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二宮翁夜話巻の一【30】翁(をう)常陸国(ひたちのくに)青木村のために、力を尽されし事は、予が兄大沢勇助が、烏山藩の菅谷某と謀(はか)りて、起草し、小田某に托し、漢文にせし、青木村興復起事の通りなれば、今贅(ぜい)せず。扠(さて)年を経て翁其近村灰塚(はいつか)村の、興復方法を扱はれし時、青木村、旧年の報恩の爲にとて、冥加(みやうが)人足と唱へ、毎戸一人づゝ、無賃にて勤む、翁是を検(けん)して、後に曰く、今日来り勤むる処の人夫、過半二三男の輩(ともがら)にして、我が往年厚く撫育せし者にあらず、是れ表に報恩の道を飾るといへども、内情如何(いかん)を知るべからず、されば我此の冥加人足を出(だ)せしを悦ばずと。青木村地頭の用人某、是を聞きて我能(よく)説諭せんと云ふ、翁是を止(と)めて曰く、是れ道にあらず、縦令(たとひ)内情如何(いかん)にありとも、彼旧恩を報いん爲とて、無賃にて数十人の人夫を出せり、内情の如何(いかん)を置いて、称せずばあるべからず、且(かつ)薄(うすき)に応ずるには厚(あつき)を以てすべし、是れ則ち道なりとて人夫を招き、旧恩の冥加(みやうが)として、遠路出で来り、無賃にて我が業を助くる、其の奇特(きとく)を懇々賞し、且(かつ)謝し過分の賃金を投与して、帰村を命ぜらる、一日を隔(へだ)てて村民老若を分たず、皆未明より出で来て、終日休せずして働き賃金を辞して去る、翁又金若干(そこばく)を贈られたり。【30】尊徳先生が、常陸国(ひたちのくに:茨城県)の青木村のために、力を尽された事は、私の兄、大沢勇助が、烏山藩の菅谷八郎右衛門とはかって起草し、小田某に依頼して漢文にした「青木村興復起事」の通りであるから、今ここで繰り返さない。さて年を経て尊徳先生がその近村の灰塚(はいつか)村の復興を行われた時に、青木村は、旧年の報恩のためといって、冥加(みやうが:お礼)人足といって、毎戸一人ずつ無賃で勤労しにやってきた。尊徳先生は、これらの人達の働きぶりを見て、後に言われた。「今日来て勤めるところの人夫は、ほとんどが二三男の者であって、私がその当時厚く世話してやった者たちではない。これは表に報恩の道を飾ってはいるが、その内情はどうは知ることができない。そうであれば私はこの冥加人足を出してきたことを喜ばない。」と。青木村の地頭の役人がこれを聞いて「私がよく説諭しておきましょう。」と言った。尊徳先生は、これをとめて言われた。「これ(心から報恩のために尽力するよう説諭すること)は道ではない。たとえ、内情はどうであろうとも、旧恩を報いるためと称して、無賃で数十人の人夫を出してきたのだ。内情がどうかをおいて、賞賛しなくてはならない。かつ薄きに応ずるには厚きをもってしなければならない。これがすなわち道である。 」と言って、青木村の人夫を招いて、旧恩のお礼として、遠路出て来て無賃にて私の事業を助ける、大変素晴らしいことだと懇々と賞賛して、かつ感謝し、過分の賃金を分かち与えて、帰村を命じられた。一日を隔てて青木村の村民は老若を分たず、皆未明から出て来て、一日中休まないで働いて賃金を辞退して帰っていった。尊徳先生はまたいくらかのお金を青木村に贈られた。上草野小学校の二宮金次郎像
2023.10.16
報徳記巻之五【11】小田原再興の方法中廢す(原文漢文)高慶曰く昔者(は)孔孟民の虐政に困むを哀み之を康寧の域に躋んと欲し天下を周流して之に説くに王道を以てす。夫れ國を治め民を安ずる者人主の職なり。其職に居て其道を求む。豈に焉より急なる者有乎。然り而して一たび其言を聞く。皆芒々焉として聾の如くカイ(耳に貴)の如し。能く之を用ること莫し且つ夫れ先生の至誠彼如く其功蹟顯著亦た彼の如し。一旦小田原候舘舎を捐て則其言忽焉として廢棄と爲る。嗚呼道の行難き今昔の同き所ろ聖賢も亦之を奈何ともする無し也。然りと雖ども先生の言の如き之を當世に施す能はずして而其の後に垂る者益明なり。豈に一時の顯晦を以先生を軒輊するを得んや。(「補注 報徳記」(佐々井典比古)より)著者(富田高慶)が思うに、むかし孔子、孟子は民が虐政に苦しむのを哀れみ、これを安寧の境遇に至らしめようとして、天下を周遊して王道を説いた。およそ国を治め民を安んずるのは人君の職務である。その職にあって、その道を求めることぐらい切要なものがあろうか。しかるにひとたびその言葉を聞いても、皆茫然としてつんぼのごとく、おしのごとく、これを用いようとする者がなかったのである。先生においても、あれほどの至誠、あれほど顕著な功績がありながら、一たん小田原候が逝去せられては、その遺言もたちまちにして廃棄されてしまった。実に道の行われがたいことは今も昔も同じであって、聖賢もまたどうにもすることができなかったのである。しかしながら、先生の教えに至っては、たとい当世に施すことができぬとしても、後世に垂れ流すことますます明らかなものがある。決して、一時の穏健によって先生の価値を上下することはできないのである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.15
二宮翁夜話巻の一【29】翁曰く、今日は則ち冬至なり、夜の長き則ち天命なり、夜の長きを憂ひて、短くせんと欲すとも、如何(いかに)ともすべなし、是を天と云ふ、而して此の行灯(あんどん)の皿に、油の一杯ある、是も又天命なり、此一皿の油、此夜の長きを照すにたらず、是れ又如何ともすべからず、共に天命なれども、人事を以て、灯心を細くする時は、夜半(やは)にして消ゆべき灯も、暁に達すべし、是れ人事の尽さゞるべからざる所以なり。譬ば伊勢詣でする者東京(えど)より伊勢まで、まづ百里として路用拾円なれば、上下廿日として、一日五十銭に当る、是れ則ち天命なり、然るを一日に六十銭づゝ遣(つか)ふ時は、二円の不足を生ず、是を四十銭づゝ遣ふ時は二円の有余を生ず、是れ人事を以て天命を伸縮すべき道理の譬へ也、夫れ此の世界は自転運動の世界なれば、決して一所に止らず、人事の勤惰に仍つて、天命も伸縮すべし、たとへば今朝焚くべき薪なきは、是れ天命なれども、明朝取り来れば則ちあり、今水桶に水の無きも、則ち差当りて天命なり、されども汲み来れば則ちあり、百事此の道理なり。【29】尊徳先生はおっしゃった。「今日は冬至である。夜の長いのはすなわち天命である。夜の長いことを憂えて、短くしようと欲しても、どうしよもない。これを天という。この行灯(あんどん)の皿に、油が一杯ある、これもまた天命である。この一皿の油でこの夜の長いのを照すに足りない。これもまたどうしようもない。ともに天命であるけれども、人事をもって、灯心を細くする時には、夜中にして消えるべき灯火も、暁まで達するであろう。これが人事をつくさなければならない理由である。たとえば伊勢参りをする者が江戸から伊勢まで、まづ100里として路用が10円とすれば、生き返り20日として、一日50銭に当る、これがすなわち天命である。それなのに一日に60銭ずつ使う時は、2円の不足を生ずる。これを40銭ずつ使う時は2円の余りが生ずる。これ人事を以て天命を伸縮するべき道理のたとえである。この世界は自転運動の世界であるから、決して一所に止まらない。人事の勤労と怠惰によって、天命も伸縮することができる。たとえば今朝焚くたきぎがないのは、天命であるけれども、明日の朝取って来れば、すなわちある。今、水桶に水が無いのも、すなわちさし当たって天命である。そうであっても汲んでくればすなわちある。百事この道理である。静岡県袋井市 JR愛野駅前
2023.10.15
報徳記巻之六【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す衣笠大いに歡(よろこ)び言ひて曰く、主家(しゆか)連年艱難に迫り借財數萬兩(すうまんりやう)に及び元利之を償ふの道なし。年を經(ふ)るに隨(したが)ひ増借に至り、既に一藩を扶助することを得ざるに及べり。此の艱難を除かずんば、遂に災害並び至り亡國(ぼうこく)に比(ひ)せん而已(のみ)。君臣共に百計焦思(せうし)すと雖も凡慮の及ぶ所にあらず。我が君(きみ)之が爲(ため)に寝食を安んぜず、先生の高徳仁術の良法を聞き頻(しき)りに欣慕(きんぼ)し、尊諭を受け此の艱難を除き、一度(ひとたび)上下を安んじ忠孝の道を盡(つく)さんことを願ひ、某(それがし)に命じて國家(こくか)再興の事を先生に依頼せしむ。願くは先生下館(しもたて)上下の困苦を憐み、再復安堵(あんど)の良法を授け、我が君の心を安んじたまはん事を請ふと云ふ。先生曰く、某(それがし)此の三邑(いふ)に宰(さい)として此の民を撫育する事、猶(なほ)力足らずして君命を辱しめんことを恐る。何ぞ外(ほか)諸侯の託を受けて、其の艱苦を除くの餘力(よりょく)あらんや。曾(かつ)て小田原先君某(それがし)に此地の再興を委任せり。之を辭(じ)すること三年、而(しか)して命を下すこと彌々(いよいよ)切なり。予已(や)む事を得ず此の地に來(きた)り此の事を成せり。先君小田原領を再興せんとして屡(しばしば)余に問ふ。余曰く、小田原上下の勢ひ四時(じ)中の秋に當(あた)れり。夫(そ)れ秋なるものは百穀皆熟し周年中此の時を優(ゆた)かなりとす。小田原舊來(きうらい)の艱難少しく免れ下民の艱苦を知らず。賦税(ふぜい)を重くして目前の逸楽を好み國本(こくほん)を薄くして其(そ)の末葉(ばつえふ)を厚くすることを主とせり。之を病者に譬(たとへ)んに逆上(ぎやくじやう)の疾(やまひ)の如し。一身の氣(き)頭上に登り兩足(りやうそく)冷寒、氣(き)血下(しも)に回らずして遂に重病に至らん。之を治(ぢ)せんとせば上氣(じやうき)を下(くだ)し兩足(りやうそく)をして温暖ならしめ血氣(き)惣身(そうしん)に循環せざれば其の疾(やま)ひ治(ぢ)すべからず。然るに下部の厥冷(けつれい)を憂ひとせず逆上を以って幸(さいはひ)となさば、遂に一身を失ふの害を生ぜんか。今下民(かみん)艱難の米粟を度外に納めさせ、之を以て一藩の悦びとなす者何を以て之に異ならんや。危道に身を置き安泰なりとせり。此の憂ひを除かずんば不朽の平安は得難かるべし。夫れ治平(ちへい)の道如何(いかん)。上を損(そん)して下を益し、大仁(だいじん)を下し下民(かみん)を撫育し國民(こくみん)をして優(ゆた)かならしめば、逆上の憂ひ去り、國本(こくほん)固くして上下安かるべし。然れども一藩何ぞ民を憂ひ自ら艱難に安んずるの心あらんや。故に道は善美なりと雖も、當時(たうじ)の人情にては行はれ難し。自然艱苦の時至らば又行はるゝの時あらんか。強(し)いて秋節に臨み春陽の道を施さんとせば、事成らずして憂(うれひ)を生ぜんか。良法ありと雖も其の時にあらざることを如何(いかん)せんと言上せり。巻之六【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す衣笠は大いに喜んでこのように言った。「主家は連年艱難に迫られ借財が数万両に及んでいます。元利を償還する道がありません。年を経るに従って借金が増え、既に一藩を経営することができなくなっております。この艱難を除かなければ、ついに災害が並びいたって亡国となるに違いありません。君臣ともに百計・焦思すると雖も凡慮の及ぶ所ではありません。我が君がこのために寝食を安んずることなく、先生の高徳仁術の良法を聞いてしきりに欣慕し、御尊諭を受けてこの艱難を除いて、一度上下を安らかにし忠孝の道をつくすことを願って、私に命じ国家再興の事を先生に依頼させました。願わくは先生どうか下館の上下の困苦を憐んで、再復・安堵の良法を授けていただき、我が君の心を安らかにしてくださるようお願いします。先生は言われた。「私はこの三村に村役人としてこの民を撫育する事でさえ、まだ力が足らないため君命を辱しめてしまうことを恐れています。どうしてほかの諸侯の要請を受け、その艱苦を除く余力がありましょうか。かつて小田原先君(大久保忠真候)は私にこの地の再興を委任されました。これを辞退すること三年、そして命を下すことはいよいよ切実です。私はやむを得ずこの地に来たってこの事を成じたのです。先君は小田原領を再興しようとしてしばしば私に問われた。私は申しあげた。小田原上下の勢いは四時の中の秋に当たります。秋は百穀が皆熟し一年中で最も豊かであります。小田原藩は旧来の艱難を少し免れ、下民の艱苦を知りません。租税を重くして目前の逸楽を好んで国の本を薄くしてその末葉を厚くすることを主としております。これを病者にたとえれば逆上の病いと同様です。一身の気が頭上に登って両足が冷たく、気血は下に回らないで遂に重病に至りましょう。これを治そうとするならば上気を下に降ろして両足を温暖にし血気が体中に循環するようにしなければその病気は治らないでしょう。しかるに下部が冷え切ったことを憂慮しないで逆上を幸いとするならば、ついには一身を失うという害を生じましょう。今、下民は艱難して穀物を分度以上に納めさせて、これを一藩の喜びとなすことと何が異なりましょうか。危ないところに身を置きながら安泰であると思っています。この憂いを除かなければ不朽の平安は得ることはできないでしょう。それ治平の道はどのようかといえば、上を損して下を益し、大仁を下して下民を撫育し、国民をして豊かにするならば、逆上の憂いは去り、国の本は固くなって上下安泰となることでしょう。しかれども一藩どうして民を憂い、自ら艱難に安んじようとずる心がありましょうか。だから道は善美であるといっても、現在の人情では行うことが難かしいのです。自然と艱苦の時が至るならばまた行われる時もありましょうか。しいて秋に臨んで春陽の道を施すならば、事は成就しないで憂いを生じましょう。良法があってもその時でなければいかんともできません と言上した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.14
二宮翁夜話巻の一【28】翁曰く、何事にも変通といふ事あり、しらずんばあるべからず、則ち権道(けんだう)なり、夫(そ)れ難きを先にするは、聖人の教へなれども、是は先づ仕事を先にして、而して後に賃金を取れと云ふが如き教へなり、爰(ここ)に農家病人等ありて、耕し耘(くさぎ)り手後れなどの時、草多き処を先にするは世上の常なれど、右様(みぎやう)の時に限りて、草少く至つて手易き畑(はた)より手入して、至て草多き処は、最後にすべし、是尤も大切の事なり。至て草多く手重(ておも)の処を先にする時は、大いに手間取れ、其の間に草少き畑も、皆一面草になりて、何(いづ)れも手後れになる物なれば、草多く手重き畑は、五畝(せ)や八畝は荒(あら)すとも侭(まゝ)よと覚悟して暫く捨て置き、草少く手軽なる処より片付くべし。しかせずして手重き処に掛り、時日を費す時は、僅の畝歩の為に、総体の田畑、順々手入れ後れて、大なる損となるなり、国家を興復するも又此の理なり、しらずんばあるべからず。又山林を開拓するに、大なる木の根は、其侭差し置て、回りを切り開くべし、而して三四年を経れば、木の根自ら朽ちて力を入れずして取るゝなり、是を開拓の時一時に掘取らんとする時は労して功少し、百事その如し、村里を興復せんとすれば、必ず抗する者あり、是を処する又此理なり、決して拘(かゝ)はるべからず障(さは)るべからず、度外に置(お)きてわが勤を励むべし。【28】尊徳先生はおっしゃった。何事にも変通という事がある。知っておかなくてはならない。すなわち権道(けんどう:正しいとはいえないが目的達成のために便宜的にとる手段。方便)である。困難であることを先にすることは、聖人の教えであるけれども、これはまず仕事を先にして、それから後に賃金を取れというような教えである。ここに農家に病人等があって、耕し草刈りが手後れになった場合、草が多いところを先にすることが世上の常であるけれども、このような時に限っては、草が少なく、かえって手をつけやすい畑から手入れをして、草が多いところは、最後にするべきである。これが最も大切な事である。いたって草が多く手重のところを先にする時には、大変手間取ってしまい、その間に草の少ない畑も、皆一面草になって、どちらも手後れになるものであるから、草が多く手重い畑は、五畝(せ)や八畝(せ)は荒してしまっても「ままよ」と覚悟をして暫く捨ておいておき、草が少なく手軽なところからかたづけるべきである。そうしないで手のかかるところにかかって、時日を費やす時は、僅かの畝歩のために、全体の田畑が、順々に手入れがおくれて、大変な損となるのである。国家を復興するのもまたこの理である。知っていなくてはならない。また山林を開拓するのに、大きな木の根は、そのまま差し置いて、回りを切り開くがよい。そして3,4年を経るならば、木の根が自ら朽ちてしまい力を入れないで取れるものである。これを開拓の時に一時に掘り取らんとする時は労多くして功は少ない、百事そのようである。村里を復興しようとすれば、必ず抵抗する者がある。これを処する、またこの理である。決してかかわってはいけない。障(さは)ってはいけない。度外において自分の勤めを励むがよい。 静岡県掛川市 大日本報徳社
2023.10.14
報徳記 巻之六 【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す常州(じやうしう)下館候(しもたてこう)は下館城附(しもたてじやうふ)壹萬(いちまん)三千石河内國(かはちのくに)に七千石合(がつ)して貮萬石(にまんごく)を領す。天明卯辰(うたつ)の凶荒以來戸数大いに減じ、収納の減少も亦之に准(じゆん)ず。上下の艱難甚くして一藩扶助の道も全からず。負債三萬餘金(まんよきん)に及び、一年の租税其の利を償ふに足らず。百計を盡(つく)すと雖も此の艱難を除き永安の道を立ることを得ず。上下大いに之を憂ふ。天保九戌(いぬ)年に至ては既に一藩扶助の道なきに至れり。領民の艱苦も亦推して知るべし。然るに先生櫻町三邑(いふ)再復の功蹟下民(かみん)撫恤(ぶじゆつ)の仁術を聞き、郡(こほり)奉行衣笠某(なにがし)をして櫻町に至り、上下の憂ひを除き永安の道を依頼せしむ。衣笠某(それ)其の性(せい)慈仁實直(じじんじつちょく)にして頗(すこぶ)る人望を得たり。國家(こくか)を憂ふること深きを以て君(きみ)此の大事を命ず。衣笠某(なにがし)君命を奉じ櫻町に來(きた)り先生に見えんことを請ふ。先生事務暇(いとま)あらざるを以て之を辭(じ)す。再三請ふと雖も見(まみ)ゆることを得ず、下館に歸(かへ)り言上して曰く、夫れ賢人に逢(あ)はんことを求ると雖も見(まみ)るを得ざるもの古今の常なり。貴(たつと)きを以て賤(いや)しきに下るものは其の賢を貴ぶなり。今君命を奉じ彼の地に至ると雖も二宮固辭(こじ)して逢わず。其の賢益々(ますます)明白なりといふべし。再三往(ゆ)きて君(きみ)の敬禮(けいれい)信義を通ずるにあらざれば見(まみ)ゆることを得べからず。況(いはん)や國事(こくじ)の依頼を受けんや。某(それがし)二度(ふたたび)彼の地に至り君意(くんい)の切(せつ)なることを述べん而已(のみ)と。君(きみ)曰く、然り是(これ)予が誠不誠にあり。汝再三往(ゆ)いて信義を通ぜよ。是(こゝ)に於て衣笠再び櫻町に至り頻(しき)りに請(こ)ふて止まず。先生止む事を得ずして面會(めんくわい)す。報徳記 巻之六 【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す常州(茨城県)下館候(石川近江守)は、下館城の1万3千石、河内国(大阪)に7千石あわせて2万石を領有していた。天明の凶荒以来、戸数大いに減じ、収納の減少もまたこれに準じた。上下の艱難ははなはだしく、一藩をまかなう費用も十分でなかった。負債は3万両に及んで、一年の租税でその利を償うに足りなかった。百計を尽くしたがこの艱難を除いて永安の道を立てることができなかった。上下ともに大いにこれを憂えた。天保9年に至って既に一藩を経営できなくなるに至った。領民の艱苦もまた推して知るべきである。しかるに尊徳先生が桜町三村を再復した功蹟や下民を恵む仁術を聞いて、郡奉行の衣笠兵太夫に桜町に赴かせ、上下の憂いを除いて永安の道を立てることを依頼させた。衣笠はその性、慈仁実直であり、大変人望があった。国家(下館藩)を憂えること深かったため君主自らこの大事を命じた。天保8年10月、衣笠は君命を奉じて桜町にき来て先生に面会することを求めた。先生は事務に暇がないとこれを断られた。再三求めたが面会することができなかった。衣笠は、下館に帰って次のように言上した。「それ賢人に逢うことを求めても面会できないのが古今の常です。貴い身分で賤しい者にへりくだるのがその賢を貴ぶゆえんです。今、君命を奉じてかの地におもむきましたが、二宮は固辞して逢いません。その賢はますます明白だというべきです。再三おもむいて君の敬礼信義を通ずるのでなければ面会することはできないでしょう。ましてや国事の依頼を受けることがありましょうか。それがしは、ふたたびかの地におもむいて君意の切実であることを述べましょう。」君は言われた。「しかり。これは予の誠不誠にある。汝は再三往って信義を通ぜよ。」ここにおいて天保9年9月、衣笠は再び桜町に至ってしきりに面会を求めて止まなかった。先生はやむを得ず面会された。 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.13
二宮翁夜話巻の一【27】禍福二つあるにあらず、元来一つなり。近く譬ふれば、庖丁を以て茄子(なす)を切り、大根を切る時は、福なり、若(もし)指を切る時は、 禍(わざはひ)なり、只(たゞ)柄(え)を持て物を切ると、誤(あやま)つて指を切るとの違(たが)ひのみ、夫(そ)れ柄のみありて刃無ければ、庖丁にあらず、刃ありて柄無ければ、又用をなさず、柄あり刃ありて庖丁なり、柄あり刃あるは庖丁の常なり、然して指を切る時は禍とし、菜を切る時は福とす、されば禍福と云ふも私物(しぶつ)にあらずや、水もまた然り、畦(あぜ)を立(た)てて引(ひ)けば、田地を肥(こや)して福なり、畦なくして引(ひ)くときは、肥(こゑ)土流れて田地やせ、其の禍たるや云ふべからず、只畦有ると畦なきとの違ひのみ、元同一水にして、畦あれば福(さいはひ)となり、畦なければ禍(わざわひ)となる、富は人の欲する処なり、然りといへども、己が爲にするときは禍是に随ひ、世の為にする時は福是に随ふ、財宝も又然り、積(つ)んで散(さん)ずれば福となり、積んで散ぜざれば禍となる、是人々知らずんばあるべからざる道理なり。【27】禍福は二つあるのではない。元来一つである。近く譬えれば、包丁をもってナスを切ったり、大根を切る時は、福である。もし包丁をもって指を切る時は、 禍(わざわい)である。ただ包丁の柄を持って物を切るのと、過って指を切るのとの違いである。包丁に柄だけあって刃が無ければ、包丁ではない。歯があって柄が無ければ、また用をなさない。柄があり刃があって包丁である。柄があり、刃があるのが包丁の常である。それで指を切る時には禍とし、菜を切る時は福(さいわい)とする。そうであれば禍福というのも私ごとではないか。水もまたそうである。畦(あぜ)をたてて水を引けば、田地をこやして福(さいわい)である。畦がなくて水を引くときは、肥えた土が流れて、田の地はやせる、その禍であることはいうまでもない。ただ畦が有るのと畦がないのとの違いだけである。元は同一の水であって、畦があれば福(さいはい)となり、畦がなければ禍(わざわい)となる、富は人の欲するところである。しかしながら、自分のためにするときは禍がこれにしたがい、世のためにする時は福がこれにしたがう。 財宝もまた同じである。積んで人のため世のために散ずるならば福となり、積んで散じなければ禍となる。このことは人々が知らなければならない道理である。小田原市
2023.10.13
