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Danjoseの南米紀行(20) 北部アルゼンチン・フォルクローレを訪ねる旅雛菊とパンパスグラス乾いた澄んだ風が山を谷をパンパを吹き抜ける秋荒々しい赤や青の山肌を背にやさしげに揺れる野の草花ほら、こんなに可憐な野の花々が明るい陽ざしをあびて揺れているこの黄色いキク科の花この旅では高度の高低にかかわらず、どこでも見かけた花現地の最初に出会った運転手に名前を聞くと「ピキジン」3日目の運転手に聞くと「マルガリータ・デル・カンポ」(Margarita del campo)アンデス山麓に咲く雛菊とでも言おうか。サンテアゴ巡礼街道にも 地中海のセネキオ;サンティアゴ草(Senecio Jacobaea)というキク科の花がどこにでも咲いていた。巡礼人の疲れた体とこころを癒してくれた花。それぞれの土地でそれぞれの進化を遂げて咲き続ける野菊たち。ヒナギクやヒマワリやタンポポなど世界各地に見られるキク科の植物の起源は南米にあるのではないかということが最近発表された。米科学誌サンエンス電子版によるとアルゼンチンやスウェーデンの研究グループが南米のパンタゴニア地域北西部の約4750万年前の地層の保存状態の良い花の化石を分析した。その結果、その特徴がキク科特有であり、化石の年代から推定できたという。キク科の植物は、その種類の多さや分布の広さから地球上の花をつける植物で最も変化に富んでいるとされる。しかしながら、花粉以外の化石が少なく、その起源はよくわかっていなかったのだという。このアンデス山麓に咲くヒナギクはその数万年前から風雪に耐え、変化し続けて今、ここに咲いているのかも知れない。その時間の悠久さに思いを巡らすときこのごく平凡な花のいのちの旅に感動する。同じお花畑に咲いていたアンデスの空の青のようなブルーの花この花のつくりもキク科のそれに似ていますね。花の名前はわかりませんが、日本の秋の野に咲く野菊にも似た花。パンパスグラス(Pampas Grass:イネ科コルタデリア属。多年草植物。原産地、ブラジル、アルゼンチン、vヒリなど南米。雌雄異株。)日本の秋の野にもざわめくススキ同じイネ科の植物パンパスグラスはアルゼンチンの広大な平原(パンパス)に生育する。(プルマルルカの牧場:パンパはケチュア語で木のない草原を意味しており、19世紀までは、プレーリーに似た丈の高いイネ科草原が広がっていたが、その後スペインによるインディオ討伐後、パンパの開拓が急速に進み、広大な農耕地、牧場地帯に変化した。)アルゼンチンを代表する植物パンパの草 (パンパスグラスとサボテンを植え込んだリゾート・ホテルの庭)パンパスグラスはスペイン語では、Cola de zorro(コラ・デ・ゾロ・狐の尻尾)。日本のススキは「尾花」とも書きますから、名前の付け方は、お国違えどよく似ていますね。ちなみに、パンパスグラスの日本語名は白銀葦(シロガネヨシ)未舗装の大パンパ延々と走り、道中最高地点・4170mの峠を越えて大塩湖にいった日に泊まった麓の町プルママルカ。ブルママルカはウマワカ渓谷(2003年世界遺産登録)の入り口の町でもある。その町のホテルのパンパスグラスの庭。色々な種類のパンパスグラスの植栽が見事。巨大な背丈巨大な白銀の穂まさに壮観背後に迫る荒々しい赤い岩肌の断崖プルママルカのホテルの庭はサボテンとパンパスグラスが植栽され、見事に生育していた。 ホテルのドアーはサボテンの板で作られているコスモスも咲いているよ。パンパスグラスとコスモスが共演している秋の庭コスモスもキク科の花しかも、アメリカのアリゾナから南米のボリビアに至る広い地域に約30種が分布する。とりわけ花卉(かき)のコスモスはメキシコの高原に起源があるという。コスモスは日本では明治末(1909年)、文部省が全国の小学校に栽培法をつけて配布してから本格的に全土にひろまった。日本の秋に馴染んで、「秋桜」という文字さえ与えられているコスモスは以外にも日本では比較的新しい新参者であったのだ。日本の秋の花コスモスとススキの景色は北アルゼンチンの2000m級の厳しい気象条件のなかにその故郷があったとは新しい発見であった。花の優しげなのに似合わず、太い頑丈な茎、じりじりと照りつける灼熱の太陽にその葉っぱを焦がしても秋の涼風に花を咲かせる強さの秘密はこの南米の大地にあったのだ。(コスモス揺れる日本の秋:私の散歩道より。Photo by fujiko)日本では今、秋コスモスが群れて庭で垣根で道端でにぎやかに咲き競っている。
2011.10.23
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Danjoseの南米紀行(18)北部アルゼンチン・フォルクローネを訪ねる旅は昨年春から始め1年半を経過し、いまだ途上にあり完結できないでいますが、今回は、アルゼンチンフォルクローネの巨匠アタワルパ・ユパンキがヒロシマに捧げた詩がありますので紹介します。(天空に荒々しく聳え立つ赤い岩肌。ユパンキが愛してやまない赤い山々や彼を育んだ澄んだ風わたる草原・パンパは彼の歌の原点でもある。)死の街・ヒロシマに衝撃を受けたユパンキ、その廃墟の中から甦る街ヒロシマの力強い生命力に深い感動をしたユパンキ。このユパンキの希望はフクシマに通じるか?。ヒロシマ!(忘れえぬ街)訳詩:Mr.Danjose ¡HIROSHIMA! (La ciudad que no olvido)“Como Ave Fénix, de las cenizas renaciendo. Como una Sinfonía de Beethovenque alcanza la alegría a través del dolor. 不死鳥のように 灰から生まれ変わる。 痛みを通じて喜びにいたる。 ベートーベンの交響曲のように。Como un héroe legendario resucitando en cada célura,organizando el pulso de las arterías,vigorizando el músculo,lavando el alma con an agua y luz de sigloshasta recuperarte y consagrar ひとつひとつの細胞の中に 甦る伝説の英雄のように 動脈を活性化し 筋肉に活力を与え、 数世紀の水と光で魂を洗い、 破滅から回復し、身を捧げる。 al oficio y al libro.al canto y la esperanza.Labrador del futuro, gran sembradordel sueño, 仕事に本に。 歌に希望に。 未来を作る者。夢の種を撒く者。Así mi corazón te siente, enamorado, ¡Hiroshima! このようにわたしの心は あなたに恋をする。 ヒロシマよ!Qué noche fue tu noche, kimono desgarrado. あなたの夜はなんという夜。 着物は引き裂かれ、 Cuando todo era sol sobre la tierra El horror sin fronteras, y la ciudad sin niños--Ni pinos en las sierras, ni arrozal en los prados. Ni u ave, ni una flauta de bamu 地上がすべて太陽であったとき、 果てしない恐怖と子供のいない街。 山に松はなく、野に田圃なし。 一羽の鳥もなく、一本の竹笛もなし。Contando historias bajo las estrellas. Todo fue un gran silencio, sin salmo, sin adioses. Ni lágrima ni salmo. 星のもとで歴史を語りながら すべては大きな静寂。 聖なる歌なく、別れの言葉もなし。 涙もなく、歌もなし。Sólo un inmenso asombro horrorizado 、¡Hiroshima! あるのはただ、 計りしれぬ恐ろしい驚愕。 ヒロシマよ! 3月11日の地震・津波による福島第一原発事故の発生から半年がたったが、今も原子炉の冷却や放射性物質の放出抑制は不安定なままで、収束に向かっているとは言い難い。相次ぐ水素爆発や海洋への汚染水流出などにより、広範囲に大量に放射性物質をまき散らしたままである。収束への確かな道は何も示されていない。まさにSilente Townが今後、数十年続くのは必至。この事実をしっかり見つめることでしか、明日への希望はないのではないだろうか?未来へと続く道はないのではないか?事実を隠し、甘い希望や期待をもつことこそ、真に人間らしい解決から遠ざかることではないか?この事実をしっかりと見極めて、原発に頼らない社会の実現こそ、今、真剣に模索すべきこと。半年たち、社会の気分は「原発あってもやもうえない」という宣伝に流され始めている。
2011.09.13
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アールデコ華やかしマンハッタンの今は(Danjoseの南米紀行・17;番外編) 都市のなかの都市ニューヨークのマンハッタン摩天楼がぬける青空にどこまでも伸び、 世界中の富みが集まり繁栄の頂点を極めていた都市ニューヨーク世界中の人々が羨望し、富と快楽とをもとめてごった返す世界の都市の中の都市ニューヨーク・マンハッタン (アールデコ調の代表的なビルが、自動車産業の主によって、建造されたというこたが、まさにアールデコの美術の特徴そのものである) 1920年代のアメリカの繁栄の歴史を物語るニューヨークの摩天楼の中の傑作クライスラービル 20世紀前半のアールデコの芸術は1930年代に建築されたロックフェラーセンターやクライスラービルやエンパイアーステイトビルなど20世紀後半に続くニューヨークの繁栄の息ぶきを秘めている。来るべき工業社会の繁栄の理念そのもの、シンプルで無駄を省いた直線美、天空に向かって限りなく伸びていく征服欲最小の面で最大の効率を引き出そうとする徹底した効率主義。これらすべてはまさに現代の資本主義が追及してやまない世界である。 そのような摩天楼がニョキニョキと荒野に林立しはじめた1930年代のニューヨーク。 ロックフェラーセンターの各ビルの外壁にある数多くのアールデコの装飾は、そのような直線的で鉱物的な無機質な摩天楼に来るべき工業社会への自信と人間讃歌を付与して潤いを与えている。 ロックフェラーセンターの中央にあるGEビル(ジェネラルエレクトリック社&NBC放送が入居)の正面に中央と左右の入口上部には Lee Laurie(リー・ローリー)によるレリーフが鎮座する。その題は「叡智」(Wisdom)まさに人間の智恵に対するゆるぎない確信、自信に満ちて力強い GEビル手前の地下広場(Lower Plaza)金色のプロメテウスの彫像あくまでも人間文明を肯定し明るい未来に満ちているプロメテウス像 龍を征服しているブロンズ像 アールデコの芸術は高度経済成長期前夜のたくましさ、明るさを反映して産業と芸術の融合を試みている。芸術の一般大衆化が大きく前進した。 軽快でメカニックな直線、鉱物的な無機質なビル群を飾るこれらのレリーフや彫像は人間肯定の力強いエネルギーを秘めている。 「人生の喜び 」ロックフェラーセンタービル外壁のレリーフ非常に軽やかリズミカルな曲線働く女性のしなやかさ インターナショナルビル入口を飾るレリーフ レリーフの絵には次のような意味があると言う。まさに1930年代のアメリカの工業社会の理念を具現化している。 