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新上五島町有川湾の奥に位置する榎津港は水深も深く、沖合の竹子島が天然の防波堤になっている良港で、沖の五島灘が荒れている時でも碇泊に支障はありません。郷の外れにある榎津港は数年前から客船が来なくなり、埠頭はコンクリートテトラポッド生産・貯蔵場となっているだけなのは寂しいことで、貨物輸送の根拠地として活用出来るのではと思っています。地名の由来は、榎(えのき)が群生、清風堂そばの水神様には樹齢数百年の榎の大木が残っていることからとも言われていますが、現在、群生榎はありませんし、清風堂に残っている榎は大きな主幹が剪定され、両隣から椿が張り出していますので大木には見えません。しかし、根周りを見てみますと、樹齢数百年の榎であることは間違い無さそうです。榎津郷は明治時代からイワシ、ブリ漁が盛んで鮮魚運搬船を含めた貨物集散地として活況を呈していましたが、漁業不振と共に若者世代の離島が激しくなり人口減少と高齢化が加速したことから、昨年からは旅客船の運行も途絶え寂れた地域となりました。昔栄えた榎津郷の大通りに多くあった店は殆どが閉鎖、今は酒屋・雑貨店、生活雑貨店の2店のみとなり、生協も無くなり、徒歩で20分程掛かる新上五島町浦桑・浦浜郷に行く必要があることになり、車等の交通機関を持たない老齢化した住民は生活がしにくくなりました。榎津港ふ頭は不定期のテトラポッド生産のみに使用され、不定期に貨物船のみが停泊するだけとなりましたが、天候影響の少ない良港を人と物流の基地、例えば隣国貿易のフリーポート特別区等、としての再生させることが新上五島町の責務だと思われますが、どうでしょう!
2007.08.10
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実はナギ(梛)と言う庭木の名前は昨日まで分からなかったのです。インターネット検索しても特定出来ず、書店に行って庭木図鑑を立ち読みし、めくっていましたら直ぐに分かりました。特定情報がおぼろげな状態でのインターネット検索エンジンの機能は意外に低いのだとも思い知りました。写真の左にそのナギ(梛)、その右に紅葉、中央に2本対となったモチノキがあります。右手に見える石灯籠奥の石垣沿いは竹林となっています。正面奥の石垣には20本以上伐採した若竹を積み上げ、その下には昨年伐採した竹が半分腐敗して堆積させています。ナギ(梛)は針葉樹ですが広葉樹のような葉で、縦繊維が強く引っ張ってもなかなか切れないのが針葉樹だと思い起こさせます。若枝は緑色で、樹皮は黒褐色で鱗状に剥がれ茶色の樹肌が剥き出しとなります。今年は去年以上に樹皮が鱗状に剥がれて、茶肌が相当出ているので、枯れる前兆かも知れないと心配しましたが、その様な樹の性格の様です。ナギは暖地に自生するマキ科(またはイチイ科)の雌雄異株の常緑高木で、神社やお寺に植栽されることが多く、庭園木としても植栽されているのは珍しい。この庭は50年以上前に、魚目村榎津郷の元海寺での庭造営の時期に造られましたので、造園業者が両方にナギ(梛)を植えこんだと推測出来ます。奈良の春日神社、和歌山の熊野神社、山口の小郡などに群落があり、天然記念物などに指定されている。樹高は20mほどになり、直径50-80cmほどになる。樹皮は黒褐色で鱗状にはがれる。ほぼ平滑で磨いたかのような特徴ある樹皮である。葉は対生で平行脈ではあるものの、楕円形の葉は裸子植物とは思えにくい。海南島や台湾、日本の本州南岸、四国九州、南西諸島などの温暖地方に分布し、関東南部が北限といわれる。ナギがナギラクトンというアレロパシー物質を持っているが、あまり強いアレロパシーを引き起こす程ではない。但し、森林になってしまうと、林の中はたいへん暗くなり、他の樹木の成育に適さないこと、ナギの根や幹から剥がれた樹皮から土の中にしみでた化学物質に他の植物の成長を抑制する働きがあること(この現象を「アレロパシー」と言う)が指摘されている。熊野神社では神木とされ、その名が凪に通じるとして特に船乗りに信仰されて、葉を災難よけにお守り袋や鏡の裏などに入れる俗習がある。葉の縦繊維が強く、引っ張っても切れずに強いものですから男女の仲を結び付ける力も強いと信じられ、昔の人は鏡の底にナギの葉を入れ、夫婦の縁が切れない様にと願ったそうです。
2007.08.07
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新上五島町にある国道384線、青方から若松に行く途中に、中ノ浦集落から一寸行くと、山間部になり小さな大浦集落となります。大浦と言いますと長崎市内のオランダ坂にある国宝となっている「大浦の天主堂」が有名ですが、こちらの大浦教会は集落外れにあるせせらぎの丘の上にあるのですが、その造りは一般民家で、屋根の上に十字架が無ければ教会とは思えません。この集落は10回以上も通り過ぎているのですが、何時も見過ごして来たのです。建物内部には教会建築特有のアーチ構造も無く至って質素で、地域住民の為の祈りの場が形成されている雰囲気があります。「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコ世界遺産登録の暫定一覧表に入ることが決定されましたが、この様な日常の祈りの場所も、古くなっても改築厳禁と言う制限を受けることになるのだと思いますと、生活の場を世界遺産登録の功罪を改めて考えてしまいます。大浦天主堂の紹介日記はこちらです新上五島町の教会の紹介写真はこちらです
2007.08.06
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門松山の麓で海岸近くにある榎津神社の杜に住み着いているフクロウが毎晩暗くなると「ホーホー」と鳴いて朝方までずっと聞こえて来ます。どうも飛来する夏鳥で無く、五島に一年中留まっているアオバズクかも知れません。森林に生息し、群れは形成せず単独もしくはペアで生活する。夜行性で、昼間は樹上で休む。鳴き声は「ホーホー」と二声ずつ聞こえる。本種の鳴き声をフクロウの鳴き声と勘違いしている人も多いが、フクロウは二声の後にさらに「ゴロスケホーホー」が続く。日本の九州以北では繁殖のため飛来する夏鳥で、青葉が茂る頃に飛来することが和名の由来である。奄美大島以南の南西諸島に分布する亜種リュウキュウアオバズクは留鳥で、渡りをしない。食性は動物食で、昆虫類、両生類、小型の鳥類、小型哺乳類等を捕食する。特に甲虫が大好物で、巣の下に腹部を抉り取られたカブトムシやクワガタムシが落ちていることが多い。本種は民家の近く等にも生息し、人間に身近なフクロウである。しかし夜行性で姿を見ることが少なく、正確な生息域や個体数がつかみ難い。長崎県や山口県など、自治体レベルで絶滅危惧種に指定している所もある。鳴き声は「ホーホー」とも聞こえるし、「ポーポー」とも聞こえないことはない。ある人に聞いたら「よしとかっぽう」と鳴いているのだと言うのですが、その由来は知らないらしい。かなり愉快な聞こえ方があって、「五郎助ホーホー」、些か儒教的色彩のある「ぼろ着て奉公」、主婦たちが家事の傍ら聞き分けた「糊つけて干せ」等があるらしい。それらを聞く度に「音は振る舞いである」という文化を考えさせてくれる。離島は高齢化と過疎化が進んで、空き家の取り壊しが多くなり更地が増えたことから、フクロウの鳴き声が一層聴こえる様になりました。高齢化と過疎化による、典型的な地域格差の悲しい現実です!
