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孫娘がこの春から中学生お婆は中学生向けの電子辞書を贈ることにした。「電子辞書か紙の辞書か」デベートのお題としてよく見かけるが、日本の学校などは紙の辞書派が多く、電子辞書を学校で使うことを禁止さえしているところもある。しかし、今の子どもたちは、多くの子がほとんど辞書を引いていない、引く習慣がない子供が多い。英語の教科書の後ろのページに載せている教科書の中の単語だけを調べてそれで事足りている。国語もしかり、国語の補助教材には、ご丁寧に言葉の訳注がついている。効率よく勉強するために、調べる手間を省くためすべてプリントされたものを利用し覚える。子供たちの多くは益々自ら調べる辞書からは遠くなる。(一部の子どもだけは辞書に非常に慣れ親しんでいるが)その結果かどうかは定かでないが恐ろしいほど日本語のボキャブラリーが貧困なのが今の子どもたちである。この現状から孫娘が辞書に親しみ、辞書を引くことを苦にしない大人に成長して欲しいという願いから電子辞書なら現代っ子には、入りやすいのではと思い贈ることにした。私が選んだ辞書はシャープカラー電子辞書Brain中学生モデルPW-SJ2-W選んだ第一の理由、中学生でも使いやすいということである。喜んで使うといことがまずは必要と思いこれを選びました。電子辞書は現在、カシオとシャープの2社が主流でカシオの方が購買者が多いと聞くが、カシオのは中学生には使いにくく、使いこなせないという評判がある上に、両社の中学生向けの電子辞書のコンテンツを比べて見ると、カシオは英語の辞書の数が多く、オックスフォードやケンブリッジの英英辞典まで入れてる。英検準2級までぐらいの英語力なら、これらは無くても十分。更に上級の英語力のためには、高校レベルの機種に買い替えることの方が適切と思い、先ずは、子供がスイスイと使いこなすことが出来ることを優先した。更にこのPW-SJ2-wの型はこの春のモデルではなく、2つ前の機種なので大幅に値引きされおり、お買い得です。しかも最新の機種にはブリタニカ大百科事典が削除されており、この型の方が良いと思いました。中の辞書の版も最新の型のものと変わりません。中学生が使うにはこれで十分。孫娘が中学生になるまでに、この辞書になじめるように、孫娘にはすでに2月に手渡してありますが、さすが現代っ子、あらゆるコンテンツを次々に開き、すごい、すごいと感心しています。お婆が予測していなかった機能まで、すでに使いこなしています。中学生のおもちゃ感覚で使っています。(おもちゃ感覚で使えるというのが良い)英語も分らない単語、発音できない単語に出会うと、電子辞書を引き始めています。お婆が最もやって欲しいのはこれですから。ついでに、申し添えれば、この富士子婆も最近、電子辞書を買い替えました。20年近く使ってきたセイコーインスツルメンツの電子辞書は、ボロボロになり、使えなくなったので。新たに購入したのは、同じセイコーインスツルメンツの英語上級者向けのものです。20年前とは比べ物にならぬほど使いやすくなっています。この会社は、最近、電子辞書の製造を中止したということを知り残念です。しかも上級者向けは5万円程して、私には高価すぎるので、中古で買いました。何と1万円で買ったのですが、ビジネスマン向けらしく、経済分野に強い辞書で、ちょっと私の要求とは異なりましたが、日常使うには、これで十分。サクサク、スイスイ、快適です。歳を取ると、紙の辞書は文字が小さすぎ読めない上に、持ち運ぶのが重すぎる。電子辞書は高齢者にはピッタリです。孫に送った、シャープ電子辞書Brain中学生モデルPW-SJ2‐Wのコンテンツは以下のようです。<国語系>スーパー大辞林 3.0 2014年1月改訂 三省堂 / 明鏡国語辞典 第二版 大修館書店 / 旺文社 標準国語辞典 第七版 / 漢字源 改訂第五版 学研 / 漢検ポケットでる順2級~3級 旺文社 / 書いて覚える漢検ドリルDX 新審査基準対応版 / 旺文社 全訳古語辞典 第四版 旺文社 <英語系>ジーニアス英和辞典 第4版(ジーニアス用例プラス版)大修館書店 / ジーニアス和英辞典 第3版 / レインボー英和辞典 改訂第3版 学研 / レインボー和英辞典 改訂第3版 / 中学英単語ターゲット1800 改訂版 旺文社 / 中学英熟語ターゲット380 改訂版 旺文社 / キクタン【Entry】2000 アルク / 改訂版 キクタン【Basic】4000 アルク / キクタン【中学英単語】 高校入試レベル アルク / リトル・チャロ volume 1~3 制作協力:NHKエデュケーショナル / NHKラジオ講座 基礎英語1~3 for Brain NHKエデュケーショナル <学習>一問一答 5科 中1~中学3・高校入試 学研 / 旺文社 日本史事典 三訂版 旺文社 / 旺文社 世界史事典 三訂版 旺文社 / 旺文社 世界史事典 三訂版 旺文社 / 旺文社 物理事典 旺文社 / 旺文社 生物事典 五訂版 旺文社 / 中学数学公式集 旺文社 <教養>ブリタニカ国際大百科事典 小項目電子辞書版 2014年4月改訂版 ブリタニカ・ジャパン / ニューワイド学習百科事典 学研
2017.03.12
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いじめ問題を描いた小説奥田英朗 作 「沈黙の町で」これは朝日新聞の朝刊に1年2か月間にわたり発表された小説である。先週7月12日、420回をもって完結した。奇しくも、世間では滋賀県大津市の中学校のいじめ問題が大問題となり、テレビでは、ワイドショー番組で連日センセーショナルに取り上げている。私は奥田英朗という作家には余り馴染みなく、この作家の作品もこれまで1冊も読んだことなかったが、今回のこの新聞小説はほぼ毎日読み、最終回を迎えた。(新聞小説はいつもは途中で読むのが面倒になりに挫折する)今回はなぜ読み切れたか?テーマが、いじめで、それが展開される場が「沈黙の町」であったからである。私の住む町でも、この数年の間に、中学生が学校のトイレで自殺した事件と、私の近くのマンションから飛び降り自殺した事件があった。この事件のとき、校内のトイレで起きた女子中学生の自殺でさえ、校長や教育委員会は「いじめ」はなかったと公表した。マンションからの飛び降り自殺などは、校外であること、これ幸いに、なるべく生徒らには「自殺」であることを隠し曖昧にして、学校とは全く無関係との態度をとっている。人の噂も75日。子供たちの心からは、全くそのことは忘れ去られて何事もなかったごと日常は忙しく流れている。子供たちのこころには何も響かないままである。このように痛ましい事件であるのに、誰一人、その公表や学校側の態度に異議をとなえていない。被害者の家族からさえ何らの公然たる抗議はない。(まさに沈黙の町なのである。ひそひそ話は聞こえてくるが)このような最悪の事件を先頭に、日頃子供たちに接して、日々色々なことに遭遇し、感じている私としては、小説「沈黙の町」でのいじめがどう展開していくか、興味深々なのであった。とある田舎町で、ひとりの中学生が校内で死んだ。自殺か?事故か?(この小説でもいじめの実態は、昨今報道されている大津市の中学生のそれと全く同じである。)その少年を取り巻く中学生群像は、かなり丁寧に描きこまれていた。少年たちが、一人の少年を「いじめ」へと追い込んでいくそのプロセスはかなり説得力あり、少年たちの心の在りようが、深いところまで描かれており、私自身もとても参考になり新しい発見をさせてもらった。(今時の男子中学生の姿の真相(深層)を知るにはかなり良い小説である。)さらに、学校側、警察側、保護者側の大人たちはこの事件を契機にどのような対応をしよとしているかが淡々と描かれている。(大人たちの描写は、皮相的でありきたり)今日(7/16)の新聞で作者・奥田英朗自身が連載を終えてという記事の中で、「・・・裁くつもりはさらさらなく、ただ登場人物の声に耳をかたむけたかったのである。一人の少年が死んだ。それを巡る周囲の人間の心の揺れを描いてみたかったのである。」と言っている。、現状の日本の学校社会で起きている「いじめ」の実情、教師たちのそれをめぐる現状の姿、保護者たちはその事件をどう受け止めどう対応しているか、警察は「子供たち」をどう扱ったか、をそれぞれの視点からありのままを描いただけである。では、この小説から見えてくる事は何か?皮相な大人しか登場していない。まともに、少年たちの心に寄り添い、彼らたちを親身になって叱咤激励する大人はひとりもいなかったということである。学校も、学びを通して子供を成長させていくという視点での「学び」が追及されていない。ただ、「点数」を通して子供の人格を見ている。今の中学生は総じて幼い。いじめにあう子は特に幼い。(この小説に出てくるいじめられている子は、いじめのターゲットとなるまさに典型的な少年。このような子供が今の社会には実に多い。)社会性を年齢相応に身に着ける機会を得ることなく中学生になった。この意味からも学校は子供たちを人としての社会性を育てる絶好の場であるはずだ。それなのにその機能を余り果たしていない。小説の中の死んだ少年の家族など周りの大人たち全員がよってたかって可愛がりペット状態で子供を私物化している。加害者とされた子の親たちもただわが子が加害者であるはずがないと主張するばかり。このような現状を大人側が直視して、適切な子供への働きかけや援助をすれば、このような痛ましい事件は起きる前に防げる。いじめは必ず起きる。それをどう解決してそれぞれの子供たちの成長への契機にして行くか。このことが最も大切なこと。そのことをやることを怠って、子供たちを見捨てているのが大人たちだ。(この小説に登場した大人たちのほぼ全員がそうだ。)特に学校という場が「学ぶ」ことで子供が世界への視野を大きく広げ子供自身の生きる力になるような「学力」を身に着ける場になることが必要だ。「学ぶ」ことも「競争」なのである。このことが、子供たちを退廃的な気分にさせており、「学ぶ」意欲持てないままで大人になっていく。これでは未来の社会を切り拓く大人へと成長できないし、人としての誇りをもって生きる社会の形成者にはなれない。(大阪の橋下市長の言っている支配者に好都合な人材ぐらいにならなれるが。橋下市長は教育目標を人材育成と言っている。)学校や教育委員会が事件を無視して「無かったこと」にしようとしていることは断じて許すことはできない。しかし、これは日本社会そのものの構図で別に今始まったことではない。ムラ社会の掟を彼らは忠実に守っているだけ。(原子力の再稼働だって同じ論理)マスコミは学校側や教育委員会の対応のまずさを憤るポーズをとって、被害者を守るようなキャンペーンを盛んにしているがいじめの構造的問題は日本社会の現在直面している社会構造の問題と深く関わっており、加害者を糾弾しているだけでは解決できない。「沈黙の町」の沈黙を破って、声を上げた今回の被害者のご両親が、この騒動の波が引いていくと「沈黙の町」で孤立するのではないかと危惧している。(ムラの恐ろしさしたたかさを知らない人は無邪気に騒いでいるが。)裁判で、「わが子の死」が、日本の現在直面している「教育」や「子育て」の問題点を深く照らし出して、未来の子供たちの学校の在り方に繋げてくださること祈らずにおられない。「わが子のいのち」を無駄にしないためにも、早く解決して世間から「事件」を葬り去ることを望んでいるムラのボスたちの術中にはまらないようお願いしたい。粘り強く、声を大きくして叫び続けなければならないことがある。
2012.07.16
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さまざまな年齢や職種の100人の若者たちが、100日間で創り上げたミュージカル「A Common Beat」昨夜、このミュージカルを観に行ってきました。私の塾に来て、中学・高時代を勉強した生徒が出演者のひとりで、その彼女が観劇を誘ってくれたからです。6月30日7月1日の2日間3回公演で名古屋市の市民会館、オーロラホールにて行われました。(公演規模)私は、日曜日最後の公演を観たのですが、ホールは満席、若者たちの熱気あふれる素晴らしい公演でした。働きながら、土・日を練習日として、素人の若者たちが創り上げたものだと思えないほどの完成度の高い情熱的な公演でした。ミュージカル「A Common Beat」はアメリカのNPO法人"Up with People"が2000年に制作した作品だそうです。この作品を日本語化して、オリジナルの演出を加えて上演したものです。作品のテーマはSymphony of Human Cultureである。舞台で描かれる世界は様々な文化の特徴を持った4つの大陸(青・黄・緑・赤)で成り立っている。人々は互いに他の大陸の存在を知らず、独自の文化に根ざした歌や踊りを楽しんでいる。しかし、ある時、一人が他の大陸の存在に気が付いて、混乱や争いが始まった。文化やバックグランドが異なっても、お互い理解しあい、共存することができるのか?それぞれを繋ぐ一つの鼓動A Common Beatを見つけることはできるのか?響きあい高鳴る胸の鼓動を聞くことができるのか?もちろん最後は高らかにいのちの鼓動は響きあう。ミュージカルのストリーはこのようなものであった。とてもメッセージ性の強い作品であり、舞台を作り上げるプロセスで、一人一人が学び、鍛えられ、成長しなければ100人のシンフォニーを奏でられない。完成度の高い舞台にはならない。正に共に育ちあいながら、人として豊かになっていく。意欲的に生きるとは何かを身をもって実感しながら舞台創造に参加していく。舞台を作り上げていくプロセスそのものが人が学び育つとはどうあるべきかの実践そのものなのである。とてもダイナミックな素晴らしい教育のお手本がここにはある。日本の教育が見失っているのは、「学び」をこのような人格形成としてダイナミックにとらえる視点だ。テストで高い「点数」を採ることで評価され、選別されて、上位をひた走って、社会に放り出された子供たちは、今、社会で困難に出会っている。生きる力を失い挫折している。希望を失い、うつ状態で社会復帰困難になっている。生きる力、エネルギーを若いのに無くしてしまっている。それに反して、今日、ミュージカルの舞台で活動した若者たちは、生きる意欲充実し、生き生きと躍動していた。彼らは、このエネルギーを自分の仕事の場に持ち帰り、必ずや今ある困難を切り拓く若者になってくれると私は確信している。この若者たちの力は、必ずや未来を変革していく力になる。このような若者が育っていることは心強い。ミュージカルについて、あまり知識なく馴染みのないこの婆さんであるが、今日の公演は久々に若い人たちの集まるエネルギーを感じて感動した。しかも観客動員数もすごい。マスメディアを使っての宣伝はないのにこのように多くの観客が集まるとは。やはり今の若者も捨てたものじゃない。力強い若者たちの表現の仕方があるのだと実感した。いつも私が参加する集まりは、高齢者ばかりで、若者はどこにいった?という思いが強かったが、今日は久々若者の集いに参加して満足。私を招待してくれたアヤさんは黄色大陸の王女さまの役で大活躍。普段のアヤさんとは、とても思えない。自分を解き放ち生き生きと役を演じていました。彼女は学生時代、陸上の選手でした。勉強はまずまずでしたが、彼女の素晴らしいところは、与えられた課題を自分のペースで、ひとつひとつごまかさず着実にやるというところでした。学校のペースから遅れていても、私が与えたプリントは、半年遅れでも1枚残らずやる子でした。今も、その生きざまは続いています。今後の自分の仕事の中でもそのアヤさんの底力は、必ず生きてくるはず。素晴らものとして発揮できる日が来ますよ。ともに頑張って社会の何かしら力となるよう頑張ろうね。やっぱりアメリカっていうのはすごい。このミュージカルの理念の発祥地がアメリカであるとは。(NPO法人Up with Peopleが制作した作品)世界で最先端の問題を最も多く内包しているアメリカ、それを根底の所で解決しよとする文化もアメリカに又あると実感。このミュージカルの主催:npo法人コモンピート
2012.07.02
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子供が詩を読む時(この詩を読む子供たちの環境は、春になるとあちこちに桜爛漫の公園がある。)丘の上の学校で 那須貞太郎新しい教室の窓をあけるとゆるやかな 若葉の谷がひらき向こうの連なる山々の間から一そう遠い嶺もみえる目近い山肌はゆたかに芽吹いて ふくらみ点々 真っ赤なつつじが燃えているあい色に遠い向こうの頂から青澄む斑雪がすずしいかがやきを送ってきてああ いく重の波のように続く山々を麓から頂へすすむ季節の たしかな足どりがみえる時おり 風がとおりすぎる教室いっぱいに山吹の 金の香をまきながら この詩は「光村図書・5年 国語」教科書の冒頭に掲載されている詩である。学校では1時間でこの教材を終えるようである。私の所に勉強に来ている5年生の子供たちと鑑賞してみた。(この町の中央を流れる川・川の両側は桜爛漫と咲き、水鳥遊ぶ)学校の窓から眺める春の遠大な景色連なる山々の青から目前の鮮やかな若葉の明るい緑まで一気にモノトーンの冬の世界から淡いパステルの春の色合い明るい色の氾濫すずしい風は春の芳しい香りを運んでくる新しい学びの季節がはじまる新しい出会いの新学期が始まる(濃尾平野の東部丘陵地帯の山波連なり、さらにその向こうには木曾の山々を遠望できる) 私にとってはこの詩は朝の散歩道の風景そのものである。遠くに青済み霞む山々、萌黄いろにうごめき芽吹きはじめた山肌、そして間近には燃える桜色、濃いピンク、足元も枯草色から鮮やかな緑の若草に変貌をとげようとしている。春の色が刻一刻と変わりつつある一つの画布のなかで。その鮮やかな色のコントラストその鮮やかな色のハーモニー。5年生の子供たちはこの詩をどのように読んだか?まず分からない言葉を辞書で調べる。(確かに調べることは良いことだが)彼らが分からないから調べた語は、若葉の谷嶺、頂目近(まぢか)、山肌つつじ、 山吹青澄む、斑雪(はだれ)いく重の波言葉の意味調べに時間がかかる。子供たちに、「毎日自分たちの生活している周りを見渡して、この詩の言葉を頭のなかで絵のようにイメージしてみて」と私が注意を促す。「山もつつじも若葉の谷も毎日見ているでしょ。つつじなんて学校の前の池の周りにもう真っ赤に燃えるように咲き始めているでしょ。その同じ池の土手に山吹も黄色に乱れ咲いているの見たことないの?」つつじや山吹を辞書で調べて子供たちは益々、花をイメージすること困難になっている。何よりも「燃えるつつじの赤」に感動していない。むせ返る若葉の緑の谷に感動していない。これは目近な日常の景色である。遠方の山々などもっと見ていない。子供たち住むところからは、晴天の日には、遠くには日本アルプスさえ遠望できる。まさにあい色に霞む山波なのである。5年生の子供ってこんなに周りのものを眺めていないものなのか?私自身がショックを受けた。(町の中心を流れる川には素敵な個性的な橋が多く架けられている)学校の授業は詩を読むのではなく、言葉の解釈をしてよしとしているのか。子供のこころを豊かに育てるには、もっと今、自分の生活している自然と遊ぶこころを育てることが必要では。点数を上げるために、ツツジや山吹の名前を覚えている。これはその子供のママたちにも同じことが言える気がする。豊かな言葉は豊かな実体験の中からしか育たない。身につかない。豊かな言葉育てることなくして子供は人として育たない(今村橋:町の陶器産業を象徴する染付の陶板が幾つもはめ込められている。その橋の柵の向こうに河川敷の春爛漫。こんな素晴らしい街の景色に育まれている子供たち)(県の郷土手作り賞に輝いた橋:染付の陶板がはめ込まれている。でも子供たちはたぶんこの橋を知らない。いつも車で通っているから。)久々に塾の様子を書いてみた。ここ2年ばかりは、それまでいた高校生が大学生となり私のところを巣立って行ったので、この子たちを最後に小さい子供たちだけと勉強することにしている。高齢とともに高校生を教えることは体力的にも苦しいし、幼い子の方が私も楽しく若々しい気持ちになれる。しかし、小学生はほとんど教えたことのない私、戸惑うこと多く、ここに書くに至らない。詩の勉強は気軽な気持ちでやってみたが子供たちが、詩の言葉を自分でイメージして、内容に共感していないのには少々ショックを受けた。比較的自然がまだまだ残された豊かな所に住んでいる子供たちであるのにである。今の若い人たちの作詞をみていると景色をロングに捉えるそれを美しい日本語で表現するということが弱い気がする。詩から景色がイメージできない歌詞が多い。さくらの花を歌うとき私小説的に自己の心情を没入させて歌う現代の若者たち。自分の狭い関心事を通してのみ自然を見ている。これだけでいいのか?今の5年生の子供たちとそれは相通じるものがあるように思うのである。
2012.04.16
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大阪維新の会の「大阪教育基本条例案」がめざすものは何か? 私は最近、中島岳志氏の次のルポルタージュ読んだ。 中島岳志著:「秋葉原事件・加藤智大の軌跡」 朝日新聞出版この本は2008年6月8日日曜日、歩行者天国の秋葉原の街で発生した無差別通り魔事件の犯人・加藤智大を幼い時から犯行に至る25歳までを丹念に追いその全体像に迫ろうとしたものである。事件当時は、テレビ、新聞などマスメディア挙げての報道で、世間も大騒ぎ、色んな評論家諸氏の無責任なコメントが氾濫していたが、今では、多くの人々の心から忘れられようとしている。だが、しかし世間から忘れ去られようとしている今、中島岳志氏は事件後の3年間に、その事件の背景を丹念に追い続けて、一冊の本にまとめた。調査を進めるなかで、以外にも加藤智大には多くの交友関係があり、友達も多くいた。それなのに、なぜ孤独であったのか?と疑問を投げかけ、現代の社会の病理を解明しようとしている。加藤智大という青年の25年の軌跡を忠実に追うことで、「なぜ}このような人格が作られ、このような無差別殺人犯へと追い詰められていったかを読者に問いかけている。この青年像が特殊な人格ではなく、どこにでもいるいる現代の若者であり、殺人犯行へと追い込まれていくプロセスにはどんな事実があったのかを淡々と追い続けている。 私は私のブログで2008/06/14 秋葉原無差別殺人事件から見える社会2008/06/23 秋葉原無差別殺人犯の家庭は特殊か?2回にわたり書いてきた。私の記事は、中島岳志氏のような膨大な調査に基づいて書いたわけではないが、私の体験からの推測で書いた内容は、ほぼ妥当であったとこの中島氏のルポを読み再認識した。私の書いた内容をこのルポルタージュは具体的な事実によって裏付けてくれた。(関心のおありの方は、ぜひ、これらの記事のご一読を。)今、大阪では、府知事選と大阪市長選が同時に戦われている。橋本徹・前大阪府知事率いる「大阪維新の会」がつくった「大阪教育基本条例案」なるものがある。この教育基本条例案が実践されたら子供たちの教育はどう変化するか?子供たちをどのような人間に育つか?知事の定めた目標に沿うよう「府教育委員会」は具体的な教育指針を示し、校長は其れにしたがって、具体的、定量的な目標を定め、教師は目標に向かって成果をだすよう頑張る。成果が出せない者は人事考課によってクビにもできるというものである。この教員管理マニュアルはグローバル化に乗り遅れた二流企業が目先の儲けを出すために、あせって営業成績をあげようと、社員にはっぱをかける人材養成マニュアルとかわらない。 グローバルな一流のの大企業ではすでにお払い箱の人材教育マニュアルを大阪の学校に持ち込もうということである。 教育の目標を人材育成としている。たとえば 橋本徹率いる「維新の会」がいう、世界で勝てる人材育成とは、、「難解大学への進学者増」「英語力の向上」「デイーベート力の強化」などで、この目標に成果をあげる教育。これらを数字目標にして競争させる学校教育。この高い成果の数字目標を達成しない学校や教師はダメ学校、ダメ教師と評価される。(これって予備校や塾のやっていることでは)今では、これらの項目を教育目標にすること自体がグローバルな社会で生き抜くためには的外れ、問題解決をして生き抜く能力ではなくなっている。世界はもっと前を行っている。時の政治家の恣意的な願望で支配される教育ほど危険で悲惨なものはない。それはすでに歴史で証明済みのこと。これを書いている最中に、テレビのワイドショーで、大阪市長選を放映している。橋本徹候補の街頭演説中に街頭インタビューされた大阪市民のおばちゃん「政治のことはよくわからへんけど、顔みて握手されたから入れるわ」とか。中年のおっさん、「強いものにはっきりもの言えるのは橋本さんや。そういう人にやってもらわないと」 大阪市民は冷やかしで選挙しているらしい。橋本徹大阪市長候補は市役所を背にして第一声。「私は市民、府民のみなさんを守りますが、この市役所は守りません。この市役所は壊して、ゼロから作り変えましょう。880万の大阪がアジアの大都市といて繁栄させることを約束くします」などと大見得切って、大声で、威勢よく、市民を煽動している。大阪市民の不満ややっかみをたくみに利用して、上から目線で市民を導こうとしている。地方自治改革の旗手などとマスコミは囃し立てているが、彼が改革したのは手の付けやすい弱い者いじめのところばかり。本丸には尻尾を振っている。そればかりか、独善と独断で教育という社会の根幹にかかわるところまで支配しようとしている。このような勢力{大阪維新の会」を「もうかりまっか」が挨拶の商都大阪のあきんどたちは支持するのだろうか?市民が「もうかる」都市に本当に再生できるのだろうか?大量生産、大量消費、の経済成長を推し進める政治からこの社会に決別して、新しい価値観で社会を動かす政治が求められているが、それを推し進める政治家や社会の基盤がまだまだ脆弱すぎる。この新しい価値観で社会を切り拓く若者が次々に輩出する教育をいま強く現代の歴史が求めている。
2011.11.11
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ダイジェスト版「アルプスの少女」と全訳「ハイジ」 30数年ぶりに、ヨハンナ=スピリ作「ハイジ」第一部・第2部(偕成社文庫)を読んでみた。ダイジェスト版ではポプラ社の世界名作ファンタジーのなかに「アルプスの少女」という題名で店頭に並んでいる。値段は350円。600ページの原作を40ページ余に短縮したもの。アニメ的な絵入り(ほとんどが絵)。手軽で10分もあれば読み終える(見終える)絵本である。確かに、ストリーの展開は、原作「ハイジ」と同じであるが、登場人物たち:主人公のハイジ、そのおじいさん、羊飼いのペーター、そのおばあさん、ハイジの友達クララやゼーゼマン一家など、登場人物も同じである。しかし、その一人一人の人物は類型化されて、生きた人物として読者のこころに飛び込んでは来ない。原作のわくわく感、おもしろさから程遠い。幼い時、このようなダイジェスト版ですませることは、子どもの以後の成長にどんな影響をあたえるか。 今回、全訳本、全2巻の「ハイジ」を再読してみた。 この本は、わが娘が幼い時、読み聞かせたか、娘自身が小学生のころ自分で読んだものなのか、私の記憶は定かでないが、とりあえず、昔の本棚から取り出して再読し、とても深い感銘を受けた。 ヨハンナ=スピリの「ハイジ」は1880年に世に出たスイスの児童文学である。 この物語は120年余り前のお話しであるが、ハイジに代表される自然豊かな世界とクララに代表される自然から徹底的に隔絶された小奇麗で快適な都会の生活が鋭く対立している。この対立と矛盾は21世紀の現代では、さらに深刻となり、社会の中で生活することの困難な若者が次々に生産されている。クララに代表される世界が、今では一般的な人間像となっている。「ハイジ」の世界がこのような世界を描いていることを老いて今、知ることが出来た驚き。 そして、子どもが人として成長していく道すじはどうあるのかを私たちに体験させてくれる。子どもは、どのようなプロセスで『学び』ながら「知」を獲得し、血肉としていくか。自らの困難をどのように乗り越えて行くかなど汲めど尽きない人生の学校がそこにある。世に流布しているHow toものの育児書よりもはるかに分かりやすい活き活きと躍動する育児書でもある。5歳のことちゃんに読み聞かせたら、きっとハイジと一体となって、美しい野原を駆け回り、もみの大木の風の音に驚き、わくわくしたり、哀しんだりしてハイジの生活を体験するだろう。 頑固で偏屈なアムルおんじ・ハイジのおじいさん、信仰心深く、生活そのものが神さまのお導きそのものの生き方をしているクララのおばあさん、ここには年寄りの生きる智恵や甘い辛いを噛み分けた深い人生の哲学がある。 この物語のなかに登場する人物の一人一人に思春期の子供たちが出会ったら、偏狭な自分の現実世界から脱皮して、さらに大人へと羽ばたいていける糸口をみつけること請け合いだ。このような多様な大人には、親の力だけでは、とうてい子どもに体験させる事はできない。 子どもにとって良い本とは、このように、時代を超えて、年代を超えて、現実を深く知る感動を楽しさを与えてくれるものであるはずだ。600ページを越える長編で、絵もほとんどないが(所々に線画の小さな挿絵があるだけ)、このような本を読み通す「読む力」を子供たちにつけさせることが、今求められている。とりわけ小学校高学年の子供たちはこのような文字だけの長編を読む力を育てることなく中学へと進み、ほとんどが「本」ぎらいとなる。読書ばなれである。(国語力も貧困) テレビゲームやアニメ、ダイジュスト版で「思春期の疾風怒涛」の時代を通り過ぎていく今の子供たち。その結果がどのような子どもが育っているかは、ご覧の通りである。 今の小学生低学年の多ければ多いほど良いという読書奨励策は高学年を読書嫌いにさせている。 私は、現在、市の図書館で、子育て中のママ達と「読む力は生きる力」: 脇 明子著(岩波書店)という本を使って、「こどもと読書」の「読書会」をやっている。 現在、日本の子供たちの多くに、小学高学年から中学にかけて読書ばなれがおきており、この状態は高校、大学へと進むにつれ、ますます顕著となり、大部分の若者が、まともに「本を読んでいない」「読んでも理解できない」状態になっている。この高学年からの「読書嫌い」「読書離れ」の原因は何かについて、目下勉強している。この本を読むなかで分かって来た事は、幼児期から小学校低学年の「本とこどものかかわり方」に問題があり、「こどもが文字を通して、イメージを構築して、物事の展開を追ったり、理解することの出来る、文字の多い本に出会っていない」ということである。子どもにとって、読書とは何か。知識や楽しみを得る手段であるだけではなく、読む力のトレーニングとなるような本。イメージを自分で構築して読む力を付けてくれるような本。読むという精神活動そのものを育てるような本。そのような本との出会いが少なすぎるのが現代の子供たちではないか。本のない時代は、年寄りの語りべたちが話す「お話し」が子どもにその力を付けさせていた。現在、小学校低学年で行なわれている、読書の実情はこうである。「なんでもいいからたくさん読みましょう」という読書指導。たくさん本を借りると表彰される。図書館だよりに名前が載る。クラスごとの貸し出し数がグラフにして貼り出される。カードをつくり、冊数を競わせる。この数が多ければ多いほど良いという「読書奨励策」は、低学年の子どもには人気があり、熱心に取り組むが子どもが多いのである。その結果、ページ数が少なく、絵が多く、文字が大きい。巻数の多いシリーズものなど、カードを増やすために、競って読むのである。大人がためになると薦める伝記本シリーズ。小学生の子どもが読める程度に書いた中味のうすい伝記。教訓話としての面白みない伝記。真に伝記物を読める年代になったときには、もう伝記ものにあきてしまっており、読む必要性を感じていない。名作シリーズのダイジェスト版。原作のすぐれたもの、人間社会の複雑さ、そこで生きる人間の性格の必然などすべてはぎとり、人間をよい子、よいおじいさんなどと類型化して、単なるお説教、教訓話のストリーだけに単純化してしまったダイジェスト版。このようなモノばかりを幼い時に読んでいたなら、本から深い感動など得ることはできないので、本嫌いになるのは当然。本を馬鹿にするようになる。子どもたちの「人気シリーズ」もの。数を稼ぎたい子供たちには、探すのも楽、読むのも楽。やって来るものを受身で楽しむだけ。作り手は、益々絵で楽しませることに力を入れ、物語の脈絡は放棄されるシリーズもの。 日本の多くの小学低学年の子供たちの本との出合いはこのような実情である。 このような「本」にしか出合っていない子どもたちは、高学年になるとほとんど「本」を読むことをしなくなる。この年代からこそが、本格的な「本」との出会い、「本」を通しての広い世界の獲得が必要であるというのに。 こんな現状を踏まえて「読書会」では、参加者である、親がまず、ダイジェスト版ではない全訳の名作を読破して、次回に発表しあうことになっている。 そこで、私、この婆さんは、ヨハンナ=スピリ著「ハイジ」第一部・第2部(偕成社文庫)を読むことにしたのである。上でもその感想を述べたけれど、すぐれた児童文学は、歳を経て読めば、また別の視点から登場人物の一人ひとりに出会い、人生の面白みを体験させてくれるのだということを、今回、知り、とても感慨深いものがあった。30年ぶりにハイジに再会したのである。 若いお母さんにぜひ言いたい「よい本」だからと子どもに薦めるのではなく、まず、大人が読みその面白さや感動を体験してから、子どもとその楽しさを共有しながら読むことが必要であると。文字ばかりの長編を読むことは、「字を読めるから自分で読みなさい」式の薦め方では、子どもは読まない。「読む力」をつける読書は、かなりのハードな作業であり、その困難を乗り越えた時、広い世界が開け、感動する読書体験ができるのである。「読む力」を付ける読書。そのような力のつく本との出会いは、親たち自身の読む力、生きる力が試されているといえる。人が人として、自立して生きる大人に育つためのそれは「欠かせない」力でもある。 「読む力は生きる力」 脇 明子著 (岩波書店)については、かってブログ(2005/6/28)でも紹介しています。興味ある方はご一読を。その他にも 05/6/29 我が家の場合(1)娘の場合 05/7/2我が家の場合(2)孫娘のブックスタート 05/7/3我が家の場合(3)息子の読書遍歴と3回にわけて我が家の子どもたちの幼かった日々の本との出合いを書いています。
