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August 22, 2019
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カテゴリ: 教学

日蓮大聖人が送られたお手紙が、わずかしか残っていないために、御書の中には、仔細が分からない門下も、少なくありません。北条弥源太もその一人で、いつ入信したかも分かりません。それでも、御文からは「この師匠のおかげで、私の人生は開けた!」という日蓮門下としての喜びの様子が、鮮やかに浮かび上がってきます。

鎌倉の有力武士

北条弥源太については、後述する「北条弥源太への御状」に「殊に貴殿は相模の守殿(=北条時宗)の同姓なり」( 172 ㌻)とあることから、北条氏の一族で、鎌倉在住の武士であったと考えられます。

弥源太の名前が御書中で初めて登場するのは、文永 5 年( 1268 年) 10 月に大聖人が送られた十一通御書の一つである、先ほどの「北条弥源太への御状」です。

十一通御書は、「立正安国論」で予言された「他国侵逼難」が、同年の蒙古(モンゴル帝国)からの国書の到来で的中したことを受けて、執権・北条時宗をはじめとする幕府要人や各宗の高僧に正法を帰依するよう警告され、諸宗との公場対決を求められた、 11 通の書状です。

このことから、弥源太の地位も相当高く、幕府中枢と深いかかわりがあったと推測されます。また同抄には、弥源太が大聖人のもとを訪れていることが記されていることから、この頃、すでに大聖人と何らかの関係があったと思われます。

時は過ぎ、弘安元年( 1278 年) 8 月ごろ、弥源太は身延の大聖人のもとを訪れ、下山した後、大聖人へ書状をお送りしました( 1229 ㌻参照)。

その書状では、当時、北条時宗らの帰依を受け権勢を誇っていた禅僧・道隆の死去や、その弟子の動きなどを大聖人にお知らせしています。また日興上人とも親交があったことがうかがえます。

生死をさまよう容体

時期は定かではありませんが、ある年の 2 月ごろ、弥源太が重い病を患い、大聖人に祈祷を依頼しました。その際、太刀と刀を合わせて、二振りをお届けしています(短小な刀に対し、長大なものを太刀という)。

この刀は、大聖人が御返事(「弥源太殿御返事」)で、「相当な刀鍛冶が作ったのではないか」( 1228 ㌻、通解)と仰せのように、弥源太が大切にしてきたものであったと思われます。大聖人は、この刀を御宝前にお供えし、弥源太の無事を祈念されました。

大聖人は、その御返事の中で、諸宗の謗法による亡国の危機を「一日、片時もたゆむことなく叫び続けてきたゆえに」(同㌻、通解)、また法華経の行者であるがゆえに、御自身に三類の強敵が競い起こって種々の大難に遭っていると教えられます。

そして、このような御自身の弟子に弥源太がなったのは不思議である、と特別な理由があるだろう、と述べられています。

鎌倉で幕府要人を諫暁された大聖人の雄姿に接してきた弥源太にとって、ひときわ胸に迫る一節であると拝されます。

さて、お届けした名刀について、大聖人は、この御返事で「殿の御もちの時は悪の刀・今仏前へまいりぬれば善の刀なるべし」( 1227 ㌻)と仰せです。

刀は武士が戦闘で使えば、悪道へと引き込む「悪の刀」であるけれども、仏に供養したことで、弥源太を死後、悪道に堕ちないように支える「善の刀」になったのである、と教えられています。

弥源太の病状は、生死に関わるものだったようです。続けて、次のように認められています。

「亡くなった後には、この刀を杖と頼みなさい。法華経は三世の諸仏の発心の杖である。日蓮を杖との柱とも頼みなさい。……日蓮が先に霊山へ旅立つならば、あなたをお迎えに行くこともあるでしょう。また、あなたが先に亡くなったならば、日蓮は必ず閻魔法王にも詳しく申し上げましょう」(同㌻、通解)

川野辺入道の他界

〝その真心は、ここまで深いのか〟と、弥源太は胸を打たれ、信心を起こしたにちがいありません。その病も、同じ年の 9 月までには治すことができました。

大聖人が「お便りもなかったので、どうされたのか」( 1229 ㌻、通解)と案じておられたなか、弥源太は、自身の回復を素直に喜べなかったようです。それは、近しい間柄にあった川野辺入道が、亡くなったからです。

川野辺入道は、鎌倉の門下の一人と推測されます。また一説には、竜の口の法難の際に捕らえられて牢に入った、日朗ら門下 5 人のうちの一人であると考えられています。

大聖人はお手紙(「弥源太入道殿御返事」)を送られました。そこには「川野辺入道がすでに先立たれた今は、あなたをその形見と拝していくことにします」( 1228 ㌻、趣意)と仰せです。病気を勝ち越えた今、共戦の同志に代わって、あなたが広布に生き抜きなさい、との御指導と拝されます。

そして、病気を引き合いに重要な法門を教えられています。すなわち、人々は皆「私は法華経を読んだ」と言っているが、空海(弘法)・円仁(慈覚)・円珍(智証)の三大師を根源として、法華経が真言の教えより劣るとする誤った読み方(=病)が、弟子たちへと伝えられ、日本中に蔓延していると仰せです。

弟子がたとえ信仰に励んでも、教えの浅深・正邪を弁えず、誤った教えを受け継いでしまえば、時代や社会を超えて、かえって人々を不幸に導いてしまう――。

仏法の根幹である師弟について戒めるにあたり、弥源太が最も苦しんだであろう病気を引き合いにされたところに、大聖人の深い御慈愛が拝されます。

お手紙は「さらにお便りをいただきたい」( 1229 ㌻、通解)と結ばれており、久方振りに届いた弥源太からの報告を大聖人がいかに喜ばれたか、その温かい心の交流がうかがわれます。

大病や同志の他界を経験した弥源太にとって、相当な地位や財力も、自身の宿命を前にしては、 ( はかな ) いものにあったにちが いありません。

池田先生は「どんなに有名になっても、成功しても、師匠のいない人は淋しい。人間としての本当の勝利はない。人生の最大の幸福は、生涯の師を持つことです」(『希望の経典「御書」に学ぶ』第 3 巻)と言われています。

混乱した世相にあって、最高の師を持てた幸せを、弥源太は、かみしめたことでしょう。

【日蓮門下の人間群像】大白蓮華 2018 6 月号






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Last updated  October 6, 2021 05:40:40 AM
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Re:北条弥源太(08/22)  
ラディッシュ さん


”すなわち、人々はにな「私は法華経を読んだ」と言って”

→人々はみな
かと思われます。


”仏法の根幹である師弟について戒めるにあたり、弥源太が最も苦しんだであろう病気を引き合いにされたところに、大聖人の深い御自愛が拝されます。”

→ご慈愛
かと思われます。 (October 5, 2021 12:12:45 PM)

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