2007.08.05
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五島列島は東経129°に位置し、東経140°にある東京に比べて時差が45分程あることになりますので、日出も遅く午前5時半過ぎ頃となります。上記画像は午前6時半に東方の水平線から、朝日が昇っている様子を撮ったものです。朝日の陽光が海水面に揺らぎ、近くに見える竹の子島がシルエットになり、何とも美しい景色となっています。この付近はリアス式海岸の典型で、殆どの海岸線がほぼ垂直に落ち込んで水深はかなり深くフェリーの通行も可能となっていて、竹の子島が天然の防波堤になっている良港なのですが、人口過疎化の影響を受けてフェリー運行が停止となったのは残念なことです。遠くには正面に野案中・山案中、右側には空港が閉鎖となってしまった頭ヶ島が薄く見えています。朝日の向こうは佐世保、平戸島の筈ですが、遠過ぎて見えることはありませんので、此処は五島灘から東シナ海に浮かぶ孤島なのだと実感することになります。
2007.08.04
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五島列島に行くと良く見ることの出来るアゲハ蝶、背側の色はクロアゲハと同じ黒で、後翅の白い紋が目立つ蝶です。腹側は意外に派手やかで、前翅にも白い紋、前・後翅に亘って橙色の丸い模様が目立ちます。大きく体力があるのか、あちこち飛び回って、なかなか花にじっと止まって蜜を吸うことはありません。ようやく撮った写真ですが、背側後翅の白い紋が畳まれていて良く分からないのは残念です。アゲハチョウ科 アゲハチョウ亜科 モンキアゲハ目Papilio helenus大きさ (前翅長)50-75mm 時 期 4-10月 分 布 本州・四国・九州・沖縄 林の周辺をゆったりと飛び、花で吸蜜したり、地面で吸水したりする。大きい分、はねが丈夫なのか、小雨の中でも平気で活動しているのをよく見かける。南方系で、西南日本に多く、関西周辺では都市郊外でもよく見られる。紀伊半島の海岸沿いの林や人家の周辺では極めて個体数が多い。幼虫の食草はカラスザンショウなど。樹上をふわふわと飛ぶ黒い姿は、西南日本の夏の風物詩。
2007.08.03
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五島列島は光化学スモッグを発生させる工場群が無いので、澄み渡る青空と透き通る海水が魅力となっていますが、今年は一寸様子が違いました。中国大陸で発生したオゾンが光化学スモッグを発生させ、毎日の如く五島列島を覆っていたのです。以前から指摘されている「中国からの越境汚染」の可能性を現実に体験することになりました。西風で運ばれてきた白濁した煙の様なガスが、気味悪く蒼空を遮り、緑濃い自然を台無しにしていたのです。この画像では対岸に見えるべき山々の一部がスモッグの中に煙っていますが、この朝は未だ対岸が見えるだけに良い方で、酷い時は対岸が全く見えない程白濁していたのです。光化学スモッグは光化学オキシダントが起こし、自動車や工場などが出す窒素酸化物などの大気汚染物質が日光を浴びるなどして生じることが知られている。 10年以上前からアジアの光化学スモッグを研究してきた九州大応用力学研究所・環境研の研究グループは、中国や日本を含むアジア各地の大気汚染物質の排出量を、エネルギー消費や車の台数などから推計。オゾン生成の化学反応や風向・風速を加味して、地上でのオゾン濃度の変化を数値計算した。 それによると、東シナ海の高気圧の北側に西風が吹き、高濃度のオゾンが中国から日本に広がったとの結果が出た。 九州などに広がったオゾンは、地域によっては光化学スモッグ注意報の発令基準(0.12ppm)に近い濃度レベルに達するとの結果で、日本国内で実測された光化学オキシダントの濃度分布などとよく合っていた。 光化学スモッグは1970年代がピークだったが、近年、再び各地で注意報の発令が増えている。特に九州北部や日本海側での発令が目立ち、新潟県で72年の観測開始以来初の注意報が出された。こうした特徴や、日本の大気汚染が規制で改善傾向にあることから、研究者の間では中国からの越境汚染の影響が大きいとの見方が強かった。
2007.08.02
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長崎空港に着きましたら、大村市市制施行65周年記念で平成19年7月21日~9月1日の間「天正少年夢まつり」が開催中と宣伝していました。昨年末、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」がユネスコに提出する世界遺産登録の暫定一覧表に入ることが決定されましたので、その前史を知る上でも興味深いと思われます。度々、長崎空港を利用していましたが、長崎空港に渡る箕島大橋のたもとに天正遣欧少年使節像が建っているのは気が付きませんでした。走行バスの中から撮ったので良い画像ではありませんが、手前から、伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアンの順に並んでいるそうです。この使節は、日本でのキリスト教布教の責任者であったヴァリニャーノ神父が計画し、九州の3人のキリシタン大名である大村純忠、大友宗麟、有馬晴信の使節として派遣したものです。使節に選ばれたのは、有馬のセミナリオで学んでいた少年で、正使として日向伊東氏出身の伊東マンショ、有馬領千々石出身の大村純忠の甥の千々石ミゲル。副使として原マルチノ(波佐見町出身)、中浦ジュリアン(西海市出身)の4人でした。この銅像は、少年達の偉業を顕彰するため、使節ゆかりの大村市、波佐見町、千々石町、西海町(現西海市)の1市3町と関係団体が、昭和57年(1982)に、使節の出発400周年を記念して建立しました。帰国後はキリシタン禁教令が施行され不幸な後半生だった様です。伊東マンショは司祭となり比較的早くに逝去しましたが、千々岩ミゲルは諸般の事情で棄教、中浦ジュリアンは壮絶な殉教、原マルチノは国外追放されてマカオで死亡となりました。
2007.08.01
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先週末、家内の従妹が来訪していましたが、「北魚之目にある江袋(えぶくろ)教会が焼けてしまった」と教えてくれました。これらは5年程前にステンドグラスが美しいと教えられて、訪問した時に撮ったものです。瓦葺で、普通の民家の様な外観です。内部の蝙蝠天井とステンドグラスは、教えられた通り美しいものでした。インターネット検索しましたら、次の様に報じられていました。長崎県内で現存する使用中の木造教会としては最古、構造的にも貴重なものとして文化財的建物とされていた江袋教会は、今年2月12日火災により全焼となった。明治15年創立し、木造瓦葺き平家建てで、屋根は単層構成で変形寄棟の形態をした木造教会で、海を見下ろす急傾斜の山腹に建てられていた。 焼失した教会は復元の方向で検討されている。家内の知合いで親戚同様の付合いがあり、数年前に逝去された教員の方が「文化百選五島編」で、紹介記事を掲載していることを初めて知りました。変形寄棟をなしている点が、この木造教会の特徴であるといわれている。平面は三廊式で非常に奥行きが浅く、会堂部は、ほぼ正方形をなし、主廊部は側廊幅の約一・六倍で完成期のものと比較して小さく、天井はすべて板張八分割リブ・ブォールト(こうもり)天井で構成され、列柱の頂部には刳(こ)形を有する頭貫が存在するなど、初期教会堂建築の特徴であるといわれている。 窓は古い洋式アーチ型で、中にはステンドグラスをはめた扉があり、初期の色ガラスとして貴重なものだとされている。 この教会は、学術的にも高く評価され、昭和五十八年には、九州大学と県文化課によって原形を作図し、記録保存された。数年間に亘って撮影しました「上五島の教会」を整理してアップしましたのでご覧下さい。教会外観と内部写真のセットで26枚収蔵しました。
2007.03.12
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先日、五島列島から宅急便が送られて来て、その中に「五島手延べうどん」、「かんころもち」が入っていました。「五島手延べうどん」は毎年夏に訪問した際購入して来るのですが、「かんころもち」は冬季限定ですので、この時期の嬉しい贈り物です。私は、幼児の疎開体験が災いしてか、さつまいも・その加工品が好きではありませんが、五島の特産物「かんころもち」は美味しいと思って食します。1cmほどの厚さに切り、普通の餅の様に炙って食べるのですが、さつまいもの甘味がほんのりとして、もちもち感も程々で、とても美味だと思います。 砂糖が入っていない自然食品だと思うと尚更です。長崎の田舎名物「甘古呂餅(かんころもち)」は、特に五島の特産物とされていて、さつまいもを薄く切り、半茹でにして、干した後、餅米とひき合わせて作ったもの。米があまり採れなかった時代に考えられた、とされています。インターネット検索すると、次の様な宣伝と共に取り寄せ販売されています。そのすべてが厳選された良質の材料だけを用い、保存料を一切使用せず、無添加、無着色の甘古呂餅。天然・自然の味わいを全国の皆様にお届けしています。これに対して、関東で好まれる干し芋(乾燥芋)は、蒸したいもをスライスするので「蒸切干し」と言われますが、こちらは幼児体験もあり、殆ど食しません。
2006.12.22
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榎津郷にある小さな海水浴場で、磯に小さな砂浜があって嘗てはサザエが採れる海浜でした。別に潜る必要も無く、背の立つ深さでも沢山いて、水中眼鏡で確かめれば手で獲れました。30年程前から、離島振興の公共事業で海浜には驚く程多数のテトラポッドが榎津港突堤に置かれ、海流に変化が起こり、川野家に新鮮な潮が入り込まなくなってしまったのです。嘗ては小さな昆布風の海藻で真っ黒に見え、それを餌にしたサザエが多数生息していました。新鮮な海流に乗ってプランクトンが到来し、海藻が育ち、小魚が生息して、生態系が作られていたのです。現在は海草類が殆ど死滅して磯焼けとなり、磯の底がはっきりと見られる状態となり、生態系バランスが崩れてサザエも殆どいなくなってしまいました。それでも、少しは回復の兆候がある様で、先端の岩場の向こう側にはホンダワラ風の海藻がビッチリと育って来ていました。昆布風の海藻より、潮が少なくても生きていられるのかも知れません。其処にはホンダワラを餌に育っていると思われるムラサキウニが足の踏み場も無い程生息していたのです。しかし、毒棘のあるガンガゼも深みに同居していますので注意しなければいけません。ガンガゼは黒い体と異常に長い棘を持つウニで、大きく見えますが体の本体である殻は小さく、長い棘で大きく見えるのです。ガンガゼの棘には毒があり、これが体に刺さるといつまでも痛みます。この卵巣は苦みが強いと言われ、食用とはしませんが、量を増やす為ムラサキウニと混ぜて売られているとも言われています。ムラサキウニは高級品ですから採って見ようと思ったのですが、この辺では、ウニは春に採り、夏には採らないとのことでしたので、そのままにしておきました。夏季はウニの卵巣が痩せて美味しくないのかも知れませんが、確認はしていません。
2006.08.28
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新上五島町新魚目地区榎津郷は人口減少が激しく、空き家が非常に多いのです。一時は隆盛であった定置網漁業の不振で、若い世代をつなぎ止める産業が無くなり、人口流出が止まらない為で寂しいものがあります。家内の実家も実質13年空き家になっていて、両隣の家も取り壊されて更地となり駐車場にしか使われていません。 本屋は中2階建てで築120年を越えるにも拘わらず、未だしっかりとしているのですが、右側の増築分は築50年でガタが来て数年後には建て直しが必要と考えています。やはり明治時代の木造建築は自然木材も堅牢でしっかりと作られている様です。所で今回応接間のガラス窓が隣の更地の小石で多数割れていましたが、盆の季節で付け替えする職人さんも見つからず、台風接近に備えてベニヤ板をビス止めにしました。その際、偶然に自作の油絵を見つけました。製作は1987年7月となっていますので19年前のものです。 その頃は、義母も元気で一人住まいをしていたのですが、娘である家内の絵でも差し上げようかと描いたものでした。何か懐かしく感じて、誰もいない居間の壁に額縁もないのでキャンバス裸のまま掛けて置いて来ました。大きな画像はこちらにあります
2006.08.27
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平成3年9月、12年の歳月をかけて若松瀬戸に若松大橋が完成しました。五島列島屈指の大橋の施工は三菱重工で、延長522メートル、三径間連続トラス橋型式の橋梁は、海面からの高さ26mとなっています。従来は渡船でしか行けなかった若松町の交通体系を大きく改善するとともに新たな観光スポットとなりました。橋の両岸には「風」「花」「岬」の三つのテーマの展望台を配置している他、海岸に沿った遊歩道からは、透明度の高い透き通った潮の流れを間近に楽しむことが出来ます。今回、若松地区を訪問した日は晴天だったのですが、台風が迫っている為か靄っていて、橋の向こう側が霞んで見えました。風の展望台から見る若松大橋 風の展望台から見る多島海大橋は若松瀬戸の急流場所に設置され、橋の上から渦を巻く瀬戸急流を眼下に見ること出来ますし、南北両側にはリアス式海岸で美しい多島海を為し、西海国立公園の白眉とされています。若松大橋を車で走ると、丁度中央付近からは、重なる尾根の間から桐古里教会の赤い屋根が見え隠れし、キリシタンと縁の深い五島の歴史の一端をうかがい知ることも出来ます。 上五島の教会写真集はこちらです