2009.10.29
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再び秋葉原無差別殺傷事件について(2)(現代社会を映す鏡としての家庭) 昨日、日曜日(6/22)の昼下がりに、当地方の民放テレビで:「たかじん委員会」なる番組を放映したいた。視聴している方もいると思うが、今の世相を、お馴染みのタレント評論家たちが、世間のレベルにあわせて、面白おかしく言いたい放題言い合う番組である。昨日は「無差別殺人の正体」というテーマで言い合っていた。この番組に登場したタレントたちの意見は、概ね、殺人を犯すか否かの境界は、その家庭に問題がある、というところに落ちた。即ち、色々な社会問題が複合的にからまっているにしろ、同じ環境下いてもすべてが殺人犯となるわけではない、という結論である。つまるところ、幼児期からのその家庭の親の育て方が悪い、というのである。自民党参議院議員の年寄りなどは、「今の親は、子供を叱らない。かけっこの早いのは頭が悪いのが相場だ。それぞれ身の丈にあった道を親が歩ませようとしないから悪い。」と嘆き、高齢者のタレント評論家などは、「勉強だけが生きる道じゃない。手に職つけて、立派に生きている人たちはいくらでもいる」などなど無責任に言いたい放題である。これらの意見は一見もっともらしくみえる。世間の大人たちが共感しそうな意見である。(特に年寄りが)でも、本当にこれらの意見は、今回の無差別殺人事件の本質を言い当てているだろうか。この事件に潜む現代社会の病理を言い当てているだろうか。いつの時代にも、残酷で悲惨な殺人事件は起きている。しかし、その事件の中には、その時代、その社会に特有の矛盾の集中がある。その意味で、今回の事件は、現代社会の矛盾を典型的にあらわしている。その病理や問題点を鋭く暴き出している。今回の殺人犯のプロフィルは、現代日本社会がもっている問題点をすべてもっている。それは日本経済に潜む矛盾の集中点であるといってもよい。北東北での生い立ち。生い立ちでの幼児性。とりわけ、小、中学校期における、母親の養育態度。世間の価値観に振り回され、親自身が自分の虚栄を満たす為に子を育てている。勉強を点数をあげることだけの狭い視点でとらえ、このような親が子に教えている勉強は、まことにひどいもの。学びの本道からはずれているのに、自分の子は、よく出来ると錯覚する。しかし、こういう親の子供は、小学校ぐらいまでは、けっこうよく出来る。親の能力で勉強を指導できている間は、とりつくろって親子関係を良好に保てるが、親の能力を超えたときに、このような子どもは自力でそれを乗り越える能力が育っていない為、不登校や今回のようなタイプの子だもになっていること多い。(親と同様、子どもも無自覚に虚栄心を身にまとい育っている)しかも、このような家庭に限って、子育てや勉強の出き不出来は、母親の責任にされており、子どもが成績優秀コースからはずれると、その事で、夫婦関係まで険悪になり、離婚になったりする。夫婦で子育ての困難を乗り切るエネルギーが極めて乏しい。今回の殺人犯の家庭は、まさにこの典型のようにみえる。しかし、これは、この家庭特殊なものでなく、現代の日本社会を覆っている一般であるといっていい。このような家庭に、今、一番必要なことは、子どもが、つまずき戸惑って、悩み、苦しみ、溺れかかっている時、何処までも寄り添って、手助けする子への深い愛情だと思う。子が、溺れかけて、あっぷあっぷしている時(その子は自力でそれを乗り越える力を、年齢相応に育てることを親はやって来なかった)に、親自身は実に冷淡、薄情なのである。子がそのような状態なのに、親は、まだなりふりをかまい、世間の目を気にしているのである。 勉強の成績優秀と評価されている間は、実に楽しく大切に子どもと関っている。しかし、一度その路線をはずれると、実に冷淡で口やかましいだけの親になる。成績の良い方の子どもに対しては、またまた、年齢不相応な過保護をして、親としての自尊を保持しようとする。 私の塾にも、そのような途方にくれている親子がたびたびいる。私自身も途方にくれ、ない知恵をしぼって、あれこれ助言しても、多くの親の意見は「そこまではやれない」というのである。やってもみないで、そのように言われてしまうと、この親は本気でわが子を成長させようと思っているのかしらと疑問に思う。要するに、親の現在の生活のスタイルは変えないまま、何とかして欲しい、というのが親の要求なのである。一人の子どもを、人として自立させ、社会に巣立たせることは、親の手慰め、趣味ではやれないのだ。子育ての誤りや、問題点が噴出したとき、軌道修正して、やり直すことに、遅いという事はないはずだ。この点でも、親は、実にあきらめが早いのである。子育て中の親たちが、このような状況に陥ってしまっているのは、《よい子》競争に親自身がかられているからだ。現在の日本社会の価値観に埋没し、流されてしまっているからだ。親自身が自分の置かれている社会的な状況に気付く理性、知性を養う必要があるのではと私は常々思っている。このテレビ番組のタレント評論家諸氏は、今の家庭は、子どもにモラルを教えないからいけないなどと言っていたが、このレベルの家庭は、実に口うるさくモラルを説教している。むしろ、厳しすぎるくらい教えている。高学歴社会での挫折。この殺人犯が高学歴社会での挫折を経験したことでの生育のゆがみが、犯行の原因のひとつかのように言い立て、「分相応に育てろ、手に職つけることも生き方に価値ある」などと言っているタレント評論家がいた。これは、親たちの「勉強できないなら、専門学校にでも行って、資格をとったほうがいい」という価値観と呼応する。本当にそうだろうか?勉強が出来ない人が、専門学校にいっても、やっぱりその人は、たいした専門技術は身につかないし、あまり社会でも評価もされず、生きる術ともならない。しかも、現在の専門学校が教えているような知識や技術は、社会も要求していない。親だけがその事を知らないだけ。手に職つけ、職人になる道もある、というコメンテイターたちのお説はどうか。今の社会で職人として生きるにも、その道の勉強はかなり高度で、それを学ぶ器を作ることなしには職人にはなれない。 社会の中で生き抜く力の根底には、体力、学力、絶対に必要だ。 学歴はなくとも、その人の人生を支える、体力・学力は必要だ。 学歴があればなおいい、という程度に学歴も必要な時がある。 現代の学校や家庭が最も軽視しているのが、この意味での「体力・学力」だ。 出来ない子は勉強をやらなくてもいい。わからなくてもいい。というのが今の学校ではないのか。これはひどい。その子にどんな能力があるかなど、まだ小学校や中学校ぐらいでは未知数な部分が多い。いざ、勉強が必要と感じた時、自力で勉強に立ち向かえる基礎力を、勉強が出来ない子にこそ、つけてやる必要がある。(出来ないといっても、その年齢でそのスピードで遅れているだけの子はいくらでもいる。)今回の無差別殺人犯の青年は、学力においても、幼い時から高校を卒業するまで、残念なが「まともな学力」をつけていないと私は思っている。真の意味での「学ぶ」ということを教えてくれる大人に出会ったことがない。あるいは遭遇していたとしても、それを受け止める資質を幼い時から育んでいない。不安定な派遣労働者。このように「よい子」競争にかられた情の薄い親たちに育てられ、挙句の果に見放された幼児性強い青年が不安定な派遣労働という現場に投げ込まれた。 世界の自動車各社が見習おうとする日本の自動車工場の作業システムが、切り詰めに切り詰めた効率性を追求し完成させたものであり、そこに働いている人々の労働実態が、いかに非人間的なものであるか。そこで働いている人に精神的ダメージを与え、狂気や精神病にまで追い込んでいるか、今回の事件はそれを象徴的に暴露した。この製造現場の精神的荒廃こそ、もっとも厳しく国民に暴き出さなければならないことではないか。このような製造現場で、「世界一の利潤を生み出す自動車工場」が作り出されていることを、私たちは自覚すべきでないか。そして、そこで働く最も底辺の「派遣労働者」から、今回の無差別殺人事件の犯人が出たことにこそ、現代の日本社会の象徴的な意味があるのではないだろうか。 今回の無差別殺人事件は、「加藤某」なる人物の特殊家庭から生まれたものでないということを、深く分析し、次の世代に伝えることこそ、大人たちの役目だ。この家庭は、今回の事件を子どもが犯さなければ、日本の多くの家庭が直面している問題を孕んだごくありふれた家庭なのである。関連記事2008/06/14の日記でも秋葉原無差別殺傷事件について書いています。併せてご一読を。 私は、テレビのタレント評論家たちが、お気軽に言いたい放題いっている番組にとても危険なものを感じている。中学生や主婦たちは、あの意見が自分の意見と思い込み、さらに深く考えることを止めているように思える。まして、その番組の人気をたよりに政治家になるなど、とても危うい社会の前兆に思える。
2008.06.23
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親の世代はこの事件から何を学ぶべきか 6月8日、日曜日のお昼過ぎ、休日でくつろいだ人々で賑わう歩行者天国の東京・秋葉原で、あっという間に17人を殺傷するという通り魔事件が起きた。犯人は25歳の派遣社員の青年である。 想像できないほどに深刻に病んでいる現代の社会の姿がそこにはあるように思える。と同時に、同年代の若者を育ててきた親として、又、日頃、中高生と関っているこの婆さんとしては、とても他人事と思えず、深く衝撃を受けている。このような狂気とすべての若者たちは、紙一重のところにいる。その親たちも、この事件は、他人事ではなく、自分の子どもを取り巻く闇を見極める力、そのなかから子育てする力量を、高めなくてはならない。この事件を自分の子育てや教育の在り方の警鐘と、受け止めるべきではないか。この事件を、世間はワイドショー的に見物して、眉をひそめているように見える。25歳にもなっている犯人は、すでに自立した大人であるはずなのに、その親の家庭環境や、育て方のあら捜しをして、「私の家とは違う」と安心しているようにもみえる。本当に、自分の家庭とは違うと安心していていいか?犯人の青年が受けた教育や子育ては特殊だと断定していいだろうか?否、と私は言いたい。この犯人である青年の「育ち方や受けた教育」は、現代の日本の庶民(中流)の子どもたちが受けているものと、本質において同じものだ。家族のありようも、現代の日本の家庭が抱えている問題を典型的に持っている。現代の日本の家庭は、子育てのなかで起きている困難、とりわけ思春期から青年期にかけて、発生してくる諸々の困難に対して、夫婦が一致協力して乗り越えるエネルギーが脆弱だと私は常々感じている。わが子が社会に自分の足で立って、親から飛び立っていくまでが、親の子育ての責任であり、その家庭で生じる諸々の問題は実に多義で困難なものが多い。その成長過程での問題に、大人たち(親や学校)は、実に冷淡、無関心であきらめが早いのである。今、子が何に苦しんでいるのか、どの位置にいるのか、周囲にいる親や教師や年長者が理解して、自分の人生の経験や知恵から、寄り添って、生きることが必用なときもある。そのような時に、今の大人たちは、自分のことで精一杯なのか、じつに放任主義なのである。幼児期や小学校ぐらいまでは、過干渉なほどに子の世話をやき、自主的に伸びる力、生命力をことごとく摘んでおいて、いざ、自立していこうとあがいている時には、放任、冷淡なのである。これは、核家族のかかえる弱点でもある。夫婦だけ、親子だけで人間関係の中味を創り出していかねばならないという困難を核家族は必然的に持っている。(かっては、家父長的な家とか、ムラ社会とかとうい封建的なモラルのなかで守られていた。濃密な組織に縛られて生活していた。)家族が個だけの関係で、家族間のコミュニケーションを確立し豊かな人間関係を創造していく新しい課題を現代の家族は背負っている。これはモデルのない困難を伴うが、封建的なムラ社会の家族関係とは、はるかに心地よい人間的なものと私は思っている。この意味でも現代の家族は、過渡期にあり、その中で育っている子供たちは、中々自立した大人になれないで20歳を過ぎてしまっている。勉強もそうだ。ただ、通り一辺の知識の詰め込み、ペーパーテストの点数を上げるための勉強。幼い時からこのような勉強に駆り立てられてきた若者達は、社会に出たとき、自分のエネルギーを生きるための「学び」に注ぎ込んで、社会を変革していく力に変えて行くことが出来ない。現代、若者を抱える多くの家庭が、若者の「欝(うつ)」{ひきこもりによる社会復帰困難」「家族をつくる意欲の喪失」など、さまざまな困難に遭遇して、親子ともども苦しんでいる。今回の事件の犯人の家庭も、このような現代の多くの家庭が抱えている問題をもっているのは、当然なことである。家庭に、それを乗り越えるエネルギーが脆弱で、、深い情愛を家族のなかで、築くことが未熟なまま現在に至っている。しかし、これは日本の多くの若者をかかえる家庭が、多少の差はあれ、持っている問題でもあのだ。このような状態で大人になった若者が、放り出された社会は、将来の見通しもたたない、不安定な非正規雇用。しかも仕事も、不必要になれば有無を言わせず首となる。好不況の調整弁の役割をしているにすぎない労働。 もし、わが子が25歳になってもこのような状態であったら、親としては気が狂いそう。孤立して、誰からも、相手にされていない本人のあせりや不安、孤独の深さはうなづける。若者を社会が育てていくという従来の日本型の社会が、全く崩壊してしまっている今、それにとって変わる人間関係を構築する場所、学校や家族の在りようは旧態のままである。これでは、若者は人として、大人になれない。なる機会や場所がない。人間は、放っておいても、自然に自立した大人になる動物ではない。しかも、その孤立した子どもたちが、自らの孤独を癒すために、たむろするのが、携帯のバーチャルな空間である。この擬似空間でお互い慰めあい励ましあっている。今回の25歳の犯人も、その携帯世界がただ一つのよりどころ。自己の人間としての存在を確認する場所、その携帯の仮想空間からも見放され、自暴自棄的に狂気へと傾倒していく。このバーチャルな世界は、生身の人間のわずらわしがないかわりに、青年にあくまで寄り添って、放さない深い情愛はない。実に淡白。この青年に必用だったのは、煩わしくとも地獄の果までもついて行って放さない、深い情だ。それを体験することなく25歳になった青年。困難に直面した時、這い上がるエネルギーをつくる発電所をもたぬまま大人になった子供。幼いまま25才になっている。でも、これは、現在の日本の若者の多くがこのような状態におかれている。今回の秋葉原無差別殺人事件では、7人の人々が理不尽にそのいのちを奪われた。それぞれが、愛する家族がおり、充実した日常があり、将来の希望に満ちた人生があったはずの若いいのちも絶たれてしまった。このような悲惨や悲痛や無念に思い馳せること不可能にしてしまった狂気に、激しい怒りを覚えると当時に、ここから私たちは、つぎの社会を担う子供たちを育てるための教訓を深く学び取って生きなければならない。それが残されたものに出来る唯一のこと。そのことが、理不尽にも亡くなった人々への鎮魂となる。 青年達を不安定な雇用へと追いやっている派遣法の実態について。 1986年労働者派遣法が施行。 1999年に派遣労働を原則自由化。2004年「改正労働者派遣法」(自民・公明が賛成)の施行にともない、製造業への派遣を解禁。小泉元首相の「構造改革時代」に突入し、若者達は、フリーターやアルバイトなどの不安定な身分のまま社会に放り込まれた。 秋葉原通り魔事件を起した加藤智大容疑者が登録していた派遣会社・日研総業(本社・東京都・大田区)はどんな会社か? 1981年4月、製造業の構内業務請負を行なう会社としてスタート。 1989年5月 事務系派遣を行なう関連会社設立 1999年10月 労働者派遣事業の許可を取得し、人材派遣業を開始 2004年3月 製造業への派遣事業をスタート。 この年資本金を9500万円から3億円に増資。 全国に拠点200を越し、社員4500人。売り上げ高1512億円(06年度) 《同社の求人広告》 (その例1) 「自動車の組立 月収255000円以上可 2食寮で食事可能! 寮内24時間オープンの売店あります」(神奈川県横須賀市)(その例2)「トラックの組立・加工。 超有名な大手企業のお仕事です!個室寮も完備で生活環境バツグン 月収298000円」(藤沢市)しかし、実態は、神奈川県に住む女性(32)29歳の時、求人広告をみて応募。「長期に働くことが出来、2交代制で、月20万円余り可能」と説明を受け、キャノン宇都宮工場で働く。拘束時間10時間半に及ぶのに時間外手当なし。給与明細には支給総額17万円なのに、社会保険料以外に寮費5万円、水光熱費5千円、布団・テレビレンタル料千円が差し引かれ手取り10万円余。働き出して2ヶ月たったとき、「減産のためやめてくれ」と突然解雇予告通告。こんな状態で、若者は希望をもって生活設計ができるか?そのような社会を作っている一員である若者自身もこの現実を変革する当事者とならなければ、明日に希望はない。勿論、年配の親たちもこの現実をもっと知らなくては。関連記事として、2006/10/15の日記で、偽装請負について書いています。興味のある方はご一読を。
2008.06.14
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(子の自立は親の自立した生きざまから生まれる)私は最近の大学生の親の態度に戸惑い驚いている。 大学に合格して親が喜び鼻高々、自分が合格したかのごとく錯覚して、異常な振る舞いをする親。大学生になった娘や息子の入学式に親が付き添う。親元を離れて暮らす場合は、学生には不相応なほどのマンションを与え、住まわせる。新学期が始まって1週間ぐらいは母親が付き添って、身の回りの世話をする。炊事洗濯などを娘の大学生のために母親が下宿先に寝泊りして行なう。更に、その後も「コインランドリーの洗濯場は不潔で気持ち悪い」といえば、新幹線に乗って親が洗濯物を取りに行く。そして、家に持ち帰り洗って、また新幹線で世話に行く。こおような子どもへの世話は私には異常に見える。このような親の干渉を素直に受け入れる若者の精神の幼さは、私には、異常に思える。このような親と子は、特殊な例のように、私は思っていた。しかしである。今日の朝日新聞に、《学生の「過保護者」急増》という見出しで次のよな記事があった。全国9私立大学の教職員が見聞きした「過保護者」の実例。 《履修登録》 親が窓口に来て履修登録を質問。そばの学生は黙って聞いている。 《父母からの電話》 「子どもは今日休むので、先生に伝えて下さい」 「板書の字がよく見えないそうだ。善処して」 「子どもが今日は「休講」だと言っている。本当だろうか?」「試験が受けられなかったそうだ。どうすればいいですか。」「教室がいっぱいで座れないらしい。どうなっているの」等々。 《保護者向けの相談会》 「どうか卒業させてやって」 「特別に配慮を」と父母が懇願。これらの言葉は、二十歳を過ぎた大学生自身が発しているのではなく(そうであったとしても異常、変)、その親たちが発しているのだから驚く。信じられない。しかし、現実に起きている現象らしい。入学式は、どこの大学でも父母で超満員。法政大、東洋大は約1万4千人を収容する日本武道館を使い、「一学生につき保護者2名まで」と制限するのに満杯状態。明治大は今年度から武道館で午前、午後の2部制にした。 人数制限をしない大学では、祖父母や、乳幼児を連れた親類もついて来る。開場の2時間前から並び、ビデオ撮りに便利な場所取りに走る親も多いという。これらの光景は、私には、にわかには信じられない。まさに幼稚園の入園式と同じ光景である。しかも、幾つものマンモス大学で起きているという事実。私の周りに起きている事は特殊なこと、その家庭だけの問題かと思っていたが、この大学側の状態を知れば、私の直面する親子の現実は、ごくありふれた現代の親子模様ということになるのだろうか。このような現象が起きているのは、どちらかと言えば、大学の難易度を上中下の三段階に分ければ、「上のレベルの私大」に多いように見える。学校の成績のよい子供には、親は徹底的に寄り添って、大学合格は、まさに親自身の合格と同じ。その子どもに寄りかからなければ、親(母)自身も生きがいがない。お互いに依存しあって、そこに溺れあっている。それだけなら、まだそれは、その親子だけの当事者間の問題にすぎない。いずれ、人生のどこかでこのような親子は、手ひどいしっぺい返しを受ける。そのような例は多々ある。悲惨な事例は多々ある。しかし、同じ兄弟姉妹でも学校の成績の悪い子に対しては、放任主義。見放しているのである。寄り添って励まし、道を見つける手助けを最も必用としている子どもに対しては、実に淡白、冷淡なのである。回り道が多い、手のかかる子に対しては、実にあきらめが早い。結果として、どちらの子どもも人として、自立した人生を送れないまま、社会に放り出されることになる。このような悲劇的な子育てが今、社会に蔓延している。そして、大学は、学生数確保のため、このような親子をお客として丁重に扱わなければならないのである。これが、2008年日本の若者達の姿の一つである。
2008.05.25
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笑止千万な学力テストの結果公表内容全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)の結果が公表された。 その主たる内容は、基礎的な知識についておおむね理解があるが、知識の活用には課題があるというものである。さらに、子供たちの生活面での調査データの公表で、家族と一緒に朝食をとる子どもの割合や、テレビやゲームにのめりこむ子どもの学力との関係などである。 これらの結果は、すでに広く知られている事ばかりであり、何ら目新しいものがないのに、この大掛かりな調査を行うために、77億円にのぼる費用が使われた。準備のための費用を含めれば優に100億円の税金が使われた。公表された結果は、何ら現在の教育の危機的状態の原因を解明するものを示す事が出来なかった。このような結果内容は、抽出調査で十分に出るものであり、日々の教育活動や子育てのなかで、心ある教師や親がすでに知り得ていることばかりである。新たに分かった事は、このテストによる全国的な序列である。学校間の序列である。しかも、あくまで、今回のこのテストによる序列であり、このテスト問題が今の子供たちが直面している学力を測るのに、適切であったかどうかの検証は何もされないままだ。国が全員参加型学力テストを計画・実施したことで、県や市が独自の同様の学力テストを行い、授業は、その予行演習のための場と化している学校もある。このような学習活動は、今の子供たちの直面している問題を解決していく教育活動から益々遠ざかっていくばかり。これが現実だ。このテストのやり方は、その親たちが、偏差値競争に駆り立てられ、勉強してきた学力と変わらないものを再生産するだけだ。その多くの親たちの身につけてきた学力が、今の社会を切り開く、応用力を持ち得たものといえるか。真の学力を身に付けて大人になったといえるか。現実を深く読み取る力、そこから、問題解決する「応用力」を真に親たちが身につけているだろうか。もし、親たちが真の「学力」を身に付けて大人になっていたら、今日あるような「子供たちは」育っていない。今日あるような日本社会にはなっていない。更に、「読解力」や「応用力」をつけるという名のもとに、カリキュラムを国から一々指示され、それに従うことを強要されるような学校教育。「国」が教育内容統制し、主導するためのデータ集めをやっているとも言えるテストの方式。子供たちに、繰り返し過去の応用問題を練習させて、テストの平均点をあげる。このようなことで、子供たちに力がついたといえるか。親たちに「力がついたと錯覚」を与える学校教育。これが学校教育と錯覚している親たちが大量にいる。このようなものは断じて「応用力」ではない。基本事項を運用して、深く考え論理的思考をするには、むしろ害になる勉強だ。基礎力は「おおむねある」とされたが、本当に基礎力を、今の子どもたちが持っているかどうかも、このテストで測れるとは思えない。「基礎学力」とは何かも深めなければならない定義だ。21世紀の社会を切り拓き、建設していく人間を育てていく為には、何が基礎力として必要か。私たち祖父母や若いママたちが、持ち得ているものと同じ内容ではないはずだ。社会の急激な変化が、子どもを人として、育つのを困難なものにしている。子どもが、基礎学力を定着させることが出来ず、その応用力を育てる事を貧弱にしているのは、このような社会のありようとも深くかかわり、このことを無視しては、子どもは学力を身に付けることは出来ない。学ぶ主体としての子どもが人として育ちそびれており、それが「学び」の障害になっている。この事はすでに、自明のものとして、子供たちの育ちの過程で現れている。そして、すでに、すぐれた教育実践は、全国に草の根的に色々実践されている。教える側の専門性を高め、深めるには、現場の自主的な民主的な場が確保されてはじめて可能なことであり、そこでしか創造的で革新的な教育は生まれない。時代を切り拓く教育や子育てがそこから生まれてくる。国からいちいち指図されるところには、不毛と悲惨があるだけだ。国が政権党の「国策学力」を、国民に強要するための口実を合理化するための「データ集め」の「全国学力テスト」。総額100億円という税金を投じて、お粗末な結果しか公表できないしろもの。この無駄なテストで、莫大な利益を得ている業者。そこに群がる教育産業。 来年の4月22日にも再びこのような「全国学力テスト」は行われる予定である。この莫大な税金を「子供たちの教育のため」という名目で使うことを、親たちは、真に自分の子どもの育ちに役立つと思っているか。この税金の使い方に、厳しい監視の目をもつことこそ、親たちの「応用力」ある「学力」である。最も「応用力ある学力」が必要なのは親自身なのだ。
2007.10.27
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規格化され子供たちは人として育っているか。 高校生たちが先週で、2学期の中間試験を終えて、この婆さんは、ほっと一息入れているところである。しかし、試験期間中には、いつも、現在の高校生の教育の現状や高校生の育ち方に絶望的な暗い気持ちになる。我が子ではないが、よそさまの子どもながら私自身も、その親たちと悩んでいるのである。 とりわけ、成績順に輪切りにされて入学してくる中レベル以下の底辺高にみられる問題の深刻さは並のものではない。例えば、今、そのレベルの高校で起きていること。 定期テスト前1週間は、試験勉強の週として、部活動を休みに学校側はしているが、ほぼ8割の生徒は、各教科の出題範囲やテストの時間割には全く無関心で、それを知ろうとも思わない。試験前日になっても、実施される教科も知らないし、試験範囲も知っていない。携帯で、友達に尋ねても似たりよったり。あいまいなのである。中学までは、学校側が試験範囲や時間割を1枚の用紙にまとめて、プリントし、全生徒に渡していたので、本人が知らなくても、そのプリントを見れば大体おおよそのことは分かった。(いつもお膳立てされ、その範囲内でやることしか許されない中学校)高校では、どこかに掲示されたり、授業で伝達されたりするので、それを自分でメモしなくてはならない。書くということから縁遠い彼らにとって、自分の判断で写し取りメモする事は至難の技なのである。このような高校では、学習内容もゆっくり丁寧に基本だけをやっているので、定期試験の範囲もとても狭く、子どもをバカにしたような内容が多い。(全てというわけではないが)教師も余りの困難さに匙を投げているかに見える。シンプルでも生徒に深く考えさせるような問題を出して欲しいが、そのような問題は、ほとんど出されない。(これこそ、このレベルの子供たちに求められているもの)暗記力の優れた若者なら、試験前に30分ぐらいかけて丸暗記すれば満点が取れるという類の試験問題だ。このレベルの子供たちは、勉強に興味がない。では、他の分野・スポーツや文化活動を活発にやっているかというと、これもまた勉強と同じく極めて不振なのである。「めんどくさい」といって、持続することが困難なのである。集団でスポーツ競技に興じる体力・知力を育てないまま高校生になっている者が多いのである。自分たちで、組織し運営して何かを皆で作り上げた経験がなく、集まっても、ごろごろとその場で漫画を読んだり、ゲームを携帯でしたりで終わってしまうのである。こんなこともあった。夏の対外試合で、電車に乗って、他の高校に遠征しなくてはならない日、引率の教師が都合で来られなくなり、急遽、生徒たちだけで行くことになった。普通に行けば1時間たらずで行ける場所に、四時間半かかって到着。試合直前に滑り込み、やっと間に合うというのである。10名にも及ぶ高校生のグループが自分達だけでは、目的地にまともに到着できないという幼さ。しかも、そのことを恥かしいこととも思わず、自慢げに苦労して自分達だけで行ったので、試合は、疲れてうまく出来ず、負けた。負けたのは、教師が来ないため、試合会場に行くのに時間がかかったから、と話すのである。若者らしい反抗心、反逆精神で、ルール違反を犯しているのなら、大いに頼もしい青年としての未来を感じるのであるが、3歳の幼児と同じ幼さのままで、体だけ大きくなっているのが、このレベルの高校生の大多数である。このような若者たちが、これからの日本の社会の底辺で働くことになるのだが、まともに社会で働く大人に成長できるのだろうか。社会の働き方は大きく変わろうとしている。底辺を支えている若い労働者たちの劣悪な労働条件や、人権を無視した働かせ方が、今社会に横行している。労働の質も大きく変わろうとしている。このような社会では、このような幼い、無知で、刹那的に生きているだけの若者が労働者としては、好都合なのかもしれない。ダメならどんどん取り替えればいいのだから。軍隊もこんな若者のほうが、殴って叩いて、しつけやすい。上官の言うがまま動くロボットととして、最適な人材だ。 ひょっとしたら、国が目指している人材は、このような奴隷状態におかれようとも、人間の尊厳が傷つけられたと感じない、物欲だけの人間を育てる事なのかもしれない。それを一部のエリートが取り仕切るという構図。このような幼い低学力の子どもが、今の学校教育の中で、再生産されている。この子供たちの多くは、幼い時からモノを消費することで、お客さま扱いされて育っている。(自分は王様と思い込んで育ってきているので、自分が一番偉く、悪いのは他者、と自己弁護は実に達者)幼い時から、いろいろ習い事や塾にも行っている。赤ちゃんのときから、車での送迎は当然。自分の手足で大地と格闘した経験に乏しい。こども同士も格闘しあつて、コミュニケーションした体験は、ほとんどない。(いつも危険だと禁止され続けて大きくなってきた)彼らの唯一の楽しみはマンガを読む事であり、ゲームをすることである。文字だけの本など全く読んだことがないといっていい。教科書に書いてある事も自力では読めない。それほどに日本語が貧弱。文字を通して、言葉を意味あるものにするなど高度すぎる技能なのだ。彼らにとっては。誰がこんな子どもにししてしまったのか。日本中の子供たちを同じ価値観、同じルールで競争させた帰結として育ってきた子供たちではないか。その犠牲者たちが、この子供たちだ。幼い時は、けっこう絵本をよんだり、お稽古にかよったり、勉強も親に口うるさく言われて、やっていたはずだ。それも、これも、学校に行ったら、皆に遅れを取らぬ為の親ごころから。それが、15~6歳の若者になったら、このありさま。ここには、子どもが人として育っていく為には、何が獲得されねばならないかの、反面教師的な見本がある。文科省が、学力向上の切り札として、騒ぎ立て、全国の学校に強要して、全国学力テストなどというものを実施した。競争させる事で、この現状の子供たちの学力を向上させこと可能か。幼い時から、競争に駆り立てられ育った成れの果ての子供たちの姿がそこにはある。まして、その学力テストの平均点で、学校間を競争させ、学校を再生しようなどといのは、解決策から程遠いばかりか、逆行するものではないか。人として生きていく為の基礎学力を身に付けるとは、どんな学力でなければならないか。幼少期から何を育てなければならないか。これらの高校生の現状は、私たちにさまざまな示唆を与えてくれている。人として社会で生きていくための知性、体力、技能、など、すべてにおいて、この子供たちをどう育て、なにを教育課題にすべきか、抜き差しならない緊急の問題として私たちに突きつけられている。大人たちは、この日本の高等学校の教育の現状を知っているか。この子供たちの数は、全国的に見れば決して少ない数ではない。いわゆる、これは、かって高度成長期の日本が中流とひとまとめにした階層の子供たちの話なのである。
