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これまで出会ってきた人を思い起こしながら長年つきあっても、最終的にどうにも関わりが難しくなった人には特徴があることに気付きます。それは自分の非を認められないというものです。つまり、ごめんなさい、が言えない。自分が悪くもないのにやたらめったら謝罪する必要はないと思うのですが多少なりとも自分に非がある可能性があることについてごめんなさいが言えない人 というのは、まず、自分の非を自分で受け止められない弱さがあるのだと思います。それは自分に自信がないから。そのうえで目の前で指摘された「非」について受け止めてしまったらその人の自尊心が崩壊してしまうのかもしれません。だから、受け止める事ができないし、受け止めたうえでの謝罪ができない。いい大人が謝れないのか、と思うシーンがたまにありますがそれは「私は弱い人間だから謝ったら死ぬ」病なのだと思うことが多くなりました。謝れる人は、自分の間違いや弱さを受け止められる強い人なのかもしれません。***ごめんなさいが言えない人は、自分の非を認められない。と仮定してそういう人は、似たような目線で…他人のすごさを認められないという特徴もあわせもっています。言い換えると「他人をほめたら死ぬ」病かもしれない。これまで私が濃厚めに関わってきた人に、上記の特徴を持つ人がいてそういう人は、常に自分に自信がないので、自分より力を持っていそうな人を「脅威」に感じるのではないかと思います。自分に持っていない何かをもっている人、近くにいるその人をそばで「搾取」する。その人の力は自分のもの。たとえば社会的立場で自分の配下にあるような人のばあい、その人の力をさも自分の力のように取り込み、語る。搾取される人は、それを感じていながらその場から動くことができないことからその場所に居続けて、「陰で支えることへのやりがい」みたいなことを感じている。その「陰で支える」というのはたとえ自分がどんなに優れていたとしても、なにか力を持っていたとしても「自分の評価」にはならないのです。それに日々晒される。自分の頑張りのはずなのに、それを具体的に評価する人はいない。自分のそばで搾取する人は、力のある人を評価することはせずそこで搾取した力をさも「自分の力である」かのようにふるまう。それも目の当たりしている搾取された人はどうなるか…。自分の人生を振り返ると、搾取され続けてもう無理だ、とぺしゃんこになったことがある。その理由を考えてみたら、やはりそこに行きつくのです。***「ほめる」ことはしないとしても、日々の小さなあれこれに感謝の気持ちを述べるということは、健全な関係の人同士なら交わされるであろう当たり前の「礼儀」であろうと思われますがそれができない人もいる。いかに多くの人と「社交的な会話」ができようとごく身近で支えてくれる人に感謝を述べることができない人。なんというのか本当の意味での「品性」について…考えさせられるのです。
2024.10.11
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職場の中でメインで働いていたスタッフが辞めることになりました。繁忙期をのぞく通年のスタッフはこのスタッフ以外に4人いますが、みな週2くらいしか勤務しないので、実質の業務のメインは週5で来る人にかかってきます。その人が(あえていうと辞める準備もできていないタイミングで)急に辞めるとなると当たり前ですが、業務がわからなくて困ることがでてきます。まったくもって個人的なことですが私がまえの職場を退職したのもまあまあ急に決めたことで辞めると決めてから実質勤務したのは半月ほどでした。ですが、私がいうのもなんですが…そこで一緒に勤務していたスタッフは私が辞めたとてそんなに困らなかったと思います。なぜかというと…ほとんどの業務を日ごろから共有しており、また分担を決めてあることも私が辞めると決めたタイミングで、これはこうなっていてここに購入力してもらって、月初にここに報告してね、というくらいだったと思います。実質、人が一人来なくなることでの負担というのは…人時がうまらないという困りごとは社としてあったとして…実質、セクションの業務に支障がでるということはあまりなかったのでは?と思っています。***そして今の職場。メインのスタッフが急に辞める…そして、メインの業務をその人がほぼやっていたため急にいなくなったことで、その人がやっていた業務を他のスタッフが担うことになりますが初めてのことだったり、申し送りをもらっていないと「わからない」という現象に陥る。実際、今日も…「これは教えてもらっていない」「これは聞いていない」という事態がありある程度は想定内とはいえど…実際は困る。でも「教わってないのだからわからない」といったところで、らちが明かないのでそれでキレても仕方がない、と腹をくくろうと思った本日でした。こちらに必要なのは「覚悟」かもしれない。
