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報徳記 巻之五【11】小田原再興の方法中廢す小田原領分七十二邑(いふ)の民日々(にちにち)業を勵(はげ)み艱難に安んじ、負債を償ひ邑(むら)を再復せんと欲し、殊勝(しゆしよう)奇特(きとく)の行ひを立て、他邦(たほう)のもの此の事を聞くに及びては感歎して涕(なみだ)を流すに至れり。此の時に當(あた)り國本(こくほん)の分度を定め大いに民を安んぜば、必ず上下(じやうげ)永安の道に至らんこと手を反(かへ)すが如くならん。然るに天保十三壬寅(みずのへとら)年幕府の命ありて先生を普請役格(ふしんやくかく)に召し抱へ玉ふ。小田原候の大夫(たいふ)某(それ)先生に此の旨を達せり。先生曰く、某(それがし)二十年前(ぜん)先君野州三邑(いふ)の廢亡(はいぼう)を興復せんことの命を受く。之を辭(じ)する事三年先君厚く臣に命じて止まず。臣(しん)君(きみ)の仁心深きを感じ君の心を安んぜんが爲(ため)に命に隨(したが)ひ、十餘(よ)年の力を盡(つく)し彼の地を再復なしたりといへども、未だ全く功を奏(そう)するに至らず。先君再び小田原の飢民を撫育せしめ、繼(つ)ぎて遺命ありて野州の仕法を小田原に移せり。興復の道其(そ)の本源未だ立たずといへども、民間既に再復の道を守り畫夜(ちうや)となく力を盡(つく)せり。今之を廢(はい)せば數萬(すうまん)の人民道を失ひ、再び衰廢(すいはゐ)に陥らんこと必せり。然らば先君民を憂ひ玉ふの仁心此の時に廢(はい)せんか、某(それがし)先君の憂心を一度(たび)安んぜんとして今日(けふ)に至れり。何ぞ圖(はか)らんや、此の事を廢棄(はいき)して幕府の命を受けんとは。故に某(それがし)命を固辭(こじ)す。君公(くんこう)より幕府へ言上(ごんじやう)し玉ふべし。領中衰廢(すゐはい)再興下民撫育の事を二宮に委任せり。今事業半(なかば)に至らずして二宮手を引かば、領民一同の望みを失ひ、先代以來(いらい)安民の事に心を盡(つく)せしも一時に廢(はい)せん。願はくは領中再興の道可(か)なりにも成功を立てんまでは、登庸(とうよう)を免ぜられん事を請ふとあらば、幕府之を許容し玉はん歟(か)、然して小田原領民其の所を得たらん後は此の命をも受くべし と云ふ。【11】小田原再興の方法中廢す小田原領の72村の民は日々の業を励んで艱難に安んじ、負債を償い村を再復しようと欲し、殊勝・奇特の行いを立て、他藩のものはこの事を聞いて感嘆して涙を流すほどであった。この時に当たって国の本分たる分度を定めて大いに民を安んじたならば、必ず上下が永安の道に至ることは手の平をかえすようであったに相違ない。しかるに天保13年幕府の命令で先生を普請役格に召し抱えられた。小田原候の家老が先生にこの旨を伝達した。先生は言われた。「私は20年前に先君から野州三村の廃亡を復興するよう命を受けました。これを辞する事三年、先君は厚く臣に命じて止みませんでした。臣は君の仁心が深いことを感じて、君の心を安じようとするために命に従って、十余年の力を尽くして彼の地を再復しましたが、未だ完全には成功したと報告できないでいます。先君は再び小田原の飢民を撫育するように命じられ、継いで遺命で野州の仕法を小田原に移すように命がありました。復興の道いまだにその本源が立たないといっても、民間においては既に再復の道を守って昼夜となく力をつくしております。今これを廃するならば、数万の人民が道を失い、必ずや再び衰廃に陥いることでしょう。しからば先君が民を憂えられた仁心がこの時に廃しようとしている。私は先君の憂心を一たび安んぜようとして今日に至った。どうして思い計ることができよう、この事を廃棄して幕府の命を受けようとは。ゆえに私はその命を固辞します。君公から幕府へこのように言上していただきたい。『領中の衰廃再興と下民撫育の事を二宮に委任しております。今事業が半ばに至らないで二宮が手を引けば、領民一同は望みを失って、先代以来安民の事に心をつくしてきたことが一時に廃してしまうことでしょう。願はくば領中の再興の道がかなりの程度まで成功するまでは、登用を免じていただきたい』事を請うならば幕府もこれを許容されることでしょう。しかして小田原の領民もその所を得た後にはこの命をお受けしたします。」 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.18
二宮翁夜話 巻の1【2】 翁曰く 、夫(そ)れ世界(せかい)は、旋転(せんてん)してやまず、寒(かん)往(ゆ)けば暑(しょ)来(きた)り、暑(しょ)往(ゆ)けば寒(かん)来(きた)り、夜(よ)明(あ)ければ昼となり、昼になれば夜(よる)となり、又(また)万物(ばんぶつ)生(しやう)ずれば滅(めつ)し、滅(めつ)すれば生(しやう)ず。譬(たと)へば銭(ぜに)をやれば品(しな)が来(きた)り、品(しな)を遣(や)れば銭(ぜに)が来(く)るに同じ。寝(ね)ても覚(さめ)ても、居(ゐ)ても歩行(あるい)ても、昨日(きのふ)は今日(けふ)になり、今日(けふ)は明日(あした)になる。田畑(たはた)も海山(うみやま)も皆(みな)その通(とほ)り、爰(ここ)にて薪(まき)をたきへらすほどは、山林さんりん)にて生木(せいぼく)し、ここで食(く)ひへらす丈(だけ)の穀物(こくもつ)は、田畑(たはた)にて生育す。野菜(やさい)にても、魚類(ぎょるい)にても、 世(よ)の中(なか)にて減(へ)るほどは、 田畑(たはた)河海(かかい)山林(さんりん)にて、生育(せいいく)し、生(うま)れたる子(こ)は、時々刻々(じじこくこく)年(とし)がより、築(きづ)きたる堤(つつみ)は時々刻々(じじこくこく)に崩(くづ)れ、掘(ほ)りたる堀(ほり)は日々夜々(にちにちよよ)に埋(うず)まり、葺(ふ)きたる屋根(やね)は、日々夜々(にちにちよよ)に腐(くさ)る。是(こ)れ即(すなわ)ち天理(てんり)の常なり。然(しか)るに人道(じんどう)は、是(これ)と異(こと)なり。如何(いかん)となれば、風雨(ふうう)定(さだ)めなく、寒暑(かんしょ)往来(わうらい)する此(こ)の世界に、羽毛(うもう)なく鱗介(りんかい)なく、身体(はだか)にて生(うま)れ出(い)で、家(いへ)がなければ雨露(あめつゆ)が凌(しの)がれず、衣服(いふく)がなければ寒暑(かんしょ)が凌(しの)がれず。爰(ここ)に於(おい)て、人道(じんだう)と云(い)ふ物(もの)を立(た)て、米(こめ)を善(ぜん)とし、莠(はぐさ)を悪(あく)とし、家(いへ)を造(つく)るを善(ぜん)とし、破(やぶ)るを悪(あく)とす。皆(みな)人の為(ため)に立(た)てたる道なり。依(よつ)て人道(じんだう)云ふ。天理より見(み)る時(とき)は善悪(ぜんあく)はなし。其(そ)の証(しょう)には、天理(てんり)に任(まか)する時(とき)は、皆(みな)荒地(くわうち)となりて、開闢(かいびゃく)のむかしに帰(かへ)るなり。如何(いかん)となれば、是(これ)則(すなわ)ち天理自然(てんりしぜん)の道(みち)なればなり。夫(そ)れ天(てん)に善悪(ぜんあく)なし。故(ゆゑ)に稲(いね)と莠(はぐさ)とを分(わか)たず、種(たね)ある者(もの)は皆(みな)生育(せいいく)せしめ、生気(せいき)ある者(もの)は皆(みな)発生(はつせい)せしむ。人道(じんだう)はその天理(てんり)に順(したが)ふといへども、其(そ)の内(うち)に各(かく)区別(くべつ)をなし、稗(ひえ)、莠(はぐさ)を悪とし、米麦(べいばく)を善(ぜん)とするが如(ごと)き、皆(みな)人(ひと)の身(み)に便(べん)なるを善(ぜん)とし、不便(ふべん)なるを悪(あく)となす。爰(ここ)に到(いた)りては天理(てんり)と異なり。如何(いかん)となれば、人道(じんだう)は人(ひと)の立(た)つる処(ところ)なればなり。人道(じんだう)は譬(たと)へば料理物(れうりもの)の如(ごと)く、 三倍酢(ばいす)の如(ごと)く、歴代(れきだい)の聖主賢臣(せいしゆけんしん)料理(れうり)し、塩梅(あんばい)して拵(こし)らへたる物(もの)なり。されば、ともすれば、破(やぶ)れんとす。故(ゆゑ)に政(まつりごと)を立(た)て、教(をしへ)を立(た)て、刑法(けいほふ)を定(さだ)め、礼法(れいはふ)を制(せい)し、 やかましくうるさく、世話(せわ)をやきて、漸(やうや)く人道(じんだう)は立(た)つなり。然(しか)るを天理自然(てんりしぜん)の道(みち)と思(おも)ふは、大(だい)なる誤(あやまり)なり、能(よ)く思(おも)ふべし。「世界は、旋転してやまない、夜が明ければ昼となり、昼になれば夜となり、寝ても覚めても、座っていても歩いていても、昨日は今日になり、今日は明日になる。生れた子は、時々刻々年がより、築いた堤は時々刻々に崩れ、掘った堀は日々夜々に埋まり、葺いた屋根は、日々夜々に腐る。これがすなわち天理である。」松園小学校 右手に1足のわらじを掲げ、左手に4~5足のわらじを抱えた金次郎像「度々氾濫する河川の堤防工事に 村人は各戸一人ずつ出した。 12歳の金次郎は病床の父親の代わりに この仕事についたが、一人前の仕事が できないため、わらじを編んで村人に 提供した」
2023.09.18
ちうちうと歎き苦しむ声聞けば ねずみの地獄ねこの極楽尊徳先生はこの類似の歌を多く作られている鳴きわめくその源を尋ぬれば ねずみの地獄たかの極楽ちうちうと鳴きくるひける声きけば すずめの地獄たかの極楽きうきうと鳴きさけびける声きけば かわづの地獄へびの極楽福住正兄の「二宮翁道歌解」にはこうある。「この歌は吉凶禍福憂歓は、皆一体のものであって、彼が喜んでこれが悲しみ、これが憂いて彼が喜ぶの類は、両全でなければ、真には福でもなく、吉でもないことは、猫のネズミにおけるようであることを示されたのである。だから吉といっても吉ではなく、喜びといっても喜びではないという教えである。この中においてただ親子と夫婦と農業の道のみは、世上の苦楽とは別であって、真の楽であることは夜話巻の2【42】に示されたとおりである。」また、報徳記を書いた富田高慶は「報徳秘録」【205】でこのように解説している。先生の歌にチウチウと歎き哀しむ声聞けば 雀の地獄鷹の極楽と。これは世のなかのありかたを弁じた歌である。みだりに解釈してはならない。猫の楽はネズミの苦である。魚の釣りにかかって苦しむ時、魚を釣る者の楽である。人の事もまたこのようである。もろもろの勝負のこと、皆一方の苦をもって一方の楽とする。これらのことは皆完全な道ではない。これをもって苦とする者また楽とする者の行いでは人道の全きを行うことはできない。人に両全両楽の道がある。何があるか?天地陰陽相和して万物が生ずる。男女が相和して子孫を生ずる。葉根和して一木が栄える。農民が稲や麦のために力を尽くして、稲や麦が生育する。これらは皆両全両楽の道である。この道を人事に及ぼし、この理に合わないものは皆半分の道であれば、行われない。上より下を恵むときは、下は楽しんで上もまた楽を得る。富者は無利息の金を貸して、貧者の憂いを去れば、富者もまたますます栄える。おおよそ相対するもので彼が苦しんでこれが楽するものは鳥獣の道である。彼もこれもともに全く楽を得るものが聖人の道である。国家の政治を行う者はよく明らかにこの理を理解して国を治めなければならない。そうすれば治まらないことはなく憂えることがない。
2023.09.18
二宮翁夜話 巻の1【1】 翁(をう)曰(いは)く、夫(そ)れ誠(まこと)の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚え、書籍(しょじゃく)もなく、記録もなく、師匠(ししやう)もなく、而(しか)して人々(ひとびと)自得(じとく)して忘れず、是(これ)ぞ誠(まこと)の道の本体なる。渇して飲み、飢(う)ゑて食(くら)ひ、労(つか)れていね、さめて起(お)く、皆(みな)此(こ)の類(るひ)なり。古歌(こか)に「水鳥(みづとり)のゆくもかへるも跡(あと)たえてされども道は忘れざりけり」といへるが如(ごと)し。夫(そ)れ記録もなく、書籍(しょじやく)もなく、学ばず習はずして、明(あき)らかなる道にあらざれば誠(まこと)の道にあらざるなり。夫(そ)れ、我(わ)が教(をし)えは書籍(しょじやく)を尊(たふと)まず。故(ゆえ)に天地(てんち)を以(も)つて経文(きやうもん)とす。予(よ)が歌に「音(おと)もなくかもなく常(つね)に天地(あめつち)は書(か)かざる経(きやう)をくりかへしつゝ」とよめり。此(こ)のごとく日々(にちにち)繰返(くりかへ)し繰返して、しめさるゝ天地(あめつち)の経文(きやうもん)に、誠(まこと)の道は明(あき)らかなり。掛(かゝ)る尊(たふと)き天地(あめつち)の経文を外(ほか)にして、書籍(しょじやく)の上に道を求むる、学者輩(がくしやはい)の論説(ろんせつ)は取らざるなり。能々(よくよく)目を開きて、天地(あめつち)の経文(きやうもん)を拝見(はいけん)し、之(これ)を誠(まこと)にするの道を尋(たづ)ぬべきなり。夫(そ)れ世界横の平(たひら)は水面(すゐめん)を至(いた)れりとす。竪(たて)の直(すぐ)は、垂針(さげぶり)を至れりとす。凡(およ)そ、此(こ)のごとき万古(ばんこ)動かぬ物あればこそ、地球(ちきう)の測量(そくりやう)も出来(でき)るなれ。是(これ)を外(ほか)にして測量の術(じゆつ)あらむや。暦道(れきだう)の表(へう)を立てゝ、景(かげ)を測(はか)るの法(ほふ)、 算術(さんじゆつ)の九々の如(ごと)き、 皆(みな)自然の規(のり)にして万古不易(ばんこふえき)の物なり。此(こ)の物によりてこそ、天文(てんもん)も考(かんが)ふべく暦法(れきほふ)をも算(さん)すべけれ。此(こ)の物を外(ほか)にせばいかなる智者(ちしや)といへども、 術(じゆつ)を施(ほどこ)すに方(ほう)なからん。夫(そ)れ我(わ)が道もまたしかり。天(てん)言(もの)いはず、而(しか)して、四時(しいじ)行はれ百物(ぶつ)成(な)る処(ところ)の、 不書(ふしよ)の経文(きやうもん)、不言(ふげん)の教戒(けうかい)、則(すなは)ち米を蒔(ま)けば米がはえ、麦を蒔(ま)けば麦の実法(みの)るが如(ごと)き、万古不易(ばんこふえき)の道理(だうり)により、誠(まこと)の道に基(もとづ)きて、之(これ)を誠(まこと)にするの勤(つと)めをなすべきなり。小田原市立三の丸小学校○小田原の酒匂川はその源は富士山の下より流出し、数十里を経て小田原にいたって海に達する。流れが急で、洪水があるたびに土砂を流しては堤防を破壊し、たびたび田の面を押し流し、民家を壊すこともあった。 したがって年々堤防作りのため、村民で戸ごとに一人づつ出しては土木作業にあたっていた。 金次郎は、父が病気がちのため、12歳の時からこの役に出て勤めたが、幼少のため力が足りず、一人前の役をつとめることができない。 そこで天を仰いで、嘆いて言った。「私は力が足りず、一家の勤めに当たるのに足りない。願わくは速やかに成人ならしめたまえ」と。 また、家に帰ってから思うに、人は自分が父親をなくし、貧しいのを憐れんで、一人前の役にあたるとあつかってくれるが、どうしてそれに安んずることができよう。いたづらに力が不足することをうれえてもしようがない。他の方法で勤め、その恩に報じようと思ったが、他の方法がみあたらない。せめては草鞋(わらじ)を作り、持っていって、私の力の不足を補ってくれる人の恩に答えよう。 人は皆その志のふつうでないことをほめ、これを愛し、その草鞋(わらじ)を受け取った。 また、他の人が休んでも休まず、終日土木作業に従事してその力の不足を補った。 これが「報徳記」に記するところである。○「二宮尊徳伝」にはこんな記述がある。「12歳の頃、先生が病気の父に代わり人足に出た。先生は夜に草鞋(わらじ)を作って自分のの力の足らざる一部にしようと、数足のわらじを土手に置いてみたが、村人は誰が落としたものであろうかと拾う者はなかった。そこで先生が村人の草履(ぞうり)を観察すると、片足ずつ壊れ、人の捨てたのがあれば拾ってはくのを見て、半足づつ置いたら、数人は用いた。後に先生が置いたのを知って、また用いる者がなくなった。」と。○先生の親戚の川久保民次郎という者が先生の下僕を勤めていたが、国に帰ろうと暇乞いにきたとき、次のような自分の体験を教えて教諭された。「お前はまだ壮年だ。夜もすがら寝なくても支障はないだろう。夜寝るひまを励まして、勤めてわらじを一足または二足を作って、翌朝開拓場に持ち出して、わらじが切れたり、破れた者に与えて、受けた人が礼を言わなくても、もともと寝るひまに作ったものだからそれだけのことだ。礼を言う人があればそれだけの徳である。また一銭半銭を出して応じてくれる者があればこれもまたそれだけの益である。よくこの理を感銘して連日怠らなければ、どうして志が貫けないことわりがあろうか。私が幼少の時の勤めはこのほかにはない。肝に銘じて忘れてはいけない。」これこそが先生が幼い時から行ってきたことなのだ。礼を言わなければそれだけのこと、礼を言われればそれだけの徳、まして僅かなりともお礼するする人がいればそれだけの益。こうした僅かのお礼を貰うとお酒を買って病床にあった父に差し上げて喜ぶのをみるのを先生は無上の喜びとされたのだ。
2023.09.17
栃木県の二宮町にある桜町陣屋跡の隣「報徳二宮神社」に建つ石碑不二(ふじ)は不申(もうさず) まず紫の筑波山佐々井信太郎氏の筆によるが、達筆すぎて読むのが難しい。この句と石碑に関するエッセイが、「尊徳の森」(佐々井典比古)の322ページに載っている。この句は、尊徳先生の孫の尊親氏が編集した「二宮尊徳翁自筆草案」の中にあり。それを佐々井信太郎氏が編集した「二宮先生真筆選集」で世に知られるようになったという。茨城県岩瀬町の太田斐(あやる)氏の発願で、桜町の二宮神社の境内にこの句碑を奉納されたという。最初、信太郎氏の子息佐々井典比古氏の解説が脇にたっていたという。今はないから、ここにその評釈を要約して掲げる。大久保忠真候の遺志を体して小田原藩政を改革し、小田原領を振興してその恩に報いることは、先生の宿願であった。しかし諸般の事情はその宿願の達成をはばみ、先生の活躍の場所は栃木県、茨城県に限定された。小田原藩が富士とすれば、こちらは筑波山といえる。しかし富士の霊峰も「紫の」と頭言葉を冠せられて讃えられる筑波山もその美において甲乙はない。まずこの窮民を救い、荒地を開き、民百姓を安んじることが私の最善の道である。富士に上るのはその上で、しかるべき因縁が熟してからのこと。まずひたすら紫の筑波山下にわが道をつとめよう。尊徳先生は、結果をすぐに求めることを慎まれた。水は高いところから低いところに流れる。棚田などで上から水を流すとき、順々に穴など低いところも満たして、次に低いところに流れていくような自然な流れを尊ばれた。相馬藩において高田丹吾の熱誠によって成田村・坪田村へ仕法が開始された。そしてその成果が挙がるや、村々が競って、その仕法を我が村にもという願いが殺到してきた。しかし尊徳先生は一挙に全部の村にとりかかるのを許されなかった。一つの村が仕法によって十分に立ち直ってから次の村の仕法にとりかかるのやりかたをとられたのである。
2023.09.17
福住正兄先生筆記二宮翁夜話 おのれ翁(をう)のみもとにありしこと7年(とせ)なれば、折(をり)にふれ、事(こと)にふれ、翁(をう)の論説教訓をきゝたること、いと多かり。されど、洪(おほい)なる鐘(かね)も、ちいさきしもともて、うちたらんには、その響(ひゞき)かすかなるを、いかにかはせむ。そのうへに、おのが耳は、世に云ふ、みそこし耳にしあなれば、道の心の深遠なる甘味(うまみ)なるは、皆もれさりて、残れるは、かすのみなり。かゝるかすを書き残すは、道をまどはする恐(おそれ)なきにあらねば、たへて人には見せざりしかど、本年(ことし)は61にしなりぬれば、のこる齢(よはひ)も多からじ、せめて書き清めてだにとて、草稿したるを、親しき人達、桜木(さくらぎ)に物せよと、いひすゝむれども、もとより才なく力なく、ことに文(ふみ)かく業(わざ)にうとければといなめど、中々(なかなか)に其(その)打聞(うちき)きのまゝにて、かざらずつくろはぬ俗文こそよからめと、せめてやまず。今はいなむことばなくて、かくは世にひろむる事となりぬる、故(ゆゑ)よしを一言(こと)そふるになむ。 ふくすみまさえしるす。内村鑑三「後世への最大遺物」より私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの留(と)まっているこの箱根山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人がありました。この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。それでドウも二宮金次郎先生には私は現に負(お)うところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業はことごとくこれを纏(まと)めてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止(とど)まっていると考えます。しかしながらこの人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した。この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、チョット申してみましょう。二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種(なたね)を蒔(ま)いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を綯(よ)れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬(くわ)で田地を拵(こしら)えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委(ゆだ)ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。それで人に頼らずともわれわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。あなたがたもこの人の伝を読んでごらんなさい。『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。実にキリスト教の『バイブル』を読むような考えがいたします。ゆえにわれわれがもし事業を遺すことができずとも、二宮金次郎的の、すなわち独立生涯を躬行(きゅうこう)していったならば、われわれは実に大事業を遺す人ではないかと思います。森信三「日本民族中、ある意味では最大の偉人ともいうべき二宮尊徳の思想と精神が、21世紀を迎えるにあたり、われら日本民族の指導原理として、再び脚光を浴びるのもそう遠くはないか、と思われるのである。」 森先生は、全世界がこれに目覚めるのはおそらくは21世紀の後半であろうと言われていたそうです。「森信三先生随聞記」(寺田一清)P50「森先生は平成4年(1992年)97歳をもって、一代の「生」を了えられましたが、その前に、21世紀の展望のいったんを予言せられました。それは、日本の立ち直るのは、2025年からだろう。そしてそれは、二宮尊徳先生のお教えに準拠せねばならぬでしょう。そして世界が、日本の立ち直りを認め出すのは、2050年だろう と、先見の明を示されました。また『二宮翁夜話』こそは日本人の論語とすべきものです と。この透徹と展望は、日本民族に明るい光明を見出すものであると同時に、いかに、哲人尊徳翁の説かれた天道と人道の原理原則を信じて疑わないものかを物語るものです。」☆寺田一清さんが、森先生の南千里のお宅をはじめてお訪ねした際、「これをあなたへ」と本をくださった。 それは尊徳先生の「報徳要典」だった。 それに森先生自ら扉書きしてくださった。「これ正に古今に通ずる永遠の真理なり」 私のもとにも「報徳要典」が一冊ある。数年前、古本屋で千円で買い求めた。奥書には 昭和8年12月27日印刷 昭和9年1月1日発行 報徳要典 非売品 編集兼発行印刷人 舟越石治 とある。
2023.09.16
飯(めし)と汁木綿(もめん)着物は身を助く 其(その)余は我を責むるのみなり二宮翁夜話に高野氏が尊徳先生のもとで仕法の研修を終えて旅立つ時、尊徳先生が「あなたに安全のお守りをあげよう」とこの歌を授けたという話がのっている。尊徳先生は、相馬藩から、藩の復興の依頼を受け、相馬藩180年の貢税を調べて分度を定めた。仕法着手の依頼を受けたが、最初推薦してきた山村の草野村について先生は相馬藩の家臣が二宮仕法を慕ってなんとしても実施したいという誠意がみられないと仕法依頼を断った。「仕法の道は善を賞して不能を教えることを主としている。だから仕法を行う場合も領中で一番善良な村から行わなくてはならない。領中の模範となるような村に仕法を実施すると、たとえば縛ったたきぎの束に一本のたきぎを打ち込むとき、しまって全部が堅固になるようなものだ。これが一を挙げれば全部が挙がるという道理である。そうであるのに今、領中で惰農の貧しい村から、実施することは前後を間違えている。しかも草野村は城下から30キロほど離れている。私の方法で興せない村は無いが、草野村から始めれば費用もかかり、全村が良くなるまで年数も数十年かかってしまう。草野村に開業を求めるのは私の仕法を信じ、この道を慕うからではない」そこで相馬藩の群臣は協議して今度は領中の中央に位置する大井村、塚原村を推薦してきた。「領中の一番善良な村をよくするのは誰でもできることだ。 大井村は貧村で惰風が極まっている。塚原村は田に海水が入り込んで復興することが難しい。二宮の仕法でよくなるか試してみよう」尊徳先生はまだ相馬藩復興のときではないと明察し、仕法の実施を先延ばしにされた。弘化2年になって、相馬藩の家老池田は、二宮先生が開業されないのはわがほうの至誠熱意がないからだと、代官以下を集めて進んで実施しようという者はないかと奮起を促したが、疑惑するばかりで自分からやりましょうというものはなかった、そのときである。高野丹吾という代官助役のものが名乗りを挙げた。高野は以前から成田村と坪田村の復興を命ぜられていたが、力及ばずなかなか成果があげられないでいた。そこで両村の農民に二宮仕法を示して今この道によらなければ復興することはできないと熱弁を振るった。両村の名主や農民はその熱意にうたれて喜んで歎願しようということになった。高野は歎願の誠意を示すために所有のモミ50俵を差し出して復興の資財とした。それに両村の農民は感動してその分に応じて米や金を出して誠意を表した。高野は両村の戸数・人口・田畑など調査した資料とともに家老の池田に提出した。池田は大変喜び、高野自身先生のもとに赴いて歎願するように命じた。高野は急いで身支度を整え、江戸に赴いた。相馬藩の江戸家老草野は高野に会って事情を聞いて大変喜んだ。そして二人尊徳先生に嘆願書を持って赴いたのである。先生は言われた。「いま両村が誠意をあらわし、領中に先立って仕法を歎願することは賞賛すべきことである。私の道は難村を先にするのではないが、この誠意をとりあげなければ、勧善の道にかけることになろう。よし、その願いに応じよう。」ここに相馬藩の仕法が始まるのである。高野は数ヶ月先生のまとに滞在して仕法を習得した。その年の11月、尊徳先生は高野に懇切丁寧な指示を与え、報徳記の著者である富田高慶を添えて相馬藩に帰国させて仕法を実施させた。その折、尊徳先生は高野丹吾にこういわれたのだ。「あなたに安全の守りを授けよう。すなわち私が詠んだ飯(めし)と汁木綿(もめん)着物は身を助く 其(その)余は我を責むるのみなりという歌である。歌が拙いからといって、軽視してはならない。身の安全を願うならば、この歌を守りなさい。一朝事があったときに、自分の味方となるのは、飯と汁木綿着物のほかにない。これは鳥獣の羽毛と同じでどこまでも味方である。このほかのものは皆自分の敵であると知りなさい。この外のものが自分の内に入るのは、敵が内に入るようなもので、恐れて除きなさい。これくらいのことは、これくらいのことはといって自ら許すところから、人はあやまつものである。始めは害がないものでも、年月をへると思わず知らずいつのまにか敵となって、後悔しても及ばなくなる。このくらいのものはと自ら許すものは猪や鹿の足跡のようなもので隠すことはできず、その足跡のために猟師に獲られてしまうのと同じだ。その外のものが内にはいらなければ、暴君も悪い官吏もどうすることもできない。進んで私の仕法を行う者は慎まなければならない。決して忘れてはいけない。」高野は頭を下げ、その言葉に感謝し、心をひきしめて相馬藩へ帰って仕法を実施するのである。
2023.09.16
