全28件 (28件中 1-28件目)
1
ハンカチ大好きです。でも、ティッシュで手を拭く習慣もありますよね。多くの外国人はハンカチを持ちません。でも、日本の教育現場では「ハンカチを忘れる」と罰則があったりして、今考えると変な話なのかも・・。また、家に来る日本人の英語の先生もティッシュで手を拭く派です。私は旅行で必要以上にハンカチを携帯する習慣が抜けません。(ティッシュも大量に持って行きます。)子供のころ受けた学校教育が身にしみてるのかなーー。
2007年02月04日
今日は初級の先生の補佐で日本語の授業をしてきました。途中から私一人になり、私の生活を通して日本人の朝と晩の習慣を教えるものでした。それは、研修生からのリクエストでした。学習者が「先生のことが知りたい。」と言っていましたが、私の日常は複雑で言えそうもないので、朝起きて顔を洗うなど、一般的なことを(日本人にとっては少し古い日常生活)作って話しました。でも、現代の日本人としてどうしても言いたいことがありました。「ブログ」のことです。学習者はメールのやりとりはするけど、ブログの存在は知りませんでした。少し文化の違いを感じました。インターネットの使い方は私とは違うようです。11月に彼らはインドに帰りますが、そのとき日本をどのように紹介するのでしょう。年齢も聞かれましたが、正直に教えてよかったのかどうか・・。ともあれ、なんだか楽しみですね。後半は授業と言うより、コミュニケーションをしたと言う具合になってしまいました。でも、彼らにとっては心に残る授業になったのではないかと思います。(自己評価、高めか・・。)
2006年08月27日
昨日はフレンドシップフォースの総会が行われた。予算を縮小して、公民館を借り宅配の中華で懇談した。難問のクイズありストローを使ってのゲームあり、合唱ありで賑やかな総会となった。各テーブルにはアルゼンチン、ブラジル、スウェーデン、タイ、フィリピン、中国からのゲストが座って盛り上げ役となった。私のテーブルにはタイから来たPくん16歳が話の相手役になってくれた。将来は医者になりたいと言っていた。一年の留学期間を経て、2週間後帰国するそうだ。日本の高校に通っていて、授業も受けていたせいかかなり話が出来る。家に娘がいたら将来のお婿さんにしたいくらい好青年だった。中国人のTさんは私の中国語の先生で、別のテーブルではあったが始まる前に懇談できた。ご主人が上海に旅行に行ったとき、日本の大学院への留学をあっさりあきらめて中国へ帰ることにしたという。Tさんは、6年間の間に日本語一級をほぼ独学で習得した努力家で、自分の子どもを中国に残して夫のために日本に住んでいた。私はその間ずっと見守ってきただけに、彼らの帰国は寂しいものがある。外国人のいろんな問題が取りざたされているが、私はの周辺は恵まれていると思う。彼らが日本に来て何を学んだかは正直分からない。しかし、日本に住んだその間に経験したこと全てが、彼らの自信となって幾重にも成長したと言うことは目に見えて分かる。Tさんは総会の中でマイクを持ったときこういった。「私は日本と中国の架け橋になりたいと思っています。」と。私と初めてあったとき、挨拶もしてくれなかった彼女が、この6年という月日の中で中国と日本の友好が大事であることを感じたそうだ。そして、私も心の中でもっと力を付けて、社会に貢献していきたいと思った。Tさんとは帰国の前にもう一度会う約束だが、最後の一日まで彼女との友好を深めたいと思う。
2006年01月23日
タイトルは大げさだけど、クリスマス会の時に国別に好きな歌を歌うというコーナーを作った。中国は多いので、2チームに分かれた。仕切ったのは私。中国チームA,B・英語圏チーム、フィリピン・ミャンマーと分かれた。(今回韓国とペルーは欠席)それぞれで、クリスマスの歌、国の童謡・「国の歌を忘れた」と言って「涙そうそう」等を歌った。しかし、ミャンマーは一人しかいないので、始めは歌いたがらなかった。自分の国を思い出して泣いちゃうって言うし、歌わないのかなー、次のコーナーに行くかな・・とか考えてた。何のことはなく、自分の番になったら歌い出した。初めて聞くミャンマーの発音。難しそうだ。ああー、ミャンマーの歌もいいなー(みんなも聞き耳を立てている)あれ?これどこかで聞いたことがあるよ・・この歌は、千正夫の「北国の春」ではないか!