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ヨーロッパを経由での帰国旅行で、スイスを観光旅行したのは1983年9月末のことでした。レマン湖畔のモントルー市近く̪にシオンの城(Chillon Castle)を外から見学、古い城跡は湖畔にあって、地下牢獄の窓からは湖面と背後の山々が見えて、浪漫とペーソスを誘いますことから、詩人バイロンもその牢獄を訪れて、柱に自分の名前を刻んでおり、その後の著作の題材にも利用したようです。先ず、スケッチブックに鉛筆でデッサンを描きます。それを、キャンバスに木炭やウルトラマリンブルーで絵の骨格を描き、油絵具を用いて油彩に仕上げます。絵筆を使わず、パレットナイフやペインティングナイフで絵具を厚く載せましたので、タッチが粗く筆程の詳細絵画とはなりませんでしたが、好きな油彩の一つとなりました。
2024.03.03
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油彩のバベルの塔は、ベルギーの画家ピーテル・ブリューゲルに拠って描かれ、ウィーンのウィーン美術史博物館とロッテルダムのボイマンス美術館に所蔵されています。ウィーン所蔵の作品は塔建造の初期段階を描き、ロッテルダム所蔵の作品は建設が順調に立ち上がっている段階を描いていて、将来を示す暗雲も立ち込めていることも描き込んでいるのです。バベルの塔の物語は旧約聖書「創世記」11章1-9節に現れる。位置的にはノアの物語の後、アブラハムの物語の前に置かれている。全ての地は、同じ言葉と同じ言語を用いていた。東の方から移動した人々は、シンアルの地の平原に至り、そこに住みついた。そして、「さあ、煉瓦を作ろう。火で焼こう」と言い合った。彼らは石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを用い、「さあ、我々の街と塔を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように、我々の為に名をあげよう」。主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとして下界に下り、「成程、彼等は一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので、彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。全ての主である神が、独自の行動に出た人間に嫉妬して怒りの行動を起こしたと言うことなのでしょうか?
2024.02.18
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団地の隣人祭に出品を請われて、団地風景の油彩を描いたのは2008年秋でしたのでもう15年も経過してしまいました。母が亡くなった時は富士山を、義母が亡くなった時には五島の海岸風景を描いたのですが、筆を折った訳ではありませんのに、描く意欲が湧いて来ないのです。居間の壁等に掛けてある油彩、カナダのバンフ国立公園にあるボー湖ですが、1点はナイフで描いたもの、他の1点は筆で綿密に描いたものですが、個人的にはナイフで荒く描いた油彩の方が好みなのです。
2024.02.04
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丸く大きくて存在感のある紫陽花はよく描きましたが、請われますと差し上げるのを厭いませんこともあって、一枚も我が家に残っていないのです。最初の油彩は母の病気見舞いに持参しましたので、実家には未だ残っている筈です。スケッチしてパステル画とした絵は友人宅にありますし、油彩にしたものは会社の知人に請われて貰って行きました。赤い水飲みグラスにさした様子を油彩にした絵は、義母に差し上げました。家内の実家は、空き家になってしまいましたが、今でも壁に掛けられて飾られています。
2023.08.08
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梔子の花が数輪咲き出しました。何とも蛍光色の白い花で、これ程の白さは比類なき純白と言えそうです。今年は花芽が10個程立ち上がって来ていますが、どうも甘い匂いに小さな虫が大量に集って来ますので、家の中に飾るには注意を要します。この花のパステル画スケッチから油彩にしたのは、もう30年も昔のこととなりました。この油彩は、会社でお世話になった上司の方に請われて、玄関の壁を飾っています。何時だったか元気の頃、私の油彩画が欲しいと言われ、持ち込んだのが萩焼の花瓶に差した梔子でした! 描いている中、バランスが良くないと思い一輪追加して仕上げた油彩です。その元上司の方も、今週に白寿となって、認知症を羅症していると思われ、近頃は連絡していません。
2023.06.18
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梅雨に入って、道端のアジサイが開花していますが、雨に打たれて生き生きとしている様子は、この時期に特有です。英名でHydrangeaは「水の器・水瓶」の意味で、水を好むアジサイにぴったりです。シーボルトは日本の植物であるアジサイを愛したようで、日本人妻「オタキさん」という名前からつけられたといわれる「Hydrangea Otaksa(ハイドランジア オタクサ)」という学名でアジサイが紹介されていますが、オタクサの名前は認められませんでした。私も、アジサイは好きで、よくスケッチし、油彩にもしましたが、全て他人に差し上げてしまって我が家には残っていません。此の油彩は、五島にある空き家となっている家内の実家の壁に掛けられています。パステル画は友人の家にありますすし、油彩は会社の知人に請われて差し上げました。
2023.06.09
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安納画伯の「子ども・絵のひろば作品展」絵葉書の招待状を頂きましたので、近くのコミュニティセンターのTOMハウスに行ってみました。安納良子画伯は大学でも教鞭を執るだけでなく、啓蒙的な近くの小学生の絵の指導サークルも主催して行っている活動的な絵描きさんなのです。絵の広場展は4月3日から15日迄、2週間開催されていますので、天気の良い4月12日午前中にお邪魔させて頂きました。私の小学校時代は、絵の道具はクレヨンだけでしたが、今は不透明水彩絵具を使って色彩のハッキリした絵を描く様なのです。花に戯れるてんとう虫、天衣無縫な様子が気持ち良く描かれていました。指導する画伯の絵も展示させられていました。油絵具ではなくアクリル絵の具を使っているのでしょう、明るいパステル調で各々の対象を強調することなく、何かほのぼのとする情景となっています。私は、油絵具を少し厚塗りにするので、とても真似出来ない雰囲気の絵に仕上がっていましたので、感心させられてしまいました。
2023.04.13
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スケッチブック等からキャンバスにスケッチするには、木炭で描き、パンの実で余分な部分を削り取り、フィクサチーフで絵具と混ざらない様に固定して、絵具を乗せて行きますので、普通は残ることはありません。その後、そんな面倒な手立てを省略するべく、ウルトラマリーンブルーやプルッシャンブルーでスケッチして、十分乾かしてから油絵具を乗せて行くようにしたのです。15年前に、懇意にしていた8才年上の住民に見せに行った処、そのプルッシャンブルーで描いたスケッチをそのまま団地の隣人祭に出品した方が良いと言うのです。そんなものかと思いつつ、デジカメでそのスケッチを撮って置きましたので、画像として何とかPCに残ったのです。結局は絵具を乗せ油彩として仕上げて、出品したのです。そんな懇意にさせて頂いた先輩も、2年前に鬼籍に入ってしまい、寂しい限りです!
