全92件 (92件中 1-50件目)
安倍、橋下らの主張する教育政策は、20年後、子どもたちが社会に出るときには、無用で役立たずの「人材」を育てるだけの教育である。真にグローバルな人間を育てる教育とは何か。 参議院選も終盤へと突入しようとしている。自民党と公明党は、この参議院選を衆院とのねじれをなくすため、と位置付けて、国民を煽動している。「ねじれ」がなくなるとどんな日本が待っているか?その先にあるものは何か?よくよく考えてみる必要がある。国民の未来を根底から変えてしまう、重大な争点を隠して、ただひたすらに「ねじれ」の解消を叫んでいる。国会の「ねじれ」が解消したら、その先待っているもののひとつに「教育再生」がある。自民党は教育政策の公約に「世界で勝てる人材の育成」を掲げ、そのための「世界トップレベルの学力と規範意識」を子供たちに持たせる教育を宣言している。具体的には「英会話やIT能力に優れ、海外でも技術革新を生み出せる」人材育成を目標にあげている。この自民党の政策は、教育の目標をその時の政権が必要とする「人材」の育成に貶めている。そのこと事体が問題である。教育を受けるのは、これから先20年後30年後の社会で活躍する子供たちである。アベノミクスに役立つような「人材」は、おそらく子供たちが社会に出るころには、無用なモノ、古びた使い捨てられたモノになって、使いものにはならない「人材」となっているだろう。それは、今、社会に出ている若者たちの姿を見れば実証済みのこと、彼らは子供の頃、高度経済成長を担う優秀な子供として、物言わぬ勤勉な子ども、与えられたものを黙って、お利口にこなす子ども、このような子供像が優秀と評価され育ってきた。マル、バツ式の与えられた選択肢の中から、答えを出す訓練に明け暮れ、偏差値の名のもとに、激しく競争をさせられてきた。絶えず受け身で、お利口さんな子供たち。この子供たちが、社会に出た時(現在の社会)、そのような人材はもう必要なくなっていた。偏差値の高い大学を出た若者たちの多くが、今どのようになっているかは、自分の周囲を見渡せば一目瞭然である。(社会の変わるスピードに、模範生たちは柔軟に対応するエネルギーがない。)教育の目標は、「その時の政権が求める人材養成」では断じてない。教育の目標は、日本国国民として、将来にわたってどのような人格を備え持った市民を育てるかにある。その時々の社会の困難を打破し、社会を前に進める人間としての力量をどう高めるかにある。一人一人が社会の構成員として、毅然と生きる人格は、日本国憲法の精神を体現することでもある。美しい日本や社会の規範を守り育てられないのは、日本国憲法を嫌い、改悪したい側にあるのに、憲法が日本人をダメにしている、彼らは言っている。「日本国憲法」はこの点でも世界的に優れている。その中に盛り込まれている、平和主義、人権主義は、人類の長い歴史のなかで、人類が勝ち取ってきたものだ。先人たちの、血や涙、苦しみのなかで、紡いできた「人が人として」生きて行くための叫びであり、人類の叡智でもあるのだ。未来のあるべき人類の姿を示している。少なくとも、今の子供たちが社会に出るころになったら、増々輝きを増すそれは理念だ。人々が人として豊かに生きてゆく土台になっていくはずだ。この理念を教育の場で、子供たちに、自らの血肉として身につけさせること。社会の成員として、自分の持ち場で、自分たちの力で社会を創り上げていく能力は、子供たちに身につけさせなくてはならないものであり、これこそが教育の恒久的な「目標」だ。その中身は「日本国憲法」のなかに深く沈静している。「日本国憲法」は、日本固有の伝統や歴史を決して否定などしていない。憲法の理念が社会で実現したなら、日本固有の歴史や伝統は益々充実し尊重される。自民党や橋下の維新が言っている教育は、、自分たちの権力に媚びる従順な「人材」育成をめざしている。「真に民主的な感性の自立した市民」は邪魔になるのだ。このような偏狭なセクト的な教育観はグローバルに活躍できる「人材」とは相いれない。維新の代表・橋下の人格をみれば明らかな事。「英会話」や「トーフル」を学校教育に持ち込めば、グローバルな「人材」が育つと、彼らは主張しているが、余りにも「皮相」な教育である。日本国憲法よりも、アメリカとの安全保障条約を優先し、日本の最高法規を守らない自民党。(安全保障条約こそ、アメリカの言いなりの条約)アメリカ軍に自国の主権が侵されようとも、国民には事実を隠ぺいし、アメリカに言いなりの自民党政権。教育の内容も、先の大戦を「大東亜共栄圏建設のための正義の戦い」であると、子供たちに教えよと強要している以外は、すべて、アメリカの二番煎じ、模倣にすぎない。(未来を築く創造的なものは何もない)今回の参院選で、自民・公明が過半数を獲得し、衆参の「ねじれ」が解消したら、安倍・自民党や橋下が主張している「独善的で独裁的な」政策が次々に実行されるであろう。とりわけ、彼らの主張する「教育再生」は彼らの最もやりたいことであり、実行を急ぐであろう。増々「世界の孤児」「世界の笑いもの」を大量生産するだけの教育から決別するためにも、参院選では「教育」の政策でこの安倍・自民党や維新・橋下の「教育政策」と対峙している政党が躍進し、参院が大きく「ねじれ」て、参議院としての良識、叡智が発揮できる国会となるようにしよう。
2013.07.16
コメント(1)
軍隊とは何か橋下徹大阪市長の最近の一連の発言はあれこれ詭弁を弄して、言い逃れ、選挙民の機嫌を窺がいながら発言の軸足を日々軌道修正している。選挙目当てでないと自己弁護しながら、何とかマスコミに乗っかって国民をたぶらかして勢力挽回しようとあがいている。とりわけ「慰安婦」問題に対する発言はどんなに巧みに詭弁を弄しても隠し切れない橋下徹なる人物の人間性を露呈している。彼の慰安婦に関する論点は「慰安婦」が日本軍の中に制度として、歴史的に存在したことは事実である。しかし、欧米や中国、韓国が慰安婦制度を「性奴隷」(sex slave)と言い、強制的に女を連れ込みセックスの相手をさせたと断定しているのは、日本を侮辱するもの、日本を貶めている。慰安婦制度をセックス・スレーブと言っているのは、明らかに間違いなので、外に向かって、抗議の発信、意義申し立てをすべきである。この点で、河野談話はまちがっている。当時、戦時下でお国のため砲弾のなかで命がけて戦った兵士がセックスのはけ口として、楽のしみとしてそのような「婦人」が必要であった。必要な制度であった。他国も同じようなことをやっていたのに、日本だけが不当に「セックス奴隷制」と非難されるのはおかしい。彼の論旨はだいたい以上のようなものである。この彼の展開している内容は図らずも「軍隊」の本質が何かを露呈している。セックスのはけ口を必要とする戦争の異常さ、「お国のため」には「他国の人」を人とも思わない軍隊の特質。何よりも、女性は男のセックスの餌食でよい。それが「お国ため」という思想。この「お国」とは、大東亜共栄圏を築きアジアを解放するなどという大義を掲げてその実は、「ほんの一握りの強権を維持し富を持っている者たち」のためのものでしかない。(国民の大部分は貧困と悲惨のなかにいた)「大義」が兵士自身の大義、理想と結びついていないから、兵士をコントロールできない「軍隊システム」その欲求不満を発散させるための「慰安婦」制度。日本は「慰安婦」を「comfort women]と公式文書で英訳しているという。欧米は「sex slave」と英訳している。だいたい comfort womenなどという英語あるのか?comfortと英訳していること自体も、女を男の慰みものであることの表現である。橋本徹なる人物は盛んにセックススレーブという言葉は、事実を伝えていない、日本を不当に侮辱しているとわめいているが、comfortだろうがsex slaveだろうが「慰安婦」のその本質は変わらない。慰安婦のひとり金学順さんは、17歳のとき、無理やり軍人に姉とともにトラックにのせて連れ去られ、空き家で服を引き裂かれ、侵された。殴られ、蹴られ、殺すと脅されながら、。それから毎日軍人の相手をさせられた。これが戦争というものだ。これが軍隊というものだ。他国に侵入し戦うとはこういうことだ。私たちは、このような多くの犠牲の上に、現在の憲法を勝ち取ったのだ。今、その憲法はけしからん、アメリカが作ったものだ。国防軍と名を変えて世界で戦えるようにせよ、という声が日増しに高くなっている。その勢力の一人が「橋下徹」なる人物でもある。男と女が豊かな人間関係を築くなかで性も豊かになる。軍隊や戦争をする国ではそれは不可能なこと。アメリカの沖縄基地にまで行って、アメリカ軍の兵士のセックスのはけ口に風俗業を活用しなさいとご親切にも進言している大阪市長。セックス・スレーブという認識は、日本を侮辱している、世界に向かって反撃しなくてはいけない、と現大阪市長はのたまっているが、アメリカにまで、女を性的奴隷として活用せよとは、なんという自己撞着。世界にむかって、日本の政治家の低俗ぶりを発信している。これこそが自虐的史観。これがグローバル人材の育成を教育の目標にして、教育界に強権をふりかざしている政治家なのだから恐れ入る。(日本で最もグローバル感覚の欠如している人物)大阪市長がこのようなことで、登院もせず、1日中ツイッターでつぶやいているとは、大阪市長は暇なのだ。大阪市民の7割もの支持を獲得しているこの市長の人間性はおぞましい。このような人たちが押し進めようとしている憲法改正は、9条の精神の破棄にある。高らかに人権を掲げる憲法はダメだと言っている。私たちの息子や孫たちが、「慰安婦」に慰められる兵士になって、戦下で苦しみ死ぬことが本当に「お国」のためか。今こそ若い人たちが軍隊を自分の問題として考えるべきこと。軍隊に参加するのは貴方たちやあなたの子供たちなのだから。戦争をしない国を掲げて歩む道こそが、私たちの祖先の無念を晴らすことができる唯一の道。それこそが多くの戦争犠牲者への鎮魂であると、私は考えている。断じて、英霊として祭り上げ、参拝することではない。
2013.05.16
コメント(3)
衆院選挙で大量の議席を獲得した自民・公明の各党の支持基盤はどうなっている?民主党党首の野田総理が自己の保身のためか何か知らないが、訳もなく、この暮れの慌ただしい時に急に解散をしてあっという間に総選挙となり、12月16日投開票が行われた。予想通り、与党民主党は前回の衆院選で獲得した308議席を一挙に54議席に減らした。それに比べ前回119議席に激減して野党に下った自民党は選挙のマジック・小選挙区制に助けられ一挙に294議席獲得した。自民党が大きな議席を獲得したのは、比較第一党が議席を独占できる小選挙区制によってである。自民党は小選挙区でも前回の衆院選に比べて166万票減らし、得票率は43パーセントなのに、議席占有率は79パーセントにもなる。得票率に比べ2倍の議席を獲得している。比例代表においても、自民は219万票減らしており、議席獲得数は前回とほぼ同じ57議席を獲得した(前回55)。自民党とともに与党になる、公明党も比例で94万票減らしている。小選挙区では、例のごとく姑息な手段、自民と維新に候補者を調整してもらい、公明党を支援することで、小選挙区の議席9を獲得した。このように見るならば、自民・公明の票田はジリジリと崩壊の危機を孕んで、現在進行中ということは明らかである。私の生まれ育った地域は、半世紀以上にわたり自民党の強固な地盤である。保守王国である。豊かな穀倉地帯濃尾平野の中にある。まさに、戦後の高度成長の歴史と共に、農地をつぶし(百姓はにわか成金の兼業農家ばかり)、軽工業から重工業へとモノつくりが変遷していく中で大中小の工業がひしめいて、安い労働力を提供して栄えてきた。近年では、海外(ブラジルや東南アジア)からの移民が、村や町に日常的に生活している。ブラジル人たちがブラジルの子弟のため小学校さえ作っている。農地を切り売りして、自らは安い労働力となり、農業と工場の労働者の二足ワラジで、この高度経済を支えて、自らもにわか金持ちになり、豪勢な屋敷をかまえて豪邸にくらした百姓たちは今、高齢者となって、大きな家のなかにひそっりとり残されている者あり、様々な病に侵され、近隣につぎつぎに建てられる介護施設に入居して暮らすなど、心豊かな最期を迎えようとしていない。何よりも家族の崩壊は避けようもなく老いたる者は悲惨な状態である。彼らは、お金はたんまり持っている。しかし、その周辺の病院や介護住宅に詰め込まれている老人たちは寂しく、まさに地獄絵のなかにいる。私が幼い時からあった精神病院など、今、行き場のない認知症の高齢者が収容しきれないほどに大勢入院している。100名を超える認知症ばかりの老人が、牢獄のように鉄格子、ドアーは施錠の部屋で、すさまじい生活を余儀なくしている。さらに、この病院は、今、介護付きの大きなビルを建築中。介護付きの住宅も、次々に建築中。これらの建物の入居者は、ほとんどが、お金を持っているが老後を介護する人がない。自分の家は、都会では考えられないような広い敷地に大きな豪邸を持っている。それを閉めて空き家にして、介護施設に入るのである。半世紀以上にわたって、自民党が創り上げてきた経済基盤のなかでその繁栄のおこぼれを十分味わってきた人々の人生の最期はかくのごときである。必ずしも幸福な最期とはいえない。この人々は、誰に言われなくとも、自民党の地方議員の誰彼に組み込まれており、国政選挙では、自動的に自民党に投票している。(候補者の地盤は祖父母の代から代々受け継がれたもので、半世紀以上同じ姓の候補者に入れている。)自治会、婦人会、老人会、農協など村のどこかの組織に組み込まれており、その組織が一体となって自民党を支持している。生活の一部として自民党への投票はあたりまえ。とりわけ今回の「民主党」の失政は、「やっぱり民主党ではだめだ。誰がやっても政治は同じだ」が彼らの投票行動に大きく影響している。彼らは自分たちが歴史に翻弄されているのに、そのようには見ていない。戦争に行けと言われれば、お国のためと戦争に行き、農地解放され、農地が手に入れば懸命に百姓をし、高度経済成長の過程で、農地が高値で売れれば、豪勢な邸宅を立て、外国旅行としゃれこんで、朝から喫茶店に出向いてコーヒーとパン食べて(百姓がありえないこと)、昼食には、国道沿いのフランチャイズ店のラーメンを食べ、晩年は、病で暗澹たる苦しみの中にあってもこれは人間の「業」などと訳の分らぬこといい、高額な医療費をどんどん使い、介護保険もどんどん使い、「自民党」のおかげでよき人生であったと、最期を終えようとしている。これが、少ない票数でも1議席獲得できる田舎の現実だ。しかし、この票田も深刻な崩壊の危機にあるが中々しぶとくそう簡単には消滅へとは向かわない。でも、選挙の票数から見てもじりじりと崩壊へと向かってはいる。彼らは、「お上」の土木工事の恩恵を受けなければ生きてこれなかった。原発建設などその最たるモノ。「強靭な国家」を作るなどと言い、莫大な国費を投入しよとしている安倍政権。この愚かしさの結論は、田舎の高齢者たちの最期ですでに証明ずみ。ニュース番組の街角インタビューなどで、都会に住む若者が安倍政権の経済政策によって自分にも明るい未来があるように語っているのには驚く。ただあるのは増々不安定な雇用と低賃金競争だ。これがグローバリズムの行き着く先だ。おこぼれが最も届かない若者が自民党の経済政策に期待するとは情けない。この半世紀以上続いた自民党票田の崩壊が一気に社会の変革に向かうには更なる粘り強い変革への意志やエネルギーが必要だ。何よりも一人一人が市民としての高い自覚、社会形成者としての高い知識や能力を磨かなければ選挙だけでは到底この現実を変えることはできない。その意味でも教育は重要だ。安倍自民党や維新の言っている教育システムではせいぜい祖父母たちのように「お上」に利用され使い捨てられる人材になるだけだ。「日本国憲法」に書いてあるような人格、国民としてどうあるべきか、これほどすぐれた教科書はない。日本国に住みながら、日本国憲法の精神を守り発展させなくてもよいなどという政治を許してはならない。ぜひ、みなさんも「日本国憲法」を自らの知性で深く読んでみてほしい。そこに未来の子供たちが育つべき人間像がある。
2012.12.18
コメント(4)
21世紀を生きる子供たちが必要としている学力とは?自民党総裁、安倍晋三は、遊説先々で「教育を取り戻す」をキヤッチフレーズにして、「民主党は日本の教育をゆがめてきた日教によって支配されている」と批判し、「政権を奪還し、すべての子供たちに高い水準の学力、道徳心、規範意識を身に着ける機会を保証する」と叫んでいる。安倍晋三や橋下徹の言っている「高い学力」とは何か。「道徳心、規範意識」とは何か?我が子や孫たちが今、学校で受けている教育はいかなるものか。子供たちが、成人した時、社会の中で人生を切り開く能力を育んでいるか、よくよく目を見開いて熟慮する必要がある。「お上」まかせであっては、子供は育たない。現在、東京都、大阪などが先頭になってやろうとしている教育改革は、アメリカから20年遅れの、アメリカの教育政策のコピーである。アメリカは移民の国である。資本主義の高度な発展を達成し、その巨大な富で世界を制覇してきた国である。その発展の原動力、活力は、次々に流入する安い労働力として利用できる移民たちであった。しかし、その発展は、しだいに影を見せ始めている。1960年代にはこの国のあり方が次第に危機的な矛盾、問題を露呈し始めた。即ち余りの富の偏重による貧困問題。人種間の経済格差を、放置しておいては、合衆国の国そのものを揺るがしかねない社会問題になってきた。そこで、出番となったのが初等中等教育法を制定し、連邦政府が州にたいして、財政的援助をすることで初等中等教育を改善しようとした。更に1980年代にはブッシュ大統領が1865年の上記の法律をさらに改訂し、特定の階層(貧困層)、グループへの援助政策、改革にとどまらず教育システム全体の改革へと突き進んだ。アメリカ国民の子供や青年たちの学力の顕著な劣化を「危機に立つ国家」と宣して、教育改革が行われた。これがアメリカの教育の大きな転換点であった。すなわち到達すべき統一したスタンダードを定め、「統一学力テスト」を実施、「テスト」の成果や結果を厳しく求め、成果の出ない学校は、統廃合や校長、教員の免職など連邦政府の権限を介入させて、「学力向上」なるものを図ろうとした。さらにオバマ大統領になってからは「頂点への競争」政策で、競争的連邦補助金の導入を通して高い質のスタンダードやアセスメントの採用が求められている。各州の自由な裁量に任せられていた教育がこのように連邦政府の権限強化へと変遷した教育改革によって、アメリカの子供たちの学力は向上したか?人としての知恵を身に着けることに成功したか?「No」である。このような政策実行から10年経過した2009年の世界学力調査(PISA)のアメリカの学力は世界の平均値の前後に位置し、中位のグループに属している。それ以前とほとんど変わっていない。「改革」でめざした世界のトップの学力は達成していない。すべての子供が「高いレベルの学力」に達するよう公正で平等な教育機会を保証することを全州に求めたこの教育改革はさらなる公教育の解体、巨大資本がいまだ手を付けていない分野として、公教育の分野は新自由主義的経済の市場として、利潤の餌食にされている。さらに、教師の脱専門性により低コストで教師を雇える。、教育するものとしての専門性はいらないのである。知識の切り売り、パターン化した問題を与えられたやり方で教えればよいのである。今、日本にもアメリカより、遅れること20年、子供たちの学力の低下、生きる力の劣化など深刻な「学力」問題が起きている。この問題を、自民党・安倍部晋三や維新・橋本徹らはアメリカのこの教育システムを真似ることで解決しよとしている。「全国学力テスト」の導入、その得点結果を公表し、点取り競争を学校にさせて国民に学校を選ばせる(学区の選択制)などで「教育再生」を図ろうとしている。更に恐ろしいことに、子供たちが荒れているのは、日教組の教育のせいにして、自分たちのインチキな「史観」を「道徳」として吹き込もうとしている。子供たちが、人として豊かな人間性を獲得できないでいるのは、まさに、点数のあげるために、競争させて、高得点をとることを良しとするその教育そのもにある。深い知性、深い人間性は自ら学ぼうとする真摯をこどもに育てることから始まる。このように育てられた知識は、困難を突破する創造力を生み出す源になる。市民としての自立した個人の確立。社会の一員となって、協同する力で、困難を突破していく知力、体力。未来を築くエネルギーを蓄えた青年。そのような人間性は、「学力テスト」政策では生まれない。21世紀の困難を切り開く人間を作る教育とは対極にあるのが自民党・安倍晋三や維新・橋本徹の唱えている教育改革である。彼らの唱えている教育再生とは教育をアメリカと同様「競争」と「淘汰」に基づく市場化・民営化によって、「人を選抜し、育成する」から「選抜し、使い捨てる」へと「教育再生」することである。国民はしるべきである。すでに8年前に以下のような提言がなされているのである。1995年5月日本経営者団体連盟の新・日本的経営システム等研究プロジェクトによる「新時代の日本的経営ー挑戦すべき方向とその具体策ー」によれば、人件費の抑制をめざした「日本的経営」見直しのガイドラインを示し、その方針のもとで、労働者を「長期蓄積能力活用型グループ」(正規のエリート社員)「高度専門能力活用型グループ」(契約社員)「雇用柔軟型グループ」(パートタイマーや派遣労働者)となる3グループに分け、正規社員以外はすべて「有期雇用契約」、「昇給なし」、「退職金、企業年金なし」とすることを提言した。すなわち有能な人間を正規雇用として採用し、その他はいつでも「使い捨て」「切り捨て」できるよう再配分するということである。自民党、維新などの掲げている「教育再生」とは、まさにこの提言の教育での具体化である。「使い捨て」の人間を育てるには、「学力テスト」なるもので競争させ、中身の空っぽな学歴を身につけさせるだけで十分。安上がりの教育投資である。市民にもわかりやすい。8年前のこの提言どおりに現実の社会は今、進行している。そして、後に残されたのは、このような理不尽な現実に抵抗もせず、理不尽とも思わない、若者たちを教育の力で作ることである。維新・橋本徹が盛んに市長の権限を強化して教育を支配しようとしているのは、このような理由からである。今、大阪などは、その実現化に猛突進。大阪市民も熱狂的に支持している。これでいいのか?特に高齢者たちに注意を喚起したい。子どもたちの現状が「道徳心」がないのは、日教組の教育(そんなものはないが)のせいではなく、自民党が半世紀以上にわたって、作ってきた資本主義的な経済のありようから生まれた「知の退廃」「知性の未熟」にあることを知るべきだ。大量生産大量消費、人はモノの奴隷。儲けのためには、人など、どうなろうとかまわない、この現状が今日の社会を創り出してきた。そのような自民党に、再び政権を与えては、増々、人を人として育たない社会になっていくこと必死である。「決断」をしない方が良い時代がある。ぐずぐず「決定」を先延ばし、新しい力が台頭するのを待つのが必要なときもある。このような情勢の時、ゆめゆめ「自民党」を政権の座につかせないよう、投票行動をためらっている人は自民党に「NO」の投票をしよう。特に若いママたち、わが子がどんな教育をうけるか、どんな未来の社会に生きるかよくよく考えて、ぜひ、投票行動をおこそう。今、社会は大きな重大な転換点にいる。
2012.12.10
コメント(2)
衆議院選の選挙権を必ず行使し、未来の子供たちに確かな社会を送り届けよう!アメリカとの原発同盟を破棄できるかどうかが「原発ゼロ」を実現できるどうかの試金石である。民主党の野田政権は「2030年代原発ゼロ」を目指す新しいエネルギー政策を大幅に後退させ、閣議決定できなかった。なぜ、大きく後退したか?なぜ、民意を無視して、質的な転換をせざるを得なかったか?それは、アメリカのホワイトハウス、国務省、エネルギー省などの強い「no」の圧力のためである。アメリカ側の「具体的な道筋が不明確だ」という圧力である。では、アメリカの言う具体的な道筋とは「核不拡散への日本の協力の先行き」「使用済み燃料からプルトニウムを取り出す再処理事業をどうするか」「人材育成への影響」などについての見通しである。米政権に強い影響力をもつ新米国安全保障センターのクローニン上級顧問は、「閣議決定をして政策を縛ばれば見直せなくなる」とまで言っている。まさに内政干渉、このような圧力が、野田政権の「2030年原発ゼロ」宣言の閣議決定を見送らせた背景である。日本は、これまでアメリカの核不拡散体制の重要な一員であったし、今もそうである。日本は核兵器を持たない国として、世界で唯一、核燃料の再処理やウラン濃縮を行うことを米国に許可されている。そして、日本はそのアメリカの信頼に応えるべく、原発に出入りする核物質の収支を正確に把握・確認する措置を実施してきたのである。(これらは直ちに核兵器に結びつく技術。韓国も核燃料の再処理を求めているが許可されていない)もし、ここで日本が原発ゼロになれば、今後、原発における中国の台頭が必死の情勢のなか、アメリカは、自国の核政策の見直しを迫られるからである。さらに、オバマ大統領は世界各国の核物質がテロ組織に渡る事態を防ぐ体制つくりをめざし、14年までに各国にある核物質の防護体制を確立しようとしている。このような時期に忠実なアメリカの同盟国を自認するする日本に逃げられては、アメリカの国益に重大な損失なのである。日本の原発建設の技術力はアメリカの原発建設にも重大な影響を及ぼし、日本の原発建設衰退は絶対に許すことは出来ない。自民党、維新などの原発推進者の「現実的」な政策とは、まさにこのアメリカの意向、アメリカの核支配、核独占の維持をするための都合なのである。人間の命よりも大切な「現実」とは、まさにこのアメリカの核独占による世界支配の一翼を担うことを維持したいからである。この死守こそが彼らの主張している国益であり、強い国作りなのである。日本の国土が核汚染され、その影響は未来に甚大な影響を及ぼすことよりも、アメリカの核の傘のなかにいたいのである。脱原発の「見通しがあいまい」とか「ない」と彼らがいっているのは、自然エネルギーへ転換していく道筋のことを言っているのでなく、アメリカとの「核同盟」をどうするかの「見通しが立たない」という意味である。このように見るならば、「原発ゼロ」をめざすということは、日本の社会をどの方向に変革していくかという日本の存立の根幹に関わる重大事である。自民党、維新の各党はなるべく原発問題を国民の目から反らそうとしている。あれこれと、如何にももっともらしく屁理屈をいって国民に真実を隠くそうとしている。原発ゼロにすると「電気代が値上がる」とか「電気の供給が不安定になる」とかいうのはあくまで国民への脅しである。新エネルギー政策を実現するためには、このような現状を保守し、維持しようとする、巨大な権力と厳しく対決することなしには実現できない。私たち国民にも覚悟が必要だ。本気になって社会を変えたいのか。国の在り様を変えたいのか。このことが厳しく問われている。このように山河荒れ果て、破壊されても、人のこころ傷つけられても出口のない原発を稼働させる必要があるか。未来の子供たちに私たちはどんな社会を残すべきか?いまこそ厳しく問われている時はない。もし、自民党が過半数をとったら、日本の国はどうなるか、さらなる混乱矛盾。暗澹たる国。人間にとって、真に豊かな科学とはなにか。深く問いかけて、投票すべき時である。フクシマの原発事故から何も学ばず、目先の経済成長やらを追い求める自民党と維新徹底した自由競争で金儲けに狂奔しようとしている。序盤の選挙予想では自民党が過半数を超える勢いという。自民党が過半数を占めたら、日本はどうなるか?よくよく考えるべきである。
2012.12.07
コメント(2)
音楽がみんなの心を元気かつ優しい気持ちにする 今、世界の動画サイトで高い人気を得て話題になっている作品[Som Sabadell flashmob] (flashmobとは、ウェブの呼びかけに応じた参加者が特定の場所に集まって、何らかのアクションを行い、すぐに解散する新世代のパーフォマンスを意味する新造語) これは、スペインのサバデイに本店をもつ銀行 Banco Sabadell が創業130周年を記念して、地元の人々へのお礼として企画したサプライズ。そのサプライズ企画の一部始終を動画に収めた作品である。 2012年5月19日午後6時スペインのサバデイで、ある少女が楽器を抱えた男性の帽子に1枚の硬貨を入れる画面から始まる。その男性は「ベートーヴェンの交響曲第9番」を演奏し始める。観客が次第に足を止め膨れ上がり、聞き入る。演奏者が次々に現れ(Symphony Orchetra)、最後は合唱隊(Choral Bells Arts)も出場して、100人の大編成の「第9」が演奏される。聴衆も一体となって、老いも若きも子供も入り混じった大合唱。その市民の顔の生き生きとした笑顔、涼しげな満ち足りた顔、顔、顔、、、これが庶民の底力、折しも欧州は金融危機で世界を騒がせている、スペインは今、その危機の真只中。でも、庶民は危機真っ只中の銀行さえもこのように音楽を奏で心豊かなときを過ごす。これが文化というもの。これが生きる庶民のエネルギー。日本では、大阪のどん真ん中古い立派な建物の歴史ある図書館大阪市立中之島図書館を街の1等地にこのような経済効率の悪いものは不要とぶっ潰そうとしている。こんな政治を許してよいのか。こんな政治を囃し立てておだてている日本。このような政治からは何も生まれない。このスペイン銀行のサプライズ音楽会での動画から、その街の人々の表情に感銘をうけます。音楽の力の素晴らしさを実感します。冒頭にその動画をリンクしています。さらにRocet News 24では、日本語版の解説もついています。サバデイという町Mr.Danjoseからの補足コメント。(Mr.Danjoseは、スペイン語を専門としており、スペインは彼にとっては、わが庭というほどに、慣れ親しみ、スペイン文化には造詣深い。)この動画のSabadell(サバデイ)は、スペインのバルセローナ(バルセロナ)のすぐ近くの町。このカタルーニャ地方では、日曜日に見知らぬ人々が広場に集まって輪を作り、サルダーニャという民族舞踊を踊る伝統があります。これは現在も行われている。又、カタルーニャ人は芸術家を愛し、芸術家を多く輩出する人たちです。音楽の世界では、有名なセリスト・バウ・ガザルス。ギタリストでは古いところでは、フェルナンド・ソル。最近では、ナルシソ・イエベス建築や絵画では、ガウディ、ミロ、ダリー、など多士済々。(ガウディはこのブログでもサンティアゴ巡礼街道で記事にしています。)このような文化的伝統、その土壌の延長線上に、サバディ銀行の粋なコンサートがあり、市民たちも、いきいきと楽しげにコンサートに溶け込んで、自然体で老いも若きも集っている。[Som Flash Mob]のスペインの地方の町の光景はカタルーニャ文化の質の高さ、その伝統の重さを私たちに見せてくれている。 (関連記事) カタルーニャ地方の文化についても語っています。2008/05/27 ガウディが現代に語りかけるもの2008/01/13 巡礼街道のガウディの作品
2012.07.06
コメント(1)
ツイッターで広がる官邸前の「抗議行動」に1万2000人に集まる「原発をなくしたい、とツイッターを使った首相官邸前抗議行動が大きなうねりとなりつつある。行動を呼びかけているのは、首都圏反原発連合の有志たち。首都圏反原発連合とその構成団体である「@twitnonukes]は、それぞれブログを開設。ツイッターを利用している人が「ツイートボタン」を押せば案内が拡散できる仕組みを作っています。たとえば6月8日の官邸前行動では、ボタンを押した人は5700人余り、参加者は約4000人でした。自発的に参加した一人一人が感動を込めてツイートし、さらに輪は広がっていきます。1万2000人集まった15日は、ボタンを押した人数は8600人。参加者が、ボタンを押した人数を初めて上回ったという。官邸前に1万人を超える人々が抗議行動をしているのに、その行動を記事として報道したのは、「朝日」の1段見出しの記事と「赤旗」だけ。「読売」「毎日」「東京」「産経」、NHKをはじめ各テレビ局は黙殺。取材にきて、写真を撮りままくっているのに報道をしないというのは、明らかに意図的な検閲である。メディアは完全に権力に統制されている。「中立」ではないのである。政局がらみの消費増税関連法案のことばかりを報道している。「増税やむ無し」のキャンペーンをマスメディア総動員で流しているのである。原発に関しても、ほとんどのメディアの報道姿勢は「やもうえない」という肯定的な立場からの報道の氾濫である。民主党内のごたごた報道をゴシップまじりに報道して、それを隠れ蓑に、権力側の実行したいことを次々に実践している。この権力側の報道キャンペーンの影で恐ろしいことが起きているの国民は知っているか?このどさくさを隠れ蓑にして、まともな審議もせず、20日、民自公の3党がまとめた「原子力規制委員会設置法案」が3党と国民新党などの賛成多数で、参院本会議で可決成立した。その問題点は何か?1.原発の運転期間を原則40年とし、最長60年まで延長可能とした。更に、この制限までも法案成立後に見直すというのである。要するに安全性よりも企業の利益優先し、老朽化した原発の半永久的な運転も容認する道を法律で認めようというものである。従来の安全神話を法律として権威づけたのである。2.規制機関を環境省に置く。原発立地に異を唱えたこともなく、地球温暖化対策として、原発推進を掲げてきた環境省のもとに原子力規制委員会を設置するということは、原発推進機関からの分離、独立の担保は全くないに等しい。要するに、骨抜きの規制組織として、発足させようというのである。3.原子力基本法の改定では、「原子力利用」について「わが国の安全保障に資する」とう項目を書き加えてのである。原子力利用の目的を「平和利用3原則」を踏み超えて、軍事利用への道を法律によって明確に規定したのである。今まで「原子力平和利用3原則」に縛られ、行えなかったことも、このどさくさに紛れて、法律を根拠にして行えるように正当化したのである。何というしたたかさ。このような内容の「原子力規制設置法案」が衆院では3党提案の当日に、参院では2日間の審議だけで、いずれも参考人の質疑もないまま可決されたのである。原発推進派の人たちが、再稼働の条件づくりとして、国民の目から逃れて、こそこそと慌ただしく強行可決した法案なのである。フクシマの原発事故の教訓などまったく取り込まれておらず、むしろ、事故をこれ幸いと、更なる原発推進の強固なる地盤を作ろうとしている。この「原子力規制委設置法案」に賛成した党: 民主党・自民党・公明党・国民新党反対した党: みんなの党・共産党・社民党・新党改革・新党大地原子力ムラはただでは起き上がらない。権力のしたたかさがここにある。原発の事故が起きた段階で、それを収拾する科学技術がまったく未熟、確立さえしていない状態。核燃料の最終処理の科学技術さえも確立していない状態が今である。その原発を、「企業利潤」追求の手段のひとつとして、選択する愚かさ、これこそが未来の子供たちに「つけ」をまわすこと。最大の不幸、やるべきことではない。国の経済が赤字で、その財政破綻のつけを未来の子供たちにおしつけるべきでないなどと、大宣伝して増税の合理化をしようとしているが、社会制度など、その時代の若者たちが新しく創り出していけばいいだけのこと。ただ、親からもたった腐れ縁で受け身的に受け継ごうという若者の根性こそ情けない。自分たちの社会は自分たちで創り出せばいい。今までの歴史はそうしてきた。鎌倉幕府だって、江戸幕府だって、明治時代だって、財政破綻して、次の新しい時代が到来した。まさに奴らの死守したいのは、自分たちの権力とその利潤であり、庶民の我々の利害、価値観とは相いれないものなのだ。原子力の科学技術は分かってみればまだ研究室の段階ではないのか?原発をゼロにすると優れた科学者が集まらなくなるなどと原発推進する国は言っているが、今の状態で去っていくような者は、もともと大した研究者ではないのではないか。去る者追わず、今、直面している科学技術上の問題が解決され、真の意味で、原子力のエネルギーが人類の生活を豊かにするにはまだまだ時間がいる。粘り強い研究がいる。それは未来の若者たちが担っている。 久々に時事問題に関してのメッセージをしてみた。思いはいろいろ溢れているが、年齢とともに、時事問題を取り上げることはためらいがちとなる。エネルギーがかなり入るからである。でも最近の情勢は、黙っておれずペンをとってみた。現在の政府の面々の面構えを見ただけで、暗い気持ちになるのである。希望がわかないのである。