(音程がサビの所まで分からなかったから・・)ミャンマーの歌が終わると「先生はーーー。」と催促された。私達は事前に(おじさん先生の提案で)「北国の春」を歌うことになっていたのだ。北国の春ならば中国語でも流行しているポピュラーな歌なのだが、一人!歌えない日本人がいた。26歳・・。(知らないよね。)もちろん私は一文一句間違えないで歌える!(自慢にならないって)全員の歌が終わったとき、中学生の男の子が(と言っても185センチはある)日本語で徳永英明の歌を歌った。(前にも少しふれたが、中国の人はとてもきれいな声を出すので、とっても優しい歌声)ところで、選手権と言っても名ばかりで、優劣も付けなければ、景品もないコーナーだったんだけど、もりあがったし、妙に「北国の春」で感動した。歌に国境はない。そう実感した一日だった。
2005年12月20日
Mさんはいつも半袖なんですけど、彼女だけかと思ったらもう一人の友達も半袖!中国人のIさんが「寒くないんですか?」と聞いた。「カナダはマイナス35度ぐらいだから日本は寒くないです。」とMさん。中国も大陸だから寒いけど、みんなたくさん着込んでいて日本人より着太りしている。(冬はマイナス15度と言っていた。)どちらも寒い話。そして目の前のMさんは半袖。(T_T)部屋の温度は20度ぐらいだったけど、やっぱり寒く感じた一時でした。
2005年12月11日
Eさんはペルー人の旦那さんと日本に住んでいる。このところ外国人の犯罪が多いから、偏見もあって今は大変な時期なんじゃないかな。そのEさんは、最近中学1年生の女の子を連れてくる。名前はHちゃん。Hちゃんは家庭の中はスペイン語、外では日本語を話す。興味があったので聞いてみた。「スペイン語と日本語どちらが得意なの。」「んー、日本語かな。スペイン語は片言なんだ。」たまに、日本語でも分からない言葉があると言うが、それは誰でも一緒だしまだ中学生だから・・と思っていた。話を進めていくと、今の若い子の話が分からないという。ちょっと、笑ってしまったんだけど「若い子」って中学生に言われている人たちは何?って思ったから。それから、Hちゃんは絶対音感を持っていて楽譜を見なくても何か弾けるらしい。現在は中学で吹奏楽をやっているが、先日パパがギターを買ってくれたという。(吹奏楽のパートはサックス)2カ国語を話せるだけでも感心するのに、絶対音感まで持っているとオーラがさして見えたっけ。
2005年12月11日
今日は午前中に中国人のKさんが遊びに来る予定だった。彼女はこのブログの存在を知ってるから、過激なことは言わないでおくが、昨日の夜、電話が入った。「先生、主人のおかあさんが亡くなったので、明日はいけません。来週ならけ行けます。」って。来週も無理だと思うよ!私もいないし、何か言いたいことあるんなら、メールくださいって、言っておいたんだけど。四十九日とかあるから・・中国も同じだと思うんだけどなあ。これって、文化の違いなの?当分無理だと思うよ。※Kさんのご主人のお母さんのご冥福をお祈り申し上げます。
2005年11月11日
Jくんのクラスを持ったとき、Jくんとはとても気があって、私とは一緒に中国語の歌を歌ったりしてよい関係を築いていました。Jくんはとても人なつっこく、頭の良い子で日本に来て日本語と英語を勉強したのですが、どちらもあっという間にできて、2年のうちに英検2級と日本語一級をとったんです。そのことが地方紙にも載りました。そんな彼は、いつも元気で女の子を追いかけ回してたので、私は何気なくいつも思っていた一言をうっかりしゃべってしまいました。「しまった!」と思いましたが・・。・・・「先生嫌い」と言われました。それから、試験も終わってJくんは、日本語教室に来なくなったので、その関係を修復できずにいました。それが、ずっと心残りでいました。それが!この前の日曜日にひょっこり現れて、久しぶりに会うことができたのです。これが最後かと思い、Jくんに近づこうと思ったらあちらから近づいてきました。私は「あのときはゴメンネ」と言いたかったのですが、こちらの思いが伝わったのか、Jくんはまた私と仲良く中国語の歌を歌ったときのように親しくしてくれました。これで、心のつかえが取れました。嬉しかった。そのとき、写真です。 一番右がJくん、180センチあるかな~。(昨日の日記読んでくれた方にはおわかりだと思いますが、彼もまた平井堅です。)※私の変な靴は「あなたにとっての幻」ですから、忘れて下さいね。(雨だったので、走りに強く、汚れてもよいのを履いてるんですから・・幻ですけどね。)
