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半年ぶりに楽天ブログに帰ってきた。近頃はmixiの方が自分にとっては主流になってきて、このブログもmixiに繋げようと設定を試みたもののうまくいかなかった。文章内容もどうやって振り分けようか考えもしたけれど明確にはならず。mixiの方はというと閲覧者がほぼリアルな顔見知りでありそれだけに反応も良く、やはり日記といっても反応のある方に力が入るのは必至のことであった。だけれども、閲覧者が顔見知りだからこそ書きにくい事もあるなと感じ始めた。私は色んな顔を持った人間である。いや、それは誰だってそうなのかもしれないけど、私はそれを自覚したいのだ。この半年の間、私は中国で就職をし、かなり待遇は良かったものの、たった4ヶ月で辞めてしまった。中国の汚染の現状や職を求めて中国全土からやってくる人達のせいで治安が乱れている様子を目の当たりにし、日本をはじめ先進国が裕福に暮らせている分の皺寄せがこういうところに表れているんだ、と思ったものだった。それでも自分自身その恩恵を大いに受けて好きなことをし続けられているのであって地球を汚しつつもそれで何千、何万という人達が職にありつき胃袋を満たしているのだという事実もあるのだから、のらりくらりと日々を過ごしている者が大きな顔をして偉そうに言えるものでもなかった。私にできたことは、ただ静かに立ち去ることだけだった。そして、今私はタイにいる。英語を勉強して色々な国を見て回りたいという目標を後回しにしてここにやってきたのはタイ人である相方と、これまでお互いに母国語以外で話してきたこと、どちらかが母国語を話せばこれまでより意思の疎通が明確になるんじゃないかと思われたこと、そして、今タイ語をやってやっておかないと、もしかして永遠に私はこの言葉を習得しようとは思わないんじゃないだろうか、と思ったことだった。しかし、ここに来て2ヶ月。当初の目標レベルには一向に達していない。中国語であれば音声がわからなくても意味は解るということもあったが、タイ語はアルファベットと同じで文字を覚えても単語そのものを覚えないと使い物にならないのである。街中で見かける看板も皆目理解できない。私に解読できるのはせいぜいコーヒーとか、卵とか(苦笑)。中国では滞在4ヶ月目で「日本語シック」が訪れたものだが、タイでは早くも2ヶ月目でそのときが訪れた。『旅の指差し会話帳:カンボジア版』の著者の方も、「言いたいことがないと言葉はなかなか覚えないし、話さないとうまくはならない。自分が何をしたいのかわからないと何を言いたいのかも解らない」というようなことを書いておられたが、これには私も同感した。私は口数が多い方ではない、と言えば語弊がある。言いたいことがあれば饒舌にもなるし、何を話していいのかわからなければ無口にもなる。アルバイトなりボランティア活動なり、何らかの手段を持って社会の中に入っていくことを考えていった方がいいかもしれない。
2006年11月26日
連休は4日だけだったが、4月で学生ビザが切れてしまうということもあり、うまい具合に連休前日に出張という形で朝から会社の出張手当で(しかも香港まで直通!!)出発したので、実質5連休となった。例のごとく重慶マンションで一応タイまでの航空券も見たが、普段の2、3倍する上に連休最終日である5/3ではなく5/2に戻ってくるのしかないと言われ、どうしようか迷っているうちに「もう航空会社の窓口しまったよ!!」と言われた…まだ昼の1時だったのに?!まぁ高いお金で急ぎ足の旅をするより時間のある時ゆっくりしよう、とそれはそれで納得がいった。旅は香港で1泊、マカオで3泊した。マカオの西洋と中華の入り混じった風景が何とも良かった。マカオと香港では同じ漢字でも繁体字と呼ばれる文字が使われ、国境ゲートを越えると中国本土では街中で見かける文字が簡体字になる。繁体字(広東語)には簡体字(標準語)には無い文字もあるが、私はこの繁体字が好きだ。あれほど漢字があったら中国人でも使いこなすのは難しいと思うが、簡体字になってちょっとダサくなったなぁ、と思う文字もある。マカオの街は、勿論全てが西洋風というわけではなく、コテコテ中国な部分もあった。そういう場所を歩いていると、不思議と中国本土より中国らしい気がした。自分の追い求めていた中国がそこにあった。それは多分、その繁体字と歴史と、何年もそこに住み着いている人たちの生活のニオイからくるものだろうと思われた。国境ゲートを越えたすぐ隣の深センや珠海は、最近になって急にできあがった街なのだ。
2006年05月04日
renkyu toiu kotode,HongKong de 1nichi sugoshi,kinou kara Macau ni imasu.kokowa mou natsu desu.atsui. demo,kono machi nami!!daisuki sa!!!Europe to China ga zetsumyou na kanjide irimajitte iru.hito mo mina yasashii.DongGuan ni kaeritaku nakunatte kuru...HongKong mo Macau mo rekishi no aru machi dakara darou ka,ima miyou mimane de tsukurareta machi dewa naku,iron'na hito no seikatsu ga shimikonde ite,sono okuno hukasa gamachi no hun'iki to shite nijimi deteite,soko ni mi wo hitashite iruto totemo igokochi ga iinode aru.shigoto ga koko de mitsukareba sumitai kurai da.kinou wa cajino ni itte kimashita.ie,mirudake desu.cajino to kikuto doushitemo america-jin no ude no hutoi ossan yakin-patsu no anee-chan wo omoi ukabete shimauga,kokowa dokowo miwatashitemokuroi atama no kogarana oushou jinshu bakari datta.demo sagashi tara Andy Lau toka itakamo shirenai(uso).1F wa $50(\750kurai)toka $100 kurai no kakekinde cajino no kibun wo tanoshinderu China hondo no hito tachi bakari no you datta ga,5F no VIP wa chotto yousu ga chigatta.sasugani kono heya wa hito ga sukuna katta ga,min'na daitai temoto ni $20,000(\300,000) kurai wa motte ita.ooi hito dato sono 10bai kurai atta...ashiwo hiroge tabemono wo kuchi ni hakobi nagarakakegoto suru josei no sugata wa yahari Chinese dato omottaga,mina yoku mitemiruto,minitsuketeru tokei ya huku no kiji,shitate ga chigau!!watashi wa koko ni TETSUWAN-ATOM no ja-ji to yoreyore no G-pan,soshite gomu-zouri toiu idetachi de yatte kitaga,akirakani hitoridake bachigai datta...demo tonikaku Macau ni kite yokatta!!
