分の代わりに息子の身の回りの世話をさせるため、女中のベルト・サラザンを雇った。サラザンから雇い主の母に宛てた手紙から、この時期のロートレックの健康の衰えをたどることができる。彼は必要もない買い物に金を費消し、置物、お菓子の焼き型、人形、「あらゆる種類の古くてくだらないもの」を、すべて友人たちに分け与えなければならないと彼が決意する時まで(!)部屋に積み上げていった。アトリエでは、さまざまな動物や、ごっそりいる黴菌に襲われるという妄想を抱き、ますます眠れなくなっていったので、自作の油絵を際限なくグリセリンで洗うことに没頭した。隣人の貸し馬業者カルメーズと連れ立って出かける日々を重ねた末、彼は死ぬほど酔っぱらうようになった。記憶を失ったり、攻撃性とへつらいが交互に現れ、迫害妄想に襲われて、「彼は2分間に20回考えを変え」、そして「まったく仕事をしません」。さらに彼の娼婦たちへの嗜好もその渇望がつのりこそすれ減退はしなかった。「もう一人の紳士と二人のみだらな女たち」と一緒にホテルで夜を明かした後で、勘定を払うときになってもう1スーも持ってはおらず、精一杯大声で「私はトゥールーズ伯爵だ」と呼ぶ以外にすべはなく、ぎりぎりのところで交番行きを逃れたのだ。不幸にもベルト・サラザンは、もはや彼がどこで障害にぶつかったのか、どうやったら彼に休息を取らせることができるのかわからなかった。ロートレックは予告せずに招待客を連れてきたり、夕食に戻るのを忘れたりするようになり、自分が騙されていると思い、自分の後ろで何かを企んでいるのではないかと皆を疑い、あらゆる忠告を拒否し、母親のいないドゥーエ街のアパルトマンには一歩も足を踏み入れまいと決心したかと思うと、高価な置物や銀器を取りに戻るというありさまだった。2月の初めに母は、看護人を雇ったが、この男はうまくロートレックの世話をすることができず、とりわけロートレックに酒を飲ませずにおくことができないのがすぐに明らかになった。3月にロートレックは、ムーラン街で発作を起こし、ヌイイーの精神病院に収容された。今度は、ロートレックは「狂人の家」にいた。意識がはっきりするやいなや、彼はこの収容所が不当であることを証明してそこから出ることだけを考えた。そしてジョワイヤンに頼んで、何か絵を描く道具を手に入れてもらった。自分が正常であることを示し、その創造力が元のままであることを見せるには、自分の才能をはっきり示すしかないと思ったのだ。実際、パリの無責任なジャーナリストは、ロートレックの入院はもっともであり、人間の品位を落とすような主題にばかり没頭して調子の狂った作品ばかり描いたことから予測できた結果だと書き立てていた。ロートレックの努力の末、サーカスを主題とした39点の素描が生み出された。これらはもっぱら彼の記憶のみに基づき、運動とダイナミズムと生命の秘密を再びみいだそうという熱烈な欲求にしたがって描かれたものである。これらが1931年のトゥールーズ=ロートレック回顧展に展示されたとき、それまでこの作品に「きわめて低い価値」しか認めていなかったアンドレ・ロートは、手放しの称賛へとその評価を改めた。ロートによれば、ロートレックは名人芸を駆使して「かつて中身が空っぽであった形態に、 かすめ取られていた重大な要素を復元することに熱中している。 肉体はふくらんで丸みを帯び、 光に照らし出されて輪郭は固くくっきりとしている。 人物と人物の間にしか空間はない」とされ、このシリーズを躊躇わずにデューラー、ドーミエ 、ゴヤにも比較している。1899年(35歳)5月末に、ロートレックはこの病院を出た。彼はそこで油彩や素描を描き、さらに入院患者や看護人の肖像、犬や馬なども描いた。過酷な現在と青年期の主題の往復は、サーカスの観客席が、どの素描でもまったくの無人であるところに現れている。学者犬、女曲芸師の前で膝をかがめる道化師フーティ、女調教師や女綱渡り芸人らは、自分自身のためだけに妙技を披露し、どんなわずかな喝采も期待してはいない。いつも無感動な顔をしたシャ=ユ=カオもロバに乗って宙返りをしているが、彼女も自分だけの楽しみに注意を集中しているように見える。病院から解放されると、ロートレックは「案内人」のポール・ヴィオーをあてがわれた。彼は暇でお金のない遠い親戚で、それ以後彼の行くところにはどこでも付き添って監視する役目を負わされていた。しかし画家は当初、この新しい習慣に馴染んだように見えた。彼はもうまったく、あるいはほとんど飲まなかったのである。7月にアルカションの海岸に出発し、途中のル・アーヴルで、船員の集まるバー「スター」の給仕女に魅了されてしまった。彼女を描くためにジョワイヤンが急いで絵の道具を送ることになった。秋にパリに戻ってからも、彼は再び仕事に取りかかり、もっと得意だった主題をもう一度手がけた。リトグラフも次々と制作された。競馬の場面、『騎手』1899年51.8cmx36.2cm パリ「国立図書館」蔵カルメーズの店で観察した馬、犬、そしてまた道化師たち、しかし彼の健康はあまり芳しくはなかった。アルコールの誘惑が新たに彼を捕らえた。毎朝半リットルを注入することのできる中空の仕込み杖のお陰で、こっそりと彼は飲酒の習慣に戻ったのである。1900年(36歳)パリは万国博覧会に沸き立っていた。ロートレックは作品委託に参加することはなく、版画を展示するよう依頼してきたフランツ・トゥーサに対して、「審査委員がいるなら、きっぱりとお断りします」と答えている。それでも会場を車椅子で見て回り、日本の展示部門には興奮させられたが、疲れ切って帰った。5月、ジョワイヤンが彼をソム湾に連れて行く『ソム湾のモーリス・ジョワイヤン氏』1900年116.0cmx81.0cm アルビ「ロートレック美術館」蔵彼は続いてマルロメの母の家に滞在し、またボルドーにアトリエを借りた。そこで4幕5場の感傷的悲劇「メッサリーヌ」の場面を描くのに熱中した。彼はこの芝居に6点の油彩を描き、彼を魅了した豪奢と頽廃の入り混じった雰囲気を再現しようと努めた。かなり緩んだデッサンと今までにない絵具の厚塗りにより荘重さを志向しているのだが、奇妙に停滞し、ほとんど仰々しく見える作品になっている。色彩も赤と緑の結びついた大胆さが見られるものの、まったく納得させられるものではない。明らかにこれらの絵画には権勢の終わりという雰囲気が濃厚に漂っているが、ロートレック自身が何を考えようと、おそらくそれはローマ帝国の週末以上に、彼の芸術の週末を表すものであっただろう。『メッサリーヌ』(チューリッヒ・ビュールレ・コレクション)には、表現主義の序曲のようなものが認めされるにしてもである。ロートレックは、ボルドーで冬を過ごし、それからトッサに出発した。しかしそこで病に倒れ、母がマルロメに連れ戻した。彼は痩せ細り、寝たきりとなり、痛みのために転々と体を動かす日々を過ごした。彼がヴィオーとともにパリに戻ったのは、やっと1901年(37歳)5月になってからだった。そこで友人たちと再会し、アトリエを整理し、油彩や素描にモノグラムの印を押した。かなり衰弱してはいたが、自分の作品の相場が上がっているのを知って喜んだしかし何が彼に残されているだろうか?もはや彼の描きたいという気持ちをかき立てるモティーフはなかった。7月、アルカションで描き始めた『パリの医学部卒業試験』1901年は、完成させることができずに置かれ、1ヶ月後にマルロメに戻ることを望み、そこで彼の「案内人」ヴィオーをパロディ化し、海軍大将の制服と髪粉をふったかつらを付けさせた大げさな肖像画に着手した。しかしこれも同様に未完成のまま残された。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、1901年9月9日、マルロメの城館で死去した。葬送には、アルフォンス伯爵がみずから息子の霊柩車の馭者台に座り、馬に鞭をくれて走らせたので、葬列も後を追いかけて疾走する羽目になった・・・まるでルネ・クレールの「幕間」の有名なシークエンスを先取りするかのように。ファルス テック・ニック「笑劇の技法」。そして、同じ1901年、ピカソが、裸の女がバスタブのなかで体を洗っている『青い部屋』を描く、その絵画の壁にはロートレックのメイ・ミルトンのポスターが描きこまれていた。この若いスペイン人:ピカソは、パリに出てすぐにこのポスターを手に入れたのだ。「絵画の技法」。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレック にぽち
2021.11.16
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、アルコール中毒になり作品数は減りますが、メニュー、ポスター、リトグラフ、挿絵などを積極的に制作しますロートレックとアルコールHENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901A Corner of the Moulin de la Galette,1892アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ。版画、メニュー、挿絵など。「ルヴェ・ブランシュ」の仲間たちとの関係は、1894年〜1895年(30歳〜31歳)頃のロートレックの置かれた状況を確認させてくれる。全般的に言えば・・・彼はまだ大衆に対して無名であったが(やっと30歳になったばかりなのだから)、芸術的な集まりのなかでは、徐々に傑出した一員になりつつあった。ブッソ=ヴァラドン画廊での個展(1893年)以来、彼は何人かの批評家の支持を得るようになっていた。第一にG.ジェフロワやロジェ=マルクス、それから「ラ・プリュム」誌に彼についての一文を発表したマンドロン、「ルヴェ・ブランシュ」のL.ミュフェルド等である。ロートレックは「ル・リール」などの雑誌にも挿絵を描いて協力した。編集長アルセーヌ・アレクサンドルは、親しい友人だったのである。またドイツの「バーン」にも版画を寄せている。建築や装飾美術の新しい潮流にもきわめて良く通じており、ヴァン・デ・ヴェルデと会ったベルギーからは典型的な「アール・ヌーヴォー」様式の絨毯や陶器の一式を持ち帰った。作品を発表する機会もどんどん増えて来ており、それも満足のゆく状況であった。たとえば、1895年にギャラリーを開いたサミュエル・ビングの店では、何点かの絵画がアール・ヌーヴォーの置物や日本版画にはさまれて展示された。ロートレックはさらに、晩餐会のメニューからオリジナル版画まで、リトグラフの作品を数多く制作した。しかしこうした旺盛な活動も芸術的なグループへの帰属も、彼の精神的落ち着きを十分に保証するものではなかった事実、ロートレックのアルコールへの耽溺はどんどん進行しており、周囲の者に不安を与えていた。一晩中の酒宴の後、夜明けに版画工房の前に馬車を停めるのもまれではなかった。ロートレックはその馬車のなかでしばしば休憩をとり、再び仕事にかかるのである。彼の肉体の強靭さが驚くべきものであろうとも、彼の気質は不安定なものであった。突然怒りだしたかと思うと、奇妙な無気力に陥ってふさぎ込み、また、さほど理由もなく笑いを爆発させた。「酔ったように」と、タデ・ナタンソンは表現する。「彼は笑いすぎてしゃっくりをした」。彼のアルコール中毒は出入るする場所に応じて進化し、より「社交界的」にはなったが、悪化していった。ピガール広場のそばのバー「ラ・スーリ」で、常連のレズビアンの女たちに好奇心をそそられた以外には、ほとんどモンマルトルは見捨てられ、その代わりに次第に足を向けるようになったのでは、オペラ座界隈の「イギリス風」あるいは「アメリカ風」のバーであった。ロートレックは、そこの革や木の匂いを愛し、「粋」と家庭的なものが入り混じった雰囲気や酒の種類が豊富なことを評価した。「ラ・スーリ」で女主人のブルドックの可愛いいブブールを描いたように、踊るショコラなどを熱心にデッサンすることもあったが、何よりここでは何でもかまわず飲みほし、最上の酒と最低の酒を区別なく飲み、つねに最終の目標であるような酔いに達するまで飲みつづけた。母親宛の手紙には、絵画のことは絶えて久しく言及されず、もっぱら葡萄酒を送ってくれるよう定期的に頼むことと、送金以来で占められるようになった。彼はたいへんな浪費をしていたのである。彼の絵画制作にも飲酒は反映した1896年には30点以上制作されていたものが、続く3年間には毎年20点ほどに減少している。しかしその肖像画や風俗画のなかには、まだ明らかに真の傑作とみなされるような作品もある1895年末に描かれた、黒い長靴下をはいた二人の娼婦が休憩している『ソファ』1895年(メトロポリタン美術館)蔵や、劇場を主題にした一連の絵画の頂点に達している『シルペリックで踊るマルセル・ランデール』1896年などであるHENRI DE TOULOUSE-LAUTRECFrench,1864-1901Marcelle Lender,1895-1896Dancing the Bolero in "Chilperic"oil on canvas 1.45mx1.5m『「シルペリック」のボレロを踊るマルセール・ランデール』1895年冬 「ワシントン・ナショナル・ギャラリー」所蔵。この大作(1.45mx1.50m)は・・・ロートレックがこの女優に長い間魅惑され続けた成果であり、彼女が出演する劇場に毎日のように通い、彼女自身が気詰まりに感じるほどの熱心さで、夥しいデッサンやリトグラフを制作した末のものであった。ある時は、ロートレックはレストランで彼女に向かい合って座り、黙ったままでじっと彼女に視線を捉え、その表情を観察したりしたほどである「シルペリック」は、スペインの祖となる女王ガレスヴィントの統治したメロヴィング朝の叙事詩をパロディ化し、ボレロに振り付けたオペレッタに過ぎない。しかしロートレックはこの芝居のなかに、彼が一人の女性と演劇的表現のうちに求めているすべてのものを見出したのである。優雅、繊細、極限にいたる技巧、見せ場を創るために肉体を完全に制御することなどである。彼の絵画には、フォーヴィスムの先駆のような生の色彩が使われ、舞姫の肉体がつくるグロテスクな半円形の渦巻きを中心に構成されている。マルセル・ランデール自身はこれが気に入らず、友人のポール・ルクレールに譲られたが、ロートレックの劇場への愛情を示すと同時に、彼の絵画の転機を画する重要な作品となったことは間違いない。絵具は前より厚塗りになり、デッサンは暗示的なところが少なくなっている。これらすべてのことから、ロートレックがアカデミズムの画家にたいする暗黙の挑戦に乗り出したかのように見える。彼らのあらゆる技法を駆使して成し遂げようとしたものは、まさにこのような作品ではなかったが、しかし彼らの主題や構図には近づいているが、そのイデオロギーからは危うく逃れている。マルセル・ランデールの美を、彼女を貶める恐れのあるグロテスクな背景のなかから「救う」ことができるだろうか・・・画家の意図を尊重するなら、明らかに二重の視線を使い分けなければならない。女優に関しては称賛の、彼女の周囲に対しては批判の視線である。一つの画面に分け隔てなく描かれている人物に対しては通常、画家は一つの視線を注ぐものだけれども。『「シルペリック」で踊るマルセル・ランデール』以降も、まだ何点かの成功作が描かれている『身づくろい』1896年64.0cmx52.0cm パリ「オルセー美術館」蔵『ド・ローラドゥール氏の肖像』(ニューヨーク、個人蔵)『ポール・ルクレールの肖像』1897年54.0cmx64.0cm パリ「オルセー美術館」『化粧、プープール夫人』1898年アルビ「ロートレック美術館」蔵『ル・アーヴルの酒場「スター」のイギリス女』1899年41.0cmx32.8cmアルビ「ロートレック美術館」蔵『婦人帽子屋』1900年61.0cmx49.3cm アルビ「ロートレック美術館」蔵の「奇跡」・・・などである。