2005年11月10日
午前中は日本語の授業。午後1時から4時半まで、ずーっと文化センターと言うところにいた。最後に立食がなかったら、泣いてたね。お昼、抜きだったし・・。「トーク トーク トーク」とは外国人による日本語の弁論大会。10人の外国人が思い思いの内容と日本語で熱く語った。空腹と戦いながら、ウズベキスタン、タイ、オーストラリア、中国・・・の国から来た強者達の話を聞いた。市長賞に輝いたのは、確かアメリカ人の男性。「外人対外人」という題で日本語で言うところの「言霊」(ことだま)を表現したスピーチだった。写真も撮ったのだが、了解を得ていないので(了解なんか取ったことないけど)載せないでおきます。立食では中国人の主婦達に交ざりながら話をしたけど、殆ど上達していない中国語に閉口しましたよ。(T◇T)ナンデー思いがけなく、その中の一人が家の近所に住んでいたので、携帯番号を交換して、その後雨が降ってきたので、彼女の乗ってきた折りたたみ自転車を私の車に乗せ、彼女を送ってきた。ふ~っ。彼女の名前がとってもかわいいの、日本のスターの名前なんだけど色にちなんだ名前
2005年11月06日
イーグルさんがsalut_chloeさんに教えてもらった事を更に私に教えてくれました。それを実行してみました。このように、写真の脇に文章を入れる方法です。おかげさまで、このようになってます。(*^_^*)さて、この写真は昨日の「ホーム祭」に撮ってもらったものです。(中国人の生徒達と)正直に、さぼりんが命名してくれた「ぴすけ丸々」で結構ですよ。もう一個「丸」を付けてもいいです。注:私の向かって右隣の女性は芸能人のように顔が小さいので、くれぐれも比べないで下さいね。(と言うと余計に比べたくなるでしょう)
2005年10月24日
今日はいつもボランティアでお世話になっている場所のお祭りでした。外はあいにくの雨。今日はみんなの写真を撮ったので見てね!血圧を測ってます。以前ブログで紹介したHさんです。(覚えてるかなぁ)アップにしてみました、D君です。かわいい子には弱いのよね~。(この写真は、三日で消しますね)中国民謡を歌ってくれたのは、Wさんです。他に、日本人のサークルもあります。これは、フォークダンスを踊っているところです。衣装が気に入りました。(真ん中の人も衣装を着ればよかったのに)いずれは、フォークダンスの仲間入りでもしようかな。(*^_^*)
2005年10月23日
日本に来た外国人は、まず、アレルギー体質になります。湿疹、花粉症、皮がむけたり・・などなど。一・二年はアレルギーで悩んで、それが過ぎると別の病気にかかります。女性で多いのは、耳の病気。中国からお嫁に来た人は、日本人の亭主関白ぶりに、まず、耐えなければなりません。彼女たちは「日本人の男はうるさい。」といいます。つらくても、中国には帰れません。とにかく日本で、頑張るしかないから、殆ど愚痴をこぼさずに生活しています。我慢をして、耐えているうちに、口内炎、中耳炎、内耳炎と人それぞれですが、アレルギーの次にはこれら首から上の病気との戦いです。それが終わると、内臓の病気。表面上はとても苦労しているようには見えません。しかし、誰にも言えない悩みをそれぞれ抱えています。つまり・・・病は気から、彼らが身をもって証明しているのです。
2005年10月16日
日常の日本語に問題が無くとも、進学するときの選択は、外国人にとって難しい。彼らは大抵、中学か高校の時に日本にやってくる。ちなみに、ここは地方だし少し勉強すれば、日本人ならどこの高校にでも入れると思っている。(持論)ここでは、私立より公立の方がレベルが高いんです。しかし、大人が作る「ダメ」の壁は厚い。大人が、外国人に貼る「ダメ」のレッテル。それは、日本人の子どもにも同じ事をしている。ウチの学区内にある、中学は「ダメ中」で、そのなかの優秀な子(10%ぐらい)しか希望の高校に行けない。(異常だ)地方の問題・・・・それはある。しかし、努力しなくても、米は穫れるし(食べるのに困らない)、住むところも高くない。