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万葉の里・明日香村散策明日香村一帯の景観は、建築物に厳しい規制がかけられており、屋根瓦は従来の日本の瓦の色しか使えない。グレイの日本瓦の家並みが続く景観私の幼い日々のムラの景観明日香の村を散策し、その景観に久々に出会いとても美しく落ち着いた快さを感じたこの門構えの続く村道そこに住む人々が、ごく普通に日常をこのような日本家屋で続けているその維持管理の大変さに思いをはせながらもとても落ち着いた雰囲気を懐かしく思う昔の村はこんなだったと。そして、野や山は、秋の草花が咲き乱れていた。かっては、どの農道にもみかけたワレモコウ。最近はめっきり見ること少なくなったワレモコウ(ワレモコウ:バラ科ワレモコウ属。北海道~九州の日の当たる草地や土手に生育。7~10月に暗赤紫色の花をさかせる。葉をもむとスイカのような香りがすつ。)ワレモコウが秋風にゆれ、ヒガンバナの群生が田んぼの畦を真っ赤に染めています(棚田の畦道では案山子コンテストがおこなわれています。かさこじぞうの案山子とヒガンバナの赤がみごとにマッチ)明日香は「美しい日本の棚田百選」に選ばれているその棚田をバックにして、今案山子コンテスト行なわれていたテーマはおとぎ話その棚田の畦道にはヒガンバナが見事に群れ咲き色づきはじめた稲のみどりが競うように燃えてさらに白いカラマツソウがこき混ざり、みごとな色の絨毯。近づけば白い花は繊細な花糸が傘をひろげたよう繊細なこん棒のような白い花糸(かし)のカラマツソウ(唐松草)(カラマツソウ:キンポウゲ科。北海道、本州の山地にはえる多年草。花は白色~淡紅色7~9月ごろに咲く。和名は花の形がカラマツの葉に似るから)カラマツソウも山地の畦道に群れて咲くそして、華やかに可憐にさくうすむらさき色の花ツルボ(蔓穂)(ユリ科、ツルボ科。多年草。本州から九州の日当たりのよい原野や道端に「生育。)天武・持統天皇稜の森の縁にも、ヒガンバナの赤と競って咲き乱れていたツルボすすきの穂が風にゆれるその山道の足もとを見やればほら、こんな花が咲いていたナンバンキセル(南蛮煙管)(ハマウツボ科ナンバンキセル属:日本各地の山野のススキ、ミョウガなどの根に寄生。光合成をしないで生きている1年生寄生植物。和名は花と花柄の形による。)ナンバンキセルのことを万葉人も「道の辺の尾花がしたの思い草今さらになど物か思はむ」と詠んでいる。「思い草」がナンバンギセルのこと、ナンバンギセルは室町時代以降につけられた名。「尾花」はススキのこと。万葉人はすでにオモイグサがススキの根に寄生することを知っていたとは驚きである。ミズヒキも細い花穂(かすい)をすくっと伸ばしてミズヒキ(水引):タデ科テデ属。やぶ陰や林のふちなど日陰を好む。花の上部が紅色、下部が白色で見る角度により、花は白くも赤くも見えるので、水引に見立てこの名がある。花は、8~10月。茶花としても使われる。ヤブや林の縁に紅色、白色の花を端正に咲かせている秋の涼しい風が吹きぬける古の都・明日香の里数千年のいのちを繋いで、今、ここで咲いているにちがいない野の花々やさしい花々が緑の山々や田んぼの濃いみどりの青と溶け込んで静かに咲き競っている凛と咲ききっている秋の山里2千年前の人々の暮らしや政をそこここで私たちに語りかけてくれる山里穏やかななだらかな山々に囲まれたこの山里で生きた人々の息ぶきが今に脈打っていることを私たちに教えている。9月17~19日にかけて、奈良・明日香村を散策しました。私のブログ「日々草」で、「万葉の里・明日香だより」で紹介しているまほろばさんご夫婦を訪問しました。飛鳥時代の数々の遺跡も訪ねましたが、飛鳥文化を遺跡を通して、垣間見ることが出来、とてもよい旅でした。飛鳥時代に生きた人々に思いを馳せることはとても楽しいことであり、現代に生きる自分たちはどう変化してきたかなど、興味つきないことがいっぱいでした。宿泊した宿も、古いままの建築様式をそのまま守っている旧家にでした。久しぶりに、幼い日々の生活様式に帰ったようで、これが結構くつろぎゆったりした気分になれたのに我ながら驚いています。私の嫌いな旧い日本の家、暗いじめじめした日本の家。でも数日だけならけっこう快適でもありました。
2008.09.21