2007.10.23
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夏の甲子園で、頂点に輝いた佐賀北高校の球児たちおめでとう! (子どもたちが無限の可能性を秘めて伸びる教育とは) 今年の夏の甲子園で、佐賀県立北高等学校が全国制覇を成し遂げ、全国高校野球の頂点に上りつめた。その勝ち進み方も、15回延長再試合、延長サヨウナラ勝ち、優勝戦も、ほぼ負け確定という試合を8回で満塁逆転ホームランを放ち、奇跡的な勝利を収めた。 ごく普通の公立の高校で、野球好きな少年達が、劣悪な設備や練習条件のなか、大きな大会で経験を重ねることで、鍛えられ、たくましく成長しくその姿は素晴らしい。 幼い時から、野球だけを教え込まれ、鍛えられ、恵まれた環境のなかで、特別扱いされて野球だけに専念して、甲子園に出場している私学の高校の選手との違いが、この戦いぶりのなかには現れている。この高校生の姿のなかには、教育とはどうあるべきかの原点を見る事が出来る。 佐賀北高校の野球部を率いる百崎敏克監督は、その指導方針を次のように述べている。「3時間しかない練習の2時間を体力づくりと基礎練習に費やした。実践とほど遠いメニューに戸惑う部員たちに「とにかく今は信用しろ」といい聞かせた。結果は出ず、今春まで公式戦での敗退が続く。もう一つ、子どもに課したのが「心のキャッチボール」。部活への不満や感想を日誌に書かせ、赤ペンで返事を書いて渡す。「文字の方が本音を出し合える」から。野球に打ち込みたいなら勉強にがんばらなくてはいけない、とも言い続けてきた。炎暑のグランドで、どんな状況におかれても、集中力を切らす事のない体力と気力。大きな試合でのさまざま経験が選手の血肉となって、戦う力を充実させる。そのように子供たちを成長させることがでたのは、日々の厳しい繰り返しの基礎トレニーングの結果にほかならない。ここには子育ての、さらには教育の貫くべき原理原則がしっかりと貫かれている。 現代の子供たちの多くが受けている教育や子育ては、これとは反対のことといっていい。どうやったら効率よく知識が身につくか。どうやったらよい大学に合格できるか。要するにハウ、ツーものの氾濫である。まどろっこしい基礎トレーニングなどを繰り返していたら、まず子どもが「メンドクサイ」といって匙を投げるし、その親たちは、成果がすぐ上がらないとイライラして、その教師をダメ教師などと烙印をおす。現在の日本の高校は、子供たちは、勉強の成績で輪切りにされて入学してくる。その底辺に位置する学校では、部活すらまともに成立していない。4月に、新入部員が入部し、ようやっと、かっこうがつきそうな運動部なども、夏休みになるころには、ほとんどが辞めたり、休部状態となる。数名だけが残る。メンバーが少なすぎて試合が成立しない。辞める理由の多くは、毎日練習するのが面白くない。メンドクサイ。部員間のつながりがスムーズにいかない。ささいなことですぐ仲間割れしていがみ合い、克服して前に進めないなどである。顧問の教師なども、あきらめてか、投げやりで、余り生徒とかかわっていない。高校生なら、本来、自立した集団を自分達で運営していくべきであるのに、そのような力を身につけぬまま高校生になっている。このレベルの高校では特にそうである。大部分の普通の高校生は、このような状態に追いやられ、バイトや携帯の世界に埋没している。一方、大人が手取り足取り監視し、管理し、スポーツだけを狂気のように追求し、明け暮れる高校生がいる。野球でいえば、甲子園では、爽やかな戦いぶりが国民的な熱狂を獲得しているようであるが、そこで活躍している私学の多くは、億単位のお金をかけて、専用のグランドや学生寮を用意し、遠く県外から選手を集めて、チームをつくり、学内ではすべて特別扱い。彼らにお金がかけてあるのは、高校の売名のため、全国に名をとどろかせる為。野球の選手としてだめになったら、その学校にいる意味はなく、在籍しづらい。こんな状態で、学び成長していかなければならない青年期を過ごしている子どもの未来は本当にあるのか。親が納得して、子どもにそうさせているので、他人がとやかく言うべきことではないとしても、子どもを育てる視野が余りにも狭すぎる。高校に入り、大学に入ればよいといものではないはず。その先に何倍もの長い道が待っている。日本の多くのごく普通の高校生たちが置かれているこれが現状だ。こんな状況下で、佐賀北高校が全国制覇したことは痛快なことだ。何億と投資して、至れり尽くせり、野球だけに高校に来ている幾多の私学のチームを押しのけて頂点にたったことは喜ばしい。意味がある。 暗い、絶望的な教育界のなかで、このように懸命に子供たちと関り、育てている教師がいる。この佐賀北高校の球児たちは、私たちに原理原則をしっかり踏まえて育てられた子供たちは、無限の可能性を秘めて伸びるということを示してくれてた。大人の手をはなれて、自分たちの足で立ち、飛び立つエネルギーを秘めている青年に育ちつつある事を、私たちに見せてくれている。そして、それは、現代の教育や子育てが、最も見失っているものである。
2007.08.23
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ある日の塾の風景から。 思春期の子どもが困難を乗り越えるのはどういう時か。 中高生たちが、今週から来週にかけて、期末テスト期間に入っていることは前回の日記に書いた。我が塾もそのため、日頃より子供たちの出入り多く、それなりにみんな頑張っている。 しかし、私は、昨夜久しぶりに、腹の底から怒れて切れた。部屋中に響き渡り、空気が震えるほどの大声で怒鳴りに怒鳴った。(怒鳴られた生徒は、机をけって家に帰った。私は引き止めていない。そのまま放置。以後も引きとめるつもりはない)子供たちには、結構、粘り強く接して、忍耐強いことを自認している私としては、何年ぶりのことなのである。物静か穏やかと思われている私なので、子供たちも一瞬驚きたじろいだ。こういう時、公立の学校だったら「子供たちに暴言、暴力をふるったとして、父母から摘発されるのだろうか」ではなぜ、子供たちに腹をたて怒ったか。 中学生のひとりの女子、この女子がいなければ、その集団はそれなりに、学ぶことに、勉強すること、新しいことを知ることに、謙虚で真剣になれるグループである。 この問題をかかえたひとりの女子中学生は、学力が低く、私としては、個人的に少数のグループで、丁寧に教えたいのであるが、それを本人は嫌って避けている。仲良しグループをつくって、群れて勉強したがる。(実際は勉強などしていない。ただ、おしゃべりして、勉強ごっこをして、気持ちよく楽しく暮らしている。今の子供はこんな勉強が多い)私は、この生徒の対応に苦慮して、それなりに色々試みているのだが成功していない。この生徒は中学3年生で、高校受験を控えて、内心はかなり悩んで、孤立しているはずだ。そのためにも、節々では励ましてきた。母親にも、現状を訴え、私の方針を示してきた。この女子生徒の今、やるべき事は、勉強の基本となる技能の粘り強いトレーニング。その積み上げが大切だ。これは苦しくとも通過しなくてはならない道すじだ。テストで70点とらなくとも、この生徒の目指す高校は合格できる。40点とれば充分だ。そのためには、基本的な事柄の習得をきっちりとやることである。これは、その高校に入学した時にも高校生活を充実したものに維持して、青年期へと飛躍するためにも大切なことである。高度な入試問題的な難問など、今やる必要のない生徒なのだ。これは、差別ではなく、その子どもの現在の到達点、現在の超えなければならない課題を明確にしたとき、必然的に導き出された課題なのだ。この課題を克服していく取り組みをしないで、この子どもは大人になった時、大人として、強く生きていけるだろうか。 要するに、私には、この子どもは、自分の目の前の克服すべき課題を、私から指摘されることを、とても嫌い、私と真正面から向き合うことを避けようとしている。そして、気楽な方、おしゃべりして、他の子どもと勉強しているふりをして、楽しそうにやっている。まだ、本当の意味での社会的審判が下されていないので、自己満足的に他の友だちを道連れにして、ほんわかとやっているのである。この子どもの10数年の人生は、いつもこうであったのではないか。親が、わが子の成長にとって必須なものは何かというところで、常に甘やかし、回避させてきたのだ。その子どもの成長のペースにみあった成長を子供に要求していないのだ。学校の要求するペースについて行くことを幼い時から、親が要求するので、こどもの心や体は空回りしたまま、中学生になったのである。学力だけでなく、心においても、子どもらしい成長は空転したまま今日に至っている。 私は、このような子供には、受験勉強を取り組む過程で、その子どもがどう成長するか大切に考えて、子どもの勉強計画を立てている。生きる力の素となる能力をどうすれば獲得していけるかを大切にしている。この子どもは、私の考える「学びを通して子を成長させる」という方針を受け入れることが出来ない子どもである。今の学校の「皆がいっしょ」であれば、イジメのない楽しい明るい学校だとみなされる現場から生まれた子供たちの姿なのかもしれない。点数の取れない子どもは、かっこうだけ勉強したふりをしておれば、気楽に過ごせる現代の日本の学校の現実から生まれた子ども像かもしれない。このような子供たちが大人になった時、社会には「消費」することだけは達者な、「口先」だけの達者な若者が、仕事もせずにうろつくのではないか。私が、腹の底から怒りがこみ上げてきたのは、その女子生徒の子どもらしい素直な心のないことへの憤りであると改めて思う。大人気ないことであったか。子どもとして、能力は空っぽなのに「小手先で泳ぎまわる」ことに明け暮れるのに、私は、怒ったように思う。私はこのような子供には妥協したくない。このように立ち回らないと、今の学校は「仲間はずれ」にされるのだろうか。イジメのターゲットにされるのだろうか。
2006.11.26
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再々いじめについて。幼児の自我の芽ばえを押さえ込む育児にこそ、思春期のいじめの原因があるのではないか。 今日は、久々に孫娘コトネ(2歳6ヶ月)の登場。コトチャンは2歳過ぎた頃から、反抗期、真っ盛り、すべてを「いやだ、いやだ」と否定し、自分の思い通りにならないと、大声でわめいたり、泣いたりとすさまじい。さらに、小憎らしいところさえ出てきた。先日も、このバアバとコトネふたりが、「勉強ごっこ」をして、穏やかに楽しく遊んでいた。ことちゃん、このバアバの諸々の文房具が気に入り、色々といじくりまわして、あれこれと試している。とにかく夢中で、時々バアバに指示を出して、バアバを自分の思い通りに動かして気持ちよく遊びに夢中なのである。次々に歌さえ口ずさんで上機嫌である。そこへ、爺さんが帰宅した。ジイジ大喜び、こぼれんばかりの笑顔で、「おー、こっちゃん、来てたか。こんにちわ。」と言って、部屋に入って来た。そして、ことちゃんに話しかけようとしたら、こっちゃん、楽しく夢中で、おだやかに遊んでいた、バアバとふたりの世界への侵入者に激しく抵抗し、ジイジを振り払い、「おじいちゃん、あっちへ行って」と、きつい口調で言う。そして、小さな手で、あらん限りの力をこめて、爺さんを押しのけるのである。(コトちゃんの名誉のために、付け加えておくと、保育園では、全員が「いやだ、いやだ」の大合唱。けんか、オモチャのとりあいと争いが絶えないが、最近のコトちゃんは、似たようなおもちゃを探してきて、とりあいでケンカしている子の仲裁的な役割も出来るようになっているとか。このコトちゃんの成長は、じっと我慢して、子供たちを見守って下さっている、保母さんたちのおかげですね。)世間では、こんなとき嫁と姑が「孫」のことで、争いいがみ合いをする。「嫁の育て方が悪いから、孫が意地悪い子に育っている」とか「年寄りが甘やかしているから、子どもがダメになっているから」とか、お互い自己を合理化する無責任な発言を繰り返し、なすりあい「孫」を「子」を大人の政争の具にしているのである。昼下がりの喫茶店などで、年寄りたちががおやべりで、もっとも活気づく話題は、嫁の悪口である。しかも「孫」を話のネタにした嫁の悪口が花盛りである。恐らく嫁たちは、その頃、ブログで年寄りの悪口を言い合っているだろう。最近では、幼児の行動が親の思い通りにならないからと言って、我が子を虐待し、殺すニュースも後を絶たない。更に、驚くことは、3歳ぐらいからの幼児を入園させている幼稚園の姿である。小学校の授業の真似事をさせ、保育中はしーんと静まり、椅子に座らせ、お絵かきや字を30人ぐらいの集団で一斉にやらせている。チリひとつなく、オモチャもちらかっておらず、休み時間(?)にも騒ぐ声もない。運動会など、何ヶ月前から練習させ、鼓笛隊を整然と隊列組ませて、演奏させたりしている。それを自慢げに園の売り物にしている。一斉に行動させる為に、幼いこどもたちを、大人の力でねじ伏せて従わせている。親に見せるためにである。こんな幼稚園を気に入る親も多いのである。大人の虚栄心を満足させるための、まあ「やらせ」と言ってもよい。要するに、はっきりとした強い自我の芽ばえの時期にさしかかった幼子たちのその成長しようとするエネルギーを、大人たちは、ことごとく押さえ込んで、幼い子どもを、大人の思い通りに動くお利口ちゃんにしたいのである。大人の慰めモノ、オモチャなのである。 この時期を、どのように幼子は乗りきり、成長していくことが、真に人間らしい人格を獲得していくことになるのかという視点から、幼いこどもを見守ることが、大人は必用ではないか。今の社会全体が、この視点を欠いている。3歳前後の幼児は、芽ばえた自我を発揮することで、他者を意識するようになり、他人とぶつかり争う中で、人としての生きる術を身につけながら大きくなっていくはずだ。ここでの体験から、さまざまな人とのかかわりを学習する。自分の思い通りにならない他者の存在を知りはじめる。幼い子はケンカしたり、弱い子をいじめたりしながら、自らも痛い目に遭いつつ、成長することが必用だ。その中で、自らの人としての人格の形成をやっていく。百万回「お友だちと仲良くしないといけないよ」とお説教しても、言うだけでは、幼い子供たちの成長していくための血肉になってはいかない。現代の子供たちには、この幼児期の体験が余りにも不足している。幼い子たちは、日々暮らしている隣にいる子どもと思いきりケンカもさせてもらえない。大人が出てきて止めるのである。大人同士が顔色をうかがい合い、けん制し合って生活している。もし我が子が他の子をいじめたり、怪我でもさせようものなら、直ちにその親は、村八分となり、「あの子とは遊んではいけません」とい命令が、幼い子に下されるのである。幼い子供たちは「監視」された大人の社会で、自らの伸びようとする芽を伸ばすことができないのである。たしかに、幼児は、まだ知恵も力も大人に劣るので、大人は押さえ込むことができる。子どもをお利口ちゃんにして自己満足しておれる。自分より、弱いゆえに「監視」下に置くことができているのである。 しかし、このように、幼児期に芽ばえる自我を押さえ込まれたまま、成長した子供たちは、小学校や中学校で、監視されてきた親から離れた時間や空間を持つようになると、一気に幼児にもどり、幼児期の発達の道すじを通過しようとする。その一つの現れが、小学校1年生の幼児がえりである。1年生は、担任の教師に抱っこされたり、自分だけに注目を集めようとして、クラスとしての社会的な集団が成立しないという話をよく耳にする。家では親の言うことをよく聞き、お利口で、いい子、幼稚園では、お利口でほめられていた子に多い現象である。親はそのような我が子の指摘を受けると「家ではそんなことはない。うちの子がそんなはずがない」と驚くそうである。「教師が悪いから」とさえ指摘する親もあるという。 現在、日本でいじめ問題が「問題」として、抜き差しなら無い状態になっているいるのは、このような幼児期の自我の発達を充分に保障されないまま、身体だけ成長し、物欲だけを並以上に肥大させて育っている子供たちが、集団で生活する場面においてである。 その年齢に見合った人格を育てる土台をつくることを怠った大人たちが、今、子供たちからそのしっぺい返しを受けている。成長し力増した子どもは、もう親の「監視」下にはいない。親は力で子をねじ伏せては置けなくなったのである。 幼稚園のとき、お行儀よく椅子に座っていた子供たちが、中学性、高校性、大学生になると、授業中椅子に座っていることが出来ず、携帯でメールをし、寄り集まっておしゃべりを平気でしている。3歳の幼い精神状態では、中学や高校や大学の「勉強内容」には、関心が持てないのである。その勉強するための言語には、ついていけないのである。子供たちが「勉強」に興味がもてないのは、ある意味で当然といってよい。親がそう育てたのである。このような子供たちに、自民・公明の「教育基本法改定案」の言う、「規範」を強要しても、強い者や大人の前では「いい子ぶる」が、陰では卑劣ないじめや殺人を平気行う子どもを育てるだけだと思う。人を騙しても平気な大人を次々に製造するだけだ。何万回「いのちの尊さ」をお説教しても、この子供たちには「馬の耳に念仏」。その意味を若者らしい感性で理解する事は不可能である。その受け皿となる知性、感受性が育てられていないのだから。 今の中・高の学校は、10歳代の子どもを教育の対象にして授業をしている。しかし、そこに実際存在するのは、三歳の幼児たちなのである。ジジババや親たちによって、三歳で発達を停止させられた幼児の集団が、今の学校の姿なのである。中には、教師まで幼いままでいる者がいる。その認識あれば、学校はどんな集団をつくる努力をすべきか、何を鍛えるべきか自ずと明らかになる。集団のなかで、人としての生きるための「人格の形成」を促すような実践を、今の学校は、なるべく子供たちにやらせないようしている。勉強さえおとなしくしておれば、問題ない子という姿勢である。 このような子供たちの「育ちそびれ」の状態を、自民・公明の「教育基本法改正案」のめざす方向で、教育再生を行ったら日本はどうなるであろうか。国家が家庭にまで国家の推奨する「規範」を守らなければ、「国を愛する国民」ではないなどと脅しをかけて、子どもを「育成」する教育。すべての子どもが簡単にその色に染まりそうである。そのような教育のありようで、子供たちに未来はあるだろうか。 「人格の完成」を教育の目標におき、その達成のためには、専門家である「教師集団」が直接国民に責任を負うことを規定した現在の「教育基本法」の実現をめざす教育こそ、どんなに困難でもやり遂げる道ではないか。 ひとりひとりの「個人」としての人格完成を目指す教育。人間として、社会の構成員として生きるには、どういう能力がひとりひとり必要か。丁寧に個性を耕す教育。これこそ21世紀の世界を切り拓く子供たちが身に付ける力だ。 日本中が「国家の価値観」で「日の丸に敬礼する」、それに従わないものは、国を誇りに思わない「非国民」として、排除する。そういう事が容易になる法律、与党の「教育基本法改定案」が、今、衆院を通過しようとしている。このようなものは、極めて党派的なものであり、教育の名に値しないものである。 そして、このような「国家主義」の最も急進的なオピニヨンリーダーの一人でもある、石原慎太郎東京都知事は、最近の文部科学省への「いじめ予告手紙」について、次のような発言をあちらこちらで繰り返している。手紙について、「いたずら」「人騒がせの面白がり」としたうえで、「予告して自殺するバカはいない。やるならさっさとやれっていうの」とか、自分の長男の石原伸晃氏(自民党幹事長代理)がいじめられた際には、校長に「改めなければすぐ学校に出向いて、その先生をぶん殴る」と電話したなどと、その自分の体験談を披露している。さらに、「ファイティングスピリットがないと一生どこにいってもいじめられる」と発言している。(権力も富もない庶民は、いくらいじめられていると学校に訴えても、いじめはなかったと却下されてばかりなのである。1本の電話でいじめが収まるとは、さすが権力者。強いもの、権力のあるものに都合のよいように国や学校は動いていることを、自らが告白したこれは発言である。このような人が日本の首都東京の長であるとは、選んだのは都民ではあるが)このような「発言」を公共の電波を使い、堂々と発言している人たちが、何がなんでも、急いで成立させたい法律、それが、自民・公明両党の「教育基本法改定案」なのである。この石原発言は、教育基本法改正後の教育のありようを、はっきりと国民の前に示している。
2006.11.14
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昨日に続き、再度「いじめ」について。筑前町立中学校で起きた「いじめによる自殺事件」の学校側の釈明から浮かび上がる今の学校の姿、村社会の姿。 この事件は、この学校の学年主任で48歳の教師の言動が誘因となり、いじめやからかいが学校全体の日常茶飯事になっていたことが推察できる。 この教師は、他の生徒に対しても、イチゴの品種に例えて、高価な「あまおう」「とよのか」「お前は出荷できないイチゴ」などと、生徒をランクづけしたり、女子生徒には「君は太っているから豚」などと言っていたという。 さらに、消しゴムを拾った生徒には「偽善者」と言い、自殺した男子生徒が拾うと「偽善者にもなれない偽善者」と言っていたともいう。(子どもに容赦なくダメージを与え、徹底的にからかいの対称にする、低俗なテレビのお笑い番組ソックリ) 今の子供たちは、このようなふざけにノリがよく、ターゲットにしやすい子を選んで、集団で徹底的にからかったりすることが得意だ。3歳前後の幼児のごとく、自分が世界の中心におり、他人の人格を痛めつけているなどという認識はしていない。それでいて、自分は、ほんの些細な言動にも傷つき壊れる。極めてもろい。このような子供像が平均的な学校という場所で、この教師の言動は、あまりにも稚拙であり、お粗末としか言いようがない。テレビの低俗な番組さながらのショーを繰り返していたのではないか。このような人間の人格を、根底のところで卑しめるような言動が、繰り返し行われていた学校。その言動に対して、他のどの教師からも厳しい批判や、それについて日常的な討論も行わない学校。これが今の学校の姿だ。平均的な日本の学校の姿だ。 しかも、学校側は16日の全校集会で、「私たち教師が手をぬいたり、乱暴な言葉や甘えがありました。ほんとうに申し訳ありませんでした」と生徒に謝っている。一応、生徒の自殺の原因を教師側の不備として謝った。更に、校長は生徒たちに、「これからは『先生そんなこと言ったら傷つくよ』と話し、みんなで優しい人間になっていこう」とお説教した。更に、更に、生徒たちに「君たちがプレシャーを与える事があった。そのことに対して『ごめんなさい』と謝る気持が大切です」と訓示を垂れた。なんと、ひどい校長だろう。この認識では、学校は何も変らない。子供たちの心を「荒れ」させ、子供たちの集団を、からかいやいじめの巣窟にしたのは、学校側そのものだ。教師たちの集団全体が、その学校を作っているのだ。「教師が手をぬいたり、甘えがあった」などというものではない。もっと根源的な教育活動そのもののあり方に問題があって、今日の問題が発生しているという認識に立たない限り、この学校は何も変わらない。教師集団が、現実の子供たちの姿を深く分析し、そこからどのような学力をどういうやり方で身に付けさせるかを、日常的に研究し、自由な討論を通して、活発に教育実践が行われている学校だったら、このいじめを誘発しているような教師の発言や授業が、許される訳がない中学生たちの多くが言っている。「学校の授業はわからない。何を言っているか分からない」と。塾のわずかな時間数(1週3時間)の数学や英語のほうが理解できるというのは変だ。狂っている。このような現状は、全国何処でもみられる中学生の姿だ。 この事件が発覚しなければ、依然として、子供たちは、人としての尊厳や知性やおだやかさとは、無縁な思春期を通過して、学校を卒業して行くであろう。この事件が発覚しなければ、「この学校はいじめのない、良い学校」として、のうのうと存在し続けるであろう。いくら『いじめが在る』と親や生徒が申し出ても、この教師集団は「そのようなものは、何もない」と言い捨て、自己の保身を優先するであろう。いじめを見抜く能力もないのだ。さらに、この学校の会谷校長は、生徒たちに、「マスコミやインターネットで出ている学校と、(自分たちの学校が)違うと知っているのは、君たちと私たち。振り回されてはいけません」と発言したという。きっと、この人口3万足らずの小さな田舎町の住人の多くが、「遺書など残して自殺して、村に恥をかかせた。」と陰でこそこそ悪口を言い募っていないかと、私は危惧している。マスコミに向かって発言している自殺した少年の家族が、村八分にされ、いじめられ、孤立しないことを祈るばかりである。この事件は、筑前町に起きた事件ではあるが、日本の村や町に起きている日常なのである。日本の村とは、このように身内だけに閉じられた世界であり、そこで起きた真実を外部に漏もらさまいと団結している。そして、陰湿な陰口をたたきあっている。事が大事に至ると、村人全員が、事を荒立てないように口車をあわせ、何事もなかったようにするのが、長いムラの歴史のなかで、身についてしまっている。これが、日本の戦後の政治を支ええてきた一番の勢力である。しかし、この勢力も自壊しつつある。これが『美しい国』なのである。大人社会が、最も「いじめ」をやっている「国」なのである。
2006.10.17
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福岡県筑前町の中学2年生いじめによる自殺事件から 見え隠れする学校現場の姿について。 北海道滝川市で小学6年の女の子がいじめを訴える遺書を残して、教室で首をつったのは昨年の九月、意識不明のまま死亡したのは今年の一月。しかし、滝川市教育委員会がこの事件を公表したのは、1年以上すぎた今月の2日である。しかも、その2日の記者会見では、いじめを訴える遺書は握りつぶして、「いじめの認識は確認できていない」と、滝川市教育委員会は堂々と悪びれずに記者会見で述べている。その後、3日に公表が遅れたことに対して、伊吹文部科学相が「握りつぶすようなことがあってはならない」と批判した。市教育委には、抗議の電話やメールが相次ぎ、5日に「遺書の内容を踏まえ、いじめと判断する」と見解を変更。10日には安西教育長が「説明責任を果たした後、責任をとる」と辞意を表明した。このような事件が世間に公表された矢先に、福岡県筑前町の中学校で、中2の男子生徒が、いじめを訴える遺書をのこして自殺した。この筑前町立中学校の対応もひどいものである。自殺した生徒の両親が、学校に「1年生の時の担任教師に、いじめを受けていたのではないか」と訴えたのに対して、町教育委員会や学校側は15日「事実を認めた」合谷校長は、記者団に「そのこと(教諭の発言)が自殺につながった。一番大きな引き金になった。子供の一連のいじめも実際にあったが、おおもととなった。」又「教諭の言動で、その子が周りから見られる人間像が作られた。そのことによっていじめが生まれ、自殺に至ったと考えている」と述べた。しかし、この校長は16日未明の記者会見では、「遺族の思いを聞く余り、判断に冷静さを欠いた。担任教諭の不適切な言動と生徒の自殺との因果関係については、もう少し多くの情報を得て、もう少し丁寧に考えていかなければならない」と説明した。さらに今日16日のお昼のニュースで、この学校が、事件以来始めての生徒の登校日となり、全校集会で、「教師の暴力的な言動があり、甘えがあったことは、ごめんなさいと、生徒たちに謝った」と教頭がコメントするのを放映していた。さらに、無記名で教師にたいする全生徒のアンケートを実施した。それによって、さらに問題を分析したい、とも言った。(アンケートをとらなければ、何が起きているか分からないとは、情けない教師集団である。問題発言の教師は48歳で学年主任さえしている。) このような学校側の態度に、私は怒り心頭に達している。ここに見られる、教師側の対応、発言は、単なる大人のエゴ、身の保身しかみられない。常に、お上の方ばかりを見て、身の保身だけに明け暮れている人たちには、現代の子供たちの姿が見えないし、問題を深く掘り下げて見る能力が欠如しているのだ。この教師らは身の保身にかけては天下一品の才たけた集団だ。問題のすり替え、本質の隠蔽のうまさには凄いものがある。 親の言い分を、親の訴えを、専門的な立場から深く掘り下げ、その問題の根源を、生徒や世間に公表し、今後の学校教育の場にどう生かしていくかを示すことこそ求められている。子どもにアンケートをとったが、たいした問題はなかった、自殺生徒にも問題があったというすり替えで、その場を切り抜けようとしている。これが今までの彼らの手口だ。今回は遺書があったから、まだ問題となったが、遺書がなければ、悪いのは自殺した子どもといことになり、この事件は葬り去られる。親たちもできるだけ、子供たちに、その事を忘れさせ、何もなかったようにしたがっている。このどうどう巡りが今の日本の学校現場だ。なぜ、教師たちはその現実に毅然として立ちあがろうとしないのだろう。このような対応は、教育の現場で何百回何千回と繰り返している日常なのだ。 このような現場だからこそ、教師たちは、教育基本法の精神を実現する為に奮闘する教育などやっていない。子供の心に人間としての尊厳、プライドを育てる教育、知性を育てる教育活動をするために日夜苦しんでいるだろうか。苦しんでいる集団なら、「教師の側にも甘えがあった、ごめんなさい」などという、その場を濁して終ろうとする発言を、テレビカメラの前で、堂々とニヤニヤとして発言出来るはずがない。権力に擦り寄って、身の保身に明け暮れている。 私は、私の塾に来る子供たちと勉強していて、「このクラスは荒れているな」とか「この学年にはいじめが横行しているな」ということが感じれるときがある。子供たちの語らぬ言葉からでもそれはわかる。勉強の取り組み方からでも異変に気付く。毎日、長時間子どもと関っている学校現場の教師たちが、それをほんとうに気付いていないのなら、その学校のあり方、運営の仕方そのものが、教育をやる場になっていないということの証明にほかならない。最近の痛ましい大きな事件は、地方の町に多い。地方の一見、平和で豊かそうに見えている子供たちや家庭に、以前には、なかったような質的に深刻な矛盾、問題があふれ出そうとしている。地方の子どもが最も人として育ちそびれている。社会の矛盾の集中点にいる。そのことを何も考えない学校教師たち。その子供たちの現代的に先鋭化している問題を、深く掘り下げる研究や実践をしないで、学力など子どもに身に付けさせることは出来ない。官僚的な役人根性では、もう子供たちの問題は見えてこないのだ。「暴力的な言葉があった、先生たちも甘えていた、ごめんなさい」などと、のんきに話している教師集団なのである。この学校の教員室の雰囲気が私にはありありと浮かんでくる。