中央上:マーキュリー(水星) 商業のシンボル 中央・2段目:芸術・科学・技術文明の象徴 中央・3段目: 船商業 最下段:中央 人類の闘争 下段:左 鷲 新しい工業社会の秩序・アメリカ最下段: 右 ライオン古い帝国主義・イギリス 下のレリーフにも鷲がいる新しい工業社会の秩序の象徴 このようにロックフェラーセンターを中心とした高級百貨店や世界的ブランドショップが軒を並べるアメリカ大量消費文明の中心地マンハッタンは街並みそれ自身がアールデコ調の装飾を随所に飾りつけた美術館でもある。 しかしあれから80年経たアメリカは2011年 夏にはマンハッタンには、1ドルピザ店が増殖し、1枚1ドルの看板を掲げた安売りビザ店に行列をつくるサラリーマンの列の昼時があり、マンハッタンにも大手安売りスーパーが出店し、高級住宅街からさえ買出しににくる客であふれ、大量消費をしなければ繁栄できない工業社会の矛盾は頂点に達している。 08年秋の住宅バブル、いわゆるリーマン・ショック以来アメリカは史上最大規模の財政出動(約62兆円)をすばやく行い、消費を促す経済成長をやりとげるはずであったが、その効果はなく、ただ膨大な債務が、借金として米政府に残っただけである。アメリカ国民は、ばら撒かれたドルで浮かれて踊る事は出来なくなっている。 14・6兆ドル(約1140兆円)もの借金を抱え込んでいるアメリカ。このようなドルが世界の通貨として君臨していることそのことが、おかしい。アメリカ資本主義のありようは深く病んでいる。アメリカが世界の覇者として君臨した20世紀はまさに終ろうとしている。それに変わるべき理念、変わるべき体制を見つけあぐねているのが今、21世紀の初めではないか。世界の海を闊歩して、世界を制覇した大英帝国がその覇権をアメリカにに奪われたように、アメリカの落日は必ずやって来る。 日本が今直面している福島原発事故が、収束できないで混乱に陥っていると言う事実は、アメリカの工業万能、科学技術が世界を征服するとしたテクノロジーへの神話の究極の姿ではないか。アメリカは核を通して軍事的にも後には平和利用の名のもとに、世界に核をばら撒き、世界制覇の道具にしてきた。しかし、そのテクノロジーは事故にひとたび遭遇したら、それを人間の力では収束できないという未熟、未完成なしろものであると暴露された。何万年という時間だけが収束へと向かう唯一の方法であるとは。それでもなおこの核開発のテクノロジーを使って、儲けをたくらむことをやめない輩がいる。日本にもうごめいている。 2011年夏マンハッタンのアールデコの装飾レリーフの数々が灼熱の街を見下ろし、明るく自信に満ちて、今日も、マンハッタンを眺めているはずだ。しかし、今、繁栄と富みの象徴であったマンハッタンは、深く病んでいる。
2011.08.13
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Danjoseの南米紀行(16)(番外編) 世界の富と繁栄の象徴ニューヨーク・マンハッタン摩天楼のビル群が林立し、混沌と豊穣の現代アメリカ文明の象徴・ニューヨーク、そんなニューヨークの市民のオアシスでもあるセントラルパーク荷馬車でお散歩 19世紀の前半、ヨーロッパからの移民急増期ニューヨークは町として膨張し続けていたころ市民が憩える牧歌的な田園風の公園を作る必要が叫ばれ出した。公園草創期、あくまで人工的でありながら大自然のなかにいるような公園を作ろう。このような壮大なプランのもとに生まれた都市公園。公園建設期には、荷馬車が大量の土砂を運び出すために活躍した。その荷馬車に乗って、新緑の公園内をお散歩。 若葉が目に染む4月中旬のセントラルパーク 楡の木や樫の木やカエデなど見事な森が育つセントラルパーク よく手入れされた芝生明るい陽光がこぼれて、若葉がまぶしい。ほら、リスさんもゆたかな森に安心して春を楽しんでいる。 北米の春を明るく彩るハナミズキ 若葉の緑と花びら(苞)の白の清々しさ。ニューヨークのハナミズキの花びらはまろやかでゆったり。 (ハナミズキ:ミズキ科ミズキ属。別名アメリカヤマボウシ。原産地北アメリカ南東部、メキシコ北部。日本には明治中期に渡来。東京からワシントンに贈ったサクラの返礼の木として知られる。)訪れた日は肌寒い時折雨が激しく降る日であったが つつじがもう満開 目に染む白と新緑の青 アンデルセンはしたたる緑と涼やかな白のなかで子供たちにお話しを読み聞かせている アンデルセンの膝はピカピカ。きっと子どもたちが次々にやって来てアンデルセンの膝に腰掛けてお話しを聞いたんだね。 このアンデルセン像は2001/09/11のテロで親を亡くした子供たちのために寄贈されたもの。公園内にある29の像は、このように個人や法人などが寄贈したもの。 日本の雑木林の早春を雪のように舞い降りて来て彩る馬酔木(アセビ)の花 ニューヨークの公園でも全く同じ姿で咲いているとは感動! 不思議な国のアリス アリスが大きなキノコの上で、緑したたる若葉の国で兎たちと遊んでいるよ。子どもたちも一緒にアリスと遊んでいるよ。 タンポポさんもニューヨークの厳しい冬をじっと地下で耐え花を咲かせた セントラルパークの公園を彩る春の花チューリップ 若葉でまぶしい公園に華やかな彩り添えるチューリップたちこれらの花の多くはニューヨーク市民たちが公園管理組合から愛する人のプレゼントに球根を買って咲かせたもの。 市民たちの力で咲かせている花(スイセン、チューリップ、キクの3種の球根から50ドル以上支払って球根を、管理組合に申し込むと、それ相当の球根を公園の花壇に植え、花を咲かせてくれる。プレゼントする人にはe-cardを送ってくれる、という素敵な花のプレゼントによって咲いたもの。) 日本のさくらも公園内に咲き乱れる。訪れた4月半ばには、すでに散り、ご覧のような さくら色の美しい絨毯 仏堂の欄間の飾り・華鬘に似ているケマンソウ (ケシ科。中国、朝鮮半島原産。別名:タイツリソウ。根には鎮痛作用あるアルカロイド含まれ、解毒に用いられる) 可愛げに咲くケマンソウ日本には室町時代に中国からやって来て茶花として古くから愛用されている。 日本なら初夏の花シャクナゲももう咲いていたニューヨーク チューリップやあでやかなラッパスイセンとは少し赴き異なるケマンソウやこの白い石楠花。セントラルパークには、樹木25000本、何千本もの花が植樹され管理されている。その種類も多民族のるつぼの都市にふさわしくアメリカに自生するものから世界各地のものまで、多様な樹木や花々が植栽され見事に管理されている。大都会の真ん中に豊かな森。ニューヨーカーにも世界中からやって来る人々にも憩いと慰めを与える大都会の中のオアシスセントラルパーク ちょうど今、ニューヨークのセントラルパークは、目に染む新緑の春の花咲き満ちる公園になっていることでしょう。 Danjose夫妻は昨年の今頃、アルゼンチンのフォルクロールを訪ねた旅の帰りにニューヨークに立ち寄りました。アルゼンチン紀行もまだ道半ばですが、日本の季節に併せてN.Y紀行を先にアップしました。次回はニューヨークの街のアートをアップします。
2011.04.15
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北部アルゼンチン・フォルクロールを訪ねる旅(15回目)サボテン(その2)サボテンは紀元前1万年前の昔から人々の暮らしのなかにあり、人々の文明を支える重要な植物であった。 (青銅色の山肌を背に、大きなハシラサボテンがにょきにょきと林立)メキシコのテワカン遺跡からは十数種のサボテンが出土している。ハシラサボテン類の種子と果実や、ウチワサボテン属の果実、種子などを、すでにその頃人々は食べていたという。(実をつけたウチワサボテン。3000メートル級の高い山々の強い日差しと寒暖の差が大きな厳しい気候条件のなかで、長い年月をかけて生育するサボテンの木。)アステカ族では、サボテンに含まれるアルカロイド成分を利用して麻酔剤やアルコール飲料にしたりした。また、食べる快感とともに多彩な幻覚症状を引き起こすことを利用して、儀式で生贄になる者に、これを食べさせ、恐怖を取り除いたという。さらにアステカ族の神話によれば、「岩の上のウチワサボテンに一羽の鷲が蛇をくわえて、止まっている場所に都を建設せよ。」という神託に従って、1325年テノチィトラン(メキシコ市)の地を選んで都を定めたという。 メキシコの国章は、この伝承を図案化したもの。 プルママルカのホテルの板のドアーの木目サボテンの材から作ったもの サボテンの芯材は建材、家具、道具などに、 トゲは入れ墨の針に、茎は胃薬やリウマチの民間薬に利用された。さらに、さらに、コチニールウチワサボテンに付くエンジムシ(カイガラムシの一種)からは、赤色染料カーミンが取れ、ペルーのモチーカ文化(1~6世紀)の壺にはすでに、その染料は使われていた。(現代でもコチニールという表記で、食紅や化粧品のなかで使われている。)このように、サボテンは古くから原住民の生活と深く結びついて、人々の生活を支えてきたのである。 そんなサボテンを歌った歌「カルドンの花」自然の懐に抱かれて自然と渾然と溶け合って生きるインデイアの自然への畏敬の念をこめた哀しくも美しい恋の歌。優しい穏やかなメロディーでサボテンを歌っている。(カルドン:Cardon ケチュア語で綿花や羊毛の繊維を梳く「梳毛機」の意味があり、サボテンのことをいう。) La Flor del Cardónカルドン(サボテン)の花 訳詞 : Mr.Danjose Vine del cerro trujiendo una flor, 山から花をもってまいりました。 Virgen del Valle la truje pa´vos, 谷の聖母マリアさま。pa´que alivies mi dolor あなたに花を持って来ました。 l´hai de poner en tu altar, ぼくの痛みを和らげていただきたくて、 la flor del cardón, la flor del cardón. この花をあなたにお供えします。 カルドンの花、カルドンの花。 Desde la cumbre del chango Real, チャンコ・レアルの頂きから、 vengo a pedirte que curis mi mal, 病を治して頂きたくてまいりました。 mi coyita me ha dejau´, 恋人がぼくを捨てました。 tal vez pa´ verme llorar, たぶん、ぼくが泣くのを見たかったのでしょう。 la flor del cardón, la flor del cardón. カルドンの花、カルドンの花。 Mi chuspa, coca y mi yesquero, ぼくの皮袋、コカの葉、火打石入れ。 tuito te traigo volveme ese amor. みんな君にあげるから、その愛を返して・・・。 Virgen del Valle me voy, 谷の聖母マリアさま。 ya ha comenzao´ a nevar, ぼくはもう帰ります。雪が降ってきたから。 la flor del cardón, la flor del cardón. カルドンの花、カルドンの花。 Los chrachalerosの歌うサボテンの花を You-tubeでどうぞ。
2011.01.10
