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報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す伊勢原驛(えき)宗兵衛(そうべゑ)なるもの曾(かつ)て先生の至教(しけう)を得て其の家を全(まつた)くせり。孫右衛門(まごゑもん)の妹某(それ)を娶(めと)り妻となす。宗兵衛性(せい)温柔(おんじう)にして慈心あり。孫右衛門の家破却禁獄三年、禍災(かさい)並び至ることを歎き、百計之を救はんと欲すれども其の道を得ず。遙(はるか)に野州櫻町に來りて、困難を陳述し涕泣して教へを請ふ。先生歎じて曰く、豈(あに)是一朝一夕の故ならんや、其の禍(わざはひ)由(よつ)て来る所遠(とほ)し。世上富家(ふか)の滅亡すること往々斯(かく)の如し。何(なん)ぞ人力を以て之を存することを得ん。予(われ)孫右衛門一家の事跡を知らずと雖(いへど)も、其(その)富を致すに必ず自然の道を失ひたることあらん。凶荒(きょうくわう)の年に及び、破却の禍(わざはひ)に遇ふ者往々有りと雖も、此の如き災難輻輳(ふくそう)するもの稀(まれ)なり。是に由て之を観るに、其の禍の根元も亦必ず深し。彼(かれ)代々米穀(べいこく)を以て渡世とすと、然らば天明卯辰(うたつ)兩年(りやうねん)の凶荒(きょうくわう)に當(あた)り、多分の米粟(べいぞく)を高價(かうか)に鬻(ひさ)ぎ、大利を得て以て家を富し、計策を得たりとして積善(せきぜん)の行(おこなひ)なかりしが、人の禍を得る時は之を憐み之を助くるの道を以て人道とせり。人の憂ひある時に當(あた)り、我獨(ひと)り利を貪るものは、天の廢(はい)する所なり。鳥獣といへども其の類(るひ)の悲鳴を聞けば、之を哀れむの心あり、況(いはん)や人に於(おい)てをや。果して然らば、則ち孫右衛門の家廢亡(はいぼう)速(すみやか)なるべし。然して凡(およ)そ六十年を保ち此の凶年に至りて廢(はい)するもの久しといふべし。其の久しきものも亦(また)其の由來(ゆらい)あり。祖先必ず陰徳(いんとく)あらん。是を以て保てるのみ。今陰徳(いんとく)既に盡(つ)き、天明度(ど)他の憂ひを憐まず獨(ひと)り己(おの)れが利を得たるの禍(わざはひ)此の時に發(はつ)し、家産悉く他人の爲(ため)に破られ、加ふるに火災病難共に來れり。是に於て孫右衛門猶(なほ)其の身の罪を知らず、人を怨み身を亡すの道に走り、一家人物共に共に廢亡(はいぼう)せざれば止むべからず、獨(ひと)り孫右衛門の罪のみにあらず。其の禍福吉凶(くわふくきつきょう)必ず其の根元ありて生ず、何の疑かあらんや。孫右衛門自ら責(せむ)るの道を知らず。專(もつぱ)ら我を善とし驛人(えきじん)の破れるものを怨む。官其の罪を知らしめんとして之を戒め玉ふの仁心をも察せず。偏頗(へんぱ)の處置(しょち)なりと是をも怨望(ゑんぼう)するの念(ねん)あり。此の如くならざれば滅亡に至らざるが爲也。夫れ天地間萬物(ばんぶつ)一理、瓜(うり)を植うる時は必ず瓜熟せり、何ぞ瓜を植ゑて茄子(なす)の實(み)のる事あらんや。五穀(ごこく)各(かく)其の人の植うるに隨(したがひ)て熟せり。往古(わうこ)以來一草と雖も、其の種を變(へん)じて生ずるものを聞かず。何ぞ孫右衛門獨(ひと)り善を植ゑて惡(あく)の實(み)のりあらん。必ず一家廢亡(はいぼう)の種を蒔き、今其の實(み)のりを得たるにあらずや。汝親族の故を以て之を救はんと欲するは人情(にんじやう)の當然(たうぜん)也(なり)と雖も、此(こ)の如(ごと)き禍に乗じ如何(いか)なる救助を盡(つく)さんとするも、豈(あに)之を救ふことを得ん。實(じつ)に憐む可(べ)きの至りと雖も、如何(いかん)ともす可(べ)からずと諭(さと)さる。 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.08
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す此(この)時に當(あた)り孫右衛門江都(かうと)に出で、穀価(こくか)を尋(たづ)ね、其(その)高下(かうげ)に隨(したが)ひ諸人(しよにん)の爲に價(あたひ)を減じ賣(う)り出さんか、將(はた)救助の為に粟(ぞく)を散ぜんかと、思慮未だ決せずして家に歸(かへ)らず、番頭伊三郎なるもの答えて曰く、今主人江戸にあり、某(それがし)の得て處(しょ)する所にあらず。近日主人必ず歸(かへ)らん、然らば其の望に應(おう)ずべしと云ふ。或(ある)もの去り、別人又(また)來(きた)りて再三之を請(こ)ふ。伊三郎答ふるに前言を以てす。驛内(えきない)彌々(いよいよ)憤怒(ふんど)し、彼平生(へいぜい)貪吝(どんりん)にして曾(かつ)て慈悲を知らず。今家にあらずして江都(かうと)に出るは、利を貪(むさぼ)らんが爲なり。哀(あい)を請ふと雖も何の益あらん。彼を始め宿内の富家(ふか)を悉く破却して、彼等(かれら)が膽(きも)を冷さしめん。何ぞ是非を論ずるに及ばんやと。一人之を唱ふれば諸人之に同じ、數(すう)百人耒シ(らいし)又は鳶口(とびぐち)と唱ふる物を振ひ、夜に入り、一時に亂入(らんにふ)し、同音(どうをん)に怨恨(ゑんこん)の情を呼はり、力を極(きは)めて家藏を破り、器財を碎き、米粟金錢(べいぞくきんせん)を散亂(さんらん)す。道路之が爲に壅塞(ようそく)し、往来(わうらい)のもの通行することを得ざるに至れり。器として破らざるはなく、物として毀(こぼた)ざるはなし。妻は子を負ふて逃れ、伊三郎も大いに驚き走り去る。諸人毀(こぼ)ち終り、又他に往きて富家(ふか)一二戸(こ)を破り、愉快を呼びて各家(かくいへ)に歸(かへ)れり。孫右衛門卒忽(そくこつ)として家に到れば、家屋悉く毀(こぼた)れ米粟器財土泥(どでい)に散亂(さんらん)せり。愕然(がくぜん)として其の無道を怒り、憤怨(ふんゑん)骨髄に徹し、速に官に訴へ、亂暴(らんぼう)の者を罪(つみ)し、此の怨恨を散ぜんとするの外他事(たじ)なし。既に此事官に聞(ぶん)せり。官(くわん)囑吏(ぞくり)を遣(や)り、驛人(えきじん)を諭し、或は戒め、然後、孫右衛門を捕へて之を禁獄し、詰(なじ)るに飢饉の憂ひに罹り、驛人(えきじん)危亡(きぼう)に瀕(ひん)せり、汝財に富み粟(ぞく)を積み、曾(かつ)て憐愍(れんみん)の心なく、遂に此(この)亂暴(らんぼう)を起せり。汝聊(いささ)か慈心有らば何を以て此の動亂(どうらん)を開かんや、其の罪汝の身にありと云ふを以てす。孫右衛門救助の道を行はんとせしに、其(その)發(はつ)するを待たずして破毀(はき)の亂暴(らんぼう)に及べりと言上(ごんじやう)すれども、官益々其の等閑(なほざり)の罪を責めて之を許さず。同年某(ぼう)月暴風砂石(しやせき)を巻き、一天之が爲に暗し。時に驛内(えきない)失火忽然(こつぜん)として火盛(さかん)に風烈しく、孫右衛門破家(はか)散亂(さんらん)の米粟(べいぞく)器財盡(ことごと)く燒亡(せいぼう)す。妻子の悲歎既に極る。妻歎じて曰く、嗚呼(ああ)、如何せん、家屋(かおく)は人の爲に毀(こぼ)たれ、良人(りやうじん)之が爲に罪人と爲(な)りて獄屋(ごくや)の苦を受け、今又大風烈火産物を焼く、災害の頻(しき)りに至ること何ぞ此の如きや。二子を抱(いだき)て曰く、以後何を以て子を育せんやと、大いに涕泣(ていきう)す。伊三郎言を盡(つく)して之を慰(ゐ)し、主人罪なきが故に今歸(かへ)り給はん、然らば諸事共に談じて、必ず憂ひなからしめんと云ふ。妻が心何を以て解(かい)せん、憂心の餘(あま)り遂に病に臥して食進まず二児(にじ)枕上(ちんじやう)に在りて泣く。伊三郎夫妻共に心を盡(つく)し、醫(い)を招き之を療(れう)すれども遂に起(おき)ず。病(やむ)こと數月(すうげつ)にして死す。孫右衛門獄中に在り、此災害を聞く毎(ごと)に噴悶(ふんもん)甚しく益々驛人(えきじん)の暴を怒り、且(かつ)官の亂人(らんじん)を捕えずして、破却の禍を受くるものを禁獄(きんごく)すること豈(あに)公平の處置(しょち)といふべけんや。今に我此の獄(ごく)を出でなば、身を粉(こ)に碎(くだ)くといへども怨(うらみ)を驛人(えきじん)に報ぜざるべけんやと。日夜憤涙(ふんるい)を流して切齒(せつし)すること殆(ほとん)ど狂人の如し。官彌々(いよいよ)之を許さず入獄三年に及べり。 東海道の大磯宿に川崎屋孫右衛門という者がいた。先祖より穀物商を営み、富豪として知られていた。孫右衛門の性質は吝嗇で、人を慈しむ心が薄く、専ら利益だけに心を尽くした。天保7年の大飢饉のとき、大磯宿も困窮する者が多く、穀物商の孫右衛門に「宿内の困窮を憐れんで、相場より安く売ってはくれまいか」と請われたが、孫右衛門は返事を決しかね、江戸へ穀物相場を調べに出掛けた。宿内の人々が川崎屋に来て懇願したが、番頭の伊三郎は今主人は江戸に行っていて自分の判断では決しかねると悉く断った。宿内の人々は次第に激昂して「今家にいないで江戸にいるのは、利を貪るためだ。 川崎屋はじめ宿内の富豪を打ち壊してやろう」と付和雷同して、夜になって数百人が、口に罵りながら家や蔵を打ち破り、器材を破却した。孫右衛門の妻子は命からがら逃れ、伊三郎も逃げ去った。孫右衛門が帰ると家屋はすべて壊され、米や器財が泥の中に散乱していた。孫右衛門は己の無慈悲を反省することなく、怒り骨髄に徹して、役人に乱暴した者を罰するよう訴えでた。官は宿内の人々を戒めた後、孫右衛門を捕らえて牢屋にいれて、「飢饉のとき、宿内の人々が飢死に瀕した折、なんじは富んでいながら憐れみの心がなかったから、この騒動が起こったのだ」とその罪を責めた。その年、暴風が吹き、宿内の失火により、孫右衛門の残っていた破屋財産を悉くやきはらった。孫右衛門の妻は打ち続く不幸に病に臥し、二児を残してなくなってしまった。孫右衛門はこれを聞いてますます怒り、必ず宿内の者どもに復讐をしようと涙を流し歯軋りして呪うことは狂人のようであった。このため、官はいよいよ許さず入獄が3年にも及んだ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.08.07
報徳記 巻之四【1】 先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す ココ(玄を二つ並べる:こゝ)に東海道大磯宿(しゅく)川崎屋孫右衛門(まごうゑもん)なる者あり。先祖より穀商賣(こくしやうばい)を以て渡世(とせい)とし、頗(すこぶ)る豪富の名あり。性(せい)吝嗇(りんしょく)にして慈仁の心薄く、專ら利益のみに心を盡(つく)せり。人之を呼びて仙臺通寳(せんだいつうほう)と云ふ。其の所行(しょぎょうZ)一僻(へき)にして他の言を用ゐず、財優(ゆた)かなりといへども他を憐まざるを以て、世上(せじょう)不通用なりと譬(たと)へしなるべし。于時(ときに)天保七申(さる)年夏冷氣大いに行はれ、日々曇天にして晴日稀なり。是を以て五穀實(みの)らず、歳(とし)大いに飢う。關東(くわんたう)奥州(あうしう)尤も甚し。諸民百計食を求むといへども得る處(ところ)なく、或は離散し、或は道路に斃(たふ)る。生民の悲歎何ぞ之に加ふるものあらんや。幕府深く萬民(ばんみん)の飢渇を憐み、巨多(きょた)の米財を散じ、江都(かうと)の飢者を救ひ玉ふ。諸國有志のものも多少各(かく)其の分に應(おう)じ、飢民救助をなすもの少からず。然れども救ひを出すもの限りあり、飢(うゑ)を病むもの益々多く、月を經(ふ)るに隨(したが)ひ飢亡彌々(いよいよ)多し。平生(へいぜい)無頼の者共(ものども)衆を煽動(せんどう)して曰く、此の如くにして日を送らば、空しく飢亡に及ばんこと言語(げんご)を待つべからず。夫れ富家(ふか)多分の米財を握り、一家(か)の憂ひなきを以て、他の困迫死亡を憐れむの心なく安坐(あんざ)して傍觀(ぼうくわん)す。悪(にく)む可きの至りにあらずや。徒(いたづら)に死を待たんよりは寧ろ彼が不仁の家を破却し、其の握る所の粟(ぞく)と財とを蹈散(たうさん)し、一旦の愉快を取って死せんには如ざる也と。素より死亡に瀕するもの往々之に雷同し群起して、富豪を毀(こぼ)ち、其の器財米粟(べいぞく)を微塵(みじん)になすもの數(かぞ)ふるに暇あらず。大磯宿は平年猶(なほ)貧困を免れざるもの多し。況や此(この)大飢(だいき)をや。或もの孫右衛門(まごうゑもん)に請うて曰く、計らざりき飢饉の患(うれひ)此の如きに至らんとは。冀(こひねが)はくは宿内(しゆくない)の困苦を憐み、當年(たうねん)の相場定めより壹斗(いちと)丈(だけ)の價(あたひ)を減じ賣給(うりたまは)らば、其の惠(めぐみ)少からずと云ふ。巻の4に入った。「大磯の川崎屋孫右衛門(まごうゑもん)」の話である。東海道の大磯宿(しゅく)に川崎屋孫右衛門(まごうゑもん)という者がいた。先祖から穀物商を営んで富豪として知られていた。しかし孫右衛門の人となりは、ケチで人を憐れむ心が薄く、専ら自分の利益だけに心を尽くしていた。また人の言は用いることはなかった。天保7年の大飢饉で大磯宿も多くが飢えた。ある者は孫右衛門に「宿内の困苦を憐れんで、相場より安く売ってくれれば宿内の者がどんなにか助かるかわからない」と言ったが、孫右衛門はそれにすぐに応じることなく、江戸へ出て穀物相場を調べにいった。番頭の伊三郎は「主人は今江戸に出ております。帰ったらその望みにも応じられるでしょう」と次々と来る救助の求めを断った。大磯宿の人々は次第に憤りを増して、「今家にいないのは、利を貪らんがためだ」と普段の行いもあって、「哀れみをこうても無駄だ。どうせ飢え死にするなら打ち壊してやろう」と集団で打ち壊したのであった。小さな資料室長さんが、新たに載せていただいた「二宮翁夜話巻の2」の49にも尊徳先生が敵討ちについて論じられたついでに大磯宿川崎屋孫右衛門について言及されている。報徳を学ぶ者にとってよく知られた逸話だったのである。 天保の飢饉に神奈川県の大磯に川崎屋孫右衛門という者が、暴民に打ちこわしされた。役人は暴力を奮った民を捕らえて牢獄に閉じ込めるとともに、孫右衛門も牢屋に入れること三年に及んだ。孫右衛門は憤怒にたえることができず、上下を怨んで、この怨を報復してくれようと熱心だった。私は、復讐は人の道ではない、富者は貧者を救って、大磯宿を安んじることが天理であることを教えた。しかし孫右衛門は決めかねずにいた。鎌倉円覚寺の淡海和尚に質問して、後悔し、初めて復讐の念を断ち切ることができた。そして身代を残らず大磯宿に出して、宿内の救助にあてた。宿内は俄然一挙に融和し孫右衛門を尊敬すること父母のようであった。役人もまた孫右衛門に褒美を与えた。私は、ただ復讐は人の道ではない、世を救い世のためになることが天理であることを教えただけでこの好結果を得たのである。もし過って復讐の謀をしていれば、どんな修羅場になっていたか分らない。恐れなければならない。(二宮翁夜話巻の2)四九 (略)天保の飢饉(キヽン)に、相州大磯(イソ)駅川崎某と云者、乱民に打毀(コハ)されたり、官乱民を捕(トラ)へて禁獄(キンゴク)し、又川崎某をも禁獄する事三年、某憤怒(フンヌ)に堪(タ)へず、上下を怨(ウラ)み、上下に此怨を報ぜんと熱(ネツ)心す、我(わレ)是に教(オシ)ふるに、復讐は人道にあらざるの理を解(ト)き、富者は貧を救(スク)ひ、駅(エキ)内を安ずるの天理なる事を以てせり、某決する事能はず、鎌倉(カマクラ)円覚寺淡海和尚に質(タヾ)して、悔悟(クワイゴ)し決心して、初て復讐の念を断(タ)ち、身代を残(ノコ)らず出して、駅内を救助す、駅内俄然(ガゼン)一和して、某を敬(ケイ)する事父母の如し、官又厚(アツ)く某を賞するに至れり、予只復讐は人道にあらず、世を救ひ世の為を為すの天理なる事を教(ヲシ)へしのみにして、此好結果を得たり、若(モシ)過(アヤマ)ちて、復讐の謀(ハカリゴト)をなさば、如何なる修羅場を造作するや知るべからず、恐れざるべけんや「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)■■■日経BP トップリーダー 2019年12月号」■■■ ~ダイソー創業者 矢野博丈氏コメント~ 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」を読んで、これだ‼と思いました。 すぐに本に書いてあった通りにやってみたら、すごい効き目でツキが回ってくる。 中略 やっぱり他人への感謝を中心に置かないと。 人間、最後に差が出るのは「感謝力」です。
2023.08.06
是(こゝ)に於て宗兵衛先生に見(まみ)ゆ。先生曰く、嗚呼(あゝ)汝過(あやま)れり、父の末子(ばつし)を愛して之に財を分たんとするは、是(これ)目前の愛情而已(のみ)にして後年の憂ひを知らざるが故なり。今は父子なり兄弟(けいてい)なり。一家を讓(ゆず)りたりとも、家財を分ちたりとも、父子兄弟(けいてい)何(なん)の子細(しさい)かあらんや。後世(こうせい)子孫に至る時は本末の名而已(のみ)にて他人の情に彷彿(ほうふつ)たるべし。世上(せじやう)の本末小利の争ひより事を生じ、互(たがひ)に仇讐(きうしう)の思ひをなすもの少からず。今宗兵衛家財田地(でんぢ)を分ち與(あた)へ、弟(おとゝ)爲藏の家貧にして分ちたるものをも子孫に存することあたはざる時は無事なるに近し、然るに爲藏の人となりを聞くに篤實(とくじつ)にして財を費さず、賣売(ばいばい)の才は却(かへつ)て兄に増れりと。左あれば彼必ず一家を富(とま)さんか、若し宗兵衛の子なるもの爲藏に如ずして家事窮することあらば、家の財を分ち分家せし故に此の家衰へたりと叔父(しゅくふ)を怨るの心を生ぜん。爲藏の子たる者之を聞かば従弟(じゆうてい)の所行(しよぎやう)の足らざる事を云ひて、其の怨望(ゑんぼう)を憤るの心あらん。然らば其の憂ひ遠きにあらず。一旦互ひに怨心(ゑんしん)を發(はつ)することあらば、子孫代代怨望の心而巳(のみ)増長し、本末の好(よし)みを失ひ、祖先までも非とするに及ばんか。是(これ)凡情取るに足らざる事と雖(いへど)も、賣利(ばいり)を以て主とする商家何ぞ代々互ひに相讓(あひゆづ)るの賢人を生ぜんや。凡夫にして凡夫の情に隨(したが)ひ一方困窮に及ばゞ是より怨望相争うに至らん、甚しきは之が爲に本末共に家を覆(くつが)へすに及ばんか、今汝の意の如くして必ず世々此の憂ひなき時は幸ならん。若し斯くの如き禍(わざわひ)とならば今の慈愛は子孫の大害(だいがい)にあらずや。子孫の害を防がんと欲せば、必ず家財を分つ事なかれ。爲藏なる者に一金を與へずして、獨手(どくしゆ)に家を起さしむるとも一身の丹誠を以て之を爲さんこと難きに非ず。一人の力を以て家を興さば、本末何の憂ひをか生ぜんや。自力に事を爲すべき爲藏に一家を分ち與へ、代々の憂ひを殘(のこ)さんとするは目前の愛に泥(なず)みて慮(おもんぱか)り足らざるの過ちなり。然れども今分家せんとするに働きありといへども、爲藏一金を得ずして賣物(うりもの)の元資(げんし)とすべきものあるべからず、是故に我二十金か三十金を無利息にて貸與(かしあた)へ、一家を興(おこ)さしむべし。必ず一物も生家の財を分つべからず、汝の父愛情により財を分てと云はゞ、予が言を以て之を諭(さと)すべし、必ず其の心を安(やす)んぜんこと疑ひあらず と教誨(きやうかい)す。宗兵衛平兵衛大いに感じ先生の深慮且恩恵の厚きを謝し、家に歸(かへ)り具(つぶさ)に父に告ぐ。父も亦大いに感動して爲藏に告ぐ。爲藏大いに悦び此の道を以て一家平安を得たりと云ふ。伊勢原の加藤宗兵衛は、尊徳先生に面会した。先生はこうおっしゃった。「ああ、おまえは過っている。 父が末っ子を愛して財産を与えようとするのは、目前の愛情だけで後年の憂いとなることを知らないからだ。今は父子であり、兄弟である。一家を譲っても、家財を分っても、父子兄弟何のしさいもあるまい。後の世となって子孫になる時は、本家末家の名前だけで、他人の情愛をホウフツするようになるであろう。世間で本家末家で小利の争いから争いを生じて、互いに仇敵のような思いをするものが少なくない。今、宗兵衛は家財田地を分って与え、弟の為蔵が貧しくて分けたものを子孫に残すことができないときは何事もなかろう、しかし為蔵の人となりを聞くと篤実で財産を費消せず、売買の才能はかえって兄にまさっているという。そうであれば、彼は必ず一家を富ますであろう。もし宗兵衛の子が為蔵に劣って家事が窮することがあれば、家の財産を分与して分家したからこの家が衰えたのだと叔父を怨む心が生ずるであろう。為蔵の子がこれを聞くならば、従弟の自らの行いが足らないことを言って、その怨みに憤ることもあろう。そうであればその憂いは遠くはない。いったん互いに怨む心を発するならば、子孫代々怨みの心を増長して本末のよしみを失って、祖先まで非とすることにまでなろうか。これは凡人の情で取るに足りないことではあるが、売った利を主とする商売の家にどうして代々互いに譲る賢人が生れよう。凡夫として凡夫の情に従って、一方が困窮に及ぶならば、怨む心で互いに争うであろう。このために本家末家ともに家を覆すほどのひどいことになるかもしれない。今おまえが思うとおりにして必ず世々憂いがないときは幸いであろう。もし私が述べたような禍となるならば、今の慈愛は子孫の大きな害となるではないか。子孫の害を防ごうと欲するならば、必ず家財を分与してはいけない。為蔵に一金を与えなくても、独りで家を起すことも一身の丹誠でなすことも難しくはなかろう。一人の力で家を興せば、本末何の憂いを生じよう。自力で事をなすことができる為蔵に一家を分与して、代々の憂いを残すことは目前の愛になずんで思慮が足らない過ちからである。しかしながら今分家しようとして働きがあるといっても為蔵は一金を得ないで売り物の元手となるものがない。このゆえに私が20両とか30両を無利息で貸し与えて、一家を興させるがよい。必ず一物も生家の財産を分与してはいけない。おまえの父が愛情で財産を分与せよといったら私の言葉をもって説諭するがよい。必ず父の心を安らかにするであろう。」
2023.08.05
報徳記巻之五【6】小田原領駿豆相飢民に撫育を行ふ先生君候の逝去し玉ふ事を聞き、慟哭悲歎流悌(りうてい)して曰く、嗚呼(あゝ)我が道既に斯(こゝ)に窮せり。賢君上に在(いま)し我をして安民の道を行はしむ。臣(しん)始めて命を受けしより十有(いう)餘(よ)年千辛萬(ばん)苦を盡(つく)せるは何の爲(ため)ぞや。上(かみ)明君の仁を擴(ひろ)め下(しも)萬民(ばんみん)に其の澤(たく)を被(かうむ)らしめんとする而已(のみ)、豈(あに)他あらんや。遂に其の事半(なかば)に至らず、君奄然(えんぜん)として逝去し玉ふ。以來(いらい)誰と共に此の民を安んぜんや と大息(たいそく)悲痛自ら前後を失するが如し。暫くありて容貌を改め毅然(きぜん)として曰く。嗚呼(あゝ)憂心歎息度に過ぎ飢民救助の道を怠り一民だも失ふ時は、君の尊靈(そんれい)何ぞ歎き玉はざらんや。一刻も早く君の仁澤(じんたく)を布(し)き此の民を救はん而已(のみ)と、涕(なみだ)を拭ひ廻村し一邑(いふ)毎に無難(ぶなん)中難(ちゆうなん)極難(ごくなん)と三段に分ち、賑貸(しんたい)の員數(ゐんずう)を定め之を償はしむるに五年を以てし、極難のもの償ひ難き時は一邑(いふ)の力を以て之を償ふべきの約を定めたり。廩粟(りんぞく)至るの間も死亡を免れざるの飢民あり。先生數(すう)百金を懐にし、此の如き飢民一人毎に之を尋ね、自ら金を與(あた)へて曰く、近日(きんじつ)君の惠(めぐ)みありて汝等一人も死亡に至らざるの救助あり。暫時(ざんじ)の飢渇之を以て凌(しの)ぐべしと云ふ。飢民或(あるひ)は病者數日(すうじつ)の絶食容貌疲痩(ひそう)立って之を受くること能はず。只(ただ)合掌流涕(りうてい)救助の忝(かたじけ)なきことを謝せり。人皆落涙せざるものなし。駿豆相(すんづさう)の領中村々是の如く回歩數日(すうじつ)にして救荒の道悉(ことごと)く備はり、都合飢民四萬三百九十(40,390)餘(よ)人、酉(とり)正月より五月麥作(ばくさく)實(み)のりまでの食を優(ゆた)かに賑貸(しんたい)し、領中一民も離散死亡に至れる者なく、無事に大飢(だいき)の憂ひを免れたり。實(じつ)に先生非常の丹誠一世の心力を盡(つく)し、古今類(たぐ)ひなき救荒の良法を行ひたり。領民必死の大患を免れ再生の思ひを爲(な)し、大恩を感戴(かんたい)すること深くして數萬(すうまん)の貸粟(たいぞく)一人の不納なく約(やく)を守り、五年にして皆納(かいのう)に及べり。是を以て民心感動の深さを知るべし。是小田原領先生の良法を慕ひ、舊弊(きうへい)を改め大いに風化(ふうくわ)せるの發端(ほつたん)なり。救荒(きうくわう)の正業外に全備(ぜんび)の簿(ぼ)あり。故に今其の概略を記す。
2023.08.04
報徳記 巻之三【7】相州伊勢原駅加藤宗兵衛先生の教を受け一家を治む斯(こゝ)に相州(さうしう)大住(おほすみ)郡伊勢原宿(しゅく)宗兵衛(そうべゑ)なるものあり。茶を賣(う)りて、渡世(とせい)とせり。田圃(でんぼ)數町歩(すうちゃうぼ)を有し、之を農夫に耕作せしめ、その田徳(でんとく)を得(え)、頗(すこぶ)る家(いへ)富めり。其の性(せい)柔和にして慈愛の心あり。是を以て驛(えき)内も宗兵衛の言を信ず、曾(か)つて心學(しんがく)を好めり。心學の友たる駿州(すんしう)御厨(みくりや)竃新田村(かまどしんでんむら)平兵衛(へいべゑ)なるものあり。善人にして人の憂ひを聞く時は身を顧ず之に赴き信義を盡(つく)せり。平兵衛以前小田原に於て先生に見(まみ)え、教示(けうし)を受け、大いに感動して益々人の爲に心を盡(つく)し、善を行はんことを欲す。一時(じ)宗兵衛平兵衛に語りて曰く、我兄弟三人あり、兄を芳助(よしすけ)と云ふ。故ありて他家を繼(つ)ぐ。弟(おとゝ)を爲藏(ためざう)と云ふ。篤實(とくじつ)にして能(よ)く父母に事(つか)へ、某(それがし)にも悌(てい)たるの行ひあり。老父甚だ之を愛す。某(それがし)父の意を察し、弟(おとゝ)をして此の家を繼(つが)しめんことを請ふといへども父之を許さず。分家となし永く本末の親みを厚くせよと云ふ。是(こゝ)に由(よつ)て我(わが)家財金銀悉く其の半(なかば)を分(わか)ち、又田圃(でんぼ)も均しく之を別(わか)ち與(あた)へ、新(あらた)に家を作り之を分家せんと欲す、可ならん歟(か)、平兵衛之を聞き沈吟(ちんぎん)すること良(やゝ)久うして曰く、父の愛せるを以て家を譲らんとすれども父之を許さず。故に一家を中分(ちゆうぶん)し、其(その)一を與(あた)へんとするは、至當(したう)の道に似たりといへども全(ぜん)一家の大事なり。余(よ)が如き不才のものゝ可不可を決すべきにあらず。子(し)未だ知らずや、野州櫻町に二宮先生あり。既往(きわう)を考へ未發(みはつ)を悟り、身に仁義の道を行ひ、口に聖賢の大道を説き、衰廃再興の道を以て舊復(きうふく)安堵(あんど)を得たる者幾千萬家なるを知らず。予會(かつ)て教へを受たり。子(し)此の先生に就て其の是非を問はば必ず兄弟共に道に至らんこと必せり、若し予が言に隨(したが)はんと欲せば予と共に野州に往き教へを受けよと云ふ。宗兵衛聞きて大いに悦び、父に告げて野州櫻町に來れり。先づ平兵衛此の由を以て先生に問ふ。先生曰く、宗兵衛なる者來れるか。曰く然り。相州(そうしゅう)の伊勢原宿(神奈川県伊勢原市)に加藤宗兵衛(そうべえ)という者がいた。茶屋を商い、田畑を多く有し小作に耕させ、富豪であった。その性質は柔和で慈愛の心があった。かって心学を好んだ。心学の友で御殿場の竈新田(かまどしんでん)の小林平兵衛(へいべえ)という者がいた。善人で人の憂いを聞くときは、身を顧みることなく信義を尽くした。平兵衛は以前に小田原で尊徳先生に会って教えを受け、大変感動してますます人のために心を尽くして、善を行おうと欲した。ある時、宗兵衛は平兵衛にこう語った。「私には兄弟が三人いる。 兄を芳助といって、わけがあって他家を継いだ。 弟を為蔵という。 篤実でよく父母に仕えて、私にも弟としてよく行ってくれる。 年老いた父は大変この為蔵を可愛がっている。 私は父のこころを察して、弟にこの家を継がせようと父に請うたが許してくれない。 分家としてながく親しく仲良く付き合えよという。 そこで私は我が家の財産金銀ことごとくその半ばを弟に分って、、また田畑もひとしく分ち与え、新たに家を作って分家としようと思うのだが、それでよいだろうか」平兵衛はこれを聞いて黙り込んで考え、暫くして答えた。「父が愛するからと家を譲ろうとしたが、父が許さない。 だから家を中分してその一つを与えるというのは、至当であるように思えるが、これは一家の一大事である。 私のような不才の者にその可否を決することはできない。 あなたは、野州(栃木県)桜町に二宮先生がいらっしゃることを知らないか。 既に起ったことを考え未だおこらないことを悟り、身に仁義の道を行い、口に聖賢の大道を説いてその仕法によって旧に復して安泰となった者は幾千万家になるか分らない。私はかって教えを受けたことがある。あなたはこの先生についてその是非を質問すれば必ず兄弟ともに最善の道を得ることができましょう。もし私の言葉に従うというのなら私と一緒に野州に行って教えを受けましょう」加藤宗兵衛はこれを聞いて大変喜んで、父にその旨を告げて桜町にでかけたのであった。☆「尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開帳されたところ、そこに「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」と書かれてあったのを見て、「きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か」とひどくお叱りになったことがあります。「諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものだ。これは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。 諸人救助なくして諸道成就しがたしこの自他の違いは大きい。人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することなし。人を救い助ける心を押し広げる。そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。そうして後に諸道は成就するのだ」とじゅんじゅんと諭されたのでした(報徳見聞記68)
2023.08.04
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる高慶曰ク人主政ヲ爲ルに勤メテ而シテ民を恤ムニ厚クセバ、凶歉ニ遇フト雖トモ、民未ダ遽ニ死亡ノ禍ニ陥ルコト有ラズ。先生ノ三邑ニ於ケル凶年キ(食に幾)歳ニ當テ民ノ奉養ニ饒ナル、平時ニ過ルコト有リ。他無シ。惠政浹洽ニシテ貯蓄餘リ有ルヲ以テナリ。烏山ノ如キハ則チ然カラズ。平居猶ホ其ノ窮ヲ救フコト無シ。一旦凶荒ニ遇ヒ窮厄亦極マレリ。是ニ於テ圓應憤リヲ發シ、菅谷ト謀テ櫻町ニ造リ先生ニ從フテ救荒ノ道ヲ問フ。志ヲ執ル甚ハダ固シ。先生亦民罪無クシテ飢亡ノ災ニ罹ルコトヲ愍レミ、授クルニ撫恤ノ方ヲ以テス。是ニ由テ存活スル者數千百人、更ニ分度ヲ定メテ負債ヲ償ヒ、荒蕪ヲ闢キ財ヲ國計ノ外ニ生ジ、廢頽ヲ復スルノ業立てり。然レドモ一タビ先生ノ教ニ從ハズ、而シテ圓應命ヲ殞シ再タビ先生ノ教ニ從ハズ、而シテ菅谷擯黜セラル。其后チ更ニ先生ノ至誠ニ由テ將ニ復タ之ヲ擧ントス。而シテ菅谷亡歿セリ。是ニ於テカ良法廢棄復タ擧ルヲ得ズ。嗚呼古自リ國ノ盛衰存亡ハ要スルニ其ノ人ニ存ス。圓應菅谷ノ若キ有ラバ則チ其政擧ル。二人斯ニ亡ビ遂ニ其終ヲ全クスルコト能ハズ。命ナルカナ。
2023.08.03
この国の 人の常とは とにかくに ただ正直を おしえぬるかなこの歌はどこに出ていたのか、にわかに思い出さないのだが、かってノートに書き付けておいた二宮尊徳先生の歌だ。天保の大飢饉の折、小田原領内の駿河・伊豆・相模の人々を救済されたことはすでに書いた。特に御厨剛(みくりやごう)の人々に説かれた二宮先生の教えは、実にその場で聞いているような心持がする。「尊徳の裾野」(佐々井典比古著)に「玄倉村の自立精神」という一文もそうした折の救済の話でとても印象的だ。「天保8年の春、尊徳は大久保忠真の遺命により、大飢饉の救助のため、小田原領内を巡村していた。このうち相州足柄上郡玄倉村は、ごく山奥の寒村だ。ここに着き、名主や組頭を呼んで、飢えに迫っている者はないか、出精人とか奇特人はないか、食料の拝借は願わないかと、他村と同様に尋ねたところ、こんな答えが返ってきた。『出精人と申しましても別にございません。しいて言えば、手足が大丈夫で、葛の根を掘りに出ている者がそれに当たりましょう。奇特な善行者といえば、芋二俵を施した者くらいでしょうか。食料は差しつかえありませんので、拝借には及びません。』尊徳は重ねて聞いた。『このような貧乏な村で差しつかえないというのは合点がいかない。お殿様が特に、いたくご心配になって、撫育のために私が回村しているのだ。そんな強がりを言って、もし明日にでも飢えに及ぶ者があったらどうするのだ?』すると名主たちは言った。『もうソラ豆の花も咲きました。何とか食い継ぎができます。それに、先日頂戴したお救い米を一升ずつ、銘々の家の棟木にくくりつけ、万一の節のたくわえとさせています。ですから当村では、困窮ということはございません。』名主も組頭もこう言うのだった。尊徳先生はその篤実な態度をほめたたえて、50両を無利息据え置きで貸し与えたところ、年賦で確実に返済したという。(「報徳秘稿」より)玄倉村は現在の山北村にある山村で、当時石高35石余、戸数26軒、人数およそ80人だったという。ふだんでも食料に乏しい山村は冷害の打撃も大きかった。藩でもすでに天保7年12月に金1分2朱と米5斗7升余を与えていた。「先日頂戴したお救い米」がそれである。天保8年3月に回村してきた尊徳先生の心を打ったのは、村の名主たちの態度だった。被災地を回ると、まず耳にするのは泣き言だった。大げさに窮状を訴え、今にも全滅しそうに訴える。それがこの村では大丈夫だという。出精人等も控えめにいう。それにこの村では名主たちが率先して食料を平等に配分し、村人とともに飢えを忍んでいる。尊徳先生は、まず御仁恵金1両2分3朱余を伝達し、組頭2名・百姓4名を農業出精・食料融通の奇特人として表彰し、金2分ずつを与えた。また秋までの食いつなぎ料として無利息金14両3分余を貸付け、5ヵ年賦で返済させた。その後、この地区には伝染病が流行したので、天保9年2月玄倉村にはさらに金50両を貸し付けた。そして玄倉村の人々はこれを5年でキチンと返済したのであった。人は自ら助けるのである。ああ、天は自ら助ける人を助けるのである。心だに 誠の道にかなひなば 祈らずとても神や守らむ(菅原道真)
2023.08.02
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる菅子(すがや)漸(やうやく)汗衣を沾(うるほ)し再拝して曰く、嗟呼(あゝ)過てり、某(それがし)愚かなりといへども甞(かつ)て道を聞けり。是何の心ぞや、思はざりき道を失ふの斯(こゝ)に至らんとゝは。今先生の至教を得て姑息(こそく)の惑(まどひ)盡(ことごと)く開散せり。愚蒙なりといへども豈(あに)服膺(ふくよう)せざらんや。劣弟窮するは固(もと)より其の分なり。何ぞ之を憂ふるの暇あらんや。願くは先生某(それがし)の失言を恕(じよ)し玉へ。是(ここ)に於て先生二十金を出して曰く、子(し)の志の差(たが)ふが故に烏山の道の絶んことを歎き、當然(たうぜん)の道を告ぐる也、今子(し)發明(はつめい)せば幸なり。則ち二十金を持ちて去れ。菅子(すがや)驚き辭(じ)して曰く、是れ何(なに)の事ぞや。某(それがし愚にして大義を失せり。先生の至教に因りて過を知り改めんとす。何ぞ過を遂ぐるをなさんや。先生曰く、子(し)の惑ひ散ずといへども盲弟何を以て解せん。且子我が言を聞かざるの前に當(あた)り盲弟を諭さば可なり。既に心を同くし、相約して共に我に借らんとす。江都(かうと)に於て日々に之を期して待たんこと明かなり。今子(し)大義を知るといへども何を以て俄(にわ)かに弟の惑を解かんや。惑解せざる時は兄弟の約變(へん)じて怨の心を生ぜん。是も亦不可なり。それ速かに盲弟に送れ。 佐々井信太郎氏の「二宮尊徳先生傳」にはこのように菅谷の行いを記する。(昭和10年初版であり、漢字等現代文に改めた)「菅谷の行動もまた記録するべきものが少なくない。 先生は救急と開発のために続々と米や金を送り、 かつ菅谷にも仕法の指導者たらん者の第一の条件は、烏山の歳入不足を調節するために禄を辞し、報徳金で開墾し、これをもって生活を立てていくことが最妙の手段であることを指示したところ、菅谷は感激して直ちに仕法中、自分と相続人半蔵、次男石井靱負(ゆきえ)の給扶持を残らず天保8年正月分より辞退した。その高は米11石6斗、金11両1分余であった。さらに菅谷は弓、鞍などの馬具以下の所蔵品75点を売却し、これを仕法金に加えたい旨をもって差し出した。 円応と菅谷との篤行を直視した藩士及び領民は非常に感激し、御仕法御土台加入を申し出たものは、藩士242名、城下及び49ヶ村1260余人、総計金額108両3分2朱余、米200俵の多きに上がった。 しかるに菅谷は大阪に行き、円応は江戸に出て仕法実施のために奔走し、相州(神奈川県)厚木の仕法指導に赴いたらしく、天保8年12月に帰郷まもなく両人ともに大病にかかり、菅谷は一応快癒したが、円応は没し、菅谷も翌9年1ヶ年を通して病床にあった。そして藩政の方面に仕法反対の内訌を生ずるに至った。 天保9年は豊年であってその成績を円応にひとめ見せたいと申し送ったほどであったが、菅谷の病気は春以降病状が変化して九死一生の体となったほどであったが、11月に小康を得て押して出勤、水戸へ出張した等の無理があり、大病の後としては過労でとにかくすぐれなかった。仕法のために土地が開け、あたかも豊年であり、分外の収穫が多額に上ったのを見た藩政のうちには、あるいは緊縮、あるいは推譲は堪えるところではないとし、特に救急資金の借入金の督促が厳重となったので、分外を開発仕法に用い、用度を窮乏させるのは政治をあやまったものであると非難の声があがった。 天保10年12月6日江戸から大石総兵衛、大塚孫八郎が烏山に到着して直書を携えてきて、7日藩政の重役会議を開いた。 その議事の要件は仕法を断るというものであった。 大久保次郎左衛門以下その無法を反論したが、直書の一言のもとに口を封ぜられ、会議は仕法謝絶に決まった。 停職のすべては15日までに終了し、17日付けで菅谷八郎右衛門は役儀辞退を申し出た。12月25日には隠居を申し付けられ、相続人半蔵に100石を給せられた。 そして天保11年12月11日ついに菅谷放逐の令が発せられた。 菅谷はやむを得ず、鴻巣村の郡司十郎右衛門の家に移った。天保12年7月14日菅谷は桜町に来て、その悶々の情を告げて、また自分の盲目の弟に20両の借財に悩んで心痛していると母子から手紙が来たが今どうすることもできない、助けたたまえと懇願した。 尊徳先生は「進んで忠を尽くさんことを思い、退いて過ちを補わんことを思う」と、これが人の臣であるものの道である。あなたは今重恩の君主に追放されて自分は過ちはない、国が悪いとして少しも悔いる色がみえない。それ忠臣というものは、国家とその幸福や憂患をともにして一身の進退にかかわらない。進んで憂うよりも退く時その憂いを10倍するものが忠臣である。あなたが烏山の家老だった時、国政の過ちを除くことができず、ひとたび凶歳にあって数千の民の命が失うところであった。やむなく私に救済を懇請したのである。そして今追放されて前の失政を思わないで君家のことも顧みず、国の危機を度外におくとは何たることか、今不幸にして烏山再盛の道を失うに際して、日夜寝食を忘れて憂慮すべきではないか。私ですらなお烏山の将来を憂慮している、累代重恩の身でありながらそれを忘れたようなごときはなぜか。私が思うにこのように復興の道が中廃したのはあなたが一身の誠の心が足らないためである。 身は城下を辞したといっても、日夜心境は烏山を離れず、君主が再び仁政を行うときには罪を謝し、身命をなげうって、誠忠を尽くし、発願の志を遂げようと肺肝を砕いているかと思ったのに、今日人臣の大義を忘れて、盲弟の困窮を助けてほしいと懇請するとは。 このような浅い思慮であるから、復興の道も廃し、身もまた退けられたのだ。あなたがこの非を悔いるときは、妻子一族もまた困苦をともにし、道にたおれてもその忠心の香ばしさが世の人を感動させるであろう。盲弟でもまた同じことである。あなたが烏山救助の際のような勇猛心を発して、私が贈った米を食し、禄を辞退した初心を貫徹したならば、讒言の入る余地はなかったであろう。一旦辞退した禄をはんで、身の進退を豊かにしたことが、あなたが退けられた原因である。今思うに烏山の再興はあなたの一心にある、だから過ちを改め、烏山の再興を祈り、至誠を顕わして後に、道が行われなければいつでも当方に来られよ、そうでなければ面会するも忍びざる心がする」とさとされた。菅谷は「あああやまてり。思わざりき道を失うこと、かくのごとくならんとは」と心から悔いたのであった。