2006.10.16
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父性が育つ子育てとは。(夏休みの校庭に咲くヒマワリ)今日はブログ上の知人である渚のバラードさんの記事をお借りして、「父性愛」について、日頃感じていることを書いて見たい。渚のバラードさんとの出会いは、私がブログを始めたばかりの頃、渚のバラードさんの父親としてのお子さんとの関り方にとても新鮮な驚きを感じたのが最初であった。特に小学生だったご子息との数学の会話はとても私の心をとらえた。あーこうやって息子とかかわっている親もいるのだと羨ましく思った。今日はその渚のバラードさんのブログ「公立校でがんばろう」から、夏休みに交わされた父子の会話を紹介したい。ご子息は東京の公立中学の1年生。お父さんの渚のバラードさんは、現在、単身赴任中である。東京の中学校でも、夏休みの宿題に、身近な大人に職業体験をインタビューしてまとめる宿題があるようである。当地方でも似たような課題が宿題として出ている。多くの日本の親が経験しているこれは対話である。 渚のバラードさんのブログ『公立校でがんばろう』より。 本件は弟宅から富士市へ向かうドライブの最中に行われましたが、インタビューというよりも対話形式で進みました。要するに課題は、身近な人から「職業選択の経緯、仕事していて嬉しかったことや大変だったこと、中学生へのアドバイス」といった内容を聞き出し、「仕事なるもの」への認識を高めて行くことなのです。僕: それじゃー、「中学生へのアドバイス」というテーマで話そうか。「職業選択の経緯」となると、微妙にプライバシーに関係して来るから、一般的な話の方が良いだろう。息子:うん、それで良いよ。僕: 最初に「仕事とは何か」というところから始めよう。仕事って何?息子:仕事って、働いてお金を貰うことでしょう?僕: 表面的に見ればそのとおりなんだけど、それでは「アルバイト」と同じなんだ。仕事ってのは、それを通して「本人の成長」があるものなんだよ。そのためには、継続性を前提とした経験と専門知識、それに人間関係の能力が必要であって、逆に言えば、仕事を通してこういった能力が身に着くんだ。同時に、立場に応じた責任も伴うんだよ。息子:何故「アルバイト」では駄目なの?僕: まず、「アルバイト」ってのは、人手不足の解消に過ぎないんだ。雇う方の都合で、経験と専門知識を必要としない、また判断も要らない業務しか対象にならないんだよ。そして、人手が余ったら「来なくていいよ」ということになる。そういう不安定な立場だから、経験も専門知識も身に付かないし、人を纏めて仕事を進める能力や、責任能力も育たないんだ。息子:そうか。「仕事」ってのは、ずっと続けることが大切なんだね。僕: そのとおり。同じように、「趣味」と仕事」の違いもきちんと認識しておこうね。例えば、写真が趣味の人で、腕前がプロ並みの人がいる。この人が会社を辞めて、プロの写真家になった場合を考えよう。果たして成功するだろうか?息子:実力があるんだから、成功すると思うけど。少なくとも、技術的には問題ないよね。僕: そうかも知れない。成功する人もきっといるだろう。でも、実力だけではプロとしてやって行けないんだ。それはね、作品の要求基準が自分ではなく、お客にあるからなんだよ。自分では「完成だ」と思っても、お客が満足しなけりゃ買って貰えないんだよ。息子:へー、自分じゃ「出来た」と思っても駄目なんだ。厳しいねー。僕: それと、「趣味」の場合は責任が伴わないけれど、「仕事」はそうじゃない。例えば、「納期」って知ってるかい?何月何日までに完成品を収めるという期日のことだよ。これに遅れたら契約違反となって、弁償させられたり、引き取って貰えないことだってあるのさ。息子:でも、色々な事情があるから、間に合わないことだってあるんじゃないの?僕: そのとおり。不可抗力といって、例えば地震や台風のような自然災害の場合は考慮して貰えるんだよ。でも、風邪を引いて寝込んじゃったというのは理由にならないんだ。要するに、大人の責任は「結果責任」なんだよ。「一生懸命やったけど駄目でした」、という言訳は通用しないのさ。息子:へー、そうなのか。だから、野球の監督はチームが弱いと直ぐに交代させられちゃうんだね。僕: 次に、職業を選択する時には、自分に対して色々なことが分かっていなきゃ駄目なんだよ。先ず、自分は何が得意で、どういう仕事に向いているかだ。ここで問題なのは、「やりたいこと」と「出来ること」は必ずしも一致していないんだよ。冷静になって、自分を客観視する必要がある。他の人に意見を聞くのも良いね。息子:僕は何に向いていると思う?僕: 君は社交的な方じゃないから、対人的な要素の強い仕事には向かないと思うね。数学が得意だから、技術的な仕事が良いだろうな。でも、どんな仕事でも対人関係は避けて通れないから、この面でもあるレベルには達していないと駄目だよ。それから、自分の価値観を認識しよう。「お金」が全ての人もいれば、「世のため、人のため」に働くことが大切な人もいる。「お金持ち」になるのは特別の才能が要るけれど、普通の人は人並みの生活が出来ればそれで「良し」とすべきだろう。息子:要するに、「何が一番大切か」ってことだね。僕: そのとおり。これが分かっていないと、職業選択も出来ないんだ。就職してから「こんな筈じゃなかった」と言っても遅いんだよ。この他、どういう生活がしたいのかとか、田舎が良いのか都会が良いのか、なんかも関係して来るね。趣味に生きるのなら、学校の先生なんかも良いよ。夏休みを有効に使えるからね。息子:僕は都会が良いな。僕: そうか。それじゃー、叔父さんみたいな田舎暮らしは望まないんだな。何れにせよ、健康が大事だから、「良く遊び、良く学べ」でやって行こうね。という具合に話が弾む中、僕と息子を乗せた車は、富士の裾野を走り続けておりました。晴れてはいたものの、残念ながら富士山の頂は雲に隠れて見ることが出来ませんでした。(私の散歩小道より:オシロイバナが今盛りと咲いている朝の散歩道) 単身赴任中の父親がこのように思春期の息子と自然に会話できることは素晴らしいことですね。 この父と子の会話の中には、父の生きざまを仕事を通して、父が日々経験していることを中学生の子どもに、まっすぐ向き合って率直に語ろうとする懸命さが溢れていて好ましい。子を自立した大人へと成長させたいという願望が溢れていて好ましい。 父親と子の関係が、このように切り結べるのは、父親の紆余曲折した人生のなかで、獲得されてきた人格やその生きざまが、絶えず子どもとともに成長する過去の十年余りがあったからではないだろうか。子育てのなかで、親も親として豊かにその父性を育ててきたからに他ならない。 渚のバラードさんが多忙な日本のサラリーマンの一人であり、日本の社会の矛盾を他のサラリーマンと同様に日々背負い解決しつつ生きておられる事は、全く他の日本の父親と同様であり、特別であるわけではない。それにもかかわらず、子育ての一翼を、父親としてかくのごと担うことが出来るのはどうしてだろうか。このような父親は、残念ながら、まだ日本では少数派である。 自我の確立期に、このような父親の存在は子どもにとって、極めて大切なこと。子どもが社会で生きていくための社会性や、仕事を通して人はどう成長していけるかまでを視野に入れて、大人が子へ語る事はとても大切なことである。このような子供の社会性の芽生えを促す子育ては、あらゆる場面でなされるべきだ。 総じて日本の専業の主婦たちの子育ては、社会性を育てるという点で、とても弱点がある。この女たちだけの子育てでは子どもは育たない。実際、育っていない。現代の子供たちはこの点で、余りにも大人たちから適切な養育を受けていない。親の背中を見て育つほどの日常生活を持っていない。 子どもが困難を抱えている親と話し合う時、私がいつも思う事は、「この家の父親はどうしているのだろう」ということである。 「ここは、お父さんの出番です。お父さんが子どもと真剣にぶつかり合って、お父さんの生きざまを話してあげてください。」「ぶん殴ってでも、子どもと格闘して下さい」と親御さんにお願いしても、返って来る言葉は「わが家のお父さんは、子どもにそのような関りをしたことがないし、これからもできない。」というものである。「親としての父親が不在なのである」自分の子どもが悩み苦しんでいる時に、このように冷淡で淡白な親って、親といえるのかといつも疑問に思っている。子どもの問題は、親子の関係でしか解決できないことも多いのである。親との深い情愛で格闘した経験が、困難を乗り切るときに、子どもには必要なのである。親子の絆がとても表面的で、虚栄的であり、子どもが溺れそうになっても、なりふり構っている親が多いのである。世間の目を気にしている。そして、あきらめている。そんな親が多数を占めている。 これらは親自身が個人として、自立した人格を作り上げていない。未熟なまま日常に埋もれている。家族の関係が、お互いの個性を育て、ぶつかり合いながら豊かにしていく関係になっていないことに原因があると私は思っている。 両性の合意のみで夫婦の単位が成立している現代の家族においては、厳しく大人としての人格的自立が求められる。それがないところに、深い子供への愛や、子どもへの厳しい成長へのまなざしはない。 この意味での母性、父性の脆弱性が現代の深刻な子育ての問題ではないだろいか。子どもが自立した人間として、社会に出ることが出来ないのは、このような親の側に問題があるのではないか。 戦前の家父長的な家や、終身雇用的な会社組織は、親方が変っただけで、人間それ自体の変革は要求されなかった。制度や組織のなかにもたれかかっているだけで、生活できている男たちがいた。その親たちが、今、子供を育てている。そして、矛盾は頂点に達している。子供たちは悲鳴をあげている。 21世紀の社会が、どう変ろうとしているのかに関して、深く高い視点を、親自身が持つことを要求されている。自立した大人としての自己形成のできる強靭な知性を、強く求められているのが、今という時代ないのではないか。親自身が、まず学ぶことを求められている。その意味で歴史の大きな転換点に私たちはいる。そして、その転換が表舞台にくっきりと登場する時代に、子供たちは大人となり、その社会を担うのではないか。そんな時代の子供たちを私たちは育てているという自覚が必要ではないか。特に父親の出番は、その意味でも重いものがある。
2006.08.25
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ミーシャさんから山梨の桃とスモモをたくさん頂きました。連日35度を記録する猛暑のなか、涼しげなスモモの寒天よせを作ってみました。よく冷やしておやつやデザートとして食べると、スモモのほろりとした甘さとすっぱさが身体に沁みて暑気よけに最適な一品です。ほんのりとしたピンクが余りにも美しかったのでとった写真。すももを砂糖とともに煮るとこんなにも素敵なピンクになりました。それを、寒天で固めた簡単なもの。これを切り分けてお皿に盛ったものが一番上の寒天よせ。ほんのりとウメの香りもして、食欲がないときにもどんどん食べられます。次は桃のシロップ漬け。山梨の桃は硬い桃。加工用なのでしょうか。私の幼い時は、何処の庭にも桃の木は1~2本あったけれど、こんな硬い桃でした。あの頃は、シロップ漬けする砂糖などは貴重品。桃を砂糖で煮るなどということは考えもしなかったけれど、今は、冷たく美味しい桃の砂糖漬けが思いのまま、いくらでも作れます。(撮影がうまくいかず、美味しそうにみえませんが、実際は、ほんのりピンクで、甘く美味しい。スモモの煮汁液を寒天でかためたものを散らしています。スモモの甘酸っぱさがアクセントになり、桃の甘さを引き立てています。)桃をいっぱい頂いたので、シロップ漬けをいっぱい作り、わが家にやって来る塾の子供たちにもおすそわけ。中学生の子供たちは、山梨県が桃やスモモの産地ということも知らず、八が岳山麓の山麓をサンロクと読めず、長野が高冷地農業の県ということにも関心はないのだけれど、この桃のシロップ漬けは、誰もが「美味しい、美味しい」と言って、ある子などは、「お代わりしてもいいですか。」と問うて、お代わりまでして食べました。子供たちは、《手作り》ということに、とても感動する。「へぇ、こんなものが家で、出来るのだ、すごいねぇ。先生、すごいねぇ」とこの婆さんが褒められたりもして。塾の子供たちが、この夏休みの前半に、日本の地理の勉強にさんざん苦労しているようすを、先のブログでも紹介しました。しかし、その成果が少し出てきました。ある生徒が、テレビを見ていたら、長野の地名が色々出てきてミニトマトの出荷についてやっていた。高冷地野菜という言葉も使われていた分かった、と言った。うれしげに明るく言った。何時もは、このような番組が流れていても関心を示していなかった子だ。大人だって、中学の勉強、分かっていないのに、生きていけている。だから、中学の勉強などやる意味がないと言っていた子だ。学ぶということが、このように子供たちの世界や視野を広げることに繋がった時、子どもは学ぶことに喜びを感じ、もっと知ろうとする。無知であることがどんなに悲惨な惨めなことであるか、親や教師はもっと知るべきだ。ただ単に、テストのための知識の丸暗記、詰め込みだけの勉強は人間を堕落させるだけ、無意味のものであることをもっと知るべきだ。
2006.08.20
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「思い出づくり」の子育てや教育は、どんな子どもを作り出しているか。 私が、この数年耳にする言葉でとても違和感を持っているのが、若い世代が頻繁に使う「思い出」という言葉である。「楽しい思い出になった」とか「思い出づくりの修学旅行」とか「留学を楽しい思い出に」とか枚挙に事欠かないのである。 (ネム木の花)1昨年、中日ドラゴンズが落合新監督の下、世間の予想に反して、セリーグ優勝をしたことがあった。その時のテレビニュースの街頭インタビューで、今風の身なりで、バカっぽい女子高校生が「とてもよい思い出がつくれました。」と答えていた。「えっ、思い出?自分が優勝したのでもないのに。たかが観戦者のひとりじゃない。しかもこの子ども、野球のことどれだけ知ってる。」この時以来、私は若者たちが「思い出」と言う言葉をどのように使っているのか注目してきた。 最近、わが家に回って来た回覧板のなかに、この地域の小学校(わが家の子供たちも通った学校)の「絆」という通信のようなものが入っていた。その「絆」には5月に行われた5年生の野外活動の記事が掲載されている。この通信の「記事」を読んでとても驚いた。「思い出」という言葉の連発である。その一部を原文のまま紹介してみることにしよう。野外活動 5月16日・17日誓いの言葉 (児童代表) : この2日間、みんなで力をあわせて、楽しく思い出に残るキャンプにすることを誓います。お礼の言葉 (児童代表) : 昨日、今日といろいろお世話になりました。この野外活動センターでいろんな思い出がつくれました。みんなで協力してカレーを作ったり、夜にはテントでみんなと寝たり、体験活動をしたり、みんなと協力し合ったことや楽しかったことがきっと小学生活の立派な思い出になることと思います。この2日間いろいろありがとうございます。このキャンプで学んだことをこれからの生活にいかしていきたいとと思います。これらの短い「誓いの言葉」と「お礼の言葉」の中で、3回「思い出」という言葉を子どもは使っている。「誓いの言葉」の「思い出」と言う言葉は文脈的に自然であり、違和観はない。ごく枕詞的に使っているとも考えられる。しかし、「お礼の言葉」の「思い出がつくれました。」とか「立派な思い出になると思います」というのには驚かされる。10歳余りの幼い子どもが「思い出」づくりのためにキャンプをしているのだろうか。この事実は、今の教育のありよう、子育てのあり方の本質的な部分で何が起きているか、何が問題なのかを浮き彫りにしてはいないだろうか。 広辞苑では「思い出」の意味を《1.前にあった事柄で深く心に残っていることが思い出されること。また、その事柄、また、そのきっかけになるもの。2.後々まで思い出して楽しくなること。また、そのさま。》と定義している。 私自身の60年余りの人生を振りかえってみて「心に深く残ったこと」を思い描いてみれば、小学校時代の修学旅行や野外活動など、一生懸命思い出そうとしてもあまり「思い出」としては蘇ってこない。「生きる」ことには、それ以上に面白いことがあり、苦しいことがあり、悲しいことがあり、楽しい事がありで、今から振り返れば、この面白い人生の大人の時代には、こぼれんばかりの「思い出」がある。 幼い時代の思い出といえば、「毎日、毎日、退屈なスローに流れる時間のなかで、草花や虫や川と親しんだ日々」が思いだされる。しかし、このようなものは「思い出」として残っているわけではない。無理やり思い出しているだけだ。この幼い無自覚の日々は、後の大人へと成長していくときの土台になっている事は確かであるが、それ以上のものではない。思い出などというものではない。 そもそも「思い出」などというものは、後になって、振り返って気づくもの。「思い出」づくりの為に行ったことのある場所や、おこなった事柄などは、長い人生のなかで消えうせてしまう代物ではないか。 思い出のために生きる人生、しかも幼い子どもが思い出を意識して行動する「活動」で、ほんとうに子どもは成長できるのだろうか。見せ掛けの、格好だけをとりつくろう、それは人生にしかならないのではないか。「思い出」などを作ろうとしなくとも、その人が懸命に自分と闘い、学び、現実を切り拓こうと真摯に生きているなら、「思い出」は溢れんばかりに、その人のなかに詰まっていくもの。しかも、「思い出」を振り返るのは「死の間際」で十分だ。 「思い出作り」のために「結婚」をして、「思い出作り」のために「子どもを作り」、「思い出作り」のために「家族旅行」をして、あげくのはてに「子どもはいつまでも親のスネカジリ、いわゆる無業者」親も「どこまでも子供にくついて生きていく。」その結末が、親が子を殺す、子が親を殺す、それでThe End 。これが「思い出づくり」の教育、子育ての行きつく先ではないのだろうか。 サッカーワールドカップのサポーターとかいう若者の狂騒と一指乱れぬ統制の応援も、思い出作りのため?日本国中が、たかがサッカーのために大騒ぎ、サッカーのこと知らぬ人間もお祭り騒ぎのひとりとなって、負けはどうみても確実なのに、テレビの解説者まで「奇跡が起こる事信じる、勝ちあるのみ」などと国民をあおっている。これって、戦局は負けとわかっているのに、「お国のため、天皇のため」と戦争に駆り立て、物言う国民を非国民としたあの時代とどこか似ている。テレビのすべての局がサッカーを騒ぎ立てる。マスメヂアが思想動員している。若者にとっての、これも思い出作りの片棒かつぎの役を担っている。ドイツまで応援に行ったサポーターの若い娘が、テレビのインタビューで「負けて残念ですけれど、でも選手は良く頑張りました」と答えていた。これには開いた口が塞がらない。恐れ入る。自分をジーコ監督と錯覚しているのか。こういう若者を作り出しているんのが「思い出つくり」の教育ではないのか。その間に、国民の生活を狂わせるような重大な状況が影で進行している。ほくそ笑んでいるものがいる。浮かれているのは、貧しい民人ばかりとならぬように。「思い出作り」に浮かれている場合ではない。「思い出作り」は生きるとは無縁のことだ。
2006.06.28
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若者を子どもから大人へと成長させるためには、どんな子育てが必要か。瀧雅良先生の生きざまから学ぶもの。昨夜のNHKのドキュメンタリー番組「プロフェショナル・仕事の流儀」に、静岡清水商業高校・サッカー部監督であり、「商業」の先生である大瀧雅良先生が登場した。大滝雅良先生は、日本代表のサッカー選手を13人も世に送り出した。小野伸二選手や川口能活選手も大瀧先生の教え子たちである。大瀧雅良は、どうしてこれほどの名選手を数々世に送り出す事が出来たのか。熱血教師として、赴任した当初は、教えることに夢中になるあまり、紅白戦すら出来ない状態に部員を激減させてしまったという。そんな時、風間八宏という、自分の能力よりはるか優れた才能のある生徒が入ってきた。この選手を生かしたチームづくりを全くしていないことに気付いた大瀧先生は、指導の仕方を根本的に改めざるを得ないことに気付く。そして試行錯誤の日々が始まった。そして、その指導の中で、到達した数々の教訓とは、「勝つことより大切なことがある。まず、教師として、子供たちを大人にしていくこと。そのためには、常に直面している問題点を子ども自身が、自分の問題として自分で直視して、それと立ち向かっていける子どもをサッカーを通して鍛えていくこと。衝突を恐れずに、真剣にぶつかっていく時にだけ、子どもは大きく成長する。自分で見つけた答えだけが、自分のものとなる。又、教師の仕事は教えることではなく、子どもに考えさせることである」と言っておられた。そして、カメラは、中学時代「天才」といわれ、抜群の才能を持った中心的選手「カズキ」が、壁にぶつかり潰れそうになっている場面を、大瀧雅良がどのような指導を貫いて、「カズキ」を成長させようとしているかを、現場の練習のなかで追っていた。カズキが「自分の心の中にある虚飾のプライドをどう受け止め、それを乗り越えて、自分の技能を発展させることができるか。選手として、真の実力を付けていく為に、何が今必要か」大瀧先生は、カズキの悩み苦しむ姿をじっと粘り強く見守っている。要所、要所で、カズキ、自らが、今の自分の姿を認識できるようなアドバイスはしているが、「お説教」や「技術上の指導」などはしていない。じゆっくり悩ませている。考えさせている。カズキは「学校を辞めようか」という所まで追い込まれている。それでも、じっと我慢して、大瀧先生は、彼が自分で答えを見付け出すことを待っている。この忍耐力には脱帽。すごい。天才的と騒がれた一人の高校生に、このようなやり方で問題点を指摘し、成長を促そうとしている。一歩、大人への階段を自らの足で、昇らせようとしている。中学の時代のスポーツ「天才」は、9割がたが、挫折したまま、惨めな青年期を過ごし、社会の底辺にたむろする大人になる選手が多い日本の社会で、このような指導者がいるとは感動的である。数多くの名選手を生み出す秘密は、このような指導にあったのだ。人間が大人へと成長していく過程で、人生の先輩としての濃密な質の高い指導が必要な高校生の時期に、このような指導者に出会った若者は幸せである。実際、日本の大部の高校生は、放任され、退廃的な消費オンリーの社会に投げ出されたままである。親さえも、人生の先輩として、わが息子や娘に要所要所で、適切なアドバイスはしていない。まさに、その意味では、大瀧雅良先生は、父親なのである。父親の妥協を許さぬ厳しさを、日々の練習の中で貫き、子どもを大人へと成長させようとしている。「口うるさく、人生を子供たちに語っている」「子供たちを、とことん追い詰めて、苦しみ悩ませて、答えをださせ、前を向かって立ちあがる勇気や、生きて行くためのるエネルギーを子供たちの心の中に引き出させている。」この流儀は、日本の母や父が学ばなければならぬ子育ての流儀ではないか。日本の教師たちが学ばねばならぬ生き方ではないか。まさに大瀧先生の「仕事の流儀」は今、日本の若者たちが求めているものではないか。
2006.06.02
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修学旅行シーズン。このところじめじめとした雨がちな日が多い。まさに梅雨のはしりのような日々がこの地方は続いている。写真:私の散歩小径 アカメガシの花新緑の緑の中で、アカメガシの生垣の燃えるような赤い若葉がまぶしい。こんな可愛らしい白い花を咲かせます。当地方の中学校は今、中学3年生の修学旅行の季節である。市内の中学校が次々に東京方面へと修学旅行に出かける。この東京方面というのがいつも私の引っかかっているところである。なぜ東京なのか?しかもその観光旅行のなかに、どの中学校も必ずディズニーランドを観光スポットに入れている。今の子供たちにとって、ディズニーランドは何か事ある毎に行く場所である。家族や兄弟や親戚や友だちどうしで頻繁にいく娯楽施設の第一位がディズニーランドなのである。その極めて人工的な巨大娯楽施設に修学旅行の日程として、必ず取り込まれる理由は一体何なのだろうか。さらに子供たちが必ず行くスポットは、今時の若者たちがひしめく渋谷や横浜などのショッピング街である。修学旅行であえて中学生をこのような場所に連れて行く理由は何か。今の子供たちにとっては、観光旅行そのものが頻繁に行くことの出来る行為であり、娯楽的、刹那的な享楽的娯楽施設に日常的にさらされておる。その事が、現代のこどもたちの人格形成に重大な影響を与えている。そのような現代の子どものご機嫌をとり、時間をつぶしているとしか思えない修学旅行。それが東京ディズニーランドに象徴的に現れているのではないか。新学期が始まったこの4月から、子供たちは、様々な行事で、現在にいたっても落ち着いてまともに勉強をほとんどしていない。ただでさえ多い行事のなか、修学旅行が輪をかけて、子供たちの心を、消費することだけに目を向けさせ、享楽的、せつな的に楽しむことに心が浮き足立っている。学校はまともに勉強をする場所でないというのなら、もっと今時の子供たちが、家庭や地域社会では、やれないような実体験を豊かにする場に学校を切り替えるべきだ。この点での深いところからの実践を行って欲しい。今の子供たちが成長する時、つまずいているものを補い、解決の展望を示すような体験学習を組織する場に学校を作りかえるべきでないか。基礎的な学びを余りにも軽視?している学校の今の姿がここにはある。塾に学力は任せているのが現状だ。だからといってそれに変る現代的な子どもの深刻な問題に真正面から取り組んではいない。この修学旅行で浮かれている間に、わが市のある中学校で中3生が校舎から飛び降り自殺する事件がおきた。その学校の校長は「おとなしい生徒で、勉強には一生懸命だった。最近も特にかわった様子はなく、自殺の理由はわからない。いじめもなかったと聞いている。」この校長の言葉は若者の痛ましい事件が起きる時、最近よく聞く言葉である。本当に「何も問題がなかった」と学校の最高責任者が思っているとするのなら、その事、それ自体が一番問題なのではないか。(上ばかり見ている管理者)一人の若いいのちが学校という場で、自らの命を絶っているというのに。せめて、子供たちの心に起きている問題を深く把握できなかった自らの非力を謝罪するのが、教育者としてのあるべき姿ではないか。ここに現代の学校の深刻な問題があると私は思っている。わたしの塾にも、おとなしく真面目に(見えている)生徒が、時々やって来るけれど、この子供たちの持っている心の葛藤や闇はとても厄介な困難な問題をかかえている。問題を解決するのに長い時間がかかっている。しかも、ただ単なる個人的家庭の問題としてだけでは解決できない広がりや深さがある。修学旅行から帰ってきた子供たちの感想「ありえないくらい、めちゃ楽しかった」それやぁそうでしょう。あなた達の最も得意とする分野、せつな的娯楽に集団で騒げたのですから。あなた達の得意分野、東京の虚飾の街で、ショピングにたむろすることが出来たのですから。瞬間的に祭り気分で騒ぐことが今の子供たちの「楽しい」という気分なのである。気楽に過ごしたいのである。それを日々やっている。自らの人格を作る途上にいる若者がそれだけでいいか。その土台作りは大丈夫か。
2006.05.12
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「三国清三シェフの味覚の授業:KIDSシェフ」(小学館)から学んだ「苦味」の大切さについて。写真:たんぽぽ、(おしたしとして食することの出来るこれも春の野草である)孫娘・ことねの2歳の誕生を祝う家庭料理として、春の野草(つくし、たけのこ、フキ、せり、みつば)などを使い、料理することを試みた。(4/15~16の日記)久しぶりに(十数年ぶり)に挑戦してみた理由は、ことねが食べられる食材というより、コトネのママやパパの若い世代に、これらの味を伝える必要性を痛感したからである。若い世代が、季節の苦味や酸味の強い料理に慣れ親しみ、美味しく感じる料理を、ここでお婆の世代が伝えなければ、これらの料理は消滅しそうな危機を感じているからである。特に幼いことねは味覚を育てる時期にあり、ことねの食行動を見ているととても保守的で、狭い経験した範囲内の食べ物しか頑として受け付けないところがある。先ず、大人の側が色々な食材で調理したものを食べること、その上で幼い子にも粘り強く、多面的な食を味あわせる必用を強く感じたからである。フランスでは行政とプロの料理人が手を組んで、子どもの味覚教育のための「味覚の週間」という活動を行っている。この活動の中心となるのが3ツ星シェフの所属する「フランス高級料理組合」である。本物の味を大切にして、食文化をきちんと子供たちに継がせたいと願うシェフたちが、全国の小学校で「味覚の授業」を行っているのだという。日本でもフランス料理の三国清三シェフが小学校5~6年生を対象にした味覚の授業「KIDSシェフ」を6年前から全国の小学校を回って行っている。この活動の根底には、日本の食事情もフランス同様、子供たちにとっては危機的な状況にあるという認識がある。豊かな味覚を育てることなしには、豊かな感性を育たないという考え方によっている。「三国清三シェフの味覚の授業:KIDSシェフ」この本には、その三国清三シェフが行った授業の実践記録が載せられている。この授業で子供たちは、舌に集中することを覚え、地元の食材を詳しく知り、世界三大珍味を味わい、皆で協力してフルコース料理を完成させる。人間は、舌面にある味蕾(ミライ)という味の感覚器があり、そこで甘味、塩味、酸味、苦味を受容している。これは幼い時からトレーニングしなければ退化し、大人に成ってから取り返すことが出来ないものであるという。3歳ぐらいまでに基本的な味を学習し、本能に近い味覚から高次元の味覚機能へと発達していくという。その中でも、苦味は、人類の進化の過程で急速に退化しているという。さらに、最近の子供たちは、「苦味」を味わう機会を失っている。苦味をもった食品を食事に与えない親が多くなったからである。「苦味」が食材のなかに加わることで、料理の味は格段に美味しく深みを増すという。授業の中で、このような人間の味覚の仕組みについても子供たちは学ぶ。用意周到な大人側の準備があるとはいえ、子供たちが本気になって、大人も驚くような美味しい本格的なフルコースのフランス料理をつくることが出来るとは素晴らしい。今の子供たちは、大人の手伝い、補助としては働くことがあっても(それもあまり無い)、このように自分たちが主人公になり、全責任を負って仕事をするという機会が少ない。その意味でもこのような体験は、子供たちを大きく成長させるはずだ。このような体験は、今までの日本の家庭では、バアバたちが子から孫へと、四季折々の食材を使って、日常的に行なって来たことである。日本人としての食に対する繊細な感覚は、そんな日常の繰り返しの中で培われてきた。かっての日本では、子どもにとって、食べにくい嫌いな「苦味」のある食材でも、有無を言わずに食べさせられていた。子供中心の食生活はしていなかった。そして、子どもの時、嫌いであっても、大人に成るにつれ味覚が変化していくことは、多くの人が経験していることである。それは、幼い時から、「苦味」や「酸味」を繰り返し体験し、味覚器官を形成するためのトレーニングしていたことになる。この基盤が今消滅しようとしている。子供たちの味覚が大きく変ろうとしている。その上、現代の子どもたちの多くは、ファーストフードやインスタント食品を幼い時から常食している。これらの食材はすべて、大量生産、低コストを第一としており、均一の味、サイズを第一義として栽培された農作物である。これらはの食材は、すべてが淡白、無臭で、苦味や酸味はカットされている。「苦味」を感じる味覚器官を発達させないと、ただ「甘い」ものだけを美味しいと感じるようになるという。その結果が、日本の子供たちや大人までもが「甘さ」ばかりを大切にしているのである。折りしも、日本の政府も05年7月に施行された食育基本法に基づく推進計画を、この4月からスタートさせた。期間は06~10の5年間。食に関する知識を持ち健全な食生活を実践できる人づくりを目標に、家庭や地域、学校のとるべき対策を数値目標をあげて示した。例えば(1)朝食を欠食する子どもの割合を4%~0%にする。(2)食品の安全性について基礎知識を持つ国民の割合を60%にするなど。都道府県や市町村にも地域計画の作成を求めている。農業の危機的状態と、人間の「味覚」の危機とは表裏一体である。