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久々に明日香村のまほろばさんからのお便りです 古代遺跡が現代に語りかけるもの明日香村・甘樫丘の発掘調査から見え隠れする歴史の事実正統な歴史とは何か。 (飛鳥・甘樫丘発掘現場:Photo by mahoroba) 立花隆は「エーゲ・永遠回帰の海」という著作で、30歳の時、イタリア、シチリア島のセりヌンテにおいて、古代遺跡に出会ったときの感動とその衝撃を次のように書いている。 《突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思い違いしていたに違いないと思い始めていた。 知識としての歴史はフェイクである。学校の教壇で教えられた歴史。歴史書の中の歴史。歴史家の説く歴史。記録や資料の中に残された歴史。それらは全てフェイクである。 最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。》 まさに今、この事が、奈良の明日香村の飛鳥遺跡発掘調査の過程で起こりつつある。 (甘樫丘発掘現場) 先日、NHKスペシャル「飛鳥発掘が覆す大化改新」という番組が放映された。この番組は、蘇我入鹿邸跡とされる甘樫丘の発掘調査の現在の到達点から、新たに分かってきた事実を基にして、蘇我入鹿の人物像、その栄光と挫折をドキュメントしたものである。歴史の事実とは何かを深く考えさせる好番組であった。 今年2月1日の奈良文化財研究所の発表によれば、甘樫丘の遺跡は、昨年度の発表では7世紀としか分からなかったが、今回7世紀前半と絞られたことで、蘇我氏邸宅があったとされる日本書紀の記述を裏づけた。 (遺跡から発掘された土器) 蘇我入鹿と蝦夷の邸宅の全貌が見えてくるにつれ、日本書紀に記述された、645年「大化の改新」が、事実と異なるものであり、時の権力者、天皇側が自己の権力を強化美化する為に修正、加筆したものではないかいうことが、古代史のなかで明らかになりつつあるという。 即ち、当時、権勢を誇り、天皇になろうとまで欲した蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子と中臣鎌足の改革のクーデターを「天皇をまもる大儀あるもの」「大化の改新」の始まりとなる、革新的なものとする「日本書紀」の記述である。蘇我入鹿を横暴で権力欲の強い豪族と描き、中大兄皇子を革新的な国家の推進者と描いている。 しかし、飛鳥で発掘された遺跡が真相を語り始めた。甘樫丘から現れた入鹿邸跡は、豪邸ではなく、掘っ建て柱の質素な建物群で、さらに蘇我馬子邸や飛鳥寺の調査から、蘇我氏は自らが盾になり王権を守っていた可能性が強まってきたという。蘇我氏は当時、東アジア情勢に最もすぐれた見識を持ち、唐の脅威をいち早く察知して、外交、軍事の両面から備えを強化する戦略をとっていた人物であったことが次第に明らかになってきた。それに対して、中大兄皇子の側は、保守的な現状擁護派であり、入鹿の外交戦略と鋭く対立していた。 実際に、大化の改新は、645年蘇我入鹿暗殺のクーデターで始まったのではなく、それから18年後、唐と新羅の連合軍に大敗した白村江の戦い以後に、強力な軍事面の強化に迫られ、中央集権国家を作る必要があった。そのため唐の律令制に模して行われた一連の改革が「大化の改新」であるという事実が見え始めた。 まさに飛鳥遺跡の発掘が「大化改新」の従来の歴史観を覆そうとしている。 蘇我入鹿の広い視野にたった革新性、進歩性は、後世の人々には省みられず、明治時代には、入鹿をご本尊として祭る入鹿神社は国賊とみなされ、神社名の変更とスサノオノミコトを祭るように軍に強要されたという。これは「日本書紀」を正史とみなす、歴史観からである。まさに記述された歴史、歴史書の歴史はフェイクである。飛鳥遺跡は、そのほとんどが今も尚、地下に眠ったままである。ほんの数パーセントが、私達の前に姿をかいま見せただけである。 《最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られなかった歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか》という立花隆の問いは重い。 古代の歴史を自分の権力を維持強化するために利用しようとする勢力は、今もなお執拗に「美しい国」などといって、歴史の事実を捻じ曲げている。
2007.02.18