2023.01.30
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押し入れの片隅に立ててあった絵具箱を開けてみました。油絵具も固まって、絵具を絞り出せそうになく、使えそうも無い有様でした。それに筆洗い缶や、洗い油も見当たらないのです。そう言えば、12種の絵具が入った新しい絵具箱を購入し、横置きに仕舞った覚えはあるのですが、押し入れの中に残念ながら見当たりません。実母や義母が亡くなった時には、思い起こされる風景を油彩に残してあり、家内が14年前に亡くなった時には、オーストリアSalzkammergut奥のハルシュタット湖をバックにした姿を油彩に残しておこうと、新しい絵具箱を購入した筈なのです。そんな油彩を残すことが叶わず、我が家で一番新しい油彩は、団地内の隣人祭に出品を請われた、15年前の花水木通りの花咲く春の情景、寂しく階段途中の壁に掛けられています。
2023.01.29
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大学の同期生が、親切にも富士美術館の招待券を郵送してくれましたので、好意に甘えて早速訪問してみました。上村松園、松篁、淳之、と言う親子3代の三代展として、2月11日から3月13日まで開催されているのです。美人画で知られる上村松園女史ですが、絹布に描いた気品溢れる日本画に感心させられました。代表作の「鼓の音」は1940年の作品ニューヨーク万国博覧会に出品され絶賛を博したこの作品は清新な色彩や円熟した筆づかい、朱に染めた振袖に金の鳳凰紋の帯を締めた美人画は、「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵こそ私の念願」という松園の言葉通り、たおやかで気品あふれる女性です。松園は1948年には女性として初の文化勲章も受賞しています。1922の作品は「楊貴妃」世界の3大美女とされる中国美女の筈ですが、瓜実顔におちょぼ口で日本美人の典型となっています。風呂上りですのか胸を開けているのですが、色気と言うより気品を感じてしまうのが松園の力量の様で、子や孫にさえ、その気品さは伝授出来なかった様です。
2022.02.18
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ナイフと言いましても、油彩で使うパレットナイフとペインティングナイフのことですが、これは他人に差し上げるには不適当と考えていたのか、我が家の壁に2点掛かっています。一つはスイスのレマン湖畔でモントルー市近くにあるシオン(Chillon)の城、他の1点はカナダのバンフ国立公園にあるボー湖(Bow Lake)ですが、今になって振り返りますと油彩らしい雰囲気があって、自分でも上出来と考える様になりました。まずスケッチブックに、鉛筆でスケッチして、全体を見渡します。次に、木炭若しくはウルトラマリーンブルーでカンバスに下書きをして、油絵具をナイフで掠め取って乗せて行きますが、絵筆と違って細部を描くことは出来ません。それでも、夜目、遠目ではありませんが、細部が見えない距離まで離れて観てみますと、結構な出来栄えとも見えるのです。
2022.02.05
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絹本著色洞窟の頼朝〈前田青邨筆/二曲屏風〉重文指定年月日:2010年6月29日公益財団法人大倉文化財団国宝・重要文化財(美術品)源頼朝は源氏正当な後継者でありましたが、親族を滅ぼし、兄弟を誅殺する等、権力意識が強すぎて、好きになれない人達も多い様に思われますが、この決起戦敗北を描いた場面は、そんな残忍さは伺えず、失意を描いてはいるにも拘わらず、何とも気品に溢れた屏風に仕上がっていることでしょう!絵は作者の人格を現すと言われますが、青邨画伯の静謐な人格が偲ばれます。本図は、石橋山の合戦で平家方に敗北、箱根山中の洞窟で再起を期する源頼朝主従七名を描いた作品で、歴史画の優品として広く知られた前田青邨の代表作である。日本画の線を鮮やかな彩色で消すという大胆な描写。長年の研鑽と、徹底した考証が描き出す圧倒的なディティール。青邨はこう語ります。「歴史画といっても、結局は美しいものの創造であり、歴史を借りて自分の夢を描くものだといえましょう」戦いに敗れ、安堵と不安が交錯する夜の洞窟の中。それでも再起にかける男たちの気迫と漲る自信。凛としたまなざしの頼朝は、この後平家を討ち、鎌倉幕府を開きます。青邨は大和絵の伝統を深く学び、歴史画を軸に肖像画や花鳥画にも幅広く作域を示した。1955年に、文化勲章を受章など、画壇・院展を代表する画家として長年活躍した。晩年、法隆寺金堂壁画の模写や高松塚古墳の模写等、文化財保護事業に携わった。
2022.01.29
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人生ロスタイムに入って来ますと、来し方が妙に懐かしくなります。我が家の玄関には、思い出の品が掛けられていて、メキシコの七宝焼きアステカ暦、テキサスのロングホーン、カナダのアサバスカ滝油彩、スイスの景勝地グリンデルワルト風景、家内の故郷である五島風景等となっています。その中でも、Grindelwaldは思い出深く、米国駐在を終え、ヨーロッパ経由で帰国することにしたので、スイスのチューリッヒからフランスのパリまで、レンタカーのVolvoでの家族旅行でした。Grindelwald入口の旅行案内所で、ホテルを紹介して貰い、序に次の訪問地Zermattの予約をして頂きました。家族4人で、子供達も成長して来ましたので、大きな屋根裏部屋に通されましたが、其処から見える景色は素晴らしいものがありました。谷は夕日が落ちて暗くなりつつあったのですが、谷から見上げますと、4000m級のシュレックホルン(Schreckhorn)が夕日に照らされて、素晴らしい光と影の対比を見せてくれたのです。
2022.01.22
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油絵は、会社時代に絵画同好会を見学に行った後、自分で好き勝手に始めたのが始まりで、1960年代後半のことでした。小学校時代はクレヨン画が好きで、多分秋の展覧会では毎年金賞を勝ち取っていたのですが、中学校では水彩が美術授業で必須となってからは、何故か興味を失っていたのです。油彩も1960年代後半から1970年代前半に、描いていましたが、出来上がると身近な他人に差し上げていましたので、殆ど残ってはいません。家内の肖像画は、付き合っていた頃に、出来上がって家内に差し上げたのですが、数年前に家内の空き家となっている中2階から偶然見つけて、持ち帰って来た油彩で、永らくこの絵の存在も忘れていたのです。日付は1969年12月1日となっていますので、我が家で一番古い油彩です。次に古いのは、花瓶に差した赤いバラの絵で、結婚したての家内に、「人にばかり上げないで、私にも1枚下さい!」と言われて残っている油彩です。日付は記載されていませんが、多分1970年秋に描いた油彩だと思います。その後、米国滞在時はブランクで、帰国後1985年から1995年まで、米国滞在時の景色を観たくなって数枚、その内家内に白髪が出て来ましたので、白髪が多くなる前にその姿を記念しておこうと描きました。年月は1987年7月となっていますので、家内は44才でした。又、種々の花の油彩は会社の方々に沢山差し上げましたので、我が家には1枚も残っていません。五島の国立公園を数枚仕上げましたが、知人に1枚持って行かれました。実母と義母が亡くなった際には、鎮魂画を試みましたし、テレフォンカードにもしましたが、この時期は期間も永く、作品も多かったのですが、その後はまたブランクとなりました。2008年には、団地内の隣人祭を開くので、出展下さいとの要請で、団地内のハナミズキが咲いている春景色を描いてからは、ご無沙汰となりました。
2021.11.29
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油絵を描かなくなってから、13年も経ちました。母が亡くなった時は富士山を、義母が亡くなった時は五島の風景を描いて思い出記念としていたので、家内が亡くなった時にもSalzkammergutのHalstatt湖畔をバックに立つ姿をと思っていたのですが、そのまま12年経過となってしまいました。ふと、壁に掛けてある油彩を観てみますと、過去のそんな思い出が描き込まれている感じもして来ます。カナダのバンフ国立公園には、ビジネス出張の中で2回連れて行って貰いましたし、その素晴らしさを満喫して貰おうと、アメリカの駐在員としてヒューストン滞在中に家族旅行をすることにしたのです。バンフ郊外で、湖畔に宿泊設備も展望施設も無い、自然溢れるボー湖と言う湖がありますが、その風景をペインティングナイフと絵筆で描いた2枚が残されています。ペインティングナイフで描いた方が先ですが、荒々しい山岳の様子を上手く表現出来ている気もするのです。
2021.10.25
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4月でツツジの美しい季節ですのに、早くもバラの季節が来てくれたのでしょうか、庭の四季咲きバラの蕾が大きくなりましたので、萩焼の花瓶に入れて、仏壇に供えました。近頃はスケッチも油彩も描かなくなりましたが、花の絵は随分描いて、知人の要望に従って差し上げて来ましたので、我が家には残っていません。紫陽花は好きでパステル画や油彩を含めて5点程、乙女椿、クチナシ等も油彩にしましたが、全て我が家にはありません。このパステル画、その後の油彩は別々に貰われて行ってしまいました!唯一残っているのは、F4号に描いた赤いバラの油彩のみです。家内に「他人にばかりあげないで、私にも下さい!」と言われて描いた油彩で、多分結婚の翌年からずっと我が家の壁に残っている絵で、1971年製作の古い油彩ですが、家内の要望が無ければ、差し上げてしまっていたかも知れません。
2021.04.27