2006年05月01日
kono nikki nihongo de kakitai na...shuushoku shite 1kagetsu tatanaiga,kore wo tsuzukeru ka mayotte iru.shokuba ya shigoto niwa nare,shataku mo kini itta.Chinese to mainichi shigoto shiteru to,karera no kotoba mawashi ga wakattekite,jibun no shinpo mo jikkan dekiru.kakawaru hitotachi mo yasashii.tada,kono Kanton-shou no osen no koto ga kini natteru.koko no osen wa,tooku Kunming made todoite iru.watashi ga kono shigoto tsuduke you ga yameyou ga jittai wa kawaranain dakedo,soko ni jibun ga katan surunowa dounandarou to omoihajimeta.dakedo,souiu onkei wo ukete watashi tachi nihon-jin wa yutaka ni kurashi,watashi jishin mo sukina koto wo tsuzuke rareteru noda.China de shigoto suruno wa hantoshi ka 1nen to kimete iru.watashai wa hoka no kuni mo minakereba naranai.doushiyou.....
2006年04月15日
就職して2週間はExselとWordの特訓だったが、今週に入って本社採用の人のアシスタントに加わり、急に忙しくなった。右も左もわからない状態だけど、責任はのしかかってるので、逃亡したくなってくる。今やってるのは、とある企業から、資料や部品収集の依頼を受ける仕事で、電子機器Aを組み立てるのに、いついつまでにこういう部品を集めて、そのそれぞれの部品が作られた過程で使用禁止物質を使ってないか、ということを調べるのだが、例えばパソコンのマウスひとつ作るのにも30以上の部品からなっていて、そのそれぞれの部品製造会社もまたどこかに問い合わせたりしなくちゃならないから、会社によっては期限内に資料を提出してもらえないってことがある。大体の依頼が締め切り期限に余裕がなく、なんでもっと余裕もたせてくれないんだろう、と思う。プレッシャーも大きく、どれだけチカラ抜いて淡々と作業を進められるかが、今後のポイントになってくるだろう。普段何気なく使っている身近な電子機器が作られるのにも、数知れない人たちが奔走していたんだと知った。もっとも、私はいつまで続くかわからないが…(今からでも逃げたい)
2006年04月05日
hisabisa da.senshuu kara Kanton-shou no DongGuang to iu machide hataraki hajimeta. kikinare nai machi daga,Koushuu to Shinsen no aida ni aru.kaisha niwa Chinese no kouin-san ga 7000 nin mo iru.watashi wa kokyaku tono yaritori wo suru yakushoku daga,Excel to Word wo tsukaenai to shigoto ni naran toiukotode,ima wa mainichi boss no tokkun wo ukete iru.okane moratte benkyou shiteru joutai nanode,chotto sumanai kimo suruga....kyou wa,kongetsu de taisha suru Nihon-josei nosoubetsukai ga atta.kanojo wa koko ni 2 nen itarashii.watashi wa kyonen mo nihon no sakuara wo minogashiteiu ga,ima kaettara,kotoshi no sakura wa mirerunaa.watashi wa mada koko ni tokekometeorazu,PC to mukaiatteru dakeno mainichi daga,hoka no tochi to onaji you ni najinde ikukoto wa dekirudarouka?
2006年03月30日
たった1週間って、早すぎる!!もっとどっぷりしてたかったなぁ…昨日は、ミャンマーで挙式を終えたミャンマーガールとその日本人の新郎、そしてタイの女の子とその彼である日本男児Kちゃん、そしてPと私の6人で再会することができた。6人とも元同じ学校に留学していた仲間である。ミャンマーガール達は、日本行きのビザを取るために急いで式を挙げたらしかったけど、やっぱり入籍を果たすのにはまだまだめんどくさい工程を経なければならないらしい。外国人がミャンマーに入国するには飛行機でしか方法がなく、彼は結婚手続きのために2回もミャンマーに行ったのに、いざ大使館などに問い合わせても、的確な指示がなされないようだ。Kちゃんは、空港近くで暮らす彼女の部屋に転がり込んで、アパートの守衛のおっちゃんと飲み交わしたり、近所の屋外食堂でタダで食べさせてもらうかわりに仕事を手伝うという生活をしている。3ヶ月そういう生活をし、友達も増え、タイ人とタイ語で日常的な会話はできるようになっていた。この人はどこまでもネタの尽きない人でこれからもきっと他の人が想像もつかないような道を歩んで行くんだろうなぁ、と思う。みんなで会った後、私はKちゃんと彼女のアパートに泊めてもらった。彼女は空港の免税店で働いているので知らない間に出かけて言った。
2006年03月16日
昨夜11時45分に香港を出た飛行機は、2時間半後バンコクに着いた。夜中で宿も取ってなかったので、夜は空港のロビーで過ごした。暑い。それでも私は寒いよりずっと好きだ。今回、3回目のタイで、初めてバックパッカーの聖地、カオサンに泊まることにした。宿泊費は個室バストイレ共用で190バーツ(約600円)。ここはタイなのに白人、黄色人、インド人の姿をよく見かける。却ってタイ人の方が少ないかもしれない。穏やかに流れる時間の中をさ迷っていると、そんなにせかせか急がなくてもいいじゃないか、って思える。今回は1年半ぶりに飛行機に乗って移動したが、ここ数日で通過した街の趣の違うこと。このまったりした短期旅行の後には、汚染された空の下、中国語づけの生活が待っている。
2006年03月11日