2006.04.27
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エリート教育とは何か。朝日新聞が3月30日から4回シリーズで「エリート教育の構図・海陽の波紋」という記事を特集した。それによれば、愛知県蒲郡市に、巨大なレジャー施設隣の埋め立て地に「海陽学園」という中高一貫校が4月8日に開校する。 (私の散歩小径より: 芝桜)この学校は、トヨタ自動車、JR東海、中部電力を中心に中部財界が出資して設立された、中高一貫校の全寮制の男子校である。初年度には124人が入学した。企業出身などの教員資格を持つハウスマスター(寮長)と出資企業から派遣された社員がフロアマスターとして寮に住み込む。この新設校は「未来のリーダーを育てる新しい教育」「国家的なリーダー養成」をうたっている。広々と海を一望できる食堂、13万平方メートルのキャンパス、個室、1人1台のパソコンの携帯端末。このようなとても恵まれた環境のなかで、漫画やオーディオ、ゲーム機器の持ち込み一切禁止。持ち込む書籍も参考書、辞書以外10冊以内と制限されている。さらに生徒はIT端末を持ち、常に居場所を管理される。休日に散髪に出るのも教職員が引率。防犯カメラが設置され外部からも近づけない。要するに全寮制にして、生徒の全生活を管理し、外界の世界から遮断して理想の教育を行うというものである。イギリスのバブリックスクールを参考にしているという。かかる費用は年間300万円以上という。東大を頂点とする大学にいかに多くの合格者をだすかを目標とする、いわゆる有名進学校とは異なる教育、人材育成をめざすとし、初代校長の伊豆山健夫氏は「知と智を兼ね備えた、周辺に影響力を及ぼす人材を育てたい」と語っている。既存の枠にとらわれない新しい教育を標榜している。既存の進学校の模倣はしないと言いつつも、高校3年までに履修する内容を高校1年で終了することをうたっている。これって、暗記、詰め込みの超スピード勉強を子供たちに強制するトップの有名進学校と何ら変らない学習の方法と違いますか。今年度の合格者は「偏差値50前後で合格、60以上でも不合格」という合否結果が出たという。こういう教科の進め方で、学校側が主張する「筋道をたてて自分の考えを表現する力」が、本当につくのだろうか。大手のある進学塾は即座に「新しい入試に対応できる思考力、創造力、表現力、論理性を養うこと」を宣伝文句に、小学3年生以上を対象としたコースを開講したという。教科学習だけでなく、体験学習や発表、論文指導などが特徴だという。既存の枠にとらわれない子どもの入学を標榜する学校に、またまた幼い時から、その学校の入試内容をあらかじめトレーニングして調教された子供たちが入学してくるとは、何という皮肉。教育を受ける側、即ち生徒たちがかかえる現代的問題が、このようにモノをふんだんに整え、管理で雁字搦めして、理想の教育とやらを行えば、解決できるほど甘くはないと私は思っている。子どもの現状をとても表面的、うわべだけで捉えているように見える。その上、この学校に入るためにはお金がかかる。さらに運よく入学したとしても、またまた膨大な学費が必要という学校だ。要するに親の持つお金次第で、受験できる学校なのである。今年度、受験した生徒の親の年収は1500万以上が半数以上を占めるのは当然とはいえ、1000万以下も半数弱いる。(海陽受験者の親50人にアンケートから類推)年収1000万以下の子どもがどれだけ合格したか定かではないが、このクラスの年収で6年間この教育費を捻出することはほぼ不可能。更に大学がその後に続くのである。平均的な庶民では、とうてい不可能な金額である。要するに、経済的な負担の面からみても、ごく限られた階層の子どもが集まってくる学校だ。この面でも極めて閉鎖的な集団、学校といわざるを得ない。子どもは、いろんな人たちとの出会い、ぶつかり合いの中で大きく成長する。国家的リーダーを養成する目的の学校が、このように閉鎖的な空間、限定的な人との交流の中で、どんな指導者としての感性を育てようと言うのか。アメリカの有名私立大学ハーバード大は、この4月に、年収6万ドル(約700万円)未満の世帯出身者の授業料を免除することを決めた。ハーバード大は2年前から年収4万ドル未満の家庭出身者の授業料を免除しており、今回その対象を拡大した。ハーバード大のサマーズ学長は今回の措置を「ハーバードには手が届かないと感じている中所得家庭に、明確なメッセージを送ることになる」としている。さらに名門スタンフォード大も年収4万5千ドル未満の家庭出身者に授業料免除をうちだした。そして、年収6万~8万ドルの世帯出身者の授業料も引き下げた。スタンフォードの学生の3分の2が学費補助を受けているという。同大の学費は年間4万2千ドルである。これらの一連の措置は、学費高騰に伴い高所得者層の子弟がキャンパスを独占しかねない現状を憂慮し、機会均等の確保と多様な学生を受け入れることに腐心する大学側の姿がうかび上がる。大学を活性化し、発展させるには、多様な階層の優れた子弟を受け入れることなしにはありえないことに大学側が気付き始めている。海陽学園は、このアメリカの現実にも反する、極めて保守的なものである。アメリカの超エリート大学が多様性を求めて、次々策をうちだそうとしているのに、海陽学園は高所得者層だけの子弟が学ぶ極めて偏狭な学園を作ろうとしている。まさに、これが小泉自民党の進めている構造改革による民営化ではないか。徹底的に無駄をはぶいて、教育の効率化を図っている。教育にも自由競争原理を持ち込み、この学校に学べば、未来が洋々と開けるかの幻想を与えている。これから20年後に、この学校がどんな人材を世に送り出せるか注目したい。この学校の実験がどんな新しいリーダーを生み出すか見届けたい。
2006.04.04
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3月29日に書いた「王JAPANの栄冠の行く手にあるものは」の記事に、ルーキーさんという方から以下のようなコメントを頂きました。このコメントは、スポーツの現実を垣間見るとても適切なものです。このコメントに刺激され、久々にスポーツについて考えてみましたので、一言。(ルーキーさんのコメントより)『野球というスポーツは綺麗事で済まない世界です。それはそれは酷いものであります。(特に学生時代ですが)普通の根性だけではやりきれません。イジメ、訳分からんシゴキ等など。健全な精神?笑っちゃいます。ひん曲がった精神は養えますが。まあ、中には健全に育つ選手もいるとは思いますが多かれ少なかれ汚れた世界は味わえると思ってます。(March 31, 2006 09:40:00)』高校野球を筆頭に、日本の学校スポーツは「教育の一環」を大義名分にしている。強豪校の監督たちは、種目にかかわらず、自身の指導方針を「勝利よりも人間づくり」と発言している。そして強豪校の選手たちは、大声で挨拶し、整然と行動し、「さわやかな気持ちのよい生徒」という世間の評判を得ている。その裏では、暴行、飲酒、喫煙、万引き...などなど、絶える事なく繰り返えす陰湿な集団になっている。この事実は、叱責や罰などの外部の強制なければ、自分をコントロールできない若者を多数、作り出していることを意味している。これは、若者たちに、自立した知性を育てることを、怠っている指導者たちが、今、日本に蔓延していることの証明ではないか。これが「教育の一環」とは、それこそ笑っちゃう。恐れ入る。少年期からのスポーツの指導者の指導の仕方に、問題があると言わざるを得ない。指導者のいいなりなること、機械的反復性だけを高めるトレーニングに終始して、「脳まで筋肉」の体だけ人並みはずれて、動くロボットを製造しているのではないか。指導者の顔色をうかがいながら、機会的に動いてきた経験を、少年期から積み重ねる結果が、知的発達の未熟な、自立した判断力の乏しい若者を製造している。スポーツは、身体的な活動でありながらも、試合中の個々の場面から、チームとしての長期の戦略に到るまで、あらゆる場面での判断力、分析力、理解力という高度な知的活動が求められるはずである。少年期から、このような知的活動の訓練が、なおざりにされたまま、青年期に達している。これでは運動能力も優れており、知的レベルの高い子供たちが、スポーツのプロ集団から背を向けていくのも肯ける。これでは優れた将来のスポーツ指導者は育たないのではないか。一流の選手や指導者はこの賢さを備え持っている。私たちの世代のスポーツ少年たちは、一様に貧しかったので、生活の中で賢さ、生きる智恵を身につけて大人に成ってきた。今の子供たちは、この面でも意識的に鍛え上げないと、まともに育たない。育っていないということを、現在、最も底辺で子供たちを指導している大人たちは知るべきなのだ。このような現象は、勉強においても起きている。学校で長い期間、勉強をしているわりには、その子どもの生きるための賢さ、知力にはなっていないのである。公式を暗記して、それに当てはめて解決する能力を繰り返しトレーニングしても、その子どもの成長のエネルギーになる学力にはならないのである。機械的に公式にあてはめ解く力はかなりあるが、公式の意味を考え、それを運用して、問題解決する能力は全く育っていない。ただ勉強だけをする、ただ運動だけをする、こういう貧弱な生活からは、本当の意味での生きていく知性、体力は育たないことのこれは証明だ。ただ答えだけを教えられ、暗記してもその子どもの成長には繋がらない。現代の社会が要求しているのは、むしろ、思考し、分析し、判断し、問題を解決する運用力だ。これからの社会はますますこの意味での高いレベルの知恵が要求されるだろう。その要求に応える事のできないスポーツ集団や学校は、衰退の道しかない。いわゆる「負け組み」として、社会の底辺で、奴隷のように生きる道しかない。物言わぬロボットとして、使い捨てできる人材が必要な社会にとって、これは好都合な人材なのである。スポーツや学校の世界が、そういう人材養成の場になっている。
2006.04.02
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今年度の受験生の特徴とその変化について。わが県は、今日で公立高校の入試がすべて終了し、中学生はあと1週間後の合格発表を待つだけとなった。今年度の受験生には、今までの受験生とかなり異なる特徴があるのを、私は感じてこの1年間を過ごして来た。即ち、無理をしないで、自分の身の丈にあった志望校にほどほどに勉強して入学しようという子どもたちがかなり多くなり、受験に挑まないのである。殺気だった緊張感はまるでなく、気楽な受験生たちである。自分の能力に早い時期に見切りをつけている。親たちも子供に適度にやらせ楽をさせようとしている。一体、今の子供たちは何によって自らを鍛え、自立のための力をつけようとするのか。この豊かの時代にあって「勉強する」ことは、子どもを成長させる。「勉強」の壁にぶちあたり苦しみながら乗り越える力は、子どもがこれから生きていく時の力となるはずである。そのチャンスを親自らが、子供に与えることを拒んでいる。いいかげんな所で妥協することが、子どもの自主性を尊重し、個性を伸ばすことと錯覚している。わが県の公立の入試問題が、子供たちに要求している能力は、子供たちがこれから社会で生きていく時、必要となるようなものが多く妥当な問題ばかりである。たとえば数学、日頃から基礎的、基本的な内容を確実に習得し、それを活用し、問題解決する能力、論理的に思考する能力をかなり厳しく問われる良い問題が多い。この問題を解ける能力を厳しくトレーニングすることを、今の親たちは嫌っている。最後まで子どもが入試と真正面から対峙しているときだけ、かなりの能力を獲得する。そしてそのような学びを体験して、やりきった時、子供は達成感を味わい自分の能力に自信を持つ。これはその後の子供の成長にかなり重大な影響を与える。このような体験をさせることを、子どもが可哀そうという理由で、親が早い時期に見切りをつけ、努力せずに入学できるレベルの学校に妥協する。学校も成績順に子供たちを振り分けることに忙しい。親もそれに納得している。子どもに挑戦させないのである。その子どもに見合った挑戦が必要な時が、子どもの育ちの中ではある。百歩譲って、入学試験は無意味、人生にはもっと価値あることが別にあるという理由から、子どもに無駄なエネルギーを使わせないという確たる親の信念があり、挑まず容易に入学できる所を選んでいるのならそれはそれで好い事である。しかし、大部分の親はそのような信念でやっている訳ではない。これでは、今のモノに恵まれた環境の子どもが育つ場がないのである。自らの力で、真剣に自分の生活を切り拓いた体験のないまま、青年期に達する。今、世間は格差社会の到来を問題にしている。小泉内閣が遂行している構造改革は、経済効率や市場競争力そのものを「正義」とする市場万能主義であり、その為なら何をやってもよい。それが豊かな社会を作り出すというものである。その結果が何をもたらすかが、だいぶん国民の目に明らかになってきている。そして、その影響をもろに受けているのが若者たちである。若者たちの仕事の形態が大きく変ろうとしている。仕事を通して自分の能力を伸ばし、社会で生きていくことの出来る自立した大人に成るための条件でさえ、若者すべてに平等に与えられなくなって来ている。教育を受けることさえ平等ではなくなりつつある。もちろん仕事をする場にも大きな格差、不平等があり、若者の働く職場の多くが使い捨てである。仕事に生きがいを感じ、仕事を通して大きく成長する若者がいる一方で、悲惨な状態で使い棄てられている若者たちがいる。勿論、賃金格差も大きい。さらに、その現実に対して、自らの力で戦い挑み切り拓こうとしない若者たちが大量にいる。どの時代にも困難はあった。悪条件はあった。それを乗り越えて、それと挑み続けて切り拓いた人生があった。社会の条件を誰かに整えてもらってしか働かない、生きられない子供たちが大量に作り出されている。高校や大学の受験という現実の中にも、益々この現状を肯定し補強する子どもたちが大量に生産されている。親たちはこの現実をあまり深刻に受け止めていない。火の粉がわが身に降りかかって気付いた時では遅いのである。
2006.03.14
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時代錯誤な進路指導をする公立高校。巣立ちの季節である。野生の動物はみな、ライオンから小鳥に到るまで、自分の力で生きていくための能力を、生まれたときから、厳しく親によって鍛えられる。何万年もかかって、生物がその種の遺伝子の中に刷り込んで継承してきたそれは能力である。 (写真:陽だまりのバンジー)人間はどうか。現代の人間が、この能力をきわめて脆弱なものにさせてしまったのは、何故だろう。高校生の進路指導、とりわけ大学の進路指導をする高校の恐ろしいほどの時代錯誤に、私は、激しい怒りをいつも感じている。本当に生徒の将来を考えて進路指導をしているのか疑わしい。とりわけ進学校の進路指導は無責任とも思える。教師自身が現代という時代をどう捉え、子供たちにどんな未来を切り拓く力をつけさせたいかなどと云う視点は全く無い。成績をみて、この生徒はこれぐらいのレベルの大学にいけると判断し、その偏差値によって大学を薦め、そこがダメなら次のレベルを薦める。これは、40年前のこの婆さんの時代の大学進学の進路の決め方と何も変化していないのである。この婆さんたちの時代は、4年生の大学への進学率は13%、女性の進学率に到っては5%なのである。社会的に特別な階層の人たちが大学に進学していた時代なのだ。その時代の進路の決め方と、本質的に余り変らない進路指導が、この今においても高校で行われている。親たちも、それに納得しているから驚きである。私が、自分自身の体験など踏まえながら、現代の働く若者たちが、今、どういう状況下にあり、そこから鑑みて、将来どんな職業観をもち、どのように働いていくことが、自分の生涯においてより良いかを考えて、大学や学部を決めたほうがいい。とりわけ女子は、高い専門性を身に付けることを目指して学べる大学を選択した方がいい、などとアドバイスし、本人もその気になって、色々と考える。ところがである、本人が、学校でその視点から進路について教師に相談すると、ことごとく否定され、「女の子は今まで○○大学××学部に多く行っていますよ。そこが不合格の場合を考えて、△△女子大も受けたら。」とこうなのである。これは県下有数の進学校でかわされている会話なのである。これはあんまりだ。偏差値トップの高校など、放っておいても、そこそこのレベルの大学に皆が進学できる。ただ偏差値順に生徒を振り分けていくだけの進路指導など、何もやっていないことと同じだ。財団法人「日本青少年研究所」が1日、日米中韓の高校生の生活意識に関する調査結果を公表した。この調査で、他の三カ国と日本の高校生の回答が大きく違ったのは、「現在、一番大切にしていることは」という設問だった。他の3カ国の高校生の多くが、「希望」に○をつけたのに、日本の生徒の回答は圧倒的に「やりたいことがない」という結果になった。この設問は「遊んだり好きなことをする」「希望の大学に入学すること」「何か特技をもつこと」「好きな異性と仲良くなること」など、自分の「希望」に関する16項目を挙げ、あてはまるものに○をつけさせるもの。例えば、他の3カ国とも7割以上が「成績がよくなること」を希望したのに、日本は33%。日本の高校生が最も希望したのが「友人関係がうまくいくこと」、しかしこれも40%どまり。米国は67%、中国53%、韓国44%なのである。このほか、各国生徒の価値観を尋ねた一連の設問の結果は、中国は「将来のために今がんばる」。韓国は「自分らしく生きる」。米国は「自分のために行動する」。日本は「食べていける収入があれば、のんびり暮らしたい」なのである。日本の高校生は、他の3カ国の高校生が、「あれやこれもやりたい」と意欲的なのに比べて、趣味や友人関係、学業など全般にわたって「希望」が少ないことが特徴的だ。すなわち、勉強だけではなく、趣味や社会活動全般に意欲が低下し、ファションや携帯電話などの消費だけに目が向いている。この高校生の現状は、現在の高校の教育のあり方と深く関っているのではないか。とりわけ公立の高校の授業がどんな風になされているか、親たちはまるで知らないし、関心がない。高校に入学してしまえば後は無関心なのである。学力底辺高はそれなりに学校も努力している。努力しなければ学校自体が存立できないほどの深刻な状態なので、それなりに教師も懸命に頑張っている学校も多い。しかし、進学トップの高校は、生徒たちは、幼く社会性が育っていないにもかかわらず、若者としての自立の課題に真正面から立ち向かい、若者たちに未来を指し示す、指導をほとんどしていない。受験のための教科の指導さえ、最近は大手の予備校に頼っている公立高校が出てきている。これはあんまりだ。ひどすぎる。勉強ができ、表面的に問題行動をおこしていなければ、教師も親も満足している。名門進学校に通っていることに満足し、人生の目的が半ば達成されたかのように有頂天の親さえいる有様なのである。進路決定はその成り行きで行われている。大部分の若者が、未来を語ってもらったこともなく、受身的に指示されるままに進路を決定している。何よりも若者たちの多くが、現代社会で何が起きているか、全くの無知、無関心なのが問題だ。自分が生きている時代や社会を深く知ることなしに、自分の未来の設計などまともに描けるはずが無い。それを学ばせようとしない学校とは、一体何なのだ。子どもの人数が毎年減少し、高校や大学に入学することは、一部の難関校(偏差値上位校)以外、極めて易しい。誰でもが入学できる。現在、大学を卒業しても、親世代の高校卒と全く同じ、それ以下の能力しか身につかないし、大学もその程度の内容の勉強しかしていないという現実を、親たちは知っているか。こんな大学が、今、日本には大量に存在する。そして、難関有名大学には、40年前と変らぬ時代錯誤な進路指導で入学してきた若者たちであふれている。こんな日本の現状だからこそ、自らの人生を自らの知恵と判断で見通し、現実を切り拓く能力を付けるような高校生活、大学生活を目指して、旅立つことを願って止まない。社会は面白い、深みのあるところだ。捨てた物ではない。そう感じることが出来るかどうかは、本人がどう生きているか、どう生きようとしているかということと密接に結びついている。 (我がマンションの庭には椿の植栽が多く、次々に咲き競う。このピンクの椿が一番に咲き始めた。赤の寒椿の生垣はそれは見事に今年は花を咲かせた。延々と道路沿いに赤の花が咲きこぼれ、道行く人の目を楽しませた。)ーーーーーーーーーーーーーーーーーー写真、しゃしん、Ah! シャシン写真というものは中々思うようには撮れないなぁ。前の3日の日記、「昭和の雛人形」の写真、カメラ暦3ヶ月の未熟な私の写真技術では、人形の顔の繊細さを表現しようとして、何度も試みたが納得のいく写真は撮れずじまい。娘に昨日撮ってもらったので、3枚を差し替えてみた。私の写真よりは雰囲気をより伝えているのでは。写真とは難しいものですね。私のブログの表紙を飾って下さっているダンホセさんの写真の素晴らしさ、最近とみに実感しています。技術もさることながら、そのお人柄が写真に現れています。さすが年の功。脱帽。
2006.03.06
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写真:犬と戯れる幼児。今日は成人式。青年が切り拓くべき力とは何であるか。日本の人口は、昨年、始めて減少に転じた。一人の女性が生涯に産む子どもの平均数(合計特殊出生率)も昨年は1.28台となり、過去最低となり少子化に歯止めがかかっていない。少子化に歯止めがかからない原因を世間はあれこれ詮索し、その対策に効果が現れないことを嘆いている。しかしその原因や対策は至極シンプルなこと。真の男女平等を実現し、女性が安心して出産や子育てできる環境を、社会全体で作り出せば、少なくとも出生率には歯止めぐらいは最低かかるのではないか。歯止めがかからない、さらに深刻な原因のひとつに、戦前からの家父長的な半封建的な家制度が、崩壊して(崩壊しかかっており)、結婚や家族のあり方が、純粋に個と個の結合によってなされなければ成立しにくい状態が定着しつつあるからではないだろうか。これは人が半封建的なしがらみから解放され、真に自由な個人として、生きていける社会的状況ができつつあることを意味して、とても喜ばしいことと私は思う。私たちの時代は、結婚は家と家との結婚であり、本人の結婚する意思が薄弱でも、適齢期に達すれば周囲が結婚を整え、疑問を感ずることなく大方の若者が結婚していった。離婚も家と家の結婚であり、そんなに簡単には周囲が許さないし、家のために我慢をして一生を終った。子どもを産むことは、家の跡取りを作る意味で絶対条件として、要求されていた。産まない女などは、周囲から白い目でみられた。このような縛りの大部分から解き放たれた今、若者たちは個人として裸にされたままであり、男女の人間関係や、親子の関係を自分の力で創造していかなくては、すぐに崩壊するもろいものになっている。男女が人として、人格的にもお互いに深く関わり、二人の協同でつくりあげる人間関係が豊かでなければ、何十年もの長きを共に暮す必要もなくなってくる。この意味で、若者は人間として、新しい生きる価値観を創造することを求められている。現代は、今までの歴史のなかでは無かった新しい個の誕生を模索している時代ではないだろうか。現代の人間関係が混乱し、希薄であるのは、次の時代の人間像の模索途上であり、型がまだないというところにあるのではないか。労働の形態も大きく変わろうとしている。それにともない、人々の意識、とりわけ若い人々の生き方や考え方も大きく変化しつつある。この混沌、混乱の中から新しい価値観の人間関係や家族のありかたも作り出されなければならない。旧態然とした家族のありようでは立ち行かなくなっている。現在のような社会の在りようを固定して、「生めよ増やせよ」といっても若者は産まないし結婚しないと思う。離婚も益々増えるであろう。青年たちが、困難でも個を中心に据えた生き方に確信を持ち、青年自身が新しい生きざまを、個をささえる強靭な自己の確立をもとめる人生を選択したとき、結婚感や家族観も変わってくる。この意味でも青年たちは貪欲に学び、自己を確立して、自分の足で新しい価値観を創造しつつ生きる、真の意味での自己責任の時代に生きている。これはやりがいのある素晴らしい人生ではないだろうか。個と個が生きる基本の単位として、性愛や家族の絆を創造していく時、愛はいっそう充足した実りあるものになる。現代の若者や家族はまだその味を素晴らしさを体験していない。模索途上にある。他者に守られ、他者のレールの上だけをひた走る人生には見切りをつけ、新しい感覚で貪欲に学び未来を切り開く人材に若者たちには、ぜひなって欲しい。若者は未来に生きる人間なのである。そのための学びがある。そのための労働がある。
2006.01.09
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写真:八つ手の花(by fujiko)たくましく八手は花になりにけり(尚白)ローティーンの幼さの根っこにあるもの。昨年、私はこのブログで、中1年生の異変を数度書いてきた。最近、朝日新聞で『12』という連載を始めた。この連載に登場する12歳たちに、私が日頃感じている事と似たような現象が起きているのに驚いている。私が日頃接している中学生の育ち方の有りようは全国的に共通なものであり、個人的特殊なものではないということが分かった。この連載記事は、10代前半(ロティーン)の世代を「老ティーン」「降りる」「平気感覚」という言葉で言い表している。「降りる」とは、例えば受験。少子化で学校の方が過剰気味で生徒の奪い合いがあるとはいえ、偏差値上位の進学校の入学難易度は以前と余り変わっていない。あるいは自分の今いるレベルより上位学校を目指す場合は、それなりの紆余曲折に耐え、勉強する事が必要である。少なくとも1年間ぐらいのスタンスで自分の力を粘り強く向上させる努力をしなければ、到達できない。今の中学生たちは、まだ何も勉強らしきことやっていない早い段階で、自分の力に見切りをつけ「降りる」のである。数回テストの結果が思うに任せず不調だとすぐに自分に見切りをつけるのである。中学の教師が「君にはその高校は無理」と言えばすぐに「降りる」のである。奮起して頑張ってみようというところが、極めて希薄なのである。プレシャーに耐えて、前に進むことが出来ないのである。その結果、ほとんど勉強らしき勉強をしないまま高校に進学していくことになる。この現象は、中高一貫の中学校を目指す有名な進学塾でも起きていると言う。成績が下がり、成績の下位の順位を読み上げても、「発奮せず、下のクラスに飲み込まれる」「我慢のしどころで親が手をさしのべる」。自ら「降りていく」のである。だからある有名進学塾も戦略を変更して、「常在戦場」という看板を降ろしたという。更に夢がとても実利的で、子どもらしい未来への飛躍が望めない。連載記事『12』の第1回目ハタラクに登場した中学1年生(男子)は幼い時から車好きであった。惹かれるのは大衆車。地元のトヨタ、中でもカローラがお気に入り。2001年まで33年連続で国内販売台数1位だったという理由から、カローラが好き。将来の夢は「トヨタのチーフエンジニア」と決めている。準備は、12歳から。トヨタの新卒採用者は例年名大が多い。少しでも近づく為に、名大付属中に入った。次のハードルは5年後の名大受験。土日も通信教育を受けるなど勉強漬けの毎日を送っていると言う。これが中学1年生の少年の夢であり、日常であるとは。正に「老ティーン」である。愛知万博でも紹介されていたけれど、最先端の科学技術はデンソーなどが開発しているI-UNITという夢のような車である。複雑な動きをしても決して衝突しない、海の中を群れて泳ぐ魚のような車である。車体は成長が早い樹木を加工して作っている。環境にやさしい原材料を開発しようとしている。科学技術をより人間的なモノ作りに応用しようとして日夜奮闘している技術者や研究者がいる。中学生がそのような技術者や研究者にあこがれてエンジニアの夢をふくらまし、勉強に励むというのなら納得できる。それなら少年らしいエネルギーで勉強にも立ち向かうことが出来る。勉強の苦しさにも立ち向かう力も湧いてくる。困難を突破する気力も持続できる。トヨタへの就職率がよいという理由で、カローラの売り上げが日本一だという理由で、5年も先の名大入試を目標にするとは余りにも夢がなさ過ぎる。そのような動機づけで、最も多感な中学高校時代を5年間も受験勉強ができるのだろうか。たとえ出来たとしても、目的を達成した時には、精神は生気を失い、生きた屍となる。さらに創造的に活動できる気力は出てこない。勉強で挫折したら、簡単に「降りる」のは、このような動機づけで勉強しているからではないか。スランプに陥ったり、挫折した時、後に残るのはただ疲労感ばかりだ。痛ましい、悲惨な青年期が蔓延するのもうなずける。10代前半の少年少女たちが、もっとも鍛えるべき、磨くべき大切なことは沢山あるはずだ。人間的に豊かな感性を磨かないでは、世界を制覇する車などできるはずがない。そのような事に気付かせるのが中学や高校の教育ではないのか。親の役目ではないか。「平気感覚」とは、どんなことが起きてもへっちゃらだと言い聞かせ、心の均衡を保つ技術を言うのだという。裏切られたくないから、期待しない。挫折したくないから、挑戦もしない。摩擦をさけるためのエネルギーは惜しまないのである。10歳前半の子供たちに共通して見られる現象がこのようであるとするなら、この子供たちが社会に出て行く2015年はどんな社会になってしまうのだろうか。超保守的な青年と大量の高齢者の社会になってしまう。この現実を大人たちはもっと深刻に受け止め、教育や子育てに立ち向かわなければならないのではないだろうか。
2006.01.04