古(いにしえ)の 白きを思い 洗濯の 返す返すも 返す返すも「解説 二宮先生道歌選」(佐々井信太郎)にはこうある。「この歌は、何度も作り改められたことが日記にも書かれている。文政8年6月6日に もみ洗ふ布のためにも洗たくの かへす返すも返す返すも文政11年4月14日には 本はみなたれも晒(さらし)の白木綿 染めつよごれつ末はいろいろ天保11年の藤曲村仕法書には、「湯(とう:中国の聖王)の盤(顔を洗う金たらい)の銘にいわく、まことに日に新たに、また日に新たなり」の題のもとに いにしへの白きをおもひせんたくの かへすがへすもかへすがへすも 日々日々に積もる心のちりあくた あらひながして我をたづねん」とある。(西ヶ谷手記「尊徳の森」より)そうか、貴様の家の衰退は貴様の家にその原因があるのだ。わが国の起こったのはわが国の力であって決して外国の力ではない。ゆえに衰えるのもまたわが国に原因があるのだ。家は大工が建てる。その破損は大工が修繕する。壁は左官が塗って左官が修繕する。いま貴様の家の衰退したのを再興するのは、どうしても貴様の祖先の足跡を踏むよりほかはあるまい。いったい、貴様の女房はどうだ。しっかりしておるか。貴様の女房だから、やっぱり意気地なしだろう。全体、自分の家の再興をはかるのに人の力を借りるようでは到底ダメだ。それに古い貸し金など当てにするようなことでは、再興はおぼつかない。この貸し金などはちょうど種芋のようなものだから、それを掘り取って食うようなことではダメだ。それに貴様の家宝の藤づるで編んだ背負(しょい)縄は祖先の足跡を忘れないための験(しるし)ではないか。貴様には年賦金など貸してはやらないから、郷里へ帰ってこの歌の意を日夜守って、腕限り根限り働いて見るがよい。 故(ふる)道に積もる木の葉をかきわけて 天照らす神の 足跡をみん 古(いにしえ)の 白きを思い 洗濯の 返す返すも 返す返すも☆最初「報徳記」を読むと尊徳先生が「雷のような」大声を出されて叱責する場面が多く、なぜもまあ先生はこれほどまでに怒るのかと不審に思う。しかし、繰り返し読むと、それは実には不動尊のごとく怒りの形相をもって正しい道に導こうとされているのだ。教化の一方法であって、こころには微塵も怒りはないということがわかる。早く心の田を耕せよ、気づけよ という涙ながらの慈愛であるのだ。だからこそ心を入れ替えた者には、ことのほか喜こばれるのだ。十一面観音菩薩様は頭上に憤怒の形相をお持ちである一度よく見てみるがいい慈母が過っている子供を厳しく叱責するようにその憤怒の形相にはどうかよくなってくれよ、気づいてくれよという祈りがこめられているのだ
2023.09.15
おのが子を 恵む心を 法(のり)とせば 学ばずとても 道にいたらん二宮翁夜話巻の2【42】尊徳先生が言われた。世界の中に法則とするべき物は、天地の道と親子の道と夫婦の道と農業の道との四つである。この道は誠に両全完全の物である。百事この四つを法則とすれば誤ちがない。私の歌に「おのが子を恵む心を法(のり)とせば学ずとても道に到らん」とよめるのはこの心である。天は生々の徳を下し、地はこれを受けて発生する。親は子を育てて、損得を忘れ、ひたすら成長を楽しみ、子は育てられて、父母を慕う。夫婦の間もまた互いに相楽しんで子孫が相続する。農夫は勤労して、植物の繁栄を楽しみ、草木もまた欣々として繁茂する。皆共に苦情がなく、喜びの情だけである。さてこの道にのっとる時は、商売は、売って悦び、買って悦ぶようにするべきである。売って悦び買て喜ばないのは道ではない。買って喜び売って悦ばないのも道ではない。貸借の道もまた同じである。借りて喜び貸して喜ぶようにするべきである。借りて喜び貸して悦ばないのは道ではない。貸して悦び借りて喜ばないのは道ではない。百事このようである。私の教えはこれを法則とする。だから天地生々の心を心として、親子と夫婦との情に基いて、損得を度外に置いて、国民の潤助と土地の復興とを楽むのである。そうでなければできない事業である。(略)およそ事は成り行くべき先を、前に定めるにある。人は生まれれば必ず死ぬべきものである。死ぬべきものという事を前に決定すれば、生きているだけ、日々利益である。これが私の道の悟である。生れ出ては、死のある事を忘れてはならない。夜が明ければ暮れるという事を忘れてはならない。先祖の心は自分の心に生きている 心を磨いて子孫に遺そう(芝寿し 梶谷忠司)
2023.09.13
報徳記巻之五【9】先生小田原より野州へ歸る領民野州へ來り仕法を請求す鵜澤某(それ)大いに色を失ひ、數月(すうげつ)櫻町に在りて、頻りに先生の往かんことを求めて息(や)まず。然るに小田原駿相(すんさう)の邑民(いふみん)談合(だんがふ)し、一邑毎(いふごと)に丹精を積み、先生の良法に基き衰貧の憂ひを除き再復せんと欲し、或(あるひ)は衣類を沽却(こきやく)し家財を鬻(ひさ)ぎ縄を綯(な)ひ之を集め以(もつ)て其の邑(いふ)再興の用度(ようど)となし、互に財を譲り艱難を盡(つく)し他の艱苦を救ひ、善事を行ふを以て本意(ほんい)とし、舊染(きうぜん)の汚風忽(たちま)ち變(へん)じ大いに淳厚(じゅんこう)誠實(せいじつ)の行(おこなひ)を立て、衰邑(いふ)再盛の指揮を先生に問ふ。先生歎じて曰く、嗟乎(あゝ)下民(かみん)道を聞き一旦感動するに及び、自ら其の舊弊(きうへい)を革(あらた)め平常の行ひ難き推讓奇特の行ひを立つること是(こ)の如し。先君世に在(いま)し此の事を聞き玉はゞ感賞許多(きょた)ならん。今領民此(こ)の如く丹誠を盡(つく)す事、是(これ)先君大仁の感(かん)徹(てつ)するにあらずや。下民すら私欲の念を去り邑(むら)を興さんとす。然るに人君政令を下して國家(こくか)を治めんとするに、此の民を惠(めぐ)むこと能はざるは何ぞや。若し領民此の行ひを立て道を請ふ。我其の國本(こくほん)の立たざるを以て之を棄(す)つる時は、百姓(しやう)度(ど)を失ひ風俗頽敗(たいはい)遂に主君を怨望(ゑんばう)するの心を生ぜんか。然らば先君萬民(ばんみん)を憐み玉ふ仁心を失ひ國家(こくか)の患(うれひ)豈(あに)少小(せうせう)ならん。誠に已(や)む事を得ざるの時といふべし。我彼の地に至り下民の丹誠を失はざるの道を與(あた)へんのみ と。此(こゝ)に於て天保十己亥(つちのとゐ)の冬野州を發(はつ)し小田原に至り、足柄上郡(ごほり)竹松村曾比(そひ)村に良法を開き、大いに邑(いふ)民を撫育し永安の道を立て、教ふるに人道を以てし導くに節儉勤業(せつけんきんげふ)を以てす。兩邑(りやういふ)數(すう)千金の借債を償ひ、民の憂苦を去り安息の道を與(あた)へ、凡そ再盛に至る所以(ゆゑん)のもの施行(しかう)せざることなし。兩(りやう)村の民感泣(かんきふ)して其の恩を謝せり。庶民の來(きた)りて教へを請ひ、仕法を求むるもの日々に數(すう)百人、已(や)む事を得ず、仕法を立て財を與(あた)へ衰邑再興の道を施し、前後其の財五千餘(よ)金に及べり。皆先生數(すう)年の良法丹誠に由り生ずる所の浄財なり。而して專ら先君當君(たうくん)の仁惠(じんけい)を唱へ、之を行ふ。領中益々感動し互(たがひ)に節儉(せつけん)を行ひ、他の困苦を救助するを以て本懐(ほんくわい)とし、孝悌信義の道行はれ、聞見(ぶんけん)する者感歎せざるはなし。小田原仕法此の時を以て盛んなりとす。然して先生翌子(ね)の季春(きしゆん)又(また)飄然(へうぜん)として野州に歸(かへ)れり。報徳記巻之五【9】先生小田原より野州へ歸る領民野州へ來り仕法を請求す鵜澤某(それ)大いに色を失ひ、數月(すうげつ)櫻町に在りて、頻りに先生の往かんことを求めて息(や)まず。然るに小田原駿相(すんさう)の邑民(いふみん)談合(だんがふ)し、一邑毎(いふごと)に丹精を積み、先生の良法に基き衰貧の憂ひを除き再復せんと欲し、或(あるひ)は衣類を沽却(こきやく)し家財を鬻(ひさ)ぎ縄を綯(な)ひ之を集め以(もつ)て其の邑(いふ)再興の用度(ようど)となし、互に財を譲り艱難を盡(つく)し他の艱苦を救ひ、善事を行ふを以て本意(ほんい)とし、舊染(きうぜん)の汚風忽(たちま)ち變(へん)じ大いに淳厚(じゅんこう)誠實(せいじつ)の行(おこなひ)を立て、衰邑(いふ)再盛の指揮を先生に問ふ。先生歎じて曰く、嗟乎(あゝ)下民(かみん)道を聞き一旦感動するに及び、自ら其の舊弊(きうへい)を革(あらた)め平常の行ひ難き推讓奇特の行ひを立つること是(こ)の如し。先君世に在(いま)し此の事を聞き玉はゞ感賞許多(きょた)ならん。今領民此(こ)の如く丹誠を盡(つく)す事、是(これ)先君大仁の感(かん)徹(てつ)するにあらずや。下民すら私欲の念を去り邑(むら)を興さんとす。然るに人君政令を下して國家(こくか)を治めんとするに、此の民を惠(めぐ)むこと能はざるは何ぞや。若し領民此の行ひを立て道を請ふ。我其の國本(こくほん)の立たざるを以て之を棄(す)つる時は、百姓(しやう)度(ど)を失ひ風俗頽敗(たいはい)遂に主君を怨望(ゑんばう)するの心を生ぜんか。然らば先君萬民(ばんみん)を憐み玉ふ仁心を失ひ國家(こくか)の患(うれひ)豈(あに)少小(せうせう)ならん。誠に已(や)む事を得ざるの時といふべし。我彼の地に至り下民の丹誠を失はざるの道を與(あた)へんのみ と。此(こゝ)に於て天保十己亥(つちのとゐ)の冬野州を發(はつ)し小田原に至り、足柄上郡(ごほり)竹松村曾比(そひ)村に良法を開き、大いに邑(いふ)民を撫育し永安の道を立て、教ふるに人道を以てし導くに節儉勤業(せつけんきんげふ)を以てす。兩邑(りやういふ)數(すう)千金の借債を償ひ、民の憂苦を去り安息の道を與(あた)へ、凡そ再盛に至る所以(ゆゑん)のもの施行(しかう)せざることなし。兩(りやう)村の民感泣(かんきふ)して其の恩を謝せり。庶民の來(きた)りて教へを請ひ、仕法を求むるもの日々に數(すう)百人、已(や)む事を得ず、仕法を立て財を與(あた)へ衰邑再興の道を施し、前後其の財五千餘(よ)金に及べり。皆先生數(すう)年の良法丹誠に由り生ずる所の浄財なり。而して專ら先君當君(たうくん)の仁惠(じんけい)を唱へ、之を行ふ。領中益々感動し互(たがひ)に節儉(せつけん)を行ひ、他の困苦を救助するを以て本懐(ほんくわい)とし、孝悌信義の道行はれ、聞見(ぶんけん)する者感歎せざるはなし。小田原仕法此の時を以て盛んなりとす。然して先生翌子(ね)の季春(きしゆん)又(また)飄然(へうぜん)として野州に歸(かへ)れり。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.12
丹精(たんせい)は誰しらずともおのづから 秋のみのりのまさる数々「二宮翁道歌解」(福住正兄)にはこの歌についてこうある。「これは農民が田畑に丹精を尽くし、耕し草をとり蒔き付け、肥やしを施し手入れそのほかの丹精をすれば、誰も知る人はいないが、天がこれを知るゆえに、その丹精だけのことは、少しも間違いなく一度肥やしをすれば一度だけ、二度肥やしをすれば二度だけ、一生懸命働いたものは一生懸命働いただけ、手を抜けば手を抜いただけ、秋になって実りに多少があることは少しも違わない。百事そのとおりである。丹精勤労は、必ずそれだけの報いがある天理を示されたのである。」☆あるプログに筑波大学の花井教授の話が載っていた。「昭和20年5月、終戦の3ヶ月前、私は父の転勤のため、当時の満州(今の中国東北部)・大連(だいれん)の小学校4年生のとき、本渓湖(ほんけいこ)という田舎街(いなかまち)に転校することになった。渡辺網夫先生が当時の担任だった。私はとても誇りに思っていた級長のバッチを先生に返して教員室を出ようとした。 その時、渡辺先生が私にこう言われた。「これからいろんなことがあるだろうけど、一日に5ページ以上、本を読みつづけてごらん」 その時私は何気なく先生のお言葉を聞いた。一日5ページなんて少しでないか、そんなことなんでもないことじゃないか、と思った。ともあれ、私は大連を去り、今の中露国境(当時のソ満国境)に近いほうに移住し、すぐに父が出征(父はシベリア抑留のため、その後死亡)した。そして私はそこで終戦を迎えた。 翌日から中国人の大暴動が起こった。中共軍による日本人幹部の人民裁判での処刑。思えば私の波乱に満ちた少年時代の始まりであった。 学校は閉鎖になってどこにも行けない。 いったい何をすればいいのか。その時私は渡辺先生のひと言を思い出した。「そうだ、こんな時こそ本を読めばいいのだ」と、そう思った。幸い隣家がアルバイトに貸し本屋を始めたので、そこの本を片っぱしから読んだ。私の人生の中でいちばん読書にはげんだ時代かもしれない。 それから引揚げ。父のいない引揚者の身、苦難は打ち続いた。でも、私は渡辺先生の「一日5ページ」の約束は常に実行した。やってみると一日に最低5ページというのは結構難しい。盆がある。正月がある。そういう日も一日も欠かさず5ページというのはやってみると大変だ。 だが、その恩師の教えを守った事が、私をして拙いものだが40冊近い著書を書かしめる学者に育て上げたのだと私は信じている。 渡辺網夫先生は小学校教諭、校長をへて、宮崎市教育長を勤められ、現在もお元気である。先生は私に「一日5ページ」の話をしたのは覚えておられないという。そういうものだ。何気ない先生のひと言が教え子の生涯を定める
2023.09.11
報徳記巻之五【9】先生小田原より野州へ歸る領民野州へ來り仕法を請求す奉行某(それ)鵜澤某(それ)大いに驚き此の條(でう)を以て大夫(たいふ)某(それ)に達し、先生の正言(しやうげん)を陳述すと雖も評議するのみ更に決せず。領民先生の住所を知らず。又去る所以(ゆゑん)を知らず。自ら誠意の足らざることを悔い、彌々(いよいよ)奇特の行ひを顯(あら)はし良法を先生に請はんとす。然るに先生櫻町に歸(かへ)りたりと聞き、諸村の里正(りせい)細民に至るまで慕ひ來(きた)り、衰邑(すゐいふ)再盛の仕法を歎願して止まず。先生日夜之を教ふるに、身を修め家を起し一邑(いふ)の艱難を除き孝悌(かうてい)の道を全うすることを以てす。日々(にちにち)に數千言(すうせんげん)皆其の人物に應(おう)じ、譬喩教誨(ひゆけうくわい)盡(つく)さゞる所なし。聞く者感激寝食をも忘れ感涙を流すに至れり。其の仕法を請ふ事至つて切なるものは、止む事を得ず一邑(いふ)再復の規畫(きくわく)を立て之を與(あた)ふ。衆大いに悦び小田原に歸(かへ)り道を守り法を行ひ、頗(すこぶ)る難村の衰廢(すゐはい)を擧(あ)ぐるもの少からず。同年某(それ)月鵜澤某(それ)命を奉じて野州に至る。先生に謂(い)ひて曰く、再び小田原に往き、諸村を再興して其の民を安んぜよとの君命なり。先生夫れ速かに發(はつ)せよ。先づ領中を再復せんには仕法の官廨(くわんかい)なくんばあるべからず。仍(よつ)て新(あらた)に造立(ぞうりつ)せり。其の圖(づ)此(こ)の如し。先生彼の地に至り道を行はんに此の官廨(くわんかい)に於てせば、數(すう)百人集會(しうくわい)すと雖も可なり。先生怫然(ふつぜん)として曰く、仁政の本源たる分度既に定る歟(か)。鵜澤曰く、是一朝(てう)の決すべきにあらず。然れども仕法の爲に官廨(くわんかい)成れり。順を以て分度も亦決せん而已(のみ)。先生曰く、是(これ)何の言ぞや。國(くに)に分度なき時は桶に底なきが如し。假令(たとひ)百萬(まん)の米財ありとも其の窮せんこと必(ひつ)せり。又何を以て飽くまで百姓を惠(めぐ)むことを得んや。我が言ふ所の本源は定むることあたはず、無用の官廨(くわんかい)を造立(ぞうりつ)する何の益あらん。國(くに)に分度ありて之を守り、分外の財を以て萬民を惠恤(けいじゅつ)す。此の大本(だいほん)立つて興復の道備はらば、官廨(くわんかい)を造立(ぞうりつ)するも可なるに似たり。何ぞ其の本を廢(はい)して此の如き末事(まつじ)を爲(な)すや。道行はれざる時は此(この)物不用にして徒(いたづら)に腐朽せん而已(のみ)。惑ひたりといふべし。予(よ)小田原に至らん事思ひもよらず と。郡奉行と鵜澤は大変驚いて、この旨を家老ら上層部に伝達し、先生の正言を陳述した。しかし評議するだけで、分度を決定することはできなかった。小田原領民は先生がどこにいらっしゃるか知らなかった。また去った原因も知らなかった。自ら誠意の足らざることを後悔して、いよいよ奇特の行いを明らかにし良法を先生に請おうとした。しかるに先生が桜町に帰ったと聞いて、諸村の名主や細民に至るまで慕い来たって、衰村再盛の仕法を歎願して止まなかった。先生は日夜これを教えられるに身を修め家を起し一村の艱難を除いて孝悌の道を全うすることをもってされた。日々に数千言、皆その人物に応じて、譬喩や教誨を尽くされた。聞く者は感激して寝食を忘れ、感涙を流すに至った。その仕法を請う事が切実なものは、やむをえず一村再復の企画を立てて与えられた。人々は大変悦んで小田原に帰って道を守り法を行い、多くの難村が衰廃を復興した。天保10年1月、鵜澤が命を奉じて野州にやってきた。先生にこう言った。「再び小田原に往き、諸村を再興しその民を安んぜよとの君命です。先生すぐに出発してください。領中を再復するには、まず仕法の役所がなければなりません。したがって新たに造立しました。その図面はこのようです。先生小田原に至って道を行うのにこの役所ですれば、数百人集会することも可能です。」先生はむっとされて言われた。「仁政の本源である分度は既に定ったのか。」鵜澤は言った。「分度は一朝一夕に決すべきことではありません。しかれども仕法のために役所もできました。次には分度もまた決しましょう。」先生は言われた。「何ということを言われるのか。国に分度がないのは、桶に底がないようなものです。分度がなければ、たとえ百万の米財があっても、その困窮にいたることは確実です。どうして十分に百姓を恵むことができましょうか。私の言う所の本源を定めることができず、無用の役所を造立して何の役にたちましょう。国に分度があってこれを守って、分度外の財で万民を恵のです。この大本が立って復興の道が備われば、役所を造立するもよいでしょう。どうしてその本を廃してこのような末事を行うのですか。道が行われない時はこの建物は不用であって無駄に腐朽するだけです。惑っているというべきです。私が小田原に行く事は思いもよりません。」 と。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.11
報徳記 巻之五【9】先生小田原より野州へ歸る領民野州へ來り仕法を請求す先生一度小田原領へ仕法を開き、七十二邑(いふ)忽然として風化せり。然して國本(こくほん)分度確立の有無をシバシバ問ふといへども、國家(こくか)の大體(だいたい)容易に決すべきにあらずと云ふ。先生郡(こほり)奉行某(それ)鵜澤某(それ)に謂(い)ひて曰く、國體(こくたい)の分度定らざる時は仁政の本根(ほんこん)なし、仁の本(もと)立たずして下民(かみん)を惠(めぐ)まんことを計る。是(これ)誠に民を憐れむの仁心なきが故也(ゆゑなり)。我(わが)君(きみ)の大仁(だいじん)を唱へ下民(かみん)の困苦を除き之を安んずるの道を行ふ時は、百姓(しやう)誠に君の大仁を下し玉ふと爲(な)し、歡喜(くわんき)して力を稼穡(かしょく)に盡くし租税を増(ま)して其の恩に報ぜんとす。人の上(かみ)に立ち此の貢税の増益を悦び之を取る時は、民力盡(つ)きて忽ち困窮し、遂に氓民(ぼうみん)とならん。然らば此の民を惠み之を安んぜんとするにはあらず。坐(ゐ)ながら聚歛(しうれん)を行ひ民をして其の所を失はしむるに歸(き)せん而已(のみ)。我不肖(ふせう)なりと雖も先君の命を蒙り十有餘年行ふ所、皆下民を安んじ上下永安ならしめ君の心を安んぜんとして萬苦(ばんく)を盡(つく)せり。何ぞ今に至り仁政の本立たざるの地に仕法を下し、此の民を苦しめ聚歛(しうれん)の政(せい)を助けんや。子(し)の輩(ともがら)其の本源に力を盡(つく)さずして農間(のうかん)に心を用ゐば、仁を行はんとして遂に聚歛(しうれん)の臣に陥らん。豈(あに)忠臣の爲(な)すべき所ならんや。先君既に逝去し玉ふ。我如何(いかに)ともし難(がた)しと云ふ。某(ぼう)大いに先生の苦心を察すといへども、力の不足を憂ひ黙然として答へず。先生飄然(へうぜん)として獨歩(どくほ)し、遂に野州櫻町に歸(かへ)れり。報徳記巻之五【9】先生小田原より野州へ歸る領民野州へ來り仕法を請求す先生が一度小田原領へ仕法を開くと、72村はすぐに草が風になびくように従った。先生は小田原藩に分度の確立の有無をしばしば問われたが、藩政の大方針に関わることで容易に決定できないというだけであった。先生は郡奉行と鵜澤作右衛門にこう言われた。「国体の分度が定まらない時は仁政の本根がないことになる。仁の本が立たないまま、下民を恵むことを計る。これは誠に民を憐れむ仁心がないことによるものです。わが君が大仁を唱えて下民の困苦を除いてこれを安んずる道を行う時、百姓は誠に君が大仁を下されたと思い歓喜して力を家業に精出し租税を増してその恩に報いようとします。人の上に立つ者が貢税が増えたことを悦んで増収分を貪る時は、民力は尽きてしまい、たちまち困窮し、遂には亡民となってしまうことでしょう。そうであれば民を恵んでこれを安んぜしめようとするものではありません。むしろ居ながらに民から酷い租税の取立てを行い、民にその所を失わせることになるでしょう。私は不肖ながら先君の命を受け10余年行ってきた所は、皆下民を安んぜしめ、上下を永安ならしめ、君の心を安じようとして万苦を尽くしてきたのです。どうして今になって仁政の本が立っていない地に仕法を下して、この民を苦しめ酷い租税の取立てとなることを助けましょうか。あなたの同輩は、その本源に力を尽くすことなく、仕法に心を用いるならば、仁を行おうとしてかえって遂に酷い租税の取立てを行う臣に陥ることでしょう。どうしてそれが忠臣の行うところでしょうか。先君は既に逝去されました。私としてはどうしようもありません。」郡奉行と鵜澤は、大いに先生の苦心を察したが、自らの力不足を憂えて黙って答えなかった。先生は、ひょうぜんとして一人で野州桜町に帰られた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.10
大夫(たいふ)某(それ)大いに此の言を感じたりといへども、上を損し下を益すの道誰か之を同意せんや。若し分度を立つることあたはずといはゞ二宮必ず命を受けず。受けざる時は先君の遺命を廢(はい)し、我々の罪免れ難しと沈吟して曰く、子(し)の言至れりと云ふべし。分度なき時は行ふ可きの道有らざる事は曾(かつ)て聞く所なり。然れども今速かに評決には至り難し。子先づ小田原に往き民間に良法を施すべし。近日子(し)の言を以て力を盡(つく)し此の本源を定め永安の道を行ふべしと。先生曰く、分度(ぶんど)定不定(ていふてい)の未だ決せざるに群邑(いふ)に着手すべきの道なし。先づ其の本を定むべし。農間(のうかん)の事は急ぐに足らざるなり と云ふ。大夫(たいふ)以下頻(しき)りに開業を請うて止まず。先生俄(にはか)に争ふべからざる事を察し、其の令に任せ小田原に至り、良法を一二邑(いふ)に開業せり。領中の民前年飢渇死亡を免れ、今又先生君命を受け來(きた)りて仁術を行ふ事を聞き、四方の民蟻(あり)の如く集り、其の教へを聞き其の仁術を慕ひ先生の徳を仰ぐ事父母の如く、僅かに一二邑(いふ)に手を下し忽ち郡中舊來(きうらい)の惡俗(あくぞく)を洗ひ、互(たがひ)に遊惰(いうだ)を戒め推讓の道を起し、七十二ヶ村に推し及び大いに風化の道行われ、上下擧(あ)げて先生の高徳を歎美す。家老は大いにこの言に感銘を受けたが、上を損して下を益する道を誰が同意しようか。もし分度を立てることができないといえば、二宮は必ず命を受けないであろう。二宮が受けない時は先君の遺命を廃することになり、我々の罪は免れ難い。そして沈吟して言った。「あなたの言は至れりというべきだ。分度がない時は仕法を行うことができないということは、かって聞く所である。しかれども今速かに評決には至り難い。あなたはまず小田原に往って民間に良法を施していただきたい。近いうちにあなたの言のとおり力を尽くしてこの本源の分度を定め、永安の道を行うこととしよう。」先生は言われた。「分度は、これを定めるか定めないか未だ決しないうちに着手する道はありません。先ずその本を定めるべきです。農村の復興の事は急ぐに足りません。」家老以下、先生にしきりに開業を請うて止まなかった。先生はにはかに争うことができないという事を察して、その命令に任せて小田原に至って、良法を1,2村に開業した。領民は前年飢渇死亡を免れ、今また先生が君命を受けて来って仁術を行う事を聞いて、四方の民は蟻のように集って、その教えを聞いて、その仁術を慕って先生の徳を仰ぐ事は父母のようであった。わずかに1,2村に手を下すとたちまち郡中旧来の悪い風俗を洗いさり、互いに遊惰を戒めあって推譲の道を起し、72村に推し及ぼし、大いに風化の道が行われて、上下挙げて先生の高徳を歎美した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。報徳記巻之五【8】小田原領中興國安民の道を開業す その3イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.09
報徳記巻之五【8】小田原領中興國安民の道を開業す先君賢明にして國民(こくみん)を憐み玉ふこと子の如く、興廢(こうはい)存亡の機を察し玉ふ事平常の企(くはだ)て及ぶべきにあらず。然して猶(なほ)大いに仁政を施し、國弊(こくへい)を除き玉ふ事あたはず。況んや當君(たうくん)若年(じやくねん)にして此の大業を擧(あ)げ、國(くに)の舊弊(きうへい)を一洗し衰弱に陥らんとする國家(こくか)を再盛し、永安の道を不朽に確立し玉ふ事臣其の成し難きを知れり。然りと雖も前言此(こ)の如し。今之を辭(じ)せば先君泉下(せんか)の憂勞(いふらう)を安んずべき可きの道なし。臣は臣の道を盡(つく)さんのみ、豈(あに)其の成功を論ぜんや。然れども一旦(たん)野州の仕法を移さん事を命じ玉ふ時は、仕法の本源立たずしては行ふべきの道あらず。如何(いかに)となれば某(それがし)野州廢亡(はいばう)の三邑(いふ)再興を命じ玉ふ時に當(あた)り、宇津家の分度(ぶんど)千五苞(へう)を以て定額とし、廢地(はいち)を開き民を惠み餘罪(よざい)を生ずるに至りては之を分外(ぶんがい)となし、無盡(むじん)の米粟(べいぞく)を生じ彼の地を舊復(きうふく)せり。外(ほか)諸侯の邦内(ほうだい)を再興するも皆此の基礎を定め、然後(しかるのち)法を下せり。況んや小田原十一萬石(まんごく)の領邑(いふ)を再復し萬民(ばんみん)を安んぜんとするに、此の本源立たず撫育の米財なくして、徒(いたづら)に領邑(いふ)を再盛せんことは聖賢といへどもあたはざる所なり。況んや臣の不肖何を以て君命を汚さず、再興の道を行ふことを得んや。故に既往(きおう)十年の貢税を平均し、其の中(なか)を執(と)りて再興の道成就を奏(そう)するまでの分度となし、この度(ど)を以て入(い)るを計(はか)り出づるを制し、節儉(せつけん)を行ひ有餘(いうよ)を生じ萬民(ばんみん)を救助し玉ふべし。此の本源確立せば目今(もくこん)仕法行はれ難きの理ありといへども、猶(なほ)其の成るべきの道を生ぜん歟(か)。苟(いやしく)も其の本(もと)立たずして徒(いたづら)に末(すゑ)を擧(あ)げんとせば、是民を惑わし遂に聚歛(しうれん)の災(さい)を開き、國(くに)を興さんとして却(かへつ)て其の國(くに)を亡ぼすの大患を生ぜん。是故に分度を立つる時は大仁(たいじん)を行ふに足り、分度なき時は國(くに)を廢(はい)するの殃(わざわひ)となれり。若し分度は立つべからず、獨(ひと)り領中のみ再興せよとの命ならば、君命重しといへども臣之を辭(じ)せんのみ。此の有無は大夫(たいふ)以下の評決に依れり と云ふ。先君(大久保忠真候)は賢明で国民を憐まれること子を慈しむようで、興廃や存亡の機会を察せられる事は通常の人が及ぶところではなかった。しかしてなお大いに仁政を施し、国の弊害を除くことができなかったところです。いわんや当君は若年であり、この大業を挙げ、国の旧弊を一洗して衰弱に陥ろうとする国家を再び盛大にし、永安の道を不朽に確立される事がどんなにこんな困難であるか私は知っております。しかしながら前に申したとおり今これを弁じようとすれば、先君が泉下で憂労を安んずべき道がありません。臣は臣の道を尽くすだけです。それが成功するかどうかどうして論じましょう。しかし一たん、野州の仕法を移す事を命じられる時は、仕法の本源が立たなくては行うべき道はありません。なぜかといえば、私が野州廃亡の三村の再興を命じられた時に当たって、宇津家の分度1500俵を定額とし、廃地を開いて民を恵み余財を生ずるに至ってこれを分度外として、無尽の米粟を生じ、彼の地を旧復したのです。その外の諸侯の領内を再興する場合も皆この基礎を定めて、その後に仕法を実行したのです。まして小田原11万石の領村を再復し、万民を安んじようとするに、この本源が立たず撫育の米財もなくして、いたずらに領村を再び盛んにしようということは聖賢であってもできない所です。いわんや臣のような不肖の者が君命を汚さず、再興の道を行うことをできましょうか。故に既往10年の貢税を平均し、その中をとって再興の道を成就を報告するまでの分度となし、この度をもって入るを計って出ることを制し、節倹を行い余剰を生じて万民を救助されるべきです。この本源が確立すれば今現在、仕法が行うことが困難であったとしても、なおその成るべき道を生ずることもありましょうか。いやしくもその本が立たないで、いたずらに末を挙げようとすれば、これは民を惑わして遂には厳しく租税を取り立てるという災難を起こすことになり、国を興そうととしてかえってその国を亡ぼすという大き災難を生ずることでしょう。このために分度を立てる時は大きな仁を行うに足り、分度がなき時は国を廃するの災いとなります。もし分度は立てることはできない、ただ領中だけ再興をせろとのご命令であるならば、君命は重いといっても臣はこれを辞するだけです。この有無は家老以下の評決次第です」と言われた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.08