2023.08.01
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる且(かつ)思へらく我猶(なほ)斯(か)くの如し、況(いはん)や子(し)に於てをや。子(し)退られ、定めて國家(こくか)の道を失ひし事を憂ひ、君の仁心を遂玉(とげたま)ふことのあたはざるを歎き、臣下の忠義ならざるを憐み、下民(かみん)の困苦を免かれざるを哀れみ、上を怨みず、人を咎めず、興復の道中廢(ちゆうはい)せしは皆我が一身の誠心(まごゝろ)足らずして行ひ缺(かけ)たるが爲なり。仰ぎて君恩を報ずることなく、伏して困民を救ふことあたはず、誠忠足らずして退けられ、一家祖先への不孝亦(また)軽からず、假令(たとひ)退けらるゝといへども日夜過(あやまち)を補ひ、一身こそ退去すと雖も心は頃刻(けいこく)も烏山を離れず。君若し再び仁政を布かせ給ふ時至らば、不忠の罪を謝し、身命をナゲウち、精忠(せいちゆう)を盡し、發願(ほつぐわん)の志を遂げ、君の苦心を安んじ、其(そ)の仁心を擴(ひろ)め、國民(こくみん)の窮苦を除き、仁澤(じんたく)に浴せしめ、永く國家(こくか)の憂ひなからしめんと、起ては肺肝を碎(くだ)き、臥しては思慮を盡(つく)し、暫時も過を補ふの念慮を失はざるならんと思ひしに、豈(あに)計らんや今日漠然として人臣の大義を忘れ、區々(くゝ)たる親族の姑息(こそく)に惑ひ、盲弟を助力せよとの請(こひ)を聞かんと々は。子(し)斯(かく)の如き淺々(せんせん)たる心なればこそ、興復の道廢(はい)し、身も亦退けらるゝに至る。是烏山諸臣の罪にはあらず、皆自ら之を招きしにあらずや。此の時に當(あた)り、子(し)苟(いやしく)も忠義の心あらば、自ら責め、自ら悔い、一身の艱難深からざるを憂ひ、道路に立つも猶(なほ)罪を贖(あがな)に足らずとせんか、然らば妻子一族も共に子(し)と同じく困苦を甞(な)め、烏山一國(こく)上下(じやうげ)の貧困を救ふことあたはざるが故に、我等飢渇に及び道路に斃(たほ)るるも當然(たうぜん)なりとせば、身退けられたりといへども其の忠心の馨(かう)ばしき事誰か感ぜざらん。誰か此の志を憐まざらん。烏山道なしといへども子(し)を退けしを悔ゆるの時あらん歟(か)。然らば盲弟活計便りなしといへども、子(し)の志を聞かば、假令(たとひ)食せずして斃(たほ)るるとも何をか求め、何をか怨みん。斃(たほ)れながらも烏山再盛の道生じ、兄の忠義再び立たんことを祈らん。何の暇(いとま)ありて己の補助を流浪の兄に求めんや。假令(たとひ)愚蒙(ぐもう)にして求むるとも此の正理を以て厚く教へ、共に艱苦を蹈(ふ)ましむるこそ兄たるものゝ道にあらずや。然るに國家(こくか)を憂ひ、過ちを悔(くゆ)ることは一言(ごん)もなくして盲弟而巳(のみ)を助けんとし、其(そ)の費用を我に求むるは本末軽重を失ひ、姑息(こそく)に流れ、人臣の大義を忘れたるにあらずして何ぞや。一人の心は誠に僅々(きんきん)たるが如しといへども、其の至誠に至りては鬼神(きしん)之が爲(ため)に感じ、天地の大(だい)なるも之が爲に感動す。夫れ烏山の大飢(たいき)に當(あた)り、國民飢亡の憂ひ旦夕(たんせき)に迫れり。然して上下(しやうか)の窮厄(きゆうやく)既に極(きはま)り、倉廩(そうりん)空虚にして千慮百計之を救ふの道なし。子(し)斷然(だんぜん)として救荒(きうくわう)の志を發し、心に誠に之を求めしかば、我應(おう)じて以て數千人の飢者(きしや)を救ひ、續(つゞ)いて荒蕪(くわうぶ)を擧(あ)げ撫恤(ぶじゅつ)の道を施し、禍を轉(てん)じて國家の大幸(たいかう)を開きしは、全く子の誠心(まごゝろ)より發(おこ)りしにあらずや。然らば此の誠心(まごゝろ)を益(ますます)瑳(みが)き、我が言に差(たが)わず恩禄を辭(じ)し、我が贈りし米粟(べいぞく)を食(は)みて以て忠勤怠らざる時は、君の擧用(きよゝう)彌々(いよいよ)盛んに、功業(こうげふ)も亦日々に顯(あら)はる。奸人(かんじん)ありといへども何れの處(ところ)に言語を費すことを得ん。假令(たとひ)讒者(ざんしゃ)言を放つといへども誰(たれ)か之を信ぜんや。此(こ)れをこれ行はずして一旦辭(じ)せし禄を食(は)み、身の進退を優(ゆた)かにして事を爲(なさ)んとせし過ちより終(つひ)に國家の大幸を失ひ、上下(じやうか)の大患(たいくわん)を生ぜし事なれば、子(し)の退けらるゝもの亦(また)宜(むべ)ならずや。退けらるゝといへども未だその過を顧(かへり)みず、罪を國家(こくか)に託して悔ゆるの心なく、又憂ふるの誠なし。斯(か)くの如くにして歳月を送らば、烏山再盛の道彌々(いよいよ)絶せんこと疑ひなし。子(し)一旦誠を發(はつ)する時は興國(こうこく)の惠政行はれ、誠を廢(はい)する時は再盛の道も亦廢せり。烏山の安危(あんき)は子の誠不誠にありて他にあらざること之を以て見るべし。子(し)は國(くに)の臣下を咎むといへども彼何の罪かあらん。若し彼此の言を以て子(し)を詰(なじ)らば、子(し)何の言(げん)を以て辨(べん)ずるや。且(かつ)子聊(いささ)かも我が辛勞(しんらう)を察せば專(もつぱ)ら過を改め、烏山の再興を祈り、至誠を顯(あら)はし、再び道行はれ積勞(せきらう)空しからざる時至らば當方(たうほう)にも來るべし。左(さ)なき内は我が面(おもて)を見るも忍びざる心あるべし。何ぞ計らん、我が苦心、子(し)の忠孝も共に廢(はい)し、來りて盲弟を我に救へよと請はんとは、假令(たとひ)姑息(こそく)の愛を以て子(し)の弟(おとゝ)を救ひ與(あた)ふるとも、何を以て盲弟獨(ひと)り全き事を得ん。是(こ)れ我が痛歎する處(ところ)なりと。尊徳先生は菅谷にこう続けて言われた。「そして私はこう思っていた。私ですらそうである。ましてやあなははもっとであろう。あなたは、退けられてから、きっと国家(烏山藩)が道を失ったことを憂い、君の仁心が達成できないことを嘆いて、臣下が忠義でないことを憐れみ、人民が困苦を免れないことを哀れみ、上を怨まず、下を咎めず、復興の道が半ばで廃したのは、みんな私のまごころが足らず、行いが欠けていたためである。仰いでは君の恩に報いることがなく、伏しては困窮した民を救うことができず、誠と忠が足りずに退けられた、一家祖先への罪もまた軽くはない。たとえ退けられても日夜あやまちを補い、一身は烏山を退去したといっても心は少しの間も烏山を離れず、君がもし再び仁政をしかれるときには、忠でなかった罪を謝し、身命をなげうって、心からの忠を尽くし、願をおこした志をとげて、君の苦しい心を安んじ、その仁心をひろめ、国民の困窮苦しみを除いて、仁政に浴させ、ながく国家(烏山藩)を憂いがないようにしようと、起きては肺肝を砕き、臥しては思慮を尽くして、しばらくもあやまちを補う気持ちを失わないようにしているだろうと思っていた。なんということか、今日漠然として臣たるの大義を忘れ、どうでもよいような親族の姑息(こそく)に惑い、盲目の弟を援助してほしいという懇請を聞くとは。あなたがこのような実に浅い心であるからこそ、復興の道は廃し、身もまた退けられるに至ったのです。これは烏山諸臣の罪ではない。みんな自ら招いたことではないか。この時にあたって、あなたにいやしくも忠義の心があるならば、自ら責め、自ら後悔し、一身の艱難が深くないことを憂えて、道路に立ってもまだその罪をあがなうに足りないとするであろう、そうであれば妻子一族もともに同じく困苦をなめ、烏山藩一国の上下の貧困を救うことができなかったために、私たちは飢えて道路に倒れるのも当然であるとするならば、身は退けられてもその忠義の心の香ばしさを感じない者はいないだろう。この志を哀れまない者がいようか。烏山藩が道がないといっても、あなたを退けたことを後悔する時もあろう。そうであれば盲目の弟も生活の方法がないといっても、あなたの志を聞くならば、たとえ食しないでたおれたとしても、何を求め、何を怨むことがあろうか。たおれながらも烏山藩が再び盛大になる道が生じ、兄の忠義が再び立つことを祈るであろう。どうして自分の補助を流浪の兄に求めることがあろうか。たとえ愚かであってもとめたとしても、この正しい理をもって厚く教え、ともに艱難を踏ましめることが兄であるものの道ではないか。そうであるのに国家(烏山藩)を憂い、あやまちを後悔することは一言もなくて、盲目の弟だけを助けようとして、その費用を私に求めるのは、本末軽重を失って、姑息にながれ、臣たるものの大義を忘れているといわないで何というか。一人の心は誠に僅かなもののようであるが、その至誠に至っては鬼神もこれに感じ、天地の大なるものもこれに感動する。烏山の大飢饉に当って国民が飢え死にする憂いがすぐそこに迫った。そこで上下の困窮災厄すでに極まって、倉庫は空っぽでさまざまに配慮し計画したがこれを救う道はなかった。あなたは断然として救済の志を発して心に誠に求めたからこそ、私が応じて数千人にも及ぶ飢餓に苦しむものを救って、続いて荒地を開拓し、民を恵み、禍を転じて国家(烏山藩)の大きな幸せを開いたにのはすべてあなたのまごころからおこったことである。そうであればそのまごころをますます磨き、私の言葉にたがわないで恩禄を辞退し、私が贈った穀物を食べて忠勤を怠らないときは、君が用いられることいよいよ盛んに、その功績もまた日々に顕れたことであろう。たとえ邪(よこし)まな者があっても、どこに非難の言葉をあげえよう。たとえ讒言(ざんげん)するものがあっても、誰がこれを信じよう。これを行わないでいったん辞退した禄を食べ、身の進退にあたって自分を豊かにして事業を行おうとしたあやまちから最後には国家(烏山藩)の大きな幸福を失い、上下の大きな災いを生じたことであるから、あなたが退けられたこともまたもっともではないか。退けられて未だにそのあやまちをかえりみないで、罪を国家に託して後悔する心がなく、また憂える誠もない。このようにして歳月を送るならば烏山が再び盛んになる道はいよいよ絶えてしまうことは疑いない。あなたがいったん誠を発するときは、国が興る政治が行われ、誠を廃するときは再び盛大にする道も廃せられる。烏山が安らかか危ういかはあなたが誠か誠でないかにあって、他にないことはこのとおりである。あなたは、烏山藩の臣下を咎めるが、彼に何の罪があろう。もし彼がこのように言ってあなたをなじるならば、あなたはどのような言葉で弁護するのか。さらにあなたが少しでも私の辛労を察するならば、専らあやまちを改めて烏山藩の再興を祈って、至誠を顕わし、再び道が行われ、積労が空しくならなかった時は当方にも来るがよい。そうでないあいだは、私の顔も見るにしのびない心があるであろう。どうして私の苦心やあなたの忠孝もともに廃していながら、来たって盲目の弟を私に救ってくださいと懇請しようとは。たとえ姑息の愛情で弟を救って金を与えても、どうして盲目の弟ひとりが全うすることができよう。これが私が大変嘆くところである」と。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.30
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる先生黙然(もくねん)良(やゝ)久しくして曰く、子(し)當然(たうぜん)の道を失ひたり。我今其(そ)の道を告げん。道理を聞きて然る後、金(きん)を借らん歟(か)。先づ金(きん)を借りて後に道理を聞かん歟(か)如何(いか)ん。菅子(すがや)曰く、某(それがし)先生の教を受くること久し。何ぞ金(きん)を得て、然る後道を求んや。願くは夫(そ)れ示教(しきやう)を聞かん。先生曰く、嗟呼(あゝ)子(し)過(あやま)てり古語に曰く、進而思盡忠退而思補過(進んで思ひを尽くさんことを思ひ、退いて過ちを補わんことを思ふ)と、是れ人臣の常道にあらずや。子(し)重恩の君に逐(お)はれ、自から過ちなしとして其の過を國(く)に歸し、更に悔ゆるの色なし。夫れ忠臣の行ひ、國(くに)に幸福(かうふく)あれば其の幸福を共にし、憂患あれば又其の憂患を同じくし、國家(こくか)を憂ひ、下民(かみん)を憐むこと何ぞ身の進退に由らんや。進みて憂ふるもの退く時は、其の憂ひ必ず十倍するもの忠臣の心なり。子(し)烏山の大夫(たいふ)となり、其の政(まつりごと)を執(と)りて其の國(くに)の憂を除くことあたはず。又其の民を安んずる事あたはず。申の大凶に至り、飢民罪なくして死亡を免れざるもの數千人、子(し)百計之を救ふの道を得ず。何の縁由もなき我に救荒(きうくわう)の道を請ふといへども、我之を救ふべきの職にあらず、故に再三辭(じ)すれども、子(し)歎談(たんだん)止まず。誠に民を憐み、國(こく)を憂ふるなりと思ひ、肺肝(はいかん)を碎(くだ)き、救荒(きうくわう)の道を施し、繼(つ)いで國家興復の道を求るが故に萬苦を盡し、興復の政(まつりごと)を示したり。是何の爲ぞや、子(し)の忠心を感じ共に心力(しんりょく)を盡(つく)せしにあらずや。祖先以來幾百年君となり、臣となり又大夫となり、君恩を受くること泰山(たいざん)の高きも比(ひ)し難(がた)き子(し)の身として、用ゐらるゝ時は國(くに)を憂ひ、用ゐられざる時は漠然)ばくぜん)として顧みず、君を非とし、臣下を怨み、他邦にありて其の國(くに)の危難を度外に置かば、何の恩もなく縁もなき我等何の爲(ため)に數千金をナゲウち烏山の民を救ひ、其の土地を開き、上下(じやうげ)永安の道を施すの理(り)あらんや。恩もなく縁もなき我をして烏山の爲に心力を盡(つく)させ、大恩(だいおん)を受けたる君臣の義深き子(し)は身退くが爲(ため)に國家の憂を顧みざるものは亦何の心ぞや。今烏山不幸にして國家(こくか)再盛疑なきの道を廢し、子(し)を退けたりと聞しより以來、烏山上下の爲に憂勞(いうらう)して更に寢食を安んぜず日夜烏山候の過を悔い再び國民を愍(あはれ)み衰廢(すゐはい)の憂を除き、上(かみ)は忠孝を全くし、下(しも)は國人を安んじたまはんことを祈るの外他念なし。先生は、黙ってしばらく考えられてからこう言われた。「あなたは、当然の道を失っている。 私は今その道を告げよう。 道理を聞いてその後に金を借りるか。 まず金を借りて後に道理を聞くか、どちかにするか。」菅谷は言った。「私は先生の道を受けて久しくなります。 どうして金を借りてその後に道を求めましょうか。 願わくば、教えをお聞かせください。」先生はこう言われた。「ああ、あなたは過ちをおかしている。 古語(孝経)にこう言う。 「進んでは忠を尽くさんことを思い、 退いては過ちを補わんことを思う」と。 これは人臣たる者の常道ではないか。 あなたは、重恩の君に放逐されていながら、自分には過ちはないとして、国が悪いとして、更に後悔する色がない。 忠臣の行いは国に幸福があれば、その幸福を共にし、 憂患あればまたその憂患を同じくし、国家を憂い、人民を憐れむことは、どうしてわが身の進退によって異なることがあろうか。進んで憂える者が退く時は、その憂いは必ず10倍するというのが忠臣の心である。あなたは烏山藩の家老となり、その政をとってその国の憂いを除くことができなかった。またその民を安んじることができなかった。天保の大飢饉に至って、飢えた民が罪もなく死亡を免れない者が数千人でるところであった。あなたは百計手を尽くしたが救助の道が見つからなかった。何の縁もゆかりもない私に救助の道を請われた。しかし私はこれを救う職務にはないと再三断った。しかしあなたは強いて嘆いて談じて止まなかった。誠に民を憐れみ、国を憂えていると思って、私は肺肝を砕いて、救助の道を施したのである。継いで国家再興の道を求められたので、万苦を尽くして復興の政治を示したのではなかったか。これは一体何のためか。あなたの忠心を私が感じてともに心力を尽くしたのではなかったのか。祖先以来幾百年と君となり、臣となり、また家老となって、君恩を受けることは泰山の高さも比べがたい身ではないか。国に用いられる時は国を憂い、用いられない時は、漠然として国を顧みず、君に非があるとして、臣下を怨んで、他国にあって、その国の危難を関係ないとするならば、何の恩もなく、縁もない私たちはいったい何のために数千両をなげうって烏山の民を救い、その土地を開いて、上下ともに永久に安泰する道を施す道理があろうか。恩もなく縁もない私をして烏山のために心力を尽くしている。大恩を受け、君臣の義が深いあなたが、身を退いたために国家の憂いを顧みないということは、またいったいどういう心か。今、烏山は不幸にして国家再生が疑いない道を廃して、あなたを退けたと聞いてから、私は烏山の上下のために心配してさらに寝食を安んじなかった。日夜烏山候の過ちを後悔して、再び国民を憐れんで衰廃の憂いを除いて、上は忠孝を全くし、下は領民を安んじたもうことを祈るのほか他念なかったのだ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.30
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる先生遙(はるか)に櫻町に在りて此の事を聞き、大息(たいそく)して曰く、嗚呼(あゝ)烏山興復(こうふく)の時未だ至らざる歟(か)、圓應(えんおう)既に没し、今菅谷を殘(のこ)せり。此の人辭恩(じおん)の道を全(まつた)くせば、興復の道此(こ)の人に依りて存(ぞん)すべし。辭恩(じおん)の道を行はざるときは人菅谷を進退(しんたい)せん。何ぞ大業(たいげふ)を遂ることを得んや。世人の毀譽(きよ)に由りて心を動かし、行(おこなひ)を變(へん)ずるもの、共に道を行ひ難し と云へり。果して天保某年に至り仕法を廢し、分度を破り、開墾撫育の用度たる二千苞(ぺう)を取りて之を国事の當用(たうよう)に費し、菅谷を放逐して他邦(たほう)に退かしめ、領中に令(れい)して諸民櫻町に至ることを禁じたり、菅谷妻子を具し、他領鴻の山(こうのやま)村里正(りせい)十郎右衛門(じうらうゑもん)なるものゝ家に移り、之に寓(ぐう)して讒(ざん)者の無道を怨みたり。翌年二月菅子(すがや)忽然として櫻町に至り、先生に請(こ)ひて曰く、余不幸にして放たれたり。國家(こくか)の道なきを如何せん。忠を盡(つく)して讒者(ざんしゃ)の爲に放たるゝもの古今(ここん)少からず、又何をか悔(くい)んや。我が身は鴻の山の里正某(ぼう)舊識(きうしき)あり。故に食客(しょくかく)となれば道路に立つの憂(うれひ)なし。唯(たゞ)歎くべきは我が弟(おとゝ)某(ぼう)なるもの盲人にして江都(かうと)にあり。琴瑟(きんしつ)を教ふるを以て業(げふ)とし、活計(くわつけい)の憂なかりしが、幕府天下の侈奢(ししゃ)を制し、善政を布(し)かせ玉ふより以來、琴瑟を學ぶもの少くして活計頓(とみ)に窮す。我其の費用を與(あた)へて生養(せいやう)せしめたり。豈(あに)圖(はから)んや今罪なくして放逐せられ浪々の身となり、盲弟を補助するの力なし。我助けざれば彼生養の術(じゆつ)盡(つき)ん。斯(こ)の如く窮するもの僅(わづか)に二十金の借債あるが故なり。此の借債なき時は技藝(ぎげい)の門人少しといへども、君より受くる所の扶持(ふち)を以て活計(くわつけい)を爲すべし。冀(こひねがは)くは先生我が弟を憐み二十金を貸し給はらば、厚意の恩賚(おんらい)忘るべからずと云ふ。尊徳先生は、菅谷が一旦辞退し仕法金に参入した禄米を再び受けて、桜町からの贈米を断ったことを聞いて、大きなため息をちてこう言われた。「ああ、烏山領の復興の時は未だいたらざるか。 円応和尚はすでに没して、今菅谷を残すばかりだ。 菅谷が辞恩(禄を辞退する)の道を全くすれば、復興の道はこの人によって存したことであろう。 辞恩の道を行わないときは、人が菅谷を進退せしめよう。 どうして大業を達成することができようか。 世間の人の毀誉褒貶によって心を動かし、行いを変ずる者とは共に道を行うことは困難である。」 はたして天保10年12月に仕法を廃し、分度を破り、開墾及び人民救助用に用意していた二千俵をとって、藩政の当面の用途に費やした。 菅谷は12月17日付けで役職を辞退したが、25日には隠居を申し付けられ、相続人半蔵へ百石を給せられた。 さらに天保11年12月には烏山藩から放逐された。 隠居させたにも関わらず、桜町や小田原にたびたび赴いていることを藩政への不満ととらえられ、「上をあなどり、重ね重ね不埒であるから、永くお暇を下しおかる」ということで「烏山藩内や屋敷の近隣へ徘徊することを堅く禁ずる」というものであった。 菅谷は報徳の同志大野恕助の甥にあたる鴻巣村の名主、郡司十郎右衛門の家に移った。 そして天保12年7月14日に桜町に来て、藩政の無情を怨むとともの、盲目の弟のために20両の借財を先生に申し出たのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.29
報徳記 巻之三【6】(2)烏山仕法中廃菅谷放逐せらる烏山仕法の初めに當(あた)り、先生菅谷に諭(さと)して曰く、古(いにしへ)より國(くに)の爲に力を盡(つく)すもの、往々(おうおう)其(そ)の事を遂ぐるあたはず、中道(ちゅうだう)にして讒人(ざんにん)の爲(ため)に廢(はい)せらる、豈(あに)讒人(ざんにん)のみの罪ならんや。忠臣も亦(また)其の身を處(しょ)すること至らざるが故なり。何となれば、國(くに)の衰廢(すゐはい)艱難に當(あた)りて之を興し、之を安んぜんとするもの、何ぞ平常のものと共に其の禄を食(は)み、其の身を安んじて國(くに)を興すの理あらんや。自(みづか)ら禄位をナゲウち、之を國家(こくか)再興の入費に加へ、其の身國中(こくちゅう)第一の貧者(ひんしゃ)となり、終身の苦を盡(つく)し、上下(じょうげ)の爲に千萬(まん)の勲勞(くんらう)を盡(つく)す時は、一藩之を視(み)て恩禄を不足なりとするの卑心(ひしん)忽(たちま)ち消(せう)し、領民之を見て飢寒の苦をも當然(たうぜん)なりと覺悟(かくご)し、唯(たゞ)自ら國(くに)の爲に力を盡(つく)すことの足らざるをのみ憂ふるに至らん。一國(こく)の人情是(かく)の如くならば、何の大業(たいげふ)か成(な)らざらんや。假令(たとひ)其の身の智足らずして過ちありと雖も、無禄にして萬(まん)人に先立ち、國の爲に心力(しんりょく)を盡(つく)せるの勲勞(くんらう)は、讒人(ざんにん)と雖も之を廢(はい)することあたはず。是大業を成し其の終りを遂ぐるの本原(ほんげん)なり。惜哉(をしいかな)、古人といへども此の道を蹈(ふ)まず。是を以て奸人(かんじん)の讒言(ざんげん)を免れざるなり。子(し)今國家(こくか)の興復を遂んとせば、必ず其の禄を辭(じ)し、無位無禄にて忠義を盡(つく)すべし。然らざれば賢人猶(なほ)あたはざるの大業を平人にして成さんとす。其の成功の難(かた)き知る可(べ)きのみ。然りといへども家族あり、俄(にはか)に恩禄を辭(じ)せば飢亡(きぼう)を免れ難し、烏山の出納(すゐたふ)に與(あづか)らざる米粟(べいぞく)、我より之を贈り、子(し)の活計(くわつけい)を爲さん。此の道を蹈(ふ)むことあたはざる時は、良法を發(はつ)するも何の詮(せん)かあらんや と諭(さと)せり。菅谷大いに感じ烏山に歸(かへ)り、祖先以來の禄百五十石を辭(じ)したり。君之を領中再復の用度(ようど)に加ふ。先生之を聞き、其の禄に換はるの米粟(べいぞく)を送り、菅谷奉仕の入費に充(み)つ。而(しか)して常人何ぞ此(こ)の如き深理を知らん、知らずして人を謗(そし)るは凡庸の常也。是(これ)に於(おい)て人々菅谷を誹謗(ひぼう)して曰く、笑ふべし、大夫(たいふ)菅谷恩禄を辭(じ)して二宮の扶助(ふじょ)を受けたり。大夫は一國(こく)の仰ぎて其の指揮に隨(したが)う所なり。君禄を受くればこそ大夫なり、臣なり。其の禄なくんば流浪人(るらうにん)と何ぞ異ならん。今、二宮の扶助(ふじょ)を以て一家を立つ、是二宮の家來(けらい)なるべしと嘲(あざけ)る。菅谷之を聞き歎(たん)じて曰く、恩禄を辭(じ)し興復の道を行ふ時は人(ひと)之を感じ、人も亦之に則(のっと)り、一藩皆禄を辭(じ)すること能(あた)はずと雖も、禄扶持(ろくふち)の不足を憂ふるの卑心(ひしん)を消(せう)し、良法其の終りを遂(とげ)んと思ひ先生の教に隨(したが)ひたり。豈(あに)圖(はか)らんや、人情此(こ)の如くにして、却(かへ)って誹謗談笑して我を輕侮(けいぶ)せんとは。此(こ)の如くなる時は、禄を辭(じ)して仕法に益なきのみに非ず、其の害少なからず、止(とゞむ)るには如(しか)ざる也(なり)と、先生に問はずして又其の禄を受け、先生の贈米(そうまい)を辭(じ)せり。是(これ)菅谷一世の過(あやまち)にして、烏山の仕法中廢(ちゅうはい)の根元(こんげん)なり。烏山の仕法を始めるに当って、尊徳先生は家老菅谷八郎右衛門にこう言われた。「昔から国のために力を尽くす者がいるが、往々にしてその事を成し遂げることができない。 道半ばにして、讒言する者によって廃除される。 これは讒言する者の罪だけではない。 忠臣もまたその身を処することが至っていないためである。 なぜかといえば、国の衰廃艱難にあたって、これを興し、これを安んじようとする者は、どうして平常の者とともにその禄をはみ、その身を安んじて国を興すことができる理があろうか。 自ら禄位をなげうって、これを国家再興の入費に加えて、その身を国中の第一の貧者となる。そして、その身を終るまで苦しみを尽くして、上下のために千万の勲労を尽くすときは、一藩これを見て恩禄を不足だとする卑しい心がたちまち消える。領民もこれを見て飢えや寒さの苦しみを当然だと覚悟し、ただ自ら国のために力を尽くしていないことを憂うようになるであろう。一国の人情がこのようであれば、どのような大業もなしとげることができる。たとえその身の知恵が足らずに過ちがあったとしても、無禄で万人に先立って、国のために心力を尽くしている勲労は、讒言する者にもこれを廃することはできない。これが大業を行って、その終りを遂げる本源にほかならない。惜しいことに、古人もこの道を踏まずに、讒言を免れなかったのだ。あなたが今一藩の復興を遂げようと思うならば、必ずその恩禄を辞して、無位無禄で忠義を尽くしなさい。そうでなければ賢人ですらなお為しがたい大業を平凡な人間が成功することは難しいであろう。そうはいっても家族もある。すぐに恩禄を辞せば、困窮してしまうであろう。烏山の財政に関わらない穀物を私が贈ってやるから、それであななの生計をたてよ。この道を踏むことができなければ、良法を発しても仕方があるまい」と諭された。菅谷は感銘を受けて、先祖以来の禄150石を辞して烏山復興の入費にあてた。尊徳先生はそれに代わる穀物を贈って、菅谷の入費にあてた。ところが烏山の人々は菅谷を誹謗して、家老ともあるものが恩禄を辞して二宮の扶助を受けるとは笑うべきだ、まるで二宮の家来だと嘲笑した。菅谷はこれを聞いて、恩禄を辞して烏山復興の入費にあてれば、烏山藩士が分度確立によって恩禄が不足するようになったという卑しい心が消えるかと思ったら、かえって私をあざけり軽侮する、これでは禄を辞した甲斐が無いと尊徳先生に聞かないで勝手に禄を受けて、尊徳先生から贈られてきた贈米を断った。これが菅谷の一世の過ちであり、烏山の仕法が中途で廃止した根元である。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.27
報徳記 巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる烏山領中の衰廢(すゐはい)上下(じやうげ)の艱難極(きは)まれり。先生の丹誠良法を以て、申(さる)の大飢(たいき)に當(あた)り飢渇の民を救ふこと數千人、百年の廢地(はいち)を擧(あ)ぐること貳(に)百貳拾(にじゅう)四町歩(ちやうぶ)、餘分外の米粟(べいぞく)を生ずること貳千苞(べう)、兩(りょう)三年にして是(こ)の如く國益顯然(こくえきけんぜん)たれば、上下(じやうか)艱難の時に隨(したが)ひ、國家の再興を待たば、舊復(きうふく)の道成就せんこと十年のうちにあり。然るに天性寺圓應(えんおう)忽然(こつねん)として寂(じやく)し、菅谷一臂(ぴ)を失ひたるが如く大息せり。仕法の道是より衰弱に赴けり。凡そ奸人たるもの、善道盛んなる時は其の意に阿諛(あゆ)して力を盡(つく)すが如し。少しく其の隙あるを見れば、之に投(とう)じて善道を破り、忠臣を妨害すること至らざる所なし。是(これ)和漢古今小人(せうじん)の常なり。 圓應既に没し、菅谷一人の指揮足らざる所あるを見て讒言(ざんげん)を入れ、上(かみ)君の心を惑わし、下(しも)國民の目を暗(くら)まし、仕法の爲に一藩艱難に迫れりと唱へ、藩士を煽動し、遂に仕法を廢(はい)し、開田貳百貳拾四町の出粟(しゅつぞく)貳千苞(ぺう)を分内へ入れ、目前の艱苦を補はんことを謀(はか)り、突然として菅谷某(ぼう)を放逐し、分度を破り、良法を廢(はい)せり。 天保の大飢饉にあたって、尊徳先生は天性寺の境内に救助小屋12軒を建て、桜町から穀物を荷車に載せて運び込み救助にあたった。烏山の領民は驚き、穀物を運ぶ車を礼拝したと伝えられる。 天保7年12月25日までには米252俵を送り、桜町からの穀物の輸送は年を越えて増加し、翌年の天保8年5月、麦が実って焚き場を閉鎖するまで約半年に米243俵、ひえ234俵、種もみ171俵余に及んだ。 尊徳先生は救助小屋で飢えた人々に粥を与えるとともに、開発仕法を行って壮健な者は開発に従事させて通常より高い賃金を与え、自主的な再建を促した。また、勤労意欲を増すため、農業に精を出す者を記名投票で選挙させ、投票の多かった順に開発資金を貸与したり、鍬などを与えたりした。烏山の領民はそうした救民開発を目の当たりにして良法であることが分り、尊徳先生に本格的に仕法を実施することを要望した。尊徳先生は当時小田原領内の飢饉救済にあたり、また仕法も手広くなっていたことから再三断られた。「烏山候二万石において足らないのはなぜか。 これ一つに財政上の節度がないためである。 天命の示すところに安んじてこの艱難を常とする覚悟がなければ国の衰廃を興すことは不可能である。 烏山は烏山の分を守り、艱難に安んじて国民を恵み、その廃亡を興すのみである。」 菅谷その他は、上下一致してこの道を守ることを誓い、尊徳先生はやむをえず烏山10ヵ年の租税を調査し、その分度を確立して、再建策を作った。当時、大阪詰めとなっていた烏山の藩主は喜んで謝意を表する直書を桜町に送った。「野州領分の儀、年来衰廃、別して昨年の儀は天災凶作にて、窮民とも飢渇に及ぶべきところ、救助の儀重々手あてこれあり、一人も飢えることなき段、全く善種回され候ゆえと厚意実に紙表に謝しがたきかたじけなく存じ候。まさに今般菅谷八郎右門大阪に登り仕法の諸帳面を持参し一覧を遂げ候。荒地帰発初、報徳の道開け、この分にては遠からず復古の基建つべしと悦び候。・・・10月26日」 こうして仕法の成果は着々とあげつつあったが、円応和尚と菅谷は厚木の烏山領内にも仕法指導にも赴き、かの地で流行病にかかり、菅谷は回復したものの、円応和尚は亡くなった。 天保9年は豊作であったが、仕法で土地が開け、豊作で分度外の収入が多いとあって、藩政の中で緊縮財政を続ける必要はない、分度生活は必要ないという声が高まってきた。 天保10年12月江戸から大石総兵衛、大塚孫八郎両名が烏山に直書をもてきたって重役会議を開き、仕法廃止について協議した。その内容は「二宮は小田原へ引き移るから諸方の仕法を謝絶するというからやむを得ない事情だから仕法を断る」というものであった。反論も出たが直書のもとに仕法謝絶が決まり、17日付けで菅谷は役職辞退を申し出た。12月25日に隠居を申し付けられたのであった。菅谷はその後もしばしば桜町に往来したが、藩政は疑いの目をもってその行動を監視し、天保11年12月11日ついに菅谷は放逐されたのであった。「その方儀一昨年中御咎め仰せ付けられ、さる11中慎み御免せられ候ところ、直に他行望み候につき、内々心付け申し達し候えども用いず桜町へまかり候、これにくわえ一応の願いもこれなく御府内へまかり出で、小田原表にも暫時まかりあり、かねがねの御規定も破り・・・」とその行状が不埒であるから永く御暇を下すから早々に引き払えというものであった。 菅谷はやむをえず、鴻巣村の名主、郡司十郎右衛門の家に移り、天保11年を送った。 天保12年7月14日に桜町に来たって、その不満を先生に訴え、盲人の弟のため20両の借金を申し込んで、先生の説諭を受けることとなるのである。(「二宮尊徳傳」(佐々井信太郎)より)「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.27
報徳記巻之三【5】先生烏山天性寺円応和尚の寂するを歎ず 先生之を聞きて大(おほい)に歎じて曰く、嗟呼(あゝ)烏山の事廢(はい)せる歟(か)。圓應(ゑんおう)誠心(せいしん)を盡(つく)して、國家再復の道起れり。今、我が言を用ゐずして没せり。豈(あに)一人の不幸ならん。烏山一國の不幸なり。始め厚木に至らんとする時、我頻(しきり)に之を止めたり。兩人(りやうにん)の意(い)、厚木の富人(ふじん)に説諭し、財を出さしめんとするにあり。彼等(かれら)國君(こくくん)の仁に感じ、貧民救助の志(し)を發(はつ)し、烏山に來(きた)りて其の道を求めば、是其の時を得たるなり。未だ其の時節に至らずして、是より往きて説諭するもの、豈(あに)是(これ)仕法の仁術ならんや。我が言に隨(したが)ひ彼(かの)地に往(ゆか)ずんば、此の憂なからん歟(か)。然りといへども、烏山興復の時至らざるの爲す所か。一人の進退に依りて大道興廢(こうはい)す。如何(いかん)ともすべからず。菅谷猶(なほ)存せり。興復の道絶えたるに非ず。然して圓應と菅谷とは車輪の如し、今忽然として其の一輪を欠く、奚(いづくん)ぞ仕法の盛行を望まんや と、愁歎止まず。尊徳先生は亡くなるとき、弟子達を呼ばれてこう言い残された。「鳥のまさに死なんとするやその鳴くや哀し 人のまさに死なんとするやその言や善し 慎めや小子 速やかならんと欲するなかれ 速やかならんと欲するときは大事を乱す 勤めよや小子 倦むことなかれ」 急がず厭きることなく、水が上の田を満たしてのち、下の田に順々に行き渡るように自然の理にしたがって進めてまいろう。 円応和尚が亡くなったのを聞いて、尊徳先生は大変嘆かれた。「ああ、烏山の事廃せるか。 円応和尚が誠の心を尽くして烏山藩の再復の道は起った。 今、私が言うことを用いないで亡くなった。 これは一人の不幸ではなく、烏山一藩の不孝である。 始め厚木に行こうとする時、私はしきりに止めた。 二人の意図は、厚木の金持ちに説いて、資産を出させようとすることにあった。彼らが君主の仁に感じて、貧民を救助しようと志を発して、烏山に来てその道を求めるならば、この時こそ時を得たものというべきである。未だその時期に至らないのに、こちらから行って説くことがどうして仕法の仁術であろうか。私の言にしたがって厚木に行かなければ、この憂いはなかっであろう。しかしながら烏山復興の時がいたっていないということであろうか。一人の進退によって大道が興廃する。どうにもすることができない。菅谷がまだ存している。復興の道が絶えたわけではない。しかし円応和尚と菅谷は車輪のようであった。今忽然としてその一輪を欠いてしまった。どうして仕法が盛んに行われることを期待できよう」と嘆かれたのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。(3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに言えれば、自然とそのとおりになる可能性が高まる。
2023.07.26