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万葉の里・明日香便り(15)まほろばさんから、大学の同窓会:吉野観桜クラス会が、飛鳥の地で行われたお便りが届きました。70歳代の人々が集う同窓会。素晴らしいとは思いませんか。これはそんな人々への讃歌です。[春の嵐] (吉野下千本桜 : photo by danjose)日本列島に春の嵐が吹き荒れた日に人々は集った。日本の各地から、世界の各地から、人々は集った。それぞれが半世紀を優に越える人生の重みを背負って、戦後の日本の社会を作り、牽引してきた人々が、その人生の節々での喜びや悲しみや感動や苦悩を心の奥深くに沈静させて、1300年の昔、争い、恋をし、喜び、悩みした人々のロマンが悲喜劇が渦巻いた飛鳥の地に集まった。 (明日香村・石舞台古墳:photo by Al Hasimoto)日本の厳しい風雪に耐え、千数百年の歳月を生き続けてきた満開の桜の咲き競う山里に、春の嵐にたえて咲き誇こり、花吹雪でけむる里、花びらが舞い散る淡いピンクの絨毯の丘に人々は、それぞれの長い人生の思いを重ねて集まった。(落下した桜の絨毯で・明日香村甘樫の丘)春の土砂降りの雨に煙る満開のさくらの吉野山。一幅の墨絵のように、静かに、しかし、力みなぎって迫りくるこの景色の荘厳さよ、 (吉野下千本桜:photo by danjose)たどり着いた人生の旅路の途中に春の嵐のなかに見るこの景色の壮大さは生きてきたことへの讃歌でもあるか、残されたいのちへの励ましでもあるか。 (吉野金峰寺蔵王堂・金輪王寺:photo by danjose)2006年4月10日。銀齢の人々が、奈良・吉野山の桜が爛漫と咲き誇り、折からの春の嵐が、土砂降りの雨が、吉野の山々を桜けむる一幅の壮大な墨絵にした日に集まった。(吉野下千本七曲の桜:photp by mahoroba)
2006.04.20
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万葉の里・明日香だより(13)まほろばさんから、奈良のさくら便りが届きました。大和郡山城のお城祭り。奈良らしい華やぎのある素朴なさくら祭りですね。(4/1日撮影) (飛鳥川のさくら)4/1撮影 ソメイヨシノと言えば、奈良・吉野山の代名詞ともなっています。その吉野山の開花予想は以下のようです。これからが見事な桜が楽しめます。 開花予想日 満開予想日吉野山 下千本 4月3日~4日ごろ 4月9日 中千本 4月5日~7日ごろ 4月11日 上千本 4月8日~9日ごろ 4月14日 奥千本 4月15日~16日ごろ 4月21日 わが尾張地方の里山は、昨日でやっとちらほらと桜が咲き始めたところです。今日は、まさに春の嵐が吹き荒れ、春雷がとどろき響きました。激しい雨のなか、さくらの蕾はどうなってしまったことか。この分だと、この地方は、入学式のころに桜が満開になりそうですね。
2006.04.02
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万葉の里・明日香だより (11)明日香の景観の素晴らしさは何処に由来するか。写真:島庄遺跡の発掘現場の全景。背景に見える美しい日本建築の家並み。まほろばさんからの「飛鳥遺跡の発掘現地説明会」のお便りがありましたのでご紹介します。3月11日は1日に4ヵ所もの現地説明会があり、まほろばさん、見学のハシゴで大忙しの一日となりました。(島庄遺跡と大勢の見学者) 明日香の遺跡の多くが、村民の生活圏の地下に埋もれた物の発掘のため、稲の刈り取りの秋に開始し、田植えの始まる4月までに埋め戻さなければならないために、このような過密なスケジュールとなるそうです。発掘現場は次のような4箇所でした。1) 石舞台古墳東隣接地の巨大柱跡(島庄遺跡第31次調査)蘇我馬子の墓説?のある古墳 (島庄遺跡の巨大柱跡) 2) 島庄遺跡(2005-12次)の調査。塀や石組み溝 (島庄遺跡の塀と石組み溝) 3) 石神遺跡18次調査。1981年から調査が続けられている。律令国家時代の饗宴施設:外国からの使節をもてなす為の庭園の噴水施設、須弥山石(しゅみせんせき)や石人像(明治36年出土)で知られている。この遺跡からは当時の人々の暮らしを知ることの出来る出土品が多い。 (手前が須弥山石と右後方が石人像)4) 飛鳥京跡内郭中枢155次調査:柱穴に焼け土や炭が詰まった大型建物跡が新たに見つかった。昨年の調査結果と併せて、日本書紀が伝える浄御原宮の主な建物跡すべてを確認(上層が浄御原、中層の板葺宮、下層が今回確認された岡本宮(舒明天皇)) (飛鳥京跡発掘現場全景)歴史上初めて天皇と称された(それ以前は大王)天武天皇の皇居の全容が明らかになってきた。これらの現地調査は、何年間も或いは何十年の長きにわたる、地道な文字通り地を這う粘り強い作業と研究の結果である。その長年の継続による蓄積が、現代に生きる私たちの眼前に、日本の誕生とも言うべき古代史を生き生きと蘇らせてくれる。まほろばさんから送られてくる明日香の写真の背景に写し出されている民家の家並みの美しさに私はいつも感動している。