2012.06.22
コメント(1)
石原東京都知事「天罰」発言について思うこと 石原慎太郎都知事は、今回の大震災が起きたまさにその時、今回の都知事選挙に立候補をすることを記者団を前に、宣言しようとしていた。突然の巨大地震のため、その会見はめちゃくちゃとなってしまっったが、その翌日「津波は人間の我欲にたいする天罰」と発言し、激しい抗議を受けて撤回した。 1923年9月1日・時刻11:58:32マグニチュード7.9の地震が関東に起きた。東京はあっという間に火の海となり、死者・行方不明者は10万余人負傷者10万3733人首都東京の被害は甚大で、壊滅状態。いわゆる関東大震災である。 第1次世界大戦による戦争景気も去り、不景気に暗い状態に陥っていた大正末期のことである。 実はこの時も、女性史研究家・米田佐代子さんによれば実業家・渋沢榮一らがしきりに「天譴(てんけん)」論を説き、内村鑑三や和辻哲郎などの知識人も同調し、「堕落した日本人への天の戒め」というムードを作り出した。という史実があるという。 いつの時代でも、いわゆる宗教家や一部の為政者は「天災」を「天罰」とみなして、民衆を扇動し自らの責任を弱いものに転嫁しようとするのだという事実を知って「そうだったのか」と妙に納得した。 石原都知事は、美濃部都政(1967年~79年)が「地震」と「震災」を区別して、「震災」は東京都の責任で未然に防がなければならないと「震災予防条例」を制定したが、石原都知事はそれを改悪して、「震災対策条例」にした。まずたいせつなのは「自助」、自己責任だといって、都の公的責任を後退させて、災害がおきた事後の対処が中心となる条例にした。今回のような巨大地震に東京が見舞われたらこの巨大都市は安全といえるか。自助で立ち上がること出来るか。 今回の大震災を見れば、自己責任の「自助」をかざすだけで、壊滅状態の町や村や人々は再生できないのは自明なことである。それよりもまず、災害を最小に食い止めるるための事前の町づくりが必要であり、弱者が最も被災を少なくてすむ街づくりこそ政治のやるべきことではないか。(このような街づくりは個人の責任だけではやれない) もし、今今回のような巨大地震が東京を襲ったら、石原都政の掲げている都市は今回の東日本の比ではない甚大被害になるのではないか。 震災を予防する街づくりにお金と人類の叡智をあらんかぎり注ぎ込むことこそ今回のこの甚大な災害をもたらした天災からの教訓ではないか。犠牲になった人々へのそれが何よりの手向けではないのか。 天災は必ず起きる。人が傲慢にもいかに自然を征服したかの錯覚にとらわれていたとしても自然の壮大な営みをとどめることはできない。 まさに今、東京では都知事選が行なわれている。都民は、「自己責任」を掲げ、安全で豊かな街づくりを放棄し、大量消費で虚栄の大都会をつくることが繁栄とするとする〈都政〉を続行することを選ぶのか。 今回の震災した地域の人々への支援とはお金や物資や手助けだけでなく、どんな街づくりをビジョンとして掲げている人を選ぶかも支援の1つであると言えないだろうか。東京の街づくりが、震災対策に重きをおく、構造的に脆弱な虚飾の都市ではなく、科学的な災害予測を重視した、災害を予防する都市づくりに転換する事は、今回の大震災でいのちを亡くした人々への最大の鎮魂である。
2011.03.26
コメント(2)
鶏工場の意味するもの 高原性の鳥インフルエンザが宮崎県と愛知県に発生、猛威をふるっている。このウイルスは生きた細胞中でしか、増殖できないため、殺処分が感染拡大の阻止するための一番有効な手段だという。 このニュースを聞いたとき、わが愛知県の豊橋市の農家で飼われてい鶏たちは窓のない鶏舎(ウインドレスと言うそうだ)、入口は一箇所、人がやっと通れる狭い通路、両側には、鶏用の棚が4~5段、天上近くまで積みあがり、暗い裸電球のもと、温度管理され、15万羽も飼われて、卵をただ産むためにそこに閉じ込められ暮らしている。それら全部を殺処分しなければならないのだという。15万羽を一軒の農家が飼っているというその頭数の多さにも驚いたが、その環境の劣悪さには、もっと驚いた。ウインドレスが外からの菌を防御するにふさわしいと言う理由で採用されているとのことだが、(実際には機能しなかった。)このように温室育ち、ただ、卵さえ産めばよい。肉を多量に生産されればよい、として育てられた生き物の悲惨さ凄惨さに、心が痛む。(勉強をして、高得点をとっておれば、後は、至れりつくせり、真綿にくるんで育てている人間の子育てにもどこか共通しているが。)このように生き物を生き物とみなさず、ただ、卵を産む機械とみなし、いかに、安く効率よく卵を産ませるかだけに機能を限定して、大量生産して、いかにコストを安くするか、儲けをいかに多くするかを追求することが、今の農業は求められている。しかも、その儲けは現場の農民のものにはなっていない。アメリカの工場システムのなかでの中小の農家が衰退の道をたどっている事実からもそのことは明らかなことである。 このような鶏から生み出された卵は、多分安いアメリカの大量生産されたトウモロコシでつくられた餌を食べさせられている。 アメリカの農業にとって、必要なことは、アメリカの安い農産物を買ってくれる大規模なお得意先が必要なのだ。日本はそのターゲットのひとつだ。今話題のTPP(環太平洋連携協定)は、農業分野においては、このようなアメリカの農業戦略をアジアのなかで、主導権を握りつつ自国(アメリカ)の利益を最優先するためのものだ。 これによって、日本の農業が再生できるなどと言うのは絵空事だ。これによって、日本の将来の食料不足が解消できるなどといいうのは、全くの戯言。 大量生産、大量消費、大量破棄のシステムの中で成立しているのが、経済成長を至上主義にしている現在の資本主義経済の仕組みだ。 このような仕組みを止揚できるような、新しい農業を模索し、構築することこそ今求められている。農業にたいする考え方、世界観ぬきに農業の再生などありえない。21世紀の社会が到達している地点は、農業分野においても、鋭く世界観として対立して、競っているのではないだろうか。小手先の改革などではどうにもならないところにきている。 安く大量な生産物が商品として、安くスパーで売られる。 冬の寒さに鍛えられたホウレンソウや大根夏の灼熱の太陽を浴びて育ったトマトやキュウリやナス 自然の大地を踏みしめて日々暮らし、菜っ葉や米ぬかや、庭にある野菜を食べて産み落された鶏の卵 スパーの卵のように、気持ち悪いほどの鮮やかなオレンジの黄みではないが、四季折々のやさしい穏やかな黄身となる。 それらは値段が高い。商品としての品質にも均一性に欠く。 しおれた、お情けほどの一片のレタス挟んであるハンバーガー 。わけの分からぬチキンや肉を挟んだ異様な匂いのするハンバーガー。サラダといえば、コーンとキャベツの刻んだものがお粗末に付け合わされている。これで野菜を食べたつもりとは。(年中安定して供給できる大量生産の野菜のみがサラダ)ファーストフードのこれらの食品は、子供たちが大好きなものである。 子供たちは 嗜好そのものが幼い時からファーストフードの味覚で飼いならされているただ、安くてお手軽と言う理由で。 これは、私たち庶民にとって本当に喜ばしいことか? このような ツケは必ず私たち人間に跳ね返ってくる。今の子供たちはほとんどの子どもが何らかのアレルギーになって苦しんでいる。 これらは、複合的な食物汚染によって起きていることは確かだ。(私たちの子供のころには、全く見られなかったこと) さらに、生き物の大きな連鎖のなかで生かされている私たちの命を支える食べ物をただお金があれば何でも手に入るという錯覚を子供たちに(大人たちにも)植え付けている。 「命を大切に」と叫ぶ大人たち、道徳教育でこどもに「いのちの大切さ」を教えろという政治家たち。 その同じ大人たちが、牛を鶏を何十万頭、何十万羽を、モノとして扱っている。劣悪な環境のなかで飼育し、同じ人間の手で殺傷している。 生き物の大きな連鎖のなかで生きている人間もその命の一環にすぎない。 しかも、生き物がもっている自然と闘って生きる中で培われる抗体などまったく消去し去った生物体を食べて人間も全うに生き物として生きること出来るのだろうか、はなはだ疑問だ。 農業の保護政策とは、アメリカは大量生産の工場システムで農産物を生産する先頭にいる国。この大量生産システムを維持するために、輸出する先がどうしても必要。相手の国の農業のことなど、かまっておれないアメリカ。アメリカの農業保護政策はその意味でも日本の比ではない。 日本の保護政策は、日本の農業をどう守りどう発展させるかと言う理念が余りにもなさ過ぎ。アメリカに追従しているに過ぎない農業政策。アメリカ流の大規模工場システムを育てる目的で農業を守るというなら、日本の食は壊滅するばかりだ。今回の養鶏農家でも、この災害を乗り切るためには、農協が先頭になって考え、資金援助をすべきではないのか。農協の信用事業部門が溜め込んでいる資金は膨大で、投資資金にしている。投資による損失も莫大だ。農業の振興策、互助のために使おうとしていない。農民からかき集めた金を農民のために使っていない。挙句の果てに、国に補助金をもとめる。この農民のお金を溜め込んでほくそ笑んでいる中枢部にメスを入れないで、農業改革など絵空言。本気でやる気がないという証明だ。 私は、卵を信州の農家から一週間に一度1パック買っている。値段は1パック500円である。市場価格の2倍以上である。それでも、その農家は貧しい。何の援助もされていない。これこそが、おかしい。この価格にこそ援助すべきだ。 私の家は、たまたま老人二人で消費量がすくないので、少し高くても買っているが、成長期の子どもを抱えた家庭では中々この値段は苦しい。最も必要としているところに、美味しい自然の恵みが届かない。このような農しか成立していないのが今の日本なのだ。 経済成長戦略などと政治家は叫んでいるが、アメリカ流の経済成長などでは立ち行かないところに今私たちはいるのではないか。21世紀は今までとは質的に異なる発展が求められている。
2011.02.01
コメント(0)
雪 しんしんとふる 静寂の朝 すべての音を呑み込んで。 平成の開国などと 嘘ぶいて、 例外無しに関税撤廃するというTPP、 環太平洋連携協定(TPP)に加わって、それを推進することに、内閣の命をかけるという。最後の砦、食料も外国任せにするという。 それが平成の開国だと言う。 農業のもつ根っこの特殊性を全く見ぬふりして あるいは無知か。 効率と金儲けだけが国を開国するという彼ら。ますます、壊国へと向かおうとしているのがお前らの目には見えないか。 またぞろ、 財源がない、お金がないとの大合唱させて、国民に増税は仕方がないと思い込ませ、未来の子孫に借金を負わせる事は出来ないなどとメディアや国民に大合唱させて、着々と消費税導入のレールを敷いている。 またぞろ、あの小泉内閣時代の自己責任の自由競争の理論横行する国家をまるごと賭博させ、金儲けめざす、内閣が誕生した。 本当にお金は底をついているか? 本当にそうか?お金は余りに余り、行き場を失って、投機に流れ込もうとしているというのに。 このお金をどうして、必要としているところに流れさせないのか、それをやるのが政治というものではないか?強い政治というものではないか。 似非世論調査に右往左往として、世論のご機嫌伺って、官僚の強大な権力に呑み込まれ、前よりも一層、強大な権力の思うままになっている今の政権。 国民が、お前達に求めたものはアメリカから自主的に立ち居振舞う外交と安心して暮らせる社会への転換だ。 菅直人内閣よ、老いぼれた老人まで、取り込んで、引き摺り出して、またぞろ、あの、小泉内閣のめざした、身勝手な自己責任の放縦な資本主義社会を推し進めようというのか? この内閣は、どこまで、迎合をくりかえし、転落していくのか?この内閣は品格のかけらもなく、ただ、汲々と権力にしがみついている。混迷しているとき、いつも世間が叫ぶのが一致できるところで、みんなが一緒になってやれという、体制迎合論だ。 このような風潮の危険性と何も建設的なものは生まないということは、すでに歴史の証明済みだ。 しんしんと降る すべてを呑み込んで 深々と降る 静寂の朝 2011年1月17日日本列島は大雪に見舞われている
2011.01.17
コメント(0)
多様な人々の住む社会に進みつつある日本 朝日新聞が元旦から「日本前へ」という連載記事を掲載している。 1989年。昭和から平成にかわりバブル経済の崩壊が迫り、冷戦体制が終わる。そしてそれとともに経済を核としたグローバル化が加速、その辺りから20年間に日本社会は失速し始め、グローバル化は国民に新たな貧困層を生み出した。その大波に飲まれながら、益々貧困と格差があらわになってきたのが2009年であった。社会は閉塞感に覆われ、若い人は希望を見出せない苦しんでいる。 この新聞連載シリーズは、グローバル化の中で日本社会はどう変わろうとしているか。新しいセルフイマージを描き、前に進む感覚を取り戻す手がかかりをもとめて、日本の新しい社会の息ぶきを追っている。 昨年末、私たち夫婦は、名古屋大学経済学部のオープンセミナーにトヨタ自動車の財務部門のトップが招かれて講演したので聴きに行った。(動員されて半ばお付き合いで参加したのだが)しかし、この講演では、グローバル化とは何かということが、とても明快に説明された。 要するに、トヨタ自動車の場合、国内の販売台数は全販売台数の40数%に過ぎず、この数字は今後減少こそすれ、拡大することはあり得ない。だから、販路を海外、とりわけ中国、インドなどを中心とした発展途上国に求めなければ生き延びれない。グローバル化とは、全てを現地の人々に任せて生産、販売すること。経営のトップも現地から或いは世界の中から選び、日本人はあくまで補佐役になって、生産販売体制を現地に確立することである、と明言していた。工場はもちろんのこと下請け工場もすべて国外に移転する。国内は、自国で販売するものだけを生産する、というものである。(安いからといって逆輸入はしない。それがトヨタの理念とか)これは、トヨタだけのことではなく、日本の高度経済成長を担ってきた輸出産業は似たようなものであろう。 要するに大企業が生み出す利益は日本には還元されず、海外に滞留し溜め込まれる。税金も日本には落ちてこない。このような経済成長戦略が続けられる限り、日本の国民は職場を失い、低賃金のままである。 このような従来の閉塞的な社会構造に風穴をあけて輝きはじめた人々や企業を紹介しようというのが、この「日本前へ」という連載なのである。 さて、その連載7回目が「共生 移民抱く街ー混ざる文化 国の未来図」である。現在、日本に住む外国人は約220万人、20年で約2倍になった。(私の住む愛知県は外国人登録者数が東京都についで多く、この30年で4倍の22万2千人に増えた。住民の半数以上が外国人という町さえある。愛知の場合は移住ブラジル人が全国最多で7万3千人。)この連載は東京オオクボの街の変遷を追っている。 新宿区のある区立小学校は児童の3割が外国籍、籍のどちらかが外国籍とあわせると約7割にのぼるという。 このように外国人が多いのは、勿論上で述べてきたような、経済成長戦略のなかで、研修生という名目で第1次産業や製造の労働者として、入国を大幅に緩和してきた結果である。結果として、安い使い捨て労働力としての役割を彼らの多くが担わされている。彼らは生きた人間であるのだから、食べ生活し子どもが出来るなど、ごく当たり前の人としての暮らしがあるはずなのに、その人々の人権は、法的に整備されないままである。以前からそこに住む住民とのトラブルや敵対・対立など日常茶飯である。子どもの教育などは全く制度的に保障されていず、日本の従来の学校のなかに組み込まれ、そこで教育を受けている。グローバル化の名のもとに、使い捨ての労働力として、取り込まれた外国人。その子供たち。このまま進めば、低学歴のまま、就職もできず、社会の底辺に淀む移民の子どもたちがどんどん増えていく。無職者となって犯罪の温床になり、社会のお荷物となっていく。多様性を社会のなかに引き入れ、解け合って、社会を豊かにしていくと責任が日本にはあるのではないか。少子化で人口減少が必至の今、他民族、多文化を国内に入れて、統合することは大切なことではないか。共に生きて、統合した社会を展望することが、豊かな日本をつくることでも避けて通れない道ではないか。これこそがグローバル化ということでないか。 実は私の塾にも、母親が外国籍の中学生がいる。 今まで私が出合った事のない低学力の子どもである。 最初、わたしは、その子がつまづいている所までさかのぼって、勉強をやり直せば普通のところまでは学力を向上させることが出来ると思い、あれこれ試みた。 しかし、そんなに甘くはなかった。この子は一応、日本籍ではあるが、育てたのは外国籍の母親であり、今も母子でくらしている。幼い時からの言葉の蓄積が普通ではなく、小学中学年ぐらいの勉強に必要な日本語しか身についていないし、生活習慣も出来ていない。(日常の日本語は不自由していないように見えるが、それだけでは、勉強するに必要な日本語ではない。)四苦八苦して教えてあげようともがいているが、賽の河原。お手上げ状態。私、個人の力ではどうすることもできない。限界を感じている。無力を感じている。中学側も日本人の生徒と全く同じ授業を与えているので、何もわからぬまま3年間が過ぎようとしている。本人は、何とか道を切り拓かねばという気持ちはあるが、このままだと多分閉ざされたままと思う。制度的に救済し、教育を受ける場を与えて、そこでこの子どもにあった教育内容を行なわないと、社会で生きる事は出来ない。このままでは、進学もできないし、就職もできない。定員割れで辛うじて進学できたとしても、又同じ繰り返しとなるだけ。このままでは、無職になるしかない。このような社会から疎外された子どもたちが、生きるための能力をつけることも出来ず、どんどん社会にたまることがまさに今、起きようとしている。移民の子供たちにたいする教育の在り方を研究開発する必要がある。組織的に教育を定着させる必要がある。クラスの半数以上が何らの形で外国籍であるのに、相も変らぬ暗記主義の点数主義の教育の教室に座らせておいて教育効果があるとは思えない。朝日新聞の連載記事7回めの外国籍の人々の急激な増加が日本社会に何を引き起こしているか。日本に求められているグローバル化とは何かという記事は、迫られる新たな開国という課題を投げかけている。このわたしの実体験からも、これは切実な問題なのである。日本人、ひとりひとりが、狭い地域のなかに閉じこもり、身内で固まっている限り、この今日本が直面している困難を突破できないばかりか、ある日、突然日本人は世界からはるか取り残されて、滅びようとしているのを知るのでないか。
2010.01.10
コメント(2)
ダム建造と自然破壊「しかし自然は権利をもたない」 大江健三郎は、「定義集」という随想を朝日新聞に一ヶ月に一度ぐらいのペースで書いている。今回10月20日付けで、「しかし自然は権利をもたない」確かな行動のための源という標題の随想を書いている。この随想は現代進行中(doing)の社会の問題にたいして、深い分析、根源的な問いかけをしており、今を生きている私たちにとてもすぐれた示唆を与えてくれている。 この随想を引用し紹介したい。 戦後まもない新制中学校の全校自治会で校門脇の石像(二宮尊徳)がぐらぐらしていたため、恐い、危険という女子学生の要望に応えて、議長である大江少年が意見をとりまとめ、石像を撤去した思い出ばなしにはじまり、二宮尊徳がいかなる人物であったかを後、アメリカで出合ったテツオ・ナジタ教授の教えにより知り、ナジタの思想を紹介している。 シカゴ大学のテツオ・ナジタ教授は、二宮尊徳は農民たちに、知識を得たければ自然を読め、と教えたのだという。自然こそ言語であり、自然の文法を知ることがわれわれの教養となり、それによって確かな行動がとれることになる。 このナジタ教授は、近著『Doing思想史』 (みすず書房)で、尊徳と同じ近世後半のやはり異端の農業改革者・安藤昌益に共通する自然の文法の読み方を述べている。その中で、ナジタは、「自然は人権の源である、しかし自然は権利をもたない」と述べている。 このナジタの思想を私流に解釈してみるとどうなるか。 自然に耳傾け、深く知る事は、人が生きるとはどうあるべきかの行動の道すじをあたえてくれる。又、人類の歴史は、自然の法則を知ることで、科学を発展させ、自然を征服してきた。物質的に快適なより豊かな生活を手に入れてきた歴史であったといっていい。とりわけ現代の物質文明はその極点に達している。しかし、現代の我々の多くは、自然から学んで作り上げてきた科学の根源のところには、ほとんど関心は向けていない。人間は何でも作り出せるという傲慢が、今日の大量生産、大量消費へ繋がってきた。現代は、自然と関ることの希薄な大量消費者によって成り立っている。自然などというものは、現代人の多くにとっては、気分転換する従属物にすぎない。あくまで、レクレーションの対象である。自然の法則性を知ることで、人は人らしい生きざまを獲得してきた。そこに「人権」の思想も生まれてきた。そのために数々の血にまみれた闘いや犠牲の歴史もあった。しかし、現代においては、その自然は、人間のエゴによって破壊される一方である。自然界への暴力的な介入は無制限になされているが自然はそれに抗議し自らを守る権利をもたないのである。自然はそれ自身を守る権利をもたないのである。 民主党政権が成立して、大型の公共事業の一つダム工事の中止を遂行しよとしている。群馬県で計画されている八ツ場ダムの中止をめぐって、中止を阻止しよとする勢力と激しく綱引きしているさまが連日報道されている。 八ツ場ダムは群馬県長野原町を流れる利根川の支流、吾妻川の名勝「吾妻峡」に計画された重力式コンクリートダムである。ダムは、1947年9月に関東・東北地方を襲ったカスリーン台風(1都5県で浸水30万戸、死者1100人)を受け、利根川流域の洪水防止の治水対策として計画された。 しかし、利根川の研究者・大熊孝新潟大学名誉教授によれば「利根川に大洪水をもたらす台風のときは、八ツ場ダムの奥にはあまり雨がふらない。洪水調整のしようがなく、八ツ場ダムは洪水対策としては役立たない。治水はダムに頼るののではなく、堤防強化など河川改修が大切だ。」 カスリーン台風で水害が出たのは、戦後直後で河川改修が遅れ、山林が荒廃していたなどの原因が大きい。 国の治水方針では、利根川にあと20以上のダムが必要であるが、計画すらたっていない。要するに国のこの治水政策はすでに破綻しているのである。それどころか、ダム偏重の結果、利根川水系では、ダム予算が増加する一方で、堤防強化を含む河川改修費は急激に減少している。国が強調してきた八ツ場ダムのもう一つの役割は水道用水と工業用水の確保である。1都4県(群馬県、埼玉県、東京都、千葉県、茨城県)の保水水源は1日あたり、約1500万立方メートル。これに対して1日の最大給水量は約1200万立方メートルで、大量に水は余っているのである。かくして治水・利水のためという理由は破綻している。 利水のため、1都4県はこれまで合計1460億円(内約570億円が国庫補助金)負担。ダム建設を続ければ、自治体はさらに支出は増え、住民の水道料金に跳ね返ってくる。1952年に調査開始し、反対住民を切り崩し「同意」をとりつけて、工事を始めてからすでに半世紀の長い時がながれているにもかかわらず、本体工事もまだ発注もされていない。 「八ツ場ダム」のメリットを目先の人間の生活を豊かに安全にする面から見てきたが、その観点からさえ、どんな道理もメリットもないダムが「八ツ場ダム」なのである。建設の論理的な根拠がこれほど見事に破綻しているダムも珍しい。 さて、もっと大きな「自然を守る」という広大な宇宙的な視点からはどうか。10月15日付けの朝日新聞の「私の視点」に環境コンサルタント市川恭治氏が次のような意見を載せているので紹介したい。 大型ダム開発が生態系に及ぼす影響について、ダム完成後の自然破壊は想像以上にすさまじいものがある。景観は一変し、そこに棲む動植物は壊滅的な影響を受け、移動能力のある鳥類や哺乳類は影響を免れることもあるが、その能力のない生き物、特に植物は絶滅してしまう。 あるダムでは工事前はイヌワシをよく見かけたが、完成後は湖面上空を人為的環境変化に強いトビやカラスばかり飛んでいた。工事跡地には帰化植物が繁茂し、水没を免れたエリアでも、ダム湖出現による気象の微妙な変化でウチョウランなどの貴重な生物が消えた。 ダムの下流では、流量の減少や水質変化のため、魚類にも影響が出る。ダムは川の流れを安定させるが、不安定な環境でこそ生息できる生き物が多い。例えば河原特有の植物のカワラノギクは、年数回増水があるような不安定さが生育条件となる。絶滅危惧種に指定された植物が、ダム建造地域には多いのである。八ツ場ダムなど環境影響評価法(アセス法)の成立(97年)以前に計画されたダムは、ほとんどまともほな環境アセスがなされていない。クマタカなど貴重な動植物に対する対応も極めて不十分のままである。 これは、環境アセスメントを何件も手がけてこられた市川恭治氏の現場からの声の一部である。 自然は人権の源であったのに、めちゃくちゃに人に破壊される時は、なすすべなく黙っている。自然は自らの権利を主張する権利をもっていないのである。森こそが巨大なダムであり、その恩恵をあらゆる生き物が受けて生き続けてきた、何千年という人間の歴史があった。それをわずか100年足らずで一挙に破壊しつくそうとしている。しかし、そのしっぺい返しは、さらに壮大に深刻に人間を襲う事は必然である。 「ブナの森・獅子ヶ鼻湿原」の記事でも書いたが、森の破壊は、その場所の破壊だけを意味するものではない。奥深い山の森から海までの生態系を一気に破壊し、取り返すことの出来ない砂漠化へと大地を追いやる。これこそ我々の未来の子孫たちが受け継がなければならない負の遺産であり、年金制度や医療保険がたちゆかないことよりもはるかに深刻なことではないのか。生きる根源が破壊しつくされて、どうやって生きる。 ここまで思いを馳せて、想像力を働かせて、日々行動することが現代の私たちに求められている。大江健三郎の言う「自然こそ言語であり、自然の文法を知ることがわれわれの教養となり、それによって確かな行動をとれる」の意味するところは、まさにこの八ツ場ダムに対して、我々がどう行動すべきか、その行動の指針は何かを的確明快に語っている。それが、人間の知恵、知性というものでないか。ダム建設地の農民たちは、祖先代々の墓を移動までしたのに今さらなどと言って、国民の同情を買おうとしている。自然の大きな営みを破壊して、子孫が住めないような地球にして、御祖先さまは喜ぶというのか。墓移転の方が、子孫に瀕死の地球を残すことを止めることより大切というのか。八ツ場ダム建設中止に反対している人々は、ただその巨大工事に群がって、金儲けしようと企んでいる政治家や建設業者、それらからワイロをたんまり貰っている村のボスたちである。「ダムはもうかる。コンクリートで造るダムなら粗利が20~25%とぼろ儲けなのである」それ以外にどんな建設理由もないダムなのである。 歴史に翻弄され苦しんでいるのは、何も八ツ場の村人たちだけではない。日本中の多くの山村はもっと悲惨な状態に陥っている。ダム予定地でない山奥の村は消え入りそうになっているのである。
2009.10.21
コメント(0)
国民主権実現の根幹は選挙制度の公平性が保障されること「一票の不平等」は「違憲ではない」とした裁判官に×を行使しよう。 「一人一票実現国民会議」という団体が、最高裁判所裁判官国民審査で国民が「一票の不平等」につき、「憲法に違反せず、有効」とした裁判官の名前を知った上で、国民審査権を行使しよう!と呼びかけている。 「一票の不平等」とは、ある市では10万人の票を獲得して議員になれるのに、他の市では20万人の票を獲得しないと、議会に代表者を送り込めないというような、住所によって、一票が差別されていることである。 「一人一票実現国民会議 」は、これからの4年間、国民一人一人が1) 住所による一票の価値の差別が、果たして正義なのか?2) 自分自身にとって、そして民主主義にとって、「一人一票の保障」が不可欠ではないのか?3) 有権者の少数決で法律を作り、首相を選んでいる今の日本は、民主主義国家といえるか?という問題を自分の問題として考え、最高裁判官の国民審査権を行使することを呼びかけています。 多数決による決定をしていない国家が民主主義の国といえるか。 衆議院では、全有権者の42%が、小選挙区選出の議員の過半数(151名)を選出し、参議院では、さらに少ない33%が過半数の選挙区選出の参議院議員(74名)を選出。さらに、その国会議員の中から行政のトップである総理大臣が互選され、その総理大臣が全国務大臣を任命し、その内閣が司法のトップの最高裁判事を任命。つまり、多数決ではなく、少数決で、立法府も行政府も司法まで決定されているのである。この現実からも「一人一票」が保障されなければ、民主主義の原則の多数決とはいえない。 「一人一票実現国民会議」にアクセスすると自分の一票の価値がを知ることが出来ます。私の住む選挙区は、衆議院・・・0.52票 参議院・・・0.25票 である。私の1票は,一票の半分の重さしかなかっったとは。(アメリカでは一票対0.9993票の不平等さえ憲法に違憲と判決) 今度の総選挙で行なわれる国民審査の対象となる9名の裁判官のうち2007年最高裁判決の中で「一票の不平等は憲法違反でないと、差別を容認した裁判官は 涌井紀夫那須弘平 残りの6名は判決を下していないので、意見不明。 さらに、自衛隊イラク派遣差し止め名古屋訴訟で、名古屋高裁の違憲判断を勝ち取った「平和のための国民審査実行委員会」は、「兵の空輸は武力行使で違憲」との判決が確定した08年5月のわずか5ヶ月後に自衛隊のイラク派遣当時の外務事務次官・ 竹内行夫 が最高裁裁判官に任命された。「違憲行為に携わった人が憲法の番人になるのはおかしい」と委員会は主張している。 憲法を守るべき最高機関が、先頭になって「違憲」行為を行うのなら、独裁国家とかわらないのではないか。「憲法は守らず」「判決も尊重されず」このようなことが「少数決」で選ばれた人たちが行なっている。これが今の日本である。 今回の総選挙では、「国民審査権」を行使して、主権者としての行動を起そう。
2009.08.28
コメント(0)