報徳記巻之四【五】中村玄順細川候の内命を以て野州櫻町に至る是(こゝ)に於て此の由を令す。大夫(たいふ)其の命を受け、玄順を呼びて之を命ず。玄順悦びて直ちに野州櫻町に至り、先生に見(まみ)えて曰く、某(それがし)不肖にして國(くに)の大事を措(お)き一己(こ)の細事を請ふ。先生某(それがし)を憐み教ふるに大義を以てす。某(それがし)自ら悔い、志を立て以て君に忠を盡(つく)さんとす。内に誠あれば外に形(あらは)るゝの古言宜(むべ)なる哉(かな)。我君(きみ)既に某(それがし)の志願を察し、尋問するに國事(こくじ)を以てす。某(それがし)對(こた)ふるに云云(うんぬん)を以てせり。主君大いに先生の高徳を慕ひ之を仰ぎ、速に國家を委ね興復の政(まつりごと)を任ぜんと欲す。然りと雖も一藩の人心放肆(ほうし)士風を失ひ、公事を後にし、私曲(しきょく)を先にし、偶々(たまたま)忠義に志あるものは速にこれを黜(しりぞ)け、日々他の財を借りて目前の費用に充てんとするのみ、君家(くんか)の借債既に十萬(まん)金を超え、領地の租税は年々に減ず。宗家細川家本末の由緒を以て、連年財を出し、之を助力すること其員數(ゐんすう)已(すで)に八萬金也と云へり。然して貧困年毎に迫れり。宗家も之を救ふの術なしとし、柳原の大土浮(どぶ)と唱ふ。其の意何萬を入るゝといへども更に益なきことを比したりといへり。人情次第に輕薄に陥り、人の善事を妨げ人の悪事を悦ぶ。今幣政を改め國家を再盛するの大業を發(はつ)せんとせば、群臣異議囂々(ごうごう)其の道を疑ひ、諸人の心を惑はし、之を妨げんこと必(ひつ)せり。當君(たうくん)既に老いたり。養君頗る仁心ありて且(かつ)才智ありと雖も未だ家を繼(つ)がず。政令一人に出(い)づることあたはず。然して卒爾(そつじ)に此の大業(だいげふ)を發(はつ)せんとせば、群臣不服の爲に敗に及ばんことを憂ふ。是(こゝ)に由(よつ)て此の憂ひを生ぜず、自然諸臣の心を服せしめ、此の道を開かんことの良策を私(ひそ)かに往きて先生に請ふべしと命ぜり。先生主人の心勞(しんらう)を照察し、一言(げん)の教えを施し玉はば、主家(しゅか)上下(しやうか)の大幸(たいかう)何事か之に如かんやと辯(べん)を振ひて演舌(えんぜつ)す。先生細川候の憂慮を察し、其の艱難の情を憐み、玄順に謂ひて曰く、我(われ)小田原の臣として外諸侯の政事を談ずる事あたはず、況(いは)んや何の由来ありてか其の委任に當らんや。然りと雖も君明らかにして仁心あり、而して民其の澤(たく)を蒙ることあたはず。遂に上下(しやうか)の極窮(ごくきゆう)に至る、豈(あに)歎ぜざる可(べけ)んや。已(や)むを得ずんば我一言を呈せん。夫れ國(くに)の衰亂(すいらん)に瀕するもの其の國(くに)の分度明らかならずして入るものを貪り、出財制なく用費度なきが爲に多分の不足を生ず。猶自ら省みず節儉(せつけん)を守ること能(あた)はず。他の財を借り、或は領民を絞り先納を奪ひて以て其の不足を足す。連年是(こ)の如くして益々窮し、國民其の君の不足を怨み、或は離散し或は農事を廢(はい)し末利に走り、國土之が爲に荒蕪となり、租税彌々(いよいよ)減じ上下(しやうか)の艱難窮る。是に於て奉仕の道を失ひ一藩を扶助するの米財無し。士風卑陋(ひろう)薄情に流れ、毛弗(わづか)の利を爭(あらそ)ひ曾(かつ)て忠義の何物たるを知らざるに至り、上下(しやうか)危きこと累卵の如し。此の禍何に由(よつ)て生ずるや、唯國に分度立たざるの過(あやまり)なり。國に分度なき時は幾萬の財を入るゝといへども、破桶(はとう)に水を入るゝが如く一滴も保つこと能(あた)はず。今子(し)の君家(くんか)極難なりと雖も、明(あきらか)に分度を立て節度を守り仁術を行ふ時は、國(くに)の興復難しとせず。我朝(てう)神代(しんだい)の昔(むかし)豊葦原(とよあしはら)たりし時、何ぞ開田米粟(べいぞく)あらん、何ぞ金銀財宝あらんや。天祖の御丹誠を以て此の葦原を開き玉ふより、海内(かいだい)是の如く豊饒(ほうぜう)繁榮の國(くに)と成れり。然らば此の大道を以て國の廢衰(はいすゐ)を擧(あ)げんに、何ぞ開闢(かいびゃく)以來葦原を開き玉ふが如きの難きことかあらんや。今四海豊富の時に生れ、古の艱難を顧みず専ら奢侈に流れ、節儉(けん)の道を廢(はい)し、安逸を主とするが故に、衰弊(すいへい)立どころに至る也、世の弊風を革(あらた)め、本原(ほんげん)の道に立歸らざれば百計を盡(つく)すと雖も、何ぞ國(くに)の衰亡を補ふに足らん。却(かへ)りて其の廢亡(はいぼう)を促すのみ。我が此の土地を興復せしは則ち此の大道を以てせり。子(し)君臣心を斯(こゝ)に用ゐ、力を盡(つく)さば、何ぞ衰國の興らざることから之あらんや。然して諸臣下(しょしんか)の妨(さまたげ)あらんことを憂ふ。是も亦其の道明らかならざるが故なり。今國家再復永安の道を明かに調べ是の如くする時は、國(くに)盛(さかん)に民安く、是の如くせざれば國(くに)益々窮し亡滅に至らんと。兩道(りやうだう)を以て明かに群臣に示し、何の道に隨(したが)はんと問ふ時は如何(いか)なる侫臣(ねいしん)邪曲の者ありとも、坐(ゐ)ながら國家の滅亡を待たんと云うものはあるべからず。必ず一同再盛安堵の道に依らんと云うべし。其の時に當(あた)り群臣の言(げん)に任せ改正して仁術を行はゞ、其の本(もと)君意に出(い)づるといへども其の行はんとするのは群臣の望みに應(おう)じたるが故に、内心仁政を忌むの族(やから)ありとも一旦此の道を行はんと云ふて直ちに其の妨害をなさば、徒(いたづら)に其の身の刑罰を招かんのみ。至愚(しぐ)のものと雖も豈(あに)之を爲さんや。是れ君意に出(い)づればことを成し難き時は、君意(くんい)をして群臣の冀望(きぼう)に歸(き)し、其のことを遂ぐるの道なり。何(なに)の憂ふることか之あらんやと教ふ。辰十郎君はそこでそのことを、命じられた。家老はその命を受け、玄順を呼んで命令した。玄順は喜んですぐに野州にいたり、先生に面会して言った。「私は愚かで国の大事をさしおいて自分ひとりの細事をお願いしました。先生は私を憐れみ教えるに大義をもってされました。私は後悔して、志を立て主君に忠義をつくそうとしました。『内に誠あれば外にあらわる』という古言はもっともなことです。私の主君はすでに私の志願を察して尋問するに国事をもってしました。私は答えるに先生の事跡とお教えを申し上げました。主君は先生のご高徳を慕い仰ぎ、すぐに国家をゆだね、復興の政治を任せようと願っています。しかし、藩の人心は士風を失って、公の事を後にし私曲を先にして、たまたま忠義に志がある者があってもすぐ退けられてしまいます。日々に他の財を借り目前の費用に充てるのみで、主君の借財はすでに十万両を超え、領地の租税は年々減少しています。宗家の細川氏は本末の由緒をもって毎年財産を出して、助力することその総計で8万両になります。貧困は年毎に迫り、宗家も救う方法もなく、柳原の大ドブといわれるほどです。その意味は何万両をいれても更に益がないことにたとえたものです。人情は次第に軽薄に陥り、人の善意を妨げ、人の悪事を喜びます。今、政治を改め、国家を再盛するの大業を発しようとすれば、群臣は異議を申し立て、その方法を疑い、妨げようとすることは確実です。当君はすでに年老い、養子としてこられた君は大変仁心があり、かつ才智ありといってもいまだ家を継いでおりません。命令が一人から出ることができません。そして軽々しくこの大事業を行おうとすれば、群臣は不服を唱え、失敗に及ぶかもしれないことを憂慮しています。この憂いを生ぜず自然と諸臣の心を服さしめ、この道を開くための良策を、ひそかに先生のもとに言って聴いてくるようにと命じられました。先生わが主君の心労をよく察せられ、一言お教えください。主家上下の幸いはこれに及ぶものはありません。」先生は細川候の憂慮を察し、その艱難の実情を憐れんで玄順にこう言われた。「私は小田原藩の臣として、外の諸侯の政治を談ずることはできません。まして縁もゆかりもなくてどうしてその委任にあたれましょう。しかし、君が名君で仁心があり、そして民がその恵沢を受けることができず、ついには上下とも困窮の極みに至ってしまう、どうして歎かずにおられましょう。やむを得なければ、私は一言だけ述べましょう。それ国の衰えや乱れに瀕するものは、その国の分度が明らかでなく、入るものを貪り、出財に制限がなく、費用に基準がないために多くの不足を生じるのです。なお自ら反省することなく、節倹を守ることができず、他から借金し、あるいは領民を絞りとって来年納めるべきものを奪ってその不足を足す。毎年このようにしてますます困窮し、国民はその君主の不足を怨み、あるいは離散し、あるいは農事を廃し、瑣末な利益に走り、国土はこのために荒れ果て、租税はいよいよ減じて上下の艱難が窮まるのです。ここにおいて士として奉仕する道を失い、一藩を扶助するだけの米や財がない。士風は卑しくおちて薄情に流れ、わずかの利を争い、忠義が何ものかを知らないようになり、上下が危ういこと累卵のようだ。この禍は何によって生じたのか、ただ国の分度が確立しなかったがための過ちである。国に分度がないときは、幾万の財を入れても、破れた桶に水を入れるようなもので、一滴も保つことができない。今、子の君家は極難であるといっても、明らかに分度を立てて節度を守り、仁術を行う時は、国の復興は難しくはない。我が国は神代の昔は一面の葦原であった時、どうして開田し米や粟があろう。どうして金銀財宝があろう。天祖のご丹誠を以てこの葦原を開かれたから、日本中このように豊かで繁栄した国となったのです。そうであればこの大道をもって国の廃衰を挙げるのに、どうして開闢以来葦原を開かれたような困難がありましょうか。今、四海豊富の時に生まれて、昔の艱難を顧みずに専ら贅沢に流れて、節約の道を廃して、安逸を主とするために、衰え弊害に陥るのです。世間の過った風儀を改めて本来の道に立ち返らなければ百計を尽くしたとしても、どうして国の衰退を補うことができましょう。かえってその廃亡を促すだけです。私がこの土地を復興するのは、すなわちこの大道を用いている。君臣が心をここに用いて力を尽くすならば、どうして衰えた国も復興しないことがありましょう。そしてまた多くの臣下が妨害することを憂慮されている。これもまたその道が明らかでないからです。今、国家の再復し永久に安らかになる道を明らかに調べてこのようにする時は、国は盛んに、民は安く、このようにしなければ、国はますます窮して亡滅するに至るであろう。この二つの道をもって明らかに群臣に示して、どちらの道に従うかと問うときは、どのようなへつらう臣や邪曲の者があろうとも、坐したまま国家の滅亡を待とうというものはあるまい。必ず一同が再び栄えて安心する道によりましょうというでしょう。その時にあたって群臣の言葉にまかせて政事を改め仁術を行うならば、その元は君意に出るといっても、その行おうとするのは群臣の望みに応じて行うのですから、内心仁政を嫌がるやからがいたとしても、いったんこの道を行おうといって、ただちにその妨害をすれば、いたずらにその身に刑罰を招くだけです。愚かな者であっても、どうしてそんなことを為しましょう。これが君意から出てなしがたいときは、君意を群臣の望みとして、これを成し遂げる道です。どうして憂慮することがありましょう。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.25
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す四人大いに驚き、始めて夢の覺(さめ)たるが如く、甚だ悦びて其の至教(しけう)を三拝し、速かに此の事を行はんと云ひて大磯に歸(かへ)り、四人談合するに、先生の前にありて教へを受くる時は、卑心(ひしん)消除(せうぢょ)し、大道了然たるが如しといへども、今家に歸(かへ)り案ずれば、再び凡情(ぼんじやう)の疑惑なきことあたはず。浦賀二人先づ家に歸(かへ)り、縁者にも此の事を談じ、然る後決すべしと云ひて浦賀へ歸(かへ)る。途中鎌倉に至り日既に暮れたり。時に降雨前路咫尺(しせき)を辨(べん)ぜず。某寺(それてら)の淡海和尚(たんかいおしょう)は時の名僧なりと唱(とな)へ、博學多識にして遠近(ゑんきん)其の徳を稱(しょう)す。宮原一族之に師とし事(つか)ふること久し。此の寺に宿(しゆく)し、明日(あす)歸(かへ)らんことを談じ二人至る。和尚出(いでて)て曰く、汝等日暮に及びて斯(こゝ)に至る事何の故ぞや。二人答へて曰く、大磯宿孫右衛門一家再復の道を二宮先生に請(こ)ふ。先生教ふる所(ところ)是(こ)の如しと具(つぶ)さに淡海に告ぐ。和尚大いに感歎すること良(やゝ)久しくして曰く、誠に尊き教へにして其の理無量なり。汝が心何と決するや。二人曰く、未だ決せず。家に歸(かへ)りて親族に談じ、然る後決せんとす。言未だ畢(をは)らず。和尚聲(こゑ)を勵(はげま)して曰く、汝等を教ふる久しと雖も、今此(こ)の如き至教(しけう)を得て、其の深理を了解する能はず。嗚呼(あゝ)愚(ぐ)なりと云ふべし。大(だい)なる善道を聞きて速かに其の道に進むことあたはず、家に歸(かへ)りて談ぜんとは何の事ぞや。汝等に於て猶(なほ)其の大理(たいり)を辨(べん)ぜず。俗人何を以て知ることを得ん。 嗟(あゝ)今の世に當(あた)りて此の如き大道理を以て人を教へ、至善を行はしむる大徳の人あらんとは思はざりき。止宿(ししゅく)せよと云はば汝の心に叶(かな)わん。然(さ)れども予(われ)一宿(しゅく)を許さず。早く家に歸(かへ)り事を決し、頃刻(けいこく)をも争ひ、大磯に至り其の道を行ふべし。我多年の好(よし)みを以て、今夜の止宿(ししゅく)を斷(ことは)るなり。是汝をして道に至らしめん事を願ふが故なり と。二人大いに畏(おそ)れ、雨中の夜行(やかう)艱難して家に歸(かへ)れり。 ここの鎌倉円覚寺の淡海和尚の教戒も報徳記の名場面の一つである。ああ、それにしても「先生の前にあって教えを受ける時は、卑しい心は消え除かれて、大道が了然としているようであるが、今、家に帰って考えれば、再び凡情の疑いや惑いがないわけにいかない。」とは何と身に痛い言葉であろうか。「パワーかフォースか」によれば意識のアトラクター・フィールドは1~1000で測定することができ、意識のレベルには磁石が引き合うような意識のフィールドあるいは位相空間がある(「アトラクターとは」P81~83)。つまり、こういうことであろうか、二宮尊徳先生の目の前にいるときは、先生の意識のフィールド(おそらくは700以上)に感応して人として踏み行うべき道がはっきりとしているのに、いったんそのアトラクターフィールドから離れ、自分だけの意識のフィールド(おそらく200未満、プライド(175)、怒り(150)や欲望(125)のレベル)に戻ってしまうということであろうか。そして淡海和尚の高い意識のレベル(500以上愛、喜び、平和)で教えを受けて、受容(350)または意欲(310)のレベルにあがったということになるのであろうか。しかしまあ、ここの淡海和尚の大向こうをうならせる言葉の痛快さよ!!○四人(宗兵衛、孫右衛門と浦賀の宮原屋與右衛門と清兵衛)は、先生の教えを喜んで、すぐにそのことを行おうと大磯に帰ったが、先生の前では卑しい心が消えうせて大道が明瞭だったのに、家に帰って考えると疑惑の念が起こってきた。浦賀の二人は家に帰って縁者にも相談しようと別れた。大磯から鎌倉に来た時には日はすでに暮れていた。雨が激しく降り、前途も見えないくらいである。円覚寺の淡海和尚は名僧として名高く、宮原一族も多くが師と仰いだ。ここは円覚寺に泊めてもらい明日帰ろうと寺に寄った。和尚が出てきて、「あなたたちはこんな日暮れにどうしたのか」と聞いた。二人は大磯宿の孫右衛門一家再興の道を二宮先生に伺ったところ、このようだったと告げた。淡海和尚は大いに感嘆すること、やや久しくしてこう言った。「誠に尊い教えでその理は無量である。なんじらの心はどう決したか」二人はまだ決めきれないで親族と相談して決断しようと答えた。言い終わらないうちに、和尚は大声で言った。「なんじらを教えて久しい。しかし、今このような尊い教えを聞いてその深い理を了解できないとは、何という愚か者か。大いなる善道を聞いてすぐにその道に進むことができず、家に帰って相談しようとはなんとしたことか。なんじらがその大理を理解できないのに、俗人がどうして理解できよう。ああ、今の世にこのような大道理をもって人を教え、至善を行わせようという大徳の人があるとは思わなかった。泊っていけといえばなんじらの心に叶おうが、私は一宿を許さない。すぐ家に帰って事を決し、一刻も早く大磯に戻ってその道を行うがよい。私は長年のよしみをもって、今夜泊るのは断る。これはなんじらをして道に至らしめようと願うからである」二人は大変恐縮して、雨の中しかも夜中苦労して家に帰った。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)💛山形市のI・Mさんから頂いたお手紙の中に「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあった。感銘を受けて、保存用にとって秘蔵していた 「ボーイズ・ビー・アンビシャス」シリーズの本を第1集から第4集まで 1冊ずつ送った。まことにお手紙に、「多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあるようにこれらの本一冊一冊が広く世に「信仰の友、友人」を超えて 「世に働き」ますようにと願う。
2023.07.15
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す流石(さすが)名高き淡海の一言(げん)を以て、彌々(いよいよ)二人意を決し、速かに親族に告げて再び大磯に至り、和尚の教へを以て孫右衛門に告ぐ。是(こゝ)に於て一同意を決し、殘(のこ)れる器財一物も餘(あま)さず之を鬻(ひさ)ぎ、五百金を得たり。即ち驛(えき)の長たる者に告ぐるに先生の示す所を以てす。驛(えき)長之(これ)を聞きて大いに驚き、爲(な)す所を知らず。暫く(しばら)之を預り衆人(しゅうじん)と談ず。諸人皆慚愧(ざんき)して昔時(せきじ)の憤怒(ふんど)消散(せうさん)して曰く、我等愚蒙(ぐもう)にして道を知らず。飢渇に苦しみて暴行を爲し、其の罪償ふに道なし。孫右衛門の如何(いか)なる怨(うらみ)を得るとも辭(じ)するに言葉なし。然るに今其(そ)の餘(よ)財を盡(つく)して我等が困苦を除くの一助とせんとす、彼(かれ)此(こ)の如きの誠心(まごゝろ)有りとも、我等何の面目(めんもく)有りて此の財を受くるを得んやと云ふ。驛(えき)長曰く、各々の言(げん)は是(ぜ)なりといへども孫右衛門非常の決心を以て此の金を出せり。受けずと云ふとも何ぞ再び之を入れんや。彼の信義に任せ處置(しょち)せんにしかず。予(われ)思ふに宿(しゅく)の爲(ため)に出す所の財(ざい)なれば、面々受けて無益に散ぜば彌々(いよいよ)其の誠意(せいい)を失はん。仍(よ)りて之を無利息年賦に貸渡し、貧窮のもの一家(か)を安んずるの用に充(あ)てん。然(しか)すれば年を經(へ)て驛(えき)内の艱苦を免れ、家々を保つことを得ん。然る後孫右衛門に恩を報ぜんことも難きにあらず如何(いかん)。衆人(しゅうじん)之を聞き大いに悦び、驛(えき)長の言に隨(したが)ふ。是よりして積年の怨憤(ゑんふん)氷解し、驛(えき)人の孫右衛門を信ずること父母の如く、争心(そうしん)消じて一家の親睦するが如し、孫右衛門も大いに悦び、彌々(いよいよ)艱難に安んじ節儉(せつけん)を守り、分に應(おう)じ賣売(ばいばい)す。又頗(すこぶる)る餘(よ)財を生ず。後(のち)官(くわん)大磯宿(おおいそしゅく)引立方(ひきたてかた)の策あらば驛人(えきじん)一人毎(ごと)に封書を以て告げよと命ず。先生之を聞きて曰く、孫右衛門禍轉(てん)じて福となるの時至れり。速かに又餘(よ)財を出し、驛(えき)内を引き立てんと請ふべし。此の時を失ふことなかれ。孫右衛門悦びて再び許多(あまた)の財を出して官(くわん)に告ぐ。官(くわん)大いに之を感じ、孫右衛門を呼びて褒詞(ほうし)を賜ふ。是より美名遠近(ゑんきん)に響き、其の名を聞き、其の人を慕はざるはなし。是皆先生高徳風化(ふうくわ)の致す所至れりと云うべし。後(のち)數(すう)年を經(へ)て孫右衛門漸々(ぜんせん)倦心(けんしん)を生じ、教へを廢(はい)し我意(がい)に流る。終(つひ)に昔(せき)年出す所の財を我(わが)家業(かげふ)の用となし、速かに家を興さんとす。先生人をして之を再教(さいけふ)すれども隨(したが)はず。遂に多分の金銀を失ひ極貧に至れり。嗚呼(あゝ)先生の教へに隨ふ時は如何なる紛紜(ふんうん)争亂(さうらん)も忽然として安穏(あんをん)平和となり、如何(いか)なる災害も幸福に轉(てん)じ、一度其の教へに背(そむ)く時は又忽然として積功一時に廢(はい)す。此の事小事(せうじ)に似たりといへども深遠なる大道(だいだう)此の中に存せり、察せざるべけんや。さすがに名高い淡海和尚の一言でいよいよ二人は意を決し、すぐに親族に告げて、大磯に戻り、和尚の教えを孫右衛門に告げた。そこで一同決心し残った器財をすべて売り払って五百両を得た。そして、大磯駅(宿)の長に先生の示すところをもって告げた。駅長はこれを聞いて非常に驚いてどうすればよいかわからなかった。しばらくこれを預かって衆人と相談した。人々は皆懺悔して昔の憤りや怒りは消えうせて言った。「私たちは愚かで道を知らずに飢渇に苦しんで暴行をした。その罪をあがなう方法がない。孫右衛門からどんな怨みを受けようと辞する言葉もない、そうであるのに今その余財をすべて私たちの困苦を除く一助にしたいという。孫右衛門がそのような誠意があろうとも、私たちにどんな面目があってこの財産を受け取れましょう。」駅長は言った。「皆さんがおっしゃることはそのとおりだが、孫右衛門が非常の決心でこの金を出したものだ。受けないからといって、どうして再び受け取ろうか。彼の信義にまかせて処置するしかありますまい。私が思うに大磯宿のために出すところの財だから、面々が受けて無益に散じたら、いよいよその誠意を失うことになるであろう。だからこれを無利息年賦として貸し渡して、貧窮の一家を救う用にあてたらどうか。そうすれば年を経過するごとに宿場の艱難を免れて、家々を保つこともできよう。そうして後に孫右衛門に恩を報ずることも難しくはないと思うがどうであろうか。」宿内の人々はこれを聞いて大変喜んで、駅長の言葉にしたがった。このことがあってから、積年の恨みや憤りは氷解し、大磯宿の人々は孫右衛門を父母のように信ずるようになった。争う心は消えて一家が親睦するようであった。孫右衛門も大変喜んでいよいよ艱難に安んじ節倹を守り、分に応じて売買した。また財産ができるほどになった。後に官より大磯宿の振興方法があれば提案せよと命じた。二宮先生はこの事を聞いて「禍を転じて福となる時が来た。すぐに余財を差し出して宿場を引き立てよ」と言われた。孫右衛門は喜んで再び沢山の財産を差し出した。代官は大変感銘を受けて、孫右衛門を呼んで褒美の言葉を賜った。これによって孫右衛門の高名は遠近に鳴り響き、人はその名を聞いて慕わないものはなかった。後数年を経て、孫右衛門は次第にあきる心が生じて、教えを廃して我意に流れた。ついには昔出した財を自分の家業の用として、すぐに家を興そうとした。尊徳先生は人をやって再び教えたが従わなかった。ついには多くの金銀を失って極貧となるにいたった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)☆ 戦後の日本の最も偉大な教育者の一人である森信三氏の修身教授録2の「偉人のいろいろ」でこう言っている。「われわれ日本人の先哲のうちで、誰が一番優れているか、一般の日本人の立場から見て、誰が一番難のない偉人と言えるかとある人とお話をしていて落ち着いた所は、二宮尊徳だろうということになったのです。」 日本民族全体から考えれば、聖徳太子が一番偉大である。聖徳太子はわれわれの日本国家の基礎を築かれたといってよい。十七条の憲法で、日本国家の骨格を決め、わが国に仏教を取り入れた最初の方としても功績は大きい。しかし、聖徳太子はあまりに偉大なのと、その生きておられた時代が遠いため、私たちが修養の手本とするには手が届かない。 そういう点で、二宮尊徳翁は平民として終始し、さらには一人の農民として終始した偉人であるというのである。「おそらく古来尊徳翁ほどに微賤な身分から身を起こして、一般の庶民大衆にも近づきやすい大道を示された偉人は、比類がないと言ってもよいでしょう。」 「修身教授録」は、教師を目指す人材を育て師範学校の生徒に教授された記録である。そして森先生は最後に生徒達にこうメッセージされた。「国民としての大道をタネまく立場の諸君としては、まず手始めに尊徳翁あたりから、その研究を始められるのがよいでしょう。」と。 また、20講の「老木の美」ではこのように述べられた。「私達が生命の真の趣を知るには、動物よりもかえって植物による方が便利だとも言えます。かの尊徳翁のごときも、その偉大な悟りの世界の手がかりとなったのは、農業だったといいでしょう。 すなわち農作業という、若干の限られた植物の上に現れた宇宙的生命の相のうちに、あの深遠無比な哲理を感得せられたものと思われるのです。あれほどの偉人であれば、羊飼いをしていても、必ずやそれらを通して、そこに天地の理法を悟られたには相違ありません。しかしながら、翁が一介の農夫であったということが、翁の世界をしてより雄大に、またより透徹したものにしたことは疑いのないことであります。」と称揚されるのである。 森信三先生は別のところで尊徳先生のことをこう言われたという。「日本民族中、ある意味では最大の偉人ともいうべき二宮尊徳の思想と精神が、21世紀を迎えるにあたり、われら日本民族の指導原理として、再び脚光を浴びるのもそう遠くはないか、と思われるのである。」 森先生は、全世界がこれに目覚めるのはおそらくは21世紀の後半であろうと予言されたという。 その意味で、このサイトで二宮尊徳先生のことをフリーページに載せているのも、意味のあることかも知れない。 しかし、残念ながら尊徳先生を知る上で一番基本の資料といえる富田高慶の「報徳記」について、Googleで検索しても、現代語訳を有料で配布されている方はいるが、フリーで接することのできるサイトはないようである。 そこで、思い立って「報徳記」原文を「報徳要典」(昭和九年一月一日発行の非売品で古本屋で入手したもの)を底本として、少しずつ紹介してみようと思う。 斉藤隆教授の「声に出して読む日本語」が評判だが、「報徳記」の原文も格調が高い。著者の富田高慶の尊崇と熱誠が伝わってくる名文だ。ぜひ声に出して読んで頂きたい。
2023.07.13
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す宗兵衛獨(ひと)り意中(いちゆう)大いに悦べり。如何(いかん)となれば始めより孫右衛門をして先生の教導を得、善心に歸(き)せしめんとするの外他事(たじ)なし。然れども其の隨(したが)はざるに及び、無利息金を借りて其の志願を達せよと利を以て誘(いざな)ひ、先生の許(もと)に導きたるが故なり。先生又曰く、予が教ふる所は君子の蹈(ふ)む所、小人の忌(い)む所なり。汝輩(なんぢはい)元より目前の損益得失にのみ心を奪はれたれば、豈(あに)君子の道を行ふことを得んや。速かに退き汝の意を行ふべし と云ふ。孫右衛門曰く、今先生不肖(ふせう)の某(それがし)を憐み、此の如き尊き教へを示し玉ふ。何ぞ教へに隨はざらんや。餘(よ)財を去ること何(いづれ)の處(ところ)にか去らん。先生曰く、敢へて河海(かかい)に投せよと云ふにはあらず。汝の家屋を破(やぶ)れる驛人(えきじん)は仇(あだ)にはあらずして汝の欲心を碎(くだ)き、祖先以來の惡因を破(やぶ)り、汝の善心を發(はつ)し永續(えいぞく)せしめんが爲(ため)に身の罪科(つみとが)をも省(かへり)みず一身をナゲウちて汝の家を破却(はきゃく)せり。是(これ)豈(あに)恩人といはざるべけんや。然れども彼等が心此(こ)の理を知りて爲(な)したるにはあらず。一旦(たん)の渇命(かつめい)に迫りし故なりといへども、心眼を開きて此の事を見る時は自然の道理此の如し。汝の家、驛人(えきじん)破(やぶら)ざる時は、之に倍々(ばいばい)せる災害必ず至らん。其の時に至らば天意豈(あに)人力(じんりょく)の救ふべき所ならんや。何をか怨み誰をか咎めん。然るに驛人(えきじん)之を破りたるが故に、汝大(だい)なる善業を行ひ、子孫繁栄の善種を植うることを得ば、是(これ)驛人(えきじん)の禍(わざはひ)は全く汝の得難き幸(さいはひ)なり。速かに一心を改め此の理を明辨(めいべん)し、餘(よ)財五百金を驛内(えきない)へ出して云ふべし。非常の凶年に當(あた)り、互に艱難相救ふべき時に至り、某(それがし)不肖(ふせう)にして其の期を過(あやま)ち、各々をして大いに勞苦(らうく)せしむるは皆某(それがし)一人の過なり。先非(せんぴ)を悔ゆるとも詮(せん)なし。破却の餘(よ)財火災の爲に燒かれ、猶(なほ)殘れるものを集むるに僅かに金五百両を得たり。一物も殘(のこ)さず驛内(えきない)貧苦の助成の爲(ため)に差出したれば、其の處置(しょち)は各々の意に任すべし。僅々(きんきん)たるもの其の補ふ所少なしといへども、餘(よ)財なきを如何(いか)にせん。各々配當(はいたう)して一助となさんか又は別に潤助(じゅんじょ)の道あらんか、宜(よろ)しく計(はから)ひ給(たま)ふべし。是我が先非(せんぴ)を悔い、過(あやまち)を改めんが爲(ため)なり。各々不肖の志を憐み此の望を許し玉はゞ、幸甚(かうじん)なりと云ひて出すべし。一毫(がう)も之を惜しむの念あるべからず。又他を怨むるの念一切生ず可(べか)らず。是の如くにして治(おさま)らざる者は古(いにしへ)より未だ之あらず。然して汝衣食(いしょく)なくして命を存することあたはずんば、汝常に船を以って江都(かうと)へ通船(つうせん)し、其の運賃を得たり。是は家(いへ)破却の禍に與(あづか)らざるものゝ如し。故に之を以て今日の露命を繋(つな)ぐべし。此の時に當(あた)つては大いに身を屈(くつ)し艱難を盡(つく)すを以て、汝の福根(ふくこん)とす。若し我が言に隨(したが)ひて此の道を行ひ、驛人(えきじん)益々不平を生じ、汝が家も彌々(いよいよ)危きに至ることあらば、我速かに五百金を與(あた)へん。必ず憂ふることなかれ と教示(けいし)す。宗兵衛ひとり心の中でとても喜んだ。なぜかというと、初めから先生の教導によって孫右衛門を善心ならしめようと思っていたからである。しかし、孫右衛門が聞き入れないので、無利息金を借りて家を復興し望みをとげてはどうかと利益をもって誘い、先生のもとに導いたためである。尊徳先生はまたこう言われた。「私の教えるところは君子が踏み行う道で小人が嫌うところだ。なんじのような者たちはもともと目前の損益得失のみに心を奪われているから、どうして君子の道を行うことができようか。すぐにここを退いてなんじが思うところを行うがよい。」孫右衛門は言った。「今、先生は不肖の私を憐れんで、このような尊い教えを示していただきました。どうしてその教えにしたがわないということがありましょうか。余財を去るといいますと、どのように処分すればよいのでしょうか」先生はこう言われた。「あえて川や海に投ぜよと言うのではない。なんじの家屋を破壊した大磯宿の人々はかたきではなく、なんじの欲心を砕き、祖先以来の悪因を破り、なんじの善心をおこさせ永続させるために、一身の罪やとがをかえりみないで、一身をなげうってなんじの家を破壊したのだ。これを恩人といわずして何と言おう。しかしながら彼らの心はこの道理を知って行ったわけではない。その場での命を失う場面に迫られて行ったことではあるが、心眼を開いて見れば、自然の道理はこのようである。なんじの家を宿場の人々が壊さなかったら、これに数倍する災害が必ずきたであろう。その時がきたときは天意がどうして人力で救うことができようか。何を怨み誰を咎めよう。しかし宿場の人々が家を破壊したおかげで、なんじは大きな善業を行い、子孫繁栄の善種を植えることができれば、宿場の人々の行った禍は全くなんじの得ることができない幸いではないか。すぐに一心を改めてこの道理を明らかにわかり、余財の500両を宿場に差し出してこう言うがよい。『非常の凶年にあたって、互いに艱難を救助すべきときに、私は愚かでそ時期を誤り、皆様にご労苦をおかけしましたのはみな私一人の過ちです。おかした過ちを後悔しても仕方がありません。破壊された余財も火事のために焼かれ、なお残ったものを集めますと、わずかですが五百両を得ました。一物も残さず宿場の貧苦の助成に差し出しますので、その処置は皆様方におまかせいたします。わずかですので貧苦の助成を補うには少ないといっても余財がないのでいたしかたありません。それぞれ配当して一助とするなり、または別に救助の方法がありましたらよろしくおはからいください。これは私が先非を後悔して過ちを改めるためです。おのおのがた、愚かな私の志を憐れんでこの望みを許していただければ幸いです』と言って差し出すのだ。この時、少しも惜しむ気持ちがあってはいけない。また他を怨む念を一切が生じてはいけない。このようにして治まらないものは古来なかった。そしてなんじが衣食がなくて命を存することができなければ、なんじは常に船で江戸へ荷を運び、その運賃を得ていたであろう。これは家が破壊された禍には関わっていないようだ。だからこれをもって現在の露命をつなぐがよい。もし私の言葉に従ってこの道を行い、困難に立ち至るときは私がすぐに五百両与えよう。必ず憂えてはならない。」と教示されたのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.12
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す孫右衛門笑ふて曰く、世人(せじん)己れの利を計る者と雖も、猶(なほ)予(われ)の絶窮(ぜつきゆう)を見ば高利の金も貸すべからず。然るに無利息の財を以て人を救ふものあらんや。果して之あらば必ず別に利とする處(ところ)あらん。子(し)の言に從(したが)ひ此の如く危地(きち)に近付くべきやと云ふ。浦賀の二人も大いに先生を疑ひ決せず。宗兵衛再言(さいげん)して曰く、先生不凡(ふぼん)の大人(だいじん)何ぞ平常の事を以て疑はん。若し各(おのおの)の察する如きの人ならば速かに止めん而巳(のみ)。若し請うて先生許容あり、千金を借り家を興すことあらば大幸にあらずや。未だ其の人に逢はずして之を疑ふ何の詮(せん)かある。各(おのおの)予(われ)に誑(たぶら)かされたりとして試(こころ)みに往(ゆ)き之を求めよ、何ぞ一往來の爲に大幸を廢(はい)せんやと。孫右衛門猶疑ふて決せず。浦賀の二人可(か)なりと答ふ。然れども未だ果さず。時に某(ぼう)年小田原候の命に由(よつ)て、先生相州(さうしう)足柄上郡竹松村に至り貧邑(ひんいふ)再復の道を行ふ。大磯宿より道程(だうてい)十餘(よ)里、宗兵衛此の事を聞き、時至れりと悦び、再び孫右衛門に往き教へを受けんことを告ぐ。浦賀二人も共にこれを勸(すゝ)む。孫右衛門思へらく、一度往きて無利息金を借ることを得ば、忽(たちま)ち家を興(おこ)し驛人(えきじん)の目を驚かし、彼等が無道を報ゆるの道あらんか。先生如何(いか)なる人なりとも、無縁のものに大金を貸さんこと思ひもよらず。然(さ)れども縁者の言も棄難(すてがた)し。行きて之を試みるには如(し)かずと。始めて之に同(どう)じ共に竹松村に至れり。 孫右衛門の妻は、浦賀の宮原屋の娘だった。そこで義父の宮原屋与右衛門、縁者の清兵衛門を大磯に呼んで恨みを報い、家を興す算段をした。宗兵衛もこの席に呼ばれ、妻の誠が無になることを悲しんだが、まともに言っても聞く耳はあるまいと一計を案じて孫右衛門と宮原屋の二人に告げた。「怨みを返し、家を再興するのは尋常ではない。二宮先生は小田原公がその徳業を聞いて、民間から抜擢し野州桜町の復興を任じられた。先生は身命を尽くして百姓を安んじ、廃地を開き、十年の間に復興された。どんな廃家亡村でもその艱難を見るに忍びず、多額の無利息金を貸し再興の道を立てられる。先生に事情を話し金を借りたらどうか。」孫右衛門はせせら笑った。「私の絶望的な状況を見て、無利息の金など貸す者がいようか」ととりあわなかった。ところがある年小田原公の命令で先生が近くの足柄上郡竹松村に来られ、貧村再興に取り掛かられた。宗兵衛は喜び繰り返し孫右衛門に逢う事を勧めた。孫右衛門は気が進まなかったが、義兄の言うことを無視もできず、浦賀の二人も一緒に竹松村に赴いた。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.08
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す孫右衛門の妻は相州(さうしう)三浦郡(みうらぐん)浦賀(うらが)宮原屋(みやはらや)與右衛門(よゑもん)の娘なり。是も亦(また)豪富(がうふ)にして浦賀に一二を爭へり。與右衛門(よゑもん)縁者(えんしや)宮原屋清兵衛(せいべゑ)なるもの頗(すこぶ)る才智あり。二人共に大磯に至り、共に力を合せて恨(うらみ)を報い、家を興さんことを謀れり。宗兵衛此の計(はかりごと)を聞き、意中大いに悲しみ、妻の誠心も無に歸(き)せんことを歎くといへども、一人の力足らずして之を諭すことあたはざるを知り、一計を設けて孫右衛門宮原二人に告げて曰く、驛人(えきじん)に怨(うらみ)を返し且(かつ)大破の家を再盛せんとするは中々(なかなか)尋常(じんじやう)の事にあらず。何を以て此の大事を遂げんか。我が輩(ともがら)の知らざる所なり。夫(そ)れ野州二宮先生は其の人となり凡庸(ぼんよう)の議すべきにあらずと雖も、今其の大略をいはん。小田原の太守(たいしゅ)賢明にして先生の徳行(とくかう)を聞き玉ひ、田間(でんかん)より之を擧(あ)げて末葉(ばつえふ)宇津(うつ)某(なにがし)君の采邑(さいいふ)衰廢再興(すゐはいさいこう)の仕法(しほう)を任じ給(たま)ふ。先生命を受け野州(やしう)に至りしより以來(いらい)身命を顧みず、日夜力を盡(つく)して百姓を撫育(ぶいく)し、其の廢地(はいち)を開き、十年餘(よ)の丹誠(たんせい)により彼の地殘(のこ)らず舊復(きうふく)せり。隣國(りんこく)の諸侯之を聞き郡邑(ぐんいふ)の再興を依頼す。其の性仁恕(じんじょ)にして自他となく人を惠むこと子の如く、加之(しかのみならず)良法を以て、如何(いか)なる廢家(はいか)亡邑(ぼういふ)たりとも厚く仁術を請ふ時は、其の艱難を見るに忍びず。多分の無利息金を賑貸(しんたい)し、再復の道を立つること、是まで幾千家(か)なるを知らず。誠に無双(むさう)の仁者といふべし。今彼の地に行(ゆ)きて此の艱難を具陳(ぐちん)し、再復の道を請(こ)はゞ、先生深く慈心の心を發(はつ)し、請(こひ)に應(おう)じて必ず道を教へ、再興資金千兩を貸與(かしあた)へん。然らば無利息金を元となし、何れの賣買(ばいばい)をもなすべし。必ず家を復せんこと疑ひ無からん。此(こ)の如き名人あるを知らずして、平常(へいじやう)の計(はかりごと)を以て此の廢家を再盛せんこと余が知らざる所なり。若し各(おのおの)先生に道を求めんとならば、予曾(かつ)て教へを受け師弟の縁あり。故に予先立って歎願せんと云ふ。 「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)〇〇様本日は七夕ですが。朝から蒸し暑い日が続いて、夕方曇って空は見えません本日、勤めを早引きして、夕食の買い物に行くついでに、久しぶりにセンターによるとI・Mさんからの手紙がメールボックスに入っていました。収受が6月14日で、この1か月ほどセンターに寄っていませんでした。手紙を開いて読んでみると6月25日に開催される有志の学ぶ会で八田與一とその恩師広井勇の生涯を30分ほど紹介したい、ついては「ボーイズ・ビー・アンビシャス」の本をコピーし配付させていただきたい。また「ボーイズ・ビー・アンビシャス」3冊の本、各2部づつ購入したしますとのこと。残念ながら本の残部は持ち合わせがないのですが、「この3冊の本、誠に敬意を表する働きで、多くの信仰の友、友人に広めていきたい」とあり、第1集から第4集まで1冊づつ送りました。本当に「働き」によるものであれば、これらの本も活きましょうか。楽しみです。追伸返事が遅れた次第をご自宅に電話したところ 奥様が出られて「らんまん」の広瀬佑一郎のモデルが廣井勇博士ということも十分にご存知でした。廣井勇博士は東京帝国大学工学部教授として赴任しますから、あるいは4、5度目の登場もあるかもしれません。こちらも楽しみです。蒸し暑い季節になってまいりました。熱中症には十分お気をつけください。
