わたしのこだわりブログ(仮)

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2019年04月01日
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カテゴリ: 歴史の旅

ラストにBack number追加しました。

実は、当初は欧州での高級磁器誕生のルーツを探り、マイセンやロイヤルコペンハーゲンの紹介に入る予定でした。
その為にいつくらいから磁器が欧州に輸入され、賛美されたのか? を特定する為に交易ルートを探っていたのですが、全然そこにたどり付けないどころか、全く違う方向に行き書き始める事になりました。

どうも、交易品には、時代に伴うルート、そして需要があるようで、古くはシルクロードにて生糸や絹織り、香などが運ばれたり、海洋貿易が盛んになる頃は香辛料がメインの需要とされていました。

そもそもルートが案外たくさんあったのにも驚きましたが、政変によりルートの変更が余儀なくされたのも事実。そのルートの複雑さも迷走の一つです。

最初は東インド会社から入ったのですが、結局、紀元前に遡り、長い歴史を探っても、陶磁器だけが主だった交易品リストに入っていない事も解りました。
つまり、 最初に陶磁器が欧州にもたらされた時代を正確に特定するのは困難 だと結論したのです。

しかし、欧州で必要があり生まれた高級磁器は、東洋の磁器がお手本です。
マイセン誕生の方の歴史から遡れば、王侯貴族に磁器ブームが来るのは、各国の東インド会社の貿易が盛んになる頃です。
ポルトガル、スペイン、イギリス、オランダなどが危険な航海を押して貿易に出たのは香辛料など東洋の物産欲しさです。
白い肌の光輝く美しい上質の陶磁器は、その頃に副産物として欧州行きの船に乗ったのではないかと言うのが今の所の推測です


ぽっ本来なら、これをイントロにマイセンの紹介に入るのですが、迷走しているうちに興味が交易自体の方に移ってしまいました。
でも、交易路の話にするにしても東インド会社からでは中途半端。初期のアジアと欧州を結ぶ交易ルートを遡っていたら、紀元前のフェニキア人にらよる地中海交易にまでたどりついたのです。

※ それ以上前は遺跡程度の資料しかないので不明。

それにしても壮大なスケールの話しをコンパクトにできるのか? 迷走している間に本が積み上がっています。 しょんぼり1~3回くらいになりそうな予感。 ← 20回くらい行きそうですm(_ _;;m 

今回、写真は考えた末にイランとチュニジアから持ってきました。
アケメネス朝ペルシア帝国の都だったペルセポリス(Persepolis)から


アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン

シルクロード(Silk Road)
最初のオリエント・ルート開拓者ベドウィン(badawī)
地中海交易の覇者(はしゃ)海のベドウィン フェニキア人(Phoenician)​
シクロードの西端(アジア西端)の都は?
最初の紅海(こうかい)(Red Sea)の交易路
フェニキアと​アレクサンドロス王との攻防​​
ペルセポリス(Persepolis)のラマッス(lamassu)​​​​​


​​ シルクロード(Silk Road)​
生糸や絹織物の交易に使われたと言う シルクロード(Silk Road)は中国を横断して欧州世界との交易に利用された歴史的隊商ルートを指している
近年、それら交易路はユネスコの世界遺産に登録されつつあり、長安から天山回廊を経由するルートは2014年に登録されている。​

​このシルクロード(Silk Road)と言う名称は1877年、東西交流における絹の重要性を指摘してドイツの地理学者フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen)(1833年~1905年)がその著書において使用したのが最初らしい。
※ 現在では北緯50度線付近の ステップを横断する「ステップ路」 、北緯40度線付近の水脈を求め オアシス群を辿る「オアシス路 」、南方の海からアクセスする「 南海路」 (紅海経由) の3つに分類されるそうだ。

下はウィキメディアコモンズから借りてきたシルクロードのおおよそのルート図です。

赤いのが陸路 青が海路
※ この地図については時代が特定されていないので、長いスパンのルートが全て表示されていると思われます。同時に全てのルートが存在していたと言う訳では無いと言う事です。

星地図を見ればいかにも・・だが、このルートを最初から最後までの行程で行商に出る者はいないし(今は可能だが・)、またそう言う類いのルート図でもない。
このルート上のあちこちに点在する開けた都市の市場で商品は取引され、西から東、あるいは東から西に運ばれたのである
簡単に言えば別々に誕生した東西の文化圏が、その枠を超えていつしかつながり、知らぬ間に文化融合をおこしていた。その要因となった「道・ロード・Road」である。