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北部アルゼンチンフォルクロールを訪ねる旅 (14回目 ) サボテン(その1)数万年の歳月を厳しい乾いて山岳高地に生き続けているサボテン 荒々しい岩肌断崖数万年に及ぶ風雪に耐え続け変化を繰り返し今ここにある大地の姿 青銅色の岩肌に強い日差し反射して林立するサボテンに降り注がれる。山岳高地の強い風、強い日差し、あくまで乾いた空気、寒暖のの差が激しい大地。これらの厳しい生育環境に徹底して順応し、極限の形としての姿が今ここにある。この厳しい自然環境に適応すべく数万年の歳月をかけて進化した姿サボテンサボテン科(cactaceae)のハシラサボテン亜科(Cereoideae)セレウス類(Cereus)に属するハシラサボテン。太い柱状で分枝が多い。ハシラサボテンの仲間は地域性強く多くの属に分かれている。この仲間は全体として巨大なものが多い。トロ川流域では標高3000~3300メートルのこの辺り一帯がハシラサボテン類が最も多く生えている。根は浅く広く張りめぐらし雨季に水を取り込みやすくし、葉はほぼ退化してするどい針に変化し、茎に水を蓄え多肉化して、次の雨が来るまでの分を茎に蓄えている。背の高い柱状のサボテンが強風に倒れないのは、1本の太く長い根っこがあるためという。そして、驚くべきことに貴重な水の蒸散を最小限にとどめるために、昼間に太陽の光りを溶解状態で蓄えている二酸化炭素に加えておき、夜に光合成をおこなうという。休眠期間が長く、活動期はほんのわずかのため、1年に伸長するのはほんのわずか。1cmぐらいという。巨大な背の高さになるには、長い歳月が必要である。根の構造といい、茎の構造といい、緯度は低いが高い山岳地帯の極度に乾燥した環境に極限まで順応しているそのさまに感動する。その時間の長さに感動する。 ハシラサボテン天空に聳えて(遺跡&サボテン園:巨大なハシラサボテンが林立している。)サボテン園のサボテンウチワサボテンウチワサボテン亜科(Opuntioideae)ウチワサボテン属(Opuntia)学名:Opuntia ficus-indicaアルゼンチンのサルタの山岳地域に広く分布している。メキシコ原産。英名:prickly pears(トゲだらけの梨);Indian fig(インディアのイチジク)スペイン語:tuna(ツーナ) ウチワサボテン類の果実は赤、ワインレッド、グリーン、イエローオレンジ色など多様な色合をしていて、甘く水分が多い。メキシコではツーナ(tuna)と呼ばれ、食用として、栽培もされている。 生食のほかジュース、発酵飲料、砂糖漬けなど、茎はピクルスにされたり、髄は野菜お菓子など、幅広く食用に利用されている。ツーナの実 この赤い果実もウチワサボテン類のもので食べると甘くてジュースィ アップすると サボテンが食用とされる代表に、上記のツーナともうひとつピタヤ(pitaya)がある。ピタヤは、主としてハシラサボテンのなかまのヒロセレウス属の果実である。メキシコからペルー、西インド諸島に自生し、夜に大きな花を咲かせるという。アンデス山脈に自生するハシラサボテンのなかまシロサボテン (ハシラサボテン亜科;オレオセレウス属。中形の柱状で、白毛が密生。強いとげがある。)セレウス類のサボテンは建築用の建材に使うという。 プルママルカのホテルのサボテンから 作った 板のドアー 一般には、サボテンの茎は木質化しないので、腐ると篩管部が網目状に残る。これはレースウッドと呼ばれ、箱や電気スタンドを作り、民芸品として売られている。 サボテンと花 黄色い花とサボテンの共演後ろの黄色い花の葉っぱもサボテンの茎のように多肉化している。何という名前の花かしら?サボテンばかりの荒涼とした風景のなかでほっとする緑のある風景。 サボテン科は分類学的には、コノハサボテン類、ウチワサボテン類、ハシラサボテン類の3つの亜科に別れ、さらにその下の属の数は80前後とされているという(色々説がわかれているらしいが)。南北アメリカ大陸およびそれに付随する島々の乾燥した地域に多くは自生している。 サボテンは私にとっては、遠い国の馴染みのない植物で関心少ない植物であったが、今回、このブログを書くにあたり、色々調べてみて、サボテンの植生というものの凄さを認識した。長い歳月をかけて、その環境に順応した姿になるとともに、他の動物や人間との巧みな共生、生き物間の循環など、全くの無駄なく機能するように作り出されているのには、驚く。古代の人々がこれらを神の創造物として崇めたのもうなずける。サボテン(その2)を次回にアップする予定ですが、原住民インディアの歌う「サボテンの歌」「La Flor der Cardon ]を紹介します。素朴で優しい歌です。
2011.01.09
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北部アルゼンチン・フォルクーロールを訪ねる旅(その4) アンデス山脈の厳しい自然環境に生きる南米ラクダたち 4000メートル級の山々が続く山道塩湖からプルママルカへの道中の最高地点4170メートルのラモード峠 低いイネ科雑草が生えるばかりの荒涼としたパンパに強い太陽の日差しが降りそそぐ このアンデスの山中に紀元前の昔からインデイオとともに暮らしその衣料原料として、貴重な蛋白源として又ある時には、険しい山道を荷物を運ぶ運搬用の家畜として、人々の暮らしを支えてきたリャマ 現在では、この辺りのリャマは野生のものと家畜化したものが混在してパンパの草原で草を食んでいます。家畜化されたものは、耳にリボンをつけています。 現在では、リャマの毛はアルパカとともに繊維原料として世界の多くの人々が愛好している毛糸となって私たちの身近なところにあります。 アンデスの山中に生きる野性のビクーニャ おだやかで、やさしげな姿のビクーニャだが人に馴れ親しむこと難しくいまだ家畜化には成功していないビクーニャ その優美で気品に満ちた姿 ビクーニャは独立自尊の象徴としてペルー国家の紋章にもなっている。 静かにひとり広大なパンパへと去っていくビクーニャ気高く、 孤高のビクーニャ アンデスのラクダのなかでビクーニャの毛は柔らかな茶褐色、光沢に富み、毛としては最高級の良質なもの。1頭のビクーニャから取れる毛の量は少なくコート1着分に40頭が必要という インカ帝国では 王侯しかビクーニャの服を 着ることができなかったという。 このような厳しい大自然のなかで孤高に生きているビクーニャは人間の乱獲による絶滅の危機にある。 グアナコ グアナコはビクーニャよりやや大型でアルゼンチン、チリの南極に近いパタゴニア地方の山中に棲息している。このグアナコは翌日、訪れたサボテン園の中で1頭だけ飼われていたものです。 天空にもっとも近い場所この地を観光する人々が利用する観光バス 険しい山道、でこぼこの石ころの山道冷たい風が吹きぬける山中強い日差しのパンパこの高原の中をトラックの観光バスが走る以下の写真アルパカは、Mr.Danjoseが30年あまり前にペルーで撮影したものです。 リャマのなかまの繊維は、The fibre nearest to the skyとかThe fibre of the Godなどと称えられ、世界で最も天に近い高原の過酷な気候条件なかで育まれた大自然の贈物です。 アルパカどこかユーモラスで、人なつこく ヒツジに似ているアルパカでも、アルパカも南米ラクダの仲間です。いままで見てきたリャマ科の毛はすべて繊維原料となりますが、アルパカがこれらを代表しています。品質がすぐれ、家畜化しているために、量産が可能ということによります。 南米ラクダたちの棲む環境は海抜4000メートルから5000メートルの高原。昼夜の寒暖差は50度にも達し、強い日差しと冷たい風など過酷な自然条件。 この過酷な気候条件のなか何千年もいのち繋いで今にあるリャマのなかまたち。その毛はこの厳しい環境に適応して生きるために進化してきた。まさに、大自然の神秘がもたらした神のおくりもの アルパカ毛糸の軽さ暖かさしなやかさ、自然色の風合いのやさしさこれらはこの厳しい自然が作り出したものなのです。 アルパカの毛刈り。おとなしいアルパカ、四肢をしばり、頭を抑えるとじっとして動かず鋏で毛を刈り取られています。 毛刈りは、1年に1回雨季の12月から3月にかけて行なわれます。雨季は牧草が豊富で、剪毛後の体力維持増進の栄養源の確保が容易なことと、昼夜の温度差が小さく、剪毛後の体力消耗が少ないため、この時期に毛刈りは行なわれています。 毛を刈り取られた後のアルパカ胸の毛は前掛け状に刈り残されています。風邪をひかないようにという配慮からだそうです。 穏やかで、どこかユーモラスなアルパカ毛刈りの後もよだれかけのようなエプロンつけて思わず笑みがこぼれる。 過酷な大自然で生きるアルパカたち、その厳しさに似合わぬおだやかな満ち足りたやさしげな表情現代の社会を生きる私たちが失いつつあるものを静かに訴える目ですね。 今回の野生ビクーニャの写真に私はとても感銘を受けました。素敵な写真ですね。めったにこのような至近距離から撮影できないのに、幸運にも撮影に成功した今回の写真。その意味からも大変貴重なものです。このような動物がアンデス山中にいるという事実、しかも、絶滅の危機にあるという事実これらの事実を知って驚き、考えさせられました。30年も前のアルパカさんたちをこんなにも鮮明な写真で見ることができるとは、これまた素晴らしい。アルパカ毛糸の原料はこのような環境で、このように育っている動物たちからのものであったとは。 私も、孫たちにかわいらしい手袋でもアルパカ毛糸で編んでみようかな。 そんな気持ちになりました。
2010.11.15
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北部アルゼンチン・フォルクロールを訪ねる旅(その3)天空に浮かぶ塩湖サリーナス・グランデス(Salinas Grandes de Jujuy y Salta) 3000m級の青銅色の山波が続くなか何処までも続く石ころだらけのでこぼこの道 (原始の姿とどめた荒々しい断崖を縫うように続く石ころだらけの道)サボテンがにょきにょき大地から伸びパンパスグラスが冷たい乾いた秋の風にそよぐ道壮大な荒涼のパンパがどこまでも続く道 (Danjose夫妻がドライブした6人乗りRV車とガイドを兼ねた陽気な運転手さん。未舗装の高地の山岳道路の過酷なドライブツアーが続く。サボテンの合間を縫うように道は続く。)この荒々しい大地に何万年の命繋いで生きてきたリャマやビクーニャ(ビクーニャは大変用心深く、家畜化できない。今回20mほどの近距離までビクーニャが近づいてきた。これは、用心深いビクーニャにはありえないことと運転手さんが言っていました。とてもラッキーな距離で撮影できました。ビクーニャの毛は超希少で世界最高級。その毛で作られたストールは50万円もするそうだ。ビクーニャは「国際希少野生動植物」に指定され、捕獲制限されている。) 過酷な大自然に鍛えられ育まれたビクーニャ。その外界の過酷さと対照的な穏やかでやさしげなビクーニャ。 (リャマやビクーニャやアルパカのらくだ科の動物達が餌としている草・イチュ。どこまでも続く大平原に生える草が、乾いた明るい秋の陽光の下でそよぐ。)その過酷な道は天空へとつづく白と青あるのはただ風の音だけどこまでも続く真っ白な世界はてしなく続く静寂なんという広さ。212平方キロメートル、大阪市にほぼ匹敵する大きさ。標高は3450メートル。このような山岳高地にこのような巨大な塩の海がある。なんという不思議!(水分が蒸発して結晶になった塩)塩は40数億年も前地球に海が誕生したとき水のなかに溶け込んで存在した。その塩が40億年という膨大な時間の果てに3000mのこの高地に今存在している。その塩の旅の悠久を思う。その旅はどんなに過酷でどんなに壮大なドラマがあったことか。海は氷河期には干上がってその果てに激しい地殻変動や大陸間の大激突などなど繰り返した長い長い時間があるアンデスの山々は海底であった。何十億年経た今あるこの荒々しい岩肌この壮大な大地そしてこの荘厳な塩湖は今天空に浮かぶ大地にある。その悠久その永い道程を思うとき、古代インカ文明が栄えたのはわずか1万年前の時間。この星に海が誕生し、この大地が誕生した長き道程に比べれば一粒の米の小ささ現代の我々人類の歴史はさらに短い2000年の時間。砂粒ほどの短さ壮大な地球誕生のドラマにに思いをはせた時私たち人間は、自らを短い時間のなかに閉じ込めていることに気づく。自らを無限の時空へと解放する必要に気づく。人間の小ささを思う。