しかしこの3〜4年間に描かれた他の絵画は、しばしば以前に描かれた構図の焼直しか、そうでなければ長い間顧みられなかった馬や乗馬の場面などの主題に回帰するものであった。唯一の新しい主題は・・・自転車競技であり、『ビュッファロー競輪場のトリスタン・ベルナール』(1895年)が描かれた。この主題は絵画では一度しか制作されなかったが、それは容易に2点のポスターに発展した(『マイケルの自転車』『シンプソン・チェーン』1896年)。絵画に限られる制作量の減少は、版画作品の低下にはそのまま結びつかなかった。メニュー、ポスター、リトグラフ、挿絵などは、実際に定期的なリズムで制作され続けており、むしろロートレックは、グラフィック作品の方に次第に満足を見いだしていくようであった版画は、制作が迅速で容易であるのに、絵筆に戻るとそれは不確かになってしまうのである。そのうえ彼の油彩の何点かはリトグラフのための習作として描かれていることも注目される。これはまったく新しい方法ではなかったが、いっそう頻繁に行われるようになっていった。おそらく広範な伝播が期待できるリトグラフは、絵画よりも彼の興味をかき立てたものと思われる。1896年以降、ロートレックの生活はすっかり根を下ろした習慣によって調整されていた。バー、娼婦たち、友人たち、わずかの絵画、そして見せかけの健康とのどかさを取り戻すためのトッサでの夏、彼はトッサでイスラムのムアッジンの仮装をしたり、自分の裸体を隠すために生垣をめぐらしてヌーディスムの生活をしては隣人たちを憤慨させた。一年の途中に田舎で生活すること(ナタンソンの別荘に行くことが多かった)、何回かの外国旅行(1896年のトレドとマドリッド、 1897年のオランダ。そして 1898年、78点の作品を展示したロンドンへの旅行。 この個展は不成功に終わった)などが、単勝になりがちの生活に変化を与えた。いくつかの絵画売却は、彼を安心させ、満足させた。セルビアの先代の王:ミラン4世が、『ムーラン・ルージュにて』と『女道化師シヤ=ユ=カオ』を購入し、有名な絵画蒐集家:イサック・ド・カモンドが別のシャ=ユ=カオを買いそれはモネやマネ、ドガと一緒にカモンドのコレクションに加えられた。(そしてマネと同じ化粧室の壁に架けられた。 絵画はただの慰みにすぎないのか!)。いっさいを振り返って見れば、ロートレックの飽くことを知らない好奇心、見ることへの激しい欲望が、劇場やレズビアン・バーに倦むことなく彼の足を運ばせ、つねにより多くを見、多くの印象を得ようとしてそこに戻って行かせたのである。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)お酒にぽち
2021.11.15
コメント(0)
ここでアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、劇場を主題としたリトグラフを多く制作しますロートレックと『舞台芸術』Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisGaston Bonnefoy,1891Oleo sobre carton『ガストン・ボンヌフォワ』1891年スペイン「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。劇場を主題にしたリトグラフ。劇作家:ロマン・コーリュスとともに、ロートレックは次第に足繁く劇場に通うようになったが、それは・・・俳優:リュアン・ギトリーやジャンヌ・グルニエの肖像画、サラ・ベルナール、ムネ=シュリー、レジャーヌの素描などに現れている彼は自由劇場(テアトル・ルーブル)のプログラムのデザインを考え、劇場を主題にしたリトグラフを制作した(『大桟敷』『お金』)同じ芝居に続けて何夜も足を運び、ひとつの仕種によりふさわしい線を捉えるために倦むことなく、デッサンを繰り返し、マルセル・ランデールの肖像を何枚も描いた。1894年(30歳)彼は、『劇場の廊下にいるタピエ・ド・セレイラン博士』を描いたが、ここには夜遊びの男たちが姿を見せるムーラン=ルージュの回廊とはまったく異なる背景が描かれている。しかしロートレックは、単なる観客以上の存在であった。1894年12月(31歳)には、彼はルイ・ヴェルタと協力して、ヴィクトール・バリュカンがルネ=ポーのために脚色したヒンドゥー劇の古典「テラコッタの馬車」のための舞台装置を制作した。この仕事については、象の巨大なシルエットが立つ異国的な風景の模型とプログラムの表紙が残されている。この表紙で象の上に立ち、長衣をまとって腕を前に差し出している男の姿は、フェネオンがモデルであった。あまり言われていないことだが・・・ロートレックは同様に1896年の『ユピュ王』の上演に際しても、ポナール、ヴュイヤール、セリュジュらの傍らで協力したものと思われる。ジャリは、ロートレックの親しい友人ではなかったが、彼が交際した作家たちの一人に数えられる。これにより2年間のアンデパンダン展の解説に、ジャリは、「すばらしいトゥールーズ=ロートレック」の出品があったと記している。また1899年の「ユピュ親爺年鑑」では、「うわさの大人物」を列挙するなかに、ロートレックを「ホメロスのように壮大で滑稽」と位置づけ、「おおっぴらにふるまう人物」と評している。ユーリュス、ジャリ、ルネ=ポー、フェネオン、これらの巨星たちは・・・1889年創刊のナタンソン兄弟編集による「雑誌[ツヴュ・ブランシュ]に好意的で、いつでも協力する用意」ができていた。このうちフェネオンは、爆弾を仕掛けた嫌疑による裁判以降、陸軍省の職を奪われていたが、1895年1月この雑誌の編集長になった。すでに1889年から、フェネオンは、アンデパンダン展出品の『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』によりロートレックに注目していて、さらに続けて無政府主義者の新聞「ペール・ペナール」でポスター作家としてのロートレックの才能を讃えたことがあった。1894年以来しばしば掲載されていたロートレックの素描をフェネオンは「ル・ブランシュ」誌上で再び見いだす。タデ・ナタソンはそこで、ロートレックの心を引きつけたものを完璧にこう示している。「この仲間たちのなかで ロートレックの気に入ったものは、 ずいぶん例外的なものであった。[ルヴェ・ブランシュ]では 自分たちの好みの流儀の 絵画や工芸品について述べている。 ロートレックは誌面の、 味はあるがとても申し分ないとは言えない フランス語に感心していた。 しかし彼と同じくらい美食家とみなした仲間たちと 7年間煮込んだ羊の腿肉や、 昼食用に細心の注意を払って運んできた一瓶の アントール=ドゥー=メールの特級ワインについて、 ルノワールやロダンについて語るのと同じくらい 熱心に語るのを聴くほどの喜び以上のものはないだろう」。この作家や画家のなかで、ロートレックはまさに心安さと共犯者のような感じを味わった。彼もまた、みんなと同じにタデ・ナタンソンの美しい妻ミシアに魅了され、ポスター『ルヴェ・ブランシュ』1895年130.0cmx95.0cm アルビ「ロートレック美術館」蔵1895年の「ルヴェ・ブランシュ」のためのポスターには、彼女「ミシア」の姿を使っている。ミシアは・・・ドビュッシーやフォーレのピアノ曲を弾いては、ロートレックをうっとりさせ、かくして1897年にピアノを弾く彼女の肖像画が描かれた。しかしそれ以上にナタンソンの仲間たちは、ロートレックに夥しい数のデッサンやリトグラフ、油彩の主題を提供することになった。そのほかナタンソン兄弟の一番下の弟アルフレッド・アティスの依頼により、彼はジャン・リシュパンの戯曲「ジプシー女」のために彼の最後のポスター(1899年)をデザインした。この芝居には・・・アルフレッドの妻マルト・ムロが出演していたのである。ナタンソン一家は、ヴェルヴァンの田舎の別荘でも、パリと同様にお客を歓待した。ロートレックは田舎で休養のために毎年のように訪れ、ボート遊びや帆走を楽しんだ。彼が、コリュース、ジュール・ルナール、トリスタン・ベルナールらと知り合い、M.ドネー、ミルボー 、レオン・プルムらと知り合い、ボナール 、ヴュイヤールらとともに過ごしたのもここであった。娼館や夜の世界へのつねに変わらぬ嗜好にもかかわらず、ロートレックはこの交遊をおろそかにしなかった。ここでは彼は自分がふさわしく、すなわち「『ルヴェ・ブランシュ』の芸術家」として、評価されていると感じたからである。それは真剣さと上機嫌が絶妙に入り混じるうちにいつの間にか思いもよらぬ経験に導かれるようなグループの一員になることを意味した。この雑誌自体にも、ロートレックはいくつかの小さい挿絵や1895年ロンドンで、オスカー・ワイルドと出会った時にスケッチした肖像の他、滑稽味を帯びた大胆な挿絵を登場していた。その付録にも、1894年7月号の「髪の毛収集家」では、シャンゼリゼのサロンに出品された油彩画を危うく隈褻すれすれにパロディ化した絵を描き、同じく1895年1月号の付録「ニブ」創刊号にもトリスタン・ベルナールの短文に対して、ショコラの尻を蹴っているフーティーというサーカスの場面を描いたリトグラフを寄せている。さらに彼が自分のカクテルの効果を見事に証明してみせる機会を見つけたのも、まさに「ルヴェ・ブランシュ」のお陰であった。それはアレクサンドル・ナタソンが、食堂の壁を飾るヴュイヤールの装飾画を披露するために催した夜会の折である。その晩は、完全に頭を剃り上げて見違えるほどの完璧なバーテンダーとなったロートレックが、フェネオン、ボナール 、ミルボー 、ルベル、ボアレヴ、ヴュイヤール、そしてピエール・ルイスを含めた300人の招待客に「2.000杯のカクテル」を注ぎ、パーティーの終わりには、立っている人の姿が見えないほどの酩酊状態に至らしめた。そして彼自身はと言えば、ただの一杯も飲んでいなかったのである。まったく珍しいことに・・・。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)パーティーにぽち
2021.11.14
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、劇場の歌手や道化師たちのインパクト大の濃〜いテーマに夢中になっておりますPariロートレックは歪曲の天才!?Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisYvette Guilbert,1893『イヴェット・ギルベール』1893年(未完のポスターの下絵)Gouache y carboncillo sobre papelスペイン「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。ジャーヌ・アヴリルに匹敵するような新しい花形スターが、次第にロートレックの心を捉えるようになった。1892年〜1893年(ロートレック28歳〜29歳)ポスター『ディヴァン・ジャポネ』1892-189380.0cmx60.0cm パリ「国立図書館」蔵・・・では、まだ首のところで画面が切られた細長いシルエットしか認められなかったが、1893年7月に掲載された2点のデッサンでは、彼女の名前が特定できる。「イヴェット ・ギルベール」である独自の発声法を固辞したために劇場での女優としてのデビューに失敗した後、1894年、エダン=コンセール、ムーラン=ルージュ、ディヴァン・ジャポネなどに出演して、歌手としての評判が頂点に達する稀に見る痩身だったが、彼女はその欠点を活かして個性に転じ、自分のシンボルとしてわざと黒い長手袋を身につけた。ロートレックは、彼女が歌うときには必ず客席にいて、たくさんのデッサンを重ねた。彼女の姿、表情、手袋、クモのように開いた指、幕に手をかけて観客に別れの挨拶をするところまで、彼は彼女の動作を細かく素描した。ロートレックは彼女のポスターを作りたかったが、カピエッロ、セム、レアンドルなど当時のさまざまな才人たちに霊感を与えたこの女性歌手は、すでにスタンランにそれを依頼してあった。好機が訪れるのを待ったロートレックは、友人のジャーナリスト、ギュスターヴ・ジェフロワの文章を組み合わせた彼女に捧げるリトグラフ集を刊行し、これはすぐに評判になった。「ジェフロワの本の あなたのきれいなデッサンを 有り難うございます。 満足! とても満足です! わたしの深い感情を お受けくださいますよう。 本当ですよ」と、彼女は画家に宛てて書いた。彼女が名づけた「歪曲の天才」ロートレックとは、意味深長な失言であるが、彼の歪曲が彼女の目にあまりに行き過ぎだと映るような素描に対しても、イヴェットはいつも敢えて、口を閉じているほどに十分感謝していたのである。ポスターは制作されなかったが・・・シャンソンの愛好者や歴史家の記憶のなかで思い浮かべるイヴェット ・ギルベールの姿は、いつまでもこの未刊行のポスターのためにロートレックが描いたデッサンであった。『イヴェット ・ギルベール』1894年186.0cmx93.0cm アルビ「ロートレック美術館」蔵ロイ・フラーの残されたイメージにしても、ロートレックが当時彼女を描いた唯一の画家だったわけではなく、ヴェールを揺り動かす彼女の踊りの眩しさにはまだ及ばないほどだが、その踊りのダイナミックで総合的なヴィジョンを捉え得た唯一の画家であった。シャ=ユ=カオという人物を、後世に伝えたのもロートレックである。この「道化師」は・・・ムーラン=ルージュで上演された狂乱のダンス「カオスのシャユー踊り(シャユー=カオ)」に由来し、それを当時流行の「日本風の」言葉遊びで区切ったあだ名のお陰で、本名さえもわからなくなってしまった彼女は、ついにスターの地位にのし上がることはできず、主要な演目の間をつなぐ滑稽な寸劇にその出番を限られていた。しかし、ロートレックは、1895年に4点の彼女の肖像画を描き『女道化師』1895年57.0cmx42.0cm パリ「オルセー美術館」蔵神話的なイメージを彼女に授けた。これは当時のスターに匹敵する扱いだった。彼女の平然とした顔、円錐状の髷を乗せた髪形、そしてフリルの飾り襟などが、ミュージック・ホールとサーカスが同居しているような雰囲気をかき立てるに十分だが、それは同時に、ロートレックがこれらの場所にある種の別れを告げているようでもあった。そして異なる環境の、別種の見せ物が、続いて彼を刺激することになる。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ギルベールにぽち
2021.11.13