2006.08.26
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昨年7月以来1年振りに空き家となっている家内の実家で、庭の草取りをしました。今冬2月上旬には大叔父の49日法要で行きました時に見たのですが、冬でしたので雑草はそれ程目立たなかったのです。それから6ヶ月、50年前に築庭した庭は鬱蒼と雑草が生い茂っていて、足の踏み場も無い程になっていました。足を踏み入れるべく、雑草の根元を剪定ハサミで切り数日間放置し、少し乾燥させてから一枚40円の町指定のポリエチレン処理袋に入れてゴミ回収日に出しました。この庭にはムカデがいますので、噛まれない様に靴と軍手を使って、注意深く行いましたが、今回は2週間で24袋となりました。周囲の石垣の内側には目隠しの為、細竹を植えてあるのですがそれが庭中に広がって竹藪と化していましたので、30本以上斬って見栄えを良くしました。斬った竹の処理が大変、ポリエチレン処理袋に入りませんので、石垣沿いに幹を並べて積んで置くしかありません。数年前までは竹幹は40cm以内に切り揃えて、紐で括ってゴミ集積場に出せたのですが既にこの方法は禁止となっているからです。10日掛けて、漸く石灯籠が明るく見えて来る程となりました。真ん中に見えるのは鳥もちの双樹、樹皮に傷を付けますと粘着状の樹液が出て来ますので篠竹に絡めて蝉取り等に用いることが出来ます。この庭には石を周囲に配置した池がありますが、給水を止めてありますので雨水で水たまりがあるだけです。それでも、オニヤンマ、シオカラトンボが飛来して卵を産んでいますので、トンボのヤゴが生きていて孵化して行きます。今回の滞在時、台風が通過して十分雨が降り池の水面も回復したのですが、池壁に亀裂があるらしく、翌朝には元の木阿弥となりました。空き家となりますと、やはり劣化の進み方は激しい様です。
2006.08.24
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榎津港は明治時代からイワシ、ブリ等の鮮魚運搬船を含めた貨物集散地として活況を呈していましたが、漁業不振と共に若者世代の離島が激しくなり人口減少と高齢化が加速し、一昨年からは旅客船の運行も途絶え寂れた地域となりました。榎津港埠頭は現在テトラポッド生産・貯蔵等に使用され、不定期に貨物船のみが停泊するだけとなりましたが、天候影響の少ない良港を人と物流の基地としての再生させることが新上五島町の責務だと思われます。榎津郷の裏山ともなる門松山の麓には、榎津神社が寂しく鎮座しています。創建は鎌倉時代の建仁3年(1203)年ですから相当に古く、摂社琴平神社として「崇神天皇」を祭っているらしいのです。現在は氏子も少なくなり境内には人影も殆ど見えませんが、近年本社殿が建て替えられ少し綺麗に整備されていました。一の鳥居を入りますと狛犬に続いて対の牛が並んでいますので、往時はこの地区も五島牛の産地だったのかも知れません。二の鳥居から、階段・本社殿が見えます。神社の近くには清風館跡が有って、学校制度が整備される前には教育施設として機能していたらしい由緒が書かれていましたので、明治時代は上五島での中心地区として栄えていたことが分かります。榎津郷の栄枯盛衰は時代の流れとは言え、何か淋しくなってしまいます。
2006.08.23
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季節限定の桃カステラが売られていますが、先日長崎からの宅急便で松翁軒のものを頂戴しました。毎年桃の節句「ひな祭り」が近づきますと、長崎では多くのカステラ屋さんにはこの「桃カステラ」が可愛らしく店先を彩りますし、空港の売店でもよく見かけます。桃カステラの元祖は定かではありませんが、やはりこれも、日本でのカステラ製造元祖と言われる老舗である松翁軒では無いかと思っています。古来、中国では不老長寿や厄よけの果実とされ、祝事の象徴として尊ばれてきた桃の実。桃は日本でも神話や昔話にも登場し、縁起の良い果物として知られています。中国と古くからの交流があり、今なお数々の文化が伝わる長崎には、子どもの健やかな成長を願い、桃の節句に桃の実を象った縁起菓子を贈る習慣があります。しっとりと焼き上げた伝統のカステラ生地を彩る、桃の実の鮮やかな砂糖細工。砂糖と水飴を丹念に練り上げて作った「すり蜜」をたっぷりと使い、ひとつひとつ手作業で作り上げたのが、長崎ならではの縁起菓子「桃カステラ」です。西欧と東洋の伝統文化が見事に結実した、彩りと深く上品な甘味が、喜びの日に一層の華やぎを添えます。普通のカステラは賞味期限が1週間程度ですが、桃カステラはトッピングが砂糖菓子の為、生地カステラの卵・砂糖類が押さえられていますので2週間位と少し長くなっている様です。上品な甘さのカステラと言うより、甘さを強調した庶民的なカップケーキに仕上がっています。
2006.03.02
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中通島の北西に位置する小さな離島である頭ヶ島の山頂を切り開いて設置され、1981年に供用開始した上五島空港が3月末で閉鎖されることになった様です。この写真は5年前空港から有川方面を撮影したものですが、有川は山の彼方の空遠くと言った感じで見ることが出来ません。下に見える赤い橋が「頭ヶ島大橋」で開港時に掛けられたものです。この写真は頭ヶ島大橋から上五島空港ターミナルを見上げたものです。滑走路全長800mしかなく、リアス式海岸の真上標高80mですので、吹き降ろし風の影響を受けやすく、全国一着陸が難しい空港と言われて来ました。運行会社は当初長崎航空で、福岡空港往復2便、長崎空港往復5便と便利な交通手段だったのですが、6人乗りで満席となる小さな飛行機ですので、運営が難しかった様でした。長崎空港からは所要時間30分に過ぎませんが、空港から直近の有川地区迄20分以上掛かりタクシー料金も3000円以上しましたので、地の利も良くなく、長崎大波止から高速船就航で、尚一層利用客が減ってしまい、運行会社は長崎航空からオリエンタルエアブリッジ(ORC)に引き継がれ、福岡空港線廃止、長崎空港往復2便だけに絞って運行して来たのですが、劣勢は明らかで閉鎖は時間の問題と思っていました。長崎からでも佐世保からでも高速船90分で有川地区に着きますので、その高速船就航で航空便の使命は終えたのだと思われます。オリエンタルエアブリッジ(ORC)が3月末で上五島空港(新上五島町)と小値賀空港(北松小値賀町)に就航する定期路線を廃止する問題で、上五島空港ターミナルビルは1月中旬 、佐世保市で臨時株主総会を開き、「業務の継続は不可能」として1月末で解散することを議決した。空港施設については、新上五島町に無償譲渡する。総会には、県や町、交通機関、銀行など15団体が出席。空港施設など所有資産については、町が1993年(当時は有川町)以降、総額1億2千3百万円の補助金を投じている実績を踏まえ、株主が債権を全額放棄した上で、町への無償譲渡を承認した。昨年12月末現在の累積赤字は約5千1百万円。同社や町によると、土地は県所有のため、施設の売却は断念。今後は、町が県と協議しながら活用方法を検討する。又、小値賀空港ターミナルビルも同日、同市内で取締役会を開き、1月末の解散を決定した。後日開催の臨時株主総会で承認される見通し。同社によると、町の補助金投入額は総額1億2千万円。昨年12月末現在の累積赤字は約2千2百万円。
2006.02.18
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新上五島町有川湾の奥に位置する榎津港は水深も深く、沖合の竹子島が天然の防波堤になっている良港で、沖の五島灘が荒れている時でも碇泊に支障はありません。郷の外れにある榎津港、埠頭はコンクリートテトラポッド生産・貯蔵場となっています。地名の由来は、榎(えのき)が群生、清風堂そばには樹齢数百年の榎の大木が残っていることからとも言われていますが、現在、群生榎はありませんし、清風堂に残っている榎は大木には見えません。榎津郷は明治時代からイワシ、ブリ漁が盛んで鮮魚運搬船を含めた貨物集散地として活況を呈していましたが、漁業不振と共に若者世代の離島が激しくなり人口減少と高齢化が加速したことから、昨年からは旅客船の運行も途絶え寂れた地域となりました。榎津港ふ頭は現在テトラポッド生産のみに使用され、不定期に貨物船のみが停泊するだけとなりましたが、天候影響の少ない良港を人と物流の基地としての再生させることが新上五島町の責務だと思われます。榎津郷にある家内の実家は住む人もいない空き家で、昨年夏来てから6ヶ月経っていました。北側にある庭には昨秋落ちた落葉が厚く堆積していましたので、ゴミ袋を買って来て6袋ほど詰め込みました。すると、少し庭土が見える状態になりましたのを見透かしたのかジョウビタキが飛んで来て、庭土を盛んに突いていました。私のデジカメは光学3倍ズームしか利きませんので、一寸鳥の姿が鮮明ではありませんが、お腹の茶色は良く分かります。頭がこんなに白かったのかと後で見て、少し違和感もありますが、日陰にいた所を撮影しましたので、太陽光線のハレーションでも無いと思っています。
2006.02.17
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「似首(にたくび)」とは変わった地名で全国的にも珍しい。平家の落人伝説とも関係なく、「似(にた)」は「仁田」とのことで肥沃な水田を意味し、「首」は細くなる峠道のことで、どうも本来的には「仁田峠」と同義語であるらしい。五島列島は昔から漁場として、又中国貿易と中継点として遣唐使の時代から開かれていたらしく、その中でも上五島は平戸藩、福江藩の領有権が交錯していた土地でもあった様です。其処に福江藩から分知された富江藩が割り込んで来たことで、漁業権海域を巡っての血を見る出入りもあり、漸く「海上真っ二つ」裁定によって決着がついた歴史があります。こんな話をしてくれていた、家内の親戚で似首郷の長老格であった叔父が昨年末89才で逝去、先日49日法要があったので五島列島に行って来ました。似首郷外れの海岸に立つ事代主神社には人影も無くひっそりとしていましたが、神社入口には、領有権を争った経緯などを示した魚目浦絵図コピーの付いた説明板が掲示されていました。万治二年(1659)、江戸幕府によって福江藩1万5千石から分知、3千石の富江藩創設が許された。これによって有川村は、従前通り福江藩に止まったが、魚目村は富江藩となった。藩を異にした双方の間には前海の海境を巡って論争が起こり、27年間にも及んで出入りが絶えなかった。両藩の間でも協議が重ねられたがいっこうにラチがあかないところから、業を煮やした有川方では貞享四年(1687)福江藩から訴訟の容認を得て、代表を江戸に送り、幕府に訴訟した。その結果、幕府は有川、魚目の双方にそれぞれ浦絵図を作製し、口上書を添えて差し出すように御指紙をもって命ぜられた。これを受けた魚目方では早速長崎の絵師に正副二軸の作製を依頼し、完成するやこれに口上書を添え上京、幕府に提出した。この裁判は、双方評定所呼び出しの上、元禄二年(1689)二月御裁許が申し渡された。結果は、有川方の勝訴となり、海域の約半分が有川領となった。この絵図には、当時の漁場の様子が詳しく書かれているばかりでなく、地名の由来、説明など歴史的事項、地形や神社寺の位置関係も克明に記され、当時のことを知る上で、学術的価値がある。代々、富江の五島家に保存されていたが、昭和八年(1933)、当時の五島家現主から似首の事代主神社に寄進されたものである。似首峠を越えた地帯には中通島の穀倉畑も散在していますので、それを称して「似首(仁田峠)」と言ったのか、五島鯨等の水産資源が豊富だったことが「似首」の由来になったのかは定かではありません。人口の減少・高齢化が激しい地区ですので、長老格の知識を受け継ぐ人達も育っていない様で寂しいものがあります。
2006.02.16
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教会の前には慈愛に満ちたマリア像が置かれるのが普通ですが、両手を広げたキリスト像が設置されている教会もあります。 上の画像が新上五島町大曽地区にある赤煉瓦製の大曽教会入口正面にあるキリスト像、下は江袋教会の入口側面に設置されている像です。両方とも等身大の大きさで石膏製のものですが、原型鋳型は同じで、おそらくイタリアの何処かの教会辺りからコピーされたものと思われます。江袋教会のキリスト像には彩色が施されていて、信仰の対象となる三位一体の神と言うより、若々しい青春ただ中の人間のキリスト像となっています。「憐れみ深い人々は幸いである。 汝等は憐れみを受ける。」「心の清い人々は幸いである。 汝等は神を見る。」「平和を実現する人々は幸いである。 汝等は神の子とよばれる。」と語り掛けているのでしょうか?
