全7件 (7件中 1-7件目)
1
饗土橋姫神社(あえどはしひめじんじゃ)皇大神宮(内宮)所管社伊勢市宇治今在家町林崎 ■御祭神 宇治橋鎮守神 宇治橋の近く、駐車場の山側に鎮座。内宮入口の真向かいにありますが、意外と目立たず参拝者の姿はありませんでした。饗土橋姫神社の両側の小高い場所には大水神社、元伊勢の1社とも言われる津長神社があります。 津長神社 昨年、新しく架け替えられた宇治橋。上の画像でもおわかりのように、饗土橋姫神社も新しくなっています。20年ごとに行われる(伊勢)神宮の式年遷宮。次回の第62回式年遷宮は2013年(平成25年)に行われます。 従来、式年遷宮の年に宇治橋の造り替えも行われたそうです。しかし第59回神宮式年遷宮は第二次大戦後の混乱期だったため、昭和天皇の指示により無期延期とされ、宇治橋の架け替えのみ行われたそうです。その4年後に式年遷宮が行われました。以降、遷宮と宇治橋の架け替えは4年のずれがあるとのこと。しかし饗土橋姫神社だけは、宇治橋の鎮守なので他の所管社に先駆け、宇治橋と同時に造替が行われています。 .
2010.09.27
コメント(4)
神社巡りを始めたのが、2004年の終盤だったと記憶しています。その翌年から、毎年伊勢に行くようになりました。ずっと日帰りの参拝でしたが、今年は日帰りでの参拝は全く考えていませんでした。その最大の理由が、ここ瀧原宮へ参拝したかったから。 昨年も、例年通り1月に日帰りで伊勢に行きました。そして9月にも2泊3日で伊勢へ。念願だった内宮・外宮の早朝参拝(と言うより撮影)のためです。しかし、さすがは神宮。夜明け前からの参拝だったのにもかかわらず、大勢の参拝者が・・・。薄暗い参道には、既に参拝を終えた人の姿もありました。その意味では期待はずれだったのですが、収穫は瀧原宮でした。内宮のミニチュア版のような瀧原宮のすばらしさに圧倒されたのでした。内宮から30kmほど離れた山間の地にあるにもかかわらず大勢の参拝者がいたことにも驚きました。 なので今年の伊勢訪問でも、絶対はずせない場所になったのです。とは言え伊勢はどこでもすばらしいのですが、伊勢に行って瀧原宮に寄らないことは考えられませんでした。瀧原宮をはずせないとすれば、日帰りでは無理なんです。本当はここも早朝参拝したいところですが、今回の行程の都合で正午頃の参拝となりました。 この日も、参道の撮影ではかなり「待たされた」ほどの参拝者。(「待たされた」=人影がなくなるシャッターチャンス)ところが奇跡のようなことが起きました。私たちが境内に入ると同時に、3組ほどいた参拝者がみんな帰り始めたのです。それから約15分、瀧原宮は私たちの貸し切り状態でした。 神宮参拝を毎年続けていたご褒美をいただいた気分でした。次に参拝者がやって来たのは、参拝を終え境内の撮影を夫婦で堪能したあと、宿衛舎で御朱印をいただいていた時でした。しかも一度に10人くらい(団体客ではなく)。たとえ15分とは言え、瀧原宮を独り占め出来るとは思いませんでした。 瀧原宮は境内も参道もすばらしいのですが、独特の風格を感じます。神宮の別宮や所管社はどれも同じ形をしているのですがそれぞれ雰囲気が違うので不思議です。昨年の瀧原宮参拝多岐原神社(2009) .