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは娼婦たちを多く描いていますが、それにはかなりこだわりがありましたPariロートレックお気に入りのモティーフとは?アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新!「近代」ポスターの真の創始者。1891年から「ジャーヌ・アヴリル」は、いつもの挑発的な態度で腰を振って踊ってるラ・グリュが、前景に描かれた画面の背景に登場するようになった。1892年〜1893年、ジャーヌ・アヴリルは、ロートレックのお気に入りのモデルとなり。次第にラ・グーリュをしのぐようになった。彼女は「ラ・メリニット(爆薬)」もしくは「気違いジャンヌ」とあだ名されたが、ロートレックの興味をかき立てる最高の存在となったそれはラ・グーリュが、結局は何の秘密もない活力あふれる「遊び女」という表面的な存在に過ぎなかったのと対照的である。ジャーヌは、より繊細で教養もあり、その環境における波乱に満ちた卑俗な過去(私生児、娼婦、失踪癖など)の後、ムーラン=ルージュのカドリールに踊り子としてデビューしたが、ここではそこそこの批判しか呼ばなかった。彼女はむしろ一人で踊るときに魅力を発揮した。独自の振り付けを考案し、表現力豊かな身振りを使いこなすことができた。あらゆる悪徳やかなりの邪悪さは、その謎に満ちた個性ゆえのものであり、彼女の魅惑は考え抜かれた化粧と同様、彼女のうちにある抑制されたエネルギーに由来しているのだ。彼女とロートレックの暗黙の了解は完全なものだった。彼がジャーヌをアトリエに呼ぶと家庭の主婦の役割を果たしたし、ロートレックも彼女を最上のレストランに連れていき、喜んで一日中一緒に過ごした。彼女にポーズしてもらいたいときには、辻馬車で探しに行ったし、なによりジャーヌは・・・ロートレックの絵画を心から称賛していた。「エスタンプ・オリジナル」の表紙では、彼はアンクール印刷所で、リトグラフの刷りの具合を見るジャーヌを描いている。このように彼女の判断の確かさに当然の信頼を捧げていたのである。ジャーヌの影響の重要さは、ロートレックがその習慣を変更したことに現れている。彼はもはや舞踏会に興味を失い、娼婦たちの肖像画や娼館の情景は描き続けながら、カフェ・コンセールや劇場に新たな関心を注ぎ始めていた。大衆の集まる、しかも、厳格な職業意識が要求されるこうした場所は、その後、身振り、視線が最大級の意味を負わされる。しかしもっとも優れた芸術は身振りや姿勢に意識を集中させることで過ぎ去った時を忘れさせることができるのである。そして、ある心理や事物が存在する背景を明らかにし、ついに究極の真実に到達し得るのである。こうした場面では計画を立てたり、全体を総括する効果ははっきり現れる。娼館であるのに、娼婦たちがロートレックを魅了したのは彼女たちのプロの主管以外の部分であった。お客を送りだしたあと休んでいるところ、肉体の要望に従ってつくろいでいるところなどである。もう一方には自然そのままの誇示がある。その両方の場合において、ロートレックは彼以外の誰もまた機会のなかった真実を捉えようとしたのである。1893年(ロートレック=29歳の時)に友人のブールジュ博士が結婚することになり、もう彼と同居できなくなったロートレックは、途方に暮れてしまった。ドゥーエ街にあった母のアパルトマンに食事をしに行くようになったが、彼の新しい孤独感をうまく紛らわすことはできず、「売春宿」に滞在を続けるようになった。彼は、そこで娼婦たちに信頼される友となり、彼女たちに贈り物をし、その疲れを癒す時間を分かち合う親密さのなかで暮らした。日曜日、娼婦たちは「くじを引いて」彼の相手を決めた。ロートレックの性的能力はずっと以前から、「コーヒー沸かし」という意味深長なあだ名を進呈されるほどだった。しかし、むしろロートレックは束の間の見世物に熱中し、女同士の接吻や優しい仕種を捉え、眠っている二人の体や、ゆだねきった態度、お喋り、カード・ゲームをする様子などを素描した。彼はこれらのデッサン、クロッキー、素早いスケッチを積み重ね、それをもとにトゥールラック街のアトリエに帰ってから肖像画や、裸婦、娼館の情景などの油彩を描いた。しかしその際にけっして「扇情的」で露骨な場面を構成することはなかった。(『ムーラン街の階段』の3点の異作は例外)、なぜならロートレックは、覗き屋にも道徳家にもなりたくなかったからである。彼は娼婦たちがその職業の要する強いられた微笑みや見かけだけの華やかな衣装を取り去り、その下の自分を露わにしているさまを描いた。彼女たちの肉体、態度、顔つきを透かして、倦怠や退屈、衰え、若い頃の希望の名残り、時の刻印、そして、ほんとうに楽しい時間はめったに訪れないという存在の悲惨な側面を秘めやかに見せるのである。1893年(29歳)以来、『ムーラン街のサロンにて』1894年11.0cmx132.0cm アルビ「ロートレック美術館」蔵・・・をその頂点として、娼婦の主題に捧げられたロートレックの15点以上の一連の絵画に一貫しているものは、このような場所で経験する「一時的な死(オルガスムス)」以上のものとして、エロスとタナトスは結びついているということである。このことはウィーンでも、ジークムント・フロイトの周囲で知られていたが、パリでロートレックが、それを明らかにしたのは、造形的な方法によってである。すなわち、彼の描く「娼婦たち」の生気を失った肌。むくんだ顔によってであり、引きつり、こわばった微笑みや、頬骨のこちら側にその骨が透けて見えることを暗示してみせるというやり方を通してであった。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)アヴリルにぽち
2021.11.12
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの栄光は、お洒落なイケてる!ポスター制作によるものでありますその反面リビングにはちょっと飾れないテーマも描いていますHenri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-Boisロートレック「ポスターの仕事」アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。(ポスター)広告芸術の革新。「近代」ポスターの真の創始者ロートレックの栄光は・・・1891年10月(27歳)パリの街に出現したポスター『ムーラン=ルージュ』1891年170.0cmx130.0cmムーラン=ルージュのポスターにより確立されたこの栄光は、1ヶ月前、ロートレックのその夏の制作を「それほど悪くはない」と評したドガの励ましの言葉に確証を与えるものでもあった。さらにポスター制作は・・・一人で仕事をするのが普通の画家にかつてない経験をもたらすことにもなった。「ポスターの仕事はとても 楽しいものでした。 工房中を意のままに動かすという 興奮を味わったのですが、 これは僕には新しい経験です」。「工房」とは・・・?アンクール印刷所のことで、ロートレックはここをボナール に紹介されたのだが、タデ・ナタンソンによれば、ここで彼は、「生涯でもっとも幸福な時間の多くを」過ごしたのである最初のポスターの成功により、続く何年かのあいだに『首吊り』1892年から、『ジプシー女』1899年に至るまで、何点ものポスターの注文が相次いだ。そこでロートレックは、壁面を飾るこの広告芸術を革新することになる。ジャーヌ・アヴリルのポスター『ジャルダン・ド・パリのジャーヌ・アヴリル』1893年124.0cmx91.5cm パリ「国立図書館」や、ブリュアンのポスター『アンバサドゥールのブリュアン』1892年150.0cmx100.0cm パリ「国立美術館」も彼らの名声の一部をロートレックのポスターに負っているし、それ以上にコデュー、メイ・ベルフォール、メイ・ミルトンなどは、ヴィクトール・ジョズの小説の題名と同様、もしロートレックのポスターに描かれなかったら、とうに忘れられていただろう。背景の単純化、はっきりした陰影のない色彩の面の多用、大胆な構図。これらはシェレのポスターの愛すべき画面の中で、余分なものがごたごた重なって互いの効果を妨げているのとはほど遠かった。ロートレックは、ポスターは一瞬見られるだけのものであるから、あらゆる要素が一点に集中してその伝達力を強化すべきだということを即座に理解した。彼の急進性を混乱した歩みだと誤解した国立図書館の版画室長H.ブーショは、ロートレックが、「多色を使うことの初歩的な興奮」に耽っているとして嘆いた。しかし彼のポスター芸術に対する決定的な貢献をいち早く捉えている専門家もいた。「彼の技法は比類ない卓越に達しており、 そのデッサンには無用なものや 考えのないものは皆無であり、 そこにある要素は すべて欠くことのできないものである」と評している。31点のポスターによってロートレックは、シェレ、ヴィレット、スタンランらによる夥しいポスターを過去のものに押しやってしまった。スタンランはロートレックに敬意を捧げていたが、彼らのポスターはそのごてごてした構成やスタイルの古臭さのゆえに、もはや二級の作品として評価されなくなるだろう。明らかにロートレックのポスターのかなりの割合のものが、厳密に言えば注文によるというよりむしろ友人に宛てられた贈り物であった。そのためにかえって、「広告」の職業作家たちには、差し障りのある改革を自由にやれるという条件もあった。それでもなおロートレックは、「近代」ポスターの真の創始者として認められるべきであろう。それに当時のポスター蒐集家たちも認識を誤ることなく、すぐにロートレックのポスターを集めにかかった。1893年から、すでに『ムーラン・ルージュ』は「希少」と記され、20フランで取引されていた参考までに、ボナール の『フランス・シャンパン』は、1896年までにまだ5フランの価格しか付かなかったロートレックは、1900年までにポスターの国際的な展覧会に何度も出品を重ねたのである。彼は自分がポスターという分野に革新を成し遂げたことを完全に意識していたし、その後の展覧会でも、自分の絵画に隣り合わせてポスターを展示し続ける。ヴェラーレンによる賞賛の批評文が掲載された1892年の「二十人会」展、また1894年にも「二十人会」の後身である「自由美学」展(リプール・エステテイツク)、さらに2年後のジョワイヤンの画廊の展覧会などにおいてである。こうした画家以外の媒体を通じて、絵画愛好者ばかりではなくあらゆる社会階層の大衆と芸術を近づけることができる。ロートレックに芸術を「民主化」したという意識がほとんどなかったにしても、より広い名声を得ることには明らかに無関心ではなかっただろう。なぜなら彼が絵画によって、大衆的な名声を得るのは難しかったし、すぐには無理であった。ロートレックの絵画は、少なくともその一部は・・・「公言をはばかるような」主題を扱っていたからであるロートレックがよく描いていたような友人の肖像、ブールジュ博士、ルメルル氏、C.H.マニュエル、写真家:セスコーデジレ・ディオーなどに関する限り、男性の肖像画はまだ問題はなかった。女性の肖像画になると、その処遇はそれほど簡単ではなかった。ドガがすでにお上品な趣味に対して小さな亀裂を入れていたとは言え、絵画が「普通に」掛けられる場所であるブルジョワの居間に、Henri de Toulouse-LautrecFrench,Albi 1864-1901 Saint-Andre-du-BoisThe Streetwalker,ca.1890-1891Oil on cardboard 64.7cmx53.0cm『娼婦(カスク・ドール)』1890年〜1891年頃『街娼』ニューヨーク「メトロポリタン美術館」所蔵。『街婦』や『髪をカールする女』1891年(トゥールーズ、オーギュスタン美術館)が飾られることは想像し難い。残酷なリアリズムの産物である『ア・ラ・ミー』(ボストン美術館)ムーラン・ド・ラ・ギャレットやムーラン=ルージュの情景などもふさわしくないだろう。それらは快くもなければ、「装飾的」でもないからであるロートレックは自分の趣味をますます誇示し、明らかにその属する世界がわかるようなモデルを使って作品を描き始めた・・・娼婦の世界である。そのうえ1892年には、経営者の求めに応じて、アンボワーズ街の「娼館」の装飾を手がけた。それはメダイヨンの中に娼婦たちの肖像を描いた16枚のパネルからなる。これらはこの館の「ルイ15世様式」の室内装飾とうまく融合したのであるロートレックはおそらく厳密に言えば・・・望んだわけではなかったが、画家としての規範から公式にも非公式にも遠ざかった。印象主義が自然や光に重要性を付与し、その絵画が光に魅せられた絵画愛好家たちの心を引きつけていたとき、彼は自分の知っているものしか描かなかった。技巧的な、見世物と、気取りと、計算ずくの誘惑の世界である。自然の魅力ではなく、はるかに怪しげな、快楽に捧げられた夜の魅惑である。モデルは無垢ではなく、視線や身振り、それらによる場面の意味を十分に知り尽くしている。なぜなら視点を決めるのが画家なら、自分自身をどんな風に見せるか決めるのは人物だからである。モデルを尊重するという点で、ロートレックはアカデミズム絵画の習慣とは大きく隔たりを見せる。アカデミズムではモデルを高めるという口実のもとに、その職業や地位の後ろに人物の個性を押し隠してしまう。たとえば1891年の2点のカルトン画で、従弟のガブリエルから紹介されたペアン博士のような医学会の重要人物をロートレックがどのように扱ったかは意味深い。『気管切開手術』(ウィリアムズタウン、クラーク、インスティテュート蔵)の場合には、彼は外科医の顔つきとその見事な手さばきに同じような興味を寄せている。『国際病院のペアン博士による手術』(M.バウムガルテン蔵)では、医師はそっけなく背中を向けた姿で描かれ、画題がなければ無名ともいえるその暗いシルエットに対して、立会いの人物たちの視線を集中させている。4年後になって、今度はアンリ・ジュヴェックスが『サン=ルイ病院で手術するペアン博士』(パリ・公的扶助博物館)を描いた。これは立派な画布(2.42mx1.88m,ロートレックの大きい方のカルトン画『気管切開手術』でも0.74mx0.50mに過ぎない)に描かれたもので、医師の技量と同時に画家の腕前をも記念するような絵画である。これは資料的な彩色画であり、客観性を口実に、手術用具、布、手術着などのいちいちが細かく写生されており、人物たちは硬直したマネキンに変えられている。ロートレックは緊張を創り出し、ジェルヴェックスは陳列効果を計算した前者は、簡素だが身振りや視線の本質を突いており後者は、科学の称賛という主題にどっぷりつかっている。ジェルヴェックスの仰々しさの方が、ロートレックの冷静さより大衆には人気があるが、ロートレックの方が外科医の仕事により深く関わり、そこに彼自身の仕事とよく似たところを見いだしている。患者やモデルといった人物を裸にし、その生身を切開するという点である(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.11
コメント(0)