航空券を手配するため、昨日から香港にやってきた。私の住むことになったドングアンって街は広州市と深セン市の間にあり、列車を乗り継げば2時間で香港にやって来れる。(ちなみに直通列車なら160元、乗り継いだら70元くらい)でも景色は大違いだな。香港に住んでみてーってちょっと思った。重慶マンションってのは有名だけど、危ないらしい、っていうことでこれまで近寄らないようにしていたが、たぶんここなら航空券が安く手に入るだろうと思い、意を決して突入してみた。ここはインド人や黒人が多く、異国の雰囲気であった。一応警備員も何人かいた。インド人が営むカレー専門店もいくつかあり、食してみたが、おいしかった。航空券は頭にターバンを巻いたおじさん(シーク教の人?)が次から次へとやってくる客に忙しそうに手配していた。私は21日からの出勤なので、それまでに日本とタイに足を運ぼうと思ったけど、出費の割にはゆっくりできそうにないので、今晩から17日までタイにだけ行くことにした。香港での宿は重慶マンションの近くにある美麗都マンションの 中にあるドミトリーにした。この建物にも、ゲストハウスがたくさん入っている。その中で私は1日50ドルのドミーに泊まった。他に客は無かったらしく、南京出身というおばさんはシャワーの時には個室に案内してくれ、チャックアウトも午後何時でもいいよ、と言ってくれたが、私が日本人と知ってからか、正午12時チャックアウトと言い直してきたまではよかったが、宿のおじさん、兄ちゃんと一緒に喋っている時、「この子日本人だよ。小日本」って言ってきて「ああ…」って思った。(小日本「シャオリーベン」ってのは、中国人が日本人をバカにして言う言い方)兄ちゃんはかばって「シェンマ シャオリーベン(何が小日本だよ)」って言ってくれたけど、やっぱり残念に思った。今タイには留学時代の友達も何人かいるので、彼らにも会えたらいいなぁ。
2006年03月10日
広東省に来て約10日、就職先が決まった。こっちでは、先に就職していた昆明時代の友達が色々と世話をしてくれたので、土地にも案外早く馴染めたように思う。中国華南地区では日本人は割りと仕事が見つけやすいけど、実際始めるとみんな大変そうだ。でもやったことの無い職種なので、自分のスキルアップに繋げたい。仕事に就く前に日本に帰れるかな、ちょっとBOSSに相談してみる。もし帰れたら、関係者諸氏、接待宜しく。
2006年03月08日
Pが帰国してもうすぐ1ヶ月が過ぎようとしている。一見寂しいようだが、私には今しばらく自分を取り戻す時間が必要なようだ。彼は元々メールも電話もマメではない。「寂しければ、家で一人で塞ぎこまず、友達と遊べ」と彼は言った。私はそれを、信用されているととっていいのか、無関心ととっていいのか解らず、「無関心ならもう連絡しないよ」などとメールしたりしたのだが、彼の方は「何を怒っているのか。それは冗談?そういう笑い話はしたくないね」としか返信して来なかった。そのことと就職活動のことで私は最近やりきれない日々が続いていたが、彼と出会う前の自分を思い返してみると、私はもっとポジティブで自分のことが好きだったと言い切れる。昔は人との距離がうまくとれず、相手の性別に関係なく、その人と関わらないか入れ込み過ぎるかのどちらかしかできなかった。それが年を取るにつれ、相手に合わせて加減ができるようになってきたんだけど、この異国の地で、恋人と一緒に暮らすようになって、自分は彼の精神の中に入り込もうとし過ぎてたな、理想を押し付けていたなと、最近になって反省できるようになってきた。例え国籍や母国語は違っても、人間と人間。彼と過ごした1年と少し、私は一番近い人に対して、そして私自身に対して、もしかして一番礼儀を欠いていたのかもしれなかった。彼を理解しようとしても、所詮それは自分の目を通して見た独り善がりの憶測にしか過ぎない。わからないものはわからないままに、そういうものとして捕えた方が気が楽だし、もしかして尊重するってそういうことなのかもしれない。そして多分、彼は自分自身を好きな私を好きになってくれたんだ。
2006年03月05日
ああ、もう大都会ですわ。昆明と違って地下鉄も発達しつつあるし、人も、見た目土臭い雲南より清潔感がある。道歩いてると人の顔を見て意味なくニタニタする奴や、「もしかして知り合い?」とか言ってしきりに声をかけてくる奴がいて、わぁ、なんか病んでるなぁ…と感じる。広州駅を降りるとたえず「見知らぬ人には耳を貸すな」という放送が流れており、街中の警官の数も多い。一昨日の昼ごろ広州に着き、仕事とアパートが見つかるまで荷物を友人宅で預かっといてもらうため、その友達とあっちこっち奔走した。最後ホテルに戻ったらもう23時を過ぎてしまった。昨日は午後から仕事の面接だったので、午前中に面接用の服を買いに出かけたのだが、これがなかなか見つからない。4階立てのビル丸ごとジーパンを売ってたり、1着では売らない、下着しか売ってない、紳士服しかない、上着しかない…ビル単位でこれだから、参った。やっと見つかった服と靴も着慣れないタイプのもので、…もうよそう。あかんわ。最近。いけてへんわ自分。色んな人が親切にしてくれてるのに、マイナスの方ばっかに気がとられてる。
2006年02月28日
本日2発目の日記、元気に行ってみよーっ!!(←でも普段あまり書いてない)今日はとうとう最後の二胡授業となってしまった。最後の授業は老師宅で。弦は割りと正確な位置を抑えられるようになったんだけど、弓は習い始めて1年以上たった今でも、まともに動かせない。教えられた通りにやってるつもりなのに、「不対!不好看(違うっちゅーねん。見た目悪いって)」と、最後の最後まで言われてしまった。これはできる人は割りと早い時期にできるようになるんだけど、うーーん、どうしたものか。。。ところで、先週は普段使ってる教室でレッスンした後に自宅に連れて行っていただき、奥さんの手料理をよばれた。食卓につくと、まるで小さい子供のようにお茶碗におかずを入れていってくれる。急な客にも関わらず、厚いおもてなしを受けて有難いこっです。清潔で、整理させた部屋を案内してもらった。老師の両親の写真。お母さん、同じ顔やった。趣味で骨董品を集めておられ、その中でも鼻煙壺はかなりの数だった。「毎日眺めてるんだよ~」と、とても愛しそうに手に取る老師。「先生、そんなんばっか見てんと、奥さん見ィなぁ!」って言うと笑っていたけど、奥さんは奥さんで熱帯魚に夢中らしい。だけど、もし自分の旦那がコレクションに際限なくお金を投資していたら私ならキレそうだが、ただ静かに見守っている奥さんはよーできてはるなぁ、なんて違うとこで感心したりした。今度老師宅にお邪魔した時には、もっと増えてんだろうなぁ、鼻煙壺。
2006年02月23日
明後日昆明を出る。荷物は先に広州駅に送っておいた。有難いことに先程、仲介会社様から「広州に着いた翌日、第1社目の面接はどーだね」との電話を戴いた。…おお、面接で着れるような服と靴、、持ってねーぞ?!関係ないけど、自宅にパソコンを備えてないので毎日覗くことはできないんだけど、久しぶりに見た時、トラックバックに時々おかしなものが張り付いていて焦る。あれ、止めてほしいなぁ…
2006年02月23日
