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五島列島の中通島新魚目町の西沖に、小さな無人島が二つ目立って見えます。特別に知られた島でもなく、地元の人以外には知る人も殆ど無い島です。その沖の島の向こうは遠く平戸島、佐世保、彼杵半島なのですが、海の彼方で見えませんので、将に沖に浮かぶ孤島なのです。名前が付けられていて、二瘤の山があるのが野案中(のあんじゅ)、平坦に見えるのが山案中(やまあんじゅ)と呼ばれています。音だけは合っているのですが漢字での当て込みは私の想像です。時々どちらがどうなのか分からなくなりますので、知人に教えられた「山案中に山無し」等と言われているの思い出して識別しています。小さな島であり無人島なのですが、何かロマンを誘います。朝に新魚目町榎津郷から見た野案中、山案中ですが竹ノ子島に半分隠れた様な形で見えます。夕刻には新魚目町丸尾郷の丸尾教会から眺めて見ました。上五島空港は右端に見える頭ヶ島の山頂に位置しています。「あんじゅ」と言うと、森鴎外の小説「安寿と厨子王」を思い起こさせ、何か生き別れを秘めた悲しいロマンがある様な気がして、何とは無しに眺めてしまいます。五島の旅行案内書にも記載されたことはありませんし、私も名付けられた由来も調べたことはありませんが、ロマン誘う無人島と思い、訪問するたび朝な夕なに良く眺めさせて貰っています。旅行ガイドにも出ていない、自分だけの好きな場所を作って置くのも、偶には良いことかも知れません。こんな離島にも、五島藩、富江藩、平戸藩の欲に満ちた領土争いもあったのですし、道路を車で走っているとそんな境界跡を見ることもあります。色々あるものです!
2003.08.31
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長崎県五島列島には多数のカトリック教会があります。明治初期のキリシタン禁教令が解かれて以来、先ずは木造教会の建築から始まり、その後堅牢な煉瓦造りに変化し、近年ではコンクリート製となりました。又地元出身の類い希な匠が出現したこともあり、建築史に保存すべき教会が数多く、50ヶ所以上で建てられました。堂内の美しさも比類の無い教会もあります。従って、大小様々、新しいものから古いものも含めてあらゆる教会建築を見ることが出来ます。教会が手狭となり建て替えられる場合は、場所を変えてコンクリート製で造られるのですが、旧教会も取り壊せること無しに残されている場合もあります。鯛ノ浦教会のように隣になる場合もありますし、丸尾教会の様に山の中腹から海岸近くに相当離れて建て替えられることもあります。明るい大きなコンクリート製の教会より、古くて小さな煉瓦造りの教会の方が何とは無しに懐かしい感じがしてなりませんが、懐古趣味なのかも知れません!全国に珍しい石造りの頭ヶ島教会、中通島北部の中核教会で煉瓦造りの青砂ヶ浦教会は国の重要文化財に指定されています。教会内部はステンドグラスで飾られることが多いのですが、広い堂内を確保する目的で、特徴ある天井で構成されています。西洋のアーチ式を模倣した蝙蝠天井はやはり高い室内空間を確保するには最適の様です。青砂ヶ浦教会は蝙蝠天井様式となっています。日本の社寺建築からヒントを得たと思われる折り上げ天井は支輪や蛇腹を使って堂内中央を高くしています。頭ヶ島教会は一際美しい折り上げ天井で造られています。青砂ヶ浦教会、頭ヶ島教会を造り上げた新魚目町出身の「鉄川与助」は小学校の学歴でしたが、フランス人神父の指導を受け、持ち前の向上心と行動力で教会建築に手腕を発揮しました。古き日本の典型的な日本人で、良いものを貪欲に吸収しつつ自分独自のものを造り上げる気概に満ちていたようです。日本人は少なくとも400年間、社会に文句を言う前にこのようにして自分の才覚を頼りに生きて来たのです。そのお孫さんが開設した「お祖父さんが建てた教会」も参考にしてください!