トゥールーズ=ロートレック25歳の時、パリ・モンマルトルの「ムーラン=ルージュ」が開店します。どんなお店だったのでしょうか『ムーラン=ルージュ』の開店です!!Toulouse-Lautrecアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。1889年10月5日(25歳)パリ・モンマルトルは、期待をはらんだ熱気で湧き返っていた。クリシー通り90番地界隈は、道行く人も馬車も押し合いへし合いするありさまだった。ムーラン=ルージュの開店である!!この新しいホールは大きなギャラリー席を備えた今まで以上に広い舞踏室を持ち、テラス席のある庭では、ロバの背に乗った散歩の余興もあり、屋外のカフェ=コンセールの舞台も作られていたその舞台のわきに据えられた巨大な象は、万国博覧会から引き取られたものだが、ここが小劇場に早変わりし、「ベリー・ダンス」や放屁芸人の舞台を楽しむこともできるという具合だった。この店の主人:シャルル・ジドレールは、的確な目を備えていたムーラン=ルージュは瞬く間に成功し数週間も経たないうちに夜遊びの男たちが必ず立ち寄る場所になっていた。ここで人びとは・・・喧騒のなかに我を忘れ、恋のアヴァンチュールを探し求め、アルコールと乱痴気騒ぎに陶然となり、そして何よりも自然主義カドリール (4人1組で踊る激しい踊り)の踊り子たちをじっくり見物することで目を楽しませた彼女たちは練達のプロの踊り手で、幾重にも重ね着されたペチコートとレースの下着という欲望をかき立てるスカートの中身を露わにして見せては客の気を引いていた。ジドレールと協力者のオレールは、ほどなくそのロビーにロートレックの『フェルナンド・サーカスにて:女曲馬師』を飾ったし、ロートレックもこの店にいつも予約席を確保していた。しかし、1889年にまず初めにこのダンス・ホールを誉めそやしたのはシェレのポスターである。シェレは当時その役割に最適任とみなされたポスター作家で、陽気な女性の姿のなかに生の喜びを象徴させるようなポスターを作った。後になって考えてみれば、ロートレックとムーラン=ルージュは、すでに決定的に結びつけられていた1896年までにロートレックは、多くのリトグラフや数えきれないほどの素描、それを別にしても30点以上の絵画にムーラン=ルージュの大騒ぎとその立役者を描いた。そのなかの筆頭は・・・1887年にすでにムーラン・ド・ラ・ギャレットでも描かれたラ・グーリュと骨なしヴァランタンである。彼らはこれ以後、ムーラン=ルージュの花形スターとなり、彼ら自身の性格は正反対ながら、踊りではすばらしく息の合ったパートナーとしてレパートリーをこなしていった。1870年生まれのルイーズ・ヴェベールことラ・グーリュ(大食漢)は、その食欲と強い酒への嗜好から、このあだ名を頂戴し、イヴェット ・ギルベールによれば、「見た目はきれいで、卑しい意味で気を引く」娘だった。舞台での彼女の煽情的で突っかかるような動きは、卑欲な攻撃性を誇示したもので、それを嘆かわしく思う者もいたが、結局は彼女の成功を導いた。その傍らのヴァランタンは、昼間は公証人の兄のところで働いていたため出演料なしで踊っていたが、パートナーの肉感的な丸味に対して長くほっそりしたシルエットで対照をなした。冷静で、いつも少し汚れてへこんだシルクハットを被り、かならず安葉巻の切れ端を口にくわえていた。彼はまったくきちんとした生活を送っており、男も女も含めたたくさんの情人とくっついては別れていたラ・グーリュとは正反対であった。1890年〜1892年まで、ムーラン=ルージュは、(26歳〜28歳まで)ロートレックの生活とその作品の中心となった。彼は、ここで踊り子や客のなかからモデルを見つけるようになり、職業モデルのつねに見せかけだけのポーズに対して不平を漏らすようになった。そして内面の真実を表に現しているような強い個性の持ち主に惹かれるようになった。彼はいつも従弟のガブリュエルをお供にムーラン=ルージュで夜を過ごし、ここに遊びに来る男たちの顔や踊り子たちの体の動きを素早く写し取っては、それをもとにアトリエで油彩に描き直したり、リトグラフに描いたりした。何よりロートレックが閃光のような名声を得るのは、1891年舞踏会の宣伝にさらに力を入れるため、シドレールが依頼したポスターに端を発していたのである。ロートレックはこの年までに、量的に言えばすでに生涯に描く絵画の半分以上を制作していたが、実際には、まだそれほど有名ではなかった。彼の名前を大衆に知らさせるものは、「ミルトン」に続いて、「パリ・イリュストレ」「クーリェ・フランセ」などの雑誌に掲載されたデッサンや、出版されたリトグラフ(それほど売れはしなかったが)しかなかった。しかし、友人のなかには彼の作品に注目する愛好者もいた。1888年、ロートレックはベルギーの絵画グループ「二十人会」の会員二人の訪問を受け、ブリュッセルの彼らの展覧会に出品するよう招待された。彼はそこに11点の絵画を送り、J.アンソールには感心されなかったもののスーラの好敵手として認めてくれる者もいた。「アンデパンダン展」にも、1889年から、出品を続け、1890年1月には、再び「二十人会」に出品した。3月には、第6回「アンデパンダン展」に2点の絵画を出品した。「何という日々! しかし何という成功でしょう! 展覧会は平手打ちを受け、 おそらくそのお蔭で立ち直るでしょう。 しかし多くの人びとに反響を与えるでしょう」と、彼は母宛に書いている。彼はまたヴォルネー街の文学サークル展(セルクル・ヴォルネー展)にも出品した。しかし2年後にも同じことを繰り返し、審査員によって「排除」された。「会場の一部の賃料を支払ったのに、 画家たちを門口で閉め出す権利を 持とうとは知りませんでした」。1891年、第7回「アンデパンダン展」に8点の絵画を送り出し、パレ・デ・ザール・リベローの展覧会にも改めて『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』を出品した。そして、12月には誇らしげに母に書いている。「僕たちはペルティエ街に 常設の展覧会のための ギャラリーを開いたところです。 新聞はあなたの息子に好意的です。 蜜のようなお世辞いっぱいで 書かれた記事の切り抜きを同封します」。この展覧会には、ボナール や、モールス・ドニの他、エミール・ベルナールや、アンクタンクも参加しており、まずまずの成功を遂げた。「レコー・ド・パリ」誌は出品者たちの声明文を掲載する企画を組んだ。ロートレックの文章はいつもどおりの簡潔なものだった。「私は自分の片隅で制作するだけです」。だからといってロートレックは、ブッソ=ヴァラドン画廊の経営を1年前から引き継いだリセ時代の友人:モーリス・ジョワイヤンのところに毎日のように通うことまで遠慮しているわけではなかった。彼らは、いまや同じ「片隅」で仕事をしているのだから、この画廊の新しい所有者(元はグービル画廊であった)は、前任者:テオ・ファン・ゴッホが店に積み上げていた (ファン・ゴッホの弟:テオ)「ひどい代物」・・・ゴーギャン、モネ、ピサロ、ドガなどに加えて何点かのロートレックの絵画も確かに含まれていた・・・を処分するよう、ジョワイヤンに求めねばならなかった。ジョワイヤンのような専門家の助力は、ロートレックを力づけたが、まだそれは彼に栄光をもたらすほどには至らなかった。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.10
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックとフィンセント・ファン・ゴッホと知り合ったのはこのころですロートレックの『技法』テクニック・・・とは?Toulouse-Lautrecアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。1887年(23歳)ロートレックは、油彩画にテレビン油を溶剤として使い始めた。テレビン油は、乾くと紙や厚紙に染み込み、パステルのようなつや消しの効果が得られる。油絵具を軽くすることで、その筆致を抑えずにデッサンの過敏さを保つことができる。同時にロートレックは、支持体の全面を絵具で覆い尽くすのを止めるようになった。地のままに残された画面の一部は、紙固有の色調(茶色の厚紙がもっとも多い)を保持している。背景を完全に仕上げると、結果はどうなるというか。それは描かれた場面をその周囲の情景のなかに中和させるという慣習でしかない。より価値があるのは、運動を示すための体の輪郭と姿勢だけを確定し、それを決める筆致をはっきりと見えるままにしておくことだろう。かくして踊り手たちは、彼らのダイナミックな動きのままに再現されることができるのだ(この年にはまだムーラン・ド・ ラ・ギャレットで踊っていたが、 ラ・グーリュと骨なしヴェランタンというロートレックの絵画に 繰り返し登場することになる二人組が初めて描かれている)。しかしこの技法は、他の画家と競い合ううちに生まれたものであった。ロートレックがコルモン画塾に入って来たファン・ゴッホと知り合ったのは、おそらく1886年の秋であろう二人の若い画家は意気投合し、たびたび一緒に遊びに出かけたまた、ゴッホは・・・トゥールラック街のロートレックのアトリエにたびたび最新作の油絵を携えて来て何か励ましになる批評を待ち望んだものだった。もっぱら飲んだり、冗談を言ったりしているように見えても、1〜2時間も経つとゴッホは自作を腕にはさみ、一言も言わずに帰っていくS,バラドンは・・・「画家たちときたら、意地悪な連中だ」と結論づけたが、ロートレックは・・・おそらく画家をどう示すかにより興味を持ったようだ。その証拠は彼が、1887年(23歳)の時に描いた『フィンセント・ファン・ゴッホの肖像』である。ここで、ロートレックは、ゴッホの「クロス・ハッチングの技法」と、青、緑、黄橙からなるいつもの彩色まで借用しているモデルは横顔を見せてカフェのテーブルにつき、眼差しは眼窩のなかの窪んだ点にまで縮小され、視界の外の事物や光景と、まったく内面的な幻影の間に等分に注がれている。さらに同じ年に描かれた『マルロメの居間のアデール・ド・トゥールーズ=ロートレック伯爵夫人』1887年 54.0cmx45.0cmアルビ「ロートレック美術館」印象主義との葛藤がまだ終わってはいないことを示している。ロートレックは、頻繁にルノワールを訪問したし、ピサロがラブルーヴォワール街に住んでいたり、シニャックのアトリエがクリシー大通りにあるというのに、どうして印象主義から離れることができようかそしてモンマルトルを初めて絵に描き、アカデミズムと縁を切ることができるのを証明してみせたのは、印象主義者ではなかったか。ロートレックの絵画制作は一定したものではない。1887年には、14,5点を描き、1888年には、24点、1890年には、18点に減じたしかし年を追うごとに、主題と様式に関する自身の選択を緊密に固めていき、重要な作品を発表し始めたが、その度ごとに前作を捕捉する感覚や方向を見いだしては新たな制作が繰り返された。『フェルナンド・サーカスにて:女曲馬師』1888年『洗濯女』1889年『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』『街娼』1889年『ムーラン=ルージュにて:ダンス』1890年などがある。それぞれの作品いおいて主題の特殊性は超越しており、主として逸話的な資料を提供するような類の絵画とは遠く隔たっている。そうしてある種の普遍性、永遠性に達しているのであるロートレックが求めていたのは・・・人物たちや場所を総合する原型であった。しかしながら彼はこの一般的な判例に到達するために、きわめて特殊な人物や明確に特定できる場所を使っている。したがってたとえば、1889年の『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』の右側で肘をついているメロン帽を被った男の名前を、画家のジョゼフ・アルベールと特定することもできるのである。しかしそのことはさほど重要なことではない。大切なのは、ルノワールが1876年に描いたのと同じこの舞踏場の意味自体が徹底的に変質されていることだろう。若さと祭りの活気にあふれた気持ちのいい郊外の酒場が、気づかないうちに倦怠感が全体を浸している重苦しく閉ざされた空間に置き換えられてしまっている。仲間同士の打ち解けた話に興じるルノワールの人物たちとは違って、ロートレックの描く人びとは決定的な孤独のなかで、孤立しているように見える。「ああ、人生とは!人生とは!」。表立っては笑いのあふれるような場所でさえ、その表側には間違いなく悲痛なものが隠されているのである。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.09
コメント(0)
22歳ころトゥールーズ=ロートレックは、モンマルトルに広いアトリエを借りて生活を始めます〜どんな生活だったのでしょうかロートレック22歳~『モンマルトルの生活』Toulouse-Lautrecアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。ロートレックは・・・グルニエ夫妻の家に続いて、ブールジュ博士の家に同居し、コルモンやラシューのアトリエで制作するという具合に、今や常時モンマルトルの丘の麓で生活することになった。1886年(22歳)から、トゥールラック街7番地にもっと広いアトリエを借りることになった。その建物には、友人のゴージやスタンランのアトリエもあり、トゥールラック街自体、アカデミーの旧弊な画家(ポンピエ)たちとは反対に、大きなガラス窓を通して部屋に自然光が差し込むのを喜ぶ画家たちに占領された建物でいっぱいだった。4年後に、ルノワールもこの通りにアトリエを構えたが、ロートレックも1897年までここにとどまった。この建物の他の借家人たちが時に悲惨な生活を送っていたかにしても、ロートレックは領地のワインのおかげで経済的な豊かさを享受し雑多な家具や価値のない置物、壁に鋲で止めた素描、積み重ねた画布などでいっぱいの物置小屋にアトリエを変貌させていった。箱の中には日本の置物が詰められていたが、彼の日本趣味は、ボナの画塾で出会ったH.H.ムーアにより、最近の極東旅行から持ち帰った日本の置物を見せてもらって以来のものであった。これらの一切合財をピュビス・ド・シャヴァンヌ の巨大なパロディ画が見張っているという具合だったシュザンヌ ・ヴァラドンが部屋を借りていたのも同じトゥールラック街7番地のアパルトマンであった。彼女は、さまざまな職業を転々とした末、転落事故で軽業師をやめる羽目になった後、絵のモデルとなり、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ 、ルノワール、ドガらのためにポーズをとった。さらにイタリア人の画家フェデリコ・ザンドメギ、通称=ザンドの勧めにより、絵を描き始めていた。ロートレックは、シャ・ノワール、ミルリトン、エリゼ=モルマルトルなどを一巡りするのに彼女を連れて歩くほど親しい関係になったが、二人の付き合いは、苦痛に満ちた破局を迎えた。ヴァラドンは、彼を手玉に取っていたのである。このことは彼が女たちに対して持つ、あるいは持っている振りをする惨めな見解を定着させるものでしかなかった。彼の最初の体験は、半分娼婦のような女とであったが、それはほとんど彼を熱中させるものではなかった。この失敗の後、従妹のジャンヌ・ダルマニャックが、彼を監視するようになって以来(「彼女は大きくて美しい、僕は大きくも美しくもない」)、ロートレックは優しい感情を抑えることと冷笑的な態度をとることを学び、(「ほら50フラン欲しければ、やるよ」)、娼館が提供する値段の決まった愛を利用することを覚えた。彼が愉快な仲間たちとともに、「ああ、人生!人生!」と叫ぶとき、そこに陽気さを見るべきであろうか、それとも苦悩を嗅ぎつけるべきだろうか。おそらく場合に応じて違うだろう。しかしどちらにせよロートレックが人生について考えたことを明かすのは、彼の絵画である。ロートレックの描く【肖像画】・・・とは?ロートレックの制作は抑えられることはなかった。むしろ彼は独自の様式を固め始めていた。印象主義者からの借用はその筆触と、明るい色調や自然光に対する趣味に限定されており、輝かしい光によって形態そのものが侵食されるという彼らの理論には関わりを持たなかった。モデルを戸外に座らせるときにも、自然は背景としての役割しか負わされず、それ自身が描写の対象になることはなく、ロートレックがひたすら没頭する人物を浮き立たせる幕となる。この観点から見て、シュザンヌ ・ヴァラドンの2点の肖像(1885年)は、その典型である。これは、1891年まで続くロートレックの一連の女性の肖像画の端緒をなすものであリ、これらの作品によって彼は大一級の偉大な肖像画家とみなされるのである。