今月25日、いよいよ住み慣れた昆明を離れることになった。Pは11日に帰国し、私の切符もいつでも買えると思ってたのに、足はすぐには駅に向かわなかった。荷物をまとめにかかり、切符を手にした今でも、まだリアリティーに欠ける。いざ列車に乗って、新しい土地を踏みしめたとき、始めて実感が沸き起こってくるものなのかもしれない。早かったなぁ、この1年と4ヶ月。2つも年をとってしまった。宿の大家は1年以上もヒビの入った老眼鏡をしていたのに、こないだ会ったときは新しいのを架けていたな。あの老眼鏡は、一体いつからヒビが入っていたんだろう。もう捨ててしまったのかな。たくさんの思い出が染み込んだ部屋。色んな人が訪れてくれた。見知らぬ人たちの名前がたくさん記された冷蔵庫。もう人手に渡ってしまうことも決まってるんだ。今度昆明に戻ってきても、もうあの部屋は私の居場所ではないんだ。
2006年02月16日
ミャンマーガールもその日本人の彼も行ってしまった。まさか結婚することになるとは。今じゃお互いなしではいられないくらい仲が良くて。明日はいよいよ相方のPが帰国してしまう。数えきれないくらいぶつかったけど、よく1年以上も一緒に暮らしたなぁ。『もしお互い離れて暮らして、それぞれ他に大事な人ができても、私達はずっと友達でいようね。もし半年、1年離れていてもまだお互いを思っていられるのなら、結婚してもいいし』それぞれが幸せで、充実した毎日が送れることが一番なんだ。
2006年02月10日
春節を迎えて2日。地元の中国人たちは家で過ごしているのか、親戚などを訪ねているのか、通りに出ると人は少なく、シャッターを閉めた店も多く、街は閑散としている。28日の夜からは(やっぱり?)日本人たちで集まって中国の新年を迎えた。日が落ちてからはあちこちで打ち上げ花火や爆竹の音がし始め、午前0時を迎えると共に、室内にも轟く爆音が。私たち(平均年齢29.4歳)は『わーい』とばかりに外に飛び出した。辺りは火薬で仄かに白く、団地の窓から花火をする人、外に出てする人、それぞれ興奮でいっぱいだった。私たちはそのまま近くのお寺に向かったが、まさに『初詣』の人で溢れていた。門の前には爆竹用のドラム缶が用意されており、鳴りやむことがなかった。カモフラージュの服を着た公安の人数名も出動。初めての春節に、こちらまで熱くこみ上げてくるものがあった。はじめてこの国に融けこんだ気がした。『日本では爆竹鳴らさないの?!』と言った人がいたけど、生まれた時からこれを体験してたら、年に一度のこの日を、すごく楽しみにするわけだ、と分かった気がした。もし、今度また他の土地に行ったなら、絶対 その土地の重要なイベントには参加した方がいいな、こりゃ。
2006年01月30日
中国では陰暦の正月の方がメインということで、今年は明後日がその本番。門のところに『福』という文字を逆さに張っている人や(この意味は,「福倒了」という発音を,音の近い「福到了」にかけているとのこと)、祝いの色、赤で彩られた箱に詰めて売っている果物、昼間からシャッターを閉めている店などちらほら見かける。その反面、クリスマスの飾りもまだ残っている。まぁ、日本では12月26日から急に見かけなくなるのでそれはそれでちょっと寂しいんだけど、たぶん中国での意味は、「せっかく飾り付けたのに、すぐに剥がしたらもったいない」「めんどくさい」ってとこだと思う。去年の春節はタイで迎えたので、中国では今回が初めて。中国人の知人に、「タイのチャイナタウンでは春節のとき赤い服を着てる人をたくさん見かけたけど、君らも着るの?」って聞いたら、「いいえ」と、苦笑していた。中国本土の人は今では着ることはないが、かえって海外に移り住んだ華僑たちの方が伝統を守っているらしい。明日は、爆竹とかでにぎやかになるのかしらん?楽しみなような、ちょっと怖いような…
2006年01月27日
今日でまたひとつ年をとってしまいました。この日は相方の友達のタイ人と、観光にきていたその父と妹が帰国する日で、私たちは昼食を共にし、彼らを空港に見送りに行ったのだが、他の多くのタイ人留学生たちも同じ便で帰国だったらしく、いろんな人におめでとうを言ってもらった。もうそろそろ嬉しくない年だけれども、こうして無事に年を重ねられることはありがたいことです。もっとも、カッコイイ大人になりたいと思うんだけど…
2006年01月26日
月曜から2泊3日で元陽と、建水というところに行ってきた。元陽は昆明からバスで7時間ほど南下したところにあり、広大な棚田で有名なところだが、どういう訳か10メートル先でも霞がかっているほど霧が深く、寒かった。30メートル先だともう完璧霧に埋もれてしまっていて、景色を見るなんて到底できなかった。地元の人曰く、3日前は天気が良かった、ということで、まぁ、タイミングですな。ちなみに7,8月が一番綺麗らしい。霧で何もできない元陽を1泊で後にし、バスの兄ちゃんに勧められるまま建水という町に向かった。ここは昆明よりもいくらか小さく、石畳の道と古い建物もいくらか残っていて、新旧入り混じった場所だった。人口密度が少なく、元陽もだけど、こういうところは人がいい。(昆明出発前の夜に食べたシャオカオ≪中華風バーベキュー≫で 体調を崩しっぱなしだったこともあったが)受付の女の子がいい子そうだったので、建水でも最初に尋ねた宿にすぐにチェックインしてしまった。部屋はまずまず良かったが、「24時間熱水」と書いてあったにも関わらず、断水でお湯が出なかった。体調崩したりお湯が出ないという理由で4日も頭を洗えなかったのはちょっとイタかったが、いい人たちに出会えたので、この旅はこれはこれで良かったのかもしれない。
2006年01月25日
これは将来を語る「夢」ではなく、寝てるときに見る「夢」の話。私の夢は、カラーである。雲ひとつない青空の下、舗装されていない砂ぼこの坂道を自転車で登っているときに、あんまり空が綺麗なんで立ち止まってケータイを取り出し、写メールを撮る、という夢なんて、ちょっと素敵でしょ?おじいちゃん家の庭で友達と立ち話をしているとき、ウルフルズのトータス松本氏が赤いママチャリを押して向かってきた、というのもあった。ちなみに自転車には「中坊秀樹」と書いてあった。(しかし知り合いにそんな人はいない)で、こないだは、とうとう嗅覚も登場した。どこか知らないが、室内で見知らぬひと数人といた。私はそこで無音のおなら(すかしっ屁というやつですな)をしてしまったのだが、「あ」と思った時にはもう遅かった。臭いは辺りに広がり始めていた。私は何食わぬ顔でドアに向かい、「なんか臭くない?」という声を後にした。ドキドキした。だけど、誰かおならしたのかもしれないね、実際。
2006年01月22日
以前日記にも書いた「いっしー」から引き継いだラテンダンスの回数券を使って、友人と3人で踊ってきた。教室には壁に沿って大きな鏡が張り巡らされており、前からも横からも自分のダンスをチェックできるようになっている。いやはや。スピードは着いて行かんし、腰は回らんし。私が左右にステップを踏んだなら、まるで野球で「リー、リー」ってやってるよう。私の前で踊っていた身長150cm未満のミャンマーガールに至っては、「おかあさんといっしょ」を見ながら踊っている子供にしか見えんかった。なんでターンするとき手を羽ばたかせるのか。「ほら、こうやって腰をうねらせるのよ!」って、あんたのそれは、日本じゃ「ドルフィンキック」っていうんだよ、と。今月22日から3週間も教室は休みになってしまう。休みまでに、どれだけ進歩できるんだろう、私たち!!