報徳記 巻之五【8】小田原領中興國安民の道を開業す小田原候逝去(せいきょ)し玉ひ、下(しも)百姓に至るまで赤子(せきし)の慈母に離れたるが如く、茫然として悲歎に迫れり。嫡子(ちゃくし)讃岐候(さぬきこう)は父君(ちゝぎみ)に先立ち逝去し、嫡孫(ちやくそん)仙丸君(せんまるぎみ)幼年にして世を繼(つ)ぐ。是(これ)に於て大夫(たいふ)辻(つじ)吉野(よしの)以下先君の遺言(ゐげん)を奉じ、領邑(いふ)再興の道を先生に委任せんとし、既に評決して、天保九戊戌年(つちのへいぬのとし)先生に命じて曰く、野州三邑(いふ)再復百姓撫育(ぶいく)の良法小田原領中へ移し、永安の道を開くべしとなり。先生謹(つゝし)みて命を受け、然後(しかるのち)端(たん)を改めて大夫(たいふ)以下に謂(い)ひて曰く、先君、寛仁にして國民(こくみん)を安んずるの政(せい)に心思(しんし)を盡(つく)し、曾(かつ)てシバシバ臣に此の事を訊問(じんもん)し玉ふ。微臣(びしん)思へらく、小田原上下(じやうげ)の勢い之を四時に譬(たと)へんに秋冷(しうれい)の時に當(あた)れり。夫れ秋は春夏(しゆんか)生々(せいせい)の五穀皆熟し、周年中(しうねんちゆう)の豊饒(ほうぜう)なること秋を以て最上とす。世人此の時に當(あた)れば後日の艱難(かんなん)を慮(おもんば)らず前日の艱苦を忘れ、惟(たゞ)目前の奢侈(しゃし)を以て快(こゝろよ)しとす。是凡情の常にして遂に貧苦を免れざる所以(ゆゑん)なり。小田原上下先年困窮極り、高禄の重臣と雖も今日(けふ)の活計に困しめり、然るに方今(ほうこん)漸々其の窮を免れ、強(し)ひて領民の租税を増し借債(しやくざい)を償わず、水草(みづぐさ)の根なくして花を開けるが如くなる時に及び、奢侈(しゃし)を常とし節儉(せつけん)を惡(にく)み、尚(なほ)此(こ)の上の豊富を望み不足心(ふそくしん)息(や)まず。聊(いささ)か後難を憂ふるの心有らず。此(こ)の如くなる人情に當(あた)りて、上(かみ)を損し下(しも)を益し、節儉(せつけん)を行ひ永安の道を確立すること豈(あに)難(かた)からずや。嗚呼(あゝ)時既に秋に當(あた)れり、如何(いかに)ともすべからず。君之を憂ひ臣をして永安の道を立てしめんとし玉ふといへども、人情の背く所何を以て上下の時勢に反し道を立てることを得んや と言上す。先君沈吟(ちんぎん)良(やや)久しくして曰く、汝の見る所時勢(じせい)的然(てきぜん)なり。方今(はうこん)は行ふこと能はずと雖も、嫡孫(ちやくそん)仙丸の代には行はれんか。汝今より其の備へをなし、後年(こうねん)必ず永安の道を開くべし と命じ玉ふ。某(それがし)其の行はれ難きことを知れりといへども、先君の國家(こくか)を憂勞(いうらう)し玉ふ事是(こ)の如し。然るを後年と雖も猶(なほ)難からんと言上せば、君の苦心を安んずるの道なし。已(や)む事を得ず後年仙丸君の時に至らば行はるべきの時も至らんか。成不成(せいふせい)に拘(かゝ)はらず臣の分量をば盡(つく)すべし と言上せり。 報徳記 巻之五【8】小田原領中に興国安民の道を開業する小田原候が逝去され、下は百姓に至るまで赤子が慈母から離れたように、悲歎にくれていた。嫡子の讃岐候は父君に先立って逝去されており、嫡孫の仙丸君が幼年で世を継いだ。家老の辻と吉野以下は、先君の遺言を奉じて、領村の再興を先生に委任しようとして、評決した上で、天保9年先生に命じて言った。「野州三村を再復し百姓を撫育した良法を小田原領中へ移し、永安の道を開くべし」先生は謹んで命を受け、その後に居ずまいをを改めて家老以下にこう言われた。「先君は寛仁にあらせられ、国民を安んじようと政治に心思を尽くされ、かってしばしば私にこの事を問われました。『私が思うに、小田原上下の勢いは、これを四季にたとえると秋冷の時に当たります。秋は春夏生々の五穀が皆熟し、一年中で豊かなことは秋を最上とします。世人は、この時に当たれば、後日の艱難を考えることなく前日の艱苦を忘れ、ただ目前の贅沢を快しとします。これが凡情の常であって遂には貧苦を免れない理由です。小田原上下は先年困窮が極って、高禄の重臣であってもその日の活計に困しみました。しかるに最近ようやくその困窮を免れて、しいて領民の租税を増し借債を償わないで、水草が根がなくて花を開いているような事態に及び、贅沢を常とし節倹を憎んで、なお、この上の豊富を望んで不足心がやみません。いささかも後難を憂うる心がありません。このような人情にあたって、上を損し下を益し、節倹を行い永安の道を確立することは困難です。ああ、時は既に秋に当たっていて、いかんともすることができません。君はこれを憂えられ、臣をして永安の道を立てようとされますが、人情の背くところ上下の時勢に反して道を立てることができましょうか』と言上した。先君は沈吟して、やや久しくして言われました。「汝の見る所は時勢的然である。現在は行うことができないといっても、嫡孫の仙丸の代には行うことができようか。汝は今よりその備えをなし、後年は必ず永安の道を開いてくれよ」と命じられた。私はその行うことが困難なことを知ってはいましたが、先君が国家を憂労される事はこのようでした。しかるを後年といっても、なお困難であると言上すれば、君の苦心を安んずることができません。やむことをえず、『後年仙丸君の時に至るならば行れる時も至りましょうか。成不成にかかわらず臣の分量をば尽くしましょう』と言上しました。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.07
報徳記 巻之五【7】先生小田原の大夫某と飢歳當然の道を論ず某(ぼう)曰く願はくば其の道を聞かん。先生曰く、國(くに)窮し倉廩(そうりん)空しくして五穀實(みの)らず國民(こくみん)餓ヒョウ(がへう)を免れざるもの其の罪安(いづく)んかある。國君(こくくん)大夫(たいふ)以下の職たるや、天民(てんみん)を預り之をして悪に陥らず善を行ひ、人倫の道を蹈(ふ)み生養(せいやう)を安ぜしむるもの其の職分にあらずや、此の勤勞(きんらう)を以て恩禄を賜り父母妻子を養ふことを得。然るに其の民を預り安んぜんとするもの思慮此(これ)にあらずして自ら安居(あんきょ)の道を計り奢侈(しゃし)に長じ、上下(じょうげ)困窮に陥り萬民(ばんみん)をして飢渇死亡に穽(おとしい)るゝに至りて、猶(なほ)漠然として我が罪なることを知らず、歎ず可(べ)きの至りに非ずや。此の時に當(あた)り救助の道を得(え)ば可也(かなり)。若し得ずんば人君(じんくん)此の罪を天に謝し萬民(ばんみん)に先立ち飲食を斷(だん)じて死すべし。然りといへども一國(こく)君を失はゞ其の患(うれ)ひ至大(しだい)にして、誰か又國家(こくか)を治めん。然らば大夫(たいふ)たるもの君の死を止(と)め、領中に令(れい)して云(い)ふべし。我等君(きみ)を補佐し仁政を行ひ百姓(ひゃくしやう)を安んぜんが爲(ため)の職分なり。然るに上(かみ)君に忠を盡(つく)すことあたはず、下(しも)百姓を安んずることあたはず、一歳(さい)の飢饉猶(なほ)其の飢渇を救ふことを得ず、是皆我が不肖(ふせう)にして其の罪重しといふべし。百姓に謝するに死を以てすといへども何を以て其の罪を償ふことを得んや。君(きみ)仁心厚くして某等(それがしら)の罪を自分(じぶん)の過(あやま)ちとなし、今領民に先立ち命を棄て萬民(ばんみん)に謝し玉はんと宣(のたま)ふ。某等(それがしら)大いに驚き一國(こく)上下の大患(だいくわん)是より大なるはなし。君(きみ)素(もと)より臣等に安民の政(せい)を任ず。臣其の任を受けて而(しか)して其の民を飢渇に陥らしむ。此の罪臣等にありと言上し、君(きみ)の百姓に先立ち玉ふことを止(と)め奉りしなり。是(これ)に由(より)て某(それがし)百姓に先んじ食を斷(た)ち死を以て領民に謝する也と令し、第一に大夫餓死(がし)に及ぶべし。其の次に郡(こほり)奉行(ぶぎょう)なるもの其の職とする所領民の危(あやふ)きを去り安からしむるにあり。然るに其の行ふ所道に差(たが)ひ此の民を飢亡(きぼう)せしむ、是我が罪なり。死を以て百姓に其の罪を謝せんと云(い)ひ斷食(だんじき)して死すべし。其の次は代官たるもの奉行同罪なりと云ふて食を斷(た)ちて死すべし。是(こ)の如くなれば始めて其の任に在りて、其の任を忘れたるの罪を知れりとすべし。領民此の事を聞かば國君(こくくん)の民を憐み玉ふこと一身にも換(か)へ玉ふ。大夫(たいふ)以下我々飢渇の故を以て其の咎(とが)を一身に引(ひ)き飢亡(きぼう)に及べり。君(きみ)大夫(たいふ)以下何の罪あらんや。我が輩(ともがら)平年奢(おご)りに長じ米財(べいざい)を費(ついや)し凶年の備(そな)へをなさず自(みずか)ら此の飢(うゑ)に及べり。然るに高禄歴々の重臣之が爲に死亡に至れる事我輩(わがはい)の大罪にあらずや、餓死元より當然(たうぜん)なり。高禄の貴臣尚(なほ)食を斷(た)ちて終れり。我々の餓ヒョウ(がへう)に至らん事何の恐るゝ所やあらんやと、一同飢歳(きさい)を恐れ死亡を憂ふるの心忽然として消(せう)し其の心悠然たり。一旦憂懼(いうく)の心去る時は食(しょく)其の中にあり。領民互(たがひ)に融通(ゆうつう)し又は高山に登り草根(さうこん)を食とし、國中(こくちゅう)一人の餓ヒョウ(がへう)なきに至る事必せり。一年の凶飢(きょうき)何ぞ一國の米粟竭盡(けつじん)するの理あらんや。又百草百木も人を養ふに足れり。然して國民飢亡(きぼう)に及ぶものは憂惧(いうく)の心主となり、食を求るの氣力(きりょく)を失ひ死亡に至るなり。譬(たと)へば玉なしの鳥銃(てうじゅう)の音に驚き死するが如し。鳥銃玉なくんば豈(あに)人を害せんや。然して斃(たふ)るゝものは玉ありとなし其の音に驚き死す。一歳(さい)の凶年何ぞ人を害せんや、人飢饉の音に驚き飢渇に及べり。是の故に政(せい)を執るもの咎(とがめ)を一身に引(ひ)きて先づ死する時は、音に驚きたる衆民(しゆうみん)の惧心(ぐしん)消散(せうさん)し、必ず飢(うゑ)に及ぶものなし。豈(あに)奉行代官までの死を待たんや。大夫(たいふ)餓死せば萬民(ばんみん)救はずして必ず飢亡(きぼう)を免るべし。是(これ)荒政(くわうせい)の術盡(つ)き萬民(ばんみん)を救わずして救ふの道なり と云ふ。大夫(たいふ)愕然(がくぜん)として自ら失ふが如く、流汗(りうかん)衣(ころも)を沾(うるほ)し良(やゝ)久しくして曰く、誠に至當(したう)の道なり。報徳記 巻之五【7】先生小田原の家老某と飢歳当然の道を論ず家老が言った「願はくばその道を聞ききたい。」先生は言われた。「国が窮乏し米蔵が空となり、五穀が実らないで国民が飢えて死ぬことが免れない、その罪はどこにあるか。国君、家老以下の職は、天から民を預ってこれを悪に陥らせることなく、善を行わせ、人倫の道を踏ませ生養を安らかならしめるものがその職分ではないか。この勤労によって恩禄を賜って父母や妻子を養ふことができる。しかるにその民を預って安んじようとするものの思慮がここになく、自ら安居する道を計って奢侈に長じ、上下ともに困窮に陥いらせ、万民をして飢えさせて死亡におとしいれるに至りながら、なお漠然として自分の罪であることを知らない、これは歎くべきの至りではないか。この時にあたって救助の道を得られればよし。もし得られなければ君主はこの罪を天に謝し万民に先立って飲食を断じて死ぬべきである。しかしながら一国の君主を失うならば、その憂いは大変大きく、誰が国家を治めえようか。しからば家老たるもの君主の死を止め、領中に令してこう言うべきである。『我等君主を補佐し仁政を行い百姓を安らかにするための職分である。しかるに上、君に忠を尽くすことができず、下、百姓を安んずることができず、一年の飢饉なおその飢渇を救うことができない、これは皆我が不肖であるためでありその罪は重いというべきである。百姓に謝するに死をもってしても、どうしてその罪を償うことができようか。君主は仁心厚く、それがしらの罪を自分のあやまちとされ、今、領民に先立って命を棄て万民に謝したいとおおせられている。それがしらは大変驚いた。一国の上下の大患これより大きいものはない。君主はもとから臣等に安民のまつりごとを任じられた。臣はその任を受け、そしてその民を飢渇に陥らしめた。この罪は臣等にありますと言上し、君主の百姓に先立たれるのを止め奉った。これによって、それがし百姓に先だって食を断って死をもって領民に謝するなり。』と令し、第一に家老が餓死に及ぶべきである。その次に郡奉行の職とする所は、領民の危険を去らしめ安からしめるにあり。しかるにその行ふ所が道にたがい、この民を飢え死させる、これは私の罪である。死をもって百姓にその罪を謝せんと言って食を断って死ぬべきである。その次は代官も奉行と同罪であると言って食を断って死ぬべきである。このように行うならば、はじめてその任にありながら、その任を忘れた罪を知るというべきである。領民はこの事を聞くならば、国君が民を憐まれること一身にも換へられようとしている。家老以下、我々が飢渇したということで、その責任を一身に引き受けて餓死に及んだ。君主や家老以下に何の罪があろうか。我々は通常の年におごりが過ぎて米財を費し、凶年の備えをなさなかった。そのために自らこの飢えに及んだのだ。しかるに高禄歴々の重臣がこのために死亡に至る事は我々の大罪ではないか、餓死するのも元より当然のことである。高禄の貴臣すら、なお食を断って亡くなった。我々の餓えに至っても何を恐れることがあろうかと、一同飢饉の年であると恐れ、死亡を憂える心が忽然と消えうせてその心は悠然となる。一旦憂い恐れる心が去る時は食はその中にある。領民はたがいに融通しあい又は高山に登って草の根を食とし、国中一人の餓死者がないに至る事は必然である。一年の凶飢でどうして一国の米粟が尽き果てるような道理があろうか。又百草百木も人を養うに足りる。しかして国民が飢え死にに及ぶのは憂いと恐れの心が主となって、食を求める気力を失って死亡に至るのである。たとへば玉をこめていない猟銃の音に驚いて死ぬようなものである。猟銃に玉がなければどうして人を害することができようか。しかして斃(たお)れるのは、玉があると思ってその音に驚いて死す。一年の飢饉がどうして人を害することがあろうか、人は飢饉の音に驚いて飢渇に及ぶのだ。この故に政治を執るものが責任を一身に引き受けて先づ死ぬ時は、音に驚いた衆民の恐れる心が消散し、必ず飢えに及ぶものはなくなる。どうして奉行代官までの死を待つことがあろう。家老が餓死すれば万民を救わないでいて必ず飢亡を免れるであろう。これが、救済の方法が尽きて万民を救わないで救う道である。」と言われた。家老は愕然として自失し、汗が流れ衣をうるほした。暫く黙ってようやくこう言った。「誠に至当の道である。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.06
報徳記 巻之五【7】先生小田原の大夫某と飢歳當然の道を論ず申(さる)の凶荒(きようくわう)に當(あた)り、救荒(きうくわう)の道を命ぜられ小田原に至れり。時に大夫(たいふ)某(それ)先生に問て曰く、年飢ゑて民を救うの道を得ず。此の時に當(あた)り何の術を以て飢渇の民を救ひ之を安(やす)んぜんや。先生曰く、禮(れい)に云(いわ)く國(くに)九年の蓄(たくわ)へ無きを不足と曰ひ 六年の蓄(たくわ)へ無きを急と曰ひ 三年の蓄(たくわ)へ無きを國(くに)其(その)國(くに)に非ずと曰ふ夫(そ)れ歳入の四分が一を餘(あま)し之を蓄(たくわ)へ、水旱(すゐくわん)荒年(くわうねん)盗賊衰亂(すゐらん)の非常に充(あ)つるもの、聖人の制(せい)にあらずや。事豫(あらかじ)めする時は救荒(きうくわう)の道何ぞ憂ふる事之あらん。然るに僅(わづか)一年の飢饉至り救荒(きうくわう)の道なしとは何ぞや。是の如くにして國君(こくくん)の任何(いづ)れにかある。大夫(たいふ)執政(しつせい)の任何を以て其任とするや。大夫(たいふ)某(ぼう)曰く、事前に備ることあらば元より凶飢(きようき)の憂(うれひ)あらず。今如何(いか)にせん。其の備(そなへ)なく又其の術を得ず。此の難場(なんば)に臨み之を處(しょ)するの道ある歟(か)。撫育の米財なくして民を救(すく)はんこと英傑明知と雖(いへど)も能(あた)はざる所ならん、將(はた)別に道あるか。先生答へて曰く、如何(いか)なる困窮の時といへども自然處(しょ)すべきの道なしと謂(い)ふ可らず。唯(たゞ)行ふ事の能(あた)はざるをのみ憂ひとせり。報徳記 巻之五【7】先生小田原の家老なにがしに飢饉の年に当然為すべき道を論ずる尊徳先生は天保8年の大飢饉にあたって、救済を命ぜられて小田原に至った。時に小田原藩家老が先生に問うた。「飢饉の年となり民を救うことができない。この時にあたってどのような方法で飢えている民を救って、こえを安んずることができようか。」先生はこう言われた。「礼経にこう書いてあります。『国9年の貯えがないのを不足といい、6年の貯えが無いのを急といい、3年の貯えが無いのを国その国に非ず』と申します。それ歳入の4分の一をあまらせこれを貯え、水害やヒデリや、飢饉、盗賊など衰乱の非常に充てるというのが、聖人のさ定められたことではありませんか。事あらかじめする時は救済の道をどうして憂える事がありましょうか。そうであるにわずか一年の飢饉がきて救済の道がないとはどうしたことでしょうか。このようにして国の君主の任務はどこにありましょう。家老の執政の任務は何をもってその任務としましょうか。」家老は言った。「事前に備えることがあれば、元より飢饉の憂いはない。今、どのようにすればよいのか。その備えもなく、またその方法も得ることができない。この難場に臨んでこれを解決するの道はあるのか。救済の米や財がなくて、民を救うことは英傑明知であってもできないところではないのか、それとも別に道はあるのか。」先生は答えて言われた。「どのような困窮の時であっても自然と処すべき道がないなどということはできません。ただ行う事ができないことを憂いとするだけです。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.05
報徳記巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ先生君候の逝去し玉ふ事を聞き、慟哭悲歎流悌(りうてい)して曰く、嗚呼(あゝ)我が道既に斯(こゝ)に窮せり。賢君上に在(いま)し我をして安民の道を行はしむ。臣(しん)始めて命を受けしより十有(いう)餘(よ)年千辛萬(ばん)苦を盡(つく)せるは何の爲(ため)ぞや。上(かみ)明君の仁を擴(ひろ)め下(しも)萬民(ばんみん)に其の澤(たく)を被(かうむ)らしめんとする而已(のみ)、豈(あに)他あらんや。遂に其の事半(なかば)に至らず、君奄然(えんぜん)として逝去し玉ふ。以來(いらい)誰と共に此の民を安んぜんや と大息(たいそく)悲痛自ら前後を失するが如し。暫くありて容貌を改め毅然(きぜん)として曰く。嗚呼(あゝ)憂心歎息度に過ぎ飢民救助の道を怠り一民だも失ふ時は、君の尊靈(そんれい)何ぞ歎き玉はざらんや。一刻も早く君の仁澤(じんたく)を布(し)き此の民を救はん而已(のみ)と、涕(なみだ)を拭ひ廻村し一邑(いふ)毎に無難(ぶなん)中難(ちゆうなん)極難(ごくなん)と三段に分ち、賑貸(しんたい)の員數(ゐんずう)を定め之を償はしむるに五年を以てし、極難のもの償ひ難き時は一邑(いふ)の力を以て之を償ふべきの約を定めたり。廩粟(りんぞく)至るの間も死亡を免れざるの飢民あり。先生數(すう)百金を懐にし、此の如き飢民一人毎に之を尋ね、自ら金を與(あた)へて曰く、近日(きんじつ)君の惠(めぐ)みありて汝等一人も死亡に至らざるの救助あり。暫時(ざんじ)の飢渇之を以て凌(しの)ぐべしと云ふ。飢民或(あるひ)は病者數日(すうじつ)の絶食容貌疲痩(ひそう)立って之を受くること能はず。只(ただ)合掌流涕(りうてい)救助の忝(かたじけ)なきことを謝せり。人皆落涙せざるものなし。駿豆相(すんづさう)の領中村々是の如く回歩數日(すうじつ)にして救荒の道悉(ことごと)く備はり、都合飢民四萬三百九十(40,390)餘(よ)人、酉(とり)正月より五月麥作(ばくさく)實(み)のりまでの食を優(ゆた)かに賑貸(しんたい)し、領中一民も離散死亡に至れる者なく、無事に大飢(だいき)の憂ひを免れたり。實(じつ)に先生非常の丹誠一世の心力を盡(つく)し、古今類(たぐ)ひなき救荒の良法を行ひたり。領民必死の大患を免れ再生の思ひを爲(な)し、大恩を感戴(かんたい)すること深くして數萬(すうまん)の貸粟(たいぞく)一人の不納なく約(やく)を守り、五年にして皆納(かいのう)に及べり。是を以て民心感動の深さを知るべし。是小田原領先生の良法を慕ひ、舊弊(きうへい)を改め大いに風化(ふうくわ)せるの發端(ほつたん)なり。救荒(きうくわう)の正業外に全備(ぜんび)の簿(ぼ)あり。故に今其の概略を記す。尊徳先生は大久保忠真候の逝去されたことを聞いて、慟哭悲歎し涙を流して言われた。「ああ、私の道はついにここに窮してしまった。賢君が上にあってこそ私は安民の道を行うことができた。私は始めて命を受けてから10数年間、千辛万苦をつくしてきたのは何のためか。上には明君の仁を広め、下には万民にそ恩沢をこうむらしめようとするだけだ、ほかに何があろう。ついにその事業はなかばに至ることなく、殿は忽然として逝去されてしまった。今後、誰と共にこの民を安んずればよかろうか。」と大きくため息をつかれて、その悲痛のありさまは前後を忘れるほどであった。暫くしてその容貌を改めて毅然としてこう言われた。「ああ、憂心歎息が度を過ぎるときは、飢えた民の救助の道を怠ることになる。一人の民でさえ失う時は、殿の尊霊はどんなにか歎かれることであろう。一刻も早く殿の仁沢をあまねく施してこの民を救わなければならない。」と、涙をぬぐって、村々をまわり、一村ごとに無難(ぶなん)・中難(ちゆうなん)・極難(ごくなん)と三段に分けて、穀物を貸与する人数を定めた。そしてその償還期限を5年とした。極難のものが償還できない時は一村の力でこれを償還するべき約束を定めた。蔵の米が到着する間も死亡を免れないような飢えた民があった。先生は数百両を懐にして、このような飢えた民一人ひとりに尋ねて、自ら金を与えてこう言われた。「近いうちに殿の恵みがあって汝等一人も死亡に至らないように救助がある。暫くの飢渇はこれをもってしのぐがよい。」飢えた民や病気の者は数日、絶食してその容貌は疲れやせて立ってこれを受けとることもできなかった。ただ、先生に合掌して拝み、涙を流してその救助のかたじけないことを感謝した。これを見る人、皆落涙しないものはなかった。駿河・伊豆・相模(さがみ)の領中の村々をこのように回り歩くこと数日で救済のの道はことごとく備わった。救済したものは、合計で飢民40,390余人である。天保9正月から5月の麦作の実りまでの食糧をゆたかに貸与したため、領中から一人の民も離散や死亡に至る者もなく、無事に大飢饉の憂いを免れたのであった。実に先生の非常な丹誠によるもので、一世の心力をつくした。古今比類のない救済の良法を行ったのであった。領民は必ず死に至る大患を免れて再生の思いをした。その大恩を感動し、感謝することは深く、数万の貸与の穀物は一人として不納はなく、約束を守り、五年で皆納するに及んだ。これを以て民心の感動の深さを知るべきである。これにより小田原領は先生の良法を慕って、旧弊を改めて大いに風化する発端となった。救済の正業は外に全備の帳簿がある。だから今はその概略を記すところである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.04
報徳記巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ先生直ちに倉廩(さうりん)に走り、速かに藏(くら)を開く可(べ)きの云々(うんぬん)を守者(しゅしゃ)に達す。守者曰く、君命あらざれば豈(あに)開く事を得ん。子(し)の言に因りて之を開かば後難(こうなん)免(まぬが)る可(べ)からず。先生曰く、某(それがし)江都(かうと)に於て君命を受け又(また)此の地に來(きた)り衆議一決せり。事急(きふ)にして未だ役所より達するに遑(いとま)あらず。汝若し開く能はずんば我と共に飲食を斷(た)ち其の命を待つべし。領民飢歳(きさい)の爲(ため)に露命一朝(てう)に迫れり。何ぞ平常の事を以て之を論ぜんや と大音(だいおん)に之を戒む。守者某(ぼう)先生の一言(ごん)に服して倉廩(さうりん)を開く。先生其の苞數(へうすう)を點檢(てんけん)し領邑(りょういふ)へ運送の手配りを定め、是より領中を獨歩(どくほ)或(あるひ)は高山を超え深谷(しんこく)を渉(わた)り、終日終夜頃刻(けいこく)も休まず。此の時に至り勘定奉行鵜澤某(それ)君命を受け、江都(かうと)より來(きた)り先生と共に廻村(くわいそん)せり。先生は直ちに米蔵に走っていって、すぐに蔵を開けるように番人に伝達した。番人は言った。「君命がなければ、どうして開ける事ができよう。あなたの言葉だけでこれを開くならば後でどんな罰をこうむるかわからない。」先生は言った。「私は江戸で君命を受けて来た。また、この地でも蔵を開くことで衆議一決した。事は急を要し、まだ役所から文書で伝達するいとまがない。汝がもし開くことができないというなら、私と一緒に飲食を絶ってその命令を待つがよい。領民は飢饉の歳のために露命は明日の朝にも迫っている。どうして平常の事でこれを論ずることができようか。 」と大きな声でこれを戒められた。番人は先生の一言に服して米蔵を開いた。先生はその俵数を点検して領村へ運送の手配りを定めた。これから領中を一人歩き廻り、あるいは高い山を超え、深い谷をわたり、終日終夜少しも休まれなかった。この時になって勘定奉行の鵜澤作右衛門が君命を受けて、江戸から来たって先生と一緒に廻村した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.03
報徳記巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ先生直ちに倉廩(さうりん)に走り、速かに藏(くら)を開く可(べ)きの云々(うんぬん)を守者(しゅしゃ)に達す。守者曰く、君命あらざれば豈(あに)開く事を得ん。子(し)の言に因りて之を開かば後難(こうなん)免(まぬが)る可(べ)からず。先生曰く、某(それがし)江都(かうと)に於て君命を受け又(また)此の地に來(きた)り衆議一決せり。事急(きふ)にして未だ役所より達するに遑(いとま)あらず。汝若し開く能はずんば我と共に飲食を斷(た)ち其の命を待つべし。領民飢歳(きさい)の爲(ため)に露命一朝(てう)に迫れり。何ぞ平常の事を以て之を論ぜんや と大音(だいおん)に之を戒む。守者某(ぼう)先生の一言(ごん)に服して倉廩(さうりん)を開く。先生其の苞數(へうすう)を點檢(てんけん)し領邑(りょういふ)へ運送の手配りを定め、是より領中を獨歩(どくほ)或(あるひ)は高山を超え深谷(しんこく)を渉(わた)り、終日終夜頃刻(けいこく)も休まず。此の時に至り勘定奉行鵜澤某(それ)君命を受け、江都(かうと)より來(きた)り先生と共に廻村(くわいそん)せり。先生は直ちに米蔵に走っていって、すぐに蔵を開けるように番人に伝達した。番人は言った。「君命がなければ、どうして開ける事ができよう。あなたの言葉だけでこれを開くならば後でどんな罰をこうむるかわからない。」先生は言った。「私は江戸で君命を受けて来た。また、この地でも蔵を開くことで衆議一決した。事は急を要し、まだ役所から文書で伝達するいとまがない。汝がもし開くことができないというなら、私と一緒に飲食を絶ってその命令を待つがよい。領民は飢饉の歳のために露命は明日の朝にも迫っている。どうして平常の事でこれを論ずることができようか。 」と大きな声でこれを戒められた。番人は先生の一言に服して米蔵を開いた。先生はその俵数を点検して領村へ運送の手配りを定めた。これから領中を一人歩き廻り、あるいは高い山を超え、深い谷をわたり、終日終夜少しも休まれなかった。この時になって勘定奉行の鵜澤作右衛門が君命を受けて、江戸から来たって先生と一緒に廻村した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.02