「絹・シルク・Silk」の名称は、便宜上付いた名称で、必ずしもシルクが主だった取引だけではなかったはずだ。だから道はある程度決まっていただろうが、諸事情により、ルートは毎回変わったかもしれない。

それにしても、「シルクロード」とタイトルする本を見るとほとんどが西安から天山山脈あたりまで。
私が知りたいのはその先のインド、オリエントから地中海へと抜ける交易ルート。
案外本が無い。調べたら書けない理由も見えてきました。

ウズベキスタン、タジケントに向かう飛行機からのアライ山脈?


最初のオリエント・ルートの開拓者ベドウィン(badawī)
​これら 古代のルートは、地域の政情により変遷 しています。特にオリエントは歴史に名を残す大きな文明のある国が幾つか誕生。

現イラン、イラク、シリアあたりを通るオリエントの内陸ルートを最初に開拓したのはおそらくベドウィン(badawī)のアラム人(Aramaeans) ではないかと思います
。​
彼らの古代アラム語が商業語として古代オリエント世界に普及 したと言われています。​​​​

BC11世紀、ユーフラテス川上流に定住していたアラム人はラクダなどによる隊商を組んでシリア砂漠を越え内陸交易をしていた事が解っている。 彼らは古代オリエントの遊牧民 でした。


イメージ写真・・ラクダはチュニジアからです。


地中海交易の覇者(はしゃ)海のベドウィン フェニキア人(Phoenician)​

​上のシルクロード地図には出ていませんが、 地中海周辺(北アフリカ側から)の交易ルートを造ったのはフェニキア人 です。

地中海東岸、レバノンあたりに定住したフェニキア(Phoenicia)人は BC12世紀にはアフリカ大陸沿岸からイベリアにかけての地中海の島々との海上交易を盛んに行った海の商人 です。
彼らはしばしば海のベドウィン(badawī)と称されていました。
​​​※ ホメロスの叙事詩「イーリアス」や「オデュッセイア」では「船を操る職人や商人の集団」としてフェニキア人の事が語られている。


上はフェニキア人の植民都市と交易路 ウィキメディアから借りてきました。
※ 年代が入っていないのですが、BC12~BC8世紀頃かと思います。

星 フェニキア人(Phoenician)は優れた航海術と文明を持ってボスポラス海峡沿いにイタリア、シチリア、スペインと北アフリカ沿岸に住み着きカルタゴなど幾つかの植民都市も建設
彼らはその街の支配者に助言する立場となり商売をしていた。
彼らは行った事が無い場所は無い? かのようにどこにでもいて、商売し、BC15世紀頃からBC8世紀頃に歴史の表で繁栄を極めていたそうだ。


BC9世紀からBC8世紀頃、アッシリアの攻撃を受け、フェニキア(Phoenicia)の諸都市は政治的な独立を失って徐々に衰退していく。

アッシリア(Assyria)の滅亡後は新バビロニア(Neo-Babylonia)、次いでアケメネス朝(ペルシア帝国)と 次々オリエントの支配者が変わる中、それでも彼らの開いた海上交易は衰えず服属しながら続いていた。
彼ら フェニキア人の 滅亡の始まりは アレクサンドロス大王の遠征だろう。
※ アレクサンドロス大王の遠征の最初期の被害者がフェニキアの本拠だったテュロス(Tyros)の都市。

アレクサンドロス大王の遠征では、 大国アケメネス朝ペルシャもギリシャの勢力下に入りヘレニズム世界の中でフェニキアの街もフェニキア人も消えて行くのである。
※ フェニキア人の最後の都市カルタゴ(Carthage)だけは共和政ローマに併合されるBC146年まで残った。そのカルタゴ(Carthage)は現在のチュニジア、チュニス近郊に存在。

下はチュニスのバルドー美術館(The National Bardo Museum)古代フェニキア人を描いたモザイク画
古代のフェニキア人の商取引を現したモザイク画も多い。
ヌミディア王国 (Numidia)(現在の(Bulla Regia)​​​の遺跡跡のモザイク画から

因みに フェニキア人が交易する為に生み出したと言われるフェニキア文字がアルファベットのルーツ と言われている。先ほどの古アラム語も フェニキア文字から派生している。 ​​​