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町田市立国際版画美術館で3月13日から4月11日まで「アーティストたちの室内画」と言う企画展示が開催されていますので行ってみました。室内画はプライベートな部屋をテーマとするジャンルで、次の様に時系列的に個別展示されていました。1. 部屋の中へ2. 世紀末の隠れ家3. アーティストの秘密4. 密室の夢と不安5. 量産される室内空間6. 部屋の外へ19世紀末のフランスパリで、ランプの暗がりでミステリアスな雰囲を醸し出しています。次のポスターは、人の姿を全面に押し出す構成は、ポスターの大家ロートレックにも影響を与えたとされています。20世紀になりますと、マティスやピカソも室内画に進出して来ますし、20世紀半ばとなりますと、室内から屋外へと画題も多岐に亘る様になります。今回の企画展のポスターになっていますのは、メキシコ郊外のホテルからの屋外景色で、横幅2mのリトグラフ大作です。
2021.03.28
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先日訪問した富士美術館で、VR修復したダ・ヴィンチの絵画を観賞した後、出口ギャラリーで、「最後の晩餐」実際原画の絵葉書を2枚購入しました。後年の加筆を全て除去した姿は無残なもので、輪郭は分かりますが、絵具の大半は剥がれ落ちてしまっていました。ダ・ヴィンチの傑作「最後の晩餐」は、イタリア・ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院食堂に描かれた420 x 910 cm の巨大なものである。レオナルド・ダ・ヴィンチは1495年から制作開始、1498年に完成している。殆どの作品が未完とも言われるレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つであるが、フレスコ技法ではなく、乾いた漆喰にテンペラで描かれたことや所在する環境から最も損傷が激しい絵画としても知られている。又、遅筆で有名なレオナルドが、3年という速いペースで仕上げた。「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』があるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院」として、世界遺産に登録されている。顔料を溶剤で解いたものが絵具なのですが、溶剤が西洋風に油であっても、日本画の様な膠であっても、1000年以上の寿命はあるのだと思っています。「最後の晩餐」は劣化が激しいのですが、ダ・ヴィンチを遡る油絵の創始者ヤン・ファン・エイクは劣化も無く保存されていますので・・考えてみますれば、国宝にしてされている日本の仏像群は、元来は金箔或いは彩色されていたのでしょうが、それらが剥がれ落ち、加えて香の煙で黒くなったブロンズ像は、元来の姿よりも芸術作品として素晴らしいと思われるのですから・・劣化した状態を観賞するのが、良い観賞方法だとも思われるのです。
2020.11.25
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コロナウイルス蔓延の第3波は熾烈を極め、感染者数は最高を記録していて、今後の行方に予断を許しません。そうは言いましても外出自粛のみでなく、天気は快晴ですので、町田の芹が谷公園にある東京国際版画美術館に行ってみることにしました。「西洋の木版画500年企画展」が開催中で、昨日はシルバーデーと言うことで65才以上の方々は無料とのことでした。最初に展示されているデューラーの木版画は、画線が驚くほど多く、木版で仕上げているのには驚き、流石は不世出の画家と称される訳です。しかし、細かい画線を強調するには、銅板エッチングの方が優れていますので、その後木版画は低迷してしまう様です。その後、年輪の詰まった硬い木口の採用で息を吹き返し、日本の影響を受けた多色摺を習得して、種々な作品が登場して来ます。更には、画線表現だけでは無く、面を強調する木版画も登場して、多彩な作品が登場、逆に日本版画界にも、大きな影響を与えてくれた様でした!ヨーロッパで木版画が現れるのはAD1400年頃、半世紀後に活版印刷を発明すると、木版画は本の挿絵に用いられ発展、15世紀にはデューラーの登場により頂点を迎えます。しかし版画制作の中心を銅版画が占めるようになると、木版画は日常的な印刷物に細々と残るばかりになっていきました。木版画の見直しの動きが現れるのは1880年代末のことで、その大きなきっかけとなったのが日本美術でした。浮世絵版画をはじめとする異文化の影響を受けて、西洋の木版画は新たな表現を創り出し、それは今日もなお続いています。仏教版画や浮世絵版画などから思い浮かべる日本の木版画とは異なる展開をとげてきた西洋の木版画。その500年の歴史を120点の作品でご紹介します。
2020.11.19
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大学の同期生から、富士美術館で面白い企画展があると言うことで、行ってみることにしました。劣化の激しいダヴィンチ絵画の復元展と、「This is Japan in Tokyo」と言う日本美術名宝展と言うのです。常設館の一部を仕切って、ダヴィンチ16点の絵画がひび割れも剥落もなく、VR技術で復元されていました。ルネサンスの巨人レオナルド・ダ・ヴィンチは、《最後の晩餐》や《モナ・リザ》で、世界で最も知られた画家ですが、67年の生涯で残した作品は少なく、現存絵画は16点ほどしかありません。しかもその多くは未完成であり、完全な姿で残っている完成品は4点しかありません。没後500年となる2019年、レオナルドの未完作品を最新の研究とVR技術を駆使して復元するプロジェクトが東京造形大学で実施され、教授、学生や卒業生100名がプロジェクトに参加、未着色作品に彩色を施し、消失部分を復元しました。世界一有名な「モナ・リザ」も、完成直後の様に再現されています。ダヴィンチ畢生の大作「最後の晩餐」は劣化が酷い様で、何らかの処置が必要なのでしょう。日本美術名宝展は、源氏物語絵巻や洛中洛外屏風等、多くが展示されていました。当館が所蔵する日本美術作品は、平安時代から近現代に至る多様な分野にわたっています。本展では1000年の歴史の中で育まれてきた日本文化の豊穣な芸術世界のエッセンスをコンパクトにわかりやすく楽しむことができるように日本美術を特色付けるキーワードを通し、ニッポンのビジュツを俯瞰的に横断します。絵画、浮世絵版画、漆工、刀剣、武具甲冑などの多様な分野におよぶ93点の名品を通して、日本の歴史と文化の多様性について理解していただけるとともに、日本美術の豊かさに触れる絶好の機会となるでしょう。俵屋宗達の国宝「風神雷神図」屏風絵を襖絵にした鈴木棋一画家、襖の表裏で表現させている作品です。<富士の絵も多数展示されていましたが、近年の横山大観の作品が眼に付きました。
2020.11.05
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パリには3度程訪れたことがあります。1983年の米国駐在から帰途の家族旅行、1992年の通産省航空宇宙産業視察団、1998年北欧から帰途での途中泊、の多分3回だと思われます。ノートル寺院を訪れたのは1983年だけで、1992年ではパリ市民憩いの公園リュクサンブールに行き、ルーブル美術館、オルセー美術館が中心、1998年はシャルトル大聖堂に行きたかったのですが、時間的な余裕が無く、ヴェルサイユ宮殿内の見学とPetit Trianon宮殿の奥にあるマリー・アントワネット王妃の田舎家を訪れることに変更したのです。鉛筆画の日付をみますと、1993年7月30日となっていますので、撮って来た写真をベースにスケッチした様です。遠近法が正しく無いのか、少しノートルダム寺院が傾いている様な気がしますが、日頃から鍛錬していないデッサン力の不足に依るもので、仕方がありません。それにしても、河岸壁に垂れている草や寺院内の木々を細かく描いているのに、自分でも驚いてしまいます。今は10年以上デッサンすることも無く、況して細かく描く根気も無くなっていますので、今ではこんなスケッチ画を描くことも無理なこととなってしまっています。
2020.08.19
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昨日は、九州で豪雨が続き、大雨特別警報が発令されて、多数の死者も出て大変な被害となりました。箱根以東の関東は、小雨と言った処でしたので、室内観賞の出来る富士美術館に行ってみることにしました。大学時代の同級生が、コロナ蔓延で閉鎖されていた富士美術館で、7月初旬から「Flower xFlower」と言う企画展があると教えてくれたからです。美術館の2階から見ますと、大学も隣接した緑に囲まれた素晴らしい場所にあることが分かります。常設展示の部屋を経た、最後のホールが企画展「Flower xFlower」となっていて、絵画やArts Noubeauxのガラス器、中国磁器の銘品「景徳鎮」磁器等が展示されていました。シュールレアリズム作家のキリコ、ファンタジー絵画を得意とするシャガールは、Flowerは美しい静物と言うよりも実態を追求する存在、若しくは添え物である様で、古くから伝えられた美しく描くと言う感覚は無い様に見えます。色絵の景徳鎮磁器の石碗、日本磁器にも大きな影響を与えましたが、空間無く描かれた花や鳥が描かれた感覚は、日本とは異なります。此処から出発し、白磁を研究、色を研究し、空間を研究し、釉薬を研究して、日本独自の磁器を完成させた先達は大したものです。
2020.07.08
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バラの季節は終わっている筈ですのに、庭に残されている四季咲きのバラが咲いてくれましたので、Pewterの一輪挿しに入れて仏壇に供えることにしました。家内が遺した我が家のバラは、乙女ツバキの木やモミジの木の木陰になってしまっていますので、太陽光を獲得すべく、高く枝を伸ばして3mを越えていますので、季節の到来が遅いのかも知れません。花の油彩は、バラ、紫陽花、乙女ツバキ、クチナシ等を描きましたが、他人に差し上げてしまって殆ど残っていません。僅かにバラの油彩だけが残されていますが、1970年7月の作品でしょうか?これは、油彩を全て他人に上げてしまうので、家内が「私にも下さい!」と言われて、引越しの間も含めて、我が家に50年間存在することになりました!