それらは、日本建築の伝統的家屋の集落であり、圃場整備されていない田畑である。それらは日本人が忘れてしまっている伝統的な農村の風景である。懐かしい昔のままのたたずまいである。そしてその農村を守っている人々の暮らしがある。これは、明日香のすごさではないだろうか。人々がこの地を訪ねたとき、心おだやかになり、感動する理由ではないだろうか。今も住んでいる住民たちの住居の下に沢山の遺構があり、日常の生活がそれらの遺跡と溶け合って営まれている。ただ地下の眠る大量の遺構を掘り出し、ただ単に保全のためにのみの整備事業を行っているのではない。地下遺構が主役であるにもかかわらず、それとは何の関係もない畑や集落も一体となり守られている。住民が守っている。そこで農業を営み生活している。あの棚田の美しさは、並々ならぬ農をする人々の心意気がなければ実現するものではない。農がすたれ、存亡の危機にある今、このように伝統を守り、現代に生かしている住民のエネルギーのすごさに私はとても感動している。村に住む人々が守ってきたのだ。けっしてお上の指示や強権の強制でやっているのではない。遺跡を守り、国に働きかけ、ねばりづよく発掘、研究にいそしんで来た数々のすぐれた市民や研究者がいる。これはとても素晴らしい。民主主義の社会とはこういうことではないか。民が自らの生活する場を過去の歴史と結びつけ現代につなげていく。自分たちの力で守り、創造的に発展させていく。このプロセスが人を人らしく育てていく。私が3月16日の日記で書いた「大企業のグランドの末路」のような現象が今日本では主流であり、国民の多くが共感している価値観である。「金」さえ儲かれば何をやってもよい。しかも「金」が儲かっているのは国民すべてではない。ごく限られた一部だ。おこぼれさえ預かることのできない沢山の庶民がいる。そしてそれらの日常は、過去をすべて否定することで成り立っている。過去の歴史や、長く生きてきた老人たちの価値観を拒絶したところで成り立っている。数十年も生き続けた大樹を何十本も根こそぎなぎ倒しても心の傷みを感じない感覚。50坪あまりの狭い土地を、後生大事に個人が囲い込み、30年ほどの耐用年数の張子の家のなかで、ローンに苦しめられて過ごしている市民たち。これが豊かさといえるか。無残になぎ倒され、赤茶けた山肌の丘陵地のグランドの姿は、現代の日本の姿そのものだ。そして明日香の風景は、人に人らしい安らぎや共感を与える。多くの人が魅せられ訪れるそれは由縁でもある。そして、そこには村人たちの延々と続いてきた、伝統を守り育てる歴史がある。一日にしてなった風景ではない。無数の犠牲があり、忍耐がある。それを持続しているエネルギーに私たちは学ぶべき多くのことがある。とりわけ子供たちが、このようにして生きた歴史を学ぶことが、今こそ必用だ。それぞれの地域がそれぞれの歴史をもち、その連続線上に、現代の私たちの生活があることを、子供たちは全く知らない。
2006.03.21
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万葉の里・明日香だより(10) 飛鳥人の食事。まほろばさんから、古代食「万葉あすか葉盛御膳(はもりごぜん」を楽しまれました、お便りが届きましたので紹介します。この「葉盛御膳」の命名の由来は、有馬皇子事件によっている。即ち、当時19歳の有馬皇子が王位をめぐる争いで、蘇我赤兄に唆され反逆するが、その赤兄に捕らえられ謀反人として連行された、その連行される途上で詠んだ歌 家なれば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛るに因んでいる。有馬皇子は中大兄皇子の尋問を受けた帰り藤白坂で絞首刑に処せられた。若き非業の死を遂げた皇子に話題性を求めたネーミングの会席料理である。(会席・万葉あすか葉盛御膳) 『万葉あすか葉盛御膳』の献立 酒 にごり酒 飯 赤米 黒米炙(あぶりもの) 鴨と銀杏の串焼き 茄子田楽けしの実かけ あえもの 椎茸雲丹あえ ほたて貝柱 羹(あつもの) 赤米麹 ふくろ茸 山菜 ごぼう 三つ葉のすまし 膾(なます) もずく・甘海老の酢漬け ずいきの酢物ゴマかけ 煮(にもの) 子持ち鮎醤煮 蓮根添え とこ鮑(あわび) 茹(ゆでもの) 百合根と長芋の茶巾絞り梅肉のせ 枝豆 里芋絹かつぎ むかご 須々保里(すずほり) 高菜漬 果子(かし) 薊 焼栗 蓮の実 山桃 巻柿 いちぢく 果物この献立は、伝承料理研究家、奥村彪生氏の指導の下に再現されたもの。