報徳記巻之五【11】小田原再興の方法中廢す大夫(たいふ)某(それがし)曰く、子(し)の言(げん)誠に先君に報ずるの忠心至れりと謂ふべし。然りといへども一度(たび)命令下るときは謹みて其の命を受け玉ふこと君(きみ)の道にして、小田原領の事は私事(しじ)なり。私事を以て命令を辭(じ)し玉はゞ、君(きみ)の忠義を缺(か)くに似たり。故に當君(たうくん)の爲(ため)に思慮し速かに命令を受くべしと。先生曰く、然らば小田原の仕法は此の時を境に廢(はい)し玉はんか。大夫曰く、何ぞ廢(はい)することを得ん。先君以來の事蹟(じせき)を言上し、子(し)勤務の間に以前の如く指揮を得んことを歎願せば、何ぞ之を許し玉はざらんや。子(し)小田原の事は勞(らう)すること勿れ。必ず先君の遺志を遂げんと云ふ。是に於て先生止むことを得ず命令に隨(したが)ふ。直ちに小田原仕法先生の指揮なくんば領民度を失はんことを書し、公務の寸隙を以て從前(じゆうぜん)の如く仕法の指揮有らん事を歎願す。幕府速かに此の願ひを許容せり。是に於て先生始めて憂心(いふしん)を解くに似たり。小田原藩家老は言った。「あなたの言うことは誠に先君に報ずる忠心を尽くしているというべきだ。しかりといへども一度幕府の命令が下るときは謹んでその命を受けることが藩主の道であって、小田原領の事は私事である。私事を理由に命令を辞退するならば、藩主としての忠義を欠くように思われる。それゆえ当君のために思慮し速かに命令を受けるべきである。」先生は言われた。「しからば小田原の仕法はこの時を境に廃されるおつもりか。」家老は言った。「どうして廃する必要があろう。先君以来の事蹟を言上し、あなたの勤務の間に以前のとおり指揮を得たい旨を嘆願すれば、どうして許されないことがあろうか。あなたが小田原の事を労することはない。必ず先君の遺志を遂げよう。」そこで先生はやむことをなく命令に従った。直ちに小田原仕法は先生の指揮がなければ領民は節度を失うことを書して、公務の寸隙をに従前のように仕法の指揮をとることができるよう嘆願した。幕府は速かにこの願いを許容した。先生は始めて憂心を解くことができたのであった。」(「補注 報徳記」佐々井典比古P74より)天保12年(1841)に老中水野忠邦の天保の改革が始まり、人材の抜擢も行われた。天保の大飢饉以来、先生の名声は江戸にも聞こえ、ことに青木村の領主川副勝三郎を通じて勘定所の首脳部が注目していた。また上総・下総(千葉県)の代官となった篠田藤四郎は、水野の企画する利根川分水路を実現するため、土木技術者としての先生に期待した。なお小田原藩としては、民衆に異常な声望を持ち、藩政の分度確立を主張してやまない先生を快く思っていなかったから、幕府の内意は意にかなったものだった。これらが重なって、先生は天保13年7月に出府を命ぜられ、勘定奉行岡本近江守(おうみのかみ)をはじめ幕府の要職の人たちと面会した。同年10月2日には発令される急な展開で、職名は「御普請役格(ごふしんやくかく)」で待遇は20俵2人扶持、勘定所勤務であった。先生は17日に出頭した。利根川分水路の調査設計のための出張を命ぜられた。小田原藩では領内及び桜町の仕法について先生の指導継続を幕府に伺ったところ、折り返し許可があった。当時仕法実施中であった下館(しもだて)・烏山・谷田部及び茂木・相馬等の諸藩では、先生の一応の謝絶に驚いて仕法の継続を希望し、公務に支障のない範囲で先生の教示を得たい旨を、先生の内諾を得て幕府に伺いを立て、許可された。ただし、このうち谷田部及び茂木の細川藩だけは中村勧農衛の独断で事を進めたため不許可になった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.12
二宮翁夜話巻の一【26】翁曰く、善悪の論甚(はなはだ)むづかし。本来を論ずれば、善も無し悪もなし。善と云つて分つ故に、悪と云ふ物出来るなり。元(もと)人身の私(わたくし)より成れる物にて、人道上の物なり。故に人なければ善悪なし、人ありて後に善悪はある也。故に人は荒蕪を開くを善とし、田畑を荒すを悪となせども、猪鹿(ゐしか)の方にては、 開拓を悪とし荒すを善とするなるべし。世法盗(ぬすみ)を悪とすれども、盗中間(なかま)にては、盗を善とし是を制する者を悪とするならん。然れば、如何なる物是れ善ぞ、如何なる物是れ悪ぞ、此の理明弁し難し。此の理の尤も見安きは遠近なり。遠近と云ふも善悪と云ふも理は同じ、譬へば杭二本を作り、一本には遠(とほし)と記し一本には近(ちかし)と記し、此の二本を渡して、此の杭を汝が身より遠き所と近き所と、二所に立つべしと云ひ付つくる時は、速かに分る也。予が歌に「見渡せば遠き近きはなかりけりおのれおのれが住処(すみか)にぞある」と、此の歌善きもあしきもなかりけりといふ時は、人身に切なる故に分らず、遠近は人身に切ならざるが故によく分る也。工事に曲直を望むも、余り目に近過る時は見えぬ物也、さりとて遠過ても又眼力及ばぬ物なり。古語に、遠山(とほきやま)木なし、遠海(とほきうみ)波なし、といへるが如し。故に我が身に疎き遠近に移して諭す也。夫れ遠近は己が居処(ゐどころ)先づ定りて後に遠近ある也。居処定らざれば遠近必ずなし、大坂遠しといはゞ関東の人なるべし、関東遠しといはゞ上方の人なるべし、禍福吉凶是非得失皆是れに同じ、禍福も一つなり、善悪も一つなり、得失も一つ也、元一つなる物の半(なかば)を善とすれば、其の半は必ず悪也、然るに其の半に悪なからむ事を願ふ、是れ成難き事を願ふなり、夫れ人生れたるを喜べば、死の悲しみは随つて離れず、咲きたる花の必ずちるに同じ、生じたる草の必ず枯るゝにおなじ。涅槃経に此の譬ヘあり、或人の家に容貌(かほかたち)美麗(うるはしく) 端正なる婦人 入り来る、主人如何なる御人ぞと問ふ、婦人答へて曰く、我は功徳天なり、我が至る所、吉祥福徳無量なり、主人悦んで請じ入る、婦人曰く、我に随従の婦一人あり、必ず跡より来る、是をも請ずべしと、主人諾す、時に一女来る、容貌(かほかたち)醜陋(しうろう)にして至て見悪(みにく)し、如何なる人ぞと問ふ、此の女答へて曰、我は黒闇天なり、我至る処、不祥災害ある無限なりと、主人是を聞き大に怒り、速かに帰り去れといへば、此の女曰く、前に来れる功徳天は我が姉なり、暫くも離るる事あたはず、 姉を止めば我をも止めよ、我をいださば姉をも出せと云ふ、主人暫く考へて、二人ともに出しやりければ、二人連れ立ちて出で行きけり、と云事ありと聞けり、是れ生者必滅会者定離の譬へなり、死生は勿論、禍福吉凶損益得失皆同じ、元禍と福と同体にして一円なり、吉と凶と兄弟にして一円也、百事皆同じ、只今も其の通り、通勤する時は近くてよいといひ、火事だと云ふと遠くてよかりしと云ふ也、是を以てしるべし。【26】尊徳先生はおっしゃた。「善悪の論は大変難しい。本来を論ずれば、善も無く悪も無い。善といって分けるから、悪というものができるのだ。元々、人間の身の私(わたくし)から成りたっているもので、人道上のものである。だから人間がなければ善悪というものはない。人間があって、その後に善悪はあるのだ。だから人は荒地を開くのを善とし、田畑を荒すを悪とするけれどもいのししや鹿のほうからすれば、開拓を悪とし荒すのを善とするであろう。世間では、盗みを悪とするが、盗っと仲間では、盗みを善としこれを制する者を悪とするであろう。そうであれば、どのようなものが善であろうか、どのようなものが悪であろうか、この理は明確には理解しがたい。この理が最も見やすいのは遠近である。遠近というも善悪というも理は同じである。たとえば杭を二本を作って、一本には遠いと書き、一本には近いと書き、この二本を人に渡して、この杭をあなたの遠い所と近い所と、二箇所に立てなさいと言いつけた時は、すぐに分る。わたしの歌に「見渡せば遠き近きはなかりけり おのれおのれが住処(すみか)にぞある」と詠んだ。この歌、善きも悪しきもなかりけりという時は、人の身には切実であるから分らない、遠近は人の身に切実でないからよく分るのである。工事に曲直を望んでも、あまり目に近すぎる時は見えないものである。だからといって遠すぎても。また眼力が及ばないものだ。古語に、遠い山木がない、遠い海には波がない、というようなものだ。だから自分の身にうとい遠近に移してさとすのである。遠近は自分の居どころが先ず定って後に遠近はある。居どころが定らなければ、遠近は必ずない。大坂は遠いというのは、関東の人であろう。関東は遠いというのは。関西の人であろう。禍福・吉凶・是非・得失みなことと同じだ。禍福も一つである、善悪も一つである、得失も一つである。元々一つであるもの半ばを善とすれば、その半は必ず悪である。それなのにその半ばに悪がない事を願う。これは成就しがたい事を願っているのだ。人は生れたのを喜べば、死が来る悲しみはこれに随って離れない。咲いた花は必ず散るのと同じだ。生じた草は必ず枯れるのと同じだ。涅槃経にこの譬えがある。ある人の家に顔かたちうるわしい端正な婦人が入ってきた。主人がどういうお人ですかと質問した。婦人は答えて言った。私は功徳天である、私が来る所は、吉祥福徳が無量です。主人は悦んで請じ入れた。婦人は言った。私に随従する婦人が一人あって、必ず後から来ます、これをも請じ入れてくださいと。主人は応諾した。すぐに一人の女が来た。容貌が醜悪で大変醜い。どういう人ですかと主人が質問した。この女は答へた。私は黒闇天である。私が来るところは、不祥災害が無限に起こると。主人はこれを聞いて大変怒って、すぐい帰り去れと言うと、この女は言った。前に来た功徳天は私の姉である。暫くも離れる事はできない。姉をとめれば私もとめなければならない。私を出せば姉も出さなければならなと言う。主人は暫く考えて、二人ともに出すと、二人連れだって出ていった、という事があったと聞いている。これは生者必滅、会者定離の譬えである。死生はもちろん、禍福・吉凶・損益・得失皆同じだ。元々禍と福と同体であって一円である。吉と凶と兄弟であって一円である。百事皆同じである、ただいまもこのとおりだ。通勤する時は近くてよいといい、火事だというと遠くでよかったという。これをもって知るがよい。」秦野市立大根小学校の二宮金次郎像
2023.10.12
二宮翁夜話巻の一【25】翁曰く、百事決定(けつぢやう)と注意とを肝要とす、如何(なん)となれば、何事によらず、百事決定と注意とによりて、事はなる物なり。小事たりといへども、決定する事なく、注意する事なければ、百事悉(ことごと)く破る。夫(そ)れ1年は12ヶ月也、然して月々に米実法(みの)るにあらず、只(たゞ)初冬一ヶ月のみ米実法(みの)りて、12月米を喰(くら)ふは、人々しか決定して、しか注意するによる。是によりて是を見れば、2年に1度、3年に1度実法(みの)るとも、人々其の通り決定して注意せば、決して差支(さしつか)あるべからず。凡(およ)そ物の不足は、皆覚悟せざる処に出(いづ)るなり、されば人々平日の暮し方、大凡(おおよそ)此の位の事にすれば、年末に至て余るべしとか、不足すべしとか、しれざる事はなかるべし。是に心付(づか)ず、うかうかと暮して、大晦日に至り始(はじめ)て驚くは、愚の至り不注意の極(きわま)りなり。ある飯焚(めしたき)女が曰(いわ)く、一日に一度づゝ米櫃の米をかき平均(なら)して見る時は、米の俄(にはか)に不足すると云ふ事、決してなしといへり、是(こ)れ飯焚女のよき注意なり、此(こ)の米櫃をならして見るは、則(すなわ)ち一家の店卸(たなおろ)しに同じ、能々(よくよく)決定して注意すべし。 【25】尊徳先生がおっしゃった。百事 決定(けっじょう)と注意とが大事だ。なぜかといえば、何事であっても、百事 決定と注意とによって、事は成就するのだ。小さい事であっても、決定する事がなく、注意する事がないならば、百事ことごとく破れてしまう。1年は12ヶ月である。そして月々に米が実るのではない。ただ秋の一ヶ月だけ米は実って、12月米を食べているのは、人々がそのように決定して、そうできるよう注意しているからである。これによって見るならば、たとえ米が2年に1度、3年に1度実るものであっても、人々がそのとおり決定して注意するならば、決してさしつかるようなことなないのだ。およそ物が不足するということは、皆、そこのところをしっかりと理解していないところにあるのだ。そうであれば人々の平日の暮し方も、おおよそこのくらいの事にすれば、年末になれば余るだろうとか、不足するであろうか、知れない事はないであろう。これに心を使わず、うかうかと暮して、大晦日になって、はじめて驚くのは、愚の至り、不注意のきわみである。ある飯たき女がいうのに、一日に一度ずつ米びつの米をかきならしてみると、米が急に不足するといふ事は決してなしと。これは飯たき女のよい注意である。この米びつをならしてみるというのは、すなわち一家のたなおろしと同じである。よくよく決定して注意すべきである。神奈川県小田原市 三の丸小学校
2023.10.11
報徳記 巻之六 【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す常州(じやうしう)下館候(しもたてこう)は下館城附(しもたてじやうふ)壹萬(いちまん)三千石河内國(かはちのくに)に七千石合(がつ)して貮萬石(にまんごく)を領す。天明卯辰(うたつ)の凶荒以來戸数大いに減じ、収納の減少も亦之に准(じゆん)ず。上下の艱難甚くして一藩扶助の道も全からず。負債三萬餘金(まんよきん)に及び、一年の租税其の利を償ふに足らず。百計を盡(つく)すと雖も此の艱難を除き永安の道を立ることを得ず。上下大いに之を憂ふ。天保九戌(いぬ)年に至ては既に一藩扶助の道なきに至れり。領民の艱苦も亦推して知るべし。然るに先生櫻町三邑(いふ)再復の功蹟下民(かみん)撫恤(ぶじゆつ)の仁術を聞き、郡(こほり)奉行衣笠某(なにがし)をして櫻町に至り、上下の憂ひを除き永安の道を依頼せしむ。衣笠某(それ)其の性(せい)慈仁實直(じじんじつちょく)にして頗(すこぶ)る人望を得たり。國家(こくか)を憂ふること深きを以て君(きみ)此の大事を命ず。衣笠某(なにがし)君命を奉じ櫻町に來(きた)り先生に見えんことを請ふ。先生事務暇(いとま)あらざるを以て之を辭(じ)す。再三請ふと雖も見(まみ)ゆることを得ず、下館に歸(かへ)り言上して曰く、夫れ賢人に逢(あ)はんことを求ると雖も見(まみ)るを得ざるもの古今の常なり。貴(たつと)きを以て賤(いや)しきに下るものは其の賢を貴ぶなり。今君命を奉じ彼の地に至ると雖も二宮固辭(こじ)して逢わず。其の賢益々(ますます)明白なりといふべし。再三往(ゆ)きて君(きみ)の敬禮(けいれい)信義を通ずるにあらざれば見(まみ)ゆることを得べからず。況(いはん)や國事(こくじ)の依頼を受けんや。某(それがし)二度(ふたたび)彼の地に至り君意(くんい)の切(せつ)なることを述べん而已(のみ)と。君(きみ)曰く、然り是(これ)予が誠不誠にあり。汝再三往(ゆ)いて信義を通ぜよ。是(こゝ)に於て衣笠再び櫻町に至り頻(しき)りに請(こ)ふて止まず。先生止む事を得ずして面會(めんくわい)す。 報徳記 巻之六 【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す常州(茨城県)下館候(石川近江守)は、下館城の1万3千石、河内国(大阪)に7千石あわせて2万石を領有していた。天明の凶荒以来、戸数大いに減じ、収納の減少もまたこれに準じた。上下の艱難ははなはだしく、一藩をまかなう費用も十分でなかった。負債は3万両に及んで、一年の租税でその利を償うに足りなかった。百計を尽くしたがこの艱難を除いて永安の道を立てることができなかった。上下ともに大いにこれを憂えた。天保9年に至って既に一藩を経営できなくなるに至った。領民の艱苦もまた推して知るべきである。しかるに尊徳先生が桜町三村を再復した功蹟や下民を恵む仁術を聞いて、郡奉行の衣笠兵太夫に桜町に赴かせ、上下の憂いを除いて永安の道を立てることを依頼させた。衣笠はその性、慈仁実直であり、大変人望があった。国家(下館藩)を憂えること深かったため君主自らこの大事を命じた。天保8年10月、衣笠は君命を奉じて桜町にき来て先生に面会することを求めた。先生は事務に暇がないとこれを断られた。再三求めたが面会することができなかった。衣笠は、下館に帰って次のように言上した。「それ賢人に逢うことを求めても面会できないのが古今の常です。貴い身分で賤しい者にへりくだるのがその賢を貴ぶゆえんです。今、君命を奉じてかの地におもむきましたが、二宮は固辞して逢いません。その賢はますます明白だというべきです。再三おもむいて君の敬礼信義を通ずるのでなければ面会することはできないでしょう。ましてや国事の依頼を受けることがありましょうか。それがしは、ふたたびかの地におもむいて君意の切実であることを述べましょう。」君は言われた。「しかり。これは予の誠不誠にある。汝は再三往って信義を通ぜよ。」ここにおいて天保9年9月、衣笠は再び桜町に至ってしきりに面会を求めて止まなかった。先生はやむを得ず面会された。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.11
報徳記巻之六【3】先生上牧某を教諭す(原文は漢文)高慶曰く、國家の憂を以て憂と爲て一己の私憂とせず。夙夜身を致し以國事に任ずる者人臣の常道に非ずや。苟も恩禄榮利を以て心と爲し阿諛面從豈與に君に事ふ可んや。先生甞て曰く君に事て利禄に離れざる者譬へば商賈の物を鬻ぎ價を争ふ也。君子の君に事る豈其れ斯の如くならん哉。先生一たび臣爲るの道を教へて下館の衆臣多くを貪り不足を憂ふるの意弭み而して忠義の心油然として生ぜり。徳の物に及ぶ何ぞ其れ速か也るや。(「訳注 報徳記」佐々井典比古)著者(富田高慶)が思うに、国家の憂いを憂いとして一己の私事を憂いとせず、日夜身をささげて国事に任ずるのが人臣の常道ではないか。いやしくも俸禄や栄誉利益を心として、おもねりへつらい、うわべだけ人に従うような者とは、到底共に君に仕えることはできない。先生はあるとき言われた。「君に仕えて心が利録から離れない者は、たとえば商人が物を売り、価を争うようなものである。君子は決してこのようにして君に仕えるものではない」と。先生がひとたび臣たるの道を教えられて、下館の衆臣は多くをむさぼり不足を憂える心がやみ、忠義の心が油然として生じた。徳の推し及ぶことは、何とすみやかなものであろう。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.10
二宮翁夜話巻の一【24】 翁曰く、農にても商にても、富家の子弟は、業として勤むべき事なし、貧家の者は活計の為に、勤めざるを得ず、且(かつ)富を願ふが故に、自ら勉強す、富家の子弟は、譬へば山の絶頂に居るが如く、登るべき処なく、前後左右皆(みな)眼下なり、是に依つて分外の願を起し、士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、終(つひ)に滅亡す、天下の富者皆然り、爰(ここ)に長く富貴を維持し、富貴を保つべきは、只我道推譲の教へあるのみ。富家の子弟、此の推譲の道を踏まざれば、千百万の金ありといへども、馬糞茸と何ぞ異らん、夫れ馬糞茸は季候に依つて生じ、幾程もなく腐廃し、世上の用にならず、只徒らに生じて、徒らに滅するのみ、世に富家と呼ばるゝ者にして、如斯(このごとく)なる、豈(あに)惜しき事ならずや。【24】尊徳先生はおっしゃった。農業でも商業でも、富んだ家の子弟は、仕事として勤め励む必要がない。貧しい家の者は生計のために、勤めざるを得ない。そして富を願うために、自分から精励して勤める。富んだ家の子弟は、たとえば山の絶頂にいるようで、登るべきところがなく、前後左右皆眼下である。このため分外の願を起こし、武士の真似をし、大名の真似をし、増長に増長して、ついには滅亡してしまう。天下の富んだ者は皆このとおりである。ここにおいて長く富貴を維持し、富貴を保つためには、ただ私の道、推譲の教えがあるだけである。富んだ家の子弟が、この推譲の道を踏まなければ、千百万の金があっても、馬糞の上に生えたキノコと何が異なろう。馬糞茸は季候によって生じ、すぐに腐敗し、世の中の用にならならい。ただいたずらに生じて、いたずらに滅するだけである。世に富家と呼ばれる者で、このようになってしまうのは惜しい事ではないか。広島市立西部小学校
2023.10.10
二宮翁夜話巻の一【23】翁(をう)多田某に謂(い)ひて曰(いわ)く、我(われ)東照神君の御遺訓と云ふ物を見しに、曰く我れ敵国に生れて、只(ただ)父祖の仇(あだ)を報ぜん事の願ひのみなりき、 祐誉(ゆうよ)が教(をし)へに依(よ)りて、国を安んじ民を救ふの、天理なる事を知りてより、今日に至れり、子孫長く此の志を継ぐべし、若し相背くに於ては、我が子孫にあらず、民は是れ国の本なればなりとあり。然れば其の許(もと)が、遺言すべき処は、我過ちて新金銀引替御用を勤め、自然増長して驕奢に流れ、御用の種金を遣(つか)ひ込み大借に陥り、身代破滅に及ぶべき処、報徳の方法に因(よ)つて、莫大の恩恵を受け、 此(こ)の如く安穏に、相続する事を得たり、此の報恩には、子孫代々驕奢安逸を厳に禁じ、節倹を尽し身代の半(なかば)を推譲(おしゆず)り、世益を心掛け、貧を救ひ、村里を富ます事を勤むべし、若し此の遺言に背く者は、子孫たりといへども、子孫にあらざる故、速に放逐すべし、婿嫁は速かに離縁すべし、我が家株(いへかぶ)田畑は、本来報徳法方法の物なれば也と子孫に遺物せば、神君の思召と同一にして、孝なり忠なり仁なり義なり、其の子孫、徳川氏の二代公三代公の如く、その遺言を守らば、其の功業量るべからず、汝が家の繁昌長久も、又限りあるべからず、能々(よくよく)思考せよ。【23】尊徳先生が、多田氏にこうおっしゃったことがあった。「私は、徳川家康公の御遺訓という物を拝見したことがある。それにはこうあった。『私は、敵国(今川家)に生れて、ただ父祖のかたきを報いようという願いだけ持っていた。しかし、祐誉上人の教えによって、国を安らかにし民を救うことが天理である事を知ってから、今日に至っている。わが子孫は長くこの国を安らかに、民を救おうという私の志を継がなくてはならない。もしこれに背くような者は、私の子孫ではない。民はこれ国の本であるからである。』そうであれば、あなたが、子孫に遺言すべきことは、『私は過って、新金銀引替御用を勤めて、自然に増長して贅沢になっていき、御用の種金を使い込んで、大きな借金をかかえて、破滅寸前のところを、報徳の方法によって、莫大な恩恵を受けて、このように安らかに相続することができた。この恩に報いるには、子孫代々贅沢や怠惰を厳に禁じて、節倹を尽して、収入の半分を推し譲って、世の中の益になるよう心がけ、貧乏人を救い、村里を豊かにする事を勤めなくてはならない。もしこの遺言に背く者は、私の子孫であっても、子孫ではない。すくに放逐しなくてはならない、婿や嫁はすぐに離縁しなければならない。私の家や田畑は、本来、報徳の方法によってあるものであるからである。』と子孫に遺言するならば、神君(徳川家康公)の思し召しと同一で、孝であり、忠である。仁であり、義である。その子孫も、徳川家の二代公三代公のように、この遺言を守るならば、その功業は量ることができないだろう。あなたの家の繁昌と長久も、また限りがないであろう。よくよく考えなさい。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.09
二宮翁夜話巻の一【22】翁曰く、山芋掘は、山芋の蔓(つる)を見て芋の善悪(よしあし)を知り、鰻(うなぎ)つりは、泥土(どろつち)の様子を見て、鰻の居る居らざるを知り、良農は草の色を見て土の肥痩(こへやせ)を知る、みな同じ。所謂(いはゆる)至誠神の如しと云ふ物にして、永年刻苦経験して、発明するものなり、技芸に此の事多し、侮るべからず。 【22】尊徳先生がおっしゃった。「山芋掘は、山芋のつるを見て芋の善し悪しを知る。鰻釣りは、ドロ土の様子を見て、鰻がいるかいないかを知る。良農は草の色を見て、土が肥えているか、やせているかを知る、みな同じである。これが「至誠神の如し」というものであって、永年刻苦経験して、初めてわかるものである。技芸にこの事が多い、侮ってはならない。 ☆「至誠神の如し」とは、「中庸」にある言葉である。尊徳先生は、「大学」「中庸」をよく引用された。そして実践という砥石にかけてそれらに説かれた言葉の正しさを体感された。語録【279】さざえのカラやあわびの貝はいたって堅いものだ。それが成長して大きくなっていくのは不思議といえる。また、山芋はいたって柔らかいものだ。それが堅い土をわけて伸びるのも不思議といえる。これはほかでもない。あるいは海底のアクタを食らい、あるいは土中の水気を吸って、食を求めるために誠を尽くすからこそ、どちらもよく成長するのである。人が事をなすのも同様だ。他の力を願い求めず、実行して怠らなければその事は必ず成就する。これを「至誠神の如し」というのである。もし始めから必ず成功すると予期していると、怠惰が生じてそのことはついには成就しない。これは自然の道理である。札幌市立簾舞小学校
2023.10.08
二宮翁夜話巻の一【21】 年若きもの数名居れり。翁諭して曰く、世の中の人を見よ、一銭の柿を買ふにも、 二銭の梨子(なし)を買ふにも、 真頭(しんとう)の 真直(ますぐ)なる 瑕(きづ)のなきを撰(よ)りて取るにあらずや。又茶碗を一つ買ふにも、色の好き形の宜(よ)きを撰(よ)り撫(なで)て見、 鳴(な)らして音を聞き、撰りに撰りてとるなり。世人皆然り、柿や梨子は買ふといへども、悪(あ)しくば捨(す)てて可なり、夫(そ)れさへも此(こ)の如し。然れば人に撰(えら)ばれて、聟となり嫁となる者、或(あるひ)は仕官して立身を願ふ者、己が身に瑕ありては人の取らぬは勿論の事、その瑕多き身を以て、上に得られねば、上に眼がなひなどゝ、上を悪(あし)くいひ、人を咎(とが)むるは大なる間違ひなり。みづからかへり見よ、必ずおのが身に瑕ある故なるべし。夫(そ)れ人身の瑕とは何ぞ。譬(たとへ)ば酒が好(すき)だとか、酒の上が悪いとか、放蕩だとか、勝負事が好きだとか、 惰弱だとか、無芸(むげい)だとか、何か一つ二つの瑕あるべし。買手のなき勿論なり。是を柿梨子に譬(たとふ)れば真頭(しんとう)が曲りて渋(しぶ)そふに見ゆるに同じ、されば人の買(か)はぬも無理ならず、能(よ)く勘考すべきなり。古語に、内に誠あれば必ず外に顕(あら)はるゝ、とあり、瑕なくして真頭の真直(ます)ぐなる柿の売れぬと云ふ事、あるべからず、夫(そ)れ何ほど草深き中にても薯蕷(やまいも)があれば、人が直(す)ぐに見付て捨ててはおかず、又泥深き水中に潜伏する鰻・鰌(どぜう)も、必ず人の見付けて捕へる世の中なり。されば内に誠有って、外にあらはれぬ道理あるべからず。此の道理を能く心得、身に瑕のなき様に心がくべし。【21】年が若い者が数名いた。尊徳先生はおっしゃった。「世の中の人を見なさい。一銭の柿を買うのにも、2銭の梨を買うのにも、芯頭がまっすぐな、キズのないものをよって取るではないか。また茶碗を一つ買うにも、色がよい、形のよいものをよって、なでてみて、鳴らして音を聞いてみて、よりによってとっているではないか。世の人は皆このとおりだ。柿や梨は買うといっても、悪ければ捨ててもいいはずだ、それでさえもこのようである。そうであれば人にえらばれて、聟となったり、嫁となる者、あるいは仕官して立身を願う者は、自分の身に瑕(きず)があっては、人が取らないのは勿論の事ではないか、その瑕(きず)の多い身でいながら、上に評価されなければ、上が人を見る眼がないなどと、上を悪く言い、人を咎めたりするのは大きな間違いである。自ら省みて見よ、必ず自分の身に瑕(きず)があるためである。人身の瑕とは何か。たとえば酒が好きとか、酒の上の行いが悪いとか、放蕩だとか、勝負事が好きだとか、惰弱だとか、無芸だとか、何か一つ二つの瑕(きず)があるはずだ。買手のないのも当然ではないか。これを柿や梨に譬えるならば芯頭が曲って渋そうに見えるのと同じだ。そうであれば人の買わないのも無理はない。よく考えなければならない。古語(大学)に、『内に誠あれば必ず外に顕(あら)はる』(「誠於中形於外」)とある。瑕(きず)がなくて芯頭が真直ぐな柿が売れないという事はあるはずがない。どれほど草深い中でもヤマイモがあれば、人がすぐに見つけて捨ててはおかない。また、泥深い水中に潜伏するウナギやドジョウも、必ず人が見つけて捕える世の中である。そうであれば内に誠有って、外にあらはれない道理があるはずがない。この道理をよく心得えて、自分の身に瑕(きず)のないように心がけるべきである。浜松市瀑布山不動寺