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子供たちにとって受験の持つ意義は何か。受験生にとって、お正月はまさに追い込みの最終ラウンド。神経をすり減らし、イライラした気分で新年を迎えている受験生も多い。テレビドラマ「ドラゴン桜」が、年末の昼間の時間帯に一挙に再放送された。原作は三田紀房から出版されている漫画作品である。原作の漫画では、さまざまな受験テクニックや勉強法が紹介され、受験生やその親に人気がある。一話ごとに受験に臨む心がけが紹介されている。現代の子育てに関するエピソードも多く、考えさせられる漫画作品でもある。このテレビドラマは、元暴走族の三流弁護士・桜木健二が破産寸前の平均偏差値36、大学進学率2%の落ちこぼれ普通科高校、私立龍山高校を、とりあえず5名の東大合格者を出すための進学特別コースを設置し、高校再建の突破口にしようとするそのプロセス、格闘を描いたものである。このドラマの素晴らしいところは、受験を通して若者たちが、学ぶことに目覚め、生きることの意味を、意義を獲得していくところである。ただ単なる受験テクニックに終っていない。しかも登場する人物たちがすべて何らかの意味で、現代の日本社会の重い問題をかかえている。その問題の根っこがなんであるか、若者たちは自覚しないまま、せつな的になげやりに生きている。その自分たちの日常を、自分の言葉で理解するための学びや知性の獲得の必要をドラマは登場人物を通して描いている。「バカ」のままでは、自分たちの日常を変える事は出来ない。そして、自分の置かれている立場の不合理や不正義を自分の言葉で納得する知性を身につけた時、若者は見違えるような変貌を遂げる。困難を乗り越えるエネルギーを噴出させる。若々しい生気を取り戻す。この視点が今の日本の教育や子育てに最も欠けているところである。学ぶということを、単なるペーパーテストの点を取ることに矮小化し、そこに最大の価値を見出し、それを自己目的に勉強させている、親や学校がある。このような親や学校は、東大を頂点とする進学校に合格することに最大の価値を見出しているので、合格すると天下を取ったように有頂天になり、その先に何倍もの長い人生があることを忘れるのである。このドラマは東大に合格することの難しさ、大変さを受験テクニックとして茶化して披露する一方で、その大変さ、厳しさを子供たちに絶えず訴えている。現代の受験の限界や東大の世俗的な評価に厳しい糾弾の視点を忘れてはいない。生きることの奥深さを、受験途上で出会う困難と真正面から立ち向かわせることで、体験的に認識させようとしている。子どもたちにその困難に挑ませることを通して、現実を鋭く見つめ対決していく力を、丁寧にひとつひとつ身に付けさせる努力を、大人たちは怠っていない。その実体験の中で、生き方の多様性や、一筋縄ではいかない生きることの深さを子供たちは知り始める。私は、私の教室に来る子どもたちに、受験の大切さをいつも訴えている。今の子供たちは、甘やかされ、真綿に包んで育てられており、ほとんどの子供が中3になるまで社会のとの接点を持っていない。子供ながら真剣に対社会と向き合う場を与えられるのは15の春なのである。中3生が受験を通して、初めて括弧つきとはいえ社会からの厳しい評価を容赦なく浴びせられる。この唯一ともいうべき機会に子どもが体ごとぶつかり、それこそ死ぬ思いで勉強に打ち込むことはとても貴重なことではないか。このようなことでしか社会と関ることのできない、今の子供たちは不幸なことである。その機会さえ、少子化でなくなろうとしている。少子化により大部分の子どもは受験の厳しさを体験することなく、ぬるま湯の狭い地域世界ののなかだけで生活を完結している若者が多くなっている。三浦展の「下流社会」で分析されているこれは若者像でもある。受験勉強は取り組み方如何で、子どもの人格に重大な影響を与える。子供を人として大きく成長させるものにもなるし、子どもに立ち上がれないほどのダメージを与え、そのまま社会に出られない引きこもりになってしまう場合さえある。長い人生の道程のある一時に、猛然と勉強するのも悪くない。しかし、真の勉強や仕事はもっと長いスパンで、息長くやるものだ。そして、何よりも若い一時期に、試験が要求するレベルに到達できないからといってそれほど悲観すべきものでもない。道はいくらでもある。
2005.12.31
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プレゼントの季節である。クリスマス、お正月、2学期の修了など子供たちにとっては、プレゼントをもらったり、買ってもらうことの多い季節の到来である。今日はその贈り物について、子供をだめにする贈り物の話しをしてみたい。最も子供をだめにする贈り物:よい点数をとったら、○○を買ってあげる。このようなプレゼントの与え方はをすれば、子供たちは、自分の消費的欲求を満たす為に勉強する。このようなモノの買い方を、幼い時から中学時代まで続けていたら、学ぶことを通して、子供の人格を育てていくことはほぼ不可能といっていい。このような動機づけでしか学びが出来ない子供は、その子供の人格形成に重大な影響を及ぼすのではないか。今の学校の試験の点数、成績評価などは、子供の成長にとって害こそあれ、何もプラスになっていない。点数や評価など基準を変える事でどうにでもなるいい加減なもの、その子供の根源的な人格には関係ないことである。子供は学ぶことを通して、自分の世界をひろげ、粘り強さ、忍耐力、見通す力などさまざまな生きる上での基本的な能力を身につけていく。それをただ点を1点でも多くとることに矮小化してしまうことは、子供の成長の場を親自らが放棄していることではないか。小、中学校ぐらいの学びの内容なら、暗記力の優れた子供は、意味など分からなくとも手っ取り早く暗記して、よい点数を取ることが出来る。親はそれで満足しているけれど、高校、大学になると、このような学び方だけで点を取れていた子供は、かならず壁にぶちあたる。その壁をどう乗り越えることができるかが大きな課題となる。さらに、子供の点数が思うにまかせず、低迷していると、親は「家の子はやる気がないから。」などと叱咤する。もちろんやる気のない子もいる。しかし、学習上で、その子なりによい成長を遂げつつあるな、と私が感じている時でも、親の子への評価は「点が取れないから、この子はダメ」と言う親が多いのである。これでは、この子供は立つ瀬がない。地道に一歩、一歩、階段を歩いているのに、親はその子供の姿が見えないばかりか、点数の悪いことを嘆くのである。学校も大体において生徒を点数でしかみていない。親と学校が全く同じ価値観で子供を見ているのである。塾だったら、辞めることができるが学校は辞める事はできない。これでは子供は育ちようが無い。わが子が、学校のやるスピードについていっていないからと言って、その子の学びの水準が劣っているとは言い切れない。このような悪条件のなかにあっても、子供は基本的には学ぶことが好きだ。分かった時の喜びや達成感をたえず体験しながら成長していく子供は、大人になった時、しつかり自分の足で立って生きる自信をもって成長する。幼い時から、点数をあげることを勉強の目標にして、追い立てられている子供は、本当の意味の基礎学力を身につけることはできない。学びは、こどもの成長に不可欠、必須の事柄だ。学ぶことは、子供が成長していく上での心のパンのようなものだ。心の栄養なのだ。このような大切なことを、「点数があがったら、携帯電話を買ってあげる」とか「パソコンを買ってあげる」とか、大学生など「車」を買ってもらうことと引き換えに勉強している者もいる。このような勉強は一時的に成果の出る時もあるが、大部分はその後の人生で、思うに任せず、手ひどいしっぺい返しを受けている。小泉総理のいう「自己責任」論に私は反対であるが、本当の意味での「自己責任」を貫く人生は、民主的で自由な社会を作っていく上で大切なことだ。そのための知恵や生きる価値観を創造していけるのは、その根底にしっかりした学力がなければ不可能なことである。今、社会でおきている不正や退廃や悲惨は、国民がひとりひとりに、個人としての生きる知恵や自主性、真実を見抜く能力など,余りにもなさ過ぎることにも原因があるのではないか。真の意味での「学び」の積み重ねがない大人たちが、今の社会を形成しているのだ。子供世代に、この親世代の失敗を繰り返させない為にも、「点数」を子供の消費欲を満足させるプレゼントとの引き換えにしないようにと、お願いするばかりである。勉強の動機ずけに「モノ」をあたえる事は止めて欲しい。人間にとって、「学ぶ」ことの意味はもっと深く、根源的なものである。子供はその助走を始めたところなのだ。(写真:散歩道のさざんか、写真撮影2回目で未熟。)
2005.12.15
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NHKに入社して1年の24歳の青年記者が連続放火事件を起した。NHK現場は、この青年の悩みの訴えを「新入社員の若者によくあること」と軽く受け止め、問題の核心を余り深刻に受けとめていなかった。その一連の「若者教育」の不適切さが、今回の連続放火事件へと発展した。しかし、この青年の事件には、今どきの若者たちが陥っている共通の根深い深刻な問題がある。報道の現場は、そのような若者たちの「問題点は何か」を浮き彫りにすることも、報道の使命としてあるはずだ。若者と日頃、接する機会の多い仕事をしている年配者なら、今時の若者の幼さ、自立した人間として立つ基盤の危うさを、日々痛感しているはずだ。このような若者たちを、社会で生きることのできる人間として自立するための援助や、教育をすることが大きな社会問題としてあるのではないか。ニートと呼ばれる無業者の青年たちの問題も、この延長上にある。この放火犯の青年は、少なくともNHKの就職を実現するまでの人生は、人が羨むような光の場所を歩いていたはずである。光の場所を歩いていると思っていたはずである。自分の希望した職業に就くことのできたラッキーボーイであり、将来に洋々たる希望を持った、今時、まれなる幸運な青年であったはずだ。元気な優等生であったはずだ。しかし、現実の社会に放り出された時、余りにもひ弱であった。成人として、仕事をしていく上での人間的な成長が未成熟のまま社会に投げ込まれた。現在、正規に就職しても、3年以内にやめてしまう若者が多い。この青年もその群れの一人である。入社1年目に辞めたいと家族に訴えているが、反対されている。この青年は、まだ24歳の若さである。他の同年代の若者は、踏み出すべき道がわからず、悩みあがいて、道に迷っている。多くの若者たちは、その模索の過程で、今までの生い立ちや、学校社会で自分を育ててきたものと葛藤し、新しい生きるべき価値を模索している。そして、その過程で傷つき悩みながら自らの足で歩む力をつけようとしている。これが今時の、誠実に生きているごく普通の青年たちの姿ではないか。この青年には、その過程がなかった。余りにも一直線にただひた走ってきた。心は幼いけれど、顔はとても老いている。豊かな社会で生まれ、育っている若者たちは、大人になるのに時間がかかっているのである。自立するのに時間がかかっているのである。この無駄にみえる時間が無い青年は、社会に放り出されて挫折し、傷つき、病み、再起するのが困難なくらいのダメージを受けている。この青年もそんな一人である。おそらく彼は、再起に最低10年ぐらいの年月が要するのではないか。或いは廃人のまま一生を終えるかもしれない。一人の人間が大人として、社会に立つことの道のりはとてもジグザグで、長い。その一つでも省いたらこのような取り返しのつかない挫折があるのではないだろうか。今年の中学1年生は、それ以前の中学生に比べても一段と幼くなっている。親御さんに、そのことを私は訴えているが、親の反応は今ひとつ頼りない。深刻な問題として受け止めていないようにも思える。この幼さが学力不振の原因のひとつにもなっている。更には、青年期に様々な困難を、親子にもたらすであろうこと確実である。この連続放火事件の青年の問題は、世の親に子育ての本質にかかわる大切な問題を示唆している。NHKの言うように、ただ単なる個人の問題だけに、帰着出来ないものがある。大人たちが、青年の子育ての問題として考えるべき重大な問題を、はらんでいるのである。
2005.11.07
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ラブベリカードを使って、ゲーム機で着せ替え遊びをするゲームが、幼い女の子の間で大流行。今時の着せ替え人形遊びの様変わりに、この婆さんビックリ。スーパーのこども服やおもちゃ売り場にいくと、その片隅のゲーム機コーナーに、女の子もゲーム機に夢中の群れがあり、「今は女の子もゲームをするんだ。」と驚いたのだが、今日、何気なく朝のテレビを見ていたら、今、女の子の間にラブベリカードが大流行で、、着せ替え遊びをカードを使ってゲーム機で遊ぶのだという。テレビに、ゲームセンターのゲーム機の前に列をつくり、並んでゲームを待つ女の子たちが写し出された。4歳ぐらいから小学生の女の子たちだ。その中の一人の7歳の女の子は、ラブベリゲーム大会で14回も優勝したという。その女の子の部屋はラブベリグッツであふれてた。秋物の服のカードが発売になる日など、ラブべリルックに身を包み、髪型までラブベリの「何とか」にして、母親と一緒にゲーム機のあるコーナーに一目散。しかも1枚100円のカード、10回目にやっとお目当ての発売カードに到達した。7歳の子がカード購入に1000円を費やしている。この子がテレビの画面に映し出されたのは2分ぐらいだけれど、その間に母親は「勉強もちゃんとやっているので、カードに熱中していてもかまわない。甘いかも知れませんが。」という言葉を2回繰り返した。「勉強をやれば、カードは買ってあげるよ」という飴とムチの親がよくやる育児である。(これでは子どもは育ちませんよ)又、ある女の子は、それまで遊んだお人形の着せ替えは、すべて押し入れにかたづけ、今はもうカードの着せ替えの方が面白いので、こればかりやっていると言っていた。カードの交換、お絵かきなど女の子の群れ遊びに、このカードが仲立ちになっているという。スーパーのゲーム機など若いママ同士が子どもそっちのけで夢中になってやっている。確かに面白い。アイドル系、ストリート系、セレブ系、...などなど6種類ぐらいのタイプ別を選び、次々にそれにふさわしいコディネートをカードを差し込んでゲームをするのである。その組み合わせの数の多さ、今風のおしゃれを自在に出来るのである。最後に、タンバリンでダンスをする人形にあわせて、うまくリズムを取ればゲーム終了。幼い時から、消費だけの生活をしている若いママと子どもにとっては、これは確かに手ごろな値段で夢見ることができる。歌、ダンス、化粧、モードの服など、まさに今の若者たちが関心、興味をもっているアイテムをすべて結びつけゲーム化している。安直なゲームである。確かに私たちの子ども時代は、「メンコ」に男の子達は熱中して遊んでいた。すごい数の「メンコ」をとった遊びの大将がいた。(身体をまるごと使って、ぶつかりあって遊んだ。奪う奪われるという真剣勝負も結構子どもにとってはわくわく面白く、社会性をそこで身につけている)わが息子は「ビックリマン」チョコを買って、そのカードを集めていた。その数、何百枚となっていたはずだ。(このカードはどうやって遊んだのかしら。覚えていないけれど)このカード集めの延長線上にこのラブベリカードはあるのだろうか。しかし、子どもに媚を売り、子どもの遊びを消費という世界に矮小化している。私の時代の着せ替えは、母が作ってくれたお人形で、母が作ってくれた、数個の着物やブラウスやスカートを着せ替えて遊んだ、貧しいダサいものであった。自らも小学低学年ぐらいでは、母のまねをして、お人形のスカートなど縫っていた気がする。マフラーや手袋なども編んでいた気がする。今の子供たちの着せ替えは、目がまわるほどキラキラとして、膨大な数の洋服やアクセサリーや靴やバッグのコーディネートを楽しんでいるかに見える。下着のような半裸の衣装を、幼い小学生がお人形に着せて、お尻を振って躍らせている。遊びが受身的で、与えられたものを組み合わせているだけ。成長期の子どもがこれでいいの?(ママお方は気晴らしにいいとしても)しかし、この子供たちは、あの布の柔らかさ、針のちくちくした痛さや、洋服をつくる楽しさを知っているか。幼いながらも、自らの手を使い、服を縫う遊びのなかに、ものを作る充実を学んでいたあの着せ替えごっこを知っているか。一見、豊かにモノあふれている着せ替えゲーム、この平和な景色の中の母子の心のなかは、どのようであるか。この平和な景色の親子の20年先はどのようであるか。この意地悪婆さん、見届けるまで生き延びましょう。
2005.11.02
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新たな階層集団の出現現代の若者はどう変貌しつつあるか。「勝ち組」と「負け組」に二極化する社会の中で、「自分らしさ」や「自己実現」を求める若者とはどのような若者たちか。日本の戦後の歴史は、働けど働けど貧しい生活しか実現できなかった大部分の国民が、中高等教育を受けることが可能となり、働けば誰もが豊かな消費生活を実現できるという、希望を抱いて働くことが出来た高度経済成長を実現した時代であった。そして、大部分の勤労者が中流意識を持って日々の暮らしをしてきた。物欲主義者の物欲をすべて満たされる社会を造ってきた。逆に、戦前上流階級で暮らしてきた人々は、その特権を奪われて、「上」から「中」流へと意識を変化させ、文字通り一億総中流であると意識して暮らしたのが、つい数年前までの日本の社会であった。しかし、ここに来てこの国民の意識は大きく変化しようとしている。中流意識の「中」から「下」流意識への変化である。比較的安定した中流意識を持ち、社会の牽引力と成ってきた団塊世代の息子、娘たち団塊ジュニア世代(現在25~30歳前後の青年たち)の台頭が、様々な社会現象、社会問題を引き起こしている。この30歳前後の世代は、少年期は非常な豊かな消費生活を、しかも、ただ消費オンリーの生活をした世代である。この若者たちは親の世代のように、働き者ではない。貧困という修羅場を経験したことがない。「自分らしさ」や「自己実現」などに見果てぬ夢をみて、社会のなかへの一歩を踏み出せない若者が層となって、社会に淀んでいる。浮かれて踊り歌っている間に、世界が大きく変化していることを、そのダイナミックな現代の歴史を認識する知力や技能を身につけぬまま、いたずらに歳を重ねている。ゲームや携帯電話やインターネットの「縮小された世界」の中で、閉じられた内向的な日常のなかに沈んでいる。「下流社会」新たな階層集団の出現 三浦展著 (光文社新書)この本の著者、三浦展氏の調査によれば、「上」流、「中」流、「下」流意識で区分すると、このような団塊ジュニア世代は、「下」流意識を持っている若者ほど「個性」「自分らしさ」を追求しているという。その親の世代は逆に「上」流意識を持っている者ほど「個性」「自分らしさ」を追求する価値観を持って生活していたのに、その子ども世代になると、その割合は逆転して、「下」流意識をもっている若者ほど、「個性」「自分らしさ」を生活の価値観としており、学校以外の、主にサブカルチャーなどの分野に自己実現感覚をもっているという。これは、親の世代が社会で働くことを通して「自分らしさ」を「個性」を実現したのに対して、この世代は「豊かさが」下流まで浸透したことにより、そこで育った子供たちは、「刹那的快楽的な娯楽」で「自分らしさ」「個性」を実現したいと夢見て、自分のだらしなさ、怠け根性を自己弁護にしているのではないか。なにしろ彼らは今まで一度もまともな労働に携わったことがない。働くことによって自己実現していくこと、働くことによって人格を創造することを実感したことがないのだ。彼らが主張する「自分らしさ」や「個性」などというものは、全く中味のない、ただ幼稚な「赤ちゃん」の人格に過ぎない。そのことを自己分析する知力も育てはいない。そのような「知性」を育てる「教育」や、家庭や地域での「子育て」を受けぬまま青年期に到達した。こんな若者が今日本に蔓延しつつある。一方で「上」流、「中」流意識を持つ若者は、猛烈に勉強し、仕事をしている。健康を害し、精神に異常をきたすほど猛烈に働いている若者たちがいる。この若者たちが40代、50代となり社会の中核となった時、日本の社会はどう変貌するか。この団塊ジュニア世代のさらに子供たちはどう育っていくのか。はっきり今でも言えることが一つある。中流が減少して、下流の増大である。年収が200万円以下の中年の階層が大量に出現するのでは。さらに、現在この働かない若者を支えている親世代が、老いて働けなくなる大量の高齢者が存在する社会。これが日本の近未来像ではないか。こう考えていけば、自ずと、私たちは、子どもをどのように育てていかなければいけないか、子供たちに何を教育しべきかが見えてくるのではないだろうか。三浦展著:「下流社会」(光文社新書)上記で紹介したこの本には、マーケッティング・アナリスト三浦氏の階層問題の豊富な資料が掲載されています。氏は「下流」とは、単に所得が低いということではない。コミュニケーション能力、生活能力、働く意欲、学ぶ意欲、消費意欲、つまり総じて人生の意欲が低いもののことである、と述べておられる。ぜひ、ご一読を。子育てに参考になりますよ。
2005.10.27
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現代の子供たちは「It」と呼ばれている。「Itと呼ばれた子」(幼年期):デイブ・ペルザー著、ヴィレッジブックスこれは「米カリフォルニア州史上最悪」といわれた虐待から救い出され、徐々に其の傷からたちなおったディブ・ペルザーの体験をつづった自伝である。この本はわが家の文庫からも、中学生が比較的よく借りていく本の一冊である。さらに、この夏にはそのコミック版が出版され、さらに読者層を広げているという。日本の出版元のソニー・マガジンズには、読者から3千通もの手紙が寄せられ、その3分の1は10代の子ども達からだという。10代の子どもから、このように多数の手紙が出版元に届くことは今までなかった事だという。特に「幼年期」を書いている第一部は、読むに耐えないような壮絶な実母の虐待が、延々と続き、とても最後まで私は読むことが出来ない。しかし子供たちはこの「幼年期」を一番よく読んでいる。「少年期」「青春期」「完結編」と困難を乗り越え成長を重ねて、人として自立していく後半は、中学生には余り読まれていない。10代の子供たちが、このような親子の壮絶な凄惨な虐待にこころ惹かれるのはなぜか。心の柔らかな若い子供たちがこのような本に、傾倒するとは異常なことではないか。先日の文科省発表によれば、小学校における『暴力行為』が1997年の調査開始以来、最多となった。今年の6月には、高校生が授業中教室に爆発物を投げ込んで大勢を負傷させたり、両親を殺害し、現場でガス爆発するなど、わずか20日の間に、5件もの凶悪事件がつづいた。長崎県では8月末から10月初旬の間に中・高生がほとんど遺書も残さず自殺するという実態が6件も続いた。教師の自殺も全国で相次いでいる。そして、これらの事件や事態を引き起こしているのは、ほとんどが何処にでもいる、目立たぬごく普通のおとなしい子供たちなのである。これらは明らかに異常事態である。この異常を大人たちは、異常とさえ感じなくなっている。大人たちはこのような事件がつづくと「命の教育」とか「死の教育」とかの徹底を叫び、教育の現場に通達する。素早く現場にカウンセラーを派遣する。いくら命の大切さ、命の尊厳をお題目で唱えても、こどもたち自身の心には何も響いてはいないし、外部から派遣されたカウンセラーが、何ができるというのか。この「異常さ」の原因は、こどもたちを取り巻く家庭や、学校の中にあるのではないか。親たちや、教師たちが悩み苦しんで、地の果てまでついていってでも、子どもとともに解決していくべき事なのに、その周辺にいる当事者たちはあくまで、被害者、他人事で済まそうとしている。「迷惑なこと」が起きたぐらいに思っている。こども一人一人が「It」としてしか、見られていない。扱われていない。学校においてもそうだけれど、家庭においてそうである。問題行動として、表面化したときだけ、すこし関心を示して、あたふたされるけれど、ただそれだけの事。問題をたえず起こす子どもは、うとましい存在として嫌われさえする。(親や教師に)思春期の子供たちが抱えている、こころのあがきや、大人への自立の格闘を励まし、伸ばしていく、温かいが厳しい深いまなざしを10代の子供たちに大人たちは注いでいない。親さえ注いでいない。これでは、子供たちは自立した大人へと成長できないのではないか。夫婦単位の狭い閉じられた世界のなかで、極めて狭い、其の親の階層の価値観や感性を押し付けられ、こどもは伸びようとする芽を摘み取られ、痛めつけられている。子供たちが「It呼ばれた子」に共感しているのは、現代の子どもたち自身が「It」として扱われているからではないか。「モノ」としての淡白な愛情を注がれているだけだ。子供たちは人格的な深いところでのぶつかり合いを経験したことがない。ぶつかり合うことを傷つくといって、自ら避けてさえいる。親とさえぶつかり合っていない。まして教師とはなおのこと。これでは深い人間としての成長は得られないのではないか。このように育っている子供たちに、命の大切さや死の尊厳を説いても、心に響くわけがない。心が育っていないのだから。無償の愛を感じて育っている子どもは、こども自身のなかに成長しようとする強い生命力をもっている。大人の無償の信頼を感じて育っている子どもは、困難を自らで切り拓いていく、たくましいエネルギーを身につけいる。
2005.10.18
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今日は「体育の日」。今の子供たちの身体の問題について考えてみたい。9日、文部科学省が2004年度の「体育・運動能力調査」を公表した。それによれば、現代っ子の体力低下に歯止めが掛かっていない。20年前(1985年)に比べると、走、跳、投のほとんどで1985年の水準を下回り、長期低下傾向が続いている。とりわけ小学生の運動能力の低下が著しく、9歳男子の50メートル走の平均記録は20年前の9歳女子の水準まで落ちたという。20年前の小学生といえば、我が家の息子たちの世代ある。其の頃の子供たちも、歩いたり、走ったり全身を日常的に動かして遊ぶ遊びがどんどん生活の場面から消えようとしており、大人たちが意識的に子供の「遊び」を取り上げ、子供たちの中に遊びを根付かせようと努力した。人為的に遊びの場を作り、遊びを指導する大人がいないと遊べないとは大変な世の中になったものだと其の当時、私は親として衝撃を受けていた。其の頃の小学生より、さらに低い身体能力が今の子供たちであるとは、とても驚きであり、深刻な状態ではないのだろうか。危機的なことではないのか。若いお母さん、お父さんたちは、この現状をどう捉えているのだろうか。今の中学生と接していて、一番感じることは、歩くという動作が、とてもぎごちない、自然な姿になっていないということである。若者らしい、しなやかな身体が作られていないということである。だから、歩く姿勢や歩き方が、何万年とかけて人類が進化させてきた、しなやかな美しさから大きく後退し、歩くことそのものを退化させてしまっている。背骨をぐにゃぐにゃさせて、どてどて歩く。全身で歩かないで、足の先だけでちょこまか歩くなどなど。このことは単に身体的な姿勢、歩くという動作の問題ではなく、人間の知能、知性の発達にも大きく影響を与えているように思うがどうであろうか。しなやかな身体を持っている子供、しなやかに走る子供は、本当に子供らしい伸びやかさ、明るさを身につけて成長している。そんな子供に出会うと、私もほっとして、明るい華やいだ気分になり、勉強もはかどる。教室も明るくなる。無理にお笑いのネタをばらまいて、面白くもないのに笑う教室とは異質の明るさがある。現代はすべてがオートメ化されており、幼児のときから手や足を自ら使って生活する必要がなくなっている。子供まで忙しく次々にお稽古や塾などをスケジュール的にこなしている。のんびり、ゆったりする時間、思いっきり全身を動かして遊ぶ遊びの時間がない。幼くしてこんなに忙しく生活している子供たちなのだが、この子供たちの特徴の一つは「のろま」であるということである。てきぱきと、しなやかに、動かせる手を持っていない。てきぱきと、しなやかに、動く頭脳をもっていない。(これでは就職しても、まともに働けない)幼いことから、幼いなりの仕事で身体を鍛えたことがない子供たちは、とても「のろま」にしか身体を心を動かせないのである。子供らしい敏捷性を育てていないのである。だから子供らしい好奇心も生まれない。これが学力低下の一番大きな原因だとさえ私は思っている。「学ぶ」元の元、一番の根っこの身体をしなやかにしないで、「学ぶ意欲」も、「生きる意欲」も湧き出してこないのは当然すぎる理なのだ。労働が人間を賢くさせ、労働が人間を人間らしく成長させる。子供にとってそれは、集団の中で、ぶつかり合い全身で遊ぶ遊びではないのか。さらに、仕事である。現代は大人でさえ、衣食住すべてを受身的に消費のみで生活している人々が多いが、子供には成長する過程で、食べること着ることの「生きるための基本」を、手作りで丁寧に其の技能を身につけさせていく必要があるのでは。そのプロセスなくして、子供から大人への人としての成長はありえないと断言していいのではないか。だから現代の多くの若者は、大人のして、社会で自立して立てる成人になりそびれている。この遊び集団や遊びの技能は現代では消滅しつつある。先人たちが築いてきた、食や住の細やかな生活の技術も庶民の生活から消えつつある。このような生きる基本的な技能と一体となった、身体能力を発達させることが、今、子供たちに最も求められている。それには、親たちの大人たちの丁寧な日常の積み重ねの育児が必要だ。走るのが遅いので、「走ることを教える塾」に行って、たとえ速く走れるようになったからといって、今の子供たちの持っている身体の発達上の問題は解決できないのである。其の問題の根っこは、人間の生きる根源に関る深いところにある。そして、それは親自身が忙しさにかまけて、最も見失っているものでもある。
2005.10.10
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今時の若者「杉村太蔵衆議院議員」の誕生は何を意味するか。民意を正確に反映しない複雑な小選挙区制のトリックと、小泉首相の世相を感覚的にキャッチする天才的臭覚で、次々に浮遊する都市市民の心にマジックをかけ、とりわけ都市部の若い層に雪崩的な支持を獲得したのが、今回の総選挙の特徴の一つである。其の象徴的な現象の一つは、つい数週間前までフリーターであった26歳の青年「杉村太蔵」が労せず衆議院議員に当選したことである。彼の包み隠すことのない自由奔放な発言を、マスコミが面白おかしく取り上げて騒ぐため、イメージダウンを恐れた自民党が、にわか仕込みの叱咤と教育で、反省の弁の記者会見の席を設けて、杉村太蔵青年に謝罪させた。この青年、ごくありふれた今時の若者の一人である。我が息子と全くの同世代である。体育系で高校時代まではかなり目立っていた、元気すぎるお調子者の青年である。日本の大学に勉強する価値を全く見出していない、今よくある若者の一人である。そして、どんな意味においても勉強していない、無知であり、狭い自分の世界のなかで完結して生きているという点においても、今どきの若者の典型である。杉村太蔵青年は、先日のお詫びと反省の記者会見で「一人前の国会議員になる為に、死ぬ気で(この言葉を数回使っている)日夜、勉強(勉強と言う言葉も8回ぐらい使っている)していく覚悟です。」とか「この3日間、静かな環境で当選してからの自分の言動を反省し、幼稚で無責任な発言を繰り返したことをお詫びします。」とか3日間、静かに反省した期間に何をやったのかの記者の質問に「本を読んで、色々考えた」どんな本をどれくらい読んだかという記者の質問に「1冊。どんな本かはプライベートなことなので答えられない」これらの言葉はどれも、国会議員なら尚のこと、一人の成人した社会人としても許しがたい幼稚さと無知をさらけだしている。まして、民主主義国家の立法府の代表者の発言としては許すことの出来ないお粗末なものである。笑止千万。おそらくこの青年は、人生で初めて、自らの必要性から1冊本を読んだ。しかも大衆の面前で公表できないような本なのだ。これらの未熟さは、青年にありがちなことであり、これから人生の中で色々体験し、学ぶことの必要性を感じた時、読書の幅を広げるかも知れない。人間性も磨かれるかも知れない。この観点からは寛容と忍耐で青年を見守らなければならない。しかし、彼は自民党の公認する候補者であり、税金で養われている国会議員なのだ。小泉は民営化ということを掲げ、多数の支持を得た。そして、公務員の削減を課題にあげている。しかし、その本丸に幼すぎて使い物にならない、国の経費で大人に成長させねばならないヒヨコに、多大の歳費を使うとは、これこそ無駄づかいではないのか。(まだ親の育児が終了していない。)この青年が、成人の大人として働くことが可能となるための教育、育児の費用は、親が持つべきもの。自己責任で親が一人前に成長させて世に送り出すべきことではないか。小泉首相自身この青年のことを「若いんだから、ある程度、規格外れの意見を発言するのもいいんですよ。もっと温かい目でみていただきたいですよねぇ」と言っている。冗談じゃない、国会議員として、表舞台で働くということは、大人としてのしっかりとした見識や人格を青年なりに身につけていること最低の条件だ。今から死ぬ気で「勉強」する、を繰り返す若者に、国から高い給料を支払うとは、あんまりだ。要するに小泉の掲げる民営化とはこの程度ということだ。又、この青年は自民党候補の公募に応募した動機として、「小泉構造改革に貢献したいから」と言っている。今から死ぬ気で勉強すると公言しているこの青年が、小泉の改革がいかなる物かどうしてわかったのか。又、彼は、こうも言っている。フリーターやニートの気持が一番よく分かるので、日本の若者を取り巻くさまざまな問題に応えるような国会議員になりたい。とかしらけず、あきらめず将来に明るい希望を持てる社会にしたい。とか大いに結構なこと。君は国会議員という権力を手に入れたのだから、「勉強」して若者が希望のもてる国をめざしておくれ。お手並み拝見といきましょう。しかし、今、この時間にも、日本のあちらこちらに、地道な困難な問題解決に日夜、頑張っている、教師や親や地域の人々いること君は知っているか。自らの命を削って、頑張っている人々がいること知っているか。君は青年としての自立のための費用を国の歳費で賄ってもらえるラッキーボーイ。死ぬ気の勉強は議員になる前にやるべきこと。(もちろん議員になってもやり続けるべきこと)君はまだ社会にでて一人前に働く基盤が出来ていない。それは君の親の育児の自己責任ではないのか。小泉首相の主張する「親の自己責任」ではないのか。こんな身勝手な、無知な若者たちが小泉の民営化にイエスを投じたのだ。