報徳記巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ時(とき)に歳(とし)の十二月先生忽然(こつぜん)として小田原に至り君命を受け飢民(きみん)を撫育(ぶいく)せんが爲(ため)に來(きた)れり と。命令の趣旨を達して、曰く今年(ことし)大凶(だいきよう)に當(あた)れり。君病床に在(おは)して大いに、國民(こくみん)の飢渇に及び罪無くして死亡に至らんことを歎き、我をして救荒(きうくわう)の道を存分に行ふべし と命じ玉へり。我野州三邑(いふ)の民を撫育し、彼(か)の地の用財を持ち來(きた)れりといへども、何ぞ其の一端を補ふに足らん。君(きみ)江都(かうと)に於(おい)て手元金千兩(りやう)を某(それがし)に賜ひ、米粟(べいぞく)は小田原に於て藏(くら)を開き、救荒(きうくわう)の用に當(あ)てん と命じ玉ふ。速かに倉廩(さうりん)を開き飢民に之を賑貸(しんたい)して、其の飢渇を救はん と云ふ、大夫以下一度は喜び一度は其の處置(しょち)如何(いかに)と疑惑し、互に議して曰く、今領中の飢民幾萬(まん)かある。廩粟(りんぞく)何を以て周(あまね)く賑貸(しんたい)するに足らん。且(かつ)君(きみ)此の事を二宮に命じ玉ふといへども、未だ某等(それがしら)に倉廩(さうりん)を開き飢民を撫せよとの命令なし。君命至らずして倉廩(さうりん)を私(わたくし)には開き難し。後日令(れい)を待たず二宮の一言(げん)を以て君の藏(くら)を開きたるの咎(とが)めあれば、何を以て其の罪を免れんや、此の旨を以て江都(かうと)に伺ひ、命令あらば開くべし。何ぞ二宮の一言を以てせんやと衆議更に決せず。先生顔色(がんしよく)を正し聲(こゑ)を励して曰く、今幾萬(まん)の飢民露命旦夕(たんせき)に迫れり、其の困苦悲歎幾許(いくばく)なるや。君(きみ)自ら病苦を忘れ、日夜飢民の痛苦をのみ憂ひ、臣に命ずるの間(あひだ)も救助の後(おく)れん事を歎き玉ふ。然るに各位の職(しょく)國民(くくみん)を安んずるを以て任とし、上(かみ)君(きみ)の心を安んじ下(しも)萬民(ばんみん)の疾苦(しつく)を除き、國家(こくか)をして永(なが)く憂ひなからしむるの職にあらずや。今君大いに憂勞(いうらう)をも省(かへり)みず。徒(いたづら)に常論を發(はつ)し日を費(つひや)し民の餓ヒヨウ(がへう)を待たば、何を以て國家(こくか)の爲(ため)に心力(しんりよく)を盡(つく)すの忠義となすを得んや。我君命を受け此の地に至らずといへども、各々速かに救荒(きうくわう)の道を行ひ一民も飢渇の憂なからしめ、然(しかる)後君に言上し、危急といへども主命を待たざるの咎めあらば、其の罪に服せんこと是元より君に代りて國(くに)を守り政(まつりごと)を執(と)るものゝ任にあらずや。況んや我君命を傅(つた)へて廩粟(りんぞく)を發(ひら)かんことを請ふ。猶(なほ)之を疑ひ江都(かうと)に伺はんとす。往還(わうくわん)數日(すうじつ)にあらざれば再度の君命當地(たうち)に達せず。民の死亡に及ばんこと朝夕(てうせき)を待つべからず。各(おのおの)君命を得て廩(りん)を開く時に至らば、飢民既に過半死亡せん事必然たり。救荒(きうくわう)の道是(こ)の如くにして其の至當(したう)を得たりとせんか、嗚呼(あゝ)惑ひたりと云ふべし。然れども各々の心斯(こゝ)にあらず。言論(げんろん)何の益かあらん。明日より各々斷食(だんじき)して役所に至り、此の評議決せん迄(まで)は必ず食すべからず。飽食(ほうしよく)安居(あんきよ)して飢渇の民を救ふことを坐上に論ぜば其の民の困苦を知らず。何(いづれ)れの時か評決することを得んや。今飢民の事を議するに、自ら食を斷(だん)じて之を議せば其の可否論ぜずして自ら辨(べん)ぜん。某(それがし)も亦斷食(だんじき)して此の席に臨まん。各々必ず此(こ)の如くせよ と其の聲(こゑ)雷(らい)の如く、一坐大いに驚き且(かつ)當然(たうぜん)の理を感じ、即刻倉廩(さうりん)を發(はつ)せんと云ふ。報徳記巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふその歳の12月先生はすぐに小田原に赴いて「君命を受けて飢えた民を救済するために来た」と言われた。命令の趣旨を伝達して、こう言われた。「今年は大飢饉の年にあたっている。殿は病床におわして、領民が飢えて罪も無く死亡に至っていることを歎かれ、私に救済を十分に行うよう命じられた。私は野州三村の民を救済し、かの地の用財を持ち来ってはいるが、どうして小田原領救済の一端を補うに足ろう。殿は江戸において手元金千両を私に賜わり、米粟(べいぞく)は小田原において蔵を開いて、救済の用にあてるよう命じられた。速かに米倉を開いて飢えた民にこれ貸して、その飢渇を救おう」家老以下は一度は喜んだが、その処置をどうすべきかに疑い惑い、お互いに議論しあって言った。「今領中の飢えた民は幾万あるかわからない。蔵の米でどうしてあまねく貸し与えるに足りよう。それに殿がこの事を二宮に命じられたといっても、未だそれがしらに米倉を開いて飢えた民を救済せよとの命令はない。君命がないうちに米倉を私(わたくし)には開きがたい。後になって命令を待たないで、二宮の一言で主君の蔵を開いたという咎めがあれば、どうしてその罪を免れることができようか、この旨を江戸に伺って、命令があってから開いたほうがよい。どうして二宮の一言で開いてよかろうか 」と衆議は一向に決しなかった。先生は顔色を正して声を張り上げて言われた。「今幾万もの飢えた民の露命が今夕にも迫っている。その困苦や悲歎は、いかばかりであろう。殿自ら病苦を忘れ、日夜飢えた民の痛苦をのみ憂え、臣に命ずるの間も救助が遅れる事を歎かれていた。しかるに各位の職は領民を安んずることが任務ではないか。上は殿の心を安んじ、下は万民の苦しみを除き、国家をして永く憂いなからしめる職ではないか。今、殿は大いに憂労したまうのもかえりみないで、いたずらに常論を口に出すばかり、日を費し、民が飢え死にするのをを待つならば、どうして国家のために心力)を尽くす忠義があるとなしえようか。私は君命を受けてこの地に至らなくても、各々速かに救済の道を行い、一民も飢渇の憂いなからしめ、その後に殿に言上し、危急といいながら主命を待たなかった咎めがあるならば、その罪に服しましょうとこのようにすることが、君に代って国を守り、まつりごとをとるものの任務ではないのか。ましてや私が君命を伝達して米倉を開くことを要求しているにもかかわらず、なおこれを疑って江戸に伺おうとする。往復に数日でなければ再度の君命は当地には達しない。民の死亡に及ぶのを、朝や夕なに待つことはできない。おのおの、君命を得て蔵を開く時になれば、飢民の過半が既に死亡に至ることは必然である。救済の道がこのようであって、はたしてそれが至当であるとするのか。ああ、惑っているというべきである。しかしながら各々の心はここにはない。論議しても何の役にもたたない。明日から各々食を断って役所に来て、この評議が決するまでは決して食事をしてはならない。飽食し安居して飢えて苦しんでいる民を救ふことを坐って論ずるならば、その民の困苦を知ることはできない。いつになっても評決することができようか。今飢えた民の事を論議するに、自ら食を絶ってこれを論議すればその可否を論じないで自らわかるであろう。私もまた断食してこの席に臨もう。各々必ずこのようにせよ」 とその声は雷のように、一坐の者は大いに驚いて、また当然の道理を感じて、即刻米蔵を開こうと言った。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.09.01
報徳記 巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ小田原領は駿州(すんしう)豆州(づしう)相州(さうしう)三ヶ國(こく)に跨(またが)り、西南は高山峨々(がゞ)として北に又(また)曾我山(さがやま)あり。東は大海にして山海の利其の自在を得たり。中古(ちゅうこ)關(くわん)八州の太守(たいしゆ)北條(ほうでう)氏此處(ここ)に居城を構へたる事も亦(また)宜(うべ)ならずや。土地豊饒(ほうでう)にして國俗(こくぞく)奢侈(しやし)に流れ、大いに困窮に迫れり。是(これ)其の便利に隨(したが)ひ節儉(せつけん)の道を失ふが故にあらずや。時に天保七丙申(ひのえさる)年夏冷氣(れいき)霖雨(りんう)暴風並び至り、五穀(みの)實(みの)らず既に大飢(だいき)に及べり。民百計を盡(つく)し飢亡(きぼう)を免れんとすれども、活計(くわつけい)既に盡(つ)き露命旦夕(たんせき)に迫るもの幾萬(いくまん)人、國(くに)の大夫(たいふ)以下心を苦しめ慮(おもんばか)りを盡(つく)すといへども、空論虚談而已(のみ)に日を送り、曾(かつ)て救荒(きうくわう)の道(みち)其の至當(したう)を得るものなし。諸士(しよし)手に汗を握り空しく大息(たいそく)せり。然るに江都(かうと)に於て君(きみ)病に臥し日々重らせ玉ふと數度(すうど)の注進(ちゅうしん)あり。一藩の悲歎手足(しゅそく)を措(お)く所なきが如し。報徳記 巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ小田原領は駿河(するが)伊豆(いづ)相模(さがみ)の三ヶ国にまたがり、西南は高山がそびえ、北にはまた曽我山がある。東は大海に面し山海の利便は自在を得ている。近い昔は関八州の太守であった北条氏がここに居城を構へた事もまたもっともなことである。土地は豊かで国の風俗は贅沢に流れ、その結果人々は大変困窮に迫られていた。これはその利便に恵まれているがために節倹を行う道を失っているためではなかろうか。時に天保七年の夏、冷気で冷たい雨が降り続き、暴風も起こって、五穀は実らず、すでに大飢饉のありさまになっていた。民は百計を尽くして飢え死にを免れんとしたけれども、活計は既に尽きて、露命は今夜にも迫るものが幾万人にも及んだ。小田原藩の家老以下は心を苦しめて思慮を尽くしたが、空論虚談を行うだけで日が過ぎて、未だに救済の道のしっかりしたものを得るものがなかった。藩士も手に汗を握って空しく大息するばかりであった。ところが江戸において大久保忠真候が病に臥して日々に重態になっていると数度の連絡があった。一藩の悲歎は手足をおく所がないようであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.31
昨日より 知らぬあしたの なつかしや もとの父母 ましませばこそこの尊徳先生の道歌も難解である。佐々井信太郎氏はその「解説 二宮先生道歌選」でこのように述べている。「二宮先生はその想を異にしている。明日が来るのが望ましいのは元の父母に会えるからである。元の父母とは太陽のことである。自分は父母から生まれた。父母もその父母からである。こうして根元に上って行けば天地になる。すべての生物は地の養いと、太陽の光熱によって生きている。この天地こそは大父母であり根元(もと)の父母である。その父母に会えるのがうれしい。(略)万象の徳を認識してその道を開びゃくし、それが自分の収入にはならぬ生活、その手本は太陽であって、与えることのみあって得ることはないのである。・・・実に明日ほどうれしく、なつかしい希望はない。」
2023.08.31
餌(え)を運ぶ 親のなさけの 羽音には 目をあかぬ子も 口を開くなりこれは親の慈悲の歌である。尊徳先生は、父利右右衛門35、母よし21のときの長男である。4歳のとき、弟友吉が生まれ、13歳のとき、末弟の富次郎が生まれた。家は小田原栢山地区の中堅の農家だったが、先生5歳のとき8月5日の暴風雨により酒匂(さかわ)川が決壊し、田畑は一面に石や泥だらけになった。7歳のとき父は負傷し、田を質に入れて開墾を続けたが、病気がちで11歳の頃からたびたび床に伏すようになった。金次郎は父にかわって川の堤防工事に出たり、わらじを作ってはそれを売ったわずかな金で病に伏せっていた父に酒を買ってきて喜ばれた。親の喜びは自分の喜びであるということを身をもって体験されたのである。もはや父の病の薬代さえ払えず、父は残った田を売り払い、医者への謝礼とした。しかし医者は受けずようやく半金だけ受け取らせて残り半金を生計のたしにできると喜んで帰ってきた。金次郎は父を気遣って家の門口で父の帰りを待っていた。父が医者の慈愛のある言葉を喜んで、顔に笑みを浮かべて舞うように喜んで帰ってくる。「お父さん、どういうわけでそんなにも喜んでおられるのですか」と問うた。父は、医者の慈愛のこもった言葉はこのようであったと話した。「私はおまえたちをこれで養育することができる。喜びにたえない」後年、尊徳先生は門弟たちに夜話されるとき、親の慈愛を思って涙を流されて語られたのであった。金次郎が10歳、友吉が7歳の頃である。母の実家の曾我別所の川久保家で法事があり、供養に招かれた。父が病気のため伏せっていた。母は貧乏のため、ボロの着物しかなかったが、二人の子どもを連れて出かけた。「今日はほとけ様(亡き父親)の正客なのですよ」お坊さんが来て読経をして、縁者が皆来合わせて焼香をした。法事も終わって、本膳となり懇談することとなる。ところが、他の者は当主太兵衛(よしの兄)の挨拶にしたがって、それぞれ膳についた。しかし、母にはなんの言葉もなく、台所で普段使っている薄汚れた膳で食事をさせたのであった。母は悔しさと恥ずかしさで胸がはりさけんばかりであった。母は食事を終え、墓参りをすますと、挨拶もそこそこにいとまごいして帰路についた。「いくら貧乏でまともな着物でないからいって、実家の仕打ちはあんまりだ」不機嫌になって顔色も悪かった。金次郎はそんな母をきづかって、母に問うた。「母さん、おかげんがわるうございますか。」「お前は何事にも父さんや母さんのことをよく心配してくれるねえ。喜ばしい。 何も悪いところはないよ。心配しなくて大丈夫だよ。」「それでも母さんのお顔の色が悪いですよ。 母さん、今日、わたしにはわからないことがございます。 母さんは曾我へまいるときは、仏さまにとって正客だとおっしゃったのに、ほかのお客様は和尚さま同様に本膳でお座敷でした。 母さんは台所で普段使っているお膳でしたが、どういうわけでしょうか。」 母は胸も張り裂けそうな思いから、顔を横にそむけ、涙を流して、しばらく言葉もなかった。 しばらくしてから「お前は子どもなんだからそんなことは聞かなくてもいいよ」「わたしにはわかりませんからお教えください」「あれは私の身勝手で、父さんは病気だし、友吉は小さい。早く帰りたい。でも皆さんとご一緒だとうちへ帰るのが遅くなるからだよ。」「母さん、そうではありますまい。皆さんとずいぶん違いました。私は曾我が悪いと思います。」 母は返答に困って涙を流すばかり。金次郎はこれを見て謝った。すると母が「病気のお父さんのお耳に入れてはいけないよ」と念押しした上で金次郎と友吉こう言い聞かせたのであった。「二人ともよく聞いておくれ。 父さんの病気がちはもとはといえば、酒匂川の堤が破れて田地が流されてのこと。 不幸が重なり、何の貯えもなく、貧乏して親類の世話になり、何事も心にかなわず、馬鹿にされている。 これは親類が悪いのではない。こちらが悪い。人を恵むものなど世間にはまれだ。 母さんが生まれた里でも肩身がせまくて残念だけれども、これも不運でしかたがない。 何もしらないお前たちにまでこんなことを聞かせ、苦労させるのは親の恥だけれども、こういう困窮の家で親子となるのもなにかの因縁だ。親の未熟とあきらめておくれ。 」 涙ながらの母の言葉に、金次郎も胸いっぱいになり、やや久しくしてきっと唇に決意をこめてこう言った。「母さん、よく分かりました。父さん、母さんきっと長生きしてください。 わたしが成人したらよく精出して働いて父さん母さんをきっと楽にして安心させます。 」 母はこの言葉に機嫌を直し、「まだ、年もいかないのによくそう言ってくれた。」と二人の子どもの手をしっかり握り締めてから、三人手をとって、楽しくうれしく父が待っている家へ帰ったのであった。これが、おそらく二宮金次郎の願の原点である。この父、母の慈愛あればこそである。
2023.08.30
報徳記 巻之五【5】小田原候逝去遺言先生飢民(きみん)救助の命を蒙(かうむ)り小田原に赴く。用人某(ぼう)候の病床に至り此の旨を言上す。候之を聞かせ玉ひ金次郎我が言を承知せしと云ふ歟(か)。病中の安心何事か之に如(しか)んや と宣(のたま)ふ。是より後衆醫(しゆうい)良藥(りやうやく)を選び療養(れうやう)術(じゆつ)を盡(つく)すといへども、更に其の功驗(こうけん)あらずして日々(にちにち)に病惱(びやうなう)重(おも)らせ玉ふ。上下(しやうか)薄氷を蹈(ふ)むが如きの思ひをなせり。後(のち)數日(すうじつ)を經(へ)彌々(いよいよ)快癒の難(かた)きことを察し玉ひ、大夫(たいふ)辻某(ぼう)吉野某(ぼう)年寄三幣某(みぬさぼう)勘定奉行鵜澤某(ぼう)等(など)を枕邊(ちんぺん)に召(め)され、病床に起直(おきなほ)り玉ひ我今は快氣(くわいき)覺束(おぼつか)なし。凡(およ)そ生あるもの必ず死あり定命(ぢやうみやう)何ぞ憂(うれ)へんや。惟(たゞ)歎くべきは天下の執權(しっけん)を命ぜられしより以来、流弊(りうへい)を矯(た)め上下(じやうげ)の衰頽(すいたい)を除き、萬民(ばんみん)を安(やす)んぜんとして心を盡(つく)すといへども遂に其の志願を達せず。是(これ)我が大(おほ)いに恐歎(きようたん)する所なり。 報徳記 巻之五小田原候逝去遺言先生は小田原候から飢民救助の命をこうむって小田原に赴いた。用人なにがしが小田原候の病床に至ってこの旨を言上した。小田原候はこれを聞かれて、「金次郎は予が頼みを承知したと言ってくれたか。病中の安心これにまさるものはない。 」とおおせになった。これから後、多くの医者が良い薬を選んで療養の医術をつくしたが、一向にその効験もなく日々に病悩が重くなった。上下ともに薄氷を踏むような思いであった。後数日たって、大久保忠真候はいよいよ快癒することが難しいことを察せられ、家老の辻七郎右衛門、吉野図書、年寄三幣(みぬさ)又左衛門、勘定奉行鵜澤作右衛門などを枕元に召され、病床に起直って、こう遺言された。「予は今は快復はおぼつかない。およそ生あるものは必ず死がある、定まった命をどうして憂えることがあろうか。ただ、歎くべきは天下の執権(老中職)を命ぜられてから、悪しき風習を正し、上下の退廃を除いて、万民を安んじようとして心を尽くしたが、ついにその志願を達しなかった。これが予の大いに歎く所である。☆小田原藩主大久保忠真公は、老中まで勤め、実に優れた人物であるが、その事跡は歴史からほぼ忘れられている。おそらくは、二宮尊徳先生を民間から見出し登用した人物として記憶され続けられることであろう。 豊田正作も小田原藩士であるが、尊徳先生の桜町の仕法をことごとく妨害した人物として報徳記にはいわば悪役として活写されている。 豊田は寛政3年(1971)生まれで尊徳より4歳年下になる。文政10年(1827)12月、桜町に赴任したが、藩の上層部の意向があったらしく、仕法を妨害した。これが尊徳先生の成田山参籠につながり、7大誓願に結実する。まことに一見、そのときは悪に見え、また苦悩に満ち絶望的にみえたにしても、後になってその時のことを振り返るとその妨害されたことや病気が、実は本人の意識を深化させ、魂のレベルを上げるきっかけになっているということがしばしば起こる。 文政12年1月の尊徳先生の失踪により、豊田は江戸に召喚され、大久保忠真候その人から叱責を受け、冷遇される。豊田は初めて殿の信任が厚いことを知り、己の愚を悟って、報徳仕法の推進者となる。 豊田は「報徳教林」という書を著した。その冒頭に大久保忠真公の逸話や歌が紹介されこれが実にいい。大久保忠真公の人柄のゆかしさがよく伝わってくる。「報徳教林」より○文政3年小田原藩家老の吉野図書(ずしょ)が湯治に行った折、御厨(みくりや)北久原(ほっくばら)村の太左衛門ともうす者がやってきた。殿様講と唱えて、毎月集まって講を開いている。その時の目当ての品に何かいただけないかとの願い出であった。吉野は殿様に言上すると、早速下されたのが次の文章であった。 田美因力耕 民殷在守分(田の美は力耕(りきこう:耕作に努める)に因る 民の殷(いん:栄えること)は分を守るに在る)右の書を頂いたお礼にと内々に焼き米を献上してきた。大久保候は藩の上層部にそれを配ったときの文章。「右は並々の百姓どもが年貢がつらいと上納したり、または虐げげた涙の米と違って、志で差し出した焼き米である。これほどにうまいと思って食べたことはこれまでなかった。そこで皆々へも少しずつ遣わす。一通りの利欲に走った祈祷の洗米よりは予には格別に思われる。しまいおくように。」○小田原藩家老の郡(こおり)与惣左衛門にくだされた御歌 直なるも まがれるもまた 我からの 跡はずかしき 雪のなかみち○小田原藩家老の郡(こおり)与惣左衛門を通して姫路藩家老河合隼之助から、国元に学校を作るので、大久保候に指針となる書を書いてくれるように頼まれたときにこう書いて渡した。 祝国 治まれる 国のためしを 何に見む 畔(あぜ)を譲れる 道なかりせば○京都所司代の命がくだった頃に詠まれた歌 もったいない司(つかさ)の命をこうむって、ふたたび江戸へ登る途中、小田原に一日二日まかりける頃詠める 身にかへて とは(永久)びぞおもふ 万民(よろずたみ) ところを得つつ 富み栄えねと わが身に引きかえて、とわに常々いつまでも思い続けて、万の国民の皆その所々のよろしきほどを得て、富み栄えるようにと願い思う心である。 こうは詠んだけれども、よろずまつりごとの道に違えることも大変多いであろうと恥ずかしいことである。○天保6年、二宮先生へ下された御書 春風飛告語 誠者天之道也 誠之者人之道也 誠者不勉而中 不思而得 (誠は天の道なり これを誠にするは人の道なり 誠は勉めずして中(あた)り 思わずして得)「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.29
ふる道に つもる木の葉を かきわけて 天照す神の 足跡を見ん二宮翁夜話巻之二(小さな資料室長さんより)六三 翁曰、夫神道は、開闢(カイビヤク)の大道皇国本源の道なり、豊芦原(トヨアシハラ)を、此の如き瑞穂(ミヅホ)の国安国と治(オサ)めたまひし大道なり、此開国の道、則真の神道なり、我(わガ)神道盛(サカ)んに行れてより後にこそ、儒(ジユ)道も仏道も入り来れるなれ、我神道開闢(カイビヤク)の道未(いまダ)盛んならざるの前に、儒仏の道の入り来るべき道理あるべからず、我(わガ)神道、則開闢の大道先(まヅ)行れ、十分に事足るに随(シタガ)ひてより後、世上に六かしき事も出来るなり、其時にこそ、儒も入用、仏も入用なれ、是誠に疑(ウタガ)ひなき道理なり、譬(タトヘ)ば未(いまダ)嫁(ヨメ)のなき時に夫婦喧嘩(ゲンクワ)あるべからず、未(いまダ)子幼少なるに親子喧嘩(ゲンクワ)あるべからず、嫁(ヨメ)有て後に夫婦喧嘩あり、子生長して後に親子喧嘩あるなり、此時に至てこそ、五倫(リン)五常(ジヤウ)も悟道治心も、入用となるなれ、然るを世人此道理に暗(クラ)く、治国治心の道を以て、本元の道とす、是大なる誤(アヤマリ)なり、夫本元の道は開闢の道なる事明なり、予此迷(マヨ)ひを醒(サマ)さん為に「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」とよめり、能味(アヂハ)ふべし、大御神の足跡のある処、真の神道なり、世に神道と云ものは、神主の道にして、神の道にはあらず、甚(はなはだシ)きに至ては、巫祝(フシク)の輩(トモガラ)が、神札を配(クバリ)て米銭を乞ふ者をも神道者と云に至れり、神道と云物、豈(アニ)此の如く、卑(イヤシ)き物ならんや、能思ふべし(現代語訳)63 尊徳先生は言われた。「神道は、開闢の大道であり皇国本源の道である。豊芦原(至るところ葦原であった)を、このような瑞穂(稲穂の美しい)の国、よい国へと治められた大道である。この開国の道がすなわち真の神道である。わが神道が盛んに行れてから後になって、儒道も仏道も入り来ったのである。わが神道が開闢の道いまだ盛んでない前に、儒仏の道が入り来るべき道理はない。わが神道、すなわち開闢の大道がまず行れ、十分に事が足るようになって後に、世上に難しい事も出てきたのだ。その時になって、儒道も入用になり、仏も入用になったのだ。これは誠に疑いのない道理である。たとえば未だ嫁のない時に夫婦喧嘩あるまい、未だ子が幼少であるのに親子喧嘩はあるまい、嫁が有って後に夫婦喧嘩があり、子が生長して後に親子喧嘩があるのである。この時に至て、五倫五常(儒教の教え)も悟道治心(仏教の教え)も、入用となるのである。しかるを世人はこの道理に暗く、治国治心の道を本元の道としている。これは大いなる誤りである。本元の道は開闢の道であることは明らかである。私はこの迷いを醒せるために「古道につもる木の葉をかきわけて天照す神の足跡を見ん」と詠んだ。よくよく味わうべきである。天照大御神の足跡のあるところが、真の神道である。世の中で神道というのは、神主の道であって、神の道ではない。はなはだしいにいたっては、ミコやマジナイのともがらが、神札を配って米や銭を乞う者も神道者というに至っている。神道というものが、どうしてこのように卑しいものであろうか。よくよく思わなくてはならない。六四 綾部の城主九鬼侯、御所蔵の神道の書物十巻、是を見よとて翁に送らる、翁暇なきを以て、封を解き玉はざる事二年、翁一日少しく病あり、予をして此書を開き、病床にて読(ヨマ)しめらる、翁曰、此書の如きは皆神に仕ふる者の道にして、神の道にはあらざるなり、此書の類(ルイ)万巻あるも、国家の用をなさず、夫神道と云物、国家の為、今日上、用なき物ならんや、中庸にも、道は須臾(シバラク)も離(ハナ)るべからず、離るべきは道にあらず、と云り、世上道を説ける書籍、大凡此類(ルイ)なり、此類の書あるも益なく、無きも損(ソン)なきなり、予が歌に「古道に積る木の葉をかき掻(カキ)分けて天照す神のあし跡を見む」とよめり、古道とは皇国固有の大道を云、積(ツモ)る木の葉とは儒仏を始諸子百家の書籍の多きを云、夫皇国固有の大道は、今現に存すれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉の為に蓋(オホハ)れて見えぬなれば、是を見んとするには、此木の葉の如き書籍をかき分けて大御神の御足の跡はいづこにあるぞと、尋(タヅ)ねざれば、真の神道を見る事は出来ざるなり、汝等落積(オチツモ)りたる木の葉に目を付るは、大なる間違(マチガ)ひなり、落積りたる木の葉を掻(カキ)分け捨て、大道を得る事を勤(ツト)めよ、然らざれば、真の大道は、決して得る事はならぬなり (現代語訳)64 綾部の城主の九鬼侯が所蔵されていた神道の書物十巻を「これを見よ」といって尊徳先生に送られた。先生は暇がないということで、封も解かれないまま二年が過ぎた。先生が、ある日少し病があり、私にこの書を開かせて、病床で読せられた。先生はこう言われた。「この書のようなものは皆神に仕える者の道であって、神の道ではない。この書の類が何万巻あっても、国家の用をなさない。神道というものは、国家のため、今日において、用がないものであろうか。中庸にも、「道はしばらくも離れてはならない。離ることできるのは道ではない」といっている。世間で道を説く書物は、おおよそこの類である。この類の書があっても益がなく、無くても損がないものである。私の歌に「古道に積る木の葉をかき掻(カキ)分けて天照す神のあし跡を見む」と詠んでいる。「古道」とは皇国固有の大道をいう。「積る木の葉」とは儒仏を始め諸子百家の書籍が多いことをいう。皇国固有の大道は、今現に存するけれども、儒仏諸子百家の書籍の木の葉のために覆われて見えなくなっている。これを見ようとするには、この木の葉のような書籍をかき分けて天照大御神の御足の跡はいずこにあるぞと、尋ねなければ、真の神道を見る事はできない。汝等も落ち積もった木の葉に目を付るは、大なる間違いである。落積りたる木の葉をかきわけ捨てて、大道を得ることを勤めよ、そうでなければ、真の大道は、決して得る事はできないものである。二宮先生語録【2】ただ一人山野に生まれて、左右に他の人がなければ、飢えて食らい、渇して飲み、疲れれば眠り、目が覚めれば起き、巣や穴に住んで一身を養うだけで何の欲求もない。これが天道自然の生活である。それからして今日得たものを来年に譲り残すことが始まる。それが人道である。天照大神は推譲によって人道を立てられた。だから茫々たる豊葦原が瑞穂の国となった。それから後に儒教や仏教の学問も入ってきて、政治教化の助けになったのである。しかしそのうちにそういう学問がはびこって、ついに天照大神の開国の道を埋め滅すまでになった。たとえば落ち葉が積もり積もって山道を埋め隠したようなものだ。残念なことに天祖の道がほとんど滅びて、世にあらわれないことすでに久しいものがある。私はその落ち葉をかきわけて天照大神開国の足跡を見とどけ、それに基づいて荒地を開き、廃国を興す方法を設けた。だからいやしくもわが法による以上は、荒廃を開き興すのは何も難しいことはないのだ。
2023.08.29
報徳記巻之五【四】小田原候先生を召して領中の飢民撫育を命ず或(ある)人此の言(げん)を以て大夫(たいふ)以下に告ぐ。大夫(たいふ)以下驚嘆して曰く、二宮の言(げん)是(かく)の如し。兼(かね)て評議の禄位を命ぜば彼(かれ)必ず受けず。豈(あに)受けざる而已(のみ)ならん。又(また)如何(いか)なる言(げん)をか發(はつ)せん。止(や)まんには如(し)かざる也(なり)と、此の言(げん)を君(きみ)に言上(ごんじやう)す。候(こう)曰く、二宮の言(げん)至れりと謂(い)ふべし。先づ位禄の命(めい)は下(くだ)す事勿(なか)れ。我後日(ごじつ)大いに賞するの道あるべし、今我が手元用意金千兩(りやう)二宮に與(あた)へ撫育(ぶいく)の事を任(にん)ぜん。領民救助の米粟(べいぞく)は小田原にて藏(くら)を開(ひら)かん。外(ほか)に財をも與(あた)ふべし と命じ玉ふ。家臣某(ぼう)此の命を先生に傳へ千金を賜ふ。君自ら命じ玉ふ事なれども候の病悩(びやうなう)甚(はなはだ)し。是の故に某(ぼう)を以て之を達(たつ)せりと。先生謹(つゝし)みて命を拜(はい)し臣(しん)命(めい)を蒙(かうむ)り一度(たび)小田原に至らば、民命(みんめい)無事に救助せん。君(きみ)必ず憂勞(いふらう)し玉ふ事勿(なか)れ、と云ひて、即刻江都(かうと)を發(はつ)し晝夜(ちうや)兼行(けんかう)相州(さうしう)小田原に至(いた)る。人々其の至誠を感歎す。ある人は先生の言葉を家老以下に告げた。家老以下は驚嘆して大久保忠真候に申し上げた。「二宮の言はこのようです。かねて評議した禄位を命ぜられても、彼は必ずや受けないでしょう。受けないどころか、またどのような言葉を発するかわかりません。これは止めたほうがよろしいかと存じます。」大久保忠真候は言われた。「二宮の言葉は至言である。まづ位禄の命は下してはならない。予が後日、大いに賞する道もあろう。今、予が手元の用意金から千両を二宮に与えて救済の事を任じよう。領民を救助する米粟は小田原で米蔵を開こう。外にも必要な資材を与えよう。 」家臣のなにがしという者が、この命を先生に伝えて千両を賜まった。君自ら命じられた事だったが、大久保候の病悩ははなはだく重くなっていた。そこで使者を先生のもとに寄こしてこのことを伝達させた。先生は謹んで命を拝し「臣は、命をこうむり、一度小田原に至るならば、民の命を無事に救助いたしましょう。君は決して憂い労せられることのなきように。 」といってすぐに江戸を出発して昼夜兼行して相模(さがみ)の国(神奈川県)小田原に至った。人々はその至誠を感歎した。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.28