というのは正確には、ロートレックが装飾的な細かい描写よりも、モデルの内面心理をよく捉えることができたからである。顔だけではなく、姿勢、眼差し、肩の曲線、背中の傾け具合などが、モデルの社会的立場を超えて、絵画が明らかにすべき内面の真実を少しずつ象徴化していく。同じような作品が増殖していくアカデミックな肖像画のように、人間の形を規格化し、サロン展に集まる公衆にお馴染みの社会的な美的カテゴリーに人物を当てはめるようなことは何もしていない。ロートレックは、寓意的な付属物や技巧的なポーズを捨て去り、あらかじめ意図したものに筆を従わせるような品のよい絵画を体系化する絵画レトリックとの関係を断ち切ったのであるヨーロッパのどこでも、肖像画家たち(ボナ、ステヴァンス、J・E.ブランシュ、 レピーヌ、シャルル・ジロン、ポール・シャバ)は、普通モデルの全身像を描いており、それは人物の着衣や、周囲の家具調度を引き立てるためであると同時に、見る者たちにちょうど向かい合うような視線を肖像画に与えてるが、ロートレックは・・・鑑賞者の相対的な地位を画面に反転させたかのように、たいてい上半身か脚の半ばくらいでモデルの体を着るような構成をとる。彼は社会的なイメージを高めるという気遣いはしておらず、感じ取ったものを真実らしく再現することや、じかに見える肉体的外観を再現しようという努力からさえ解放されている。彼の肖像画のうち1点、(コペンハーゲン、ニュ・カールスベア絵画館)でシュザンヌ ・ヴァラドンは、その時の彼女の若さをまったく反映しない顔で描かれている。ロートレックは、彼女が15ないし20年後にそうなるような容貌を前もって与えているのである。目に見える条件からはみ出し、事物や存在の型にはまった、もしくはそれに相応しい描写を越えようとする彼の意思は、『砲兵と女』(アルビ美術館)の5点の連作にとりわけ明確に表れている。透写紙を使った連作的な習作(これは後にポスターの下絵などにも使われる手法となる)を通して、ロートレックがどのように人物たちを配置しようとしたかを認めること以上に、神経症的なデッサンと、何より内容のきわどさを強調することができよう。この絵は、兵隊が娼婦の前でズボンをはきかえるという、「上品さ」とは無縁の場面を描いている。ここには美化しようというトリックはなく、このようにして物事は過ぎゆき、絵画は余計な潤色や遠慮もなくそれを示すべきだという姿勢が表れているのである。こうした方向に進むことで、ロートレックは仲間たちが熱中する特殊な議論にますます無関心になっていった。彼にとって理論上の問題について、夜を徹して議論することは少しも重要ではなかった。こうした働きかけに対して、彼は「そんなことにかかわずらうなよ」という決定的な言葉で反駁した。そしてもっと良いことで毎夜を過ごしていた。バー、キャバレー、娼館巡りに費やす時間がどんどん長くなり、そこに友達を連れていくのが普通になっていった。ロートレックは、冗談や仮装が大好き!?もったいぶった会話よりも笑い話を好んだロートレックは、1886年(22歳)、第5回支離滅裂美術展に出品した。この団体は元「イドロパット」の支配人:ジュール・レヴィが、1882年に設立したもので、ロートレックが手にとって見るような新聞「シャノワール」「クーリエ・フランセ」「ジル・ブラス」などに、その評判が定期的に載っていたのである。カタログに「モンマルトルに住むハンガリー人、カイロを訪れ、 友人宅に滞在、才能は証明済み」と紹介されたトラヴ=セグロエグという偽名に身を隠して、彼は、「紙やすりの上に油彩」という技法で『紀元前3年半のバテニョール』という作品を展示した。冗談を趣味として、ロートレックは仮装舞踏会や友人同士の夜会などで、その機会があれば仮装にも興じたものだった聖歌隊の少年、道化師、2等級の兵卒などに、ボアや羽根つき帽子、日本の着物などを身にまとって変装してみせたしかしながらロートレックが示す機知は、この時代の精神とまったく合致するものではなかった。たとえば彼は、「クーリェ・フランセ」に載っているヴィレットの素描を褒めはしても、それを滑稽画というより「リアリストの寸劇」にしてしまう個々の素描に添付された詞書には目を向けることはなかった。またスタンプのように時事的な主題を扱うようなこともなかった。何よりロートレックは、あらゆる感傷を拒絶した挿絵画家として傑出していたのである。ロートレックの素描には憐れみも、お愛想も、軽蔑もなく、ただ道徳家の視点を排除した鋭い眼差しのみがあった。彼が滑稽なものを描こうとするときは、彼自身の肉体的外観に関心が向けられたが、それは残酷さを伴うものでもあった。その戯画的な自画像では、友人のモーラン、ラシュー、ヴュイヤール、ボナールらが描いた彼の肖像画よりはるかにその顔立ちの歪み、短い脚、もじゃもじゃの髭が強調されている。自分の絵画にみずからを登場させるような場合にも、後ろ姿で描かれるか、大勢のなかの単なる端役として描かれるのがつねであった。また1891年以降は、従弟のガブリエル・タピエ・ド・セレイランのような背の高い男の隣にわざわざ意図的に自分の姿を並べるようになった。酒場や舞踏場に姿を現すこの道化染みた二人組は、予想できる嘲笑を見越しながらあらゆる嘲弄の名手たることをみずから宣言しているのである。モンマルトルを徘徊する生活に一息入れるために、ロートレックは、1885年から母が2年前に手に入れた「マルロメの館」で、毎夏を過ごす習慣を持った。マルロメには、わざわざ海上航路を使って行くことにした。彼は、ル・アーヴルから出航する「チリ号」によく乗船したが、その甲板でオマールの殻焼きコニャック煮込み一式を振る舞い良き料理人としての評判を博したボルドーで下船すると、プサック街の娼館に立ち寄ったりした後、母の屋敷に帰った。しかしすぐにまたアルカションの海辺に出掛けていったものだった。トッサに彼はココリコ号という小さな舟を持っており、それを使ってよい運動をすることができた。帆走、水泳、鵜による釣り(これは否応なく父親の鷹狩りのパロディとみなされよう)などである。再びパリに戻ると、彼はパリの歓楽街を新たな気持ちで前にも増して享受するのだフェルナンド・サーカス、エリゼ=モンマルトル、仮装舞踏会、そして、ムーラン・ド・ラ・ギャレット。アトリエやフォレ爺さんの静かな庭の中でも、彼は、リリー・グルニエや、とりわけその赤毛に惹きつけられたカルメン・ゴーダンら気に入りのモデルと再会し、彼女らを写生したデッサンを重ねては、肖像画を描いたのである。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.08
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックは、もっと自由に制作できるようにと両親から独立してアトリエを借ります♫ロートレック『モンマルトル』へ♪Pari Montmartreアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。1883年12月(20歳)ロートレックは、もっと自由に制作できるようにと!ルピック街にアトリエを借りた。家族から初めての独立だったが・・・それは簡単にはいかなかった彼の母親は、財布の紐をゆるめず、芸術家仲間の暮らしに不信感を表明した。「アトリエでの生活は、 画家の腕を磨くには 都合が良いでしょうが 若い男にはひどい環境です」。そしてモンマルトルあの「いかがわしい地区」にも母は我慢がならなかった「僕はすっかり画家の卵です」。彼は仲間たちと同じように顎髭をたくわえ「馬のように制作した」。しかし、何が彼にふさわしいかは、まだ定かではなかった。アンクタンは・・・彼より優れて見えたが、「印象主義の道」に従っていた。ロートレックは・・・すでに印象主義が自分の手法ではないことを気づいていた。彼の絵画はますます人間を主題に選ぶようになっていた。1884年(20歳)は、南西フランスに出かける代わりに彼はパリで夏を過ごす。国立美術学校の選抜試験に通るのを断念したばかりの折に、コルモンが、ヴィクトール・ユーゴ全集の挿絵の仕事のための協力者に選んでくれたからである。さらに友人:グルニエがフォンテーヌ街19番地第2号の新居に移るのに便乗してそこに同居を始める。その建物には、ドガ、もアトリエを構えていた。今度は家族からの断絶も完全に成し遂げられたそれは単なる住居の問題を超えて、彼における絵画の定義そのものが変わったのだロートレックの母は、そしておそらくは父も、アンリの将来をボナのような社交界の画家として慣習を尊重し、フランス学士院の会員に推挙されるようなものと思い描いていた。ところが、ロートレックが絵画に見いだしたものは、まったく別の方向に導くことになる。1880年代のモンマルトルは・・・われわれがロートレックの作品を見て以後に抱くようになったイメージとはたぶんまだ同じものではなかった。むしろこの地区がパリの他の場所から際立っていたのは、村のような鄙びた眺めと、芸術家と娼婦と職人と、つまらないごろつきたちがごた混ぜになっているその住民であった。彼らが間もなくダンス・ホールやバーなどで「社交界の人びと」と関わりを持ち始める。ロートレックも熱心にこうした場所に通った。そこでは彼の姿もほとんど奇異なものではなかった。【コルモン画塾】に通ったり、友人たちの家を訪問するときに(ラッシャーはモンマルトル墓地の麓のガヌロン街に住んでいた)行き交う人の姿、歩き方振る舞いなどに無感覚ではいられなかった。店員の娘、肌着売りの女、お針子あるいは娼婦たち、また流行の沖仲士の格好をした娘や、ブルジョワ市民、商人、そしてあまり公にできないような「仕事」をするとらえどころのない人物たちが次々と街角を通り過ぎる。こうした住民たちは、同時代の画家からまったく顧みられることはなかった。というのも彼らは画家たちが伝えようとする価値や観念にまったくすごわなかったからである。彼らに興味を持ったのは、ヴィレットや、スタンランのような「挿絵画家」だけであった。しかしながら、もっとも先鋭的なやり方でものを見、それを紙もしくは画布の上に、あらかじめ設定された感覚を盛り込むのではなくあるがままに写し取ることによって新しい世界の創造を目指すのは、通常の世界の裏側、もしくは少なくともその周縁部分からであろう。1884年(20歳)頃には、一方で素描の制作は抑えられていないのに、ごくわずかの絵画(10点余り)しか描かれていないが、それはロートレックが絵画の改革を自分の役目として考えるのに躊躇や困難を感じたことを示している。『泥寧にはまった荷馬車』『下生え』『猟犬とともに獲物を追う騎馬の男』などは、それ以後描かれなくなる主題の最後の作品である。『男の半身像』『笛を吹く男』などは、いまだアカデミックな習作の範囲にとどまるが、次の2点の裸婦は、ロートレックが達成しつつあった方向転換を示している。そのうち『ジャンヌ』オッテルロー「クレラー=ミュラー美術館」は、斜め正面を向いて座る伏し目がちでのっぺりした肉体の裸婦という具合に、なお型にはまった構図に属するにしても、『太ったマリア、モンマルトルのヴィーナス』ヴッパタール「フォン・デア・ハイト美術館」は、ぎごちないデッサンや凡庸な光の効果にもかかわらず、現実を装うことなしに提示しょうとする意思が際立っている。描かれた娼婦は見る者の視線を正面から見返し、その顔には、軽侮と挑戦の気配を漂わせる。拘束のないこうした肉体の態度が、あたかも、これまで現実から絵画(および見る者の視線)を守ってきた表面のヴェールやワニスをはぎとってしまった蚊のようである。1884年11月(20歳)ロートレックは母に宛てて書く、「僕は春まで続くかと思われるような 単純な仕事の繰り返しをしています。 でもおそらくそのうち、 珍しいものを作ることができるでしょう。 まだどんなものか良く分かりませんが」。2か月後には彼は、「サロンのための作品を準備したものかどうか」躊躇っていて、「いっさいが野心的な計画で、熟考を要します」。しかし、この熟考も長くは続かず、すぐに彼のなかにあるモンマルトルへの魅惑がサロンを打ちかましたのである。「ブリュアン」との出会い・・・とは?ロートレックが足繁く訪れたモンマルトルは、丘よりもむしろ大通りであった。実際、クリシー大通り、ロシュアール大通りに沿って、キャバレーやカフェ・レストランが立ち並び、彼はその常連になりつつあった。ラ・モール、ブール・ノワール(1887年以降=ラ・シガール)、カフェ・デ・コロンヌ、エリゼ=モンマルトル、そして1881年に、ロドルフ・サリスが開店したシャ・ノワールなどがある。サリスは・・・見せかけの媚びへつらいと放漫さの入り混じった口達者によって店の評判を確立した。さらにヴィレットによる巨大な油彩画をはじめとした店内のがらくたのような装飾によっても、画家や作家たちの興味を引く機会をとらえた。ロートレックが、サリスの個性に惹きつけられたかどうかは明らかではないが、アリスティド・ブリュアンがデビューを飾ったのは、このシャ・ノワールである。ブリュアンこそ、ロートレックの人生にサリスよりもはるかに大きな関わりを持つ人物となる。サリスが移転した後のこの場所を買い取り、ブリュアンは、ミルリトンと名付けられた自分の店を開店し、瞬く間に人気を獲得した。その評判は、巧妙に作られた隠語でいっぱいの彼の歌「哀れな一節」や「報復のルフラン」によるばかりではなく、増える一方のお客たちへの彼の一風変わったもてなしのお陰であった。「彼は客の大群を迎え入れ、 アカデミーと乾杯し、 粗野な輩に邪険にしたかと思うと、 愚か者を誉め上げ、 時流に乗った実力者を怒鳴りつけ、 ロシアの大公をコサック呼ばわりし、 王族におまえ俺で話しかける」という具合だったという。ロートレックは、ブリュアンのお陰で、モンマルトルの空気のなかに今まで嗅ぎとっていただけのものをついに発見し、この二人の男は本物の友情で結ばれた。彼が見いだしたものは、確立された価値の取るに足らなさ、社会的な階層の混在、公式芸術では触れることのできない現実の露呈であった。彼は相変わらずコルモンの画塾に制作に通い続けたが、今やブリアンの歌の一節を声を限りに歌ってはアトリエを陽気にしていた。この風刺歌謡作者(シャンソニエ)は、過剰な民衆主義を備えていたが、それは社会が極端に隠蔽し、秘密にしているものに興味を集めるうまい方法はなかろうか?ブリュアンはロートレックのうちに、自分の歌謡集「街角にて」の挿絵を描かせたヴィレットやスタンランとは違う次元の芸術家を認めていた。そして、ブリュアンが彼固有のやり方でロートレックに影響を与え、そのとき彼のものであった方法に進ませることは不可能ではなかった。1885年(21歳)ロートレックは、急にアトリエのモデルを使っての制作を止め、周辺の友人たち(リリー・グルニエやエミール・ベルナールの肖像)ばかりか、女工のカルメン・ゴーダンのような街角に行き交う女たちにも興味を向け始めた。カルメンの肖像は4点描かれている。これらの肖像画を描く視点には、コルモンやボナの教えが反映されているのも事実だが、同時にロートレックは、ドガにも魅せられていたことがわかる。彼の『踊り子たち』は、ドガに多くを負っているし、この年の冬、数日を過ごしたヴィリエ=シュル=モランで宿屋の壁に描いた油彩『舞台監督』『楽屋の踊り子』『バレーの場面』『天井桟敷』などは、ドガからひじょうに豊かな借用を示している。彼の努力は、あらゆる形式から離れて、現実の動きや正しい姿勢を捉える方法に向かっていた。それこそドガの真骨頂であり、オクターヴ・ミルボーの叙述によれば、ドガは「生命ある布の下の生命ある肉体あるを正確に」再現したのである。このときはロートレックもまだタイツとチュチュを着た「きちんとした」ベレリーナを描いていた。1886年(22歳)の『エリゼ=モンマルトルのルイ13世の椅子カドリール』になると、古典的な演出は別のジャンルの振付けに置き換えられた。優雅さは大股開きに、トーダンスは月への足蹴りに、そして女性の体の軽やかなイメージは、挑発的な見せびらかしに取って代わられている。グリザイユ(灰色の濃淡だけの描法)で描かれた『カドリール』は、ミルトンの壁を飾り、この年の終わりにブリュアンの新聞「ル・ミルリトン」の表紙に印刷されたが、その画面には、モンマルトルの狂熱の夜を象徴する定めの人物たちが描かれている。踊り子たちの肉体の露出が行き過ぎにならないように監視する「羞恥心親父」(ベール・ラ・ピュドウール)や、まもなく有名になる踊り子「ラ・グーリュ」と「グリーユ・デグー」しかしこの栄光は彼女たちの踊りの才能よりもロートレックに多くを負っている。さほど大きくない寸法(45cmx56cm)にも関わらず、この『カドリール』は、前兆としての価値を持っている。血気盛んなモンマルトルの中心でのブリュアンとの付き合いを通して、ロートレックがいまやどれほどこの地域に密着し、そのきわめて特殊な見世物に彼の視線がどれほど引き寄せられているかを知らせているのである。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.07