2024.10.10
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他人の目を軸に生きてきた人はとかく、自分の感じる「快・不快」は後回しになりがちではないでしょうか。人が来るから家を片づけなくちゃは、この30年の自分のコトではあります…。べつに…この家に一番長くいるのは私であり私の家族でありつまり…自分たちが住んでいるメインなのだから自分たち中心で考えればいいじゃないか片づけとか掃除とか誰がみるとかくるとかそれも原動力になるのだけど…誰が見なくても自分のためにやればいいじゃないかそういう「肩の力がぬける」ような暮らし方ができたらいいな(理想…)だれかにどうこう言われる必要もない評価のためにやることは、どこまで行っても満たされないのだと思うだって他人の感情はあちらのもの何をどう感じるかは相手のものですからその前に自分が感じる、を大切にしよう。
2024.10.05
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自己愛性人格障害。最近、気になっているキーワードです。身近な人でこういう人がたまにいたりする。特徴をネットなどで調べたりすると、見事に合致する。なぜでしょう、みんな知り合いでもないのに、ケースにだいたい当てはまる。それは人間が感情を持つ生物であり、その中で生き延びなくてはいけない策としてそういった保身から言動に出てしまうのでしょう。***自分もめんどくさい性分だと思っているのでこれまで関わってきてくれた人に「この人めんどう」と思わせたことが多々あるとは思います。多くの人のパターンを見ていくに従い、こういった同じパターンの人がいてその人の周囲に被害者がいて、困っている人がいてその人がどうしてそうなっているのか探ってみると自我の形成についての特徴があるということがわかり呼称が決められたりするのでしょう。それにしても嘘をつくとか だますとか 陥れるとか激高するとか 人から搾取するとか 無責任になるとか自分の近くにいたら…被害が深刻でしょう。「恣意的ではなく」自然にそういうことをやってしまう人への対応は同じ土俵にのって感情的にならないことアドバイスや進言はしない(自分への批判を嫌う)ここからすごいと思うことは本心からほめる(自分が特別な人だと思っているので)勝ち負けを競わない安易に人の言うことを鵜吞みにしない自分も優劣で人や物事を判断しない証拠を残すこと世話になったらその点には感謝しつつあまり頼らないようにするまずは…理不尽なことにこちらが腹を立てずに済むか?ですが被害を被っている人は早めに離れるのに越したことはないようです。間違ってもその人を正そうとか教えようとか話せばわかるとかそういうことをしたり、努力しようとしないことが大事。
2024.09.28
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4月の末から新しい仕事に就くことになりました。昨年末で一つの仕事をきりにしてきました。そんな中、大事なんだろうなということに気付きがあったので記しておこうと思います。***やりがいとか、ミッションとか。そういうのは何かと原動力になる。生きていく上で、必要ないとは思わないけれどそれを持ち出すタイミングがあるのかもしれません。たとえば、自分などは、前の職場でアルバイトとして働いてきましたがひょっとして、アルバイト以上のことをしようとしたのかもしれない。本来の自分の役割を「超えた」何かに気付いて、何かを求める。そのためには自分の意志とか気持ちだけではどうにもならなくて決定権のある人に働きかけようとするもうまくいかない。そして撃沈するというパターンです。お客様のために、こうしたらいい、ああするといい、というようなこと。