2010.09.26
コメント(2)
伊雑宮(いざわのみや)の御神田三重県志摩市磯部町上之郷 ■御祭神 天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま) 伊雑宮は神宮の別宮の中で、唯一伊勢国外志摩国にある天照大神を祀る神社。瀧原宮と並んで「天照大神の遙宮(とおのみや)」とも呼ばれています。また、唯一神田を持つ別宮でもあります。伊雑宮の御田植式(おたうえしき)は日本三大御田植祭として有名。(他のふたつは香取神宮、住吉大社の御田植祭)伊雑宮については、少し前に昨年の参拝記事をご紹介したばかりです。 伊雑宮は今回で3度目の参拝ですが、今回はレンタカーで訪問したので、初めて御神田に行きました。と言っても、「足を伸した」というほどのこともなく、参拝者用駐車場のすぐ下にあります。 「磯部の御神田」と呼ばれる料田の前から見た伊雑宮の杜。この杜にすっぽりと埋もれた伊雑宮は、一部にだけスポットライトが当たったようになるので、実に撮影者泣かせの神社です。いろいろ設定を変えたり、露出補正をしましたがこれが限度。 知り合いのカメラマン(一応プロ)に対策を聞きましたが、プロのアドバイスはこうでした。 「曇るのを待て」 なるほど。 こちらは境内・宿衛舎の近くにある「巾着楠」と呼ばれるクスノキ。金運を授かるとも言われているそうですが、ここに限らず神宮所管の神社ではそういった案内板は一切ありません。 瘤が出来る木と言えばイチョウというイメージがありますがクスノキでは初めて見ました。境内にはこの他、すばらしいクスノキがいくつかあります。 周囲を別次元の空間に変えてしまう巨木。初めて見た「夫婦楠」も。 「あれもクスノキ。あそこにあるのもクスノキ」教えていただいたのは、境内を清掃していた職員の方。 神社巡りを始めて以来ずっと誰にも話しかけないそして(優しい風貌にもかかわらず)誰からも話しかけられない参拝でした。今回の伊勢では、いろんな方々と会話を楽しませていただきました。今回の伊勢から始めた「御朱印集め」の効果かも知れません。 .
2010.09.23
コメント(4)
御塩殿神社(みしおどのじんじゃ)三重県伊勢市二見町荘 参考関連記事 御塩浜 御塩殿神社(2014)貴重画像あり ■御祭神 御塩殿鎮守神(みしおどののまもりがみ) 御塩殿神社の境内には、神宮の神饌として神事に使う堅塩を作る施設御塩汲入所・御塩焼所・御塩御倉・御塩殿があります。内宮の所管社ですが、ここで作られた御塩は外宮の神事にも使われるのだそうです。神宮で使われる御塩は、五十鈴川河口の御塩浜で濃い塩水(鹹水・かんすい)を取り境内の施設で荘の住民の奉仕により製塩が行なわれます。最終的な作業、御塩焼固(みしおやきがため)の作業は神職が出向し、身を浄めて奉仕するのだそうです。 御塩殿神社社殿の前に鳥居はありません。御祭神は御塩殿鎮守神(みしおどののまもりがみ)とされていますが塩土翁(しおづちのおじ)であったとする説もあります。境内の前にある二見町教育委員会による案内板には「塩土翁を祀る神社」と書かれてありました。 潮の香りに誘われるように、社殿裏手に続く小径を行くと青い伊勢湾が広がっています。ただし境内から直接海に出ることは出来ません。 伊勢湾・二見興玉神社近くより 社殿裏手にあるのは、御塩汲入所と御塩焼所。社殿ではありませんが、鳥居が建てられています。砂浜に近いため、周辺は砂地。しかし小径やこの施設の前も綺麗に掃き清められていました。訪問したのは午後2時頃だったと思いますが、足跡は見当たりませんでした。1.5kmほど東にある二見興玉神社は、大勢の参拝者で賑わっていました。しかしここを訪れる人は少ないようです。 御塩汲入所御塩汲入所(みしおくみいれしょ)は御塩浜から運ばれた濃い塩水を壷で保管する倉庫。御塩浜にも行く予定だったのですが、うっかり忘れてしまいました。(ここでのチョンボは、これだけではなかったのですが・・・)御塩汲入所の建築様式は天地根元造(てんちこんげんづくり)と呼ばれるそうです。古代の建築様式のように見えますが、それほで古いものではないと言われています。 御塩焼所御塩焼所(みしおやきしょ)は鹹水を鉄鍋で煮込み、粗塩を得る施設。鉄の平釜で焚き上げて粗塩を作るのだそうです。作業は8月に行なわれます。御塩汲入所と同様の天地根元造ですが、こちらは一回り大きく造られています。 御塩殿御塩殿(みしおどの)は粗塩を焼き固め堅塩を得る施設です。三角形の土器につめて焼き固め、堅塩(かたしお)に仕上げるのだそうです。二見地域の方々は、「みしおでん」と呼んでいらっしゃるそうです。屋根は茅葺で鳥居と板垣がありますが、社殿ではありません。境内に入ると、鳥居もあって大きな建物なのでこちらが本殿かと思ってしまいます。お恥ずかしい話ですが、私たちはこちらに参拝してしまいました。御塩殿の左にある御塩殿神社は、今回は参拝どころか写真も撮りませんでした。先に載せた社殿の画像は、昨年に撮影したものです。昨年も写真を1枚撮っただけで、参拝しておりませんでした。影になっていて見えにくいと思いますが、御塩殿の向こう側に御塩殿神社の屋根が写っています。実はあちらが「本殿」だったことは、この記事を書くために資料を調べていて初めて知った次第です。次回はちゃんと本殿に行き、お詫びをしなくてはいけません。神社マニアを自称する身としては、とっても恥ずかしい大チョンボでした。 .