2023.07.07
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す 其(そ)の歸(かへ)るに臨みて先生又告げて曰く、汝の妻能く此の事を行ふ時は、直(たゞち)に人をして汝の妻(つま)實兄(じつけい)孫右衛門(まごゑもん)が災害を歎き、寝食を安んぜず。此の如きの所行(しょぎょう)を爲(な)して、再たび兄の安堵(あんど)に至らん事を心願(しんぐわん)の外(ほか)他事(たじ)なきよしを孫右衛門に告げしむべし と云ふ。宗兵衛三拝して家に歸(かへ)り、妻に告ぐるに先生の教へを以てす。妻素(もと)より貞順(ていじゆん)、一たび此の道を聞き大いに感じ且(かつ)悦びて曰く、妾(せふ)が一身の所行(しょぎょう)より遂に兄の禍(わざはひ)を免(のが)るべき道あらば、一命をナゲウつも尚(なほ)言ふに足らず。況(いはん)や此の事をや。速かに衣類器財一物(もつ)をも餘(あま)さず沽却(こきやく)して代金と爲(な)す。是に於て宗兵衛の兄芳助(よしすけ)なる者をして官(くわん)の獄に走らしめ、竊(ひそ)かに孫右衛門に告ぐるに、先生の至教(しけう)且(かつ)妹の所行を以てす。怨憤(ゑんふん)盛怒(せいど)の孫右衛門之を聞き、慚愧(ざんき)の心始めて生じ、自ら悔い、自ら我(わが)身の罪を知り、覺(おぼ)えずして涙袖を沽(うるほ)せり。是(これ)禍源(かげん)此(こゝ)に轉(てん)じて良善に歸(き)するの始なり。是より後、日々に其の身を省み、官(くわん)を怨み驛人(えきじん)を憤るの心消(せう)し、朝夕往々(わうわう)我(わが)身を責むるの言語(げんご)を發(はつ)す。官(くわん)之を聞いて孫右衛門既に己れの非を知れり、罪を免(ゆる)し家に返すと雖も後難(こうなん)ある可(べ)からずとなし、猶(なほ)厚く教諭を下し其の罪を免ず。是に於て入獄三年にして家に歸(かへ)ることを得たり。先生の深慮慈仁遠大也(なり)と云ふべし。孫右衛門家に歸(かへ)り見れば、二兒(じ)亡母(ぼうぼ)を慕(した)ふて涕泣(ていきふ)し、伊三郎嗟歎(さたん)して火災以來の艱難を告ぐ。孫右衛門一旦先非を悔ゆるといへども、目前(もくぜん)此の有形(いうけい)を見るに及んで、怒氣(どき)再たび胸を焦し、嗚呼(あゝ)予(われ)此の如きの災(わざはひ)に罹(かゝ)ること誰(だれ)の爲(ため)ぞや。驛人(えきじん)等(ら)が無道(むだう)を以て、我が家屋(かをく)を毀(こぼ)ち、我をして此の極に至らしめ、彼等安然(あんぜん)として坐せり。豈(あに)此の儘(まゝ)に手を束ねんや。如何(いか)にもして此の怨を散じ、家を再盛し、此の恥辱を雪(すゝ)がずんば、何の面目ありて世に立つことを得んと、憤怒(ふんど)に堪へず。 帰ろうとすると、尊徳先生はまた宗兵衛にこう言われた。「おまえの妻がよくこの事を行う時は、ただちに人を孫右衛門の捕らえられている牢獄に行かせて『妹が実兄孫右衛門の災害を嘆いて、寝食を安んぜず、このような行いをなしている。再び兄が平安に暮らせるよう心願をかけ一生懸命だ』という旨を孫右衛門に告げなさい。宗兵衛は喜んですぐに家に帰り妻に先生の教えを告げた。妻はもとより貞順で一度この先生の教えを聞いて大いに感動して、喜んで宗兵衛に言った。「私の一身の行いで兄の禍を免れる道があれば、命を捨ててもかまいません。まして衣食など言うに足りません」そしてすぐに衣類や器財をすべて売り払い、金に代えた。ここで宗兵衛はその事を宗兵衛の兄である芳助という者をして代官の獄舎に走らせて、ひそかに孫右衛門に先生の尊い教えと妹の行いを告げた。孫右衛門は怨み憤りして怒りに満ちていたが、この事を聞いて始め後悔の気持ちを起こし、自ら悔い、自らわが身の罪を知り、覚えず涙を流した。これが禍の源が良善に帰する始めとなった。これから後、日々にその身を顧みて、官を怨んで大磯宿の人々を憤る心が消え、朝夕しばしば自分の身を責める言葉を口に出すようになった。官はこれを知って、孫右衛門はすでに自分の非を知った、罪を許して家に帰しても後難を起こすことはありまいと、なお厚く教諭してその罪を許した。実に入獄三年目にして家に帰ることができたのである。ああ、なんと先生の深慮、慈仁の遠大であることか。孫右衛門が家に帰って見ると、2人の子はなくなった母を慕って泣いており、番頭の伊三郎は嘆いて火災以来の艱難を告げた。孫右衛門はいったん先非を悔いたのに、目の前にこのありさまを目にして怒りの気持ちが再び胸を焦がして、「ああ、おれがこのような災いにかかるというのは一体誰のためか。宿場の連中が無道にもおれの家屋を壊して、おれをこんなざまにしたのだ。それなのに、やつらは安らかに坐している。どうしてこのままでおくものか。どうにかしてこの怨みをはらして家を再び繁栄させ、この恥辱をすすがないと、何の面目があって世にいられようかと憤怒にたえなかった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.06
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す宗兵衛大いに此(こ)の至教(しけう)を感じ、且(かつ)禍福吉凶存亡の由(よつ)て起る處(ところ)歴然たるに驚き、大息して曰く、先生既往(きおう)の事を説き玉ふ、何を以て此(こ)の如く著明(ちょめい)なるや。孫右衛門の家天明度(ど)凶荒の時より興(おこ)り富を保てり。原因此(こ)の如くにして廢亡(はいぼう)を免れ難きは的然也(てきぜんなり)と雖も、今之を救ふの道なしと宣(のたま)ふものは、我(われ)誠心足らざるが故にあらずや。曾(かつ)て教へを聞けり、廢家(はいか)を擧(あ)げ禍を福(さいはひ)に轉(てん)ぜんもの、只(たゞ)一の至誠而已(のみ)、知謀術計の及ぶ所に非ず と。今彼を救ふの道あらば、一身の力を盡(つく)して辭(じ)する所あらず。先生愚蒙(ぐもう)の悲歎を憐み、一教(けう)を示し玉へと再三請(こ)うて止まず。先生其(その)痛歎の情甚だ切なるを愍(あはれ)み、再び教へて曰く、汝一身に換(かへ)て彼を救はんとすること殊勝なりといへども、非常の災害を除かんとするに微力を以てす。是(これ)大石を動(うごか)さんとして細縄(さいじやう)を用(もちふ)るが如し。然れども再三の哀(あはれ)みを告ぐ。予(われ)之を見るに忍びず。今爰(こゝ)に一道(だう)あり、汝それ能(よ)くせんか。宗兵衛答へて曰く、必ず之を行はん。先生曰く、汝が妻は孫右衛門が妹なり、親族是(これ)より近きはなし。兄の捕(とら)はれを哀み、生家の危(あやう)きを悲(かなし)むや否や。對(こた)へて曰く、悲痛某(それがし)に倍せり。曰く、然らば身に麁衣(そい)を着(ちゃく)し、口に麁食(そしょく)を喰(くら)ふか。曰く、敢(あへ)て然(さ)するにあらず。曰く、誠に哀む者食(しょく)味(あじはひ)を甘ぜず、衣(い)觀美(くわんび)を爲(な)すに忍びず、伏(ふ)して寝(い)ぬることあたはず。今實兄(じつけい)獄中に困(くる)しみ、生家の滅亡旦夕(たんせき)にあり、然るに憂心の薄きは如何(いかん)。宗兵衛答ふる能はず。先生曰く、假令(たとひ)憂心切(せつ)なりと雖も、一の女子(ぢょし)何ぞ其の至當(したう)の道理(だうり)を知らんや。汝(なんじ)彼(かれ)を教ふべし。生家の癈亡(はいぼう)近きにあり、之を救ひ共に艱苦を同じくせんか、骨肉の兄此(こ)の如きの艱難(かんなん)に及べり、假令(たとひ)救助の成不成せいふせい)は測り難しと雖も、今斯(こゝ)に於て艱苦を共にすべし。兄寒しといへども之を凌(しの)ぐことあたはず。飢ゑたりといへども飽食(ほうしょく)を得ず。汝今より口に麁食(そしょく)を食(くら)ひ、身に惡衣(あくい)を着し、生家(せいか)より持ち來(きた)る所の衣類器物悉くこれを鬻(ひさ)ぎ、これを以て生家再復の一助となすべし。此(こ)の代銀(だいぎん)些少(させう)なりと雖も、汝兄と共に艱苦を盡(つく)し、生家を安(やすん)ぜんとするの誠心斯(こゝ)に立つ時は、是(これ)よりして兄の禍を免るべきの道を生ぜんと諭(さと)すべし。若し汝の妻之を聞き速(すみやか)に其の所行(しよぎやう)を立つる時は、彼を助くるの種(たね)とならんか。夫(そ)れ僅々(きんきん)たる一粒(りふ)、之を蒔く時は年を經(へ)て高木(かうぼく)となる。人の誠心一旦感發(かんぱつ)して止まざる時は至誠(しせい)天を感ず。豈(あに)一婦人の誠心兄を救ふの道なからんや。汝妻に道を示し、其(そ)の誠を立しむることあたはずんば、餘事(よじ)亦何をか論ぜん。是汝が分量の及ぶ所を以て告ぐる而已(のみ)。速かに之を行ふべし と教(をし)ふ。宗兵衛再拝して大いに悦び、速かに家に歸(かへ)り此の事を行はしめんとす。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.05
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す伊勢原驛(えき)宗兵衛(そうべゑ)なるもの曾(かつ)て先生の至教(しけう)を得て其の家を全(まつた)くせり。孫右衛門(まごゑもん)の妹某(それ)を娶(めと)り妻となす。宗兵衛性(せい)温柔(おんじう)にして慈心あり。孫右衛門の家破却禁獄三年、禍災(かさい)並び至ることを歎き、百計之を救はんと欲すれども其の道を得ず。遙(はるか)に野州櫻町に來りて、困難を陳述し涕泣して教へを請ふ。先生歎じて曰く、豈(あに)是一朝一夕の故ならんや、其の禍(わざはひ)由(よつ)て来る所遠(とほ)し。世上富家(ふか)の滅亡すること往々斯(かく)の如し。何(なん)ぞ人力を以て之を存することを得ん。予(われ)孫右衛門一家の事跡を知らずと雖(いへど)も、其(その)富を致すに必ず自然の道を失ひたることあらん。凶荒(きょうくわう)の年に及び、破却の禍(わざはひ)に遇ふ者往々有りと雖も、此の如き災難輻輳(ふくそう)するもの稀(まれ)なり。是に由て之を観るに、其の禍の根元も亦必ず深し。彼(かれ)代々米穀(べいこく)を以て渡世とすと、然らば天明卯辰(うたつ)兩年(りやうねん)の凶荒(きょうくわう)に當(あた)り、多分の米粟(べいぞく)を高價(かうか)に鬻(ひさ)ぎ、大利を得て以て家を富し、計策を得たりとして積善(せきぜん)の行(おこなひ)なかりしが、人の禍を得る時は之を憐み之を助くるの道を以て人道とせり。人の憂ひある時に當(あた)り、我獨(ひと)り利を貪るものは、天の廢(はい)する所なり。鳥獣といへども其の類(るひ)の悲鳴を聞けば、之を哀れむの心あり、況(いはん)や人に於(おい)てをや。果して然らば、則ち孫右衛門の家廢亡(はいぼう)速(すみやか)なるべし。然して凡(およ)そ六十年を保ち此の凶年に至りて廢(はい)するもの久しといふべし。其の久しきものも亦(また)其の由來(ゆらい)あり。祖先必ず陰徳(いんとく)あらん。是を以て保てるのみ。今陰徳(いんとく)既に盡(つ)き、天明度(ど)他の憂ひを憐まず獨(ひと)り己(おの)れが利を得たるの禍(わざはひ)此の時に發(はつ)し、家産悉く他人の爲(ため)に破られ、加ふるに火災病難共に來れり。是に於て孫右衛門猶(なほ)其の身の罪を知らず、人を怨み身を亡すの道に走り、一家人物共に共に廢亡(はいぼう)せざれば止むべからず、獨(ひと)り孫右衛門の罪のみにあらず。其の禍福吉凶(くわふくきつきょう)必ず其の根元ありて生ず、何の疑かあらんや。孫右衛門自ら責(せむ)るの道を知らず。專(もつぱ)ら我を善とし驛人(えきじん)の破れるものを怨む。官其の罪を知らしめんとして之を戒め玉ふの仁心をも察せず。偏頗(へんぱ)の處置(しょち)なりと是をも怨望(ゑんぼう)するの念(ねん)あり。此の如くならざれば滅亡に至らざるが爲也。夫れ天地間萬物(ばんぶつ)一理、瓜(うり)を植うる時は必ず瓜熟せり、何ぞ瓜を植ゑて茄子(なす)の實(み)のる事あらんや。五穀(ごこく)各(かく)其の人の植うるに隨(したがひ)て熟せり。往古(わうこ)以來一草と雖も、其の種を變(へん)じて生ずるものを聞かず。何ぞ孫右衛門獨(ひと)り善を植ゑて惡(あく)の實(み)のりあらん。必ず一家廢亡(はいぼう)の種を蒔き、今其の實(み)のりを得たるにあらずや。汝親族の故を以て之を救はんと欲するは人情(にんじやう)の當然(たうぜん)也(なり)と雖も、此(こ)の如(ごと)き禍に乗じ如何(いか)なる救助を盡(つく)さんとするも、豈(あに)之を救ふことを得ん。實(じつ)に憐む可(べ)きの至りと雖も、如何(いかん)ともす可(べ)からずと諭(さと)さる。伊勢原で茶屋を営んでいた加藤宗兵衛は二宮尊徳先生の弟子となっていた。その妻は、孫右衛門の妹であり、孫右衛門が入獄三年になり、不幸があい続くのを憐れんでなんとか救いたいと思ったが、そのてだてが思いつかなかった。そこで野州桜町に尊徳先生を尋ねたおり、それまでのことを述べ、涙を流して教えをこうた。二宮先生は、ため息をつかれてこう言われた。「これは一朝一夕のことで起こったことではない。 その災いが来たったのは遠いところにある。 世の中で富者が滅亡する場合、往々にしてこのようになるのだ。 どうして人力でこれを救うことができようか。 私は孫右衛門の一家の事跡を知らないが、その富を得るときに自然の道を失ったことがあるのであろう。 凶荒のときに打ちこわしの災難にあう者は往々にしてあるが、これほど災難が打ち続くのも珍しい。 これによってこれを観るに、その災いの根源の来るところも必ず深い。 そうであれば天明の二度にわたる凶荒にあたって、多くの米や穀物を高価にうりさばき大利を得て、家を富ませ、うまくいったとして積善の行いがなかったのであろう。 人が災いを受けるときは、これを憐れんで助けるのが人の道である。 人が憂いがあるとき、自分ひとりだけ利を貪る者は、天が廃するところだ。 鳥獣でもその同類の悲鳴を聞けば、これを哀れむ心がある。まして人ならなおさらだ。 そうであれば孫右衛門の家も廃亡するのも速やかなところだが、先祖に陰徳を積んだ者があり、それでこの60年保っていたのだ。 その陰徳も尽き、天明の大飢饉のおり、人々の憂いを憐れまず、ひとり自分の利を得るの災いがこのときに起こって、家産は人が破り、さらに火災病難ともに来たったのだ。 それでも、孫右衛門は反省せず、自らが善で宿場の人々を怨む、官がその罪を反省させようとして戒めることも察しないで、偏頗な処置だとこれをも怨む想いがある。 このようであれば、滅亡にいたらないわけがない。 それ天地の間において万物は一理である。 瓜を植えれば必ず瓜が熟す、どうして瓜を植えて茄子が実ることがあろうか。 五穀ともその植えるところにしたがって熟す。 昔から一草といえども、その種を変じて生ずるものは聞いたことはない。 どうして孫右衛門だけ善を植えて悪の実りがあることがあろうか。必ず一家が廃亡する種を蒔いて、いまその実りを得たのではないか。 なんじが親族だからということでこれを救おうと願うのは人情として当然だが、このような災いについてはどのような救助を尽くそうともどうして救うことができようか。実に憐れむべき限りだが、どうしようもない」と諭された。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.04
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す此(この)時に當(あた)り孫右衛門江都(かうと)に出で、穀価(こくか)を尋(たづ)ね、其(その)高下(かうげ)に隨(したが)ひ諸人(しよにん)の爲に價(あたひ)を減じ賣(う)り出さんか、將(はた)救助の為に粟(ぞく)を散ぜんかと、思慮未だ決せずして家に歸(かへ)らず、番頭伊三郎なるもの答えて曰く、今主人江戸にあり、某(それがし)の得て處(しょ)する所にあらず。近日主人必ず歸(かへ)らん、然らば其の望に應(おう)ずべしと云ふ。或(ある)もの去り、別人又(また)來(きた)りて再三之を請(こ)ふ。伊三郎答ふるに前言を以てす。驛内(えきない)彌々(いよいよ)憤怒(ふんど)し、彼平生(へいぜい)貪吝(どんりん)にして曾(かつ)て慈悲を知らず。今家にあらずして江都(かうと)に出るは、利を貪(むさぼ)らんが爲なり。哀(あい)を請ふと雖も何の益あらん。彼を始め宿内の富家(ふか)を悉く破却して、彼等(かれら)が膽(きも)を冷さしめん。何ぞ是非を論ずるに及ばんやと。一人之を唱ふれば諸人之に同じ、數(すう)百人耒シ(らいし)又は鳶口(とびぐち)と唱ふる物を振ひ、夜に入り、一時に亂入(らんにふ)し、同音(どうをん)に怨恨(ゑんこん)の情を呼はり、力を極(きは)めて家藏を破り、器財を碎き、米粟金錢(べいぞくきんせん)を散亂(さんらん)す。道路之が爲に壅塞(ようそく)し、往来(わうらい)のもの通行することを得ざるに至れり。器として破らざるはなく、物として毀(こぼた)ざるはなし。妻は子を負ふて逃れ、伊三郎も大いに驚き走り去る。諸人毀(こぼ)ち終り、又他に往きて富家(ふか)一二戸(こ)を破り、愉快を呼びて各家(かくいへ)に歸(かへ)れり。孫右衛門卒忽(そくこつ)として家に到れば、家屋悉く毀(こぼた)れ米粟器財土泥(どでい)に散亂(さんらん)せり。愕然(がくぜん)として其の無道を怒り、憤怨(ふんゑん)骨髄に徹し、速に官に訴へ、亂暴(らんぼう)の者を罪(つみ)し、此の怨恨を散ぜんとするの外他事(たじ)なし。既に此事官に聞(ぶん)せり。官(くわん)囑吏(ぞくり)を遣(や)り、驛人(えきじん)を諭し、或は戒め、然後、孫右衛門を捕へて之を禁獄し、詰(なじ)るに飢饉の憂ひに罹り、驛人(えきじん)危亡(きぼう)に瀕(ひん)せり、汝財に富み粟(ぞく)を積み、曾(かつ)て憐愍(れんみん)の心なく、遂に此(この)亂暴(らんぼう)を起せり。汝聊(いささ)か慈心有らば何を以て此の動亂(どうらん)を開かんや、其の罪汝の身にありと云ふを以てす。孫右衛門救助の道を行はんとせしに、其(その)發(はつ)するを待たずして破毀(はき)の亂暴(らんぼう)に及べりと言上(ごんじやう)すれども、官益々其の等閑(なほざり)の罪を責めて之を許さず。同年某(ぼう)月暴風砂石(しやせき)を巻き、一天之が爲に暗し。時に驛内(えきない)失火忽然(こつぜん)として火盛(さかん)に風烈しく、孫右衛門破家(はか)散亂(さんらん)の米粟(べいぞく)器財盡(ことごと)く燒亡(せいぼう)す。妻子の悲歎既に極る。妻歎じて曰く、嗚呼(ああ)、如何せん、家屋(かおく)は人の爲に毀(こぼ)たれ、良人(りやうじん)之が爲に罪人と爲(な)りて獄屋(ごくや)の苦を受け、今又大風烈火産物を焼く、災害の頻(しき)りに至ること何ぞ此の如きや。二子を抱(いだき)て曰く、以後何を以て子を育せんやと、大いに涕泣(ていきう)す。伊三郎言を盡(つく)して之を慰(ゐ)し、主人罪なきが故に今歸(かへ)り給はん、然らば諸事共に談じて、必ず憂ひなからしめんと云ふ。妻が心何を以て解(かい)せん、憂心の餘(あま)り遂に病に臥して食進まず二児(にじ)枕上(ちんじやう)に在りて泣く。伊三郎夫妻共に心を盡(つく)し、醫(い)を招き之を療(れう)すれども遂に起(おき)ず。病(やむ)こと數月(すうげつ)にして死す。孫右衛門獄中に在り、此災害を聞く毎(ごと)に噴悶(ふんもん)甚しく益々驛人(えきじん)の暴を怒り、且(かつ)官の亂人(らんじん)を捕えずして、破却の禍を受くるものを禁獄(きんごく)すること豈(あに)公平の處置(しょち)といふべけんや。今に我此の獄(ごく)を出でなば、身を粉(こ)に碎(くだ)くといへども怨(うらみ)を驛人(えきじん)に報ぜざるべけんやと。日夜憤涙(ふんるい)を流して切齒(せつし)すること殆(ほとん)ど狂人の如し。官彌々(いよいよ)之を許さず入獄三年に及べり。東海道の大磯宿に川崎屋孫右衛門という者がいた。先祖より穀物商を営み、富豪として知られていた。孫右衛門の性質は吝嗇で、人を慈しむ心が薄く、専ら利益だけに心を尽くした。天保7年の大飢饉のとき、大磯宿も困窮する者が多く、穀物商の孫右衛門に「宿内の困窮を憐れんで、相場より安く売ってはくれまいか」と請われたが、孫右衛門は返事を決しかね、江戸へ穀物相場を調べに出掛けた。宿内の人々が川崎屋に来て懇願したが、番頭の伊三郎は今主人は江戸に行っていて自分の判断では決しかねると悉く断った。宿内の人々は次第に激昂して「今家にいないで江戸にいるのは、利を貪るためだ。 川崎屋はじめ宿内の富豪を打ち壊してやろう」と付和雷同して、夜になって数百人が、口に罵りながら家や蔵を打ち破り、器材を破却した。孫右衛門の妻子は命からがら逃れ、伊三郎も逃げ去った。孫右衛門が帰ると家屋はすべて壊され、米や器財が泥の中に散乱していた。孫右衛門は己の無慈悲を反省することなく、怒り骨髄に徹して、役人に乱暴した者を罰するよう訴えでた。官は宿内の人々を戒めた後、孫右衛門を捕らえて牢屋にいれて、「飢饉のとき、宿内の人々が飢死に瀕した折、なんじは富んでいながら憐れみの心がなかったから、この騒動が起こったのだ」とその罪を責めた。その年、暴風が吹き、宿内の失火により、孫右衛門の残っていた破屋財産を悉くやきはらった。孫右衛門の妻は打ち続く不幸に病に臥し、二児を残してなくなってしまった。孫右衛門はこれを聞いてますます怒り、必ず宿内の者どもに復讐をしようと涙を流し歯軋りして呪うことは狂人のようであった。このため、官はいよいよ許さず入獄が3年にも及んだ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.03
報徳記巻之四【1】先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す邑(むら)の里正(しやうや)を幸内(かうない)と云ふ。先生は此の家に在りて道を行ふ。日既に西山(せいざん)に迫れり。先生浴室に入りて沐浴す。時に孫右衛門(まごゑもん)縁者と共に來(きた)り、艱難に陥り已むを得ずして一家再復の良法を請(こ)はんが為に來(きた)れりと云ふ。里正(しやうや)答へて曰く、今先生入浴し玉ふ。後刻(ごこく)閑(かん)を得ば此の事を告げんと。先生浴室に在りて之を聞き、思へらく、孫右衛門なるものは容易に道に入る可(べ)き者にあらず。何ぞ直ちに彼を來らしむるや。定めて宗兵衛凡情に漂(たゞよ)ひ、前後の思慮なく同道(どうだう)せるならん と意中甚だ不平、潜(ひそか)に浴室より外面(ぐわいめん)へ出(い)で、獨歩(どくほ)して二里餘(よ)を隔(へだ)てたる下新田(しもしんでん)村小八なるものゝ家に至る。夜已(すで)に三更(かう)なり。小八大いに驚き、先生を迎へて曰く、夜中(やちゆう)獨歩(どくほ)此に來り玉ふ何の故ぞや。先生曰く、大磯孫右衛門縁者と共に來れり。彼甚だ難物也。予(われ)之に逢ふことを欲せず、故に來るなり と遂に小八の家に宿す。竹松村幸内、先生の入浴久しきを訝(いぶか)り、往きて之を見れば先生浴室にあらず。愕然(がくぜん)として近傍(きんぼう)を求むれども得ず。時に村民多く幸内の家にあり、皆驚き邑(いふ)中に走り求むれども先生の所在を知らず。幸内曰く、此の邑の衰貧を救はんとして先生日夜勞(らう)し玉ふ。今故なくして去り玉ふの道なし、孫右衛門の來るを察し、他へ往き玉ふなるべし。夜中尋ぬるとも益なからん。明日(みやうにち)他の邑(むら)に往きて尋ねんと云ふ。ところがある年小田原公の命令で先生が近くの足柄上郡竹松村に来られ、貧村再興に取り掛かられた。宗兵衛は喜び繰り返し孫右衛門に逢う事を勧めた。孫右衛門は気が進まなかったが、義兄の言うことを無視もできず、浦賀の二人も一緒に竹松村に赴いた。先生は浴室で来意を知り、孫右衛門という人間は難物で容易に道に入る者ではないと密かに浴室を出て、夜中一人隣村まで歩いていって下新田村の小八の家に身を隠された。竹松村の幸内は、先生の入浴が長いのをいぶかって、見てみると先生は浴室にはいらっしゃらない。愕然として近くを探したが見当たらない。ちょうど村民が多く幸内の家に来ていて、みんな驚いて村中を走り求めたけれども、先生の所在はわからなかった。幸内は言った。「この村の衰貧を救おうと先生は日夜努力しておられる。今理由もなしに去られるわけがない。これは孫右衛門が来るのを察知されて、他にいかれたに違いない。夜中尋ねても益はない、明日他の村へ行って尋ねてみましょう」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)
2023.07.02
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる菅子(すがや)漸(やうやく)汗衣を沾(うるほ)し再拝して曰く、嗟呼(あゝ)過てり、某(それがし)愚かなりといへども甞(かつ)て道を聞けり。是何の心ぞや、思はざりき道を失ふの斯(こゝ)に至らんとゝは。今先生の至教を得て姑息(こそく)の惑(まどひ)盡(ことごと)く開散せり。愚蒙なりといへども豈(あに)服膺(ふくよう)せざらんや。劣弟窮するは固(もと)より其の分なり。何ぞ之を憂ふるの暇あらんや。願くは先生某(それがし)の失言を恕(じよ)し玉へ。是(ここ)に於て先生二十金を出して曰く、子(し)の志の差(たが)ふが故に烏山の道の絶んことを歎き、當然(たうぜん)の道を告ぐる也、今子(し)發明(はつめい)せば幸なり。則ち二十金を持ちて去れ。菅子(すがや)驚き辭(じ)して曰く、是れ何(なに)の事ぞや。某(それがし愚にして大義を失せり。先生の至教に因りて過を知り改めんとす。何ぞ過を遂ぐるをなさんや。先生曰く、子(し)の惑ひ散ずといへども盲弟何を以て解せん。且子我が言を聞かざるの前に當(あた)り盲弟を諭さば可なり。既に心を同くし、相約して共に我に借らんとす。江都(かうと)に於て日々に之を期して待たんこと明かなり。今子(し)大義を知るといへども何を以て俄(にわ)かに弟の惑を解かんや。惑解せざる時は兄弟の約變(へん)じて怨の心を生ぜん。是も亦不可なり。それ速かに盲弟に送れ。 佐々井信太郎氏の「二宮尊徳先生傳」にはこのように菅谷の行いを記する。(昭和10年初版であり、漢字等現代文に改めた)「菅谷の行動もまた記録するべきものが少なくない。 先生は救急と開発のために続々と米や金を送り、 かつ菅谷にも仕法の指導者たらん者の第一の条件は、烏山の歳入不足を調節するために禄を辞し、報徳金で開墾し、これをもって生活を立てていくことが最妙の手段であることを指示したところ、菅谷は感激して直ちに仕法中、自分と相続人半蔵、次男石井靱負(ゆきえ)の給扶持を残らず天保8年正月分より辞退した。その高は米11石6斗、金11両1分余であった。さらに菅谷は弓、鞍などの馬具以下の所蔵品75点を売却し、これを仕法金に加えたい旨をもって差し出した。 円応と菅谷との篤行を直視した藩士及び領民は非常に感激し、御仕法御土台加入を申し出たものは、藩士242名、城下及び49ヶ村1260余人、総計金額108両3分2朱余、米200俵の多きに上がった。 しかるに菅谷は大阪に行き、円応は江戸に出て仕法実施のために奔走し、相州(神奈川県)厚木の仕法指導に赴いたらしく、天保8年12月に帰郷まもなく両人ともに大病にかかり、菅谷は一応快癒したが、円応は没し、菅谷も翌9年1ヶ年を通して病床にあった。そして藩政の方面に仕法反対の内訌を生ずるに至った。 天保9年は豊年であってその成績を円応にひとめ見せたいと申し送ったほどであったが、菅谷の病気は春以降病状が変化して九死一生の体となったほどであったが、11月に小康を得て押して出勤、水戸へ出張した等の無理があり、大病の後としては過労でとにかくすぐれなかった。仕法のために土地が開け、あたかも豊年であり、分外の収穫が多額に上ったのを見た藩政のうちには、あるいは緊縮、あるいは推譲は堪えるところではないとし、特に救急資金の借入金の督促が厳重となったので、分外を開発仕法に用い、用度を窮乏させるのは政治をあやまったものであると非難の声があがった。 天保10年12月6日江戸から大石総兵衛、大塚孫八郎が烏山に到着して直書を携えてきて、7日藩政の重役会議を開いた。 その議事の要件は仕法を断るというものであった。 大久保次郎左衛門以下その無法を反論したが、直書の一言のもとに口を封ぜられ、会議は仕法謝絶に決まった。 停職のすべては15日までに終了し、17日付けで菅谷八郎右衛門は役儀辞退を申し出た。12月25日には隠居を申し付けられ、相続人半蔵に100石を給せられた。 そして天保11年12月11日ついに菅谷放逐の令が発せられた。 菅谷はやむを得ず、鴻巣村の郡司十郎右衛門の家に移った。天保12年7月14日菅谷は桜町に来て、その悶々の情を告げて、また自分の盲目の弟に20両の借財に悩んで心痛していると母子から手紙が来たが今どうすることもできない、助けたたまえと懇願した。 尊徳先生は「進んで忠を尽くさんことを思い、退いて過ちを補わんことを思う」と、これが人の臣であるものの道である。あなたは今重恩の君主に追放されて自分は過ちはない、国が悪いとして少しも悔いる色がみえない。それ忠臣というものは、国家とその幸福や憂患をともにして一身の進退にかかわらない。進んで憂うよりも退く時その憂いを10倍するものが忠臣である。あなたが烏山の家老だった時、国政の過ちを除くことができず、ひとたび凶歳にあって数千の民の命が失うところであった。やむなく私に救済を懇請したのである。そして今追放されて前の失政を思わないで君家のことも顧みず、国の危機を度外におくとは何たることか、今不幸にして烏山再盛の道を失うに際して、日夜寝食を忘れて憂慮すべきではないか。私ですらなお烏山の将来を憂慮している、累代重恩の身でありながらそれを忘れたようなごときはなぜか。私が思うにこのように復興の道が中廃したのはあなたが一身の誠の心が足らないためである。 身は城下を辞したといっても、日夜心境は烏山を離れず、君主が再び仁政を行うときには罪を謝し、身命をなげうって、誠忠を尽くし、発願の志を遂げようと肺肝を砕いているかと思ったのに、今日人臣の大義を忘れて、盲弟の困窮を助けてほしいと懇請するとは。 このような浅い思慮であるから、復興の道も廃し、身もまた退けられたのだ。あなたがこの非を悔いるときは、妻子一族もまた困苦をともにし、道にたおれてもその忠心の香ばしさが世の人を感動させるであろう。盲弟でもまた同じことである。あなたが烏山救助の際のような勇猛心を発して、私が贈った米を食し、禄を辞退した初心を貫徹したならば、讒言の入る余地はなかったであろう。一旦辞退した禄をはんで、身の進退を豊かにしたことが、あなたが退けられた原因である。今思うに烏山の再興はあなたの一心にある、だから過ちを改め、烏山の再興を祈り、至誠を顕わして後に、道が行われなければいつでも当方に来られよ、そうでなければ面会するも忍びざる心がする」とさとされた。菅谷は「あああやまてり。思わざりき道を失うこと、かくのごとくならんとは」と心から悔いたのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。
2023.07.01
報徳記 巻之四【1】 先生大磯駅川崎屋孫右衛門を教諭し廃家を再復す 茲(ここ)に東海道大磯宿(しゅく)川崎屋孫右衛門(まごうゑもん)なる者あり。先祖より穀商賣(こくしやうばい)を以て渡世(とせい)とし、頗(すこぶ)る豪富の名あり。性(せい)吝嗇(りんしょく)にして慈仁の心薄く、專ら利益のみに心を盡(つく)せり。人之を呼びて仙臺通寳(せんだいつうほう)と云ふ。其の所行(しょぎょうZ)一僻(へき)にして他の言を用ゐず、財優(ゆた)かなりといへども他を憐まざるを以て、世上(せじょう)不通用なりと譬(たと)へしなるべし。于時(ときに)天保七申(さる)年夏冷氣大いに行はれ、日々曇天にして晴日稀なり。是を以て五穀實(みの)らず、歳(とし)大いに飢う。關東(くわんたう)奥州(あうしう)尤も甚し。諸民百計食を求むといへども得る處(ところ)なく、或は離散し、或は道路に斃(たふ)る。生民の悲歎何ぞ之に加ふるものあらんや。幕府深く萬民(ばんみん)の飢渇を憐み、巨多(きょた)の米財を散じ、江都(かうと)の飢者を救ひ玉ふ。諸國有志のものも多少各(かく)其の分に應(おう)じ、飢民救助をなすもの少からず。然れども救ひを出すもの限りあり、飢(うゑ)を病むもの益々多く、月を經(ふ)るに隨(したが)ひ飢亡彌々(いよいよ)多し。平生(へいぜい)無頼の者共(ものども)衆を煽動(せんどう)して曰く、此の如くにして日を送らば、空しく飢亡に及ばんこと言語(げんご)を待つべからず。夫れ富家(ふか)多分の米財を握り、一家(か)の憂ひなきを以て、他の困迫死亡を憐れむの心なく安坐(あんざ)して傍觀(ぼうくわん)す。悪(にく)む可きの至りにあらずや。徒(いたづら)に死を待たんよりは寧ろ彼が不仁の家を破却し、其の握る所の粟(ぞく)と財とを蹈散(たうさん)し、一旦の愉快を取って死せんには如ざる也と。素より死亡に瀕するもの往々之に雷同し群起して、富豪を毀(こぼ)ち、其の器財米粟(べいぞく)を微塵(みじん)になすもの數(かぞ)ふるに暇あらず。大磯宿は平年猶(なほ)貧困を免れざるもの多し。況や此(この)大飢(だいき)をや。或もの孫右衛門(まごうゑもん)に請うて曰く、計らざりき飢饉の患(うれひ)此の如きに至らんとは。冀(こひねが)はくは宿内(しゆくない)の困苦を憐み、當年(たうねん)の相場定めより壹斗(いちと)丈(だけ)の價(あたひ)を減じ賣給(うりたまは)らば、其の惠(めぐみ)少からずと云ふ。巻の4に入った。「大磯の川崎屋孫右衛門(まごうゑもん)」の話である。東海道の大磯宿(しゅく)に川崎屋孫右衛門(まごうゑもん)という者がいた。先祖から穀物商を営んで富豪として知られていた。しかし孫右衛門の人となりは、ケチで人を憐れむ心が薄く、専ら自分の利益だけに心を尽くしていた。また人の言は用いることはなかった。天保7年の大飢饉で大磯宿も多くが飢えた。ある者は孫右衛門に「宿内の困苦を憐れんで、相場より安く売ってくれれば宿内の者がどんなにか助かるかわからない」と言ったが、孫右衛門はそれにすぐに応じることなく、江戸へ出て穀物相場を調べにいった。番頭の伊三郎は「主人は今江戸に出ております。帰ったらその望みにも応じられるでしょう」と次々と来る救助の求めを断った。大磯宿の人々は次第に憤りを増して、「今家にいないのは、利を貪らんがためだ」と普段の行いもあって、「哀れみをこうても無駄だ。どうせ飢え死にするなら打ち壊してやろう」と集団で打ち壊したのであった。小さな資料室長さんが、新たに載せていただいた「二宮翁夜話巻の2」の49にも尊徳先生が敵討ちについて論じられたついでに大磯宿川崎屋孫右衛門について言及されている。報徳を学ぶ者にとってよく知られた逸話だったのである。 天保の飢饉に神奈川県の大磯に川崎屋孫右衛門という者が、暴民に打ちこわしされた。役人は暴力を奮った民を捕らえて牢獄に閉じ込めるとともに、孫右衛門も牢屋に入れること三年に及んだ。孫右衛門は憤怒にたえることができず、上下を怨んで、この怨を報復してくれようと熱心だった。私は、復讐は人の道ではない、富者は貧者を救って、大磯宿を安んじることが天理であることを教えた。しかし孫右衛門は決めかねずにいた。鎌倉円覚寺の淡海和尚に質問して、後悔し、初めて復讐の念を断ち切ることができた。そして身代を残らず大磯宿に出して、宿内の救助にあてた。宿内は俄然一挙に融和し孫右衛門を尊敬すること父母のようであった。役人もまた孫右衛門に褒美を与えた。私は、ただ復讐は人の道ではない、世を救い世のためになることが天理であることを教えただけでこの好結果を得たのである。もし過って復讐の謀をしていれば、どんな修羅場になっていたか分らない。恐れなければならない。(二宮翁夜話巻の2)四九 (略)天保の飢饉(キヽン)に、相州大磯(イソ)駅川崎某と云者、乱民に打毀(コハ)されたり、官乱民を捕(トラ)へて禁獄(キンゴク)し、又川崎某をも禁獄する事三年、某憤怒(フンヌ)に堪(タ)へず、上下を怨(ウラ)み、上下に此怨を報ぜんと熱(ネツ)心す、我(わレ)是に教(オシ)ふるに、復讐は人道にあらざるの理を解(ト)き、富者は貧を救(スク)ひ、駅(エキ)内を安ずるの天理なる事を以てせり、某決する事能はず、鎌倉(カマクラ)円覚寺淡海和尚に質(タヾ)して、悔悟(クワイゴ)し決心して、初て復讐の念を断(タ)ち、身代を残(ノコ)らず出して、駅内を救助す、駅内俄然(ガゼン)一和して、某を敬(ケイ)する事父母の如し、官又厚(アツ)く某を賞するに至れり、予只復讐は人道にあらず、世を救ひ世の為を為すの天理なる事を教(ヲシ)へしのみにして、此好結果を得たり、若(モシ)過(アヤマ)ちて、復讐の謀(ハカリゴト)をなさば、如何なる修羅場を造作するや知るべからず、恐れざるべけんや「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。💛「静岡県報徳社事蹟」をクラウドファンディングで資金を集めたのだが、「遠州報徳の師父と鈴木藤三郎 新版」を印刷し、5千円以上協力の方に差し上げようと企画した。 2冊同時出版はさすがに無理があって、クラウドファンディングで資金目標額には不足してMさんから不足資金について、報徳仕法の「無利息貸付法」で貸与を受けて印刷所への支払いが終わった。 報徳の「終わりを見て始める」という考え方からはずれていたかなと思うと同時に、「無利息貸付法」を体験できてよかったとも思った(^^) Mさんに貸付したお金を返し終わる時、一回分 御礼 として余分にお返しした。尊徳先生の「無利息貸付法」はこのようなお礼や賛助金で巨大な資本となり、報徳仕法を支えたのである。 Mさんからは、お返しいただいたお金で、記念に草刈機を買いました。本日始めておろして〇〇中学校の校庭の草刈してきました。「Mさん、お金が喜ぶ使い方、「喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。お金は大喜び」する使い方をしていただいて有難うございます(^^)