2006.01.16
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公開フォトアルバムは「ピラトゥス登山鉄道」、「ライン川下り」の二編でしたが、新たに「上五島名景」を追加してみました。画像を300x225ドットとしましたので細かい所は判然とせず、又2秒毎に変化してしまうので分かりにくいのですが、スライドショーで順次見られるのがせめてもの利点かも知れません。画像ファイルは9枚、1枚15kBですので画像オプションを140 kB使ったことになりますが、制限15MBに対して僅かな容量ですので気にはなりません。それにしても、PR画像は余計で、何とか除去出来ないものでしょうか?近頃どの管理画面を開いてもPR画像が出て来ますので、ITビジネスの厭味を感じてしまいます。上五島紹介のフリーページはこちらです!
2005.11.20
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上五島町奈摩湾口の東岸には、「赤ダキ断崖」と呼ばれる火山跡を見ることが出来ます。ホマーテ(臼状火山)と言う形式の火山で、火口が大きく、その周辺に砕屑物が堆積すると言われ、東京周辺では伊豆半島の伊豆高原にある大室山が有名で、お椀をかぶせた様な形で知られていますが、火口は埋まってしまって見ることが出来ません。「赤ダキ断崖」は、火口内部を見ることが出来、学術的にも貴重なものと言われています。その断崖は上下二段の層に分かれ、下層部は黄色の火山礫(れき)凝灰岩、上層部は火山弾を含む赤色の玄武岩滓(さい)層となっています。火口は現在の奈摩湾中央で、直径約1.0kmの円径の基底面をもっていたものと推定されているとのことです。噴火時期は定かでありませんが、既に死火山であり、五島列島は日本で一番地盤が安定し地震が無い地域となっていますので、先史の時代だと思われます。その奥に見えますのが、五島列島の最高峰、北魚目番岳443mで山頂も見え、山の緑、海の青、断崖の赤・黄のコントラストが際だって美しい景観を醸し出しています。下五島福江島の五島市には、やはり臼状火山の鬼岳があり、頂上には展望台も設けられていますが、伊豆の大室山と同じ様に火口を窺い知ることは出来ません。奈摩湾口の西岸には、矢堅目の奇岩が対照的に見えますが、その日記はこちらです!
2005.08.08
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ルルドは南フランス、スペイン国境に近い小さな町で、1858年その地の洞窟に聖母マリアが18回現れ、洞窟前の湧き出た霊泉で難病が治る奇跡が起きたと言われているカトリックの聖地です。その後世界各地で、洞窟を模倣しマリア像を収めたルルドが造られる様になりました。日本では1899年福江島南端の井持浦教会に南仏ルルドから聖マリア像が寄贈され、ルルドの洞窟が造られました。1970年に訪問した時の写真は散失してしまい、残っていませんのは残念です。上五島の教会群でも、近年になってルルドの洞窟を模し、聖マリア像を収めた洞窟が造られる様になりました。特に鯛ノ浦教会では、洞窟に山の湧き水を引き込んだ設計が良く出来ていることで知られています。此処のマリア像は愛くるしい少女像になっている様に思います。国の重要文化財となっている頭ヶ島教会では、横にある窪地に収められ、「島の聖母」と名付けられています。入江に映える木造の美しい教会として知られる中の浦教会にあるマリア像です。家内の実家にあるマリア像は、シスターとなった親戚の方が置いて行ってくれたもの、「ルルドの聖水」も添えてありますので実際に南仏ルルド訪問した際に購入したものかも知れません。私自身はルルドに行ったことがありません。その洞窟にありますマリア像は、イタリア大理石名産地と知られるカララの大理石を使ったものと言われますので黒い瞳は入っていない様です。一方、五島のルルドのマリア像は石膏製ですので優しい視線を感じることが出来ます。
2005.08.07
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久し振りに訪れた上五島空港は閑散としていました。飛行機の便数も減り、逆に長崎・佐世保からの高速船が便利になったので、此処5年程は利用したことがありません。数年程前には、福岡空港へ2便、長崎空港には5便あったのですが、現在では長崎往復2便だけとなってしまったからです。この写真は頭ヶ島大橋から上五島空港ターミナルを見上げたものですが、頭ヶ島頂上を平地に削って整地した空港です。長さの800mの滑走路はその向こうにあります。絶壁の上にありますので吹き上げ・吹き下ろしの風が複雑で、全国一風に弱い空港とされ、有視界飛行の着陸には相当の技量を要し、後継パイロットが見つからないと言う事情が関係している様です。前にはターミナル内にあった食堂で、五島うどんを食べさせて頂いたもので、此処は五島うどん、おでん等が美味しいことで知られていたのですが、今回訪問した際には営業していませんでした。残念ながら、遠からず閉港となってしまう様な気がします。そこで、空港下に位置する頭ヶ島教会も久しぶりに行って見ることにしました。頭ヶ島教会画像を新しく撮影しました、上五島教会群をご覧下さい!簡保に依るビジターセンターも建設され観光客に利便を提供していましたが、真夏の暑い午後でしたこともあり、訪問者は誰もおりませんでした。
2005.08.03
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1年振りに訪れた空き家の庭は、もの凄い草群で足の踏み場も無い程でした。ドクダミとシダが庭を占領していて土の表面が見えません。この庭には結構、ムカデも出てくるので大変です。3年前に業者に頼んで強く伐採した庭木類は勢いを取り戻して枝を張り、竹林の根が何処彼処に延びて庭全体が竹林にもなりそうな感もありました。今年出てきた若竹を50本程伐採しましたが、未だ柔らかいので剪定ハサミで切ることが出来ました。暑いので剪定・草取り作業を、数日間軍手をしながらも半袖でしていましたら、両腕がかぶれて来て、そのブツブツしたかぶれはシャツを通してお腹にも広がる始末でした。どうも竹の葉に四六時中触れていたことで、皮膚が負けてしまいました。やはり、暑くても長袖をしてタオルを首に巻く準備をする必要があった様です。「ムヒ」を塗っても直りませんので、薬局に行ってかぶれ治癒薬を買って来て塗り込みましたら、少し状態が良くなりましたが数日間体中がかゆいので困ってしまいました。毎年草取り・剪定でかぶれてはいて、梅・椿にいる毛虫にやられたのかと思っていましたが、親戚の方に「竹にもかぶれる」と聞かされて納得、今年は例年に無く多数の竹を伐採したので酷かった様です。昨年までは、切った若竹は40cmに切り揃えて紐で括って置きますと、燃えるゴミ収集日に捨てられたのですが、今年からは収集しませんので竹林の中に積み上げて置かざるを得ません。若竹以外にも蔓延っている20本程を伐採して竹林の中を少し明るくしてみました。石灯籠付近も1年振りに見える様になりましたが、空き家の管理は大変で、来年はどうなることやらと一寸憂鬱です。
2005.08.01
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町村合併で、由緒ある「魚目」の地名が消えてしまいました。旧魚目村似首郷(現在は新上五島町似首郷)の似首峠から見る奈摩湾は雄大な景観を呈していて大好きな所で、紺碧の海、奈摩湾に下ってくる緑濃い山々は長い間眺めていても飽きることはありません。この絵は我が家の居間に架けてあるF10号作品で、何時でも見ることが出来ます。元々奈摩湾は火山口で沈降してリアス式海岸となった時に入り江湾となった様で、海岸線には「赤ダキ断崖」と言う火山口跡も残されています。上五島奈摩湾の入口に位置し、その対岸にあります矢堅目の奇岩は一際目立つ存在でもあります。高さは凡そ100mの美しい円錐形で奇岩裾の岩場には小さな無人灯台が設置され、海難を防止しています。驚く程透き通った海は、石鯛、メジナ等の釣りポイントでもあるらしいのですが、夏は季節外れの精か、釣り人を見かけたことはありません。矢堅目とは奇妙な名称ですが、矢堅目公園の案内板には次の様に紹介されています。矢堅目は、平戸から五島の西目の海上航路の目標になっている。この地は古くから奈摩湾に侵入する外敵の見張りのために矢(守備兵)で堅(砦)めた。このことにより「矢堅目」の地名が残されている。中世期の勘合貿易(室町時代における日明間の公式貿易)の停泊(避難)港としても知られ、松浦党の一員として青方・奈摩両氏の間では、勘合船の海賊からの警備の任務が課せられていた。矢堅目の入陽は大変美しい景観で知られ、人によっては涙が溢れ出る程美しく寂しいと言われています。 此処から西方には島影は無く、広い東シナ海が広がるだけですので寂しさも一層増すのかも知れません。
2005.07.31
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頭ヶ島は上五島空港が建設されるまでは中通島から離れた孤島でした。空港アクセスの為に設置された頭ヶ島大橋で陸続きなってからは、「五島の教会巡りの旅」も企画されて訪問する人々も多くなって来ました。此処の小さな海浜部落にある頭ヶ島教会は珍しい石造りの教会として知られ、国の重要文化財となっています。上五島地区には29のカトリック教会があり、各教会付近には必ず切支丹墓地がありますが、此処頭ヶ島教会の切支丹墓地は一番広いものです。海岸の砂地にありますが、リアス式海岸ですので砂も薄く、その下は強固な岩盤なので、砂上の楼閣とはならない様です。又、通常の墓地とは違って墓石の間隔も広く、何かエキゾチックな景観を呈しています。対岸は無人島の「ロクロ島」、此処は石鯛、石垣鯛の絶好のポイントとしてしられ釣り人垂涎の場所で、秋にもなりますと島外から多数の釣り人が来て渡船でポイントに行く様です。江戸末期の隠れ切支丹発見、大浦天主堂の建設と漸く200年以上続いた切支丹文化に光りが当たりそうになりましたが、禁教令が解かれたのは明治6年(1873年)でしたので、その間「五島崩れ」と言われる迫害の歴史が吹き荒れ、数百人が殉教したと言われています。それは平地でアクセスの良い福江島(現在の五島市)のことで、リアス式海岸の入り組んだアクセスの悪い上五島地区では、発見されずに済んだ様です。折に触れて、撮影した上五島教会群はこちらをご覧下さい!