奥村氏によれば、藤原京の遺跡から出土した木簡を基に、古代飛鳥人がどのようなものを食べていたのか、多少遊び心を加えて、あくまで現在感覚により再現したものであり、日常的にはもっと質素で、これらの料理のうちから一、二品をご飯や汁物と一緒に食べていたと思われる、との事である。勿論これは宮廷料理である。庶民はもっと手近に得られる材料、クリ、シイ、カシ、クヌギのドングリ、アケビ、ヤマイモ、ユリネ、クズ、ノビル、キキョウ、キノコ。川や池や海でとれる魚介類、イノシシ、シカ、ウサギ、タヌキ、あるいはカエルヘビなどで質素な食事をしていたと考えられる。古代人が食べていた食事のすべてが、自分たちの住む自然の恵みや幸そのもの、それ以外にないというこのあたりまえな事実は、現代の食生活を考える上で大切な示唆をあたえているのではないでしょうか。私たちは、高度経済成長期以前の農村の多くは、ほぼこれと似たような食事内容であったように思う。お正月やお盆やお祭りなどの特別なときだけ少しご馳走をつくり皆で楽しんだ。食というものはそれほど保守的で、何千年もの長きにわたり、受け継ぎ守ってきたものだ。人間の体の造りも、その体の生理、リズムも、この食生活によって作られて来た。そして、その民族の遺伝子の中に刷り込んで継承しているのではないか。それが、この30年ばかりで、一気に食の基本はくずれ、めちゃくちゃになった。日本が今、長寿国であるのは、伝統的な質素な食生活で成長期を過ごした人々が高齢者となっているからではないか。今の若者たち、子供たちが、年老いていく将来の社会は、もっと悲惨な不健康な老人が満ち溢れ、早死になるのではないだろうか。これはあくまで私の独断的な予測ではあるけれど、若者たちの食生活、生活のリズムをみていると、そのしっぺい返しは必ずや数十年先に来る気がする。この古代人の食事が質素であるかどうかは、現代人が勝手に決めたこと何が生きる上で豊か、何が美味なる食物かは、そんなに簡単に決め付けることは出来ない。
2006.03.07
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『万葉の里・明日香だより。(9)』まほろばさんから、桜井市(奈良)の江包(えっつみ)、大西両地区で11日行われた「お綱まつり」(県指定無形文化財)のお便りが届きました。 子孫繁栄と五穀豊穣を祈る、またまた豪快で素朴なお祭りです。私たちの祖先が農耕民族として暮らしていた昔をしのばせます。江包の春日神社から長さ4メートル、直径2メートルの紡錘形の雄綱を 大西の市杵島(いつくしま)神社から、長さ6メートル、直径5メートルの雌綱をそれぞれ地元の若者たちが、かついで出発、 途中、水のはられた水田で相撲をとり、泥まみれのままの姿で江包のスサノオ神社に運ぶ。 スサノオ神社の鳥居に前で「仲人役」を仕立てて、二つの綱を組み合わせて「縁結び」の一連の行事は完了する。 奈良には今なおこのようなお祭りを守り、受け継いでいこうとする人々がいるのですね。このようなお祭りを支えていく「農業」や「村」がなければ継続できないこと。このお祭りを支えている「農業」や「村」は、現代社会の中で、どう変化を遂げているのか興味深い。
2006.02.16
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2月5日に明日香村の飛鳥坐神社(あすかいますじんじゃ)の奇祭「おんだ祭り」が行われました。まぽろばさんが、悪戦苦闘して、神殿の中の神事芸まで写真撮影して送って下さいました。一般の市民では中々見る事の出来ない貴重な写真です。日本には春の民族儀礼として、古くから鬼が登場するお祭り行事が各地にあります。飛鳥坐神社のこのお祭りもそんな流れの中のひとつなのでしょうか。古代の人々のおおらかで素朴なこころが伝わるお祭りです。 「鬼」が五穀豊穣や子孫繁栄のための神霊の具象化として登場し、その鬼がそれらの神事芸の主人公を演じています。 この飛鳥座神社のお祭りでは「鬼」ではなく「天狗」がその役を演じていますが、この天狗は「鬼」の一種とみるべきか(?)とても珍しく興味深い。 飛鳥の遺跡の遺構はほとんど「石」だという。飛鳥のあちこちに点在している石造物。いつの頃からか掘り出され、その場所に置かれた物が多く、用途が分からないものが多いという。この写真の石造物は「男根」だという。古代の人々は子孫を繁栄させることに対して、神聖で不可思議なものと畏敬の念を持っていたのでしょうか。きっと部族や氏族の繁栄と深く結びつた極めて社会的なことだったのでしょう。 古代の庶民が、どのような技術をもち、どんな暮らし方をしていたか思いをはせる手がかりともなり興味深い。
2006.02.08