ユバンキの初期の作品にA que le llaman distancia(人は何を距離と呼ぶのだろう?)というのがある。ユバンキが幼年期、青年期を育んだこの大地、この赤茶けた山々。この明るいまぶしい陽光。この乾いた透明な風。北アルゼンチンのこの大地がユバンキを悠久の時へと解き放つ。 (訳詞:Mr.Danjose) A que le llaman distancia ¿A qué le llaman distancia? 人は何を距離とよぶのだろう。Eso me habrán de explicar. 説明してもらいたいものだ。Sólo están lejos las cosas 自分の目でみられないものだけがQue no sabemos mirar. 遠くにあるのだ。Los caminos son caminos 道は大地の道であり、en la tierra y nada más. それ以外の何でもない。Las leguas desaparecen, 心が羽ばたいてくれれば、si el alma empieza a aletear. レグアは消えてしまう。 (注:legua=距離の単位・5572m)Hondo sentir, rumbo fijo, 深い理解、定まった方角。 corazón y claridad: 心と明るさ。si el mundo está dentro de uno, もし世界が人それぞれの内にあるのなら、¿afuera, por qué mirar? なぜ外を見ようとする。¡Qué cosas tiene la vida 人生に何がある。misteriosas por demás! 他人には謎だらけのもの。Uno está donde uno quiere, 人はみな望む場所にいる。muchas veces sin pensar. たいてい何も考えないで。Si los caminos son leguas 道が大地のレグアでen la tierra y nada mas, それ以外の何でもなければ、¿A que le llaman distancia? 人は何を距離と呼ぶのだろう。ユバンキの哲学的で、シンボリックな「道」を歌った歌をユバンキの歌声でどうぞ。 塩のお話地球の表面積の70%は海で覆われている。海水には約3%の濃度で塩が溶けている。45億年にも及ぶ長い地球の歴史の中で、塩は、塩湖や地下かん水、岩塩など、さまざまな姿に形を変えて、広い範囲に存在している。人類は、古代より生活に欠かせない重要な塩を得るために、さまざまな工夫をし、各地でさまざまな製塩法を生み出してきた。(塩湖の塩。蒸発して結晶している。水がなくなり島のようになった上で、天然スレートのみやげ物を売っているお店やさん。太陽の反射防止に覆面をしている店員さん)塩湖は、陸に閉じ込められた海水が岩塩に変化する途中の姿である。塩湖の蒸発、濃縮が進むと塩の結晶が出来始める。塩は人間にとって欠かせないもの。人間の体重の約70%は水分である。このうち3分の1が血液や胃液などの細胞外体液。塩はこの細胞外体液のなかに0.9%の割合で溶けている。塩は、水分の量を調節し、細胞と体液の圧力のつりあいを調整する。又筋肉の収縮を助け、血液や胃液の成分となってはたらくなど、人間の生命維持になくてはならない働きをしています。このような大切な塩、現代では取り過ぎで成人病の原因となっていますが、45億年も旅を続けて塩は、今ここにあることを思い馳せれば現代人は何と粗雑に塩のいのちを扱っているのでしょう。
2010.10.09
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北部アルゼンチン・フォルクロールを訪ねる旅(その2)秋の風渡るパンパ (サボテンの道、石ころだらけのどこまでも続く道)アタワルパ・ユパンキは北部アルゼンチンの乾いた風わたるパンパをどこまでも続いて行く道を、荒々しい赤茶けたアンデスの岩肌の山々の中を果てしなく続くでぼこの山道を、テーマのひとつにして歌っている。(トロ川。トロ渓谷沿いには、昔、銅鉱山の町が栄えた。今は廃坑。赤い山肌は鉱物の色)それは、ユバンキ自身の内にある、今は無き部族への望郷の念であり、滅び行くものへの愛惜が込められている。(インデイオの遺跡とサボテン) 何万年前へとたどる遥かなる道であり、壮大なる大地に生きた人々の怨念や哀しみや喜びさえもが言葉のなかに息づいている。(1万余年前のアンデス文明が栄えた頃より、リャマたちは、人々の暮らしの中でともにいた)そして、それは、今、そこにある道であり、未来へと続く道でもある。 荒々しい赤い岩肌、サボテンとパンパスグラス、その合間を縫って道は続く。それはインデイオたちも歩いた道。パンパスグラス 乾燥パンパに、乾いた透明な風が通り過ぎる。どこまでも続く平原にも冷たい秋風渡る。ユパンキが歌う道。それはCamino del Indioインディオの小道 (訳詞:Mr.Danjose)Caminito del indioSendero coya sembrao de piedras.Caminito del indioQue junta el valle con las estrellas. インディオの小道石ころだらけのコージャの小道 注:コージャ・地名 谷と星空を結ぶインディオの小道Caminito que anduvode sur a norte mi raza viejaantes que en la montañala Pachamama se ensombreciera.南から北へ、パチャママの神が山の中にお隠れになる前に、俺たちの祖先の部族が歩いた小道 (注:パチャママ・大地の女神)*Cantando en el cerro,llorando en el ríose agranda en la nochela pena del indio.El sol y la lunabesaron tus piedras,camino del indio.山で歌い、川で泣きインデイオの哀しみは夜に増す。インディオの小道よ、太陽と月、そしてこの俺の歌声がお前の石ころに口づけした。En la noche serranaLlora la quena su honda nostalgiay el caminito sabequien es la chola que el indio llama.山の夜、ケナが深い懐旧の情に泣く。 (注:ケナ・葦で作った縦笛)そして、インディオの小道は、旅行くインディオがどの娘を呼んでいるか知っている。Se levanta en el cerrola voz doliente de la bagualay el camino lamentaser el culpable de la distancia.山の中に、パグアラの哀しみの歌声響き (注:パグアラ・アルゼンチンの民謡)道は、そのはるかなる道程の罪深きを嘆く。インディオの小道よ。*Cantando en el cerro....以下繰り返しこの日本語訳詞はMr.Danjoseのものです。半生紀に及ぶ長き歳月、人生の折々に原語(スペイン語)で歌い続けたきた、Danjoseの思いが日本語に込められています。地味な日本語ですが、よく考えぬかれたとても良い訳詞だと私は思っています。どうぞ、ユバンキの深い歌声で、意味を味わってみて下さい。
2010.09.29
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北部アルゼンチンはアルゼンチン・フォルクローレのゆりかご (アンデス山麓に咲く・野のマーガレット) 今回で、「Danjoseの南米紀行」は10回を数えることとなりました。 チリやボリビアとの国境でもあるアルゼンチンの北部、最果ての高山地帯への旅の目的のひとつが、アルゼンチン・フォルクローレ発祥の地北部アルゼンチンを訪ねることでした。それは、Mr.Danjoseの青春へのノスタルジアへの旅でもあり、Mr.Danjoseが人生の節々で、喜びや哀しみを秘めて歌ってきた数々のフォルクローレが生まれた故郷への旅でもあります。そこには、その歌とともに歩んできたゆうに半生紀を越えるDanjoseのながい道があります。 Danjose夫妻が旅したのは以下のような地域です。 2010年 4月17日~19日の3日間、アンデス山麓の町サルタ(Salta)を中心にドライブツアーをしました。 1日目:添付地図のピンクのルート道中最高地点4170m。未舗装の大パンパ延々と走り、大塩湖へ。パンパではリャマやビクーニャ散見。植生はパンパスグラスとサボテン2日目:プルママルカからウマワカ渓谷からサルタへ プレインカ時代の遺跡。サボテン植物園。3日目:サルタからカファジャテ渓谷(地図の青ルート) 赤い岩石、奇岩の景色。平原はトウモロコシやタバコ畑。渓谷を抜けるとワインの産地 アルゼンチン・フォルクローレ音楽の巨匠:アタワルパ・ユパンキ(Atahualpa Yupannqui)は、父はケチュア系先住民(インデイオ)、母はバスク系移民(スペイン人)このような父母の血を受け継ぐユパンキは、北部アルゼンチンの自然、生活に深く根ざした作詞作曲をして、数々のフォルクローレを世に出した。その活動が反政府的とされ、1950年初頭にヨーロッパに亡命を余儀なくされた。その後アルゼンチンに帰国したが、後年再び生活拠点をヨーロッパに移し、死の直前まで、世界各地で演奏活動をした。フォルクローレのギタリスト、歌手、作家と多彩である。(1908年1・31生~1992年5・23没)メルセデス・ソーサ (Haydee Mercedes Sosa)アルゼンチン・フォルクロールの女性歌手。北西部トゥクマンで貧しい労働者の家庭に生まれる。1960年30歳ごろに歌手として世に出る。1970年、アルゼンチン史上の8人の女「アルヘンティーナの女(Mujeres argentinas)を歌ったアルバムを世にだし、フォルクローレ史上に不朽の名を成す。アルゼンチン軍事独裁政権下にあった1970年後半、ヨーロッパに亡命を余儀なくされた。1982年、民政に復帰後、彼女も帰国。フォルクローレの枠を超えて、広く、歌手活動をした。(1935年7・9生~2009年10・4没) これらのフォルクローレ歌手たちが歌っているアルゼンチン北部の自然、人間、町、村などを、直に触れ見る旅。それが、この北部アルゼンチン紀行です。 ユバンキが愛してやまない赤い山々 澄んだ風渡る大平原にのびやかにパンパの草食むリャマ 厳しい自然のなかに立つサボテンの群生 果てしなく続く大平原パンパはインカの昔から人々の暮らしを豊かにする作物の実る大地であった その大平原に生えるパンパス・グラスが風に騒ぐ 優しげな馬人々の暮らしをささえた馬たち牧畜はインカの時代から人々の暮らしの中心にあった。 アタウアルパ・ユパンキはこの壮大で厳しい自然を歌う吟遊詩人である。彼の奏でるギターと声は、この大地に染み入って、月や星や太陽や、草木にいのち与える。彼の哀愁に満ちた声、それでいてどこか深いエネルギーがふつふつと湧き上がる歌声には、冨士子婆も感動した。何よりもそのテンポ、スローな歌の流れは、この自然の大地の底から湧き出たものではないだろうか。 次の曲は、ユバンキの処女作「インディオの小径」である。ユバンキ歌うYouTubeを視聴して、アルゼンチン・フォルクロールを楽しんでみてください。 Camino del Indio 以後、数回に分けて、Danjoseの旅した北アルゼンチンの壮大な景観を楽しみたいと思います。そして、いつも傍らにはユバンキの歌があります。
2010.09.06