コメント(0)
アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックは、17歳の頃に両親とパリに転居して画学生としての修行がスタートします『画家を志す』青年ロートレックアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。1881年7月(17歳)彼の学業は、バカロレア(大学入学資格試験)に失敗した後も続けられた。母親は彼が再試験を受けることを望んだのに!その夏は、友人のドゥーヴィスムが発行する新聞に23点の挿絵を描いている。それは「ココット」という馬の話でロートレックは「未来の画家」という署名をしてその挿絵を送った。その後再び「辞書と良き手引き書」に没頭し、ドゥールーズでの試験で彼はバカロレア合格者となった。かくして勉強から解放されたロートレックは、絵筆とクレヨンを取り戻し、生まれついての彼の才能を確信するシャルル叔父の支援のおかげで、両親とともにパリに住みながらしかるべき画家修行の道に進む自由を獲得した。首都で彼は、すでに子供の頃から絵の手ほどきを受けていたルネ・プランストーに再開する。ある程度知られた動物画家で、アルフォンス伯爵や、シャルル叔父の友人でもあるプランストーは、生まれつきの聾唖者だったが、どうにか喋ることを身につけていた。こうした身体障がいが明らかにプランストーとロートレックの間にある共感を生み出し、そのためプランストーは、彼の「弟子」の実際の進歩にとりわけ注意深くなっていた。そして運動に対する驚くべきセンスが発揮された大胆な作品『シャンティイーの競馬にて』1879年や、希望のきざし以上のものを含んだ『オートゥイユの思い出』1881年などを見て、プランストーは、アンリが、もっと専門的な修行に移るときだと認めた。彼は、ロートレックの素描の一つを「完璧」と評するのをためらわなかった。そしてプランストーの熱狂は、アルフォンス伯爵にも飛び火した。「プランストーは逆上し、 パパはまったく何も分かっていないと言っていいでしょう。 みんながカロリュス・デュランを夢見てさえいます。 結局、より見込みのある計画が浮上しました。 エコール・デ・ボザール(国立美術学校)の カバネル のアトリエに通い、 ルネのアトリエにも通い続けることです」。完全にアカデミックな絵画教育のプランである。1882年3月(18歳)ロートレックが入門したのは、【ボナの画塾】であった。ロートレックが住んでいたシテ・デュ・ルティロに近いフォーブール・サン・トノレ233番地にある「ルネのアトリエ」も、ロートレックは、なおも頻繁に訪れた。その建物には他の「社交界の」画家のアトリエもあり、なかでも有名なジョン・ルイス=ブラウンは、すぐに彼らの友人となり、競馬場やブローニュの森、フェルナンド・サーカスなどに一緒に出かけたりした。ボナの画塾への入門は、アルビ出身ですでにこの「師匠」に弟子入りしていた若者アンリ・ラシューの推薦によるものだが、ロートレックはこの頃、自分に必要なあらゆる技法の知識を得ようという固い決意に達していた。レオン=ジョセフ=フロランタン・ボナは、1833年生まれで、1年前にフランス学士院の会員となったもっとも声望のある、そしてもっとも高価な肖像画家であった。昔の巨匠の絵画の蒐集家でもあり、ボナの野心はできうる限りわからぬようにその技法を模倣することだったように見える。彼のことを「自分の姿を画布の上に永遠に残して欲しくて 毎日のように押しかける人たちを、 才能で光輝く大人物として写真のような 冷たい正確さで何の価値もなく」描くとして避難するコラムニストもいたが、大多数の批評家は彼を、「意気盛んに思うがままに描ける画家」とみなしていた。彼は弟子たちに対しては優しいという評判はなかった。最近の新しい理論(ことに印象主義など!)に気をとられるようなことは問題外だった。そこで明るい色調をうまく使いこなしていたロートレックも、師の指示によりパレットの絵具を暗いものにした。1882年5月(18歳)彼は師の批評を書き送ってる。「あなたの絵は悪くはない、 器用な感じだが、 そう悪くはない。 だがあなたのデッサンは、 まったく話にならない」。彼は規律に従い、石膏像を模倣し、デッサンを凡庸なものにした。しかしヴァカンスに出発するとすぐ、彼のデッサンは元の活気を取り戻すのであった【コルモン画塾】1882年9月、ボナは国立美術学校の教授に任命されたため【ボナの画塾】は閉じることになった。明らかにロートレックが、そこで多くを学ぶ間もないうちの閉鎖であった。しかしクリシー広場に近いエレーヌ袋小路にあるボナの画塾に通ううちに、ロートレックはモンマルトルを発見し、シテ・デュ・ルティロの住民とは異なる種類の人々と知り合うようになった。彼はまた別の師につく必要があったが、ボナのところの何人かの仲間とともに【コルモン画塾】に通うことにした。彼の父への手紙によれば、コルモンは、「若いけれども すでに知られた男で、 リュクサンブール美術館にある有名な 『家族とともに逃げるカイン』 の画家です。 力強く、厳しく、 独創的な才能の持ち主」だと記している。そのアトリエは、コンスタンス街と交わるクリンシー大通り104番地にあった。コルモンは・・・先史時代を専門に扱うアカデミックな画家になろうとしていた。しかし彼には幻想画家の資質もあり、アトリエでの冗談を好んだので、弟子たちは彼の痩せていることを種にペール・ラ・ロ・テュール「膝がしら親父」というあだ名をつけた!明らかにコルモンもボナと同じく印象主義には敵意を抱いていたが、出来るかぎり「アトリエの外で」制作するように奨励した。ロートレックは最初、コルモンの寛容主義を嘆いていたが、コルモンの指導は、「ボナのやり方よりも親切」であった。画塾仲間ゴージによる『回想』の叙述を信ずるなら、この師と弟子は互いに理解しあっていたと言う。「コルモンはむしろ好意的な意見を 彼のデッサンに与えたのに ロートレックが言い返すのを面白がった」。ロートレックは、そのうえ模範的な勤勉さを発揮した。午前中から画塾に出席し、午後も毎日モデルを使って制作に励んだ。彼は裸体を研究し、いくつかの寓意画を構想した。かつて失敗したと言う感情があるだけにますます彼は熱中した。「僕は哀れな状態にあります・・・」。セレイランで夏を過ごしながら、彼はつねに風景画で以前と同じ難しさに直面している。「僕の画面にはホウレンソウだか、 ピスタチオだか、 オリーヴだか、 糞だか何だかわからない筆致」しか描けないのだ。研究のために、彼はルーヴル美術館やサロン展・・・そこには子供の頃すでに父親に連れられて行った・・・を訪れ、ドゥタイユ、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ 、ロールらを崇拝したが最終的にもっと気に入ったのは、ドガとフォランであった。コルモンの弟子のうちで、ロートレックは何人かと変わらぬ友情を結んだ。エミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、ルネ・グルニエ、らである彼らは毎晩母の家に帰る彼と違って、すでに独立した生活を送っていた。友人たちは・・・ロートレックの当意即妙、おどけ振り、快活さ、略語から、ほとんど宇宙的なまでに拡大した意味を与えられた「テクニック(技法)」という言葉の使い方までを楽しんだ。彼は修行中の弟子として、メロヴィング朝時代の場面を描く一方で、アカデミックな約束事を皮肉って見せたりもした。1894年、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ が、サロンに出品したばかりの大画面『聖なる森』(1.72mx3.8m)のパロディーを描いている。形どおりの女神たちの行列の中に、シルクハットを被った彼の仲間たちの一団を描き加え、最前列にはその身長とお馴染みのメロン帽から一目瞭然のロートレック自身が、公衆に背を向けて描き込まれている。(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.06
コメント(0)
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックは、裕福な貴族の長男として生まれながらに黄金の人生が待っているはず・・・でした『ロートレックのお話』その1Toulouse-Lautrec(1864-1901)アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。『黄金の幼年時代』代々続いた富裕な正統貴族という彼の属する家系から考えても、アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックは、明らかに絵を描いたであろう。それは父や祖父、叔父たちのようなアマチュア画家であっただろうが、なぜなら彼らは、狩猟や鷹狩りに優れていたばかりかりでなく芸術にも趣味があることを誇りにしていたからである。父:アルフォンス伯爵は、時として粘土で何かの動物を造ることもあった。勇敢な騎兵である彼は、従妹のアデール・タピエ・ド・セレイランと結婚する以前は、槍騎兵の「連隊の誉れ」と言われた。結婚は、彼の狩猟熱を冷ますものではなく、思い立つと昔の獲物の狩り出しのようにアルビからソローニュ地方まで遠征した。子弟の教育、それは女の仕事というわけだ。母と二人の祖母が彼女たちのプティ・ビジュー「小さい宝石」を思いのままに可愛がり、アンリの性格の素直さと珍しさが彼女たちを喜ばせた。一つの館から別の館への移動に応じて彼の気まぐれはいくらでも増殖させられた。選択の幅は大きかったのだ!1864年11月24日にアンリが生まれた。アルビのル・ボスク邸宅、アヴェロン県のル・ボスク城館、オード県のセレイラン城館、そこには一部が葡萄畑となった1,500ヘクタールの土地もあった。こうした「黄金の幼年時代」は、時折帰ってくる奇抜な格好をした父の疾風のような通過によって区切られたもので、あらゆる仮装に夢中な父による「蛮族の踊り」が家の広間で披露されることもあった。その父が、1876年1月1日、息子に贈った本「昔と今の鷹狩りについて」の献辞に書いている。「・・・もしいつかお前が 人生の苦さを知ったとき、 第一に馬が、次いで犬と鷹が お前の大切な仲間となり、 わずかでもそれを忘れさせてくれるだろう」馬、犬、鷹、このプログラムは、アンリの心をそそるものがあった。彼は、学校のノートの余白に落書きをする癖があったが、その動物や人物の姿、漫画などはすでに十分に伸びやかできれいな鉛筆の線で描かれている。アンリは、自分でも早く馬を乗り回したくてたまらなかった。しかし、彼はまだやや虚弱であった。自然のただなかで暮らし、旺盛な食欲を示したにもかかわらず、明らかに彼の成長は阻害されていた。1872年夏、彼は両親とともにパリに向かいそこでシテ・デュ・ルティロにあるアパルトマンを住まいとして、リセ・フォンターヌ(現在のリセ・コンドルセ)の第8学生に編入学した。ここでは又従兄弟のルイ・パスカルが同級にいてモーリス・ジョワイヤンとも知り合った。父は、アンリを乗馬に連れて行こうとした。そうすれば息子は丈夫になるだろう。それでもアンリの健康は回復しなかった。湯治(アメリー・レ・バン)や、海(ニース)に連れて行かれ、さまざまな治療が試みられた。しかし、彼の学校生活は、1875年1月9日で中断され、この日を最後に彼は学校を去った。その後の勉強は、アルビやル・ボスクの家庭で続けられた。偏頭痛や苦痛の発作、日常的な両脚の疲労にもかかわらず、アンリは馬に情熱を抱き続け、1876年1月、馬の絵の専門家クラフティの素描を手に入れた。また絵画にも情熱を注いだが、この分野では叔父:シャルルが惜しみなく彼を導き、励ましを与えた。そのうえ厄介なことには、彼は「左足が短い」ことが分かり、杖が必要になった。あの乗馬を愛するロートレック家で杖だなんて!1878年5月30日、アルビの邸宅で椅子から立ち上がろうとしたアンリは、左大腿骨を骨折した椅子の横木に足を取られたのであろう。左脚にギプスをはめることを余儀なくされ、彼は車椅子に乗ることになった。回復は遅々としていた。アメリー・レ・バンや、バレージュに療養に行かされ、ニースで冬を過ごした。2度目の転倒は・・・1879年の夏、再度のバレージュ滞在に起こった。今度骨折したのは右脚だったそれまで彼の左脚を拘束していたギプスが取れたばかりで、あまり歩き回らないよう厳命されていたにもかかわらず、彼は母と散歩に出たがり、足を踏み外すという致命的な過ちを犯して、ほぼ1m以上の深さの溝に転落してしまったのである。新たな長い療養期間が始まった。そして恐ろしい事実が最終的に判明した。両脚の成長が阻害され、彼は不恰好な「小人」のままの将来を宣告されたのである。13歳の時、ロートレックは1.5mあったが、その後の人生では2cmしか伸びなかった。しかも彼は単に「小さい」のではなかった。鼻はどんどん大きくなり、唇も腫れたように厚くなっていき、彼の顔は不快と言っていいほど奇妙な外見を呈すようになった。彼の「耳障りな大声」は鼻声になり、子供のような歯音不全が高じていくつかのシラブルが変わって聞こえるほどになった。幼年時代の夢は終わり、馬に乗って狩猟に行く望みも打ち砕かれた少なくとも彼に青春期は訪れただろうか・・・?おそらくそれもわずかなもので、秘密の心のときめきのままにその発露は奪われたのだろう。しかしながらロートレックは、どんな憐れみも望まなかった!彼はむしろ自分から道化に向かい、かつてはわがままだったその性格も周囲の人々に讃えられるものに変わっていった。「深靴用靴べら」と称する小さい杖にすがるようによちよちと歩くことを強いられて、彼はもはや優雅さが「彼の宿命」でも「彼特有の性格」でもないことをあえて忘れないようにした。しかしすぐにもそれを無視したい欲望が彼のうちに現れてくるのだが・・・。彼のいるところには、どこでも素描、水彩、クロッキーがたまっていった。セレイランの風景画には、素早く描かれた小さい筆致が認められ、印象派の手法の影響を無視することはできない。しかしながら、風景は・・・人物の姿や動作を画面に定着させるほど楽ではなかった。友人のドゥーヴィスムに宛てて書いている。風景画、それは「完全にうまく描くのは不可能です。 ・・・僕の樹木はホウレンソウのようだし 僕の海は何でもあなたの好きなものに 見えるでしょう」。何ヶ月かで事態は改善される。樹木はホウレンソウには見えなくなったが、それでも風景画はつねに騎兵や馬車、静物や人物の頭部などを描くとき以上の努力を要した。ロートレックは夢中になった。絵画はもはや単なる暇つぶしではなく、避難所よりも価値があり、虚弱な肉体にもかかわらず彼が自分の人生に意味を与えうることを証明するものとなったのである1880年には、すでに300点の素描と60点以上の油彩が描かれていた。彼はすぐさま、さまざまな主題や構図の知識を通して初期の様式を見定めようとしていた。しかしこうした作品は、より広く言えば、ロートレックが自分が選んだ分野の開拓に着手したのを知らされるものでもある。それ以後、彼は「聖パレット」に仕えることを誓ったのである(参考文献:岩波・世界の巨匠ロートレックより)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.05