2003.08.30
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五島列島の中通島と若松島は橋で結ばれていますので車で簡単に行くことが出来ます。西海国立公園の絶景、若松瀬戸は両島の間の海峡に位置していますので、その橋から南北に伸びる瀬戸の潮流を目の当りに見ることが出来るのも魅力です。又、明治時代に建てられた教会が静かな入り江にひっそりと佇んでいるのを見るのももロマンを感じます。 橋は若松大橋と名づけられる白いトラス橋で、200メートルを少し超える長さです。橋の両脇には散歩しながら瀬戸の急流を鑑賞できる様に展望台・散歩道が設けられています。若松島に渡り若松港の外れから山道に入り、龍観山展望所迄はドライブで行くことが出来ますので、この前の五島行で行って見ました。若松大橋が開通する前は中通島と若松島の交通は海上タクシーと呼ばれる渡海船しかありませんでした。その時代には龍観山が若松瀬戸を眺める一番の場所でした。若松瀬戸の素晴らしさの一部をスライドショーでご覧ください!中通島・若松島の多くが国立公園内にありますが、美しいリアス式海岸と美しい入り江・渦巻く潮流を見せる若松瀬戸は将に西海国立公園の白眉といえます。龍観山の駐車場迄は車で行き、そこから展望台へは徒歩5分程で行くことが出来ます。行った日がウィークデイと言うこともあって、訪問者は誰もいませんでした。わざわざ龍観山に登らなくても、大橋脇の展望所で十分堪能出来ると判断しているかも知れませんが、僅か200メートルの高さの差が素晴らしい眺望が生まれます。機会がありましたら、昔から一番の展望所と言われます龍観山を訪問する様にお勧めします。
2003.08.28
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五島列島には明治から昭和に掛けて建築されたカトリック教会が50数棟あります。下五島と言われる福江島に約15教会、上五島の中通島に約30教会あり、全国的に見ても教会の半数が長崎県内にあると言われています。近年、地元の学者や建築家によって「長崎の教会群を世界遺産にする会」が発足しています。これらの教会群は、西洋と日本の文化が融合したユニークなもので、建築史の発展を辿ることが出来る貴重な資料と言われています。キリシタン禁教を逃れて五島に隠れた「隠れキリシタン」は、平坦な下五島では随分摘発されたようですが、上五島では入り組んだリアス式海岸の若松瀬戸では比較的安泰だった様です。キリシタン禁教令が解かれた明治初期から、日本独特の教会建築様式で各地に建立され、一部は老朽化の為コンクリート製となりましたが、未だにレンガ、木造の教会も数多く残されています。 国の重要文化財である石造りの頭ヶ島教会、中核の桐教会は一回ずつしか行っていません。丸尾教会、青砂ヶ浦教会は多分100回以上も前を通過していますが、あまり身近に感じられると写真も撮らなくなります。近頃は「教会めぐりをして温泉に入ろう」と言うツアーが多くなりました。西海国立公園の中に佇む教会を訪問することは、歴史とロマンを感じざるを得ません。バスツアーは年を召した団体が多いようですが、うら若き乙女たちはレンタ・カーを使って自由に教会めぐりをしているのに出会うことが出来ます。日本の教会建築を完成に導いたと言われますのが、新魚目町出身の「鉄川与助」翁、フランス人の指導を受け、明治40年の冷水教会を設計施工したのを手始めに、50以上の教会を手がけました。教会天井のコウモリ天井、折上天井等、奇抜で優れた建築様式はあまりにも有名となりました。名建築として知られる、頭ヶ島教会、青砂ヶ浦教会、大曽教会、堂崎教会は、全て彼の手によるものです。昭和51年に97才で逝去されたそうですが、独創力と根気の塊のようだ人だったそうです。
2003.08.25
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五島列島の新魚之目町の空き家に9日間滞在していました。この絵の対岸に見える小山に点在している集落で、昔は物産の集積地だった所です。漁業不振の影響を受けて、今は急速に過疎化の進む典型的な離島となりましたが、豊かな自然が残されました。日本再生は環境と経済の調和にありますが、都市集中では無く、特色ある田舎の活性化が根幹となって欲しいと思います。 5月訪問以来3ヶ月振りでしたが、植物の成長期に当たっている為かうっそうとした雑草が生い茂っていましたし、石垣内側の竹林からは所かまわず竹が生えていました。池も給水していませんので雨水だけで、最低の水位が保たれていますが、クロレラの繁茂するどぶ池と化していました。最初の2日間は豪雨もあって、作業は進みませんでしたがその後6日間は雑草の刈り取り、竹の伐採に勤しむことにしました。この庭にはムカデが出て来ますので、先ず剪定鋏で背の高い雑草を刈り、良く見える様にしてから釜で根元から刈り取りました。その結果、帰る直前には人が住んでいる状態に復帰しました。右腕は草に負けて、湿疹が出来て痒くて仕方なくなってしまいましたが、その内直ると思い達成感の方が喜びで強かったのです。