上司はこまごまと口を出さない人だったから、ある程度は自分がいいと思うやり方で自由にやらせてもらったことがたくさんありました。でも今思うと、もしかしたらアルバイトの自分がそこまでやる必要はなかったのかもしれない。求められてもいなかったのかもしれない。でも非効率なやり方でお客様にご迷惑がかかるなら、改善の余地がある。禁止されずやっていいよといってもらえて、進めたこともある。それは上司の寛容性のなせる業なのか(もしくは反対するのも面倒がられていた可能性もある)とにかく…工夫してやっていこうという気持ちはあって進めたこともたくさんあった。だが、もっとこうならいいのに、がどんどん出てきて、欲深くなったのかもしれない。何かを求めすぎたのかもしれないです。***そして今の職場。まだ数回しか出向いていませんが、そんな素人目にもあ、、、ここはこうしたらこんな手作業いらなくなるのに。みたいなことが山のようにあります。昭和時代の遺産のようなやり方で進めているなと。そのために、定時より時間が過ぎてしまう。非効率だなと…でもこれまでここで従事した人はそういうことを思わなかったのか、知らないのか、そのあたりは定かではありませんが。私の悪い癖は、「ここをこう工夫したらいいのに」を思ってしまうところです。新しく来た人間が、中のことをよくわかりもしないのに改善案を提案するのは出過ぎたことなのかもしれません。つい、こうしたらいいのに。みたいなことを思ってしまうのは、出過ぎたことかもしれない。そしてこうしたらいいのに、が自分の帰宅時刻などと直結しているのでちゃんとやってほしい、などと思ってしまうのだけれど・・・それが仮に、「経費削減のための業務改善」だったとしても。入ったばかりの、それもアルバイトの私の仕事ではない。ということを、肝に銘じなければならないと思います。私の仕事、役割ではない。そこにはっきり、境界を設けないといけないなと思っています。なぜかというと自分は責任者ではないからです。そこの場を改善する責任を負っているわけではない。だから求められもしないのに、中途半端に意見を述べたり、手や口を出すべきではないのかもしれない。責任を負う、という立場の人なら他にいるのです。いまの遅れたやり方で、人件費が余分にかかっている。非効率なやり方でロスがある。したがって、利益をそこねているとしてもそれは私の責任ではないし、私の仕事ではない。はず。責任をとれない人間がやるべきではない、のかも。仮に・・・責任ある人に「どうしたらいいと思う?」とたずねられたとしたら何かしら答えることがあるかもしれない。でも聞かれない限り・・・自分がそれに「こうしたら」というべきではないと心にとめておかなくてはなりません。これが、半年、何年、と経ってきて、さらに具体的な改善案が自分に浮かべばそしてそういう話をしても「お前に何がわかる」と言われない経験があればもしかしたら自分が思うことを口にしても、いいこともあるのかもしれない。けれどそれもわからない。責任のない立場の者が理想だけ述べるのは、場合によって現場の責任者の士気を下げる気がする。だから、今は黙って一通りのことをミスなくやれるようになるのが先なのかもしれない。立場以上のことに手や口を突っ込もうとして、撃沈する前にこの場所にいさせてもらえている機会に感謝しつつ、自分がそこで何か役に立てるのが先。かもしれません。***わかってなさそうな奴にえらそうなことを並べられる、っていうのは害悪しかないのかも(笑)だって、いくらそれが正しくても、「そいつの話は聞きたくない」と思われたら、どんなにいい話をしたとしても、聞く耳を持ってもらえないのですから。それはもう初めからコケている!作戦ミスですね。これまでの私はそういうことがまるでわからなくてつい、口に出してしまうことが多かった。もちろん、相談して変えていって、よかったこともあると自負はあります。だけど、組織にはいろんな事情がある!(私のような中年アルバイトがバンバンアイディアだしてうまくいったりすると立場が悪くなる上部の人がいたり。正社員がいたり。)上司はこうあるべき、はあるとしてもその当たり前が人によって本当に違うというのも、これまで学習してきたことです。上司であっても万能なはずもなく(みな人間だもの)そこに過剰な期待をもってしまうのは本当に、破滅につながる第一歩なのです。そして・・・おまけ自分だけ優等生になろうとしないこと!これ大事・・・。いや、仲間とつるむのが嫌いだから、一人で当たり前のことをしているだけのつもりではありますが。少し、そういう意識をもってするとこれまでの何かとは違う結果が生まれるかもしれない。頭に浮かんだので、つれづれなるまま書き綴りました。これの答えがでたらまた報告できたらいいです。