コメント(0)
まず、ロートレックの興味深い生涯をザックリと辿って理解を進めて参りましょうかちょっとファン・ゴッホに似ていますが・・・交流もあったようです。ニューヨーク「メトロポリタン美術館」にてアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家。ポスト印象派、世紀末美術、アール・ヌーヴォー。トゥールーズ=ロートレックの年譜1864年11月24日(ロートレック=0歳)父:アルフォンス・ド・トゥールーズ=ロートレック=モンファン伯爵母:アデルの長男として南仏「アルビ」で誕生。祖先は、9世紀のシャルルマーニュ時代まで遡ることができる名家であった。両親はいとこ同士で、父:アルフォンス伯は、奇妙な服装をするなど変わり者で有名。アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックの幼少期には「小さな宝石」Petit Bijou と呼ばれ家中から可愛がられて育った。1867年(3歳)弟:リシャール誕生。両親が別居。1868年(4歳)弟:リシャール死去。弟が亡くなると両親が不仲となる。1872年(8歳)母親と共に転居。パリ=ボワシー・ダングラ街35番地の「べレイ館」に居住。10月、アンリはリセ・フォンテーヌ(現在=リセ・コンドルセ)入学。1873年(9歳)リセで生涯の友となるモーリス・ジョワイセンに出会う。1875年(11歳)健康上の理由でリセを退学。1876年(12歳)パリで初めての聖体拝領に臨む。1877年(13歳)両脚のための様々な治療を受ける。1878年5月30日(14歳)ボスク館で転倒し左脚を骨折。アルビでの療養中、デッサンや絵画制作に没頭する。1879年8月(15歳)溝に転落し右大腿骨を骨折。1881年7月(17歳)パリでバカロレアに失敗。ルネ・プランストーのアトリエに通う。画家になることを決意1882年4月(18歳)レオン・ボナのアトリエに入門するが9月、閉鎖。フェルナン・コルモンのアトリエに入門。1883年(19歳)母がマルロメの城館を購入。1884年(20歳)アトリエの仲間:アルベール・グルニエのアパルトマンに同居。1885年(21歳)シャンソン歌手:アリスティド・ブリュアンがキャバレー「ミルリトン」を開店。常連になる。1886年(22歳)シュザンヌ ・ヴァラドンと出会う。コランクール通り27番地にアトリエを借りる。ゴッホと親しく交流する。1887年(23歳)ベルギーの二十人会展に招待される。ゴッホらとともに展覧会を開く。1888年(24歳)二十人会展に出品。1889年(25歳)パリ万博を訪れる。「ムーラン・ルージュ」開店。ロートレックの油彩画が入り口を飾る。1890年7月(26歳)ゴッホ死去。中風を患ったテオ・ファン・ゴッホに代わり友人:ジョワイセンがブッソ=ヴァラドン画廊(旧グーピル画廊)の支配人となる。ジャヌ・アヴリルやイヴェット・ギルベールと出会う。1891年(27歳)同郷の友人で主治医のブールジュとともにフォンテーヌ通り21番地にアパルトマンを借りる。秋、いとこのガブリエル・タピエ・ド・セレイランが医学の勉強のため、パリに出てくる。「ムーラン・ルージュ」の支配人ジドレールから依頼されたポスター『ムーラン・ルージュ・ラ・グーリュ』が大成功を収める。1892年(28歳)初めてのロンドン旅行で、ナショナル・ギャラリーを訪れる。ジョワイヤンがブッソ=ヴァラドン画廊のために『ムーラン・ルージュに入るラ・グーリュ』などを購入し400フランで転売する。12月、イヴェット・ギルベールがポスターを注文する。1893年(29歳)最後となる第10回二十人会展に出品。1月30日〜2月11日、ブッソ=ヴァラドン画廊でシャルル・モランとともに二人展を開催。好評を得て1週間延長され、ドガも訪れる。ロートレックのリトグラフを表紙とした版画集「レスタンプ・オリジナル」創刊号が出版される。11月、「ラ・プリュム」誌上のポスター特集で、評論家たちに絶賛される。「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌の創始者ナタンソン兄弟との交友が始まる。1894年1月(30歳)友人の医師で同居人だったブールージュが結婚したため、コンクール通り27番地に転居する。2月、オランダ、ベルギーへ旅行し、レンブラントの絵画に接し感動する。5月下旬から、ロンドンに滞在し、画家のホイッスラー や作家オスカー・ワイルドと会う。娼館を主題とした作品を熱心に描く。1895年(31歳)ノルマンディーに滞在し、「ラ・ルヴュ・ブランシュ」誌のオフィスとその発行人であるナタソン夫妻を定期的に訪問する。フォンテーヌ通り30番地にアパルトマンを借りる。マルセル・ランデール主演の舞台「シルペリック」観劇に足繁く通う。8月、モーリス・ギベールとル・アーヴルからボルドーへ向かう途中の船上で一人の女性と出会い心惹かれる。ボルドーで下船せず、そのままリスボンまで行く。その女性をモデルにリトグラフ『54号船室の乗客』が制作された。1896年1月〜4月(32歳)マンズィ=ジョワイヤン画廊で個展を開催。鍵をかけられた2階の部屋には、娼家をテーマにした作品が並べられた。1897年(33歳)この年、イギリスやベルギー、オランダなどを旅する。5月、フロショ通り15番地にアパルトマン兼アトリエを借りる。この頃から多産の時代は終わりを告げ、制作点数が落ち始める。1898年(34歳)フロショ通り15番地に暖炉付きのアトリエを借りる。家賃は2000フラン。この頃からアルコールが手放せなくなり、頻繁に身体の不調を口にするようになる4月下旬から、ロンドンのグーピル画廊で個展を開催し、65点を出品する。1899年1月(35歳)母が突然パリを離れる。健康状態がさらに悪化しうつ状態や幻覚症状も出始める。アルコール中毒による激しい発作に襲われ、2月末もしくは3月初旬から5月中旬過ぎるまで、ヌイィーのセムレーニュ博士の市立病院に収容される。友人たちには見舞いに来てくれるように手紙を書くとともに、ジョワイヤンに画材を頼む。退院後、ル・アーヴルやアルカション、マルメロで休養をとり、10月、パリに戻るが、再び酒浸りになる1900年(36歳)パリ万国博覧会開催。万博に際して開催された石版画の110年回顧展に出品する。10月から、ボルドーに滞在。この際にボルドーの劇場に足繁く通う。1901年4月末(37歳)ボルドーからパリに戻り、フロショ通り15番地のアトリエを整理する。南フランス、バイヨンヌにほど近い海辺の保養地トッサなどを経て8月20日、憔悴しきった様子で母のいるマルメロの城に到着する。脳出血を起こし、9月9日午前2時、マルメロで死去。サン=タンドレ・デュボワに埋葬されたが、のちにヴェルドレに改葬された。(参考資料:東京美術・もっと知りたいロートレックなど)(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.04
コメント(0)
今日から「ロートレック」について興味を膨らませてまいりましょうか(^0^)ワクワク『アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレック』第1回Pari Montmartreロートレック・・・とは?トゥールーズ=ロートレックToulouse-Lautrec1864年11月24日〜1901年9月9日(36歳没)フランスの画家・版画家・イラストレーター。ポスト地印象派、世紀末芸術、アール・ヌーヴォー。アンリ・ド・トゥールズ=ロートレックHenri de Toulouse-Lautrecロートレックは・・・代々続いた富裕な正統貴族という彼の家系から考えても、ロートレックは、明らかに絵を描いたと思われます。家族から可愛い「小さな宝石」と呼ばれ家族から大切に育てられ身体に障害を負いながらも、そのハンディーに打ち勝って素晴らしい芸術を作り上げます。その人生は、36年とあまりにも短く、ドラマチックであります。まだ、長生きできたのに・・・この運命なんとかならなかったのでしょうか?トゥールーズ=ロートレックの栄光には、絵画と人生の両面の意味がある。彼の人生があまりに多くの場合彼の絵画を覆い隠している。彼の中には、逸話や過度に誇張された話をいっぱいにかきた立てるものがある。それは、よく知られた彼の小さい背丈やぎこちない話し方、娼婦の館の常連といういかがわしい名声、私たちが常に彼の絵画から回顧的に組み立てるようなモンマルトルに対する変わらぬ執着などからなる彼が「呪われた」画家にならなかったのは驚きであります。なぜなら、自発的に周縁に身を置く彼の存在のなかに癒されぬ病と時おり襲う狂騒、中途で放棄された作品など、呪われたという形容をかき立てるものが見いだせるからである。もし彼がこうした裁定を逃れたとするなら、それは彼の絵画の根源にある厳しさが一連の他愛のない神話(ムーラン=ルージュとその尻軽な遊び女たち)の下に隠され、想像するにシャンパンによる酔い心地が装飾の影の部分を忘れさせたためである。少なくとも彼が何か自分の意図や作品の内容を説明するわずかのものでも書き残しておいてくれたならしかしそれはほとんどないと言ってよく、わずかに二つの言葉が伝えられるのみである。「他にもっとましなことがないから描くんだ」と、「もし僕の脚がもう少し長かったら、 決して絵描きにはならなかっただろう」だが。この二つの言葉は、彼の絵画に不具の肉体の埋め合わせしか認めようとしない見解を誘うものである。(写真撮影:ほしのきらり)ロートレックにぽち
2021.11.03
コメント(0)
いやいや〜ここまで海外渡航が難しい事って経験したことがありませんよ!そろそろ国内なら「キャンペーン」や「マイレージ」使って旅することも計画してもましょうか・・・日本国内でダリ作品に会う方法とは?MadridMuseo Nacional Centoro de Arte Reine Sofieバルセロナもマドリッドも、まだまだ無理なので国内で『ダリ』を探してみました私の一番近いのは・・・「横浜」なのですが『横浜美術館』(よこはまびじゅつかん)Yokohama Museum Of Art注意(2023年まで休館)神奈川県横浜市西区みなとみらい3-4-1TEL:045-221-0300【ダリの作品】は・・・『ガラの測地学的肖像』1936年 ヘレナ・ルビン・シュタインのための壁面装飾三部作『幻想的風景・暁』『幻想的風景・英雄的な昼』『幻想的風景・夕暮』など。『ポーラ美術館』(ぽーらびじゅつかん)POLA MUSEUM OF ART神奈川県足柄下郡箱根町仙石原小塚山1285TEL:0460-84-2111東京駅(新幹線こだま)35分→小田原駅小田急線15分→箱根湯本→箱根登山鉄道・強羅駅→施設めぐりバス・湿生花園行き13分→ポーラ美術館【ダリの作品】『姿の見えない眠る人、馬、獅子』(バレエ『限りある宇宙』のためのデッサン)17点『哲学者の錬金術』(オブジエ)など。『岡崎市美術博物館』(おかざきしびじゅつはくぶつかん)OKAZAKI MINDSCAPE MUSEUM愛知県岡崎市高隆寺字峠1番地TEL:0564-28-5000東京(羽田)ANA¥9.630→中部国際空港(セントレア)空港バスで名鉄東岡崎駅まで70分→名鉄東岡崎駅北口バス乗り場2番より中央総合公園行き→美術博物館で下車徒歩5分。【ダリの作品】『ダリの太陽』『パリスの審判』など。『豊田美術館』(とよたびじゅつかん)Toyota Municipal Museum of Art愛知県豊田市小坂本町8-5-1TEL:0565-34-6610東京駅(新幹線)1時間37分¥.10,560→名古屋駅→地下鉄・東伏見駅で乗り換え→鶴舞線豊田行き終点下車→名鉄名古屋本線・豊橋行き「知立」乗り換え→名鉄三河線猿投行き「豊田下車」→徒歩(15分)800m【ダリの作品】『皿のない二つの目玉焼きを背に乗せ、 ポルトガルパンのかけらを犯そうとしている平凡なフランスパン』『広島県立美術館』(ひろしまけんりつびじゅつかん)Hiroshima Prefectural Art Museum広島県広島市中区上幟町(かみのぼりちょう)2-22TEL:082-221-6246東京駅(新幹線)3時間53分¥18,380→広島駅JR広島駅新幹線口→ひろしま観光ループバス「ひろしまめいぷる〜ぷ」オレンジルート乗車→県立美術館前(縮景園前)下車【ダリの作品】『ヴィーナスの夢』『マルドロールの歌』など。『福岡市美術館』(ふくおかしびじゅつかん)FUKUOKA ART MUSEUM福岡県福岡市中央区大濠公園1-6TEL:092-714-60518:09東京駅のぞみ15号(¥.22,220)4時間57時間→博多駅西鉄バス・博多バスターミナル2のりば・行先13番→ 福岡市美術館東口下車→徒歩3分【ダリの作品】『ポルト・リガトの聖母』『鹿児島市美術館』(かごしましびじゅつかん)Kagoshima City Museum of Art鹿児島県鹿児島市城山町4-36TEL:099-224-3400東京(羽田)LCC(¥.12800)→鹿児島空港鹿児島空港連絡バス市内行き→鹿児島中央駅カゴシマシティビューバス「西郷銅像前」下車1分【ダリの作品】『三角形の時間』1933年『長崎県美術館』(ながさきけんびじゅつかん)Nagasaki Prefectural Art Museum長崎県長崎市出島町2−1TEL:095-833-2110東京(羽田)LCC(¥5.690)1時間50分→長崎空港長崎空港リムジンバス(35分)市内へ→「長崎新地」下車徒歩5分→美術館なつかしかぁ「新地」美術館訪問前に中華街で皿うどん帰りに〜吉宗(よっそう)で茶碗蒸しと蒸し寿しお勧め新地バスターミナル→ハウステンボス行き19:15→21:00(1時間45分)¥1,580→ハウステンボス徒歩3分ホテルオークラJRハウステンボス宿泊¥.19,800ハウステンボスでオランダ気分を満喫→リムジンバスで空港へLCCで帰る・・・こんなプラン如何でしょうか・・・この計画は、個人的な好みで作成しました返礼品にぽち
2021.11.02
コメント(0)