2005.07.30
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上五島航路にはフェリーの他、次のような高速船が就航しています。昔日のフェリー船のみ就航の時代と違って所要時間が半分以下となって便利となり、十分日帰りで往復することが可能となりました。航路 :長崎~鯛之浦(上五島)船名 :ウォータージェット推進 えれがんと2総トン数:131トン航海速力:34ノット(時速63km)旅客定員:230名船会社 :五島産業汽船航路 :長崎~奈良尾(上五島)船名 :ジェットフォイル ぺがさす2総トン数:163トン航海速力:43.0ノット(時速80km)船会社 :九州商船航路 :佐世保~有川(上五島)船名 :通常高速船 たいよう航海速力:30ノット(時速56km)船会社 :九州商船この写真は鯛之浦港に停泊中のえれがんと2号で、如何にも高速船らしい流線型の形状になっています。しかし、離島航路の採算性は難しい様で「えれがんと2号」の後ろに見えているのは総トン数300トンの「ビッグアース2号」ですが、今年から運行中止となりました。西海国立公園にあって風光明媚、カトリック教会も多くある上五島も夏の観光シーズンは良いのでしょうが、離島の人口過疎化が通常時の乗客率減少に拍車を駆けているようです。有川航路でも、従来就航していた総アルミ船体の高速船「シーグレース号」が、やはり今年から中止され、小型の「たいよう号」に変更されたのです。やはり近年の漁業不振から、地場産業が漁業中心ですと地域活性化は難しく、観光立地・国境に近いことを利用した貿易振興などが必要かも知れません。長崎県の教会群をユネスコ世界遺産にしようとする動きがありますが、それが活性化への契機になれば良いなと思っています。そんな中、小笠原TSL就航絶望のニュースが読売新聞で再度取り上げられていましたが、結論的には離島航路の商業採算性に否定的と判断された様です。国策として約115億円を投じて開発・建造された世界最高速の大型客船「テクノスーパーライナー(TSL)」について、国土交通省と東京都は、今年11月に予定していた小笠原航路(東京~父島)への就航を断念する方針を固めた。海運会社が原油の高騰で採算の見通しが立たないとして同船の運航に二の足を踏む中、同省と都は赤字が前提の公費助成は不可能と判断した。“夢の高速船”は実動も見ずに廃船となり、財政投融資資金などで賄われた巨額の建造費が無駄になる可能性が強い。TSLは船体をホーバークラフトのように空気圧で浮かし、大型船では世界最高速の時速約70kmを実現。今年11月、片道約1000kmの小笠原航路に就航する予定だった。しかし今年6月、船を所有する政府系企業とリース契約を結んでいた「小笠原海運」が、昨夏以降の原油高に伴う燃料費の高騰から、年約20億円の赤字が見込まれるとして、契約破棄を通告した。このため、国交省造船課と都は、計50億円でTSLを買い取り、小笠原海運へのリース料を年約8.5億円から2億円前後に引き下げることを計画。それでも見込まれる年10億円程度の赤字は、新規の補助金を設けて補てんする見直し案を検討した。だが、財務省が「助成額が大き過ぎるうえ、抜本的な解決になっていない」としたほか、国交省内にも反対意見が強く、造船課は今月中旬、来年度予算の概算要求に見直し案を盛り込まない方針を都に伝えた。小笠原海運や同社の親会社の日本郵船は「助成が受けられなければ、裁判になっても契約はしない」としており、同社側による運航中止は決定的となった。テクノスーパーライナー(TSL)はホーバークラフトの様に空気浮力し、推進はウォータージェット推進となりますが、空気浮上に動力を要しますので経済性はかなり限定されます。ホーバークラフトも一時は、瀬戸内海、九州大村湾、先島諸島などで導入されましたが、経済性に問題が多く、今では大分空港発着1航路となってしまっています。小笠原テクノスーパーライナー(TSL)の日記はこちらにもあります
2005.07.29
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五島列島は何処に行っても透明度の高い海水が見られます。これはリアス式海岸による所が大きく、殆どが切り立った断崖が傾斜のきついまま海に入って海岸線を構成していることに寄ります。蛤浜海水浴場は例外に近く、有川湾の奥深い入江に位置していますので、珍しく遠浅の砂浜となって、新上五島町随一の海水浴場とされています。その名の通り、昔は驚く程蛤貝が生息していたのでしょうか、砂浜は純白に近く、将に白砂青松の海水浴場となっています。平成13年には日本の水浴場88選にも指定され、島外からも多くの海水浴客も訪れる様です。この写真は「海の日」の翌々日、午後1時頃撮影したもので、大潮の干潮時となっていましたので、すっかり潮が引いて200m程歩きませんと水辺には行けません。珊瑚礁の海浜は少し桃色がかっていますが、此処は貝の細片で純白な海浜、晴天の干潮時には驚く程日焼けしてしまいますので要注意です。未だ学校も夏休みになっていませんでしたので、昼食を済ませた家族連れも殆ど帰ってしまい、広い海水浴場が貸し切り状態となってしまいました。正面に見えるのは榎津港ですが、町村合併の影響から旅客船の発着が無くなってしまいました。榎津港は右端に見えます「竹ノ子島」が天然の防波堤となる波静かな良港で、江戸時代から昭和迄水産物輸送の拠点だったのですが、人工の防波堤の出現により近年有川港にその役を譲ることになってしまった様です。これで合併前の新魚目町区域には旅客船が来ないことになって不便となりましたが、大きな町が小さな町を吸収して、その不便さを省みないのが合併の本質なのかも知れません。正面奥に見える山は標高382mの番岳ですが、右奥遙か雲間の奥に見える北魚目番岳は標高443mあって、新上五島町最高峰となっています。水浴場88選についてはインターネットで次の様に紹介されています。水浴場は、一定の監視の下に遊泳場としての利用に適すると判断された水辺であり、日本全国で1,297箇所、年間延べ8,500万人が利用している。環境庁(当時)では、1973年以来毎年水浴場の水質を測定し、水浴場の「適・不適」を評価してきたが、人と水とがふれあう場としてもっとも親しまれている水環境のひとつであり、地域の個性を形作っているとともに自然の水循環の一部を構成する重要な水辺としての水浴場という観点から、1997年の懇談会報告を受け、水質評価方法を改正するとともに、水浴場における自然環境や安全性の確保等幅広い視野からの評価を行うこととした。1998年に「日本の水浴場55選」を選定・顕彰し、その後88選となっている。
2005.07.28
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長崎港から五島航路の船に乗り、暫くしますと斜張り橋の下を通過します。この橋は湾口を跨いで長崎市内をバイパスして、西彼杵半島と野母崎町のある長崎半島を結ぶ様になります。昨年は未だ連結していませんでしたが、今年は橋が繋がって完成間近の様です。この写真は昨年8月下旬のものです。此処を過ぎますと右側の岸に、美しい白亜でゴシック様式の教会を見ることが出来ます。この教会には行ったことが無いのですが、国宝の大浦天主堂に次ぐ古さで、1881年に建てられた「神の島教会」です。最も神の島と言いましても、島にあるのでは無く、海岸近くの岩壁高台に建てられたもので、車でもアクセス出来る筈です。西方に開いた位置にありますので、午後の日差しを受けますと、白亜の教会は一際その美しさが際だちます。近頃都会にも多くなった結婚式の為だけのもので無く、信仰の対象として永い間、慈しまれたものだけに尚更なのでしょう。岬の岩壁には白亜の聖母マリア像も1984年も建てられ、紺碧の海に映えているのも見えます。この像、高さが5m近くあるそうですが、遠方の船から見ている為か、ポツンと白い像があると言うことしか確認出来ません。上記の写真で、右側岩壁の上に見える白い像がそれです。
2005.07.27
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カステラと言えば福砂屋と文明堂が双璧ですが、福砂屋のカステラは卵たっぷりのしっとりとした食感と、底についたザラメ糖のシャッキリと舌触りが特徴で、文明堂を一歩リードしている様に思います。福砂屋のカステラは生地作りから窯入れまでを一人の職人が手がける製法を受け継いでいますので、東京にも製造工場はあるのですが、レシピは同じでも出来上がりが微妙に違って、長崎で購入したカステラとは一味違うと言われています。福砂屋は1624年、現在県庁がある付近に寛永元年に創業し、六代目の代となった1770年の頃、現在の船大工町に移転したそうです。思案橋大通りから入った小径に面していますので、車が来ると避けるのも大変で、店の前の通りは現在では驚く程狭い感じがします。店の所を製造工場専用にして、本店を来客に便利な大通りに面した場所に移住しないのは、伝統を重んずる格式でしょうか?船大工町から長崎丸山遊郭へ向かう辺りに思案橋と思い切り橋の二つの橋があり、遊郭を前にして「行こうか、戻ろうかの思案橋、あきらめて帰る思い切り橋」と言われて人の往来も多かった様ですが、現在では跡地しか残っていないのは残念です。1885年(明治18年)発刊された、長崎の著名な商店を全国に紹介するために編集された銘店図鑑で、現在の福砂屋本店の様子が細かに描かれていますので、この建物は少なくとも120年は経過している様です。昔良く見られた中二階建ての小さなお店ですが、店員も良く教育されているのでしょうか、親切で気持ちよく応対してくれますので、長崎訪問の際は行って見ることをお勧めします。
2005.07.26