2023.06.30
報徳記巻之三【7】相州伊勢原駅加藤宗兵衛先生の教を受け一家を治む是(こゝ)に於て宗兵衛先生に見(まみ)ゆ。先生曰く、嗚呼(あゝ)汝過(あやま)れり、父の末子(ばつし)を愛して之に財を分たんとするは、是(これ)目前の愛情而已(のみ)にして後年の憂ひを知らざるが故なり。今は父子なり兄弟(けいてい)なり。一家を讓(ゆず)りたりとも、家財を分ちたりとも、父子兄弟(けいてい)何(なん)の子細(しさい)かあらんや。後世(こうせい)子孫に至る時は本末の名而已(のみ)にて他人の情に彷彿(ほうふつ)たるべし。世上(せじやう)の本末小利の争ひより事を生じ、互(たがひ)に仇讐(きうしう)の思ひをなすもの少からず。今宗兵衛家財田地(でんぢ)を分ち與(あた)へ、弟(おとゝ)爲藏の家貧にして分ちたるものをも子孫に存することあたはざる時は無事なるに近し、然るに爲藏の人となりを聞くに篤實(とくじつ)にして財を費さず、賣売(ばいばい)の才は却(かへつ)て兄に増れりと。左あれば彼必ず一家を富(とま)さんか、若し宗兵衛の子なるもの爲藏に如ずして家事窮することあらば、家の財を分ち分家せし故に此の家衰へたりと叔父(しゅくふ)を怨るの心を生ぜん。爲藏の子たる者之を聞かば従弟(じゆうてい)の所行(しよぎやう)の足らざる事を云ひて、其の怨望(ゑんぼう)を憤るの心あらん。然らば其の憂ひ遠きにあらず。一旦互ひに怨心(ゑんしん)を發(はつ)することあらば、子孫代代怨望の心而巳(のみ)増長し、本末の好(よし)みを失ひ、祖先までも非とするに及ばんか。是(これ)凡情取るに足らざる事と雖(いへど)も、賣利(ばいり)を以て主とする商家何ぞ代々互ひに相讓(あひゆづ)るの賢人を生ぜんや。凡夫にして凡夫の情に隨(したが)ひ一方困窮に及ばゞ是より怨望相争うに至らん、甚しきは之が爲に本末共に家を覆(くつが)へすに及ばんか、今汝の意の如くして必ず世々此の憂ひなき時は幸ならん。若し斯くの如き禍(わざわひ)とならば今の慈愛は子孫の大害(だいがい)にあらずや。子孫の害を防がんと欲せば、必ず家財を分つ事なかれ。爲藏なる者に一金を與へずして、獨手(どくしゆ)に家を起さしむるとも一身の丹誠を以て之を爲さんこと難きに非ず。一人の力を以て家を興さば、本末何の憂ひをか生ぜんや。自力に事を爲すべき爲藏に一家を分ち與へ、代々の憂ひを殘(のこ)さんとするは目前の愛に泥(なず)みて慮(おもんぱか)り足らざるの過ちなり。然れども今分家せんとするに働きありといへども、爲藏一金を得ずして賣物(うりもの)の元資(げんし)とすべきものあるべからず、是故に我二十金か三十金を無利息にて貸與(かしあた)へ、一家を興(おこ)さしむべし。必ず一物も生家の財を分つべからず、汝の父愛情により財を分てと云はゞ、予が言を以て之を諭(さと)すべし、必ず其の心を安(やす)んぜんこと疑ひあらず と教誨(きやうかい)す。宗兵衛平兵衛大いに感じ先生の深慮且恩恵の厚きを謝し、家に歸(かへ)り具(つぶさ)に父に告ぐ。父も亦大いに感動して爲藏に告ぐ。爲藏大いに悦び此の道を以て一家平安を得たりと云ふ。伊勢原の加藤宗兵衛は、尊徳先生に面会した。先生はこうおっしゃった。「ああ、おまえは過っている。 父が末っ子を愛して財産を与えようとするのは、目前の愛情だけで後年の憂いとなることを知らないからだ。今は父子であり、兄弟である。一家を譲っても、家財を分っても、父子兄弟何のしさいもあるまい。後の世となって子孫になる時は、本家末家の名前だけで、他人の情愛をホウフツするようになるであろう。世間で本家末家で小利の争いから争いを生じて、互いに仇敵のような思いをするものが少なくない。今、宗兵衛は家財田地を分って与え、弟の為蔵が貧しくて分けたものを子孫に残すことができないときは何事もなかろう、しかし為蔵の人となりを聞くと篤実で財産を費消せず、売買の才能はかえって兄にまさっているという。そうであれば、彼は必ず一家を富ますであろう。もし宗兵衛の子が為蔵に劣って家事が窮することがあれば、家の財産を分与して分家したからこの家が衰えたのだと叔父を怨む心が生ずるであろう。為蔵の子がこれを聞くならば、従弟の自らの行いが足らないことを言って、その怨みに憤ることもあろう。そうであればその憂いは遠くはない。いったん互いに怨む心を発するならば、子孫代々怨みの心を増長して本末のよしみを失って、祖先まで非とすることにまでなろうか。これは凡人の情で取るに足りないことではあるが、売った利を主とする商売の家にどうして代々互いに譲る賢人が生れよう。凡夫として凡夫の情に従って、一方が困窮に及ぶならば、怨む心で互いに争うであろう。このために本家末家ともに家を覆すほどのひどいことになるかもしれない。今おまえが思うとおりにして必ず世々憂いがないときは幸いであろう。もし私が述べたような禍となるならば、今の慈愛は子孫の大きな害となるではないか。子孫の害を防ごうと欲するならば、必ず家財を分与してはいけない。為蔵に一金を与えなくても、独りで家を起すことも一身の丹誠でなすことも難しくはなかろう。一人の力で家を興せば、本末何の憂いを生じよう。自力で事をなすことができる為蔵に一家を分与して、代々の憂いを残すことは目前の愛になずんで思慮が足らない過ちからである。しかしながら今分家しようとして働きがあるといっても為蔵は一金を得ないで売り物の元手となるものがない。このゆえに私が20両とか30両を無利息で貸し与えて、一家を興させるがよい。必ず一物も生家の財産を分与してはいけない。おまえの父が愛情で財産を分与せよといったら私の言葉をもって説諭するがよい。必ず父の心を安らかにするであろう。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。
2023.06.29
報徳記 巻之三【7】相州伊勢原駅加藤宗兵衛先生の教を受け一家を治む斯(こゝ)に相州(さうしう)大住(おほすみ)郡伊勢原宿(しゅく)宗兵衛(そうべゑ)なるものあり。茶を賣(う)りて、渡世(とせい)とせり。田圃(でんぼ)數町歩(すうちゃうぼ)を有し、之を農夫に耕作せしめ、その田徳(でんとく)を得(え)、頗(すこぶ)る家(いへ)富めり。其の性(せい)柔和にして慈愛の心あり。是を以て驛(えき)内も宗兵衛の言を信ず、曾(か)つて心學(しんがく)を好めり。心學の友たる駿州(すんしう)御厨(みくりや)竃新田村(かまどしんでんむら)平兵衛(へいべゑ)なるものあり。善人にして人の憂ひを聞く時は身を顧ず之に赴き信義を盡(つく)せり。平兵衛以前小田原に於て先生に見(まみ)え、教示(けうし)を受け、大いに感動して益々人の爲に心を盡(つく)し、善を行はんことを欲す。一時(じ)宗兵衛平兵衛に語りて曰く、我兄弟三人あり、兄を芳助(よしすけ)と云ふ。故ありて他家を繼(つ)ぐ。弟(おとゝ)を爲藏(ためざう)と云ふ。篤實(とくじつ)にして能(よ)く父母に事(つか)へ、某(それがし)にも悌(てい)たるの行ひあり。老父甚だ之を愛す。某(それがし)父の意を察し、弟(おとゝ)をして此の家を繼(つが)しめんことを請ふといへども父之を許さず。分家となし永く本末の親みを厚くせよと云ふ。是(こゝ)に由(よつ)て我(わが)家財金銀悉く其の半(なかば)を分(わか)ち、又田圃(でんぼ)も均しく之を別(わか)ち與(あた)へ、新(あらた)に家を作り之を分家せんと欲す、可ならん歟(か)、平兵衛之を聞き沈吟(ちんぎん)すること良(やゝ)久うして曰く、父の愛せるを以て家を譲らんとすれども父之を許さず。故に一家を中分(ちゆうぶん)し、其(その)一を與(あた)へんとするは、至當(したう)の道に似たりといへども全(ぜん)一家の大事なり。余(よ)が如き不才のものゝ可不可を決すべきにあらず。子(し)未だ知らずや、野州櫻町に二宮先生あり。既往(きわう)を考へ未發(みはつ)を悟り、身に仁義の道を行ひ、口に聖賢の大道を説き、衰廃再興の道を以て舊復(きうふく)安堵(あんど)を得たる者幾千萬家なるを知らず。予會(かつ)て教へを受たり。子(し)此の先生に就て其の是非を問はば必ず兄弟共に道に至らんこと必せり、若し予が言に隨(したが)はんと欲せば予と共に野州に往き教へを受けよと云ふ。宗兵衛聞きて大いに悦び、父に告げて野州櫻町に來れり。先づ平兵衛此の由を以て先生に問ふ。先生曰く、宗兵衛なる者來れるか。曰く然り。 相州(そうしゅう)の伊勢原宿(神奈川県伊勢原市)に加藤宗兵衛(そうべえ)という者がいた。茶屋を商い、田畑を多く有し小作に耕させ、富豪であった。その性質は柔和で慈愛の心があった。かって心学を好んだ。心学の友で御殿場の竈新田(かまどしんでん)の小林平兵衛(へいべえ)という者がいた。善人で人の憂いを聞くときは、身を顧みることなく信義を尽くした。平兵衛は以前に小田原で尊徳先生に会って教えを受け、大変感動してますます人のために心を尽くして、善を行おうと欲した。ある時、宗兵衛は平兵衛にこう語った。「私には兄弟が三人いる。 兄を芳助といって、わけがあって他家を継いだ。 弟を為蔵という。 篤実でよく父母に仕えて、私にも弟としてよく行ってくれる。 年老いた父は大変この為蔵を可愛がっている。 私は父のこころを察して、弟にこの家を継がせようと父に請うたが許してくれない。 分家としてながく親しく仲良く付き合えよという。 そこで私は我が家の財産金銀ことごとくその半ばを弟に分って、、また田畑もひとしく分ち与え、新たに家を作って分家としようと思うのだが、それでよいだろうか」平兵衛はこれを聞いて黙り込んで考え、暫くして答えた。「父が愛するからと家を譲ろうとしたが、父が許さない。 だから家を中分してその一つを与えるというのは、至当であるように思えるが、これは一家の一大事である。 私のような不才の者にその可否を決することはできない。 あなたは、野州(栃木県)桜町に二宮先生がいらっしゃることを知らないか。 既に起ったことを考え未だおこらないことを悟り、身に仁義の道を行い、口に聖賢の大道を説いてその仕法によって旧に復して安泰となった者は幾千万家になるか分らない。私はかって教えを受けたことがある。あなたはこの先生についてその是非を質問すれば必ず兄弟ともに最善の道を得ることができましょう。もし私の言葉に従うというのなら私と一緒に野州に行って教えを受けましょう」加藤宗兵衛はこれを聞いて大変喜んで、父にその旨を告げて桜町にでかけたのであった。☆「尊徳先生が御殿場の小林平兵衛という人の仏壇を開帳されたところ、そこに「諸人無愛敬諸道難成就(諸人愛敬無ければ、諸道成就しがたし)」と書かれてあったのを見て、「きさまは、この語をもっぱら信じ用いる者か」とひどくお叱りになったことがあります。「諸人に愛敬を受けなければ、道は成就しないなどと思って、人に助けられることのみ修行するものだ。これは菜っ葉の虫が柔らかい葉を食うようなものだ。本当に諸道を成就しようと思うなら、次のように心がけるべきだ。 諸人救助なくして諸道成就しがたしこの自他の違いは大きい。人と生まれて諸人を救助することなければ、諸道成就することなし。人を救い助ける心を押し広げる。そして是非を見極め、誠をもって救い助けるべきだ。そうして後に諸道は成就するのだ」とじゅんじゅんと諭されたのでした(報徳見聞記68)「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。
2023.06.28
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる高慶曰ク人主政ヲ爲ルに勤メテ而シテ民を恤ムニ厚クセバ、凶歉ニ遇フト雖トモ、民未ダ遽ニ死亡ノ禍ニ陥ルコト有ラズ。先生ノ三邑ニ於ケル凶年キ(食に幾)歳ニ當テ民ノ奉養ニ饒ナル、平時ニ過ルコト有リ。他無シ。惠政浹洽ニシテ貯蓄餘リ有ルヲ以テナリ。烏山ノ如キハ則チ然カラズ。平居猶ホ其ノ窮ヲ救フコト無シ。一旦凶荒ニ遇ヒ窮厄亦極マレリ。是ニ於テ圓應憤リヲ發シ、菅谷ト謀テ櫻町ニ造リ先生ニ從フテ救荒ノ道ヲ問フ。志ヲ執ル甚ハダ固シ。先生亦民罪無クシテ飢亡ノ災ニ罹ルコトヲ愍レミ、授クルニ撫恤ノ方ヲ以テス。是ニ由テ存活スル者數千百人、更ニ分度ヲ定メテ負債ヲ償ヒ、荒蕪ヲ闢キ財ヲ國計ノ外ニ生ジ、廢頽ヲ復スルノ業立てり。然レドモ一タビ先生ノ教ニ從ハズ、而シテ圓應命ヲ殞シ再タビ先生ノ教ニ從ハズ、而シテ菅谷擯黜セラル。其后チ更ニ先生ノ至誠ニ由テ將ニ復タ之ヲ擧ントス。而シテ菅谷亡歿セリ。是ニ於テカ良法廢棄復タ擧ルヲ得ズ。嗚呼古自リ國ノ盛衰存亡ハ要スルニ其ノ人ニ存ス。圓應菅谷ノ若キ有ラバ則チ其政擧ル。二人斯ニ亡ビ遂ニ其終ヲ全クスルコト能ハズ。命ナルカナ。 原文は漢文で、富田高慶の烏山仕法に対する評であり、「ああ、古より国の盛衰存亡はその人に存す。円応和尚や菅谷のような者があれば、その政は挙がり、二人がいなくなったら報徳仕法は廃し、その最後を全うすることができなかった。天命というべきであろうか。」と深く嘆じている。そして、富田高慶は相馬仕法を実践するにあたって、菅谷の失敗を踏むことなく、見事に相馬藩を報徳仕法で復興させたのであった。二宮先生は相馬領に足を踏み入れたことはなかった。おそらくは報徳仕法の普遍性を示すためであり、また富田高慶という人を深く信任していたからである。だからこそこの報徳記が生れた。明治以降幾多の青年がこれに感動し、自らの人生の拠り所としてきた。おそらくこれから先も、心ある人がこの書と二宮翁夜話を熟読玩味すれば、汲めども汲みつくせぬ真実を見いだすであろう。尊徳先生は言われた。「この世界が滅びるまで、私の立てた方法の真実は揺るがない」と。「補注報徳記」(佐々井典比古)著者(富田高慶)が思うに人君が政治につとめ、厚く民を恵めば、凶年にあっても民がにわかに餓死流亡の災いに陥ることはない。先生の桜町3箇村においては、凶年飢歳に当って、民の衣食が豊かなこと、平年にまさるものがあった。これはほかでもない、仁政があまねく行き渡って貯蓄が余りあったからである。烏山のごときは、これと異なり、平生でも民の困窮を救うことがなく、一たん凶荒に遇って窮厄も極度に達した。ここにおいて円応は発憤し、菅谷と相談して桜町に至り、先生に救荒の道を問い、その志を遂げようとする決意は非常に堅かった。 先生は民が罪がないのに餓死流亡の災いにかかることを哀れみ、撫育の方法を授けられた。 これによって命を全うしたものは数千人であった。 それからさらに、分度を定め、負債を償い、荒地を開き、国の会計の外に分外の財を産み出して、頽廃(たいはい)を復興する仕法を立てられた。しかるに一たび先生の教えに従わないで円応が命を落とし、再び先生の教えに従わないで菅谷が退けられた。その後さらに先生の至誠によって、仕法を再興しようとしているうちに菅谷が病没した。ここにおいて良法は廃棄のままとなり、再び開始することができなかったのである。実に古来、国の盛衰存亡は、要するに人に存する。円応、菅谷のごとき人物があれば治績が挙がり、二人がここに亡くなって、ついにその有終の美をなすことができなかった。まことに天命ではある。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。
2023.06.27
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる菅谷止むことを得ずして之に隨(したがひ)ひ金(きん)を持ちて去る。先生門下に告げて曰く、嗚呼(あゝ)歎くべし、菅谷の過(あやまち)今其(そ)の惑(まどひ)開けたりといへども、盲弟を諭(さと)すに金(きん)を持ちて教へざれば艱難に迫りし弟(おとゝ)何を以て道理を解(かい)せん、我是を以て金(きん)を贈れり。然れども菅子(すがや)能く大義を諭すや否や、將(はた)再び姑息(こそく)に流れ、道を失ふの處置(しょち)なきを必(ひつ)し難し。人々道を蹈(ふ)むの難きこと斯くの如し。二三子(し)夫れ之を鑑(かんが)み、一身の進退を過つこと勿(なか)れ。一身過つ時は一國(こく)の憂ひとなり、一身道を蹈(ふ)む時は一國(こく)の幸(さひはひ)となる。一身の進退亦大ならずやと。先生人に接する毎(ごと)に其の誠心(まごゝろ)斯(か)くの如し。 烏山良法を廢(はい)し、菅谷を放(はな)ち、謀(はかりごと)を得たりとし、専ら負債を以て目前の不足を補(おぎな)はんとす。國(こく)民之を怨み、人氣(にんき)亦(まや)大いに衰へ、荒蕪の地再び生じ、貢税も亦減ぜり。上下の困窮彌(いよいよ)迫り如何(いか)ともすべからず、某(それがし)の年に至り烏山候仕法を廢し、菅谷を放ちたることを悔い玉ひ、大夫(たいふ)大久保某(なにがし)を以て再び仕法を先生に請はしむ。先生曰く、烏山の仕法菅谷に始れり、今何國(こく)にか在るや。大久保某(なにがし)答へて曰く、彼罪ありて放れたり。先生曰く、君(きみ)其(そ)の初(はじめ)に菅谷をして道を請(こ)はしむ。予(われ)之に道を傳(つた)へて以て君意を達せんとせり。其の人罪あらば何ぞ某(それがし)に一言(ごん)を通じて、然る後放たざるや、道の爲に力を盡(つく)せしものを如何(いか)に家臣なればとて、某(それがし)に告げずして、進退し玉(たま)ふこと、其の意を得ざる處置(しよち)といふべし。加之(しかのみならず)今又國家(こくか)の仕法を再び興さんとするに、方法の本末を知らざる人に談ずるとも何を以て其の事を擧(あ)ぐるを得んや。先づ仕法を再び興さんとせば菅谷より始むべし。我其(そ)の他を知らざる也 と、大いに之を誡む。某(なにがし)唯唯(ゐゐ)として退き、先生の言を以て君(きみ)に言上(ごんじやう)す。君曰く、誠に然り。速かに夫れ菅谷を歸參(きさん)せしめよと。是に於て衆吏(しゅうり)之を議し、歸參(きさん)せしむるに月俸十口(じふにんぶち)を以(もつ)てせんとす、大久保某(ぼう)來り先生に告げて曰く、我が君先生の言(げん)を聞き、速かに菅谷を歸參(きさん)せしめ、之に與(あた)ふるに俸(ほう)十口(じふにんぶち)を以てせんとす。先生曰く、是我が聞くべき言(げん)にあらず、眞(しん)に罪ありて菅谷を放(はな)たば、本より歸參(きさん)の道あるべからず。罪なくして之を放たば、今歸參(きさん)せしむるは君自ら過(あやまち)を改め玉(たま)ふにあらずや。君過を改めて菅谷を呼ばんに、何ぞ十口(じふにんぶち)の扶助(ふじよ)を以てするや。元百五十石なる者は世禄(せろく)なり。申(さる)の大凶に當(あた)り、一身をナゲウちて我に撫育(ぶいく)の道を求め、飢民を救ひ、爾來(じらい)仕法を以て國益(こくえき)を擧(あ)ぐること少からず。是皆菅谷なくんば我之に應(おう)ぜんや。然らば菅谷の功豈(あに)淺少(せんせう)ならん。罪なくして功あり。之を放てるは烏山君臣の過(あやまち)なり。今其の過を悔い、之を返さんとならば、前功を賞して別に加禄あるべし。左もなくば菅谷烏山に歸るも何の益かあらん。歸參(きさん)を止め、仕法の再興を廢(はい)するに如(しか)ざる也 との理解(りかい)あり。某(なにがし)大いに感じ、此の言を以て君に告ぐ。是(こゝ)に於(おい)て五十石の禄を加へ舊禄(きうろく)に合せ、貳(に)百石を以て歸參(きさん)せしめたり。菅谷國(くに)に歸(かへ)り、再(ふた)たび良法を開かんとす。時に天保十三壬(みずのへ)寅年幕府命ありて先生を登用す。公用繁多(はんた)にして諸侯の國家(こくか)興復のことに心力を勞(らう)するの暇(いちま)あらず。弘化(こうくわ)某(それ)年菅谷疾(やまひ)に罹(かゝ)りて歿(ぼつ)せり。遂に烏山再興の道廢(はい)せり。國人(くにびと)其の時を失ひたることを歎きたりと云ふ。尊徳先生は、烏山藩が自分を放逐した嘆きと盲目の弟に20両を貸してくれまいかと依頼した菅谷に「あなたがそのような浅々たる心だからこそ烏山の復興の道が廃せられたのだ」と懇々と説諭された。「国家を憂い、過ちを悔いる言葉は一言もなくて、盲弟のみを助けようとして、その費用を私に求めるのは、本末、軽重を失い、人臣の大義を忘れるものではないか。 一人の心は誠に僅かなようであるが、その至誠にいたっては鬼神もこれに感応し、天地の大なるものもこれに感動する。 あなたが天保の大飢饉のときに数千人の飢えた者を救いたい、荒れ果てた土地を開きたいとして私に求めたその真心より烏山の仕法は起ったのだ。そうであればその真心をますます磨いて、私が言ったとおり、恩禄は辞して忠勤を怠らなかったならば、仕法は盛んになってその成果は明らかになったであろう。たとえ讒言しようとする者がいても誰が信じたであろう。あなたが一旦辞退した恩禄を再び受けて自分の身辺を豊かにした過ちからついには国家の幸福を失い、国家の災いを招いたのだ。あなたが退けられるのも当然ではないか。退けられて未だにその過ちを顧みないで、国家が悪いとして自らを悔いる心がなく、憂える誠がない。烏山が安泰か、危難かはあなたが誠であるか誠でないかにかかっているのだ。何ということか、私の苦心もあなたの忠孝も廃して、盲弟を救えと懇請するとは。たとえ今姑息の愛であなたの弟を救ったとしても、どうして盲弟一人全くすることができよう」菅谷は体中汗でびっしょりとなり、先生を再拝していった。「ああ、あやまてり、ああ、あやまてり。私は愚かだといっても、かって先生から道を聞きました。なんということか、道を失うこと、これほどまでになっていたとは。今先生の尊い教えを聞いて私の惑いもすべてなくなりました。私は愚かではありますが、どうして実践しないでいられましょう。弟が困窮するのはもとよりその分です。私の失言を許したまえ。」ここにおいて尊徳先生は20両の金を菅谷に差し出した。「あなたの志が違うがゆえに烏山の道が絶えることを嘆いて、当然の道を告げたのです。今あなたがそのことを明らかにわかれば幸いです。この20両を持っていきなさい。」菅谷は驚いて、受け取れないと辞退した。先生はこう言われた。「あなたの惑いが散じたといって、盲弟がどうして理解できよう。 あなたが私の言葉を聞く前に弟を諭せばよいが、すでに心を同じくして私に借りようと約束して、江戸で日々待っている。今あなたが大義を知ったとしてもどうしてすぐに弟の惑いを解くことができよう。惑いが解けないときは兄弟の約束が変じて怨みの心を生じよう。これもまたよくない。速やかに弟に送りなさい。」菅谷はやむを得ず20両を持って去った。尊徳先生は、門弟に告げてこう言われた。「ああ、嘆くべし。 今、菅谷の惑いが開けたといっても、盲弟を諭すのに金を持って教えなければ、艱難に迫っている弟がどうして道理を理解しよう。私はこのために金を贈ったのだ。しかし菅谷がよく大義を諭すか、はたまた再び姑息に流れて道を失う処置をするか分らない。人が道を踏むということはこのように危ういものだ。あなたたちもこれを鑑みて、一身の進退をあやまってはならない。一身道をあやまるときは一国の憂いとなり、一身道を踏むときは一国の幸いとなる。一身の進退はこのように大きいのだ。」烏山藩は、菅谷を追放し、仕法を廃止して、借金して目前の不足を補おうとしたが、荒地が生じ、租税も減少し、上下の困窮も極まった。そこで再び尊徳先生のもとへ仕法を依頼にきた。先生は罪無くして菅谷を追放したことの過ちを諭し、菅谷を烏山藩に帰参させ、俸禄も以前より増させた。しかし、この後、先生も幕府に登用され、諸藩のことまで目配りできなくなり、仕法の推進者たる菅谷も死去してついに烏山藩の仕法は中途で廃止するにいたったのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。
2023.06.26
報徳記巻之三【7】相州伊勢原駅加藤宗兵衛先生の教を受け一家を治む是(こゝ)に於て宗兵衛先生に見(まみ)ゆ。先生曰く、嗚呼(あゝ)汝過(あやま)れり、父の末子(ばつし)を愛して之に財を分たんとするは、是(これ)目前の愛情而已(のみ)にして後年の憂ひを知らざるが故なり。今は父子なり兄弟(けいてい)なり。一家を讓(ゆず)りたりとも、家財を分ちたりとも、父子兄弟(けいてい)何(なん)の子細(しさい)かあらんや。後世(こうせい)子孫に至る時は本末の名而已(のみ)にて他人の情に彷彿(ほうふつ)たるべし。世上(せじやう)の本末小利の争ひより事を生じ、互(たがひ)に仇讐(きうしう)の思ひをなすもの少からず。今宗兵衛家財田地(でんぢ)を分ち與(あた)へ、弟(おとゝ)爲藏の家貧にして分ちたるものをも子孫に存することあたはざる時は無事なるに近し、然るに爲藏の人となりを聞くに篤實(とくじつ)にして財を費さず、賣売(ばいばい)の才は却(かへつ)て兄に増れりと。左あれば彼必ず一家を富(とま)さんか、若し宗兵衛の子なるもの爲藏に如ずして家事窮することあらば、家の財を分ち分家せし故に此の家衰へたりと叔父(しゅくふ)を怨るの心を生ぜん。爲藏の子たる者之を聞かば従弟(じゆうてい)の所行(しよぎやう)の足らざる事を云ひて、其の怨望(ゑんぼう)を憤るの心あらん。然らば其の憂ひ遠きにあらず。一旦互ひに怨心(ゑんしん)を發(はつ)することあらば、子孫代代怨望の心而巳(のみ)増長し、本末の好(よし)みを失ひ、祖先までも非とするに及ばんか。是(これ)凡情取るに足らざる事と雖(いへど)も、賣利(ばいり)を以て主とする商家何ぞ代々互ひに相讓(あひゆづ)るの賢人を生ぜんや。凡夫にして凡夫の情に隨(したが)ひ一方困窮に及ばゞ是より怨望相争うに至らん、甚しきは之が爲に本末共に家を覆(くつが)へすに及ばんか、今汝の意の如くして必ず世々此の憂ひなき時は幸ならん。若し斯くの如き禍(わざわひ)とならば今の慈愛は子孫の大害(だいがい)にあらずや。子孫の害を防がんと欲せば、必ず家財を分つ事なかれ。爲藏なる者に一金を與へずして、獨手(どくしゆ)に家を起さしむるとも一身の丹誠を以て之を爲さんこと難きに非ず。一人の力を以て家を興さば、本末何の憂ひをか生ぜんや。自力に事を爲すべき爲藏に一家を分ち與へ、代々の憂ひを殘(のこ)さんとするは目前の愛に泥(なず)みて慮(おもんぱか)り足らざるの過ちなり。然れども今分家せんとするに働きありといへども、爲藏一金を得ずして賣物(うりもの)の元資(げんし)とすべきものあるべからず、是故に我二十金か三十金を無利息にて貸與(かしあた)へ、一家を興(おこ)さしむべし。必ず一物も生家の財を分つべからず、汝の父愛情により財を分てと云はゞ、予が言を以て之を諭(さと)すべし、必ず其の心を安(やす)んぜんこと疑ひあらず と教誨(きやうかい)す。宗兵衛平兵衛大いに感じ先生の深慮且恩恵の厚きを謝し、家に歸(かへ)り具(つぶさ)に父に告ぐ。父も亦大いに感動して爲藏に告ぐ。爲藏大いに悦び此の道を以て一家平安を得たりと云ふ。伊勢原の加藤宗兵衛は、尊徳先生に面会した。先生はこうおっしゃった。「ああ、おまえは過っている。 父が末っ子を愛して財産を与えようとするのは、目前の愛情だけで後年の憂いとなることを知らないからだ。今は父子であり、兄弟である。一家を譲っても、家財を分っても、父子兄弟何のしさいもあるまい。後の世となって子孫になる時は、本家末家の名前だけで、他人の情愛をホウフツするようになるであろう。世間で本家末家で小利の争いから争いを生じて、互いに仇敵のような思いをするものが少なくない。今、宗兵衛は家財田地を分って与え、弟の為蔵が貧しくて分けたものを子孫に残すことができないときは何事もなかろう、しかし為蔵の人となりを聞くと篤実で財産を費消せず、売買の才能はかえって兄にまさっているという。そうであれば、彼は必ず一家を富ますであろう。もし宗兵衛の子が為蔵に劣って家事が窮することがあれば、家の財産を分与して分家したからこの家が衰えたのだと叔父を怨む心が生ずるであろう。為蔵の子がこれを聞くならば、従弟の自らの行いが足らないことを言って、その怨みに憤ることもあろう。そうであればその憂いは遠くはない。いったん互いに怨む心を発するならば、子孫代々怨みの心を増長して本末のよしみを失って、祖先まで非とすることにまでなろうか。これは凡人の情で取るに足りないことではあるが、売った利を主とする商売の家にどうして代々互いに譲る賢人が生れよう。凡夫として凡夫の情に従って、一方が困窮に及ぶならば、怨む心で互いに争うであろう。このために本家末家ともに家を覆すほどのひどいことになるかもしれない。今おまえが思うとおりにして必ず世々憂いがないときは幸いであろう。もし私が述べたような禍となるならば、今の慈愛は子孫の大きな害となるではないか。子孫の害を防ごうと欲するならば、必ず家財を分与してはいけない。為蔵に一金を与えなくても、独りで家を起すことも一身の丹誠でなすことも難しくはなかろう。一人の力で家を興せば、本末何の憂いを生じよう。自力で事をなすことができる為蔵に一家を分与して、代々の憂いを残すことは目前の愛になずんで思慮が足らない過ちからである。しかしながら今分家しようとして働きがあるといっても為蔵は一金を得ないで売り物の元手となるものがない。このゆえに私が20両とか30両を無利息で貸し与えて、一家を興させるがよい。必ず一物も生家の財産を分与してはいけない。おまえの父が愛情で財産を分与せよといったら私の言葉をもって説諭するがよい。必ず父の心を安らかにするであろう。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。また自らの潜在意識をコントロールする方法を教えるものです。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)五日市剛氏の心に響く言葉より…ミャンマーの大僧正であったS氏は、アメリカのマサチューセッツ工科大学で博士号をとった学者であり、その後ビジネス界でも大成功を収めた偉大なかたです。S氏はこんなことをいいました。「世の中の物は、陽子と中性子できている。その陽子と中性子は『意思』と『意識』でできている。しかも、これらをつなぎあわせているのは『感謝』だ」こんなぶっ飛んだ発想には驚きましたが、S氏いわく科学的な根拠があるそうで、「彼がいうことがほんとうなら、いったいどんなことがいえるだろうか」と真剣に考えてみました。要は、「すべての物質には意思と意識がある」ということなのでしょうが、もしそうであれば、生物のみならずどんな物質にも関心や愛情を注いでいると、「共鳴」という現象が起こって、もともとその物資に宿った意思と意識が増大するかもしれない…。例えば、いつも大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事にしている愛車があるとします。毎日心を込めて洗車したり、ときおり優しい声を掛けながら大事に乗り続けていると、その車の意思と意識がどんどん膨らんで、いざというとき事故に至らなかったり、事故が起こっても運転席のご主人様をしっかりと守ってくれる…ような気がします。そういえば、日本の各分野で活躍する「現代の巨匠(あるいは名工)」と呼ばれる人たちは、自分が使う道具や機械に深い愛着を持ち、それらにいつも声をかけて大事にしている人が多いと聞きます。そんなことを考えながら、「この世の物質の中で、意思と意識がパンパンに膨れ上がるくらいに大きくなっているものは何だろう…」と思いを巡らしていると、それは『お金』にちがいない、という結論に達しました。お金に興味のない人なんて、いないと思うからです。「世の中、カネじゃないよ」という人だって、ある程度はお金に関心がないと、生きていけなくなりますからね。使い古されたお札(一万円札や五千円札など)を燃やすと、人を焼いたにおいがすると聞いたことがあります。これにはギョッとしましたが、もしそうだとすると、やはりお金には人間特有の意思や意識があるのではないかと思いたくなります。我々が魔法をかけられて、お金にドロンと化けたとします。お金は無機物ですから、手足がニョキッとはえて、トコトコ動くことはできません。でも、意思と意識がある、とすると、お金である我々は、いったいどんなご主人のもとに戻りたいと思うでしょうか?おそらく、お金を大事に扱ってくれる人、お金が喜ぶように使ってくれるご主人のもとに戻りたいと思うでしょうね。しかも、友達をたくさん連れてくるかもしれません。さて、今度は人間の側に戻ります。いま手元にあるお金をどのように使ったら、このお金は喜ぶだろうか…。そう考えながら実践するようになると、お金とのつきあい方がだいぶ変わってきますし、金運も上がるようです。大事なことは「いかに貯めるか」よりも、「いかに使うか」です。ものすごく金回りのよい人というのは、お金を使うのがうまいのです。ほんとうにうまい。お金を支払う際にも、相手がにっこりするような、ちょっとした演出ができるかたが多いです。喜ぶ相手を見て、自分も喜ぶ。するとお金は大喜びし、そのご主人のもとに、友達を連れて戻ってくるかもしれません。💛「お金を手に入れることを考える人が多いですが、実は出し方が肝心で、正しい使い方、正しい出し方を覚えてしまうと、努力もなくお金が勝手にはいってくるそうです!」
2023.06.24