2020.07.05
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コロナ蔓延が収まらず、今年の五島行きは2ヶ月延期することにしました。五島ではコロナ感染者がいない様ですが、水際作戦で食い止める為に、「来島しないで欲しい」との要請が出ている様なのです。先日、何時も懇意している方が亡くなったのですが、その御子息達は長崎市内に住んでいるにも関わらず、来島出来ずに親の葬式にも立ち会えなかったとのことでした。例年、家内の育った家は空き家になっていますので、7月の1ヶ月間滞在して、家の内外を整備して廃屋にならない様に管理していては、美しい島の自然を満喫していたのです。家内も亡くなって10年半が経ち、段々と顔つきや語り口の印象が薄れつつありますが、我が家には彼女の肖像油彩が2枚飾ってあります。1969年12月に描いた、26才の肖像は少し怖い顔付きとなってしまいましたが、それも拙いデッサン力の所為と納得しています。1987年7月に描いた、44才の肖像は、白髪が目立って来ましたので白髪になる前に描いて置こうとしたもので、優しい感じが描かれていると思っています。
2020.06.18
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漸く、美術館や博物館が開いて來ましたので、町田市の芹が谷公園にある国際版画美術館に行くことにしました。楽しそうに水遊びをしている子供達は、冷たさにもめげず、はしゃぎ廻っていました。実は昨日は、棟方志功の初期の傑作「二菩薩釈迦十大弟子」を観に行ったのですが、入場料は案に相違して常設展示なので無料とのことでした。昭和14年(2菩薩は版木が失われ、昭和23年改刻)、世界の棟方志功の代表作、文殊・普賢の2菩薩と、釈迦の10人の高弟の姿を彫った。上野の東京国立博物館に展示されていた、興福寺の須菩提(しゅぼだい)を見て触発されて制作したと言われています。昭和30年サンパウロビエンナーレ国際美術展で版画部門最高賞、翌31年のヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展にてグランプリの国際版画大賞を受賞。二菩薩釈迦十大弟子 富樓那 木版 924 x 300 mm「富樓那」(ふるな)は弁舌に優れていたとされる高弟のひとりで、説法しているらしき姿が力強く表されています。文殊菩薩と普賢菩薩は柔らかい線で描かれていますが、10大弟子は極太の黒線で力強く表現されていて、弟子各々の性格も伺い知れる様に思われる傑作です。フランスの画家ルオーも、油彩に加え版画もよく製作し、太い黒線で描くのが特徴ですが、やはり強烈な印象を与えてくれます。
2020.06.17
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昨日、郵便受けに画集の単行本が入っていましたので、見ますと40才代で夭折した同期生の奥様が出版された書籍で、描いた南画に和歌が添えられていて、描いた背景や思い出が添えられていて、画集の域を超える画歌集でした。初期から現在に至る迄の作品は静謐で、日本各地は及ばず、世界各地の写生旅行に及んだ、画歴の集大成となっている様でした。同期生の奥様とは言え、日本南画院の理事長でもあり、守旧に囚われない南画ルネッサンスを起こして南画の将来性を開拓、又和歌の世界でも宮中歌会始の撰者になる程のリーダーシップを兼ね備えた才媛です。南画の世界では、池大雅派、浦上玉堂派、貫名海屋派、中林竹洞派、与謝蕪村派、田能村竹田派、渡辺崋山派、谷文晁派と別れている様で、彼女の率いる日本南画院は田能村竹田派に属するとされています。2015年、「幻」と題された月下美人の南画に添えられていた和歌、すばらしき 神の業だなと 呟きし 君を恋いつつ 月下美人写生す情感豊かな人だなと感心させられました!
2020.03.10
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「ルオーとシャガール-めくるめく挿絵本の世界へ-」と銘打った企画展が町田駅前に近い東京国際版画美術館にて開催中とのことで行ってみることにしました。二人の境遇は全く異なりますが、共に心象風景を表現していると言う企画だった様です。ファンタジックなシャガールにはそれ程の共感を覚えませんが、黒い太線を駆使して強烈なキリスト像で知られるルオーには何か心を揺さぶるものがあり、観賞したい思いが常々ありました。「ミセレーレ(哀れみ給え)」からモノクロ2点、「流れる星のサーカス」から多少刷り10点、展示されていました。「黒いピエロ(Black Pierrot)」「眠れ、良い子よ(Sleep, My Love)」多色とは言え、3~4色で抑えていますが、太い黒線と相俟って、却って強烈な色彩感覚が出ているのは不思議です!グロテスクな色使いで荒々しいタッチが特徴で、またキリスト教を主題とした作風が多い。信仰心が篤かったルオーは、絵画の中でよく売春婦やピエロや道化者たちをネガティブに表現し、一方でキリストの肖像画やその他の精神的象徴を崇拝するように描いた。ルオーの激しい色のコントラストと感情的な色の使い方はゴッホからの影響が強い。過激でグロテスクな作風はのちに表現主義の作家に多大な影響を与えた。1947年には、ルオーは300点以上の未完成作を画商ヴォラールのもとから取り戻し、ボイラーの火に燃やしたと言う逸話もあり、彼の芸術家としての良心の表明だった。敬虔なキリスト教カトリック教徒であったルオーは1958年、パリで86年の生涯を終え、国葬を賜った。
2020.02.03
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1990年代は、各種試験設備ビジネスを展開すると言う新規事業に駆り出されて、忙しい日々を過ごし、超音速風洞、航空エンジン高度試験設備、超高温材料試験設備、温度成層風洞、等忙しくしていました。そんな状況の中、仕事が忙し過ぎるのも幅広い展開は望めないと思って、忙中閑あり宜しくスケッチをしていました。庭に咲くクチナシや乙女ツバキ、団地内の各所に咲く紫陽花、買って来たバラ、等をスケッチし、油彩にしていましたが、油絵作品は他人に差し上げてしまい、自宅には全く残っていません。又、旅行写真を参考にスケッチ、有名名画の模写、等もしつつ、やはり油彩にしたものは、残念柄他人に差し上げて殆ど残っていません。スケッチ帖を開いてみましたら、スケッチのみで止まっているものがありました。あまりに有名過ぎて、自分の思い出すのには及ばないと思ったのかも知れません。登山鉄道の終着点、ゴルナーグラード駅から見えるマッターホルンの雄姿です。此処から、永久凍土の山道を歩き下ってリッフェル湖で、逆さマッターホルンを観たのは1983年9月末のことでした。セーヌ河の河畔から観る、ノートルダム寺院を後ろ横から見える姿です。屋上まで階段で登り、先の火災で焼失して尖塔を何気なく見たのも、懐かしい思い出です。
2019.12.21
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雨が上がり、絶好の快晴となりましたので、町田市の芹が谷公園での散歩がてら、国際版画美術館で開催中の「美人画の時代 春信から歌麿、そして清方へ」に行ってみることにしました。250点の肉筆画、版画を前後期に分けて、展示する企画展ですので、展示品が多い上に、それ程知見の無い分野ですので、前期と後期でテーマの違いは認識できませんし、150点を観回るのは大変でした。でも、やはり美人画と言えば、喜多川歌麿が群を抜いた存在で、明治時代の美人画家として知られる鏑木清方画伯も、数多く模写してその画法を学んだ様です。前後期に亘って、版画美術館所蔵の木版画が展示されていて、唯一写真撮影が許可されている作品は「当世好物八景 はなし好」です。写楽風の大首絵に対抗したのか、写楽が歌麿を模倣したのか、判然としませんが・・「名取酒六家選 大もんじゃ内浅ぢふ 木綿屋七ツ梅」人気を博した、美人画シリーズの典型、上記大首絵より、10年程前の作品です。木版画は染料で刷り上げていますので、顔料に比べて紫外線で褪せてしまい、特に紫、青、ピンク色は色抜けになってしまうのは残念です。
2019.10.31
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大学同期生からの掲示板書き込みで、東京富士美術館で、「フランス絵画の精華」展が10月5日から来年1月19日まで開かれていることを知りました。美術館はルーブル美術館絵画部長だったルネ・ユイグ氏とは、開館以来、フランス絵画展を過去2回開催するに当たって、貴重な作品を借用するのに尽力して頂いただけでなく、その後のフランス絵画コレクションにも随分と助言を頂いた関係があるらしいのです。今回は「ルネ・ユイグ氏へのオマージュ」と銘打って、17世紀の古典主義、18世紀のロココ、19世紀の新古典主義、ロマン主義を経て、印象派前夜に至るまでの67点の油彩画、12点の素描が展示されていました。ロココ時代のアントワーヌ・ヴァトー(Antoine Watteau)の「ヴェネチアの宴」は必見の一つとなります。反対側の壁に展示された彼の素描群を観ますと、彼のデッサンの素晴らしさは群を抜いていて、うらやましい程です。新古典主義の女流画家ヴィジェ・ルブランの「ポリニャック侯爵夫人」も魅力的な作品で、ロンドン王立美術館の収蔵されている17世紀ルーベンスの「Susanne Lunden像」にも対抗出来そうな出来合い、女性らしい柔和な感じが良く表現されていました。19世紀ロマン主義の巨匠ドラクロアの小品もさらりと展示されていました。この展示会は、画家の由来解説。画題の説明等、詳しく表示されていますので、訪問者には至って親切で、ゆっくりと観賞出来るのです。開催されて、4日目ですが、そんな親切もあってか、アクセスの良くない郊外の美術館ですが、観賞客の多いのには吃驚しました!