2023.10.07
二宮翁夜話【20】川久保民次郎と云ふ者あり、翁(をう)の親戚なれども、貧にして翁(をう)の僕(ぼく)たり、国に帰らんとして暇(いとま)を乞ふ。翁曰く、夫(そ)れ空腹なる時、他にゆきて一飯をたまはれ、予庭をはかんと云ふとも、決して一飯を振舞ふ者あるべからず、空腹をこらへて、まづ庭をはかば或(あるひ)は一飯にありつく事あるべし、是れ己を捨てて人に随ふの道にして、百事行はれ難き時に立至るも、行はるべき道なり。我若年(じやくねん)初めて家を持ちし時、一枚の鍬(くわ)損じたり、隣家(りんか)に行きて鍬をかし呉(く)れよといふ、隣翁(りんをう)曰く、今此の畑を耕し菜(な)を蒔(ま)かんとする処なり、蒔き終らざれば貸し難しといへり。我が家に帰るも別に為すべき業(わざ)なし、予此の畑を耕して進ずべしと云ひて耕し、菜の種を出されよ、序(ついで)に蒔(ま)きて進ぜんと云ひて、耕し且(かつ)蒔きて、後に鍬をかりし事あり。隣翁曰く、鍬に限らず何にても差支(さしつかへ)の事あらば、遠慮なく申されよ、必ず用達(ようたつ)すべしといへる事ありき。斯(かく)の如くすれば、百事差支なきものなり。汝国に帰り、新(あらた)に一家を持たば、必ず此の心得あるべし。夫(そ)れ汝未だ壮年なり。終夜(よもすがら)いねざるも障(さは)りなかるべし、 夜々寝る暇(ひま)を励し、勤めて、草鞋(わらじ)壱足或(あるひ)は二足を作り、 明日(みやうにち)開拓場に持ち出し、草鞋の切れ破れたる者に与へんに、受くる人礼せずといへども、元寝る暇(ひま)にて作りたるなれば其の分なり、礼を云ふ人あれば、夫れ丈けの徳なり、又一銭半銭を以て応ずる者あれば是又夫れ丈の益なり。能(よく)此の理を感銘し、連日おこたらずば、何ぞ志の貫かざる理あらんや、何事か成らざるの理あらんや、われ幼少の時の勤め此の外にあらず、肝に銘じて忘るべからず、又損料を出して、差支(さしつかへ)の物品を用弁(ようべん)するを甚(はなはだ)損なりと云ふ人あれど、しからず、夫(それ)は事足る人の上の事なり。新(あらた)に一家を持つ時は百事差支へあり、皆損料にて用弁すべし、世に損料ほど弁理なる物はなし、且(かつ)安き物はなし、決して損料を高き物、損なる物とおもふ事なかれ。【20】川久保民次郎という者があった。尊徳先生の親戚(母方が川久保家)であったが、貧乏のため先生の従僕をしていた。国(小田原)に帰ろうと暇ごいを言った。尊徳先生はおっしゃった。「空腹である時、他にいってご飯を一杯めぐんでください、めぐんでくださったら私があなたの庭をはきましょうと言っても、決して一杯のご飯をふるまってくれる者はいないであろう。空腹をこらえて、まず庭をはくならば、あるいは一杯のご飯にありつく事もあるであろう。これが己を捨てて人に随うの道であって、百事行はれがたい時に立ちいたっても、行うことができる道である。私が若いときに初めて家を持った時、一枚の鍬(くわ)を損ってしまった。そこで隣の家に行って『鍬を貸していただきたい』と言った。隣の年寄りの主が言った。『今からこの畑を耕して菜種をまこうとするところだ。まき終らなければ、貸せない』と言った。私は自分の家に帰っても、別に行うべき仕事もなかった。『わたしがこの畑を耕やして進ぜましょう』といって耕し、『菜の種を出しなさい、ついでにまいて進ぜましょう』と言って、耕し、かつ、種をまいて、後に鍬を借りた事があった。隣の主人は言った。『鍬に限らず何でもさしつかえる事があったら、遠慮なく申しでなさい。必ず用だていたしましょう』と言われた事があった。このようにすれば、百事さしつかえがないものである。お前が国(小田原)に帰って、新たに一家を持てば、必ずこの心得がなければならない。お前はまだ壮年である。夜もすがら寝なくても、さわりはあるまい。夜、寝るひまを励し、勤めて、草鞋(わらじ)一足あるいは二足を作って、 明くる日に開拓場に持っていって、草鞋の切れ破れた者に与えなさい。草鞋を受けた人がお礼しなくとも、もともと寝るひまに作ったものであるからそれだけのことである。お礼を言う人があれば、それだけの徳を積んだことになる。また一銭半銭をもって応ずる者があればこれもまたそれだけの利益といえる。よくこの理を心に銘じて、連日怠らなければ、どうして志が貫かれない理があろうか、何事か成らない理があろうか。私が幼少の時の勤めもこのほかにはない。肝に銘じて忘れてはならない。またレンタル料を出して、さしつかえる物品を用だてることをはなはだ損だいう人があるが、そうではない。それは物が足っている人の上の事である。新たに一家を持つ時は、百事にさしつかえがある。皆レンタルして用だてればよい。世にレンタル料ほど便利な物はない、かつ安い物はない。決してレンタル料を高い物、損な物だと思ってはならない。東京都港区鞆絵小学校跡
2023.10.06
二宮翁夜話【19】翁曰く、松明(たいまつ)尽きて、手に火の近付く時は速かに捨つべし、火事あり、危き時は荷物は捨てて逃出すべし、大風にて船くつがへらんとせば、上荷を刎(は)ぬべし、甚しき時は帆柱をも伐るべし、此の理を知らざるを至愚といふ。【19】尊徳先生はおっしゃった。「松明(たいまつ)が尽きて、手に火の近づく時はすぐに捨てなければならない、火事があって、危い時は荷物は捨てて逃げ出さなければならない、大風で船がくつがえろうとするときは、荷物は投げ捨てなければならない、はなはだしい時は帆柱をも切らなければならない、この理を知らないものを至愚という。」山形県上山市立上山小学校
2023.10.05
報徳記巻之六【4】先生下館の分度を定む先生又下館の商家八人を呼びて、國家(こくか)を再盛し上下の艱難を除き、永安の道を得るの大理を教諭し、告(つ)ぐるに前件を以てす。富商等(ら)大いに感激して曰く、某等(それがしら)の家産悉(ことごと)く之を出(だ)すも、君命あれば肯(がへん)ぜざるべからず。今先生の下館に於(お)ける些(すこ)しも縁由(えんゆ)あるに非ず。然るに之を舊復(きうふく)せんが爲(ため)に萬苦(ばんく)を盡(つく)し、加之(しかのみならず)許多(きよた)の米財を贈り玉ふこと其の恩謝する所を知らず。某等(それがしら)の出財元より願ふ所なり と云ふ。是(こゝ)に於て一年の貢税を以て遅延し難き負債を先立(さきだ)て之を償ひ、元金許多を減ぜり。是(これ)三萬(まん)餘(よ)金の負債を償ひたるの始めなり。先生また下館の商家八人を呼んで、国家を再盛し上下の艱難を除いて、永安の道を得る大理を教諭した。そして前のように告げた。富商等は大変感激して言った。「私たちは家産をことごとく出せといわれましても、君命であればわかりましたと差し出すほかありません。今、先生は下館にすこしも縁もゆかりもありません。しかるにこれを旧に復しようと万苦をつくされております。それだけでなく多くの米財を贈られました。お礼を申し上げることもできないほどです。私たちの出財はもとより願うところです」ここに一年の貢税を以て遅延し難い負債を先立ってこれを償い、莫大な元金を減じた。これが三万両の負債を償った始めであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.04
二宮翁夜話【18】翁(をう)宇津氏の邸内に寓(ぐう)す。邸内稲荷(いなり)社の祭礼に大神楽(だいかぐら)来りて、建物の戯芸(ぎげい)をせり。翁是を見て曰く、凡(およ)そ事此の術の如くなさば、 百事成らざる事あらざるべし、其の場に出(い)づるや少しも噪(さわ)がず、先づ体を定めて、両眼を見澄して、棹の先に注(ちゅう)し、脇目も触らず、一心に見詰め、器械の動揺を心と腰に受け、手は笛を吹き扇を取て舞ひ、足は三番叟(さんばそう)の拍子を踏むといへども、其(そ)のゆがみを見留て腰にて差引す、其の術至れり尽せり、手は舞ふといへども、手のみにして体に及ばず、足は踏むといへども、足のみにして腰に及ばず、舞ふも躍るも両眼は急度(きっと)見詰め、心を鎮め、体(たい)を定めたる事、大学論語の真理、聖人の秘訣、此の一曲の中に備れり、然るを之を見る者、聖人の道と懸隔すと見て、此の大神楽の術を賤しむ、儒生の如き、何ぞ国家の用に立たんや、嗚呼術は恐るべし、綱渡りが綱の上に起臥して落ちざるも又、之に同じ、能(よ)く思ふべき事なり【18】尊徳先生が宇津氏の邸内に寓居されていた。邸内の稲荷社の祭礼に大神楽が来て、技芸を行った。尊徳先生はこれを見ておっしゃった、「およそ事はこの術のように行うならば、 百事成らない事はないであろう。その場に出ては、少しもさわがず、まず体を定め、両眼を見すまし、棹の先に注意を傾け、脇目もふらないで、一心に見つめ、器械の動揺を心と腰に受けて、手は笛を吹いて扇を取って舞い、足は三番叟(さんばそう)のリズムを踏んでも、そのゆがみを見とめて腰にてバランスをとる、そのテクニックは至れり尽せりだ。手は舞うといっても、手だけで体までは及ばない、足は踏むといっても、足だけで腰にまで及ばない、舞うも躍るも両眼はきっと見つめ、心をしずめて、体を定めるところは、「大学」や「論語」の真理や聖人の秘訣がこの一曲の中に備っているといってよい。それをこれを見る者が、聖人の道とはるかに隔たっていると見て、この大神楽の術を賤しむ、儒学者のようなものが、どうして国家の用に立とうか、ああ術というものは恐るべきものだ。綱渡りが綱の上で起きても臥しても落ちないのもまたこれと同じだ。よくよく思わなければならない事である。愛知県豊橋市立 小沢小学校
2023.10.04
【4】先生下館の分度を定む尊徳先生は下館藩の過去10年の租税を調べ、その中をとって、過不及がない所の分度が既に定まった。しかし年々3万余両の負債の利息の償還だけで2千余両にもなっていた。このために租税の過半を失っていた。先生は家老以下にこう言われた。「年々負債の利子のために多数の米金が消え、何十年をへて幾万金を出してもその利息を補うだけで、元金の3万は少しも減らない。しかも用度に節度がなく、雑費は増倍し、なお借金でこれを補おうとしている。このようにして歳月を送るならば、ついに国の租税で負債の利息に充てても足らないようになるであろう。そうであれば、2万石という名があってもその実は既に亡国に異ならない。実に嘆かわしいことではないか。一日も早くこの大禍を除かなければ、後で後悔しても及ばない。しかして今この大患を除こうとするに、何か他に方法があろうか。ただ上下が「艱難に素して艱難に安んじ」内を節約してこの憂いをなくすだけである。しかるにいながらにして艱苦を免れようと私に請求しても、私が他国の租税を取つて、下館の不足を補うことはできない。また借金を踏み倒して下館の憂いを除くこともできない。また私の区々たる微力で、諸侯の不足を年々補うことはできないのはもとより論を待たない。しからば大小各々節倹を行って艱難を凌ぎ、上下一致して丹誠を行うよりどのようにして憂いを除く方法が他にあろうか。もし敵国が兵を挙げて下館領を攻撃することがあれば、一藩これを傍観して国の滅亡を待つであろうか。あるいは一身をなげうって粉骨して苦戦をつくして国を全うしようとするだろうか。国が危い時に当たって国のために命を棄てることは、もとより人臣の常道であって誰であろうと憤激戦闘の労をつくさないものはない。しかるに今、借金のために領中の多くの租税を失い、君主がこのために安心できない、臣下もまたこのために困窮に迫られている。事は異っているようだが、紛乱の世に当たって、敵のために領中をうち取られることに変わりがあろうか。しかるに手をつかねて年を送るならば、一国を失ったのと等しい大害となろう。このような危い時に当たって、一藩が身命をかえりみず国の再復に心力をつくすのが人臣の常道ではないか。しかるにこれを憂えず、ただ目前の扶助の不足を憂えて、国家に生じない米粟を豊かに受けることを望めば、どうしてこれを忠としようか義としようか。惑いの甚だしいものといわないわけにはいかない。およそ国家の衰弊が極まる原因は君主が君主の道を失い、臣下が臣下の道を失うためである。これを再復しようと欲する時は、君主は群臣に先立って艱難をつくし、臣下は恩禄を辞退し、自己の勤労を以て活計の道とし、上下一致し力をあわせ国の憂いを除く時には、たとえ何十万の借金があろうとも償却すること十年を待つことなく皆済できるであろう。このようにして上下の永安を得るに至るならば、君臣が共に「艱難に素して艱難を行っている」といってよい。しかしてこれを戦争や粉骨砕身の苦労に比べれば、なおやさしいことは同日の論を待たない。どうして成し難い事があろうか。たとえ衰えた時代の人情であり、君主の扶助を残らず辞退し、この事を成しとげることができないないとしても、国の米粟が減少して扶助の米金もなく、他の財を借りてこれを渡し、このために歳月を経過すれば国は危亡に瀕するであろう。しかして恩禄を受けて自ら安んじているようであれば、また災難も甚しいであろう。君主も国家の憂いを増長して一藩を扶助しようとするのは君主の過ちである。たとえ君主が過ってこのようにされるとしても、臣下がどうしてこれを受けるべき道が有ろうか。これを君臣ともに至当の道を失っているといって間違えているか。今、国の患いを消除する方法は他にない。君主がこの道理を明かにして一藩に示し、国になきものを取ろうとするの心を改めて、艱難の天命に随って大借を皆済すれば、必ず艱難を免れることは疑いない。この故に借債一年の利息に出すものを上下の用度に配して、その減少分を計算するに平均分度のうち二割八分の減に相当している。これは自然の天命であって人の作ったものではない。この減数を君の用度一藩の扶助を制し、その余は決して得るべきの道がない事を明らかにし、艱難をつくし年々利息を送るならば、三万両の借債は減らなくても、毎年に増借する災いは免れるであろう。もしこの自然の分度に安んずることができなければ、国家の一粒の出所がなくなるまでにならなければ止むことがないであろう と教誨された。家老以下大いに先生が明示された至当の論に感激し、この事を実施しますと言った。下館に帰り先ず君主に報告し、次に一藩に示して減少当然の用度を立てることができた。分度は既に定り、一藩艱難に対処して行った。家老以下再び桜町に来てこれを先生に告げた。先生は喜んで言った。「下館の上下が天命を知り、その本は既に定った。この時に当たって負債償却の道を設けなければならない。」ここに数日、先生は沈思黙慮されて遂に数巻の書を作成し、これを家老以下に示して言われた。「今、君臣ともに艱苦に安んじ年々利息を支払う道は備ったが、元金の三万両はいつまでたっても減ずることができない。減じない時は国の患いは消除する時がない。しかれどもこれを減じようとしても一金の出所もない。やむを得ず、元金が減少する道を考慮したがここに一つある。来年亥年の正月二月の両月の国用、米財私が仕法の米金を贈ってこれを補おう。七八両月の米財は下館の市井の富商が常に君家の用財を弁じてきたもの八戸にて之を補わせよう。また、宗家の石川候は慈仁であって憐恕の心が深い。今、下館の君臣が艱難をつくし旧来の衰弊を挙げて永安の政を行おうとしていることを具陳すれば、必ずや補助をなしていただけるであろう。しからば三四五六の四ヶ月の用財を補っていただくようお願いしなさい。下館が再復すればその時に至って本家並びに商家の出財を償うことも甚だ易しいことだ。このようにして当戌年に下館領村の租税で借債を償うがよい。しからば元金の莫大なるのを減じて、従来の利息の支払で消えていたもののうち、多くの財を余らすに至ろう。これを以て毎年元金を償うならば、ついに三万両の借債を償却することも困難ではないであろう。」家老以下、尊徳先生の仁にしてかつ大知なることを感歎して、大いに悦んでこの事を詳しく本家に伝えた。本家は先生の誠意を感じて四ヶ月の用財を贈られた。◎天保8年<51歳> 2月7日 大久保忠真公は重い病にかかっていたが、小田原救済が急迫していることから、お手元金千両を二宮尊徳に賜い、蔵米を開いて民を救うよう命じられた。 2月11日 江戸を出発し、小田原役人に厳しく談じて用意ができるとすぐ、3月2日から村々を廻って救援活動に着手した。(2月19日 大塩平八郎の乱起きる)3月9日 大久保忠真公逝去。4月25日 小田原の救援活動が一段落を告げたので、一たん桜町に帰る。6月 烏山の仕法発業。12月13日 桜町三村の引渡しを行う。 ただし、二宮先生と門下生はこの地にあって実務を引き続き行う。12月28日 天性寺の円応逝去。この年、旗本小宮山小左衛門の領地常陸国真壁郡棹ケ島ほか5ケ村に仕法を発業する。天保9年<52歳>2月 小田原領足柄下郡鴨宮の三新田に仕法発業。4月10日 伊勢原加藤宗兵衛、片岡村大澤小才太、竈新田小林平兵衛が面会を求め、二宮先生は加藤宗兵衛のために仕法を授けた。6月 大久保候から金100両を賜り、これを足柄上郡竹松村に貸し付けて野州に帰る。二宮先生は小田原藩に分度確立を求めたが、実現できず金100両を下されただけであった。5月21日 川崎屋孫右衛門が伊勢原の加藤宗兵衛とその妻(孫右衛門の妹)の誠意によって悔悟したため、出獄を許される。 11月 加藤宗兵衛の妻が衣服手道具を売り払い、代金3両2分を報徳金に加えて、川崎屋の家政取り直しを請願する。12月 小田原領一円仕法取り扱いを命じられる。この年、駿河領御厨郷中へ注意箇条書を渡される。12月 石川氏領下館に仕法発業。天保10年<53歳>4月24日 米90俵を烏山藩に貸す。11月5日 小田原に向って出発する11月 足柄上郡竹松村、曽比村に永安の道を立て一村式仕法を発業する。この年6月中村藩富田高慶(27歳)が桜町に来たって教えを請うが許さず。9月末許す「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.03
二宮翁夜話【17】翁曰く、米は多く蔵につんで少しづゝ炊き、薪(たきぎ)は多く小屋に積んで焚く事は成る丈少くし、衣服は着らるるやうに扱(こし)らへて、なる丈着ずして仕舞ひおくこそ、家を富ますの術なれ、則(すなわ)ち国家経済の根元なり、天下を富有にするの大道も、其の実この外にはあらぬなり【17】尊徳先生はおっしゃった。米は多く蔵に積んで少しずつ炊き、薪(たきぎ)は多く小屋に積んで焚く事はなるだけ少くし、衣服は着られるようにこしらえて、なるだけ着ないで仕舞っておくことこそ、家を富ます方法である。すなわち国家経済の根元でもある。天下を富有にする大道も、その実この外にはないのだ。 一関市大東町中川の山間(やまあい)にある旧中川小学校
2023.10.03
報徳記巻之六【4】先生下館の分度を定む大夫(たいふ)以下大いに至當(したう)の論を感激し此の事を行はんと云ひ、下館(しもたて)に歸(かへ)り先づ君(きみ)に言上し、次に一藩に示して減少當然(たうぜん)の用度(ようど)を立つることを得たり。分度既に定れり一藩艱難に處(しょ)して行ふ。大夫(たいふ)以下再び櫻町に至り之を先生に告ぐ。先生悦びて曰く、下館上下天命を知り其の本(もと)既に定れり。此の時に當(あた)りて負債償却の道を設(まう)けずんばある可らず と。是(これ)に於て數日(すうじつ)沈思黙慮して遂(つひ)に數巻(すうかん)の書を成し、之を大夫(たいふ)以下に示して曰く、今君臣共に艱苦に安んじ年々利濟(りさい)の道備れりと雖も、元金三萬(まん)何(いづ)れの時か減ずることを得ん。減ぜざる時は國患(こくくわん)消除の時あるべからず。然れども之を減ぜんとするに一金の出所(しゆつしょ)あらず。已(や)むを得ず、元金減少の道を案ずるに此(こゝ)に一あり。來(らい)亥年(いどし)正月二月兩月(りやうげつ)の國用(こくよう)米財(べいざい)我が仕法の米金を贈り之を補ひ、七八兩月(りやうげつ)の米財は下館市井(しせい)の富商常に君家(くんか)の用財を辨(べん)じ來るもの八戸(こ)にて之を補ひ、且(かつ)宗家(そうけ)石川候は慈仁にして憐恕(れんじよ)深し。今下館君臣艱難を盡(つく)し舊來(きうらい)の衰弊を擧(あ)げ永安の政(せい)を行はんとすることを具陳(ぐちん)せば、必ず補助を爲(な)し玉はんか。然らば三四五六四ヶ月(げつ)の用財を補ひ玉はんことを請(こ)ふべし。下館再復せば其の時に至りて本家並に商家の出財を償はんこと甚だ易し。此の如くして當(たう)戌年(いぬとし)下館領邑(いふ)の租税を以て借債を償ふべし。然らば元金許多(きよた)を減じ、從來(じゆうらい)利濟金(りさいきん)の内幾多(いくた)の財を餘(あま)すに至る。之を以て毎年に元金を償はゞ、遂に三萬(まん)の借債を償却する難きにあらず と。大夫(たいふ)以下先生の仁にして且(かつ)大知なることを感歎し、大いに悦びて此の事を具(つぶ)さに本家に聞(ぶん)す。本家先生の誠意を感じ四ヶ月の用財を贈り玉ふ。◎ 1915年、ロータリーのサンフランシスコ国際大会で11カ条の倫理訓"The Rotary Code of Ethics" として採用された。第1. わが職業は価値あるものであり、世に奉仕する絶好の機会が与えられていると考えるべきこと。第2. わが身を修め、わが能率を向上し、わが奉仕を拡大すべきこと。そうすることによって最も良く奉仕するもの最も多く報いられる(He profits most who serves best)というロータリーの基本原則に対して忠実なることを立証すべきこと。(略)第11. 最後に「すべて人にせられんと思うことは人にもその通りせよ」という黄金律の普遍性を信じ、地上の天然資源に対して、すべての人に均等な機会を与えられてこそ、人類社会は最良の状態になるということを主張するものである。ロータリーはアメリカのシカゴで職業者の互助的な組織として発したが、日本においては、1920年10月20日、銀行クラブで24人で創立総会を開き、東京クラブが誕生した。翌1921年4月1日付で登録番号855をもって承認された。会長は米山梅吉、幹事は福島喜三次であった。1922年11月17日、25人で大阪クラブ(星野行則会長、福島喜三次幹事)が創立され、1923年2月10日、番号1349で登録承認された。当初ロータリーの活動は活発ではなかったが、1923年9月1日午前11時58分の関東大震災で東京、横浜は壊滅したとの報が全世界に伝えられたと、直ちに国際ロータリーからは見舞の電報とともに2万5000ドルが送られ、シカゴクラブが1500ドル、サンフランシスコ、ニューヨークのクラブが各1000ドル、その他、米、英はじめ各国の503クラブから続々と義援金や救援物資が送られてきた。その総額は8万9000ドルの多きに達した。さらに駐日米大使ウッズのの処置によって、米艦隊が食料救援物資を積んで、地震後、わずか60時間で横浜に着き、米政府も赤十字とともにマッコイ少将を派遣して救援し、日本の国民は深く感激したのであった。この時の感動によってロータリーが日本に定着したのかもしれない。 太平洋ロータリー大会の第3日に大阪クラブの土屋大夢は「ロータリー以前の偉大なるロータリアン」と題して、二宮尊徳の話をし、至誠、勤労、分度、推譲にふれ、その報徳の教えはロータリーと同じではないか、と言って、二宮尊徳夜話の水車の話や湯船のたとえを示して一同に感銘を与えたという。「ロータリーは回転を意味するが、二宮尊徳も常に回転、“循環の訓え”を説いている。植物は種から発芽、生長、開花、結実、そして再び種に戻って循環する。循環と関連して【水車の話】がよく出ます。『水車は輪回するものでありますが、人の道も水車のようなものと思えばよい。その形の半分は水流に順い、半分は流水に逆らって回転する。もし、まるまる水中に入れば回わらずして流さるべし。また、もし水を離るれば回わることあるべからず。それ仏教にいう高徳、智識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、水車の水を離れたるが如し。