2006年01月11日
本学期快要完了.假期我可能去越南.但是我男朋友不想去那里.所以我先去越南,回来后去其他地方玩.
2006年01月10日
最近の二胡レッスンは、私がもうじき昆明を離れるということで駆け足で教えてもらってるが、本来は一つの曲を5年、10年とかけて磨きあげていくものらしい。一年くらい習えばあとは自分で練習していくことはなんとか可能らしいが、たった数ケ月で去って行く人も中にはいるわけで、老師としてはやはり惜しそうだ。今日のレッスンの後は、他に生徒が控えてなかったので老師と共に二胡のCDを買いに行った。歩きながら老師は語る。『今じゃ昆明は出稼ぎの地方の人で、街は溢れかえってしまっている。大きなビルが立ち並び、老昆明(古い街並み)もほんの一部でしか見ることができなくなってしまった。どうしようもない。こういうことは突然起こったわけじゃないが、頭は着いていかない』そりゃあ、ここで生まれ、ここで育って年をとっていった人にとっては、その風景が失われ、新しい物にとって変わっていくのを見届けるのは少なからず混乱と寂しさがあるだろう。おじいちゃん先生の授業も残すところあとわずか。『お金を貯めたらまた戻ってきなさい。その時は私の家に泊まればいい。電話をくれれば飛行場まで迎えに行くよ』古い風景が失われても、人の心はまだまだ暖かい。こう言ってくれる人がいるこの街は、私にとって第二の故郷と言えるだろう。
2006年01月02日
今回の年越しは、広州、深セン、上海に赴任した仲間も昆明に戻ってきて、まだ在昆の日本人と共に集まってそばをすすった。彼らは口を揃えて「空気が綺麗」「落ち着く」、と言う。今学期が終わると、知人のほとんどがここを去るが、それでも来年ここに集まったら面白いなぁ。最近、日本語を喋る時、言葉が出てこない。だからって、中国語が流暢だという訳でもない。半端な位置におります。
2006年01月02日
一昨日、昨日のクリスマスはとても有意義に過ごせました。 24日の方は、うちの班の韓国人達が家に招待してくれた。彼らは昆明の郊外に家を2件借りて(買って?)いて、それぞれ男子寮、女子寮と分かれて暮らしている。通っている学校はみな同じではないが、全員で2、30人いる。寮には世話係のおばさんがいて、家の中は塵ひとつなく、手入れが行き届いていた。ギターだけでなく、ドラム・ピアノといった楽器まであった。私たちは特に会費というものは払わなかったが、韓国料理、歌(伴奏も自分達でしていて、かなりうまい)、ダンスで手の込んだもてなしをしてくれた。練習、準備など、大変だっただろう。予想以上に楽しく過ごせたし、よく笑えた。帰りにはお土産までもらったが、ここまで熱烈にもてなされると、日ごろの自分の人に対する態度も改めた方がいいよなぁ、と思わざるを得なかった。25日は我が家で日本人が集まってキムチ&味噌鍋パーティー。当初はキムチのみの予定だったが、「カライノダメ!」という輩がおったので、急遽2タイプの鍋を用意することに。酒の飲み過ぎで10代の若者のような毒舌を吐くものあり、飲まされ過ぎで顔が青白くなるものあり。↑は酔うといけない言葉を連発する癖があるのでみなそれを狙って飲ませていたのだが、ペース配分を間違った。その前に寝込んでしまった。さて、クリスマスが終わるといよいよ年末の雰囲気。日本では街の飾り付けが変わりテレビの内容も年越し特番になる。この雰囲気は好きだが、中国ではクリスマスも年末も日本のように目に見えて変わるということはない。クリスマスが盛り上がるのは大手スーパーとケーキ屋と外国人くらい。年越しも、こちらでは旧正月の方が重要なのである。関係ないが、うちの向かいのレストランでは毎日「パッピー・バースデー・トゥーユー」がかかっている。正月を過ぎて暫くすると、私はもうひとつ年をとってしまいます。_______________________p.s.私書箱にメール戴いた方。 2週間くらい遅れて返信しましたが、 ちゃんと届きましたか? 郵便物は日本に送れましたか?