だから、大人ものんびりしているし、広い世界を見ようとしない。ここで、生きていこうと思ったら外国人であろうとなかろうと、条件は一緒。日本語を学習している学生の中には、レベルが高い子がたくさんいる。でも、日本語の試験だから、最低の学校に入っていく。私自身、自分の子どもの進学について、いずれ悩むかもしれない。(もう既に悩んでいるが)今は、学生と話すとき言わずにいられない。「勉強して、絶対偉くなるんだぞ。君たちは、母語と日本語、英語が話せる。それだけでも、すごいんだ。努力して偉くなってくれ!」それでも、何をインプットされたのか・・「先生、ウチ、バカだから。」悲しくて、胸が詰まった。
2005年10月12日
日本語教室の学習者に先生は、中国行きたいですか?私のいとこは大連の大学でで日本語を教えています。先生のことを話したら、来て欲しいと言っていました。と言われた。私が一番したいこと、大学で教えることだ。中国は紹介されないと、職にありつくのは難しい。まして、大学なんて・・。ただ、子どももまだ小さいし、夢を叶えるにはもう少し準備が必要だ。なぜなら、目標はあくまで私が教えた生徒の中から「歴史に残る」ような人物を排出することで、ただ大学で働けばいいというものでもない。夢は大きく・・・(風呂敷広げすぎ)チャンスはこれからもあるから、一番いいタイミングで、家族や周りの人にも喜んでもらえるような状況を作っていきたいなぁ。ついでに・・女性の中で尊敬しているのは未来学者H・ヘンダーソン女史です。 彼女は子どものぜんそくが環境汚染が原因であると、パートタイマーの主婦の時に運動を起こし、成功して、今は学者になった方です。
2005年10月10日
Hさん編お彼岸ですね。昨日、Hさんとお茶をしたとき、Hさんのお父さんが亡くなった話をしてくれました。Hさんは、ほぼストーカー化してしまった、前の彼氏から逃れるために、日本に来ました。そして間もなくお父さんが亡くなったのですが、そのころ中国でSARSが猛威をふるっていたので、家族はHさんに「父の危篤」を知らせませんでした。最後にお父さんはHさんの名を呼んだと言うことです。それから、お父さんがいないことに気が付かなかった、Hさんは自分を責めました。しかし、体が丈夫だったお父さんが、この世にいないなんて考えられなかったと言います。私は、涙を抑えられませんでした。世の中には、もっと悲しい別れもあると思います。私は詩人ではないので、こんなときに相手を思いやる言葉が浮かびません。だから、泣くことしかできないのだと思います。
2005年09月23日
今日はKさんについて。Kさんは高学歴で会計士の資格を持ち、中国ではバリバリ働いていた。縁あって日本に来たが、後悔していると言っていた。勉強は得意といってもいいだろう。毎日教科書などで勉強している。スピードも速い。性格が男勝りなので(自分で言ってます)、きっと勉強も自分が決めたとおりにやる。なにがなんでもできるようになりたいという気持ちが強い。だから、文法攻めの学習法だ。まず品詞をチェックして、文型を覚えている。質問もする。このブログも読んで下さってるので、辛口なコメントは避けたいが、一つ難点を上げるとすれば、微妙なところを間違える。中国人が陥り安いところにすっぽりはまっている。例えば、「~ように」「~ために」の使い分けができないなど真面目なので、一度直すとできるようになるまで食いついてくる。(えらい!)(答えを出すつもりがないので、ここで終わります。)
2005年09月23日
Hさんは天津から来た。クラスは違うのだが、ハイキング(会津若松バス旅行)の時に友達になった。Kさんは大連から来た。クラス授業が合わなくて、個人授業していた学習者だ。今日、帰郷から帰ったと連絡があった。この二人はどちらも日本語が優秀で来年は日本語能力試験一級を受けると言っている。今日はHさんの話。来日4年Hさんは日本に来たとき、洋服のサイズがSだったが、一時LLLになって、今はLLサイズだという。(ネタになってる。)今日一緒にお茶をした。(といっても、彼女は何も口にしない。)帰りには、二人でバックや洋服を見て回った。会話は日本語。Hさんはほとんど間違えない。(発音は中国訛りだけど)勉強法を聞いてみた。始めは中国で学んだが、殆ど役に立たなかったという。それから日本に来て一日中(16時間)教科書で勉強した。