また凡俗が、教義に耳を傾けず、義務も知らず、私欲一辺倒に執着するは、水車をまるまる水中に沈めたるが如し。共に社会の用を為さず。ゆえに人の道は中庸を尊ぶ。水車の中庸は宜しき程に水中に入れて、半分は水に順い、半分は流水に逆らって運転滞らざるに在り。人の道もそれと同じように、【天理】に順いて種を蒔き、天理に逆らって草を取る。欲に随うて家業を励み、欲を制して義務を思うべきなり。』(二宮翁夜話第三節)と言っております。湯 船 の 諭 しさらに、“二宮尊徳”は、『人のために善を尽すことが、やがて、自らを利することになる。』と言って、多くのたとえを挙げております。有名なのは【湯船の諭し】です。弟子の福住正兄という人が、箱根の湯本に温泉を持っていましたが、二宮尊徳がある日、この弟子の兄と共に温泉につかり、湯桁に腰をかけながらこういうように教えました。『世の中には、お前たちのように物持ちでありながら、十分であることを知らずに、あくまでも利をむさぼり、不足を唱えるのは、あたかも、大人が湯の中に立って屈まないで、湯を肩にかけて「湯船が甚だ浅い。膝にも達しない。」とつぶやき罵しるようなものだ。もし、お湯をその望みのように深くすればどうなるか。小人・童子は入浴できなかろう。これは湯船が浅いのではなくて、自分が屈まないのが間違いなのだ。世間で富者が不足を唱えるのはこのたとえと何処が違おうか。分限を守らなければ千万石ありとて不足に感ずることであろうと。』また、尊徳はこういう風にも論しました。『湯に入って、お湯を手で己れの方に掻けば、湯は我が方へ来るようだが、すぐ向うへ戻ってしまう。反対に、向うへ手で押しやれば、やがてわが方へ流れ帰る。少し押せば少し帰るし、強く押せば強く帰る。これが【天理】というものである。夫れ、仁といい、義というは、向うへ押す時の姿なり。わが方へかく時は、不仁となり、不義となる。人体の組み立てを看よ。人の手は、我が方へかくことができるが、同時に向うの方へも、押せるように出来ておる。これ人道の元なり。鳥獣は然らず。わが方へ取り込むのみ。人たるもの、先方へ手を向けて、他人のために向うへ押すことを忘れるは、人にして人に非ず、すなわち禽獣なり。あに恥しからざらんや。ただに恥しきのみならず。天理に背くが故に、終には滅亡す。我、常に奪うは益なく、譲るに益あり。よくよく玩味すべし。』(同第三八節)これはロータリーのモットー “He profits most who serves best”と全く同じ意味です。義を先に利を後に250余年の昔、大丸を創業した“下村彦右衛門翁”は、一行商から身を起した人であるが、一代にして東西の三都ならびに中京に堂々たる店舗を開設し、百貨店業界に覇を競うまでに発展しました。その標榜した旗印は「義を先にし利を後にするものは栄ゆ」でありました。商売道において、まず志すべきは、富の集積にあらず、利権の獲得にもあらず、取引の誠実と顧客へのサービスであることを道破し、繁栄はこれに伴って後からついてくるものであると訓えたのであります。これまたロータリーのモットー“Service Above Self”(サービス第一、自己第二、米山梅吉訳)と全く符合する考え方であって、あまりにも似ていることに驚きを禁じ得ません。今を去ること51年前、ロータリー国際大会がアメリカのセントルイスで開かれた折りに、大会決議第【23の34号】として可決された。そして、今日もなお依然として生きておるロータリー哲学を諸君はご承知でしょうか。こう言うのです。「根本的にいうと、ロータリーは、自己のために利益を得ようとする欲望と、他人のために尽さねばならぬという義務感との間に、常に起きる心の中の争いを和解して、調整しようとする人生の哲学である。この哲学はサービスの哲学、すなわちService Above Self(サービス第一、自己第二)の哲学であり、そして He profits most who Serves best(最もよくサービスするものに最大の利得あり)という実践的倫理の原則に基礎をおいている。」☆二宮翁夜話巻の1(小さな資料室より)【水車の譬え】三 翁曰(いわく)、夫(それ)人道は譬(タトヘ)ば、水車(ミヅグルマ)の如し、其形半分は水流に順(シタガ)ひ、半分は水流に逆(さか)ふて輪廻す、丸に水中に入れば廻らずして流るべし、又水を離るれば廻る事あるべからず、夫(それ)仏家に所謂(イワユル)知識の如く、世を離れ欲を捨(ステ)たるは、譬(タトヘ)ば水車の水を離れたるが如し、又凡俗の教義も聞(キカ)ず義務もしらず、私欲一偏に着(ヂヤク)するは、水車を丸に水中に沈めたるが如し、共に社会の用をなさず、 故に人道は中庸を尊む、水車の中庸は、宜(ヨロシ)き程に水中に入て、半分は水に順(シタガ)ひ、半分は流水に逆昇りて、運転滞らざるにあり、人の道もその如く天理に順ひて種を蒔き、 天理に逆(サカ)ふて草を取り、欲に随(シタガヒ)て家業を励み、欲を制して義務を思ふべきなり【湯船の譬え】三八 嘉永五年正月、翁おのが家の温泉に入浴せらるゝ事数(ス)日、予が兄大沢精一、翁に随(シタガヒ)て入浴す、 翁湯桁(ユゲタ)にゐまして諭して曰、夫(それ) 世の中汝等が如き富者にして、皆足る事を知らず、飽くまでも利を貪(ムサボ)り、不足を唱ふるは、大人(ダイニン)のこの湯船の中に立(たち)て、屈(カヾ)まずして、湯を肩に掛けて、 湯船はなはだ浅し、 膝にだも満たずと、 罵るが如し、若(モシ)湯をして望(ノゾミ)に任せば、小人(シヨウニン)童子(ドウジ)の如きは、入浴する事あたはざるべし、是(コレ)湯船の浅きにはあらずして、己(オノレ)が屈まざるの過(アヤマチ)なり、能(ヨク)此過(アヤマチ)を知りて屈(カヾ)まば、湯忽(タチマチ)肩に満(ミチ)て、おのづから十分ならん、何ぞ他に求(モトム)る事をせん、世間富者の不足を唱(トナフ)る、何ぞ是に異らん、夫(それ)分限(ブンゲン)を守らざれば、千万石といへども不足なり、一度過分の誤を悟(サトリ)て分度を守らば、有余(ユウヨ)おのづから有て、人を救ふに余(アマリ)あらん、夫(それ)湯船は大人(ダイニン)は屈(カヾ)んで肩につき、小人(シヨウニン)は立て肩につくを中庸とす、百石の者は、五十石に屈んで五十石の有余を譲り、千石の者は、五百石に屈んで五百石の有余を譲る、 是を中庸と云べし、 若(モシ) 一郷(いっキヤウ)の内一人、 此道を蹈(フ)む者あらば、 人々皆分(ブン)を越(コユ)るの誤(アヤマリ)を悟らん、人々皆此誤を悟り、分度を守りて克(ヨク)譲らば、一郷富栄にして、和順ならん事疑ひなし、古語に、一家仁なれば一国仁に興(オコ)る、といへり、能(ヨク)思ふべき事なり、夫(そレ)仁は人道の極(キヨク)なり、儒者の説甚(ハナハダ)むづかしくして、用をなさず、 近く譬(タトフ)れば、此湯船の湯の如し、是を手にて己(オノレ)が方に掻けば、湯我が方に来るが如くなれども、皆向ふの方へ流れ帰る也、是を向ふの方へ押す時は、湯向ふの方へ行くが如くなれども、又我方へ流れ帰る、 少(スコシ)く押せば少(スコシ)く帰り、強く押せば強く帰る、是天理なり、 夫(それ)仁と云(いい)義と云(いう)は、向(ムカフ)へ押す時の名なり、我(ワガ)方へ掻く時は不仁となり不義となる、慎まざるべけんや、古語に、己(オノレ)に克(カツ)て礼に復(カヘ)れば天下仁に帰す、仁をなす己による、人によらんや、とあり、己とは、手の我方(ワガヽタ)へ向く時の名なり、礼とは、我手を先の方に向くる時の名なり、 我方へ向けては、仁を説くも義を演(ノブ)るも、皆無益なり、能(よく)思ふべし、夫(ソレ)人体(ニンタイ)の組立(クミタテ)を見よ、 人の手は、我方(ワガカタ)へ向きて、 我為に弁利に出来(デキ)たれども、 又向ふの方へも向き、向ふへ押すべく出来(デキ)たり、是人道の元(モト)なり、鳥獣(トリケモノ)の手は、是に反して、只我方(ワガカタ)へ向きて、我に弁利なるのみ、されば人たる者は、他(タ)の爲に押すの道あり、然(シカ)るを我が身の方に手を向け、我為に取る事而已(のみ)を勤めて、先(サキ)の方に手を向けて、他の為に押す事を忘るゝは、人にして人にあらず、則(スナハチ)禽獣なり、豈(アニ)恥かしからざらんや、只恥かしきのみならず、天理に違(タガ)ふが故に終(ツイ)に滅亡す、 故に我(われ)常に奪ふに益(エキ)なく譲るに益あり、譲るに益あり奪ふに益なし、是(これ)則(すなわち)天理也と教ふ、能々(よくよく)玩味すべし「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.02
二宮翁夜話巻の1【16】翁曰く、多く稼いで、銭を少く遣(つか)ひ、多く薪(たきぎ)を取つて焚(た)く事は少くする、是を富国の大本(たいほん)、富国の達道といふ。然(しか)るを世の人是を吝嗇(りんしょく)といひ、又強欲と云ふ、是れ心得違ひなり。夫(そ)れ人道は自然に反して、勤めて立つ処の道なれば貯蓄を尊ぶが故なり。夫(そ)れ貯蓄は今年の物を来年に譲る、一つの譲道なり、親の身代(しんだい)を子に譲るも、則ち貯蓄の法に基ひする物なり、人道は言ひもてゆけば貯蓄の一法のみ、故に是を富国の大本、富国の達道と云ふなり。【16】尊徳先生がおっしゃった。「多く稼いで、お金は少なく使い、多く薪(たきぎ)を取つて、たく事は少なくする、これを富国の大本(たいほん)、富国の達道という。そうであるのに世の人はこれを吝嗇(りんしょく)といい、また強欲という。これは心得違いである。人道というものは自然に反して、勤めて立つところの道であり、貯蓄を尊ぶためである。貯蓄は、今年の物を来年に譲る、一つの譲道である。親の身代(しんだい)を子に譲るというのも、すなわち貯蓄の法に基づくのである。人道は、言ってみれば貯蓄の一法のみともいえる。だからこれを富国の大本、富国の達道というのだ。徳島県旧増川小学校の二宮金次郎像
2023.10.02
報徳記巻之六【4】(2)先生下館の分度を定む凡(およ)そ國家(こくか)の衰弊(すゐへい)極まるもの君(きみ)は君(きみ)の道を失ひ臣は臣の道を失ふが故なり。之を再復せんと欲する時は、君(きみ)は群臣に先立ち艱難を盡(つく)し、臣下は恩禄を辭(じ)し、自己の勤勞(きんらう)を以て活計の道となし、一致の力を以て國(くに)の憂ひを除く時は、僻令(たとひ)何十萬(まん)の借債(しやくざい)と雖も償却せんこと十年を待つ可(べか)らず。此(こ)の如くにして上下(じやうげ)の永安を得るに至らば、君臣共に艱難に素(そ)して艱難を行ひたりと云(い)ふべし。而(しか)して之を爭戰(さうせん)粉骨の勞(らう)に比(ひ)せば、猶(なほ)易々(いい)たること同日の論に非(あら)ず。何(なん)ぞ成し難き事か之有らん。僻令(たとひ)叔世(しゆくせい)の人情(にんじやう)君の扶助(ふじよ)を殘(のこ)らず辭(じ)して、此(こ)の事を成すこと能はずと雖(いへど)も、國(くに)の米粟(べいぞく)減少して扶助の米金(べいきん)なく、他の財を借りて之を渡し、之が爲(ため)に年を經(ふ)るに隨ひ危亡に瀕(ひん)せんとす。而(しか)して之を受けて自ら安しとするに至りては亦(また)甚しからずや。君(きみ)も國家(こくか)の憂ひを増長して一藩を扶助せんとし玉ふは君の過ちなり。僻令(たとひ)君(きみ)過ちて此(こ)の如くし玉ふと雖も、臣下何を以(もつ)て之を受くべきの道有らん。之を君臣共に至當(したう)の道を失ひたりと云ふは非邪(ひか)。今國患(こくくわん)を消除(せいぢょ)する他(た)なし。君(きみ)此の道理を明かにし一藩に示し、國(くに)になきものを取らんとするの心を改め、艱難の天命に隨(したが)ひ大借(たいしやく)を皆濟(かいさい)せば、必ず艱難を免れんこと疑ひあるべからず。是の故に借債一年の利息を出(いだ)せるものを上下(じやうげ)の用度(ようど)に配し、其の減少を算(さん)するに平均分度(ぶんど)の内二割八分の減(げん)じに當(あた)れり。是(これ)自然の天命にして人作(じんさ)に出るにあらず。此の減數(げんすう)を以て君の用度(ようど)一藩の扶助を制し、其の餘(よ)は決して得(う)べきの道なき事を辨明(べんめい)し、艱難を盡(つく)し年々利息(りそく)を送らば、三萬金(まんきん)の借債(しやくざい)は減ずることを得(え)ずと雖も、毎年(まいねん)に増借の殃(わざはひ)を免(まぬが)るべし。若(も)し此の自然の度(ど)に安んずることあたはずんば、國家(こくか)一粒(りふ)の出所なきに至らずんば止むべからず と教誨(けうくわい)す◎二宮翁夜話巻の2に、小田原藩から「報徳仕法は良法ではあるが、今般畳み置く」というお触れがあったときの先生の言葉がのっている。最後の「曾子が死に臨んで、予が手を開け、予が足を開けと言った。予もまた然り。予が日記を見よ予が書翰留を見よ戦々恐々(せんせんきょうきょう)深き淵(ふち)に臨(のぞ)むが如く、薄き氷りを蹈(ふ)むが如し」は、尊徳先生がなくなられる前、安政3年の日記にもこうある。「千秋萬歳楽予が足を開け、予が手を開け、予が書翰を見よ、予が日記を見よ戦々兢々深淵に臨むが如く、薄氷を蹈むが如し」そしてまた安政3年12月晦日の日記にはこうある。「畢 先生は病にふされ、門弟を呼んで言われた。鳥のまさに死なんとする、その鳴くやかなし。人のまさに死なんとする、その言や善し慎めや、慎めや小子速やかならんと欲することなかれ速やかならんと欲する時は大事を乱す勤めよや小子倦(う)むことなかれ」尊徳先生の遺言の言葉である。小田原藩の仕法畳み置きの言葉とピタリと符合している。味わうべき言葉である。六〇 小田原藩にて報徳仕法の儀は、良法には相違無しといへども、故障(コシヨウ)の次第有て、今般畳置(タヽミオ)くと云布達出づ、領民の内、是を憂(ウレ)ひて、翁の許(モト)に来り歎(ナゲ)く者あり、手作の芋(イモ)を持来て呈せり、翁諭(サト)して曰、夫此芋(イモ)の如きは、口腹を養(ヤシナ)ひ、必用の美菜なれば、是を弘く植(うへ)て、其実法(ミノ)りを施(ホドコ)さんと願ふは尤なれども、天運(ウン)冬に向(ムカ)ひ、雪霜降(フ)り、地の氷るを如何せん、強(シヒ)て植(ウヱ)なば凍(イテ)に損(ソン)じ霜に痛(イタ)み、種をも失ふに至るべし、是非もなき事なり、是(こレ)人の口腹を養ふ徳ある美物なるが故に、寒気雪霜を凌ぐ力なし、食料にもならざる麁物は、却(カヘツ)て寒気雪霜にも、痛(イタ)まぬ物なり、是自然の勢(イキホヒ)、如何とも仕方なし、今日は寒気雪中なり、早く芋種(イモタネ)は土中に埋(ウヅ)め、藁(ワラ)にて囲(カコ)ひ、深(フカ)く納めて、来陽雪霜の消(キユ)るを待べし、山谷原野一円、雪降り水氷り寒威烈(ハゲ)しき時は、最早(モハヤ)是切り暖(アタヽカ)には成らぬかと思ふ様なれども、雪消(キ)え氷解けて、草木の芽(メ)ばる時も又必あるべし、其時に至て囲(カコ)ひ置し芋種を取出し、植る時は忽(タチマチ)其種田甫に満て、繁茂(ハンモ)する疑(ウタガ)ひなし、かゝる春陽に逢(ア)ふとも種を納め囲(カコ)はざれば、植殖(ウヘフヤ)す事あたはず、夫農事は春陽立帰(カヘ)り、草木芽(メ)立んとするを見て種を植(ウ)ゑ、秋風吹(ふキ)すさみ草木枯落する時は、未(いまダ)雪霜の降らざるに、芋種は土中に埋めて、此処に埋ると云、心覚(オボ)えをし、深く隠(カク)して来陽を待べし、道の行るる行れざるは天なり、人力を以て如何とも為し難し、此時に至ては、才智も益(エキ)なし、弁舌も益なし、勇あるも又益なし、芋種を土中に埋るにしかず、夫小田原の仕法は、先君の命に依て開き、当君の命に依て畳(タヽ)む、皆是までなり、凡天地間の万物の生滅する、皆天地の令命による、私に生滅するにはあらず、春風に万物生じ、秋風に枯落する、皆天地の命令なり、豈私ならんや、曾子死に臨(ノゾ)んで、予が手を開け、予が足を開け云々、と云り、予も又然り、予が日記を見よ、予が書翰留を見よ、戦々(センセン)競<ママ>々(キヨウキョウ)深淵(フカキフチ)に臨(ノゾ)むが如く、薄氷(ウスキコホリ)を蹈(フム)が如し、畳置(タヽミオキ)に成て予免(マヌカ)るゝ事を知る哉と云べし、汝等早く帰りて芋種を囲(カコ)ひ置(おキ)、来陽春暖を待て又植弘(ウヱヒロ)むべし、決して心得違ひする事なかれ、慎めや慎めや(現代語訳)60 小田原藩において報徳仕法の儀は、良法には相違ないけれども、故障の次第が有って、今般、畳み置くという布達が出た。領民の内、これを憂いて、尊徳先生のもとに来て、嘆く者があった。手作りの芋を持ち来って先生に差し上げた。尊徳先生はこのように諭された。「夫れこの芋のごときは、口腹を養い、必用の美菜であるから、これをひろく植えて、その実りを施そうと願うのはもっともであるけれども、天運が冬に向い、雪や霜が降り、地のこおるのはどうしようもない。ついて植れば凍てに損じ、霜に痛み、種をも失うようになるであろう。是非もない事である。これは人の口腹を養う徳がある美物であるから、寒気や雪霜を凌ぐ力がない。食料にもならない粗物は、かえって寒気や雪霜にも、痛まない物である。これは自然の勢いで、いかんとも仕方がない。今日は寒気雪中である、早く芋種は土中にうずめ、藁で囲って、深く納めて、来陽の雪霜が消えるを待つがよい。山谷原野一円、雪が降り水が凍り寒威が烈しい時は、もはやこれきり暖かにはならないと思うようだが、雪が消え、氷が解けて、草木の芽がはる時もまた必ずあるであろう。その時に至って囲い置んだ芋種を取出して、植える時はたちまちその種が田んぼに満ちて、繁茂することは疑いない。このような春陽に逢うのも種を納めて囲いこんでいなければ、植えてふやす事もできない。夫れ農事は春陽が立ち帰り、草木が芽立たんとするのを見て種を植え、秋風が吹きすさんで草木が枯れ落ちる時は、まだ雪や霜が降りない前に、芋種は土中に埋めて、ここに埋めるという、心覚えをし、深く隠して来陽を待つがよい。道の行われる、行れないというのは天である、人力をもってはいかんともなしがたい。この時に至っては、才智も益なく、弁舌も益なし、勇あるもまた益なし。芋種を土中に埋めたほうがよい。それ小田原の仕法は、先君の命によって開き、当君の命に依て畳む、皆これまである。およそ天地間の万物が生滅するのは、皆天地の令命による。私に生滅するのではない。春風に万物が生じ、秋風に枯落する。皆天地の命令である。どういて私にしようか。孔子の弟子の曽子が死に臨んで、「予が手を開け、予が足を開け」うんぬんと言った。予もまたしかり、「予が日記を見よ、予が書翰留めを見よ、戦々恐々深淵に臨むがごとく、薄氷を踏むがごとし、畳置きに成て予免るる事を知るや」と言うべきである。汝等も早く帰って芋種を囲い置いて、来陽春暖を待ってまた植え弘めるがよい。決して心得違いしてはならない、慎めや慎めや」二宮尊徳伝(佐々井信太郎著)より【仕法撤廃と報徳金返還一件】弘化3年7月16日「今般報徳之儀御故障之次第有之候に付畳にいたし候之間、村々存寄をも相尋候所、別段異存も無之旨請書も差出候間此度相畳申候、是迄は不一通実意之儀不浅忝被存候、依之白銀二百枚相贈候」(今般、報徳について、故障があるために終了といたす。村々へも意見を尋ねたところ、別段異存もないと、請書も差し出してきた。これまではひととおりでなく実意を尽くしてきたことであり、白銀200枚を贈る)という書状が、小田原藩から先生のもとに遣わされた。また江戸詰役の牟禮(むれ)三郎太夫、高月六左衛門より口頭で「報徳金5千余両は残らず引き渡す」旨の伝達があった。先生はこの報徳金の中には、先君から小田原救急のため下されたお手元金千両があり、受領すべきでないと断ったが、畳置きになった以上返却することを決定したから返却する旨伝達があった。先生は当惑し、弘化3年12月28日、幕府に受領して差し支えないか伺った。正月2日付けで幕府からは「御用筋とは異なり相対関係のことであるから、勝手次第に致すべし」と指令があった。ところが小田原藩は支払いに支障が生じ、安政3年(1856)10年かかってやっと決了した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.10.01
二宮翁夜話 巻の1【15】翁曰く、万巻の書物ありといへども、無学の者に詮(せん)なし、隣家に金貸しありといへども、我に借る力なきを如何(いかに)せん。向ひに米屋ありといへども、銭なければ買ふ事はならぬなり。されば書物を読まんと思はゞ、いろはより習ひ初むべし。家を興さんと思はば、小より積み初むべし。此の外に術はあらざるなり。 【15】尊徳先生はこうおっしゃった。万巻の書物があったとしても、学問の無い者には何の役にたとう。隣家に金貸しがあったとしても、自分に借りる力がなければしようかない。向いに米屋があったとしても、お金がなければ買う事はできない。そうであれば書物を読もうと思うならば、「いろは」より習い初めなければならない。家を興そうと思うならば、小より積み初めなければならない。このほかには方法はないのだ。今市第二小学校の二宮金次郎像
2023.10.01
報徳記巻之六【4】(2)先生下館の分度を定む凡(およ)そ國家(こくか)の衰弊(すゐへい)極まるもの君(きみ)は君(きみ)の道を失ひ臣は臣の道を失ふが故なり。之を再復せんと欲する時は、君(きみ)は群臣に先立ち艱難を盡(つく)し、臣下は恩禄を辭(じ)し、自己の勤勞(きんらう)を以て活計の道となし、一致の力を以て國(くに)の憂ひを除く時は、僻令(たとひ)何十萬(まん)の借債(しやくざい)と雖も償却せんこと十年を待つ可(べか)らず。此(こ)の如くにして上下(じやうげ)の永安を得るに至らば、君臣共に艱難に素(そ)して艱難を行ひたりと云(い)ふべし。而(しか)して之を爭戰(さうせん)粉骨の勞(らう)に比(ひ)せば、猶(なほ)易々(いい)たること同日の論に非(あら)ず。何(なん)ぞ成し難き事か之有らん。僻令(たとひ)叔世(しゆくせい)の人情(にんじやう)君の扶助(ふじよ)を殘(のこ)らず辭(じ)して、此(こ)の事を成すこと能はずと雖(いへど)も、國(くに)の米粟(べいぞく)減少して扶助の米金(べいきん)なく、他の財を借りて之を渡し、之が爲(ため)に年を經(ふ)るに隨ひ危亡に瀕(ひん)せんとす。而(しか)して之を受けて自ら安しとするに至りては亦(また)甚しからずや。君(きみ)も國家(こくか)の憂ひを増長して一藩を扶助せんとし玉ふは君の過ちなり。僻令(たとひ)君(きみ)過ちて此(こ)の如くし玉ふと雖も、臣下何を以(もつ)て之を受くべきの道有らん。之を君臣共に至當(したう)の道を失ひたりと云ふは非邪(ひか)。今國患(こくくわん)を消除(せいぢょ)する他(た)なし。君(きみ)此の道理を明かにし一藩に示し、國(くに)になきものを取らんとするの心を改め、艱難の天命に隨(したが)ひ大借(たいしやく)を皆濟(かいさい)せば、必ず艱難を免れんこと疑ひあるべからず。是の故に借債一年の利息を出(いだ)せるものを上下(じやうげ)の用度(ようど)に配し、其の減少を算(さん)するに平均分度(ぶんど)の内二割八分の減(げん)じに當(あた)れり。是(これ)自然の天命にして人作(じんさ)に出るにあらず。此の減數(げんすう)を以て君の用度(ようど)一藩の扶助を制し、其の餘(よ)は決して得(う)べきの道なき事を辨明(べんめい)し、艱難を盡(つく)し年々利息(りそく)を送らば、三萬金(まんきん)の借債(しやくざい)は減ずることを得(え)ずと雖も、毎年(まいねん)に増借の殃(わざはひ)を免(まぬが)るべし。若(も)し此の自然の度(ど)に安んずることあたはずんば、國家(こくか)一粒(りふ)の出所なきに至らずんば止むべからず と教誨(けうくわい)す「江戸時代の小田原」より寛政8年(1796)1月18日大久保忠真(ただざね)は父忠顕(ただあき)に代わって小田原藩主となった。忠顕はこの時36歳、病による隠居とされている。忠真は15歳である。寛政12年(1800)には奏者番(そうじゃばん)に任ぜられた。文化元年(1804)1月には寺社奉行へと進む。若くして俊秀の評判の高かった若き領主を老中就任の足がかりにするため、大坂城代へ昇格させようと家老以下の努力はなみなみならぬものがあった。大坂城代→京都所司代→老中という出世の階段があったからである。根府川村の名主長十郎は、江戸城石御用の人脈を利用し裏工作を行うよう命ぜられた。その工作資金5百両を立て替えたが返済されず一家が破綻に追い詰められた経緯が文書にあるという、。大坂城代(文化7年6月)、京都所司代(文化12年4月)を経て幕府老中に上り詰めたのが文政元年8月であった。大久保忠真の藩政として挙げられるものは、1藩士の家格引き上げと2財政改革10ヵ年計画、3文武の奨励及び4国産方の設置がある。1文政11年藩政の第一線で耐乏生活の続いている者を家格を引き上げることで士気の振起を図ったもの。2藩財政の建て直しを行い、収入の振り分けを、藩主4、家臣6とし、10ヵ年財政再建計画を実行した。3文政5年1月に学問所「集成館」を城内三の丸に創設した。4領内の産業の振興のため。資金の貸付を行った。文政元年(1818)京都所司代を終えて江戸へ帰任する途中、小田原城に立ち寄った忠真は、11月15日酒匂川の河原に領民の代表者を呼び集め、領内の孝子、節婦、奇特者の表彰を行った。同時に郡奉行を通じて領内一同に「勤倹に関する御趣意御条触書(ごしゅいごかじょうふれがき)」を下付した。困窮の根源は身分不相応なおごりにあるとし、秩序の維持と節約を中心に、封建的倫理を説いたものである。この年の12月には領民が出入りする御用所の門前に訴状箱が設けられ、住所・氏名を記した直訴状を受け付けた。