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アルゼンチンの富みの源泉豊かな農牧・農耕の平原・パンパ アルゼンチンの首都・ブェノスアイレスを中心に広がる平原は、19世紀までは、背の高いイネ科植物が一面に広がる草原であった。その木のない平原のことをパンパ(pampas)という。 (パンパスグラス:学名Cortaderia argentea イネ科の多年草。パンパに生える草なのでこの名がある。高さ1~3m、叢生し、雄大な株となる。花期9~10月。和名・白銀葦) そのパンパに 16世紀始め、スペイン人やって来て、原住民と抗争したが敗れた。その時、スペイン人たちが持ち込んだ牛馬が野生化し、急速にその数を増やした。なんと、1541年に放たれた12頭の馬がパンパの草をたべて自然に繁殖した。19世紀始めには、牛はラ・プラタ地域全体で2000万頭にも達したという。それを狩猟する職業が成立した。それがガウチョである。彼らは、野生の牛を捕獲し、皮を売ることで生計を立てていた。19世紀末、その原住民が討伐されてから、パンパは、ヨーロッパ人たちによる開発が進み広大な農耕地、牧場地帯に変化した。 現代では、もう、あまり見かけなくなったガウチョの暮らし、 そんなガウチョの暮らしぶりを今に見せてくれる観光牧場 (観光客を馬に乗せ、牧場内を歩く) ブエノスアイレスからバスで1時間半ぐらいにある観光牧場。ブエノスアイレスから1日のバスツアーで、色々な国(10カ国以上)からやって来た人々とガイチョの暮らしを楽しみました。 牧場でのアトラクション 、ガウチョが馬術を披露してくれました。 これは、全力疾走の馬上から、小さな輪を突き刺すという技です。 その馬術を漫画として描いたものが下の絵です。 草原を疾走して、狩をして暮らしていたガウチョたちのこれは、きっと馬術自慢を披露する娯楽だったのでしょう。人馬一体、その躍動感が、画面にあふれています。 この牧場で出された昼食・アサドアルゼンチンの焼肉料理です。 いかにも素朴な焼肉肉の旨みをそのままに食べることができる狩猟民族の料理そのままです。 肉といっしょにジャガイモも丸ごと焼いています。 この料理をワイン(アルゼンチンはワインの名産地でもある)といっしょに食しながら、フォルクローレ・ダンスショーを楽しみました。 観光牧場の周囲にはこんなやさしげな草花が秋の風にゆれて咲いていましたよ。 水辺に咲く花イヌタデ(Polygonaceae)類の仲間かな?日本の秋にも、湿地には草紅葉となるイヌタデが繁茂しているがアルゼンチンではこのような姿では? こんな可憐な花も水辺に咲いていた。日本のミゾソバにも似て。 朝、閉じていた花 午後、日が差すとこんなにも一面が、黄色の花園となりました。 これは、馬肥やしの花では?牧場の牧草として、はびこっている野の草ではないかしら。 そして、その湿地には甲高い声をあげて、水鳥が戯れていました。 19世紀まで、パンパスグラスが一面に生い茂る草原は、今は、湿潤な豊かな農耕地や牧場。アルゼンチンの富みの多くをを生み出すパンパ地帯。ヨーロッパ諸国や日本にも、小麦やトウモロコシ、牛肉などを輸出している。そんなパンパに生える草花たちは、以外にも、日本の湿潤な田や畑のあぜや沼地に生きる草花に似た野の花たちであるのを知って、ちょつと感動。 アルゼンチンは私にとっては、文字通り遠い国。地理の教科書レベルの知識しかない馴染みの無い国。しかし、Mr.Danjoseの写真のおかげで、かなり深い関心を持ち始めている。 ブエノスアイレス近郊のパンパに咲く野の花たちには親しみを覚えた。パンパが、世界の穀倉のひとつともいえる肥沃な土地であるとは。認識を新たにしたことである。 今、日本は猛暑、今までありえないような高温多雨。この気象異常は世界各地に起きており、南米のブラジルやアルゼンチも異常気象に見舞われている。今、寒波が猛威をふるっているという。南米各地で、寒波のため200名以上の死者が出ている。ボリビアでは降雪記録のない地域で雪が降り、チリでは、各地で吹雪により停電で交通が止まった。アルゼンチンでも、寒さで少なくとも14人が死亡し、ホームレスの人を屋内に収容するなどの対策に追われているという。ブラジルでは、寒さで家畜が2万7千頭が死に損害額は400万ドルに上るという。 インディアから奪い取り、開発されたパンパは、討伐軍の将校たちに分け与えられために、大農園エスタンシアが発生し、大地主と牧童として雇われたガウチョや小作人として入植した移民との間に、著しい貧富の格差が生まれ、このことがさまざまな社会問題を引き起こしてきた。今日においてもこの問題は引き継いでいる。中間層が形成されにくく、都市(ブノスアイレス)への人口の流入が極度であり、貧困による都市問題が極めて深刻な国でもある。 気象異変による寒波なども、このような貧困層を直撃していることであろう。
2010.08.18
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アルゼンチン・タンゴが生まれた街 「ボカ地区」カミニート (ボカ地区のカミニート。タンゴ発祥の地と言われている。派手なペンキ塗りの建物が特徴テラスからサッカーの英雄マラドーナの人形が手を振っています) アルゼンチン・タンゴと言えば、官能的で華麗、優美なダンスを真っ先に連想するが、アルゼンチンタンゴの源をたどれば、今から100年ほど前、19世紀末、アフリカから労働力として連れてこられた黒人やヨーロッパから移住してきた白人たちや原住民のインディオの人々がひしめき、雑然とより集まって来て、一夜を過ごす場末の港町(ボカ地区)カミニートで娼婦を相手に酔いどれ客や、ならず者たちがキターを伴奏に踊っていた。そのリズム、その曲がタンゴの原型であるという。 (場末の広場で踊る人たち。アルゼンチンタンゴに欠かせない楽器・バンドネオンを奏している。始めはギター演奏が主であったが、タンゴの主役楽器はこのバンドネオンに次第に移行していく。) 19世紀末のヴエノスアイレスは国際貿易港として栄えていた。広大なパンパ(平原)を持つ農業国アルゼンチン穀物や牛肉の輸出国として繁栄していた。港町の表の顔は、南米の「バリ」とまでいわれた華やかさ。きらびやかさ。一歩裏に入れば、世界で最もあやしげな貧民街この貧民街ボカ地区の混沌から生まれでたタンゴ 酔いどれやならず者たちが踊る下品な踊り、過酷な労働や貧しさから逃れるための憂さ晴らし このごった煮こそタンゴの源流であった。 そして、そのタンゴの今は華麗、豪華、官能的なダンス音楽として明るい力強いリズムのなかになにかしら哀しみを沈めて、アルゼンチン・タンゴとして知る人ぞ知る音楽である そのタンゴ発祥の地ヴエノスアイレスのカミニート地区今は秋明るい南国のブルーの空に咲く花遠目からはサクラと見まがうばかりに華やかに咲くパロ・ボラッチョ (Palo Borracho)「パロボラッチョ」とは「酔っぱらった樹」という意味 このタンゴの街に似つかわしく華やかで荒々しいパロ・ボラッチョ大木となって街のあちこちを華やかなピンクに染め上げている。 涼しい木陰をつくっている (和名:トックリキワタ、英名:Drunk tree。原産地、南米ブラジル~アルゼンチン。樹高は10~20m。熱帯落葉花木。花色はピンクから黄色。) 花をアップするとこんな派手なつくり。いかにも熱帯の花らしい。 このアップの花・幹・綿の写真は(大阪・咲くやこの花館熱帯花木室)から借用 果実がはじけると中には種子が綿で包まれている 幹は、徳利型に肥大しフジツボ状のトゲが多数つく。 こ の幹の状態から和名:トックリキワタ (徳利木綿) ヴエノスアイレスの街路樹のトックリキワタは 果実をもうこんなにつけていた。 (トックリキワタ 学名:Ceiba speciosa Ravenna パンヤ科セイバ属。直径15cmほどの実が割れると、綿にくるまれた種子が風に舞い散る。パンヤ科の「パンヤ」とはこの綿のこと。)果実の中は、長い綿状の繊維に包まれた種子が多数つまっている。 この綿状の繊維は、天然ひねりが無く、からまりにくいので布には適さないが、繊維が中空円筒状で軽いために柔らかで暖かい。その特徴を活かして、枕、クッション、ぬいぐるみ、救命胴衣などの詰め物として利用されている。 「 酔っぱらいの樹」パロボラッチョの木陰、商店の入り口で立っている人ディエゴ・マラドーナ (派手な建物の色。日本だったら品がない建物。アルゼンチンの明るい陽光とカオス的なカミニートの界隈ではこの色もしっくりと街にマッチして溶け込んでいる) 貧民からのし上がり、市民憧れの的マラドーナ。今はサッカーの英雄マラドーナ。波乱万丈、奔放に生きるマラドーナ。庶民のたくましい生命力を体現しているマラドーナ。まさに混沌と狂乱 空の青、海の青・国旗の色に塗られ建物のテラスから手をふっているのは、左・マラドーナ。中央・エビータ・ペロン。右・カルロス・ガルデル(タンゴ歌手)アルゼンチンの英雄たちである ヴエノスアイレスでは、絶大な人気のマラドーナその眉をひそめるようなやりたい放題のマラドーナもこの街では憎めぬ英雄、皆から愛されている マラドーナその人のお墨付きのそっくりさんが、アルゼンチンの代表ユニホームを着て写真モデルになって一儲けしている。それほどまでにマラドーナは街のあちこちに出没するのである。 南米はサッカーの国なのだ。 サッカー・ワールドカップ南アフリカ大会が現在開催中。2日からは準々決勝が始まり世界の8強が出揃った。なんとその中に南米はブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ、パラグアイと4カ国も勝ち残った。そして、あの破天荒なマラドーナは、何とアルゼンチンのチームを率いる監督なのである。選手よりも、監督の方が騒がれるチーム・アルゼンチン。Mr.Danjoseがアルゼンチンを旅していたとき、南米予選で格下のボリビアに6-1で大敗をし、大苦戦、辛うじて本大会行きの切符を手にしたアルゼンチン。マラドーナ監督の評判はすこぶる悪かったのである。「マラドーナは、足は速いが、頭はねぇ。。。?」と市民は陰口をささやいていたのである。前評判低かった、マラドーナ率いるアルゼンチン、何と準々決勝にまで勝ち上がってきたのである。準々決勝では、ドイツと3日に対戦する。吉と出るか凶とでるか。マラドーナは凱旋できるか。 だけど、マラドーナ率いるアルゼンチンはどんなサッカーするの?華麗な攻撃的なサッカーで勝ち上がるといいのだけれど。なんでもいいから勝てば官軍というのでは、さもしすぎるのでは。。後日談(2010/07/13記)マラドーラ率いるアルゼンチンは準々決勝でドイツに4-0で大敗。マラドーナは「監督としても選手としても気づいたが、国民はこのサッカーが好きなんだ。常にゴールを狙い、ボールを扱い、回す。アルゼンチンにはこれ以外のスタイルがあるとは思わない。」と又「10月30日で50歳になるが、一番つらい体験だ。現役引退した日にも似ているがもっとつらい。何の力も残っていない」太い眉毛をほとんど動かさず、息消沈のマラドーナであった。 結局、4強に残ったのは、南米はウルグアイ1国。スベイン、オランダ、ドイツとヨーロッパの国々であった。決勝戦はスペイン対オランダで延長戦の末、1-0でスペインが優勝。オシムさんが言っている美しく華麗なサッカーを追及しているチームが優勝したことは、喜ばしい。
2010.07.01