仮の身を もとのあるじに 貸し渡し 民やすかれと 願ふこの身ぞ(「解説 二宮先生道歌選」佐々井信太郎著より抜粋)○この歌は、二宮先生が桜町の仕法に全力を注がれていた時の気分を詠まれたものであって、「仮の身」というのは、この世を仮の世といった仏教思想から来ている。次の「貸し渡し」と対応する意味で「借の身」すなわち天地人の三才(3つの働き)から借りた身と解釈してもよい。「もとのあるじ」というのは、造化の神などといったこの世を造った神で、日本書紀にも最初に出た神を造化の三神といっており、漢語で造物主ともいっている。二宮先生は、「父母の根元は天地の令命に在り」と報徳訓の第一句に書かれている。また天地をもって父母の根元、すなわち元の父母といった歌「きのうより 知らぬあしたのなるかしや もとの父母 ましませばこそ」もあるのであるから、天地や造化の神を「もとのあるじ」と詠んだと思われる。「貸し渡し」は、わが身をわが意で働かないで、元のあるじの意で働くように自他を振り替えて、さてこの身は、民の安らかになるためにのみ働かせる。すなわち自己のためにと全力を尽くして来たのを、他のため、国民のため、社会のため、すべてを他のためにと全力をささげるというのである。 このような心構えで生きることは、二宮先生が父母を失って何一つも無い時に、積小為大の法則を知ってから、一家を独立したその頃、大久保忠真候の命によって桜町の仕法に従事することになった。そのとき、35歳の二宮先生は、再興した自分の一身や家の一切を桜町復興に振り替える決心をしたのであった。 この自他振替は、その後の実践を通じて、さらに広く深くなり、全推譲の実践となった。 そして天保の大飢饉のときには、数万の飢えた人々を餓死から救うとともに、生涯を通じて無気力、自堕落な生活から、心の田を耕す、すなわち勤労と推譲の生活へと多くの人を導いたのである。 二宮先生が一農夫から神に祀られるようになったゆえんである。二宮翁夜話巻之一(小さな資料室長さんより)一〇 翁曰、 親の子における、農の田畑に於る、我道に同じ、 親の子を育(ソダツ)る無頼(ブライ)となるといへども、養育料を如何せん、農の田を作る、凶歳なれば、肥代(コヤシダイ)も仕付料も皆損なり、夫(それ)此道を行はんと欲する者は此理を弁(ワキマ)ふべし、吾始(ハジメ)て、小田原より下野(シモツケ)の物井の陣屋に至る、己が家を潰して、四千石の興復一途(いちず)に身を委(ユダ)ねたり、是則(これすなわち)此道理に基けるなり、 夫(それ)釈(シヤク)氏は、生者必滅(セウシヤヒツメツ)の理を悟り、 此理を拡充して自ら家を捨(ステ)、妻子を捨て、今日の如き道を弘めたり、只此一理を悟るのみ、夫(それ)人、生れ出(いで)たる以上は死する事のあるは必定(ひつじょう)なり、長生といへども、百年を越(コユ)るは稀なり、限りのしれたる事なり、 夭(ワカジニ)と云(いう)も寿(ナガイキ)と云(いう)も、 実は毛弗の論なり、譬(タトヘ)ば蝋燭に大中小あるに同じ、 大蝋といへども、火の付(つき)たる以上は四時間か五時間なるべし、 然れば人と生れ出(いで)たるうへは、必(かならズ)死する物と覚悟する時は、一日活(イキ)れば則(すなわち)一日の儲(マフケ)、一年活(イキ)れば一年の益也、故に本来我身もなき物、我家もなき物と覚悟すれば跡は百事百般皆儲なり、予が歌に「かりの身を元のあるじに貸渡し民安かれと願ふ此身ぞ」、 夫(それ)此世は、 我(われ)人(ひと)ともに僅(ハツカ)の間の仮の世なれば、 此身は、かりの身なる事明らかなり、 元のあるじとは天を云(いう)、このかりの身を我身と思はず、生涯一途(ヅ)に世のため人のためのみを思ひ、 国のため天下の爲に益ある事のみを勤め、一人たりとも一家たりとも一村たりとも、困窮を免(マヌカ)れ富有になり、土地開け道(ミチ)橋(ハシ)整ひ安穏に渡世の出来るやうにと、夫(それ)のみを日々の勤とし、朝夕願ひ祈りて、おこたらざる我(わが)此身である、といふ心にてよめる也、是(コレ)我(ワレ)畢生(ヒツセイ)の覚悟なり、我道(ワガミチ)を行はんと思ふ者はしらずんばあるべからず(現代語訳)一〇 尊徳先生は言われた「 親の子における、農の田畑における、これは我が道と同じである。親が子を育てるに無頼であるからといって、養育料を請求することがあろうか。農民が田を作る、凶歳となれば、肥料代も仕付料も皆損となる。この報徳の道を行おうと欲する者はこの道理をわきまえるべきである。私がはじめて、小田原から栃木の物井の陣屋に至ったとき、自分の家を潰して、4千石の復興に一途に身をゆだねたのだ。これはすなわちこの道理に基いたのである。お釈迦さまが、生者必滅の理を悟って、この理を拡充して自ら家を捨て、妻子を捨て、今日のような道を弘めたのも、ただこの一理を悟ったのだ。人は、生れ出た以上は必ず死ぬという事がある、長生きしたといっても、百年を越えるのは稀である、限りのしれた事である。若死にというのも長生きというのも、 実は毛ばかりの差に過ぎない。たとえばロウソクに大中小があるのと同じだ。大きなロウソクといっても、火の付いた以上は4時間か5時間であろう、そうであれば人と生れ出た以上は、必ず死ぬ物と覚悟する時は、一日生きれば一日の儲けである。一年生きれば一年の利益である。故に本来わが身もない物、我が家もない物と覚悟するときは、あとは百事百般皆儲けである。私の歌に「かりの身を 元のあるじに 貸渡し 民安かれと 願ふ此身ぞ」と詠んだ。この世は、 我も人もともに僅かな間の仮の世であるから、この身は、仮の身である事は明らかである、元のあるじとは天をいう。このかりの身を我が身と思わず、生涯一途に世のため人のためのみを思って、 国のため天下のために益のある事のみを勤めて、一人だけでも一家だけでも一村だけでも、困窮を免れて富裕になり、土地が開け、道や橋を整え、安穏に渡世ができるようにと、それのみを日々の勤めとし、朝夕願い祈って、怠らないわが身である、という心にて詠んだものである。これは我が畢生の覚悟である、我が道を行おうと思う者は知らなくてはならない。
2023.08.28
報徳記 巻之五【四】小田原候先生を召して領中の飢民撫育を命ず是(こゝ)に於(おい)て大夫(たいふ)以下に命じて曰く、二宮既に野州の廢亡(はいぼう)を興(おこ)し、比類なき丹誠を盡(つく)し三邑(いふ)の民を安んず。其(その)事業衆人’しゅうじん)の知る所なり、今又(また)小田原數萬(すうまん)の飢民(きみん)撫恤(ぶじゅつ)の事を任ぜんとす。彼元より一家を廢(はい)し一身をナゲウち、我が出財(しゆつざい)を止め獨立(どくりつ)一身の丹誠を以て此(この)事を爲(な)せり。初(はじ)めより國土(こくど)の爲(ため)に力を盡(つく)し主恩と雖(いへど)もこれを受けず、非常の英傑にあらずんば何を以て此(こ)の功業を遂(と)げんや。假令(たとひ)恩賞を與(あた)ふと雖(いへど)も亦(また)隨(したが)ふべからず。然れども二宮は二宮の道あり、我は我が道あり。何ぞ有功(いふこう)の臣を賞せざる可(べ)けんや、若し彼(か)の意(い)此(かく)の如しとして賞の道を缺(か)く時は豈(あに)人君の職といはんや。汝等之を賞するの道を議すべし。我も亦(また)思慮すべしと宣(のたま)ふ。群臣之を議すと雖(いへど)も決せず。君候是(こゝ)に於て禄(ろく)若干(そこばく)用人格(ようにんかく)を以て之を賞すべしと命ず。先生野州三邑(いふ)の民をして十分に飢渇を免れしむ。其の惠(めぐみ)老若(ろうにやく)男女共(とも)に粟(ぞく)五苞(へう)を以て食に當(あ)つ。平年(へいねん)豊饒(ほうぜう)の時よりも優(いう)なり。是に於て歳(とし)の十二月野州を出(い)でて江都(かうと)に着(ちやく)せり。時に君候病發(びやうはつ)上下(じやうげ)甚(はなは)だ之を憂ふ。候(こう)先生の來(きた)るを聞き大(おほ)いに悦(よろこ)び玉(たま)ひ、先(ま)づ速かに之を賞せよと命ず。恩禄を下(くだ)し玉ふの前日に當(あた)り先づ人をして麻上下(かみしも)を賜(たま)ふ。某(ぼう)君命を以て之を達(たつ)す。先生怫然(ふつぜん)として曰く、臣に賜(たま)ふに此(この)禮服(れいふく)を以てす。臣の不用のもの也(なり)、何(なん)ぞ之を受(う)けんや。子(し)夫(そ)れ之を返上せよ。某(ぼう)怒(いか)りて曰く、是(これ)何(なん)の言(げん)ぞや。君自(みづか)ら服(ふく)し玉(たま)ふ所の物を賜(たま)ふ。然るに臣として之を受けず、我をして返上せよと、臣下の道何(いづ)れの處(ところ)にかある。先生聲(こゑ)を励(はげま)して曰く、臣の道を知らざるにはあらず。君の道を知り玉はざるなり。今數萬(すうまん)の國民(こくみん)無罪にして飢亡(きぼう)に臨(のぞ)めり。君自(みづか)ら之を救ふ事あたはず。遙(はる)かに臣を呼びて之を救はしめんとす。我(われ)思(おも)へらく君(きみ)臣の来るを待(ま)ちて、民を救ふの道を問ひ、下(くだ)すに米粟(べいぞく)を以てせんと。豈(あに)圖(はから)んや此の物を賜らんとは。臣之を受け寸斷(すんだん)にして飢民(きみん)に與(あたへ)ん歟(か)。豈(あに)飢民(きみん)此の物を食(くら)ふて、命を全くすることを得んや。且(かつ)臣をして之を服せしめんとするか、飢亡に瀕(ひん)せる民を救はんに、晝夜(ちうや)を分(わか)たず奔走(ほんそう)し、頃刻(けいこく)も救助の道の後(おく)れん事を恐(おそ)る。何ぞ此のものを服(ふく)して飢渇の民を救ふ事を得んや。是の故に不用のものなりと云ふ。無益の賜(たま)ものを受(う)んこと思ひも寄らず、速かに返上せよ と。某(ぼう)益々(ますます)怒(いか)り此の言(げん)を以て君に述(の)ぶ。君候(くんこう)歎(たん)じて曰く、嗚呼(あゝ)賢なる哉(かな)二宮、其の言(げん)古今の金言(きんげん)なり。我(われ)甚(はなは)だ過(あやま)てり、其の物を與(あたふ)ること勿(なか)れと。是に於て先生を役所(やくしょ)に呼ぶ。先生出(い)でずして曰く、我に何の用かある、只(たゞ)速かに小田原へ往(ゆ)かんとする而已(のみ)。然るに今我をして役所に招くもの、我を賞するに禄位(ろくい)を以てするにはあらざるか。我今數萬(すうまん)の飢民(きみん)を撫育(ぶいく)せんとし民の飢渇(きかつ)を憂ふる而已(のみ)なり。然るに飢渇死亡旦夕(たんせき)に迫れる民を措(おき)、禄位の賞を受(う)くるに忍んや、是(これ)を以て命(めい)なりと雖も我は往(ゆ)かざるなり、若し禄を與(あた)へんとならば夫(そ)れ我に千石(ごく)を與(あた)ふべし。然れども豈(あに)又(また)千石を與(あた)ふる事を得んや、詮(せん)なき事也(なり)と云ふ。或(ある)人其の言(げん)に驚き問ふて曰く、子(し)位禄に望(のぞみ)なし又(また)受(う)くるに忍びずと。然して千石を與(あた)へよと、千石の禄何(な)にかするや。先生曰く、位禄は我(われ)素(もと)より受けざる所なり、若(も)し千石を與(あた)へば直(たゞ)ちに之を飢民(きみん)に與(あた)へ其の命(めい)を救(すく)はん而已(のみ)。豈(あに)他あらんや と。そこで大久保忠真候は、家老以下に命じていわれた。「二宮はすでに野州の廃亡を興して比類ない丹誠をつくし三村の民を安んじている。その事業は衆人の知るところである。今また小田原の数万の飢えた民を救助する事を任じようとする。彼は元より一家を廃して一身をなげうち、我が出財を止め、独立一身の丹誠によりこのことを実践している。初めより国土のために力をつくし、主恩であってもこれを受けない。非常な英傑でなければどうしてこのような功業を遂けられよう。たとえ恩賞を与えたとしてもまた従うことはあるまい。しかし二宮は二宮の道があり、予には予の道がある。どうして功績の有る臣を賞しないでいられよう。もし彼の意がそうであったとしても、賞の道を欠く時はどうして人君の職にあるといえよう。汝等これを賞する道を論議すべし。予もまた思慮しよう」と のたまわった。群臣はこれを論議したが決着しなかった。大久保忠真候はそこで禄を若干と用人格でこれを賞すべきであると命じられた。先生は十分に野州三村の民の飢渇を免れさせることができた。その恵みたるや、老若男女とも、米や稗5俵を食にあてさせたのであった。平年の豊作の時よりも豊かであった。そこでその年の12月に野州を出発して江戸に到着した。その時に大久保忠真候は病を発し、上下とも大変心配した。大久保候は先生が来たのを聞いて大変悦ばれ、「まず速やかにこれを賞せよ」と命じられた。恩禄を下される前日にあたって、まず使者を差し向けて麻の上下(かみしも)を賜わった。使者は君命としてこれを渡そうとした。先生は憤然として言われた。「臣にこの礼服を賜わるという。これは臣の不用とするものである。どうしてこれを受け取れよう。あなたはこれをすぐに返上しなさい。 」使者は怒って言った。「何ということを言うのか、君が自ら着服されたところの物を賜わる、しかるに臣としてこれを受けないで、私に返上せよという。臣下の道がどこにあろうか。」先生は大きな声をだされて言われた。「臣が臣の道を知らないのではない。君が君の道をお知りにならないのである。今、数万の国民が罪無くして飢えて死のうとしている。君自らこれを救う事ができない。はるかに臣を呼んでこれを救おうとされる。私はこのように思っていた。君は臣の来るのを待って民を救う道を質問し、米粟(べいぞく)を下されるに違いないと。あに、はからんや、この物を賜わるとは。臣がこれを受けて寸断し、飢えた民に与えよというのか。飢えた民がどうしてこの物を食らって生命を全くすることができよう。あるいは臣にこれを着服せよといわれるのか。飢亡に瀕している民を救うのに昼夜をわかたず奔走し、一刻も救助の道が後れる事を恐れている。どうしてこのものを着服して飢渇の民を救う事ができよう。このゆえに不用のものであるというのである。無益のたまものを受けることなど思いも寄らない、すぐに返しなさい。」使者はますます怒って、この言葉を君に述べ伝えた。君候は感歎して言われた。「ああ、賢なるかな、二宮。その言葉は古今の金言である。私ははなはだ過っていた。その物を与えてはならない。 」そこで先生を役所に呼び出した。先生は出頭しないで言われた。「私に何の用があるというのか。ただ速やかに小田原へ往こうとするだけである。そうであるのに今、私を役所に招くというのは、私を禄位をもって賞しようというのではあるまいか。私は今、数万の飢民を救済しようとして、民が飢渇しているのを憂えるだけである。そうであるのに飢渇死亡が旦夕に迫っている民をさしおいて、禄位の賞を受けることをどうして忍ぶことができよう。たとえ命令であっても私は往かない。もし禄を与えようするのであれば、むしろ私に千石を与えるべきである。しかしながらどうしてまた千石を与える事ができようか、せんない事である。」と言われた。ある人がその言葉に驚いて先生に次のように問うた。「あなたは位禄に望みはない、また受けるのに忍びないと言われた。それなのに千石を与えよと言われる。千石の禄を受けてどうしようというのか。」先生は言われた。「位禄は私がもとより受けないところである。もし千石を与えるというなら、すぐにこれを飢えた民に与えてその生命を救おうとするだけである。他に何があろう。 」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.27
音もなく 香(か)もなく 常に天地(あめつち)は書かざる経を 繰り返しつつ☆二宮翁夜話巻の1の冒頭は、この歌から入る。 森信三先生の年譜にはこうある。「1928年(昭和3年)33歳 二宮尊徳の「二宮翁夜話」の開巻劈頭にある『天地不書の経文を読め』との一句により、学問的開眼を得たり。」実にこの歌は、尊徳先生の教えの真髄を示している。書物ではなく、天地の道理に学ぶ、これができるかできないか、これが人生を決める。天地の経文を一度読むことができた者は実に汲んでも尽きない泉を得たようなもので、豊かに知恵がわいてくる。最近では、幼児のバイオリン教育で有名な鈴木鎮一先生も天地不書の経文を読まれた方であろうと思う。その著「愛に生きる」(講談社現代新書)の「はじめに(驚きの日)」の冒頭にはこうある。「アッ! 日本じゅうの子どもが日本語をしゃべっている!」 わたしは飛び上がって驚きました。どの子もみんな自由自在に日本語をしゃべっている。なんの苦もなくしゃべっている。驚くべき才能ではないか。なぜだろう。どうしてそういうことになったのか。わたしは通りを駆け出して叫びたい衝動を抑えるのがやっとでした。これは鈴木鎮一先生33歳頃の開眼の一瞬です。誰に話しても当たり前ではないかとあきれられる。実にこの天地の道理に気づくことによってスズキ・メソードは生まれたのです。そしてその後の苦難もこの原点に立ち帰ることによって解決が得られたのです。二宮尊徳先生も、金次郎の少年時代に菜の種から菜種を得、捨て苗から米を収穫した体験から「小を積んで大をなす」という自然の道理に気づいたことから、我が家の再興に確信が持てたのです。そしてそれを村や国の再興に拡充していったのです。尊徳先生は、相談を受けても良(やや)久しく沈考されます。それはこの天地の書かざる経典に自分の考えを照らし合わせているにほかなりません。汲むど尽きせぬ知恵がわいてくるのです。☆「二宮翁夜話」は巻之一から巻之五まで小さな資料室長さんが原文をホームページに載せていただきました。有難いことです。一 翁 曰(いわく)、 夫(それ)誠の道は、学ばずしておのづから知り、習はずしておのづから覚へ、書籍(シヨジヤク)もなく記録もなく、師匠もなく、而して人々自得して忘れず、是(コレ)ぞ誠の道の本体なる、 渇して飲み飢(ウヘ)て食(クラ)ひ、労(ツカ)れていねさめて起く、皆此(コノ)類(ルイ)なり、古歌に「水鳥(ミヅトリ)のゆくもかへるも跡たえてされども道は忘れざりけり」といへるが如し、夫(ソレ)記録もなく、書籍(シヨジヤク)もなく、学ばず習はずして、明らかなる道にあらざれば誠の道にあらざるなり、夫(それ)我教(ワガオシヘ)は書籍を尊まず、故に天地(テンチ)を以て経文とす、予(ワ)が歌に「音もなくかもなく常に天地(アメツチ)は書かざる経をくりかへしつ ゝ」とよめり、 此(カク)のごとく日々、繰返し繰返してしめさるゝ、天地の経文に誠の道は明らかなり、掛(カカ)る尊き天地の経文を外(ホカ)にして、書籍の上に道を求(モトム)る、学者輩(ハイ)の論説は取らざるなり、能(ヨク)々目を開(ヒラキ)て、天地の経文を拝見し、之を誠にするの道を尋ぬべきなり、夫(それ)世界横の平(タイラ)は水面を至れりとす、竪(タテ)の直(スグ)は、垂針(サゲブリ)を至れりとす、凡(およそ)此(かく)の如き万古動かぬ物あればこそ、地球の測量も出来るなれ、 是を外にして測量の術(ジユツ)あらむや、 暦道の表(ヒヨウ)を立てゝ景(カゲ)を測るの法、 算術の九々の如き、 皆自然の規(ノリ)にして万古不易(エキ)の物なり、此物によりてこそ、天文も考ふべく 暦法をも算すべけれ、此物を外にせばいかなる智者といへども、 術を施すに方なからん、 夫(それ)我道も又然(シカ)り、天言(モノ)いはず、而して、四時(しいじ)行はれ百物成る処の、 不書の経文、不言の教戒、則(スナハチ)米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実法(ミノ)るが如き、万古不易の道理により、誠の道に基きて之を誠にするの勤(ツトメ)をなすべきなり(現代語訳)1 尊徳先生はこう言われた。「誠の道は、学ばないで自ずから知り、習わないで自ずから覚え、書籍もなく記録もなく、師もなく、そして人々が自得して忘れない、これが誠の道の本体である。のどが渇いて水を飲み、腹が減って食べものをくらい、疲れて眠り、目が覚めて起きる、皆これらの類である。古歌に「水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されども道は 忘れざりけり」というようなものである。それ記録もなく、書籍もなく、学ぶことなく習うことなくて、明らかである道でなければ誠の道ではない。私の教えは書籍を尊ばない。故に天地をもって経文とする。私の歌に「音もなく かもなく常に 天地(あめつち)は 書かざる経を くりかへしつ ゝ」と詠んでいる。このように日々、繰返し繰返して示されている天地の経文にこそ誠の道は明らかなのである。このような尊い天地の経文をほかにして、書籍の上に道を求める、学者達の論説は取らないのである。よくよく目を開いて、天地の経文を拝見して、これを誠にする道を尋めるべきである。それ世界の横の水平は水面を至れりとする、竪の直は、錘(おもり)を至れりとする。およそこのような万古動かない物があるからこそ、地球の測量もできるのである。このほかにおいて測量の術があろうか。暦道の表を立てゝ影を測るの法や 算術の九々のような、皆自然の規則であって万古不変の物である。この物によってこそ、天文も考えることができ、 暦法をも計算すすことができる。この物を外にするならばどのような智者であっても方法がないであろう。私の道もまたそのとおりである。天もの言わず、そして、四時行はれる百物が成るところの不書の経文、不言の教戒、すなわち米を蒔けば米がはえ、麦を蒔けば麦の実るような、万古不易の道理によって、誠の道に基いてこれを誠にするの勤めをなすべきである。○また、巻の3にはこうあります。八七 翁曰、夫世の中に道を説たる書物、算(カゾ)ふるに暇(イトマ)あらずといへ共、一として癖(ヘキ)なくして全(マツタ)きはあらざる也、如何となれば、釈迦(シヤカ)も孔子も皆人なるが故也、経(ケイ)書といひ、経(キヤウ)文と云も、皆人の書たる物なればなり、故に予は不書の経、則(スナハチ)物言ずして四時行れ百物なる処の、天地の経文に引当て、違(タガ)ひなき物を取て、違(タガ)へるは取らず、故に予が説く処は決して違はず、夫燈皿(トウガイ)に油あらば、火は消(キヘ)ざる物としれ、火消へば油尽(ツキ)たりと知れ、大海に水あらば、地球(チキウ)も日輪(リン)も変動(ヘンドウ)なしと知れ、万一大海の水尽る事あらば、世界は夫までなり、地球も日輪も散乱(サンラン)すべし、其時までは決して違ひなき我大道なり、夫我道は、天地を以て経文とすれば、日輪に光明ある内は行れざる事なく、違ふ事なき大道なり(現代語訳)87 尊徳先生はこう言われた。「世の中に道を説いた書物は、数えることができないほど多いが、一つとして癖がなく、完全なものはない。なぜかといえば、釈迦も孔子も皆人であるからである。経書(論語など)といひ、経文(お経)というのも、皆人が書いたものだからである。故に私は不書の経、すなわち物言わずして四時行れ、百物なるところの、天地の経文に引き当てて、間違いのないものを取って、違うところは取らない。故に私が説くところは決して違わない。燈皿に油があらば、火は消えない物としるがよい、火が消えたら油が尽たものと知るがよい。大海に水があるならば、地球も太陽も変動がないと知るがよい。万一大海の水が尽きる事があらば、世界はそれまである。地球も太陽も散乱するであろう。その時までは決して違いがないのが私の大道である。私の道は、天地をもって経文とするから、太陽に光明があるうちは行れない事はなく、違う事がない大道であるのだ。
2023.08.27
報徳記 巻之五【四】小田原候先生を召して領中の飢民撫育を命ず天保七年丙申(ひのえさる)の大凶荒(だいきようくわう)に當(あた)り駿豆相(すんずさう)の小田原領も亦大に飢う。領民飢渇を免れ難く山野に出でて草根(さうこん)を堀り木實(もくじつ)を拾ふ。君候大(おほ)いに之を憂勞(いうらう)し、救荒(きうくわう)の道を求るといへども、數萬(すうまん)の飢渇を救ふこと能(あた)はず、是に於て家臣某(それ)を野州に下して先生を召す。先生曰く、臣此地に至れるより以來(いらい)萬苦(ばんく)を盡(つく)し再復安民の事を勤む。何ぞや君の委任辭(じ)し難きが故なり。今凶飢(きようき)の時に當(あた)り此民を救はんとして寸隙を得ず。然るに臣を召し玉ふ事何(なん)ぞや。初め此地の興復を任じ玉ふの時に當(あた)り、功を奏(そう)せざる中(うち)は召さず往(ゆか)ざるの約を爲(な)せり。然るに今飢民を棄て江都(かうと)に至らしむるもの君(きみ)過(あやま)てりと謂(い)ふべし。我れ命に應(おう)ぜず。若し尋問の事あらば君自ら來(きた)り玉ふべし。何ぞ臣を呼(よぶ)事あらんや。子(し)歸府(きふ)して此の旨を言上せよ。某(それがし)怫然(ふつぜん)として怒(いか)りて曰く、臣として君命に隨(したがは)ざるは不敬也(ふけいなり)。某(それがし)君命を受て使ひす。此の如き無禮(ぶれい)の言を以て何ぞ君(きみ)に復命することを得ん。速(すみや)かに命に從(したが)ひ江都(かうと)に至るべしと云ふ。先生憤然として曰く、我(われ)進退周旋(しんたいすせん)一として君命を重(おも)んぜざるはなし。今命を奉(ほう)ぜざるものは其の初め約する所の君命を廢(はい)せざらんとする而已(のみ)。豈(あに)使者の知る所ならん。凡(およ)そ君(きみ)の使者たるもの君命を傳(つた)へ、其の對(こた)ふる處(ところ)を以て復命する而已(のみ)。何ぞ他(た)あらんや、只(ただ)我が言を君に告(つげ)ん而已(のみ)。何を憚(はばか)りて留滞(りうたい)するや。若し罪あらば我にあらん。子(し)の與(あづか)る所にあらず速に復命せよ と。某(ぼう)大いに怒(いか)り歸府(きふ)して君に告るに此の言を以てし、且(かつ)先生を無道也と訴(うった)ふ。君候憮然(ぶぜん)として曰く、事の子細(しさい)を告(つげ)ずして徒(いたづら)に二宮を呼ぶ故に、對(こたふる)に此言を以てす。宜(うべ)なる哉(かな)其の隨(したが)はざるや。嗚呼(あゝ)我れ國民(こくみん)の飢渇を憂ふること切にして其の辭(じ)を盡(つく)さず。過(あやま)てりといふべし。二宮の言(げん)直(ちよく)にして當然(たうぜん)の理(り)なり。汝再び野州に至り、加賀守(かがのかみ)大(おほ)いに過(あやま)ちたりと二宮に傳(つた)へよ。且(かつ)小田原領民既に飢渇に瀕(ひん)せり。願(ねがは)くは彼の地に至て飢民を救ひ我が心勞(しんらう)を安んじ、國家(こくか)の大患を除かんことを頼むなりと傳(つた)ふべしと宣(のたま)ふ。某(ぼう)大いに驚き前言を悔い再び櫻町に至りて君命を述べたり。先生對(こたへ)て曰く、然り君意(くんい)此の如くならば臣豈(あに)命を奉ぜざらんや。然れども今此地の民を撫育するに遑(いとま)あらず。此地の民は十年前に命を受くる所なり、今の命令を先んじ、小田原の領民を撫育する此地の民に先んずる事は爲(な)し難(がた)し、此地の撫恤(ぶじゅつ)終りなば命に隨(したが)ひて彼地に趣(おもむか)ん。子(し)此旨を以て言上せよ と云ふ。某(ぼう)又(また)歸府(きふ)して復命せり。君候之を聞き悦(よろこ)び玉ふ。【四】小田原候先生を召して領中の飢民撫育を命ず天保7(1836)年の大凶荒にあたり、駿河・伊豆・相模の小田原領もまた大変な飢饉となった。領民は飢渇を免れることが困難となり、山野に出て草根を堀ったり木の実を拾った。大久保忠真候は大いにこれを心配されて、救助の方法を求めたが数万人の飢渇を救うことはできなかった。そこで家臣を野州に使いにだして先生を召された。先生は言われた。「私はこの地に参ってから万苦を尽くして再復し、民を安んずるよう勤めている。なぜなら、君の委任を辞することが難しかったからです。今、凶作で飢饉となっており、この民を救おうとして僅かの暇も得ることができません、そうであるのに私を召そうとされるのはいったいどういうことでしょうか。初めこの地の復興を委任された時にあたり、成功したことを報告できないうちは、召すこともなく、往く事もないという約束をいたしました、そうであるのに今飢民を棄てて江戸に来るよう命じられるのは、殿様が過っているというべきです。私は命に応じません。もしお尋ねになりたい事があれば、殿自らがいらっしゃるべきです。どうして私を呼ぶ事がありましょうか。あなたは江戸へ帰ってこの旨言上しなさい。 」使者はふんぜんとして怒って言った。「臣として君命に従わないのは不敬である。それがしは君命を受けて使いに来ている。このような無礼の言葉をどうして殿に復命できよう。すぐに命に従って江戸に参るべきである。」先生は憤然として言った。「私は進退周旋一つとして君命を重じないことはありません。今、命を奉じないのは、その初めに約束した所の君命を廃しないようにしようとするだけです。どうして使者がそれ以上のことを知るところがありましょうか。およそ主君の使者というものは、君命を伝えてその答えたところをもって復命するだけです。他に何がありましょう。ただ私の言葉を主君に告げるだけでしょう。何をはばかって滞留することがありましょう。もし罪があるなら私にありましょう。あなたが関わる所ではありません。すぐに復命しなさい。 」使者は大変怒って江戸に帰り、君にこの言葉を告げた。そして先生が無道であると訴えた。大久保忠真候は憮然としてこう言われた。「事の子細を告げないで、いたずらに二宮を呼んだためにこの言葉をもって答えたのだ。従わないのも、もっともである。ああわが国民(小田原領民)の飢渇を憂えることが切実であってその言葉を尽くさなかった。余の過ちというべきである。二宮の言は直であって当然の道理である。汝は再び野州に行って加賀守(かがのかみ)が大いに過っていたと二宮につたえよ。かつ小田原領民はすでに飢渇に瀕している。願わくばかの地に至って、飢民を救い、我が心労を安んじて国家の大患を除いてくれよと頼んでいたと伝えてくれ 」とのたまわった。使者は大いに驚いて前言を悔いて再び桜町に至って君命を述べた。先生はこたえて言われた。「そのとおりです。君意がこのようであれば臣がどうして命を奉じないことがありましょう。しかしながら今この地の民を撫育するにいとまがありません。この地の民は十年前に命を受けた所です。今の命令を先んじて小田原の領民を撫育することをこの地の民に先って行うことはできません。この地の救済が終ったならば、命にしたがってかの地におもむきましょう。あなたはこの旨を殿に言上しなさい。 」と言った。使者はまた江戸に帰って復命した。 大久保忠真候はこれを聞いて悦ばれた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.25