​​ シクロードの西端(アジア西端)の都は?
フェニキア人の交易都市の中でも最大で、BC10世紀には首都となっていたのがテュロス(Tyros)orティルス(Tyrus)と呼ばれる都市です。
レバノンの南西部、地中海に面するテュロス(Tyros)は地理的要所であり、地中海方面からメソポタミア、アラビア半島に至る交易のハブ都市 ​​​として長らく繁栄。

星 シルクロードの西端はどこか? アジアの西の端はどこか? と言う答えが実は出ていないようなのです。地中海に出られる街はみんなその可能性がありますからね。
※ 政変などですぐに変わったのかもしれない。
考えられるのは、 東アナトリア(トルコ)、シリア・レバノン沿岸の地中海に面する海岸線がその一つだったのは間違いない。
中でもBC10世紀にはテュロス(Tyros)がシルクロードの西端だった可能性は大です。


ローマを西とする説もあるようですが、アナトリアにしてもシリア・レバノン海岸にしても、北アフリカにしても、荷物はそこから船の輸送に切り替わり、地中海各地に運ばれたとみるべき。
だからシルクロードの西端は、これらのいずこにあったと言うのがシンプルです。


最初の紅海(こうかい)(Red Sea)の交易路

実は フェニキア人の交易は紅海の交易にも関わっています
BC9世紀、首都テュロスを中心にフェニキアの貿易網はスエズ湾方面にまで及んでいる事が解っている。
​​​​
ピンクで囲ったのが紅海 青の★がフェニキアの海港都市テュロス(Tyros) 。現在名スール​

​​紅海は北がシナイ半島に続くアラビア半島の西岸にあります。
海のシルクロードの欧州に入る入り口が紅海です。

星しかし、海のシルクロード、 紅海は地中海まで抜けていません。
1869年11月スエズ運河(Suez Canal)が開通し地中海と紅海(スエズ湾)がつながるまでは地中海と紅海の間は船からいったん荷降ろしされ陸路を行くしか無かった のです。

この紅海のルートは、東インド会社がアフリカ喜望峰航路を回る頃にはイスラムの元にあったので西洋側からのルートは一端消えていますが、実は思う以上に古くから存在していたのです。

古代ギリシャの歴史家ヘロドドス(Herodotus)(BC5世紀頃)の「歴史(historiai)」
によれば、フェニキア人によるアフリカ就航伝説や、アケメネス朝ペルシャのダレイオス1世(Darius I)(BC550年頃 ~前486年)に仕えたギリシャ人によって インダス川河口からを紅海を経て地中海に出る航路と経路が試されていた事が記されている らしい。
※ 歴史(historiai)はBC5世紀のアケメネス朝ペルシアと古代ギリシア諸ポリス間の戦争(ペルシア戦争)からペルシア及びオリエントの成立。そして拾い集めた各地の歴史、風俗や伝説がまとめられた地誌。

星どちらが先にルートを見つけてトライしたかはわかりませんが、 地中海世界とオリエントを結ぶ紅海経由の交易路はアレクサンドロス大王の遠征以前から存在し、以降重要ルートになった ようです。

​​​イスタンブール考古学博物館のアレクサンドロスの像(海外版のウィキメディアから借りてきました)​

​アレクサンドロス3世は、英語名でアレクサンダー大王(Alexander the Great)
(BC356年~BC323年6月10日)

フェニキアと​アレクサンドロス王との攻防​​
アレクサンドロスの遠征では、隊商ルートを利用して進軍している 。​

イッソス(Issus)でバトルはあったが、シリア・レバノン沿岸沿いのフェニキア人の街(Byblos,Sidon,Tyros)には敬意を表しながら占領はしない代わりに協力を要請してまわったらしい。


協力とはお金の事と想像できる。
アレクサンドロスの遠征では、バトルは案外少ないのだ。
しかし、フェニキア人の街、テュロス(Tyros)はしくじった。
彼らが従来の王達と異なる若いアレクサンドロス王を見誤ったのだ。

強気な断り方をした彼らにアレクサンドロスは考えた末に7ヶ月の下準備をして街攻めのバトルをし、2000人の男子を貼り付けにし、3000人の婦女子、老人は奴隷として売lり、テュロス(Tyros)の街を滅ぼした。
いつもなら、捕虜を人間的に扱うのにこの時の王は敢えて残忍な仕打ちをしてフェニキア人に、そして他の国の者らへの見せしめとした のだろう。