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万葉の里、明日香だより(7)まほろばさんから、新春万葉歌留多大会のお便りが届きましたので紹介します。奈良県立万葉文化館では毎年「新春万葉歌留多大会」を行っている。今回は5回目である。(写真右:万葉文化館)この歌留多大会は、万葉文化館が所蔵する万葉創作日本画(現代日本画家154人の作品)の中から厳選した50枚の館独自の札で競われる。たとえば、人気札の一つでもある、額田王の歌あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖ふる にきたつに(熟田津) 船乗りせむと 月待てば 潮もかないぬ 今は漕ぎ出でな (額田王) あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今盛りなり (小野老)采女の 袖吹きへす 明日香風 都を遠み いたづらに吹く (志貴皇子)などが人気札です。小学生などのちびっ子も多数参加し、とても盛況でした。まほろばさんは、その審判役として活躍しました。 幼い時から日本の古典ともいうべき歌や文を暗誦する習慣はとてもいいことですね。日本語の響きを身体の中に浸み込ませることは、後の日本語の形成に無形の財産となり、豊かな日本語の土台と成るはずです。人生の経験が豊かになるにつれて、子ども時代に身体にしみこませた言葉は、生きた言葉となり、色をつけ、輝きを増し、その人の人生を深いものにしていくはずです。半世紀前の農村の子どもの大部分は、大きな声で、繰り返し朝晩お経を読んでいました。私の住んでいた農村地域では、朝晩、家族全員でお経を唱和する習慣があったのです。又お正月などは「百人一首」など、家族や親戚が集まって、盛んにやったものです。この習慣があったからこそ、高い学歴などなくとも読み書きに高い能力を持った庶民(百姓)が多かったのではないでしょうか。キリスト教が生活の中に深く根づいている欧米などでは、幼い時から聖書を暗誦する習慣があります。それが母語の土台にあり、後の国語教育に大きな力となる。洋の東西を問わず、このように時代の中を生き延び、鍛えられた美しい言葉を幼いときから身体の中に浸み込ませることを、私たちの祖先はやって来ました。現代においても、このような言葉教育が、現代人の感覚にふさわしい形で継承発展するといいですね。生活のなかに根付くといいですね。
2006.01.26
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万葉の里・明日香だより(6)まほろばさんからの、奥明日香・栢森(かやのもり)の綱掛け神事のおたよりを紹介します。 1月14日、15日は全国でどんどん焼きなどの行事が行われています。私の郷里では15日に村の青年団が小豆粥を村の神社でつくり、どんどん焼きを囲んで村人がおかゆを食べながら、その年の農作物の豊穣を祈ったり、占ったりする行事がありました。(今は消滅)奥明日香・栢森の雌綱、雄綱掛け神事は、とても雄大で厳粛な古式ゆかしい行事です。今尚、その神事を守り継承している村人たちがいることも素晴らしいことです。 (雌綱を運ぶ村人) (飛鳥川の源流・栢森) この神事は「子孫繁栄と五穀豊穣を祈ると共に、悪疫などをこの道と川(飛鳥川)を通って浸入するの押し止め、住民を守護する...」ものであり、上流の雌綱とその下手の雄綱が対となっています。雌綱は仏式で行い、雄綱は神式でおこなうなど、その当時の神仏混合の様式もうかがえて興味深い。張り替えられた新しい雌綱と仏式による行事 奥明日香・稲淵の入り口勧進橋に張られた雄綱。 背景は全国の美しい棚田百選のナンバーワンに輝く稲淵の棚田。勧進橋の銅版。南淵請安先生に講義を受ける中大兄皇子と藤原鎌足の図。
2006.01.13
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万葉の里、明日香だより(5)まほろばさんから、明日香真弓丘の「カズマヤマ古墳」の発掘調査のおたよりと写真が届きました。飛鳥時代に築かれた古墳は、「終末期古墳」と呼ばれている。そんな終末期後半の古墳の工法に新たな発見となるような、カヅマヤマ古墳の最近の発掘調査の成果が発表されました。天武天皇の皇子らを葬ったとして、万葉集の挽歌や日本書紀に登場する「真弓丘」にカズマヤマ古墳はあり、板石をレンガのように積んで、漆喰(しつくい)で固めた磚積(せんづみ)式構造の古墳。下から見上げれば聳え立っていたような威容をほこっていたこともわかったという。