それでも、全然話せなかったそうだ。その例として、こんな話をしてくれた。ある日、外食に行ったとき「はらへった~」と言ったら、みんなが笑っていた。なぜか分からなかった。後で「おなかが空いた」と同じ意味で男の人が使うのだと知った。話言葉は、教科書にはない。そういえば、私の師匠にあたる先生も同じ事を言っていた。「中国で勉強したキャリアは考慮しないで、授業を組み立てるように」と。一番勉強になったのは、一日中、会話の日本語を聞いて、聞き取れた単語を調べたりして、とにかく聞いたことだそうだ。彼女は中国で小学校までの教育しか受けていない。語学なんてやった事がない。(今日はここで終わります。今回、何か答えを出そうとか、考えていません。)
2005年09月22日
日本語教室の学習者が、子どもを連れてきた。3歳の女の子。(お母さんが中国人で、お父さんが日本人)「ニーハオ!」といったら、反応がない?恥ずかしがり屋なのかなと思っていた。暫くして、わかった。この子は、日本語で育てられているのだ・・!じゃあ、誰が?育ててるの。まさかとは思ったが、中国人のお母さんが日本語で育てていた。それは、それは、私にとってはショックで・・バイリンガルの話の時にした、話のそのまた例外だから・・。その子はほとんど話せない。と言うか、話はできるが、文がやけに短い。(同じ3歳の子どもならもっと話せるはず。)批判できないが、お母さんが日本人となって、子どもが意識の中で日本人として育った場合、果たして本当に日本人になれるのだろうかと言う疑問が残った。(無理して日本人になることはないのだが)中国語を家庭の中で使わないと言うことは、お母さんは中国を否定してしまったのか・・。言葉とは、人間そのものだと思うから余計に悲しかった。いろんな考え方に、振り回されやすい、ぴすけっとなもので・・。
2005年09月18日
語学教育が盛んですが、第二言語習得理論というのがあって、バイリンガルの秘密がわかってきました。子供を持つ親御さん以外にも、「バイリンガル」は聞いたことがあると思います。うちも、そのように育てるつもりでしたが。。計画倒れです。日本語の学習者に、ペルーから来たEさんがいます。日本には15年以上住んでいます。旦那さんもペルー人です。Eさんには中学生の娘さんがいて、日本語とスペイン語を話します。Eさんは鼻高々にしています。しかし、日本に住む外国人の子どもたちの中には、学校の授業について行けず、社会問題を引き起こすケースがこれから大きくなると考えられています。日本に住んだからといって、みんながバイリンガルになるとは限らないからです。さて、一カ国語を話す人をモノリンガルと言います。二カ国同時に十分に(支障なく)話すことが出来る人をバイリンガルと言います。問題は、共に不十分にしか話せないセミリンガルです。また、バイリンガルには均衡(共に十分話せる)と偏重(どちらかに偏りがある)ものに分けられます。英語の場合、2000語あれば通常の会話が出来るとされています。日本語は、成人が使う語彙数は4万語です。例えば足し算のとき、「3たす4は?」と「3と4を合わせて」と「3と4の合計は」は同じ意味です。一口に日本語と言っても、和語と漢語、外来語に分けることも出来るでしょう。そう考えると、日本に来た外国人が日本語を学ぶ難しさ、ましてや、日本語を操るには相当の努力がいるのです。(最後まで読んで下さって、ありがとうございます。今日はまじめだったね。ふ~。)
2005年09月06日
ミャンマーから来たSさんに案の定、同席していた外国人から質問が飛び交った。Sさんは美容師だったらしく、しかもおしゃれで、茶髪に巻き髪にサングラス、ヴィトンのバックに財布・・名古屋や大阪のセレブのような出で立ち。「そのバックきれいですねー、いくらですか。」早速、中国人から話しかけられると、「これ?安いよ。」と、Sさん。別な中国人が、「偽物ですか。」中国人にはミャンマー人のプライドがわからなかったみたい・・。Sさんは自分の口から本物と言いたいのだが、私にしか通じない日本語で反論するが、如何せん、発音が悪くて相手に通じない。すると、別の生徒が、そのバックを手に取り、なめるように見だした。(見てわかるものかー?)とうとう質問に根負けして、値段を言ったので、本物だと言うことになった。(よかったよ~、本人が本物だと思ってるのにー。まさかねえ~。)教室の中は、そのヴィトンをめぐって、できない日本語を駆使して、(生きた)学習の場になっていた。(日本滞在8ヶ月の人も混ざってた。)文法は合ってるんだけど、発音が国ごとに違うと通じないときがある。日本語の発音は簡単だと言われているが、耳が慣れていない初級程度の生徒には、やはり「はっきりした発音」じゃないと、聞き取れないみたいだ。