2005年12月26日
先月いっぱいで、我らが昆明の仲間のひとり、いっしーが、仕事を求めて深センに旅立った。いっしーは以前マレーシアで2年働いていたこともあり、英語が堪能だ。「何を血迷って中国の、しかもこんな僻地に来たのだ?」というくらい(これは誉めてる)美しさと可愛らしさとカッコ良さを併せ持ったお姉さん。中国語は今年3月からここ昆明で始めたが、同時にラテンダンス教室にひとりで乗り込んだり、いつのまにかどっかに旅行に行ってたり、やっぱり突飛なバックパッカー。で、こないだはいっしーの「ラストダンス(教室)」を見学しに5人で着いて行った。先生は生粋の「昆明人(女子)」らしいが、かっこいい。いっしーが惚れる訳だ。全身から、表情から自信が表れてる。暫くして、髪を結わえた黒のロングコートの男子も現れたが、こちらも先生らしい。二人のセッションが始まると、見とれてしまった。「昆明のどこにこのような民がおったのだ」、と。私?まずあのヒール履いた時点で転ぶやろね。しかしラテンダンスはあからさまにエロい。見てる方が時々恥ずかしくなる。「音楽」「美術」「ダンス」この中で一番恥ずかしいのは「ダンス」じゃないかと思った。
2005年12月05日
今日は伯母の命日やったな。もう14年か。彼女は独身のまま、自分の本当の病名も知らずに亡くなっていった。私はまだ中学生で、入院中の彼女とはしばらく顔を合わせていなかったが、まさか死に至る病だとは思わなかった。当時は(以降長い間)彼女の死が恐ろしく感じられたものだが、自分も年をとるに連れ、かなりの美貌を持っていながら激し過ぎる気性で、何があったか知らないが、親しかった友人と絶交し、それでいながら私たち姉弟や従兄弟をかわいがってくれついに独身のまま短い生涯を終えた、そのあまりにも不器用で悲しい過ぎる性をある種の感慨をもって思い浮かべるようになってきた。あの人が生きていたら、この成長した私とどんな話をしたのだろう?あの人が結婚していたら、旦那さんはどんな人だったろう?子供はどんな子だったろう?自分の中で彼女の死とは何なのだろう。固体が無くなった事実を受け入れることなら容易だ。だが、彼女の「思い」を咀嚼して理解することなら、どう思いを巡らせようとしたってそれは私の独り善がりにしか過ぎないだろう。だから「手を合わせて拝むこと」は、私がすると何だか偽善くさい。-----無論、心底それができれば立派だが彼女はもっと生きたかったはずだ。まさかあんな形で人生を終えるとは思っていなかったはずだ。だけど私たち後に残されたものは人の死をいつまでも暗くじめじめした記憶として引きずって行くべきではない。死の印象は強烈だが…生きていた時間の光彩の中に(本人ができなければ他者が)その人の「意味」を見出すことを、本当は誰もが望んでいるんじゃないか。
2005年12月05日
二胡が面白い。いや、まだまだヘタクソなんだが、昆明滞在期間がもうそんなに長くないということで、先生が気を使って詰め込み体勢に入ってきた。コードは今までに4つ習い、あと一つで学び終える。今習ってる曲も表現が難しいが、いい曲だ。二胡の演奏上の特徴は、弦の上の指を上下に滑らせたり音を震わせたりすることだが、これがなかなかうまくできない。私がやると、音が硬く、二胡そのものも動いてしまう。老師がやると二胡は動かんし、本当なら、軽く弦を抑え、音の硬軟も自分で意識して弾き分けられるべきなのだ。そして高音になればなるほど、正しい音の位置で抑えられるようになるにも、かなりの練習がいる。何だか、後2ヶ月ちょいでここを離れるのは勿体無い気がしてきた。
2005年11月28日
HSK(漢語水平考試)まで、残すとこあと1ヶ月を切った。過去問をいくつか解いて解説読んでも、飛躍的な成果は遂げられず。ノーーーーーーーーォゥッ!!!副詞は嫌いだ。穴埋めも嫌いだ。聞き取りも嫌いだ。この試験は、例えば読解が得意だから、って、それで点を稼ぐことはできない。全部平均的に良くないとそれ相応の級が貰えない。…とりあえず副詞を何とかするか……。
2005年11月28日
耐えられませんなぁ。暑いのは結構平気なんですが。昆明はここ数日、雨が降るでもないがエラク寒い。と言っても日本の冬に比べたらマシなのかもしれんが、私には京都の冬も既に拷問だった。数日水道のお湯が出ないので、昨日は鍋でお湯を沸かして頭と顔だけ洗った。今日はとうとうダウンジャケットにマフラー装備して外出。周りを見回してもさすがにそこまで着込んでる人はいなかったが、「どうだ、私は今、寒くないんだ!」とばかり、私はちょっと得意だった。 その装備で二胡レッスンに行ったが、おじいちゃん先生でも私ほど着込んでなく、私の寒がり様にえらくウケてらした。早くたっぷりのお湯で風呂に入りたいです。
2005年11月21日
今日、翠湖賓館というところで日本の派遣会社の就職説明会がありました。最近まで昆明にいたルカちゃんが取り計らってくれたんですが、通常は昆明ではこういう機会はなく、香港や上海などの大きな都市に行かないと仕事は探しにくいので、学期半ばで昆明でこういう機会が持てたことに感謝しています。翠湖賓館は超一流ホテルで、私は昆明でこんなリッチな建物に足を踏み入れたことはなかった。トイレには「トイレ業務員」が待機しており、我々がトイレに足を踏み入れると「下午好」と挨拶をし、事を終えると蛇口をひねってくれ、手を洗い終えると手挟みでハンドタオルを渡してくれる。もちろん便器横にはティッシュも装備してある。面接直前はさすがに緊張したが、面接官は(やはり?)元バックパッカー。仕事の面接だったが、コーヒーをよばれ、「バラナシ(インドの町のひとつ)はヤバイよね」って話に至る。昆明生活も残り3ヶ月となり、HSK(漢語水平考試)も1ヶ月後に控え、「中国で就職」がリアルなものになりつつある。
2005年11月12日
朝の布団の中って、なんであんなに気持ちいいんだろう…今朝の夢はクリスマス前の池袋が舞台だった。でもそれは、実際の風景とはかなり違うものになっていた。夜、メトロポリタン口付近はどのビルも電飾で華やかに飾りつけられていた。駅の一階にはケーキ屋さんがあり、中を覗き込むと同郷の女の子3人がそこで働いていた。…なぜその3人が夢に出てきたのかはわからないが…私は店の外からケーキを眺めながら、「気づいてくれたらいいなぁ」、と思った。
2005年11月11日