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる且(かつ)思へらく我猶(なほ)斯(か)くの如し、況(いはん)や子(し)に於てをや。子(し)退られ、定めて國家(こくか)の道を失ひし事を憂ひ、君の仁心を遂玉(とげたま)ふことのあたはざるを歎き、臣下の忠義ならざるを憐み、下民(かみん)の困苦を免かれざるを哀れみ、上を怨みず、人を咎めず、興復の道中廢(ちゆうはい)せしは皆我が一身の誠心(まごゝろ)足らずして行ひ缺(かけ)たるが爲なり。仰ぎて君恩を報ずることなく、伏して困民を救ふことあたはず、誠忠足らずして退けられ、一家祖先への不孝亦(また)軽からず、假令(たとひ)退けらるゝといへども日夜過(あやまち)を補ひ、一身こそ退去すと雖も心は頃刻(けいこく)も烏山を離れず。君若し再び仁政を布かせ給ふ時至らば、不忠の罪を謝し、身命をナゲウち、精忠(せいちゆう)を盡し、發願(ほつぐわん)の志を遂げ、君の苦心を安んじ、其(そ)の仁心を擴(ひろ)め、國民(こくみん)の窮苦を除き、仁澤(じんたく)に浴せしめ、永く國家(こくか)の憂ひなからしめんと、起ては肺肝を碎(くだ)き、臥しては思慮を盡(つく)し、暫時も過を補ふの念慮を失はざるならんと思ひしに、豈(あに)計らんや今日漠然として人臣の大義を忘れ、區々(くゝ)たる親族の姑息(こそく)に惑ひ、盲弟を助力せよとの請(こひ)を聞かんと々は。子(し)斯(かく)の如き淺々(せんせん)たる心なればこそ、興復の道廢(はい)し、身も亦退けらるゝに至る。是烏山諸臣の罪にはあらず、皆自ら之を招きしにあらずや。此の時に當(あた)り、子(し)苟(いやしく)も忠義の心あらば、自ら責め、自ら悔い、一身の艱難深からざるを憂ひ、道路に立つも猶(なほ)罪を贖(あがな)に足らずとせんか、然らば妻子一族も共に子(し)と同じく困苦を甞(な)め、烏山一國(こく)上下(じやうげ)の貧困を救ふことあたはざるが故に、我等飢渇に及び道路に斃(たほ)るるも當然(たうぜん)なりとせば、身退けられたりといへども其の忠心の馨(かう)ばしき事誰か感ぜざらん。誰か此の志を憐まざらん。烏山道なしといへども子(し)を退けしを悔ゆるの時あらん歟(か)。然らば盲弟活計便りなしといへども、子(し)の志を聞かば、假令(たとひ)食せずして斃(たほ)るるとも何をか求め、何をか怨みん。斃(たほ)れながらも烏山再盛の道生じ、兄の忠義再び立たんことを祈らん。何の暇(いとま)ありて己の補助を流浪の兄に求めんや。假令(たとひ)愚蒙(ぐもう)にして求むるとも此の正理を以て厚く教へ、共に艱苦を蹈(ふ)ましむるこそ兄たるものゝ道にあらずや。然るに國家(こくか)を憂ひ、過ちを悔(くゆ)ることは一言(ごん)もなくして盲弟而巳(のみ)を助けんとし、其(そ)の費用を我に求むるは本末軽重を失ひ、姑息(こそく)に流れ、人臣の大義を忘れたるにあらずして何ぞや。一人の心は誠に僅々(きんきん)たるが如しといへども、其の至誠に至りては鬼神(きしん)之が爲(ため)に感じ、天地の大(だい)なるも之が爲に感動す。夫れ烏山の大飢(たいき)に當(あた)り、國民飢亡の憂ひ旦夕(たんせき)に迫れり。然して上下(しやうか)の窮厄(きゆうやく)既に極(きはま)り、倉廩(そうりん)空虚にして千慮百計之を救ふの道なし。子(し)斷然(だんぜん)として救荒(きうくわう)の志を發し、心に誠に之を求めしかば、我應(おう)じて以て數千人の飢者(きしや)を救ひ、續(つゞ)いて荒蕪(くわうぶ)を擧(あ)げ撫恤(ぶじゅつ)の道を施し、禍を轉(てん)じて國家の大幸(たいかう)を開きしは、全く子の誠心(まごゝろ)より發(おこ)りしにあらずや。然らば此の誠心(まごゝろ)を益(ますます)瑳(みが)き、我が言に差(たが)わず恩禄を辭(じ)し、我が贈りし米粟(べいぞく)を食(は)みて以て忠勤怠らざる時は、君の擧用(きよゝう)彌々(いよいよ)盛んに、功業(こうげふ)も亦日々に顯(あら)はる。奸人(かんじん)ありといへども何れの處(ところ)に言語を費すことを得ん。假令(たとひ)讒者(ざんしゃ)言を放つといへども誰(たれ)か之を信ぜんや。此(こ)れをこれ行はずして一旦辭(じ)せし禄を食(は)み、身の進退を優(ゆた)かにして事を爲(なさ)んとせし過ちより終(つひ)に國家の大幸を失ひ、上下(じやうか)の大患(たいくわん)を生ぜし事なれば、子(し)の退けらるゝもの亦(また)宜(むべ)ならずや。退けらるゝといへども未だその過を顧(かへり)みず、罪を國家(こくか)に託して悔ゆるの心なく、又憂ふるの誠なし。斯(か)くの如くにして歳月を送らば、烏山再盛の道彌々(いよいよ)絶せんこと疑ひなし。子(し)一旦誠を發(はつ)する時は興國(こうこく)の惠政行はれ、誠を廢(はい)する時は再盛の道も亦廢せり。烏山の安危(あんき)は子の誠不誠にありて他にあらざること之を以て見るべし。子(し)は國(くに)の臣下を咎むといへども彼何の罪かあらん。若し彼此の言を以て子(し)を詰(なじ)らば、子(し)何の言(げん)を以て辨(べん)ずるや。且(かつ)子聊(いささ)かも我が辛勞(しんらう)を察せば專(もつぱ)ら過を改め、烏山の再興を祈り、至誠を顯(あら)はし、再び道行はれ積勞(せきらう)空しからざる時至らば當方(たうほう)にも來るべし。左(さ)なき内は我が面(おもて)を見るも忍びざる心あるべし。何ぞ計らん、我が苦心、子(し)の忠孝も共に廢(はい)し、來りて盲弟を我に救へよと請はんとは、假令(たとひ)姑息(こそく)の愛を以て子(し)の弟(おとゝ)を救ひ與(あた)ふるとも、何を以て盲弟獨(ひと)り全き事を得ん。是(こ)れ我が痛歎する處(ところ)なりと。〇尊徳先生は菅谷にこう続けて言われた。「そして私はこう思っていた。私ですらそうである。ましてやあなははもっとであろう。あなたは、退けられてから、きっと国家(烏山藩)が道を失ったことを憂い、君の仁心が達成できないことを嘆いて、臣下が忠義でないことを憐れみ、人民が困苦を免れないことを哀れみ、上を怨まず、下を咎めず、復興の道が半ばで廃したのは、みんな私のまごころが足らず、行いが欠けていたためである。仰いでは君の恩に報いることがなく、伏しては困窮した民を救うことができず、誠と忠が足りずに退けられた、一家祖先への罪もまた軽くはない。たとえ退けられても日夜あやまちを補い、一身は烏山を退去したといっても心は少しの間も烏山を離れず、君がもし再び仁政をしかれるときには、忠でなかった罪を謝し、身命をなげうって、心からの忠を尽くし、願をおこした志をとげて、君の苦しい心を安んじ、その仁心をひろめ、国民の困窮苦しみを除いて、仁政に浴させ、ながく国家(烏山藩)を憂いがないようにしようと、起きては肺肝を砕き、臥しては思慮を尽くして、しばらくもあやまちを補う気持ちを失わないようにしているだろうと思っていた。なんということか、今日漠然として臣たるの大義を忘れ、どうでもよいような親族の姑息(こそく)に惑い、盲目の弟を援助してほしいという懇請を聞くとは。あなたがこのような実に浅い心であるからこそ、復興の道は廃し、身もまた退けられるに至ったのです。これは烏山諸臣の罪ではない。みんな自ら招いたことではないか。この時にあたって、あなたにいやしくも忠義の心があるならば、自ら責め、自ら後悔し、一身の艱難が深くないことを憂えて、道路に立ってもまだその罪をあがなうに足りないとするであろう、そうであれば妻子一族もともに同じく困苦をなめ、烏山藩一国の上下の貧困を救うことができなかったために、私たちは飢えて道路に倒れるのも当然であるとするならば、身は退けられてもその忠義の心の香ばしさを感じない者はいないだろう。この志を哀れまない者がいようか。烏山藩が道がないといっても、あなたを退けたことを後悔する時もあろう。そうであれば盲目の弟も生活の方法がないといっても、あなたの志を聞くならば、たとえ食しないでたおれたとしても、何を求め、何を怨むことがあろうか。たおれながらも烏山藩が再び盛大になる道が生じ、兄の忠義が再び立つことを祈るであろう。どうして自分の補助を流浪の兄に求めることがあろうか。たとえ愚かであってもとめたとしても、この正しい理をもって厚く教え、ともに艱難を踏ましめることが兄であるものの道ではないか。そうであるのに国家(烏山藩)を憂い、あやまちを後悔することは一言もなくて、盲目の弟だけを助けようとして、その費用を私に求めるのは、本末軽重を失って、姑息にながれ、臣たるものの大義を忘れているといわないで何というか。一人の心は誠に僅かなもののようであるが、その至誠に至っては鬼神もこれに感じ、天地の大なるものもこれに感動する。烏山の大飢饉に当って国民が飢え死にする憂いがすぐそこに迫った。そこで上下の困窮災厄すでに極まって、倉庫は空っぽでさまざまに配慮し計画したがこれを救う道はなかった。あなたは断然として救済の志を発して心に誠に求めたからこそ、私が応じて数千人にも及ぶ飢餓に苦しむものを救って、続いて荒地を開拓し、民を恵み、禍を転じて国家(烏山藩)の大きな幸せを開いたにのはすべてあなたのまごころからおこったことである。そうであればそのまごころをますます磨き、私の言葉にたがわないで恩禄を辞退し、私が贈った穀物を食べて忠勤を怠らないときは、君が用いられることいよいよ盛んに、その功績もまた日々に顕れたことであろう。たとえ邪(よこし)まな者があっても、どこに非難の言葉をあげえよう。たとえ讒言(ざんげん)するものがあっても、誰がこれを信じよう。これを行わないでいったん辞退した禄を食べ、身の進退にあたって自分を豊かにして事業を行おうとしたあやまちから最後には国家(烏山藩)の大きな幸福を失い、上下の大きな災いを生じたことであるから、あなたが退けられたこともまたもっともではないか。退けられて未だにそのあやまちをかえりみないで、罪を国家に託して後悔する心がなく、また憂える誠もない。このようにして歳月を送るならば烏山が再び盛んになる道はいよいよ絶えてしまうことは疑いない。あなたがいったん誠を発するときは、国が興る政治が行われ、誠を廃するときは再び盛大にする道も廃せられる。烏山が安らかか危ういかはあなたが誠か誠でないかにあって、他にないことはこのとおりである。あなたは、烏山藩の臣下を咎めるが、彼に何の罪があろう。もし彼がこのように言ってあなたをなじるならば、あなたはどのような言葉で弁護するのか。さらにあなたが少しでも私の辛労を察するならば、専らあやまちを改めて烏山藩の再興を祈って、至誠を顕わし、再び道が行われ、積労が空しくならなかった時は当方にも来るがよい。そうでないあいだは、私の顔も見るにしのびない心があるであろう。どうして私の苦心やあなたの忠孝もともに廃していながら、来たって盲目の弟を私に救ってくださいと懇請しようとは。たとえ姑息の愛情で弟を救って金を与えても、どうして盲目の弟ひとりが全うすることができよう。これが私が大変嘆くところである」と。☆二宮尊徳先生が少女美津に語った言葉 井口丑ニの「大二宮尊徳」に載っているエピソードだという。(「尊徳の裾野」佐々井典比古)「相州(神奈川県)曽比(そび)の報徳信徒剣持広吉の娘が、野州(栃木県)の二宮家に見習いに参っていた。 いくばくもなく病いを得て故郷に帰り、療養を加えたがついに死んだ。 しかるにその病中からの態度、野州で先生から生死は一なりということを教わっていたから何も悲しむことはない、安心して死にますといって、年にも似合わず神妙に往生し、皆々感涙を催したと、父広吉から報告している。」 美津は天保12年1月20日に14歳の若さでなくなった。 3月3日付けの剣持広吉の書状にその美津の言葉が記されている。「・・・しかしながら、大道の御主意に基づき、病中より、 ひとたび夜の明け候えばひとたび日の暮るることと申すことを、もっぱら承知いたしおり候間、後生のためにも相成るべきやと愚察仕り・・・」 あくる天保13年5月には美津の祖父の与右衛門が79歳で亡くなった。「大道の御主意に基づき、御教意を受け奉り候御徳によって、安心に任せ、極楽往生いたすべき」遺言があったと伝えられる。 この剣持与右衛門という人もなかなかたいした人物で、3町8反歩を一所懸命働いて一代で20町歩に増やした。二宮先生が仕法を実施した時に、養子の広吉に「もともと3町8反歩だった。その後わしが働いて増やしたところはすべて御仕法に差し出して村内を救助するがよい。もし財産を増やそうとすれば、ここにある」と両手を出して示したという。 尊徳先生はその態度を褒め称えられたという。 尊徳先生の教えの核心は「心の開発」にあり、実に生死にあたっても「平静の心」を養うものでもあったということであろうか。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」おばあさんからもたった手紙はいつもツヨシをはげましてくれました。「ツヨシさん、お手紙ありがとう。元気になってなによりです。それに幸せをもたらす魔法の言葉をちゃんとつかってくれていてとてもうれしいわ生きていくうえで、いちばん大事なことはね、言葉のつかいかたなの。どんな言葉を口にするかで、あなたの人生が決まってくるの。いい言葉をつかっていると必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでもわすれないでね。ツヨシさん私はいつもあなたのことを想っていますよ」
2023.06.24
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる先生黙然(もくねん)良(やゝ)久しくして曰く、子(し)當然(たうぜん)の道を失ひたり。我今其(そ)の道を告げん。道理を聞きて然る後、金(きん)を借らん歟(か)。先づ金(きん)を借りて後に道理を聞かん歟(か)如何(いか)ん。菅子(すがや)曰く、某(それがし)先生の教を受くること久し。何ぞ金(きん)を得て、然る後道を求んや。願くは夫(そ)れ示教(しきやう)を聞かん。先生曰く、嗟呼(あゝ)子(し)過(あやま)てり古語に曰く、進而思盡忠退而思補過(進んで思ひを尽くさんことを思ひ、退いて過ちを補わんことを思ふ)と、是れ人臣の常道にあらずや。子(し)重恩の君に逐(お)はれ、自から過ちなしとして其の過を國(く)に歸し、更に悔ゆるの色なし。夫れ忠臣の行ひ、國(くに)に幸福(かうふく)あれば其の幸福を共にし、憂患あれば又其の憂患を同じくし、國家(こくか)を憂ひ、下民(かみん)を憐むこと何ぞ身の進退に由らんや。進みて憂ふるもの退く時は、其の憂ひ必ず十倍するもの忠臣の心なり。子(し)烏山の大夫(たいふ)となり、其の政(まつりごと)を執(と)りて其の國(くに)の憂を除くことあたはず。又其の民を安んずる事あたはず。申の大凶に至り、飢民罪なくして死亡を免れざるもの數千人、子(し)百計之を救ふの道を得ず。何の縁由もなき我に救荒(きうくわう)の道を請ふといへども、我之を救ふべきの職にあらず、故に再三辭(じ)すれども、子(し)歎談(たんだん)止まず。誠に民を憐み、國(こく)を憂ふるなりと思ひ、肺肝(はいかん)を碎(くだ)き、救荒(きうくわう)の道を施し、繼(つ)いで國家興復の道を求るが故に萬苦を盡し、興復の政(まつりごと)を示したり。是何の爲ぞや、子(し)の忠心を感じ共に心力(しんりょく)を盡(つく)せしにあらずや。祖先以來幾百年君となり、臣となり又大夫となり、君恩を受くること泰山(たいざん)の高きも比(ひ)し難(がた)き子(し)の身として、用ゐらるゝ時は國(くに)を憂ひ、用ゐられざる時は漠然)ばくぜん)として顧みず、君を非とし、臣下を怨み、他邦にありて其の國(くに)の危難を度外に置かば、何の恩もなく縁もなき我等何の爲(ため)に數千金をナゲウち烏山の民を救ひ、其の土地を開き、上下(じやうげ)永安の道を施すの理(り)あらんや。恩もなく縁もなき我をして烏山の爲に心力を盡(つく)させ、大恩(だいおん)を受けたる君臣の義深き子(し)は身退くが爲(ため)に國家の憂を顧みざるものは亦何の心ぞや。今烏山不幸にして國家(こくか)再盛疑なきの道を廢し、子(し)を退けたりと聞しより以來、烏山上下の爲に憂勞(いうらう)して更に寢食を安んぜず日夜烏山候の過を悔い再び國民を愍(あはれ)み衰廢(すゐはい)の憂を除き、上(かみ)は忠孝を全くし、下(しも)は國人を安んじたまはんことを祈るの外他念なし。先生は、黙ってしばらく考えられてからこう言われた。「あなたは、当然の道を失っている。 私は今その道を告げよう。 道理を聞いてその後に金を借りるか。 まず金を借りて後に道理を聞くか、どちかにするか。」菅谷は言った。「私は先生の道を受けて久しくなります。 どうして金を借りてその後に道を求めましょうか。 願わくば、教えをお聞かせください。」先生はこう言われた。「ああ、あなたは過ちをおかしている。 古語(孝経)にこう言う。 「進んでは忠を尽くさんことを思い、 退いては過ちを補わんことを思う」と。 これは人臣たる者の常道ではないか。 あなたは、重恩の君に放逐されていながら、自分には過ちはないとして、国が悪いとして、更に後悔する色がない。 忠臣の行いは国に幸福があれば、その幸福を共にし、 憂患あればまたその憂患を同じくし、国家を憂い、人民を憐れむことは、どうしてわが身の進退によって異なることがあろうか。進んで憂える者が退く時は、その憂いは必ず10倍するというのが忠臣の心である。あなたは烏山藩の家老となり、その政をとってその国の憂いを除くことができなかった。またその民を安んじることができなかった。天保の大飢饉に至って、飢えた民が罪もなく死亡を免れない者が数千人でるところであった。あなたは百計手を尽くしたが救助の道が見つからなかった。何の縁もゆかりもない私に救助の道を請われた。しかし私はこれを救う職務にはないと再三断った。しかしあなたは強いて嘆いて談じて止まなかった。誠に民を憐れみ、国を憂えていると思って、私は肺肝を砕いて、救助の道を施したのである。継いで国家再興の道を求められたので、万苦を尽くして復興の政治を示したのではなかったか。これは一体何のためか。あなたの忠心を私が感じてともに心力を尽くしたのではなかったのか。祖先以来幾百年と君となり、臣となり、また家老となって、君恩を受けることは泰山の高さも比べがたい身ではないか。国に用いられる時は国を憂い、用いられない時は、漠然として国を顧みず、君に非があるとして、臣下を怨んで、他国にあって、その国の危難を関係ないとするならば、何の恩もなく、縁もない私たちはいったい何のために数千両をなげうって烏山の民を救い、その土地を開いて、上下ともに永久に安泰する道を施す道理があろうか。恩もなく縁もない私をして烏山のために心力を尽くしている。大恩を受け、君臣の義が深いあなたが、身を退いたために国家の憂いを顧みないということは、またいったいどういう心か。今、烏山は不幸にして国家再生が疑いない道を廃して、あなたを退けたと聞いてから、私は烏山の上下のために心配してさらに寝食を安んじなかった。日夜烏山候の過ちを後悔して、再び国民を憐れんで衰廃の憂いを除いて、上は忠孝を全くし、下は領民を安んじたもうことを祈るのほか他念なかったのだ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」あとがきこの絵本はぼく(五日市剛氏)が20代のころに体験した事実をもとに作られました。この本に登場するおばあさんは実在の人です。
2023.06.23
報徳記巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる先生遙(はるか)に櫻町に在りて此の事を聞き、大息(たいそく)して曰く、嗚呼(あゝ)烏山興復(こうふく)の時未だ至らざる歟(か)、圓應(えんおう)既に没し、今菅谷を殘(のこ)せり。此の人辭恩(じおん)の道を全(まつた)くせば、興復の道此(こ)の人に依りて存(ぞん)すべし。辭恩(じおん)の道を行はざるときは人菅谷を進退(しんたい)せん。何ぞ大業(たいげふ)を遂ることを得んや。世人の毀譽(きよ)に由りて心を動かし、行(おこなひ)を變(へん)ずるもの、共に道を行ひ難し と云へり。果して天保某年に至り仕法を廢し、分度を破り、開墾撫育の用度たる二千苞(ぺう)を取りて之を国事の當用(たうよう)に費し、菅谷を放逐して他邦(たほう)に退かしめ、領中に令(れい)して諸民櫻町に至ることを禁じたり、菅谷妻子を具し、他領鴻の山(こうのやま)村里正(りせい)十郎右衛門(じうらうゑもん)なるものゝ家に移り、之に寓(ぐう)して讒(ざん)者の無道を怨みたり。翌年二月菅子(すがや)忽然として櫻町に至り、先生に請(こ)ひて曰く、余不幸にして放たれたり。國家(こくか)の道なきを如何せん。忠を盡(つく)して讒者(ざんしゃ)の爲に放たるゝもの古今(ここん)少からず、又何をか悔(くい)んや。我が身は鴻の山の里正某(ぼう)舊識(きうしき)あり。故に食客(しょくかく)となれば道路に立つの憂(うれひ)なし。唯(たゞ)歎くべきは我が弟(おとゝ)某(ぼう)なるもの盲人にして江都(かうと)にあり。琴瑟(きんしつ)を教ふるを以て業(げふ)とし、活計(くわつけい)の憂なかりしが、幕府天下の侈奢(ししゃ)を制し、善政を布(し)かせ玉ふより以來、琴瑟を學ぶもの少くして活計頓(とみ)に窮す。我其の費用を與(あた)へて生養(せいやう)せしめたり。豈(あに)圖(はから)んや今罪なくして放逐せられ浪々の身となり、盲弟を補助するの力なし。我助けざれば彼生養の術(じゆつ)盡(つき)ん。斯(こ)の如く窮するもの僅(わづか)に二十金の借債あるが故なり。此の借債なき時は技藝(ぎげい)の門人少しといへども、君より受くる所の扶持(ふち)を以て活計(くわつけい)を爲すべし。冀(こひねがは)くは先生我が弟を憐み二十金を貸し給はらば、厚意の恩賚(おんらい)忘るべからずと云ふ。尊徳先生は、菅谷が一旦辞退し仕法金に参入した禄米を再び受けて、桜町からの贈米を断ったことを聞いて、大きなため息をちてこう言われた。「ああ、烏山領の復興の時は未だいたらざるか。 円応和尚はすでに没して、今菅谷を残すばかりだ。 菅谷が辞恩(禄を辞退する)の道を全くすれば、復興の道はこの人によって存したことであろう。 辞恩の道を行わないときは、人が菅谷を進退せしめよう。 どうして大業を達成することができようか。 世間の人の毀誉褒貶によって心を動かし、行いを変ずる者とは共に道を行うことは困難である。」 はたして天保10年12月に仕法を廃し、分度を破り、開墾及び人民救助用に用意していた二千俵をとって、藩政の当面の用途に費やした。 菅谷は12月17日付けで役職を辞退したが、25日には隠居を申し付けられ、相続人半蔵へ百石を給せられた。 さらに天保11年12月には烏山藩から放逐された。 隠居させたにも関わらず、桜町や小田原にたびたび赴いていることを藩政への不満ととらえられ、「上をあなどり、重ね重ね不埒であるから、永くお暇を下しおかる」ということで「烏山藩内や屋敷の近隣へ徘徊することを堅く禁ずる」というものであった。 菅谷は報徳の同志大野恕助の甥にあたる鴻巣村の名主、郡司十郎右衛門の家に移った。 そして天保12年7月14日に桜町に来て、藩政の無情を怨むとともの、盲目の弟のために20両の借財を先生に申し出たのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」あとがきこの絵本はぼく(五日市剛氏)が20代のころに体験した事実をもとに作られました。
2023.06.22
報徳記 巻之三【6】(2)烏山仕法中廃菅谷放逐せらる烏山仕法の初めに當(あた)り、先生菅谷に諭(さと)して曰く、古(いにしへ)より國(くに)の爲に力を盡(つく)すもの、往々(おうおう)其(そ)の事を遂ぐるあたはず、中道(ちゅうだう)にして讒人(ざんにん)の爲(ため)に廢(はい)せらる、豈(あに)讒人(ざんにん)のみの罪ならんや。忠臣も亦(また)其の身を處(しょ)すること至らざるが故なり。何となれば、國(くに)の衰廢(すゐはい)艱難に當(あた)りて之を興し、之を安んぜんとするもの、何ぞ平常のものと共に其の禄を食(は)み、其の身を安んじて國(くに)を興すの理あらんや。自(みづか)ら禄位をナゲウち、之を國家(こくか)再興の入費に加へ、其の身國中(こくちゅう)第一の貧者(ひんしゃ)となり、終身の苦を盡(つく)し、上下(じょうげ)の爲に千萬(まん)の勲勞(くんらう)を盡(つく)す時は、一藩之を視(み)て恩禄を不足なりとするの卑心(ひしん)忽(たちま)ち消(せう)し、領民之を見て飢寒の苦をも當然(たうぜん)なりと覺悟(かくご)し、唯(たゞ)自ら國(くに)の爲に力を盡(つく)すことの足らざるをのみ憂ふるに至らん。一國(こく)の人情是(かく)の如くならば、何の大業(たいげふ)か成(な)らざらんや。假令(たとひ)其の身の智足らずして過ちありと雖も、無禄にして萬(まん)人に先立ち、國の爲に心力(しんりょく)を盡(つく)せるの勲勞(くんらう)は、讒人(ざんにん)と雖も之を廢(はい)することあたはず。是大業を成し其の終りを遂ぐるの本原(ほんげん)なり。惜哉(をしいかな)、古人といへども此の道を蹈(ふ)まず。是を以て奸人(かんじん)の讒言(ざんげん)を免れざるなり。子(し)今國家(こくか)の興復を遂んとせば、必ず其の禄を辭(じ)し、無位無禄にて忠義を盡(つく)すべし。然らざれば賢人猶(なほ)あたはざるの大業を平人にして成さんとす。其の成功の難(かた)き知る可(べ)きのみ。然りといへども家族あり、俄(にはか)に恩禄を辭(じ)せば飢亡(きぼう)を免れ難し、烏山の出納(すゐたふ)に與(あづか)らざる米粟(べいぞく)、我より之を贈り、子(し)の活計(くわつけい)を爲さん。此の道を蹈(ふ)むことあたはざる時は、良法を發(はつ)するも何の詮(せん)かあらんや と諭(さと)せり。菅谷大いに感じ烏山に歸(かへ)り、祖先以來の禄百五十石を辭(じ)したり。君之を領中再復の用度(ようど)に加ふ。先生之を聞き、其の禄に換はるの米粟(べいぞく)を送り、菅谷奉仕の入費に充(み)つ。而(しか)して常人何ぞ此(こ)の如き深理を知らん、知らずして人を謗(そし)るは凡庸の常也。是(これ)に於(おい)て人々菅谷を誹謗(ひぼう)して曰く、笑ふべし、大夫(たいふ)菅谷恩禄を辭(じ)して二宮の扶助(ふじょ)を受けたり。大夫は一國(こく)の仰ぎて其の指揮に隨(したが)う所なり。君禄を受くればこそ大夫なり、臣なり。其の禄なくんば流浪人(るらうにん)と何ぞ異ならん。今、二宮の扶助(ふじょ)を以て一家を立つ、是二宮の家來(けらい)なるべしと嘲(あざけ)る。菅谷之を聞き歎(たん)じて曰く、恩禄を辭(じ)し興復の道を行ふ時は人(ひと)之を感じ、人も亦之に則(のっと)り、一藩皆禄を辭(じ)すること能(あた)はずと雖も、禄扶持(ろくふち)の不足を憂ふるの卑心(ひしん)を消(せう)し、良法其の終りを遂(とげ)んと思ひ先生の教に隨(したが)ひたり。豈(あに)圖(はか)らんや、人情此(こ)の如くにして、却(かへ)って誹謗談笑して我を輕侮(けいぶ)せんとは。此(こ)の如くなる時は、禄を辭(じ)して仕法に益なきのみに非ず、其の害少なからず、止(とゞむ)るには如(しか)ざる也(なり)と、先生に問はずして又其の禄を受け、先生の贈米(そうまい)を辭(じ)せり。是(これ)菅谷一世の過(あやまち)にして、烏山の仕法中廢(ちゅうはい)の根元(こんげん)なり。 烏山の仕法を始めるに当って、尊徳先生は家老菅谷八郎右衛門にこう言われた。「昔から国のために力を尽くす者がいるが、往々にしてその事を成し遂げることができない。 道半ばにして、讒言する者によって廃除される。 これは讒言する者の罪だけではない。 忠臣もまたその身を処することが至っていないためである。 なぜかといえば、国の衰廃艱難にあたって、これを興し、これを安んじようとする者は、どうして平常の者とともにその禄をはみ、その身を安んじて国を興すことができる理があろうか。 自ら禄位をなげうって、これを国家再興の入費に加えて、その身を国中の第一の貧者となる。そして、その身を終るまで苦しみを尽くして、上下のために千万の勲労を尽くすときは、一藩これを見て恩禄を不足だとする卑しい心がたちまち消える。領民もこれを見て飢えや寒さの苦しみを当然だと覚悟し、ただ自ら国のために力を尽くしていないことを憂うようになるであろう。一国の人情がこのようであれば、どのような大業もなしとげることができる。たとえその身の知恵が足らずに過ちがあったとしても、無禄で万人に先立って、国のために心力を尽くしている勲労は、讒言する者にもこれを廃することはできない。これが大業を行って、その終りを遂げる本源にほかならない。惜しいことに、古人もこの道を踏まずに、讒言を免れなかったのだ。あなたが今一藩の復興を遂げようと思うならば、必ずその恩禄を辞して、無位無禄で忠義を尽くしなさい。そうでなければ賢人ですらなお為しがたい大業を平凡な人間が成功することは難しいであろう。そうはいっても家族もある。すぐに恩禄を辞せば、困窮してしまうであろう。烏山の財政に関わらない穀物を私が贈ってやるから、それであななの生計をたてよ。この道を踏むことができなければ、良法を発しても仕方があるまい」と諭された。菅谷は感銘を受けて、先祖以来の禄150石を辞して烏山復興の入費にあてた。尊徳先生はそれに代わる穀物を贈って、菅谷の入費にあてた。ところが烏山の人々は菅谷を誹謗して、家老ともあるものが恩禄を辞して二宮の扶助を受けるとは笑うべきだ、まるで二宮の家来だと嘲笑した。菅谷はこれを聞いて、恩禄を辞して烏山復興の入費にあてれば、烏山藩士が分度確立によって恩禄が不足するようになったという卑しい心が消えるかと思ったら、かえって私をあざけり軽侮する、これでは禄を辞した甲斐が無いと尊徳先生に聞かないで勝手に禄を受けて、尊徳先生から贈られてきた贈米を断った。これが菅谷の一世の過ちであり、烏山の仕法が中途で廃止した根元である。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」おばあさんからもたった手紙はいつもツヨシをはげましてくれました。「ツヨシさん、お手紙ありがとう。元気になってなによりです。それに幸せをもたらす魔法の言葉をちゃんとつかってくれていてとてもうれしいわ生きていくうえで、いちばん大事なことはね、言葉のつかいかたなの。どんな言葉を口にするかで、あなたの人生が決まってくるの。いい言葉をつかっていると必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでもわすれないでね。ツヨシさん私はいつもあなたのことを想っていますよ」
2023.06.21
報徳記 巻之三【6】烏山仕法中廃菅谷放逐せらる烏山領中の衰廢(すゐはい)上下(じやうげ)の艱難極(きは)まれり。先生の丹誠良法を以て、申(さる)の大飢(たいき)に當(あた)り飢渇の民を救ふこと數千人、百年の廢地(はいち)を擧(あ)ぐること貳(に)百貳拾(にじゅう)四町歩(ちやうぶ)、餘分外の米粟(べいぞく)を生ずること貳千苞(べう)、兩(りょう)三年にして是(こ)の如く國益顯然(こくえきけんぜん)たれば、上下(じやうか)艱難の時に隨(したが)ひ、國家の再興を待たば、舊復(きうふく)の道成就せんこと十年のうちにあり。然るに天性寺圓應(えんおう)忽然(こつねん)として寂(じやく)し、菅谷一臂(ぴ)を失ひたるが如く大息せり。仕法の道是より衰弱に赴けり。凡そ奸人たるもの、善道盛んなる時は其の意に阿諛(あゆ)して力を盡(つく)すが如し。少しく其の隙あるを見れば、之に投(とう)じて善道を破り、忠臣を妨害すること至らざる所なし。是(これ)和漢古今小人(せうじん)の常なり。 圓應既に没し、菅谷一人の指揮足らざる所あるを見て讒言(ざんげん)を入れ、上(かみ)君の心を惑わし、下(しも)國民の目を暗(くら)まし、仕法の爲に一藩艱難に迫れりと唱へ、藩士を煽動し、遂に仕法を廢(はい)し、開田貳百貳拾四町の出粟(しゅつぞく)貳千苞(ぺう)を分内へ入れ、目前の艱苦を補はんことを謀(はか)り、突然として菅谷某(ぼう)を放逐し、分度を破り、良法を廢(はい)せり。○さて烏山仕法についてである。 天保の大飢饉にあたって、尊徳先生は天性寺の境内に救助小屋12軒を建て、桜町から穀物を荷車に載せて運び込み救助にあたった。烏山の領民は驚き、穀物を運ぶ車を礼拝したと伝えられる。 天保7年12月25日までには米252俵を送り、桜町からの穀物の輸送は年を越えて増加し、翌年の天保8年5月、麦が実って焚き場を閉鎖するまで約半年に米243俵、ひえ234俵、種もみ171俵余に及んだ。 尊徳先生は救助小屋で飢えた人々に粥を与えるとともに、開発仕法を行って壮健な者は開発に従事させて通常より高い賃金を与え、自主的な再建を促した。また、勤労意欲を増すため、農業に精を出す者を記名投票で選挙させ、投票の多かった順に開発資金を貸与したり、鍬などを与えたりした。烏山の領民はそうした救民開発を目の当たりにして良法であることが分り、尊徳先生に本格的に仕法を実施することを要望した。尊徳先生は当時小田原領内の飢饉救済にあたり、また仕法も手広くなっていたことから再三断られた。「烏山候二万石において足らないのはなぜか。 これ一つに財政上の節度がないためである。 天命の示すところに安んじてこの艱難を常とする覚悟がなければ国の衰廃を興すことは不可能である。 烏山は烏山の分を守り、艱難に安んじて国民を恵み、その廃亡を興すのみである。」 菅谷その他は、上下一致してこの道を守ることを誓い、尊徳先生はやむをえず烏山10ヵ年の租税を調査し、その分度を確立して、再建策を作った。当時、大阪詰めとなっていた烏山の藩主は喜んで謝意を表する直書を桜町に送った。「野州領分の儀、年来衰廃、別して昨年の儀は天災凶作にて、窮民とも飢渇に及ぶべきところ、救助の儀重々手あてこれあり、一人も飢えることなき段、全く善種回され候ゆえと厚意実に紙表に謝しがたきかたじけなく存じ候。まさに今般菅谷八郎右門大阪に登り仕法の諸帳面を持参し一覧を遂げ候。荒地帰発初、報徳の道開け、この分にては遠からず復古の基建つべしと悦び候。・・・10月26日」 こうして仕法の成果は着々とあげつつあったが、円応和尚と菅谷は厚木の烏山領内にも仕法指導にも赴き、かの地で流行病にかかり、菅谷は回復したものの、円応和尚は亡くなった。 天保9年は豊作であったが、仕法で土地が開け、豊作で分度外の収入が多いとあって、藩政の中で緊縮財政を続ける必要はない、分度生活は必要ないという声が高まってきた。 天保10年12月江戸から大石総兵衛、大塚孫八郎両名が烏山に直書をもてきたって重役会議を開き、仕法廃止について協議した。その内容は「二宮は小田原へ引き移るから諸方の仕法を謝絶するというからやむを得ない事情だから仕法を断る」というものであった。反論も出たが直書のもとに仕法謝絶が決まり、17日付けで菅谷は役職辞退を申し出た。12月25日に隠居を申し付けられたのであった。菅谷はその後もしばしば桜町に往来したが、藩政は疑いの目をもってその行動を監視し、天保11年12月11日ついに菅谷は放逐されたのであった。「その方儀一昨年中御咎め仰せ付けられ、さる11中慎み御免せられ候ところ、直に他行望み候につき、内々心付け申し達し候えども用いず桜町へまかり候、これにくわえ一応の願いもこれなく御府内へまかり出で、小田原表にも暫時まかりあり、かねがねの御規定も破り・・・」とその行状が不埒であるから永く御暇を下すから早々に引き払えというものであった。 菅谷はやむをえず、鴻巣村の名主、郡司十郎右衛門の家に移り、天保11年を送った。 天保12年7月14日に桜町に来たって、その不満を先生に訴え、盲人の弟のため20両の借金を申し込んで、先生の説諭を受けることとなるのである。(「二宮尊徳傳」(佐々井信太郎)より)「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」おばあさんからもたった手紙はいつもツヨシをはげましてくれました。「ツヨシさん、お手紙ありがとう。元気になってなによりです。それに幸せをもたらす魔法の言葉をちゃんとつかってくれていてとてもうれしいわ生きていくうえで、いちばん大事なことはね、言葉のつかいかたなの。どんな言葉を口にするかで、あなたの人生が決まってくるの。いい言葉をつかっていると必ずいい人生になるわ。本当よ。そのことをいつまでもわすれないでね。」
2023.06.20
報徳記巻之三【5】先生烏山天性寺円応和尚の寂するを歎ず 先生之を聞きて大(おほい)に歎じて曰く、嗟呼(あゝ)烏山の事廢(はい)せる歟(か)。圓應(ゑんおう)誠心(せいしん)を盡(つく)して、國家再復の道起れり。今、我が言を用ゐずして没せり。豈(あに)一人の不幸ならん。烏山一國の不幸なり。始め厚木に至らんとする時、我頻(しきり)に之を止めたり。兩人(りやうにん)の意(い)、厚木の富人(ふじん)に説諭し、財を出さしめんとするにあり。彼等(かれら)國君(こくくん)の仁に感じ、貧民救助の志(し)を發(はつ)し、烏山に來(きた)りて其の道を求めば、是其の時を得たるなり。未だ其の時節に至らずして、是より往きて説諭するもの、豈(あに)是(これ)仕法の仁術ならんや。我が言に隨(したが)ひ彼(かの)地に往(ゆか)ずんば、此の憂なからん歟(か)。然りといへども、烏山興復の時至らざるの爲す所か。一人の進退に依りて大道興廢(こうはい)す。如何(いかん)ともすべからず。菅谷猶(なほ)存せり。興復の道絶えたるに非ず。然して圓應と菅谷とは車輪の如し、今忽然として其の一輪を欠く、奚(いづくん)ぞ仕法の盛行を望まんや と、愁歎止まず。 尊徳先生は亡くなるとき、弟子達を呼ばれてこう言い残された。「鳥のまさに死なんとするやその鳴くや哀し 人のまさに死なんとするやその言や善し 慎めや小子 速やかならんと欲するなかれ 速やかならんと欲するときは大事を乱す 勤めよや小子 倦むことなかれ」 急がず厭きることなく、水が上の田を満たしてのち、下の田に順々に行き渡るように自然の理にしたがって進めてまいろう。 円応和尚が亡くなったのを聞いて、尊徳先生は大変嘆かれた。「ああ、烏山の事廃せるか。 円応和尚が誠の心を尽くして烏山藩の再復の道は起った。 今、私が言うことを用いないで亡くなった。 これは一人の不幸ではなく、烏山一藩の不孝である。 始め厚木に行こうとする時、私はしきりに止めた。 二人の意図は、厚木の金持ちに説いて、資産を出させようとすることにあった。彼らが君主の仁に感じて、貧民を救助しようと志を発して、烏山に来てその道を求めるならば、この時こそ時を得たものというべきである。未だその時期に至らないのに、こちらから行って説くことがどうして仕法の仁術であろうか。私の言にしたがって厚木に行かなければ、この憂いはなかっであろう。しかしながら烏山復興の時がいたっていないということであろうか。一人の進退によって大道が興廃する。どうにもすることができない。菅谷がまだ存している。復興の道が絶えたわけではない。しかし円応和尚と菅谷は車輪のようであった。今忽然としてその一輪を欠いてしまった。どうして仕法が盛んに行われることを期待できよう」と嘆かれたのであった。☆ああ、道は人によって興り、人によって廃するのだ。 だからこそ尊徳先生は心田の開発を重んじられたのだ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」おばあさんからもたった手紙はいつもツヨシをはげましてくれました。「ツヨシさん、お手紙ありがとう。元気になってなによりです。それに幸せをもたらす魔法の言葉をちゃんとつかってくれていてとてもうれしいわ生きていくうえで、いちばん大事なことはね、言葉のつかいかたなの。どんな言葉を口にするかで、あなたの人生が決まってくるの。」
2023.06.19
報徳記 巻之三【5】先生烏山天性寺円応和尚の寂するを歎ず 或時(あるとき)圓應(えんおう)和尚菅谷と共に櫻町に來り、先生に告げて曰く、先生の高徳良法に依り、衰廢(すゐはい)極りたる烏山領中再興の道備わり、一藩は艱難に安んじ、面扶持(めんふち)を以て天命とし、飢民は必死(ひつし)の飢渇を免れ、大いに人氣(にんき)一變(ぺん)し、積年の惰農頗(すこぶ)る勤農(きんのう)に赴きたり。是(こ)の如くにして仕法を守らば興復の期も亦遠きに非ず。然るに相州(さうしう)厚木は烏山の領地にて一萬石(まんごく)なり。奉行代官をして此の地を治めしむ。元來(がんらい)土地柄(がら)野州に比すれば遙(はるか)に上地にして五穀の實(み)のり多し。是故(これゆゑ)に彼の地頗(すこぶ)る富優(ふゆう)のものあり。今烏山君臣共に先生の良法を行ふと雖も、未だ厚木領分に及ばず。一體(たい)の領分にして、其の一方は良法に依り興復の道を勤(つと)め、一方は其の仕法如何(いか)なる事とも辨(わきま)へず。歳月を經(へ)ば是(これ)君徳の領内に洽(あまね)からずして、後日の憂たらんか。今兩人(りやうにん)彼の地に至り、奉行代官は勿論領民一同へ、君惠民(けいみん)の志厚く、先生に依りて領邑(りやういふ)を安んぜんが爲に舊復(きうふく)の道を行ふことを諭(さと)さば、彼必ず大いに悦びて仕法に力を尽さん。然らば烏山厚木共に人氣一變して興復の道速なるべし。又有志の者ども此の良法を聞き感發(かんぱつ)せば、窮民潤助(じゅんじょ)の爲に資財をも出すことあらんと云ふ。天保8年(1837年)初冬、円応和尚は菅谷(すげのや)とともに桜町に来て、先生にこう言った。「先生の高徳と良法によって、衰廢極まっていた烏山の領中は再興の道が備わりました。一藩は艱難に安んじ、面扶持をもって天命とし、農民も必ず死んだであろう飢渇を免れ、大いに気風が一変し、積年にわたって農業を怠っていたのがすこぶる農業に勤めるようになってきました。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」おばあさんからもたった手紙はいつもツヨシをはげましてくれました。「ツヨシさん、お手紙ありがとう。元気になってなによりです。それに幸せをもたらす魔法の言葉をちゃんとつかってくれていてとてもうれしいわ」
2023.06.18