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3ヶ月振りに空き家となっている家内の実家に行き庭の掃除をしました。周囲の石垣の内側には目隠しの為、細竹を植えてあるのですがそれが庭中に広がって竹藪と化していましたので、30本以上斬って見栄えを良くしました。地下茎を断って見ようと掘って見ましたが、思ったより地下茎が深いことと木の根と錯綜していることから上手く行きません。斬った竹の処理が大変、葉や小枝は一枚16円の町指定のポリエチレン処理袋に入れ、幹は40cm以内に切り揃えて、紐で括ってゴミ集積場に持って行かなければなりません。結局ゴミ袋は20袋余、竹幹の束も20束以上となりましたので水曜日、金曜日、月曜日と三日に分け、作業用一輪車で各々2~3往復して運びました。50年前に築庭した庭は雑草が生い茂っていたので、歩き回れる様に草刈をしました。この庭にはムカデがいますので、噛まれない様に靴と軍手を使って注意深く行う必要があります。1週間掛けて漸く石灯籠が見えて来る程となりました。真ん中に見えるのは鳥もちの双樹、樹皮に傷を付けますと粘着状の樹液が出て来ますので篠竹に絡めて蝉取り等に用いることが出来ます。庭木として残っているのは珍しいそうです。この庭には、石を周囲に配置した池があります。以前は鯉が泳ぎ、睡蓮も咲く見事な池だったのですが、空き家となってからは給水を止めてありますので雨水で水たまりがあるだけとなりました。それでも、トンボのヤゴが生きていて孵化して行きますが、今年は5月中旬から8月中旬まで雨が殆ど降らない渇水状態となって干上がり、殆ど死滅してしまった様です。今回の滞在時、丁度台風が通過して十分雨が降りましたので、池の水面も回復したのですが、時既に遅く、例年に較べて庭を飛ぶ蜻蛉の数が激減してしまいました。世話見も悪いので池の周りの灌木も枯れて減ってしまったのですが、皐月、クチナシ、バンマツリ等は何とか生命を保っている様でした。
2004.08.30
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今年8月1日町村合併により、下五島は五島市、上五島は新上五島町が誕生しました。新上五島町は奈良尾町、若松町、有川町、上五島町、新魚目町の5町合併で26000人の町になったのですが、往時は各々8000人合計40000人いた人口も半減近くに激減したのです。嘗て、五島鰯の本場と呼ばれ漁業が盛んで、リアス式海岸に富んで風光明媚な所として知られた五島列島も漁業不振に陥り、人口減が未だ止まらず続いています。昔日には漁業関係者があまりの大漁を祝して、公民館を一括寄付したりすることもあった様ですが、夢の又夢となり、漁業不振と共に、若い世代の就業に応じられる産業が無いことで、島外への流出が止まらず、段々と老人と子供の島になって行きました。そこで離島振興助成金による護岸工事、道路建設等の公共工事に頼って生活をする様に変貌したのです。リアス式海岸の磯が埋め立てられ海岸道路になり、各漁港には防波堤、波止が、波打ち際には大量のテトラポッドが、意味もなく増強されて行きました。見て下さい、この夥しいテトラの数と高い護岸・防波堤工事の結末を!正面に見える磯は、サザエが豊富な所で、背の立つ浅い所でも手づかみで取れていたのですが絶えてしまった様です。見えにくいのですが、此処でも防波堤と山林から土石流防止柵が設けられましたので、山から栄養が途絶えてプランクトンが育たず、繁茂していた海藻も死滅して海焼けの状態になってしまいました。以前は海藻で茶色に見えた海中も岩が剥き出しで白くなってしまい、海が死のうとしています。昔は小学生達が海水浴をしながら、サザエを取って磯で焼いて食べていたものでした。五島の生きる道は、環境汚染の無い養殖漁業の推進、日本には珍しいカトリック教会等の観光資源活用、国境を利用した中国・韓国との海上通商、等を自立的に活発化させることにあるのだと思うのです。本日(8月29日)行われる新町長選挙、旧態依然たる公共事業依存を叫ぶ候補者二人の争いに過ぎませんし、その一人は建設業社長の弟で兎角、その建設会社への発注肩入れが噂される人物、町として自立するには程遠い感があります。
2004.08.29
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若松瀬戸の奥まった入江、隠れ切支丹にとっては最善の隠れ場所、新上五島町桐郷には桐教会があり、上五島南部の中核教会となっています。桐郷の隣が古里郷ですので、通称両部落を合わせた「桐古里教会」と呼ばれていますし、「きりふるさと」と言うロマンチックな響きもしますので私もこちらを使っています。今回訪問したのは丁度潮流の激しい時間帯であった様で、桐古里教会前の水路がまるで川の様に流れていました。教会前の階段から眺めていますとボートが流れに抗していきますので、写真を撮って見ました。僅か20m幅程の水路ですが、透明度の高い海水が左から右に向かって滔々と流れている様子が少しは再現出来た様な気がします。階段を下りて、その水路を眼の高さで目前に見ますと、水路の底まで透き通って見えます。急流から外れた淀み水の中には色とりどりの小魚(特に明るい青緑色の魚は目立ちましたがベラの雄かも知れません)、ウニ等が沢山いましたので写真を撮りましたが、水面のハレーションが邪魔して上手く行きません。その水路の入口は小さな漁港になっていますが、其処から見る「桐古里教会」は山の緑、海の青さに映えて、まるで一幅の絵と化します。但し、この写真は今回のものでなく、2年前の天気の良い日に訪問した時のものです。
2004.08.28
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五島に行きますと必ず最低1回は西海国立公園の白眉「若松瀬戸」を見に出掛けます。今回の若松瀬戸行は途中一寸先が見えない程の豪雨となりましたが、若松大橋の袂にある「風の展望台」に到着した頃には、幸いに雨が上がってくれました。此処は若松瀬戸を展望するには最高の場所で、この日は少し薄日も差して来たのですが、残念ながら遠くは煙って見えず、近くは海の青さが際だっていませんでした。そこで橋を渡って若松島に行き、橋の上から若松瀬戸を見ましたら、丁度瀬戸の急流が現れる時刻だった様で、小さな渦流が多く見えていました。若松瀬戸は若松大橋付近で300m以下の幅に狭められていますので特に急流となる様です。橋脚の後流には渦が白波を立てていて見応えがありましたので撮影して見ましたが、動きの速い瀬戸をデジカメの静止画像で再現するのは難しいものですし、海の青さも今一です。此処は釣り人にとっては垂涎のポイントで、5kgを越える大鯛が良く出ることでも知られています。晴れた日の「風の展望台」からの若松瀬戸展望はこちらでご覧下さい!
2004.08.27
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新上五島町青方の大曽郷に煉瓦造りの美しい教会があります。青方湾の静かな入江の高台に位置しているのですが、この入江出口には国家備蓄の海上浮体タンク石油基地があって、何かそぐわない奇妙なコントラストを醸し出しています。昔は海岸に沿った小さな道を使って大曽郷に行きましたが、石油備蓄プロジェクトに対する地域支援金が多く投入されましたので、海岸を埋め立てて造った広い道路で行くことが出来る様になりました。1915年に完成した煉瓦造りの教会は正面に八角ドームの鐘楼があり、色の異なる煉瓦を規則的に配置する意匠の工夫が見られます。しかし、やはり美しいのは教会内部で、リブ・ヴォールト式と呼ばれる木造アーチ式天井、半円アーチの窓には西独製の鮮やか花柄ステンドグラス、が教会の雰囲気を高めます。「ヴォールト」とは、アーチの原理を利用して作られた石造やれんが造りの屋根、天井のことを言い、内輪に突出した棒状のリブを持つものをリブ・ヴォールト(Rib-Vault)と呼びます。木造であれば長い柱と梁が製作可能ですから、本来アーチは必要無いと思うのですが、何とか西欧の教会に様式的にも近づけたいとした日本の大工棟梁による工夫の結果の様です。「鉄川与助」とインターネットで出てくる筈ですから、検索してみてください。上五島丸尾郷に生まれた彼は、上五島だけでなく下五島、長崎、天草等でも数多くの教会を設計施工したのです。彼の手がけた教会は、此処大曽教会の他、石造りで知られる頭が島教会、煉瓦造りの青砂ヶ浦教会、木造の冷水教会等がありますが国の重要指定文化財となっている所が多いのです。工夫と雰囲気に満ちた教会も多く、長崎県内の50余に数えられる教会群の中核として世界遺産申請が進められているそうです。
2004.08.26
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自宅を6時半に出て、駅まで歩き7時発の空港バスに乗って羽田空港に着いたのは8時半、お盆休み明けの8月16日は首都高速が空いていて予定より30分早く着いてしまいました。空港ラウンジで珈琲を飲んでゆっくりとしましたが、ラウンジ内も何時も混雑が無く1時間余を快適に過ごしました。長崎空港到着は多少遅れて12時10分、空港バスに乗ってノンストップで大波止に着いたのは13時にもならない時刻でした。高速船の出航時刻は15時ですので時間にゆとりはありますが、あたふたするのも面倒なのでターミナルにある飲食店でチャンポンを食べて後、ベンチに寝転びながら雑誌など読んでいました。長崎湾は細長く入り込んでいますので、長崎港から湾外に出るのに昔は30分も掛かったのですが、五島行きの高速船はウォータージェット推進で38ノット(時速65km)もありますので、15分ほどで湾外に出てしまいます。湾口近くでは、大きな斜張り橋が湾を跨ぐ様に建設途中でした。長崎は平地が少なく坂の町、且つ細長い湾が対岸との交通に支障となって来ましたので、地域交流を含めて経済活性には良いことかも知れません。湾外に出て一路、上五島の鯛ノ浦港に向かいますが今回は、途中飛び魚が飛ぶのを随分見ることが出来ました。長く飛ぶものは100mほど海面を滑空していましたが、何か久しぶりに海を渡っていると言う感じがしました。長崎では飛び魚を「アゴ」と呼び、干物にしたものを塩アゴとして酒の肴に(炙ってからハンマー等で身をほぐして食しますがこれが美味しい)、焼いたものを「焼きアゴ」として出汁魚とします。白身で脂の乗っていない淡泊な魚肉なのですが、饂飩汁としては最高の濃厚な出汁となり、釜揚げ饂飩でも薄まることがありません。普通の煮干し・イリコと違って長時間掛けて出汁を取るのが秘訣ですが、手間暇を掛けるのが面倒なのが難点です。近頃は粉末状のパック製品も市販されて便利になりましたし、近頃都会でも「アゴ出汁スープ」のラーメンも人気を博している様です。昔は飛び魚のみならず、海豚が船に伴走して泳ぐ姿も見られたのですが、残念ながら、其処までは無理の様でした。もっとも、38ノットの速さ(65km/Hr)は車並みですから、イルカも追えないかも知れません。