石室の構造も特異であり、結晶岩を使い、板石(磚)をきれいに形を整え、石室の見えない部分にも、大量に整然と端をそろえて積まれていた。板石を固定するために、カキの貝殻を焼いた灰や石灰を混ぜて作った漆喰をふんだんに使っているという。(古墳一口メモ)飛鳥時代の古墳は、古墳時代後期の古墳と比べると、墳丘(ふんきゅう)の規模は小さくなるが、内部の横穴式石室はより大きくなり、より大きな石を使うようになっている。さらに終末期後半になると、古墳の形は古い時代のそれとは異なり、表面に切り石を貼ったまるでオブジェのようなものに変わり、古墳時代の古墳は廃れてしまう。(河上邦彦著、飛鳥を掘る;講談社選書メチエ)こんなに沢山人々が古代ロマンを求めて、カズマヤマ古墳発掘調査の見学にやって来ました。すごいですね。民家のすぐ裏手が、発掘現場であるというのも明日香のすごさです。明日香村が、過去の歴史遺産を村あげて保存しているその精神も素晴らしい。古代を実証的に検証することは、日本の現代史にとっても重大なこと。皆で守り、古代の歴史に光を当てて欲しいですね。土に這いつくばって、日々発掘に関っておられる人々を応援したいですね。
2005.12.11
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万葉の里・明日香からの雄大な大和三山の写真が、まほろぼさんから届きました。談山神社の南から見る大和三山。手前から香具山(かぐやま)・左畝傍(うねび)山・右耳成山(みみなしやま)。以下の長歌は、有名な大和三山の妻争いの伝説(播磨風土記)を歌ったもの。作者は中大皇子で、新羅遠征の際、伝説ゆかりの播磨の国・印南野を過ぎた時に詠んだという。歌からは、額田王をめぐる、弟、大海人皇子との妻争いが連想される。 香具山は 畝傍ををしと 耳成と 相争ひき 神代より かくにあるらし古も しかにあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき 反歌香具山と 耳成山と 闘(あ)ひし時 立ちて見に来し 印南国原 海神(わたつみ)の 豊旗雲に 入日さし 今夜(こよい)の月夜(つくよ) さやけくありこそ 海神(わたつみ)-海神から転じて「海」をさす。豊旗雲 - 「豊」は壮麗さをほめたたえる言葉、「旗雲」は旗のように大空を横切って大きくはためく雲。とても雄大な調べである。
2005.11.29
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万葉の里・明日香だより(3)先日(11/17日)、秋の「蹴鞠祭り」を紹介した大化改新ゆかりの談山神社(たんさんじんしゃ)の山々が、見事な紅葉に染まっています。見事な紅葉のお便りが、まほろばさんから届きました。こんな紅葉に染まった山々を、古代の人々のことを思い描いて、散策できたら、素晴らしいですね。
2005.11.23
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万葉の里・明日香だより(2)16日の見学会には4500人もの人が詰めかけた。西暦645年:大化の改新 日本史を学んだことのある人なら暗記したことのある懐かしい年号である。(645:ムシコろし、滅んだ蘇我一族)蘇我入鹿が中大皇子と中臣鎌足に天皇の宮殿で殺された、中央集権国家の幕開けの年号である。日本書紀では、入鹿が殺害された翌日、邸宅に逃げ帰った父親の蝦夷(えみし))が火を放って自害したと推測されている。その痕跡とみられる遺跡が、今回、明日香村で見つかった(まだ確定されたわけではないらしいが)。奈良文化財研究所が甘樫丘(あまかしのおか)という国営公園の域内で、入鹿邸と思われる建物跡を五棟、発掘した。焼け土や炭、当時の土器も発見したと新聞は報じている。明日香のまほろばさんからその発掘調査現場の写真が届きましたので、掲載します。 この発掘調査がさらに続き、事実が次々に出ることを私はとても期待している。日本書紀が天皇の側から見た歴史観で貫かれて書いてあるのに対して、入鹿の祖父・蘇我馬子が編纂したという「天皇記」「国記」の存在(焼かれてしまい現在ないらしい)が確認されれば、古代の日本の歴史は書き換わるかもしれない。現代の天皇制の議論にも影響を与えること間違いない。
2005.11.20