(訴状箱は忠真の死とともに廃止した)二宮金次郎と藩主忠真との公式な出会いは、文政元年11月の酒匂川の河原での表彰が最初だった。金次郎は「耕作出精(しゅっせい)、外見競(がいけんくら)べにも相成るべき者」つまり農民の模範として表彰された。文政3年、金次郎は年貢枡の改正を献言した。当時年貢納入に際して使用した枡の種類が多く、不揃いで農民の難儀となっていたため、三枡で一俵となる枡を領内等しく使用するというもので、藩も翌年からこれを使用した。このころの一俵は、名目的には三斗7升で、実際には4斗5合から1升という不合理なものであった。文政5年(1822)3月、藩主忠真は分家宇津(うづ)家の領地桜町領の復興を金次郎に命じた。120年間に戸数・人口ともに6割以上が減じた荒廃地の復興は難事業であったが、金次郎の一家をあげての移住と努力の中で、次第に成果をあげていった。金次郎の仕法は、収入に見合った倹約の生活(分度)と、余剰を生じた部分の社会への還元(推譲)であった。「100石の身上(しんしょう)は50石の暮らし」に下って、残りを譲るのだと説く。天保2年(1831)藩主忠真の言葉から「報徳」と呼ぶようになった。徳とはあらゆるところに内包した自然の力であり、金次郎はこれを人間が役に立てることを報徳だとしている。この徳に報いるに徳を以ってする実践を「報徳趣法」と呼び、仕法ともあらわして一家・一村の復興の方法としたのである。天保10年12月、中里村名主の治郎左衛門は「報徳御主意相守るべき志願のこと」という決意書を金次郎に送った。「報徳のお諭しに感服しました。今日ただいまより志を改めて勤めます。証拠として田畑家財を差し上げます。報徳金60両の貸付を得て借金もなくなったので、わが家の田畑を残らず貧しい人に分けてください。返済金と家計費は酒造の方で賄うことを父や妻子に承知させました。生涯報徳のご趣意を守って勤めたいので、決意書を差し上げます。」治郎左衛門は、中里村を開発した世襲の名主の家に生まれ、天保10年には45歳だった。隣の高田村、別堀村の名主役も兼ねていた。田畑5町7反歩と家財道具まで差し出すというのは並大抵のことではない。中里村の組頭宇左衛門は、30年間も組頭を勤め、病人や争いを世話してきた。ところが嫁が産後の病で乳児を残して死んだため、借金を作り、数年にして持高40石余の富農から8石程度の貧農へと転落した。5反歩を所持し小作もしていた佐吉は、荒れた田を良田にするすぐれた百姓だったが、家を新築すた際に借金し、その後不運が続いて借金がふくれあがり、37歳の働き者の夫婦が働いても働いても借金が減らせないでいた。市右衛門は、馬を持って魚の運搬をしていたが、勝負事に熱中して、村役人、親類が意見をしても聞き入れず没落した。没落した農民達は、農業をおろそかにして日雇いや物売りになって、日銭が入ると勝負事にふけったりした。働き者が減り、荒地が広がると、中里村名主治郎左衛門も、村の年貢を完納できなくなり、天保7年には寛文期の57%の年貢割付にもかかわらず、完納にいたらなかった。そのため年貢の不足分を自分の責任で借金しても収めざるを得ない。治郎左衛門はとなりの村の名主まで兼任させられ、危機感を深めていった。天保3年、金次郎は報徳金の名で小田原藩士に対する負債整理資金の貸付を開始した。借金を自力で返済できない藩士に、無利息年賦返済という有利な資金の貸付けを開始した。無利息年賦返済は尊徳先生の独創である。貸付希望者は借用書に返済計画を記し、連帯保証人を付けて提出した。これは、弘化3年(1846)の小田原領の報徳仕法廃止まで続けられたが、その実績は、貸付金高1743両に及んだ。大勘定奉行鵜沢は天保7年3月藩主忠真の意見書では、「私は17年以前の代官のころから、金次郎の意見を用いて誤りがなく、その予言が当たっている。このごろでは近国近在はもちろん、御領分の者までが遠く桜町まで出かけて報徳仕法を懇請しております。このまま20か年も過ぎれば、領内に天災が続出して取り返しがつかなくなる。ともかく、村々を復興させる道を開いていただきたい。」と10年前の金次郎の領内の者の行く末がの予言がことごとく的中している旨の手紙を証拠として差し出している。天保7年10月28日、天保の大飢饉に当面し、抵抗していた藩当局もついに10月28日小田原領に報徳仕法を開始する方針を決定した。天保の大飢饉について、中里村の治郎左衛門は次のように述べている。「村では年貢の95%引きをお願いしたが、40%引きを命ぜられたので、皆が納得せず、再び願書を出した。仙石原村では5分の2が家屋や家族を捨てて離散した。乞食が毎日5,60人も来て、餓死者も日に3,4人出ている。」また、箱根の宮城野村の宝珠院の月譚和尚はこう記している。「箱根山中では、格別の困窮で、7年11月以来の死人は大体餓死である。しかし葬式や法事もせず、死者を埋める者も飢えているから浅く埋めるので、犬や狐が掘り出して食べている。村人は藁を細かく切って煎って食べたり、トコロを掘っておろし、灰汁でさらして団子にしたり、雑炊のかてにイタドリ、タバコ、クワの葉等を入れて食べた。」天保7年の秋、金次郎は江戸藩邸からの出府を促す使者を受けても、桜町領を離れなかった。桜町領民に対しては、一人当たり5俵の食糧の用意を完了していた。9月からは、烏山藩3万石の領民を救うため、2千両ほどの食糧を桜町から送り出していた。金次郎は物には順序があり、また仕法を実施するには「分度」を定めることが本であると考えていた。金次郎は12月末にようやく江戸へ出て、9項目の条件を示した。1 御領分の報徳仕法では、まず施すことを先にすること。2 桜町仕法の成果である報徳金を小田原領の仕法の種にすること3 宇津家の分度はなお継続し、残りの米千俵を小田原領の仕法に使うこと4 報徳方で開発から人心の教化まで行うこと5 桜町仕法の方法で内容を充実させること6 上から指導せず、まず報徳金を支出し、村から要請を受けて指導にあたること7 報徳金の取り扱いは適任者を報徳方に任じ、規定を設け、誓約させて扱わせること天保8年2月7日、藩主大久保忠真候の命令書にはこうあった。「金千両を下付する。 桜町仕法の報徳金を加えて領内への報徳貸付の道を存分に行え」結局約4千両での救済事業を命ずるものであった。金次郎は2月11日に小田原に着いた。村々には藩による救済が実施されるから農業にはげめ、という触書を出し、救済を希望する村には金や米を貸し付けた。「報徳記」には、藩の米蔵を開くことをめぐって「国家老の小田原評議」で苦労した話がのっている。金次郎の記録にはこうある。「江戸出立に当たって、一万俵の米がなくては救済できないと要求したところ、財政担当の家老辻七郎左衛門から、承知しているから心配するなといわれた。小田原へ行って、前年から用意しておいた報徳米や自分の給米その他を集めて足柄地方の分は大体準備できたが、御殿場方面の村々も救済の願書を出したので、米蔵の米を要求した。ところが重役たちの意見がまとまらず、鵜沢を通じて意見を求められたので、『民の餓死を救うことである、重役方が弁当を食べずに昼夜つめきって話せば直ちに決まるだろう』と述べておいたところ、翌日、蔵米千俵が支給された。3月2日に小田原を立って、箱根から御殿場方面への救済の回村を始めた。」短期間に大量の米や穀物を7万石の領内へ公平に配給する難事業だったが、金次郎は用意しておいた方針にしたがって敏速に処理した。村々の代表を集めて、最も困窮している村を投票で決め、順次に回村した。村民を極難・中難・無難の3階層に分け、麦ができるまでの食糧として、一日んつき極難一人米二合に銭一文、中難一人米一合に銭二文を基準として貸し付けた。貯穀のある者は「心がけよし」とほめ、余分の米を時価で買い入れて救済米に加えた。御殿場方面では、無難6文、中難4文、極難3文とし、村の責任で管理に当たった。これらの貸付は報徳金と呼ばれ、5か年賦で返済した後、あと1年分を「元恕金」として納めることが決められていた。これが基金に加えられて、さらに他の救済にふりむけられる仕組みであった。村中に一括して貸付け、村中の責任で返済することとこの元恕金の制度が報徳金の特色であった。金次郎は小田原周辺の救済の回村を約1か月で終了し、4月25日には桜町へ帰任した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.30
二宮翁夜話【14】 翁曰(いわ)く、大事をなさんと欲せば、小さなる事を、怠らず勤むべし。小積りて大となればなり。凡(およ)そ小人(せうじん)の常、大なる事を欲して、小(ちい)さなる事を怠り、出来難き事を憂ひて、 出来易き事を勤めず。夫(そ)れ故(ゆゑ)、 終(つひ)に大なる事をなす事あたはず。夫(そ)れ 大は小の積んで大となる事を知らぬ故なり。譬(たと)へば 100万石の米と雖(いへど)も、粒の大なるにあらず、万町の田を耕すも、其(そ)の業(わざ)は一鍬(くわ)づゝの功にあり、千里の道も一歩づゝ歩みて至る、山を作るも一ト簣(もっこ)の土よりなる事を明かに弁(わきま)へて、励精(れいせい)小(ちい)さなる事を勤めば、 大なる事必(かなら)ずなるべし。小さなる事を忽(ゆるが)せにする者、大なる事は必ず出来ぬものなり小田原栢山の善栄寺の天理に気づいた金次郎像(「積小為大」の文字が台座に刻まれている)【14】 尊徳先生はこうおっしゃった。大事をなそうと欲するならば、小さい事を怠らいで勤めなければならない。小が積って大となるからである。およそ小人の常として、大きな事を欲して、小さい事を怠り、できがたい事を憂えて、できやすい事を勤めないものだ。その結果、ついに大きな事をなす事ができない。大は小を積んで大となる事を知らないためである。たとえば 100万石の米といっても、粒が大きいわけではない、1万町の田を耕すのも、その事業はは一鍬(くわ)ずつの積み重ねである、1000里の道も1歩ずつ足を運んで至るのだ、山を作るのも一もっこの土よりなる事を明らかにわきまえて、励み勤めて小さい事を勤めれば、大きい事も必ず成就するであろう。小さい事をゆるがせにする者は、大きい事も決してできないものである。
2023.09.30
報徳記 巻之六 【4】先生下館の分度を定む下館(しもたて)既往(きわう)十年の租税を調べ、其の中を執(と)り過不及(くわふきふ)なき所の分度既に定まる。然して年々三萬(まん)有餘(ゆういうよ)金の負債其の利息を償(つぐな)ふ二千有餘金(ゆういうよ)を以てす。之(これ)が爲(ため)に租税の過半を失ふに至る。先生大夫以下に謂(い)ひて曰く、年々負債利子の爲(ため)に多數(たすう)の米金(べいきん)を消(せう)し、何十年を經(へ)て幾萬(まん)金を出すと雖も其の息(そく)を補ふ而已(のみ)にして元金三萬(まん)は少しも減ずべからず。加之(しかにみならず)用度節(せつ)なく雑費増倍、尚(なほ)借債を以て之を補(おぎな)はんとす。此の如くにして歳月を送らば遂(つひ)に國(くに)の租税を以て負債の利に充(あ)つるに足らざるに至らん。然らば、則(すなはち)二萬(まん)石の名ありと雖も其の實(じつ)は既に亡國(ぼうこく)に異ならず。豈(あに)歎ず可きの至(いた)りに非ずや。一日も早く此の大禍(だいくわ)を除(のぞ)かずんば、後(のち)悔(く)ゆと雖も及ぶべからず。而(しか)して今此の大患(たいくわん)を除かんとするに、何ぞ他の術あらんや。唯(たゞ)上下(じやうげ)艱難に素(そ)して艱難に安んじ、内(うち)を約して以て此の憂ひを消(せう)ぜん而已(のみ)。然るに坐(ゐ)ながら艱苦を免れんことを我に請求(せいきう)すと雖も、我他邦(たほう)の貢(みつぎ)を取つて下館の不足を補ふこと能(あた)はず。又(また)借債を倒(たふ)して以て下館の憂ひを除くことあたはず。又(また)我區々(くく)たる微力を以て、諸侯の不足を年々補ふことあたはざるは素(もと)より論を待たず。然らば則ち大小各(かく)節儉(せつけん)を行ひ艱難を凌(しの)ぎ、上下一致の丹誠を以て如何(いか)なる憂ひをも除くの外に他道(ただう)あること無し。若し敵國(てきこく)兵を擧(あ)げ下館領を攻撃することあらば、一藩之を傍觀(ぼうくわん)して國家(こくか)の滅亡を待たんか。將(はた)一身をナゲウち粉骨(ふんこつ)の苦戰を盡(つく)し國家(こくか)を全(まつた)くせんか、國(くに)の危き時に當(あた)り國家(こくか)の爲(ため)に命を棄(す)つること、元より人臣の常道(じやうだう)にして誰(たれ)か憤激戰闘(ふんげきせんとう)の勞(らう)を盡(つく)さゞらんや。然るに今借債の爲(ため)に領中多分の租税を失ひ、君之が爲(ため)に心を安んじ玉ふことあたはず、臣下も亦(また)之が爲(ため)に困窮に迫れり。事異なりと雖も紛亂(ふんらん)の世に當(あた)り、敵の爲(ため)に領中を伐(う)ち取られたるに異ならず。然るに手を束(つか)ねて以て年を送らば、一國(こく)を失ひたるに等しき大害(たいがい)と爲(な)らん。此(こ)の如く危(あやふ)き時に當(あた)り、一藩身命を顧(かへり)みず國家(こくか)再復に心力(しんりよく)を盡(つく)すもの人臣の常にあらずや。然るに此を之(こ)れ憂へずして惟(たゞ)目前(もくぜん)扶助(ふじょ)の不足を憂ひ、國家(こくか)に生ぜざるの米粟(べいぞく)を優(ゆた)かに受けんことを望まば、豈(あに)之を忠とせんか之を義とせんか。惑ひの甚だしきものと謂(い)はざる可(べ)からず。茨城県立歴史館学芸第二室長仲田氏が、明治21年74歳の加藤木賞三が、二宮尊徳先生との巡り合わせを追憶した文書について紹介された話がでていた。嘉永6年(1853)の春、水戸藩士加藤木賞三は懇意にしていた剣客の斎藤彌九郎から、「二宮尊徳先生が、幕府から日光東照宮の神領(89ヶ村、4064町歩)の荒蕪地(神領の約4分の1)開墾、その他領内の荒廃した農村復興対策実施を命ぜられている。今年8月には現地に住み着き、事業着手の予定である。ついては自分と共に働く適当な人物を見つけてほしいと、尊徳先生から頼まれて、色々と考えた末、貴殿を推薦したい。3、4年も尊徳先生に従って働けば、開墾その他農村復興事業について会得するところがあろうし、その後故郷に帰れば水戸藩領のため、大いに役立つことになろう」という話があった。加藤木賞三は、このような仕事はかねて自分の希望するところであると、直ぐにも応諾したかった。しかし、藩のため江戸で働いている身分である。国元に居る目上の人々(戸田忠敝・藤田東湖・桑原治兵衛等)にも相談の上、答えることとした。水戸に問合せたところ、何れからも賛成の返事があった。その結果、二宮先生から、ともかく面談をということで、斎藤氏の紹介状を持って、嘉永6年4月17日先生のお宅を訪問した。尊徳先生の色々な話を聞くうちに感動し、ぜひ自分を随行させていただきたいと頼んだ。折りから当日は、東照宮の大祭日にあたり、お神酒を一献やろうと引き留められ、質素な肴(鰹節を削ったのに醤油をかけ、豆腐と蕗の煮付けの三品)で、尊徳先生と酒を酌み交した。その後、再三先生を訪ね、その都度有益な話を伺い、先生に随行しようという決意を、いよいよ固くした。ところが、この年6月3日ペリーの率いるアメリカ艦隊の浦賀入港によって、天下が騒然となった。加藤木賞三は、国元の水戸から要求される情報の蒐集とその報告のため、極めて多忙となった(藤田と戸田が、幕府の防海参与となった斉昭に召されて、江戸に入ったのは7月19日であった)。しかも水戸からは、情勢の急変を理由に、二宮尊徳先生に随行する件を断るよう指示してきたのだ。己むを得ず、賞三は水戸よりの書面を見せ、二宮先生も最後は余儀ないことと了承された。この時二宮尊徳先生は、賞三に対して大要次の通りに説いた。「国家の一大事に際し、余儀ないことではあるが、既に懇意となった貴殿に、この際私の考えを率直に申したい。貴殿が水戸藩にて、どのような身分かは詳しく知らないが、その職務が貴藩の進退を左右するほどのものではあるまい。世の成り行きは、誰がどう思っても、勢の赴くところに落ち着くもので、藩の家老職とても思うようにはならない。私は幕府の小吏に過ぎないが、現在の任務に専念して他事を顧みず、事業を成功させたいの一念である。もっとも国防のため馳せ参じよとの命があれば、開墾の仕事を放棄して、それに従うが、そのようなことはありえない。あの天下分け目の関ケ原の戦いに際しても、検地に従事していた武士は、そのまま仕事を続けていたという。現在のように、誰も彼もが、戦いにかかわったのではない。」賞三はその折の尊徳の心添えを想起して、大要次の通り述べている。「当時自分は、未だ40歳前で思慮も浅く、先生の懇切なお話も肝に銘じることがなかった。『事あらば今にも出陣して外国人をみな殺ししよう等の空言』を唱えていた。しかし年を経るに従って尊徳先生の見識・才能・力量の偉大さを深く感じた。あの時、先生の意見に従って事業に勉励するに年月を経たならば、いかに不肖の自分であっても、その器量に応じただけには得るところもあり、いささか国家へ利益を施す事もあったものをと、昔年を顧みて慙愧後悔することが毎度であった」と言ったという。そして、「なにひとつ 世になすことも ななそじに あまるよはひと 老い朽ちにけり」との一首を書き添えた。加藤木賞三は、明治維新後、静岡藩(後に県)の士族授産(開墾)事業に従事した後、大蔵省勧農寮、茨城県に奉職したが、「職を辞したるも尚ほ宿志を廃せず、栽桑養蚕を精励して以て大にこれを奨励」したという。死の前年の明治25年5月、賞三は藍授褒章を授与された。その善行表彰の理由は、天保飢饉の際の、貯穀の放出による窮民救済のほか「桑苗を頒(わか)ち、飼育法(蚕)を授けて産業を増進する等公衆の利益を起し成績著明なる者」というのであった。おそらくは、後年になるにしたがって、二宮先生の教えが身にしみて、わずかでも民・百姓のために働きたいと願いを実現しようとしたものであろうか。ああ、夜話でも尊徳先生はこう言われている。「10 (略)人は、生れ出た以上は必ず死ぬものである。長生きしたといっても、百年を越えるのは稀である。限りのしれた事である。若死にというのも長生きといっても、 実は僅かな差に過ぎない。たとえばロウソクに大・中・小があるようなものだ。大きなロウソクといっても、火の付いた以上は4時間か5時間であろう、そうであれば人と生れ出た以上は、必ず死ぬものと覚悟する時は、一日生きれば一日の儲けである。一年生きれば一年の利益である。本来わが身もない物、我が家もない物と覚悟するとき、あとは百事百般皆儲けである。私の歌に「かりの身を 元のあるじに 貸渡し 民安かれと 願ふ此身ぞ」と詠んだ。この世は、 我も人もともに僅かな間の仮の世であるから、この身は、仮の身である事は明らかである、元のあるじとは天をいう。このかりの身を我が身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思って、 国のため天下のために益のある事のみを勤めて、一人だけでも一家だけでも一村だけでも、困窮を免れて富裕になり、土地が開け、道や橋を整え、安穏に渡世ができるようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈って、怠らないわが身である、という心にて詠んだものである。これは我が畢生の覚悟である、我が道を行おうと思う者は知らなくてはならない。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.29
二宮翁夜話巻の1【13】翁曰(いわ)く、世の中に事なしといへども、変なき事あたはず、是(こ)れ恐るべきの第一なり。変ありといへども、是を補ふの道あれば、変なきが如し。変ありて是を補ふ事あたはざれば、大変に至る。古語に、三年の貯蓄(たくはへ)なければ、国にあらずと云へり、兵隊ありといへども、武具軍用備らざればすべきやうなし。只国のみにあらず、家も又然り、夫(そ)れ万(よろず)の事有余(ゆうよ)無ければ、必ず差支へ出来て家を保つ事能はず。然るをいはんや、国天下をや、人は云ふ、我が教へ、倹約を専らにすと。倹約を専らとするにあらず、変に備へんが爲なり。人は云ふ、我が道、積財を勤むと。積財を勤(つと)むるにあらず、世を救ひ世を開かんが爲めなり、 古語に、 飲食を薄うして、孝を鬼神(きしん)に致し、服を悪(わろ)うして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(いやし)うして、力を溝洫(こうきょく)に尽すと。能々(よくよく)此の理を玩味(ぐわんみ)せば、吝(りん)か倹か弁を待(ま)たずして明かなるべし。 小田原 飯泉観音境内【13】尊徳先生はこうおっしゃった。世の中に事がないといっても、変が全くない事というわけにはいかない。これが恐るべきの第一である。変があるといっても、これを補う道があれば、変がないのと同じである。変があって、これを補う事ができなければ、大変となってしまう。古語(礼記)に、「3年の貯蓄(たくはへ)がなければ、国にあらず」といっている。兵隊があるといっても、武具や軍用が備わなければしようがない。ただ国だけがそうなのではなく、家もまたそうである。すべての事は、有余が無ければ、必ず差し支えができて、家を保つ事はできない。ましてや、国や天下はなおさらである。人は言う。私の教えは、倹約を専らにすると。倹約を専らとするのではない、変に備えるためである。人は言う。私の道は、積財を勤めると。積財を勤めるのではない、世を救い、世を開かんがためである。 古語(論語)に、「飲食を薄うして、孝を鬼神(きしん)に致し、服を悪(わろ)うして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑(いやし)うして、力を溝洫(こうきょく)に尽す」と。(論語に古代の聖王禹(う)の働きをたたえたもの。飲食を粗末にして、神や先祖を敬い、普段の衣服を粗末にしてお祭りのときの冠や服は立派にし、宮殿は粗末にして民の農業を助ける水路工事などに力を尽くした)よくよくこの理を味われば、吝嗇か倹約か弁を待たないで明かであろう。☆倹約を専らとするのではない、変に備えるためである。 実に尊徳先生は天明の大飢饉に当たって、関東の多くの人々の命を救い、天変に備えた。積財を勤めるのではない、世を救い、世を開かんがためである。尊徳先生の事業は単なる村や藩の再建屋ではない、その願いは、世を救い、世を開かれることにあった。人々の心の田を開き、一人ひとりが自覚をもって自分の人生を切り開き、そして一人ひとりがそれぞれに世を救うことを願われた。それは飯泉観音で国訳観音経を聞いて、「金次郎よ、観音になれ、世を救い世を開け」と受け取られて、急ぐことなく、休むことなく一生を通してその願に生きられたのであった。「二宮大先生御説徳聞書略」(岡田佐平治)より衆人救助なくして諸道成就すること難きなり。人と生まれては衆生を助ける道を勤めなければ、人にして人にあらず。譲り助けるを押し広げて誠心厚ければ天下も治まるなり。
2023.09.29
報徳記巻之六【3】先生上牧某を教諭す(原文は漢文)高慶曰く、國家の憂を以て憂と爲て一己の私憂とせず。夙夜身を致し以國事に任ずる者人臣の常道に非ずや。苟も恩禄榮利を以て心と爲し阿諛面從豈與に君に事ふ可んや。先生甞て曰く君に事て利禄に離れざる者譬へば商賈の物を鬻ぎ價を争ふ也。君子の君に事る豈其れ斯の如くならん哉。先生一たび臣爲るの道を教へて下館の衆臣多くを貪り不足を憂ふるの意弭み而して忠義の心油然として生ぜり。徳の物に及ぶ何ぞ其れ速か也るや。(「訳注 報徳記」佐々井典比古)著者(富田高慶)が思うに、国家の憂いを憂いとして一己の私事を憂いとせず、日夜身をささげて国事に任ずるのが人臣の常道ではないか。いやしくも俸禄や栄誉利益を心として、おもねりへつらい、うわべだけ人に従うような者とは、到底共に君に仕えることはできない。先生はあるとき言われた。「君に仕えて心が利録から離れない者は、たとえば商人が物を売り、価を争うようなものである。君子は決してこのようにして君に仕えるものではない」と。先生がひとたび臣たるの道を教えられて、下館の衆臣は多くをむさぼり不足を憂える心がやみ、忠義の心が油然として生じた。徳の推し及ぶことは、何とすみやかなものであろう。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.28
二宮翁夜話巻の1【12】翁曰(いわく)、道の行はるるや難(かた)し、道の行れざるや久し。その才ありといへども、その力なき時は行はれず。其の才その力ありといへども、其の徳なければ又行れず、其の徳ありといへども、その位なき時は又行れず。然れども是は是れ大道を国天下に行ふの事なり。その難き勿論なり。然れば何ぞ此の人なきを憂へんや、何ぞ其の位なきを憂へんや。茄子(なす)をならするは茄子作り能(よ)くすべし、馬を肥(こ)やすは馬士(まご)能(よ)くすべし、一家を斉(ととの)ふるは亭主能(よ)くすべし、或(あるい)は兄弟親戚相結んで行ひ、或は朋友同志相結んで行ふべし。人々此の道を尽し、家々此の道を行ひ、村々此の道を行はヾ、豈(あに)国家興復せざる事あらんや。今市 二宮尊徳像【12】 尊徳先生はこう言われた。「道の行わるるや難(かた)し、道の行れざるや久し。 その才ありといえども、その力なき時は行われず。その才その力ありといえども、その徳なければまた行れず、その徳ありといへども、その位なき時はまた行れず。」と論語にある。しかしながらこれは大道を国天下に行う場合の事である。その困難なことはもちろんである。そうであればどうしてこの人がいないのを憂えようか、どうしてその位がないことを憂えようか。ナスをならせるには、ナス作りがよくできよう、馬を肥やすのは、馬士(まご)がよくできよう、一家をととのえるのは、一家の主がよくできよう、あるいは兄弟親戚で互いに行い、あるいは友人同志で結託して行うがよい。人々がこの道を尽し、家々がこの道を行い、村々がこの道を行うならば、どうして国家が興復しない事があろうか。※この道とは「私の道は分限を守るをもって本となし、分内を譲るをもって仁となす」(夜話1-11)のこと。