2019.10.09
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「美人画の時代」と言う企画展が、町田市立国際版画美術館で、昨日から開催されていましたので、早速行ってみることにしました。実は、サブタイトルに「春信から歌麿、そして清方へ」となっていて、清楚な美人画で知られる鏑木清方にどう結びつくのかと大いに興味があったのです。明治時代の美人画名手として、上村松園と並び称された日本画家・鏑木清方(1878〜1972)ですが、喜多川歌麿の美人画を丹念に多数模写しているのには、先達の手法を学ぼうとしている態度には、少なからず驚きました。多色摺浮世絵の創始者とされ、浮世絵の版元が浮世絵師・鈴木春信に、華やかな摺物をと依頼したことから始まったとされ、瞬く間に浮世絵の定番の手法となりました。時代順に、鳥居清長が春信を継ぎ、後継を得て、版画技法は最後の発展段階に到達し、歌麿,写楽,歌川豊国,等が展示されていました。版画は、眺めて楽しむのを基本としていますので、染料で色づけした浮世絵は、紫外線で色褪せてしまい、特に紫色や青色は色抜けが止まりません。しかし、肉筆画は時々に応じて、床の間に飾り、それ以外は保管して置きますので、原色が色濃く残っているのです。この歌麿の納涼美人図は、千葉市美術館所蔵の作品で出色でした。鏑木清方以降の浮世絵も、昭和の時代の伊藤深水の作品も展示されている等、素晴らしい企画展でした。この企画展は前期と後期に分けて、行われると言うことですので、後期展示が始まる10月29日以降も訪れてみる積りです!
2019.10.06
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版画美術館のWebサイトを覗いてみますと、10月5日から11月24日まで、「美人画の時代 春信から歌麿、そして清方へ」と言う企画展が開催されるとの告知板がありました。美術館では、当館企画展に合わせ、前もって「美の饗宴西洋の美人像」と言う通常展を開催、西洋の版画の中に登場する女性像を紹介するとのことで、久しぶりに町田市国際版画美術館に行ってみることにしました。快晴で少し暑く感じられましたが、秋の日差しで快適な日和でした。芙蓉の花が満開、それでも訪れる人は疎らでしたが、木陰で、エシャロットと豚肉を炒めたものを具にしたサンドウィッチと珈琲で昼食を取り、美術館に入りました。入館料は無料でしたが、一部屋だけ開けられているだけで、その他の各部屋は、企画展の準備の為か締め切りとなっていました。サムソンとデリラの逸話、エッチング画、あまり美人画には見えません。版刻:ルイ=マラン・ボネ 原画:フランソワ・ブーシェ《花の女神フローラ》1769年多色摺りの版画は、ルーベンス等の著名画家の模写版画が多かった様で、写真や印刷技術の無かった時代では、名画の数々を世の中に広めるのに大きな役割を果たしている様に思われました。女神たちが美を競い合った「パリスの審判」をはじめ、対照的な存在であるエヴァと聖母マリア、敵将の首をとった女傑ユディトなど、その姿は浮世絵の美人画に負けず劣らず実にさまざまです。
2019.09.27
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町田国際版画美術館に行きましたら、THE BODY身体の自由企画展が行われていましたので、シニア料金400円を支払い観賞することにしました。古くから人の身体は様々な眼差しで見つめられ、美術、解剖学、占星術など、実に多彩な身体のイメージを生み出して来ました。15世紀の西洋古版画から現代日本の作品まで、140点から小宇宙と言うべき身体の世界を紹介します。15世紀の中半にグーテンベルクの活版印刷の発明で、文章とエッチング絵が合体した書籍が広く発行されました。日本にも8世紀に百万塔陀羅尼と言う凸版木造印刷器がありましたが、文章は文章、絵は絵、独立して合体することはありませんでした。日本では、中華文明を学習することで汲々として、西欧風の科学する心構えに欠けていたのかも知れません。16世紀初頭には、早くも裸体を表現するデューラーのエッチング、又、人体解剖の版画等が発行されています。人体も、人間が科学する対象の一つと捉えていたのです。1651年に発行された「リヴァイアサン(Leviathan)」、イングランド王国のトマス・ホッブズが著した有名な政治哲学書の表紙には、エッチング絵が装丁されています。Abraham Bosseによる「リヴァイアサン」の表紙に描かれた巨大な支配者の身体は多数の人間から構成されていて、国家は人民に依るものとの主張が象徴されている様です。この企画展、版画美術館所蔵の作品と西洋美術館からの20点余の作品で企画展を開催出来ると言うのですから、1点ものでは無い版画とは言え、大したものです!