日本の教育政策:子育て支援について 今回の総選挙で各党がその政策の中心に掲げている一つに子育て支援がある。その中に、教育費の負担軽減や無償化が総選挙の争点になっている。 (朝夕めっきり涼しくなり、芙蓉が濃い微妙な紅を一層深いピンクに染めて勢いづいて咲き始めた。朝の散歩道は槿と芙蓉が共演して見事である。) 高校入学から大学卒業までにかかる教育費用は一人あたり、全国平均で1045万円。この額は世帯年収の34%を占めている。とりわけ世帯年収200万以上400万円未満の世帯では、55.6%にもなる。(日本政策金融公庫08年調査) これは自民党政治が「学費は教育に利益を受ける学生本人が負担する」という「受益者負担」論の考え方のもとに、学費の値上げ政策を行なってきたためである。1999年からは自民党と政権を組んだ公明党もこの値上げ政策に加わり推進した。なんと、75年から国立大学の授業料は15倍となり、(国立大の現在の年間授業料は平均52万円)私立大学は4.5倍になり(私立大は同約85万円)高校の授業料は8倍に上がった。 日本の教育への公的支出は経済協力開発機構(OECD)のまとめたデータのよると国や地方自治体の予算から教育機関に出される公的支出の割合は国内総生産(GDP)比3.4%でデータのある28カ国中最下位であった 私費負担も加えた教育機関への支出は05年がGDP比4.9%となり、26カ国中20位教育機関への支出のうち私費負担が占める割合は初等中等教育は9.9%でほぼ(平均8.3%)しかし、就学前教育では55.8%(平均19,8%)高等教育では66.3%(平均26.3%)なんと幼児期、高校、大学時の負担は私費が5割を超えている。 高校と大学の学費を段階的に無償化することを定めた国際人権規約に日本政府は79年に加盟。しかし、そのなかのA規約(社会権規約)13条を保留している。条約加盟国160カ国中(09年現在)保留しているのは日本とマダガスカルだけ。 これらの事実からみただけでも自民、公明の政権がいかに高等教育に税金をつぎ込むことを拒否してきたがはっきりと分かる。公的支援はしないが、教育の中味(教科カリュキュラムの細部まで)に関しては国家統制しようというのである。この事実については何も言及しないで、選挙の票を獲得したいがために子育て支援、教育費の負担の軽減などに全力を注ぐと候補者はこぶしふりあげ声高に叫んでいる。 公明党など、「子育て支援」の元祖は自分たちだと大声をあげている。 しかし、この2党は、高校の学費の無料化はいっていない。さすがに、就学前の幼稚園・保育園の無償化は言わざるをえなくなっているが。児童手当の拡充などというものでごまかそうとしている。 (私の幼い頃は、どこの農家の庭にも、夏の間中、咲いては散り、咲いては散って咲き続けたサルスベリの花。今年は梅雨が長く、雨の中冴えない色で咲き始め梅雨が上がるとやっと色も鮮やかに炎天に燃えて咲き出したが、また、すぐ朝晩涼しく秋めいて、花は終わりになってきた。この気象異変は、もの言わぬ花たちが警告している、) このような異常な高額な教育費を家庭が負担している国は世界でもまれなのである。年収1千万円レベルの階層でも複数の子どもを大学に同時に通わせることはかなり、高負担となり、耐え切れない。まして、年収の低い階層の子供たちは、進学をあきらめたりしており、幼い時から「希望」さえもてなくなっている、勉強する意欲さえ、幼い時から持てなくなっている。能力があっても、自分から降りている。 さらに、最近驚いたことがある。最近、小学生の可愛らしい子たちがわが塾生になった。彼女達の生活は、月から土曜日まで、ほぼ毎日何らかのお稽古や塾で埋められている。 英語、公文、そろばん、習字、ピアノやスイミング、バレイ、新体操などのスポーツ系のお稽古ごとなど次々にこまぎれにやっている。 こんな状態で子どもはまともに育つのだろうか?疑問に思う。 みんながやっているので、やらないと不安なのか、仲間はずれにされるのか、その真意は定かでないがこれでは、公教育は何のためにあるのか。 これには、保護者の経済的負担も大変なもの。 複数の兄弟姉妹がおれば、 その経費の負担はかなりの額である。 (育児支援を現金支給したら、益々この競争は過熱するのでは) 子どもに良い成績を取らせたいために、学校に人質にされているので、言いたいことも言わずご無理ごもっともとイエスマンにならざるを得ない親たち。 教師や保護者が協働して、教育を考え実践していく姿とは程遠い。 これが、自民党が戦後推し進めてきた教育の帰結点である。 益々勉強をすることがストレスとなり、勉強が嫌いになっている。勉強することが「知る」喜びや「世界が広がる」感動に満ちていることを体験したことの少ない子供たち学ぶ楽しさを知らない子どもや親たちが大量に生産されている。 その子どもたちが青年期になったとき待っているものは 高校、大学の教育内容の著しい退廃である。高校の中退者、不登校などは膨大であり、その多くは勉強についていけず、意欲をなくして、学校に通えなくなっている。さらに大学は、大学のレベルの勉強を維持できず、小中学校の復習、中学レベルの勉学に終始している大学もかなりの数になっている。 少なくとも、自公の推し進めた教育が現在の教育の混乱と退廃を生み出した。 高度に発達した大量消費を経済成長だとする社会の仕組みそのものを支える為の現在の学校制度。 自民党は、小懲りなく今回の選挙でも、経済成長戦略で、一人当たりの国民所得を世界のトップクラスに。10年で家庭の手取りを100万円増やします。と宣言しているが、この「路線」上に、現在の「学校教育」がある。 このような『路線』上に、真の再生があるか。 大企業が儲かればそのおこぼれが国民を潤すという論理しかし、先頃の最長の好景気と宣伝されていた自由市場経済はおこぼれどころか、貧困層の問題を益々深刻にしただけだった。 とりわけ、社会の底辺をささえる人材がこのような学校状態で育つか。 「公」教育の在り方が、どうあるべきか、今回の選挙は厳しくとわれなければならない。何でもいいから、耳障りよくばら撒けばよいというものではない。 「改革」は、現状の深い分析なしにあり得ない。国民ひとりひとりに、現状を分析し、その問題点を見抜く「知性」が求められる時代が来た。 その意味でも、色々の階層の意見や要求が代弁される、色々な党が百花繚乱と主張を戦わせること可能な政党を国会に代表者として送ることが必要ではないか。 その意味では、時代の歯車は少し回り始めた。 (ヒヨドリジョウゴとヘクソカズラ。廃屋や樹木に這い登り、巻きつくつる植物のヒヨドリ上戸。その茎にさらに絡まってヘクソカズラの花もさいている。秋深まると、真っ赤に実がなって、見事なヒヨドリジョウゴ。ヒヨドリが食べに来るからこの名があるとも。でも、お盆すぎた8月にもう実が赤くなっている。これも気象異変?私たちの生活のありかたを問い直すことを植物たちが警告を発している。
2009.08.26
コメント(0)
政権交代必至のなかで国民に問われているもの 夏のお日さまのエネルギーいっぱい貯えて甘い、柔らかなトウモロコシわが塾にやって来る生徒のおばあちゃんが丹精込めて育て収穫してみちのくの岩手から孫たちの住む都会にどっさり届けてくれた夏野菜たち(岩手から送られてきたトウモロコシ。孫のことねにも早速茹でて、食べさせましたが、好き嫌いの激しいことねもおいしい、おいしいといっぱい頂きました。)私にもおすそ分けぷーんとトウモロコシの青臭い匂い、懐かしい夏の匂いやわらかなトウモロコシの果肉にみずみずしい甘さ貯えてこれぞ、トウモロコシ(野菜たちがあまりにもみずみずしく、立派なので、感動して思わず絵手紙にしました。でも、本物のピーマンの緑色、トマトの赤色はなかなか出ません)ピーマンの濃いみどり深い青清涼な空気と、夏の太陽のエネルギーをいっぱい吸い込んでどっしりと瑞々しい (トマトの美味しかったこと。わが夫など「今日のトマトは何処のだ?何時もと違うな」などとのたまった。退職後の仕事として、農業でもやってみたらどうですか?トマトそのしたたる赤ぎっしりと実った果肉夏が詰まっている東北の農民のこころが野菜の姿に味に染み出ているこのような野菜をすべての国民がどこに住んでいようともごく普通に口にすることのできる農業を破壊したのは誰か。そして、今も、農業を大規模化して工場のようにして農作物を生産することを奨励する農業が政策としてやられようとしているその目標は大量に安くである形の規格化と味の均一化食をこのように「モノ」とみなして人間が生きる「素」としての作物がほんとうに育つか。美味しい野菜なら野菜嫌いの子などいないよ。野菜といえない野菜を毎日無理やり食べさせられている子供たち これでは野菜など嫌いになる。野菜は「いのち」のかたまり自然の恵みの微妙さに左右されてこそ「いのち」も充実する日本の農業が「いのち」を育む「素」を栽培し収穫する日が来るか。そんな農業を支持支援する「政党」が伸びること今こそ必要なとき政権交代は必至という空気のなかで思うこと 小泉「郵政民営化」を争点にして闘われた総選挙から4年が経過した。 この4年間の社会の変容は驚くべきものがあった。 4年前の選挙の時、このブログで発信しつづけた事実がことごとく現実の問題として露呈し、「郵政民営化」の名のもとに行なわれた数々の構造改革なるものが、誰の目にも明らかに目に見える形で破綻した。その破綻の仕方のスピードのすごさ、破綻の仕方の劇的なことは、私の想像を上回るものであった。 とりわけ、アメリカを支配していたネオ保守主義者たちの経済が、リーマンブラザーズの破綻で劇的に崩壊し、オバマ大統領がアメリカに誕生したことは、アメリカそのものが質的に大きな転換点いることを、私の眼前に示してくれた。 この4年間の日本の政治はどうであったか。 マスメディアの扇動によって、洗脳された国民の多くが、小泉の絶叫した「郵政選挙」に「イエス」の意思表示をしたことで、自公が衆院で3分の2の多数を得た。自公の政権は、その数を頼みに次々に法律を強行採決して成立させた。公約なしで「教育基本法」を改悪し、「憲法改正国民投票法」を成立させ、憲法改正の布石の一つを強行突破した。 さらに、この4年間ではっきりと現れたことは、貧困層の増大である。これほどまでに日本が格差社会とは、今まで国民の目には見えていなかった。あらゆる「矛盾」が一気に爆発的にそれぞれの身にふりかかり、不安な気持ちに多くがなっている。 この私もそうだ。 若い頃より、老後のためと思い、重い税金や年金や保険金の支払いに、我慢、我慢の連続で耐えてきた。とりわけ、子どもたちが大学に行っている時など、重い教育費の負担に飢え死にしそうな思いで踏ん張ってきた。やれやれ、少し肩の荷が軽くなったな、これから、安心して後20年ばかり生かさせてもらおう、と思った途端、年金額は予定より大幅にダウン(あんなに必死に掛けてきたお金はどこにいってしまったのか。年金の基金が株売買の投機で失われた額は莫大である。)、しかもである、高齢者は医療費まで、自分たちであくまで負担せよ、とあいなった。ここで、病気にでもなったら、たちまち路頭に迷う老人となる。 私たちの家庭は、ごく平均的な中流を形成する階層だと思っている。その階層が、棺桶に片足突っ込む今になっても、まだ安らかに暮らせないとは。このような国が真に「豊かな」国といえるか。何のために必死に働いてきたのか。老いてもまだ鞭うたれるとは。しかもである、自民党は若い次の世代にも公平にするために、高齢者も負担せよ、と言っているが、若いものが老いた者を助けるの当たり前のことではないか。自民党の唱えている「道徳教育」やらは「親孝行」ではなかったのか。若いものが、「年寄りを助けること」が当たり前の社会にすることの方が先にやるべきことではないか。その根底のところを変えることしないで、財源がないなどと国民を脅している。 さらに、少子化といわれているが、その少ない子どもたち、どう育っているか大人たちは知っているか?とくに、学力の中、低位にいる子供たち、今のままでは、人として自立できない。働く市民として、社会の一翼を担える資質、基礎を全くといっていいほど育てていない。これは親である私たちの責任でもあるのだが、今の自公の教育方針では、到底解決できない深刻なものがある。全国一斉学力テストに莫大な税金をかけて、毎年やっているような場合ではない。 今、自公政権に徹底的な打撃を与え、退場してもらうことはいいことである。 望ましい。 しかし、それは、自民政権を支えてきた社会の基盤そのものの退場を意味しない。村で町で学校で職場で、あの自民党の体質そのもののボスが支配している。まだまだ侮りがたい力を持っている。 変革をするとは、「政党」が変わるだけでは、到底できないこと。 その社会を形成する一人ひとりが、きわめて政治的にも賢くなり、持続したエネルギーを持たなければ到底「変革」など成功しない。「ばらまき」に終わり、また後退するだけ。わが老後が安心して暮らせる為に、若い者たちが、希望をもって仕事をし、私たち年寄りを安心して支えてくれる社会を築くためには、社会の根っこから変わり続けなければ持続できない難事業である。そのためには、「憲法」の精神を体現して生活できる訓練を、幼い時から、学校で、家庭で、サークルで、徹底してやること必要ではないかと私は思っている。憲法が施行されて、しばらくは、国家が先頭にたって、そのような近代的な市民像を教育の目標にしてきた。それが、次第に否定され、憲法をないがしろする方向にひた走ってきた。その結果が今日の日本教育の姿であり、そこで育ってきたのが今の子供たちである。一人ひとりが、自立した個として、それぞれの場所で、仕事し、共同体を作れる主体者として、成長していかなければ、「変革」など絵空事である。今の子育てや学校の方針は「できるだけ物言わぬバカ」を作ること。「知識」は点取るためにあり、序列つけられ、肝心なことは「ロボット」として、従順に従う大人になることを要求されている。(政治や歴史に無関心はその際たるもの)そして、最低層を形成するものは、いらなくなったら捨てるゴミとして扱われている。それでも物言わぬ人々。人としての尊厳を侵されていると感じないように育っている人々。これが「自民党・公明党」がおしすすめた教育政策の成果なのである。このような人間のありようから脱却することなしに変革などありえない。「子育て支援」などと騒ぎたてているが、教育支援はこのような根底での改革と結びついて行なわれてこそ効果のでるもの。国民の人としてのレベルが厳しく今こそ問われている。
2009.08.18
コメント(0)
5月4日は憲法記念日今こそ憲法を暮らしに息づく身近なものに。 今、日本では、憲法を壊憲する動きが、新たな質的変化を遂げて進行している。すなわち、ソマリア沖への海上自衛隊派遣である。日本に関係のある船舶を海賊から守るためを目的に、国会の承認なしに、海外で武力を行使してもよい。し かも、今までの、海外派兵は、一応「世界平和に貢献」を掲げていたが、今回のソマリア沖派遣は、首相がはっきりと「国益」を守る為のものと国会でも答弁し ている。このように「国益」を掲げて公然と軍隊を海外に派遣する。しかも、国会の承認なしに、武力行使も自由にできる。歯止めはどんどんなし崩しになっているのである。しかも国民のほとんどは無関心か、賛成なのである。公然と憲法に違反してもよい、憲法など守らなくてもよいと国家自らが宣言し、国民もおとなしく従っている。これが現在の日本なのである。戦後62年間の日本国憲法の歩みは、憲法の本質を国民からいかに隠すか。憲法に違反する国家を作るために、国民をいかにあざむくかの歴史であった。現在も、それを着々と実行しているのが戦後ずっと政権の座にある自民党である。それほど日本の憲法は非現実的で、悪い憲法だろうか。改憲、壊憲を願っている人々は、国家をどこに導きたがっているか。もし、この憲法がなかったら、今頃日本は、どうなっていたか。 私は、わが町の「9条守る会」の呼びかけ人のひとりとなっている。私が出来る事は何かを考え、現在「日本国憲法・英語版」を読む会をつくり、英語版日本国憲法から何が見えてくるか勉強している。 昨日3日の民放のテレビ番組「たかじん委員会」というのに、安倍元首相(こんな番組に元首相が出演するとは、首相も軽くみられたものだ)が、口角泡とばし て、壊憲を熱弁。その中のひとつに、日本国憲法は法律の素人がつくた憲法ということをあげていた。どのような資料に基づいてそのようにいっているのか知ら ないが、そのスタジオにいた者たちは、それに拍手していた。これってサクラが送りこまれているのか。(テレビを見ていた国民の多くもこの扇動に多分共感しているだろう。これがテレビの怖いところ。) 私が英語版を読む中で分かった事実は、むしろそれと反対だ。日本の法律専門家などの憲法草案(当時色々なグループが案を作っていた)を参考にもしているということがわかった。更に、憲法前文を起草したケーディス大佐はコーネル大学卒業後ハーバード・ロースクールを卒業。ハッシー中佐はハーバード大学で政治学を専攻しバージニア 大学ロースクールを卒業。ラウエル中佐はスタンフォード大学終了後、ハーバード、スタンフォード両大学のロースクールを卒業、3人ともキャリア十分な法律 家なのである。年齢的にも40代と若く、もっとも先進的な法律の専門家であり、彼らの学識は世界に誇れるものとっていいのではないか。少なくとく、安倍元首相よりは、見識、学識において、上にあると言える。(安倍元首相こそどんな法律を何処で学んでいるかと問いたい。) それに、振り返り日本の歴史を眺めれば、憲法に類するもの、例えば、聖徳太子の憲法17条、更には大宝律令、これらは、ほぼ中国の制度、思想を取り入れたもの。明治憲法も、まるっきりドイツの法律学者の意見を受け入れた。絶対王政の立憲国家をめざした西洋のもの真似。要するにもの真似ばかり。まねしながら、日本の風土にあったものを作り変えていくのが、日本人は得意なのだ。真似が一概に悪いとはいえない。安倍元首相は、占領下で制定された日本国憲法は主体性ない憲法といっているが、現在の日米安保条約の方がよほど主体性なく、経済力ある独立国家とされている日本の、主権が随所で侵されるというしろものだ。安倍元首相の好きな「万世一系の天皇」の祖先、飛鳥・奈良時代など、政治、文化の中心的な担い手は渡来人であり、今の中国・韓国人の祖先の人たちだ。皇室だって、この渡来人の混血もありではないのか。この状態が何が悪いというのか。水は高きから低きに流れる。ものまねばかりの日本文化が、現在の「日本国憲法」だけ、「ものまねの非」を声高に主張するのは、明らかに邪な「利害」が絡んでいるかにすぎない。国民の利害とは対立する、極めて「党派」的な利害のためだ。 同じ3日のテレビ番組、NHKスペシャル:「Japanデビュー2 天皇と帝国憲法」を放映した。この番組は、明治憲法における天皇の問題を、現代の日本国憲法はどう受け継ぎ発展させたかという視点から、明治憲法制定から、現行憲法制定の過程を歴史的に追いかけていた。現在の憲法が、天皇を象徴にした必然を当時の歴史的状況のなかで、日本人が選びとった選択肢のひとつとして挙げていた。 オバマ大統領になってから100日が過ぎようとしている。オバマ大統領は、歴代大統領として、はじめて原爆投下に関する責任にふれ、「核兵器のない世界」をめざすと公式に言明した。核抑止力として、核をもつことの言い訳としてきたアメリカの今までの戦略と大きく質的転換をした瞬間だ。オバマの外交政策は、今までの反米国家との関係も武力による威圧から話し合いによって解決することに大きく変わろうとしている。 これは、世界の大きな流れだ。 その意味でも「日本国憲法」の9条の存在は、未来の姿を暗示している。益々、輝くものだ。 「英語版 」の意味、価値もさらに有意義なものとなる。 憲法の精神が暮らしの中に息づく政治。そのような政治が実現できたら、日本の社会は大きく変わる。今、一度、憲法の中味を吟味し、深く考える時。政治を変えなくては、社会は変わらない。私たちの暮らしは変わらない。 次回から数回にわたり、日本国憲法「英語版」を紹介していく予定である。 グーグルの広告にあった映画、必見の価値あり、お薦めです。このサイトなかなか参考になります。 「映画日本国憲法DVD」
2009.05.04
コメント(0)
もうひとつのアメリカの底力 2009年1月20日 アメリカ合衆国大統領にアフリカ系黒人のバラク・H・オバマが就任した。47歳という若さである。 大統領就任演説の全文(日本語&英語)が報道されているが、この演説を聴くと(読むと)その演説の内容の壮大さに深い感銘を受ける。何よりも、現実のアメリカの危機を、資本主義の市場(Market)の暴走にあり、監視を怠たったため制御不能となり、富めるものだけが益々富む社会となったことに起因すると指摘している。それは、一部の者の強欲(greed)と無責任(irresponsibility)に起因すると、はっきりと言い切ったことは、すごいことである。つい数時間前のアメリカの指導者たちとは、質的に異なる価値観で歩み始めることを世界に宣言したことにもなる。そして、その社会の繁栄の指標を、GDP(Gross Domestic Product)の規模で測るのではなく、繁栄(prosperity)がどこまで及んでいるか、その到達範囲に成功か否かを置くべきと述べている。 そして、その祖先の人々の歩んできた歴史を旅(journey)にたとえ、Our journey has never been one of short-cuts or settling for less. It has not been the path for the faint-hearted,for those that prefer leisure over work,or seek only the pleasures of riches and fame. 先人たちの旅には近道も妥協もなかったし、勤労よりもレジャーを好み、富や名声の快楽をだけを求める臆病者の道ではなかった、と。むしろ、彼らは、危険にさらされることを厭わぬ者、実行する者、物を作る者たちである。有名になった者もいたが、たいていは目立たぬ日常のなかで懸命に働く男女たちである。彼らが、繁栄と自由の長く険しい道へと私たちを導いてくれたのだ。そして、繁栄と自由は、このような先人たちのたゆまぬ努力によって獲得されてきたものであり、与えられたものではない。先人達が成し遂げたのだから、我々も必ずこの難局を乗り越え新しい社会を創り上げることが出来る。All this we can. All this we will do. そして、すでに足元で大地は動いている、と言い切っている。 What the cynics fail to understand is that the ground has shifted beneath them, that the stale political arguments that have consumed us for so long no longer apply. 新自由主義者たちが死守してきた陳腐な議論・思想と決別することを高らかに宣言している。 But our time of standing pat, of protecting narrow interests and putting off unpleasant decisions - that time has surely passed.昨日までの狭い利害のなかにとどまることを今こそ拒否し、アメリカの再生に奮い立つべき時が来た。Starting today, we must pick ourselves up, dust ourselves off, and begin again the work of remaking America. 黒人で初の44代・オバマアメリカ大統領の誕生は、人類歴史の歩みを人民の側へ一歩すすめた記念すべきことであるにちがいない。 アメリカの国民の底力のすごさだ。民主主義的に訓練された人々が国民のなかに大きなうねりとなって存在していることの証明だ。さすがアメリカ!民族のエネルギーの混沌、狂乱。民族のるつぼアメリカ。ますます面白くなるアメリカの歴史だ。 オバマ大統領の演説が今後どう実現されていくかは、まだまだ曖昧模糊としている。困難な道のりになるであろう。しかし、アメリカ国民には、その道を切り開く底力がある。エネルギーがある。それが苦難に満ちていようとも、必ず切り拓く。それがアメリカだ。 日曜日の朝・民放テレビに田原総一郎の「サンデープロジャクト」という番組がある。 1月25日のその番組に、オバマ政権の経済担当のブレインであり、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるクルーグマン博士が登場した。田原総一郎キャスターは、「100日してもアメリカ経済に変化が出てこなかった場合、オバマ人気にかげりがでてくるのでは。今後の経済の見通しは?」などを質問した。クルーグマン博士は「100日では、何をやろうとしているかの政策は少しづつ明らかになってくるだけだ。むしろ景気は悪くなっている。アメリカ国民は忍耐強く待つ。2年間では景気は回復しない。どう進むべきかの道筋が具体化されてはくるが。」更に、住宅の値下がりにいつ歯止めがかかるかという質問には、「アメリカの住宅不況は、今現在まだバブルであり、今後さらに値下がりする。オバマの政策は4年後ぐらいに具体的に景気への影響を及ぼであろう。」というような意味のことを答えていた。長い道のりが必要であることを述べていた。更に「アメリカ国民が消費に駆り立てられ、世界の経済の景気を支えてきたのだ。中国の好景気は、アメリカの消費によって作り出されてきたものだ。その意味で、この経済危機はグローバルな問題であり、アメリカが消費をささえないでも繁栄する経済の仕組みをつくりあげて、好転させていくには、時間がかかる」とまで言い切っていた。この発言は、これからの世界経済(日本経済のことでもある)のあり方を示すものとして、意味深い。 ところで、日本の麻生首相は、このオバマ大統領の演説について、記者団に次のように述べている。「経済危機に関する認識が一致している。国民の潜在力を引き出す手法も基本的には同じ。こういう感じであれば、世界一位、2位の経済大国が一緒に手を組んでやっていけると改めて確信した」と。余りにも恥ずかしい日本の首相の発言。この人、本当にオバマ大統領の演説聞いたのかしら?深く読みこんだのかしら?経済危機に関する認識など日本の首相とは全く一致していない。むしろ反対なのだ。経済成長率に対する考え方も全く相容れていない。麻生首相は、経済が回復したら消費税をあげることを強く主張しているが、経済の回復の指標も、多分、これからはアメリカとは全く異なるものになる。アメリカの後追い、真似だけで生きている自民党には、このオバマ大統領の演説は理解不能なのだ。麻生首相は、日本の経済はアメリカに比べ、経済危機からのダメージが少なく、日本人はもっと日本に誇りを持つべきとさえ言っている。日本の経済界でさえ、もっと厳しい認識をしているというのに。先日、トヨタの新しい社長になる予定の豊田章男氏は、記者会見で「自動車産業が市場に必要とされているかどうか、もう市場からは出て行けといわれているのかどうかの点にまで踏み込んで、今後の方針を考えなければならない」と言っていた。日本のリーディグ・カンパニーのトップの認識にくらべても、麻生首相には、今回の経済危機は全く対岸の火事、他人事なのである。 私たちも、大地を動かすべき時だ。 ここで日本は、アメリカに、日本の憲法のすばらしさ、世界に誇る日本の憲法の先進性とその歴史をオバマ流に壮大に語って、論陣をはり、独自の国のありかたをアメリカに主張することが必要だ。日本の先人達が、いのちを賭して勝ち取って来た、人権や平和の理念がそこには刻まれている。いまこそ、日本の立場をきっぱりと主張し、相手にその道理を認めさせる外交を展開すべきだ。アメリカだけが、人権や法のもとでの自由を獲得して繁栄を築いたのではない。オバマ大統領は、その自国の先人たちの苦難の道に学び、奮い立てよ!と国民を鼓舞しているが、どの国にも独自の人権の道のりがあり、アメリカが世界の唯一の物差しではないことを知るべきだし、その上で、外交を展開すべきだ。そうすれば、世界の戦争や貧困はもっと異なる様相で解決へとむかうはずだ。そのためにも、日本はもっと毅然と物申す時がきた。 オバマ大統領の就任演説は、壮大で格調高い。とりわけ、英語で聞くと思わず、その力強いリズムに引き込まれる。英語ってこんなに美しい言葉だったっけ、と浅薄な知識の私めも感銘をうけた。そのスピーチ・ライターのチーフが27歳の青年とはまたまた素晴らしい。
2009.01.24
コメント(0)
報道の中立性とは何か 昨日10月19日(日)、東海テレビ製作・FNSドキュメンタリー「光と影~光市母子事件 弁護団300日」が再放映されたので見た。 このドキュメンタリーをみて、久々に爽やかな深い感動をうけた。 この報道が深い人間性のところに依拠して、事実を丹念に救い上げようとしているその姿勢に感銘した。 このドキュメンタリーは、1999年4月14日山口県光市で木村洋さんの妻と生後11ヶ月の長女が殺害された。当時18歳だった少年が逮捕され、一審ニ審の判決は無期懲役。しかし、最高裁は、死刑含みで、審理を広島高裁に差し戻した。最高裁の途中段階から、弁護団が差し変わった。それは、起訴事実を争わず、ひたすら情状を主張した旧弁護団らが「死刑含み」の状況に危機感を感じ、この事件を再調査することから始めた。事件の本質は何かを徹底的に究明することにより、事件を解明しよと方針を転換した弁護団が結成された。その21人の弁護士たちの闘いぶりを300日間に及んで記録したものである。 弁護団がその苦闘の調査のなかで、見たものは、加害者の想像を絶する凄惨な生い立ちから帰結される人格、人としての未発達、幼さ。弁護士が、その加害者と人間として関り、加害者の心に波紋を投げかけ、自分の犯したことの意味を理解させようとする闘いのなかで、裁判は進行していく。刑事事件の弁護活動とはどうあるべきか、弁護士はどのような職責を持つべきか、深いところでの問いかけが続けられた。判決は「死刑」となった。その時、理不尽な事件で突然妻と子を失った木村さんは、「自分たちは、これからこの判決を一生背負って生きていくことになる。このような事件が二度と起きないことが、この判決をいかしていくことになる」というような意味のことを記者会見で述べていた。被告弁護団は「この事件の真相、事件の起きた根源を明らかにし、このような事件が、社会で二度と起きないようにしていくことが、弁護団の仕事であり、その意味では、この弁護活動は終わりではない。死刑で終わりというのでは、何も解決されたことにならない」と発言していた。 このような類似した悲惨な事件は、その後も次々に起きている。 痛ましい事件の被害者が真に救われる道は何か。 このドキュメンタリーは、事実を坦々と追うことで、被害者が真に救済される道すじはどうあるべきかを静かに語りかけている。とても深い重いドキュメンタリーである。この番組は、平成20年度芸術文化祭で日本民間放送連盟賞・番組部門テレビ報道番組において、最優秀賞を受賞した。 折りしも、余りにも偶然であるが、今日の新聞報道は、大阪の橋下知事が、朝日新聞の社説(橋下知事のタレント弁護士時代のテレビ発言について、橋下敗訴判決を論じた上で、橋下氏の責任を厳しく指摘し、弁護士を返上したらと論説)にたいして、こともあろうに、伊丹市の陸上自衛隊伊丹駐屯基地で開かれた「中部方面隊48周年記念行事の祝辞で、「人の悪口ばっかり言っているような大人が増えると日本はダメになります」と言ったと報じている。橋本徹氏はテレビタレント時代に、この光市母子殺害事件の被告弁護団を「懲戒請求」するようテレビでよびかけ、視聴者を煽っておきながら、自分は「懲戒請求」をしなかったばかりか、「被告弁護団」から名誉毀損で訴えられても、一度も裁判所には出廷せず、敗訴した。弁護士への懲戒をもとめるとは、何という傲慢。「光と影」のドキュメンタリーの被告弁護団の闘う姿を見て、人生の年輪、深さ、社会に対する思いの深さ、橋本弁護士とは、全く質的に違うレベルいる人々ということが分かった。「自分と意見が違う」から「懲らしめ」をと視聴者に呼びかけ扇動する。地裁で「敗訴」となるや、「私の法解釈が誤っていた」などと形式的に謝罪しながら、高裁で争うつもりか「控訴」した。なんという支離滅裂。このような身勝手さを許しているのは誰か。甘ったれるなといいたい。このように甘えさせているのは誰か。テレビに代表されるマスコミである。視聴者である我々だ。選挙民である我々だ。このような風潮は非常に危険である。このようなマスコミのなかにあって、「光と影~光市母子殺害事件 弁護団300日」という番組を制作する人々がいたということは、とても驚きである。
2008.10.20
コメント(0)