2023.09.28
報徳記 巻之六【3】先生上牧某を教諭す上牧曰く、一藩の人情誠に先生の明察の如し。我多年之を憂ふるといへども如何(いかに)ともすること能はず。今我が行ひを以て一藩の卑心(ひしん)を解(かい)することを得(え)ば上下の幸(さいはひ)何事か之に如(し)かん。其の道なるもの如何(いかん)。先生曰く、其の道他にあらず。惟(たゞ)子(し)の恩禄を辭(じ)せん而已(のみ)。其の言に曰く、今國家(こくか)の窮困(きゆうこん)既に極れり。君艱難を盡(つく)し玉ふといへども臣下の扶助(ふじよ)全からず、一藩の艱難も亦(また)甚しといふべし。某(それがし)大夫(たいふ)の任にありて上(かみ)君の心を安(やす)んずることあたはず、下(しも)一藩を扶助すること能はざるは是(これ)皆不肖(ふせう)の罪なり。今二宮の力を借り以て衰國(すいこく)を再興せんとす。先づ恩禄を辭(じ)し聊(いささ)かたりとも用度(ようど)の一端を補ひ、無禄にして心力(しんりよく)を盡(つく)さんこと某(それがし)の本懐(ほんくわい)なりと主君に言上(ごんじやう)し、一藩に告げて以て禄位(ろくい)を辭(じ)し、國家(こくか)の爲(ため)に萬苦(ばんく)を盡(つく)す時は衆臣(しゆうしん)必ず曰(い)はん。執政(しつせい)國(くに)の爲(ため)に肺肝を碎(くだ)き再復の道を行ひ、恩禄を辭(じ)して忠義を勵(はげ)む。然るに我輩(わがともがら)國家(こくか)に力を盡(つく)さずして空しく君禄(くんろく)を受く。豈(あに)之を人臣(じんしん)の本意(ほんい)とせん。僻令(たとひ)禄の十ヶ(が)一を受(う)くるも大夫(たいふ)に比すれば過(す)ぎたるにあらずやと。積年の怨望(ゑんぼう)氷解(ひようかい)し、始めて素餐(そさん)の罪を耻(は)づるの心を生じ、日々活計(くわつけい)の道に力を盡(つく)し、他を怨みず人を咎めず、如何(いか)なる艱苦をも安んじ、之を常とし之を天命とし、婦女子に至るまで其(そ)の不足の念慮を去らん。然らば則ち一藩を諭(さと)さずして當時(たうじ)の艱難に安んじ、忠義の一端をも勵(はげ)まんとするの心を生ぜん。是の艱難の時に當(あた)り大夫(たいふ)たるもの上下の爲(ため)に一身を責めて人を責めず大業(たいげふ)を行ふの道なり。然して惟(たゞ)之を行ふ事のあたはざるを憂ひとせり。此の道を行はずして人の上に立ち高禄を受け、辨論(べんろん)を以て人を服せしめんとせば、益々(ますます)怨望(ゑんぼう)盛んにして國家(こくか)の殃(わざわひ)彌々(いよいよ)深きに至らん。何を以て衰國(すいこく)を擧(あ)げ上下を安んずることを得んや と。上牧某(なにがし)大いに此の言(げん)に感激して曰く、謹(つゝしみ)て教へを受け直ちに之を行はんと云ふ。下館(しもたて)に歸(かへ)り此の事を聞(ぶん)し速(すみや)かに恩禄三百石を辭(じ)したり。微臣(びしん)大島某(それ)小島某(それ)なるもの此の事を聞き感動し、二人共に自俸を辭(じ)し無禄にして奉仕せり。先生之を聞きて曰く、上(かみ)これを好むときは下(しも)之より甚(はなはだ)しきものあり。上牧(かみまき)一度非常の行ひを立つれば兩人(りやうにん)亦(また)此の事を行ふ。古人の金言(きんげん)宜(うべ)ならずや。是(これ)に於て上牧大島小島三人一家(いっか)扶助の米粟(べいぞく)を櫻町より贈り、其の艱苦を補ひたりと云ふ。報徳記 巻之六【3】先生上牧某を教諭す その2上牧は言った。一藩の人情は誠に先生が明察されるとおりです。私は多年にわたってこれを憂えておりますがいかんともすることができません。今私の行いによって一藩の卑しい心を解消することができるならば上下の幸いはこれにまさるものはありません。その道とはどのようなものでしょうか。先生は言われた。「その道は他でもありません。ただあなたが恩禄を辞退するだけです。そのときこのように言うのです。『今、国家の困窮は既に極っています。君は艱難を尽くされておられます、臣下の扶助を完全に行うことができない状態です。一藩の艱難もまた甚しいというべきです。私は家老の任にあって上は君の心を安らかにすることができず、下は一藩を扶助することができません。これすべて私の不肖の罪です。今、二宮の力を借りて衰国を再興しようとしております。先ず私が恩禄を辞退していささかなりとも必要な資財の一端を補い、無禄で心力を尽すことが私の本懐です。』このように主君に言上し、一藩に告げて禄位を辞退し、国家のために万苦を尽くす時は衆臣必ず言うでしょう。『ご家老は国のために肺肝を砕いて再復の道を行い、恩禄を辞退して忠義を励もうとされている。しかるに我等は国家に力を尽くさないで空しく君禄を受けている。どうしてこれが人臣の本意としようか。たとえ禄の十分の一を受けてもご家老に比べれば過ぎたものではないか。』積年の怨望は氷解し、始めて無駄に食事をしている罪を恥じるの心が生まれ、日々活計の道に力を尽くし、他を怨まず人を咎めず、どのような艱苦をも安んじて、これを常としこれを天命として、婦女子に至るまでその不足の念慮を去ることでしょう。しからば則ち一藩を諭さなくても現在の艱難に安んじ、忠義の一端をも励もうとする心を生ずるでしょう。この艱難の時に当たって家老たるものが上下のために一身を責めて人を責めず大業を行うの道です。しかしてただこれを行う事ができないことを憂いとします。この道を行わないで人の上に立って高禄を受け、弁論で人を服さしめようとすれば、ますます怨望が盛んになって国家の災いはいよいよ深くなることでしょう。どうして衰国を挙げて上下を安らかにすることができましょうか。」上牧は大いにこの言葉に感激して言った。「謹んで教えを受け直ちにこれを行いましょう。」下館に帰ってこの事を主君に告げて、すぐに恩禄300石を辞退した。微臣の大島という者と小島という者がこの事を聞いて感動し、二人ともに自俸を辞退して無禄で奉仕した。先生はこれを聞かれて言われた。「上がこれを好むときは、下はこれより甚しきものありという。上牧が一度非常の行いを立てたら両人がまたこの事を行う。古人の金言はなんともっともなことであうことか。」そこで尊徳先生は上牧、大島、小島の三人に一家を扶助する米粟を桜町から贈って、その艱苦を補われたという。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.27
二宮翁夜話巻の1【11】 儒学者あり、曰く、孟子は易(やす)し中庸は難(かた)しと。翁(をう)曰く、予(われ)文字(もんじ)上の事はしらずといへども、 是(これ)を実地正業に移して考ふる時は、孟子は難し中庸は易し。いかんとなれば、夫(そ)れ 孟子の時道行れず、異端(いたん)の説盛(さか)んなり、 故に其(そ)の弁明を勤(つと)めて道を開きしのみ。故に仁義を説いて仁義に遠し。卿等(きみら)孟子を易しとし孟子を好むは、己(おの)が心に合ふが故なり。卿等(きみら)が学問するの心、仁義を行はんが為めに学ぶにあらず、 道を踏まんが為めに修行せしにあらず、只(ただ)書物上の議論に勝(かち)さへすれば、夫(それ)にて学問の道は足れりとせり。議論達者にして人を言ひ伏すれば、夫(そ)れにて儒者の勤めは立つと思へり。夫(そ)れ聖人の道、豈(あに)然る物ならんや、聖人の道は仁を勤むるにあり、五倫五常を行ふにあり。何ぞ弁を以て人に勝つを道とせんや、人を言ひ伏するを以て勤めとせんや。孟子は則ち是(これ)なり。此(こ)の如きを聖人の道とする時は甚だ難道(なんだう)なり。容易になし難し。故に孟子は難しといふなり。夫(そ)れ中庸は通常平易の道にして、 一歩より二歩三歩とゆくが如く、近きより遠きに及び、卑(ひく)きより高きに登り、小より大に至るの道にして、誠に行ひ易し。譬へば百石の身代の者、勤倹を勤め、五十石にて暮し、五十石を譲りて、国益を勤むるは、誠に行ひ易し。愚夫愚婦にも出来ざる事なし。此の道を行へば、学ばずして、仁なり義なり忠なり孝なり、神の道、聖人の道、一挙にして行はるべし。至て行ひ易き道なり。故に中庸といひしなり。予(われ)人に教ふるに、吾が道は分限を守るを以て本とし、分内を譲るを以て仁となすと教ゆ。豈(あに)中庸にして行ひ易き道にあらずや。 小田原市立三の丸小学校【11】 儒学者があって尊徳先生に言った。「孟子はやさしいが、中庸は難かしい」と。尊徳先生はこうおっしゃった。「私は、文字の事はしらないが、これを実地正業に移して考える時は、孟子は難しく、中庸は易しい。なぜかといえば、孟子の時代には、道は行れず、異端の説が盛んであった。だからその弁明をするため、道を開いたのだ。したがって仁義を説いて、結局仁義そのものの実践からは遠ざかっている。君らが孟子を易しいといって孟子を好むのは、自分の心に合うためである。君らが学問をするの心は、仁義を行おうために学んでいるのではない、道を実践するために修行しているのではない。ただ書物上の議論に勝ちさえすれば、それだけで学問の道は足りるとしている。議論が達者で、人を言いまかせさえすれば、それだけで儒者の勤めは果たしたと思っている。聖人の道というものが、どうしてそのようなものであろうか。聖人の道は仁を勤めることにある。五倫五常を行うにある。どうして弁舌をもって人に勝つことを道としようか。人を言いまかすことをもって勤めとしようか。孟子はすなわちこれである。このようなことを聖人の道とする時ははなはだ難道である。容易に実行しがたい。だから孟子は難しいというのだ。中庸は通常平易の道であって、一歩より二歩、三歩と行くように、近きより遠きに及んで、低いとことから高いところに登り、小より大に至る道であって、誠に行いやすい。たとえば100石の収入の者が、勤倹を勤めて、50石で暮し、50石を譲って、国益を勤めることは、誠に行いやすい。愚夫愚婦にもできない事はない。この道を行えば、学ばないでも、仁であり、義である。忠であり、孝である。神の道、聖人の道が一挙に行われるであろう。いたって行いやすい道である。だから中庸というのだ。私が人に教えるに、私の道は分限を守るをもって本となし、分内を譲るをもって仁となす と教えている。なんと中庸であって行いやすい道ではないか。
2023.09.27
報徳記 巻之六 【3】先生上牧某を教諭す一時(あるとき)先生上牧某(なにがし)に諭(さと)して曰く、夫(そ)れ國家(こくか)の衰貧に當(あた)りて君の禄其(そ)の名は二萬石(まんごく)なりといへども、其の租税の減ずること三分の二に當(あた)らんか。然らば一藩の恩禄も其の減少之に隨(したが)ふべし。是れ衰時の天命にして君禄の限りあることを如何(いか)にせん。天命衰貧の時に當(あた)り艱難に素(そ)して艱難に行ふこと臣下の道にあらずや。然るに君禄の減少を知らずして自俸(じほう)の不足を憂ひ、其のある無き所の米粟(べいぞく)を受んことを欲し怨望(ゑんぼう)の心を免れず。國體(こくたい)の衰弱を知らざるが故也(ゆゑなり)といへども、誠に淺(あさ)ましきことにあらずや。國(くに)の政(せい)を執(と)るもの天分を明かにし衰時の自然を明辨(めいべん)し、一藩の惑ひを去り、其の貧に安(やす)んじ、專(もっぱ)ら國家(こくか)に忠義を盡(つく)さしむるは職分の最も先務なり。然るに大夫(たいふ)以下猶(なほ)此の天命を辨(わきま)へず、何を以て一藩を諭(さと)さんや。而して大夫(たいふ)其の天分を明かに知り一藩を諭すと雖も、猶(なほ)怨望の心止み難きものあり。如何(なん)となれば衰時の天命に隨ひ、國家(こくか)にある無き所の物を渡すべき術(じゆつ)なきを明示すれども小禄の臣下必ず云(い)はん。大夫(たいふ)以下在職の輩(はい)は俸禄我が輩に十倍せり。減少すといへども豈(あに)困窮我が輩の如くならんや。人の上に居(を)り高禄を受け他の艱難を察せずして、天命衰時に當(あた)り其の無きものは渡すべきの道なし。艱苦に安んじ專(もつぱ)ら忠義を勵(はげ)むべしとは何ぞや。執政(しつせい)の任たるもの仁政を行ひ國の憂患を除き、艱難を救ひ衰國(すゐこく)をして再び盛んならしむるもの其の任にあらずや。若し其の任に在て此事を爲(な)すこと能はずんば其の職を貪る也(なり)。何ぞ速かに退職せざるやと云ふ。是(これ)怨望(ゑんぼう)止まざる所以(ゆゑん)なり。是の如く怨望する者、素(もと)より臣の道に非ずして、大いに本意(ほんい)を失ひたりといへども、此(こ)の怨望の心なからしむるものは執政(しつせい)の道也(なり)。一藩の怨望辨明(べんめい)理解を待たずして忽(たちま)ち消除し、其の艱難を安んじ忠義の心興起(こうき)するの道斯(こゝ)に一あり。子(し)之を行はずんば國弊(こくへい)を矯(た)め上下の艱難を救ふことあたはず。夫(そ)れ之を行ふべきか否や。【3】先生上牧某を教諭すあるときに尊徳先生は下館藩家老の上牧にこう諭(さと)された。「国家の衰貧に当たって下館候の禄は名目は二万石といっても、その租税は三分の二ほど減少してしていようか。しからば一藩の恩禄もその減少これに従うべきである。衰時の天命にあたって君禄の限りあることをいかにしようか。天命が衰貧の時に当たっては「艱難に素(そ)しては艱難に行う」(中庸)ことは臣下の道ではないか。しかるに君禄の減少を知らないで自分の俸給の不足を憂慮し、そのあるはずもない給与を受けることを欲して怨む心を免れない。国体の衰弱を知らないためであるとはいっても、誠に浅ましいことではないか。国の政治を執る者(家老)は、天分を明かにし、衰時の自然を明らかにわきまえ、一藩の惑いを去って、その貧しきに安んじ、専ら国家に忠義を尽くさせるのが職分であり、最も先務とする。しかるに家老以下なおこの天命をわきまえなければ、どうして一藩を諭すことができようか。しかして家老がその天分を明かに知って一藩を諭したとしても、なお怨望の心は止み難いものがあるであろう。なぜかといえば衰時の天命に従って、国家にあるはずのない所の物を渡す方法がないことを明示しても小禄の臣下は必ずこのように言うであろう。家老以下在職の方々は俸禄が私達の十倍ほどです。減少したからといってどうしてその困窮が私達のようでありましょうか。人の上にいて高禄を受け、他の艱難を察することができず、天命衰時に当たるから無いものは渡す方法がない。艱苦に安んじて専ら忠義を励めとは何なる言い草か。執政の任務について仁政を行い、国の憂患を除いて、艱難を救い衰国を再び盛んにするのがその任務ではないのか。もしその任に在ってこの事を行うことができないのならばその職を貪っているというべきです。どうしてすぐに退職しないのですか」と言うであろう。これは怨望が止まないためである。このように怨望する者は、もとより臣の道ではなく、大いに本意を失っているけれども、この怨望の心をなくならせるのが執政の道である。一藩の怨望は明らかに理解を待たないでたちまちに消除し、その艱難を安んじ忠義の心を起させる道がここに一つある。あなたがこれを行わなければ国弊を矯正し上下の艱難を救うことはできないでしょう。あなたはこの道を行うことができますか。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.26
二宮翁夜話巻の1【10】翁曰く、親の子における、農の田畑に於る、我が道に同じ。親の子を育つる無頼(ぶらい)となるといへども、養育料をいかんせん。農の田を作る、凶歳なれば、肥代(こやしだい)も仕付料も皆損なり。それ、この道を行はんと欲する者はこの理を弁ふべし。吾始めて、小田原より下野(しもつけ)の物井の陣屋に至る。己(おの)が家を潰して、四千石の興復一途に身を委ねたり。是れ則ちこの道理に基けるなり。それ、釈氏は、生者必滅の理を悟り、 この理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日のごとき道を弘めたり。ただこの一理を悟るのみ。それ人、生れ出でたる以上は死する事のあるは必定なり。長生きといへども、百年を越ゆるは稀なり、限りのしれたる事なり、 わかじにというもながいきというも、 実は毛弗(もうふつ)の論なり。たとへばロウソクに大中小あるに同じ、大ロウといへども、火の付きたる以上は、4時間か5時間なるべし。されば人と生れ出でたるうへは、必ず死する物と覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲け、一年活きれば一年の益なり。故に本来我が身もなき物、我が家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲けなり。予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」それこの世は、われ人ともにわづかの間の仮の世なれば、この身は、かりの身なる事明らかなり、元のあるじとは天をいう。このかりの身を我身と思はず、生涯一途に世のため人のためのみを思ひ、国のため天下の為に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免れ富有になり、土地開け道橋整ひ安穏に渡世のできるやうにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざるわがこの身である、といふ心にてよめるなり。これわれ畢生(ひっせい)の覚悟なり。わが道を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず。箱根町立湯元小学校の金次郎像は、わらじを配る像で「推譲」をあらわす像だ。【10】尊徳先生はこうおっしゃった。親が子を育てる、農民が田畑をつくる、我が道と同じである。親が子を育てる、たとえどうしようもない子どもであっても、養育料を請求したりしようか。農民が田を作る、凶歳であれば、肥料代も仕付料も皆損である。それ、この道を行おうと欲する者はこの理をわきまえるべきである。私が始めて、小田原より下野(しもつけ:栃木県)の物井の陣屋に至ったとき、自分の生まれ育った家を潰して、宇津家4000石(ごく)の復興一途に身をゆだねた。これは則ちこの道理に基いたのである。それ、お釈迦様は、生者必滅の理を悟って、 この理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日のような仏道を弘めたのだ。ただこの一理を悟っただけである。それ人は、生れ出た以上は死ぬことのあることは必定(ひつじょう)である。長生きといっても、100歳を越えるものは稀である、限りのしれた事である。若死にといっても長生きといっても、実はごく僅かの違いである。たとえばロウソクに大・中・小があるのと同じだ。大のロウソクといへども、火が付いた以上は、4時間か5時間ぐらいであろう。そうであれば人と生れ出た以上は、必ず死ぬものと覚悟する時は、一日活きれば則ち一日の儲けである、一年活きれば一年の益である。それゆえに本来の自分は身体もないもの、家もないものと覚悟するときは、あとは百事百般皆儲けである。わたしの歌に かりの身を 元のあるじに 貸し渡し 民安かれと 願ふこの身ぞそれこの世は、私も人もともにわずかの間の仮の世であるから、この身は、かりの身であることは明らかである。元のあるじとは天のことをいう。このかりの身を自分の身であると思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思って、国のため天下のために益のある事のみを勤めて、一人でも一家でも一村でも、困窮を免れ、富裕にし、土地を開拓し、道や橋を整備し、すべての人々が安穏にこの世を渡ることのできるようにと、それのみを日々の勤めとして、朝夕願い祈って、怠らないわがこの身である、という心で詠んだものである。これがわたしの畢生(ひっせい)の覚悟である。わたしの道を行おうと思う者は、知っていなくてはならない。
2023.09.26
報徳記巻之六【2】先生下館困難の本根を論ず先生曰く、夫(そ)れ諸侯の任たる專(もつぱ)ら領民を安撫(あんぶ)するにあらずや。然るに民を治むるの仁政を失ひたるが故に今此の衰貧に至れり。君臣共に前過を悔い厚く國民(こくみん)を撫育せんとせば、僻令(たとひ)其の事を行ふあたはずといへども、猶(なほ)其の本を知り仁政の志ありとせん。然るに下民(かみん)の安危(あんき)を度外(どぐわい)に置きて之を憂ふるの心なく、專(もつぱ)ら君臣目前の艱苦を免れんとして其の道を我に求む。是我が聞く所にあらざる也。兩士(りやうし)曰く、國民(こくみん)を撫育し之を安ぜんとすること素(もと)より君臣の願ひ也。然といへども當時(たうじ)の租税過半は借債利濟(りさい)の爲(ため)に費(つい)え、一藩を扶助(ふじよ)することあたはず。何を以てか下民(かみん)を惠(めぐ)むことを得んや。借債減少の道を得ることあらば、必ず國民(こくみん)惠恤(けいじゆつ)の事も亦(また)之に由(よつ)て生ぜんとす。先生願くは先づ此の急難を除くの道を教へよ。先生曰く、嗟乎(あゝ)惑ひたりと謂(い)ふべし。君臣共に其の本體(ほんたい)を失ひ此の衰貧に至り、猶(なほ)其の本に歸(かへ)ることあたはずして、國本(こくほん)たる民の艱苦を後にし、其の末の憂ひを除かんことを先とす。是(こ)の如く本末先後の道を失ひ、國家(こくか)をして再興せしめんと欲す又(また)難(かた)からずや。然りと雖も君臣の憂ふる所借債にありて困窮胸中に迫れり。何ぞ國家(こくか)の本源を論ずるに暇(いとま)あらんや。此の借債衰貧何に由(より)て起れるや。國家(こくか)の分度明かならず、入(いる)を計りて出(い)づるを制するの道なく、國用(こくよう)足らざれば他の財を借りて一時の不足を補ひ曾(かつ)て後難(こうなん)を慮(おもんぱか)らず、遂に貧困こゝに至るにあらずや。先づ此の憂ひを除んことを欲せば、國家(こくか)自然の分限を明らかにせざる可(べ)からず。分限一度明瞭なる時は貧富盛衰の由(よつ)て生ずる所衰廢(すゐはい)再興の道理自ら了然たり。仍(よ)りて以前十年の租税を調べ、豊凶十年を平均し其の度に當(あた)るもの是(これ)則ち天分動かすべからざるの分度なり。然して出財を制する時は國家(こくか)の基本始めて明らかなるべし。次には數年(すうねん)の借債古借新借を分ち元利明白に調べ其の員數(ゐんすう)を明かにし、然後(しかるのち)其の償ふべきの道を參考(さんかう)せざれば何を以て卒爾(そつじ)に當然(たうぜん)の道を見ることを得んや。速かに筆算の臣を此の地に招くべし と教ふ。兩士(りやうし)大いに感じ諸士數(すう)十人を櫻町に呼びて之を調(しら)べんとす。然るに一藩の扶助に充つべき米粟(べいぞく)なく將(まさ)に飢渇に及ばんとするを憂ふと云ふ。先生大息(たいそく)して之を憐み、米粟若干を下館に贈り其の急を補ひ、然して後數月(すうげつ)畫夜(ちうや)の丹誠を盡(つく)し兩條(りやうでう)の調べを成就せり。巻之六【2】先生下館困難の本根を論ず先生は言われた。「諸侯の任は専ら領民を安心して暮らせるようにすることではありませんか。しかるに民を治める仁政を失ったために今この衰貧に至ったのです。君臣がともに前に犯した過ちを後悔し厚く民を撫育しようとすれば、たとえその事を行うことができないとしても、なおその本を知っており仁政の志があるといえましょう。しかるに下民が安心して暮らせるかを度外視してこれを憂慮する心がなく、専ら君臣が目前の艱苦を免れようとしてその道を私に求めようとする。これは私が聞く所ではありません。」両人は言った。「国民を撫育しこれを安じようとすることはもとより君臣の願いとするところです。しかしながら現在の租税の過半は借金の利子を払うために費え、一藩を経営することができません。どのようにして下民を恵むことができましょうか。借金が減少する道が得られれば、必ず国民を恵む事もまたこれによって生ずるでしょう。先生願わくはまずこの急難を除く道を教えてください。」先生は言われた。「ああ惑っているというべきである。君臣ともにその本体を失い、この衰貧に至って、なおその本に帰ることができず、国の本であるの艱苦を後にして、その末の憂いを除くことを先としている。このように本末・先後の道を失い、国家を再興させようと欲する。困難ではないか。しかしながら君臣の憂える所は借金にあって困窮が胸中に迫っている。どうして国家の本源を論ずる暇があろうか。この借金衰貧は何によって起ったのか。国家の分度が明らかでなく、「入るを計って出ずるを制する」(礼記)の道がなく、国用が足らなければ他の財を借りて一時の不足を補い、少しも後難を思慮しない。ついに貧困がここに至ったのではないか。まずこの憂いを除かんことを欲するならば、国家自然の分限を明らかにしなければならない。分限が一度明瞭になる時は貧富盛衰のよって生ずる所、衰廃再興の道理が自ら了然となる。よって以前十年の租税を調べて、豊凶十年を平均しその度に当たるものが則ち天分の動かすべからざる分度である。しかして出財を制する時、国家の基本が始めて明らかになる。次に数年の借債のうち古借・新借を分って元利を明白に調査し、その金額を明かにして、その後その償還すべき道を参考にしなければ何によって当然の道を見ることができようか。すぐに筆算ができる臣をこの地に派遣しなさい。」両名は大変感じいって諸士数十人を桜町に派遣してこれを調査させた。しかるに一藩の扶助に充てるべき穀物がなく、まさに飢渇に及ぼうとすることを憂慮しているという。尊徳先生は大きくため息をつかれてこれを憐んで、穀物若干を下館に贈ってその急を補い、その後に数月の間、昼夜丹誠を尽くして両条の調査を成就した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.25