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懐かしい日本の野菜や果物並ぶサンパウロウの露天市場 フェィラ(Feira) 開店準備中のフェイラ フェイラは住宅街の道路に毎週決まった日にたつ市である。今回訪ねたのは、泊まったホテルの近くの道路に日曜日の午前中に立つた市である。 この写真のように欝蒼と生い茂る大木の街路樹、その木陰で果物や野菜を中心とした市がたつ(魚屋、肉屋なども少しはある) 南国の野菜がいっぱいの八百屋さん (手前のでっかい洋ナシ型の野菜はシュシュ。和名:隼人瓜。ウリ科の多年草。原産地;メキシコ南部から熱帯アメリカ地域。茎はつる性で10mを越すほど。果実の色は緑か黄白色。日本には1917年アメリカ経由で鹿児島に導入され、薩摩隼人にちなんでハヤトウリの名がある。日本では沖縄、鹿児島で栽培されている。日本では、未熟な果実を漬物、酢の物、甘煮、汁の実に。葉や若いつるは野菜として食べ、いもは食用や飼料に利用。つるで帽子や籠を編む。 ブラジルではポピュラーな野菜シュシュ(Chu chu)どんどん伸びて、繁茂し、果実を実らす生命力旺盛な南国のウリ。ウリ科の野菜は利尿作用が高い。ヘルシーフードとして人気の野菜シュシュ、ブラジルではスープやグラタンにしたり、旬などにはサラダなどにして生で食べる。 でも、日本と同じ種類の野菜も、たくさんあるよ。 見事な陳列・ カリフラワー、ブロッコリー奥には白菜もある。日本でもお馴染み、見慣れた野菜たち。 レタスもいっぱい並んでいるよ。 しいたけ、新ショウガ、日本のナスやキュウリうどん、焼きソバまであるよ。 (日系人の八百屋さんの店頭。日本と同じ食材が並べられている) 南国の果物に混ざって日本の果物・柿(富有柿)も完熟したの並んでいる。 「Fuyu」という立て札がついている完熟した甘い富有柿山と盛られて並んでいる 日本では若者たちは柿は甘すぎて嫌いと言って食べない「柿」農家は売れなくて年々縮小、息絶え絶えの柿畑け。 ブラジルで、柿はこんなに盛んに栽培され、売られているとは。 日本のミカンもほら、こんなに店頭に並んでいるよ。 見事!等脚台形にきれいに積み上げて並べてあるみかん。これらの野菜果物の値段は フェイラの小売値段(1レアル50円)ポンカン1ダース 4.00レアル(200円)熟柿(1皿)8個 5.00レアル(250円)・富有柿3個 5.00レアル(250円)桃1kg 10.00レアル(500円)ブロッコリ1個 4.00レアル(200円)・パブリカ 1山(2.50レアル)果物の種類の多さもさることながら、量が多くてこの値段。これらの野菜、果物は、日系移民者の長期にわたる労苦の果てにブラジルに定着したものが多い。日系移民者たちが作り上げたブラジルの農作物 ジャガイモやレタス、トマトやニンニクなど、現在ブラジルで栽培されている野菜や果物などの多くは、コーヒー価格の暴落を受けて農作物の転換を進めた日本人移民がブラジルに持ち込み、品j種改良などを通してブラジルの赤土での栽培に成功したものである。 フェイラの店頭に並べられた野菜や果物はこのような日系移民者の労苦の結晶なのである。 日本人のブラジルへの農業移民の歴史は 1908年4月28日に781人の日本人が東洋汽船「笠戸丸」で神戸港を出港し、シンガポールや南アフリカを経由して、6月18日にサンパウロ州のサントス港に到着したのに始まる。それ以後100余年、住環境や労働の過酷さのなかで、命をかけて今日を築いてきた移民者たちの歴史がある。その厳しい移民の歴史のなかで、日系移民者たちは、「開拓者魂」を発揮して、農業上のさまざまな改革、改良を加えながら、「農業の神さま」と呼ばれるような地位を確保して今日に至っている。 果実生産も経済協力を契機に近年盛んになっており、南部のサンタ・カタリーナ州におけるリンゴ栽培の協力などその例である。 柿やみかんなど、日本よりも豊富に出回っていたり、日本人学校にミカンや柿、枇杷などの樹木が植えられていることに、違和感を持っていたが、このように日系移民者の祖先の汗と血の結晶としてあるのだとわかり、感銘を受けた。サンパウロに日本の食材があふれているのも頷ける。まさに、ブラジルは遠くて近い国である。 80年前にブラジルに羽ばたいた青年のお話。(Mr.Danjoseの叔父さんが歩いた道)1924年(大正13年)、ブラジル移民が開始されてから16年後、17歳の青年が単身ブラジルに渡りました。その青年が、日本の実家に送った手紙があります。初めて見る外国に心躍らせ、好奇に満ちた目で、ブラジルへの航路の出来事を綴っています。希望に満ちた少年らしい初々しい手紙です。その青年がブラジルに渡って、2年後には日本の長兄に次のように便りしています。(原文のまま。漢字、仮名は現代表記にした)「日の出から日の暮れまで無念無想。ただひたすらに鍬を振るっている姿を想い出して下さい。そこは原始林を切りとって焼いた大木のころがっているざっくばらんな畠です。太陽は強い。暑い。汗が流れる。さて、日が暮れて家に帰る。飯をくう。身を洗う。しかして夜は成すこともない。本でも読もうか。本はなし。言葉の勉強。それも物憂し。手紙を書こうか。書く用もなし。ああ何も無い。しかしそうした無聊(ぶりょう)にくるしめられ乍(なが)ら、先に光明をみとめ、苦ろうに打ち勝つべくつとめはげんでいます。」その後、続けて、日本人とヨーロッパ系移民のメンタリティーの違いについて、次のように綴っている。「総じて日本人はあわてる気味がどこへ行ってもぬけない様ですね。今はいい生活をしている外人自身も南米に来た最初9年間は珈琲園のコロノ(小作人)をやり、そしてわずかばかりの金を得て少しばかりの土地を買い、それに珈琲を植え、四五年木になった所で売り、そして少しずつ大きくして来たのだと言う。」ブラジルでの生活が、満2年を経たころ、彼は4年間のコーヒー園小作契約を結んだ。その目論見を詳細に書き送ってきている。「初年目・・全部に米を植えて千本の珈琲の間に普通五〇俵とれるものとす。一万五千本ですから、七百五十俵。この価一俵普通二十ミルレースとす」この後、4年目までの細かい生産計画と収支計算が続いている。この青年は、10年目にして、農地を取得して、自作農として独立。しかし、第2次世界大戦中、ブラジルは連合国として参戦したために、日本と国交を断絶。ブラジル政府により、奥地に強制移住させられ、消息が絶えた。昭和55年にようやく存命が確認されたが、数年後80歳近くで他界。 17歳で日本を発ち、世界に羽ばたいたこの青年の苦難の連続の生涯は、時代に大きく制約され、翻弄されながらも、少年の夢を実現したスケールの大きな満ち足りた一生であった。ブラジルには、このような日本人たちの移民者としての歩いた道が無数にある。そして、その果てに今がある。
2010.06.23
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Danjoseの南米紀行(その6)色鮮やかトロピカルフルーツの溢れるメルカード・ムニシバル 美術館かはたまた大都市のターミナル駅舎かと紛うほど、この重厚な建造物は、何と、市営市場(メルカード・ムニシバル) メルカード(Mercado)のこの建造物は20世紀初頭に建てられた。この立派な市営市場は観光スポットにもなっている。 高い天井、中二階にはレストランやカフェテリアがあり (朝の10時のカフェ、早朝のためか客はまばら。) そして窓辺にはこんなに立派なステンドグラス 食品を売り買いする市場には不釣合いと思える立派な建造物なのである。しかし、ご覧の通り色々な店が所狭しと立ち並ぶ市場である。 パン屋さん ハムをパン生地に巻いて焼いたものパン・パオリターノ (売り子のおばさんにパンの名前を聞けども、発音聞き取りにくく、紙に書いて欲しいと頼む。 「えっ、私が書くの?」と言って、同僚のところに行き、書いてもらっていました。サンパロウの庶民の識字率は低いのかな?)パンというよりハムというに似つかわしいパン日本人や年寄りには、ちょっとしつこすぎるかなと思えるパン・パオリターノ。いかにも南国らしいパンですね。 肉屋さん 肉屋さんの看板「Porco Feliz」は「幸せの豚」という意味。めぐりめぐって人さまの血や肉となる「豚さん」ほんとうに幸せかな?お国違えば、看板の文字もこうなるとは... 酒屋さん 酒屋さんには、何と「寿司セット」が売っていました。サンパウロでも最近、日本の寿司人気が上がっており「テマキリーア」(手巻き寿司屋)が数軒できているそうです。 色鮮やか、多種多様な熱帯、亜熱帯の果物溢れるメルカードの果物屋さん 色鮮やか、目くるめく豊穣。いかにも南国の市場らしい果物屋さん温帯から亜熱帯、熱帯に実る果物が豊富に店頭に並ぶメルカードの果物屋 どんな果物が並んでいるかな?ちょっと覗いて見ると、1)リュウガン(龍眼・Longan) ;原産・地中国南部。タイ国が最大の輸出国丸く茶褐色の果実。果肉はブドウに似た白い果汁の多いゼリー状。2)ルクマ(Lucuma) ;ペルーの果物。豊穣の実としてインカ時代の神話に登場。アイスクリーム、ヨーグルト、ムースなどデザートに好んで用いられる。皮は緑、熟すと茶色。果肉は黄色でクリの風味。3)パションフルーツ(Granadilla);花はトケイソウとして、日本でも最近、家庭園芸で時々フェンスに登らせ栽培しているのをみかける。実もついていました。4)マンゴスティン(Mangosteen) 東南アジア原産。皮は熟すにつれて、淡黄緑からピンクから濃赤紫に。果肉は程よい酸味、ジューシーな味わい。世界三大美果のひとつ。5)チェリモヤ(Cherimoya)原産地ペルーやエクアドル。語源は「冷たい乳房」、果実は女性の乳房を連想させる。「森のアイスクリーム」に例えられる。6)ドラゴンフルーツ(Pitaya)メキシコ、中南米原産。サボテン科に属する。果皮は鮮やかな赤で、サボテンを連想させる棘がる。7)グアバ(Guava) 和名;蕃石榴カリブ海沿岸、中央アメリカ、南アメリカ北部、東南アジアに自生。 熱帯地方では食用として栽培。8)柿 9)洋梨 10)りんご11)クプアスー(Cupuassu)主産地・アマゾン。「ココア」と同属。アマゾンの多種多様な果物の王様。片手で持てるほどの大きさの硬い殻に覆われた茶色の果物。タネはホワイトチョコレートの原料になる。12)グアナバナ見た目も味もクプアスーにそっくり。ラグビーボールのような緑色のごつごつした外見。果肉は真っ白でとてもクリーミーで「森のカスタードアイス」と言われている。 13)スターフルーツ(和名;五歛子ゴレイシ)原産地:熱帯アジア。熟するにつれ果実は緑から黄色に。断面が☆の形。サラダやケーキなどの飾りに使う。14)スイカ 15)パパイヤ(原産地中南米)上の果物陳列棚には、このように15種類もの果物が並んでいます。 それら以外にこの写真には、16)イチゴ 17)ビワ18)サポジラ(Sapodilla)新大陸の熱帯域に分布する常緑高木。和名:チューインガムノキメキシコ原産。スペインによる植民地に伴いフイリッピンに移入。樹皮にチューインガムの原料になるチクルというものが含まれる。果実は4~8cmの球形。果肉は茶色あるいは浅黄色。味は甘く美味。キャラメルや綿菓子の風味。 マンゴー・マンゴスチン・チェリモヤは世界三大美果といわれている。 まさに、このサンパウロのメルカードの果物屋さんには熱帯、亜熱帯域に産する果物のすべてがあり壮観。熱帯の強烈な生命力・恵みを果実のなかに結実して、あの南国のねっとりとした濃い味。独特の香り。その中に秘めた強烈なエネルギーまぶしすぎる果物たち。自然の微妙な栄養素をそのなかに豊かに蓄えて妙なる生気、妙なる薬効までを内に秘めた熱帯の果物たち デザートにお菓子にサラダに人々の暮らしを潤しているサンパウロに咲く花々もそうでしたが、果物はさらに南国らしく強烈なエネルギーがあふれていますね。 次回7回目はサンパウロの露天市場・フェイラ。 この市に並ぶ野菜たちは、日系ブラジル人たちの困苦や努力や忍耐の結果として今にあるものが多々あります。ぞうぞご期待ください。
2010.06.19