どぶ池には、塩辛トンボ・麦わらトンボのヤゴが多数生息し、鬼ヤンマも池周囲の湿った所に卵を産み付ける為に飛来します。4メートルを超える木々は昨年、植木屋さんに3m高さにするように伐採をして貰い、庭が明るくなり苔むした石灯籠も見える様になりました。蝉の数は少なくなりましたがクマゼミ、油蝉、ミンミンゼミ、ツクツク法師が来て、短い夏を惜しむように鳴いていました。緯度的には佐世保の西なので、それ程南には位置していないのですが、対馬暖流の唯中にありますので、ハイビスカス、ブーゲンビリアと言った南方の花々も咲いています。夜になると、近くの神社の森からふくろうの「ポー、ポー」と鳴く声が良く聞こえました。長年に亘って住み着いているようで、親子代々同じ場所にいるようです。何を餌にしているのか定かではありませんが、そんな鳥の声が聞こえるのも豊かな自然が残っていることの現われと思って、楽しく聴きました。
2003.08.24
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近頃関東地区でも讃岐うどんがよく食べられる様になりました。出汁の利いた薄い色の汁に入った腰の強いうどんは本当に美味しいと思います。讃岐からずっと西方にある長崎県五島に伝わる五島手延べうどんはそれ以上に絶品のうどんだと思います。釜揚げうどんを釜から掬って、飛び魚(現地では“あご”と呼びますが)の出汁つゆに漬けて食べる“地獄炊き”は一度試したら忘れられません。少し塩味でなめらかな舌触りのうどんは絶品で、又あごダシ汁はうどんで薄まることは無い程濃厚で、継ぎ足しは不要なのです。具も入れない、本来のうどんの美味さを味わえるのは、素材の良さが一段群を抜いているからでしょう。長崎県五島に伝わる五島うどんは、地理的には中国、朝鮮に近く大陸からの文化の伝播として考えるといち早く到着したエリアとして考えやすく、本来の姿が強く残っているのかも知れません。又、空海が立ち寄って伝えたとも、元寇の捕虜が伝えたとも瀬戸内の漁師により伝えられたとかその説はうどん伝来の謎とともに確固たる証拠はありません。だが実際の歴史は300年と言われ、寛永2年(1662年)富江藩が分置された後、漁業問題で幾多の争いごとが起こり、裁定のために何度となく江戸に上るうち、その帰路の保存食としてうどんの製造が行われ、島に伝えられたのが始まりであろうと言われています。元禄3年(1690年) のことの様です。稲庭うどんや氷見(ひみ)うどんの歴史と同じ重みを持つ様です。五島うどんはそうめんの作り方に似ていますが、製品は若干太めの丸麺です。最大の特徴は島のおいしい水と塩及び自生する椿から取れる純粋椿油を使って、三百年の伝統を受け継ぐ手延べ製法で細く延ばして行くことにあります。西海国立公園の中にある五島列島・中通島は、美しい自然と、うどん造りに適した気候風土に恵まれています。 東シナ海の風で自然乾燥させたうどんは、コシが強いのにもかかわらず、なめらかな舌触りと風味のよさで、インターネットでも紹介されています。現在五島には上五島地区と有川地区を中心に25軒ほどの製麺業者があり、そのうち6軒ほどが昔ながらの手延べの技法を使った製麺をしています。天日干しして乾燥されたうどんは独特のコシの強さとなめらかな食感を持つ日本一のうどんです。
2003.05.25
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五島列島のほぼ中央、中通島と若松島の間の南北約15キロにわたる若松瀬戸は、わが国屈指の多島海をなし、見事なリアス式海岸となっています。複雑に入り組む海岸線と波穏やかな青く澄んだ海に点々と浮かぶ小島の美しい景観は、昭和30年に西海国立公園に指定されました。その頃中通島から若松島に行くには、若松瀬戸を渡る海上タクシーしかありませんでしたが、その途中の風景の素晴らしさは一部の人にしか堪能させて呉れなかったのです。 しかし平成3年完成した若松大橋は、若松町の交通体系を大きく改善するとともに新たな観光スポットを提供することになりました。大橋の両岸には「風」「花」「岬」の三つのテーマの展望台を配置しているほか、海岸に沿った遊歩道かは、渦を巻く激しい潮流を間近に楽しむことが出来ます。穏やかな入り江は、ハマチの養殖筏や、アコヤ貝の真珠筏が整然と浮かび、瀬戸の自然美と人々の漁業の営みとのコントラストが瀬戸の景観を一段と際だたせています。若松瀬戸を車で走りますと、数多い教会が見え隠れし、キリシタンと縁の深い五島の歴史の一端をうかがい知ることができます。 若松大橋は長さ552メートル、若松瀬戸の激しい潮流を観察するには絶好のポイントです。写真は観光小冊子からスキャンしたり、数年前のものが混在したりして季節がまちまちですが、美しさを実感して頂けると思います。町村合併で中通島と若松島は人口27000人の新上五島町となりますが、漁業不振から離島する人も増え人口は往時の半分となります。それだけに豊かな自然と懐かしいロマンが満喫出来るのですが・・国境に近い利点を生かした、経済特区によるフリーポート構想が発展すれば、日本国にとっても韓国にとっても良い経済活況策となるのですが・・ 観光立国との兼ね合いは果たしてどうなりますでしょうか?