2019.05.20
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先年、先輩から頂戴しましたステンドグラスを窓に掛けてみました。濃い青の外枠が印象的で、中央部を飾るヤマユリの花でしょうか、青をバックに明るく引き立って見えます。シャルトルブルーは観たことがありませんが、青色は他の色を引き立てる役割があるのかも知れません。世界遺産のシャルトル大聖堂は、シャルトルブルーを駆使した美しいステンドグラスで知られています。教会の周歩廊は、ブルーを基調としたステンドグラスに囲まれた空間となっていて、それぞれ13世紀と19世紀に制作されたもので、日が東から差す午前中には特に、鮮やかなブルーの光で教会内を満たします。シャルトルブルーのステンドグラスの中でも、最も有名なのが青い聖母で、南袖廊から後陣に向かって少し進んだところにあり、天使に支えられた冠をかぶった聖母マリアが小さなイエスキリストを膝に抱いた姿が描かれており、光を取り込んだ装束の青のグラデーションが周囲の赤を背景に輝きます。この聖母は、12世紀中ごろの制作されたものです。空色の聖母像が、外枠の濃い青色と鮮烈な赤色の模様をバックに、引き立って観える様に思われます。
2019.05.14
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27才でルドンに憧れ渡仏、木版画でなく、銅板エッチングで、フランスにて活躍した長谷川潔版画展が町田国際版画美術館で4月初旬まで開催されています。フランスで長谷川潔が交流したボナール、マティス、ピカソ、スゴンザック、シャガール、ラブルールなどの版画を展示し、長谷川の活動の背景にあるフランスの版画界について紹介します。所々に、撮影出来る版画がありましたので、写真を撮り、今回は絵葉書を買うのを止めることにしました。ドライポイント手法によるエッチング版画メゾチント手法によるパリのアレキサンダー3世橋日本人とは思われないタッチで、フランスに骨を埋める覚悟で暮らした結果なのかも知れません。撮影許可の無い、仏訳『竹取物語』は日本人として出色の作品の様に思われました。1934年に完成した、長谷川潔による挿絵本『竹取物語』、仏訳のテキスト(日本大使館の本野盛一による)とエングレーヴィングによる長谷川の挿絵が共鳴し、日本の伝統性と西洋文化が融合した近代挿絵本の傑作といえるでしょう。長谷川潔・銅版画47点 本野盛一訳「竹取物語(La legende de la demoiselle de lumiere」限定150部のNo.108 1933年 パリ 30×23cm 153頁本野盛一が仏訳したタイトルも「光ある乙女の伝説」となっていて、竹取物語を知らないフランス人向きにしたのも納得出来ます。長谷川潔(1891 - 1980年)は、大正・昭和期に活躍した日本の版画家。1918年にフランスへ渡り、様々な銅版画の技法を習熟。特にメゾチントと呼ばれる古い版画技法を復活させ、独自の様式として確立させたことで有名。渡仏して以来、数々の勲章・賞を受けたが、一度も帰国せずにパリで没した。
2019.03.12
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クリスチャンにとっては、亡くなると言うことは神に召されると言うことで慶事なのかも知れませんが、残された人には耐え難い苦痛となっているのかも知れません。我が家は仏式で仏壇がありますので、久しぶりに家内が好きだった志野焼きの花瓶に花を供えることにしました。壁に掛けてある家内の肖像、44才で白髪が目立って来ましたので、その姿を残しておこうと思って描いたもの、未だ若さは失われてはいない様です。亡くなって10年も経ちますと、喪失感は無くなり、寂寥感も薄くなった日常生活となりました。五島にあって空き家となっている実家の管理等を含めて、それなりの供養はしているつもりですが、家内の優しい語り口も、段々と記憶の彼方になりつつありますが、人生とはそんなものなのでしょう!
2019.02.16
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昨日、教会で葬儀ミサに参列したこともあって、五島の教会を思い出しました。油彩F6号カンバス、1970年4月製作。日付は1970年4月となっていて結婚当初に描いたもの、東京中野区、横浜、三鷹市、米国ヒューストン市、小平市、多摩市、と引越しの毎に部屋の壁を飾っていたのです。49年前の新婚旅行で、私と家内は、その頃五島唯一の荒川温泉「豆谷旅館」に泊り、船便で玉之浦湾を渡り、多分バス便で大瀬崎灯台、井持浦教会に行ったのだと記憶しています。49年前の写真は、写真屋がフィルム露光させて殆ど駄目の状態、その中で形が何とか分かる部分だけプリントしてあったものをパソコンで修正したものです。この写真を元に、油彩にしたのが上記の画像ですが、アングルが異なっているのはデッサン力の拙さに依るものです。現在の天主堂は1987年に修復再建されたものですが、一寸印象が異なっています。教会境内横のルルドは昔と変わらずありましたが、井戸からポンプで取水出来る蛇口が2つ設置され、聖水を持ち帰られる様になっています。教会境内にあるルルドは、フランスのルルド(Lourdes)を模倣して五島全域の信徒が島内の奇岩・珍岩を持ち寄り、1899年に建設されたルルドで、聖母像は本場ルルドの聖母像を求めて洞窟に収め、さらに本場の奇跡の泉から霊水を取り寄せ洞窟横の泉水に注ぎいれた。日本最初のルルドで日本全国からの巡礼者は後を絶たない。
2019.02.15
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昨日は、八王子市にある富士美術館に行って来ました。八王子は隣町ですが、もう高尾山近くの丘陵地帯にあって、混雑する国道16号線を経由しなければならず、到着するのに1時間を要しました。1月~3月に期間中に催される企画展で「没後50年 藤田嗣治 本のしごと」が開催中、入場料はシニア割引で1000円でした。藤田嗣治は画家として、乳白色の肌色の女性像を描くことで、フランス画壇に新風を吹き込むことで、日本画家の存在感を提起した自由人でした。しかし、大戦中に軍部に依頼され戦争画を描いたことで、軍部協力者としての烙印を押されてしまったことで、1949年に渡米、そしてフランスに移住、パリで晩年を過ごすことになりました。自由人ですから、軍部の依頼を軽い気持ちで引き受けたのでしょうが、それが災いとなり、軍部に協力して富士を描いた横山大観とは異なり、糾弾される不幸な歴史を背負わなければならなかった様です。今回の企画展は、「本のしごと」がテーマで、良く集めたものだと感心させられました。油彩は1点ものですが、挿絵や書籍の装丁は広くオリジナリティを世に示すもので、その力量は抜群の才能が感じられます。晩年、フランスで書籍「Les petits métiers et gagne-petit(しがない職業と少ない稼ぎ)の挿絵ですが、ユーモアに溢れ、書籍の内容にマッチしている様でした。ポスター等のイラストレーターとしても、抜群の才能を発揮した様で、現在の横尾忠則を超えているのではと思われてきます。晩年になっても、スケッチ・デッサン力は大したもので、最後の展示室には、愛玩した猫のスケッチが並べられていました。戦争協力者と烙印は解き放って、彼の芸術力を再評価するのが妥当と思いつつ、美術館を離れました。
2019.01.31
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昨日は、本年最後となる、団地の新聞紙や雑誌、段ボール等の排紙回収があったので、押入れから1ヶ月分を出してすっきりとなりました。其処で、リビングを中心に室内を、Dysonとダスキンモップで掃除、何か「四角い処を丸く掃く」の喩え通り、大掃除で無く小掃除となりました。南側を中心に複数のガラス窓を、モップと布巾で綺麗にし、ベランダの黴を束子で取り除いて、午前10時に昨日からの小掃除を終了することにしましたが、家内がいないとどうも大掃除としての達成感に欠ける様です。メールを観ますと、フランス在住の大学の友人から、年末の挨拶が届いていて、ピレネー山脈の見えるCopuntry Sideでの家族写真が添付されていて、私同様にすっかりと白髪になっていましたが、元気に暮らしている様で、同じようでありたいとの思いを新たにすることが出来ました。又、先日小学1年生になった孫娘が描いた、屈託の無い絵が送られて来ました。4才に描いた、私の似顔絵に比べて、今回は楽しさに溢れていて、各段に進歩しているのに感心させられました。<私が小学1年生の時には、リンゴの静物、蒸気機関車、菜の花畑の風景画、等で人物を描くことが無かったのですが、彼女は違い個性のひらめきも出て来ている様です。
2018.12.31