報徳記 巻之三【4】天性寺圓應和尚先生に鮎を贈る一二日櫻町にありて黙然たり。卒忽として暇を乞ふ。先生曰く、和尚來ること豈(あに)啻(ただ)ならんや。今一言なくして歸るは何ぞや。圓應謹みて答へて曰く、初め來る時は我思慮の當否を問わんとす。先生の目前に在ること二日、胸中既に了然たり。先生を煩(わずらわ)すに足らず。烏山の處置既に決せり。必ず勞し玉ふことなかれと云ひて去る。先生歎じて曰く、圓應烏山に在りて國事を憂ひ、國家の大事を問はんとして此の地に來る。二日にして言語を待たず、其の事胸中に了然たり。今の時に當り、彼の僧の如きものは多く得難し と歎賞せり。和尚烏山に歸り、屡(しばしば)鮎を捕り、殘らず市に鬻(ひさぎ)て代銀となし、之を安民仕法入用の財に加へたり。後諸人も其の意を悟り、得難き知識なりと感ぜりと云ふ円応和尚は一、二日桜町にいて、じっと黙っていた。そして急に尊徳先生に暇乞いした。尊徳先生はこうおっしゃった。「和尚がここへ来たのはなにか訳があろう。 今一言も言わずに帰るのはどういうわけか。」円応和尚は慎んで答えた。「初め来たときは、私の思慮の当否を先生に問わんとしていました。 先生の目前にあること二日、胸中に明らかになりました。 先生を煩わすに足りません。」そう言って去っていった。尊徳先生は、感嘆されておっしゃった。「円応和尚は烏山にあって国事を憂い、国家の大事を問うためにこの地に来た。 二日で言葉を出さずに、そのことについて胸中はっきりとした。 今の時にあたって、あのような僧侶は多く得ることは難しい。」円応和尚は烏山に帰って、その後もしばしば鮎を獲っては、残らず市場で売りさばいてその代金を仕法金に加えた。後には人々もその意を悟って、得がたい善智識(僧侶)であると感嘆したという。☆報徳記には、実に印象深い僧が何名か登場する。 この円応和尚もそうである。尊徳先生の真価を見抜き、その仕法の普及に力を尽くした。 「尊徳の森」(佐々井典比古著)には、報徳記に登場しない弁算和尚を取り上げるが、この人の尊徳先生との対話もまた面白い。弁算和尚は、小田原市中里の出身で尊徳先生と郷里はほぼ同じといってよい。尊徳先生より9歳年上であった。天明8年11歳の時高野山に登り、浄応の弟子となり、32歳で慈眼寺の住職となったという。 後、文政12年52歳の時に高野山を離れた。郷里に帰る途中、法衣を乞食の衣類と換えたという伝承がある。その後、乞食坊主として万国を遊歴した。尊徳先生が弁算和尚に尋ねた。「釈尊一代の説法は無量の経文となっているが、もし一切経に通ずる題をつけるとしたら何とつけますか?」弁算和尚は答えた。「経文に『諸悪莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)』(諸々の悪をなすことなかれ、多くの善を勤め行え)と言っている。この二句ならば、万巻の一切経を覆うことができよう。」尊徳先生は、「その通りです」と同意されたという。また、尊徳先生が日光仕法の雛形書を「この帳簿はただの計算帳ではない。みんな一々悟道であり、天地自然の理を記したものだ」と語っているのを聞いて。弁算和尚は、「これこそ真の一切経。仰ぐべく、尊ぶべきものだ。」と言ったという。実に肝胆相照らす仲であったのだ。尊徳先生の弟子の一人、留岡幸助は弁算和尚のことをこう伝える。「この和尚は、水野越前(老中水野忠邦)が非常に信用し、この和尚が二宮先生を推挙した。江戸に先生がいらした時は、しばしば先生を訪れて常に安否を問われた。奥座敷に通らず、先生の安否を門のところで聞いて、変わりがないと聞くと安心して会わずに帰ったという。これは富田高慶から私が聞いた話である。」「ある日、弁算和尚が来って言った、『先生はつつがないでしょうか』『はい』『先生はご在宅か』『某候の邸に行っております。私が行って和尚が来たことを告げましょう。しばらくお休みになっていてください。 弁算和尚は、了解してすぐに横になってひじ枕をして眠られた。 富田高慶は、すぐに尊徳先生にその旨を告げた。 尊徳先生は言われた。『ひさしぶりに弁算が来たか。私はすぐに行こう』 ただちに辞去して、駆け足で戻って帰り、戸を開くと、弁算は土間に横たわってじーっと天を見つめていた。『先生つつがなし、私の喜びはこれに過ぎるものはありません』と言った。尊徳先生は、まずはと起こして部屋の中に引き入れようとしたが、弁算和尚は応じなかった。富田高慶が迎えにいったがどうしても室内に入ろうとしない。『用事は既に済んだ。また何を言おう。私には言うこともなく、また聞くこともない。ただ先生が元気がどうか知りたかっただけだ。私はすでに先生が壮健であるのが分った。他に求めることもない。先生は幼年より世を救い人を救うことに力を尽くされている。愚僧は愚かでその一端をも行えずにいる。先生に向ってちょうちょうと長話しても、先生を益することはない。益がないどころか、先生をして貴重な時間を空しくさせるだけだ。私はもとより先生の妨げとなることを欲しない』と言った。富田高慶はその旨を尊徳先生に告げた。先生は言われた『弁算和尚は久しく来なかった。今来て、事はすでにすんだ、起きることを欲せずと。私が行こう』そして弁算が横たわっている枕元に来た。弁算和尚は横たわったまま言った。『野僧久しく拝顔を怠り、先生の動静が分らなかった。今、先生の壮健であることをうかがい、事はすでにおえた。他に用事はない。』そこで尊徳先生はその意を汲んで静かに退いた。」 ああ、弁算和尚の人となりが伺われる逸話だ。この数ヵ月後に弘化2年に68歳で弁算はなくなったのであった。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」「でもね、どうしてもおこらなくてはならないときは、ちょっと深呼吸をして、別な言葉でやさしく伝えてはどうかしら。一呼吸おくと、いい言葉が見つかると思うわよ」
2023.06.16
報徳記 巻之三【4】天性寺圓應和尚先生に鮎を贈る天性寺住僧(ぢゆうそう)圓應(えんおう)和尚、先生の大徳良法を仰ぎ、菅谷某(ぼう)と力を合せて百姓を諭(さと)し、勧農(くわんのう)の道を説き、永安の道は先生の良法に止(とま)れりと、心を盡(つく)して之を導き、領民の安堵(あんど)を求めて他念ある事なし。此(こ)の故に志を勵(はげ)まし、力を仕法に盡(つく)すもの頗(すこぶ)る多きに至れり。一時(じ)川流(せんりう)に網を張り、自ら川に入りて鮎を取る。人々之を怪(あやし)み、殺生(せつしやう)は仏の大いに戒むる處(ところ)なり。然るに菩提寺の僧として自ら此の殺生を爲(な)すこと、豈(あに)本心ならん。和尚(をしやう)發狂(はつきやう)せるもの歟(か)と、大いに嘲(あざけ)り笑ふ。或人問ひて曰く、貴僧自ら殺生をなす。何の謂(いは)れかあるや。圓應曰く、佛経に説く所大いに殺生を禁戒す。然れども愚僧の行ふ所は佛意(ぶつい)に合(かな)へり。或人曰く、佛(ほとけ)の戒を破りて其の意に合(かな)へりとは何ぞや。曰く、我が君(きみ)凶年に當(あた)り、數千の民命を失はん事を歎(なげ)き玉ひ、二宮先生に救荒(きうくわう)の道を求め、以て數千人を活(いか)せり。 先生なくんば無罪の人民、空(むな)しく命を失はんこと必(ひつ)せり。 我此の人の勞(らう)を聊(いさゝ)か謝せんとすれども其の道を得ず。此の鮎を取りて先生に贈らば、先生僧の微志(びし)を賞して之を食し、少(すこ)しく其の氣力(きりょく)を補わんか。彼の大人(たいじん)の氣力(きりょく)を補ふ時は、此の國(くに)の民必ず困窮を免るのみにあらず。君公以下其の心を安(やす)んじ玉ふべし。然らば其の功徳豈(あに)大ならずや。此の鮎も大人(だいじん)の腹中(ふくちゅう)に入り、其の元氣(げんき)を補ひ、萬民(ばんみん)の苦を除く時は、僅々(きんきん)たる生物(せいぶつ)身(み)を殺して成佛(じやうぶつ)せんこと疑ひなし。是(こ)の如くにして餘(あま)り有らば、之を市に鬻(ひさ)ぎ、代錢(だいせん)となし、窮民撫育(ぶいく)の資金に加へん而己(のみ)。是亦(これまた)廣大(くわうだい)の功徳(くどく)にあらずや。鮎の力、何を以て人の艱苦を救ふことを得ん。今我に依りて無量の功徳をなし、成佛する事を得。釋尊(しやくそん)之を見玉はゞ、必ず手を拍(う)ちて歎称(たんしやう)あらん。元より俗人の知る處(ところ)にあらずと云ふ。他を省ずして許多(きょた)の鮎を捕り、寺に歸(かへ)り、僕(ぼく)に此の鮎を荷(にな)わせ、自ら櫻町に至る。路人(ろじん)之を怪み、彼の僧鮎を多分に持ち往(ゆ)くは何事ぞやと誹(そし)る、圓應(ゑんおう)自若(じじゃく)として聞かざるが如し。櫻町に至り、鮎を出して曰く、野僧(やそう)自ら先生に呈せんとして此の鮎を取り持ち來れり。先生それ之を受けよ。先生其の意を察し、悦び之を食せり。天性寺の円応和尚は、尊徳先生の大徳良法を常に賛嘆した。烏山藩の家老菅谷と力を合わせて百姓を諭して、農業に精出すことを勧め、永久に安泰なる道は先生の良法に止まると心を尽くして導き、領民の生活が安定することを求めて余念がなかった。円応和尚のこうした活動により百姓のなかにも志を励まして、力を仕法に尽くすものが少なくなかった。ある時、円応和尚は川に網を張って、自ら川の中に入って鮎を取った。人々は殺生は御仏の戒められるところだ、それなのに菩提寺の僧として自らこの殺生をするとはどうしたことだ、気が狂ったのではないか、とあやしみ、嘲笑する者が多かった。ある人が「あなた自ら殺生をなすのは、何かわけがあるのですか」と質問した。円応和尚はこう言った。「仏教の経典では大いに殺生を戒めるところです。 しかしながら私が行うところは、御仏の心にかなうことです。」「仏の戒めを破って、その心にかなうとはどういうことですか」「わが主君は凶年にあたって数千の民の命が失われんことを嘆かれて、二宮先生に救助を求められ、数千人の命が助かりました。 先生がいなければ罪も無い多くの民の命が必ず失われたことでしょう。 私はこの人の労をいささかなりとも感謝したいと思いましたが、その道がありません。 この鮎を取って先生に贈るならば、先生は私の微志を賞して食べて、すこしでもその気力を補われることでしょう。 あの大人物の気力を補うときは、この国の人民は必ずや困窮を免れることでしょう。さらには烏山候以下の心も安んじることにもなります。そうであれば、その功徳は大きいといえるでしょう。この鮎も大人物のお腹に入り、その元気を補って、万民の苦を除く時は、僅かな生物の身を殺して成仏すること疑いありません。このようにして余りがあるんあらば、市場で売りさばき、その代金を困窮した人民を救う資金に加えるだけです。鮎の力でどうして人の困窮を救えましょう。今私によって、無量の功徳をなし、成仏することができます。釈尊もこれをご覧になればきっと手を打って歎賞されることでしょう。もとより俗人に理解できるところではありません。」と言って、人の言うことを気にせず、多くの鮎を取って、寺に帰り、下僕にこの鮎をになわせて桜町に来た。行きかう人々は「あの坊主が鮎を多量に持ち歩くのはいったいどうしたことだ」と口々にそしった。円応和尚は泰然自若として耳に入らないようであった。桜町に至って、鮎を出して言った。「野僧自ら先生に差し上げようとこの鮎を取って持ってきました。先生どうか受け取ってください。」尊徳先生は円応和尚の意(こころ)を理解して喜んでこれを食べられた。☆報徳記の著者富田高慶は体が弱く、しばしば病気で療養することがあった。冬でも先生にならって単衣一枚であり、粗食であった。尊徳先生のもとに話を聞きにきた豪商の中には、そういう富田を気遣い、綿入れの着物を富田に贈呈する者がいた。富田は「志は有難いが、私のことは先生に全てゆだねております。私の一存で綿入れをいただくわけにはまいりません」と答えた。そこでその豪商は、先生にお伺いを立てた。先生はただ黙っておられた。豪商は先生がじーっと黙ったままおられたので、いたたまれなくなり、間違っていましたとその場を退出し、結局綿入れを贈ることは断念した。後に富田が相馬藩復興のため、陣頭に立って指揮したとき、始めて先生の気持ちがわかった。尊徳先生は将来相馬藩の復興にあたるとき、先頭たって指揮するものが暖衣飽食しては成果があげられないと思われ、あえて厳寒でも富田に単衣で通させたのだった。しかしまた富田の健康を気遣い、綿入れを着せたいという思いやりの心も賞せられた。そこでただ黙っておられたのであろうと。円応和尚が鮎を贈ったとき、おそらくはその志を賞されて食べられたのである。僧侶が殺生戒を犯すことを勧めるわけではなかった。ただ黙って受容されたのであろう。(富田翁談話傍聴筆記12)「野州にいた時、寒中わずかに袷衣一つのみ。 ある時、浦賀の宮原エイ州なる者綿入れ羽織を新調し来たり、先生(富田)に謂って曰く、「寒威甚だし、先生よろしく是を着さるべし。これ我れより進ずるにあらず。浦賀仕法金のうちより進ずるなり。 もし先生着せられずして寒気を受け、身体を敗(やぶ)りたまうに至らば、かえって不忠不孝にも当たりたまわん」 といって一々説諭す。先生(富田)これに答えて曰く、「子(し)の厚意謝すべしに似たりといえども、誤らざるや否や、」 いかんとなれば、余の身体は悉く皆二宮先生に委任せしものなり。 寒中袷衣を着するも、先生知るべし。しかりしかして先生余に一袷をもって安んぜしむるもの定めて意あらん。 余はひそかに思うに先生我に艱難を踏ましめ、わが志操を堅固ならしめん事を。 もし先生の意中かくのごとくならば、子等の凡情の厚意かえって我が身心を害するに至らん。 しかして我は何を浦賀の仕法金を受くるの理あらんや。 もしこれを受けなば、永世我が身のキズもまた免れるべからず。 もとより余の受けざるところなり。 いやしくもわが袷衣を憐まば、まずこれを先生に言上し、しかる後に諾を受けて以てなすべきなり。子よく先生に聞かまし。」 後先生(富田)エイ州に問う。曰く。「ある時二宮先生に伺いたりといえども、先生その成否をいかんとも教えたまわず。 大いに誤れりと云いて謝せり」と。 その後年の11月相馬仕法まさに開業ならんとするの時、先生わずかに単衣にのみ。 思えらく、今単衣寒気凌ぐべからずと近隣よりホーレー綿を購い、単衣二枚をあわせて綿入れ一枚を製し帰国して以て開業せらる。その冬は起き伏し終始一衣のみならんという。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」「ただね。これだけはいってはいけないという言葉もあるのよ。それをいっちゃうとツキがぜーんぶ、ふっとんじゃうの」「どんな言葉ですか」「それはね、きたない言葉。それから人の悪口。 きたない言葉や人の悪口を平気でいう人は、 その言葉通りのいやな毎日になっちゃうのよ。 それから、おこってもいけないわね。 おこればおこるほど幸せが逃げていっちゃうのよ」
2023.06.15
報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ 菅谷某を始め的然たる明教(めいけう)を感じ、彌々(いよいよ)上下同心協力此の道を行はんとす。唯(たゞ)先生之を指揮せよと請(こ)ふ。先生止む事を得ず、烏山分度の基礎を定めんとして曰く、然らば先づ天分(てんぶん)の基本を明(あきらか)にすべし。 語に曰く、故(ふるき)を温(たづねて)新きを知ると云へり。烏山領中の租税、豊凶十年を調べ、之を平均し、其の天命のある處(ところ)を察し、向後(かうご)の分度を定むべし。各(かく)古帳簿(こちやうぶ)を持ち來りて速に調(しら)ぶべし。我亦其の至當(しとう)を示さん と云ふ。大夫(たいふ)以下大いに悦び、直(たゞち)に烏山に歸り、再び櫻町に至る。先生烏山の有司(ゆうし)數十人を陣屋に居らしめ、飲食衣服に至るまで心を盡(つく)し之を給し、數月(すうげつ)にして豊凶十年の調べ成る。而して衰時天命のある處(ところ)、自然の分度を確立して曰く、向後(かうご)君臣共に之を守らば、必ず廢衰(はいすゐ)再復せん事(こと)疑なし。凡(およ)そ世の盛衰存亡興廢一として此(これ)より生ぜざるはなし。早く烏山に歸り、群臣と共に之を決せよ と教ふ。大夫以下烏山に至り之を評議し、數日(すうじつ)にして一決す。是に於て再三先生に興復の道を請ふ。先生再び米財を出し、烏山領邑の廢地を興さしむ。下民飢渇を免れ、大いに感激して開墾に力を盡し、一兩年にして舊來(きうらい)の廢地を開く事二百二十四町(ちやう)、出粟(しゅつぞく)二千苞(へう)に及べり。先生曰く、烏山何萬(まん)の廢田、幾萬の借債ありと雖も、分外の産粟(さんぞく)年々二千を得ば舊復(きうふく)の道難きにあらず。唯上下其の分度を守るの有無に由れり と、人々先生の仁心大智(だいち)を驚歎せざるはなし。 「烏山の仕法」の仕法について「二宮尊徳先生傳」(佐々井信太郎)はこのように記す。「烏山の仕法は、天保7年の大飢饉に際し、非常な困窮に陥ったのを救済しようということから始まった。 そして天性寺の和尚の禅的修業による努力と家老菅谷八郎右衛門の真摯な忠誠の行いにより報徳仕法を行うことになった。 烏山は栃木県那須郡烏山町で、領主大久保佐渡守(さどのかみ)は小田原大久保氏の一族である。 その領土は、烏山地方47カ村、公称2万6千石、神奈川県の厚木付近1万3千石余、合計4万石と称せられた。(略) 天保7年の飢饉は、東海よりも関東、それより奥羽、東北にいたるにしたがって甚だしかった。 烏山も関東の東北部にあって惨憺たるありさまで、天保7年の夏から秋にかけて、困窮した人々はクズ、ワラビ、草の根等を掘って飢えをしのいだ。菅谷は、江戸に出ていた家老大石総兵衛の帰国を要請したが、年末にならないと帰れないということであった。 そこで江戸に出て、協議しようとした。 そのとき、下男の藤兵衛から、桜町の復興の話を聞いたのである。 藤兵衛は、常州(茨城県)真壁郡小栗の出身で、菅谷の供で天保5年江戸に出た際に、青山の教学院(大久保家の菩提寺)で仕法のことを聞いていた。また天保7年に同藩の大久保金吾が江戸に出た際、供として牧野遠江守(とうとうみのかみ)宅で尊徳先生の事を聞いたと菅谷に伝えた。 菅谷はかねて尊徳先生の仕法については耳にしており、その日記にも「8月中かねがね聞き及んだ二宮」とあるとおりである。 そこで藤兵衛につかわして様子を探らせたが、世間話程度しか分からない。そこで真相を知ろうと天性寺の円応和尚の派遣となる。 円応は、文政の始め奥州衣川から転任してきた。仏の道は現世の窮民救助にありとして、衣川においても荒れ山を開墾して畑とし、畑を田としたほどであった。円応も桜町復興の噂は耳にしており、菅谷とも意気投じて領内の荒廃について意見を交換していたので、桜町の調査を快諾したのであった。桜町役所の日記8月22日のところに「烏山御領内より御趣法の筋の儀あい願いたき段申し参り候、もっとも旅宿は真岡のよし、忠次申し聞こえ候事、野上村茂右衛門」とある。次に天保7年9月2日天性寺の円応和尚が桜町の陣屋に来て、尊徳先生に面会を求めた。「僧侶は僧侶の道あり。わが道は廃村を興し、民を安んずるにある、僧侶に会って未来の往生を談ずる必要はない」と面会を拒絶された。円応和尚は私の志は民を救うことにある、面会を拒絶されて帰り、民が飢え死にするのを見るに堪えないといって動かない。「かの僧は何をいうか。我にはわが預かる専務がある。烏山の安否は烏山候の職分である。しかるに僧侶の身として強いて推参して面会を要求し、わが本務執行の妨害をするとは何ゆえか」と面会されなかった。円応和尚は、先生が面会されなければ、ここで烏山の民に先立って飢え死にするだけだと、陣屋の門前の芝原に袈裟の衣のまま伏せて昼夜動かなかった。翌朝、そのことを聞いた尊徳先生は「かの僧は理非にかかわらず、面会をこい、あまつさえ陣屋の門前で餓死しようとは比類ない曲者である。よし、会って戒めよう、すぐに連れてまいれ」と大声で命ぜられた。円応和尚は、悠然と起き上がって先生の面前に赴いた。「坊主、なんのためにこの陣屋に来たって、わが専務を妨げ、門前に伏して死を決するのか」「一に先生の教えを受けて烏山の飢えた民を助けたいためです。」「汝は僧侶にして仏の道を知らないのか」「私は愚かではありますが、仏門に入って久しく、仏道を理解していないなどということはありません」「仏の道に荒地を開き、民を撫育し、飢えた民を救う道があるか」「事は異なるようですが、仏の本意は衆生を救うことにあります、民を憐れみ飢えを免れさせようとするのも仏の願です。」「そんな答えでは仏の道を知っているとはいえない。 世の中には職分があって、たがい奪ってはならない。 領主には領主の道があり、臣下は臣下の道がある、僧は僧の道がある。 (略)」と順々に説諭された。円応和尚は、自らの非を悟って、また先生の説諭に「このような人物が今の世にあろうとは思わなかった」と感動して烏山に帰った。菅谷は円応和尚からこの報告を聞いて、「ああ、賢なるかなに二宮、我速やかに救助の道を求めん」とまず使者を派遣して近日面会したいと申し入れた。再三の使者の面会要求に尊徳先生はやむなく会われた。「私は命がけでこの地の復興に尽くしており、他藩の臣下と閑談するひまなどない。そもそも菅谷は烏山藩の家老ではないか。家老の職は主君を補佐し、国を富まし民を豊かにすることではないか。しかるに一年の飢饉にさえ、領民を飢えさせるのは、仁政が行われていないからである。諸侯の任務は天下の民を預かって撫育し、安泰ならしめるにある。今その民を飢えさせるようなら諸侯の道を行っているとはいえない。主君がこのようであり、家老もこのことを知らないで飽食暖衣安逸を貪ってその任務を果たしたと思っているのか。そのような人物がわが門に来ることを欲しない。来るのをやめさせよ」と厳しく使者に告げた。使者は、二宮なるもの狂人です、そのいうことこのようでしたと菅谷に告げた。菅谷は使者の話にますます感動し「今の世に君臣ともに道を失っていると公然と教え諭す者がいようか。実に英傑である。この人に道を問わなければ問う人はいない」と言った。菅谷の日記によると9月22日江戸に出る途中桜町に立ち寄るとある。桜町陣屋の日記には「9月23日烏山天性寺まかりこし候事。菅谷氏同道」とあり、円応和尚の案内で面会したのである。菅谷の日記には「実に未曾有の致し方、この人に任さば当年の飢饉救いとげることができよう」と書いてあり、菅谷はすぐに江戸に出て、藩の会議にあげた上で、烏山候に申し上げた。「今年は非常の凶作で、領中の飢渇は旦夕に迫っています。私たちは百方手を尽くしましたが、良い方法がみつかりません。平年ですら公用に不足し、借金して補っているところです。今大飢饉で金融の道も絶えていかんともしがたいこととなりました。しかるに幸いなことに桜町に二宮という者がいて、先年大久保忠真候の命により復興にあたり、10年でその功業が歴然として、しかもこの飢饉が来ることを前もって知り、備蓄を充分に行い、3か村の民政は平年よりも豊かであります。先日人をして調査させましたが、二宮の言論は実に驚くべきものでした。」と報告した。烏山候も感嘆し、10月4日御前会議が開かれ、その席で菅谷は「烏山、厚木の不作について応急処理が必要で急を要している。その方法として二宮金次郎に仕法を依頼されるのが最上の策であり、この方法によれば当年の飢饉の道が完備するであろう」と強調した。そこで先生を烏山に借り受けようと小田原候に依頼したのである。小田原候からは、「金次郎の事、貸すことはできないが、相対で依頼することはかまわない」という返事であった。そこで御直書で依頼するということが決定し、10月29日に江戸を出発、11月2日桜町について、直々に仕法を依頼したのであった。尊徳先生は「烏山領のことはわが関与すべきところではない。その根元は君臣ともに道を失ったためである。そしてそのような例は今数えることができないほどである。しかし、君臣ともその非を知って救済の道を我に求めてきた。今、我が一言に烏山領民の存亡がかかっている。ことに烏山候は小田原候の一族である。すでに主君大久保忠真候もご承知のことであり、一応治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由来復興安民の大道を述べよう」と菅谷に詳細に語られた。「過去10年の収入を平均し、一年なにほどと定めて、その分度内で暮らし、年々の増収分で元金を返済すればよい。ただ凶作で住民が飢渇に迫られており、分度の確立は後にして、まず救済を実行しなければらない。最初に根本仕法を決定し、仕法実施の覚悟が確立するならば即座に救助米を差し出そう。」菅谷は大いに喜んで「主人に代わって領分を預かる身である。その責任上今日数千人の命を救えるならたとえ明日いかなる災難が来ようとも少しも厭わない。もとより死を決している。」と答えた。そして早速救助の用意にとりかかった。天性寺境内に小屋12棟を建築し、炊き出しの道具を揃え、それぞれ役を決めた。こうして、天明の大飢饉における尊徳先生の数万人にも及ぶ人命救助が桜町を越えて開始されたのである。これ実に尊徳先生が神として祀られ、各地に二宮神社が創建されたゆえんである。尊徳先生はこう言われた。「私は、不幸にして、14歳の時に父に別れ、16歳の折、母に別れた。所有の田地(でんち)は洪水のために残らず流出した。幼年の困窮艱難は実に心魂に徹し、骨髄にしみ、今日(こんにち)もなお忘れることができない。なにとぞして世を救い、国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたいと思って勤め励んできた。はからずも天保の両度の飢饉に遭遇した。ここにおいて心魂を砕いて、身体を粉にして、ひろくこの飢饉を救おうと勤めたのだった。 」(夜話巻の5[13])「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」
2023.06.13
報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ是(ここ)に於て領中興復の道を依頼せんとし、候(こう)の直書(ぢきしょ)且(かつ)大夫(たいふ)以下小吏(せうり)に至る迄連印の依頼書を以て再び先生に請ふ。先生曰く、下民(かみん)の露命旦夕(たんせき)に迫れり。我(われ)救荒の施(ほどこ)さずんば、數千人の民(たみ)罪なくして死亡に陥(おちい)らん。之を見るに忍びず。君臣の懇望(こんもう)に任せ、之を救助せり。國家再興の道、豈(あに)我が知る所ならんや と、固辭して受けず。烏山の君臣再三請ひて止ず。先生曰く、夫れ國を興さんとする事誠に大業なり。天命に安(やす)んじ、衰貧の時に隨ひ、天理自然の分度(ぶんど)を守り、其の艱難に素(そ)して艱難に行ひ、下民(かみん)の安堵(あんど)を見て然る後共に安堵し、未だ一民と雖も困苦を免れざる時は、人民以下一藩皆以て安堵の思を爲さず。民の憂に先立ちて憂ひ、民の樂に後(おく)れて樂み、民を惠(めぐ)む事、子を育するが如くならざれば、何を以て衰國を興(おこす)ことを得ん。各(おのおの)の求むる所は左(さ)に非ず。君の用度足らず一藩の恩禄其の十が三をも米粟(べいぞく)を受くる事を得ず。此の不足を補はんとして他の財を借り、年々君の増借(ぞうしやく)利倍(りばい)幾萬金となり、如何(いかん)ともすべからざるに至り、領民に上金せしめて之を補はんとし、猶足らず。今年に來歳(らいさい)の貢税を命じて出(だ)さしむ。下の艱難既に極り、遂に凶歳となりて飢亡に瀕(ひん)せるに非ずや。是(こ)の如くにして歳月を送らば、國(くに)の亡ぶるに至らざれば止まず。天地間大小各(かく)其の分限あり。其の分に應(おう)じ、其の用度を制せんに何の不足といふ事あらんや。若し分限を破り、徒(いたづら)に財寶(ざいほう)を費し、不足而己(のみ)を憂ふる時は百萬石を得るとも何ぞ足る事あらん。五石十石のものだも一家を保ち、永く此の世に立てり。然るに烏山三萬石の米粟(べいぞく)の中に居て米金(べいきん)なきを憂ひ、下民の飢渇を憂ふる時は、天下何ものか足るものあらん。譬(たとへ)ば米飯の中に坐して飢(うゑ)を呼び歎くが如し。豈(あに)坐する所悉く食物なることを知らんや。今三萬石の中に居(を)り、米金(べいきん)なきことを憂ふ。何を以て之に異ならん。唯(ただ)用財節(きまり)なく、國(くに)の分度を知らざるが故なり。其の本原(ほんげん)を明(あきらか)にし、當時(たうじ)の命に安んじ、國家(こくか)再盛の時至るまでは此の艱難を常とするの覺悟(かくご)あらざれば國(くに)の衰癈を擧(あ)ぐることあたはず。其の本立たずして徒(いたづら)に我をして其の不足を補はしめんとならば、我何を以て之に應(おう)ずることを得んや。何となれば、舊來(きうらい)の負債我之を倒(たふ)すことあたはず。他領の貢税を取りて、烏山の不足を補ふことあたはず。今各(おのおの)の求る所、一として我之を能(よく)せず。我が道を以て興復せんとならば、別に道あるにあらず。此の地の廢亡(はいぼう)を擧(あ)げたる道を移さん而己。此の道他(た)なし、唯(たゞ)烏山は烏山の分を守り、艱難の地に安んじ、國民を惠み、其の廢亡を興さん而己(のみ)。然して各(おのおの)の欲する處(ところ)に異なれば、假令(たとひ)我が方法を授けたりとも安(いづく)んぞ其の成功を遂(とぐ)ることを得ん。之を止(や)むるには如ざるなりと云ふ。「補注報徳記」(佐々井典比古)にこうある。「天保7年11月から翌8年5月までに、烏山に送られた救急米は、米1,243俵、ひえ234俵、種もみ171俵余、代金として2,389両余であり、その半額は藩から支払ったが、残りは仕法金として借用された。 天性寺の御救小屋(おすくいごや)に収容された人員は、少ない日で7,8百人、多いときは千余人、ある日の記録には879人とある。 領内の人口は、10,031人であったから、収容人員はその一割弱に当る。別に、老齢者と、孤独で住居を離れられぬ者に対しても、それぞれ給与され、領内1名の餓死または流亡者を出さなかった。 天保7年度の租税未納分は、先生の勧告により、切り捨てられた。 炊き出しと並行して、開発が行われた。 資金300両、反別24町歩の予定で、善行精農者を農民中から投票によって選ばせ、一番札に3反歩分、二番札に2反歩分、三番札に1反歩分ずつの開発料を5ヶ年賦として貸し付けた。その人員は合計150名となり、当選者以外の者もこの開墾事業の労賃によって潤った。 その烏山の藩士は桜町陣屋に住み込んで天分の調査を行った。 過去10年間の平均は、烏山領分で、米9,330俵余、金316両余で、厚木領と合せると、米11,817俵余、金1,959両余となった。先生はこれに基づいて分度を確立し、開発雛形によって10年間に総計1,199町歩の荒地を開発する案を示された。 藩議は一決し、領主の直書と、重役の連印状によって正式に仕法が依頼されたのは6月20日のことであった。☆烏山藩の藩主、家老、小役人に至るまで連印した依頼書をもって先生に復興を依頼した。先生はこうおっしゃった。「民の露命が夕べにもなくなりそうだった。 私が救助しなければ、数千人の民が罪もなく死ぬところであった。 そこで君臣のたび重なる要望にまかせて救助したのだ。 国家再興の道をどうして私が知るところであろうか」と固辞された。 烏山の君臣は再三要望してやまなかった。先生はこうおっしゃった。「それ国を興すことは誠に大業である。天命に安んじ、衰貧の時にしたがって、天理自然の分度を守り、『中庸』にある通り『艱難に素して艱難に行い』、民の安心して後にともに安心し、また一人の民であっても困苦を免れていない時は、君臣ともに一藩がみんな安心の思いをしない。民の憂いに先立って憂い、民の楽しみに後れて楽しみ、民を恵むこてゃわが子を育てるようにならなければ、どうして衰えた国を興すことができよう。あなたがたの求めるところはそうではない。君主の必要な費用が足らず、一藩の給与の10分の3も受けることができず、その不足を補うため、借金をして、年々その利息が積みあがり、どうにもできなくなった。そこで領民に金を出させてこれを補おうとし、まだ足らない。今年に来年分の税金を納めさせている。下の艱難はすでに極まって、ついに飢饉となって飢え死にしそうになったのでないか。このようにして歳月を送れば、国が亡ばなければ止むことがない。天地の間に大小それぞれに応じて分度がある。その分に応じて、支出を制限するならばどうして不足が生じようか。もし分限を破って、いたずらに財産を費やして不足のみ憂えるときは百万石をあってもどうして用が足ろう。それ3万石というのは何の名か。穀物が3万石出せる土地ということではないか。3万石の穀物の中にいて、米や金がないのを憂、民の飢渇を憂う時は、天下に足るものなどあろうか。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」「なんのうたがいもなく・・・・・。ですか」「そうよ。なんのうたがいもなく、心配もなくいえたら、その通りになるのよ。言葉にはそういう力があるの」
2023.06.12
報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ 于時(ときに)天保七丙申(ひのえさる)年大(おほい)に飢(き)す。諸國の民飢渇に苦しみ、草根(さうこん)を食(くら)ひ、木皮(もくひ)を食(くら)ふといへども、食既に盡(つ)きて四方に離散す。往(ゆ)く處(ところ)食(しょく)を得るの道なく、道路に叫び哀(かなし)めども、人も亦是(こ)の如くなれば、慈(じ)ある者と雖も之を救ふことあたはず、遂に途(みち)に餓ヒョウ(がへう)累々(るゐるゐ)たるに至れり。野州烏山領中の民も亦飢渇に苦しみ、群起(ぐんき)して城下市中の富家(ふけ)を破却し、動揺すること夥(おびただ)し。城中の群臣之を聞き、若し彼等城内に亂入することあらんも計り難し。然らば是非に及ばず、大炮(たいほう)を以て之を拂(はら)ふに如ずと、大炮(たいほう)を備えて之を待つ。代官郡(こほり)奉行(ぶぎやう)をして之を諭(さと)し、その動搖(どうえう)を鎭静(ちんせい)せしむ。是より先(さき)、菅谷某(ぼう)二宮先生に至りて救荒(きうくわう)の道を請ひ、實情(じつじやう)を以て小田原候に言上(ごんじやう)し、先生も烏山候より依頼の條を以て聞(ぶん)す。小田原候深く之を憐み、烏山は親族也、之を救ふの道有れば、夫れ我に代(かは)りて撫育(ぶいく)せよと命ず。是(ここ)に於て先生其の價(あたひ)二千餘(よ)金の米粟(べいぞく)を烏山に送り、十餘里の間、運輸の米粟(べいぞく)送り、十餘里の間運輸の絡繹(らくえき)たり。諸人目を驚かさゞるものなし。菩提寺(ぼだいでら)天性寺(てんせうじ)境内(けいだい)に於て十一棟の小屋を補理(ほり)し、領中の飢民を集め、粥を炊(かし)ぎて之を撫育(ぶいく)す。其の處置(しょち)規則皆先生の深慮に出(いで)たれば私曲の憂なく、均しからざるの憂なく、晝夜(ちうや)火の元を嚴(げん)にし、小屋(こや)の汚穢(をわい)を去り、疫疾(えきしつ)の憂を防ぎ、厚く之を養ふ。圓應(えんおう)和尚嘗(かつ)て先生に見(まみ)えしより終(つひ)に其の志願を遂(とぐ)るを以て大いに喜び、自ら飢民の安危(あんき)を計り、日となく夜となく撫恤(ぶじゅつ)に心力(しんりょく)を盡(つく)せり。是(これ)を以て、必死(ひっし)を免れ難き數千人の飢民、一人の過ちなく生命(せいめい)を全くすることを得たり。先生の仁術に依らずんば何を以て此の大飢を無事に凌(しの)ぐことを得んやと、上下之を感嘆す。 天性寺の境内に十一棟の救い小屋を建てて、領内の飢えた民を集め、桜町から多くの穀物を運び込んで粥を作ってこれを配った。このお蔭で烏山藩の数千人に及ぶ飢民に一人の餓死者もなかった。先生50歳のときである。その後大久保忠真候の病床からの依頼で、小田原領内の飢饉救援にも当たり、数万という多くの人の命を飢饉から救ったのであった。「二宮翁夜話」巻の5に烏山藩で行った飢饉の救助方法が詳しく記載されている。○私が烏山その他で行った飢饉の救助方法は、まず村々に諭して、飢渇に迫った者のうちから、老人幼子病身等の、力仕事につくことが難しい者と女性でその日の働きが十分にできない者を残らず、調査させる。そして、寺院かまたは大きな家を借り受けて、ここに集める。男女を分けて、30人40人づつ一組とする。一所に世話人12名をおく。一人について、一日白米1合づつと定め、40人であれば一度に1升の白米に水を多く入れて、粥にたいて、塩を入れる。これを40椀に、平等に盛って、1椀づつ与える。また一度は菜を少し混ぜて、味噌を入れて、薄い雑炊として、前と同様に盛って、一椀づつ代わる代わる、朝から夕まで、一日に4度づつと定めて、与えるのである。・・・これを与える時、丁寧にこう諭すのだ。「なんじらの飢渇は深く察している。実に憐れむべきことだ。今、与えるところの粥は一日4度に限るから、実に空腹に耐えがたいであろう。しかしながら大勢の飢えた人に十分に与えるほどの米、麦は天下にはないのだ。・・・今日、国中に米穀の売り物がなく、金銀があっても米を買うことができない世の中である。・・・一椀でも厚く有難くこころえて、ゆめゆめ不足に思うなよ。・・・この一椀づつの粥は、一日に4度づつ時間をきめてきっと与えるぞ。そうであれば体はやせても、決して餓死する心配はない。新麦の熟する間のことであるから、空腹をこらえ、起き伏しも運動も静かにして、なるだけ腹のへらないようにして、命さえ続けば、それを有難いと思うがよい。・・・かえすがえすも草木の皮や葉を食べるなよ。多く食したり、毎日食すれば病を生じたり、大切な命を失うことになるぞ。必ず食するなよ」これがその方法の大略である。また、身体が健康な男女には別に方法を立てて、「平常は5厘の縄一房を7厘で、一銭の草鞋(わらじ)を一銭5厘で、30銭の木綿布を40銭に買い上げ、平日15銭の日雇い賃金は25銭づつ払うので、村中一同奮発して努め励んで、銭をとって自ら生活を立てよ。縄、草鞋、木綿布などは、どれほどでも買い取るし、仕事は協議工夫して、人夫を使うから、老若男女を論ずることなく、身体が丈夫な者は、昼は出て日雇い賃を取り、夜に入って縄をない、草鞋を作るがよい」と懇々と説諭して、努力させなさい。 さて、その仕事は、道や橋を修理し、川や堀をさらい、溜池を作り、川の堤防を修理し、沃土を掘り出して、土壌の悪い田畑に入れ、畦(あぜ)の曲がったのを真直ぐに直し、狭い田を合わせて大きくするなど、その土地に応じて、工夫すれば、その仕事はいくらでもある。 これがわが手に10両を損して彼に50両60両の金を得させて、かつその村里に永世の幸福を残し、その上、美名をものこす道である。ただ恵んで費えないだけでなく、少なく恵んで大利益を生ずる良法である。これが私が実地に行った大略である。○天保七年に烏山候の依頼によって、同領内に以上の方法を行った。一村一村に諭して、極難の者のうち、力仕事につくことができる者とできない者の二つに分けて、力仕事につくことができない病人、幼児、病気の者など千人あまりを烏山城下の天性寺の禅堂、講堂、物置そのほかの寺院や新たに小屋20棟を建てて、一人白米一合づつ前に言った方法で、天保7年12月1日から翌年5月5日まで、救い遣わした。また鬱憤を発散させるため、藩士の武術稽古をこの場所で行い、見物を許し、時々空砲を鳴らして鬱気を消散させた。そのうち病気の者は、自分の家に帰し、また別に病室を設置して、療養させた。5月5日解散のときには、一人について白米3升、銭500文づつを渡して、帰宅させた。また力仕事につける丈夫な者には、鍬一枚づつ渡して、荒地一反歩について、起し返し料、金3分2朱、仕付料2分2朱、合わせて1両半、ほかに肥やし代一分を渡した。そして仕事熱心で一村の幹事となるべき者を人選し、入札で高札の者に、その世話方を申し付けて荒地を起こし返して植付けをさせた。このお越し返しで一春の間に、58町9反歩、植付けたのであった。実に天から降ってくるように、地から湧いてくるように、数十日のうちに荒地は変じて水田となり、秋になってその実りはただちに貧民の食糧の補いとなった。そのほか草鞋、縄などを製造したのも大きな事業で、飢死する者も一人もなく、安穏に相続し、領主の仁政を感激して農事に励むようになったことは、なんと嬉しいことではないか。」実に尊徳先生の方法は現代でも見習うべきことが多いと思う。1 仕事につくことができない病人、幼児、病気の者などは、別に保護し、厚く救助を行う。2 仕事ができる健康な男女には、公共事業を起こして通常よりよい条件で賃金を支払う。(アメリカの大恐慌の際のニューディール政策を想起させる)3 2により、一時の救難ではなく、遊惰の者も自然と勤勉にさせ、職業を習熟させ、各々職業に精励させる。みだりに補助を与えることは、人民を怠惰に導く。注意して施行し、人民を奮発させ精励させるようにすることが必要である。(夜話巻の5[5])また、尊徳先生はこう言われた。「私は、不幸にして、14歳の時に父に別れ、16歳の折、母に別れた。所有の田地(でんち)は洪水のために残らず流出した。幼年の困窮艱難は実に心魂に徹し、骨髄にしみ、今日(こんにち)もなお忘れることができない。なにとぞして世を救い、国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたいと思って勤め励んできた。はからずも天保の両度の飢饉に遭遇した。ここにおいて心魂を砕いて、身体を粉にして、ひろくこの飢饉を救おうと勤めたのだった。 」(夜話巻の5[13])「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。「えっ!これから起こることにですか」そうよ。たとえば、家のカギをなくしたら「カギが見つかりました。感謝します」というの。なんのうたがいも心配もなく、そう思いこんでね」