星すでに1000年の歴史を持つ彼らのプライドと神話はこの時崩れ去った? ​
その後の彼らは、まるで遊牧民のように海洋を漂白し、 辛うじてカルタゴは残ったが、フェニキア人は歴史の表から消えて行くことになる
※ そもそも彼らフェニキア人は国家を持っていなかった。

遠征最初のアレクサンドロスのルート
左上の紫の★がマケドニアのペラ(Pelle)
ピンクの★がテュロス(Tyros)。

まさにフェニキア人の都市をめぐっているようなコース。

フェニキア人は港町には大概住み着いていた事を考えると、戦費をまかなう為にアレクサンドロス王は意図的にそれら交易都市を巡ったのかな? と思える。
彼の進軍した交易ルートはどこもお金を蓄えていたからだ。
それにフェニキア人とギリシャ人は商売でライバル関係にもあったからね。ぽっ​​

ところで、 なぜシルクロードの話でフェニキア人の交易の話を出したか? と言えば、シルクロードのその先の商品の流れです。
シルクロードの中継点で品物は中国からオリエントの隊商に引き継がれ、地中海沿岸都市まで辿り着いた品物は、フェニキア人により、北アフリカやギリシャ、イベリア半島の諸都市まで運ばれて完結した と思ったからです。

チュニスのバルドー美術館には、商人らが、マダムにネックレスを売る姿や鳥や牛を売り買いする者らの姿がモザイク画で残されている。
下はやはりバルドーからワインを売る男の絵図です。

星フェニキア人は根っからの商売人? そして彼らは海を専門としてどこまでも遠征。
想像以上にフェニキア人の存在意義は大きく、シルクロード交易の一端として活躍したのは間違いない
実際、後々フェニキア人らから奪った交易ルートなど諸々が、ギリシャの各ポリス、プトレマイオス朝、ローマ帝国へとそのまま引き継がれて行くのである。

星今回東西交易を探る前までは気づきませんでしたが、 アレクサンドロス王の存在意義も大きい。
彼の東への遠征は、ヘレニズムと言う芸術分野にとどまらない東西文化の融合を生み、交易に限って見ても以前と以後、劇的な転換点となっている。

​※ フェニキア人の築いた古代都市カルタゴ(Carthage)についてはかなり古いですが以前紹介していました。カルタゴ(Carthage)は、現在のチュニジアにあったのです。
2010年4月1日「チュニジアン・ブルー  1 カルタゴ(Carthage)」
リンク ​​ チュニジアン・ブルー 1 カルタゴ(Carthage)​
2010年4月1日「チュニジアン・ブルー  2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)」
リンク ​​ チュニジアン・ブルー  2 (カフェ・デ・ナットと戦争賠償金)​
2010年02月25日 「スペイン・ロンダ 2  (番外編 カルタゴ)」
リンク ​ スペイン・ロンダ 2 (番外編 カルタゴ)​ ​​

​​
下はアレクサンドロスの遠征ルート図全体です。 ピンクの矢印がバビロン(Babylon)
赤い矢印がインダス川のラインです。 インダス川の上流がガンダーラ です。

星仏教に仏像ができた(BC1.5世紀頃)のは、まさにアレクサンドロスの遠征で、ガンダーラがギリシャ支配に入った事によるギリシャ世界との交流故(ゆえ)です。
​​​
​​

アレクサンドロス王のペルシャ進軍は、半分はペルシャ戦争(BC492年~BC449年)の報復だったかもしれない。
バビロン(Babylon)の後にスサ(Susa)を征服してペルセポリス(Persepolis)に向かう。そこはダレイオス1世が建造したアケメネス朝ペルシア帝国の儀式用の神殿群のある街。

今回はアレクサンドロス王の特集ではないのでここはザックリと終わりますが、 アレクサンドロス王の遠征の成功はペルシャを手中に入れた事。
このアケメネス朝ペルシャ帝国の帝都とされたペルセポリス(Persepolis)攻略こそが重要なポイントになる
。それ以降のインド北部への進軍は単に興味だったかも・・。

下はペルセポリス(Persepolis)のクセルクセス門(Xerxes' gateway)

​遺跡は、どこに行ってもこんな感じで荒廃が激しい。
巨額なお金をかけて修復する財力も無いからなのだろうが、 18世紀後半から欧州で起きた遺跡発掘のブームがより荒廃を後押しをした。