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バンディランテスに込められるサンパウロウの歴史(Danjoseの南米紀行 その5) サンパウロ市サンパウロ市は人口約1100万人(2008年)を持ち市街地には高層ビルが林立し、郊外には多くの工場が立ち並ぶ文字通りブラジル最大の都市であると共に南半球最大の都市である。南半球の経済、文化の中心地である。(サンパウロ市の2008年のGDPは3880億ドル、世界10位) ホテルの24階からサンパウロ市街を眺望 写真手前にある緑地帯がイビラプエラ公園イビラプエラ公園は(Ibirapuera Park)ニューヨークのセントラルパークにも匹敵するような大都会にあって、市民の憩いの場である公園。さまざまな催事をおこなうコンベンションセンターや美術館、体育館、プラネタリウムなどなど、各種の文化施設を備えている 140ヘクタールに及ぶ広大な公園 熱帯、亜熱帯の大樹が欝蒼と茂る公園 ゴムの木のこの巨大さ熱帯の旺盛な生命活動を象徴するかのような壮大なゴムの木が公園のなかに鎮座するいかにも熱帯地域の公園らしい景色 欝蒼と茂る木立のなかに優しげに咲くクワレズメイラブラジルのノボタン その公園のなかをウォーキングやジョキングする市民たち 生い茂る樹木の香気浴び、、オゾンいっぱいの空気吸って森林浴市民たちの文字通り大都会のなかのオアシスイビラプエラ公園 林立するビル群を背に広がる池水鳥が三々五々と泳いでいる欝蒼と暗い大樹に囲まれて明るく広がる空間南国の太陽がまぶしい 黒鳥も池辺でゆったりと戯れる 公園入り口のすぐ前にあるバンデイラス記念像(The Monument to the Bandeiras) (彫刻家Victor Brecheretによる石像) バンデイラス(Bandeiras)とは、17世紀中頃、ポルトガルの植民地時代にパウリスタス(Paulistas)として知られるサンパウロ市民たちによってなされた奥地探検のことである。その探検隊のことをバンディランテス(Bandeirantes)という。彼らは、サンパウロを拠点として、16世紀末に、未開の奥地に進み、原住民を奴隷として捕らえ、労働力として売った。更に、その後、17世紀半ばからは、金銀などの鉱脈を見つけるために更に奥地に進み、自らの富みの源泉とした。バンディランテスが、未開の奥地を切り開き、農業や牧畜の基盤を開拓したことが、現在のブラジル開拓の最も初期の歴史である。バンディランテスは、その意味でサンパウロの現在の歴史を築いた先駆者たちなのである。その探検者たちの石像が公園の入り口に鎮座している。観光客たちは、その像の上に乗り、記念撮影をしている。 葵ちゃんも、その石像に乗って記念撮影。大きくなったら、このサンパウロの歴史を勉強してね。その探検者たちの労苦は並々ならぬものだったに違いない。その勇気には感心するけれど、原住民を奴隷にするために、奥の未開地に遠征したのには、ちょっと胸が傷む。奥地で飢えと闘い自己防衛するための作物栽培や畜産の開拓があり、其れが後の農業開拓基盤にもなったが、当時は、あくまでこれは付随的なもの、主なる目的は奴隷狩り。原住民は奴隷として売られたが、沿岸の町では適応できず、病気で死んだりした者が多かった。1500年に250万人ほどいた原住民は、奴隷狩りにより18世紀半ばには100~150万人にまで減少したという。奴隷が手に入り難くなったら、アフリカから輸入して補充したという。原住民が30~40ドルで売買されたとすればアフリカ奴隷は、100~500ドルだったという。この金額の差は、もちろん原住民を奴隷としたバンディランテスの富となる。 このような、歴史を刻んだバンディランテス その勇ましい石像をバックにして若者たちがサンパの音楽を騒々しく奏でています。 サンバを奏でる若者たちよ、その調べにその音に奴隷としてアフリカからブラジルにやって来た君たちの祖先の怨念が、深い悲しみが、激しいリズムのなかに鎮静していること知っているか。 サンパウロは日本と遠くて近い国であると改めて感じている。私の地域(東海)は、ブラジルから出稼ぎに来ているブラジル人が多い。私の町の隣の市など、団地ごとブラジル人になっており、その小学校など7割がたブラジル人の子どもなどというのは、珍しくないのである。私の実家の町でも、アパートごとブラジル人に貸していたり、その近辺では夜な夜な、たむろして大声で話しをしたりするブラジル人と、何かにつけ、日本人と対立したりしている。不景気といえば、真っ先に解雇されるのも彼らである。移民の子として、まっとうな教育も受けること困難な者も多く貧困の再生産になっている。 しかし、サンパウロはこんなにも繁栄している。世界の大都会の1つであるとは驚いた。なぜ、日本に出稼ぎにこなくてはならないのだろう。サンパウロウの繁栄の富はどこに行っているのだろう。高度に発達した資本主義の社会が一方で貧困層を大量に生み出し、その格差は益々広がっているのが21世紀であると改めて世界規模で認識した。そして、その出発地点はバンデイランテスの奥地遠征であることも忘れてはなるまい。奴隷狩りの精神は、様相こそ変われども現代のなかにも脈打っている流れなのではないか。次回6回目は、サンパウロウの野菜や果物を売る市:メルカード&フェィラについて書きます。日本との深い関りが益々明らかになるはずです。お楽しみに。
2010.06.07
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サンパウロに咲く花(その3)クワレズメイラ(Quaresmeira) ノボタン科(Malastomataceae)にぞくする3分の2の種類が亜熱帯、熱帯地域に分布している。その種類は4500種にもなるという。ブラジルの大西洋沿岸の好樹林帯地域にのみ繁茂してその花が満開の時期には、森を街を壮大で華やかな景観にするブラジルのノボタンクワレズメイラ 明るい灼熱の太陽と激しい降雨光りと水を一杯浴びて華やかにな紫やピンクの饗宴となる5月の街 ブラジル最大の都市サンパウロ 世界中の大企業や金融機関が集中し、南アメリカの経済・流通の心臓部とも言うべきパウリスタ大通り、その街の近代的な高層ビル群と競うように高く聳えるクワレズメイラの街路樹50mぐらいの高さに伸びて天に向かって華やぐクワレズメイラ 濃いみどり色をしたビロードのような葉っぱ。平行に走る縦縞の葉脈。その柔らかなみどりの中から湧き上がるように咲く淡い紫色の花(集散花序) アップするとこんな花 この花蘂の豪華さ鎌状に曲がったおしべ葯の濃い紫は淡い紫色の花びらのアクセントとなり熱帯の花らしいダイナミックさをかもしだしている クワレズメイラの豪華な紫やピンクに染まる街サンパウロの秋 大樹が茂る公園のなかのクワレズメイラこのような木立にもなる若木からの剪定により樹形を低木に保つことも出来る。 サンパウロの街の中心地にある「東洋人街」リベルダージ(Liberdade)に咲くクワレズメイラ (画面右側の街路樹はクワレズメイラ。紫色の花をつけている) 元々は「日本人街」と呼ばれていたこの界隈。この街の入り口には鳥居や大阪橋がありすずらんの形をした街灯が立ち並ぶ通り。故郷への郷愁を誘ったであろう懐かしい日本の風景。(日本の田舎の町の中心部には、必ずと言っていいほどすずらん通りというのがあり、こんな街灯がついていた。) 日系移民たちが多く暮らしていたこの界隈は今では、中国人、韓国人が多く移民して、日本人の人口は減少傾向にあるという。2004年には名前も「東洋人街」に変更された。 この街の通りの街路樹のクワレズメイラも紫色の花をつけていた。 クワレズメイラと同じ仲間であるが別種の花「クワレズマの花」とか「5月の花」とかという呼び名をもっている花。(キリストの復活祭の前「四旬節」のころに咲く花というぐらいの意味か。)その花の色が白からピンク、ピンクから紫へと変わる花 マナカ デ セハ(manaca de serra) 色が変化していく以外はクワレズメイラとほぼ同じ花花を咲かせる時期が11月から2月ごろとサンパウロの夏に咲く花である この花も市民たちはクワレズメイラの名で親しんでいる クワレズメイラ(Quaresmeira)学名:Tibouchina granulosaノボタン科(Melastomataceae)、Tibouchina属熱帯、亜熱帯の好雨林地に生える。ブラジル原産。ブラジル大西洋沿岸傾斜地に分布。リオデジャネイロ、サンパウロ、フロリダの一部にも分布。常緑で低木から高木まであり、剪定により柔軟に姿を変える。(3m~60m)花は年中咲くが、特に満開は5月から1月である。花の色は紫とピンクの2色。英名:Purple Glory Tree 紫とピンクの競演するクワレズメイラ満開の頃のサンパウロの街 ビルの林立する街路樹も鮮やかに華やぐ (Danjoseの撮影した4月始めは、満開に少し早かったので、上の2枚はウキペデアからの写真を借 用した) 同じTibouchinaに属して別種類の花。Manaca de serra学名:Tibouchina mutabilis。花期11月から2月。2次遷移のみで発生し、、そこで優先種となる。別名:Cuipeuna、Jacatirao、flor de maio(5月の花)、Flor de quaresma(4旬節の花)などサンパウロの市民がクワレズメイラという名で親しんでいる花は、調べる中で、上記のような2種類のTibouchina属に属する別種の花があることが分かりました。結局、サンパウロの街は、花期からみればこの花のどちらかが年中咲いていることになるのでは。色が変化していく方のTibouchinaは「5月の花」とか「4旬節の花」という別名があり、こちらが「4旬節」に文字通り咲く花。紫とピンクの2色の花を咲かせるクワレズメイラは、「4旬節に咲く花:flor de quaresma」もどきという意味のようですが正確なことはわかりません。(間違っておれば教えて下さい) Mr.Danjoseによればquaresmaは「4旬節」という意味。quaresmeiraの「meira」はもどきぐらいの意味とのことです。(ポルトガル語) Tibouchina属の「Tibouchina」 は、発音「tibu:kain」で意味はGuianaという国のことばで、「これらのshrubs」のことだそうです。 日本にはこれに類似する花はないので、花の名前からイメージしにくい熱帯地方の花たちです。でも、灼熱の太陽のもと、この花たちが満々と咲き競うさまはきっと壮観ですね。いのちの爆発です。
2010.06.01
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サンパウロ日本人学校に咲く花々(その2) 古株にならないと花が咲かない暖地でないと花が咲かないなどの理由から、日本では戸外ではほぼ見かけることの無いアロエの花サンパウロウの日本人学校の校庭にはこんなに立派に美しい花が咲いていました キダチアロエの花 (学名:Aloe ユリ科の多年生多肉植物。アフリカ東部・南部に特産し、約180種ある)アロエはアラビア語のAlloch(アロッホ)に由来し、古くから下剤として利用されていた。古代ギリシャでは重要な輸入品。古代インドでも葉汁を乾燥させて、黒色の固い塊にして商品としていた。紀元前からエジプト・ギリシャ・ローマでは栽培され、民間薬として広く利用されていた。ユッカのようなロゼット状の葉っぱの真ん中から象の鼻のような花茎伸ばす リュウゼツラン(龍舌蘭) (学名:Yucca elephantipes Hort. リュウゼツラン科(Agavaceae)ユッカ属。単子葉植物で葉は厚く繊維質。多年草でアメリカメキシコの乾燥地や熱帯の森林に生える。狭義のリュウゼツランはアオノリュウゼツラン(A.americana L.var.narginata Trel.)のことで、アガベ属に属し子房が上位にあり、10年以上経ると開花に至り、開花後株は枯死、花茎は5~8mに達する。写真のリュウゼツランは、このアガベ属とは少し異なるユッカ属に属している)学名がYucaca elephantipesとあるように、花茎がまさに象の鼻のよう。どんどん天空に向かって伸び、弓なりになって空から垂れ下がる。花茎は7~8mにもなる。その後、写真(下)のような花を咲かせ実をつける。 