2005.09.30
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理科と数学の教科書からみる今の学校は?子供たちと勉強していて、一番ひどいなと思うことは「理科」と「数学」の中学の教科書の新課程後の変化である。旧課程に比べ教科の内容を3割削減しているので、教科書が薄くなったのはいたし方がないとしても、それにしてもひどすぎる。当地域は「数学」1年、2年、3年(計三冊)は啓林館の教科書、 理科は「新しい科学」1分野上・下、 2分野上・下 (計4冊)は、 東京書籍の教科書である。特に理科のこの教科書は、B4版(教科書としては大きめ)で1分冊が100ページ余りで、内容は写真やイラストや絵がほとんどで、その合間を縫って説明文があるという構成である。以前には小学校低学年に使用されていた「りか」の教科書がこのようであった。いくら文字離れの現代っ子が、動画やイラストなどの絵を好むからといって、ちょっと子どもに迎合しすぎでなないか。相手は中学生なのである。この教科書で子どもの理解力が向上し、理科が好きになったというのならまあこの教科書も「良し」ということである。がしかし、この2年間の中学生は恐ろしいほど理科の出来が悪いのである。理科嫌いが倍増しているといっていいほどだ。(学ぶ内容を3割削減したら益々学力が落ちた)例えば「生物」分野に、植物の生活とからだのしくみ:動物の行動と体の働きなどの章があるが、子供たちは身の回りの植物がどのような仕組みで生きているか、全くといっていいほど理解していない。理解できないでいる。さらに人間のからだ、自分のからだであるのに、どのようなものから成り立ち、どんな働きをしているか恐ろしく無知なのである。(学習した後なのに)何よりも自分のからだの仕組みを知ろうという好奇心がないのである。そして教科書は、非常に基本的な事柄でも、教科書で調べようとしても調べようがないほど情報量も少ない上に、何よりも体系的に記述されていないため、知識として蓄積していくことが困難になっている。数学の教科書も、この教科書で数学を理解し、力をつけることは出来ない、と断言できる。何をどう教えたら子供たちは数学がわかるかという、観点からは編集されていない。ただばらばらな知識の羅列。例題の典型性も優れているとは思えない。何のための教科書なのだろうか。出版社の儲けのためなのか。教科書なんていい加減でいいのだろうか。しかし、教科書を神様のごとく奉り、信奉している親が結構いる。教科書通りやってくれと、教師に抗議する親さえいる。教師も教科書を教条的に信奉している。地方ではこのような教師がかなりいる。教科書のやり方しか認めないという、硬直した教師である。(最近はこういう教師は減る傾向にあるが)理数系の義務教育の教科書がこのように支離滅裂であるという事は、日本は科学技術立国を目指すことをやめたのだろうか。仮想世界でお金を売買して、あぶく銭を儲けて生きる人間が賞賛され、羨望される方向にこの国は転換したようである。庶民が科学的な知識を身につけることは無用になったのだ。株の取引の勉強を子どもはしなければならないのである。このようにひどい教科書を子供たちは使って教えられている。分からないのは当然なのだ。しかも、今の子供たちには、ひとりひとりに自主独立的な精神が育っておらず、とても手がかかり、丁寧にかかわらないと理解できないのである。そんな子供たちには、30人学級でさえ大所帯すぎる。このクラス規模では、ほとんど勉強は成立していない。このような子供たちが、しっかりした知性を身につけ成長していくことのできる社会。そのためにはお金がかかるのである。その子供たちのためには経費を惜しまない政府。私たちはそんな社会を目指すべきだ。今、郵政民営化を叫んでいる小泉自民党では、このような子供たちの豊かな成長を保障しないことは請け合いである。昨日のお昼のテレビで村上ファンドとかの若造が、得意げになめらかな弁舌で「340兆もの国民の資産を、国が管理しているような国は、世界にはどこにもない。民にお金を持ち込むことは、お金をどう使うか国民が選ぶことであり、たとえリスクがあるところに使われたとしても、それは国民が自分で判断して選び取ったことであり、自分で責任を持ってやるべき事」と言っていた。国民は何も知らない無知のほうが、笑いが止まらぬほど儲かる人たちがいるのである。国民が利口になっては困るのである。このまま進んでいけば子供たちの学力の格差は益々ひろまり、お上の教育を信頼して任せている庶民はひどい目に遭う。良い教育を受けるには膨大なお金がかかることになる。衆議院選挙が始まった、子供たちが健やか育つ社会を妨害しているものは何か、親は目を凝らし見つめることが必要だ。財源がない。このままだと国の財政は破綻すると国民を脅しているが財政はすでに破綻している。ゼロからやり直せばよいこと。予算を根本から組み替えればいいこと。それをやったからと言って庶民にはなにも害はない。混乱したっていいではないか。恐れることはない。これ以上悪くなりようはないのだから。
2005.08.30
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「絶対評価」は子供に何をもたらしているか?前の日記:「思春期のゆれを認めない社会」で「おとなしい子」が過剰に学校や社会に適応しようとして、思春期をしなやかに乗り越えていけないで、力尽き事件を起こすのではないかと書いた。学校に過剰に適応しようとしていることの一つに、学校の成績の評価がある。現在の学校の評価の仕方は、その教科への「関心」「意欲」があるかどうかという視点が大きなウエイトをしめている。しかも一応、絶対評価なのである。子供たちは「関心」「意欲」があるように見せかけようと、無理をして「挙手して発表している」やたらに授業中に手を挙げ発表したがっている。教科に対する興味や関心、勉強する意欲などなくとも、とりあえず授業に積極的に参加する必要があるのである。明るく元気に授業に参加しなければならないのである。そうしないと5段階評価の「2」などという点が通知表に並ぶからである。特に実技を重んじる「音楽」「美術」「体育」「技術家庭」などはひどい。評価基準が明らかにされないまま(子供たちは納得していない)、教師の恣意的方法で子供たちに点をつけている。しかも公立の高校では、この内申点というものが重視され、先ず内申点で序列化され、上から順に高校を選ぶ制度なのである。(地方の大部分の公立高校が優勢な県はどこも同じようなもの)このような高校選抜システムがある以上、教師は子どもの将来を左右するような権限を行使している場合もあること認識して、子供たちに点をつけているだろうか。そもそも「興味」「関心」「意欲」などというものは、教師の側がどれだけ子どもに深いところで、「興味」や「関心」を引き起こさせる授業を展開できているかで、大いに変わるものである。学習「意欲」などもっとそうだ。どんなに意欲のなそうに見える子どもでも、心の奥深いところには「学ぶ意欲」の泉がある。それを探り当て、子どもの心に流れの道筋をつけることが教育の本来の在りようだ。それに、わけの分からぬ授業で「意欲」「関心」が湧かなくとも、その子の将来には関係ないこと。人生のどこかで、すごい「興味」や「意欲」を湧くこともある。それを子どもに、おまえは「意欲」が無いからだめだ、などと烙印を押すとは余りにもひどすぎる。本末転倒もはなはだしい。子供たちが騒いだり、走り回って授業が成立しないのを、「意欲」「関心」という評価を振りかざして、子どもたちを縛りつけ、子どもたちに静かで、元気な明るい授業を強要している。《数年前は子供たちは授業に関心なく、騒がしく歩き回ったりして、授業を成立させることの出来ない教師たちもいた。(高校は今でもそんな授業も多いが)今、現在は不気味なほど静かで無表情(特に中3)。子どもたちがやたらに挙手している授業風景にしばしば出会うのである。》挙句の果て子供たちは恐ろしく「低学力」で、益々「学ぶ」ことに意欲をなくしている。まじめで、おとなしい子は懸命にその学校に適応している。そして、親も学校と全く同じものさしで子どもを見ている。おとなしい子、無口な子は「問題を起こさない子」として日常では「忘れ去られている」子である。でもその子のこころの中は「問題を起こしている子」、抗議の反抗を続ける厄介な子と同じ「怒り」や「悲しみ」の嵐の感情が吹き荒れている。大人は忘れている。自分の思春期の心の嵐を。親や教師や友だちに「依存」したくも、誰からも「こころの内を」知ってもらっていないので出来ないのである。親たちに訴えたい。学校と同じ価値基準でこどもを見るな。学校の評価など、実にいい加減なものだ。その評価にふりまわされてはいけない。子どもは、その自らの内に伸びようとする何かを必ずもっている。それを見つけ出す、手助けをするのが親の務めだ。それを育てるのが社会の大人たちの役割だ。どの子もが粘り強く生き抜く力があれば、人生のどこかで素晴らしい力を発揮する。
2005.08.27
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今日は広島被爆60周年。今日もあの日と同じように、じりじりと夏の太陽が照りつける焼けつく真夏だ。一瞬にしてごく普通の市民の生活が奪われた。今なお語ることの出来ないほどの悲惨な死や街の壊滅があった。1昨日、NHKの生活ほっとモーニングで、3人の青年が戦争と平和についてどう考え生きようとしているかをドキュメントしていた。これら3人の青年の共通点は、現在イラクで起きていることを、自分の目で確かめたいという好奇心からイラクを訪れて、現地の人々と交流した体験がある、ということである。3人の青年たちが、戦争や平和という大きなテーマを、自分の体験を通して考えようとしている点では好感がもてる。しかし、私はこの3青年の中に、現代の子供たちや青年が教育や日常の生活のなかで何をどのように学び成長しているかという点で、共通の危惧を感じた。其の中の一人の青年は、イラクを訪ねたことで戦争の見方が変わった、と語った。イラクの戦争が正しいかどうか、彼らに会い、見て、彼らに聞かないと分からない。簡単に結論を出すよりも、もっと色んな人々と出会い、見て考えたい。また、ある青年は戦争のテーマも大切だが、他にも自分にとって大切なことがある。その3青年のひとりに、自衛隊派遣直後にイラク入りして拘束され、日本中からバッシングを受けた当時19歳の今井紀明君もいたのだが、彼も物事はそんなに簡単ではないということがわかった、と語り、イギリスへの短期の語学留学を経て、今は大学受験めざす受験生になっていた。要するにこの3青年は、人としてどう生きていくかという自立への道を模索している。青年としては模索する行為は当然の事、素晴らしいこと。でも、その模索する道の途上に、テレビや新聞でたまたま騒がしく取り上げているイラク戦争があったので、ちょつと覗いて見たかっただけなのだ。平和で豊かな生活体験しかない若者にとって、世界の貧困や戦争も自分探しのひとつのテーマなのだ。これは今なお貧困で苦しみ死んでいる人々や、圧制で自由を奪われている世界の人々に対しても失礼なこと。とても日本の若者は高慢で自己中心ではないのか。千人の人がおれば1千の暮らしがあり、見方があり、考えがあることは自明のこと。何もイラクに行かなくとも分かること。その1千の暮らしから、何が人間として全うか、何が社会を前向きに前進させるか、予測し考えることが学びであり、人類が今日を築いてきた原動力ではないか。私たちが住み、生きている日本の社会の過去から学び、その過去の曽祖父母や祖父母たちの苦しみや不幸を、どうしたら現代の社会の真の豊かさにつなげていけるのかを考える。このような考えを可能にするような学びを青年たちや子供たちはすべきではないか。今の学校はこういう学びが出来にくくなっている。これでは満ち足りた子供たちが勉強嫌いになるのも無理からぬこと。日本での学校の勉強が、そのような学びにつながらず、自分探しに行き詰った若者たちが外国にいけば何かがあるのではないかという幻想を持っている。日本の親もこのように外国に期待して、幼い精神年齢のわが子を外国に送り出している。子ども自身が真に豊かな生活体験や、豊かな学びをしないまま、青年らいい精神的成長を獲得しないまま世界をさまよっても何も得ることは出来ない。何も見えてこない。しかも、生活は親がかりというのが多いのである。自立への旅ではないのである。このような日本の若者が今、世界にたむろっている。世界の心ある人々のひんしゅくをかっている。今日は、広島被爆60週年。何と長い月日が流れていることか。曾お爺さんや曾おばあさん、おじいさんやおばさんがどんな暮らしをし、どんな社会の一員であったか、聞いたりするだけではなく、歴史の本をひらいて、自分たちの今を深く思いめぐらしてみるのはどうでしょう。おじいさんやおばあさんの暮らしがなかったら、今の自分もなかったのです。親が、年配の大人たちが、子供たちに自らの生きざまを大いに語り、明日を考えることの出来る子供を育てること今こそ必要な時ではないでしょうか。
2005.08.06
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孫娘のことねに英語教材を与えたいということねのママの依頼で、ネットのなかの幼児英語にかかわるところを覗く機会を得た。驚いた、驚いた、熱狂的な英語育児をしているママたちの狂騒がそこにあった。まさに恋のから騒ぎならぬ、英語のから騒ぎ状態である。若いママたちの子育ての関心はここにあったのだ。このオババの日々草など見向きもされぬ理由がわかった。「英語育児」という言葉があるのも始めて知った。「英語育児」とは、言葉を獲得し始める0歳から、英語のテープ、ビデオを使用して、たえず英語を赤ちゃんに流して、脳に英語をインプットさせる。赤ちゃんの言葉の発語も英語であるという。(英語圏で生活しているのではない。日本に生活し、純粋日本人の夫婦の子供にである)そして其の教材DWE(ディズニーの英語システムの頭文字らしい)は、驚くほどの高額であると言う。サイトの中に、英語子育て最中のママたちのおしゃべり広場 なるものがあり、其の中で、自分の英語子育てをHPで公開しておられるお母さんがおられる。0歳から8年間の記録である、と言ってもこの方は英語の出来ない普通の専業の主婦ではなく英語を教える側におられる、英語に関してはかなりのプロの方だ。まぁこの教材のオピニオンリダー的な方だ。この方の公開されている「英語子育てノート」から私の感想と、中高生に英語を教えて、私自身が日頃実感していることを述べてみたい。この「英語育児」教材の論理的根拠は、アメリカの言語学者、ノーム・チョムスキーの理論に裏づけられているらしい。この理論は人の脳には生まれながらに言語習得機能装置(LAD)があり、言語運用能力は幼い時、たとえば英語などをインプットすると脳の中の「ウェルニッケ感覚言語野」に日本語とは別の独立した言語中枢を作る、しかもこのLADなるものは5~6歳で完成され13~14歳で劣化する、と言うことである。赤ちゃんの時から英語を垂れ流すのは、このLDAなるものの発達を確保し、複数の独立した言語中枢を赤ちゃんの脳に作るためだという。このお母さんは、この理論の実験をわが子でしておられる。赤ちゃんから習得させれば、モチベーションなくして英語が習得できるからと言っておられる。しかし、この言語学者の脳の発達のメカニズム論が本当に真かどうか、どうやって実証出来るのだろうか。もしこの理論が真実なら、わが息子などは言語習得機能装置が全く劣化し、たぶん脳の中で死んでしまっている時から本格的に英語を勉強し始めたことになる(高校卒業後)。言語習得機能領域は死滅し、言語習得は不可能ということになる。確かに、英語習得に苦労はしたが日本の青年層のなかでは、どこに出しても通用する役立つ英語を身につけることが出来ている。アメリカの大学でも悪い成績ではなかった。自分の専門領域はもちろんのこと、文化、芸術分野も学べるまでの英語力に到達できた。人間の脳がどのように発達し、言語や運動能力や論理的思考などの複雑な能力をどうやって獲得していくかと言う問題は、専門家の間でも両極端といっていいほどかけ離れた理論を闘わせているのが現在のレベルではないのか。(私は専門家ではないので詳しくはわからないが)先日、紹介した脇 明子さんの「読む力は生きる力」のなかでもこの問題に論及している。赤ちゃんが自分の生まれた環境に合わせて、必要な能力をバランスよく発達させていく為には、余分な回路まで無理に残しておこうとするとバランスがくずれて色んな問題が生じてくる、と。一般の家庭の赤ちゃんが、すべて他を投げだして英語の習得に時間やお金をかけるほど、生きていく時、英語が大切だろうか。英語など出来なくとも優れた、充実した、楽しい人生を送っている人は多い。広い深い人生観で生きている人はいくらでもいる。母国語以外の言語中枢を作るために、他の発達をそこなってまで赤ちゃんに英語を垂れ流して生活しなければならないとは。百歩譲ってこの理論実践が赤ちゃんの発達に好ましいとしても、この赤ちゃんたちが社会で活躍する30年後に英語は今ほど重要でないかもしれない。一般の人々は母国語で充分、という時代が来るかもしれないし。現代の社会は、予測できないスピードで変化している。そういう未来を予測して、どんな大人に育てるべきかが、まさに今親たちは問われている。現代の青年たちが、いざ社会にでる時期になったら、其の親たちが子供に身につけさせたものはいらなくなっていた、ということも現に起きている。サイトをにぎわしている英語育児はまさにそれ。その赤ちゃんたちが大人になった時、このわけの分からぬ英語力はいらないのだ。これは、現代の英語コンプレックスの親たちにつけこんで、儲けをたくらむ巧妙なビジネスだ。日本のお母さんたちが、「英語育児」ではなく「日本語育児」にこれほど熱狂してくれたきっと、今ある子供の問題の多くは解決できるはずだ。今の日本の子供たち、中高生たちの日本語力、特に、書いたり、読んだりする力がどんなものか親たちは知っているか。其の母語の貧困が子どもたちの人格形成にどんな影響を及ぼしているか知っているか。とても深刻なのである。この問題については、又機会を改めて書きたい。
2005.08.01
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夏休みは、受験生にとって暑い夏である。公立の中学生にとっては、中学3年生は人生において、初めて対社会との関係で何かを選択することを迫られる。狭い意味においてではあるが、自分の能力を第三者に容赦なく審判される。14歳前後の思春期にさしかかった少年少女たちにとって、この受験という体験をどう捉え、どのように取り組むかは、その後の高校生活、大学生活、さらに職業人としてどう生きていけるか、どう成長していけるかを左右するとても貴重な時期ではないだろうか。自分で目標を設定して、その目標に向かって今まで体験したことのないような頑張りをやってみる事も子供の成長にとって、またとない良いチャンスである。子ども自身が進路に悩んだり、成績が思うように伸びず苦しんだりしながら、自らの設定した目標に挑戦する体験は、大人へと成長していく段階としてもとても大切な機会である。だが実際は、現在では受験が子供の成長につながるものになっていない場合が多い。なぜか?今の中学生たちは、どのようにして高校を選んでいるのだろうか。今の子供たちには選択の基準の幅は狭いものである。高校選択の現実は、その子供の発達のスピードは無視され、子供の潜在的な能力を引き出すものではなく、今ある点数で子供たちは序列化され高校に振り分けられている。この現実を追認する形で子供は高校を選択せざるを得ない。受身的にしか選択していない(できない)のである。自分で目標を設定することは無理という諦めが子供の心にある。とりあえず点数を1点でも多く取ろうというところに止まっている。高校は長い人生の一つの通過点に過ぎない。でも、高校は、子供の大人への入り口としてかなり重要な通過点だ。高校で何を学び、どんな友人を得、どんな内容の濃い青春を過ごすことが出来るかは、とても重要なことである。以後の人生のあらゆる芽がはらんでいるのが高校生活だ。そして、受験勉強は、高校生活を高校生らしい充実したものにするために必要な基礎的な学力のトレーニングの時期だ。この基礎学力は後、社会に出た時必要なものでもある。現在の公立の入試問題はとても良い問題が多く、子供たちに学力の基礎となるものを深く理解し、使いこなす思考能力を要求している。これは21世紀に生きる子供たちにとって、最低限必要なことばかりだ。これをただ単に受験のテクニィクとして、ばらばらの知識として暗記して其れが終わればすっかり忘れ、はいさようなら、では余りのも情けない。人生は開けない。自分で目標を設定し、その目標に向かって粘り強く1年間もの長期に渡って勉強し続け、目標を達成した子供は、其の体験から生きていく為の力を獲得している。高校生活も更には大学生活もその子、その子の力に応じて自らで切り拓いている。親はそのような子供を励まし、忍耐強く見守ることが必要だ。親は子供がなかなか成績を上げることが出来ないと、いらだちすぐ子供に「だめじゃない。もっとがんばらねば」などと言う。私は、親がもう少し長い目で粘り強く子を見てくださったら、この子はもっと良くなるのにという現実にしばしばぶつかっている。子供が失敗したり、行き詰まったりする体験はとてもよいこと、そのような時、子供を見守れる忍耐力を親は求められている。中学校の点数で子どもをみる進路指導は、あくまで参考にして子供の長い人生の一通過点を、子どもとともに悩みながら模索していく親と子の関係が中学生には必要である。点数の良く取れる、いわゆる優秀だといわれている子にも、これはもっと大切で必要なことである。
2005.07.29
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このところ孫娘のことねが熱のため、登園できない回数が多く、オババの育児支援の回数もその分増えることとなる。だから、我が家に来た時に遊ぶ玩具を少し揃えてみた。その中の一つに三輪車がある。まずサイトのおもちゃ屋さんを見てまわることにした。あるわあるわ、選り取りみどり、さてどれを選ぶか。迷いに迷いおばばが選んだ三輪車は、 これである。日本の玩具メカーが売り出している三輪車は、本来の三輪車としての機能に関係ない、ごてごてとした装飾物が多すぎる。おしゃべりをしたり、メロディーをかなでたり、ビグレットと汽車が回転し、LEDが光メロディーを流す。などと説明書きがあるがこのおばばには何のことやらさっぱり飲み込めぬのである。更に、更にである。足でまだ漕げない子どものために、足載せステップ。前輪とペダルの連動を切り替えるつまみ付き、とかロック&フリーなどなど。 (日本のメカーの三輪車)何のための三輪車か、子供のどんな発達を促すおもちゃなのか。足でまだ漕げないからこそ、足がぶらぶらして車輪に巻き込まれそうになることを子供が体験して、危険から身を守る術を覚えるのではないのか、又その子に体で体験させ教えるのが大人の役目ではないのか。いくら言葉で危ないよと言っても、幼子は本当には理解していませんよ。親が口やかましくなるだけだ。私たちの子供の頃や、わが子の時は、たしか乗れない数ヶ月間は色々危ないので監視して子供に教えるのに苦労した。しかしこの体験が貴重だ。すべて安全にして、はい、ぞうぞお乗りなさい、と幼い子に与えるとはあまりのも情けない貧しい玩具である。親が監督する煩わしさを省いて楽をしたいのか。すいすいと自由にこぎ乗り回せるようになった時の喜びや達成感は半減する。危険から身を守る術を身につけるチャンスもみすみす失った。この2つのことは子どもが育つ上で最も大切なことである。こんな状態では、やはり今時の子どもは生きる力を身に付けることが出来ないのでは。大人たちが寄ってたかって子供に生きる力をつけないようにしているとしか言いようが無い。何も、たかが三輪車で大げさだと、言う声もきこえそうだが、これは子供のとりまく商品すべてに当てはまるのではないか。フランスルノー社が出している三輪車である。一切の無駄を省き、洗練されたデザインで三輪車としての機能だけを追究している。何世代も使用に耐えそうである。ママやパパが使った三輪車をその子どもが使うということさえ出来そうである。子が育つとはそういう息のながい持続が必要ではないか。 (フランスルノー社の三輪車)さて、三輪車のお値段は、ごてごて飾りつき、デザイン最悪の日本が売り出している三輪車の定価は15000円。写真のフランス製も15000円。ちなみにオババの買った三輪車は定価7500円であったが5割引きの3900円である。オババは安いから買ったのだけれど。
2005.07.21
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昨年孫娘が誕生した時、新米ママの娘とこのオババは赤ちゃんの扱い方で対立、衝突を繰り返した。その新米ママの娘が信奉している育児の書は、「シアーズ博士夫妻のベビーブック」。その対立、衝突の一番は、「赤ちゃんの抱きぐせ」は良いか悪いかである。新米ママは「抱きぐせ」という言葉は今では死語で育児からなくなっている、と言うのである。赤ちゃんが泣いたらすぐにママは反応して赤ちゃんとコミュニケーションを取るべきだと言う。そこで、私もシアーズ博士夫妻の『25 Things Every New Mother Should Know 』を読んでみることにした。Dr.William Sears は、 カリフォルニア大学アーヴァイン校医学部助教授。妻の Martha は、看護婦で自らは8人の子供達を生み育てた母親でもあった。そして、現在その子供の長男と次男とともに家族で小児科病院を開業していると言う。まさに、生み育てる事を自ら実践して、それを職業にして生きている家族がそこにはいた。このシアーズ博士夫妻の本は、私にとても驚きと感動をあたえた。この本はただ単なるhow to 的な育児書ではない。21世紀の家族はどうあるべきか、母性はどう育てるべきかを驚くべき新鮮さで私に問いかけてくる。家族のありようが激変し混乱している今日の世界に、人間とは何か、どう生きるべきかという根源のところから母性の素晴らしさ、母性を育て、確たるものにすることの困難さ、しかし、やりがいのある楽しいものでもあることを私たちに語りかけてくれる。ごく普通の一人の女性が、出産、育児を通してどのように母性を獲得して豊かにしていけるかを妻マーサがその経験から述べている。夫のビルもところどころで、父親としてどうあるべきかをアドバイスしている。彼らが主張している育児は、生まれた時から、赤ちゃんに寄り添い、泣いたらこまやかにこたえ、赤ちゃんを身にまとい、添い寝をし、母乳育児をすることである。このような膨大な、気の遠くなるような日常の赤ちゃんとの暮らしの積み重ねが、母性を磨き、豊かにする。同時に母親との濃密な密着をたっぷり体験した赤ちゃんは、成長してからの後の独立心が信頼や安心感にもとづいた確かなものになる、と述べている。更に赤ちゃんの時のこの濃密な、細やかな愛情で結ばれた親子関係は大人になっていくとき、他者と良い関係を築ける私を一番、驚かせたのはシアーズ夫妻の述べている、赤ちゃんに寄り添い、身にまとい、添い寝し、などというのはアメリカ人の最も好まない、批判してきた育児ではなかったのか。子供に独立心を養うには最も悪いやりかたではなかったのか。そのようなやり方は子供を甘やかしだめにする、というのが確か私たちが子育てをしている時代に言われたことだ。しかし、そのアメリカで、このシアーズ博士の育児書は1993年発行以来ベストセラーを続け、その育児方法はもっとも支持されているという。シアーズ博士夫妻のこの主張は、私達の日本の祖母や曾祖母の時代には極々当たり前のこと、誰もがしていた事ばかりだ。すなわち、生まれた時から赤ちゃんに寄り添い、泣いたら細やかに応え、赤ちゃんを身にまとい、添い寝をし、母乳を育児の中心にする、というものである。日本の私達の母や祖母たちは貧しかった、1日中背中に赤子をおんぶして野良で仕事をしていた。添い寝する意外にやりようがなかった。庶民にはミルクなどというものがなかったので、赤ちゃんは母親のおっぱいにぶらさがっている以外に術がなかった。子供の人数も多かった。シアーズ博士の言を待つまでもなく、日本の私たちの母や祖母は濃密な母子のアタチメントのなかで子育てしてきたのだ。その子どもたちが私たち60歳代より上の世代である。しかし1970~80年代の育児は、日本経済の高度成長とともに、このような親達の貧しい惨めな育児から解放される物質的基盤が出来、ことごとくこれらとは反対の事が主張され、よしとされたと思う。すなわち、抱き癖はいけない。幼い時から一人で寝かせなくては自立心が育たない。母乳よりミルクに高い栄養価があるので、病院がミルクを推奨していた。家庭で出産する自然分娩など、もっとも惨めな貧しい非文化的なものとして拒否された。ことごとく母性を育てない育児、母子の関係に信頼と自己犠牲的な愛情を細やかに育てない育児である。その時代に生まれた子供達が今結婚し、出産する適齢期を迎えている。そして結婚をしないことを選択している女性も多い。現在、社会では赤ちゃんが泣き止まないから投げて殺す、育児に自信が持てないから子を殺す、などわが子への虐待によって親も子も深い傷を負う暗澹とさせる事件が次々におきている。これらの事件の根底には、共通してその親や子供の育ちの問題が潜んでいるのではないのか。どんなに追い詰められ、妄想に駆られ、殺意や、自殺に追い込まれても人間は心のどこかにそれを拒否する何かがある。たっぷりとした、無償の愛情に育まれた人間は、自分が追い詰められれば追い詰められるほどそういう目に見えぬ抑止力を心のどこかで感じてはいないだろうか。私の年代が育てた、息子や娘達、さらにその子供達の多くは希薄な愛情しか知らない。事件の抑止力となるような肉親の深い無償の愛を知らない子供達だ。昔の日本の母は本当に情の深い、無償の愛を子供に注いでいた。どんなに高いレベルの問題を抱えていようと、あくまでわが子の成長に向けてあらゆる可能性を求めて日夜、子供と関っていた。自己犠牲などと感じてはいなかった。当然の事として普通にやっていた。母の悲しい顔が思い浮かぶと道を踏みはずせない、自殺はできないという母子の信頼関係である。シアーズ博士はこのような親子関係を築く育児を提唱している。自らも8人の子供をそうやって育ててきた。「その子の必要なレベルに応じる」育児。たとえば、いわゆる手のかかる子どもには、その子供に必要な高いレベルの要求に応じる育児の技術を、親が自ら創造していかなくてはいけない。他の親がやったことのないような育児の技能を親が開発し、子と関ることで高いレベルのしっかりした親子関係が築ければ、子育てを成功的に導き、親自身も其れによって多くを得る豊かな人生になる、と彼は言っている。シアーズ博士のめざす子供像は、他者と良い関係を築ける子ども、他者と絆を結んでいける子供を育てること、そのためのツールをお教えすること、と言っている。このシアーズ夫妻の提唱している親子関係も、昔の日本の母たちがごく普通にやってきたことで、さして新しいものではない。よくよく振り返ってみれば、私自身も別にシアーズ夫妻の育児論を読んでいた訳ではないが、彼らが提唱していることを私は無意識にやってきた。祖母たちから刷り込まれた子育ての技能みたいなものだ。そうしなければ子供が育たなかったからである。このごく当たり前の人間の育ちの技能が、現代社会から失われている。とてもシンプルなこの母性の父性の育ちを促す子育てが見失われている。シアーズ博士のこの育児がアメリカで多くの支持を得ているということは、この現代が陥っている混迷を何よりもよく物語っている。アメリカの子供たちも健やかに、人としての絆を他者と結んでいける子供に育ちにくい社会状況があることを意味している。日本の子供たちは、さらにこの健やかさの育ちが困難になっている。今日本では、少子化の問題点がかまびすしく論じられているが、それ以前に今を生きている子供たちが健やかに、しつかりと社会のなかで人と絆を結んで生きていける大人に育てる社会環境や、大人たちが支援することの方が緊急にして必要不可欠な課題ではないか。そして其れはとてもシンプルなこと。母が母となり、父が父となる子育てをすることではないか。21世紀の育児は巧妙なビジネスにさえなっている。何が子供の育ちにとつて本物かを見抜く、母性を父性を育てる必要が現代はあるのだ。大変な時代なのである。シアーズ夫妻(Dr.William Sears & Martha Sears)の育児書。現在日本で翻訳されている書籍は以下のようです。シアーズ夫妻の本は出産や結婚のお祝い、恋人などに贈るといい本かも。日本のおばあちゃんの「言い伝え」みたいな本ですよ。1)「ママになったあなたへの25章」 岩井満理訳 (主婦の友社) この本は若い娘をお持ちの年配の方や、未婚の男女が母性や父性について考えるのにとても参考になる良いほんですよ。2)「シアーズ博士のマタニティブック」3)「シアーズ博士のベビーブック」4)「シアーズ博士のチャイルドブック」