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万葉の里・明日香より、まほろばさんからの「多武峰の談山(たんざん)神社の秋の蹴鞠祭」のおたよりです。 蘇我入鹿殺戮図・刀を振り上げる中大兄皇子、入鹿の首が飛んでいる。談山神社は大化改新発祥の地。(中大兄皇子と中野鎌足が横暴を極める蘇我入鹿を倒す策謀談合の場所・鎌足公が祭神) 秋のけまり祭り(11月3日) 鞠は鹿皮製のラグビーボール繭型・蹴るとへこむので形を直してプレーするのどかなボール遊びです。 談山神社から多武峰を望む・紅葉に山が染まるのにはまだ少し早い。 十三重塔と珍しい野点の破れ傘 (photo by まほろば)2千年前の私たちの祖先が、この同じ景色をこの同じ空気を眺め、感じ、激しく争い、憎み、怒り、ある時は、激しく恋をし、破れ、又ある時は、優しくいたわりあい、喜び、涙し、暮らした人々がいる。この不思議さ、私たちはこの人々の、長い、長い、繋がりの果てにいる。争い、傷つけあい、日々暮らしている。この悠久の時間のなかで。
2005.11.17
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写真:談山神社の秋の蹴鞠祭笑えない笑い話。 このHPに時々登場して頂く、まほろばさん、古代飛鳥文化の地・奈良県明日香村でボランティア観光ガイドをしておられます。其のガイドのある日の出来事。女子高校生のグループを案内したある日の会話。ガイド:「万葉集は4500もの和歌を集めたわが国最古の歌集で、花をテーマにした歌が2000首、花の種類は170種にも及びます・・・ この天井のガラス細工は、その中の代表的な花であり・・・ 最初が梅、その次のが桜、それからこの黄色の小さな花はなんでしょう?」女生徒達:「キュウリ!」ガイド:「ブー! 山吹です」(確かにキュウリの花にも似ている??)女生徒達:「そんな花、見たことな~い」(この子たち山吹の花を見たことないんだ!)ガイド:「次のこの大きな傘みたいな花は分かる?」女生徒達:「ユリ!」ガイド:「ブー! 朝顔です!でも、万葉の時代には《かおばな》と呼んでいました」それから、壁の絵を指して、ガイド:「この”朝顔”の和歌に描かれている紫色の花、みなさん何か分かりますか?」女生徒達:「わかんな~い!」ガイド:「これは”桔梗”という花で・・・」というようなチグハグ問答で、古代の花の名称と現代の呼び名の違いの面白さを説明するこちらの意図が不発・・・(今の子供たちには、その言葉遊びはちょっとガイドする目標が高すぎますよ)それでは、ならじと気を取り直して、ガイド:「そこで質問です!万葉集の中で、にいちばん沢山歌われているのに、このガラス細工や、壁の絵には描かれていない花があるのですが、それは何でしょうか?」女生徒たちは口々に、「バラ!」「コスモス!」 「分かった!チーリップ!」 などなど。益々迷路にはまり込んだ新米ガイドは、力なく「萩の花で~す!」 女生徒達:「エッ? ソレって、どんな花?」ガイド:「・・・・・・・」(エッ、萩の花など知らないんだ、今の女学生は)かくしてボランティアの爺さまガイドと女子高生は花問答をおかしくも繰り返すばかりでありました。 (高松塚公園和歌銅版) 高松塚守れる美女ら出てきませ 若葉さやける 水無月の野に ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー今の子供たちは本当に植物に無関心ですね。無知です。身の回りの草花にまるで興味、関心がないのです。《山吹》を《きゅうり》と答えた女学生など、まだあっぱれな方。《きゅうり》の花を知っているとはすごい、すごい。偉い、偉い。しかも黄色どうしで山吹の花と共通の色で結びついている。子供たちは細やかな日本の四季の移ろいを歌に詠んだ古代の人々の心とは、遥か遠いところで生きている。生まれたときから自らの足で大地を踏んで、歩くことが滅多にない現代っ子たちは、生きる為の体力を育てていないだけではなく、生きていく為の豊かな感性の素となる知識まで喪失したまま、大人になっていく。車社会は、身体だけでなく、日本人の心まで深いところで蝕んでいる。「お金儲け」や「ブランド品」や「デズニーランド」には滅法強い。しかし、頭のなかは空っぽ「考える」ことなど生まれて一度もないという女子学生が日本の社会に蔓延している。ごく普通の、勉強もまあまあの女子学生たちのこれは姿なのである。今朝の散歩道、朝露にぬれた「萩の花」が朝の陽光にきらめいていました。可憐な花が、秋のむしの合唱のなかでやわらかな風に揺れていました。後3時間もすれば、中学生たちが学校へと三々五々とおしゃべりしながら通る道、でも「萩の花」は見向かれもせず、今と変わらず、きっと秋の風におだやに揺れている事でしょう。
2005.09.13
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