19世紀になると個人の金持ちまでもがかってに発掘に出かけ、遺跡はより荒廃する。
だから本家の博物館よりもルーブル美術館や大英博物館、またメトロポリタン美術館などの方が状態の良い品があるのである。


ルーブルから完品の写真を持ってきていますから見比べて想像して見てもらえるともとの遺跡の美しさが多少なりとも想像できると思います。



ルーブル美術館のオリエント部門からペルセポリス からのお持ち帰り品の人面獣身有翼像です。

人面獣身有翼像は、人間や動物を部分的に折衷した空想的怪獣です。

これらは、メソポタミア文化では古くから用いられたスタイルで、アッカドを経て,アッシリア,アケメネス朝ペルシアに継承された超自然的な威力、魔力を象徴する精霊のような ものだそうです。

​​​アッシリア帝国の宮殿にも守護神像として、同じ人面有翼牡牛像のラマッス(lamassu)が一対あったとされ、ペルセポリスのそれは明らかにそれら図像を踏襲したものだそうです。
※ 人面有翼牡牛像は、アッカド語でラマッス(lamassu)と呼ばれる。

知性を象徴する人の頭部,鳥の王鷲を模した両翼。半身は雄牛。
豊穣・富を代表する家畜の典型的存在たる牡牛の身体(蹄)を持つが、時に足はかぎ爪となり、超絶的な威力・魔力を表現する場合もある。

かぎ爪は砂漠の支配者たるライオンの意匠となるのだが、 ペルセポリスのそれはルーブルと同じ蹄
因みに、 大英博物館にあるラマッス(lamassu)の足はかぎ爪 である。
​​​

話がそれるが、参考までに大英博物館のかぎ爪のラマッス(lamassu)も紹介しておきます。
大英博物館のそれはアッシリア帝国の首都ニネヴェ?からの出度品らしい。

いずれも足が5本なのは視覚的表現の問題だそうです。

書きながら横道にそれて、さらに迷走していたので長くなってしまいました​。
一応を交易をタイトルにしたので次回アレクサンドロス王の遠征以降の交易路を紹介して、後にポルトガルが喜望峰回りの航路を発見し、各国の東インド会社設立の大航海時代の交易に及ぶストーリー展開で行く予定です。(それは壮大なストーリーの最後ですぽっ)


次回リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス


Back number
リンク  アジアと欧州を結ぶ交易路 20 パナマ運河(Panama Canal)
リンク  マゼラン隊の世界周航とオーサグラフ世界地図
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 19 新大陸の文明とコンキスタドール(Conquistador)
リンク ​ コロンブスとアメリゴベスプッチの新世界(New world)
リンク ​ 新大陸の謎の文化 地上絵(geoglyphs)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路 18 香辛料トレード(trade)の歴史
リンク 
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 17 大航海時代の帆船とジェノバの商人
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 16 イザベラ女王とコロンブス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 15 大航海時代の道を開いたポルトガル
リンク ​ 海洋共和国番外 ガレー船(galley)と海賊と海戦
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 14 海洋共和国 3 法王庁海軍率いる共和国軍vsイスラム海賊
リンク  ​ 聖人と異端と殉教と殉教者記念堂サン・ピエトロ大聖堂
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 13 海洋共和国 2 ヴェネツィア(Venezia)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 12 海洋共和国 1(Ragusa & Genoa​​)
リンク ​
アジアと欧州を結ぶ交易路​ 11 ローマ帝国の終焉とイスラム海賊
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 10 ローマ帝国を衰退させたパンデミック
リンク  ​ ローマ帝国とキリスト教の伝播 (キリスト教とは)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 9 帝政ローマの交易
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 8 市民権とローマ帝国の制海権
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 7 都市国家ローマ の成立ち+カンパニア地方
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 6 コインの登場と港湾都市エフェソス
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 5 ソグド人の交易路(Silk Road)​
リンク  ​ クムラン洞窟と死海文書 & マサダ要塞(要塞)
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 4 シナイ半島と聖書のパレスチナ
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 3 海のシルクロード
リンク ​ アジアと欧州を結ぶ交易路​ 2 アレクサンドロス王とペルセポリス
    アジアと欧州を結ぶ交易路​ 1 砂漠のベドウィンと海のベドウィン


まだまだつづく






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Last updated  2023年05月19日 15時39分59秒
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