【保存版】サルバドール・ダリの変化に富んだ作品を鑑賞と解説とともに〜写真撮影:ほしのきらり。きらりの『サルバドール・ダリ 美術館』Salvador Dali(ダリ=20歳の作品)Naturaleza muertaStill life,1924Oleo sobre lienzoスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。サルバドール・ダリSalvador Dali1904年5月11日〜1989年1月23日(84歳没)スペイン、カタルーニヤ地方フィゲーラス出身の画家。シュルレアリスムの代表的な作家。DALI,Salvador(19歳〜20歳のころの作品)Pierrot con guitarraPierrot with Gaitar,1923-1924oleo sobre cartonスペイン「ティッセン=ボルネミッサ美術館」所蔵。Salvador DaliPierot tocant la guitarra(Pintura cubista)Pierrot tocando la guitarra(Pintura cubista)Pierrot playing the Guitar(Cubist Painting),1925Oleo soble lienzoスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。Salvador DaliRetrato de su hermana(ana Maria)Portrait of his Sister(ana Maria),1925Oleo sobre lienzoスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。ダリの妹:アナ・マリアを描いた。アナ・マリア・マトゥテ・ホセーホAna Maria Matute Ausejo1925年7月26日〜2014年6月25日スペイン・バルセロナ出身の著作家。妹【マリアの著作物】「きんいろ目のバッタ」「ユリシーズ号の密航者」など。Salvador Dali(21歳)Muchacha en Ventana,1925『窓辺の少女』1925年『窓辺に立つ少女(妹・アナ・マリア)』油彩 カンヴァス 103.0cmx74.0cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。ダリの妹:アナ・マリアを描いた。この時期は、妹をモデルにした絵画を何点か制作している。Salvador Dali(21歳)Muchacha de Espaldas,1925『後ろ向きに座る女』1925年『後ろ向きに座った少女(妹アナ・マリア)』1925年油性 カンヴァス 108.0cmx77.0cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。この作品も妹:アナ・マリアを描いている。窓の外に見えるのは・・・ダリ の故郷フィゲラスに近いカダケスの海。子どもの頃から親しんだこの地の風景は、ダリ に大きな影響を与え作品にもしばしば登場する。Salvador DaliNatura mortaNaturaleza muertaStill-Life,1926『月明かりの静物』1926年Oleo sobre lienzo 199.0cmx150cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。海辺の月明かりに浮き立つ赤いテーブル。その上には変形したギターと魚、顔らしきものが唐突に並ぶ。この絵についてダリは・・・「乾いた物体としてのギターとは対照的に 私は魚のように柔らかくて 粘り気のあるギターを描いた。 この絵は、 ピカソからじかに影響を受けているが、 すでに私の柔らかい時計の出現を予示するものである」 (「ガラのダリ」)と述べている。ピカソが探求したキュビスムの影響で描いたことはその言葉どおりだが、デペインズマン(配置転換)の手法も取り入れているところに、シュルレアリスムへの強い関心が現れている。Salvador Dali(23歳〜24歳)Futile Efforts 1927-1928『小さな遺骸たち(不毛な努力)』1927年〜1928年『小さな燃え殻(セニシタス )』板 油彩 63.0cmx47.0cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。ここではカメラのクローズアップが使われている。顕微鏡を覗いたような緻密さで人体が描かれており、見苦しいシワが刻まれた胴や、硬い毛が生えた肌が写し出されている。この素晴らしい作品の中には、同時に複数の世界が存在する。まるで溝の掘られた地表のように見えるアフリカハゲコウのシワの寄った肌。黒い瞳孔の奥には帽子を被った男の影が映り、その背後には木立が姿を見せる。アフリカハゲコウの目に投影された重層的な世界のように、『小さな遺骸たち』では様々な現実の事物が、「驚異的」な形で並列する。もっとも、こちらはかなり気味の悪い世界が描かれており、断片的な胴の合成物や、切断された頭部、分解されていく動物と血の海は、情緒不安定で偏執狂的な精神状態を連想させる。Salvador Dali(25歳)Visage du garand masturbateurRostro del gran masturbadorFace of the Gran masturbator,1929Oleo sobre Lienzo だいじいしゃ『大自慰者』1929年油彩 カンヴァス 110.0cmx150.0cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。画面全体を占める巨大な顔は『記憶の固執』でも登場するダリの内面の自画像。顔の鼻から下、口元にあたる部分には、大きなイナゴがとまっているが、その腹部には蟻がたかり、すでに腐敗している。ダリは、イナゴ恐怖症であり、不愉快で恐ろしく嫌悪すべき存在として描いた。右上には男の下半身が描かれ、その股間に向かって女が顔を寄せている。この作品は、妻:ガラと出会ったばかりの頃に制作されたもので、ここにはダリの性に対する強い欲望と期待、それに反する恐怖心と葛藤が表現されている。Salvador DaliL'homme invisibleEl hombre invisibleThe invisible Man,1929『見えない男』1929年・・Oleo soble lienzoスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。ダリは、この未完の作品を、ガラと自分自身を守る「偏執狂的なフェティシュエ」であると考える。ウイリアム・テルとは対極にあるもので、またダリが人生の最後の最後まで追求することになるダブル・イメージによる最初の作品。Salvador Dali(26歳)Guillaume Tell,1930William Tell,1930『ウィリアム・テル』1930年パリ・ポンピドゥセンター内「国立近現代美術館」所蔵。ウイリアム・テルは、非常に様々な角度から精神分析的解釈が行われた作品である。「夢判断」をはじめとするフロイトの著書を何冊か貪るように読んだダリは、フロイトが本にとりあげた事例と、自分が創作した象徴や怪しげな知識を大胆に混ぜ合わせた。その結果、ハサミを手に息子を去勢しようとするウイリアム・テルのような新しい伝説が次々と誕生していった。つまり、父親と激しい衝突を繰り返したダリにとってそもそも父とは意識的にせよ無意識的(ウィリアム・テル)にせよ常に息子を傷つけ、去勢しようとする存在なのである。Salvador Dali(27歳)The Persistence of Mamory,1931La persistencia de la memoria,1931『記憶の固執』(柔らかい時計)1931年oil on canvas 24.0cmx33.0cm「ニューヨーク近代美術館」MOMA所蔵。柔らかく溶けるカマンベール・チーズのダリの夢から生まれた有名な「柔らかい時計」。溶けゆく時計は観るものを落ち着かない気持ちにさせるが、この象徴的なイメージは、ある程度の明快さを持ち合わせている。この作品には、ポルト・リガにある彼らの「我が家」に流れる精神が表現されている。そこでは時間がゆったりと流れ、あるいは「溶け」ており、ダリがガラの中に見つけた安らぎで満ちている。(MOMA館内解説より)Dali rendered his fantastic visions with meticulous verisimilitude,giving the representations of dreams a tangible and credible appearance.In what he called "hand painted dream limp,time bends,and metal attracts ants like rotting flesh.The monstrous creature draped across the painting's center resembles the artist's own face in profile;its long eyelashes seem insectlike or even sexual,as does what may or may not be a tongue oozing from its nose like a fat snail.ダリは、彼の幻想的なビジョンを細心の真実らしさで表現しました。夢の表現に具体的で信頼できる外観を与える。彼はいわゆる、夢の中の時間はぐったり曲がり金属は腐った肉のようにアリを引きつけます。中央で横切った巨大な生き物は、ダリ自身の顔のようです。その長いまつ毛は、昆虫のように太ったカタツムリのように鼻からにじみ出る舌であるかも知れない。あるいは性的でさえあるようにも見えます。DALI,Salvador(28歳)Gradiva descubre las ruinasantropomrfas(Fantasia retrospectiva)Gradiva rediscovers theAnthromorphic ruins (Retrospective Fantasy)1931-1932oleo sobre lienzo 65.0cmx54.0cm『人造人間の破滅を見るグラディーヴァ』1931年スペイン「ティッセン・ボルネミッサ美術館」所蔵。Salvador Dali(28歳)L'Angelus architectonique de Millet,1933『ミレーの建築学的晩鐘』1933年『ミレーによる《晩鐘》の建築学』油彩 カンヴァス 73.0cmx60.0cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。ミレーの「晩鐘」の悲劇的神話は、ダリの本質に迫る幻想の一部分である。ダリの解釈を裏付けるように、その作品をX線で透視した結果、2人の人物の間の地中に幾何学形が現れた死んだ子どもの柩である。女性は後尾前の信心深いカマキリともいうべき攻撃的な態勢をとっている。手押し車、女性、人の姿が、農民的エロティシズムとでもいうべきものを一般的な形で表現している。Salvador DaliSalvador DaliMAN REY(Emmanuel Radnizky)Portrait of JoellaRetrato de Joella,1933-1934スペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。Salvador Dali(34歳)El enigma sin fin The Endless Enigma,1938『果てしなき謎』1938年油彩 カンヴァス 114.5cmx146.5cmスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。この作品は、多重イメージの最たる作例で、ここでは6つのイメージが組み込まれる。画面上には頭を有する「寝そべる哲学者」、その頭に口づけるような「グレーハウンド犬」、犬の前足が「マンドリン」のネックとなり、その右手に高台のついた「果物とイチジク」。果物皿の向こうにある舟を目に見立てると浮かんでくる「キュクロスプスの顔」ギリシヤ神話の巨人果物皿のベースを形作る「網をつくろう女の後ろ姿」右下に曲がって置かれた網は「神話的な動物」の前足となり果物皿の果物が振り返った頭、網の左端がシッポとなっている。ダリは、こうした視覚から無限に連鎖するイメージを、文字どおり偏執狂的に表現しようとした。Salvador Dalispanish,1904-1984Portrait of Gela,1935『ガラの「晩鐘」』1935年油彩 板 32.4cmx26.7cm「ニューヨーク近代美術館」所蔵。椅子に座り、鏡に映っているように見えるガラ。しかし、鏡面はどこにも無い!画面奥のガラが、「晩鐘」の農夫に似たポーズで手押し車の上に座っていることから、本作は「晩鐘」の向かい合った人物を別アングルから見た作品であることが分かる。そうすると、手前で大きく背を向けた人物は、鏡に映ったガラではなく、ダリなのかもしれない?また、奥の壁に映った壁には「晩鐘」の複製画面が掛けられているが、農夫の方がより大きく描かれていることから、雄を食い尽くす雌カマキリが暗喩されている。Salvador DaliCycle systematique,la langousteCicle sistematico,la langostaSystematic Cycle,the Lobster,1935Gouache y collage sobre papelスペイン「国立ソフィア王妃芸術センター」所蔵。Salvador Dali(42歳) La tentation de Saint Antoine,1946『聖アントニウスの誘惑』1946年油彩 カンヴァス ベルギー王立美術館「マグリット美術館」所蔵。ダリは、地上を離れた天体に達しようとしている。「空」と「地」を介在する「クモの足を持つ象」を配した空間。そして「粒子の神秘」の絵画で、やがて開花する人体浮揚のテーマを使い始めている。Salvador Dali(50歳)Crocifisso,1954studio per “Corpus Hypercubicus"Crucifixion,1954study for “Corpus Hypercubicas"(はりつけ)oil on canvas 40.0cmx30.0cmローマ「ヴァチカン美術館」所蔵。ダリの晩年の作品に満ちていたのは、新たな神秘主義だった。戦争が終結し、再びヨーロッパに戻ったダリは、カトリックを信仰すると改めて宣言。その徹底ぶりには目を見張るものがあり、ローマ教皇に拝謁する手はずを整え、祝福を受けるほどだった。ダリの作品は・・・今もローマ・ヴァチカン美術館の奥にひっそり展示されています。Salvador Dali(56歳)L'Annuncio,1960studio pen“II concilo Ecumenico"The Trinity,1960study for “The Ecumenical Council"『三位一体』1960年エキュミカル評議会のための研究oil on canvas 54.0cmx59.0cmローマ「ヴァチカン美術館」所蔵。Salvador Dali(73歳)Mostro molle in un paesaggio angelico,1977Soft Monster in Angelic Landscape,1977oil on canvas 76.0cmx101.0cm『天使の風景の中の柔かい怪物』1977年ローマ、ヴァチカン市国「ヴァチカン美術館」所蔵。(写真撮影:ほしのきらり)ダリにぽち
2021.11.01
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1