2003.05.19
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昨年の8月から閉めてあった家に風を入れました。50年前に築庭した庭は雑草が生い茂っていたので、足を踏み入れるべく草刈をしました。この庭にはムカデがいますので、食われない様に靴と軍手を使って注意深く行いました。100年を越す梅の老木が数年前に台風で倒れたので、木材の添え木をしてあったのですが、昨年外れてしまいました。持ち上げてみましたが重くて動きませんので、大枝を選定して漸く添え木に幹を乗せ、アルミ線で固定しました。対岸に見える新魚目町榎津にその家はあります。住む人のいない庭にも、季節が来ると美しく花が咲いていました。室内には、親戚のシスターが置いていったマリア像が寂しそうに残っていました。8年前に死去した義母の書棚から遠藤周作の小さな単行本「自分の心づくり」を読んでいましたら、狐狸庵氏の大連逸話のページが折り込んでありました。義母は大連で生活していましたので、気になっていたのでしょう!生前、「評論家の立花隆氏も大連にいて五島に住んでいたのでは無いか?」と言っていましたが、確かめていません。遠藤周作氏も60才を過ぎると、大乗仏教の「善悪不二」がキリスト教の「善悪二分法」より生き方としてしっくり来る様に書いてありました。即ち、良いと思われることにも悪さがあり、悪いと思われることにも救われる点があり、明確には出来にくいと言うのです。ですから自分の弱点と思われることも考えようによっては、長所に転換出来ることを何回と無く説いていたのです。!!読了しましたので本は書棚に戻しましたので、書名は正しく無いかも知れません。インターネットで検索しても出て来ません。1985年連載随筆を纏め、他の随筆も掲載してある本でした。!!日本人らしいキリスト教感だと思い、部屋の中のマリア像もじっと眺めて見ました。
2003.05.18
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昔、子供達が幼かった頃は、五島に行きますと美しい海岸での海水浴が楽しみでした。岩場に行きますと潜ることも無くサザエが手づかみで良く採れましたので、持ち帰って焼いて食べる楽しみもありました。近頃はレンタカーをして、天気の良い日には教会巡りをすることが多くなりました。上五島には29のカトリック教会があり、その内二つの教会は国の重要文化財に指定されています。古くなった教会は新しくなると、耐久性を考えて殆どがコンクリート製の堅牢な建物に変わります。石油備蓄基地で全島青方地区に移住した住民は大きなコンクリート製の綺麗な教会を作りました。内部も明るく広くなったので、ミサ祈祷をするには便利となった様ですが、訪問者にはロマンが薄らいだと思わざるを得ません。写真は全国的に珍しい石造りの教会で重要文化財となっている頭ヶ島教会で、1999年に訪問した時のものです。今回は下および上五島の教会で最もステンドグラスが美しいとされる江袋教会、海岸の断崖に美しい赤波江教会、ルルドで知られる鯛之浦教会、ひっそりとした入り江にある船隠教会、焼崎教会に行って見ました。江戸時代のキリシタン弾圧を逃れて、遠い離島でカトリックを保持し、明治時代に隠れキリシタンからカトリック教徒になり、育んだ文化財を世界遺産に登録申請をする動きもあるようです。近頃はバスツアーによる教会めぐりも盛んになっているようです。
2003.05.17
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長崎空港に着いて、上五島行きの飛行機に乗ろうとORCと言う航空会社カウンターに行きましたら天候不良で欠航となっていました。そこで、高速バスで佐世保に出て九州商船の快速艇に乗って有川港経由で榎津に行くことにしましたが、雨風が強く欠航が心配でしたが、午後5時何とか出航となりました。途中の波高は約3メートルにも達してうねりが強く相当揺れ、船内は歩くのが困難でしたが午後6時半に無事到着となりました。翌日は波がより高くなり、フェリーは運航されましたが高速艇は欠航でした。滞在8日の内、雨天が4日、曇天1日、晴天は僅か3日であまり旅行日和ではありませんでしたが、晴れの日に出掛けて撮影した写真はなかなか雰囲気が出ていました。桐古里教会は今回行きませんでしたので昨年の写真です。似首郷の“似”は仁多若しくは仁田から来てい、“首”は峠を意味している様です。雲仙に行く途中にも仁田峠がありますので同義語の様で、豊穣の海で豊かな漁業で栄えた郷の様です。上五島には29の教会が散在していますので、近頃は教会めぐりツアーも企画され、観光客がバスで島内の狭い道路を使って訪れる様になりました。その中でも若松瀬戸の桐古里の教会、五島灘の赤波江教会は白い壁に赤屋根が青い海・緑の山に映えて素晴らしい景色を醸し出しています。
2003.05.16
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今日から五島列島に行って来ますので、一週間日記はお休みさせて頂きます。改訂前の楽天ではこの大きさの画像を200枚収納出来たので、消さないであるものです。その他の情報も7月の五島ですが、見て下さい!
2003.05.07
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