報徳記巻之五【3】細川候登阪先生至當の道を論ず 高慶曰く谷田部候先生に問ふて政を爲す惠を布き澤を施すを勤め、積年の廢を擧ぐ英明人過る者に非んば、豈に能く此の如くならんや。中村小しく才有而して至誠之を以する能はず、先生之に教るに丁寧反復至らざる所無し。若し中村をして己を舎て、而して先生の教に終始せして則ち國の隆興指を僂して俟つ可き也。惜かな、其志得るに及で、往々私知を用ゐ、復た先生の教に從はず。是に於てか事錯忤多く、人心附かず其功を奏する能はず。蓋し亦た自ら取る也已(のみ)。(「補注報徳記」(佐々井典比古)より)著者(富田高慶)が思うに、谷田部候は先生の指導によって政治をとり、広く恵沢を施して積年の衰廃を挙げ興した。英明ひとに過ぎる者でなければ、よくなし得ないところである。中村は小才があって、至誠をもって貫くことができなかった。先生はこれを教えること丁寧反復、至れり尽くせりであった。もし中村が我意を捨てて終始先生の教えに従ったならば、国の興隆は指折り数えて待つことができたであろう。惜しいことに、その志を得るに及んで往々私知を用い、先生の教えに従おうとしなかった。ここにおいて、することに錯誤が多く、人心がつかず、ついにその功を奏することができなかった。けだしみずからが招いたものにほかならない。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.24
報徳記巻之五【3】細川候登阪先生至當の道を論ず先生に至りて兩全(りやうぜん)の道を問ひ、且(かつ)節儉(せつけん)を盡(つく)し勤務並に領分再興の道共に存せんとするの意を陳す。先生色を正しくして曰く、嗚呼(あゝ)中村の過ち大なりと云うべし。殆んど大事を過(あやま)り、君(きみ)をして非義に陥らしむ危(あやふ)いかな。中村曰く、某(それがし)兩道(りやうだう)を全くせんとす。然るに危道を蹈(ふ)み我君をして非義に陥らしむるとは何ぞや。先生愀然(しうぜん)として曰く、子(し)未だ君臣の大義を解せざる歟(か)。夫れ臣として君に事(つか)ふるに身命をナゲウつもの古今然(しか)り。況(いは)んや一家の興廢(こうはい)素(もと)より顧みる所にあらず。艱難の爲に役義(やくぎ)の命を下し玉はず。多年奉仕の道を欠くものは是幕府の寛仁(くわんじん)にあらずや。然して子(し)の君臣共に本意を失ふこと之に過ぐべからず。今君仁政を領中に下し負債の半(なかば)を償ひ、累年の艱難を免(まぬが)るゝに近し。此の時に當(あた)りて幕命を蒙(かう)むり玉ふもの君臣の本意(ほんい)にして、心力(しんりょく)を盡(つく)し、其の命令を奉じ忠義を盡(つく)さんことを欲すべし。然るに領中再復の事を顧み、公務の用財を減ぜん事を計る。是私事の爲(ため)に公務を輕(かろ)んずるにあらずして何ぞや。此の命を蒙(かうむ)らざる時は、領中興復の道を行ひ、天民を安んずるを以て諸侯の道と云ふべし。一旦幕府其の職分を命じ玉ふに至りては、天下何ものか是より重きものあらんや。此の時に當(あた)れば國民(こくみん)撫育(ぶいく)領分再興の事は私事なり。速かに仕法を止(や)め百姓撫育の用財を以て勤務の用となし、足らざる時は領民に令(れい)して用金を出さしむべし。猶足らずんば平生(へいぜい)一家艱難の爲にだも他の財を借れり。公務の爲に財を借るとも何ぞ之を不可とせん。此の如くにして登坂(とはん)の用具(ようぐ)一物(もつ)も缺(か)くべからず、用財約(やく)にすべからず。諸侯にして其の職を勤む、武備全からざるは忠にあらず。假令(たとひ)領邑(いふ)之が爲に衰弊すといへども顧みる事勿(なか)れ。平生(へいぜい)仁政を行ひ下民(かみん)を安んじ、節儉(せつけん)を盡(つく)し其の分度を守るも、天下の命あらば身を棄て家を捨て、百萬(まん)の敵といへども一歩も退かず之に當(あた)り、苦戦を盡(つく)し忠孝の大道を蹈(ふ)まんが爲にあらずや。治平(ぢへい)の奉仕亂世(らんせい)の奉仕と異るが如くなりといへども、豈(あに)忠義の心に於て一毛の別あらんや。大番頭(おほばんがしら)は諸旗本の長たり登坂(とはん)何の爲ぞや。大坂の城を守り、萬一變(へん)あらば京都を警衛(けいゑい)し奉り非常の奉仕を爲さんが爲(ため)なり。然るに今其の用財を減じ家政の一助を立てんとせば、大義を失ひ私の爲に公務を欠くの大過(たいくわ)に陥らん。豈(あに)之を忠といはん。何ぞ之を義といはんや。子(し)大義を知らずして殆んど君を非義の地に陥らしめんとす、危い哉(かな)。中村憮然(ぶぜん)として自失し、大息(たいそく)して曰く、不肖(ふせう)殆んど大事を過まらんとす。先生の教へなくんば何を以てか此の大義を知ることを得んや。先生曰く、子(し)速かに我が言を以て子の君に告げ、仕法を畳みて一途(と)の忠勤を盡すべし、若し之が爲に領邑(いふ)再び衰廢せば、我又時を待ちて之を興復せん。領邑(いふ)を興復する事のみ仕法にはあらず。其の時に應じて當然(たうぜん)の道を行ふこと是即ち仕法の本體(ほんたい)なり と教ふ。中村、先生の言を以て細川候に言上す。君其の正大の言を感じ、意を決し用意其の相當(そうたう)を得て登坂(とはん)し力を盡(つく)して奉仕せりと云ふ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.23
報徳記巻之五【3】細川候登阪先生至當の道を論ず細川候先生の良法を以て兩領分(りやうりやうぶん)舊來(きうらい)の廢地(はいち)を擧げ、仁術を布(し)き民心感動して惰風(だふう)一變(ぺん)せり。先生再び沈思黙慮し、拾二萬(12万)餘(よ)金の負債償却の方法を立て、此の道を行ふこと數(すう)年にして借債の減少半(なかば)に過ぎ、非常の艱難を免れ、永安の道に至らんとし、遠近(ゑんきん)其の善政を稱(しやう)す。時に天保某(それ)年幕府命じ玉ふに大番頭(おほばんがしら)を以てす。細川候艱難の爲(ため)に奉仕の道を欠くこと數(すう)十年にして此の命を受け、大いに本意を遂ぐるといへども、登坂(とはん)の費用一藩の手當(てあて)其の道を得ず。之を勤めんとする時は領邑(いふ)興復の業(げふ)を成すことあたはず。勤めざるときは公務を廢(はい)するの罪あり。大いに心を勞(らう)し、中村を呼びて兩全(りやうぜん)の道を問ふ。中村對(こた)へて曰く、公命廢(はい)すべからず。領邑(いふ)再興の道も亦諸侯の職分也、豈(あに)之を廢(はい)す可(べ)けんや。已(や)む事を得ざれば二つながら存(ぞん)して、登坂(とはん)の費用を省き、諸事質素を主とし勤め玉(たま)ふべし。臣猶此の條(でう)を以て二宮に問ひ、良案を得ば言上せんと云ふ。【3】細川候登坂先生至当の道を論ず細川候は先生の良法をもって二つの領分(谷田部と茂木)の旧来の廃地を挙げて、仁術を施し民心は感動して惰風は一変した。先生は再び沈思黙慮して、12万余両の負債の償却の方法を立て、この道を行うこと数年で借金は半分以上も減少し、非常の艱難を免れ、永安の道に至ろうとしている。遠近の藩はその善政を褒め称えた。時に天保某(それ)年幕府は、細川候に大番頭を命じられた。細川候は艱難のため数十年奉仕の道を欠いていたが、この命を受け、大いに本意を遂げることができたが、大阪城に登城する費用を一藩で手当てする方法を得なかった。これを勤めようとする時は、領村を復興する事業を行うことができなかった。勤めないときは公務を廃するの罪がある。細川候は大いに心を労されて、中村玄順を呼んで二つながら全うする道を問われた。中村は答えて言った。「公命を廃することはできません。領有を再興する道もまた諸侯の職務です。どうしてこれを廃することができましょうか。やむことができなければ二つながら存して、大阪城に登城する費用を節約して、諸事質素を主とし勤めるほかありません。私はなおこのことを二宮に問うて、良案が得られたら言上いたしましょう。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.22
報徳記巻之四【五】中村玄順細川候の内命を以て野州櫻町に至る是(こゝ)に於て此の由を令す。大夫(たいふ)其の命を受け、玄順を呼びて之を命ず。玄順悦びて直ちに野州櫻町に至り、先生に見(まみ)えて曰く、某(それがし)不肖にして國(くに)の大事を措(お)き一己(こ)の細事を請ふ。先生某(それがし)を憐み教ふるに大義を以てす。某(それがし)自ら悔い、志を立て以て君に忠を盡(つく)さんとす。内に誠あれば外に形(あらは)るゝの古言宜(むべ)なる哉(かな)。我君(きみ)既に某(それがし)の志願を察し、尋問するに國事(こくじ)を以てす。某(それがし)對(こた)ふるに云云(うんぬん)を以てせり。主君大いに先生の高徳を慕ひ之を仰ぎ、速に國家を委ね興復の政(まつりごと)を任ぜんと欲す。然りと雖も一藩の人心放肆(ほうし)士風を失ひ、公事を後にし、私曲(しきょく)を先にし、偶々(たまたま)忠義に志あるものは速にこれを黜(しりぞ)け、日々他の財を借りて目前の費用に充てんとするのみ、君家(くんか)の借債既に十萬(まん)金を超え、領地の租税は年々に減ず。宗家細川家本末の由緒を以て、連年財を出し、之を助力すること其員數(ゐんすう)已(すで)に八萬金也と云へり。然して貧困年毎に迫れり。宗家も之を救ふの術なしとし、柳原の大土浮(どぶ)と唱ふ。其の意何萬を入るゝといへども更に益なきことを比したりといへり。人情次第に輕薄に陥り、人の善事を妨げ人の悪事を悦ぶ。今幣政を改め國家を再盛するの大業を發(はつ)せんとせば、群臣異議囂々(ごうごう)其の道を疑ひ、諸人の心を惑はし、之を妨げんこと必(ひつ)せり。當君(たうくん)既に老いたり。養君頗る仁心ありて且(かつ)才智ありと雖も未だ家を繼(つ)がず。政令一人に出(い)づることあたはず。然して卒爾(そつじ)に此の大業(だいげふ)を發(はつ)せんとせば、群臣不服の爲に敗に及ばんことを憂ふ。是(こゝ)に由(よつ)て此の憂ひを生ぜず、自然諸臣の心を服せしめ、此の道を開かんことの良策を私(ひそ)かに往きて先生に請ふべしと命ぜり。先生主人の心勞(しんらう)を照察し、一言(げん)の教えを施し玉はば、主家(しゅか)上下(しやうか)の大幸(たいかう)何事か之に如かんやと辯(べん)を振ひて演舌(えんぜつ)す。先生細川候の憂慮を察し、其の艱難の情を憐み、玄順に謂ひて曰く、我(われ)小田原の臣として外諸侯の政事を談ずる事あたはず、況(いは)んや何の由来ありてか其の委任に當らんや。然りと雖も君明らかにして仁心あり、而して民其の澤(たく)を蒙ることあたはず。遂に上下(しやうか)の極窮(ごくきゆう)に至る、豈(あに)歎ぜざる可(べけ)んや。已(や)むを得ずんば我一言を呈せん。夫れ國(くに)の衰亂(すいらん)に瀕するもの其の國(くに)の分度明らかならずして入るものを貪り、出財制なく用費度なきが爲に多分の不足を生ず。猶自ら省みず節儉(せつけん)を守ること能(あた)はず。他の財を借り、或は領民を絞り先納を奪ひて以て其の不足を足す。連年是(こ)の如くして益々窮し、國民其の君の不足を怨み、或は離散し或は農事を廢(はい)し末利に走り、國土之が爲に荒蕪となり、租税彌々(いよいよ)減じ上下(しやうか)の艱難窮る。是に於て奉仕の道を失ひ一藩を扶助するの米財無し。士風卑陋(ひろう)薄情に流れ、毛弗(わづか)の利を爭(あらそ)ひ曾(かつ)て忠義の何物たるを知らざるに至り、上下(しやうか)危きこと累卵の如し。此の禍何に由(よつ)て生ずるや、唯國に分度立たざるの過(あやまり)なり。國に分度なき時は幾萬の財を入るゝといへども、破桶(はとう)に水を入るゝが如く一滴も保つこと能(あた)はず。今子(し)の君家(くんか)極難なりと雖も、明(あきらか)に分度を立て節度を守り仁術を行ふ時は、國(くに)の興復難しとせず。我朝(てう)神代(しんだい)の昔(むかし)豊葦原(とよあしはら)たりし時、何ぞ開田米粟(べいぞく)あらん、何ぞ金銀財宝あらんや。天祖の御丹誠を以て此の葦原を開き玉ふより、海内(かいだい)是の如く豊饒(ほうぜう)繁榮の國(くに)と成れり。然らば此の大道を以て國の廢衰(はいすゐ)を擧(あ)げんに、何ぞ開闢(かいびゃく)以來葦原を開き玉ふが如きの難きことかあらんや。今四海豊富の時に生れ、古の艱難を顧みず専ら奢侈に流れ、節儉(けん)の道を廢(はい)し、安逸を主とするが故に、衰弊(すいへい)立どころに至る也、世の弊風を革(あらた)め、本原(ほんげん)の道に立歸らざれば百計を盡(つく)すと雖も、何ぞ國(くに)の衰亡を補ふに足らん。却(かへ)りて其の廢亡(はいぼう)を促すのみ。我が此の土地を興復せしは則ち此の大道を以てせり。子(し)君臣心を斯(こゝ)に用ゐ、力を盡(つく)さば、何ぞ衰國の興らざることから之あらんや。然して諸臣下(しょしんか)の妨(さまたげ)あらんことを憂ふ。是も亦其の道明らかならざるが故なり。今國家再復永安の道を明かに調べ是の如くする時は、國(くに)盛(さかん)に民安く、是の如くせざれば國(くに)益々窮し亡滅に至らんと。兩道(りやうだう)を以て明かに群臣に示し、何の道に隨(したが)はんと問ふ時は如何(いか)なる侫臣(ねいしん)邪曲の者ありとも、坐(ゐ)ながら國家の滅亡を待たんと云うものはあるべからず。必ず一同再盛安堵の道に依らんと云うべし。其の時に當(あた)り群臣の言(げん)に任せ改正して仁術を行はゞ、其の本(もと)君意に出(い)づるといへども其の行はんとするのは群臣の望みに應(おう)じたるが故に、内心仁政を忌むの族(やから)ありとも一旦此の道を行はんと云ふて直ちに其の妨害をなさば、徒(いたづら)に其の身の刑罰を招かんのみ。至愚(しぐ)のものと雖も豈(あに)之を爲さんや。是れ君意に出(い)づればことを成し難き時は、君意(くんい)をして群臣の冀望(きぼう)に歸(き)し、其のことを遂ぐるの道なり。何(なに)の憂ふることか之あらんやと教ふ。辰十郎君はそこでそのことを、命じられた。家老はその命を受け、玄順を呼んで命令した。玄順は喜んですぐに野州にいたり、先生に面会して言った。「私は愚かで国の大事をさしおいて自分ひとりの細事をお願いしました。先生は私を憐れみ教えるに大義をもってされました。私は後悔して、志を立て主君に忠義をつくそうとしました。『内に誠あれば外にあらわる』という古言はもっともなことです。私の主君はすでに私の志願を察して尋問するに国事をもってしました。私は答えるに先生の事跡とお教えを申し上げました。主君は先生のご高徳を慕い仰ぎ、すぐに国家をゆだね、復興の政治を任せようと願っています。しかし、藩の人心は士風を失って、公の事を後にし私曲を先にして、たまたま忠義に志がある者があってもすぐ退けられてしまいます。日々に他の財を借り目前の費用に充てるのみで、主君の借財はすでに十万両を超え、領地の租税は年々減少しています。宗家の細川氏は本末の由緒をもって毎年財産を出して、助力することその総計で8万両になります。貧困は年毎に迫り、宗家も救う方法もなく、柳原の大ドブといわれるほどです。その意味は何万両をいれても更に益がないことにたとえたものです。人情は次第に軽薄に陥り、人の善意を妨げ、人の悪事を喜びます。今、政治を改め、国家を再盛するの大業を発しようとすれば、群臣は異議を申し立て、その方法を疑い、妨げようとすることは確実です。当君はすでに年老い、養子としてこられた君は大変仁心があり、かつ才智ありといってもいまだ家を継いでおりません。命令が一人から出ることができません。そして軽々しくこの大事業を行おうとすれば、群臣は不服を唱え、失敗に及ぶかもしれないことを憂慮しています。この憂いを生ぜず自然と諸臣の心を服さしめ、この道を開くための良策を、ひそかに先生のもとに言って聴いてくるようにと命じられました。先生わが主君の心労をよく察せられ、一言お教えください。主家上下の幸いはこれに及ぶものはありません。」先生は細川候の憂慮を察し、その艱難の実情を憐れんで玄順にこう言われた。「私は小田原藩の臣として、外の諸侯の政治を談ずることはできません。まして縁もゆかりもなくてどうしてその委任にあたれましょう。しかし、君が名君で仁心があり、そして民がその恵沢を受けることができず、ついには上下とも困窮の極みに至ってしまう、どうして歎かずにおられましょう。やむを得なければ、私は一言だけ述べましょう。それ国の衰えや乱れに瀕するものは、その国の分度が明らかでなく、入るものを貪り、出財に制限がなく、費用に基準がないために多くの不足を生じるのです。なお自ら反省することなく、節倹を守ることができず、他から借金し、あるいは領民を絞りとって来年納めるべきものを奪ってその不足を足す。毎年このようにしてますます困窮し、国民はその君主の不足を怨み、あるいは離散し、あるいは農事を廃し、瑣末な利益に走り、国土はこのために荒れ果て、租税はいよいよ減じて上下の艱難が窮まるのです。ここにおいて士として奉仕する道を失い、一藩を扶助するだけの米や財がない。士風は卑しくおちて薄情に流れ、わずかの利を争い、忠義が何ものかを知らないようになり、上下が危ういこと累卵のようだ。この禍は何によって生じたのか、ただ国の分度が確立しなかったがための過ちである。国に分度がないときは、幾万の財を入れても、破れた桶に水を入れるようなもので、一滴も保つことができない。今、子の君家は極難であるといっても、明らかに分度を立てて節度を守り、仁術を行う時は、国の復興は難しくはない。我が国は神代の昔は一面の葦原であった時、どうして開田し米や粟があろう。どうして金銀財宝があろう。天祖のご丹誠を以てこの葦原を開かれたから、日本中このように豊かで繁栄した国となったのです。そうであればこの大道をもって国の廃衰を挙げるのに、どうして開闢以来葦原を開かれたような困難がありましょうか。今、四海豊富の時に生まれて、昔の艱難を顧みずに専ら贅沢に流れて、節約の道を廃して、安逸を主とするために、衰え弊害に陥るのです。世間の過った風儀を改めて本来の道に立ち返らなければ百計を尽くしたとしても、どうして国の衰退を補うことができましょう。かえってその廃亡を促すだけです。私がこの土地を復興するのは、すなわちこの大道を用いている。君臣が心をここに用いて力を尽くすならば、どうして衰えた国も復興しないことがありましょう。そしてまた多くの臣下が妨害することを憂慮されている。これもまたその道が明らかでないからです。今、国家の再復し永久に安らかになる道を明らかに調べてこのようにする時は、国は盛んに、民は安く、このようにしなければ、国はますます窮して亡滅するに至るであろう。この二つの道をもって明らかに群臣に示して、どちらの道に従うかと問うときは、どのようなへつらう臣や邪曲の者があろうとも、坐したまま国家の滅亡を待とうというものはあるまい。必ず一同が再び栄えて安心する道によりましょうというでしょう。その時にあたって群臣の言葉にまかせて政事を改め仁術を行うならば、その元は君意に出るといっても、その行おうとするのは群臣の望みに応じて行うのですから、内心仁政を嫌がるやからがいたとしても、いったんこの道を行おうといって、ただちにその妨害をすれば、いたずらにその身に刑罰を招くだけです。愚かな者であっても、どうしてそんなことを為しましょう。これが君意から出てなしがたいときは、君意を群臣の望みとして、これを成し遂げる道です。どうして憂慮することがありましょう。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.21
報徳記【五】中村玄順細川候の内命を以て野州櫻町に至る于時(ときに)天保某(ぼう)年中村玄順君(きみ)の内命に依り西久保に至り先生を訊(と)ふ。横山曰く、先生既に野州に歸(かへ)れり。某(それがし)も亦近日彼(か)の地に至らんと云ふ。中村大いに望みを失ひ、柳原に歸(かへ)り、此の旨を言上(ごんじやう)す。辰十郎君(きみ)之を聞き、然らば汝速かに野州に往きて余が心意を達せよ。此事父君(ちゝぎみ)にも私(ひそ)かに言上せり。父君(ちゝぎみ)大いに悦び玉ひ、群臣に漏さず穏便(をんびん)に事を整へよと宣(のたま)ふ。若し汝をして野州に往かしめば諸臣必ず之を疑ひ、是より事の破れを生ぜんか。汝野州に至り人之を疑はざるの道を案ぜよ。玄順曰く、臣既に其の道を得たり。今君の内君(ないくん)懐妊し給ふ、既に五月に及べり。群臣の皆知る所なり。然るに野州櫻町を去ること數里(すうり)地藏あり。延(のべ)の地藏と唱ふ。是(これ)安産を守るとて貴賎必ず之に安産を祈れり。今(いま)大夫(たいふ)以下へ令す可し。野州延(のべ)の地藏を祈る時は、平産(へいざん)疑なしと聞く。然れども國を隔てて諸臣の内を遣(や)らば、人の耳目に觸(ふ)れんも如何(いかが)なり。玄順は醫(い)なれば何國(なにくに)に往くも人之を怪(あや)しまず。彼に此の事を命じ、彼の地に至り平産を祈らしめよと。群臣之を聞かば何ぞ其の事を疑はんや。君曰く、妙策と云ふべし。【5】中村玄順細川候の内命を以て野州櫻町に至る時に天保3年(1832)中村玄順は、細川辰十郎君の内命によって西久保に至って先生を訪問した。横山が言った。「先生はすでに野州(栃木県)にお帰りになりました。私もまた近いうちにかの地に行くつもりです。」中村は大変失望して、柳原に帰って、この旨を申し上げた。辰十郎君はこれを聞いて、「そうであれば汝はすみやかに野州に行って私の心意を伝えてくれ。このことは父君にもひそかに申し上げた。父君は大変喜ばれて、群臣に漏らすことなく穏便に事を整えよとおおせになった。もし汝を野州に往かせたら、諸臣は必ずこれを疑って、これから事が破れることもあろう。汝が野州に行っても、人がこれを疑わないような方法を考え出してくれ。」玄順は言った。「私はすでにその方法を考えております。今殿様の奥様はご懐妊され、すでに5月に及んでおります。群臣の皆知るところです。野州桜町から数里離れたところに地蔵があります。延(のべ)の地蔵(天台宗「延生山 城興寺」運慶作と伝えられる地蔵菩薩(木像・1尺7寸)は「延生のお地蔵さん」として親しまれ、殊に安産・子育て・子授けの地蔵さんとして東北、関東一円に知られ、年中産詣の人々が絶えた日がないという)と申します。これは安産を守ってくれるといって貴賎を問わず安産を祈りに参ります。今、ご家老以下にご命令ください。野州の延(のべ)の地蔵を祈る時は安産疑いなしと聞いている。しかしながら、国を隔てて臣下を派遣すれば、人の耳目に触れるのもどうかと思われる。玄順は医者であるから、どの国に往ったとしても人はあやしむことはあるまい。彼にこのことを命じて、延生に往かせて安産を祈らせよ」と。群臣もこれを聞いてもそのことを疑うことなどありますまい。辰十郎君は、「妙策である」といわれた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.20
報徳記巻之四【四】細川候中村玄順をして先生に領中復興の事を依頼せしむ細川候齢(よわひ)既に耳順(じじゅん)を越え玉へども男子なし。故に有馬候の次子(じし)辰十郎君(ぎみ)を養子となす。時に辰十郎君(きみ)未だ世を繼(つ)がず。此の君(きみ)頗(すこぶ)る英才あり。國家(こくか)の衰弱上下の艱難を憂ひ、一度經濟(けいざい)の道を行ひ再興せんと心を盡(つく)すと雖も其の道を得ず。一時(あるとき)玄順君前(くんぜん)に在りて、古今其の人に由(よつ)て國家の盛衰することを談ず。辰十郎君(きみ)慨然として沈黙此の事を聞き、近習(きんじふ)の人を退かしめ、竊(ひそ)かに玄順に謂(いひ)て曰く、余(われ)有馬の家に生長し曾(かつ)て艱難の事を知らず。此の家に養はるゝに及びて上下(しやうか)の困窮比類なきことを知る。此の如くして歳月を送らば負債山の如く、遂に亡國(こく)に類せん。一度家政を改革し一家を再興し、養父の心を安んじ、領民の困苦をも除かんと欲すれども、不肖にして其の道を得ず。汝若し思慮する所あらば、國家の爲に其の言を盡(つく)すべし。我私(ひそ)かに之を參考せんと問ひ玉ふ。玄順兼(かね)て先生良法の事を言上(ごんじやう)し、君家(くんか)を興(おこ)し、功業を立て一身の榮利をも取らんことを謀(はか)り、其の時を窺ひしに、今是の如きの問(とひ)を得て心中大いに悦び、時至れりと平伏して言上して曰く、誠に君の憂ひ玉ふ所の如く、連年此の如くにして年月(としつき)を經(へ)ば、如何(いかに)とも爲(な)すべからざるに至らん。微臣醫(い)を以て業とす、何ぞ國家の政(まつりごと)に與(あづか)らんや。然るに君群臣に問はずして獨(ひと)り愚臣に問ひ玉ふは、臣兼(かね)て其の職にあらざれども國事(こくじ)を憂ふるの微忠を察し玉ふの故なるべし。然るに意中を殘(のこ)さず言上せずんば、必ず不忠の罪を免れず。因(よつ)て言上し奉るの一事(じ)あり。國家の廢衰(はいすい)を擧(あ)げんとすること非常の俊傑(しゆんけつ)にあらざればあたはず。況んや臣の愚蒙(ぐもう)の如き何を以て國家の有益を知らん。斯(こゝ)に希世の英才あり、名を二宮某(ぼう)と云ふ。元相州(さうしう)小田原民間に人となり、非常の行ひを立て、知略徳行萬(まん)人に超過(てうくわ)す。小田原候之を擧(あ)げ分家宇津家の采地(さいち)衰廢(すいはい)再興を任じ、數年にして功業成就し、三邑(いふ)の民危急の艱苦を脱し、平安の地を得、貢税往時に倍し、宇津家積年の艱難之が爲に免れたり。小田原候其の功を賞賛し玉ひ盡(つ)くすべきにあらず、實(じつ)に希世(きせい)の人傑なり、臣故(ゆゑ)ありて二宮に一面することを得。其の高論を聞くに滔々(たうたう)として洪河(こうが)の如く、治亂(ちらん)盛衰存亡吉凶の生ずる處(ところ)其の根元を談ずるに、混々(こんこん)として其の盡(つ)くる所を知らず。君若し此の人に國家再興の道を委任し、其の指揮に應(おう)じ改政仁術を施し玉はゞ、十年を出でずして上下(しやうか)の艱難を免れ、大いに國家の大幸を開かんこと疑ひあるべからず。其の良法を行ひ玉はゞ、臣愚なりと雖も其の教示(けうし)を受け、上下(しやうか)の爲に一身をナゲウち、再興の事業に心力を盡(つく)すべし。君は興復の大體(だいたい)を守り給ひ、臣は其の正業に力を盡(つく)さば何事か成らざらんやと辯(べん)をふるひて言上しければ、辰十郎君(ぎみ)大いに悦び、誠に汝の言の如くならば、無双の英傑といふべし。二宮の力を借り、其の指揮に隨ひ、汝と心を合せ勉勵(べんれい)せば志願必ず成就せんか。斯(こゝ)に一つの難事あり。群臣數年の困苦に迫り頗(すこぶ)る仁義の風を失ひ、自ら功を立てんことを好み、人の功を妨げ、他の善を忌むの心盛んにして、國家の爲に私心を去り、忠を盡(つく)さんとするもの鮮(すくな)し。今大業(だいげふ)を汝(なんぢ)と共に擧(あ)げんとせば、之を聞き其の是非を論ぜずして徒(いたづら)に之を拒まんこと必(ひつ)せり。我未だ部屋住(へやすみ)たり、專(もっぱ)ら令することあたはず。此の事を公然として發(はつ)せば必ず成すことあたはず。汝竊(ひそ)かに余が辛苦する所以(ゆゑん)と、二宮の道を行ひ國家を再興せんとするの意中を、二宮に往きて具(つぶ)さに告げ、當時(たうじ)の處置(しょち)を問ふべし。二宮余(よ)が辛苦を察せば、必ず之を憐み大知を以て處置(しょち)の宜(よろ)しきを示さんか。然らば又之に應(おう)じて爲す可きの道を得ん。汝此の事を過(あやまつ)つ勿(なか)れと命じ玉ふ。玄順悦びて曰く、君勞(らう)し玉ふことなかれ。臣(しん)宰我(さいが)子貢の辯(べん)を振ひ、君意を貫通せしめ、二宮の良策を得て、再び言上し奉らんと云ひて退き、再び先生の許(もと)に至れり。【4】細川候が中村玄順をして先生に領中再興の事を依頼させた。 細川候はすでに60歳を越えていらしたが、男の子がいなかった。だから有馬候の次男の辰十郎君を養子とされた。辰十郎君はまだ細川家を継いではいなかった。この君は大変英才であった。細川家が衰弱し、上下とも艱難しているのを憂慮され、一度国家を経営し救って再興したいと願われていたが、その方法を得なかった。ある時、玄順が君前にあって、古今その人によって国家の盛衰があることをお話した。辰十郎君はこれを聞かれて感銘を受けて沈黙して聞いておられたが、近くに侍る者たちを退かして、ひそかに玄順に聞いた。「私は有馬の家に生長して、かって艱難ということを知らなかった。この家に養子にきて、上下の困窮が比類ないことを知った。このようにして歳月を過ごすならば、負債は山のようで、ついには亡国のようなありさまになることであろう。一度家政を改革して一家を再興し、養父の心を安んじ、領民の困苦を除きたいと願っているが、能力が及ばずその方法がわからない。なんじもし思慮するところがあれば、国家のためにその言葉を尽くしてみよ。私はひそかにそれを参考にしよう」と問われた。玄順はかねてから聞いている尊徳先生の良法のことを言上し、君家を興し、功業を立てて、一身の栄利を果たしたいものだとその機会をうかがっていたところ、今このような質問を受けて内心大変喜んで、その時が来たと平伏して申し上げた。「誠に殿様が憂慮されますように、連年このようにして年月を経過いたしますとどうにもすることのできない事態になりましょう。私は医業をもってお仕えするもので、どうして国家の政治に関与できましょう。そうであるのに、殿様が郡臣に問うことなく、ひとり私に質問されるということは、私がその職でないながら、国事を憂慮する忠義を推察されたからでございましょう。そうであるのに、思っていることを残らず言上しないならば、必ず不忠の罪も免れますまい。よって言上いたします一事がございます。国家の衰廃を挙げることは非常に優秀な人物でなければできることではありません。ましてや私のような愚かな者がどうして国家のためになることを知っておりましょう。ところがここに世にもまれな優れた人物がおります。名を二宮と申しまして、もとは相州(神奈川県)の小田原の民間の出身で、尋常でない行いを立て、知略も徳業も万人を飛び越えています。小田原候がこれを挙用して分家の宇津家の領有が廃衰していたのの再興を任せられ、数年で成功して、三村の民は非常な艱難を脱して、平安の地を得ることができました。租税ももとのようになり、宇津家も積年の艱難をこれによって免れております。小田原候はその功績を賞賛され、いずれは11万石の領地の再盛を任じたいとお思いになっています。その事業や徳行の詳細にいたっては一言では尽くせません。実に世にもまれな人傑であります。私は理由がございまして二宮に一度面会したことがございます。その高論を聞くに、とうとうとして大河のようで、治乱盛衰存亡吉凶の生ずるところの根元を談論するに、こんこんとして尽きることがありません。殿様がもしこの人物に国家の再盛を委任され、その指揮にしたがって政治を改め、仁術をほどこすならば、十年を出ずして上下ともに艱難を免れて、おおいに国家の大きな幸せを開くことは疑いありません。その良法を行うということであれば、私は愚かではありますが、その教えを受けて、上下のために一身をなげうって、再興の事業に心力を尽くしましょう。殿様には復興の大枠を守っていただき、私がその正しい行いに力を尽くすならばなしとげることができましょう。」玄順がそう申し上げると、辰十郎君はおおいに喜んで、「本当にお前のいうとおりであれば、比べるもののない英傑といえよう。二宮の力を借りて、その指揮にしたがって、おまえと心をあわせて勉め励むならば志願は必ず成就しよう。ただ一つ難しいことがある。群臣は何年ものあいだの困苦にせまられて、大変仁義の風を失って、みずから功業を言い立てることを好んで、人の功はさまたげ、他の善は忌み嫌う心が盛んで、国家のために私心を去って忠義を尽くそうとするものは少ない。いま大業をおまえとともになそうとすれば、それを聞いてその是非を論ずることなく、ただもうこれを拒もうとすることは必然である。私はいまだに部屋住みの身であり、命令することはできない。このことを公にして命ずれば、きっと成功は難しいであろう。おまえはひそかに私が辛苦しているわけと、二宮の道を行って国家を再盛したいという意思を、二宮のところに行って精しく告げて、当面行うべきところを聞いてまいれ。二宮が私の辛苦を察すれば、必ず憐れみ大知をもってよい方法を示してくれるであろう。そうすればまたそれに応じて行うことができる道を得るであろう。おまえはこれを過ってはならない」と命じられた。玄順はよろこんでこう言った。「殿様ごあんしんください。 私は古代中国の弁論家の宰我や孔子の弟子の子貢のような弁舌をふるって殿様の意思を貫通させ、二宮の良策を得て再び言上いたしましょう」そう言ってその場を退出した。そして再び先生のもとへ赴いたのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.19