2023.06.12
報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す菅谷某(ぼう)頗(すこぶ)る文才あり。此の言を聞き、益(ますます)感激して曰く、果たして賢人なり。子(し)之を妄言(ぼうげん)と云ふもの何ぞや。誠に君(きみ)は君の道を盡(つく)し、某(ぼう)は某の職を盡さば、何ぞ一歳(さい)の飢饉に窮し、民を飢渇せしむることあらんや。君臣共に道を失ひたりと云ふべし。然れども今の世に當(あた)り、誰か君臣、道を失ひたるを公然として教戒するの英傑あらんや。二宮の言(げん)直(ちょく)にして其の理明白也。我此の人に道を問わずして誰(たれ)にか問はんと。是(こゝ)に於て衣服を改め、君前(くんぜん)に出(いで)て曰く、今年(こんねん)大(おほ)いに飢う。領中人民の飢渇旦夕(たんせき)に迫れり。臣、百方(ぽう)撫育(ぶいく)の道を求むるといへども、更に其の道を得ず。平年猶(なほ)君の用度(ようど)足らずして商賈(しやうこ)の財(ざい)を借り、之を補ふ。今、大凶(だいきょう)に當(あた)れり。金銀融通(ゆうづう)の道絶たり。如何(いかん)ともすべからず。然るに櫻町二宮なるもの、其の先(さき)小田原候の撰擧(せんきょ)を以て、彼の地の廢亡(はいぼう)を再興することを任ぜり。十年にして功業歴然、加之(しかのみならず)飢歳(きさい)の至らんことを前知し豫(あらかじ)め其の備へをなし、三邑(いふ)の民を救ふこと平年に倍せりと。先づ某(ぼう)なる者をして往きて之を試みしむ。其の確言(かくげん)的論(てきろん)是(こ)の如し云々(うんぬん)。是(これ)不凡(ふぼん)の人物にして、當時(たうじ)に難(かた)き賢才なるべし。臣直(たゞち)に彼の地に至り、救荒(きうくわう)の道を求めんとすれども臣の意に出づるとせば、必ず面會(めんくわい)だも許す可(べ)からず。君(きみ)の賢慮を以て懇切の直書(ぢきしょ)を二宮に賜ひ、臣之を奉じて彼の地に至り、君命の厚き所以(ゆゑん)を陳述せば、君の民を恵み玉ふ仁心の忝(かたじけな)きを以て、必ず救荒安民の道を教へんか、事の成否は君の深慮にありと言上(ごんじやう)す。烏山候大いに之を感じ玉ひ、汝の言(げん)是(ぜ)なり、我直書を以て之を依頼せんと。是に於て筆を執(と)り一章を認(したゝ)め、菅谷に渡し玉ふ。菅谷大いに悦び、君前を退き、直(たゞち)に櫻町に至り、君命を述べ、直書を出して頻(しきり)に救荒の道を請(こ)ふ。先生歎じて曰く、烏山の民、元より我が與(あづか)る所にあらず。今飢渇に及べるもの、君臣共に其の道を失ひたるが故なり、其の國にありて其の道を失ふが故に、國民(こくみん)飢亡に及ぶもの諸國擧げて數(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。然るに君臣其の非を知り、其の道を我に求む。今は烏山民命(みんめい)の存亡我一人の言下(げんか)に決せり。嗚呼(あゝ)如何(いかに)せん。之を救ふに如ず。殊(こと)に烏山候は小田原候の親族也(なり)。之を救助するの縁故(えんこ)なしと云ふ可からず と。是に於て菅谷に面會(めんくわい)し、治亂(ちらん)盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由(よ)りて起る所、衰廢(すいはい)興復の道、富國(ふこく)安民(あんみん)の大道(だいだう)を諭(さと)すこと流水の止(や)まざるが如し。菅谷某(ぼう)彌々(いよいよ)驚き益々(ますます)感動す。先生曰く、烏山候仁心厚くして此の飢民を救はんことを某(ぼう)に求め玉ふと雖(いへど)も、某(ぼう)諸侯邦内(ほうない)の事務敢て預かる可きにあらず、固辭(こじ)せんのみ。然れども我が主君の縁者なり。烏山候より主人へ此の條(でう)を以て告げ玉はゞ、主君より臣に命ぜんか、又某(ぼう)よりも言上すべし。君命あるにあらざれば我が私(わたくし)に烏山候の命には應(おう)じ難し。然れども此の順路を蹈(ふ)まんこと、日數(につすう)を經(へ)ずんば辨(べん)ず可らず。飢民を目前に置きて此の順序を追はゞ、所謂(いはゆる)轍魚(てつぎょ)を市(し)に求むるの憂ひなしといふべからず。其(そ)の中(うち)先づ之を以て切迫の救荒(きうくわう)に當(あて)よ と、懐中より金二百兩を出して菅谷に與(あた)ふ。菅谷其の寛仁にして道を蹈(ふ)み、時を計りて處置(しょち)其の宜(よろしき)を得ることを感じ、三拝(ぱい)厚謝して烏山に歸れり。今年一金(きん)の融通も絶えたるに一面(めん)の間に二百金を與(あた)へられ、菅子(くわんし)夢の如くにして歸りたりと云ふ。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」「どうしてですか?」「『ありがとう』というとね、それ以上いやな気持ちにならないの。そして、心がどんどん落ち着いてきて、物事がうまく動きだすのよ。だから『ありがとう』は魔法の言葉なの」
2023.06.11
報徳記 巻之三【3】先生烏山の飢民を撫育し国家再興の基本を立つ 菅谷某を始め的然たる明教(めいけう)を感じ、彌々(いよいよ)上下同心協力此の道を行はんとす。唯(たゞ)先生之を指揮せよと請(こ)ふ。先生止む事を得ず、烏山分度の基礎を定めんとして曰く、然らば先づ天分(てんぶん)の基本を明(あきらか)にすべし。 語に曰く、故(ふるき)を温(たづねて)新きを知ると云へり。烏山領中の租税、豊凶十年を調べ、之を平均し、其の天命のある處(ところ)を察し、向後(かうご)の分度を定むべし。各(かく)古帳簿(こちやうぶ)を持ち來りて速に調(しら)ぶべし。我亦其の至當(しとう)を示さん と云ふ。大夫(たいふ)以下大いに悦び、直(たゞち)に烏山に歸り、再び櫻町に至る。先生烏山の有司(ゆうし)數十人を陣屋に居らしめ、飲食衣服に至るまで心を盡(つく)し之を給し、數月(すうげつ)にして豊凶十年の調べ成る。而して衰時天命のある處(ところ)、自然の分度を確立して曰く、向後(かうご)君臣共に之を守らば、必ず廢衰(はいすゐ)再復せん事(こと)疑なし。凡(およ)そ世の盛衰存亡興廢一として此(これ)より生ぜざるはなし。早く烏山に歸り、群臣と共に之を決せよ と教ふ。大夫以下烏山に至り之を評議し、數日(すうじつ)にして一決す。是に於て再三先生に興復の道を請ふ。先生再び米財を出し、烏山領邑の廢地を興さしむ。下民飢渇を免れ、大いに感激して開墾に力を盡し、一兩年にして舊來(きうらい)の廢地を開く事二百二十四町(ちやう)、出粟(しゅつぞく)二千苞(へう)に及べり。先生曰く、烏山何萬(まん)の廢田、幾萬の借債ありと雖も、分外の産粟(さんぞく)年々二千を得ば舊復(きうふく)の道難きにあらず。唯上下其の分度を守るの有無に由れり と、人々先生の仁心大智(だいち)を驚歎せざるはなし。「烏山の仕法」の仕法について「二宮尊徳先生傳」(佐々井信太郎)はこのように記す。「烏山の仕法は、天保7年の大飢饉に際し、非常な困窮に陥ったのを救済しようということから始まった。 そして天性寺の和尚の禅的修業による努力と家老菅谷八郎右衛門の真摯な忠誠の行いにより報徳仕法を行うことになった。 烏山は栃木県那須郡烏山町で、領主大久保佐渡守(さどのかみ)は小田原大久保氏の一族である。 その領土は、烏山地方47カ村、公称2万6千石、神奈川県の厚木付近1万3千石余、合計4万石と称せられた。(略) 天保7年の飢饉は、東海よりも関東、それより奥羽、東北にいたるにしたがって甚だしかった。 烏山も関東の東北部にあって惨憺たるありさまで、天保7年の夏から秋にかけて、困窮した人々はクズ、ワラビ、草の根等を掘って飢えをしのいだ。菅谷は、江戸に出ていた家老大石総兵衛の帰国を要請したが、年末にならないと帰れないということであった。 そこで江戸に出て、協議しようとした。 そのとき、下男の藤兵衛から、桜町の復興の話を聞いたのである。 藤兵衛は、常州(茨城県)真壁郡小栗の出身で、菅谷の供で天保5年江戸に出た際に、青山の教学院(大久保家の菩提寺)で仕法のことを聞いていた。また天保7年に同藩の大久保金吾が江戸に出た際、供として牧野遠江守(とうとうみのかみ)宅で尊徳先生の事を聞いたと菅谷に伝えた。 菅谷はかねて尊徳先生の仕法については耳にしており、その日記にも「8月中かねがね聞き及んだ二宮」とあるとおりである。 そこで藤兵衛につかわして様子を探らせたが、世間話程度しか分からない。そこで真相を知ろうと天性寺の円応和尚の派遣となる。 円応は、文政の始め奥州衣川から転任してきた。仏の道は現世の窮民救助にありとして、衣川においても荒れ山を開墾して畑とし、畑を田としたほどであった。円応も桜町復興の噂は耳にしており、菅谷とも意気投じて領内の荒廃について意見を交換していたので、桜町の調査を快諾したのであった。桜町役所の日記8月22日のところに「烏山御領内より御趣法の筋の儀あい願いたき段申し参り候、もっとも旅宿は真岡のよし、忠次申し聞こえ候事、野上村茂右衛門」とある。次に天保7年9月2日天性寺の円応和尚が桜町の陣屋に来て、尊徳先生に面会を求めた。「僧侶は僧侶の道あり。わが道は廃村を興し、民を安んずるにある、僧侶に会って未来の往生を談ずる必要はない」と面会を拒絶された。円応和尚は私の志は民を救うことにある、面会を拒絶されて帰り、民が飢え死にするのを見るに堪えないといって動かない。「かの僧は何をいうか。我にはわが預かる専務がある。烏山の安否は烏山候の職分である。しかるに僧侶の身として強いて推参して面会を要求し、わが本務執行の妨害をするとは何ゆえか」と面会されなかった。円応和尚は、先生が面会されなければ、ここで烏山の民に先立って飢え死にするだけだと、陣屋の門前の芝原に袈裟の衣のまま伏せて昼夜動かなかった。翌朝、そのことを聞いた尊徳先生は「かの僧は理非にかかわらず、面会をこい、あまつさえ陣屋の門前で餓死しようとは比類ない曲者である。よし、会って戒めよう、すぐに連れてまいれ」と大声で命ぜられた。円応和尚は、悠然と起き上がって先生の面前に赴いた。「坊主、なんのためにこの陣屋に来たって、わが専務を妨げ、門前に伏して死を決するのか」「一に先生の教えを受けて烏山の飢えた民を助けたいためです。」「汝は僧侶にして仏の道を知らないのか」「私は愚かではありますが、仏門に入って久しく、仏道を理解していないなどということはありません」「仏の道に荒地を開き、民を撫育し、飢えた民を救う道があるか」「事は異なるようですが、仏の本意は衆生を救うことにあります、民を憐れみ飢えを免れさせようとするのも仏の願です。」「そんな答えでは仏の道を知っているとはいえない。 世の中には職分があって、たがい奪ってはならない。 領主には領主の道があり、臣下は臣下の道がある、僧は僧の道がある。 (略)」と順々に説諭された。円応和尚は、自らの非を悟って、また先生の説諭に「このような人物が今の世にあろうとは思わなかった」と感動して烏山に帰った。菅谷は円応和尚からこの報告を聞いて、「ああ、賢なるかなに二宮、我速やかに救助の道を求めん」とまず使者を派遣して近日面会したいと申し入れた。再三の使者の面会要求に尊徳先生はやむなく会われた。「私は命がけでこの地の復興に尽くしており、他藩の臣下と閑談するひまなどない。そもそも菅谷は烏山藩の家老ではないか。家老の職は主君を補佐し、国を富まし民を豊かにすることではないか。しかるに一年の飢饉にさえ、領民を飢えさせるのは、仁政が行われていないからである。諸侯の任務は天下の民を預かって撫育し、安泰ならしめるにある。今その民を飢えさせるようなら諸侯の道を行っているとはいえない。主君がこのようであり、家老もこのことを知らないで飽食暖衣安逸を貪ってその任務を果たしたと思っているのか。そのような人物がわが門に来ることを欲しない。来るのをやめさせよ」と厳しく使者に告げた。使者は、二宮なるもの狂人です、そのいうことこのようでしたと菅谷に告げた。菅谷は使者の話にますます感動し「今の世に君臣ともに道を失っていると公然と教え諭す者がいようか。実に英傑である。この人に道を問わなければ問う人はいない」と言った。菅谷の日記によると9月22日江戸に出る途中桜町に立ち寄るとある。桜町陣屋の日記には「9月23日烏山天性寺まかりこし候事。菅谷氏同道」とあり、円応和尚の案内で面会したのである。菅谷の日記には「実に未曾有の致し方、この人に任さば当年の飢饉救いとげることができよう」と書いてあり、菅谷はすぐに江戸に出て、藩の会議にあげた上で、烏山候に申し上げた。「今年は非常の凶作で、領中の飢渇は旦夕に迫っています。私たちは百方手を尽くしましたが、良い方法がみつかりません。平年ですら公用に不足し、借金して補っているところです。今大飢饉で金融の道も絶えていかんともしがたいこととなりました。しかるに幸いなことに桜町に二宮という者がいて、先年大久保忠真候の命により復興にあたり、10年でその功業が歴然として、しかもこの飢饉が来ることを前もって知り、備蓄を充分に行い、3か村の民政は平年よりも豊かであります。先日人をして調査させましたが、二宮の言論は実に驚くべきものでした。」と報告した。烏山候も感嘆し、10月4日御前会議が開かれ、その席で菅谷は「烏山、厚木の不作について応急処理が必要で急を要している。その方法として二宮金次郎に仕法を依頼されるのが最上の策であり、この方法によれば当年の飢饉の道が完備するであろう」と強調した。そこで先生を烏山に借り受けようと小田原候に依頼したのである。小田原候からは、「金次郎の事、貸すことはできないが、相対で依頼することはかまわない」という返事であった。そこで御直書で依頼するということが決定し、10月29日に江戸を出発、11月2日桜町について、直々に仕法を依頼したのであった。尊徳先生は「烏山領のことはわが関与すべきところではない。その根元は君臣ともに道を失ったためである。そしてそのような例は今数えることができないほどである。しかし、君臣ともその非を知って救済の道を我に求めてきた。今、我が一言に烏山領民の存亡がかかっている。ことに烏山候は小田原候の一族である。すでに主君大久保忠真候もご承知のことであり、一応治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由来復興安民の大道を述べよう」と菅谷に詳細に語られた。「過去10年の収入を平均し、一年なにほどと定めて、その分度内で暮らし、年々の増収分で元金を返済すればよい。ただ凶作で住民が飢渇に迫られており、分度の確立は後にして、まず救済を実行しなければらない。最初に根本仕法を決定し、仕法実施の覚悟が確立するならば即座に救助米を差し出そう。」菅谷は大いに喜んで「主人に代わって領分を預かる身である。その責任上今日数千人の命を救えるならたとえ明日いかなる災難が来ようとも少しも厭わない。もとより死を決している。」と答えた。そして早速救助の用意にとりかかった。天性寺境内に小屋12棟を建築し、炊き出しの道具を揃え、それぞれ役を決めた。こうして、天明の大飢饉における尊徳先生の数万人にも及ぶ人命救助が桜町を越えて開始されたのである。これ実に尊徳先生が神として祀られ、各地に二宮神社が創建されたゆえんである。尊徳先生はこう言われた。「私は、不幸にして、14歳の時に父に別れ、16歳の折、母に別れた。所有の田地(でんち)は洪水のために残らず流出した。幼年の困窮艱難は実に心魂に徹し、骨髄にしみ、今日(こんにち)もなお忘れることができない。なにとぞして世を救い、国を富まし、憂き瀬に沈む者を助けたいと思って勤め励んできた。はからずも天保の両度の飢饉に遭遇した。ここにおいて心魂を砕いて、身体を粉にして、ひろくこの飢饉を救おうと勤めたのだった。 」(夜話巻の5[13])「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「感謝します」は、いいことがあったらいうでしょう。だけど、もっといいつかいかたがあるの。それはね、これから起こることに感謝するのよ」そうおばあさんはいいました。☆五日市剛さんの「ツキを呼ぶ魔法の言葉」に斎藤一人さんの講演会を聞いたときの話が出てくる。「ご存じの斎藤一人さんの講演を聴く機会がありましてね。この方は中学しか出ていないそうなんですけど、自分でユニークな漢方薬の会社を興されて、六年か七年連続で日本一の納税者支払者、つまり日本一のお金持ちとなっている方です。斎藤さんが言っていることは極めて単純でして、特に二つのポイントに重点を置いているんですね。 一つは「ツイてる、ツイてる」と言っていれば、必ずつくんですよ、ということ。ただ、「ツイてない」と言っちゃうと、ツキを全部失ってしまうらしんですね。要注意。「運が悪い」とか「ツイてない」なんて言っちゃダメですね。 それからもう一つは、「ツイテル、ツイてる」と言っていれば確かにツイてはくるんですけど、どっちを選んだらいいのだろう?という選択する機会が出てくる。そうしたとき、どうしても板ばさみというかジレンマに陥る状況が出てくるわけです。そのときの判断基準として、どちらが正しいか、正しくないかということではなく、「楽しいか楽しくないか」で判断する。☆斎藤一人さんには「加速の法則」というのもある。「加速をつけて、上に上がろうとするときに一番大切なことは、大きく目標を持つ。そして、その目標に近づく道しるべを必ずいくつも持つということです。そして、一つの地点、目標に到達したら、間髪入れず、すぐに次の地点に行こうとするのです。これが『加速の法則』です。 普通、人は大きな目標を一つ、道標を一つ持つことにしています。そして、それを達成すると『温泉でも行こうか』となってしまうのです。でも、それではせっかく上空に上がった飛行機も失速してしまいます。そうではなくて、『ここまで来たら、すぐに次の所まで行こう』と考えるのです。 そして即、行動するのです。 そうするとあなたは失速することがありません。 それどころか、あなたが乗っている飛行機の速さはどんどん速くなって、どんどん加速して、次の目標に達する時間が短縮されるのです。 この宇宙は際限がありません。落ちる人はどこまでも落ちるし、上へ行く人はどこまでも上へ、上へと上っていきます。私たち人間には限界がないのです。(略) 豊かな気持ちで加速をしていくと、いい知恵が出てきます。そのときに浮かんだ知恵をただ素直にやっていればいいのです。正しいことを考えて浮かんだ知恵で行動すれば、失敗のしようがありません。(略) 大きな目標をたった一つ持つのです。そしてその目標を決して人に言わないのです。(略)人間にはとてつもなく不思議な力がある。あなたの想念が目的をつかむ。これが牽引の法則です。分散させず一点に集中すると偉大な行動力に変換するのです。」
2023.06.11
報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す菅谷某(ぼう)頗(すこぶ)る文才あり。此の言を聞き、益(ますます)感激して曰く、果たして賢人なり。子(し)之を妄言(ぼうげん)と云ふもの何ぞや。誠に君(きみ)は君の道を盡(つく)し、某(ぼう)は某の職を盡さば、何ぞ一歳(さい)の飢饉に窮し、民を飢渇せしむることあらんや。君臣共に道を失ひたりと云ふべし。然れども今の世に當(あた)り、誰か君臣、道を失ひたるを公然として教戒するの英傑あらんや。二宮の言(げん)直(ちょく)にして其の理明白也。我此の人に道を問わずして誰(たれ)にか問はんと。是(こゝ)に於て衣服を改め、君前(くんぜん)に出(いで)て曰く、今年(こんねん)大(おほ)いに飢う。領中人民の飢渇旦夕(たんせき)に迫れり。臣、百方(ぽう)撫育(ぶいく)の道を求むるといへども、更に其の道を得ず。平年猶(なほ)君の用度(ようど)足らずして商賈(しやうこ)の財(ざい)を借り、之を補ふ。今、大凶(だいきょう)に當(あた)れり。金銀融通(ゆうづう)の道絶たり。如何(いかん)ともすべからず。然るに櫻町二宮なるもの、其の先(さき)小田原候の撰擧(せんきょ)を以て、彼の地の廢亡(はいぼう)を再興することを任ぜり。十年にして功業歴然、加之(しかのみならず)飢歳(きさい)の至らんことを前知し豫(あらかじ)め其の備へをなし、三邑(いふ)の民を救ふこと平年に倍せりと。先づ某(ぼう)なる者をして往きて之を試みしむ。其の確言(かくげん)的論(てきろん)是(こ)の如し云々(うんぬん)。是(これ)不凡(ふぼん)の人物にして、當時(たうじ)に難(かた)き賢才なるべし。臣直(たゞち)に彼の地に至り、救荒(きうくわう)の道を求めんとすれども臣の意に出づるとせば、必ず面會(めんくわい)だも許す可(べ)からず。君(きみ)の賢慮を以て懇切の直書(ぢきしょ)を二宮に賜ひ、臣之を奉じて彼の地に至り、君命の厚き所以(ゆゑん)を陳述せば、君の民を恵み玉ふ仁心の忝(かたじけな)きを以て、必ず救荒安民の道を教へんか、事の成否は君の深慮にありと言上(ごんじやう)す。烏山候大いに之を感じ玉ひ、汝の言(げん)是(ぜ)なり、我直書を以て之を依頼せんと。是に於て筆を執(と)り一章を認(したゝ)め、菅谷に渡し玉ふ。菅谷大いに悦び、君前を退き、直(たゞち)に櫻町に至り、君命を述べ、直書を出して頻(しきり)に救荒の道を請(こ)ふ。先生歎じて曰く、烏山の民、元より我が與(あづか)る所にあらず。今飢渇に及べるもの、君臣共に其の道を失ひたるが故なり、其の國にありて其の道を失ふが故に、國民(こくみん)飢亡に及ぶもの諸國擧げて數(かぞ)ふるに暇(いとま)あらず。然るに君臣其の非を知り、其の道を我に求む。今は烏山民命(みんめい)の存亡我一人の言下(げんか)に決せり。嗚呼(あゝ)如何(いかに)せん。之を救ふに如ず。殊(こと)に烏山候は小田原候の親族也(なり)。之を救助するの縁故(えんこ)なしと云ふ可からず と。是に於て菅谷に面會(めんくわい)し、治亂(ちらん)盛衰の根元、禍福吉凶存亡の由(よ)りて起る所、衰廢(すいはい)興復の道、富國(ふこく)安民(あんみん)の大道(だいだう)を諭(さと)すこと流水の止(や)まざるが如し。菅谷某(ぼう)彌々(いよいよ)驚き益々(ますます)感動す。先生曰く、烏山候仁心厚くして此の飢民を救はんことを某(ぼう)に求め玉ふと雖(いへど)も、某(ぼう)諸侯邦内(ほうない)の事務敢て預かる可きにあらず、固辭(こじ)せんのみ。然れども我が主君の縁者なり。烏山候より主人へ此の條(でう)を以て告げ玉はゞ、主君より臣に命ぜんか、又某(ぼう)よりも言上すべし。君命あるにあらざれば我が私(わたくし)に烏山候の命には應(おう)じ難し。然れども此の順路を蹈(ふ)まんこと、日數(につすう)を經(へ)ずんば辨(べん)ず可らず。飢民を目前に置きて此の順序を追はゞ、所謂(いはゆる)轍魚(てつぎょ)を市(し)に求むるの憂ひなしといふべからず。其(そ)の中(うち)先づ之を以て切迫の救荒(きうくわう)に當(あて)よ と、懐中より金二百兩を出して菅谷に與(あた)ふ。菅谷其の寛仁にして道を蹈(ふ)み、時を計りて處置(しょち)其の宜(よろしき)を得ることを感じ、三拝(ぱい)厚謝して烏山に歸れり。今年一金(きん)の融通も絶えたるに一面(めん)の間に二百金を與(あた)へられ、菅子(くわんし)夢の如くにして歸りたりと云ふ。烏山候は感動して筆を執って直書を書き菅谷に渡した。菅谷は、すぐに桜町に至って君命を述べ、直書を渡して救荒の道を請うた。先生はため息して言われた。「烏山の民は、もとより私があずかるところではない。今、飢渇に及んだというのも、君臣ともにその道を失ったためである。しかし、君臣がその非を知って、その道を私に求めてきた。今、烏山の民の命の存亡は私一人の言葉で決する。ああ、いかにしよう。よし、これを救おう。特に烏山候は小田原候の親族でもある。これを救う縁がない訳でもない。」ここで二宮先生は菅谷に面会し、治乱盛衰の根元、禍福吉凶存亡の起こるところ、衰廃興復の道、富国安民の大道を諭された。菅谷はますます驚きますます感動した。二宮先生は烏山候から小田原候に依頼するよう順を踏むことを教えた。「しかし、この順路を踏むのに日数がかかれば、民が飢えてしまう。まずこれをもって切迫する救助に与えよ」と二百両を菅谷に与えた。菅谷はその寛大な処置に三拝して烏山に帰った。今年一金の融通もできなかったのに、一面識の間に二百両を与えられ、菅谷は夢のような気持で帰った。 これが烏山藩における仕法の始まりであった。☆「補注報徳記」(佐々井典比古)にはこうある。「烏山候は当時江戸にあった。 菅谷は江戸に出る途中桜町に立ち寄った。 9月23日、円応の案内で先生に始めて面会し、その未曾有の明法に驚嘆し、尊徳先生の指導によれば必ず目的を達成するとの自信を得たので、急ぎ江戸に出て、君前にでて説明し、重役の御前会議を経て、仕法の依頼を決定した。そこで烏山藩から小田原藩に、先生を「借り受けたい」旨、申し入れたところ、「貸すことはできないが、相対で依頼することは差し支えない」との回答を得た。そこで菅谷は直書を携えて出発し、11月2日桜町に立ち寄って、正式に仕法を依頼したのであった。 尊徳先生は、藩政の天分の調査、分度の確立、荒地開発及び借財返済が根本的方策であることを述べ、それを実行する決意があるならば、救急の方途を講じようと承諾された。そして救助米はすぐに提供することを約束された。菅谷は大いに喜んで翌日烏山に帰り、早速天性寺に救助施設を準備して、13日には細部の打ち合わせのため、円応とともに桜町に来た。救助米は11月26日の白米50俵を始めとして、続々と送られた。」「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。たとえば、交通事故にあったとき『ありがとう』。さいふをなくしたとき『ありがとう』。親が死んでしまったときも・・・・・・、いえないかもしれないけど、歯をくいしばって『ありがとう』っていうのよ。」
2023.06.10
報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す某(ぼう)なるものを呼びて曰はく、今、凶荒(きょうくわう)の憂(うれひ)既に甚(はなはだ)し。而(しか)して倉廩(そうりん)空乏(くうぼふ)百計(けい)民を救ふに術(じゅつ)なし。櫻町二宮なるもの、非常の英才なりと聞く。近日我(われ)往(ゆ)きて道を問はんとす。子(し)先づ往きて某(それがし)の至らんことを二宮に告げよ。是も亦二宮を敬するの一事(じ)なりと。某(ぼう)諾(だく)して直(たゞち)に櫻町に來り、此の條(でう)を告ぐ。先生又他邦の臣に面會(めんくわい)するの暇なきを以て之を辭(じ)す。某(ぼう)大いに心を苦しめ、先生大夫(たいふ)に逢はんとの言(げん)を聞かずして歸(かへ)らば、菅谷來(きた)るの道なからんか。我此の地に來り、面會を許さゞるの斷(ことわり)を得ずして退かば、來りたるの甲斐(かひ)は無かるべしと、再三面會を請ひて止まず。先生止む事を得ず、某を呼びて曰く、烏山(からすやま)の大夫(たいふ)當地(たうち)に來(きた)らんとする、何(なん)の爲(ため)ぞや。我(われ)主命(しゅめい)を受けて此(こ)の地の民を撫(ぶ)せり。元(もと)より寸暇(すんか)あらず。豈(あに)他邦(たほう)の臣(しん)と閑談(かんだん)するの暇(ひま)あらんや。菅谷某(ぼう)は烏山の大夫(たいふ)にあらずや。夫(そ)れ大夫(たいふ)の任(にん)は上(かみ)君(きみ)を補佐(ほさ)して仁君の道を蹈(ふま)しめ、下(しも)國民(こくみん)を安撫(あんぶ)して其(そ)の所を得(え)せしめ、國富み民豊かなるを以て大夫の職とせり。然るに今飢歳(きさい)に當(あた)り、倉廩(そうりん)空虚にして救荒(きうくわう)の道なく、國民(こくみん)の飢渇(きかつ)を救ふことあたはず、坐(ゐ)ながら民の餓死(がし)するを見るか。是(これ)平生(へいぜい)の政(まつりごと)其(そ)の至當(したう)を得ざるが故(ゆゑ)なり。禮(れい)に言わずや、國(くに)三年の蓄(たくはへ)なきは、國其の國に非ずと。三年の蓄(たくはへ)なきすら是(こ)の如く戒めたり。今烏山の儲蓄(ちょちく)豈(あに)三年を論ぜんや、一年の飢饉(ききん)だも國民をして飢渇に陥(おちい)らしむ。何(いづ)れの處(ところ)に仁政(じんせい)かある。夫(そ)れ諸侯の任は天民(てんみん)を預り、之を養ひ、之を撫(ぶ)し、之を安(やすん)ずるにあり。今其の預かる所の天民を飢亡(きぼう)に落さば、何を以て諸侯の道有らんや。君も是(こ)の如く、大夫も之を知らずして人の上に立ち、專ら衣食(いしょく)に飽き、安逸(あんいつ)を以て自ら諸侯大夫の任と思へるか。是(こ)の如(ごと)き人物我が門前にも至ることを欲せず。況(いはん)や何の爲(ため)に面會(めんくわい)せんや。子(し)速(すみやか)に歸(かへ)り、其の來(きた)ることを必ず止めよ と、大音(だいおん)にて之を戒め、直(たゞち)に立ちて再び見(み)えず。某(ぼう)なるもの流汗(りうかん)肩背(けんばい)に溢(あふ)れ、茫々然(ぼうぼうぜん)として烏山に歸(かへ)り、菅谷に告げて曰く、大夫(たいふ)の言(げん)に隨(したが)ひ、櫻町に至りて二宮に面會を請ふこと再三再四に及び、見(まみ)ゆることを得たり。然るに妄言(ぼうげん)是(こ)の如し。一歳(さい)の飢饉にだも國民を飢(うゑ)に陥らしむ。君も君の道を失ひ、大夫も大夫の道を知らず。自ら安逸遊惰(あんいついうだ)を以て、人の上に立ち、大夫の任と思へる歟(か)飢歳に至り民を救ふことさへ知らずんば、何を以て一日も其の職に安んずるや。是(こ)の如き者に逢ふことは我が欲せざる所なり。汝速に歸り、其の來ることを止めよと、大いに詈(ののし)る其の聲(こゑ)雷(らい)の如し。彼本心にはよもあらじ、定めて狂人ならん、大夫必ず往くことなかれと、顔色(がんしょく)を變(へん)じて之を告げたり。 円応は、二宮先生の言葉に感動して烏山に帰り、家老の菅谷に「今の世にこのような偉大な人物がいようとは思いませんでした」とその説諭の次第を告げた。菅谷は、「ああ、二宮はなんという賢人か」と感嘆し、家臣をして桜町に遣って、近いうちに伺いたいと言わせた。二宮先生は他国の臣に面会する暇はないと断られたが、強いて面会した。二宮先生は「烏山の家老が当地に来たらんとする、何のためじゃ。 私は主君の命令を受けてこの地の民を撫育(ぶいく)している。 元より少しの暇もない。 どうして他藩の臣とのどかに話するヒマがあろうか。 菅谷氏は烏山藩の家老ではないか。 それ家老の任務というのは、上は君主を補佐して仁君の道を踏ましめ、下は国民を安んじその所を得させることを職務とする。 それであるのに今、飢饉の年にあたって米蔵は空っぽで救助の道なく、国民の飢渇を救うことができない。坐したままで国民が餓死していくのを見ようとするのか。これは常日頃の政治が当を得ていないからだ。礼経に言うではないか。『国に三年の貯えなきは国その国に非ず』と。三年の蓄えがないことすら、このように戒めたのである。今、烏山の貯蓄は三年どころか、一年の飢饉ですら国民を飢渇に陥らせている。どこに仁政があるというのだ。それ諸侯の任務は天より民を預かって、これを養い、これを撫育し、これを安んずることにある、今、その預かるところの天民を飢死に落とすならば、どこに諸侯の道があろうか。君もこのようであり、家老もこれを知らないで人の上に立って、もっぱら衣食に飽いて、安逸にすることが自ら諸侯や家老の任務だと思っているのか。このような人物が私の門前に来ることを欲しない。ましてどうして面会しようか。あなたはすぐに帰って、菅谷氏が来るのを必ず止めよ。」と大声で戒められた。家臣は汗が肩や背まであふれて、ボウゼンとしてやっとのことで烏山に帰った。「大いに罵って、その声は雷のようでした。彼は正気ではありません。きっと狂人です。家老は決して行ってはなりません」と顔色を変えて尊徳先生が言われたことを報告した。菅谷はその報告に感激して、「本当に賢人である。一年の飢饉で民を飢えさせるのは君臣ともに道を失っていたからだ。今の世にこのように君臣が道を失っていると公然と教え諭す英傑がいようか。二宮の言は率直でその理は明らかである。この人に道を問わないで誰に問おう」とますます尊徳先生に親しく道を聞きたいと思ったのである。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「そう、でもね、つかいかたがあるの」「つかいかた?」「そうよ、つかいかたがだいじなのよ」おばあさんは、ツヨシの目を見ながらいいました。「『ありがとう』は、何かしてもらったときにいうけれど、そのほかに、いやなことがあったときに言ってみるといいわ。」
2023.06.09
報徳記 巻之三【2】烏山大夫菅谷某同藩某をして櫻町に使す 天性寺(てんしやうじ)圓應(ゑんおう)始めて先生に見(まみ)え、其(そ)の言論を聞き、意表(いへう)に出で、大息(たいそく)して曰く、嗚呼(あゝ)思はざりき、今の世に當(あた)りて斯(かく)の如き大人(たいじん)有らんとは。 我幸(さいはひ)にして此の人に見(まみ)ゆることを得たり。民の飢渇を救はんとするの心(こゝろ)切(せつ)にして、殆(ほとん)ど領主を不仁の君(きみ)に陥らしむ。其の罪是より大なるものあらんや。先生の教(おしへ)を得(え)ずんば何を以て我が過(あやまち)を知らんや と。自ら慙愧(ざんき)し、晝夜(ちうや)兼行(けんかう)烏山に歸り、菅谷某(すがやぼう)に語りて曰く、拙僧(せつそう)櫻町に至れり。先生逢ふことを許さず。門前に臥し、之を請(こ)ひて去らず。先生拙僧の愚誠を憐み、遂に面謁(めんえつ)を許し、大理(だいり)高論、僧が過(あやまち)を諭(さと)し、國家(こくか)の大躰(だいたい)を示すこと云々(うんぬん)なりと告ぐ。菅谷大いに感じ、嗟乎(あゝ)賢なる哉(かな)二宮、我速(すみやか)に往(ゆ)いて救助の道を求めん。然れども主命を以て往(ゆ)かずんば其の論和尚に類せん。今一たび某(ぼう)なる者を遣(や)り、我近日至らんことを云はしめ、然る後往かんとす。和尚先づ休せよと云ふ。二宮尊徳先生の烏山藩の飢民救助烏山(からすやま)藩は、下野国那須郡烏山(栃木県那須郡烏山町)に藩主の居城をおく譜代小藩であった。神奈川県厚木などに飛び地を持っていた。菅谷(すがや)八郎右衛門(はちろうえもん)は烏山藩の家老であった。天保7年の大飢饉の時、烏山藩の領内も飢饉で領民は飢えていた。烏山の城主大久保候の菩提寺である天性寺の住職の円応は豪胆であった。領内の百姓が衰貧するのを哀れんで種々手を尽くしたが、大飢饉に途方に暮れていた時、二宮先生が桜町を復興されたのを聞き、11月1日桜町陣屋まで出向いて二宮先生に面会を求めたが、そんな暇はないと断られた。そこでここで面会できなければ陣屋の前で餓死するまでだと袈裟のまま伏して終日動かなかった。二宮先生は「よし、我これを誡めん」と懇々と人の道を説諭された。円応和尚は、自らの非を悟って一言もなかった。「汝、言うことなければ速やかに帰るべし。我撫育の道に暇あらず」と席を立たれ、円応はその姿を三拝した。 円応は、二宮先生に初めて会って、その言論を聞いて、感動して言った。「今の世にこのような偉大な人物がいようとは思わなかった。私は幸いにしてこの人に見(まみ)えることができた。人民の飢渇を救いたいという心が切迫していて、ほとんど領主を不仁の君主に陥れるところだった。その罪はこれにまさるものがないほどだ。先生の教えを受けなければ、どうして自分の過ちを知りえよう。」そう自らを慙愧して昼夜兼行して烏山に帰って、家老の菅谷にこれまでの次第を語った。「拙僧は櫻町に行ってきました。先生は面会を許されません。そこで門前に伏して、面会を求めて止みませんでした。 先生は拙僧の愚誠を憐れんで、遂に面会を許されました。その大理高論、私の過ちを諭し、国家の大枠を示すことこのようでした。」と告げた。 菅谷は、「ああ、二宮はなんという賢人か。私はすぐにも行って烏山藩の民を飢饉から救助する道を求めよう。しかしながら主君の命なくして行けば、和尚の場合と同じことになろう。今ひとたび家臣を遣わし、私が近いうちに告げさせて、その後に行こう。和尚まずは休まれよ。」菅谷は、家臣を呼んで言った。「今凶荒の憂いはすでに甚だしい。 そして米蔵は空っぽで、民を救助する方法は尽き果てた。 桜町の二宮という人物は非常な英傑であると聞く。 近いうちに私が行って道を問いたい。 あなたはまず行って私が来ることを二宮に告げよ。 これもまた二宮を敬するの一事である。」 家臣はわかりましたとすぐに桜町に来たって、その旨を先生に告げた。尊徳先生は、他国の臣に面会する暇はないと面会を拒絶された。「ツキを呼ぶ魔法の言葉」は、言葉の使い方の教科書です。私たちはきちんと「言葉の使い方」を親から教えてもらったことがない。イスラエルのおばあさんが説いた「言葉の使い方」は、生涯、実践すべき大切な教えだと思います。1 決して怒ってはいけない。(p.20-21)2 一人でいるときも、絶対に人の悪口を言っちゃダメよ(p.20)3 汚い言葉を使ってはいけない。きれいな言葉を使いなさい。(p.20)4 (1) 嫌なことがあるときに「ありがとう」と自分に言いなさい。 (2) 良いことがあったら「感謝します」と言いなさい。 (3)この言葉がとても便利で、たとえまだ起こっていないことでも、なんの疑いもなく不安も心配もなく、力まずに自然とそう思い込んで、言い切っちゃうと、そうなる可能性が高まる。(p.18-19)「それはね。『ありがとう』『感謝します』この二つよ」おばあさんは、きっぱりと言いました。「えっ!そんなかんたんな言葉なんですか?」ツヨシは、おどろいて言いました。「かんたんすぎた?」「はい。ぼくでも知っている言葉でしたから」
2023.06.08
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