2010.09.20
コメント(2)
志摩市磯部町恵利原2 天の岩戸(恵利原の水穴) 車で移動する場合、最近はカーナビに頼りっきりです。あらかじめ事前にルートを確認したり、地図を見て「予習」するということがなくなりました。昨年の伊勢では、レンタカーにはナビがあるからと安心していたのですが、そのナビの地図には「瀧原宮」が掲載されておらず、ここ「天の岩戸」はナビで目的地設定が出来たものの、とんでもない場所に連れて行かれました。瀧原宮にはガイドブックの地図を頼りに、迷いながら大回りして到着出来ましたが、この天の岩戸への訪問は断念したのでした。 今回のナビも信頼性に欠け、天の岩戸の1km以上も手前で案内を打ち切られました。ただし天の岩戸に関しては、事前にルートを頭に入れてあったので今回は迷うことなく到着することが出来ました。もちろん家内と二人でナビに悪態をつきながら。 山の中へと進むにつれ、神聖な空気に包まれるような感覚。「天の岩戸」とは言え、ここが高天原であるはずがなく神話の中の場所なので、全国どこを探したって本物の天の岩戸などあるはずがないと思っています。やはり天照大神のお膝元ということで、天の岩戸神話になぞらえた場所なのでしょう。しかし「恵利原の水穴」という名前では物足らない場所であります。ここは天照大神がお隠れになった場所でなくても、天の岩戸という名称がお似合いの場所なのです。 「ことりっぷ」というシリーズのガイドブックに、ここの小さな写真を見つけたことが訪問のきっかけでした。「今回はどうしても行きたい」と、なぜか家内がこだわっていた場所でした。実は、私はあまり期待していませんでした。 しかしここが、「名水百選」の水だと言えば話は別。自他共に認める「水フェチ」としては、「名水百選」の看板を見た途端、ここが見た目以上に価値ある場所に思えたのです。水フェチの話はさておき、「名水百選」でなくてもここはご覧の通り、神聖でとてもすばらしい場所です。ミキモト真珠の創業者、御木本幸吉氏はここの信者だったそうです。境内(と、言っていいのか)にある楠は、御木本氏が植えたもので「御木本楠」と呼ばれているそうです。 実はわたくし「大吉方・風水お水取り」という本を読んで以来、しばらく「名水」から遠ざかっていました。お水をいただく「吉方」があるということはいい情報なのですが同時に「よくない方位」があると知ればビビリます。あまり気にし過ぎると、旅行も出張も出来ません。今回は方位のことなど気にせず、ここのお水をたっぷりといただきました。 鳥居の向こうに水穴があり、そこから水が涌いているようです。その水を2本のパイプで引いているのですが、このお水をいただくために腰を下ろした瞬間、びっくりしました。なんと水穴から冷気が吹き出していたのです。 この付近には「風穴」もあると聞いていました。冷気が吹いてくるということは、この水穴鍾乳洞のように奥が深いのかも知れません。この場所は伊雑宮に近く、これからも何度も足を運ぶことになりそうです。 .