報徳記巻之五【四】小田原候先生を召して領中の飢民撫育を命ず或(ある)人此の言(げん)を以て大夫(たいふ)以下に告ぐ。大夫(たいふ)以下驚嘆して曰く、二宮の言(げん)是(かく)の如し。兼(かね)て評議の禄位を命ぜば彼(かれ)必ず受けず。豈(あに)受けざる而已(のみ)ならん。又(また)如何(いか)なる言(げん)をか發(はつ)せん。止(や)まんには如(し)かざる也(なり)と、此の言(げん)を君(きみ)に言上(ごんじやう)す。候(こう)曰く、二宮の言(げん)至れりと謂(い)ふべし。先づ位禄の命(めい)は下(くだ)す事勿(なか)れ。我後日(ごじつ)大いに賞するの道あるべし、今我が手元用意金千兩(りやう)二宮に與(あた)へ撫育(ぶいく)の事を任(にん)ぜん。領民救助の米粟(べいぞく)は小田原にて藏(くら)を開(ひら)かん。外(ほか)に財をも與(あた)ふべし と命じ玉ふ。家臣某(ぼう)此の命を先生に傳へ千金を賜ふ。君自ら命じ玉ふ事なれども候の病悩(びやうなう)甚(はなはだ)し。是の故に某(ぼう)を以て之を達(たつ)せりと。先生謹(つゝし)みて命を拜(はい)し臣(しん)命(めい)を蒙(かうむ)り一度(たび)小田原に至らば、民命(みんめい)無事に救助せん。君(きみ)必ず憂勞(いふらう)し玉ふ事勿(なか)れ、と云ひて、即刻江都(かうと)を發(はつ)し晝夜(ちうや)兼行(けんかう)相州(さうしう)小田原に至(いた)る。人々其の至誠を感歎す。ある人は先生の言葉を家老以下に告げた。家老以下は驚嘆して大久保忠真候に申し上げた。「二宮の言はこのようです。かねて評議した禄位を命ぜられても、彼は必ずや受けないでしょう。受けないどころか、またどのような言葉を発するかわかりません。これは止めたほうがよろしいかと存じます。」大久保忠真候は言われた。「二宮の言葉は至言である。まづ位禄の命は下してはならない。予が後日、大いに賞する道もあろう。今、予が手元の用意金から千両を二宮に与えて救済の事を任じよう。領民を救助する米粟は小田原で米蔵を開こう。外にも必要な資材を与えよう。 」家臣のなにがしという者が、この命を先生に伝えて千両を賜まった。君自ら命じられた事だったが、大久保候の病悩ははなはだく重くなっていた。そこで使者を先生のもとに寄こしてこのことを伝達させた。先生は謹んで命を拝し「臣は、命をこうむり、一度小田原に至るならば、民の命を無事に救助いたしましょう。君は決して憂い労せられることのなきように。 」といってすぐに江戸を出発して昼夜兼行して相模(さがみ)の国(神奈川県)小田原に至った。人々はその至誠を感歎した。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.19
報徳記巻之四【3】先生中村玄順に忠義の道を教諭す于時(ときに)天保某(ぼう)年某月中村玄順西久保に於いて先生に見(まみ)え、二十五金の恩借(おんしやく)を請(こ)ふ。先生曰く、當時(たうじ)負債の爲に心苦(しんく)するもの豈(あに)子のみならんや。子(し)の君(きみ)政事(せいじ)正しくして國(くに)富み民豊かなる歟(か)。中村答えて曰く、何ぞ然らんや。領邑(りやういふ)大いに衰廢(すゐはい)し、土地荒蕪し民窮せり。是(これ)を以て貢税も亦三分が二を減ぜり。主人の艱難は勿論一藩の扶助も届き難く、天下廣(ひろ)しと雖も是(こ)の如き貧窮は、実に諸侯に冠(くわん)たるべし。某(それがし)の扶持(ふち)若干(そこばく)名(な)のみにして其の實(じつ)なし。是故に此の如く窮せり。願くは先生某(それがし)の窮乏を憐み玉へと云ふ。先生顔色(がんしよく)を正しくして曰く、嗟呼(あゝ)子(し)過(あやま)てり。夫れ人臣たるの道豈(あに)士と醫(い)との別有らんや。皆以て己の身を顧みずして君家(くんか)の爲に忠義を盡(つく)さん而已(のみ)。今君(きみ)艱難に迫り公務を廢(はい)し、國(こく)民撫育の道を失ひ、進退共に窮し玉ふにあらずや。人臣たるもの身をナゲウち命を棄(すて)て、君の艱苦を除き、其の憂心を安んじ、國民をして困苦を免れしむるの仁政に浴せしめんと心力(しんりよく)を盡(つく)さんこと此れ臣たるものゝ本意(ほんい)にあらずや。然るに上下(しやうか)の大患(たいくわん)を度外に置き、唯一身の貧苦を免れ、安心せんが爲に我に就いて此の事を求む、何ぞ之を義といはんや。我は小田原君(くん)の命を受け二十年間萬苦を盡(つく)し、祖先以來の廢家(はいか)を再復せしを殘(のこ)らず沽却(こきやく)し、之を種として野州の采邑(さいいふ)廢亡を興し、其民を安ぜんとして日夜心力を盡(つく)せり。猶(なほ)行ひ足らずして未だ君の心を安んじ、民を救ふ事のあたはざるを戦兢(せんきやう)せり。然るに子數々(しばしば)來(き)て面會(めんくわい)を求るものは君家(くんか)上下(しやうか)の艱難を憂ひ、其の道を問はんが爲ならんと思へり。我は我が勤務ありて寸隙(すんげき)なし。何ぞ外(ほか)諸侯の事を談ずるの遑(いとま)あらんや。是(こゝ)を以て再三子(し)の請(こひ)を許さず。横山某(ぼう)頻(しき)りに一面會(めんかい)を求めて止まず。今子(し)に逢ふことは子(し)の請(こひ)に應(おう)ずるにあらず、横山の求め黙止(もだし)がたく面會(めんかい)せしなり。豈(あに)圖(はから)んや、人臣として君家(くんか)の憂ひを顧みず、一己(こ)の安心を求むるの言(げん)を聞かんとは。子(し)の求むる處(ところ)僅々(きんきん)たる金員(きんいん)といへども、其の志我が心に反せり。何ぞ其の求めに應(おう)ずることを得ん、子夫れ速やかに去れ、請ふ再び來(きた)ることなかれ と。玄順大いに慚愧(ざんき)し、自ら大義を辨(わきま)へずして先生の教誡を聞き、憮然(ぶぜん)として失ふ處(ところ)あるが如く、茫然として酔へるが如く、沈黙良(やゝ)久しくして謝して曰く、嗟呼(あゝ)過てり、某(それがし)不肖なりと雖も曾(かつ)て少しく道を聞けり。君家(くんか)の艱難を憂ひざるにはあらずと雖も、不肖(ふせう)の及ばざる所となし、一己(こ)の憐みを請ひたるは誠に淺(あさ)ましといはんか愚也(なり)と謂(い)はん歟(か)。今先生の至教を聞くに及びて慚悔(ざんげ)身を容(い)るゝの地なし。某(それがし)愚なりといへども今より卑心(ひしん)を洗ひ、聊(いささ)か上下(しやうか)の爲に心力(しんりよく)を盡(つく)さんとす。先生某(それがし)の失言を棄て爾來(じらい)教導を下し玉へと云つて再拝す。先生笑ふて曰く、子(し)の志人臣の道にあらず。我是(これ)を以て一言する而已(のみ)。何ぞ子(し)を教ふるの道を知らんや と云ふ。中村彌々(いよいよ)耻(は)ぢ、再會(さいくわい)の時を請ひ柳原の邸(てい)に歸(かへ)れり。【3】先生中村玄順に忠義の道を教諭す天保3年(1832)某月、中村玄順は西久保の宇津家の屋敷において先生に面会して、25両の借金を申し出た。先生はこう言われた。「今の時の負債のために心を苦しくするものはどうしてあなただけであろうか。あなたの君主は政治を正しくして国を富ませ、民は豊かであるか」中村玄順は答えて言った。「どうしてそういうことがありましょう。領村は大変衰廃し、土地は荒れ民は困窮しています。このため納税もまた3分の2を減じています。主人の艱難はもちろんのこと、一藩の扶持も行き届かず、天下は広いといっても、このような貧窮は諸侯で一番でしょう。私の扶持もわずかで名のみで、その実はありません。このためこのように困窮しました。願わくは先生、私の窮乏を憐れんでください」先生は顔色を正してこう言われた。「ああ、あなたは過っている。 人臣たるの道は、武士と医師との区別があろうか。皆自分の身を顧みないで君家のために忠義を尽くすだけだ。今、君主が艱難に迫り公務を廃して、国民を撫育する道を失って、進むも退くもともに窮しているのではないか。人臣たるもの、身をなげすて、命も棄てて、君の艱難を除いてその心を安んじ、国民の困苦を免れさせ、仁政に浴させようと心から力を尽くすことが臣たるものの本意ではないか。それであるのに上下の大きな患いを他人事のようにして、ただ自分一身の貧苦を免れて安心するために私に面会して借金を求める、これをどうして忠ということができよう。どうして義ということができよう。私は小田原候の命を受けて20年万苦を尽くして、祖先以来の廃家を再復したのを残らず売り払い、これを種として野州の領村が廃亡したのを再興し、その民を安んじようとして日夜力を尽くしている。それでもなお、行いが足らないとして未だに君の心を安んじ、民を救うことができないことを戦々恐々としている。そうであるのにあなたはしばしば来て面会を求める。てっきり君家上下の艱難を憂慮して、これを救助する道を問うためかと思った。私は私の勤務があって、わずかな暇もない。どうして他の諸侯のことを談話するいとまがあろうか。このために再三あなたの面会の要求を許さなかった。横山氏がしきりに一度面会していただきたいと求めてやまない。今、あなたに会うことはあなたの請求に応じたわけではない。横山の求めに止むをえず面会しただけだ。なんということか、人臣として君家の憂いも顧みず、一個人の安心を求める言葉を聴こうとは。あなたの求めるところは僅かな金銭ではあるけれども、その志は私の心に反している。どうしてその求めに応ずることができようか。すぐにここを去りなさい。二度と来てはいけない」玄順は大変慙愧し、自分で大義をわきまえないで先生の教誨を聞いて、ブゼンとして失うところがあるように、ボウゼンとして酔ったようであった。しばらく沈黙して感謝してこういった。「ああ、私が過っていました。私は不肖ではありますが、かって少しは道を聞いたことがあります。君家の艱難を憂慮しないではありませんけれども、至らぬ私の及ぶところではないとして、わが身の憐れみを願い出たのはまことに浅ましいというか、愚かしいといいましょうか。今、先生の尊い教えを聞くに及んで後悔する気持ちで身の置き所がありません。私は愚かではありますが、今から卑しい心を洗い、すこしでも上下のために力を尽くそうと思います。先生、私の失言を棄てて、これからもご教導ください。」といってふたたび拝した。尊徳先生は笑って言った。「あなたの志が人臣の道ではないと思ったから一言申し上げただけです。どうしてあなたを教える道を知りましょうか」中村玄順はますます恥じて、再会の時をお願いして柳原の屋敷に帰った。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.18
報徳記 巻之四【2】中村玄順先生に見え教へを受く野州芳賀郡(はがこほり)中里村玄順なるもの世々農民なりしが、頗る世才ありて辯佞(べんねい)なり。農事を好まず、醫(い)を學び或は撃劒(げきけん)を學び世に出でんとするの志あり。然れども其(その)業に達せずして人之を信ぜず。或時妻に云ふて曰く、凡そ邊鄙(へんぴ)に身を置く時は、藝術(げいじゅつ)ありといへども名を爲すに足らず。凡そ名を揚げ福(さいはひ)を得んとすれば、其の居所を撰(えら)ぶにあり。是(この)故に我(われ)江都(かうと)に出でて、醫術(いじゅつ)を以て名を顯(あらは)さんとす、汝共に往かんか。妻此の言(こと)を信じ難きを知ると雖も、夫命(ふめい)已むことを得ず往(ゆか)んと云ふ。玄順是に於て田圃(でんぼ)を邑民(いふみん)に託し、妻子と共に江都(かうと)に登り、下谷御成街道に卜居(ぼくきよ)して、黒川玄順と門札を掛け、醫(い)業を以て渡世とせり。元より其の術拙きが故に人之を用ゐず。歳月を經(ふ)るに隨(したが)ひ貧困既に極まり、その日の煙りを立難きに至れり。玄順活計の道百計を盡すと雖も、故なくして生財の道あらざれば、妻子の衣類を典し、其の日の食に當(あ)つるに至れり。妻歎息して玄順に謂うて曰く、良人の醫術(いじゅつ)元より拙し、野州の邊土(へんど)といへども猶業を立つるに足らず。況や大都良醫(い)博學のもの軒を並べたるの地に出でて、福(さいはひ)を求めんことを計る。妾(せふ)素(もと)より其の不可なることを知れり。然れども夫命(ふめい)に隨はざる時は婦道立たず。已む事を得ずして共に此の地に至れり。果たして貧窮如何(いかん)ともす可(べか)らず、猶此の如くにして歳月を送らば、共に飢渇に及ばん而已(のみ)。願はくば妾(せふ)に暇(いとま)を給るべし。女子二人の内一人は、妾(せふ)之を携へ故郷に歸り、人の田を耕すも尚(なほ)二人の口は養ふべしと怨みを含みて離別の書を請ふ。玄順愕然之を止(とゞ)むと雖も肯はず、已むことを得ずして其の求めに應(おう)ぜり。妻一女子を携へて故郷に歸り、玄順彌々(いよいよ)貧苦に堪へず。曾て細川候の藩醫(い)中村某(それ)なるものと懇意なり。故に往きて愛憐を請ふ。中村曰く、子負債多くして貧窮甚だし、微力の救ふべきにあらず。速かに家財を借財に當(あ)て、門戸を廢し、我が方に來るべし。我(われ)子(し)を扶助せん而已(のみ)、他の術なしと云ふ。玄順其の言に隨ひ家を廢し、中村の長屋に至り、食客となり、或は藥種を刻み、代脉(だいみやく)をなし歳を經(へ)たり。然るに中村某(ぼう)俄(にわ)かに疾(やまひ)に罹(かゝ)りて死せり。子なし。家(いへ)斷絶(だんぜつ)に及ばんとす。細川候之を憐み、數年(すうねん)中村が懇意の玄順なれば、之を養子として家を繼(つが)しむ。是に於て中村が不幸は玄順の幸(さいはひ)となり、君の扶持を食(は)む事を得たり。然れども元より其の業(げふ)拙きが故に、利を得ること少なく財を費やすこと多きが故に、忽(たちま)ち借債25両となる。之を償はんとすれども其の道を得ず。或人告げて曰く、野州櫻町陣屋に在りて、廢邑(はいいふ)再興の道を行ふ二宮先生なる人あり。常に無利息金を貸して人の艱難を救ふといへり。當時(たうじ)西久保宇津家の邸内にあり。子此の人に就いて無利息金を借り、負債を償(つぐな)はゞ大幸(たいこう)なるべしと。玄順大いに悦び直ちに西久保に至り、横山周平に逢(あ)ふて先生に見えんことを請ふ。横山之を告ぐ。先生曰く、我が業あり、何ぞ醫(い)に逢ふて談ずるの暇(いとま)あらんやと之を許さず。玄順退き再三來(き)て止まず。横山其の貧なるを憐れみ先生に請ふこと甚だ切なり。先生横山の爲に已むことを得ずして玄順に面會(めんくわい)せり。是細川候仕法の發端(ほったん)なり。 報徳記巻之四【2】中村玄順先生に見え教えを受ける野州(栃木県)芳賀郡中里村の玄順という者は代々農民だったが、大変世渡りがうまくて言葉巧みであった。農業が嫌いで、医術を学んだり、あるいは剣術を学んで世に出ようという志を持っていた。しかし、いずれもそれほどの技量に達せず、人はこれを信じなかった。ある時、妻にこう言った。「およそ辺鄙な場所にいる者は、技能があっても名をなすに至らない。 名をあげ、幸いを得ようとするならば、その居場所を選ぶ必要がある。 だから私は江戸に出て、医術で名前をあげようと思う。 なんじは一緒に行くか。」 妻はこの言葉を信じなかったが、夫の命にやむを得ず行きましょうと言った。 玄順はそこで田畑を村民に託して、妻子とともに江戸に上り、下谷御成街道に住まって、黒川玄順と門札をかけて、医業で世渡りしていた。もとから医業は拙かったから頼む人もなく、歳月がたつに従って貧困極まるようになった。その日の食事もままならぬようになった。玄順は生活の道を百方探したが、生活を維持することもできず、妻子の衣類を質入してその日の食にあてるようになった。妻はため息をついて言った。「あなたの医術が拙く、野州の辺土でもなお業を立てるに足りませんでした。 ましてや江戸で良医博学の者が軒を並べた土地で、成功しようとする。 私はもとよりそれが不可能だと知っていました。しかし夫の命に従わない時は婦道は立ちません。そこでやむなくこの地へ参りました。はたして貧窮はどうすることもできません。このようにして歳月を送るならば、ともに飢えてしまうでしょう。私にお暇をください。女の子の一人は私が連れて故郷に帰り、人の田を耕してなんとか二人分食べることはできましょう」と怨みを含んで離別するよう願った。玄順は驚いて止めたが、妻はうんと言わず、やむなくその離別の要求に応じた。妻は女の子の一人を連れて故郷に帰った。玄順はいよいよ貧苦に陥った。玄順は以前細川候の藩医である中村というものと親しかった。そこで行って救いを求めた。中村が言った。「あなたは負債が多く、貧窮もひどい。私の微力で救うことはできない。すぐに家財を売り払って借金の返済にあてて、私のところへ来なさい。私があなたを扶助しましょう。その外に方法はありますまい。」と言う。玄順はその言葉に従って家を廃して、中村の長屋に来て食客となって、あるいは薬種を刻んだり代脈をとったりして歳月を経た。しかし中村は急病で亡くなってしまった。子はなかったため、中村の家は断絶になるところだった。細川候はこれを憐れんで、数年中村が懇意にしていた玄順であるからと、養子にさせてその家を継がせた。こうして中村の不幸は玄順の幸福となって、細川候の扶持をいただけることとなった。しかし、医業の技量が拙く、利益なく財産を費消することが多く、たちまちに借金が25両となった。これを返そうにも方法がなかった。ある人が玄順にこう告げた。「野州桜町陣屋に二宮先生がいて、廃家を興し、廃村を再復している。常に無利息の金を貸して人の艱難を救うという。今、西久保の宇津家の屋敷にいるときく。あなたはこの人にあって無利息金を借りて、負債を償うならば幸いではないか。」玄順は喜んですぐに西久保におもむいて、横山周平に会って先生に面会を求めた。横山はこれを先生に告げたが、先生は私は自分の事業で忙しく、医者に会って談論するひまなどないと許されなかった。玄順は再三来てやまなかった。横山はその貧乏なのを憐れんで先生に面会するよう一生懸命頼んだ。先生は横山のためにやむなく玄順に面会された。これが細川候の仕法の発端である。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.17
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す孫右衛門外三輩大いに感じ、憤怒(ふんど)の心消(せう)し、專(もつぱ)ら教へに隨(したが)はんと請ふ。先生曰く、然らば汝の家破られ、猶(なほ)餘(よ)財燒亡(せうぼう)せりといへども、元來(ぐわんらい)舊年(きうねん)の富商たり。殘(のこ)れるものなきにあらず、之を集むる時は其の價(あたひ)幾許(いくばく)なるや。答へて曰く、悉皆(しっかい)之を集めば、猶(なほ)五百金あらんか。曰く、之を家に置く時は一物と雖(いへど)も其の家の禍を殘(のこ)せるなり。凡そ一家を毀(こぼ)つ時に當(あた)り、其(その)場にあるものは皆悉く禍の物にして、汝の身に害ある也(なり)。何となれば此の物あるが故に此の大災に及べり。若し之を我が物なりとして其の殘(のこ)れるを悦ぶの心あらば、災害の根を殘(のこ)して二度家を滅するもの也(なり)。之を悉く去らざれば全きことあたはず。汝の餘(よ)財は汝の家の病毒なり。夫れ速かに之を去るべし。此の事を爲(な)すあたはざれば汝の家亡ぶべし と。四人且(かつ)感じ且(かつ)驚き互に面(おもて)を見て答へず。其(そ)の意如何(いかに)となれば餘(よ)財猶(なほ)不足とし、無利息の金銀を借りて、一時(いちじ)に家を富(とま)さん事を計り、先生に其の道を求めんとするに、今餘(よ)財悉く去らずんば立つべからざるの言を聞き、心中甚だ惑(まど)ふが故(ゆゑ)なり。 孫右衛門ら四人は、先生の示す大道理にすっかり感じ入って、怒りの心が消えうせ、教えに従いますと申し出た。尊徳先生は言われた。「お前の家が壊され、焼け失せたといっても、元来旧年の富商である。残ったものがないわけではあるまい。これをを集めるときは、その値はいくらくらいになるか?」孫右衛門は答えた。「すべてかき集めれば五百両くらいにはなりましょうか。」尊徳先生は言われた。「これを家に置く時は、一物といえども、その家の禍を残すことになる。およそ一家が壊れるときにあたって、その場にあるものは皆ことごとく禍(わざわい)の物であって、なんじの身に害があるものである。なぜならば、この物があるから、この大きな災難に及んだのだ。もし、これを我が物であるとして、その残ったことを喜ぶ心があれば、災害の根を残して二度家を滅ぼすことになる。なんじの余財はなんじの家の病毒である。すぐにこれらを処分しなさい。この事を行うことができなければ、なんじの家は亡びるであろう。」四人は感動するとともに驚き互いに顔を見合わせて言葉もなかった。その意(い)いかんとならば、復興の資金が不足だから無利息の金を借て、一挙に家を富ませることを計画して、先生に借金を求めに来たのに、いま余財をすべて処分しなければ立つことはできないという言葉を聞いて、心中大変困惑してしまったからである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.16
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す又數(すう)日にして其の求め彌々(いよいよ)切なることを察し、已(や)むを得ずして宗兵衛孫右衛門與右衛門(よゑもん)清兵衛を呼びて曰く、汝等(なんぢら)何の爲(ため)に來(きた)りて、予(よ)が衰邑(すいいふ)を興(おこ)すの妨げを爲(な)すや。予(よ)私(わたくし)に此の事を行ふにあらず、小田原君(くん)の命により默止難(もだしがた)きが故なり。汝等の願ひ素(もと)より予(よ)が預り知る所にあらず、速かに歸るべし と。其の聲(こゑ)大鐘(だいしょう)を撞(つ)くが如く聞くもの耳(みゝ)を驚かせり。四人畏縮して敢(あえ)て言を發(はつ)せず。良(やや)久しくして宗兵衛曰く、孫右衛門災害並び至り、禁獄(きんごく)三年其の出(い)づる所を知らず。前(さき)に先生予(よ)が悲歎の願ひを捨て玉(たま)はず。教ふるに至道(しだう)を以てせり。某(それがし)教へに隨(したが)ひ遂に孫右衛門が禁獄を許されたり。願くは今一度明教を示し、彼(かれ)が一家を復するの道を教へ給(たま)へと切(しき)りに請うて止まず。先生聲(こゑ)を勵(はげま)して曰く、孫右衛門自己の多罪を知らず、なほ他を怨み己を是(ぜ)とするの色(いろ)あり。汝が妻予(よ)が一言(ごん)を聞き、速かに兄の爲に艱苦を盡せり。然るに其の本人たる孫右衛門は一婦人にだも如かず。我意を張り他の力を以って己の廢家(はいか)を興し、怨みに報ゆるに怨みを以てせんとす。一家彌々(いよいよ)永く斷絶(だんぜつ)し、其の身をも失はずんば止むべからず。何の故に來(きた)りて我に道を求るの心あらんや。我(われ)は身を捨て諸人(しょにん)の憂ひを除かんとす。汝は非を飾り他を苦めんとす。其の行ふ所相(あひ)反せり。速かに退き、汝は汝の滅亡の道を行ふべし。何ぞ我が國民(こくみん)を安ずるの道を汚さんや と。その聲(こゑ)恰(あたか)も雷(らい)の如し、威風(いふう)凛然(りんぜん)として其の面(おもて)を仰ぎ見る者なし。孫右衛門流汗(りうかん)衣(い)を沾(うるほ)すを覺(おぼ)えず、宗兵衛と共に慈仁の教へを請(こ)ふこと前(ぜん)の如し。先生少しく色を和らげて曰く、嗚呼(あゝ)積善不積善に由て禍福吉凶を生ずること聖人の確言何ぞ疑はんや。今已むを得ず一言(いちげん)を教ふべし。愚蒙(ぐもう)なりといへども、心あらば私欲の念を去り、以て之を聞け。夫れ孫右衛門の家天明の凶飢(きようき)に當(あた)り命(めい)を失ふもの幾萬人なるを知らず、汝が家財に富めるを以て彌々(いよいよ)救助の心なく、高價(かうか)に粟(ぞく)を鬻(ひさ)ぎて獨(ひと)り利を專(もつぱ)らにし、益々富をなせり。天之を惡(にく)み鬼神(きじん)之を捨てん。一家の廢絶此の時に作(おこ)れり。天運循環して遂に汝が代に至り飢饉に當れり。汝若し慈仁の心あらば、家産を盡(つく)して人命を救助し、一人も助命の多きを願ふべし。假令(たとひ)其の心ありと雖(いへど)も、速かに其の事を行はず、遅々(ちゝ)として江都(かうと)にあるは何ぞや。誰か汝の心救助ありと思はんや。驛人(えきじん)敢へて汝の家を破(やぶ)り國法(こくほふ)を犯し、罪に陥ることを好むに非ざれども、危亡(きぼう)旦夕(たんせき)に迫り不仁を怨むるの暴行を發(はつ)せり。其の惡事(あくじ)は彼にありといへども、之を生ずるの根本は汝にあり。何となれば汝救助の行ひ立たば、彼等何に由て此の亂暴(らんぼう)を生ぜんや。夫れ慈仁の道は人の大道なり。今汝之れを行はずして災害となる。書に曰く 禍福(かふく)門無し惟(たゞ)人の招くところなり と云へり。然らば此(こ)の如き災害汝の一心に起れり。是れを以て之れを観る時は、汝一身を責むるに暇(いとま)無かるべし。何(いづ)れの所に驛人(えきじん)を怨みんや。驛人(えきじん)罪なし、天(てん)驛人(えきじん)の手をして破却(はきゃく)せしめ、又火の力を借りて汝の餘財(よざい)を燒(や)く、其の事異なるが如しといへども不仁を罪するの道は一なり。汝之を察せずして、己を善とし人を惡(あく)とし、大いに憤怒(ふんど)して其の讐(あだ)を報ぜんことを思ふ。汝は一身の力なり、破るものは衆多(しゆうた)なり。寡(か)以て衆を害せんとすれども、何ぞ害することを得ん。僻令(たとひ)官(くわん)の力を借りて此の怨(うらみ)を返し得るとも、驛人(えきじん)衆多(しゆうた)の子孫又時を待(まち)て汝の子孫を害し、其の報いを爲(な)すべし。何(いづ)れの時に安堵(あんど)の道を得んとするや。官明かに此の道をしらしめんとして、汝を捕へ禁獄して、自ら罪を省みんことを欲す。是汝滅亡の憂ひを脱し、驛人(えきじん)と共に平和に歸(き)せしめんとの仁惠なり。然らば汝の身に取り、阜大(ふだい)の高恩にあらずや。是をも察せずして、官(くわん)の處置(しょち)偏頗(へんぱ)なりと怨むる心あり。自ら瓜を植ゑて瓜の實(みの)れるを怒ること淺(あさ)ましからずや。汝今家の再復を求むれども、家の再復は汝の心にありて他にあるにあらず。若し己の非を知り、大いに天を恐れ、一身を艱難の地に置き、他人の困苦を除かんとするの所行(しよぎよう)を立つる時は、禍(わざわひ)忽(たちま)ち變(へん)じて福(さいはひ)となり、求めずして一家再興の道も亦(また)其の中に生ぜん と教ふ。実に今日のところは報徳記の名場面の一つである。大磯の孫右衛門のところに入って10回目になる。報徳記のなかでも長い一章のひとつであり、富田高慶という人が熱を入れて書いているということが、声に出して読むとよくわかる。フレーズが短くなり、文章に躍動感がある。禍福門なし ただ自ら招くところであると尊徳先生はおっしゃた。積善の家は余慶(よけい)あり 積悪の家は余殃(よおう)ありとも他のところで古文を引用されて先生はおっしゃっている。そうしたことをしみじみと感得させてくれる川崎屋のケースではある。☆数日後やっと面会が許された。「お前たちはどうして私が衰村を復興しようというのを妨げるのか。お前たちの願いなど私の関わりあう所ではない。すぐに帰れ!」四人とも萎縮して声も出せない。宗兵衛がやっとの思いで事情を申し立てた。先生は声を張り上げた。「孫右衛門は自分の多罪を知らず、なお人を怨む色がある。お前の妹が兄のために艱難を尽くした。それなのにお前は怨みに報いるに怨みを以ってしようとする。そうであれば一家断絶し、身を失うまで不幸はやむまい。私は身を捨てて諸人の憂いを除こうとし、お前は非を飾り他を苦しめようとする。その行うところは反対だ。すぐに退き、お前はお前の滅亡の道を行うがよい。 」その声は雷が鳴るようであった。 二宮尊徳先生の雷のような叱声と大道理に孫右衛門は噴き出す汗で着物を濡らしてひれ伏すだけである。暫くして先生は少し声を和らげてこう言われた。「ああ、積善、不積善によって禍福吉凶を生ずることは聖人の言われるとおりだ。今やむことをえず、一言だけ教えよう。愚かとはいっても、心があるならば私欲を去って聞くがよい。それ孫右衛門の家は天明の大飢饉に当たって命を失うものが幾万人あったか分らないのに、お前の家は家財に富むにもかかわらず、救助の心なく、高価に穀物を売り、独り利益を専らにしてますます富んだ。一家の廃絶はこの時におこったのだ。天運循環してついにお前の代に至って飢饉が起こった。お前に少しでも慈しみの心があれば、家産を尽くして人命を救助し、一人でも多く助けたいと願ったであろう。たとえその心があっても、すぐに行わず、江戸でぐずぐずするとは何事か。誰がお前に救助の心があると思おう。大磯宿の人々がお前の家を破ったのは悪事であるが、それを生じた根本はお前にある。お前が救助を行ったら、彼らがどうしてこのような乱暴を生じよう。慈しみの道は人の大道である。今お前はこれを行わずに災害になった。そうであれば、災害はお前の一心に起こったのだ。これを観ればお前は自分を責めて、どうして人々を怨むことなどありえよう。天が人々をして家を壊し、余財を焼いたのだ。お前はそれを察せず、自分を善とし、人を悪として、怒って復讐しようと思う。お前は一人で相手は多数だ。どうして衆を害することができよう。たとえ官の力を借りて怨みを返しても、人々の子孫が時を待ってお前の子孫を害し、報復するであろう。もし、自分の非を知って天を恐れ、一身を艱難の地に置いて他人の苦しみを除こうとする行いをするとき、禍はたちまちに転じて福となり、求めなくても一家再興の道もその中に生じよう。 」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.15