二宮翁夜話巻の1【9】越後国の産(うまれ)にて、笠井亀蔵と云(い)ふ者あり。故(ゆゑ)ありて翁(をう)の僕(ぼく)たり。翁諭(さと)して曰く、汝は越後(ゑちご)の産(うまれ)なり。越後は上国(じやうこく)と聞けり。如何(いか)なれば上国(じやうこく)を去(さ)りて、他国に来(きた)れるや。亀蔵曰く、上国(じやうこく)にあらず、田畑高価にして、田徳少し。江戸は大都会なれば、金を得(う)る容易(ようい)ならんと思ふて江戸に出(い)づと、 翁(をう)曰く、 汝(なんじ)過(あやま)てり、 夫 (そ)れ越後は土地沃饒(よくぜう)なるが故に、食物多し、食物多きが故に、人員多し、人員多きが故に、田畑高価なり、田畑高価なるが故に、薄利なり、然るを田徳少しと云ふ、少きにあらず、田徳の多きなり、田徳多く土徳(どとく)尊きが故に、田畑高価なるを下国と見て生国を捨(す)て、他邦に流浪するは、大なる過ちなり、過ちとしらば、速(すみや)かにその過ちを改めて、帰国すべし。越後にひとしき上国は他に少し、然るを下国と見しは過ちなり。是を今日(こんにち)、暑気の時節に譬へば、蚯蚓(みみず)土中の炎熱に堪(た)へ兼(か)ねて、土中甚(はなはだ)熱し、土中の外に出(いで)なば涼しき処あるべし、土中に居るは愚(ぐ)なりと考へ、地上に出(いで)て照り付られ死するに同じ、夫(そ)れ蚯蚓(みみず)は土中に居るべき性質にして、土中に居るが天の分なり、 然れば何程熱(あつ)しとも、外を願はず、我本性に随ひ、土中に潜みさへすれば無事安穏なるに、 心得違ひして、地上に出(いで)たるが運のつき、迷(まよい)より禍を招きしなり、 夫(そ)れ 汝もその如く、越後の上国に生れ、 田徳少し、 江戸に出(いで)なば、 金を得る事いと易からんと、思ひ違ひ、自国を捨(すて)たるが迷の元にして、みづから災を招きしなり、 然れば、今日過ちを改めて速かに国に帰り、小を積んで大をなすの道を、勤るの外あるべからず、心誠にここ至らば、おのづから、安堵の地を得る必定なり、 猶(なほ)迷いて江戸に流浪せば、詰(つま)りは蚯蚓の、土中をはなれて地上に出でたると同じかるべし、 よく此の理を悟り過を悔ひよく改めて、安堵の地を求めよ、然らざれば今千金を与ふるとも、無益なるべし、我が言ふ所必ず違(たが)はじ。小田原市立桜井小学校【9】越後国の生まれで、笠井亀蔵という者があった。理由があって尊徳先生の下僕であった。尊徳先生は亀蔵にこうさとされた。「なんじは、越後の生まれである。越後は上国と聞いている。どうして上国を去って、他国に来たのか。」亀蔵が言った。「上国ではありません。田畑は高価で、田徳も少いのです。江戸は大都会なので、金を得るのが容易であろうと思って江戸に出てまいりました。」尊徳先生は言われた。「なんじは過っている。それ越後は土地が肥沃であるために、食物が多い、食物が多いため、人が多い、人が多いため、田畑が高価である、田畑が高価であるために、薄利である、然るを田徳が少いという。少いのではない、田徳が多いのだ、田徳が多く土徳が尊いために、田畑が高価であるのを下国と見て生国を捨て、他邦に流浪するは、大きな過ちである。過ちであると知れば、すぐにその過ちを改めて、帰国しなさい。越後に等しい上国は他に少ない。それなのに下国と見たのは過ちである。これをこんにち、暑気の時節にたとえれば、ミミズが土中の炎熱にたえかねて、土中はとても熱い、土中の外に出れば涼しいところがあるだろう。土中にいるのは愚かであると考えて、地上に出て日に照りつられて、死ぬのと同じだ。それミミズは土中にいるべき性質で、土中にいるのが天の分である。そうであればなにほど熱くても、外を願わず、自らの本性に随って、土中に潜んでいさえすれば無事安穏であるのに、心得違いをして、地上に出たのが運のつき、迷いから禍を招いたのだ。それ、なんじもそのように、越後の上国に生れて、田徳が少い、江戸に出れば、金を得る事が大変容易であろう、思い違いして、自国を捨てたのが迷いの元であって、みずから災いを招いたのだ。そうであれば、こんにち過ちを改めてすぐに国に帰って、小を積んで大をなすの道を、勤めるほかあるまい。心誠にここに至るならば、おのづから、安堵の地を得ることは必定である。なお迷って江戸に流浪するならば、つまりはミミズの、土中を離れて地上に出たのと同じようなものである。よくこの理を悟って過ちを悔いて、よく改めて、安堵の地を求めなさい。そうしなければ今、千金を与えたとしても、無益である。私の言うところに、決して間違いはない。
2023.09.25
報徳記 巻之六 【2】先生下館困難の本根を論ず衣笠某(なにがし)下館に歸(かへ)り復命す。君公大いに感じ時の大夫(たいふ)上牧某(なにがし)に命じ、艱難再復の仕法を先生に依頼せしむ。衣笠同行せり。櫻町に來(きた)りて君命を演舌(えんぜつ)し良法を請(こ)ふ。先生我が及ぶ所にあらざるを以て固辭(こじ)す。兩士(りやうし)切(しき)りに請(こ)ふて止まず。先生曰く、我は小田原の微臣(びしん)なり。何を以て諸侯の政事(せいじ)に關係(くわんけい)することを得ん。又(また)奚(いづくん)ぞ私(ひそか)に諸侯の委託を受くるの道あらんや。元來(ぐわんらい)小田原先君の命に依りて此地再復の事を成(な)せり。故に此の方法は我が方法にあらずして小田原の方法なり。先君既に世を捐(す)つといへども猶(なほ)當君(たうくん)あり。下館君(しもたてくん)國家(こくか)を再興し給はんとならば、其の旨趣(ししゅ)を小田原に談ぜらるべし と。是(こゝ)に於て下館に歸(かへ)り此の事を聞(ぶん)し、使(つかひ)をして小田原君へ請(こ)ひ玉ふに前條(ぜんでう)を以てす。小田原君人をして答へしめて曰く、分知(ぶんち)宇津家(うつけ)の采邑(さいいふ)興復(こうふく)を二宮に任じ、再び小田原領中の事を命じぬ。加之(しかのみならず)外(ほか)諸侯の委託を受けよとは命じ難し。彼(かれ)若し餘力(よりょく)ありて其の委託に應(おう)ずることあらば共に喜悦(きえつ)する所也と。使者復命す。是に於て再び上牧衣笠をして、櫻町に至り依頼せしむ。衣笠は下館に帰って復命した。君公は尊徳先生の教えに大いに感じて、時の家老の上牧に命じて、艱難再復の仕法を先生に依頼させた。衣笠も同行した。桜町に来たって君命を述べ伝えて良法を施行することをお願いした。先生は私が及ぶ所ではないと固辞された。両名は、切実にお願いて止まなかった。先生は言われた。「私は小田原藩の微臣である。どうして諸侯の政治に関係することができましょうか。また、どうして、ひそかに諸侯の委託を受ける道があろうか。元来、小田原の仕法は先君の遺命によってこの地の再復の事を行いました。ゆえにこの方法は私の方法ではなく小田原の方法です。先君は既にこの世にはありませんが、なほ当君がいらっしゃいます。下館候は、国家を再興しようとされるならば、その趣旨を小田原に相談されるべきです。」ここにおいて下館に帰ってこの事を下館候に報告し、使い小田原候へお願いするに前条をもってした。小田原候は使いをもって次のように答えさせた。「分知の宇津家の領地の復興を二宮に命じて、再び小田原領中の事を命じている。これに加えてほかに諸侯の委託を受けよとは命じがたい。二宮にもし余力があってその委託に応じることがあれば、ともに喜悦する所である。」使者は復命した。ここにおいて再び上牧と衣笠を、桜町に至らしめて依頼させた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.24
二宮翁夜話巻の1【8】翁曰く、世の中に誠の大道は只(ただ)一筋(すぢ)なり。神(しん)といひ、儒(じゆ)といひ、仏(ぶつ)といふ。皆同じく大道(だいだう)に入るべき入口の名なり。或(あるひ)は天台といひ、真言といひ、法華(ほつけ)といひ、禅(ぜん)と云(い)ふも、同じく入口の小路(こみち)の名なり。夫(そ)れ何の教へ何の宗旨(しゆうし)といふが如(ごと)きは、譬(たと)へば爰(ここ)に清水(せいすい)あり、此(こ)の水にて藍(あゐ)を解(と)きて染(そ)むるを、紺(こん)やと云ひ、 此(こ)の水にて紫(むらさき)をときて染(そ)むるを、 紫(むらさき)やといふが如(ごと)し。其(そ)の元(もと)は一つの清水(せいすい)なり。紫屋にては我(わ)が紫の妙(めう)なる事、天下の反物(たんもの)染(そ)むる物(もの)として、紫ならざるはなしとほこり、紺屋(こんや)にては我(わ)が藍(あゐ)の徳(とく)たる、洪大無辺(こうだいむへん)なり、故(ゆゑ)に一度(ど)此の瓶(かめ)に入(い)れば、物(もの)として紺(こん)とならざるはなしと云ふが如(ごと)し、夫(それ)が為(ため)に染(そ)められたる紺(こん)や宗(しゆう)の人は、我が宗(しゆう)の藍(あゐ)より外(ほか)に、有難(ありがた)き物はなしと思ひ、紫宗(むらさきしゆう)の者は、我が宗(しゆう)の紫ほど尊き物はなしと云ふに同じ、是(これ)皆所謂(いはゆる)三界城内を、躊躇(ちうちよ)して出(い)づる事あたはざる者なり。夫(そ)れ紫も藍も、大地に打(うち)こぼす時は、又(また)元の如く、紫も藍も皆脱して、本然の清水に帰るなり。そのごとく神儒仏を初(はじ)め、心学(しんがく)性学(せいがく)等枚挙(まいきよ)に暇(いとま)あらざるも、皆大道の入口の名なり、此(こ)の入口幾箇(いくこ)あるも至る処は必(かなら)ず一の誠の道なり、是(これ)を別々に道ありと思ふは迷ひなり。別々なりと教(おしふ)るは邪説(じやせつ)なり。譬(たと)へば不士山(ふじさん)に登るが如し。先達(せんだち)に依(よ)りて吉田(よしだ)より登るあり、須走(すばしり)より登るあり、須山(すやま)より登るありといへども、其(そ)の登る処(ところ)の絶頂(ぜつちやう)に至れば一つなり、 斯(かく)の如(ごと)くならざれば真(しん)の大道と云(い)ふべからず。されども誠の道に導くと云ひて、誠の道に至らず、無益(むえき)の枝道に引き入るを、是(これ)を邪教(じやけう)と云ふ、誠の道に入らんとして、邪説(じやせつ)に欺(あざむか)れて枝道に入り、又(また)自ら迷ひて邪路(じやろ)に陥(おちい)るもの世の中少(すくな)からず。慎(つつし)まずばあるべからず。二宮尊徳先生は100年以上も前に、染物のたとえや富士山登山のたとえを使ってこう説かれていた。「世の中に誠の大道はただ一筋である。神といい、儒といい、仏という。皆同じく大道に入るべき入口の名前である。あるいは天台宗といい、真言宗といい、法華宗といひ、禅宗というのも、同じように入口の小道の名前である。何の教えとか、何の宗旨というようなことは、たとえば、ここに清水あって、この水で藍(あい)をといて染めるのを、紺屋といい、この水で紫をといて染めるを、 紫屋というようなものだ。そのもとは一つの清水である。紫屋にては、わが紫の妙(みょう)なる事は、天下の反物(たんもの)を染めるものとして、紫より尊いものはないとほこり、紺屋では、わが藍の徳たるや、広大無辺である、だから一度このカメに入れば、物として紺とならざるはなしというようなものだ、そのため、染められた紺屋宗の人は、我が宗の藍よりほかに、ありがたき物はないと思い、紫宗の者は、我が宗の紫ほど尊いものはないというのと同じである。これは皆いわゆる三界城内を、ためらって出ることができない者である。紫も藍も、大地にうちこぼす時は、また元のように、紫も藍も皆脱して、本来の清水に帰るのだ。そのように神儒仏をはじめ、心学、性学(せいがく)など数えるにいとまがないのも、みな大道の入口の名である、この入口がいくつあっても至るところは必ず一の誠の道である、これを別々に道があると思うのは、迷いである。別々であると教えるのは邪説である。たとえば富士山に登るようなものだ。先達(せんだち)によって吉田口から登るものがある、須走(すばしり)口から登るものがある、須山(すやま)口より登るものがあるといっても、その登るところの絶頂に至でば一つである。このようでなければ真の大道とはいえない。しかしながら誠の道に導くといって、誠の道(富士山の絶頂)に至らないで、無益の枝道に引き入ることを邪教という。誠の道に入ろうとして、邪説に欺れて枝道に入って、または自ら迷って邪路に陥いるものが世の中に少なくない。慎(つつし)まなくてはならない。」森信三先生が。「修身講義録」第17講の中で、生徒に「私の知っているある宗派の方が、常に外の宗派のことを悪く言っていますが・・・」と聞かれてこう答えられている。「たとえばここに一つの宮殿があるとします。そこに至る門はいくつもありましょう。しかしいざ入るとなるとやはり一つの門からでなければ、入るわけにはいかないのと同じでしょう。人間は、心も一つ、身も一つで、一人の人間が、同時に二つの門をくぐるわけにはいかないのです。それでどの門がよいかということになりますと、結局その人の性格にあったのが一番よいということになるのです。一宗の開祖とか。一つの学派の創始者といわれるような人は、いわば人間の挙通的な型の代表者であって、その型に属する一群の人々は、その教えによって、それぞれ自分の悩みを脱却することができるのです。つまり宗祖自身が悩みを免れた仕方によって、自分も救われるのです。そこで第三者の立場からは、どれが一番よいとは言えないわけです。王城の南に住むものは南門が一番近いというでしょうし、東に住むものは東門だといい、西、北それぞれの門が近いというでしょう。ではなぜ他宗をくさすかというに、どの宗派もそれぞれがよいと言ったのでは、まだフラついている初心者には、どの門から入ったらよいか、見当がつかないでしょう。そこで一つをとって他を捨てさせるために、時には他宗を譲る場合もあるでしょう。そしてそれが一宗の開祖といわれるほどの人でも、時に他宗の悪口を言うように聞こえる場合のあるゆえんでしょう。実は私も、この「教えと教えとの衝突」という問題では、ずいぶん長い間苦しみましたが、結局は唯一の真実を、色々の角度から捉えたものだということが分かったんです。そこでですね、自分の肌に合う、合わないということはいえますが、優劣となると簡単にはいえないというのが本当でしょう。ですから「他の宗旨は、どうも自分のような者にはしっくりこない。」といえばなんら差し支えないわけです。それを他宗はみな間違いだというから問題になるのです。いやしくも宗教と言われるほどのものは、みなそれぞれ真理をやどしているわけですから、どの宗教でもそれに徹しさえすればよいのです。」
2023.09.24
報徳記巻之六【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す衣笠大いに歡(よろこ)び言ひて曰く、主家(しゆか)連年艱難に迫り借財數萬兩(すうまんりやう)に及び元利之を償ふの道なし。年を經(ふ)るに隨(したが)ひ増借に至り、既に一藩を扶助することを得ざるに及べり。此の艱難を除かずんば、遂に災害並び至り亡國(ぼうこく)に比(ひ)せん而已(のみ)。君臣共に百計焦思(せうし)すと雖も凡慮の及ぶ所にあらず。我が君(きみ)之が爲(ため)に寝食を安んぜず、先生の高徳仁術の良法を聞き頻(しき)りに欣慕(きんぼ)し、尊諭を受け此の艱難を除き、一度(ひとたび)上下を安んじ忠孝の道を盡(つく)さんことを願ひ、某(それがし)に命じて國家(こくか)再興の事を先生に依頼せしむ。願くは先生下館(しもたて)上下の困苦を憐み、再復安堵(あんど)の良法を授け、我が君の心を安んじたまはん事を請ふと云ふ。先生曰く、某(それがし)此の三邑(いふ)に宰(さい)として此の民を撫育する事、猶(なほ)力足らずして君命を辱しめんことを恐る。何ぞ外(ほか)諸侯の託を受けて、其の艱苦を除くの餘力(よりょく)あらんや。曾(かつ)て小田原先君某(それがし)に此地の再興を委任せり。之を辭(じ)すること三年、而(しか)して命を下すこと彌々(いよいよ)切なり。予已(や)む事を得ず此の地に來(きた)り此の事を成せり。先君小田原領を再興せんとして屡(しばしば)余に問ふ。余曰く、小田原上下の勢ひ四時(じ)中の秋に當(あた)れり。夫(そ)れ秋なるものは百穀皆熟し周年中此の時を優(ゆた)かなりとす。小田原舊來(きうらい)の艱難少しく免れ下民の艱苦を知らず。賦税(ふぜい)を重くして目前の逸楽を好み國本(こくほん)を薄くして其(そ)の末葉(ばつえふ)を厚くすることを主とせり。之を病者に譬(たとへ)んに逆上(ぎやくじやう)の疾(やまひ)の如し。一身の氣(き)頭上に登り兩足(りやうそく)冷寒、氣(き)血下(しも)に回らずして遂に重病に至らん。之を治(ぢ)せんとせば上氣(じやうき)を下(くだ)し兩足(りやうそく)をして温暖ならしめ血氣(き)惣身(そうしん)に循環せざれば其の疾(やま)ひ治(ぢ)すべからず。然るに下部の厥冷(けつれい)を憂ひとせず逆上を以って幸(さいはひ)となさば、遂に一身を失ふの害を生ぜんか。今下民(かみん)艱難の米粟を度外に納めさせ、之を以て一藩の悦びとなす者何を以て之に異ならんや。危道に身を置き安泰なりとせり。此の憂ひを除かずんば不朽の平安は得難かるべし。夫れ治平(ちへい)の道如何(いかん)。上を損(そん)して下を益し、大仁(だいじん)を下し下民(かみん)を撫育し國民(こくみん)をして優(ゆた)かならしめば、逆上の憂ひ去り、國本(こくほん)固くして上下安かるべし。然れども一藩何ぞ民を憂ひ自ら艱難に安んずるの心あらんや。故に道は善美なりと雖も、當時(たうじ)の人情にては行はれ難し。自然艱苦の時至らば又行はるゝの時あらんか。強(し)いて秋節に臨み春陽の道を施さんとせば、事成らずして憂(うれひ)を生ぜんか。良法ありと雖も其の時にあらざることを如何(いかん)せんと言上せり。巻之六【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す衣笠は大いに喜んでこのように言った。「主家は連年艱難に迫られ借財が数万両に及んでいます。元利を償還する道がありません。年を経るに従って借金が増え、既に一藩を経営することができなくなっております。この艱難を除かなければ、ついに災害が並びいたって亡国となるに違いありません。君臣ともに百計・焦思すると雖も凡慮の及ぶ所ではありません。我が君がこのために寝食を安んずることなく、先生の高徳仁術の良法を聞いてしきりに欣慕し、御尊諭を受けてこの艱難を除いて、一度上下を安らかにし忠孝の道をつくすことを願って、私に命じ国家再興の事を先生に依頼させました。願わくは先生どうか下館の上下の困苦を憐んで、再復・安堵の良法を授けていただき、我が君の心を安らかにしてくださるようお願いします。先生は言われた。「私はこの三村に村役人としてこの民を撫育する事でさえ、まだ力が足らないため君命を辱しめてしまうことを恐れています。どうしてほかの諸侯の要請を受け、その艱苦を除く余力がありましょうか。かつて小田原先君(大久保忠真候)は私にこの地の再興を委任されました。これを辞退すること三年、そして命を下すことはいよいよ切実です。私はやむを得ずこの地に来たってこの事を成じたのです。先君は小田原領を再興しようとしてしばしば私に問われた。私は申しあげた。小田原上下の勢いは四時の中の秋に当たります。秋は百穀が皆熟し一年中で最も豊かであります。小田原藩は旧来の艱難を少し免れ、下民の艱苦を知りません。租税を重くして目前の逸楽を好んで国の本を薄くしてその末葉を厚くすることを主としております。これを病者にたとえれば逆上の病いと同様です。一身の気が頭上に登って両足が冷たく、気血は下に回らないで遂に重病に至りましょう。これを治そうとするならば上気を下に降ろして両足を温暖にし血気が体中に循環するようにしなければその病気は治らないでしょう。しかるに下部が冷え切ったことを憂慮しないで逆上を幸いとするならば、ついには一身を失うという害を生じましょう。今、下民は艱難して穀物を分度以上に納めさせて、これを一藩の喜びとなすことと何が異なりましょうか。危ないところに身を置きながら安泰であると思っています。この憂いを除かなければ不朽の平安は得ることはできないでしょう。それ治平の道はどのようかといえば、上を損して下を益し、大仁を下して下民を撫育し、国民をして豊かにするならば、逆上の憂いは去り、国の本は固くなって上下安泰となることでしょう。しかれども一藩どうして民を憂い、自ら艱難に安んじようとずる心がありましょうか。だから道は善美であるといっても、現在の人情では行うことが難かしいのです。自然と艱苦の時が至るならばまた行われる時もありましょうか。しいて秋に臨んで春陽の道を施すならば、事は成就しないで憂いを生じましょう。良法があってもその時でなければいかんともできません と言上した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.23
二宮翁夜話巻の1【7】 翁常に曰く、人界(じんかい)に居(ゐ)て家根(やね)のもるを坐視(ざし)し、道路(どうろ)の破損(はそん)を傍観(ぼうくわん)し、橋の朽(く)ちたるをも憂(うれ)へざる者は、則(すなわ)ち人道(じんだう)の罪人なり 今市の報徳二宮神社*「富田高慶日記」覚え一 大井村の姿、譬ば屋根屋来るを知て何の用意もせず坐して待つ。屋根屋何んぞ至らん。邑を起すそふだと見物して居る村方へ何ぞ求めて是より法を下さんや。(現代語訳)大井村の姿は、たとえば屋根屋が来るを知って何の用意もしないで坐して待っているようなものだ。屋根屋がどうしてこようか。村を起すそうだと見物している村へどうして求めてこちらから仕法を下そうか。〇2006年5月15日 今から17年前に K.S.さんに誘われて読書会の発足に参加した。趣旨がKさんが若い人を中心に育てようということだったので、せっかく誘ってくれたのが、嬉しくて、最初の一回だけ参加する心積もりだった。意見の中で、森信三さんの予言を紹介した。「日本民族中、ある意味では最大の偉人ともいうべき二宮尊徳の思想と精神が、21世紀を迎えるにあたり、われら日本民族の指導原理として、再び脚光を浴びるのもそう遠くはないか、と思われるのである。」「そういえば最近二宮尊徳についての本や番組が目につきますね。」とSさん。「うん、『その時、歴史が動いた』でも『二宮金次郎 天保の大飢饉を救う』として尊徳先生の救済活動を讃えていたしね。最近は少年金次郎ではなくて、村の復興や藩の再興にあたった二宮尊徳の建て直しに注目が集まっているんだね。尊徳先生は、四つの道を説かれた。天地の道、親子の道、夫婦の道、農業の道、この4つの道はいずれもお互いに喜び悦ぶ道だ。天は地を照らし、地は万物を育てはぐぐむ。親は子を慈しみ、子は親を慕う。夫婦相和して子孫が相続する。農夫が心をこめて植物を育て、植物も繁茂する。互いに苦情がなく喜ぶばかりだ。商売もこのように行わなくてはならない。売るものが喜び、買うものが喜ぶ。賃借も同じだ。貸すものが喜び、借りるものが喜ぶ。万事このようにすれば間違いがない。」 〇湯原ダム湖に沈んだ小学校が出現 工事で水位低下、金次郎像台座も 二宮金次郎像の台座や鉄棒の支柱が、ここが学びやだったことをしのばせる。70年近く前、真庭市の湯原ダム湖に沈んだ旧二川村立維新小学校(同市黒杭)。ダムゲートの更新工事などで湖面の水位が下がり、ダム湖北西端の校舎跡が姿を現している。 基礎部や階段は風化が進み、古代遺跡のよう。金次郎像の台座は傾きながらも踏ん張っている。創立50年記念の門柱も湖面からのぞいていた。 地元住民によると、数年に一度、秋から春の渇水期に露出するというが「ここまで水位が下がり、はっきり見えるのは珍しい」。 維新小は1877(明治10)年に開校。1954(昭和29)年、湯原ダム建設に伴う精錬小(同市粟谷)との統合で二川小(同市種)となり、廃校になった。その二川小も2019年3月に閉校した。 精錬小OBの男性(81)は「近隣小中学校の合同体育祭は維新小で開いていた。当時は集落もにぎやかだった」と懐かしむ。 湯原ダム管理事務所によると、工事完了は2年半後で、渇水期ごとに水位を下げるという。天候などにもよるが、しばらくは往時をしのぶことができそうだ。二宮金次郎像の台座。
2023.09.23