「無言館」の画学生が現代の若者に語りかけるもの遅れて「憲法記念日」。 憲法記念日にわたしの地域の「9条の会」が、講演会を開催した。その日の弁士はジャーナリストの大谷昭宏氏で「みんなの命輝くために」という演題で講演された。現代社会の日々起きている異常・混乱・貧困などから話を始め、この現実は単に「自己責任」によってもたらされているものではない。人間の生存を脅かしているものに対して、敏感になって、立ち向かう必要性を訴えられた。「9条を守る」ということは、戦争をしないことを世界に宣言するということにとどまるものではなく、生存権を明快に規定した25条など、現在の日本国憲法全体を守ることであり、今日的意義は益々高まっており、その重要性を強調された。時代に合わないところがあるからと、改憲に賛成し、憲法に手をつけることの危険性を訴えられた。 改憲勢力は、何のために憲法を変えたがっているか? アメリカの軍事戦略に追従する為だけである。 日本国民を守るためではなく、アメリカのためである。 この1点のみが改憲勢力の望むところである。では、そのアメリカは、今どうなっているかと、話しは進み、私がこのブログでも紹介した、堤 実果さんの「貧困大国アメリカ」にもあるアメリカの格差・貧困についてわかりやすく具体的に話された。 高齢な夫婦が介護に疲れ行き詰まり、つれあいを殺害して、手錠をかけられて警察へ連行される姿。幼子が親に虐待され、殺される痛ましい事件。最近の日本の殺人事件の5割以上が肉親・家族間に起きているという。若い15,6歳の少女たちが、理不尽な殺害事件にまきこまれる。年間3万人を超える自殺者がいる日本(世界で1位の人数)。これが世界2位に資本主義経済を発展させた日本の今日の姿なのである。 いとおしく思うものたちが、お互いに深い情愛を育てていけるような社会、そのような日々のくらしが実現できるようにすることが、日本国憲法を守ることにつながらざるを得ないことを、ジャーナリストとして、日々現場で色々な事件に接すれば接するほど益々感じていると結ばれた。 この「9条の集い」では、大谷昭宏氏の講演のほかに、地域で活動しているさまざまなサークルが出演して、日頃の成果を披露した。 和太鼓や合唱や朗読などである。 朗読サークルが、窪田誠一郎著:無言館戦没画学生「祈りの絵」(講談社)の本から「無言館より」を朗読した。サークルのメンバーは残念ながら私と同世代の少し若い主婦ばかりであったが(若い人たちにやって欲しい朗読であるが」)、若くして戦死していった青年達の絵にたいする情熱、妹や母や愛する者たちへの深い思い、惜別の思い、母たちの悲しみなどが溢れんばかりの言葉から、静かにある時は激しく朗読されて、心に深く沁みるものであった。 「無言館」は、長野県上田市の浅間山を望む塩平に、ひっそりと佇む小さな素朴なロマネスク教会のような美術館である。(当ブログ「サンティアゴ巡礼街道」の写真の中でも、しばしばこのような佇まいの鄙びた教会を紹介してきた)この「無言館」には戦没画学生の遺作300点余りが展示され、彼らの無念の思いを伝えている。このような「夢や希望に満ちた」若い画学生の青春を台無しにしてしまった戦争。慈しみ大切に育てた息子を失った母の哀しみ。このような平凡な日々の暮らしを、有無を言わせず破壊してしまった戦争。このような無数の青年たちの無念さがあったからこそ今日の日本国憲法9条がある。近代法の最も先進的な位置にある世界に誇る日本国憲法幾千幾万の若い命の代償として得たこの陣地を後世に生きている私たちが、守り発展させることは人としての義務ではないだろうか。 世界の保安官、世界の憲兵として、アメリカ軍が世界の各地に駐留している。世界の安定・平和のため、アメリカ軍がいないとダメなのだというのが彼らアメリカの論理である。 中東のイラクや中央アジアのアフガニスタンで戦争を続けている米国。それを支えるのが世界中に張り巡らされた米軍基地網。 米国防総省ガまとめた「2007会計年度 基地構成に関する報告書」によると、世界39カ国・領土に823の基地が存在。17万6000人の米兵が駐留し、米国本土の189万人の兵力とともに、世界規模で軍事作戦を展開しているのが、現在のアメリカである。 最も多く米軍基地を抱える国は、欧州の拠点となっているドイツ(基地数287・米兵数63958人)海外侵攻を目的とする部隊が常駐する日本は、第2位で、アジア最大(基地数130・米兵数48844人)。現在、沖縄に駐留する海兵隊は、イラクとアフガニスタンに沖縄から出動している。(日本の政府がどう弁明しようと、日本の国土から他国を侵攻する軍隊が出撃している。これは日本の主権侵害である)しかもである、米軍の駐留にかかわる経費をどれだけ負担しているか皆さんご存知か?日本は基地数・米兵数トップのドイツを抜いて、ダントツのトップ44億ドル(約4600億)を負担しているのである。2位のドイツの2.8倍。3位の韓国の5倍以上の金額なのである。なぜ日本の負担がこれだけ多いのか?これは日本の『思いやり予算』のためである。日米協定では、米側が負担することになっており、日本が負担する義務もないのに、気前よく負担している経費のためである。豪華な司令官用住宅やゴルフ場などの建設費、バーやレストランなどの米軍基地内の娯楽施設で働く従業員の給料などまで負担しているのである。これは30年前から始まっている。ドイツでは、兵舎や家族用住宅、スポーツジムなどの施設、従業員の給料などは、負担の対象外。 日本は金銭面においても気前よくアメリカ軍にふるまって、ご機嫌をとっているのである。これはすべて国民の税金から支払われている。自衛隊そのものが、日本国民を守るものでなく、深くアメリカの軍事戦略に組み込まれ、日本国の主権が踏みにじられていると言うのに、金銭面においても卑屈な日本政府なのである。アメリカの沖縄基地の一部のグァム移転においても、日本は豪華な兵の住宅建築費(1戸あたり7000万円)まで負担することをアメリカから要求されている。このアメリカ軍が現在、世界の安定ではなく、世界の不安定・紛争混乱の火種になっているのは、テロ集団と同じというのが事実ではないか。米英のNGO「イラク・ボディー・カウント」によれば、開戦からこれまでの民間人の死者数は最大9万人。世界保健期間は今年1月、戦闘員を含む死者が15万1千人と発表。バグダット陥落までに投入された米英軍は約30万人。その後も内戦状態が続き、今も10万人以上がイラク駐留を続けている。戦費は不明だが、最終的コストは約200~300兆円か。イラクに派遣された日本の航空自衛隊員は述べ3千人。クェートとイラク国内3空港との間を飛び、輸送回数は4月17日までで、694回。物資の輸送量600トン。(情報は公開されていないのでよくわからない)このような愚かな戦争に、日本はすでに深く関っており、莫大な経費も負担している。日本政府は、なぜここまで卑屈になってアメリカに追従するのだろう。経済のみならず軍事においても、自国の憲法をアメリカのご都合にあわせてまで追従する日本。 日本の若者の多くは、イラクやアフガニスタンという国がどこにあるかは勿論のこと、今、そこで何が起きているかさえ知らないものが多い。お気楽に刹那的に生きている高校生や大学生が多い。(宮崎県さえどこに在るか知らないものが多いなか当然のことかも) 「無言館」の画学生達の無念さを深く歴史の中から学び取る知性を、今の中高生大学生とその親たちは、自らのものとするべき時だ。深い思索を今こそ要求されている、と私は日々、学生と深く関れば関るほど感じている。わが地域の『9条の会』の集いに参集した人々も老いたる者が多く、若者は極めて少ない。日本の若者達の身に何が今降りかかろうとしているか、その親たちも含めて、もっと学ぶべき時である。
2008.05.20
コメント(2)
毒入りギョーザ事件は現在の日本の食文化をあぶりだした。 重態者を含む10人の有機リン系農薬中毒被害を引き起こした中国製ギョーザ薬物中毒事件は、その規模の大きさといい、企業や国の対応の甘さといい、現在の日本が抱えている食の問題を象徴的に表すものとなっている。 今回の事件によって、日本の食文化の実態がいかなるものであったかを、私たち国民の前に具体的にあばいてくれた。とりわけ、中国の一企業に、日本の数多くの食品企業が委託生産させていたのには、驚いた。日本のメーカーは異なるが、皆が同じ中国企業に生産を移管して任せていた。学校給食の食材にまでそれが、使われていたというから驚きである。 なぜ日本企業は、中国の企業に委託生産させているか。その理由は、原材料と賃金の安さである。これは冷凍食品に限ったことではない。あらゆる製品にあてはまること。徹底したコストダウンを要求して作られたものが日本の食卓に入ってくる。現在日本の食の自給率は40%を切っている。乾燥野菜に至っては81%が輸入であり、中国産がほぼ100%であるのは、きくらげ、ぜんまい、だいこん、かんぴょう、などの乾燥野菜である。ソバは79%(輸入国、中国から7万1718トン、アメリカから1万432トン、オーストリア1136とん) 玉ねぎは30%(輸入国、中国から20万7388トン、アメリカから5万2742トン、ニュージーランドから万7724トン)。ソバ、タマネギまで、これほどに中国産に頼った食生活になっているとは、驚きである。その他、こんにゃくや干し柿まで中国から輸入しているという。賃金や原材料が安いところに、群がっている日本の商社や企業。安く大量に収穫するには、どんどん農薬や化学肥料をつかって収穫するのが手っ取り早い。厳しい食品基準や、コストダウンを要求する日本の企業や商社。安い賃金で無権利な状態で働く労働者。これではまともな製品が出来ないのは必然。まして自分達が食べるものではない。後は野となれ山となれ。これは、高度成長前の日本の農の姿でもある。自分の家族用の野菜は別の畑で栽培している農業。市場出荷するものを、生産者は食べていない。私が幼い頃、農薬が世に出た頃、真面目な百姓ほど農薬を几帳面に散布した。その結果、村の何人もが農薬中毒で死亡していた。誰ひとりとして、農薬の害など声高に訴えなかった。陰ではこそこそ「農薬の危険」を噂しあっていたが、すべて分けのわからぬ突然死として葬り去られていた。農薬などは、農家の物置に放置されており、誰でも手にすることが出来た。手軽に農薬を入手出来たので、青年の自殺者の多くは、農薬で自殺した時代であった。中国も、そのような日本の農村風景を繰り返しているだけだ。遅れてやっているだけだ。これだけの膨大な量の食品を輸入しているのに、輸入食品の食品検疫に従事している食品衛生監視員はわずか334人である。輸入食品の急増の中、検査率はわずか10%。さらに、加工食品の原材料の残留農薬基準の適合検査など一切していない。(一律0.01PPMを一応定めている)国が行なっている検査はモニタリング検査。検査結果が出るまで輸入を止める検疫検査でなく、輸入流通を止めない検査をしているだけである。 今回のこの問題になっているギョーザが、仮にこの現行の検査に引っかかったとしても、検査結果がでた時には、そのギョーザは、国民の胃袋に入ってしまってからということになる。食料の6割以上を輸入に頼っている国が、このような貧弱な輸入検査体制なのである。 国民のいのちの素とも言うべき食料のありようがこのような国、それが今の日本。すべて、市場原理万能、規制緩和、グローバル化を旗印に進められてきた経済制度、政治の行き着いたところがこのありさまである。 現在、国が進めている「平成の農地改革」なるものは、グローバル化の名のもとに財界にビジネスチャンスを農業・農村に広げるためのものであって、益々農の衰退、食生活の貧困をもたらす以外の何物でもないこと、今回の事件からも益々明らかになってきた。今回の毒入りギョーザの輸入元親会社・日本たばこ産業会社(JT)の株主は財務大臣で、同社株の50.02%を所有している。要するに株の半数を国が持っている。しかも、三人の旧大蔵省官僚が天下りしている。準国営企業なのである。その子会社のJTFが、先頭になって、日本の食を貧困化している。日本の農を衰退させる先頭にいる。(しかも、JT株は事件が公表される2日前に大量に売られ、インサイダー取引の疑がかけられている。どう転んでも金儲けしようとしている奴らが背後でうごめいている)高校生のお弁当など、ほとんど毎日冷凍食品のオンパレード。彼女たちは言っている。「毎日、朝ジーチンして弁当箱につめるのは、冷凍食品ばかりで、飽きる」と。食べ残しても、捨てるのにも何の痛みも感じていない。子供たちが食品の元の姿。野菜や魚や肉などの姿を全く知らないまま、知ろうという意欲もなく、ただ機械的に毎日冷凍食品を口に放り込んでいる。食となる野菜や米などを作る労苦など考えたこともない。これで、人として本当に育つのだろうか。季節を問わず、あらゆる食品がいつでも手にいれることができ、豊富な食品が氾濫しているように見えるが、現実の食生活はとても貧困といえるのが現代ではないのか。真に美味しい安全な食品を口するには、手間隙がかかり、コストも割高だ。富裕層は、お金でそれを手に入れている。貧しい庶民は、自分で自給自足する生活をしないと、いのちを豊かに維持する食料を手にすることすら困難な日本。 私は、個人的に有機農業をもくもくとやっている青年から野菜を購入しているが、彼の農業は、自立して社会で生きていくには余りにも貧しすぎる。親のバックアップなくして成り立たない農業。農薬や化学肥料を使わないで、作る農業の大変さは並みのものではない。多様な農のあり方を認めない農政。このような人々が切り捨てられる農政。 これは余談であるが、先日コトちゃんの「森のようちえん」に、ママに代わって引率者として同伴した時のこと、底冷えがし、寒空の日、森の中は、たぶん3度ぐらいの日中。この底冷えの森のベンチに座り、お弁当を食べていた男性がいた。この男性は、この森を管理し守っている県の職員であった。いかにも森が好きで、もくもくと木こりの仕事をしているという朴訥な人。でも来年度から、行革のため、人員整理となり、首切りとなるそうだ。よく手入れされた森、もくもくと黙って誠実に働く人、身を切る寒さのなかで、お弁当を独りで食べ、働いている人。この人を人員整理の名目で首にして、ほんとうに財政再建できるか。豊かな未来をつくる国にすることが出来るか。黙って誠実に生きている人々を足蹴にして、大声で財政再建を叫んでいる輩がぬくぬくとしている国。まともに働く人々を平気で切り捨てる国、これが今の日本の姿である。今回の毒入りギョーザも起きるべくして起きた事件。今、日本の社会で起きている深部を私たちにあぶりだしてくれただけである。社会の根っこのところは、そのままにして、むしろその矛盾をさらに助長するようなことばかりやってる国政。これで、財政再建など出来るはずがない。根っこのところを大きく転換することなしには、食の安全も豊かな食文化も守れない国、日本。このことを今回の事件は私たちに教えてくれている。
2008.02.07
コメント(0)
今日は終戦記念日。 この週は戦争に関するテレビ番組に興味深いものがあり、終戦記念日のこの日に、戦争について考えるとてもよい機会を与えてくれた。 NHKテレビ 12日放映された終戦特集ドラマ「鬼太郎が見た玉砕」 これは2度の玉砕から生き残り、左腕を失った漫画家・水木しげるの戦後と戦中を描いたものである。1971年、かつての戦場ニューギニアを再訪して、帰国後、漫画家・水木しげるは戦死した戦友に後押しされて、漫画『総員玉砕せよ!』を描き始める。自分の分身である丸山2等兵にのめりこんで執筆しはじめる。極限の戦場と苦闘の執筆の日々。「ゲゲゲの鬼太郎」の画面から抜け出した鬼太郎たちがが見守るなか、《玉砕》の真相が明らかになっていく。 水木しげると丸山2等兵を演じたのは、香川照之さん。水木しげるの戦争体験を体当たりで演じた真迫の演技には鬼気さえ漂い、戦争の残忍さ、非人間性をあますことなく暴き出している。戦場の悲惨を人間の愚かしさを徹底的に滑稽なものとして笑い飛ばしている。香山照之の真摯な並々ならぬ気迫に満ちた演技力が、戦争をするものに対する深いところから湧き上がる怒りや哀しみを、見る者に呼び起こさずにはいなかった。 更に、NHKスペシャル2夜連続企画(13日、14日)で東京裁判をとりあげた。第一夜:「A級戦犯は何を語ったのか」 これは、第二次世界大戦における日本の戦争責任を問い、A級戦犯を裁いた東京裁判についてのドキュメンタリーである。A級戦犯容疑者のなかから、起訴された28人がどのように選び出され、国際検察局の尋問にどう答えたかを、米国立公文書館に眠る2万枚以上の尋問調書などを基にして明らかにしていくものである。 特に、日米開戦当時の東条英機首相、日中全面戦争開始当時の広田弘毅外相、南京攻略戦の司令官・松井石根の3人を中心に国際検察局との攻防を辿っていた。戦争の最大の権力者、昭和天皇を不訴追としたのは、「国際検察局を超えた判断」、マッカーサーの意向があったことなどが資料から明らかにされた。この番組は、東京裁判のあらましを知ることができ、とても興味深かった。第二夜:パール判事は何を問いかけたのかー東京裁判の知られざる舞台裏ー 2日目は、11人の判事のうちただ一人、被告25人全員の「無罪」を主張したインドのパール判事の実像や思考の過程を証言や資料などからたどり、東京裁判の意味を問い直そうとした。(「靖国派」は、パール判事を日本の侵略戦争を正当化する援軍に使い、崇めて、靖国神社に銅像まで立てている)パール判事の主張した「無罪」に込められた意味は何であったのかを番組は、膨大な資料を読み解くなかで次第に明らかにしていく。 パール判事は、インド独立運動の父ガンジーを尊敬し、西欧諸国の植民地支配を批判する思想の持ち主であった。パール判事が「無罪」を主張した根拠は、東京裁判の裁判憲章(マッカーサー司令官が提案し、署名したもの)は、事後法であり、その当時合法なものを後の価値観(戦勝国)で裁くことに異議を唱えていた。この裁判憲章には、平和に対する罪(英米法の「共同謀議」概念を採用・侵略戦争)・人道に対する罪(市民に対する残虐性など)を定め、戦勝国が戦争を犯罪として新しく規定しており、そのような憲章は許されないとしている。西欧列強も、アジア地域をかつて殖民地として支配してきた、その過去の戦争や侵略に対しては、西欧は自らを合法としてるのに、その同じ事を新たに戦争と規定して裁くことに反対を表明したのである。 しかし、パール判事は、日本の行った戦争に対して肯定したわけでないことが、資料や証言の中で明らかにされていく。彼の批判の矛先は、欧米列強の侵略戦争を真似た「満州国」建国にも向けられており、日本軍がフィリッピンで起した「バターン死の行進」での捕虜虐待を「極悪な虐待」と批判。南京事件についても「証拠は圧倒的」として、日本軍の「残虐行為の鬼畜のような性格は否定しえない」と指摘している。さらに、彼の後輩のバタチャジー判事は、「パール判事は、自分の判決を《根拠》に日本の侵略行為が支持されることがあってはならないと言っていました」と証言している。 パール判事が、1966年に日本に来日した際には、「戦後日本が得た平和憲法が世界に広がって欲しい」とも発言している。同時に、パール判事が退けた「人道に対する罪」「平和に対する罪」の概念が、戦後の国際法に定着しつつあることも事実である。パール判事は、「罪がない」という意味ではない「無罪」を主張した。裁判後、パール判事は「戦争は平和への手段として失敗だった」と語っている。 「大東亜新秩序の建設」という美名のもとに、領土拡張と他国支配を繰り返したかつての日本の大きな戦争。この時代を「美しい国」だったと美化し、その世界観を復古しようとする政治勢力が、先の参議院選挙で、国民から「ノー」を突きつけられたのに、「国民とお約束した信念を実行する」まで、あくまで政権を持続すると宣言した「安倍政権」。国民は、安倍政権の世界観には、あくまで「ノー」の意思表示をはしなかったと言い続けている。 国民が本当に《靖国派》の目指す《美しい国》を望んでいるのか、それとも「否」かを、私たちは厳しく問われている。ある意味でより高い世界観の戦いが展開される時代に変わりつつある。これはとても素晴らしいこと。国民がこの問題と意識的に向き合わざる得ない政局となってきた。 このような時期に、安倍政権の中核の「靖国派」が賛美するパール判事の思想と東京裁判の姿を、膨大な資料の中から、問い直したこのドキュメンタリーの持つ意味は重い。時期を得た好番組であった。その安倍首相は、今月インドを訪れる際に、パール判事の遺族に面会する方向で調整しているという。 以下の本は、パール判事の姿を伝える興味深い労作である。ぜひ興味ある人は読む事お薦めしたい。 中島岳志著 パール判事 (白水社)
2007.08.15
コメント(0)
参議院選挙にむけて - 投票する座標軸をどこに置くべきか(9) 靖国派とは何か? 安倍政権の中核を形成しているのは、《靖国派》とよばれる政治家たちである。18人の大臣のうち靖国派運動の総元締めである「日本会議」議連のメンバーが12人、「日本の前途と歴史教育を考える会」のメンバーが七人、それ以外の大臣も多くは、靖国派団体のなかに入って、この種の組織に関係がないのは3人(公明党出身と非議員)だけである。このメンバーの構成をみただけでも、安倍政権が特異な構成員だけでなりたった非常に偏った政権であることがわかる。このように特異な思想の持ち主達が「改憲」に執念を燃やしている。では《靖国派》とは何か。彼らは、日本が過去に行ったアジアでの戦争を、「自存自衛」と「アジアの解放」の戦争だったと思い込んでいる人々である。「正義の戦争」の発信地が靖国神社であり、靖国神社の参拝を自分達の信念の証としていることから《靖国派》と呼ばれている。過去のあの戦争を「すばらしい戦争」と賛美している一方で、その戦争をやった国は「美しい国」だったとして、戦前・戦時下の「国体」のあり方にあこがれている集団である。天皇を頂点に頂き、子どもたちと一般国民は「教育勅語」で、軍人・兵隊は「軍人勅諭」で統一され、国全体が一致団結していた、社会的には職場も家庭も「オトコ社会」できちんと統一されていた。それが日本という国の伝統だった。《靖国派》の規範意識とは、このようなものを言っている。安倍首相が「戦後レジームの打破」とか「美しい国」などと、拳ふりあげて金切り声で叫けんでいるのは、まさにこのような「美しい国」を言っているのである。彼らにとって邪魔なのは、9条の平和条文だけではない。男女平等や個人の自由や権利が邪魔なのである。美しい国作りに立ちはだかる理念なのである。世界でも特異な戦争の亡霊をもちだして、「戦後体制の打破」などと叫んでいる人々が、政権の中核にいる国。それが今の日本である。多くの国民はこのような国を本当に望んでいるのか。今回の参議院選挙は、まさにこの意味でも国のありかたが厳しく問われている。年金問題に埋没させてはいけない。《靖国派》の亡霊たちを、国の中枢においておくべきか否かを厳しく問われている。
2007.07.28
コメント(1)
参議院選挙にむけて ー 投票の座標軸をどこに置くべきか(8) 21世紀の世界は面白い。安倍政権は憲法9条を改正することを自己の政治的使命として、どんな手段を使っても、この使命を実現する事に燃えている。他のこと聞く耳持たぬというところである。 日本が軍事の面でいかにアメリカに深く従属し、日本の主権を侵されているかは、前の記事(7)で、見てきたとおりである。アメリカと価値観を共有していることを誇示し、アメリカの横暴勝手も「ご無理ごもっとも」と素直に聞いて、地の果までともに軍事行動をしようとしている日本の自民・公明党政権。日本の憲法のすぐれた面を相手国に主張し、「大儀なき戦争を止めさせる」よう働きかけるのが、国益を守ることではないか。それをしないばかりか、アメリカの言い分に合わせて、「改憲」しようとしている。本当にこれで日本の安全は守れるか? ところで、21世紀の世界の情勢はどのように変貌しているか。 20世紀は、アメリカ一国で世界を動かしてきたと言っていいほどに、アメリカの世界覇権は、強大でゆるぎないものであった。しかし、ここ21世紀に入ってから世界の構造は大きな変化を遂げようとしているといっていい。 世界は今、大きく分けて次のような4つの勢力に区分できるのではないだろうか。 1) アメリカ、日本、ヨーロッパのような発達した資本主義の国々。 人口は合わせて9億人ほど。地球人口62億人の7分の1ほど。これらの国々は、今まではアメリカの同盟国として一致した行動をとるのが普通であった。しかし、ソ連崩壊後の現在は、自分の国の立場を主張するようになり、イラク戦争の場合、アメリカに同調したは、日本、イギリス、イスラエルぐらい。 2) 中国、ベトナム、キューバなど社会主義を目指している国々。 人口14億。発達した資本主義国の一倍半の人口をもち、アメリカの道理ない勝手な行動には賛成していないし、国連の合意のない先制攻撃戦争に反対の立場を取っている。 経済の発展著しく、従来の方式での国民総生産(GDP)は、アメリカ1位、日本2位、中国6位であるが、新しい方式(各国の物価などを考慮)で経済の真の実力を示すGDPは、アメリカ1位、中国2位、日本三位となっている。しかも世界経済に占める割合は、アメリカ20%。中国15%。日本6%なのである。世界の経済の力関係も大きく変貌しようとしている。これらのグループを無視しては、世界政治も成り立たないところまで来ているのである。 3) かつては、植民地・従属国の立場にあったが、20世紀に独立をかちとったアジア・アフリカ・ラテンアメリカの国々。 総人口は35億。地球人口の半分以上の人々がこのグループに属している。イラク戦争のような大国の横暴勝手な戦争には、もちろん反対をしている。 アメリカの支配下にあった南アメリカは、1998年にベネズエラにチャベス政権が誕生して以来、左派政権が次々に勝利して、アメリカとは距離を置いた自主独立の強力な地域になっている。4) 以前の体制が崩壊した旧ソ連・東欧圏の国々。 ヨーロッパに向いている国々がある一方、中央アジアを中心に中国と「上海協力機構」をつくり、アジアに仲間入りしようとしている国々がある。 このように21世紀の世界は、アメリカを中心とした20世紀の世界とは、大きくその姿を変貌させつつある。それぞれの地域で、それぞれの国々が、アメリカから独立した自主的な国のありかたを模索し始めている。この意味でも、今世界は激動しており、とても面白い。歴史は質的に大きく転換している。この世界の流れは、いずれ、大きな潮流となって、アメリカの横暴勝手を許さない独自の政治経済圏を作り出していくであろう。このように世界が変わろうとしているときに、アメリカに深く組み込まれた、アメリカに従うばかりの軍事・経済でいいか。今回の参議院選挙には、この日本の進むべき道の選択としても、厳しく問われている。
2007.07.28
コメント(2)
参議院選挙に向けて(7)「改憲」は、日本をどこに導くか。 今回の参議院選挙では、年金問題をマスコミは必要以上に取り上げ、世論誘導をして争点をぼかそうとしている。しかし、国の将来にとって、最も重大な争点は、改憲問題ではないだろうか。とりわけ若い人々にとっては、重大だ。子供たちや孫達の生きる社会がどうなるかの選択でもある。 安倍首相は任期内の改憲を叫んでいるし、自民党の選挙公約のトップに新憲法改定を掲げ、2010年の改憲を目論んでいる。3年後の国民投票法施行直後に改憲を発議するという段取りではないか。 改憲派の論拠は、現憲法は、占領下に制定され、強制されたもので、日本の独自性、自主性が損なわれているので、改正しなければならないというのがある。では、『改憲』は誰によって目論まれたか?今から58年前、当時、日本は新憲法が出来たばかりで、喜んで祝っている時(1949年2月)に、アメリカの政府・軍首脳部は「日本の限定的再軍備について」なる報告書を出した。その報告書で、日本に軍隊を持たせるねらいと方策を次のように述べている。(今では公開されている文書) 《 ー 極東でソ連と戦うとき、アメリカの「人的資源」の節約のため、日本に軍隊を創設する必要がある。そのためには憲法は大きな障害になる。憲法はすぐ変えるわけにはいかないから、今は、まがいものの軍隊(限定的な再軍備)で間に合せて、「最終的に」は憲法を変えて本格的な軍隊に進む道を考えよう。- 》この文書から私たちは、戦後、ソ連が台頭し、「米ソの対決」が厳しくなってきたので、世界的な「米ソ間の戦争」が起きた時には、日本の軍隊を米ソ戦争に動員して、極東や日本周辺で米軍と一緒に戦えるものにしようという「アメリカ軍」の戦略を読み取る事が出来る。1960年に結んだ日米安保条約は、日本とその周辺で有事が発生した時には、「日米共同作戦」を行うことを条約にもりこんだ。戦争の地域は、日本とその周辺であったので「自衛」の戦争という看板で言い訳して、憲法9条をすり抜ける事ができた。 しかし、16年前・1991年にソ連が崩壊。対ソ戦の戦略が不必要になったアメリカは、新たに「先制攻撃戦略」と呼ばれる世界戦争計画へとシフトさせた。 これは、自国や同盟国を侵略行動から防衛するものでなく。「自由と民主主義の名のもとに、アメリカにとって気に入らない国を自分の方から攻撃をかけて、他国の内政に干渉し潰すものである。2001年のアフガニスタン戦争、2003年に始まり、今なお戦火にあるイラク戦争。「テロ攻撃への仕返し」などという口実で、十分な根拠もないまま攻撃をしかけた彼らの戦争は、テロ勢力を益々増大させているだけで、なんらテロ根絶に役立っていない。日本はどうか。安保論議といえば、「日本有事」とか「極東有事」のとき、日本はこの戦争に参加するか否かであったのが、今では日本から遥か遠いインドや中東で、アメリカが戦争を始めた時、この戦争にどう参戦するか、要するに「海外派兵」を、どうもっともらしく行うかが議論の中心になっている。このアメリカの戦争に参加する事は、「日本の安全」「日本の防衛」とは、全く関係のないこと。このような自衛隊の海外派兵の筋書きは「日米安保条約」にはなかったこと。そのために自民党は、この10年足らずの間に、海外派兵をするために、新しい3つの法律を成立させてきた。1999年、「周辺事態法」-自衛隊の出動範囲をこれまでの「極東」などの枠組みをはずし た法律。2001年、「テロ対策特別措置法」ーこの法律を根拠に自衛隊をインド洋に派遣。2003年、「イラク特別措置法」ーイラクとその周辺に陸上部隊、航空部隊を派遣。この3法に共通する「基本原則」、即ち憲法9条のしばりである。 「 対応措置の実施は、武力による威嚇又は武力の行使であってはならない。」この憲法9条のしばりをなんとしてもなくして、憲法のもとでも堂々とアメリカと肩を並べて、大砲やミサイルを撃ち、テロ部隊を攻撃できる軍隊を持ちたい。これが「改憲派」のもっともやりたいことである。憲法を改正する事は、この意味からも緊急にして現実の課題なのである。これがアメリカの軍部がもっとも望むことなのである。けして、日本の自衛や安全の為の改憲ではない。 このように特別の法律3つを用意して、アメリカの戦争に参加出来るようにしてきたのが、最近10年間の与党政権(自民・公明)であった。更に、最近では、現在「改憲」の作業と同時進行で、「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(座長・柳井俊二前駐米大使)では、集団自衛権について論議されており、「憲法解釈の自由」を首相に与え、1)公開で併走中の米艦船が攻撃を受けた場合の応戦 2)米国にむけて発射された弾道ミサイルの迎撃 が行えるような検討をしているのである。 現在進行中のイラク戦争では、「イラクには大量の破壊兵器がある」と言い立てて、アメリカは戦争を仕掛けた。この戦争の大儀が嘘である事が分かった今でも戦争は続けられ、イラク全土にテロと内戦が拡大し、その国土は惨憺たる状態になっている。(でも、この戦争で、ぼろ儲けしている巨大なアメリカの軍需産業があり、アメリカの経済繁栄の基盤ともなっている。戦争を止められては困るのである)日本政府は、アメリカの言い分を「ご無理ごもっとも」と、素直に従っている。アメリカとは「共通の価値観を共有」しているお友達だと国民に誇示してさえいる。憲法を改正し、9条のしばりがなくなれば、益々この理不尽な戦争に加担する国になっていくだけである。日本の軍事費予算は、現在年間4兆8千億~4兆9千億の規模で推移している。ドルに換算すると420億ドルとなる。年間4700億ドルもの予算を使っているアメリカを除けば、年間400億ドル台の軍事予算の国々は、イギリス、フランス、日本、中国である。(SIPRI年鑑)要するに日本は、軍事費においても、もうすでに世界の軍事大国になっている。ヨーロッパや中南米の国々、東南アジアやアフリカの国々も、アメリカの余りの身勝手さに脅威を感じて、それぞれが自立した独立の道を模索し始めたのが、21世紀の世界の流れである。日本だけが、益々深くアメリカに従属して、さらに質的に高い結びつきへと突き進もうとしている。(他国への攻撃基地を日本国内に置かせて、そこに、その軍隊を駐留させていること自体、すでに日本は十分に自国の主権を侵されている。経済の発展した国で、このような屈辱に甘んじている国は、日本しかない)私たちの子供や孫たちの生きる社会が、豊かな人間性が開花する文化の国にする為にも、現憲法を守り、その精神を実現することは、意義のある緊急の課題だ。外交の中心に「平和憲法」をおくことこそ、21世紀の新しい世界の流れをリードするものだ。 現在、改憲を叫んでいる「安倍政権」は、閣僚メンバーの16人中12人までが、「靖国派」という思想の人たちである。この人々が導く未来は、アメリカの軍部の戦争戦略に深く組み込まれた道理なき「戦争」にはまり込んでいく道だ。決して、自国を守る道ではない。今回の選挙は、まさにこの意味でも、日本の進路を決める重大な岐路にある。崖淵にいる。
2007.07.24
コメント(0)
アンネのバラ 中村 純 少女たちが育てているバラ同世代だったアンネフランクを知りその意志を分かち合おうと今日も誰かの庭に株分けをする平和を育てるのは毎日の繊細な努力日のひかり 水の具合 忘れないこと 祈り平和はすぐに枯れてしまう 「俺は、君のためにこそ死にいくー美しい日本人の姿を残しておきたい」あの高笑いは人を精神から動員しようとする未来に継げなかった若者の悲しみを受け取った少女たちは今日も黙ってバラを育てる静かな美しさは声高ではないけれど今日も誰かの庭で咲き続ける美しさを見分ける力量を持ちはじめきっぱりノーを言うあの子の横顔を見ながら動員されない心の強さの芽吹きを抱きしめるなかむら・じゅん 1970年生まれ。編集者を経て教師。横浜詩人会賞、『詩と思想』詩人新人賞。詩誌『いのちの籠』に参加。詩集『草の家』 (2010年 孫娘ことねの庭に咲いたアンネのバラ孫たちが少女となる日はもうすぐ。その時にも、このアンネのバラがさらに立派に茂り咲いていることことバァバは願っている)
2007.07.21
コメント(0)
参議院選挙に向けて - 投票の座標軸を何処に置くべきか(6)安倍政権が目指している「性」(sex)教育で子供たちは命の尊厳を学ぶことが出来るか。 「慰安婦は性奴隷ではなく、公娼(こうしょう)である」と、自民・民主両党の「靖国派」国会議員は、ワシントン・ポスト紙に広告を出した。「当時、世界中で当たり前だった公娼制度に従事していた」だけの事と、従軍慰安婦として犠牲になり、今、なお大変な屈辱と苦難の人生を送っている女性たちの事を、平然と述べている。 安倍首相は「強制性を裏づける証拠はなかった」(3/1の記者会見)と述べ、麻生太郎外相は、米下院決議案が「客観的事実に基づいていない」(2/19衆院予算院会)答弁し、下村博文内閣官房副長官に至っては「従軍慰安婦はいなかった」(3/25)と言っている。この安倍政権の面々の発言には、本当に真実性があるか? 台湾の元「従軍慰安婦」被害者証言から(6/28東京都内で行われた記録より) 戦前日本の植民地下にあった台湾から阿媽(あま・あばあさんのこと)6人が来日して、東京都内で次のような証言をした。 義母と茶摘をしていた盧満妹さん(80)は、「17歳の時、看護婦にならないかとだまされて中国海南島へ連れて行かれた。台湾より給料がいいとも言われた。盧さんは日本兵の相手をさせられ、妊娠。8ヶ月の身重になるまで解放されなかった。台湾に帰り、男児を出産。38日目にマラリアにかかり赤ちゃんは死亡。 日本語で証言した鄭陳桃さん(84)。 1942年6月4日、高等女学校への通学途中、いつものように派出所の前を通ると、日本人の警察に呼び止められ「ジープで学校に送ってやる」。警察を恐れていた鄭さんは断る事も出来ずに乗りました。 ジープは学校の前を通り抜け、着いた先は、小さな旅館。「魏」という姓の夫婦に引き取られました。他にも20人あまりの若い女性がいました。(横田めぐみさんの拉致とよく似ている事) 翌日、高雄の埠頭から「アサヒマル」という軍艦に乗り、インド洋のアンダマン島へ。1年2ヶ月後には、サイパン島へ連行されました。鄭さんも妊娠しました。 陳樺さん(82)は、フィリピンで看護助手を募集しているといわれました。「ナカムラ」という日本人が養父に出国の同意を執拗に迫り、養父が断ると「多くの看護婦が死を恐れずに戦地に赴いた。陳家も国のため、兵士のため、何かすべきだ」と繰り返しました。養父は同意せざるを得ませんでした。 フィリピンのセブ島に着き、はじめて「慰安婦」として来た事を知りました。 黄呉秀妹さん(89)は40年から約1年、中国広東省で被害を受けました。「具合が悪くても拒否すれば刀を取り出し、脅迫した。私は子どもを産めない体になった。いまも体はボロボロです。安倍首相は私たちの悲劇をご存知でしょうか。日本政府に謝罪して欲しい。80歳を超えた老女たちのこの証言は、衝撃的である。外国の地に行って、このような行為をする日本の男。(今も変わらないのかも)そして、その事実に何も感じていない国、日本。「強制性はなかった」という安倍首相。「従軍慰安婦」たちは、強制収用所へ行進したユダヤ人と変わらない。その残虐性と人権侵害を、80歳を超えてもなお告発せざるを得なかった彼女たちの無念さ。私は自分が老いに向かっているのでその気持が痛いほど分かる。必死に隠蔽しよとしているのが安倍政権。「靖国派」たちである。恐ろしい人々である。北朝鮮の拉致問題を熱心に安倍は取り上げているが、この従軍慰安婦の人々は、10代の時、全く道理なく拉致され、辱められたという点で、北朝鮮の拉致と全く同じ意味で許せない行為である。安倍総理が北朝鮮の「人権侵害」を、声高に非難するする資格があるだろうか。横田めぐみさんの拉致と何も変わらぬことを、旧日本軍はやって来た。しかも公的制度としてやったので問題ないと言うのだから恐ろしい。これが安倍がめざす《美しい国》なのだ。その独善性、傲慢さは底なしである。これが靖国派と呼ばれる人々の人間性である。この面々が、学校で子供たちに「規範意識」を教えろ。「道徳」を教科として認めろと言っているのである。安倍総理とタックを組んで、性問題に取り組む首相補佐官・山谷えり子氏は、中学生向けの性教育用冊子「ラブ&ボディBook」(母子衛生研究所作製)の中絶やピルによる避妊の記述は、性に関して「女性に自己決定権」があり、問題だと言い、その冊子を絶版・回収させた。さらに東京都は「性教育批判」を続け、「過激性教育」などといって、性教育に熱心な校長や教員を処分した。「性」を語る時、その人の人格が最もあからさまに現れる。「性」が「生」であり、お互いの人格的な結合と性が一体でなければ、お互いが深い傷をうけて生きていかざるを得ない。「性」が輝くのは、お互いが生きる中で人格を磨いていける時ではないか。中学生が、性についての正しい深い知識を学ぶことは、青年期に素晴らしい恋愛や結婚をするためにも大切な事である。「性」をこそこそと闇に葬り、子どもたちが性の情報をアダルトサイトで堂々と見ている。「性」を金儲けの商品として、自らを切り売りしている子供たち。親たちは、自分の子どもたちが接する初めての性情報が「アダルトサイト」で十分、と本当に思っているのだろうか。