2004.08.25
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今回の五島行でも観光バスを使った五島の教会巡りの団体と会うことがありました。人気がありますのは、美しい煉瓦によるロマネスク様式の大曽教会、小さな入江に建つ木造で椿装飾の中浦教会、等の様です。中浦教会を通り過ぎる時は、団体の人達が教会内部を見学したり、入江を眺めたりしながらしていました。中浦教会を過ぎて、国道384号線を南下しますと小さな集落「真手の浦」となり、此処にも教会がありますが教会巡りツアーに組み込まれていないのでしょうか、殆ど観光客の姿はありません。九州本島の外海地方から移住した信徒によって信仰の種がまかれた集落と言われ、初めは若松町桐教会に属した巡回教会でしたが、1975年に神父が配属されてから真手ノ浦小教区として独立、焼崎教会等を巡回教会として今日に至っています。教会自体は1956年に建てられた、比較的新しいもので、木造の慎ましやかな祈りの為の教会でした。上五島に散在する教会に就いては、こちらの写真集をご覧下さい!国道384号線は下五島である福江島の富江から福江市迄島内を一周しますが福江で中断し、海を隔てて上五島の奈良尾から有川迄へと続きます。海を介して繋がっている国道は全国的にも珍しいかも知れません。
2004.05.31
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魚目という名前は、鎌倉時代の文献から登場しますが、古くは「魚目浦」といわれ、魚が群れをなして集まることから、“うおのめ”と呼ばれていた様です。しかいながら、2004年8月の町村合併で、800年に亘って使われた歴史ある地名が消えることになりました。現在の奈良尾町、若松町、上五島町、有川町、新魚目町が合併して、新上五島町となるからです。明治初期の廃藩置県後は、魚目村南部及び北部と呼ばれていましたが、1888年に分村、1956年に国の町村合併促進法によって二つの村が合併し、新魚目町となりました。新魚目町の南に位置する榎津港は、竹の子島が天然の防波堤になっている良港ですが、人工テトラポッドが多すぎて景観が損なわれています。榎津の地名の由来は、エノキが多く群生していたことで、樹齢数百年のエノキの大木も残っています。12世紀末に豪族宇久氏が榎津に上陸し統治、その後五島藩管轄となります。1661年この地方一帯が五島藩と富江藩に分かれ、魚目は富江藩管轄となります。その後漁業権で両藩は紛糾し、捕鯨権では江戸公訴にまで発展、幕府の裁決で漁域は定められた様です。上五島の島民は平地が少ない為漁業を頼りに生活して来たのですが、魚目の漁業は明治開花と共にマグロ、イワシ、ブリ漁が盛んになり、榎津港には大漁期には鮮魚運搬船も活発で大いに発展しました。今では定置網漁の水揚げが開発や埋め立てによって減少し往時の面影はありませんし、若者は島を離れてしまい、老人ばかりが残る状態となりました。しかし、平地が少ない上五島にあって浅い海岸線の続くこの一帯は、埋め立てによる商業施設の整備が進められていますし、台風の影響の少ない榎津港の拡充によって、歴史ある地名が消えても上五島地域再生の中核地区となる可能性は大きい様に思います。1203年に設立された榎津神社から榎津港、有川湾を展望した写真です。対岸正面に見えますのは上五島随一の蛤浜海岸、驚く程遠浅の海浜です。
2004.05.30
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上五島榎津港の入口に立つ無人の島。 切り立った崖がそのまま海に入り込んでいますので、周囲は相当水深があり怖い程です。客船も安全航行の為、この狭い海峡を通って榎津港に入港して来ますし、出港して行きます。対岸の磯は入り組んだ岩場で、昔は海藻が豊かでサザエが沢山生息していましたので、潜りが出来ない人も簡単に取ることが出来ました。しかし、離島振興の一環として行われた海岸でのテトラ・ポッド敷設が海流の流れを変化させ、磯の奥までは新鮮な海流が来なくなってしまい、海藻が死滅する所謂「磯焼け」状態となり、サザエ等は激減してしまいました。今でも、少し波打ち際から離れた水深の深い所では、海流変化が軽微でサザエも生息している様ですが、潜りが出来ないと取れません。観光情報にも登場しない此処の写真はインターネットにも載っていませんので本邦初公開です。上五島榎津港に長く延びた波止の防波堤から竹ノ子島を撮影したものです。正面に見える島の小さな砂利海岸は昔手漕ぎ船で渡り、子供達も水遊びをしたそうですが、今は全く人が上陸することが無くなってしまいました。島の右側には鮫もいると言う噂もありますが、定かでなく単なる噂だと思います。左に小さく見えるのは水深が浅くなる場所を示す灯台、遠く見えるのは野安寿、山安寿と呼ばれる無人島です。野安寿、山安寿と呼ばれる無人島に就きましては、昨年8月の日記に書きましたが、スライドショーが機能しませんので書き換えました。こちらをご覧下さい!
2004.05.29
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芦山(ろざん)の滝は、三方を山に囲まれた中通島の南端に近い岩瀬浦郷にあります。高さ約100メートルの断崖から落下する瀑布は五島列島と言うより長崎県随一です。山嶺から女滝(72メートル)、小さい男滝(約40メートル)の滝が滝壷付近で合流するところから別名夫婦滝とも呼ばれ、浦内に注いでいます。上流に飲料水用の水源池を設置しましたので通常は水量が少ないのが残念ですが、雨の降った後では水量が確保され見事な滝が鑑賞出来ます。岩壁が垂直ではありませんので滝は岩肌を迸る様に落下し、靄の中に浮かぶ情景や自然美の織りなす景観は、見応えがあります。道路脇の展望所には小さな銘板があり、それによると「滝の名は今から200年前、中国華南出身で帰化した人が郷里の「芦山の滝」に似ているところから、名付けたと言われている」と書かれています。廬山と言えば夏目漱石の「草枕」の一節にある“悠然として南山を見る”と陶淵明が読んだ中国の名山ですが、芦山と廬山は同じなのかは確かめておりません。今年5月中旬は天候が不順でしたので、見事な景観を満喫出来ましたが、写真撮影しませんでしたので、上記写真は昨年8月のものです。何しろ女性上位となっている滝は全国でも珍しいのでは無いかと思います。その他、上五島の最高峰番岳(442m)の麓にあるキリシタン集落にも「大水の滝」がありますが、道路からは見えませんので残念ながら未だ見ていません。尚、岩瀬浦郷は日本で最初に魚群探知機が導入された漁船があったことで知られ、NHKの「プロジェクトX(エックス)」で紹介されたことがあります。ここで造られる蒲鉾が好きなのですが、水産業の衰退も激しく、数多くあった水産加工業者も二軒に減ってしまっているのは残念なことでした。
2004.05.26
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バンマツリ(蕃茉莉)とは変わった名前ですが、「蕃」は外国,「茉莉」はジャスミン属の茉莉花のことで、「舶来のジャスミン類」と言う意味ですが、ジャスミンの仲間では無くナス科の植物、ジャスミンの様な芳香があることから名付けられた様です。原産地は中南米で、5弁の花が紫色で咲き出し、日にちが経つに連れ白色に変化する熱帯性花木で、霜が降りない地域では庭木として楽しめるとのことです。学名:ブルンフェルシア(Brunfelsia)花期:4~7月この花は丁度開花時期だった様で、長崎市グラバー園でも見受けられましたし、上五島では多くの家で庭木として楽しんでいるようです。海に近く温暖な気候なので地植にしても問題ないのだろうと思います。空き家になっていた家内の実家でも、雑草だらけの庭で二本のバンマツリ(蕃茉莉)が咲き出しました。庭に面した戸を開けると良い匂いがして来ました。滞在を終える頃には花弁は殆ど白く変わり、一部は落ちてしまいました。冬は寒風吹き荒ぶ多摩丘陵の自宅ですので、この木の子供は鉢植えにしていますが、五島行から帰って来ましたら咲き出していました。一週間程、雑草を取り除き、木々の下枝、延びた上枝を剪定して庭も綺麗になり、奥にある石灯籠も見えて来て、其処に行く飛び石も雑草の下から現れて来ました。この庭は造ってから50年以上経ち、空き家で世話が行き届かないこともあり、銀木犀、泰山木等が枯れたり、倒れたりしてしまいましたが、とても良く設計された庭です。でも気を付けないと、暗い所にはムカデなども生息していますので要注意、関東に生息する黒い胴体・オレンジ色の足のムカデと較べて薄い色なのですが、毒性はもっと強い様です。
2004.05.25
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五島列島の上五島と呼ばれる中通島と若松島、その間の海峡は若松瀬戸として知られ、若松大橋の整備によって両島は地続きとなっています。しかし、国道384号線ですがくねくねとしたリアス式海岸道路を車で走るよりも便利とのことで、昔から渡船・海上タクシーは未だ残っているようです。 海峡には小さな島々が点在し、潮の干満によって生ずる急流はまるで川の様に滔々と流れます。若松瀬戸は、その風光明媚さから西海国立公園の白眉だと思われます。若松大橋の袂の駐車場から、「風の展望台」には徒歩5分程で登れますが、其処からの眺望は絶品で、海の青さが違います。楽天日記Webサイトでの西海国立公園の紹介はこちらです!今年5月の五島行は天気に恵まれず、12日滞在で晴れの天気は僅か2日、若松瀬戸に出掛けた日はその内の貴重な一日でした。曇り空では海が青く見えません!