2010.09.14
コメント(8)
前回からの続きです。法隆寺とはどういう寺なのか。現在の私の考えとは「法隆寺は別の場所にあったものをこの地に移築した寺」という、妄想めいたものです。そして「厩戸皇子が建てた斑鳩宮と若草伽藍の跡地に移築することによって 法隆寺は歴史上、意図的に厩戸皇子と関連付けられたのではないか」そんな風に想像をめぐらせています。これは「妄想」みたいなものですので、軽く読み流していただいても結構です。違和感を感じる方は、スルーしてください。「聖徳太子はいたか」そんなテーマで、別の場所に「厩戸皇子と法隆寺」について、いずれ書こうと思います。(書いてる途中なんですが、しばらく中断してます)ここでは妄想的な歴史背景はさておき、目に見える「法隆寺の疑問」について、少しだけご紹介しようと思います。 さて、西院伽藍に使われている部材ですが650年代から690年代に伐採された檜や杉であることが最近の研究によってわかっています(年輪年代測定法)。このことから、現在の法隆寺は7世紀後半から8世紀はじめに建てられたことが想像出来ます。しかし、問題は日本書紀の記述。「法隆寺(若草伽藍)が一舎も残さず焼失した」とされるのは天智9年(670年)です。と言うことは、若草伽藍が焼失する前から「(聖徳太子鎮魂のための)法隆寺再建」が計画されていたことになります。五重塔の心柱に至っては、伐採年は591年という結果が出ています。591年は崇峻天皇4年のこと。つまり、厩戸皇がまだ生きている時代です。法隆寺は「飛鳥時代の姿を今に伝える」と言われていますが、厩戸皇子没後1世紀近くたった時代に、なぜ「飛鳥時代の様式」で建てられているのでしょうか。「厩戸皇子ゆかりの寺だから」と思う方もいらっしゃるでしょう。私も長くそう考えていましたが、それでは説明のつかないことがあります。厩戸皇子が建てたとされる若草伽藍は、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶ「四天王寺様式」と呼ばれる伽藍配置。現在の法隆寺とは違っていました。そして建てられている場所も違い、方位も若草伽藍とは違っているのです。その他、ご本尊に関する謎や部材の謎など多々あるのですが今回は数ある法隆寺の謎の中から、ひとつだけご紹介しておきます。 上の画像は西院伽藍の回廊です。ギリシャ建築に見られる、エンタシスの柱で有名ですね。この美しい回廊を見て、何か違和感を感じませんか。 柱の下にある、礎石に注目してください。エンタシスの柱など、建物の造りに比べあまりにも粗雑なつくりだと思いませんか? 金堂には上の画像のような木彫りの装飾も付けられています。五重塔は上の層に行くにしたがって屋根が小さくなっており、均整がとれた姿。エンタシスの柱も含め、法隆寺は建物自体も芸術品と言っても過言ではないと思います。しかもこれだけの規模のお寺ですので、法隆寺再建は国家的プロジェクトでもあったはずです。 お寺には神社ほどには行かないので、画像のストックがあまりありません。しかも「その部分」の作製時代を確認したわけでもないのであくまでも「参考」程度でご覧ください。上の画像は、飛鳥資料館の500mほど東にある山田寺跡。一部複製品がありますが、この礎石は蓮弁付き。山田寺の創建は現在の法隆寺と同じ頃だと言われています。 こちらは東大寺。東大寺のどの部分を撮ったのか覚えていませんが東大寺です m(_ _ )m東大寺は8世紀後半に出来た寺ですし現在の大仏殿は18世紀はじめに再建されたもの。しかも現在の大仏殿は、創建当初よりもひとまわり小さいのでこの礎石も江戸時代のものかも知れません。参考にしていただきたいのは、このように石の形が整えられていない礎石でも表面はきれいに加工されているということです。そこで再度、法隆寺回廊の礎石の画像をご覧ください。荒削りな加工ですし、高さもまちまちであることにお気づきでしょう。金堂内は撮影禁止なので画像はありませんし、今回チェックするのを失念しましたが以前、NHKの番組で「金堂に相応しくない礎石」だと紹介されていました。 