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す邑(むら)の里正(しやうや)を幸内(かうない)と云ふ。先生は此の家に在りて道を行ふ。日既に西山(せいざん)に迫れり。先生浴室に入りて沐浴す。時に孫右衛門(まごゑもん)縁者と共に來(きた)り、艱難に陥り已むを得ずして一家再復の良法を請(こ)はんが為に來(きた)れりと云ふ。里正(しやうや)答へて曰く、今先生入浴し玉ふ。後刻(ごこく)閑(かん)を得ば此の事を告げんと。先生浴室に在りて之を聞き、思へらく、孫右衛門なるものは容易に道に入る可(べ)き者にあらず。何ぞ直ちに彼を來らしむるや。定めて宗兵衛凡情に漂(たゞよ)ひ、前後の思慮なく同道(どうだう)せるならん と意中甚だ不平、潜(ひそか)に浴室より外面(ぐわいめん)へ出(い)で、獨歩(どくほ)して二里餘(よ)を隔(へだ)てたる下新田(しもしんでん)村小八なるものゝ家に至る。夜已(すで)に三更(かう)なり。小八大いに驚き、先生を迎へて曰く、夜中(やちゆう)獨歩(どくほ)此に來り玉ふ何の故ぞや。先生曰く、大磯孫右衛門縁者と共に來れり。彼甚だ難物也。予(われ)之に逢ふことを欲せず、故に來るなり と遂に小八の家に宿す。竹松村幸内、先生の入浴久しきを訝(いぶか)り、往きて之を見れば先生浴室にあらず。愕然(がくぜん)として近傍(きんぼう)を求むれども得ず。時に村民多く幸内の家にあり、皆驚き邑(いふ)中に走り求むれども先生の所在を知らず。幸内曰く、此の邑の衰貧を救はんとして先生日夜勞(らう)し玉ふ。今故なくして去り玉ふの道なし、孫右衛門の來るを察し、他へ往き玉ふなるべし。夜中尋ぬるとも益なからん。明日(みやうにち)他の邑(むら)に往きて尋ねんと云ふ。ところがある年小田原公の命令で先生が近くの足柄上郡竹松村に来られ、貧村再興に取り掛かられた。宗兵衛は喜び繰り返し孫右衛門に逢う事を勧めた。孫右衛門は気が進まなかったが、義兄の言うことを無視もできず、浦賀の二人も一緒に竹松村に赴いた。先生は浴室で来意を知り、孫右衛門という人間は難物で容易に道に入る者ではないと密かに浴室を出て、夜中一人隣村まで歩いていって下新田村の小八の家に身を隠された。竹松村の幸内は、先生の入浴が長いのをいぶかって、見てみると先生は浴室にはいらっしゃらない。愕然として近くを探したが見当たらない。ちょうど村民が多く幸内の家に来ていて、みんな驚いて村中を走り求めたけれども、先生の所在はわからなかった。幸内は言った。「この村の衰貧を救おうと先生は日夜努力しておられる。今理由もなしに去られるわけがない。これは孫右衛門が来るのを察知されて、他にいかれたに違いない。夜中尋ねても益はない、明日他の村へ行って尋ねてみましょう」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.13
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す孫右衛門笑ふて曰く、世人(せじん)己れの利を計る者と雖も、猶(なほ)予(われ)の絶窮(ぜつきゆう)を見ば高利の金も貸すべからず。然るに無利息の財を以て人を救ふものあらんや。果して之あらば必ず別に利とする處(ところ)あらん。子(し)の言に從(したが)ひ此の如く危地(きち)に近付くべきやと云ふ。浦賀の二人も大いに先生を疑ひ決せず。宗兵衛再言(さいげん)して曰く、先生不凡(ふぼん)の大人(だいじん)何ぞ平常の事を以て疑はん。若し各(おのおの)の察する如きの人ならば速かに止めん而巳(のみ)。若し請うて先生許容あり、千金を借り家を興すことあらば大幸にあらずや。未だ其の人に逢はずして之を疑ふ何の詮(せん)かある。各(おのおの)予(われ)に誑(たぶら)かされたりとして試(こころ)みに往(ゆ)き之を求めよ、何ぞ一往來の爲に大幸を廢(はい)せんやと。孫右衛門猶疑ふて決せず。浦賀の二人可(か)なりと答ふ。然れども未だ果さず。時に某(ぼう)年小田原候の命に由(よつ)て、先生相州(さうしう)足柄上郡竹松村に至り貧邑(ひんいふ)再復の道を行ふ。大磯宿より道程(だうてい)十餘(よ)里、宗兵衛此の事を聞き、時至れりと悦び、再び孫右衛門に往き教へを受けんことを告ぐ。浦賀二人も共にこれを勸(すゝ)む。孫右衛門思へらく、一度往きて無利息金を借ることを得ば、忽(たちま)ち家を興(おこ)し驛人(えきじん)の目を驚かし、彼等が無道を報ゆるの道あらんか。先生如何(いか)なる人なりとも、無縁のものに大金を貸さんこと思ひもよらず。然(さ)れども縁者の言も棄難(すてがた)し。行きて之を試みるには如(し)かずと。始めて之に同(どう)じ共に竹松村に至れり。 孫右衛門の妻は、浦賀の宮原屋の娘だった。そこで義父の宮原屋与右衛門、縁者の清兵衛門を大磯に呼んで恨みを報い、家を興す算段をした。宗兵衛もこの席に呼ばれ、妻の誠が無になることを悲しんだが、まともに言っても聞く耳はあるまいと一計を案じて孫右衛門と宮原屋の二人に告げた。「怨みを返し、家を再興するのは尋常ではない。二宮先生は小田原公がその徳業を聞いて、民間から抜擢し野州桜町の復興を任じられた。先生は身命を尽くして百姓を安んじ、廃地を開き、十年の間に復興された。どんな廃家亡村でもその艱難を見るに忍びず、多額の無利息金を貸し再興の道を立てられる。先生に事情を話し金を借りたらどうか。」孫右衛門はせせら笑った。「私の絶望的な状況を見て、無利息の金など貸す者がいようか」ととりあわなかった。ところがある年小田原公の命令で先生が近くの足柄上郡竹松村に来られ、貧村再興に取り掛かられた。宗兵衛は喜び繰り返し孫右衛門に逢う事を勧めた。孫右衛門は気が進まなかったが、義兄の言うことを無視もできず、浦賀の二人も一緒に竹松村に赴いた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.12
Sさんが気づいた誤りをその都度知らしてくれるので助かります。秦野市の〇〇さんからメールをいただきました。「初めて連絡させて頂きます。小生 秦野市に住んでおります。最近 ゆかりの 安居院庄七 に興味を持ち 繋がりで 二宮尊徳 も合わせて 資料を見たりで 尊徳さんに付いて更に知ろうと思い図書館にて、貴会発行の 二宮先生語録 を発見、個人的に入手可能か教示頂ければ、とmailさせて頂きました。突然ですみませんが宜しくお願いします。 〇〇 77歳」図書館で読んでというのがうれしいですね。「二宮先生語録」の手持ちはなく、「訳注静岡県報徳社事蹟」を図書館で読んでみてよかったら送りますと連絡したところ、「読みました、ぜひ送ってほしい」と連絡があり、「報徳の師父シリーズ」2冊と静岡県地図を送りました。「ぜひ秦野の地に読書会を作って、報徳記原文を輪読してください。手伝います」とエールを送りましたが、返信はありません。報徳を勉強するだけでなく、自分なりに実践し、実験し、検証し、あるいは伝道しようとする人はなかなか現れません。実践し、自得する、それが大事!
2023.08.11
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す 其(そ)の歸(かへ)るに臨みて先生又告げて曰く、汝の妻能く此の事を行ふ時は、直(たゞち)に人をして汝の妻(つま)實兄(じつけい)孫右衛門(まごゑもん)が災害を歎き、寝食を安んぜず。此の如きの所行(しょぎょう)を爲(な)して、再たび兄の安堵(あんど)に至らん事を心願(しんぐわん)の外(ほか)他事(たじ)なきよしを孫右衛門に告げしむべし と云ふ。宗兵衛三拝して家に歸(かへ)り、妻に告ぐるに先生の教へを以てす。妻素(もと)より貞順(ていじゆん)、一たび此の道を聞き大いに感じ且(かつ)悦びて曰く、妾(せふ)が一身の所行(しょぎょう)より遂に兄の禍(わざはひ)を免(のが)るべき道あらば、一命をナゲウつも尚(なほ)言ふに足らず。況(いはん)や此の事をや。速かに衣類器財一物(もつ)をも餘(あま)さず沽却(こきやく)して代金と爲(な)す。是に於て宗兵衛の兄芳助(よしすけ)なる者をして官(くわん)の獄に走らしめ、竊(ひそ)かに孫右衛門に告ぐるに、先生の至教(しけう)且(かつ)妹の所行を以てす。怨憤(ゑんふん)盛怒(せいど)の孫右衛門之を聞き、慚愧(ざんき)の心始めて生じ、自ら悔い、自ら我(わが)身の罪を知り、覺(おぼ)えずして涙袖を沽(うるほ)せり。是(これ)禍源(かげん)此(こゝ)に轉(てん)じて良善に歸(き)するの始なり。是より後、日々に其の身を省み、官(くわん)を怨み驛人(えきじん)を憤るの心消(せう)し、朝夕往々(わうわう)我(わが)身を責むるの言語(げんご)を發(はつ)す。官(くわん)之を聞いて孫右衛門既に己れの非を知れり、罪を免(ゆる)し家に返すと雖も後難(こうなん)ある可(べ)からずとなし、猶(なほ)厚く教諭を下し其の罪を免ず。是に於て入獄三年にして家に歸(かへ)ることを得たり。先生の深慮慈仁遠大也(なり)と云ふべし。孫右衛門家に歸(かへ)り見れば、二兒(じ)亡母(ぼうぼ)を慕(した)ふて涕泣(ていきふ)し、伊三郎嗟歎(さたん)して火災以來の艱難を告ぐ。孫右衛門一旦先非を悔ゆるといへども、目前(もくぜん)此の有形(いうけい)を見るに及んで、怒氣(どき)再たび胸を焦し、嗚呼(あゝ)予(われ)此の如きの災(わざはひ)に罹(かゝ)ること誰(だれ)の爲(ため)ぞや。驛人(えきじん)等(ら)が無道(むだう)を以て、我が家屋(かをく)を毀(こぼ)ち、我をして此の極に至らしめ、彼等安然(あんぜん)として坐せり。豈(あに)此の儘(まゝ)に手を束ねんや。如何(いか)にもして此の怨を散じ、家を再盛し、此の恥辱を雪(すゝ)がずんば、何の面目ありて世に立つことを得んと、憤怒(ふんど)に堪へず。帰ろうとすると、尊徳先生はまた宗兵衛にこう言われた。「おまえの妻がよくこの事を行う時は、ただちに人を孫右衛門の捕らえられている牢獄に行かせて『妹が実兄孫右衛門の災害を嘆いて、寝食を安んぜず、このような行いをなしている。再び兄が平安に暮らせるよう心願をかけ一生懸命だ』という旨を孫右衛門に告げなさい。宗兵衛は喜んですぐに家に帰り妻に先生の教えを告げた。妻はもとより貞順で一度この先生の教えを聞いて大いに感動して、喜んで宗兵衛に言った。「私の一身の行いで兄の禍を免れる道があれば、命を捨ててもかまいません。まして衣食など言うに足りません」そしてすぐに衣類や器財をすべて売り払い、金に代えた。ここで宗兵衛はその事を宗兵衛の兄である芳助という者をして代官の獄舎に走らせて、ひそかに孫右衛門に先生の尊い教えと妹の行いを告げた。孫右衛門は怨み憤りして怒りに満ちていたが、この事を聞いて始め後悔の気持ちを起こし、自ら悔い、自らわが身の罪を知り、覚えず涙を流した。これが禍の源が良善に帰する始めとなった。これから後、日々にその身を顧みて、官を怨んで大磯宿の人々を憤る心が消え、朝夕しばしば自分の身を責める言葉を口に出すようになった。官はこれを知って、孫右衛門はすでに自分の非を知った、罪を許して家に帰しても後難を起こすことはありまいと、なお厚く教諭してその罪を許した。実に入獄三年目にして家に帰ることができたのである。ああ、なんと先生の深慮、慈仁の遠大であることか。孫右衛門が家に帰って見ると、2人の子はなくなった母を慕って泣いており、番頭の伊三郎は嘆いて火災以来の艱難を告げた。孫右衛門はいったん先非を悔いたのに、目の前にこのありさまを目にして怒りの気持ちが再び胸を焦がして、「ああ、おれがこのような災いにかかるというのは一体誰のためか。宿場の連中が無道にもおれの家屋を壊して、おれをこんなざまにしたのだ。それなのに、やつらは安らかに坐している。どうしてこのままでおくものか。どうにかしてこの怨みをはらして家を再び繁栄させ、この恥辱をすすがないと、何の面目があって世にいられようかと憤怒にたえなかった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.10
おのが身は 有無の都の渡し舟 行くも帰るも 風にまかせて「報徳文献選集」に12月29日付けの尊徳先生が弟の三郎左衛門に出した手紙が載っている。二宮尊親選「二宮尊徳遺稿」に集録されているものという。手紙の内容からして、弟が継いだ養子先の相続問題を心配されて、したためたものであろうか。そこに書かれた内容は切実で、尊徳先生が懇々と弟に教え諭す内容は心打たれるものがある。そしてここには、尊徳先生の思想の精髄がある。読みやすいように現代文化してみた。先生はこうおっしゃる。「幸いそちらへ行く便があったので、暮れから春にかけてのお祝いの言葉を申しつかわします。その後、家内相続や暮らし方はよく定まりましたか。うけたまっておきたいことです。もしまだ定まりかねていなかったら、早春のうちに相談においでなさい。暮らし方の道は、一軒一軒、一人ひとり、百段、千段、万段ですが、天地の間に命がある者で、衣食財宝暮らし方が無い者は一人もない。無いと思うのは自分の誤りです。そのことを早く考えられて、とりきめて、相談においでなさいませ。もし定まらないようならば、(小田原藩)江戸屋敷までお越しください。どうなりとも取り計らってさしあげましょう。早々以上追伸先祖代々の家名を相続して、親を大切に養育することを根本に工夫するほかはありません。そのほかはみな私欲から出て、後に必ず破れるものです。そのことをよくよく考えなさいませ。親や先祖を捨て置いて、自分の心のままに行ったことは、たとえば物を干すのに晴れているが雨が降っているかを計らないでやるようなもので、天地の間にいて、天地を恐れず、先祖の家にいて先祖を敬わず、み仏の念(おも)いを失うもので、みな持ち主のあることを知らないで、また父母から預かったこのからだをもって父母に不幸をし、自分の好みにまかせ、自分の心のままに任せて、寝起きし、飲み食いし、田畑や家屋敷を動かし、わが身をわが身と思い、わが家屋敷をわがものと思うから、天理仏意に背き、不孝となるものです。そのわけは、近所隣りの財宝を自分勝手に取り計らったときは、盗みになります。だいたい天地の間に有るものはみな、それぞれ持ち主があるのだから、よく持ち主を知りたまえ。持ち主を知って掛け合いたまえ。掛け合って意のままに行いたまえ。かえすがえすも意のままにしたがいたまえ、したがいたまえ。それ人はわが身の元を知りたまえ。わが身はわがものか。いよいよわがものであるならば、いずこの国から持参したもうたか。いつの頃、何をもって造りたもうたか。いつ口をつくって飲み食いし、味を知りたもうか。いつ手をつくって用をたし、業をしたもうか。いつ足をつくって歩き、諸国へ行き、帰りたもうか。いつ目をつくって世界万物を見たもうか。いつ耳をつくって人の善し悪し、あるいは泣き笑う声、音曲、さらに中国、インドのことまで聞き知りたもうか。いつ鼻をつくって息をはいたり吸ったり、さまざまの香りを知り分かちたもうか。作った覚えがあるか。無ければまったくわが身ではない。このようにわが身さえわがものでないならば、天地の間にあるもの、みんな天地が造化しておいたものであることを知らず、なお田畑、山林、家屋敷、めいめい先祖が丹精して子孫に伝えようとしたことだとも知らないで、生涯わが心のままに、自由自在だとするから、人と生まれて人であるかいもなく、心のままにはならないのです。右の元を知って、御恩礼を勤めれば、直ちに我と天地と一体になって、富貴万福心のままにならないことはない。 おのが身は 有無の都の渡し舟 行くも帰るも 風にまかせて
2023.08.09
天地と 君と親との めぐみにて 身をやすらはん 徳を報えや「解説 二宮先生道歌選」(佐々井信太郎著)ではこういう。「徳に報いる歌、これは二宮先生の思想の最も特色のある歌である。 徳という思想は、中国の上代において、徳を積んだ人を聖人といった。 積徳の人への尊称である。 二宮先生においては、人の積んだ徳を拡充して一切万象に徳を具えているという。 その徳は万象それぞれ異なる。 徳のあるものはその徳が環境に及ぶ。 それが恩であり、恵みである。 恩の思想はインドにおいて早くから唱えられ、仏典にも多く見える。 そこで物があれば徳があり、徳があれば恩がある。 しかしこれはみな人倫の感恩であり、報徳である。 天地万象・父母祖先があって、自分のあることを知るに至って、そこに恩を見出し、そうして万象の徳を見出した。 父母なければ我なく、太陽がなければ一日も生きることのできないことを知り、広大無辺の徳を知った。 この天地生々の徳を体して万象を育成する。 それが報徳である。」青空文庫に内村鑑三氏の文章が載っていた。明治の日本が生んだ偉大な人物の一人であり、その著「代表的日本人」は、新渡戸稲造の「武士道」とともに英文による日本紹介において未だにこれを超えるものを現代日本は持っていない。実に「代表的日本人」において紹介された二宮尊徳像は第二次大戦中のアメリカ人にも深い感銘を及ぼし、戦後最初の一円札も二宮尊徳の肖像画なのである。戦時中、小学校に置かれた二宮金次郎の銅像は砲弾の材料として多く供出されたが、戦後あえて除却されなかった、いまでも小学校で金次郎の像を見ることができるのも、「代表的日本人」が欧米の知識人に与えた日本人感の結果ともいえる。「代表的日本人」の原文は、小さな資料室さんが資料として載せていただいている。小さな資料室さん、感謝します。内村鑑三は、「後世への最大遺物」で、二宮尊徳先生についてこのように述べている。後世への最大遺物「私は近世の日本の英傑、あるいは世界の英傑といってもよろしい人のお話をいたしましょう。この世界の英傑のなかに、ちょうどわれわれの留(と)まっているこの箱根山の近所に生まれた人で二宮金次郎という人がありました。この人の伝を読みましたときに私は非常な感覚をもらった。それでドウも二宮金次郎先生には私は現に負(お)うところが実に多い。二宮金次郎氏の事業はあまり日本にひろまってはおらぬ。それで彼のなした事業はことごとくこれを纏(まと)めてみましたならば、二十ヵ村か三十ヵ村の人民を救っただけに止(とど)まっていると考えます。しかしながら この人の生涯が私を益し、それから今日日本の多くの人を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は事業の贈物にあらずして生涯の贈物を遺した。この人の生涯はすでにご承知の方もありましょうが、チョット申してみましょう。二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種(なたね)を蒔(ま)いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を綯(よ)れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい鍬(くわ)で田地を拵(こしら)えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに委(ゆだ)ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。それでわれわれもそういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人の生涯を見ますときに、「もしあの人にもアアいうことができたならば私にもできないことはない」という考えを起します。普通の考えではありますけれども非常に価値のある考えであります。それで人に頼らずとも われわれが神にたより己にたよって宇宙の法則に従えば、この世界はわれわれの望むとおりになり、この世界にわが考えを行うことができるという感覚が起ってくる。二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯はドレほどの生涯であったか知れませぬ。私ばかりでなく日本中幾万の人はこの人から「インスピレーション」を得たでありましょうと思います。あなたがたもこの人の伝を読んでごらんなさい。『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。 この本はわれわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であります。実にキリスト教の『バイブル』を読むような考えがいたします。ゆえにわれわれがもし事業を遺すことができずとも、二宮金次郎的の、すなわち独立生涯を躬行(きゅうこう)していったならば、われわれは実に大事業を遺す人ではないかと思います。
2023.08.09
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す宗兵衛大いに此(こ)の至教(しけう)を感じ、且(かつ)禍福吉凶存亡の由(よつ)て起る處(ところ)歴然たるに驚き、大息して曰く、先生既往(きおう)の事を説き玉ふ、何を以て此(こ)の如く著明(ちょめい)なるや。孫右衛門の家天明度(ど)凶荒の時より興(おこ)り富を保てり。原因此(こ)の如くにして廢亡(はいぼう)を免れ難きは的然也(てきぜんなり)と雖も、今之を救ふの道なしと宣(のたま)ふものは、我(われ)誠心足らざるが故にあらずや。曾(かつ)て教へを聞けり、廢家(はいか)を擧(あ)げ禍を福(さいはひ)に轉(てん)ぜんもの、只(たゞ)一の至誠而已(のみ)、知謀術計の及ぶ所に非ず と。今彼を救ふの道あらば、一身の力を盡(つく)して辭(じ)する所あらず。先生愚蒙(ぐもう)の悲歎を憐み、一教(けう)を示し玉へと再三請(こ)うて止まず。先生其(その)痛歎の情甚だ切なるを愍(あはれ)み、再び教へて曰く、汝一身に換(かへ)て彼を救はんとすること殊勝なりといへども、非常の災害を除かんとするに微力を以てす。是(これ)大石を動(うごか)さんとして細縄(さいじやう)を用(もちふ)るが如し。然れども再三の哀(あはれ)みを告ぐ。予(われ)之を見るに忍びず。今爰(こゝ)に一道(だう)あり、汝それ能(よ)くせんか。宗兵衛答へて曰く、必ず之を行はん。先生曰く、汝が妻は孫右衛門が妹なり、親族是(これ)より近きはなし。兄の捕(とら)はれを哀み、生家の危(あやう)きを悲(かなし)むや否や。對(こた)へて曰く、悲痛某(それがし)に倍せり。曰く、然らば身に麁衣(そい)を着(ちゃく)し、口に麁食(そしょく)を喰(くら)ふか。曰く、敢(あへ)て然(さ)するにあらず。曰く、誠に哀む者食(しょく)味(あじはひ)を甘ぜず、衣(い)觀美(くわんび)を爲(な)すに忍びず、伏(ふ)して寝(い)ぬることあたはず。今實兄(じつけい)獄中に困(くる)しみ、生家の滅亡旦夕(たんせき)にあり、然るに憂心の薄きは如何(いかん)。宗兵衛答ふる能はず。先生曰く、假令(たとひ)憂心切(せつ)なりと雖も、一の女子(ぢょし)何ぞ其の至當(したう)の道理(だうり)を知らんや。汝(なんじ)彼(かれ)を教ふべし。生家の癈亡(はいぼう)近きにあり、之を救ひ共に艱苦を同じくせんか、骨肉の兄此(こ)の如きの艱難(かんなん)に及べり、假令(たとひ)救助の成不成せいふせい)は測り難しと雖も、今斯(こゝ)に於て艱苦を共にすべし。兄寒しといへども之を凌(しの)ぐことあたはず。飢ゑたりといへども飽食(ほうしょく)を得ず。汝今より口に麁食(そしょく)を食(くら)ひ、身に惡衣(あくい)を着し、生家(せいか)より持ち來(きた)る所の衣類器物悉くこれを鬻(ひさ)ぎ、これを以て生家再復の一助となすべし。此(こ)の代銀(だいぎん)些少(させう)なりと雖も、汝兄と共に艱苦を盡(つく)し、生家を安(やすん)ぜんとするの誠心斯(こゝ)に立つ時は、是(これ)よりして兄の禍を免るべきの道を生ぜんと諭(さと)すべし。若し汝の妻之を聞き速(すみやか)に其の所行(しよぎやう)を立つる時は、彼を助くるの種(たね)とならんか。夫(そ)れ僅々(きんきん)たる一粒(りふ)、之を蒔く時は年を經(へ)て高木(かうぼく)となる。人の誠心一旦感發(かんぱつ)して止まざる時は至誠(しせい)天を感ず。豈(あに)一婦人の誠心兄を救ふの道なからんや。汝妻に道を示し、其(そ)の誠を立しむることあたはずんば、餘事(よじ)亦何をか論ぜん。是汝が分量の及ぶ所を以て告ぐる而已(のみ)。速かに之を行ふべし と教(をし)ふ。宗兵衛再拝して大いに悦び、速かに家に歸(かへ)り此の事を行はしめんとす。 加藤宗兵衛は、先生の説かれるところに驚いた。「なぜこのように明らかなのでしょう。 孫右衛門の家は、天明の凶荒のときに興り富裕となりました。 原因がこうであるから廃亡を免れることができないというのは当然だといっても、いまこれを救う道がないというのは、私の誠が足らないためではありませんか。 かって私は先生にこのように伺いました。『廃家を復興し、災いを幸いに転ずるものは、ただ一つの至誠だけである』と。先生、私の愚かさを憐れんで、教えの一端をお示しください。」このように繰り返しお願いしてやまなかった。先生はその宗兵衛が大変嘆くありさまにを憐れんでこう諭された。「なんじが一身にかえて彼を救おうとすることは感心である。 非常の災害を除こうとするのに微力をもってしようとするものだ。 大石を動かそうとして細縄を用いるようなものだ。 しかしながら、再三の哀れみを見るにしのびない。 今ここに一つの道がある。 なんじはそれがよくできるか?」「必ず行います」「なんじの妻は孫右衛門の妹である。親族としてこれほど近いものはない。 兄が捕らわれたのを憐れんで、生家が危うくなっているのを悲しんでいるか?」「嘆き悲しむことは私の倍以上です」「それならば身に粗末な衣装を着、口に粗末な食べものを食べているか?」「そこまではいたしておりません」「本当に悲しむものは、食に味わいなく、美しい衣装を着るにしのびず、寝るに寝れないはずだ。 いま、実の兄が獄中に苦しんで、生家の滅亡が夕べにもあろうとする、それなのに、憂える心のなんと薄いことか。」加藤宗兵衛はこれに答えることができず黙ってしまった。「たとえ憂える心が切実だとして、一人の女子がどうしてその正しい道理を知りえようか。なんじは妻に教えるがよい。生家の廃亡は近い。これを救って、一緒に困難を同じくしなさい。骨肉の兄がこのような艱難に及んでいる。たとえ救助できるかできないかわからないが、いまここで艱苦をともにしなさい。兄は寒い中でこれを凌ぐことができない。飢えたからといっておなかいっぱい食べることができない。おまえは今から口に粗食を食らい、身に粗末な衣装をつけ、生家から持ち来たった衣類器物はすべて売り払い、これを生家を復興する一助としなさい。その代金は少ないといっても。おまえが兄とともに艱苦を尽くし、生家を安んじようとする誠の心が立つとき、そこから兄の災いを免れる道を生ずるかもしれない。そう諭しなさい。もしなんじが妻がこれを聞いてすぐに行うときは、孫右衛門を救う種となろうか。わずかな一粒の種も、これを蒔く時は年をたてば高い木となる。人の誠の心がいったん感動してやまないときは至誠天を感ずる。 どうして一婦人の誠心が兄を救う道がないといえようか。 なんじの妻に道を示し、その誠を立てさせることができなければ、ほかのことをどうして論ずることができよう。 これはなんじが行えることを告げただけだ。すぐに行いなさい。」宗兵衛は何度も先生に感謝して、すぐに家に帰ってこのことを行おうとした。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.09
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