2004.05.23
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近頃、東京ではめっきり少なくなったトンボ達、ましてヤンマは見る機会がありませんが、自然が豊富に残っている五島列島では個体数が多いようです。今回の五島行では、一寸時期が早かったのですが、オニヤンマの羽化を二匹、麦藁トンボの羽化もやはり二匹目撃しました。住む人もいない家内の実家、裏庭には池があって昔は錦鯉が泳いでいたのですが、空き家になってからは通水を止めています。しかし、雨水だけで多少とも水位が保たれていますので、沢蟹なども住み着いている様です。其処にはトンボ達がやって来て卵を産み付け、池の中にあるクロレラを食べてかヤゴが育ち、時期が来ると羽化する様です。ある朝、サナギの殻を脱いで羽化した後、近くにあるクチナシの枝で休憩するオニヤンマを見つけました。地上すれすれの位置ですので、撮るのが大変でした。翌日も気になって探して見ましたら、梅の木の根元付近の日陰に、脱皮したばかりのオニヤンマと麦藁トンボが並んで止まっていました。地上に近く暗いので写真が上手く撮れません。そこで、オニヤンマの方だけサナギの殻ごと取って近くの明るい木の枝に、停まらせることにしました。殻から足を放して、私の手に移動して来ましたが、何とか移し換えました。羽根はつやつやと光っていてとても柔らかそうな感じでした。成虫の大きさは約10cm、羽化殻の大きさは5 cm、日本にいるトンボの中で最大の種類で、飛んでいる姿は実に堂々としています。腹はしっかりとして丸く尻尾が少し大きくなってアクセントがあり、黒と黄色のまだら模様となっていて、羽根翅に特異な斑紋が無くて透き通って美しく、緑色の目は宝石のような美しさで気品が感じられます。体が大きいだけあって、ヤゴが成虫になるまで3~4年もかかるそうです。幼虫は平地、丘陵地、低山地の小さな流れ、湿地、滞水など広範囲な水域に生息していると言われています。
2004.05.22
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世界で初めての「洋上石油備蓄基地」建設の為、折島住民の230人全員が離島となり、対岸の上五島町青方地区に移住となりました。日石が中心の上五島石油備蓄(株)は地元補償の為、備蓄会館、矢堅目(やがため)周回道路等の土木工事が実施しました。1988年からは世界で初めての洋上石油備蓄基地が操業を始めましたが、生産工場操業では無く備蓄目的ですので、地元雇用者数増加にはあまり貢献していない様に思います。折島住民に加えて近隣の信徒達が転居移住を始めたため、信徒数が急増、信徒の努力により上五島町青方地区に1974年建立された教会です。この青方教会も補償費の一環として建設されたのでは無いかと思われます。五島の教会と言いますと、ひっそりと集落の中にある小さな教会を思い浮かべますので、町中の青方教会は通り過ぎるだけで訪問したことはありませんでした。上五島地区では最新、最大規模の教会でエレベータも装備されています。現在は大曽教会の巡礼教会ですが、内部の大きさも十分で、近い将来、中核教会となるのでは思われます。青方教会は大きな町でしっかりと自己主張している様に思われます。上五島に散在するその他の教会はこちらをご覧下さい!
2004.05.21
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上五島奈摩湾の入口に立つ円錐形の奇岩。 その周囲は入り組んだ岩場となっていますので絶好の釣り場の様ですが、陸伝いに行くのはとても無理です。水路を介して隣り合う丘は町営の矢堅目公園として整備されていますので、丘上に設置された展望所から尖塔を眼前に見ることが出来、側面下を見ますと将に断崖絶壁、遠くには大きく東シナ海が広がる絶好の景勝地です。今回は五島行では天気が悪く、一度しかこの景色を楽しむことが出来ませんでしたし、写真撮影しませんでしたので、自宅にある油絵で代用させて頂きます。湾口から遠く北に見えるのは全島芝生の島と言われる小値賀島。似首(にたくび)峠から見る、美しい奈摩湾、青砂ヶ浦の湾口に立つ矢堅目の尖塔、この景色は将に絶景です。この写真は6年前の夏のもので、対岸の青砂から見る矢堅目の尖塔も素晴らしいのですが、似首峠からの景観の方が雄大さで優るようです。似首の地名の由来:「似」は「仁田」又は「仁多」として解釈され、「首」は道が細くなって通じる「峠」として使われる様で、全国的には「仁田峠」「仁多峠」として地名が残されています。只「似首」と言う漢字を充てる地名は上五島にしかありません。此処は平家の落人伝説もあり、初めは平家落人の首でも流れて来たのだと思いましたがそうでは無いようです。大きい画像はこのWebサイトに入れましたので、こちらをご覧下さい今年8月、中通島・若松島は町村合併で一つの町「新上五島町」となります。
2004.05.20
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国宝とされた大浦天主堂は美しい木造ゴチック式聖堂で、正式には日本26聖人殉教者天主堂と言うのだそうです。1865年プチジャン神父によって浦上村の潜伏キリシタンが発見され、「信徒発見」のニュースはローマへ伝えられ、世界カトリック史上に残る「東洋の奇跡」として教皇ピオ9世を感激させたのですが、キリシタン禁教は1873年まで継続されたままで「浦上四番崩れ」「五島崩れ」と呼ばれるキリシタン弾圧と虐殺が続いたのは何とも悲しい歴史です。大浦天主堂の入口に立つこのマリア像は一際清楚で美しい像で、「日本の聖母像」として知られています。又堂内は写真撮影禁止ですので、入場券からスキャンした主祭壇の様子をご覧下さい。大浦天主堂に隣接する資料館ではキリシタン弾圧などに関する多くの資料が展示されていましたが、出口展示室にコルベ神父についての展示がとても印象的でした。コルベ神父は、1930年来日、大浦天主堂下の洋館を寓居として教区神学生に哲学を教え、日本語による『無原罪の聖母の騎士』誌を発行。 1936年故国ポーランドに帰国するまで精力的に出版物による布教、邦人司祭の養成に活動しました。帰国後ナチス・ドイツの 強制収容所アウシュビッツに収容され、妻子ある一人の囚人の身代わりとなって餓死刑を受けましたが、信仰の力に寄るものか並はずれた体力の為か、死ななかったので薬物注射によって毒殺されたと記録されていますが、まるで釈迦の自分自身が飛び降り自殺をして空腹の虎の餌となったと言われる「捨身飼虎」の逸話そのものです。1982年来日したヨハネ・パウロ二世によって聖人の位に挙げられました。
2004.05.19
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5月7日晴れではありましたが靄った天気でしたが羽田-長崎定期便航空機からは富士山が良く見えました。長崎空港から長崎市大波止に到着した時は晴れ間がありましたので、五島行きの高速船出航迄には約4時間程余裕がありましたので、少し散策して見ることにしました。チャンポン発祥の店「四海楼」で遅めのチャンポン昼食を取り、大浦天主堂、グラバー園を見学しました。おそらく40年以上も経っていることもあったのですが観光地化して全てが綺麗になっているのには吃驚しました。天気が下り坂で、段々と曇り空になってしまったのは残念でした。昔語りをしても笑われるだけですが、45年前には大浦天主堂は内部見学が許されていませんでしたので、「日本のマリア像」からガラス戸を通して内部を垣間見るだけでした。グラバー園もグラバー亭だけだったと思いますが、今は動く歩道・エスカレータも整備され、一番高い所にある三菱重工ドックハウスまで苦も無く上がって行き、坂道を下りながら5つ程の洋館を効率的に見ることが出来る様になっていました。
2004.05.18
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富士フイルムのデジタルカメラ購入者用の「ある写真収蔵HP」が11月末で閉鎖され、12月から「新しい写真収蔵HP」に統一されました。私がアップしていた写真も自動的に消えて仕舞いました。何故HPを変更したのかは何回かメールで通知された様ですが、あまり読んでいませんので分かりません。両方とも無料HPなのですが、今回のHPでは収蔵枚数は100枚、写真アルバム数は3冊と此処のHPでも制限がきつくなった様ですので、参加者増加によるサーバ容量増加を押さえ込むことにあった様に思えます。消えて仕舞った写真は自分のパソコンのHDDにありますので、仕方無く内容を少し変更して「新しい写真収蔵HP」に再度アップしました。数年間に亘って撮影しました「上五島の教会」を整理してアップしましたのでご覧下さい。教会外観と内部写真のセットで26枚収蔵しました。五島列島には明治から昭和に掛けて建築されたカトリック教会が50数棟あります。下五島と言われる福江島に約15教会、上五島の中通島・若松島に29教会あり、全国的に見ても教会の半数が長崎県内にあると言われています。五島の教会群に就きましては8月25日の日記に記載済みですのでご覧下さい。NHKの地上デジタル放送開始によって12月初旬に放送された世界遺産であるスペインのサンチャゴ・コンポステーラ教会の豪華とは較べものにはなりませんが、隠れキリシタンとして密やかに信仰を守り続けて来た人達が、明治キリシタン解禁令以降信仰を取り戻した喜びで建立した教会群には、豪華さに劣ることが無いロマンが漂っています。ユネスコ文化遺産への登録運動「長崎の教会群を世界遺産にする会」が進展しているのか気に掛かる所です。この様に全国区になっていないながらも生きた文化財であり観光資源である教会群が登録となれば、「自然豊かな離島での世界遺産観光」が世界各国からアクセスされることとなり、日本政府の特区指定も受けて地方活性化に弾みがつくと思います。
2003.12.10
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五島列島の中通島新魚目町の西沖に、小さな無人島が二つ目立って見えます。特別に知られた島でもなく、地元の人以外には知る人も殆ど無い島です。その沖の島の向こうは遠く平戸島、佐世保、彼杵半島なのですが、海の彼方で見えませんので、将に沖に浮かぶ孤島なのです。名前が付けられていて、二瘤の山があるのが野案中(のあんじゅ)、平坦に見えるのが山案中(やまあんじゅ)と呼ばれています。音だけは合っているのですが漢字での当て込みは私の想像です。時々どちらがどうなのか分からなくなりますので、知人に教えられた「山案中に山無し」等と言われているの思い出して識別しています。小さな島であり無人島なのですが、何かロマンを誘います。朝に新魚目町榎津郷から見た野案中、山案中ですが竹ノ子島に半分隠れた様な形で見えます。夕刻には新魚目町丸尾郷の丸尾教会から眺めて見ました。上五島空港は右端に見える頭ヶ島の山頂に位置しています。「あんじゅ」と言うと、森鴎外の小説「安寿と厨子王」を思い起こさせ、何か生き別れを秘めた悲しいロマンがある様な気がして、何とは無しに眺めてしまいます。五島の旅行案内書にも記載されたことはありませんし、私も名付けられた由来も調べたことはありませんが、ロマン誘う無人島と思い、訪問するたび朝な夕なに良く眺めさせて貰っています。旅行ガイドにも出ていない、自分だけの好きな場所を作って置くのも、偶には良いことかも知れません。こんな離島にも、五島藩、富江藩、平戸藩の欲に満ちた領土争いもあったのですし、道路を車で走っているとそんな境界跡を見ることもあります。色々あるものです!
2003.08.31
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