こちらは法隆寺・中門の礎石のひとつ。比較的「マシ」な礎石と言えますが、それでも荒削りな感じがします。しかしこれらは、若草伽藍の礎石を転用したという可能性もあります。 今回は書けませんが、法隆寺には様々な謎が見つかっています。よく言われている「法隆寺の七不思議」といったものではなく昭和資材帳編纂にともなう調査で明らかになったものです。例えば転用材を使っていたり、見えない箇所には、木材の通常は使用しない部分まで使用した例など。それらのことから前述のNHKの番組では、「法隆寺は何らかの理由で、たいへん急いで建てられた可能性がある」と解説されていました。その理由として考えられるのは、例えば「怨霊対策」です。ある年に起こった天変地異や疫病などが、「厩戸皇子の祟りだ」と判断されたとしたらその怨霊封じ、御霊鎮めのために法隆寺再建の命が下ったかも知れません。しかし、そう考えるにはちょっと不自然な点もあります。私たちが知っている歴史から考えれば「怨霊」となるのは厩戸皇子ではなくて、子の山背大兄皇子とその一族のはず。そして急いで建てたにしては、上記の装飾木彫りやエンタシスの柱など精工で凝った部分の説明がつきません。 仮に「法隆寺は移築された寺」と考えると優美な建物に対して粗雑な礎石の説明もつくような気がするのですが・・・。もちろん、なぜ厩戸皇子ゆかりの地に移築されたのかそして移築された寺とは一体どういう寺なのかその謎はおいおい考えてゆくことにします。みなさんも法隆寺に行かれたら、ちょっとそんなことも考えながら細かい部分にも注目していただけたらと思います。.
2010.09.05
コメント(4)
法隆寺。日本における世界遺産登録第一号。現存する世界最古の木造建築物。日本で最も有名なお寺のひとつです。 私が小学生の頃、初めてこの法隆寺が教科書に出てきたとき確か、次のようなことが書かれてあったと思います。「飛鳥時代、聖徳太子が建立した寺」現在でも、小学生レベルではそれで正解かも知れません。しかし日本書紀に「一舎も残さず焼けた」という記述があり(天智9年)境内に焼け焦げた寺の遺構が発見されているため法隆寺は7世紀後半以降の早い時期に再建されたというのが、現在の定説のようです。 こちらは境内で最も新しいお堂、大宝蔵院・百済観音堂。このお堂に安置された百済観音像は、数ある法隆寺の仏像の中でも金堂の御本尊・釈迦三尊像、夢殿の救世観音像とならんで最も重要な仏像でしょう。画像でご紹介できないのが残念なくらい、ため息が出るほどの美しさです。 こちらは私のお気に入りの木。境内で最も気が高い場所だと思うのですが、炎天下ではそういう雰囲気ではないですね。 東大門から西院伽藍側東大門から東院伽藍側東院伽藍・夢殿 現在の法隆寺は、金堂・五重塔などを中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍からなります。この夢殿は別として、金堂などの西院伽藍、果たして聖徳太子が建てた寺(以後、若草伽藍)の再建と言えるのでしょうか?梅原猛氏の「隠された十字架」という著書で話題になりましたが、「法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮めるために建てられた」とする説があります。古代の浪漫に魅せられておよそ30年になります。きっかけは「日出処の天子」という漫画でした。つまり厩戸皇子(聖徳太子)から古代史に入ったので「歴史上の人物で誰が好きか」と聞かれたら迷わず「厩戸皇子」と答えるでしょう。従って厩戸皇子は、後に聖徳太子と呼び称される聖人であり日本書紀の記述通りの政治家だったと思いたいです。「法隆寺が厩戸皇子の鎮魂の寺」という説も、実はあまり受け入れたくないほどです。しかし法隆寺に行けば行くほど、歴史を学べば学ぶほど私の厩戸皇子像が変化し法隆寺への疑問がどんどん増して行きました。ごく最近まで、「法隆寺は厩戸皇子の怨霊封じの寺」と(渋々)考えていましたが現在は別の考えを持っています。 つづく
2010.09.05
コメント(0)
全7件 (7件中 1-7件目)
1