2005年08月29日
日本語教室の出入りはとても激しい。先生が合わなかったり、友達がやめたり、仕事が忙しくなったり・・いろんな事情でやめていく生徒がいる。大抵、辞めるときはフェイドアウトしていく。そして、もう会えなくなるのがほとんど。(学習代は前納制)ミャンマーから来たSさんもその一人だった。それが、またやってきた。(再会では手と手を握りしめた。)もともと、人なつっこくてみんなに注目されていたい人だから、いなくなったこと自体が不思議だったくらいだった。そんな彼女がいなくなった理由は、妻として人間として家族に扱ってもらえなかったから。(考えられない話だが、同じ屋根の下に済んでいるだけで、生活費など自分で稼いでいた。)我慢も限界で、一度ミャンマーに帰ったのだった。じゃあ、何で戻ってきたのか?それは、永住権を取得するためだそうだ。そんなに日本がいいのかなーと思ってしまった。日本に住みにくいと思っているのは、私だけかな?確かにいいところはあるけど・・。そうか!それだけ、軍事政権下では生きていくのは困難なことなんだなーと、改めて思った今日この頃でした。
2005年08月28日
私のクラスではないが、A君は18歳、高校生(公立高校)だ。以前紹介した、J君と同じ高校のクラスだそうだ。A君は優しそうなまなざし。授業が終わると、なぜか私が話しているところに寄ってきた。日本人の高校生にはない、取っつきやすさだったが、見た目かっこいいので何を話していいかわからなくなって、隣にいた先生に「彼はオーストラリアから来たんですか?」と聞いてみた。「自分で聞いてみれば?」と言われて、(あっそうだ)我に返りいろいろ聞いてみた。まず、J君は元気とかお母さんが日本人なの?とか、一通りの質問を終えると、「あれっ」と思った。結構話せる・・なんで初級クラスにいるんだろう?私は大御所の先生に言って彼のクラスを変更するようにした。こんなことは時々ある。いいえ、しょっちゅうある。バス旅行の時も一人発見した。A君の話に戻るが、A君の母親が日本人でオーストラリアからA君一人で留学しに来たらしい。動機は、日本語でお母さんと話がしたいからだそうだ。将来は英語と日本語の教師になりたいと言っていた。A君は3月には帰ってしまう。オーストラリア人は結構来るのだが、アメリカ人とも違う、英語圏にしては何とも言えない雰囲気を持っている。私の中では、よくわかっていない。おもしろいことがあったら、また書きたいと思う。
2005年08月01日
インカ帝国のあったマチゥピチゥがあるペルーから来た生徒(日本語教室)がいます。ペルー人は一見スペイン系の顔をしていますが、中にはおばあちゃんが日本人の子もいてアジア人に近い顔をしています。(南アメリカ大陸のブラジルの人とはかなり違います。)彼らはあまり人前で話すのが得意でないというか、公然では寡黙なのです。繰り返して読み上げたり、自分から何か表現するような授業を好みません。(やりにくいです。)でも、うちに秘めた情熱はラテンの情熱です。いつも何かイベントあるときは、踊りを教えてくれます。私たちがいくら練習しても(特に私)あのように格好良く踊れません。「話さないけど、踊るとすごい。」これが、ペルー人に対しての私の印象です。また、真面目で仕事も丁寧で、神経質なところは、どのアジア人よりも日本人に近いような気がします。遥かインカのDNAと、日本人のDNAが一致するところを感じるのは、飛躍しすぎかもしれませんが、奥ゆかしい特徴は世界の中で、ペルー人が一番日本人に近いような気がするんですよね~。
2005年07月17日