2007.07.20
コメント(2)
参議院選挙ぬ向けて - 投票の座標軸を何処におくべきか(5)高い学費が教育の機会均等を奪っている 現在日本の大学の学費は高く、勉強したくとも出来ない階層の優秀な若者が苦しんでいる。以前は国公立の大学は授業料が安く、貧しい階層のものでも比較的意欲あり、能力さえあれば、学ぶ機会があった。しかし、現在は経済的理由で進学をあきらめる高校生や、私立大学では、毎年1万人の学生が学費を払えず中退しているという。 現在の国立の初年度納入金(2007年度)は、何と81万7800円である。 私学は、早稲田大学(政経学部)123万円、慶応義塾大学(法学部)116万3650万、日本福祉大学(社会福祉学部)115万5000円、立命館大(理工)168万6000円である。 国立大学の授業料は20年ぐらい前は数万円以下であったのに、毎年値上げされ、私学の高い方に近づいている。私立大学より高い場合さえある。更に今後は学部間や大学間で授業料に差をつけ、値上がりが必死である。 平均して、4年間で学費のみでも400万円ぐらいが必要であり、さらに生活費や勉学のための書籍費などを合わせると、大学4年間の費用は1千万ぐらいとなるのではないだろうか。 この額は、世界的にみても一,二を争う高額なのである。 これら高学費の原因は、国の高等教育にかける予算が他の先進諸国に比べて少な過ぎることにある。他の先進国では、国内総生産(GDP)の1%を超える予算が高等教育に向けられているのに、日本は0.5%に過ぎない。 さらに、国立大学の法人化に伴い、国は大学に経済論理を貫徹させ、企業と同じ成果主義を導入した。先ごろ、「運営費交付金」を評価に基づいて配分すべきだとする経済諮問会議の提案をうけて、文部科学省の試算と財務省の試算を公表した。 この試算に基づいて「運営交付金」の配分が行われれば、国立大学87のうち71大学で運営費交付金が減少し、そのうち48大学は、減少幅が50%以上となり、経営が成り立なくなる。とりわけ、地方の国立大学は、大きな打撃をうけ、高等教育を根底からゆるがすものとなる。 英国の大学は、サッチャー時代の成果主義導入の「改革」によって、学科の存続が危うくなるだけでなく、大学そのものが消滅する場合さえ出ている。とりわけ理系の学科のすぐ利益や成果に結びつかない基礎学科である、化学科は28学科消滅。物理学科も幾つか閉鎖された。 日本の大学もいずれ、似たような道を辿るであろう。 短期の需要と供給に焦点を合わせた市場原理が大学を変質させようとしている。 1966年、第21回国連総会において、国際人権規約が全会一致で採択され、1976年に発効した。日本は1979年に批准したが、何項目かを保留して批准した。その保留項目の一つが社会権規約第13条二項(b)と(c)である。(注1)この条項は、それぞれ中等教育と高等教育における漸進的無償化を謳った部分である。 現時点で、この条約を批准している151カ国の中で、この条項を保留しているのは、日本のほかは、アフリカのルワンダとマダガスカルの二国のみである。この2国は、一人当たりの国民総生産の額にしても社会基盤の整備にしても、日本と比べ物にならないほど格差があり、高等教育の無償化を保留しているのは道理あること、うなづける事。しかし、日本が日本の高等教育の漸進的無償化に保留していることは、余りにも道理にないことといわざるを得ない。日本政府は、世界にむかって、「我が国は、後期中等教育と高等教育は、無償化は目指しません」と宣言しているようなもの。27年間ずっと保留のままである。この日本の人権感覚は、世界に恥ずべきもの。今年の6月末日までに、国連の社会権規約委員会から、第三回政府報告を求められていた。しかし、報告は何もしていない。保留の理由は(1)無償化を目指すと、高等教育を受ける者と受けない者の負担が公平でなくなるので、国費支出は増やせない。(2)国の財政難(2)の国の財政難などといいながら、米軍のためには、アメリカの言いなりの膨大な予算を計上している。2007年度の軍事費は4兆8千億円。その中の600億はアメリカのためのもの。自国の防衛のためなど全くの嘘。アメリカの言いなりなってお金を湯水のように無駄に使っている、世界で唯一の国、日本。教育にはケチりにケチっている。このような国の姿勢が、現在のような国立大学と私立大学が、競争して学費をつりあげざるを得なくさせ、世界的に高額なものになった根源的な要因である。学びたい者が、学ぶ能力のある者が、誰でも学べる大学。授業料の心配なく思い切り学べる大学なくして、日本の社会に有用な人材など育つはずがない。未来の社会を担う有能な人材が育つはずがない。小泉政権から始まった「市場万能」の経済原理は、大学にも貫徹され、このように勉学の条件を根底から崩壊させようとしている。それをさらに推し進めようとしているのが安倍政権である。 (注1): 日本政府が保留している国連人権規約の条項の一部。13条2項は以下の内容である。 社会権規約第13条2項(b)(c) (b) 種々の形態の中等教育は、すべて適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、一般的に利用可能であり、かつ、すべての者に対して機会が与えられるものとする。 (c) 高等教育は、すべての適当な方法により、特に、無償教育の漸進的な導入により、能力に応じ、すべての者に対して均等に機会が与えられるものとすること。
2007.07.19
コメント(0)
参議議員選挙にむけて - 投票の座標軸をどこにおくべきか(4)安倍政権の「教育再生」は、子どものモラルを育てるか 今日の朝日紙上の地方版「私もひとこと 07参院選」に、ある地方都市の商店街で、創業100年以上、和菓子屋を営む店主が《最近、一番変だぞ、と思うのはモラルの低下だ。朝、商店街の駐輪禁止場所に自転車を止めた女子高生を見かけたので、「おい止めたらいかんがや」と注意した。そうしたら「うるせーじじい」だって。そのままスタスタ行ってしまった…》で始まり、このような高校生のモラレの低下の根幹は教育にある、と断定し、参院選挙で一番重要なのは教育改革だ、と発言していた。さらに、このオジサン、地元小学校の評議員で何度か授業見学にもいったが、先生のモチベーションが低いようなので、先生の質の低下を食い止めるためには、免許の更新制なんか検討してもよい。などと主張していた。地域のボス、長老的な人物が、子どものモラルの低下をこのようにとらえ、今の教育はケシカランと声高に非難する。これらの言葉は、目にあまる若者たちの風俗に気分を害している大人たちにとっては、心地よく響く。しかし、子供たちのモラル低下は、教育や家庭だけに責任があるのではない。乱暴に何の論拠なしに結論付ける独断性。最もモラル低下著しいのは、「安倍政権」そのもの。法律のルール沿ってやっているだけと言いつつ、丁寧語を、お上品にちりばめて、国民を欺いている。品よい丁寧語に身を包めば、他人を踏みつけて、狭い自己の権威の擁護に明け暮れる。それでモラルがあるといえるのか。自己弁護と成果の自慢話を得意げに国民にする。そのためには何でもありといのが安倍政権そのもの。禁止された駐輪場に自転車をとめたからといって、「くそじじい」とののしったからと言って、まだまだ可愛げがある。何処かの大臣達に比べればモラルはずーと上。この高校生のモラルを嘆く前に、それらを生み出している大きな悪、理不尽を声高にののしれよ。安倍政権の「教育再生会議」は、このような若者たちのモラル低下を嘆く国民的な気分に迎合して、教育には素人の烏合の集団に、あれやこれやと感覚的に論議させて、国民の人気とりをしている。そして、教育改悪の真のねらいを国民の目から隠そうとしているのである。 このような地域のボスたちが、安倍政権の太鼓もち、先兵の役割を果たしている。戦争の時もそうだった。町内会のまとめ役たちが、国民を監視し、戦争に国民を動員する先兵の役を果たしていた。これは今も変わっていない。ムラの社会。そのムラのボス達が、戦後一貫して、自民党政権を支えてきた。彼らは、このような共同体の崩壊が、家庭を崩壊させモラル低下をもたらしたといっている。そして、共同体を復古させろと言っている。本当にそうか?国家の示す「規範」で、下部のムラまで統制できるシステムは、今でも地方では根を張っている。しぶとく生き続けている。そのムラ社会から、退廃したモラルの子どもたちが次々に生成されている。赤城農水相などまさにそのようなムラ社会が生み出した子どもの一人だ。彼のモラルの退廃は、駐輪場の「くそじじい」と言い捨てて去った女子高校生の比ではない。このような地域の共同体を、民主的な自立した社会に作り変えていけるような人間を作り出していくような教育。戦後の教育は、それをやり遂げることが出来なかった。道半ばである。まさに改正される前の「教育基本法」の理念を教育実践のなかで、実現できなかったことこそが、今のモラル低下を招いた元凶だ。このまま、その不徹底な戦後教育で育ってきた子どもたちが政治を担っていったら、恐ろしい社会になりそうな予感がする。安倍政権がこの9ヶ月間に行ってきたことは、すべて、傲慢な自己中心の独断政治。自分の信念(憲法改正)のためなら、何でもありきのまさに独裁政治。民主主義は時間がかかり、回り道も多い。しかしそのプロセスで人々は、市民として自立した知性や資質を獲得していくことができる。教育は、まさに自分たちの力で集団をを運営し、民主的に共同して暮らす成員となるための教養・知性を身につける手段であるはず。国は、子供たちがそのような人として育つ為の環境を整えることこそやるべき仕事。それをことごとく放棄する方向。予算を削減して、「市場原理」にまかせて、安上がりの教育をしようとする。保育園から大学まで、経費節減のための競争がおこなわれている。 例えば、日本の高等教育における、公費負担に対する財政支出の対GDP比は、ドイツ1.5%、イギリス1.4%、アメリカ1.1%、フランス1.0%、に対して日本は0.7%である。(1995年時点で現在0.5%に下がっている)このように先進国のなかでは、教育の公費負担は、極めて低い。教育や子育ては、直接的に利益を生み出すものではない。安上がりの教育は、それ相当の子どもしか出来上がらない。このツケは20数年先に必ずあらわれる。例えば30人学級。これさえ実現できない日本の政治。世界の教育の趨勢から取り残されている教室風景。教師が教科書中心に伝達する一斉授業。教壇と教卓があり、机と椅子が黒板に向かって一方的に並べられた教室風景。この伝統的な教室風景と一斉授業は、世界の国々では博物館行きになろうとしているのに。世界の趨勢が、20名前後の子供たちがいくつかのテーブルを中心に活動的で協働的な学びを行い、個性的で多様な分かり方を表現し、共有しあう教室に変容しつつあるのに。このような教育を進めるには、お金がかかるのである。点数の競争で競わせる教室よりお金がかかりすぎる。教師は優秀な力が要る。そのための人件費もかかりすぎる。 まさに21世紀に生きる子供たちには、どんな能力を身につけなければいけないかという視点を欠いた、近視眼的な「競争原理」で、尻を叩いて勉強をやらせる、今の学校システム。このような学校を推し進めようとしているのが安倍政権である。一連の教育再生の名の下に行われている改革は、「大東亜戦争」に命を捧げるよう教えた教育は美しかった。モラルが高かった。あの教育を復古しよう。子供たちはきっと「よい子」になる。というものである。ほんとうに《よい子》を育てる教育に再生できるか?よくよく考える必要がある。ムラの商店街のボスたちが、したり顔で教育改革を叫ぶ。ムラ社会の復古強化に役立つだけだ。崩れかかった社会を懸命に繋ぎとめようとしている。
2007.07.19
コメント(1)
参議院選挙にむけて - 投票の座標軸をどこにおくべきか(3)安倍政権の理想とする「家族モデル」は、女や男を人間らしく生きる社会にするか。 昨年12月に改正された教育基本法では、国民の批判をかわすために、徳目に「男女の平等」をもりこんでいたのに、教育基本法の具体化である、今国会で成立した学校教育法には、「男女の平等」は消えている。 12月に改正された教育基本法では、「家庭教育」の条文を新しく設け、「教育の第一義的責任は父母ら保護者にある」とされた。 その具体策を答申する、安倍内閣直属の教育再生会議の6月の第2次報告で、親が子に規範意識を身につけさせるために、「妊婦健診などを活用した親の学びや子育て講座の拡充」をうたっている。 彼らの言う「規範意識」とは何か。安倍晋三首相の片腕とも言うべき、内閣官房副官長・下村博文は、 「戦後政治は共同体や家族主義を壊してきた。母親が母乳を冷凍して仕事にでかけ、父親が職場を休んでそれを赤ちゃんに飲ませるだなんて。やはり母親の愛情が出発点ですよ」と言い、「家庭」のモデルは「家族が一緒に暮らせる、できるだけ3世代でくらす家」である。(朝日・ニッポン人脈記) このような古き良き時代の「家」が崩壊したのは、占領下につくられた教育基本法のもとでの教育に原因があるというのである。そして、「教育再生会議」では5月に「母乳による育児など子育ての「あるべき姿」を示す提言を用意。「子どもと家族を応援する日本」重点戦略検討会議の分科会では「規範意識を教えられる専業主婦の役割が重要」などと男性委員が強調。彼らにとっては、家父長的な『家』制度によって、無能でもいばっておれる昔の家長が美しく懐かしいのである。 これらの一連の動きは何を意味するか。子どもが健やかに全うに育っていない責任を、全て親と教育基本法の下での教育のせいにして、自己の偏狭な家族観を美化して、「規範意識」などということばで、国民を統制しようとしている。 安倍晋三はその著書「美しい国へ」で、ジェンダーフリーを「生物的性差や文化的背景もすべて否定するものだとし、「家庭科の教科書が、『典型的な家族のモデル』を示さず、『家族には多様な形があっていい』と説明しているのを問題視し、93年より男女共修の家庭科を非難している。04年の中学教科書検定では、家庭科の教科書から「ジェンダー」という語が削除された。要するに、人類が歴史のなかで作り上げてきた男女共生のあり方は、気に食わない。自分の趣味に合わないので、国民にその考え方を変えさせろと要求しているのである。女を「子産み機械」「性欲の機械」(慰安婦)としかみなさない。、自民党の指導者たちのこのような「規範意識」では、今、日本におきている子供たちや家族の問題は、ますます混迷するばかりだ。 若い赤ちゃんを持つママたちの大部分は、今でも必死に育児している。私たち60歳世代より、さらに進化させて、母性を育む育児をしている。3世代で住んでいなくとも、懸命に育てている。母性をそのなかで育てている。 母親が母乳を冷凍しなくとも、ゆったりと赤ちゃんと向き合える働き方ができる社会。父親も、わが子と向き合うゆとりがある社会。父母がそれぞれの特性を発揮して、子どもを育てあうことが、父性や母性をそだて、親子の愛情を作り上げていいく。そのような家族を営める社会。その実現こそ政治のやることではないのか。そして、母親だけで、懸命に子供たちを育てている家庭があってもいいし、父親だけでも、しっかり子供が育てられる社会的なサポートがあってもいい。そのような多様な家族のありようを認めないような「政権」では、社会に未来がない。父親だけが家計をささえて、家には寝に帰ってくるのさえままならない。働き手の父親がリストラにあったら、たちまち崩壊する家庭。さらに、今後は正規社員の働き手が一人もいない、経済的に不安定な家庭がどんどん出現しそうな社会。家族で食事を共にしろ。女は育児に専念しろ、と説教するのが政治ではない。(やりたくとも、やれないのが今の働き方なのに) 安倍政権の面々やその同調者たちの考えているように、「母性」は女だから生まれ持っているものではない。専業主婦でありさえすれば、母性豊かに子どもを育てられるなどありえない、戦後60年の社会がそれは証明してきた。その証拠に戦前の親たちは、大部分の国民は農民であり、家族総出で働いており、専業主婦などごく、ごく限られた特権階級だけのもの。それでも子どもは育っている。どの分野にも半々の男女が働き、子育てしていたら、もっと多様な豊かな社会になる。安倍政権の掲げる「教育再生」にみられる家族像は、教育の責任を父母に負わせ、育児の責任を「母親」だけに負わせて、「教育費」「育児支援費」の国の支出や支援を安上がりにするだけだ。そして、益々、驚くべき危惧すべき子どもたちが出現するだろう。働きながら幼い子を育てている親たちは、なりふり構わず必死にやっている。女が人間として豊かに成長できる社会が、男にとっても住みやすい社会であるはずだ。男女が人として豊かに結合できる社会こそ子どもも人として育つ。子どもが人として豊かに育つことを阻んでいるのは、「成長を『実感』に」というスローガン掲げて参議院選挙を戦っている自民党自身が行ってきた戦後の政治そのものだ。さらに、穿ってみるならば、ダメな子供たちを国家政策として、大量に生産して、「軍隊に入隊して、叩きなおせ、鍛えろ」という兵士予備軍の大量の子どもを作ろうとしているのではないか。(深読み過ぎか)
2007.07.14
コメント(0)
参議院選にむけて - 投票の座標軸をどこに置くべきか(2)安倍政権の「教育改革」の目玉「教育バウチャー」とは何か? 安倍政権は教育基本法の改正、その実現のための教育3法の強行可決など、その内容を国民に明らかにせぬまま、矢継ぎ早に法律を可決した。安倍政権の掲げる『教育再生』の具体策の目玉のひとつに、イギリス流の「教育バウチャー」制なるものがある。この制度は、最近の子どもの学力低下は公教育に問題がある。公立の学校現場が「学力低下」を招く原因を作っており、国民の「学力」をつけろという要求に応える改革案として提出されている。 昨日(7/9)の朝日新聞紙上で、その理論的推進者の一人である福井秀夫氏(政策研究大学院教授)なる人物が、「教育バウチャー」とは何かを紹介していた。即ち「教育バウチャー」とは、「現場での分権的な意志決定」を尊重し、学習者本位の仕組みに変えていくこと。学習者本位の教育とは、教育をサービス提供者とその受益者という「当事者同士のやり取り」の枠組みでおこない、誰からどのようなサービスを受けるかを決める権利を持っているのは、児童生徒・保護者である。よって、保護者が、学校選択を自由に行い、集めた生徒の数に応じて学校に予算を配分する。そのため各校とも、子どもの個性や関心に応じて、創意工夫にしのぎを削るようになり、それがいじめの根絶や全体の学力向上につながる。 国は、義務教育レベルで最低限これくらいはやって欲しいという目標を義務付け、その先、どのレベルまで目指し、どのやり方で達成するのかということは現場に任せればいい。教育の枠組みをこのように作りかえれば、学校は信頼をとりもどせる、というのが福井氏の大体の論旨である。 そして、安倍政権を、このような仕組みを政治目標として掲げた政権は初めてで、斬新なことだと評価したいと拍手喝采している。 この福井秀夫氏なる人物が提唱している「教育バウチャー」とは、一口で要約すれば、教育を「市場原理」にまかせろ。「受益者」という名の買い手である保護者や児童のご機嫌をとって、テストの点数をあげる勉強をさせろ。つべこべ言うやつには、財政的支援をストップさせろ、と言うことに尽きる。それ以上のことは何も言っていない。 子どもの学力なるものをテストで測り、輪切りにして、上位から下位まで序列化して存在している現在の公立高校。その成績中位以下の高校で何が起きているか、その生徒達はどのようになっているか、世間の大人たちは知っているだろうか。 定員割れを恐れて、学生を奪い合っている日本の6割がたの大学では、何がおこりつつあるか。学生達はどのような人格に育っているか、世間の親たちは知っているか。これらの日本の多くの若者たちの現状は、「市場原理」に教育を任せ、解決できるようなものではない。「教育バウチャー」論者のようなイデオロギーに任せたら、子供たちは、益々「教育」の本来の「学び」から遠ざかり、勉強から逃げていくばかりだ。 今の中学生の多くは、勉強は嫌いである。ただ不快な苦役に過ぎないと感じている。そして、彼ら彼女らの口ぐせは「こんなことして何の意味があるの? 何の為になるの? こんなことしても何の役にも立たない」そして勉強を「メンドクサイ。こんなめんどうなことやって何の役にたつ」である。 学力底辺高校に学ぶ9割がたの生徒は、何の役にも立たない勉強に、自分から見切りをつけて、「テスト期間」でさえ、テストの時間割も知らないし、テストがどの範囲の学習から出題されるかさえ全く関心がない。テスト期間で早く学校が終るのを これ幸いと「ゲーム」に引きこもっている。最近は、中学でもこれに似た現象が起きつつある。この現象は、どんどん低年齢化しているのである。携帯電話の普及は、これに拍車をかけている。子供たちは、消費者として、益々気楽に、その場限りの娯楽に興じている。気晴らしをしている。この子どもたちが。根気のいる苦役の伴う「勉強」や「労働」から逃げていくのは当然過ぎる。幼い時から(幼児期から)、彼ら彼女らにとって、「勉強する」とは、つねに「テスト」のため、それさえ好成績であれば「親もニコニコ」何も言わない。低学年ぐらいまでは、テストのためでも、そこそこの成績であった。親も100点とったら「携帯を買ってあげる」「ゲーム機を買ってあげる」と子どもに「アメ」を目の前にぶら下げて、叱咤激励し勉強させてきた。 子供たちは幼児期の人格形成を「消費者」として、まず鍛えられている。お金を出せば、幼児であろうと老人であろうと、その人格の質的な差異は棄て去られ、「お客さま」としての待遇を受けることに慣れて親しんで育っている。要するに4歳の幼児であっても、「モノを買う」とい行為を通して、簡単に「全能者」としての感性を日常的に「体験して」成長していく。苦労せずとも「オレさま」としての優越感を日常的に植え付けられて、大きくなっていく。学校の日常においても、『勉強』が「何に役に立つ?」と常に問いかけ、「役立たないようなことやっておれるか」と言うのが、子供たちに蔓延している学校の気分である。授業が崩壊し、成立していないのは、こういう子供たちの集団であることにも大きく拠っている。(それだけが原因ではないが) 子どもの人気取りの「パーフォマンス」をして、授業を進行することが「人気ある教師」の条件というのも、子どもを「お客さま」として、崇めているからである。 学ぶことを通して、今の自分でない新しい自分を発見して、人格を変化させていくような学び。学ぶことによって、世界を見つめる新しい視野が広がる勉強。まさにそのような学びの「プロセス」の中に、子どもたちが身を投じて学ぶことが「学び」の本質だ。そのような学びのプロセスの中で、考える方法を身につけ、ものごとをもっと知りたいという「欲求」が、子どもを「学び」へとさらに突き動かすような『学び』このような「学び」は、学んでいる最中に「何に役立つか」というような功利性とは、無縁である。「利益」をすぐに期待している子供たち。目先の功利性がなくば、やる意義を見出さないような子供たちである限り学びなどは成立しないのではないか。学びの本質と相容れない子どもたちが大量に育っているのである。 「教育バウチャー」のイデオロギーは、測らずも、このような子供たち・保護者を「受益者」などと呼んで、ご機嫌をとっている。個性や関心を引き出す創意工夫が生まれるなどと、もっともらしいトリックを並べ立てている。個性・関心などといいつつ、大部分の子どもを、学ぶことに見切りをつけさせている。そして、子供たちとその親に、益々、すぐさま「商品」としての等価価値を「教育サービス」に要求するようにしむけている。本来の「学び」は、その後になってしかその価値を評価できないことが多い。社会で働き始めて学びの意味を知る人だって多い。数十年経て、やっと輝き出す「過去の学び」もある。そのための「学びの労苦・努力」は、勉強の最中には、その功利性はわからない、という場合が多い。このような「学び」をするために必用な「人格形成」を、幼い時にやってきていないのが、今の子供たちであり、若者ではないだろうか。保護者、児童を受益者などと呼んで、行う教育は、せいぜい「入試、入社試験」に役立つと世間が思い込んでいるいわゆる「学力」。しかし、その「入試、入社試験」さえも、そのような学力では通用しなくなりつつある。そのような「学力」で、今まで親たちは生きてきたかもしれないが、その『パイ』は細り、破れてきた。それが現在の「市場原理」にまかせた経済のありようだ。益々「自己責任」を国民に強要し、自己責任を取りたくとも取りようのない「弱者」を教育のなかでも作り出そうとしている。現にそのような子供たちが出現している。下層へと転落していくであろう子供たちは、自分から教育される機会を投げ捨て、「これは何の役にもたない。立たないなら今を楽しく過ごした方がよい」と言いつつ学ぶことを進んで放棄している。 21世紀社会を豊かに生きて、力強く切り拓いてゆくための「学力」は、「市場原理」で競争させて、淘汰していく「教育改革」からは、再生できない。この子供たちの現実は、そのことを示している。今子供たちが「求めている学力」は、学ぶことが「快感」となるような学力。幼子が、学ぶことを、喜びや快感と感じて、次第に大きな広い世界を獲得していくように、「学校」を子供たちの「人格形成」の重要な学びの場となるように変えて行くこと。これこそが今求められている「教育再生」ではないか。そのための「学力」とは何かこそ問われなければならない。 改正された教育基本法は、市民社会に必要な「人格形成」を目指す、教育から「国家が要求する資質を育成する「国民教育」に転換した。そして、その具体化が着々と進められている。日本国憲法は、子供たちは「教育を受ける権利」を持っていると言っている。子どもが教育を受けるのは、「義務」ではなく「権利」なのである。これは、成長していく生物として当然の権利である。人間だけが有している固有のものである。この「権利」は、先人たちが歴史的苦闘のなかで獲得してきたもの、子ども自らが、この権利を、無価値であると言って、「放棄」している国、それが今の日本である。このような状況に陥っている日本の子供たち、このような子供たちしか育ててこなかった私たち大人。 今度の参議院選挙では、この「教育改革」は重大な争点のひとつである。私たちは、どこに投票の座標軸をおくべきかを、近視眼的にみないで、子供たちの生きる未来社会を見つめなければならない。
2007.07.10
コメント(2)
参議院選挙にむけて : 投票をどのような座標軸で行うべきか(1) 戦争のほんとうの恐ろしさを知る 『財界人の直言』 品川正治 著 (新日本出版社) この本の著者・品川正治氏は、大正13年生まれ、多感な青年期には、中国大陸に転戦し、戦火をくぐりぬけて生きてこられました。戦後は日本経済の復興、成長の渦中で活躍され、80歳を過ぎた今も尚、経済同友会の副代表幹事・専務理事として活躍されています。 この本で、品川氏は、日本の現状を見つめ、考えようとする時、それを考えていく為の確かな座標軸が重要であると言っておられます。その座標軸とは何か。 マスコミや自民党の政治家の多くは、資本主義国として、戦後大きな発展を遂げた日本と、アメリカは「共通の価値観」を持っていると疑うことなく思い込んでいるけれど、果たしてそうなのかと疑問を投げかけ、日本とアメリカの価値観には決定的な違いがあることを、戦後の歴史のなかで検証している。即ち、アメリカは「戦争を継続してやり続けている国」・ベトナム戦争を始め多くの戦争を行って、今なおイラクで「戦争を行っている国」。様々なもっともらしい理由をあげつらい、強大な軍事力を背景にして、戦争をしていこうという考えを持っている国。軍産複合体の経済システムそのものが戦争をし続けなければ、国家そのものが存立できないほどに「軍事産業が肥大化」している国。それに比べ日本は、平和憲法を持っている国。悲惨なあの戦争で、日本人は310万人、アジア、太平洋では2181万人もの人々がなくなった。この苦痛の教訓から、戦争をしないという価値観を築き上げてきた国。世界第2位の経済大国としての発展をとげながらも、自国の利益のため、あるいは国家主権の発動によって、一人の外国人も殺していない国。このような国は、まだ世界史に類がないという誇れる歴史をもっている。軍産複合体という形で、権力を持っている体制は、日本にはまだない。「平和憲法」が、これは与えてくれた最大の恩恵である。このようにアメリカと日本は、その経済のシステムそのもからして、「共通の価値観」をもってはいない。方や「戦争を継続してきた国」、方や「平和憲法」を持って、それを世界にその進むべき方向を指し示そうとしてきた国。しかし、今、日本が戦後60年にわたり、築き上げてきたこの「平和憲法」の価値観は、危機的な状態になっている。その掲げられてきた旗は、ぼろぼろとなり、辛うじて旗ざおだけを握り締めて手放さないでいる。 小泉改革に始まり、現在に及んでいる「市場主義」の改革者たちは、「アメリカの敵は日本の敵」だと言い切り、アメリカが勝つために協力することが「日本の国益」だと言っている。アメリカ発のグローバルリズムは、あくまでアメリカの「戦時体制」に、世界のすべてを動員して従わせようとするもの。アメリカは、それによっって「戦費」を調達しているのである。 市場主義・規制緩和・「小さな政府」の名の下に行われてきた「改革」は、「国家権力」からの「規制」の自由などではなく、大企業の「権力からの自由」。利益追求のために、好き勝手やりたい放題にやる自由であることが、国民の目にもしだいに明らかになりつつある。投機資本の市場となって、格差と貧困を世界中にばらまこうとしている。社会保険庁の民営化などもその典型的な例。この改革で、年金制度が国民に安心な安定したものものになるなど到底あり得ない。国民から集めた巨大なお金は、投機的な市場の餌食になることを待つているのみ。 アメリカのためではなく、日本の国民にとって有益となるような「経済システム」に、作り変えて「経済」を発展させていくことの必用が、今、日本に強く求められている。1%の経済成長をするために、100兆円近いお金を使う経済体制ではなく、貧困と飢餓を世界からなくし、世界平和を追求できる21世紀型の経済システムを構築していくことが、もっとも今求められている。世界第2位の経済大国で、世界に類のない先進的な9条を持つ日本が、そのような新しい経済体制を作り出していく世界の先頭にいるはずなのに、アメリカの言うままに、今では古臭いがたがたと崩れ始めている19世紀・20世紀型の経済システムにしがみついているのが、現在日本の与党が推し進めている政治であり、勝ち組と世間が騒ぎ立てている大企業の財界である。規制からの自由とは、決して国民の中間層にとっての自由ではない。私たち日本の社会が、直面している現状を、どのような座標軸でみるか。その座標軸の違いが、未来への展望をどう異なるものにするか。この品川正治氏の本は、狭い路地からではなく、大通りに出て、現状を眺め考えることの必要を強く訴えかけている。アメリカと日本が異なる「価値観」で、戦後歩んで今日に至っているが、アメリカは、日本がその平和主義の価値観を放棄して、自国の利益に合致した国にすることを強く要求しつづけている。その第一が、「憲法9条」の改正である。アメリカが最も要求していること。日本の「改憲派」たちよりも性急に厳しく要求していること。アメリカは、そこまで追い詰められている。他国のことに、なりふり構っていられない。戦争を続行する為の至上命題なのである。 憲法9条の改憲派に「ノー」を突きつけることが、日本の経済を、21世紀型の「国民経済」に切り替えていく、もっとも重大かつ緊急な課題であることを、この本は私たちに明快に語っている。暗い社会情勢で、閉鎖的な現状を、どう打開していくべきか、力強く語っている。参議院選挙の投票行動をする前に、一読したい本である。現実を考える斬新な座標軸に気付くはずである。
2007.07.05
コメント(0)