昆明に戻ってきて早3週間が過ぎた。1年もこの土地にいると、結構愛着が湧いてしまった。華僑補習学校の先生や学生、二胡の先生もみんな大好きだ。あと5歳若かったら、もっと中国語も二胡も極めてから他所の土地に移りたいとこなのだが…年はとっていくし。 世界はもっと広いし、地図上で自分が動いた範囲を見ると、ほんとにごく一部の限られた範囲でしかない。ああ、もっと想像もつかない、面白いことが地球のどこかで起こっているんだろうなぁ…そう思うと、やはり移動しなければならないのだ…
2005年11月07日
上海を離れるのはちょっと名残り惜しかったが早く相方の顔を見たかったのと、お土産の我らが『八ツ橋』の賞味期限のことが気掛かりだったので、1泊だけして先を急いだ。ちなみに今年も『浦江飯店』に泊まったが、ドミーで100元(1500円)もした。通常は70元である。上海で車の展示会があるため、その期間だけ特別の料金設定らしいが、北京でもそんなにせんぞ?!第一、車の展示会目掛けてくる人が、何で外国人バックパッカーの溜り場に泊まるのか?おまけにユースホステルやのにめっちゃ接客態度悪いし。 それでも、ここのカフェはやっぱ好き。上海から昆明へは、列車で移動。中国人は乗り合わせた人と話すのが好きらしいが、ちょっと今回は辛かった。普通に会話していて、いきなり戦争の話になるのである。こういうことは珍しくないが、いつもは中国人の誰かが止めに入ってくれる。でも今回は3、4人から一気に言われ、困った。笑顔で『日本人は鬼だ』とか言う。私が閉口してしまうと、『君達の政府は事実を若い世代に教えようとしない。だから君も何も知らない 。それは君が悪いんじゃないが、ちゃんと知ってほしい』、と。言い返してやりたいものだ。『今日本で犯罪を犯す外国人のトップは何人か知ってるか?』『君ら南京大虐殺で30万人殺されたとか言うけど、当時の南京の人口はそんだけもおらんかったらしいやないか』『漢字は中国人が作ったとか、中国には5千年の歴史があるとかアピールしてくるけど、文化は一旦文化大革命で捨てたんちゃうんか?それに今君らの使ってる単語の多くは、明治時代の日本人が作ったんやで』----まぁ、、そんなことは到底言えないが。いや、でも良くもしてもらいました。私が食料持ち込まずに乗車していると、快く食べ物を分けてくれるし、聞きとれないと何度も言い直してくれるし。それらが単なる長い列車の旅の暇潰しだとしても、人の暖かさを感じさせてくれるものだ。私がもし違う国籍を名乗れば、もしかして彼らの人なつっこさだけを受けとることが出来るのかもしれない。勿論時と場合によってはそうするが、乗車時間が長い旅ほど他の国の名を言いにくかったりする。
2005年10月22日
去年と同じ、まさかの『しんがんじん』で神戸から上海へ渡った。でも今回は去年と違って台風の影響もなく、2泊3日の船の中での生活は、快適だった。船内には日本に何十年も住む華僑の人たちも何人かいて、彼らの話を聞くのも有意義だった。そういう人は私よりも日本や日本の法律に詳しく、『小泉、良いよ』なんて言う人までいて中国本土から出たことのない中国人とはまた違った印象を受けた。彼らは自国や日本についても少し距離をおいた見方をしており、そういうことを少し嬉しく思った。上海の街は、去年とはまた違って見えた。え、こんなに面白かったっけ?!去年は『上海、見るものあまりないなぁ』って印象しか持てなかったが、同じ道を歩るいてても、なんか楽しい。長江も幅が広い割には大きく彎曲してるので、立つ位置によっては同じ夜景でも華やかさが違う。今度来た時は、この街のまた違った顔が見れるのだろうか。
2005年10月13日
ギリギリまで迷って、やっぱり今年も船で中国へ。予約なしでも余裕で上船できたので、またお世話になるかも。
2005年10月11日
さっき幼馴染みがドーナツ持って家に来てくれた。だけど私のお土産はドーナツよりはるかに安い。今日はお母さんがママさんバレーの日だったので、この幼馴染みも一緒に連れて参加させてもらった。ここには40~70代の主婦達が楽しく汗を流しに来ていた。「若い頃は綺麗やったろうなぁ」っていうようなマダムでも「うへぇ~」とかいいながらボールを追い掛けてるからオモシロイ。いや、でもみんなカワイイ。今の気候、スポーツするには丁度良かった。まさにスポーツの秋。
2005年10月07日
相方のイラストを描いてみた。気付いたら午前4時半を回ってるーー仕事も学校もないと、こういうことになる。おデコとほお骨がポイント。
2005年10月05日
これは雲南省最大のチベットのお寺。こういう現実離れした雰囲気には何とも惹かれるものがある。観光客も多かったが、地元のチベット族も熱心にお参りに来ていた。バスで半日以上かかる昆明から、同じ学校の人達とも偶然会った。寺の子だろうか、6歳くらいの男の子が毛布に包まった赤ちゃんをおぶって子守りしていたので、しばし目を奪われたりした。
2005年10月05日
これは麗江から12kmほど離れた「納西族(ナシ族)」の集落に向かう道から撮った。自転車で車道をひたすら走ったが、思っていたよりも遠くてなかなか着かず、ちょっと不安になったのを思い出す。これも写真は冴えなかったが、構図が気に入っていたのでiMacで加工してみたら、合成したみたいな変なのができあがった。
2005年10月05日
中国旅行中にマニュアルカメラで撮った写真。これはもう暗くなってからシャッタースピードをめっちゃ遅くしてとったもので、フラッシュも炊いてないし加工もしてない。現像してからこの色の鮮やかさにびっくりしたが、実際はもっと暗かった。
2005年10月05日
相方とつき合い出して早1年。私はまだ中国語が殆ど話せなかったのでタイ語・中国語、日本語・中国語の2つの辞書を使って意思の疎通を図ってたのを思い出す。今中国は国慶節で連休中。私達の学校は7連休もある。私が日本にいる間彼は一人暮らしだが、最近は学校の友達がよく家に来てくれるらしく、夜電話した時も2人だった。とりあえず寂しくはしてなさそう。でも、こーいうこと言ってみる。「なぁ、今日何の日か知ってる?」「知らん」「じゃぁ、何の記念日か知ってる?」「ああ、、知ってる」「何?」「知ってるってばー」まぁ、なかなか言ってくれませんね。
2005年10月03日
今日はもう10/4だーだが記憶を辿って。この日は仕事おさめだった。1ヶ月だけの復活だったが以前から知ってるメンバーでも出勤時間の合わない人には特にそんなこと宣伝してまわらなかった。でも最後に挨拶しておこう、と声をかけると、「いや、寂しくなるわ」と言ってくれるおばちゃん。日本語が不自由な中国人(姉)は、毎日一緒に昼御飯を食べていたが「あんたが今日が最後だって、知らなかったよ」って…私は彼女は知っていると思っていた……申し訳ないことをした。いや、あんまり自分を軽く見ちゃいかんです。