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昨日は、町田市本町田の丘上にある、博物館に行って来ました。動植物の細密画で、挿絵画家としても知られる天木茂晴回顧展が開催されていて、日本の理科教育の一端を担った茂晴の挿絵原画、彩色画など約200点が展示されていたのです。草花は、根まで掘り起こして、隈なく全体を驚くほど克明に写生しているのは感心しましたし、何か記憶を呼び起こしました。会場には、出版された講談社の図鑑類が並べられていましたが、子供が幼児の時、覚えて貰おうと、花や昆虫編を購入したことがありましたので、私にも記憶があったのでしょう!動植物の細密画は、江戸時代の伊藤若冲が有名ですが、天木画伯は、若冲とは違って、奇を衒わずに丹念に描いていますので、落ち着いて観賞することが出来ました。入口で頂いたパンフレットには次のように紹介されていました。天木茂晴(1913~1986年)は図鑑、児童・幼児向けの科学雑誌などに40年以上にわたって植物や生きものなどの挿絵を描いてきました。天木茂晴は小石川にあった川端画学校で学び、日本画家として制作をはじめました。挿絵を描くようになったのは動物学者・久米又三氏が鱗の数まで正確に描く茂晴の魚の絵を目にしたことからで、又三は自然科学などを専門に手掛けていた出版社へ茂晴を紹介しました。1942年頃、茂晴29歳のときでした。戦後、仕事が軌道にのり、手狭となった荻窪の家から町田に自宅兼アトリエを構えたのは1963年のことでした。そこでも仕事の合間に庭先や近所の薬師池公園、時には高尾山や鎌倉などへ足を延ばし、草花などを描き続けました。茂晴のアトリエにはこうして描かれた水彩やスケッチ、そして資料として撮影された膨大なスライドフィルム、標本類が残されていました。そこには学問や教育に関わる理科美術に対して誠実でひたむきな画家の姿がありました。
2018.10.03
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2012年に逝去したヨルク・シュマイサー(Joerg Schumeisser)の回顧展が町田市立国際版画美術館で行われていましたので行って来ました。ヨルク・シュマイサー(1942-2012)は世界を舞台に活躍したアーティストです。ドイツに生まれ、日本に学び、オーストラリアを拠点に制作を行いました。「旅する版画家」と称されるように世界各地を訪ね、その経験を版に刻みました。その足跡は欧米、中東、アジア、そしてついには南極にまで及んでいます。回顧展で注目したのは日記シリーズで、細かい文字で綴った日記とエッチングを融合させた作品で、細かさは兎も角、文字と絵の融合は、光悦と宗達の巻物を思い起こさせるものでした。III. 日記と「小さなもの」 / Diaries: The Record of Change画面に流麗な文字でテキストを書き込んだ「日記」のシリーズは、シュマイサー独特の表現として高い評価をうけています。この章では「日記」の中から、貝や植物など彼の身近にあって、繰り返し描かれたものに関わる作品を取上げ、日常において記録し続けた変化に目を向けます。又、原版数枚を画面に配置し、変化の様子を1枚に合成した手法は、時間経過を鑑賞者に思い起こさせる画期的方法で、平安時代の絵巻物からヒントを得たのでしょうか?V. 変化を創る / Creatiing Changeドイツの正統に連なる版画制作を行うと評されることが多かったシュマイサー。しかし実際には、優れた技術を持つ者だけに許される自由奔放な制作を試みていて、1990年代半ば以降は、その傾向を明確に示す作品を発表していきます。旅の印象を多面的にとらえた『冬の旅』シリーズ、版画にドローイングや手彩色を加えることで、刻々と変化する風景をとらえた『イルパラ海岸のかけら』連作などの作品群。南極の氷山が崩壊していく段階を追った『Big Changes』連作は、版の展開に注目した手法の集大成といえます。
2018.09.26
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版画キングダムと言う企画展が、町田市立版画美術館で開催されていますので行ってみました。此処には3月に浜田知明の版画展を観に行きましたので、5ヶ月ぶりの訪問ですが、町田街道に近く、渋滞が激しかったので到着までに大分時間を要しました。受付でシニア料金400円を支払い、2階の企画展会場にはいります。古今東西の版画が展示されていて壮観でした。日本の浮世絵と言う木版画、西洋にて発達してエッチングに加えて、様々な技法で驚く様な大作も展示されていました。北斎の諸国滝廻りレンブラントの聖母の死ピカソやムンクも版画を手掛けていた様で、何か大家の作品を手軽に鑑賞出来るのだと、版画の世界とは良いものです!ムンクの病める子
2018.08.28
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三鷹市美術館は三鷹駅南口にある商業ビルの5階にありました。多摩美の教授で、晩年を三鷹市大沢に居住したことから、その特別展があるとのことで、行ってみることにしたのです。エレベータを降りますと、パネルが飾ってあり、その前が受付がありましたので、シニア料金を聞きますと300円と格安でした。横山操氏は1920年生まれ、14才で高等小学校卒業し、出版社で働きながら、画家を目指した苦労人だった様です。シベリア抑留から1950年に帰国、川端龍子の青鞜社を中心に活動、1959年に三鷹市大沢に居を構え、1966年に多摩美日本画科教授に就任、1973年に脳梗塞で逝去、夭折で53年の生涯だった様です。力強い大作と共に、小説の挿絵などの小品が数多く展示されていましたし、三鷹市周辺の風景を抒情性豊かに表現しているものも展示されていました。これは、亡くなる年の作品、「茜」と題していて、絶筆の様ですが、力を抜いた静か情感が感じられました。館内は撮影禁止でしたし、絵葉書も販売されていませんでしたので、上記のパンフレットからスキャンしましたので、細やかな筆使いは再現出来ていません!
2018.08.21
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急坂を上がったところに、西山氏の私邸と美術館があります。大きな美しい石や開運神社があり、何か雑然としていて落ち着きません。ネットで割引券を入手し200円引きの1000円で入場。受付フロントは親切丁寧に、ロダンと銘石の展示フロアは入場無料。所蔵数日本一のユトリロフロアは有料とのことで更に割引券を2枚頂きました。1~2階は、オーナーが集めた巨石群が並び、ローズ色や緑色の水晶もありますが、変成岩の一種、石英片岩の様で、造成される途中で鉱物が混ざり込んだもので、余り価値が無い様にも見えます。3階はロダンの部屋、其処にも岩石が並べられていて、何か落ち着きません。オーナー大金持ちの悪趣味と自己満足の塊とも見えてしまいます。4~5階はユトリロ絵画の部屋、自慢の所蔵品が展示されています。部屋は相当薄暗い雰囲気で、劣化を防ぐべく設定されていて、撮影禁止となっていました。それでも、ストロボを使わずに撮影すれば、劣化は無いと思い、ユトリロの代表作の一つ「モンマルトル風景」を写真に撮りました。帰りに入口で購入した絵葉書をスキャンしてみました。「田舎の教会」と言うことで、やはりモンマルトル風景と同じ白の時代の作品です。モジリアーニやユトリロはフランスのデカダンスを担う画家だと思っていたのですが、1955年に71才で亡くなったとのことで、現代画家の一人であった認識する次第となりました。西山美術館は、東京都町田市にある私立美術館である。一般社団法人西山美術館が運営。館長は西山由之。フランス国立ロダン美術館公認、フランスサノワ市ユトリロ美術館認定、公益財団法人日本博物館協会正会員。ダスキン事業で知られる株式会社ナック創業者の実業家西山由之が所有する美術品を展示するために2006年5月に開館、主な展示物はユトリロの絵画、ロダンの彫刻が中心で、2012年からは世界の銘石も加わっている。ユトリロ絵画の収蔵数は76点で、フランスのユトリロ専門美術館についで世界第2位、ユトリロ著作権継承者のジャン・ファブリス氏からユトリロ美術館として認定された。また、ロダンの作品も「考える人」「パスティアン・ルパージュ」「バルザックの胸像」などのブロンズ像、素描など計52点を収蔵、フランス国立ロダン美術館の公認を受けた。「考える人」は高さ71.5cmの実物のほか、エントランス前に黄金の塗装が施された約2mのレプリカも展示されている。2012年から銘石の展示も開始、2013年には巨大な水晶を祀る神社を美術館に併設した。また同年6月21日、美術館前に展示中のローズクォーツの球(直径96.6cm)がギネス世界記録に認定された。
2018.06.14
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新宿の東郷青児記念損保ジャパン日本興亜美術館にてターナー展が開催されていますので、行ってみることにしました。昨日は晴れていて、美術館のある42階からの眺望は新宿駅周辺が広がり、新宿御苑も見えて絶景となっていました。展覧会ではターナーの水彩、油彩、版画作品約120点を、「地誌的風景画」「海景‐海洋国家に生きて」「イタリア‐古代への憧れ」「山岳‐あらたな景観美をさがして」という4つの章でご紹介し、その核心と魅力に迫るとのことでした。私の知るターナー作品は朦朧とした画面に大気と光の効果を追求することで、ロンドン議事堂火災の連作、蒸気機関車や蒸気船はぼんやりとした塊にして、巨大な波、水しぶき、吹雪といった自然の巨大なエネルギーを描き出している画風なのですが、若い時代には綿密な風景画、それも不透明水彩を駆使した技量で知られていて、それらを銅版画職人に再生させて、挿絵等に使用することで活躍の場があった様で、まるで日本の浮世絵師と版画彫師を彷彿とさせることが、同時代のイギリスで起きていたことが分かりました。29才で描いた「サン・ゴダール峠から眺め」、綿密で見事な色彩感覚です。しかも、これが水彩画と言うのが驚きでしたし、透明水彩と全く世界を異にする不透明水彩の分野があるのだと初めて知らされました。油彩でも、27才の「時化模様の海にいる猟師達」の荒立つ波は、クールベ以上の迫力に満ちていました。多分、クールベがターナーに触発されたのだろうと想像出来ました!晩年66才の油彩「キリスト エジプトへの逃避」では、従来から知る朦朧体で、面目躍如とした、ターナー作品です。手前の水面に泳ぐ蛇は、その存在が何かの寓意があるのだろうと、将来の受難を暗示したものと合点することにしました。上記の絵画画像は、購入した絵葉書をスキャナーで読み込んだものです!