教育3法の成立は、日本の教育をどこに導くか(1) 自民・公明の与党は先頃(6/20日)教育3法を強行採決して成立させた。 なぜ、彼らは、国民の幅広い納得や議論を避けるように、急ぎこそこそとこの法案を成立させたか。その隠れた意図は何か。安倍総理は、教育3法を強行成立させたその日に、「これで、教育の現場を一新し、新しく教育再生していくことが出来る一歩を踏み出した。」と談話を発表していた。 教育3法とは、学校教育法改定法・教員免許法改定法・地方教育行政法改定法の3つの法律であり、共に先に成立した教育基本法改定法の精神を具体化して、教育の現場で実践していく為のものである。 3法の中の一つ、学校教育法は、では、どのように変化したか。この法律の中心となる思想は、先に成立した「教育基本法」が掲げた「徳目の育成」を学校現場で実際どう行わせるか具体化したものである。この法律は、「我が国と郷土を愛する態度」「規範意識」などの徳目を義務教育の目標として、盛り込んでいる。この徳目を国家は、学校の現場で、どのように実践しようとしているか。そのサンプルとなるような事実が先頃発覚した。 文部科学省の研究委託事業に採択され、日本青年会議所が製作した「誇り」と題するアニメーションDVD(約30分)を全国の学校に「道徳」の副教材として持ち込もうとするものである。 この「誇り」DVDは、戦死した青年が現代に現れ、女子高生を靖国神社に誘う内容で、かっての日本の戦争を「大東亜戦争」と呼び、「愛する自分の国を守り、自衛のためだった」と教えている。このビデオは、歴史教育協議会副会長の石井建夫氏によれば、(1) かっての日本が行った戦争を「アジアの人々を白人から解放するための戦争だった」といいたい為に、歴史の事実を度外視して、自分たちに都合のいい出来事だけを、のりとはさみで切り貼りする。(2) 戦争の責任を内戦で混乱している中国や、南下政策で日本に攻めて来るロシアに負わせ、日本の立場を正当化する。(3) 戦争によって国際的地が向上したという論理を、日本の軍部の考えばかりを引用して押し付ける。(4) 「正義のための戦争」と述べたいために、戦争で苦難する民衆の姿や戦場の実相を描かず、自分たちの理屈で日本の戦略ばかり語る。 このトリックを利用して、DVDは過去から来た青年・雄太を通して、過去の戦争は正しい戦争だったとする「靖国史観」を、子供たちに叩き込もうとする内容である。 さらに、日本は美しい国だった。自然の恩恵に浴し、神様に感謝し、四季折々の季節を楽しむ豊かな心があった。人を思いやり、礼儀や作法を重んじる国。 これがまさに「教育基本法」改定法がめざしたい「愛国心」「伝統」の中身である。 青年会議所は、この『誇り』DVDを用いた、近代歴史教育プログラムをはじめとする2007年度協働運動が、文部科学省の新教育システム開発プログラム研究事業に採択されたと、文部科学省のお墨付きを吹聴している。しかも、日本青年会議所は、授業するメンバーに、事前準備として、「近代史検証報告」と「日本の誇り」と題する約100ページの資料を「熟読」し、DVDは2回鑑賞するように指示するという念の入れようである。 教育基本法改正、その具体化の学校3法改定法の成立。その背後では、学校をある特定の政治目的で洗脳していこうという極めて政治的な運動が着々と行われている。政権中枢と「靖国史観」は、強く結びつき、表舞台にでようと虎視眈々としている。国民は、この事実に厳しい目を向けなくてはいけないのではないか。 未来の社会に生きる子どもたちが、身につけて成長しなければならないのは、このような史観に裏打ちされた規範意識ではない。この集団が主張する「倫理観」なるもので、育ち社会を作ってきたのは、私たちの親であり、私たちの祖父母である。その延長上に今があり、ことごとく長いものに巻かれ、真の人間らしい変革を妨げて現代に及んでいる。この親世代の大部分は、この「靖国派」たちと類似の価値観のなかで、戦後生きてきたし、今も生きている。真の意味での民主主義的な感性、人権思想に裏打ちされた人格など、まだ日本には育っていない。脆弱なものであり、益々それとは反対の方へと流れている。 過去の歴史の過ちを賛美し、それを押し付けるものたちの「規範意識」の低さ、堕落は目に余るものがあるのでは。自分の意見を押し通すためには、どんな卑劣な行為もする。弱いものにはいばり、権威あるものにはへいこらとひざまずく。今の国会をみても、自分の意見を数の横暴で、どんどん強行している。選挙制度なども自分の都合のよいように勝手に変更し、それでもだめなら、あらゆる手法で権力維持のための策謀をする。美しい国を自らの手で破壊続けているのは、この戦争愛好者たちである。(口先では平和をとなえているが)日本の世界の山河を破壊し、荒廃に追いやるのは、戦争そのものに他ならない。その戦争を賛美し、美化して、その戦争をやった人たちを讃えよと命令する。賛美しないもの、自分たちの史観に同調しないものを自虐的などと罵る。こんな人々が、未来の世界を担う子供たちを育てることができるか。戦争が好きで、どんどん軍事費を膨張させて、その陰で、ぼろ儲けしている商人たちとほくそ笑んでいるのは誰だ。誰だった。 今国会で強行成立した教育3法の一つ「学校教育法」には、さらに、その本質がはっきり読み取れることがある。教育基本法の改正時には、世論を意識して、削ることとを差し控えざるを得なかった「徳目」は1)真理を求める。 2)個人の価値を尊重 3) 創造性を養う 4)正義 5) 男女の平等6) 自他の敬愛と協力 であったが、これらの「徳目」は改正「学校教育法」では削られた。男女の平等さえ消え去った。なんと恐ろしい逆行。残されたものは1) 道徳心(規範意識) 2)公共の精神 3) 生命と自然の尊重 4)伝統と文化の尊重5) 国際社会の平和と発展の寄与 である。改定法に付け加えられたもの 6) 家族と家庭の役割更に、注目すべきは、 人間相互の関係の正しい理解と協働 国際協調の精神は現行学校教育法から削除された。これらは何を意味するか?要するに国民は、権力の言うまま、お利口にふるまう人間がよい人間。ひとりひとりが、考え、自主的に行動できるようでは困る。庶民が自主的に組織を運営し、社会で生きる能力を身につける必要はない。そして、それは、なによりも教師に要求されている人間像である。これらの規範意識からはみ出す教師を管理していこうという改正法なのである。安倍首相が言うように、これで、教育を一新し、教育の新時代は切り拓けるか。親たちは、国家の教育のその先の在り方に目を凝らす時が今来ている。
2007.06.25
コメント(0)
私の地方選挙活動から、見えた地方の暮らし。 私は先週の水曜日から、私の生まれ育った町の市会議員選挙運動の渦に巻き込まれ、私の嫌っている「村社会」にどっぷりと浸かって、日々奮闘(?)してきた。 というのは、私の弟が市会議員候補者として、6期目の選挙戦を戦ったからである。その市の住人でない私は、改選の4年毎に、私の小・中の同窓生を訪ねて、挨拶方々、近況を報告しあって、親交している。 今回は同窓生の多くが退職し、一線から退いている人たちもおり、前回までとは、又、異なる交流をすることが出来た。 幼い時、遊んだり学んだりした友は、かなりの歳月が流れていても、すぐに近しい気持になり、裸の気持で交流できるのには、驚かされる。 私は、日頃、若い者達との付き合いがほとんどで、老人と接する機会が余りないので、、久しぶりに同級生達に会ってみて、親の介護の問題や高齢者だけの世帯の悩みなど、高齢者問題の深刻さを目の当たりして、この問題が地方の都市では、かなり急速に現実の問題として、広がっていることを実感した。 とりわけ、私達の世代の女性が、老いた高齢の母や父や舅、姑の介護に追われている、その日常の大変さは深刻である。介護される側も、介護する側にも、人生の黄昏にこのような光景に出会うとは、20年前には想像だにできないことであった。 さらに、同級生の多くが35歳を過ぎても結婚しない娘や息子のことで悩んでいる。なぜ結婚しようとしないのか。広々とした大きな屋敷(敷地)に立派な住宅、母親(私の世代)が、30歳を過ぎた娘、息子に、上げ膳、据え膳をし、食べさせ、洗濯までしてやっている。子供たちは、身軽に気楽に生活を楽しんでいるように見える。この異常な光景が、当たり前にみえる社会がある。 自立しない生活することに慣れきっている若者たちがいる。 結婚の条件もとても難しい。田畑の多い家はイヤ、田畑があっても、農作業をやらないということが結婚の条件だという。舅、姑、小姑との同居は絶対にイヤ、ということらしい。親も、なるべく我が子には自分と同じ苦労はさせたくないという親心から、気楽な家に嫁がせたいのだと言う。 私の生まれ育った村は、30年ぐらい前は、90個余りの農業を営む世帯が中心の農村だった。それが今は600世帯になっている。この増加分は、すべて旧くからそこで生活していた村の農家が、農地を売りったり、貸家やアパートなどを建てたところに新たに住み始めた人たちによる。まさに、戦後の日本の経済成長とともに変貌してきた町である。困難ながらも農を愛して、米づくりに情熱を持っていた古老たちの多くは、すでにいなくなったり、病気となったりで、農を担う中心は崩壊している。その上、農では生活が成り立たず、単に土地持ちというところである。そして、人口13万余りのこの地方都市には、日本全国どこにでもある、広大な売り場面積の店舗、商店街が次々にオープンしている。巨大な商店街が次々にオープンしている。目が眩むような巨大な山のように積まれた商品をかき分けて、毎日買い物をする人々が、この町には、それほど多数存在しているのだろうか。老いていく町が、それほどの消費を必用としているか。膨大な無駄、廃棄がまっている、ゴミのような商品の山ではないか。田畑をつぶして、無秩序に開発された住宅地や商店街。旧市内のお城跡周辺の、商店街は、かっての賑いは今はなく、店のシャッターがおろされたまま、無残な廃墟となっている。その痛ましい荒廃に、「えっ、どうして。こんなになったの?」と思わず言葉が出る。まさに、そこには、夏草がぼうぼうと生い茂る夢の跡そのものの光景がある。この現在の町の混沌、荒れた乱雑さを、繁栄というのか。人の心もこの景色と同じようになっている。ここには、繁栄していると云う大都会の近代的な都市美はない。醜い二番煎じ、猿真似の無秩序なケバケバしい町がある。傷ついた人々が生活している。見捨てられた孤独な老人がいる。そして、選挙戦は、あいも変わらず、ムラの利害関係、利益誘導、ムラの力関係のなかで行われている。どろどろした農村的な人間のしがらみの中で進行している。わが市の投票率は56%であった。投票率から見ると、村型選挙は崩壊しているのに、行われた選挙は昔のムラ選挙と変わっていない。このような選挙に国民の関心が忙殺されている時、国会では異常なスピードで、国のあり方の根幹に関る重要法案が審議され、成立を急がせている。即ち、憲法の改憲手続き法案。 教育3法。 米軍再編促進法案。 イラク特別法延長案。 社会保険庁「改革」法案などなどである。 この私も同級生と旧交を温め、それぞれの人々が社会のさまざまの所で、懸命に生きている日常に遭遇してきた。それはそれで、意義深く、学ぶこと多い楽しい出会いであった。がしかし、地方のこの選挙のありようは、今日本の国家に起きようとしていることを下からささえ、隠蔽するものになっている。誰一人として、国会で何が起きているか語らない選挙。この現状が「安倍カラー」をささえる基盤なのである。 安倍政権の推し進めようとしている「美しい国」が、このような田舎の支持によって成り立っている。田舎で起きている家族の関係の希薄は、「家」制度の崩壊にあるとする老いたる者たちは、安部総理の《美しい国》理念に共感する。モラルが低下し、子供達が親の言うことを聞かない、気まま勝手な暮らしをしているのは、「修身」を教えないからだという安倍政権の教育理念に共感する。安倍総理の懐古的な「2世代3世代で暮らす家の復活」とぴったり符合する、これらの言葉は、田舎の人々の心をくすぐっている。甘い言葉なのである。ほんとうは、モラルの低下や、家族関係の希薄の原因はどこにあるか。そこへの深い分析究明なしに、「昔の家を美化」することは、歴史の歯車を逆回転させるだけだ。何ら解決策を生み出さないばかりか、益々悲惨と混乱をもたらすだけだ。国土を無残に荒廃へと追いやる「美しい国」が今、深いところで進行し、強行されようとしている。
2007.04.23
コメント(2)
若者に《希望》を語れる「国政」に通じる一票を投じよう。 (2/4は愛知県知事選挙投票日) 柳沢厚生労働大臣が女性を「子どもを産む機械」と発言したことをめぐって、日本中に物議をかもし出している。大臣の罷免要求に対しても「与えられた仕事を一生懸命にし、成果でもって安倍首相の厚意に報い、国民の皆さんのお役に立ちたい。」(1日)と言っている。さらに、1日の衆院予算委員会で、自民党の野田毅議員から「一人だけの話ではない。閣僚の皆さんは、職責ある間は、言論の自由はないだということを頭において欲しい。安倍内閣の統制力が疑われる。厳しく注文をつけておく」と柳沢厚生労働大臣の発言を上げた上で、「反省」を求めた。これら一連の自民党議員の発言は何を意味しているか。自民党の議員の人格が、いかに非人間的なものであり、他人の尊厳を傷つけて生きることに何も痛みを感じない集団であることを世間に示しているばかりだ。「職責にある間は言論の自由はない。」ということを肝に銘じて言葉を発せとは、恐ろしい政党である。この人々が子供たちに「規範意識」を教え込まなければと「教育再生」に熱心なのである。これらの自民党の一連の発言は、柳沢厚生大臣の謝罪は、嘘であり、本心は何ら変化していない、ということを自ら暴露している。この発言は単なる失言とか、謝罪すれば済むなどという内容のものではない。 「女性は産む機械」というのは、戦後から今日に至るまで、一貫して貫かれてきた、自民党の描く理想の女性像であり、労働の仕方の思想を体現したものである。即ち、男は外で働き、女は家で子どもを育てろということである。子どもがうまく育たないのは、女の責任などというのも、その典型的な思想である。 私達世代の子育ては、女が働きつつ子育てしている者に、激しい攻撃をかけられた。幼い子を保育園に預けて働くような女は「犬畜生にも劣る」と、時の政府(自民党)から絶えず攻撃をかけられ、社会の目も厳しく、とても大変であった。それでも働きつつ、自らの手で保育園を作り、学童保育所を作り、お互いが協働して、どんな子どもを育てるべきかを模索して、子育てをしてきた。男達の多くは企業戦士とかとおだてられ、会社に長時間拘束され、家庭どころではなかった。それがどうだ。何ということだ。ここに来て、人口減少が深刻な社会問題になってきたら、今度は、一転して「子どもは国の宝だ。子育ては社会的な崇高な事業だ」などと、同じ政党の人間が恥ずかしげもなく言い始めるではないか。(それは、私達が言い続けてきた言葉だ)働きつつ子育てしたら、「子どもがまともに育たない。不良に成る。」という自民党の一貫してかけてきた攻撃がいかに根拠のないデタラメなものか、働く女達は、自分たちの子どもを育てる中で証明してきた。実証しつつある。要するに自民党の言っているこれらの「言葉」は、ただ単に「物言わぬ安上がりの労働力」を生み出す機械として、女性を見ているに過ぎない。子育てを社会化するには、お金がかかるのだ。子供達が安心して、豊かな環境で育つにはお金がかかるのだ。それを出来るだけ安上がりにしたいのだ。現在の若者たちが「結婚しない」「結婚できない」或いは結婚していても「子どもを産まない」「産めない」問題の根っこは何処にあるか。女は家庭、男は会社などという家族論で、育って来た子供達が今、社会に出て働き、結婚する年齢に達している。私達の世代が育ててきた子供たちだ。私達の育てきた子供たちの何処に問題があり、どうすべきことが人として豊かな人生を歩む為に必要か、など深い分析なしに、少子化など解決できない。そして、その原因の一つに、自民党が高度経済成長期に国民に押し付けてきた「子育てのあり方」「家族のあり方」が破綻し、深刻な社会の病根となって若者たちにのしかかっている。自民党はとりわけ安倍首相は「美しい国へ」のなかで、この家族の問題を復古の思想で乗り切ることを目標にしている。かっての「家」制度を復活して、美しい国を作れと号令をかけている。時代錯誤もはなはだしい。今、若者たちが苦しいでいる問題は何か、自立できずにもがいている問題は何か。自民党が、国民に理想として押し付けてきた「家族」のなかに、その病根があるのに、それへの深い解明や反省なしに、昔に返っても、何ら解決されないばかりか、益々混乱と少子化が進むだけだ。 私の娘も現在一児の働く若いママであるが、私たちの世代に比べれば隔世の感がある恵まれた状態である。しかし、これは多くの働く先輩の女性達が切り拓いてきた財産の継続上にあるのであり、自民党が与えてくれたものではない。自民党はそれらに攻撃をかけ、女性が働き辛くすることばかりを次々にやってきた。即ち女性の働く権利を侵害し、切り崩してばかり来たのが、戦後の働く女性の歴史なのだ。しかし、働く若い女性が子育てしつつ、働き続ける困難さは、以前にくらべ良くなったとはいえ、今、なお厳しいものがある。男も女もまともに家庭を営めないような、非人間的な労働状態に晒されている。女までもが企業戦士状態になって働いている。これで、どうして子どもを産み育てられるというのか。女性が人間として輝くことなしに、子育てなど全うできない。それに子どもを産み育てるのは、女だけの仕事ではない。男女の協働によって、切り拓き創造していく、とても興味の尽きない一大事業のはずだ。親が誇りをもって生きる人生をしていてこそ、子どもを産み育て、自分のいのちをバトンタッチしたいと思うはずだ。どんな困難ものりこえる力が湧いてくるものだ。今の社会は、若者たちにとってそれと反対の闇のなかにある。この現実を変える子育て、この現実をかえる教育を実現することなしに、少子化など止める事は出来ない。「一人当たり何人産むか」を機械のごとく割り当て「産めよ増やせよ」と政府が号令をかけようとしている。さらに、その号令に素直に従う「よい子」を作ろうとしている。これが現在の安倍政権の目指している「教育再生」であり、それを完成させるための「憲法」改正が待ち受けている。2月4日は、私の住む県の「知事選挙」である。空前の好景気で「元気な愛知」などとマスコミははしゃいでいる。名古屋駅周辺は、高層ビルの建設が次々となされ、都市の再生とかではしゃいでいる。私の住む市も次々に山を切り崩し、建売住宅の建設ラッシュである。これが好景気?その一方で、ある高齢者夫婦(80歳代)は、例えば住民税が4千円から4万8千円に上がり、国民保険料は、年7万8千円から12万5千円にアップした。名古屋市の敬老パスは04年から無料が有料になり、保育料も年々引き上げられている。そんなに好景気で儲かっているのなら、なぜ増税するのか、なぜ弱い部分から巻き上げるのか。若者たちは、夜昼なく厳しい労働のなかで、うつ病になり、再起不能になっているのもあちこちにいる。こんな状態で、少子化などくいとめられると思いますか。一人当たり何人産めよとお説教する前に、この現実をどうするかと具体策を国民に示すのが厚生労働大臣の職責ではないか。(総理の厚意に感謝するとは)馬車馬のように走っている一部の者(国家)のための金もうけに加担して、一体何が生まれてくるのだろう。それほどお金が大切か。4日の「知事選挙」には、誰を選ぶべきか、どの政党を選ぶべきか、県民が自らの「知性」を発揮して、若者たちに「希望」を語れるような《国政》へと通じる一票にぜひしましょう。
2007.02.02
コメント(1)
ホームレス襲撃事件を犯した中学生たちに潜む意識とは何か。 愛知県岡崎市の河川敷で、11月始めからホームレス襲撃事件が相次いでいた。殺害を含む8件の襲撃事件は、全て28歳の男を首謀者とする中学生3人のグループによる犯行と判明した。犯行の動機、目的は、「カネ欲しさ」と「憂さばらし」である。初老の老婆が殺害された。69歳の女性ホームレス、花岡美代子さんが殺害されたのは、11月19日の未明、乙川河川敷である。28歳の男と中学生3人の4人全員で、鉄パイプで殴ったり、足で腹部を蹴り上げたりという暴行を繰り返し殺害した。28歳の男が「カネ」を持ち去った。自分たちより力弱く、抵抗できない、初老のしかも女性をこのような悲惨なやり方で殺す、その手口は、卑劣な恥ずべきものであり、許すことは出来ない。この少年たちや28歳の男は、社会からドロップアウトされたゴロツキ集団であり、その集団が更に自分より弱い抵抗できない集団をイジメて叩きのめす、無い所から、わずかなカネを奪って飲み食いや遊興費にする。この現実に大人たちは眉をひそめ、今の若いものは何とひどいことをするのだろうと言っている。どこかのテレビのワイド番組などでは、司会者が少年集団の非人間性を大声でわめいて、いかにも、この社会の無法を告発しているかのごとく騒いでいる。しかし、この事件に見られる構図は、今の社会そのものを包み隠すことなくあからさまに表しているに過ぎないのではないか。カネも職もなく、知性もない者たちが、自分の欲望の赴くまま犯行を起しているので、事の本質が容赦なく世間のまえにさらけ出されている。ホームレスなどは、社会の負け組み、脱落者として、踏みつけられても当然という意識が、国民の多くの共通したものとして心の奥深くにある。社会の厄介ものなのである。排除すべき存在なのである。ひとりひとりがその差別意識を自覚しているかどうかの違いだけである。子育て中の若い親が、子どもによく言う言葉に、「勉強しないとホームレスになるよ」というのがある。要するに幼い時から、ホームレスは人間として、忌まわしい価値の無いものとして、脳裏に刷り込まれているのである。その延長上に弱者が弱者を食い物にしても何ら痛みを感じない、罪の意識も無い、襲撃事件が起きている。そして、社会も、ホームレスが襲われてもやもう得ない、ただ、殺すのはちょっと行き過ぎだけど、という感覚なのである。権力やカネのある者は、他人の人間としての尊厳をおとしめ、踏みにじっていても、何ら罰則を社会は与えないばかりか、羨望さえ受けているという今の日本のこれは縮図なのである。「自己責任」で再チャレンジせよ、出来ないものは能力が無いから本人が悪いのだ、という思想の行き着く先にあるのがこの事件の本質ではないか。働きたくとも働けぬ高齢者たちの多くは、常にホームレスと隣り合わせで生きている。そのような初老のホームレスの女性が、このように哀れな死に方をせざるを得ない日本。これが繁栄している、景気がよい日本の現在の姿なのである。そして、破棄すべき邪魔モノとして、姨捨山さえなくしてしまった高齢者達の大群が背後にひかえている日本。50年後には4割が高齢者を占めるという、将来推計人口さえ出た。この婆さんもその一人なのである。そして、今、社会にたむろしている若者たちの全てに50年後には老いがやって来る。その時の自分の老いの姿をどう描いているか。幼い子や若者や老いたるものが、真に人として尊重される社会。そこに必用なおカネをたっぷりと惜しまない社会。今、日本はこれとは反対の方向に向いて走っている。
2006.12.21
コメント(0)
大江健三郎「定義集」から。家庭教育に「教育基本法」を開いてみよう。 自民・公明の「改正教育基本法」は、始めから今国会で、可決するというスケジュールで仕組まれていた。茶番劇の連続で予定通り「改悪教育基本法」は成立した。 しかし、この国会の審議を通して、与党自民・公明党の体質が、いかに民主主義とかけ離れた党であるかを国民の前に一層明らかにした。 与党は、委員会審議が衆院で百時間以上、参院で七十時間を超えたことを持って十分審議は尽くされたといって、強行採決した。 「改定案」提出の「根拠」として、当時の文科相・小阪憲次郎は、タウンミーティングでの国民との意見交換をとおして、民意が改定を求めていると答弁していた。しかし、そのタウンミーティングは、政府の報告書でも、全174回のうち発言依頼105回・356人、「やらせ質問」15回53人だったことが明らかになった。依頼者には謝礼まで支払っている。これらは全て税金。しかも「やらせ質問」は、文科省主導で行われていた。なぜ、「やらせ」までやって、民意を偽装したか。政府の報告書はその動機について、「教育基本法改正に反対する者のみが発言する可能性があり、賛否両論幅広い意見が出るように配慮する必要があった。」と言っている。要するに政府がお膳立てしなければ、賛成意見が出てこないという代物が与党自民・公明の「改正教育基本法」なのある。さらに、参院教育基本法特別委員会が、6ヵ所で開いた地方公聴会では、24人の公述人のうち、13人が、反対か慎重審議を求めていた。4日に行われた新潟会場の与党公述人の一人は、「突然参院から話があり、公聴会の前日に始めて法案を必死になって読んだ。」と明かている。要するに国民的議論などほとんどなされていないということである。形式だけを整え、それで十分審議を尽くしたというのである。国民の目からできるだけ本質を隠して、急いで強引に無理やり可決しなければ、可決しないお粗末な法案であることを自らが告白している。日本の未来を担う子供たちに関る国の在り方を左右する重大な法案が、火事場泥棒の如くに成立した。 この法案の可決によつて、今後の日本の学校は、この法律に沿って、次々に国家が立案した教育方針が現場に強要され、それによって教員は、その方針に忠実かどうか評価され、ますます、学校は矛盾と混乱に陥るであろう。 今日(19日)の朝日新聞の文化欄:大江健三郎が「定義集」という連載エッセイで、《心に「教育基本法」を》という記事を書いている。その中で、 〈 まさに「作品」と呼ぶにあたいする文体をそなえた教育基本法には、大きい戦争を経て、誰もが犠牲をはらい、貧困を共有して、先の見通しは難しい窮境ながら、近い未来への期待を子どもらに語りかける声が聞こえます。 あの「作品」を積極的に受け止めた日本人には、その文体につながる「気風」があったのです。それを忘れずにいましょう。 そうして幼児とともに、目の見える・見えない抵抗に出会う時、若い母親が開いてみる本にしましょう。〉 と結んでいる。若い母親が(また意識的な父親が)自立した個性にみちた家庭教育をすすめる手がかりとして「教育基本法」を、開いてみる「本」にしようと呼びかけている。目にみえる・見えない抵抗;理不尽な国家の人格への介入で、子育てに混乱と停滞が生じた時「教育基本法」を子育ての「本」として開いてみようと呼びかけている。 「日本国憲法」や「教育基本法」の文体は、とてもシンプルで日本語としても完成度が高い。改正教育基本法の文体の混乱、回りくどさは目に余る。文体だけではなく、その精神においても「人類の到達した叡智」の結晶であり、世界に誇れる法律を、ここで失う事は、日本の歴史の汚点となるであろう。しかし、自民・公明がごり押しして可決したからといって、闘いは終ったわけではない。子供たちがどのように育つか。どんな未来を担う大人に成長していくか、その結果がだけが、何が正しい法律かを実証するであろう。家庭や学校が、どのような子育てや教育をすれば、子供たちが人としてすぐれた自立した大人として、社会で生きて行けるかという事実だけが、何か正しかったかを証明するであろう。心に「教育基本法」を。権力は心まで縛る事は出来ない。そして、歴史が必ず何が正しいかを実証する。
2006.12.19
コメント(2)
今週末に与党「教育基本法改定案」は、衆院を通過しようとしている。 文部科学省は、教育基本法改定案を11月に成立させることを前提に、全国学力テスト実施を盛り込む、「教育振興基本計画」の策定にむけて、来年までのスケジュールを立てていたことが明らかとなった。このスケジュールに沿って、今週末10日には衆院を通過させようというのが、与党の予定表である。(最初から、成立することを前提として、すべてがスケジュール化されているのなら、国会の審議など、どうでもいいこと。茶番だ。これで、民主主義といえるか) 前の国会後、教育基本法の改定の根幹を、揺るがすような教育に関する新しい問題が、次々に起きている。安倍内閣の「教育再生プラン」問題、東京地検の『日の丸・君が代』強制に対する違憲判決、いじめ自殺問題、高校の必修科目の未履修問題など、教育基本法とかかわる新たな重大問題が続発している。 さらに、青森県八戸市では、「教育改革タウンミーティング」で、内閣府が、タウンミーティグ開催前に、与党「教育基本法改定案」に賛成するように、政府が県教育委員会・教育庁に「やらせ質問」の3つのひな型(質問項目案)を送って、発言者に依頼して、タウンミーティングで、発言候補者に発言させていた。いわゆるやらせである。文化省作成の質問項目案の発言者には、「せりふの棒読みは避けてください」「『依頼されて...』というのは言わないでください。」「あくまで自分の意見を言っているという感じで」などと細かに発言の仕方の注意点まで指示するという手の込みようである。 タウンミーティングとは、小泉首相が01年の就任直後から「国民の対話」を掲げて始めた、国政への民意の反映、住民参加をめざして始めたものである。開催費用は昨年度は1ヶ所につき、1100万円にものぼっている。小泉政権5年余りで174回開催された。開催に費やされている税金は膨大である。このような「やらせ」は、今までにもやられていたに違いない。民主主義の仮面をかぶって、民意を自己に有利に導こうとしている。(民主主義とは相容れないことが公然と行われている。)これが『規範』を国民に強要している者たちのやっていることである。『民主主義』を叫んでいる者達の姿なのである。 論議を重ねれば重ねるほど、論理的矛盾を国民の前にさらけだす「改正法案」、本質が暴露する前に、国会成立をさせねばならない法案。 教育基本法に書かれている「教育の目的」「教育の方針」は、急いで改正しなければならないような内容ではない。きわめて、当たり前の、人類が長い歴史のなかで試行錯誤して、到達した普遍的真理である。世界に誇れるものである。教育を時の国家の奴隷から解放し、人類普遍的価値への奉仕者になることを高らかに謳いあげたのが現在の「教育基本法」である。個人の尊厳や基本的人権や自由を身につけた、「人格の完成」をめざすことを目的に掲げているのが、現在の『教育基本法』なのである。安倍政権のめざす教育は、時の統治機構である『国家』に忠誠で、物言わぬ「国民の育成」を教育の目標の柱の一つに付け加えた。国民の現在の『教育崩壊』を大々的に宣伝しているのは、国家危機をあおり、それを収拾するのは、「国家」の唱えるお題目・「規範」を有無言わず守らせ、守れないものには、罰則で縛ってしか方法はないと国民を脅す為である。急がなければ益々混乱するぞと脅しをかけている。 若者達が、幼く社会性がなく、生きる力を付けないまま、大人になって社会に放り出されて、さまざまな問題が発生しているのは、安部政権のいっている「国家」を愛するモラルが無いとか、自由ばかり強調して義務を疎かにしているとかという「道徳」からきているのではない。 現代の社会のありよう、まさに安倍政権が最も力を入れている「経済成長」のためなら、なんでもありの経済のありよう、そのための競争が社会の活力だとするような、世界観、そこから生じるもろもろの文化のありよう、とても複雑なところにその原因がある。子供たちの育ちそびれている原因を、活発に、自由に討議したり研究したりして、教育実践していけるような教師集団を作り出していくことが今一番必用だ。そのような自由な解明、深い研究を自由にできる道ではなく、教師を国家の『規範』実践の手足にしていく道。それが改正案の道だ。そのような学校では、益々混迷し、子供たちは、今以上に荒れて、生きる能力の脆弱なものにしか育たないであろう。益々、いじめは深刻、陰湿化するであろう。安倍政権は、本気で「教育再生」などしようとしていない。安倍政権にとって、現「教育基本法」前文の「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」とした「憲法と教育基本法の一体性」・「車の両輪」を何としてでも、急いで改正したいのだ。そうしなければ、安倍首相の最も願望し、実現したい「憲法の改正」を日程に上げることができないからだ。この点で安倍首相は「闘う政治家」である。憲法改正の先兵として、この「車の両輪」の一方の車輪をまず破壊しなければならぬという至上命令があるのだ。そのために大急ぎで「改正案」成立をスケジュール化している。断じて、「教育再生」のためなどではない。人間性が豊かに開花する社会は、高い品性、知性を開花させる社会だ。それを実現する社会を否定している大人たち自身が、社会を混乱、破壊に導いていることの反省に立つことなしに、「再生」など絵空事である。 高い人間的な「人格の完成」を教育の目標に掲げる現行の「教育基本法」は、国家の要請する「国民の育成」を目標にする与党の『教育基本法改定案』に取って代わろうとしている。その「国民育成」こそ、「憲法改正」の先にある社会に国家が必要とする人間像である。教育を混乱と破壊に追いやって来た戦後の歴史を、さらに推し進め完成させようとする道が「改正案」の先に見える道である。明日にも、その法案が、衆院を通過しようとしている。日本の社会は、今、質的に異なる大きな転換点にある。そのことを、日本の教師たちはどう考えているか。
2006.11.09
コメント(0)