サンパウロ日本人学校のHPの植物図鑑から借用したリュウゼツランの花と実 リュウゼツランの花 天高く伸びた像の鼻のような茎に花を咲かせているその花茎の壮大さは平屋の屋根をはるかに越え天に伸びて垂れ下がる (右の写真)天空から垂れてなる実まさに象の鼻 いかにも南国らしいダイナミックさ リュウゼツランの仲間の植物は、熱帯地方では、先史時代から、その花は食用にされたと言う。強い繊維質を持つ茎は糸にして布に、葉先の鋭い棘は針にと、リュウゼツラン類は、原産地では人間の衣食に深く結びついて、長い歳月を生きて今にある。 黄金のキャンドルのような苞パキスタキスルテア (学名:Pachystachys lutea キツネノゴマ科パキスタキス属の常緑低木又は草本。原産地メキシコからペルー、熱帯アメリカに5種分布する。和名;ウコンサンゴバナ、英名;Golden Candle) 学名のPachystachysはギリシャ語でPachy(パキ)は厚いstachys(スタキス)は穂の意味で茎の頂に長さ8~12cmの穂状花序の苞の姿を表している。 黄色いロウソクのようなものは花ではなく苞 幾重にも黄色の苞が重なり苞から白い舌のような花を咲かせる。花は短命だが苞は長期間美しい。まろやか味、ブラジルコーヒーそのコーヒーの原料となる木コーヒーノキ (学名:Cffea アカネ科コヒア属 の常緑樹。エチオピア原産。北緯25度から南緯25度までの熱帯で、年間降水量1500mm以上の地域で栽培される。収穫は開花後8~9ヶ月後にするが、通常は5年後から始め、20年ぐらいで更新する。) 飲み物コーヒーの歴史は古い。原産地エチオピアに始まり、アラビアに伝播、9世紀にはペルシアからイラク、シリアに栽培が広まっている。ヨーロッパのコーヒー嗜好の歴史は浅く、300年余りという。 ブラジルのコーヒーは、ベルギー人の僧モークによってもたらされ、ブラジル北部マラニョン州からリオ・デ・ジャネイロの寺院に植えられ、信者の組織を通じて栽培が拡大されたという。18世紀末には、プランテーションによる本格的商業生産が行なわれ、今日では、世界最大の生産量を誇っている。 コーヒーの花白い芳香のある花を密につける。熱帯では年中、温帯では晩夏から秋に咲く コーヒーの実 赤く色づき始めたコーヒーの実この実の中に2個の種子が入っており、実を乾燥させて、果肉を取り除いた種子がコーヒー豆である 日本人学校の庭には、日本の果物・ミカン園まである亜熱帯の気候のなかでも日本のみかんはこんなにたわわに実っていました そして、日本のツツジの花までも咲いていました サンパウロでは、今、夏から秋へ向かう気候であるのにツツジが咲いていますその土地に順応してたくましく生きている日本のツツジです。(日本でも私の地方では、近年秋でもツツジが咲いているの見かけます。異常気温のせいかも) 熱帯、亜熱帯地方ではお馴染みのハイビスカス (学名:Hibiscus アオイ科フヨウ属の総称。世界の熱帯、亜熱帯、温帯に広く分布。約200種。食用、織物用、観賞用などと栽培されている) 夏の盛りには、もっとにぎやかに盛りと咲き競っていたことでしょう。 マカオの1月にもマカオの街のあちこちに盛りと咲いていた頷き姫芙蓉 日本人学校の庭にも、明るい秋の陽に照り映えて咲いていました。日本では温室の観葉植物として見る花々が、野に生きる姿で見るとダイナミックで力強いエネルギーに満ちていますね。
2010.05.27
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サンパウロ日本人学校に咲いていた花々(その1の1)サンパウロ日本人学校は郊外の標高730mの丘に約12万平方メートルという広大な敷地のなかにある。その校内には、熱帯、亜熱帯の植物から日本の植物まで多様な植栽がなされ管理されている。、この広大な学内に咲いていた花や実っていた実、4月の初めの学校の庭に(ブラジルでは気候は冬へと向かう秋)咲いていた花々はカエンボク、ハナキリン、ハイビスカス、頷き姫芙蓉、パキスタキスルテア、アロエ、リュウゼツラン、ツツジ、コーヒーの実、柿の実、ミカンの実など。ここではこれらの草木を2回に分けて紹介します。 「火焔樹」燃える ヤシの木、生い茂る校庭。赤い実を実らせた こんな校庭に実を啄ばみに来た鳥たち 左から順に、 オオハシ(?)かな、オウム、ハチドリ、チョウ(左下の褐色の鳥はキーウィではないかな?)壁画のなかの動物たちは校庭の自然と全く違和観なくとけあっている。これは、この学校の子供たちが描いた壁画(子供たちの絵は楽しく素晴らしい)ハチドリは花の蜜もとめて今にも飛び出そうとしている。多くのハチドリの大切な吸蜜源でもある花焔のように赤く燃える花を咲かせるカエンボク(火焔木)が咲いていた(スバトデァ:学名Spathodea campanlata ノウゼンカズラ科スパトデァ属。西アフリカ原産。和名・火焔木。高さ12~25mの常緑高木。7~8cmのオレンジ色の釣鐘形の花を枝先に多数咲かせる。英名:African tulip tree和名:カエンボクジャカラダ・ホウオウボクとこのカエンボクは世界三大花木である。)天に向かって赤く燃える花乾いた熱い太陽をあびて赤く燃える火焔木作家・大岡昇平は一兵卒としてフィリッピンに上陸し、火焔樹の花燃える光景を目の当たりにしてその強烈ないのちの氾濫に深く感動している。大岡昇平は「俘虜記」のなかで、「死」と毎日直面し、自らも「死」の観念とたえず格闘しながら「・・・フィリッピンの原色の朝焼け夕焼け、ヤシや火焔樹は私を狂気させた。至る所に死の影を見ながら、私はこの植物が動物を圧倒している熱帯の風物を目でむさぼった。私は死の前にこうした生の氾濫を見せてくれる運命に感謝した。...」と、火焔樹の風景を書いている。さまざまな思いが花に託される。強烈な個性の花火焔樹花への思い入れは現代も変わらない。華やかな花(花はやや上向きに咲くため、花の内部に雨や露が溜まりそこに多くの鳥やコウモリが引き寄せられ花粉を媒介。受粉後にはサヤを形成し、中から種子がこぼれ、風を受けて散布される。繁殖力旺盛で強靭に生育する多産な植物。写真の茶色のはサヤ) アップするとこんな花日本のじりじり照りつける真夏の陽の下で咲くノウゼンカズラにも似た花熱帯に咲く花だけあって日本のノウゼンカズラよりさらに花びらはダイナミックで色は鮮やか。 いのち氾濫する熱帯を代表する生命力旺盛な強靭な樹木カエンボク原産地では種子を食用、木材を製紙、樹皮、花、葉は薬用にと利用され、人々の暮らしのなか深くいり込んで長い年月をいのち繋いできた。しかし現代では、世界の熱帯域に街路樹や庭木、観賞目的と広く多様に利用されている。そのグローバル化はその土地固有の種を侵略し、生態系を乱すとして、世界の侵略的外来種ワースト100のひとつになっているという。日本でも沖縄や小笠原諸島で庭木として植栽されているが、野生化を警戒して、外来生物法の要注意外来生物リストに掲載されているという。乾燥した大地からひゅるひゅると伸びて咲くハナキリン (学名:Euphorbia milii 灯台草科の低木多肉植物。マダガスカル島原産。葉の基部に托葉の変形した一対のトゲはあり、葉は古くなると落葉。写真のように背骨のように伸びている茎は葉が古くなり落葉した後の形)学名のEuphorbiaは、ローマ時代のアフリカのモーリタニア王の侍医Euphorbusがこの植物の乳液を始めて薬に使ったことに由来。この学名の由来からもわかるように数千年前から、人々の暮らしの中で生き続けてきた植物なのである自生しているハナキリンはなんと伸びやかなんと力強いことか冬や乾期の休眠期には、完全に葉は落葉するが、活動期には写真に見られような楕円形の葉を茂らせる。その葉の腋から紅色の複合散形花序が出ている。1個の花のように見えるが、一つの花序で花弁ではなく花弁状にみえるのは包葉。春から秋にかけてこのような紅いろの花を咲かせる。 柿の実なる日本人学校 校庭にはなんと日本の柿の木が生い茂っている 日本の柿の木に比べると葉が盛んに生育している。ジャングル状に葉っぱが茂っている。 そして柿の実はもうこんなに赤く熟している 新学期の始まる4月に柿実るサンパロウどんな味の柿かな甘いかな渋いかな 日本の子供たちは今では柿の木に実る柿をみたことがない子が多い中地球の真反対の地・サンパウロでは柿実る校庭があるとは素晴らしいうらやましい
2010.05.18
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Mr&Mrs Danjoseの南米の旅サンパウロは今・秋 (ブラジルを代表する農業・コーヒー園。今、秋のブラジルではコーヒーの実が熟しはじめています。)Danjose夫妻は2010年4月9日~5月1日、ほぼ1ヶ月間ブラジルからアルゼンチン、ニューヨークへの旅を楽しみました。この旅行期間にMr.Danjoseが撮影した写真を「Danjoseの南米の旅」と題して順次アップして行きます。どんなハプニングが起きるかお楽しみに。 葵ちゃん1年生になる 日本とは対蹠地にあるブラジル・サンパウロウにパパのお仕事のため生活している葵ちゃん。Mr.Danjoseのお孫さん・葵ちゃん1年生になりました。サンパウロ日本人学校の入学式に列席したDanjose夫妻わが子とは又別のうれしさ一杯の旅の始まりです。Danjose夫妻自身も、ご自身のお子たちを海外の日本人学校で育ててきましたので、そのお孫さんが、再び海外で1年生となりその入学式に参加できる喜び・感慨は深いものあります。葵ちゃん1年生おめでとう (ピカピカのランドセル背負って1年生) サンパロウ日本人学校は標高730mの小高い丘に12万平方メートル広大な敷地の中にある 入学式が終わり教室に移動するのにもヤシの木々が生い茂るなか明るい太陽さんさんと降り注ぎ、草丈も高い秋の校庭をお友達やパパ、ママ たちがてくてく歩いて移動しています 1年生の教室です。やっと到着さすが広い敷地平屋建ての校舎というのがいい。 平屋建ては大地と直につながり開放感溢れています ママやパパたちはお庭から教室を覗き込んでいます。子どの父母との距離感が素敵な教室ですね これから1年間一緒に勉強し生活をともにする1年生の担任の先生とご対面ちょっぴり緊張した1年生たちよろしくね その教室の側には低学年の子どもたちが遊ぶ校庭があります。 のびのびと元気いっぱいに放課にはこどもたちの声が飛交うことでしょう。 (目元がおじいちゃんに似ているのかな。教室の自分の席に着いた葵ちゃん) 葵ちゃんが学ぶ学校は広大な敷地に充実した施設をそなえた恵まれた環境です。 今年は22名が入学しました。少人数で個人のレベルを尊重しつつ全体での力をさらに高度にしてゆくにちょどよい人数の学級でうらやましい限り。カリキュラムはほぼ日本の学校と同じですが1年生からブラジルの母語・ポルトガル語の授業があり、英会話の時間もありで、学年が進むにつれてブラジルの歴史や文化についても学ぶことができる。さらに3年生からは「総合学習の時間」が設定されており生きた学習、生きる力を身につけることを教育目標として今なお掲げていることは素晴らしい。国語(日本語)の時間数を1年生は他の学年より多く設けているのもいい。 葵ちゃんはこんなに恵まれた環境で1年生になりました。きっと今日も元気一杯楽しくお勉強していることでしょう。きっと新しいお友達も一杯できたことでしょう。 サンパウロ日本人学校の広大な敷地には、コーヒー園・バナナ園・クリ、ミカン、アボカド、カキなどの果樹、樹木、花など熱帯・亜熱帯植物や日本の植物まで、多様な植物が豊富に植栽されています。小ジャングルもあり、豊かな自然体験を子供たちは校庭のなかですることができます。 このような豊かな自然の校庭に咲く秋の花々や果実を次回には紹介します。
2010.05.06
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