先月、来日したばかりの親子を受け持つことになりました。お母さんは片言の日本語で、みんなの日本語第4課から始めることに。「私はぴすけっとです。よろしくお願いします。あなたの名前は?」息子の方は、まだ自分の名前も言えないくらいで、私と目を合わせようとしません。「いくつですか」「17歳です」(お母さんが答えました。)その子は、顔がブルース・リーに似ていて痩せています。緊張の中、なんとか心を通わせようと授業を始める前に雑談をしました。そのとき気が付いたのですが、二人は中国語と韓国語が混ざっていました。今中国語で話したかと思うといつの間にか韓国語になっていたり、ころころ変わります。「あれ、どちらもはなせるの?・・(反応がなかったので)あ~・・中国語できる、韓国語できる。すごいね。」(二人とも笑う)「いつも使っているのはどっち?漢字は書けますか。」とにかく勉強したての中国語を駆使したりして、聞きまくりました。やっと、息子さんにも笑顔が見られたので、ぴすけっと式日本語の授業を始めました。私の授業は猛烈に口を動かさなければならないので、15分に一回息抜きしながらやります。「日本は好きですか。」の質問に、「好き、きれい」と答えてくれました。日本は清潔なんだそうです。ずっと、日本が好きでいてくれるよう祈ってます。
2005年06月27日
日本語を勉強する方は、一年か二年の間に入れ替わります。日本語の検定を受ける生徒以外は途中でやめてしまいます。 私の所属しているところも今年度だいぶ入れ替わりました。あのJ君もいなくなりました。しかし、新しいメンバーが意欲に燃えて入ってきました。ウクライナの方もいます。一クラスに言語が4つ存在する、そんな多言語の世界で直接教授法(日本語のみで学習をする)だけだと、授業のスピードが遅くなりできる人とできない人に差が出てきてしまうんです。 ですから、生徒が入ってくるとほんとに緊張します。特に授業内容には悩みます。生徒の方は、異国でわからないと極度に不安になります。生徒に余計な不安を起こさせないように、必死で準備していきます。お互い慣れるまでは四苦八苦ですね。 ともあれ、生徒それぞれの目標が達成するようがんばろっと。
2005年04月03日
「なんで行きますか。」といわれたとき、どう答えますか? ある日本語の教科書の答えはこうです。「バスで行きます。」 私の住んでいる地域では、「なんで」と「なにで」は意味が違います。意識的に同じ意味でつかうことはありません。ただし、口語として「なんで行くの」というときはありますが、それはどちらかというと若い友達同士でつかっているのが大半です。 全国的にも言葉に「ゆれ」があるとは考えられません。 もしかすると、関西方面や西の地域ではどちらも同じ意味でつかわれているのかもしれません。 このようなことばのずれは、「~へ行く」と「~に行く」などにもみられます。日本語と言っても、微妙に東と西に違いがあるのかもしれません。
2005年03月13日
今日は、遠くからKさんが勉強しに来ました。「やる気」が歩いているような方で、初めてお会いしたときは、どこかの大学の教授かと思いました。 やはり日本語は難しいと言っていました。しかし、Kさんは来るなり、自己学習で書きためてきた質問を次々としてきました。私はこうして日本語を教えていますが、品詞が一番苦手で、「ある」と「ない」は何の品詞かと聞かれて辞書を引きました。実は、「ある」と「ない」の品詞は論文が出ているほどの難題で、私としても、今の「動詞」としての位置づけには異論を唱えている方です。しかし学習者にそんなことも言えず、おとなしく「動詞」としました。(形容詞にもなります。) 実は、その熱心なKさんは私のブログをプリントアウトしていて、こんなことを書いてもいいのかなと思うのですが・・。 それで、Kさんに一言。「今日はごちそうさまでした。遠いところ来てくださり胸が熱くなりました。これから、私と話したり一緒に勉強する中で、日本と貴国の友好が深まっているのかなと思うとほんとにうれしいです。中日友好のために、私は役に立ってますね。やったぁ!・・では、また連絡ください。」
2005年03月03日
「~と」についてですが、この「と」の後には,自然現象のような『決まっていること』がきます。携帯電話を持っていると便利なのは、誰もが知っている当たり前のことですからこの例文の中では一番自然に聞こえます。また「春になると暖かくなります。」も取り立てて気持ちを表現したものではありません。そのほかに、二つの事柄に迅速な連動性が想像できる場合に使われます。例;メールを送るとすぐ返ってきた。
2005年02月22日
全28件 (28件中 1-28件目)
1