高等学校の「世界史履修漏れ」の意味するものは何か。自民・公明「教育基本法改定案」(小論その4)17条の条項の実現は教育をどのように変えるか。 富山の県立高校における必修科目「世界史はずし」に端を発した履修問題は、ほとんど全国的な広がりで摘発されたかに見える。しかし、必修科目の未履修は、裏カリキュラムとして、日常化しており、高等学校の現場を知るものなら、別に驚くに当たらないことである。この裏カリキュラムについては、恐らく県や市の教育委員会、国も以前より知っていたはずだ。公然と行われていたといっていい。大学の入試の内申書は本人未開封であるから、大部分の生徒は知らないでいただけだ。現役の高校生たちも、「別に今さらそんなこと何故、問題にするの、おかしい、変だ。大学の入試科目でない教科を、まともに授業受けている人は、ほんの数人。ほとんどが寝ているか、他の教科の内職をしている。それでも単位取れるのだから、別に世界史をやっていないからといって、どうということはない。」と言っている。では、なぜ、ここでこの問題を、マスコミや国が大々的に宣伝し、校長など管理職の非を攻め立て、国民に眉をひそめさせるように仕向けているのか。このところ一連のいじめの問題でも、学校側の対応、特に管理職の対応のまずさが非難され、国民的に「奴らはけしからん」と大合唱をしている。校長レベルが「管理能力がない」ということを、大々的に宣伝している。この教育現場の惨状は、何もここに来て始まったことではない。戦後の教育の到達点として、日常的に行われていることであり、政府が行ってきた教育の到達点でもある。 先週の日曜日(29日)・NHKの朝9時からの日曜討論「教育をどう再生するか、伊吹大臣に問う」で、伊吹文科相は、「教師や教育委員会のモラルの低さ、規範意識の欠如」をあげている。特に管理職のマネジメント能力の貧弱を上げている。このような教育の現場を再生していくためには、現場に市場原理を導入し、「数値化」による目標達成を実現する教育、数値目標で競争させて、成果を評価していく、教育を実現することの必要を言っている。そのようにしなければ、教育の効率化や努力は生まれないとさえ、言い切っている。これほど教師集団をバカにした発言はない。「お前たちは、競争させて、尻を叩かなければ、教師として働きが悪い」と言われているようなものである。今回の一連の『教育偽装』事件を大々的に宣伝し、教育崩壊の惨状を国民の前に、あえてさらけだす意図は何か。 国家がモラルにまで立ち至って、統制できる「教育基本法」の改定が必要であるという、国民的な世論づくりをしようと、意図的にマスコミを連日動員して、騒ぎたてているのではないか。国民に「教師集団はけしからん」という大合唱を起こさせようとしている。「教師たちはけしからん」という大合唱は、だから、現在の法律が悪いという国民感情に容易に結びつく。それに対して、何の反論もしない多くの教師たち。そして今、国会では自民・公明の「教育基本法改定案」審議が始まっている。自民・公明の「教育基本法改定案」の第17条、教育振興基本計画。まさにこの条項は、政府が「基本的な計画」を策定し、その「計画」達成度の「評価」に基づく財源配分や統廃合という新たな統制を容易にする条項である。『教育計画』において、条件整備計画にととまらず、教育内容面にまで、容易に統制強化することの出来るようにする条項である。これは、「教育の基本計画」を「国民代表会議の制定する法律から政府の策定する計画に移行させ、計画にたいする民主的なコントロールを遮断する」という点で、「国民主権原理、法律に基づく行政原理、国会中心立法の原則」など、現在の「憲法」の多くの規範に抵触する条項なのである。即ち、この自民、公明の「教育基本法」は、多くの点で「憲法」の規範にふれている。この点からも、「憲法」改正の先兵としての「教育基本法」の改定を急ぐ必要があるのである。現在の教育崩壊の現状は筆舌尽くしがたいものがある。そして、自民党が主張している教育方針、新自由主義的な市場原理を教育現場に導入し、すべてに「数値化目標をたて、その成果によって、教師の成績を評価する」このやり方でほんとうに教育は『再生』出来るだろうか。益々教育崩壊に拍車をかけるだけではないか。ここには、子どもの顔は、どこにも現れない。ただ、数値目標を達成する為に、狂奔し、疲れ、欝になるのが末路という教師集団があるばかりである。子育てをしている母親なら分かるはずである。子どもの発達段階のあれこれに期限や数値目標を設定し、それがうまく行かなかったら、「ダメ母親」のレッテルがはられて、生活費や子どもの養育費も制裁として削減されるという罰則がつく。お国のためにならぬダメ母親として抹殺される。そんな社会で子どもが育つだろうか。そんな社会で、子どもを産み育てたいと思うだろうか。子どもの発達は、単純ではない。自動車の生産ラインではない。しかし、今の学校は、子どもは、『人』としてではなく、「モノ」として、管理する対象にされようとしている。校長たちが「履修漏れの隠蔽」をしたのは、一人でも多くの学生を「国立大学」や「有名私立」に合格させる為であり、4大合格○%、○×大学に何人以上。センター入試何%以上という数値目標に急き立てられ、世間や教育委員会の目を気にしなくてはやっていけない学校。そこで成果が上がらなければ、生徒も来なくなり、財政的な削減までされる学校の現実。ここには、子どもたちに、どのような未来を切り拓く力をつけさせることが必要かなどという教育は生まれる余地がない。「いじめ自殺ゼロ」を報告し続けるのは、国の「3年以内にいじめ半減」という数値目標を達成するために、取り組んだ結果なのである。これらの校長には、伊吹文科相のいう「規範」が欠けていただろうか。これらの校長こそ、国のお墨付きの規範の『実践者』の先頭にいる管理者たちなのだ。おそらく、卒業式には先頭になって『国旗』に敬礼を奨励し、大声で「君が代」を歌うことを叱咤激励する校長たちである。この点でも、国のお墨付き『規範』の優秀なる実践者なのだ。その優秀なる実践者たちは、もし事件が明るみに出なければ「優秀という評価」を得ていたはずだ。そして、不幸にも今回、隠蔽しきれずに事件を起した校長たちを生贄にして、国民の前に「教育崩壊」の惨状を演じて見せている。それが、今回の一連の事件の本質ではないか。その魂胆を見抜く必要がいまこそある。(今日の新聞報道によれば、東京都の足立区は都内で学力テストの平均点が最下位のため、区は学力テストの点数に応じて予算配分するとある。勿論、高い点数の学校が多い予算配分である。本来なら学力の低い学校に、財源を厚くして、教育に充実を図る施策が必用なはずである。しかも、全体の教育予算のパイは変らないので、従来の「生徒数に応じて配分されていた予算」から、学力の低い学校のものを削り、、高く配分する学校に回すというやり方である。教育基本法の改定案が成立したら、全国的に学校はこのようになる。)
2006.11.04
コメント(4)
偽装請負の働き方をさせられている若者たちの未来はあるか。 アメリカ流の新自由主義経済によって、あらゆる分野で規制緩和策がとられ、全てを新自由主義的な市場の競争に任せようという経済政策が取られるようになって、日本の社会はどう変化しているか。日本の働く現場は、今、グロバリゼージョンの名のもとに、その競争に勝ち抜く為に、なりふり構わぬ労働条件の劣化、奴隷状態さながらの職場が日常的に横行するようになっている。とりわけ、若者がそのターゲットになっている。 現代版・奴隷の労働形態のひとつに、偽装請負というのがある。では、偽装請負とは何か。その元で働く人たちはどのような日常であるか。派遣という労働形態も現代の仕事の仕方の一つになっている。その派遣と請負の違いはなんであるかから考えてみたい。 派遣とは、派遣会社が他社と契約を結んで労働者を「貸し出す」制度である。派遣先の会社が、派遣期間であれば、雇用責任を負わずに労働者を指揮し、使うことが出来るが、労働者に対する労働安全衛生に関る責任は負っている。更に、派遣期間が1年(2007年3月からは3年)を超えた場合は、労働者を直接雇用する責任を派遣先企業は負っている。 一方、請負とは、請負会社が発注元企業から業務の一部を任されて完成させる働き方である。労働者に対して雇用責任を負い、労働者を指揮、監督するのは請負会社。派遣と異なり、発注企業は、労働者に対して、一切責任持たない代わりに、指揮も出来ないのである。今、日本の大企業の製造現場では、この派遣と請負の制度を悪用して、実際は派遣なのに請負を装い労働者を働かせている。受け入れ企業は、労働者の雇用責任は、一切負わず、労働安全衛生責任もなく、「割安な賃金」「人員を素早く整理できる」労働者を大量に獲得することで、ぼろ儲けできる仕組みである。しかも派遣を請負と偽装し、更に、実際は、自分の企業の正規社員と入り乱れて働かせることで、自分の工場現場を指揮、監督するという違法行為をしている。(請負は指揮できない)製造業者にとって、労働者を一人雇えば、年金、健康保険料、福利厚生費を含めると、時給で約3500円かかる。これに対して、派遣会社から派遣してもらえば、約2500円なのである。受け入れ先の製造業者は1000円の儲けが発生する。更に、派遣会社は労働者に1000円しか支払わず、派遣会社も1500円の儲けが発生する。このような労働形態で若者たちを働かせる事は、正規社員に対しても、自分より劣悪な条件で働くものを見せしめにすることで、正規社員の賃金も低く抑える働きもしている。さらに、人間として、無権利な状態におかれ、尊厳を傷つけられていようとも、物言わぬ労働者を大量に作り出す場所でもある。もの言えば、即、クビである。補給するスペアの若者はいくらでもいるのである。(若者の失業率は9%前後と高い。さらにパート・アルバイトの1600万人もの予備軍がいる) 若者をこのように使い捨てている国。 このように若者を「働く大人へ」と育てない国。これが、いざなぎ景気を上回る好景気の期間が続いていると騒ぎ立て、浮かれている支配者が権力の座にいる国。世界の「負け組み」にならないで済んだと、「構造改革」の成功を自慢している国。それが今の日本なのである。 この若者たちの収入は、死なせず、生かせずの低いものである上に、将来の日本の年金制度を支えていくべき人たちであるのに、それさえからも落ちこぼれてしまった所にいる。 日本は製造業で栄えている国と言いながら、このような劣悪な奴隷状態の働き方をさせているのが、日本の製造企業なのである。このように働かせなければ、儲けが出ないというのが、アメリカ流の新自由主義経済の仕組みなのである。 先日、大阪労働局が、偽装請負をやっていた「人材派遣会社」コラボレート(クリスタルグループ)を摘発した。しかし、これは氷山の一角に過ぎない。 松下電器グループ (2700人) ・ キャノングループ(3000人)・ ソニーグループ(1400人)などなどは、このクリスタルグループから、100人以上の労働者を受け入れていた企業グループである。これは、あくまで氷山の一角。日本列島の製造企業の現場では、派遣を「請負」と偽って、働かせるやり方が日常茶飯になっているのである。 2003年労働者派遣法の改定により、それまで禁じられていた製造業への労働者派遣が可能になった。この改定で、一気に製造・請負の拡大を加速した。製造業務に派遣を労働者を受け入れると、労働局に届けた事業所の数は、04年度・630事業所、05年度・4337事業所、06年度・8016事業所なのである。04年度から06年度までの2年間に、派遣労働者で賄っている事業所は、何と13倍に増大している。まさに、これこそが規制緩和の行き着く姿である。それによって、庶民の暮らしはどう変化しているか。とりわけ、若者たちの生活はどうなっているか。彼らの未来はどうなのるのか。日々私たちが目にしているごとくの現状である。 その仕組みや、本質について、考えたり、見抜いたりする知性を育てることをしない教育、それが、今の日本の「学校」だ。 人として卑しめられていても、「声」を上げることもなく、刹那的にパチンコやゲームやパソコンなどのなかに逃げ込んで満足している「若者たち」を育てているのが、日本の学校だ。日本の家庭だ。 「学ぶ」ということ、「知性を育てる」ということは、人間が人として生きていく「生きる力」のおおもとである。 生きるエネルギーの源泉なのである。 そのような「学び」から「知性」が育つ。
2006.10.19
コメント(0)
子育てフレンドリーな社会は、子どもをどこに導くか。 安倍首相は所信表明演説の中で、健全で安心できる社会の実現をめざすと言い、少子化を食い止める為には、「第2次ベビーブーム世代がまだ30歳代である、残り5年程度のうちに、速やかな手を打たなければなりません。内閣の総力をあげて少子化対策に取り組み、「子育てフレンドリーな社会」を構築します。」さらに「子育ての素晴らしさ、家族の価値を社会全体で共有できるよう、意識改革に取り組みます。」と述べている。そもそも「子育てフレンドリーな社会」とはどんな社会であろうか。 フレンドリー(friendly)などというカタカナ語を使うことで、その内容の本質を、国民の前からぼかしている。 オクスフォード(Oxford Advanced Learner's Dictionary)の英語辞書では、フレンドリーという語を次のように定義している friendly ; (a) behaving in a kind and pleasant way acting like a friend. (b) showing or expressing kindness and a helpful attitude. (c) ~ of a relationship in which people treat each other as friends. (d) not seriously competitive : not in conflict with each other; not enemies.このオクスフォードの辞書に見られるフレドリーという語の意味は、現代の日本の親子関係や教育のありよう、社会と子どもとの関りの特徴を端的に表している。 即ち、他人を傷つけないように優しく楽しく振舞う、深刻になるような争い事は避ける。友だちに接するように、お互いを気遣いつつ人間関係を構築する。このような人間関係を形容する言葉がフレンドリーの英語の意味であると、この辞書は定義している。 現代の親子関係、教師と生徒の関係は、まさにこの「フレンドリー」という言葉そのものである。とりわけ親子関係はフレンドリーそのものである。そして、その関係で育ってきた子供たちが、30代半ばに達しようとしている。子供たちに何が起きているか。すでに皆が承知している通りである。そして、さらに低い年齢の子供たちは益々、フレンドリーな親子関係のなかで育っている。そして、自立した人間として、社会の中に巣立っていけない子供たちが大量に作り出されている。 今の中学生などの進学進路の選び方を見ていると、親たちはできるだけ子どもに負担をかけない進路、楽をしていける進路を子どもに選ばせようとする。わが子が進路を選び取る時、リスクや子どもが自分の能力に挑戦する労苦を出来るだけ減らそうとする。その結果、子どもを面倒な事を嫌い、親の心を見透かして、なるべく楽なほうへ楽なほうへと傾いて、底なしなのである。そして、『個性を伸ばす教育』などという、分けのわからぬ美辞麗句の宣伝パンフレットで、ろくに勉強しないまま高校や大学に入学していく。とりあえず、社会に出る前の居場所を作るのである。 これではいけないと学力テストを全国レベルで行い、子どもを競争させて勉強させよと、「全国学力テスト]の実施や「学校を成績順に公表」して、競争させる学校再生プログラムを、政府は掲げている。この競争に負け、子どもが入学してこなくなった公立校には、予算配分も減らすという、脅しまでつけている。このようなやり方で競わせる勉強は、その親たちが経験してきた勉強方法だ。その勉強方法で学校を卒業してきた親たちは、その子供たちに「自分の親は中学の勉強もよく分かっていないのに生きていけている」と、親の学力のなさを見抜いている。だから、勉強など無意味と子供は感じて育っている。親たちの学力は、その程度の勉強でしかなかったのだ。親たちの多くは、勉強を「点をとること」に矮小化された勉強をいつも強いられてきた世代だ。そして、その勉強を子どもに押し付けている。その子供たちは、その勉強の仕方では、勉強する動機づけを見い出せず、低い学力にとどまっている。 そして、学力が低いだけではなく、その子供たちは、粘り強く基礎的な学力を身に付けるトレーニングに耐えられない、軟弱な体力、気力にしか育っていない。これでは、社会に出たとき、自分の足で立って生活できるわけがない。真の学びとは何か。子どもにどんな学力を身に付けさせるべきか、21世紀に生きる子供たちにはどんな能力が必要とされているか。 ここで、多くの親は、自分の生きざまを子どもにぶつけて、子どもと厳しく向き合わない。 親自身が厳しく、自立して生きた体験が希薄なのだ。結構なご身分なのだ。 フレンドリーに、差し当たっては生きていける親子たちである。その子供たちが大人になった時は、はたして、フレンドリーに生きていけるかどうか、定かではないが、とりあえずはフレンドリーに生きている。親と子、教師と子などは、決してフレンドの関係ではないはずだ。社会的な関係は、フレンドではないのに、フレンドとして振舞って生きている。大学生になっても、親と子が、楽しくお揃いでお買い物をして、親のお守り役をしている若者たちが多いのである。親のほうが若作りに化粧して、目を輝かしている。その傍らに、淀んだ目で疲れた娘がくっついている。どちらが母親かと見間違う事しばしばである。親子が常に仲良しなのである。まさにフレンドリーである。親子がお互い自立しないで、もたれ合って生きているのである。確かに、日々、気楽で楽しいご身分である。しかし、心は虚ろである。日本の中流と自認している階層では、このような意識、生活が蔓延している。このような社会に、更に「子育てフレンドリー社会」を提唱して、子供たちを何処へ導こうとしているのか。 「子育て」は深刻な世代間の格闘や、社会での深刻な階層間のモラルの格闘なしにはできない。 そして、その格闘の先に新しい創造的な人間関係が生まれる。 子育て支援策一つみても、子供が豊かに育つ施策は、企業や国家の理念と経済的な対立は厳しいものがあり、それとの戦いなしに、お上から降って湧いてくるものではない。そのことは、今までの私たち世代の子育ての歴史からも明らかなことである。 安倍首相の述べている、「家族の素晴らしさ、家族の価値を社会全体で共有できる為の意識改革」は、「フレンドリーな子育て社会」では、成功していないし、これからも出来ないのである。このまやかしを、私たちは、しっかりと見抜かなければならない。
2006.10.08
コメント(0)
安倍晋三が 再チャレンジ支援策で国民を支援してくれるとは有り難きや。 安倍首相は所信表明演説のなかで、「みんなが参加する、新しい時代を切り拓く政治、誰に対しても開かれ、誰もがチャレンジできる社会を目指し、全力投球することを約束いたします。」と国民に有り難いお約束して下さった。さて、どうやって誰でもチャレンジできるような社会にしてくださるのか。その中味は?今、日本の社会が直面している働く人々の問題は何か。格差が生まれ、定着しようとしている原因はどこにあるのか。安倍首相の演説は、この点に関して、何の分析もしていない。そして、小泉政権の行った改革によって、日本の経済は立ち直り、この改革を更に続けることが豊かな美しい日本を創る前提といっている。確かに、大企業はバルブ期の1.5倍もの利潤をえているという。そんなにも儲かっているのなら、なぜ非正規社員は3割にものぼり、(青年層では5割ぐらいになっている)70歳以上の高齢者に対しても、保険料や税金や医療費の負担をどんどんふやしているのか。更に、日本は経済大国として、「イノベーションの力とオープンな姿勢により日本経済に新たな活力を取り入れる」といっているが、このイノベーションやらオープンやらとカタカナ語を多用して、分けのわからぬことを言っている。わざと分けのわからぬようにしている。要するに、世界市場に勝ち抜く為には、何でもあり(open)であり、引き続きアメリカの新自由主義的な改革を断行していく(innovation)ので、儲ける為には、国民が犠牲になること当然。お国の為に闘えよ。それが出来ないモノは、社会のよどみとなって、くすぶっておればよい、ということである。日本は、資源のない国として、製造業による貿易立国として、戦後の経済を繁栄させてきた。しかし、今や輸出を担う製造業の大企業の労働者が日本の労働者に占める割合は5%に過ぎない。その上、輸出企業の労働者は、アジアの安い労働力と競争させられ、偽装請負などで不当な悪条件のなかで、働いている。国内の職場自体が極度に減少しているのに、どうやって再チャレンジするのか。コスト削減をしなくては、競争に勝てず、儲けも出ないのが現実の輸出企業の姿だ。政府や金融機関が円高を維持するために、ドルを買い支える莫大な資金も、もとを正せば、輸出企業に補助金を出して、輸出企業の増益を負担しているようなもの。更にアメリカの消費の下支えをやっっているようなもの。貿易立国としての輸出依存の経済政策が、国民の生活を豊かにする時期は終ってしまっている。即ち、輸出依存の経済の仕組みでは、日本の国民が豊かな暮らしを実感できなくなっている。大量にモノを作り、大量に消費して、使い棄てるというこの経済の仕組みそのものに、どこかで、楔を打ち込まない限り、格差は益々広まりこそすれ、縮まることはない。世界市場のコスト削減競争に勝たなければ、企業は成り立たないのだから、いくら再チャレンジを叫ぼうが、労働力のコストを絞れる限界まで絞らなければ企業自体が成り立たないのだ。アメリカ流の新自由主義経済の側に立っている限り、国民の再チャレンジなどありえない。この現実に全くメスをいれないで、再チャレンジ支援策などおこがましい。国民を耳障りのよい言葉で、現実を見る目を眠らさせる麻薬に過ぎない。国民に幻想を抱かせているに過ぎない。安倍首相を筆頭に、この政権は美辞麗句を並べ立ててはいるが、その並べられた言葉には、厳しい現実に鍛えられたエネルギーは皆無といっていい。彼らには言葉は飾り物に過ぎない。2世、3世の議員たちの多くは(全てでないが)、家柄や血統にたよれば、言葉など必要ないのだ。安部首相自身その自分の著作「美しい国へ」でも、父、安倍晋太郎。祖父、岸信介。大叔父、佐藤栄作であることを、再三再四、褒めそやし、誇っている。結構なご身分なのである。我々庶民が、這い上がる為に、チャレンジにチャレンジを重ね、這いつくばり、歯をくいしばり、侮辱され、頭を押さえつけられても頭をもたげ、、更にその親は、分不相応な莫大なお金を工面して、飢え死にしそうになっているのとは、、安倍晋三の世界は全くの異次元の世界なのである。(多くの庶民はあきらめて、チャレンジする意欲すら無くしているが。)その異次元の世界から「誰に対しても開かれ、誰もがチャレンジできる社会を目指し、全力投球します」と国会で作文を読んでくれただけなのである。
2006.10.03
コメント(0)
「美しい国」に潜む意図は何か。 (安倍首相の所信表明演説から透けて見えるもの) 9月29日に安倍新首相は国会で所信表明演説をした。美辞麗句の氾濫、英語を日本語に言い換えないカタカナ語の多用など文体論としては、「美しい日本語」の創造という点で問題点多いのではないか。「美しい日本」を標榜している首相が、このようにアメリカナイズされた単語の連発とは、驚きである。「アメリカの押し付け憲法論」を展開しているご本人なら、もう少し日本人として、美しい日本語の使い手としての範を垂れて欲しかったが如何なものか。しかし、演説の言い回しを、現代日本語の口語表現に近づけているのは、国会の演説としては、進歩したといえるかも。さて、では肝心の演説の中味はどうか。この演説の中で、「美しい日本」という言葉を乱発した(8回)。その中味は「文化、伝統、自然、歴史をを大切にする国、自由な社会を大切にする国、自由な社会を基盤とし、規律を知る、凛とした国」をあげている。そして、この「美しい国」を実現するには、次世代を担う若者の育成が不可欠です、と言い切っている。では、この美辞麗句の裏にある具体的な「美しい国」とは何か。その点での論及を巧みに避けている。国民の前にさらけ出すのを避けている。なぜ、堂々と自分の歴史観を主張しないのか。安倍首相が所属した森派の先輩・町村信孝・元外相は『月刊自由民主』4月号で 「『凛として美しい日本』を創る」という表題で、その「美しい日本」の中味を次のように述べている。町村氏は、戦後の日本は「すべてが凛としていない」と断言して、その理由は「我が国は、昭和20年を境に、戦前と全く異なる出発点を余儀なくされた。戦勝国は、日本のよき伝統や文化を否定し、折りしも台頭してきた唯物史観と呼応して、日本は誇りを忘れ、自虐的教育が行われてきた。」からだと述べておられる。さらに「戦前の官僚は『天皇陛下の官吏である』という意識があり、『恥ずかしいことをしたら天皇陛下に申し訳ない』という気持が強かった。それがある種の規範となっていた」と述べている。(恥ずかしいことをしたら天皇陛下に申し訳ない、と天皇を持ち出さなければ、人としての規範が守れないとは、情けない教育だ。)この独善的な歴史観は、安倍首相の憲法全文は「侘び証文」だとし、「戦後『レジーム』からの脱却」のための改憲をしなければ、戦前と戦後の歴史の「連続性」がないとの主張と全く同一のものである。町村氏の論文の表題「凛として美しい日本を創る」と、安倍首相の「美しい国」の目指すものは同じなのである。これは、いつか来た道、日本の山河を破壊し国民を悲惨と不幸に追いやった「汚い、おそろしい日本を創る」道である。過去の人類の歴史から何も学ぼうとしない独善的な歴史観である。安倍首相は、さらに踏み込んで、「個人の自由を担保するのは国家」であると強調している。この安倍首相の考え方は、「お国のため」なら「国民の自由」などは奪ってもよいということではないか。今、日本が直面している、混乱や退廃がどこに原因があるのか、日本人としてのモラル低下がどこから生じているか分析することもなく、乱暴に「長い歴史と独自の文化」とか、「それを取り戻す為には、規律(誰の為の規律?)が必用とか」宣伝して、問題の本質をぼかそうとしている。 近代憲法は、その長い人類の歴史の中から、「国家が人権を侵害する可能性があるという面を見据えて、個人にとって望ましい国家とは何かを議論し、国家権力の制限」を問題にしてきた。その成果の上に立った、日本国憲法は世界でも最も先進的な精神に貫かれた優れたものである。その両輪としての教育基本法も世界に誇れる先進性を有している。そして、時の国家の介入を厳しく制限している部分が、最も先進的な部分であるのに、この部分を自己の狭い階級的利害の為になくそうというのが改定論者たちの主張である。今の日本の子供たちの学力低下や、モラル低下は「教育基本法」のせいでない。モラル低下は「日本国憲法」のせいなどで断じてない。日本の戦後の教育の歴史は「教育基本法」をいかに骨抜きにするかの攻撃に絶えずさらされてきた。その精神を真に実効あるものにする教育などほとんど行われていない。部分的にはすぐれた教育実践もあるが、まだそれは、小さな点に過ぎない。どんどん世界は変化している。その変化に耐えうるより高い知性や人間としての尊厳を肯定する教育は、現代の極めて困難な創造的な課題である。個人の自立や尊厳を貫いても、なお社会として豊かであることが、私たちの目指すべきものではないか。その実現のために、社会が混乱に陥ることも在る。むしろ、いつも整然としている方がおかしい。お利口ぶっている方が問題がある。現実がおぞましいから、現実が悲惨であるから、手っ取り早く「天皇バンザーイ」で国家をまとめて突っ走ろう。(そして、この論理は結構大衆の心を掴む。自分で考える面倒がはぶけるから。お上、頼みである)目指すべき社会の実現が困難だから、国家という強権で子供たちを押さえ込んで、お行儀よくさせよう、というのが安倍政権のめざす「美しい国」である。時の権力がどのように変幻しようとも、教育がその権力から自立した営みでないような国は、これから先、自滅するのではないか。現代社会の変化のスピードはめざましい。その先に生きる子供たちにどんな能力、どんな人格を育てるべきか、それこそグローバルな高い視点が必要である。次回は、安倍首相の「再チャレンジ」について考えてみたい。
2006.10.02
コメント(0)
安倍晋三の保守とは何か。 安倍新政権が発足し、5年半続いた小泉政権は幕を閉じた。 小泉政権に対して、私なりの論陣を張って、このブログに意見を書き続けて来た者の一人として、ここで何かコメントすべきだが、その熱意を失っているというのが今の私の心境である。余りにも自分の予測通りに社会が急展開しているのは驚くばかりである。それと同時に、政治家を先頭に、ごくごく庶民に至るまで、自分の信念や考えなどどうでもいいのか、簡単に権力の側になびき、擦り寄っていく様は驚くほどである。 市場の自由競争によって、自分が金持ちになれるかのごとく幻想をもたされて、日本中がマネーゲームに浮かれた日本。自由な競争によって、自分の能力にふさわしい仕事口が見つかると期待している若者たち。睡眠する間もないほどに真面目に懸命に働き通しても、悲惨な日常しかない庶民。ますます老いる身に鞭打ち、細々とした暮らしているその生活さえ立ち行かなくなっている大量の老人たち。このような社会現象は、益々社会の奥深い所で深刻化している。そして、深いところでの人間性の破壊が進行している。昨日、発足した安倍新政権の首相:安倍晋三は「美しい国へ」という本を出した。この本は読むのに難渋した。遅々として読み進めなかった。この本の主張したいところは一体何なのか。支離滅裂でつかみ辛いのである。この本の中で安倍三は言っている。 憲法や教育基本法は、敗戦による日本が、連合国への「詫び状」のようなもので、けしからん。(詫び状と言っているのはあの戦争の犯罪性を認めているのか)。日本人は、戦争をやったことに対して、自虐的になって、戦後生きてきた。(それドンナ日本人で誰のこと、安倍氏自身のことなのか)日本人としての誇りが足らん。(それ誰のこと、自分のこと言っているのか)もっと日本の古くからの文化に誇りを持たなければいけないとお説教しているかと思うと、アメリカの個人主義的な自由主義に高い共感を述べている。アメリカの言うままの憲法はけしからんと言うその一方で、アメリカとの同盟関係はより強固にしていかねばと言っている。要するに、この安倍晋三の保守主義は、ただ単なる、戦争をお国の為にやった人は偉かった。独自に日本で評価し直し、国民たちにも、国のために戦争で戦った人たちを敬うように強力な介入で強制しなければいけない。(庶民にとって、犠牲になったのは父であり、兄であり、息子であり、痛恨の思いで戦後生きてきたので、敬ってもらうより、戦争のない国づくりのほうが、死者への力強い鎮魂となるけれど)自分の祖父(岸信介)は偉大であった、信念を貫いた人であった。誇りに思っている。自分は幼い時からそのような祖父の生活を見てきて、あの戦争は、そんなに卑下すべきものではないと思うようになった。日本人として誇りを持てよ。と何度も繰り返しているのは、よほど安倍晋三なる人物は、戦争の犯罪性に後ろめたさがあり、日本人として自虐的に生きているのではないのか。さらに恐ろしいことに政治家は「闘う政治家」であるべきだ。自分は闘う政治家だと、言いきっている。自分のおじいさんもそうだったので見習いたいと言っている。 私は、教育にたづさわる者として、安倍晋三が「美しい国へ」の第7章;教育の再生で述べていることについて考えてみたい。 安倍晋三は、イギリスのサッチャー改革を教育のお手本にしようとサッチャーをえらく持ち上げている。日本教育の問題点と似通っているとさえ断定している。日本の子供たちの学力低下、モラル低下は戦後の教育にあり、とりわけ近年の子供たちの学力低下は「ゆとり教育」にあるとさえ言っている。これほどでたらめな論理は、反論するのも馬鹿らしい。私は「ゆとり教育」に別に賛成でもないし、反対でもないが、日本では「ゆとり教育」などやられた事は一度もない。数年前に国が「ゆとり教育」なるものを打ち出し、総合学習時間を作るよう命令したが、こんなものは、まともにやられていないし、その成果は1年や2年で現れるものではない。成果が現れる前に止めになって、今は分けの分からぬ教科の補習時間に使っている。 なぜ、今の子供たちは、高い真の意味での学力が形成できないか。 私はこのブログでも、繰り返しこの問題を取り上げ考えてきた。現代の社会のありようと子供たちの成長の仕方は深く関っており、極めて、高度な専門的な分析や、対策、教育プログラムが必要な問題であると私は考えている。教育の現場の専門家たちが、深く分析し、研究し、新しい方法の確立なしには解決できない極めて現代的な問題だ。現場の教師たちの多くがこの点での認識の一致、深い解明に、自由で活発な討論や研究実践をしていない、単なるサラリーマンになりさがっている教師が多い。これが一番問題ではないか。そのようなことを自由に許容しないのが、今の教育現場ではないか。お上のいうことの当たり障りのない伝達者に教師は成り下っている。長いものには巻かれろである。そして、国は、ころころと現場の教育方針を変える。現場は右往左往して、それに迎合している。教育の方針が、このように、ころころと時の国家、権力によって左右されることこそ、最も教育を退廃させている原因だ。三安晋三はその本の中で、「ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革が行ったような学校評価制の導入である。学力ばかりでなく、学校の管理運営、生徒指導の状況など国の監査官が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れ替えや、民営への移管を命じることが出来るようにする。」と言い切っている。このように国家が教育を統制するとは、恐ろしいことである。それは、権力が変るごとに教育の内容が変ることでもある。国家権力の思いのままに、教育を通して、国を支配しようということである。これは、まさに戦前の日本が歩いてきた道そのものへの復古である。過去の歴史から何も学ばない。教育する者の態度とは相容れないものである。 先日、東京都教育委員会の「日の丸・君が代」強制を違憲とする判決が東京地裁で下された。「日の丸・君が代」云々については、さまざまな意見、感情があり、どう判断するか難しいとこであるが、それを現場の総意でおこなったなら、それはそれでいいことではないか。さらに問題なのは、そのことを、人事権にまで及ぼしていることである。もし、東京都や国のいうことは、すべて正しく、それに従わないものはけしからんというのなら、教育の中立など成立しなくなる。 現在の国や東京都と反対の思想の階級が権力についたら、教育の現場は又それに従うのか?安倍晋三の論法でいけば、時の権力により、ころころ変るのが教育ということになる。このように極めて政治的な事柄が、教育に持ち込まれることを厳しく禁じているのが今の憲法であり、教育基本法である。今国会で、教育基本法改定案は再び審議される。安倍晋三氏は、なぜ教育基本法を改定したいか、その目的は何か、私たちは注視しなければならない。 安倍晋三の「美しい国」とは、明治、大正、昭和と歩んできた、アジア共栄圏の名のもと、侵略戦争を遂行した国家のことではないか。日本の山河を廃墟としたあの戦争遂行の国家のことではないか。西洋かぶれの現代的なスマートなカバーをはがしたら、中から現れるのは、独善的な歴史観を国民に押し付ける全体主義的な恐ろしい国家なのだ。アメリカと共同して世界中で戦争をやることが可能になることをめざす国家である。私は、美しい国とは日本の国民が時の横暴や圧制のなかにあっても、営々と築いてきた文化であり、粘り強くつつましく暮らしてきた日本人の心であると思う。 アメリカに言いなりの憲法はけしからと言いつつ、片方で、アメリカの新自由主義的な市場万能の経済を先頭になって推進し、庶民の生活をアメリカナイズされたモノ主義、拝金主義に染め上げている政権。アメリカの言いなりになっている政権。これが「美しい国」といえるか。 では真の保守とはなにか。何を保守すべきか。 日本のこの美しい国で暮らす人々が、ゆったりと豊かに暮らせる社会ではないか。そのような暮らしを可能にする思想ではないか。それは、過去の日本人たちが長い歴史の営みの中で、営々と粘り強く築き上げてきた文化のなかにあるはずだ。その伝統を新しいく作り変えて継承していけるような知性や智恵を子供たちに育てることこそ教育の真髄であると思う。保守すべきは、過去の歴史の中にある。大東亜共栄圏の名ののもとに、戦争へと国民を駆りたてたものから何を学ぶべきか、何が日本人として誇れる学びかを教育の場で深く研究し、実践しなければ、美しい日本など絵空事だ。日本人が千年もの歴史のなかで造り上げてきた生活をめちゃくちゃに破壊し、「世界の負け組み」になることを免れたと、その成果を誇示する政権が今の日本の国家である。今、日本の山河は疲弊している。今、日本の子供たちの心はゴム鞠のように弾んではいない。これを克服していけるのは、過去の歴史どう見るか、そこから何を学ぶか、という歴史観が厳しく問われている。極めて、イデオロギー的な安倍晋三が、「歴史のことは歴史の専門家に任せる」と発言したことの意味は重大である。そこに潜む危険を私は見逃さないようにしたい。安倍晋三が唯一、一貫しているのは「反共」ということである。この点だけが支離滅裂でなく、「美しい国」全体を通している太い糸である。私より、若い世代がこの程度の歴史観しか持ちえていない日本は、やっぱり戦後の教育に問題ありと改めて思い知らされている。そして、安倍晋三の歴史観は若い世代の共通項にも通じている。
