わたしのこだわりブログ(仮)

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2016年09月14日
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カテゴリ: 偉人・画家・聖人


実際ツアーでデルフト(Delft)に寄れば、必ず焼き物工場の見学に行く。

そのデルフト(Delft)焼きは16世紀にマヨルカ(Maiolica)焼きの陶工達が移り住んだ事から地場産業として発展する。その最盛期は17世紀であるが、皮肉にもオランダ東インド会社が中国より大量の美しい陶磁器を輸入すると早くも売れなくなってしまったそうだ。

生き残りをかけたデルフト(Delft)焼きは中国磁器や伊万里に似せた白地にブルーの彩色を施した陶器を製造。
それがデルフト・ブルーと言われる青い模様の誕生
にもなった。
しかも当時絵柄も中国のイメージに寄せたものを製作。今までの欧州の陶磁器にない エキゾチックな? いや、怪しいアジアンデザインで欧州での新たな人気 を獲得して行く事になる。
※  以前「ニンフェンブルク宮殿(Schloss Nymphenburg)  3 (狩猟用宮殿アマリエンブルク)」でデルフト焼きでできたキッチンを紹介。よかったら見てね。

ところでデルフト(Delft)焼きは17世紀にはそんなに裕福でない一般家庭でもすでに使用されていた。
それはフェルメール(Vermeer)の絵画の中にあれこれ登場して来る。
そう、 デルフト(Delft)は画家、ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)の一生が閉じ込められた街 でもあるのだ。
彼はこの街で生まれ育ち画家となり、画商となり、ここで亡くなった。
街を訪れる人の目的の半分は実はヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)にあるのだ。


デルフト(Delft) 1 (デルフトの眺望)

デルフト(Delft)
デルフトの眺望(Gezicht op Delft)
カーレル・ファブリツィゥスとフェルメール

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ハーグより、デルフトへは路面電車1本で行ける。
思いの他近かった。ハーグ中央から15分くらい。 
pict-デルフト 2.jpg

路面電車の路線図
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1番の路面電車は北海の街から ハーグ を経由して デルフト に向かう。

路面電車を降りて1本中の道に入ると、運河の街である事がわかる。古都と呼ぶにふさわしい旧市街。
pict-デルフト 4.jpg
小さなデルフトの街は運河で囲まれた城塞都市だったようだ。
pict-デルフト 5.jpg
見える時計の付いた塔はデルフトの旧教会。
そしてその隣にはネーデルランド連邦共和国の初代君主となったオラニエ公ウィレム1世(Willem I)の宮殿であったプリンセンホフ(Prinsenhof)が博物館となって公開されている。
※ 現在のオランダの君主はオラニエ公ウィレム一世の子孫にあたる。

旧教会
pict-デルフト 15.jpg
ここにフェルメールが眠っている。

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立派な貴族の館か?商館のようなものが立ち並ぶ旧教会近くの運河沿い。
こちらではそれらが普通に今も住居などとして利用されている。
pict-デルフト 8.jpg

pict-デルフト 9.jpg

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pict-デルフト 6.jpg

pict-デルフト 10.jpg

デルフト(Delft)の街の地図
pict-デルフト地図 1.jpg
黄色丸 ・・旧教会   緑丸 ・・・プリンセンホフ
濃いピンク・ ・・新教会   薄青丸 ・・・市長舎
赤丸 ・・・デルフトの眺望を描いた視点
黒丸・・・1654年10月12日の弾薬庫爆発の爆心地

マウリッツハイム美術館所 蔵 デルフトの眺望(Gezicht op Delft) 制作1660〜1661年頃
pict-デルフト 11.jpg
ヨハ ネス・フェルメール(Johannes Vermeer)(1632年~1675年)

17世紀には風景画は結構描かれたそうだが、フェルメールが残したのはたった2点のみ。
その一つがデルフトの眺望(Gezicht op Delft)。
ドラマチックな雲を配する空ときらめく水面のすがすがしい美しさの対比がより街を際立てている。

一見穏やかなデルフト(Delft)の街に見えるが実は悲劇の影もしょっている。
実はこの 作品が描かれる6年前(1654年)にデルフト(Delft)では大きな爆発事故があり街の4分の1が吹き飛ぶ悲劇があった。(爆薬庫に引火して火薬40トンが爆発)
死者は100人以上、負傷数千人と言う惨劇で、この時フェルメールの先輩画家も亡くなっている

この絵はそんな街のキズを隠して存在していている。
※ 上の地図で描いた黒丸が火薬庫の爆心地。


部分拡大
pict-デルフト 12.jpg
右の塔・・・新教会  教会の左下・・ロッテルダム門  その左の塔のある建物・・スヒーダム門
左端の三角・・・旧教会

カーレル・ファブリツィウスとフェルメール
亡くなった カーレル・ファブリツィウス(Carel Fabritius)(1622年~1654年)はレンブラントのできの良い弟子の一人。
フェルメールは彼の影響を非常に受けていて、亡くなった後はよりカーレル・ファブリツィゥスのスタイルが現れていると言う。(残念ながら彼の作品は爆破の影響でほとんど焼けてしまい残っているものは少ない。)

フェルメールは1652年に20歳で結婚して翌1653年に「聖ルカ」画家組合に親方登録をしている。
通常6年の修行を要するのでその間はデルフトを出てどこかで徒弟している筈なのだが、それが不明。
ひよっとするとフェルメールもまたレンブラントの弟子だったのでは? と勘ぐったりする。
カーレル・ファブリツィウスは1652年にデルフトにやってきて親方登録をしている。フェルメールが呼び寄せたせたのかもしれない。
フェルメールの家は画商でもあったからだ。

室内の人物像の多いフェルメール作品の中で風景画は異種の作品である。なぜこの絵は描かれたのか?
街の惨劇の鎮魂だとする人もいるが、シンプルに考えて見た。
私の個人的想像のみであるが、この年にフェルメールは金持ちの義母と同居を始めている。
父からの負の遺産を相続した彼はずっと借金に追われた人生を送る。(彼の死後に妻が破産申し立て)
義母の援助がもしかしてこの絵に繋がるかもしれない・・。

デルフトの眺望(Gezicht op Delft)を描いた場所は今も存在する
pict-デルフト 13.jpg
旧市街南の外れのスヒー港
残念ながら写真は新教会のみ。
pict-デルフト 14.jpg

フェルメールの時代オランダで4番目に大きな都市だったと言うデルフトはオランダ東インド会社の支部も置かれていた。当時重要な商業地であり芸術の拠点でもあったそうだ。

フェルメールとデルフト(Delft)つづく
リンク ​ デルフト(Delft) 2 (マルクト広場とフェルメール)

リンク ​ デルフト(Delft) 3 (市長舎と新教会)
リンク ​ デルフト(Delft) 4 (新教会とオラニエ公家の墓所と聖遺物の話)
リンク ​ デルフト(Delft) 5 (新教会からのデルフト眺望)
リンク ​ デルフト(Delft) 6 旧教会(Oude Kerk) フェルメールの墓
リンク ​ デルフト(Delft) 7 プリンセンホフ博物館と 番外、出島問題(中世日本の交易)

リンク ​ ヨハネス・フェルメール(Johannes Vermeer)とメーヘレン
リンク ​ デルフト焼き(Delfts blauwx)






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Last updated  2020年11月08日 16時43分32秒
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