報徳記 巻之六 【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す常州(じやうしう)下館候(しもたてこう)は下館城附(しもたてじやうふ)壹萬(いちまん)三千石河内國(かはちのくに)に七千石合(がつ)して貮萬石(にまんごく)を領す。天明卯辰(うたつ)の凶荒以來戸数大いに減じ、収納の減少も亦之に准(じゆん)ず。上下の艱難甚くして一藩扶助の道も全からず。負債三萬餘金(まんよきん)に及び、一年の租税其の利を償ふに足らず。百計を盡(つく)すと雖も此の艱難を除き永安の道を立ることを得ず。上下大いに之を憂ふ。天保九戌(いぬ)年に至ては既に一藩扶助の道なきに至れり。領民の艱苦も亦推して知るべし。然るに先生櫻町三邑(いふ)再復の功蹟下民(かみん)撫恤(ぶじゆつ)の仁術を聞き、郡(こほり)奉行衣笠某(なにがし)をして櫻町に至り、上下の憂ひを除き永安の道を依頼せしむ。衣笠某(それ)其の性(せい)慈仁實直(じじんじつちょく)にして頗(すこぶ)る人望を得たり。國家(こくか)を憂ふること深きを以て君(きみ)此の大事を命ず。衣笠某(なにがし)君命を奉じ櫻町に來(きた)り先生に見えんことを請ふ。先生事務暇(いとま)あらざるを以て之を辭(じ)す。再三請ふと雖も見(まみ)ゆることを得ず、下館に歸(かへ)り言上して曰く、夫れ賢人に逢(あ)はんことを求ると雖も見(まみ)るを得ざるもの古今の常なり。貴(たつと)きを以て賤(いや)しきに下るものは其の賢を貴ぶなり。今君命を奉じ彼の地に至ると雖も二宮固辭(こじ)して逢わず。其の賢益々(ますます)明白なりといふべし。再三往(ゆ)きて君(きみ)の敬禮(けいれい)信義を通ずるにあらざれば見(まみ)ゆることを得べからず。況(いはん)や國事(こくじ)の依頼を受けんや。某(それがし)二度(ふたたび)彼の地に至り君意(くんい)の切(せつ)なることを述べん而已(のみ)と。君(きみ)曰く、然り是(これ)予が誠不誠にあり。汝再三往(ゆ)いて信義を通ぜよ。是(こゝ)に於て衣笠再び櫻町に至り頻(しき)りに請(こ)ふて止まず。先生止む事を得ずして面會(めんくわい)す。 報徳記 巻之六 【1】下館候興復安民の良法を先生に依頼す常州(茨城県)下館候(石川近江守)は、下館城の1万3千石、河内国(大阪)に7千石あわせて2万石を領有していた。天明の凶荒以来、戸数大いに減じ、収納の減少もまたこれに準じた。上下の艱難ははなはだしく、一藩をまかなう費用も十分でなかった。負債は3万両に及んで、一年の租税でその利を償うに足りなかった。百計を尽くしたがこの艱難を除いて永安の道を立てることができなかった。上下ともに大いにこれを憂えた。天保9年に至って既に一藩を経営できなくなるに至った。領民の艱苦もまた推して知るべきである。しかるに尊徳先生が桜町三村を再復した功蹟や下民を恵む仁術を聞いて、郡奉行の衣笠兵太夫に桜町に赴かせ、上下の憂いを除いて永安の道を立てることを依頼させた。衣笠はその性、慈仁実直であり、大変人望があった。国家(下館藩)を憂えること深かったため君主自らこの大事を命じた。天保8年10月、衣笠は君命を奉じて桜町にき来て先生に面会することを求めた。先生は事務に暇がないとこれを断られた。再三求めたが面会することができなかった。衣笠は、下館に帰って次のように言上した。「それ賢人に逢うことを求めても面会できないのが古今の常です。貴い身分で賤しい者にへりくだるのがその賢を貴ぶゆえんです。今、君命を奉じてかの地におもむきましたが、二宮は固辞して逢いません。その賢はますます明白だというべきです。再三おもむいて君の敬礼信義を通ずるのでなければ面会することはできないでしょう。ましてや国事の依頼を受けることがありましょうか。それがしは、ふたたびかの地におもむいて君意の切実であることを述べましょう。」君は言われた。「しかり。これは予の誠不誠にある。汝は再三往って信義を通ぜよ。」ここにおいて天保9年9月、衣笠は再び桜町に至ってしきりに面会を求めて止まなかった。先生はやむを得ず面会された。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.22
二宮翁夜話巻の1【6】翁曰く、天理と人道との差別(さべつ)を、能(よ)く弁別(べんべつ)する人少(すくな)し。夫(そ)れ人身あれば欲あるは則(すなわ)ち天理なり。田畑へ草の生ずるに同じ。堤(つつみ)は崩(くず)れ堀は埋(うづま)り橋は朽(くち)る、是(こ)れ則(すなわ)ち天理なり。然(さ)れば、人道は私欲を制(せい)するを道とし、田畑の草をさるを道とし、 堤(つつみ)は築立(つきた)て、堀(ほり)はさらひ、橋(はし)は掛替(かけかへ)るを以て道とす。此(こ)の如(ごと)く、天理と人道とは、格別(かくべつ)の物(もの)なるが故に、天理は万古(ばんこ)変ぜず、人道は一日怠れば忽(たちま)ちに廃す。されば人道は勤(つとむ)るを以て尊(たふと)しとし、自然(しぜん)に任ずるを尊(たふと)ばず。夫(そ)れ人道の勤(つと)むべきは、己(おのれ)に克(か)つの教(をし)へなり、己(おのれ)は私欲なり。私欲は田畑に譬(たと)へれば草なり。克(か)つとは、此(こ)の田畑に生ずる草を取り捨(すつ)るを云ふ。己(おのれ)に克(か)つは、 我心(がしん)の田畑に生ずる草をけずり捨(す)て、 とり捨て、我心(がしん)の米麦(こめむぎ)を、繁茂さする務(つと)めなり。是を人道といふ。論語に、己(おのれ)に克(か)つて礼に復(かへ)るとあるは此(こ)の勤(つと)めなり。今市の報徳二宮神社「天理と人道との差別を、よく弁別する人は少ない。人身があれば、欲があるのが天理である。田畑へ草が生ずるのとに同じだ。堤は崩れ、堀は埋まり、橋は朽ちる、これが天理である。そうであれば、人道は私欲を制することを道とし、田畑の草をとるのをを道とし、 堤は築きたて、堀はさらい、橋はかけかえることを道とする。このように、天理と人道とは、別のものである。天理は万古変ずることない、人道は一日でも怠るならたちまち廃する。人道は勤めることを尊び、自然の情欲に任せるを尊ばない。人道の勤めるべきは、己に克(か)つの教えである。己とは私欲である。私欲は田畑にたとえれば草である。克(か)つとは、この田畑に生ずる草を取り捨てることをいう。己に克(か)つとは、 我が心の田畑に生ずる草をけずり捨てて、我が心の米麦を、繁茂させるつとめである。これを人道という。論語に、「己に克って礼に復(かへ)る」とあるのは、この勤(つと)めである。」
2023.09.22
報徳記巻之五【11】小田原再興の方法中廢す(原文漢文)高慶曰く昔者(は)孔孟民の虐政に困むを哀み之を康寧の域に躋んと欲し天下を周流して之に説くに王道を以てす。夫れ國を治め民を安ずる者人主の職なり。其職に居て其道を求む。豈に焉より急なる者有乎。然り而して一たび其言を聞く。皆芒々焉として聾の如くカイ(耳に貴)の如し。能く之を用ること莫し且つ夫れ先生の至誠彼如く其功蹟顯著亦た彼の如し。一旦小田原候舘舎を捐て則其言忽焉として廢棄と爲る。嗚呼道の行難き今昔の同き所ろ聖賢も亦之を奈何ともする無し也。然りと雖ども先生の言の如き之を當世に施す能はずして而其の後に垂る者益明なり。豈に一時の顯晦を以先生を軒輊するを得んや。(「補注 報徳記」(佐々井典比古)より)著者(富田高慶)が思うに、むかし孔子、孟子は民が虐政に苦しむのを哀れみ、これを安寧の境遇に至らしめようとして、天下を周遊して王道を説いた。およそ国を治め民を安んずるのは人君の職務である。その職にあって、その道を求めることぐらい切要なものがあろうか。しかるにひとたびその言葉を聞いても、皆茫然としてつんぼのごとく、おしのごとく、これを用いようとする者がなかったのである。先生においても、あれほどの至誠、あれほど顕著な功績がありながら、一たん小田原候が逝去せられては、その遺言もたちまちにして廃棄されてしまった。実に道の行われがたいことは今も昔も同じであって、聖賢もまたどうにもすることができなかったのである。しかしながら、先生の教えに至っては、たとい当世に施すことができぬとしても、後世に垂れ流すことますます明らかなものがある。決して、一時の穏健によって先生の価値を上下することはできないのである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.21
二宮翁夜話巻の1【5】 翁曰く、夫(そ)れ人の賤(いやし)む処(ところ)の畜道(ちくどう)は天理自然の道なり。尊(たふと)む処(ところ)の人道は、天理に順(したが)ふといへども 、 又(また)作為(さくゐ)の道にして自然(しぜん)にあらず。如何(いかん)となれば、雨にはぬれ日には照られ風には吹かれ、春は青草(あをくさ)を喰(くら)ひ秋は木(こ)の実(み)を喰(くら)ひ、有れば飽(あ)くまで喰(くら)ひ無き時は喰(くら)はずに居(を)る。是(これ)自然(しぜん)の道にあらずして何ぞ。居宅(きょたく)を作りて風雨(ふうう)を凌(しの)ぎ、蔵を作(つく)りて米粟(べいぞく)を貯(たくは)へ、衣服(いふく)を製(せい)して寒暑(かんしょ)を障(ささ)へ、四時(じ)共に米を喰(くら)ふが如(ごと)き、是(こ)れ作為(さくゐ)の道にあらずして何ぞ。自然の道にあらざる明(あきら)かなり。夫(そ)れ自然の道は、万古(ばんこ)廃(すた)れず、作為(さくゐ)の道は怠(おこた)れば廃(すた)る。然(しか)るに其(そ)の人作(にんさ)の道を誤(あやま)つて、天理自然(てんりしぜん)の道(みち)と思(おも)ふが故(ゆゑ)に、願(ねが)ふ事(こと)成(な)らず思ふ事叶(かな)はず、終(つひ)に我世(わがよ)は憂世(うきよ)なりなどゝいふに至(いた)る。夫(そ)れ人道は荒(くわう)々たる原野(げんや)の内(うち)、土地肥饒(とちひぜう)にして草木(さうもく)茂生(もせい)する処(ところ)を田畑(たはた)となし、是(これ)には草(くさ)の生(しやう)ぜぬ様(やう)にと願(ねが)ひ、土性(どしやう)瘠薄(せきはく)にして草木(さうもく)繁茂(はんも)せざる地を秣場(まぐさば)となして、此処(ここ)には草の繁茂(はんも)せん事を願(ねが)ふが如し。是(これ)を以(もつ)て、人道は作為(さくゐ)の道にして、自然の道にあらず。遠(とほ)く隔(へだた)りたる所の理(り)を見るべきなり。小田原の報徳二宮神社☆尊徳先生の言葉にはリズムがある。畳み込むように重ねこむ。「いかんとならば、雨にはぬれ、日には照られ、風には吹かれ、春は青草を食らい、秋は木の実を食らい、有れば飽くまで食らい、無き時は食らわずにおる。これ自然の道にあらずして何ぞ。居宅を作りて風雨をしのぎ、蔵を作りて米粟を貯え、衣服を製して寒暑を障(ささ)へ、四時とも米を食らうがごとき、これ作為の道にあらずして何ぞ。自然の道にあらざる明らかなり。」表にいけば裏にいき、針が交互にさすように縦の糸を通しては横の糸をからめ布ができあがっていくように右に足を出して、次ぎには左足を出し人は交互に足を出して歩むことができるように尊徳先生のものの考え方や言葉はそのような発想をされ、教え示されている。
2023.09.21
報徳記巻之五【11】小田原再興の方法中廢す同年冬下總國(しもふさのくに)印旛沼(いんばぬま)見分(けんぶん)の命を奉じ總州(そうしう)に至れり。此の時小田原より大夫(たいふ)某(それ)俄然(がぜん)江都(かうと)に來(きた)り、江都(かうと)の大夫(たいふ)以下を退勤(たいきん)せしめ、小田原に歸國(きこく)せしむ。後(のち)弘化(こうくわ)三丙午(ひのへうま)年に至り小田原先君以來(いらい)の仕法を廢(はい)し、領民をして先生に往返(わうへん)することを禁ず。領民の愁歎(しうたん)限りなし。先生積年の丹誠忽然(こつぜん)として廢棄(はいき)す。先生愀然(しうぜん)として歎じて曰く、嗚呼(あゝ)我が事斯(こゝ)に止(とゞ)まれり。先君の國民(こくみん)を憐み玉(たま)ふ事子(こ)の如く、我をして之を撫育(ぶいく)せしめたり。予一旦命を受くるより以來(いらい)、君の仁澤(じんたく)をして此の民に被(かう)むらしめんとする而已(のみ)。天地に祈り鬼神(きしん)に誓ひ今日(こんにち)に至れり。然るに當君(たうくん)幼(えう)にして先君以來(いらい)の事を聞き玉はず。時の執政(しつせい)遂に國家(こくか)興復安民の道を廢(はい)せり。時勢如何(いかん)ともすべからず。予聞く、君子は天をも怨(うら)みず人をも咎(とが)めずと。予も亦(また)誰(たれ)をか怨み誰(たれ)をか咎めんや。皆我が誠心(せいしん)の足らざる所に出づるもの也(なり)。此の道の本源たる小田原既に此の道を廢(はい)せり。我他に行きて此の道を立つる時は、小田原の非を顯(あらは)すに似たり。故に今速かに諸方の仕法をも一時に廢(はい)し、以て小田原の心を安んぜん。是我が故主(こしゆ)に答ふるの道なり と。將(まさ)に發(はつ)せんとす。外(ほか)諸侯に此の事を通ず。諸侯議して曰く、先生興國(こうこく)安民の道は天下の良法なり。然るに之を廢棄(はいき)するは小田原君臣の大過と謂(い)はざる可(べ)からず。目今(もくこん)自國(じこく)百年の廢(はい)を擧(あ)げ、此の民を安んじ國家(こくか)の永安を開かんとす。何を以て他の大過(だいくわ)に傚(なら)ふことを得んやと。先生一世の困苦勞心(らうしん)此の時に過ぐるものにあらず。小田原先君の墓に詣(いた)りて跪(ひざまづ)き合掌流涕(りうてい)して時刻を移せり。從者(じゆうしや)皆先生の至誠を感じ共に涙を流し聲(こゑ)を呑(の)むに至れり。其の後先生終身先君の仁を擴充(くわくじゆう)することあたはざるを憂ひとし、心に小田原再び安民の道の開けん事を祈りたりと云ふ。(写真は教学院の大久保忠真候の墓所)同年の冬(天保13年10月から11月にかけて)、尊徳先生は下総国(茨城県)印旛沼(いんばぬま)の調査の命を受けて総州に赴いた。この時に小田原より家老が急に江戸に来て、江戸の家老以下を退勤させて、小田原に帰国させた。後に弘化3年7月になって、小田原先君(大久保忠真候)以来の仕法を廃止して、領民にも先生に接触することを禁じた。領民の愁い嘆きは限りなかった。先生積年の丹誠が忽然として廃棄された。先生は愁然として、嘆かれて言われた。「あゝ私の事業はここで終わってしまった。先君が国民(小田原藩の領民)を憐まれる事はわが子に対するようで、私にこれを撫育されたのであった。私は一旦命を受けて以来、君の仁恵をこの小田原の民に被むらせようとしてきた。天地に祈り、鬼神に誓って今日に至った。しかるに当君はまだ幼く、先君以来の事を聞かれていない。時の家老が遂に国家(小田原藩)を復興し民を安んじめようとする道を廃した。時勢はどうにもすることはできない。私は、「君子は天をも怨みず人をも咎(とが)めず」(論語)と聞いている。私もまた誰を怨み誰を咎めようか。皆、私の誠の心が足らないことから起きたことなのだ。この道の本源である小田原で既にこの道を廃した。私が他に行ってこの道を立てる時は、小田原の非を明らかにするのに似ている。ゆえに今速かに諸方の仕法をも一時に廃し、小田原の心を安んじめよう。これは私が故主(大久保忠真候)に答える道である」 と。まさにそのとおり諸方の仕法を廃止されようとした。そして外の諸侯にもこの事を通達した。諸侯は論議して言った。「二宮先生の興国安民の道は天下の良法である。しかるにこれを廃棄するのは小田原藩の君臣の大きな過ちと言わなければならない。現在、自国の百年の廃を挙げて、この民を安んじ国家の永安を開かんとしようとしている。どうして他の大過にならうことがあろうか」先生の一世の困苦、労心はこの時を過ぎるものはなかった。先生は小田原先君(大久保忠真候)の墓に詣って、ひざまづいて合掌し、涙を流して暫く祈られておられた。従者は皆先生の至誠を感じて、ともに涙を流して嗚咽を呑みこんだ。その後先生は終身先君の仁を拡充することができなかったことを憂いとされ、心に小田原藩に再び安民の道が開かれる事を祈っておられた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.20
二宮翁夜話巻の1【4】 翁曰く、夫(そ)れ人道(じんだう)は人造(じんぞう)なり、されば自然に行はるゝ処(ところ)の天理とは格別(かくべつ)なり。天理とは、春生じ秋は枯れ、 火は燥(かわ)けるに付(つ)き、 水(みづ)は卑(ひく)きに流(なが)る。昼夜(ちうや)運動して万古(ばんこ)易(かは)らざる是(これ)なり。人道は日々(にちにち)夜々(よよ)人力(じんりょく)を尽(つく)し、保護(ほご)して成(な)る。故(ゆゑ)に天道の自然(しぜん)に任(にん)ずれば、忽(たちまち)に廃(すた)れて行はれず。故(ゆゑ)に人道は、情欲(じやうよく)の侭(まま)にする時は、立(た)たざるなり、譬(たと)へば漫々(まんまん)たる海上(かいじやう)道なきが如(ごと)きも、船道(ふなみち)を定め是(これ)によらざれば、 岩にふるゝ也(なり)。道路も同じく、己(おの)が思ふ侭(まま)にゆく時は突当(つきあた)り、言語(げんご)も同じく、思ふまゝに言葉(ことば)を発する時は、忽(たちまち)争(あらそ)ひを生ずるなり。是(これ)に仍(より)て人道は、欲を押(おさ)へ情(じやう)を制(せい)し勤(つと)め勤(つと)めて成(な)る物なり。夫(そ)れ美食美服を欲するは天性(てんせい)の自然、是(これ)をため是(これ)を忍(しの)びて家産(かさん)の分内(ぶんない)に随はしむ。身体(しんたい)の安逸奢侈(あんいつしゃし)を願(ねが)ふも又(また)同じ、 好(この)む処(ところ)の酒を控(ひか)へ、安逸(あんいつ)を戒(いま)しめ、欲する処(ところ)の美食美服(びしょくびふく)を押へ、分限(ぶんげん)の内(うち)を省(はぶ)いて有余(いうよ)を生じ、他に譲(ゆず)り向来(かうらい)に譲るべし、是(これ)を人道といふなり。☆「人道は人造である。人道は日々夜々人力を尽くして保護してなるのだ。」と尊徳先生はいうのである。小田原藩主大久保忠真候は、二宮金次郎のこの論説に「老子を超える」と驚嘆した。そして、忠真候は鵜沢作右衛門から、桜町における金次郎の実践の報告を聞いて、「金次郎は今年いくつになるか。そうか、49歳か、それではまだ格別年老いているわけではないし、おいおい道が開けることもあるだろう。あの者は、今日の所行が自然と天理にかなっておる。世人が多く学問などしても、身の行いを正さないところから、何のやくにもたたないことに、ままなっている。金次郎は全く青表紙ども(儒学者)の学問と違って、正業を、天理に当てて執り行っておること、つくづくと感心している。」と賞賛されたのだった。そして「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」と金次郎の望みのままに大書して与えたのであった。
2023.09.20
報徳記巻之五【11】小田原再興の方法中廢す大夫(たいふ)某(それがし)曰く、子(し)の言(げん)誠に先君に報ずるの忠心至れりと謂ふべし。然りといへども一度(たび)命令下るときは謹みて其の命を受け玉ふこと君(きみ)の道にして、小田原領の事は私事(しじ)なり。私事を以て命令を辭(じ)し玉はゞ、君(きみ)の忠義を缺(か)くに似たり。故に當君(たうくん)の爲(ため)に思慮し速かに命令を受くべしと。先生曰く、然らば小田原の仕法は此の時を境に廢(はい)し玉はんか。大夫曰く、何ぞ廢(はい)することを得ん。先君以來の事蹟(じせき)を言上し、子(し)勤務の間に以前の如く指揮を得んことを歎願せば、何ぞ之を許し玉はざらんや。子(し)小田原の事は勞(らう)すること勿れ。必ず先君の遺志を遂げんと云ふ。是に於て先生止むことを得ず命令に隨(したが)ふ。直ちに小田原仕法先生の指揮なくんば領民度を失はんことを書し、公務の寸隙を以て從前(じゆうぜん)の如く仕法の指揮有らん事を歎願す。幕府速かに此の願ひを許容せり。是に於て先生始めて憂心(いふしん)を解くに似たり。小田原藩家老は言った。「あなたの言うことは誠に先君に報ずる忠心を尽くしているというべきだ。しかりといへども一度幕府の命令が下るときは謹んでその命を受けることが藩主の道であって、小田原領の事は私事である。私事を理由に命令を辞退するならば、藩主としての忠義を欠くように思われる。それゆえ当君のために思慮し速かに命令を受けるべきである。」先生は言われた。「しからば小田原の仕法はこの時を境に廃されるおつもりか。」家老は言った。「どうして廃する必要があろう。先君以来の事蹟を言上し、あなたの勤務の間に以前のとおり指揮を得たい旨を嘆願すれば、どうして許されないことがあろうか。あなたが小田原の事を労することはない。必ず先君の遺志を遂げよう。」そこで先生はやむことをなく命令に従った。直ちに小田原仕法は先生の指揮がなければ領民は節度を失うことを書して、公務の寸隙をに従前のように仕法の指揮をとることができるよう嘆願した。幕府は速かにこの願いを許容した。先生は始めて憂心を解くことができたのであった。」(「補注 報徳記」佐々井典比古P74より)天保12年(1841)に老中水野忠邦の天保の改革が始まり、人材の抜擢も行われた。天保の大飢饉以来、先生の名声は江戸にも聞こえ、ことに青木村の領主川副勝三郎を通じて勘定所の首脳部が注目していた。また上総・下総(千葉県)の代官となった篠田藤四郎は、水野の企画する利根川分水路を実現するため、土木技術者としての先生に期待した。なお小田原藩としては、民衆に異常な声望を持ち、藩政の分度確立を主張してやまない先生を快く思っていなかったから、幕府の内意は意にかなったものだった。これらが重なって、先生は天保13年7月に出府を命ぜられ、勘定奉行岡本近江守(おうみのかみ)をはじめ幕府の要職の人たちと面会した。同年10月2日には発令される急な展開で、職名は「御普請役格(ごふしんやくかく)」で待遇は20俵2人扶持、勘定所勤務であった。先生は17日に出頭した。利根川分水路の調査設計のための出張を命ぜられた。小田原藩では領内及び桜町の仕法について先生の指導継続を幕府に伺ったところ、折り返し許可があった。当時仕法実施中であった下館(しもだて)・烏山・谷田部及び茂木・相馬等の諸藩では、先生の一応の謝絶に驚いて仕法の継続を希望し、公務に支障のない範囲で先生の教示を得たい旨を、先生の内諾を得て幕府に伺いを立て、許可された。ただし、このうち谷田部及び茂木の細川藩だけは中村勧農衛の独断で事を進めたため不許可になった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.19
二宮翁夜話 巻の1【3】 翁曰く、夫(そ)れ人道(じんどう)は譬(たとへ)ば、水車(みづぐるま)の如(ごと)し。其(そ)の形(かたち)半分は水流(すゐりう)に順(したが)ひ、半分は水流に逆(さから)ふて輪廻(りんくわい)す。丸(まる)に水中に入れば廻(まは)らずして流(なが)るべし。又(また)水を離(はな)るれば廻(まは)る事あるべからず。夫(そ)れ、仏家(ぶつけ)に所謂(いはゆる)知識(ちしき:僧のことを善知識といい、それを縮めて知識という。)のごとく、世(よ)を離れ、欲を捨てたるは、譬(たとへ)ば水車(みづぐるま)の水を離れたるが如(ごと)し。又(また)凡俗の教義(けうぎ)も聞(き)かず、義務もしらず、私欲一偏(へん)に着(ちやく)するは、水車(みづぐるま)を丸(まる)に水中(すゐちゆう)に沈(しづ)めたるが如(ごと)し。共(とも)に社会(しやかい)の用(よう)をなさず。故(ゆゑ)に人道(じんどう)は中庸(ちゆうよう)を尊(たふと)む。水車(みづぐるま)の中庸(ちゆうよう)は、宜(よろ)しき程(ほど)に水中(すゐちゆう)に入りて、半分は水に順(したが)ひ、半分は流水に逆昇(さかのぼ)りて、運転(うんてん)滞(とどこほ)らざるにあり。人の道もその如(ごと)く、天理に順(したが)ひて種(たね)を蒔(ま)き、 天理に逆(さから)ふて、草を取り、欲に随(したが)ひて家業(かげふ)を励(はげ)み、欲を制(せい)して義務を思ふべきなり「人の道も水車のように、天理にしたがって種を蒔いて、 天理に逆らって草を取り、欲にしたがって仕事に励み、欲を制して義務を思い、譲るべきである。」○大分県出身の土屋大夢は、日本ロータリー協会運動の草分け的人物である。土屋大夢大夢はその記念講演でこの水車の喩えなど尊徳先生の教えを紹介し、至誠、勤労、分度、推譲にふれ、その報徳の教えはロータリーと同じではないか、と言って、実にロータリー以前に日本では尊徳先生ほかが実践されていた。ロータリー運動は、外来の思想をとりいれたのではく、日本に根ざした精神なのだと説明して聴衆に深い感銘を与えたのであった。「ロータリーは回転を意味するが、二宮尊徳も常に回転、“循環の訓え”を説いています。植物は種から発芽、生長、開花、結実、そして再び種に戻って循環します。循環と関連して【水車の話】がよく出ます。『水車は輪回するものでありますが、人の道も水車のようなものと思えばよい。その形の半分は水流に順い、半分は流水に逆らって回転する。もし、まるまる水中に入れば回わらずして流さるべし。また、もし水を離るれば回わることあるべからず。それ仏教にいう高徳、智識の如く、世を離れ欲を捨てたるは、水車の水を離れたるが如し。また凡俗が、教義に耳を傾けず、義務も知らず、私欲一辺倒に執着するは、水車をまるまる水中に沈めたるが如し。共に社会の用を為さず。ゆえに人の道は中庸を尊ぶ。水車の中庸は宜しき程に水中に入れて、半分は水に順い、半分は流水に逆らって運転滞らざるに在り。人の道もそれと同じように、【天理】に順いて種を蒔き、天理に逆らって草を取る。欲に随うて家業を励み、欲を制して義務を思うべきなり。』(二宮翁夜話第三節)と言っております。」
2023.09.19
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