2006.09.27
コメント(7)
広島に原爆投下されてから61年目の朝。 2006.8.6 :今年もまた真夏の陽が焼けつく暑い朝だった。 61年目の今朝は、そよりとも風吹かぬ、大地が熱く照り返す朝だ。一点の雲さえない真っ青な空に、真っ白なムクゲの花がめげずに凛と咲く朝。しかし、今日も世界の果てで、戦火をくぐり、傷つき、逃げ惑い、死の呻きを上げている赤ん坊がおり、女たちがおり、老いたるものたちがいる。 (真夏の焼けつく太陽のなかで、咲き競う夾竹桃)生ましめんかな (原子爆弾秘話) 栗原貞子 こわれたビルデングの地下室の夜であった。 原子爆弾の負傷者達は ローソク1本ない暗い地下室を うずめていっぱいだった。 生臭い血の匂い、死臭、汗臭い人いきれ、うめき声 その中から不思議な声が聞こえて来た。 「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。 この地獄の底のような地下室で今、若い女が 産気づいているのだ。 マッチ1本ない暗がりでどうしたらいいのだろう 人々は自分の痛みを忘れて気遣った。 と、「私が産婆です、私が産ませましょう」と云ったのは さっきまでうめいていた重傷者だ。 かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。 かくて暁を待たず産婆は血まみれのまま死んだ。 生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも (炎暑にもめげず、強い生命力で咲き続けるムクゲ)1945.8.6 この日を知らぬ若者たちで日本列島は満ちている。日本人の戦争の風化は著しい。人間としての尊厳を貶められ、心は奴隷のごとく扱われているのに、声を上げることもなく、すり減らすこころさえ持たない若者の群れがある。カネの奴隷となり、駆り立てられ、競争させられて、日々明け暮れている若者達がいる。その日々が戦争への道へと通じていることを知らされぬまま、踊らされている若者達の群れがある。無知のなかで、目隠しされたまま、消費の渦に投げ込まれている若者達がいる。戦争が起きても戦わないと答えた日本の若者達は50%、わからないと答えた者30%。「教育基本法の改定」が目指すもの、それは、この若者達の精神を叩き直して、使い物にならぬこの若者達の「こころ」に愛国心を吹き込み、「忠義心」を植えつけること。国家の名のもとに教育を『国家の道具』に格下げすること。真の学びとは、国への忠義心を、国への愛国心を学ぶことではない。こどもを権力者の道徳で教化することではない。過去の人間の歩んだ歴史を文化を深く学ぶことのできる技能、基礎力を身につけること。、そこから、新しい時代を見通せる知性を身につけること。何よりも混じりけの無い目で、謙虚に過去の事実を見つめることの出来る学力を身につける努力を怠らないことではないか。「自分には関係ないこと」と無知なままいること、それが最も改定論者の望む人間像だ。
2006.08.06
コメント(3)
与党「教育基本法改定案」についての小論(その3)1) 自民・公明党の「教育基本法改定案」の改正の論拠は何か。(6/20のブログ)2) 与党の「教育基本法改定案」の前文は何を削り落としたか。(6/25のブログ)に続き、今日は、3) 与党の「改定案」第一条「教育の目的と理念」の目指しているものについて。第一条、「人格の完成」から「国民の育成」への変質。ではその改定案のめざす「教育の目的と理念」は具体的にどのようなものであるのか。今回はこの点で論を進めたい。まず現行と改定案の第1条の条文を見てみよう。[現行の教育基本法]第1条 (教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。与党の[教育基本法改定案]第1章 教育の目的及び理念第一条 教育の目的 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行わなければならない。現行の第1条が「人格の完成」を目指し、平和的で民主的な国家及び社会の形成者として必用な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を教育の目標に掲げている。文部省訳による「人格の完成」は、英文テキストでは、the full development of personality(人格の全面的な発達)であり、これは、一人ひとりの個人が自主的、自立的に人格の全面発達を遂げていくという「人間教育」を意味している。この点が,改定案と根本的に違うところである。「こどもの見方、こども観」が180度異なるところである。与党の改定案は、現行の第1条の「真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた」という具体的な文言を削除し、内容を規定しない「必要な資質を備えた」に置き換えた。では、与党案のいう「必用な資質」とは何か。「必用な資質」の育成は、第2条の「教育の目標」を具体化する「教育振興基本計画」(17条)に則り、時の国家(政府)によって、具体的に方針を決めることが出来るようになっている。即ち「必用な資質」の内容を国家に保留することで、国家が要求する《資質》を内面化させた「国民育成」の教育へと変更することが極めて容易になるである。このような「国民の内面」の管理・統制へとつながる道すじを法律によって保障することを可能にするのが、与党の「改定案」なのである。与党案は「必用な資質」の具体化として、第2条(教育の目標)に一号から五号までに、20を超える徳目を列挙した。この徳目数は教育勅語の13項目を大きく上回る。これらの「徳目」は現在の学習指導要領の「道徳」の項目を法律規定に格上げするものである。「道徳」のこの法律への格上げは、教育課程は「教科」「道徳」「特別活動」「総合」の4つの課程から構成されているのに、「道徳」だけを特別扱いし、教育を「道徳教育に一元化」するものである。これは極めて、時代錯誤、非近代的なものであり、教育を政治の道具に格下げするものである。しかも、その徳目列挙の末文は《…する態度を養うこと》で、ことごとく結んでいる。お上の決めた「すべきこと」を教育の重要課題として、学校で実践させ、その態度の良否を評価することになる、現在でも「道徳」は通知表で評価されている。このようにこどもの或いは親の内面まで学校が監視し、採点するとは恐ろしいこと。益々、学校のお気に入りの「よい子」の量産につながるだけだ。現在も学校では「内申点」をアップするための「よい子」競争が行われている。現在学校の通知表の点数の評価の項目に、「その教科にたいする関心・興味、学習意欲」があるかないかを評価する項がある。挙手を何回して授業に参加しているか、授業中の発表態度は立派か否か、提出物(宿題等)はすべてしっかり提出しているか等を点数化して評価対象にしている。これらはすべては、教師側が生徒にどういう関心を引き出し、子供たちにどういう授業を展開しているかにかかわる問題であり、生徒が評価される項目ではない。教師側の授業展開いかんにより、子供たちの「意欲」「関心」等は大きく変化する。こどもや親は、点数を上げる為に、手を挙げ発表することや、提出物を忘れず出すことに躍起となっている。子どもたちは、教師側の反応をみて行動している。私自身も我が塾の中3年生の子供たちには、どのような態度で授業を臨めば点数が上がるかを伝授している。こどもにとって不本意でも、高校進学を考慮して、この1年は我慢、我慢と忠告している。こどもの「学ぶ」内面的な動機づけや、じゅつくり取り組んでいるが、点数の取れない子、実力はしっかりついているが「反抗的な」授業態度の子どもは、必要以上に低く評価されている。A はBより学力は低いのに(私はそう見ている)高い内申点を得ている。こんな例はしばしばみられる。さらに、提出物に毎日の宿題ノートなるものがある。回答付きの練習問題が与えられることが多い。内容が理解できていない子、習得できていない子も回答を写して提出すれば、提出したこととして認められる。(7割がたの子どもは、分からないまま答えを写して提出)このような事は、その子供がどれだけの学力を身につけているか、それによって子どもはどう成長しているかという中味とは、全く関係のないことである。むしろ、出来ない子もこの競争に加わっているが、やっているふりをさせられているだけで、本当の学力、知力からはますます置いてきぼりにさせられている。このような「関心」「意欲」という、心に関る事を、成績評価に組み込むことで、学校はどう変化したか。成立していなかった授業が、表面的には成立するようになった。子供たちが「お利口なよい子」を演じる競争をしているからである。「おとなしい、よい子」が痛ましい事件を引き起こしているが、心の成長を無視して、押さえつけられている為に、思春期、青年期を自分の力で乗り切る術を自己のなかに、育てないまま成長しているからである。自立していくための葛藤や混乱や逸脱を認めようとしない教育や育児のなかで、育ってきた若者たちが陥るこれは必然である。この状態で、さらに「お説教の徳目」を子供たちに身に付けさせる競争をさせようとしているのが、与党「改定案」が目指しているものである。徳目を実践する「態度を養うこと」を、学校教育のなかで評価し、点数化ようとしている。では、与党案が求める「教育の目標」、20を超える「徳目」とは何か。どんな「よい子」になることを求めているか、を次のテーマとして論じたい。
2006.07.14
コメント(1)
7月3日、日本のプロサッカー選手の顔、サッカー選手中の選手とも言うべき「中田英寿選手」が引退表明した。 私はとても衝撃を受けた。「えっ、どうして? まだ、選手として、やり残しているものあるのでは?」という思いが強く私の心を捉えたのである。 中田英寿選手は、わが家にとって、特別の思い入れがある若者なのである。我が家の息子がスポーツ選手として、どう進路を決めるべきか、挫折し悶々としていた時、ヒデはさわやかに華々しくデビューした。サッカーの熱烈なファンでなくても、誰もが彼の名を知り始めていた。彼の言動が世間の注目を集め始めていた。 暗いトンネルのなかにいた我が親子にとっても、ヒデの出現は、スポーツ選手としてどう道を切り拓いてゆくべきかに、示唆と励ましを与えてくれた。今までの日本にはなかったタイプの新しいスポーツ選手として、確固たる意志をもって生きようとしている若者がそこにはいた。息子と同じような年齢の青年が、こんなにもしっかりした考えを持ってスポーツと向き合っている。そして皆が認めざるを得ない確たる実力さえ備えている。その早熟さと天才肌に驚きを禁じえなかった。私たちが親として、息子に求めていたスポーツマンとしての生きざまを、具体的に目の前に示してくれたのがヒデと言っても過言ではない。あぁ、こうやって生きていく道を切り拓けば、未来が見えて来るのだという励ましである。 今回のワールドカップの試合の中で、ヒデの歩いた20年間の「サッカーの旅」の決算を見たかった。日本人であるヒデがプロとして世界を駆け巡り鍛え上げ、身につけたサッカーが見たかった。ジーコ監督の下ならそれが実現しそうに思えたのだけれど、成功したとは言い難い。 ヒデの目指したものが高すぎた。「個の確立」における日本人としての弱さ、幼さ、プロ意識の脆弱性など、今回の試合の中で日本の選手たちは、もろにさらけ出した。そして、この姿は私たち日本人一人一人の今の姿でもある。容易には変らぬ自画像なのである。日本人としての自分たちの姿を映し出した鏡として、あの若い代表選手の敗北があった。その意味で今回のサッカーの敗北は、私たちがどう変わっていくことが、人として優れた能力を発揮しながら、社会の構成員として生きていけるのかという、多くの教訓に富んでいる。この意味からも、ヒデは早く来すぎたプレイヤーだった。ヒデの意志を闘いのエネルギーへと結集させていくには、早く来すぎたプレイヤーであった。時代はまだ彼のはるか後方にある。日本の若者たちはもっと後方にいる。ヒデは自らのホームページで、“人生とは旅であり、旅とは人生である”と題して引退のメセージをだした。ヒデの新しい旅路が、サッカー人生で得た栄光や挫折の中から、彼自身がつかみ取った学びや教訓を更に大きく花ひらかせる旅路になることを願って止まない。現代の若者たちが探しあぐね苦しんでいるより高い新しい人格の創造をめざして、旅を続けることを祈るばかりである。ヒデの孤独を、ヒデの心の高みを、多くの若者たちは知っている。ともすれば挫けそうになる厳しい日常の中で、ヒデの孤独に共感している若者がいる。励まされている若者がいるそういう若者たちにエールを送り続けるような新しい旅立ちをぜひお願いしたい。わが子が旅立っていく時と似た感慨に襲われている婆さんもここにいる。ヒデの新しい旅立ちに乾杯!
2006.07.05
コメント(0)
今国会で成立した「医療制度改革関連法」は高齢者をどこへ棄てようとしているか。 (合歓木の花咲く散歩小径) 昨日の「農政改革関係法」に続き、今日は、「医療制度改革関連法」について。 「医療制度改革関連法」とは、70~74歳の医療費を原則2割引き上げ。75歳以上の全高齢者を対象とする「高齢者医療制度」を創設する。この法律改定により、長期療養を必用とする患者が入る38万床のうち、23万床の廃止・削減に向けての診療報酬の改定が7月より実施されることになった。改定により、患者の医療区分を区分1・2・3・と3段階に分け、医療報酬に差をつけ区分1の患者を多数入院させている病院は報酬の減収による経営難におとしいれて、区分1の患者を病院から追い出そうという法律である。実際に、この法律の成立で、静岡・伊豆の国市の伊豆韮山温泉病院は、業務停止に追い込まれ廃業した。今朝のNHKの「生活ほっとモーニング」でもこの問題を取り上げていた。この番組の中で、埼玉県みさと市のみさと協立病院の事例を紹介していた。それによれば、この病院の「療養病床」の患者の内、「区分1」に属するのは65%であり、自宅療養が可能で、自宅に帰れる患者は、ほぼ0人だという。更に、この「区分1」の65%の患者全員が入院を続けた場合、今回の診療報酬改定による減収は、月1700万円あまりになるという。この減収は病院の経営を圧迫し、地域に責任を持つ医療は困難で厳しいものになると病院側は言っていた。 このテレビ番組で、「区分1」の患者さんたちを見て、私はとてもショックを受けた。これが「区分1」で入院を拒否される患者であるとは。もし自分自身が病気で倒れたらと思うとゾッとした。しかも、その病人を介護する人々がみな老いており、半病人だったりする。ある介護人の老いたる夫は「若いものたちは、ぎりぎりのところで働いており、若い者に更に介護で手をかけさせて、倒れられでもしたら大変なことになる」と言っていたのが、とても明日はわが身と身につまされる。 老いるという事は、皆、誰にも等しくやって来ることである。その「老い」をどう生きるかは、すべての人々にとって重大な問題であるはずだ。心も身体も「健康に老いる」ことは、誰でもの願であるはずだ。不幸にして病に倒れた時、このような仕打ちが待っているいる社会が今の日本なのである。昔も老いた母を背負って、山に棄てに行く「姨捨山」の話があった。でも棄てる「山」さえなくなってしまった日本の現代社会。私たち老い行くものが、もっと声をあげ、しっかり意志表示して、自立して生きる姿勢を、常に社会にアピールし続けることが、今こそ必用ではないか。墓場に足を突っ込みつつも、社会の成員として、闘い生きる生きざまを堅持することが、今こそ必要ではないか。やりたい放題にやられても、声をあげない老人たち。「国会でどんな法律が成立」したかも知らない老人たち。お上の言うことを「長いものにまかれろ」と巻かれ続けて、到達した果てにあったものは、「病気になったモノは、もう社会には用済み、死ね!」という国からの宣告であったとは。 どう財政を再建するかの理念、理想がまったくない政府の歳出削減策。ただ減らせば、増税も国民は納得するだろうという観点からの歳出削減が次々に打ち出されている。今回の医療制度改革関連法も「医療保険、介護保険の財源確保」と言う観点からのみ改正されたものだ。現場で働く医療関係者が智恵を出し合い、実践するなかで創り上げてきたものではない。そのような改革で本当に「財源確保」に道が開けるとは思えない。「高齢者の医療のあり方、保健のあり方」をどうすべきかという、今までの社会の経験したことのない未踏の課題に突入している社会に、弱いものだけをどんどん締め上げて、「財源確保」などできるわけがない。余りにも場当たり的な削減策だ。「不健康」「わけのわからぬ病気」などの多くは、この社会の「食」のあり方、「仕事」の仕方などなどに起因している。社会の進む方向は、今まで通り、それ以上に加速させて、矛盾を激化させ続けている。その根本原因を解決していく社会の改革はそのままにして、起きている問題点を弱いものを締め上げ、半殺しにすることで、解決できるわけがない。政府の打ち出している「財政削減」計画などは、悉くこの路線上にある。削減しているのは、ほぼすべて、庶民の貧しい生活に関係することばかりである。その影で、何億というお金が自分たちに容易に転がり込む政策や法律を次々作って、儲け放題、金儲けしてほくそ笑んでいる人々がいる。なぜ、老いたるものたちは「ご無理ご最も」と従い、物言わぬのだろう。声をあげないのだろう。これが戦後の教育、自民党のいう「民主的文化的社会」を営々と努力して築いてきた教育によって作られてきた人物像なのである。(与党の教育基本法改定案前文)私利私欲をむさぼるには、とても都合のよい「民主的で自由」な国家なのである。「日本国憲法」や「教育基本法」が、真に実現できるよう苦闘した教育を受けていた国民なら、このような「老人たち」は生産されない。今国会で成立した法案で、私たちの生活に深く関る法律が、他にどんなものがあるか「老人たち」は知っているか。成立し、実施されてからでは遅いのである。無知のままでいいか。「高齢化社会」とは、高齢者たちが、社会を変革する一大勢力となる社会でありたい。と息巻いてみましたが、これは私の願望であります。
2006.07.04
コメント(0)
今国会で「農政改革関係法」という法律が成立した。農業版・構造改革とも云うべきこの法律。この法律は、今の日本をどこへ導こうとしているか。 この法案は「今までのばら撒き農政を改め、耕地面積4ヘクタール以上など一定の条件を満たした担い手農家に助成を集中し、競争力の強い農家の育成を目指す」というものである。さらに、これに歩調を合わせるかのように、財界人を中心としたシンクタンク「日本経済調査協議会」(日経調)は5月29日に「農政改革を実現するー世界を舞台にした農業・農政の展開をめざして」という提言を発表した。この提言の基調は「現に生産を担っている多くの農家を担い手と認めず、一部の大規模農家と株式会社を含む法人・企業にゆだね、労働力は安い外国人労働者を使い、意欲のある農家には、地価や労働力の安いアジアでの農業経営を展開する道がある、と提言し、グローバル化(地球規模化)に対応できない「農業と農家はいらない」というものである。この提言のいう「意欲ある農業の担い手」とは誰か。私は、近所の無農薬有機農業を目指し頑張っている青年から、野菜を買っている。彼は、農地もほんの僅かしか持っていない。農家の息子でないので、農業は素人からスタートした。かなりのお歳の母親がその息子を手伝っている。最近はだいぶん、軌道に乗り、販路も開けてきた。しかし、値段はスパーなどに比べれば割高。要するに競争力では負けている。この熱意ある青年は「意欲ある農業の担い手」とは見なさないのが、今回の法改正の主旨ではないか。効率を第一にした儲かる農業、利益を優先する農業を実現することが、本当に国民の食生活を豊かに出来る道であるか。農地を「経営資源」とみなして、経営的に利潤をあげなければ成り立たない「農」という考え方は、「農」の本質に根底から鋭く対立するもの。相容れないものだ。アメリカ型農業がその典型とするのなら、アメリカの農業自体も衰退に向かっているし、アメリカの大地は1年間に四国の面積ほどの土地が砂漠化しているという。これは大規模な機械農業による、単一農作物の栽培による土壌の死に起因する。レイチェル・カーソンの「沈黙の春」にみられる、死の世界が広汎に引き起こされても、儲かる農業を目指しているアメリカ。その農作物輸出を強引に他国に押し付けることで、世界の農業をつぶし、大地をめちゃくちゃにしている。 現在の日本の食糧の自給率の低下や、農業生産の衰退、農村経済の疲弊は、根本には工業中心にした資本主義的な「効率と利益優先」を第一にする社会によって引き起こされたものだ。 私たちの祖父母たちの世代の農民は「農」を根っから愛していた。作物を栽培し、収穫する喜びを心のなかに育みながら、さまざまな困難を乗り越えて「農」を営んでいた。収穫に誇りを持っていた。この祖父母たちの「百姓根性」は、今の農家の若い子女には、ほとんど消え失せた。さらに金儲けを第一とした[農]に突き進むなら、[人]としての心を育む[農]は喪失し、農の奴隷となって、「賃金」を得るためにのみ働くロボット人間を大量に作り出していく産業になりさがるだろう。この状態で、美味しい豊かな食を実現する生産者が育つとは到底思えない。食の安全を守り、国土の荒廃にストプをかける農を切り拓く方策とは到底思えない。日本の美しい国土を守ってきたのは、稲作を中心とした「伝統的な農」であったことを忘れていけない。
2006.07.03
コメント(2)
与党「改定案」について小論(その2)6/20のブログで1)自民・公明党の「教育基本法改定案」の改正の論拠は何か、について考えてみた。今回から具体的な条文を検討することで、改定案が目指しているものは何かを考えたい。2)与党の「教育基本法改定案」の前文は何を削り落としたか。現在の教育基本法は全11条で、きわめて簡潔で明快である。現行の「教育基本法」前文と与党の「改定案」前文は次のようである。現行の『教育基本法』前文: われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育の普及徹底しなければならない。 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。与党『改定案』の前文: 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家をさらに発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。 日本国憲法の精神にのっとり、わが国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。 この二つの前文は一見して余り違いはないように見えるかもしれない。しかし、日本の近代史のなかでこの前文をつぶさに読んでみるならば、180度回転した世界観がそこには垣間見えるのである。すなわち、現行の教育基本法の前文が、冒頭に日本国憲法のめざす理想、理念の実現をめざして、教育は行われることを願い、その理想の実現は、根本において教育の力に待つべきものと言い切っている。力強い決意がみなぎっている。新しい教育の基本を創造していくことへの希望に満ちている。与党「改定案」は、現行のこの冒頭部分、「日本国憲法の理想の実現は教育の実現に待つべき」という部分を削除した。この憲法との絶縁が「改定案」全体の基調である。この部分の削除は何を意味するか。子ども観の根本的な転換である。 今回の教基法の改訂の先頭にたってきた森善郎前首相は、5月11日の朝日新聞紙上のインタビューで、現行の教育基本法のもとでは《…こどもたちに心の大切さを教えられないことが問題だ。教組はそういうことが書いていないと現行法を逆手にとり教えてこなかった。改正案には「道徳心」や「公共の精神」が盛り込まれた。規範が入ることで、国旗掲揚とか国家斉唱の時の立ち居振る舞いを含め、先生は子どもの心身の発達過程に応じて教え込んでいけるようになる。》と述べている。 あからさまの言えば与党の改定案の「公共の精神」とは、子供たちは無知で馬鹿な存在なので、大人(教師・親)が「道徳心」を教え込まなければ、子どもはまともな大人になれない。だから「国家」が掲げる「道徳」をこどもの身体に浸み込ませるべく学校はつべこべ言うな。国の云う通りにやることが「公共の精神」に素直なよい教師、よい生徒ということなのだ。 学校や親たちが「よい子」とレッテルを貼っている子供たちが、どんな子どもに育っているか。どんな大人に成長しているか、すでに実証ずみの部分も多々ある。「よい子」が悲惨な事件を起している。「よい子」が思春期や青年期に「乗り越えられないほどの」危機的な状況に追い込まれている。これは、森善郎前首相たちが推奨する、教基法を形骸化して、国家が目指す教育の中で作り出してきた子供たちなのだ。このような子供たちをさらに従順なロボットに仕上げていくのが「改定案」の基本的な教育の姿勢である。子どもは「学ぶ」ことを通して、自らの心を育て成長していく。知性を豊かに育てることが「心」を育てること。そのためにも子どもは教育を受ける権利を生まれながらにして持っている。そのような「学び」を否定し、上から一方的に知識を注入することを学校に担わせるのが与党の「改定案」である。では「改定案」はどのような子ども像を、教育の目標にしているか。次回は、「改定案」の第1章第1条;教育の目的。第2条;教育の目標を通して、具体的に読み解いていきたい。《この記事を書いている最中に、奈良県田原市で、両親が医師の家庭の高1の息子が、自宅を放火して、母親と兄弟2人を殺害したという、家庭内殺人事件が起きた。この事件は「学ぶ」とは何か、勉強するとはどうあることかという点で色々教訓に富んでいる事件である。この息子は、有名な中高一貫校に通っているという。その学校がこの事件のことを学校放送を通して生徒に知らせた様子が報道されていた。校長が報道内容をそのまま伝え、その上で「学習リズムを崩さないで頑張って欲しい」と生徒に呼びかけたという。この校長の生徒への呼びかけが、この学校の存在理由をすべて物語っている。これが今、権力の側にある人々が推し進めている教育「勉強する」ことの姿なのだ。学ぶことが『心』の涵養には結びつかない学び。余りにお粗末。ひどすぎる。多感な青年期の生徒たちに学校教育の長が言う言葉がこれであるとは、恐ろしい。寂しい限りだ。このような生徒や教師に国歌を斉唱させ、国旗に敬礼させることで、真に民主的で文化的な国ができるというのか。真に郷土を愛する大人が育つと言うのか。お題目をとなえさせれば、生徒の人としての心が育つと言うのか》
2006.06.25
コメント(0)
通常国会が閉会となり、与党が提出した「教育基本法改正案」は秋の臨時国会への継続審議となった。教育基本法が変えられてしまったら、日本の教育や子供たちの未来はどうなるか。そもそも、何故、今、教育基本法を変えなければいけないのか。教育基本法改正問題の本質は何かを3回連載で考えてみたい。[1] 自民・公明党の「教育基本法改正案」の論拠は何か。公明党は、教育基本法改正の理由を公明新聞(5月12日)で次のように述べている。「1947年の施行以来一度も改正さておらず、60年経って、高校や大学などの進学率が飛躍的に上昇、不登校や学級崩壊、児童虐待、ニート、フリーターの増加など青少年を取り巻く社会環境や教育現場が大きく変ったから改正が必要である」自民党は「自由民主」(2003年2月25日号)で、このように述べている。「これまで一度も改正されていない。この間、核家族化・少子化の進行など、社会状況は大きく変化し、高校・大学進学率の著しい上昇など、教育のあり方も変容しており、時代に適応しきれていない。」「自分さえよければという自己中心的な子どもが増え、国民での間の自己喪失、モラル低下、青少年による凶悪犯罪の増加、学力の問題も懸念され、教育現場では、いじめ、不登校、学級崩壊など、深刻な危機に直面している」だから法改正が必要である、なのである。この自民・公明党の改正の論拠は、現代日本をとりまく社会環境の変容により、子供たちの問題は、現在の教育基本法による教育では解決できなくなっている。学校が現行法で運営されることで混乱に直面している。だから法改正が必要である、とまとめていいであろう。本当にそうであるか。学校が直面している問題が解決できないのは、現行の教育基本法に問題があるのか。教育基本法の精神が学校教育の実践のなかで、過去、現在にわたって、本当に実現されてきたであろうか。ほんとうに実現する為に教師たちは、日夜、苦闘しているだろうか。その上で、現代の子供たちの問題が発生しているだろうか。上に見る自民・公明の論拠は、この点から何らの検証もしていない。ただ、現実の日本の問題状況を羅列して、これは教育基本法に問題があったから、子供たちはこうなっているのですよ、と無知な国民をだます乱暴な論理である。そして、この詭弁的な論法は多く市民の共感を得ているから恐ろしい。教育基本法を読んだこともないし、学校でどんな教育がなされているか全く無知な人々の共感を得るに好都合な論法なのである。現代の学校が教育基本法を真摯に懸命に実践しているなら、子供たちはもう少し知的で倫理性がある子供たちが育っているのではないか。教師たちが日々教育基本法の精神の実現を目指し、苦闘しているとはとうてい思えない。日々の授業のなかで、生活指導のなかで、部活動のなかで、憲法の精神や、教育基本法の精神を血肉化して、子供たちを育ている、或いは教育実践している教師や親たちが、この今の日本にどれだけいるだろうか。大人たちの多くは、それと無縁の戦後日本が遮二無二ひた走ってきた消費文化の浪費と退廃のなかにいる。その影響をもろに受けているのが子供たちだ。子供たちが人として育たず、さまざまな問題かかえて苦しんでいるのは、教育基本法に基づいて行われている日本の学校に原因があるなどという論理を、教師や親たちは、本当に信じているのだろうか。日本の戦後の学校の歴史は、どうしたら教育基本法の理念を骨抜きにして空洞化できるかということに明け暮れ、そのために次々に方針を打ち出し、現場を指導監督し、強制してきたのが旧文部省だ。教育基本法の定める男女が人間らしく豊かに生きていくための教育の実現をなしくずしにし空洞化させてきた現代日本の学校が、今、目の前に存在しているのだ。その中で育ち、学校教育を受けているのが今の子供たちである。今の子供たちが自己中心的で堕落しているというのなら、むしろその原因は、教育基本法の実現を阻止し、形骸化してきたことにある。要するに法改正を実行しようと望んでいる勢力自体の倫理性の退廃や低さが、今の子供たちを作り出している。彼らの云う法改正とは、自分たちが推し進めた教育基本法の精神を骨抜きにしてきた戦後教育を、合法化するためである。自民党や財界が、時代の寵児ともてはやし、失意の若者たちの絶大な人気となったホリエモンや村上某は、教育基本法の理念が実現している学校教育が作り出したものか。断じてそうではない。教育基本法とは全く反対の思想から生まれた教育、子育ての産物だ。悲惨な労働条件で非人間的な屈辱を日々味わっていても何とも感じない、ただその瞬間、気楽に楽しく暮らせれば満足する大量の若者を作り出している現在の学校。村的な偏狭と保守のなかで満足している爺クサイ若者を大量に作り出している今の学校。彼らは、今、社会の底辺で淀み始めている。このような層が暴走して社会が混乱するのを恐れている人たちがいる。(それぐらいのエネルギーを持って欲しいのだが)このような人間像は、教育基本法の実現をめざす教育とは『全く無縁』な青年像である。このような若者は、戦後の文部省が推し進めた「教育基本法」を空洞化する学校から大量に作り出されたものだ。このような子供たちに困った支配者たちは、お説教で儒教的な道徳を身にまとわせ、自分たちの更に従順なロボットになるような教育をしなければ社会が立ち行かないことを敏感に感じ取っている。軍隊で鍛えるには軟弱過ぎて使い物にならない。この若者たちの根性を、儒教的なお説教で叩きなおさなければ自分たちの支配が危機的な状態に陥ると感じている人々がいる。現在、日本が直面している子供たちの育ちの危機は、自民・公明党が述べているような現在ある「教育基本法の改正」によって真に解決できるようなものではない。このような論理は、真面目に子どものことを考え苦悩して、日々教育や子育てにいそしんでいる人たちならすぐに分かることである。では、改正の「本当の目的」は何か。以下のように2回に分けて考えてみたい。次回、[2]教育基本法改正案の前文はどのように変更されているか。 この改正案の変更点は何を意図しているか。次々回[3]教育基本法改正案;第1章・第1条の教育の目的の意味するものは何か。 結論:未来をひらく教育とは。乞うご期待と言いたいところですが、、、さて。
2006.06.20
コメント(0)
全92件 (92件中 1-50件目)