2018.06.02
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今朝、ふと玄関の壁を見上げて、逝去された先輩から頂いた油彩額縁があるのに気が付きました。1970年3月の結婚式のお祝いとして、キャンバスと額縁を頂戴したのですか、もう48年も経過していますが、常に自分で描いた油彩を入れて飾ってありました。当初額縁には、新婚旅行で訪れた、下五島である福江島の玉之浦地区にある「井持ヶ浦教会」を入れて置き、米国駐在時にも部屋に飾っておきました。フランス・ルルドの聖水を入れて聖地とした「井持ヶ浦ルルド」を備えた赤レンガの古い教会でしたが、現在は建替えられていて、淡いレンガ造りの教会となっています。米国から帰国後、カナダへの家族旅行で訪れたジャスパー国立公園のアサバスカ滝に入れ替えて飾って、今に至ります。その頃は、ペインティングナイフだけで油彩するスタイルでしたので、気分を変えようとしたのかも知れませんが、経緯は定かではありません。此処10年以上、油絵を描いたことがありませんので、気分一新して筆やペインティングナイフを握りたいとは思っているのですが・・
2018.04.17
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昨日の朝刊に「犬を抱く少女 フリンク」(東京富士美術館)との紹介記事がありましたので、行ってみることにしました。場所は八王子市谷野町、自宅を出て直ぐに八王子市に入るのですが、南端から北端に行く感じで、混雑する国道16号線を経由して新滝山街道を通って、1時間弱も掛かりました。丁度、創価大学の卒業式もありましたので、近くの駐車場は満杯でしたが、遠くの駐車場に何とか駐車出来ましたので、徒歩で創価大学正門前にある富士美術館に着きました。シニア料金1000円の積もりでしたが、係員に依りますと「本日は常設展示なので700円です」とのことで何か得した気分となり、入場しました。イタリア15世紀の画家ベリーニを皮切りに、アメリカ20世紀のウォホール迄、展示数110点を超えて、可なり充実した展示なのです。ベリーニ 行政長官の肖像ハルス 男の肖像 フリンク 犬を抱く少女皇后ジョセフィーヌのティアラルーブル美術館にある最大の油彩ダビッド作「ナポレオンの戴冠式」に描かれている「ジョセフィーヌのティアラ」と言う歴史的装飾品が日本にあるとは驚きで、よくフランスが手放したものだと思わざるを得ませんでした。
2018.03.19
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新国立美術館にて、ビュールレ・コレクションの「至上の印象派展」が開催中ですので、行って来ました。展覧会の目玉は、ルノワールの描いた「可愛いイレーヌ」で、世界一の美少女とも言われる少女の肖像とされていますが、私の狙いはセザンヌの「赤いチョッキの少年」で、妙にアンバランスに長く引き伸ばされた腕、表情がはっきりしない顔、紅白の目立ち過ぎる対比、等昔から気になっていたのです。セザンヌは現代絵画と祖と言われ、ピカソにも多大な影響を与えたとされていますので、人物も素材の一つでしかなく、自分の思いを伝えるにはデフォルメしても色彩を変えても構わないと言うことなのでしょう!本展ではドラクロワ、ドガ、マネ、ルノワール、ファン・ゴッホ、ゴーギャン、モネ、セザンヌ、マティス、ピカソ…「この絵はビュールレ・コレクションにあったのか!」と驚く程、豪華な作家たちの競演が繰り広げられます。特に印象派・ポスト印象派の作品は傑作揃いで、絵画史上、最も有名な少女像ともいわれるルノワールの《可愛いイレーヌ》とセザンヌの《赤いチョッキの少年》は印象派の中でも人気の高い両巨匠の「最高傑作」として知られています。ビュールレ・コレクションは古典派から現代絵画まで64点展示されていて、個人蔵として破格の所蔵品、実業家とは言え、金満家がいるものだと感服致しました。最後の第10室は、モネの睡蓮の大作、此処では唯一撮影が許されていました。美術館内には、他の展覧会、展示会も多く開催されていて、館内は日曜日であることもあり、かなり混雑していましたし、外に出てみますと、気温が20℃を超えて4月下旬の気候と言うこともあって、春の気配が濃厚でした!
2018.03.04
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Salvator Mundi「救世主」と題され、キリストの上半身を描いた高さ65cmx幅45cmの小さな絵は、1500年頃に制作されたそうですが、最近ダ・ヴィンチの真筆と鑑定され、美術品競売史上、最高額4億5千万ドルの落札額となりました。クリスティーズ提供の画像はネットに配信されていますのでダウンロードしてみました。気品のある絵ですが、両手はよく描き込まれていますが、肝心のキリストの顔は未だ完成していない様にも見えてしまいますが、ルネサンスの天才、ダ・ヴィンチには未完成とされる絵が多いので仕方がありません。この絵を見ていますと、何か雰囲気がドイツ最高の画家とされるデューラーの自画像に似ているなと思い出してしまいます。私自身は、ルーブルで最後まで携行していた「モナリザ」を含む3点、ワシントン国立美術館で「若い女性像」1点を見ただけですし、ダ・ヴィンチの真筆は数える程しか無いのですから、垂涎の額が提示されても妥当なのでしょう!米ニューヨークの競売大手クリスティーズでイタリア・ルネサンス期の巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチがキリストを描いた油絵が、オークションに掛けられ、史上最高額の約4億5千万ドル(約508億円)で落札された。このレオナルド・ダ・ヴィンチの油絵「サルバトール・ムンディ」の落札額は美術品の落札額として史上最高額だと発表した。主催者は落札価格を1億ドル(約113億円)前後と予想していた。「サルバトール・ムンディ」は1500年頃制作、長年行方不明になっていて「幻の作品」として注目を集めていた。20枚もない現存するダ・ヴィンチの絵画の内唯一の個人所有、この作品を除くダ・ヴィンチの絵画はいずれも各地の美術館に所蔵されている。クリスティーズによると、17世紀に英国王チャールズ1世が所有していたが、その後、所在が分からなくなった。2005年に再び存在が確認されてダ・ヴィンチの作品と鑑定され、2011年にロンドンのナショナルギャラリーで展示され大きな話題となった。
2017.11.17
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新聞の折り込み広告に、ボイマンス美術館所蔵 ブリューゲル「バベルの塔」展が4月18日~7月2日まで、東京都美術館で朝日新聞、TBS、BS朝日の主催で開催されるに伴い、予約券・当日券が発売されると宣伝されていました。ボイマンス美術館を訪れたのは、1998年3月、冷たい雨の降る日で、雨に濡れて風邪をひいたのか微熱がありましたが、悪い天候のお蔭か訪問客が少なく、ゆっくり観賞できた記憶があります。ボイマンス美術館の観賞法その他、印象に残ったのはレンブラントの息子の肖像でしたが、一緒に来るのでしょうか?19年ぶりに、観てみたいものです!
2017.02.21
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