2005.07.18
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これは社会に巣立っていくわが息子に伝えたい言葉である。現代は教養を身につけることが非常に軽視されている。蔑視さえされている。現代社会では知識人は無用の長物なのである。何の利益も生まぬ社会の穀つぶしなのである。本当に無用の長物か?効率よく利益を生むものが尊重されている。教育でさえ、子育てでさえ、効率よく手軽に育てることがもてはやされ、そのためのHow toものが氾濫している。大学においても然りである。特にバルブ崩壊期から十数年間、日本の大学は教養科目を次々に削減、1年生から専門科目を学ばせようとしてきた。その結果、日本の大学はどうなりつつあるか、どのような若者を社会に送り出そうとしているか。日本の多くの大学はどこへいこうとしているか。作家、大江健三郎は現代における知識人について深く思索し、自らも知識人として生きようとしている。大江健三郎は自らの青年期について、高校2年のとき読んだ岩波新書の著者、渡辺一夫に感動し教わろうと思い立った。四国の山の森の谷間から上京し、東京大学に入学した。しかし、田舎の青年にとってはフランス語の壁は高く研究者への道は遠かった。大学院を断念した彼の思いは卒業式にでられないほど屈折したものであった。大学生時代に小説を書き始めていた彼に、渡部一夫先生は、卒業後の4月に彼に研究室に来るように葉書を出された。現れた大江健三郎に、《小説を書いているだけでは退屈します。ある作家、詩人、思想家をきめて、その人の本、その人についての研究書を、3年間読み続けるように。きみは小説家になるのだから、専門の研究者になる必要はない、そこで4年目には、新しいテーマに向かって進むように。》と、専門機関とは無関係にひとりで仕事をする卒業生に「独学」の方法を示された。大江健三郎は先生のこの言葉通りに勉強を続け、この4月から15回目の3年目に入るという。なんという膨大な、気が遠くなるような時の流れであろう。大江健三郎の作品が時代とともに進化し続ける秘密はここにあったのだ。古典の中からの汲めども尽きないこのような膨大な読書の時間の連続があったのだ。何の実用にも結びつかず、なんらかの専門家になれる補償もない、膨大な時間の浪費のようなこの読書法。これは現代の教育や子育てが久しく見失っているものである。実用的な手軽なマニュアル本、才気や誇張のちらばったコーヒータイムにおしゃれに読む本。重厚で長い目で読書に導くようなものは敬遠され、嫌われている。手軽な心の慰みを求めている。それを癒しと錯覚している。その刹那だけ癒されたと錯覚し、さらに強い刺激をもとめる麻薬のような読書だ。本質のところでは何も変わっていない。むしろさらに深刻に蝕まれている。大江健三郎は現代の知識人のあるべき姿を《現代の知識人はアマチュアたるべきである。アマチュアというのは社会の中で 思考し憂慮する人間 のことである。その上での活動が、国家や権力、また自国や他国の市民の一般的な風潮と対立する事があっても、こうでなければならない、と知識人はモラルの問題を提起する資格を持つ。》と言っている。そして、現代の青年たちに、《アマチュアとして個々それぞれに楽しみ、積み上げた読書をもうひとつの新しい習慣として、専門分野で仕事を重ねつつ、社会に憂慮せざるをえなくなれば、再会して頼りに成る批判層を形成する知識人になることを》期待している。そうして彼は、すでにそうした青年たちに巡り合っている、とも言っている。現代の大学は病んでいる。社会はさらに深刻に病んでいる。社会の弱者である幼子や、若者たちが、人として全うに育ちそびれている。この意味からも大江健三郎の知識人としての生き方は多くの示唆を私たちに与えている。この大江健三郎の読書法は、大学が青年たちにどんな教育をすべきかという教訓に満ちている。古典の読書に耐え得る強靭な知性を現代の大学は育てようとはしていない。社会を深く洞察する知性を育てる事が、専門知識教育と同時に大切な事なのではないか。そうして、子育てや教育はこのような膨大な時間の積み重ねだ。効率よくは子供は育たない。効率よくは人は大人にはなれない。
2005.06.15
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昨夜、ジーコ・ジャパンは北朝鮮に勝利し、日本はサッカーのWC大会の出場権を三たび獲得した。近年スポーツの世界では、日本の若者が世界の舞台で活躍することが珍しいことではなくなってきた。世界の中で決して物怖じすることなく、堂々と対等に戦っている。私たちの世代が若い頃には到底考えられない目覚しい活躍である。私たちの世代が、体格やパワーで欧米に劣ることを言い訳にしていた時代とは隔世の感である。しかし今尚、体格やパワーで必ずしも優位にたったわけではない若者たちが、かくも目覚しい活躍をなぜ世界の舞台ですることができるようになったのか。サッカー日本代表の主力選手の半数が欧州のプロチームで活躍している選手たちである。野球のイチローや松井秀樹選手などは、まさに世界の最高峰で活躍している。その他にもゴルフや水泳、フィギュアスケートなどなど世界の最高レベルに挑み戦っている若者たちは枚挙にいとまがない。しかも、世界の最高峰に挑んでいる若者たちはとても深い思索をしている。イチローなど哲学的とも思えるほど成熟した思索をしている。まぁ、若いのにこんなに考えているのかと驚くことが度々である。老成した思考である。技を磨き、たえず限界に挑戦し続けるとかくも人間を成熟させるのか。イチローは大リーグ5年目のキャンプインに、今年の抱負を聞かれて、「今シーズンやっていく中で、新しい壁みたいなものが現れてくれることを期待します。」と言っている。 〈やっていく中で新しい壁を期待する。〉 この思考の柔軟さ。世界の最高峰で記録に挑戦し続けるイチローのすごさは、この言葉のなかにある。日々の現実を深く的確に判断して読み取る能力、そこから自己の越えるべき課題を壁を直視する勇気、壁を超える為の自己との厳しい戦い。壁は自分の主観的な固定的な観念から決して設定されていない。やっていく中で現れてくるものなのだ。しかもそれを期待すると言っている。 31歳の青年がこのような認識に到達しているとはすごい。 サッカーの日本代表ジーコ・ジャパンの方針は、それぞれの選手が自らの判断で自らの能力を発揮し、その総意として勝利へとつながる事を、戦略の第一義的な課題にしているという。選手一人ひとりの自主的な判断力、その判断に基づいて瞬時に行動に移す高い身体的能力、しかもあくまで個人はチームとしての総力にむけて力を発揮しなければならない。個人プレィは許されない。高い身体能力と賢さ、あらゆる場面に的確に判断できる柔軟な思考など、人として全人間的なトータルな力の開花を厳しく要求され続けている。最高峰にいる選手たちは、これらの能力を身につけて成長している若者たちである。それは、日本の現代の学校教育や子育てが久しく見失っている能力である。日本の多くの若者が幼児的で、一人の人間として自立できずあがいている。一番でなくていい、オンリーワンになろうなどと若者はおだてられているが、その内容は無個性な物言わぬ規格品、自分が世界の中心と錯覚している幼い思考の若者たちだ。一人ひとりの個人の賢さが高い技能が組織を動かしていく単位であり、誰からも指図されなくとも機能し、すぐれた実践ができる総体としての社会こそ未来の理想とする社会ではないか。これこそが自由で民主的な社会だ。個性が限りなく豊かになり、それが社会の利益や平和にもつながる社会だ。そのような社会の担い手になる子供たちを育てることが、教育の意義ではないか。これはとても時間のかかる、お金もかかる仕事だ。しかし、今このような一人ひとりが、高い知性と柔軟な身体をもった子供たちを育てることをしなくては、社会は衰退し、やがて滅びるのではないか。日本の社会は、教育は、真の意味での自主性ある高い知性を身につけた子どもを育てる事を拒み続けてきた。勉強はせいぜい学校を通過する為のその場かぎりの知識の切り売りを、詰め込んでいるだけ。其の子供が「出来る」とは、わけの分からぬテストに点をとること。暗記力ある者が勝ちなのだ。其の程度の勉強を国民はしてきたのだ。その結果がいまの有様である。そしてそのように育てられた若者は今、社会で病んでいる。道を見失っている。ジーコ・ジャパンの勝利が意味するものは日本の教育や子育てに深い教訓を与えてはいまいか。とても時間の掛かる、お金のかかるチーム作りを成功に導いたジーコ監督もすごい。だが何よりも彼の戦略が、日本の若者たちをどんどん成長させて素晴らしい選手に育てているのはもっとすごい事。この選手たちが日本の未来を拓く一人に一人にやがて成ってくれる。頼もしいことである。かっての我々の世代が、そして今も底辺では、根性と暴力で服従させることで選手を鍛えようとしている。其の世界は狭い経験主義と教条主義に陥っている硬直した世界だ。其の世界からはすぐれた選手は育っていない。若者たちの頽廃と悲惨な人生が待っているだけだ。WC大会でもジーコ・ジャパンが成功をおさめる事を祈りたい。さらに自立した大人として世界の選手たちと堂々と戦う選手たちに、一回り大きく成長して世界の最高峰の舞台で活躍する日を楽しみにしている。
2005.06.09
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苦味を感じる遺伝子が人類進化の道のりで急速に退化したことを、総合研究大学院大学の郷康広研究員らが突き止めた。この成果が米国遺伝学会誌の今月号に発表されたと新聞が報じていた。 「苦味」の感受性は、さらに毒を体内に取り入れないように備えられているという。人類は発達した脳で毒を学習して、実際に食べなくとも毒を見分けられるようになったことが急速に退化した原因であるらしい。 以前NHKの土曜インタビュー(三宅民夫アナウンサーがインタビュウアとなって各界で活躍している異色の人を訪問してトークする番組)に有名なフランス料理のシェフの三国清三さんが登場した。その時、全国の小学校を回って「キッズ・シェフ」という味覚教育を目的とした移動教室をボランティアで活動しておられる姿が放映された。 三国さんは味の基本は、甘味、酸味、塩味、苦味、の4種類があり、味覚の形成期は小3~6年ごろまでで、その間に「未らい」という舌の表面にある味覚を受け入れる器官が養われていく。この期間に味の基本の味覚を育てないと、大人になってからでは取り返せない、と言っておられた。 この基本の味覚の中で、最近の子供たちは苦味を味あう機会を失っているという。苦味をもった食品を使う食事を与えない親が多くなったからである。 さらに現代の子供たちの多くはファーストフードやインスタント食品を幼い時から常に食べており、味覚が鈍化している。 これらの食材はすべて、大量生産、低コストを第一として、均一の味、サイズを何よりも一義的に考えられ栽培された農作物を材料としている。この現状を三国さんは、大変困った問題だと指摘されていた。 自然の食物のなかには苦味を備えているものが多い。料理のなかに苦味が混ざる事によって、格段に美味しさが増すという。 真夏のぎらぎらする太陽のもとで、熟したトマトの青臭い匂い、独特の酸味。きゅうりや、なす、かぼちゃ、ピーマンなどの夏野菜のあの強烈な夏のエネルギーを感じる濃厚さはファーストフードには適さない。今の子供たちにはこの濃厚な夏野菜の味は嫌われる。 現代では、1年中これらの夏野菜は手に入り、味も淡白で、日本の大地で、自然の恵みと、自然の脅威のなかで育まれた野菜ではない。 万人が抵抗なく食べるために味を濃くしている。 野菜の甘み、野菜の酸味、野菜の苦味などはファーストフードの食材としては不適格なのである。苦味が分からないと、ただ「甘い」ものだけをおいしいと感じるようになる。日本の子供たちや大人までもが「甘さ」ばかりを大切にしている。三国さんの授業は地元の食材を使っておこなわれる。地元の自然が育んだ食材を使っておこなわれる。子供たちの味覚が発達する時期に、どのような味に興味を持たせるか、どのような調理の仕方が味覚を鍛える料理か、子供たちに地元の食材に誇りを持つ事ができる料理とは、このような観点から「KIDシェフ」の授業は展開されている。この授業の詳しい様子は「三国清三シェフの味覚の授業―KIDシェフ」 小学館 (定価:1700円)から本として発売されています。 私たち親は、子供たちにどんな観点から、どんな食事を食べさせているか。今一度反省してみたい。 そして、この「味覚を育てる」という観点からの調理方法を、食材の選び方をこの機会にぜひ考え実践してみてはどうでしょう。子供の心を育む、其れは食事でもある。子供のいのちを育む、其れは食事である。
2005.05.24
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昨夜11時30分から教育テレビで「子育ての輪、支え合う子育て社会をめざして」というパネルデスカッションをやっていた。 何と、昨日書いた日記とほぼ同じ内容、レベルではないか。しかも番組の最後にパネラーが一言づつ言う場面で、お茶の水女子大学の小児科の先生のコメントは昨日エルクさんがコメントに書いてくださったイギリス人が日本の農村で見たことである。著者のイギリス人は違うが内容は全く同じである。(ぜひエルクさんのコメント読んでください。その次の2261394さんのコメントも私と同世代の貴重なご意見です。ぜひご一読を) これは出来すぎだ。余りにも時期がぴたり過ぎる。それだけ、このサイトに集まって来てくださる方が時代に敏感で、なんとかしようと日々悩んでおられるな方たちということですね。心強いことです。有難うございます・ この番組で子育て支援をしている先進的な某化粧品会社の例を放映した。企業内保育所(保育のレベルも高い)に預けて働く、若いママの生き生きした生活ぶりが映し出されていた。産休に入ってる育児中のママも、復帰に向けての不安を拭い去るため、パソコンで日々情報を会社から得る事ができるという。 しかし、このような恵まれた状況で子育てできている企業で働くママはまだまだ少数である。 以前、朝日新聞が次世代育成支援推進法にもとづき、主要100社にアンケートをとり、その結果を掲載した。その結果、100社の多くが社員の子育て支援の行動計画の策定を終えていたことが判明した。しかし、現実はその社員さえ自分の会社の策定された内容を知らなかったり、実行すればいじめや、差別を受けることが多いのが現状ではないか。この現状を変えていくことこそ主要なる課題ではないか。アンケートに日本生命は「年1日有給のアニバーサリー休暇の創設。結婚記念日や誕生日などの記念日に休みを取得できる。」などというひどいものがあった。日本生命って「ニッセイのおばさん」とかいう保険の会社ではないのか。アニバーサーリーなどと洒落て英語使って騙すなよ。そんな事では何の子育て支援にもならない。これを堂々とアンケートに書いてきた会社の人間どんなやつ。きっとこの会社はひどい女性差別、蔑視の会社だ。こういう会社が今までの日本の繁栄の中心にいたのだ。 多様な子育てが選択できる社会。 働きながら子育てをしたい人は安心して働きながら子育て出来るし、自分だけで個人で育てたいと思う人にも社会がそれぞれ違った援助の手が差し伸べられる開かれた育児が望ましい。 そういう子育てを援助する事が、これからの企業の義務であり、それが出来ない余裕のない会社は先行き危ない会社ではないのか。 番組で、若い専業主婦たちが集まっておしゃべりする場を提供している東京のNPOの活動が紹介された。この場所には、近所の小学校の子供たちも遊びに来て赤ちゃんたちと遊ぶ。その遊びに来た6年生の少年少女たちの弁、「赤ちゃんと遊んで楽しかった」(おばばの頃は、六年生は妹や弟をおんぶしてみんなと外で遊んでいましたよ)「ここに来て、赤ちゃんと遊ぶと、いやなことも忘れてなぐさめられる」(まいった、これが小6の女の子の発言とは。若いママさんたち自分の子供がこんな気分でいる事知っていますか、)などと、少年少女たちには赤ちゃんとの交流は好評であった。こういう地域での交流は新米ママさんも、子供たちも赤ちゃんを通して触れ合うことで生きることの感動を学んでいる。これらはまだまだ点の状態でしか日本社会には存在していないけれだ、これらがやがて線になり、面になりことを期待したい。 もう一つこの番組で気になったことは、子育て中の若いママのことをどう思うかという街頭インタビューである。あらゆる年代にインタビューしていたが、とても評判が悪い。70代から60代の爺さん婆さんは口々に、「今の若い人は子供に注意しようものなら、ひどい剣幕で睨み付け、私の子供になにするつもり」と言う、とか「いまの若い人は、子供のしつけをやらない。年寄りが言っても聞かない」一番多いのは「今の若い者は、すべてにおいてあまい」厳しさがないと非難していた。驚いた事に同年代らしい未婚女性まで「おかあさんが子どもを叱っているところをよく見かけるけれど、叱り方がへんだ。友だちに叱っているようででおかしい。子供にはもっと別の叱り方があると思う」とおしゃるではないか。司会者の若いアナウンサー(2人の子持ち)も、50人ばかりにインタビューしたのですが若いお母さんを支持するひとは若干名で少数でした。と苦笑していました。これはいくらなんでもひどすぎる。小学生は赤ちゃんとの交流を楽しいと言っているのに。もう少し温かい目で励ましてもいいのでは。何しろ子供が少ないので、人生のなかで赤ちゃんと出会う機会がほとんどない人も多いのでこれは仕方がないことなのかも。こうみると、草の根のところで子育てする環境がとても窮屈で、おおらかでない事がうかがえますね。自分だけが快適で、わが子だけがいい子に育てばいいと思っている人々が多いのではいかしら。協同で、色々の人たちの手を借りて、ともに成長しあう子育てもダイナミックで困難も多いけれど楽しいですよ。とこのオババは体験から申し上げたい。
2005.05.22
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バアバの育児支援第2日目。 ことねはそれ以後も熱が出たり下がったり。風邪と突発性湿疹か麻疹の併発か病名がまだ診断できてない。湿疹が少しでている。今日は熱は平熱。というわけで再び育児支援はバアバのところにまわって来た。 少子化に歯止めをかける次世代育成支援対策推進法が4月から全面施行された。従業員301人以上の企業とともに、すべての自治体も子育てを応援する行動計画を作る事が義務付けられた。 近年出生率の低下は深刻で、とりわけ大都市、東京の出生率は1.0を割り込んだ。ところが23区のうち、ただ1つ江戸川区だけが全国平均1.29を上回る1.30である。毎年、20代、30代の若い世帯が3万7千人も引っ越してくるという。若い世代の子育てを援助するさまざまな支援を自治体がおこなっている。しかも元気な高齢者たちがをボランティアとして、知恵や経験を次世代に役立てるための養成も自治体が行い、そこで養成された高齢者たちが子育ての支援の一翼を担っている。元気なお年寄りたちが生き生きと子育ての支援活動をしている。老人医療費や介護保険の要介護認定者も23区で最低レベルだという。 子育てと老人問題は21世紀の最重要な課題である。 社会の弱者が共にどう生きていけるかということは、その社会がどれだか豊かな社会かの指標ではないか。 現代の夫婦を単位とした家族構成は、子育てのありかたそのものを大きく変えていく事が必要ではないのか。子供は個人のものであると同時に、社会全体のものであるという認識をさらにみんなの共通の意識とする必要があるのではないか。 江戸川区の試みが実証しているように、子育てに住民のあらゆる知恵や経験が生かされ、お互いに育ちあうことが本来の人間の姿ではないか。 個人の力だけでは限界がある。 我が家の次世代育児支援はこのオババ一人が一手に引き受けているが、これもおかしい。 病気の幼い子が施設の整った、安心して過ごせる病児保育室のようなものがあれば、安心して若いママは働ける。看護師や医師が常勤でいて、ゆったりと1日が過ごせる保育室が市に1箇所ぐらいある事必要ではないか。もうすでに病児保育室のある市もあるけれど、まだまだ少ない。 親子、とりわけ母子だけで毎日、毎日、密室の育児をやっていて母性が本当に育つのだろうか。母子だけの育児は、母親が自分の自己実現のために子育てをしているように見えるケースを時々見かけるけれども。とても視野が狭い。子供の社会性や自立が育っていないように見えるけれど。色々の人々の中で子供が育つ事が、母性をより深いものにしていく事だ。育ちあいということがとても大事だ。 過去の日本の子育ての歴史を紐解いても、母子だけの密室育児をやっていた時代はない。私たちの世代はほとんどが大家族の中で祖父母、兄弟、叔母やら叔父やらの共同でやっていた。その葛藤の中で子供は育ち、母は母性を育ててきた。現代はたとえ2世帯で住んでいても、育児は母子だけのの密室でやられている事が多い。このような育児は子への虐待になりやすい。 子供が健やかに育ち、次世代の社会を担う優れた能力を育むことができるか否かは、住みやす真に豊かな社会を築けるかどうかの分水嶺である。 社会のすべての構成員が子育ての色々の場面で力を貸し合って、母親も生き生き仕事に励める社会、そんな社会で子供はしっかりそだつのではないか。追記:このオババ、余りにも真剣に育児支援をやりすぎ、ことねの風邪が移り、この2日間、熱とのど、頭痛激しくダウンしておりました。もっと肩の力抜いてやらなくちゃ。「ことちゃんの保育園奮戦日記」(リンクしています)で若いママの成長していく姿ごらんください。
2005.05.21
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最近、幼い頃からの食育(食事教育)の必要性が叫ばれている。 食べ物の4~5割が破棄されゴミになっているという記事を目にした。以下のような記事である。 アリゾナ大学応用人類学研究所のティモシー・ジョーンズ博士が次のような調査、推計結果を公表した。 アメリカで出回る食料のうち収穫から流通、食卓を通じて40~50%が無駄に捨てられ、経済損失は約1千億ドル(10兆7千億円)に及ぶ。 4人家族の一般家庭では1日約580グラムの食料が捨てられていた。賞味期限切れのパック、肉、缶詰、乳製品などのゴミを調べると、野菜類27%、穀類20%、果物16%、肉11%を占めた。ゴミになる食料は1年に212キロ、約590ドル。全米の家庭に換算すると約430億5千ドル(4兆6千億円)。 流通段階ではコンビニエンスストアで食料の22,33%、ファストフード店で9,55%、レストランで3,11%、スーパーで0,76%が捨てられた。 日本においても、04年食品ロス統計調査によると、日本国内の食堂とレストランで食事の3.3%食べ残しになっている。家庭を含めると約11兆円分の食べ残しがあると試算している。何ということであろう。日米ともに期せずして約11兆円分もの食料が捨てられているのだ。 世界には今この時間にも餓えで苦しみ死んでいっている子供たちがいるというのに。これが大量生産大量消費を豊かさの指標にしている社会の現実である。「食べる」ということは人間の命の根幹にかかわる重大事だ。何をどのように食べるかはその国の、その民族の文化そのものであり、文化の質を決定する。 成長の最も著しい子供たちにとっては、まさに何をどう食べるかは命を育む子育てそのものだ。健やかな柔軟な体を育てる事は心を育てるその事と表裏一体だ。その逆は断じてありえない。そうであるなら、このように食べ物が粗末に扱われていいものだろうか。命を大安売りしていることと変わらないのではないか。 私たちの幼年期は、戦後の混乱の中、現在のように物が溢れていなかった。経済的にも、高度成長期のはるかなたにあり、大部分の国民が農地解放により土地を取得した農業従事者であった。お百姓さんたちは生き生きと米作りをしていた。稲の成長を誇らしげにおしゃべりしている井戸端会議での会話を日常的に耳にして私は育ってきた。遊び仲間たちは、小4年ぐらいから冷たい水田の中で苗とりをしていたし、中学生などは大人に混じって田植えさえもした。貴重な家族の労働力だった。 こういう子供たちが成長して大人になり、日本の高度経済の成長の担い手になったのだ。彼らが現在の日本の豊かさを築いてきたのだ。しかし、この世代が失ったものは余りにも大きすぎる。現代という社会に翻弄され続けている。 私たちの世代は、この百姓の日々の労働を見て育ち、祖父母たちからは「食べ物を粗末にするな。お米は一粒でも拾って食べろ。」と言われ続けてきた。お米が厳しい労働と厳しい自然に耐え生育して、収穫を迎えることの出来る意味とその重さを子供心に肌で感じ取っていた。だから「食べ物を粗末にするな、一粒たりとも残すな」という教えは心に響く。この時代は、食べ物が体の栄養であると同時にこころの滋養ともなりえた貧しいけれども幸福な時代であったのだ。 現代の若者は実に食べ物を粗末に扱っている。給食やレストランでの食べ残しに対して何の心の痛みを感じないばかりか、「最後まで、きれいに食べなさい」と忠告しようものなら、「おなかが満杯になったのに、何で残していけない。」とか「嫌いなものどうして、食べないといかん?」など等、「そんな事、昔のことや。古い古い、今は違う」などと価値観を全面的に否定されたりもする。 若いママたちは、やたらに賞味期限とかを気にしている。賞味期限がきれたと言って気前よく捨てている。捨てるのだったら最初からそんなに大量に買わなければいい。1日分の食料を買うだけで充分だ。 若いママや青年たちには、一粒のお米が、ひとつのトマトがどれだけの人々の労力と丹精が込められているかを想像する能力をなくしてしまっている。植物がこの大地に根をはり、育つ事の尊厳を思いやる知性をなくしている。そして、こんなに豊かに物が溢れているかに見えるけれど、多くの若者たちの食事はとても貧しいものである。食事が貧しいだけではない、食べるという行為そのものもとてもひどい状態である。寂しいものである。高校生で1日に3回、しつかり食事している人はどれだけいるか。親元から離れて暮らす大学生で朝食をしかるべき時間に毎日しつかり食べている人がどれだけいるか。家族が揃って食事する時が少なくとも1日1回はあるか。食べる事はいのちを育む事なのに、その根底がくずれている。親たちの子への幼い頃からの食事への躾け、食べ物への関り方が今の若者たちの食への態度へとつながっている。 私たちの老年世代が次の世代に何を受け継ついで欲しいのか、老年世代はもっと語るべきだ。昔は貧しく粗末なものしかなかったという全面否定の中に今の若者の食生活がある。アメリカ流の大量生産で、コストを如何に低くするかという効率のみを優先する農産物が市場を独占し、食の根本を見失った。そのことによって心の栄養までも失ってしまった。挙句の果てにその生産量の半分近くが捨てられている。食べることは、いのちを育むことでもある。豊かに、健やかに生きる事を阻害するものに敏感に立ち向かう感性を育てる学びが必要である。食育は人間が人として豊かに育つ為に欠かすことの出来ないものである。自分たちが食べている物がどのようにどんな人々の力で作られているか、そこまで遡って学ぶことが今こそ必要な事だ。自らも作物を作ってみるのもいい。種をまき収穫するまでを自分の力でやってみるのがいい。
2005.05.17
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今日は、いじわる婆さんになって現代若者の風俗批評と行きたい。昨日のお昼少し前の電車の中での光景。 私がその電車に乗った時間は、通勤、通学時間ははるか彼方に過ぎ去って、お買い物か、お食事か、はたまた観劇か何れにしろ、いやにめかし込んだオバタリアンのグループや病院帰りらしきお年寄り等等、この効率一本やりのご時勢に比較的スローな暮らしをしている面々がそれぞれの人生を表情にたたえて長閑に乗っておりました。 所々に大学生らしき若者もちらほら、さらに何者か分からぬ、多分何者でもない今風の若者も耳にイヤーホンを当て、足でリズムをとつて眠るふりをして乗っておりました。 その車内の片隅に、私が乗り込んだとき化粧を始めた若い女がいた。 興味深々、この女はどうやって化粧するのかな。化粧に疎いこの婆さん、ちょっくら観察させてもらいましょう。 始めました、始めました。何やら次々に顔に塗りたくり、目元の化粧に来ましたら時間のかかる事かかる事、何やら手鏡、これ以上近づけられない程、目すれすれに近づけて描きに描きまくっていましたよ。更に口紅、2回も3回も色を替え塗りたくっておりました。これで終わりと思いきや又、又、目元の修正(?)か、手鏡取り出して目の縁取り始めました。私はもうこれで完と思いきや、はた又、大きな鏡をバックから出して、髪型のチェックと相成りました。 そして、驚く事なかれ、すべて終わり満足したのか眠りはじめたのである。時間は30分かかりました。その間、この婆さんは一度も目を離さず、その女を見続けておりました。他の乗客もちらちら目を見やっておりました。この女って、人間?この女って、何者?この女を育てた親ってどんな母親?この女って、どんな学びをしてきた?この女って、何のために化粧している?男に気を引くため?この女にだまされる男って、どんな男?なんのために化粧する?もぬけの殻の自分を隠すため?目が死んでいるよ。自分は馬鹿で頭のなか空っぽだとお化粧が語っているよ。化粧とは自分を化かして、他を演じるところに意味あるのに。この女、こんなにも時間をかけて化粧したのに、その後先では何の変化ありませんでしたぞ。見苦しい女でありましたぞ。その隣にも、似たような化粧の女がおりました。その隣にも。その隣にも。でも、こんな自問をする事ができる女なら、公衆の面前で化粧などしませんね。それさえ出来ない、幼い、消費行動だけ得意な自立できない女がいる。
2005.04.22
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