2005年09月24日
私の職場には中国出身の姉妹がいる。彼女達のお母さんが中国残留孤児で、4年半前に一族をあげて日本に渡って来たのだ。その姉妹の姉さんは今40代半ばだが中国でも小学校しか行っておらず、それも毎日ちゃんと通えたかどうかわからない。だから中国語の読み書きもできず、日本語は未だに殆ど話せない。30代後半の妹(Y)さんは中学校まで卒業し、2年半ぶりに一緒に仕事をしたら、彼女の日本語はとてもうまくなっていた。しかも時々関西弁。私は昼休みなどこの2人を相手に中国語を試していたが、Yさんと仕事をする最後の日に一言。「下次見面的時候、我的中文肯定好的多」(こんど会う時は、私の中国語はもっと良くなってるから)そしたら彼女は「そうやなぁ」と、関西弁で返してくれた。う~ん、向こうの方がウワテでした。
2005年09月23日
久々、父ちゃんと2人で映画を見に行った。母ちゃんは「チャングムちゃんが見たい」と言って拒否。舞台は1930年代、世界恐慌真っただ中のアメリカ。主人公のジミーは無敵のボクサーだったが、この頃は食べる物も満足に手に入らず、手を骨折しても日雇い労働を余儀なくされ、それも毎日仕事にありつける訳ではなかった。貧困の中で妻と3人の子供を育てるために彼は必死であった。そんな生活が3年くらい続くが、ボクサーとしては高齢だという時期に再びチャンスが巡ってきてそこでどんでん返しが起こる…すごく良かった。いいえ、泣きました。主演のラッセル・クロウの逞しい夫、お父さんぶりも良かった。本編は2時間半くらいあったがそんな時間の長さは感じさせず、また見たいと思う映画だった。
2005年09月22日
今回、友達の結婚式っていうついでがあったけど、そのことを抜いても帰国して来て良かったと感じている。武田鉄矢さんも本に書いてたけど、故郷というのは、自分をニュートラルにできる魔法の場所だからだ。去年留学に出る前、正直私はどこでも友達はできるし、どこでも生きていけると思っていた。だけど中国で1年近く生活したことで、自分は精神的には後退した感があったことを認めない訳にはいかない。その理由として考えつくのは1、自分の中国語力では、中国人や外国人の親しい友達を作ることができず、 テレビや本もすべてを理解することはできなかったし、 日本にいる時よりも却って閉塞的だった。2、仕事をしていなかった。3、ちゃんと絵を描かなかった。仕事して、色んな集まりに顔を出して刺激やストレスを受けて、絵を描くことによってそれらを自分なりに消化していく。中国に行く前の何年かはそういうスタイルができつつあった。知人には9月下旬か10月初旬に中国に戻ると話していたが、まだ出発の日を決めきれずにいる。異国で自分の意志を貫き、足場を作っていくのは実はかなり難しいと今更ながら実感している。だから今、実家で一先ず自分をニュートラルにして、ちゃんと再出発したい。
2005年09月20日
昨日はR宅で友人6人集まって鍋をし、そしてお泊まりまでさせてもらった。私は日中仕事があったので、行くのが少し億劫になってしまってたが、行けば行ったでとても楽しい時間を過ごせた。RちゃんHちゃん買い出し下ごしらえ、どうもありがとう。夜はお酒を飲んだがみんな20代後半に差しかかったからか、夜は2時には布団に就き、朝7時に起きるという、何とも健康的な飲み会だった。無理しようとはせん。Nさんだけが「日曜は名古屋までミソカツを食べに行くんだー」と、朝6時に起き、誰にも気づかれることなく出て行った。今朝のパンもR&Hちゃんが買っておいてくれたが、『牛乳が飲みたい!!」とみんなの意見が一致し(視線がTくんに集中し)、彼が1人でパシられることに。もし我々が20代前半で、出会いたてだったら「いや、私が行くよー」ってなことになったかもしれんが、誰もそんなこと言わなかった…薄情ね。ごめんえぇ、Tくん。午後は打って変わって中国で知り合った人と三条で落ち合った。たまたま実家が近かったのだ。彼女とは二胡を通じて知り合った。私たちは同じ先生に習っていたが、私はまた昆明に帰るのに対し、彼女はもう戻らないので、一緒にお土産を買って私が先生に渡すことにしたのだ。日本滞在期間と休日が限られてるのでせわしないスケジュールになったが、本来はこうしてちゃんと働いてちゃんと遊ぶのがいいなぁ。
2005年09月18日
去年のバイト先で知り合った女の子と今日は夕食。彼女はまだ同じ職場にいるので、今日の仕事が終わる頃を見計らって会社の駐車場で待ち合わせ。以前は彼女はまだ免許を持ってなかったので、バスを乗り継いで仕事に来ていたが、この1年にバイクの免許をとって単車を買ったので、単車で気軽に行ける近くのお好み焼き屋に行った。彼女まだ21歳でカワイイ顔してるんだけど、あまり若い人と出会う機会のない職場にいるのはちょっと勿体ない気がする。本人は「人見知りするから、職場変えて慣れるのにまた時間かかるのはイヤだ」、なんて言っているが、毎日ケータイいじりながら1人地下でお昼食べてる、ってのもどうかと思う。なんて、私も20代後半に差しかかってるから余計そういう風に思うんかもしれん。昼間は原チャで三条まで行き、寺町、新京極を闊歩。う~ん、このあたりは何も買わなくても目に楽しいですなぁ~。それから、以前私もよく足を運び、一度絵の展示もさせて貰ったことのあるneutronさんと言うギャラリーとカフェの一緒になったお店へ行ってみた。ここは私が中国にいる間に店舗を引っ越しされて、今は烏丸三条のスターバックスの裏の建物の2階にある。ここで作家登録をすると自分のファイルを店内に置き、お客さんに自由に閲覧してもらえる、というシステムがある。ギャラリーも、カフェとは独立して作られているが、新しいお店の方はギャラリーとカフェが大きな一枚ガラスで仕切られており、食事などしながら作品を見ることができるようにしてある。以前、ここに来ると何かしら刺激が貰えるのでよく来たが、新しいお店はまだできたって、って感じなのでもっと色んな人の臭いがしみ付いていってほしいと思う。
2005年09月12日
せっかくの日曜なので、両親と一緒に滋賀の山の中にある美術館行ったんだが、いやはや、展示入れ替えのための休館日やった。おかん曰く、建物自体がすごくいいらしい。先週日曜上京した時は東京現代美術館も東郷青児美術館も展示入れ替えの休館日やった。前もってちゃんと調べとけ、って話やけどな。この1年ちゃんと美術に関わってなかったから、久々そっちの世界に浸りたいんす!!
2005年09月11日
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