2024.05.06
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今朝は嵐のような雨だったけれど、風と共に雲は去り、一気に気温が上がる日になりました昨日、ふと思ったことがあるので誰かから自分に向けられたことばというのは、自分を映す鏡。でもあるのかもしれない「敵が多いね」旧知の方と久しぶりに会って話したときのワードですその方には自分の職場関係の話をしたときにこういう人がいてこまっている!というような半ば愚痴のような話をしたのですがおそらくそれを指して出たワードだとおもいますたしかに…けしからん人の話をして私が立腹しているのを見ての発言そう、私は怒っている腹の立つ話をして怒っているのだとおもえばこういうことはこれまでも何度もあってそれがみじかな人であることもままあり、もうすこし広範囲の物事にたいしてであったりもしたその一歩手前に「正義感」みたいなワードが自分の中にいっぱい溢れてそこから正義感からの怒りに変わっていったんだと思いますそこで発する言葉は刃のようにするどくなり振りかざすなり振り回すなり、傷つけた人がいたかもしれないひとからみればさして大した話でもないのに正義、正論をもとに腹が立ってしまうんだろう(自分のことです)これは。。もはや思考の癖みたいなもので、ぐるぐると自分をしばっているそう簡単に解くことはできないのかもしれないけど自分をぐるぐる縛っているといいましたが刃は外に向いているようで、それで傷つける相手もいたりするけれど結局、それは最後は自分に戻ってくるようにも思うのですつまり私はひとをゆるしていないのですだから腹が立つし裁こうとするだがしかし、自分の中にあるそういった感情はめぐりめぐって自分に戻ってくるそれは以前他人の失敗を許せない最中に自分も失敗をおかしたりしてはじめて許されないこととは?と考えることになった、それと同じゆるさないからゆるされないそういった思考の癖みたいなのが自分にあると気づいた瞬間人はまちがえるし、完璧な人などいない不利益をこうむったら相手を責めたくなってしまうそれは普通の感情なんだとは思うけれどそれを始終やっていたら当然自分もゆるされない、が答えになってしまうつまりただただ…自分がくるしくなっていくだけなんだとようやく今頃きづいているのです誰に対する何の怒りなのかちょっと答えはわからないけどもしかしたら向けるべき人に向けられていない怒りや不寛容があるのではないかとちょっと疑ってみてもいいかもしれない***ちょっと前まで自分は正しくて相手が間違っている、あの人のせいだとそういうことで頭がいっぱいになっていたそういう自分はどうですか?間違えないのですか?いつも正しいのですか?そんなわけはないけど相手よりは自分のほうがましだとか自分は誠実に生きているからだとかそういう気持ちで誰かのまちがいや未熟さみたいなものを正そうとしていたのかもしれないつい正したくなるのも私の思考、行動パターンの一つだとは思うのですが(簡単には変わらないのかもしれないけれど)そうなるとほんとこれからもしんどい生き方をすることになるのかなとか人を裁くような考え以外のパターンを探っていければいいかなと思うのですきっと簡単ではないとは思うけれどつづく
2024.03.29
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お笑いの中に「人を貶めて笑いをとる」という種類の「笑い」があるねという話を今日、家族と話していました。人を馬鹿にしたり…なんというかそういう笑いでしょうか。実は先日まで私が所属していた職場にもそういった類の人たちがいてなぜそんなことをするのか、不思議で仕方なかったのです。ですが…今日、家族と話していてふと…腑に落ちたというか。そういう感覚があったので書き記しておこうと思ったのです。***私はいわゆる動画投稿配信サイト「YouTube」をそんなには見ません。ハンドメイドの方法を知りたいときとか、アーディストの歌を検索した時くらいしか見ないのですが夫がいうには…そういった動画投稿サイトには多種多様な投稿がされているのだといいます。格好からやっていることまで、いわゆる自分たちの思う「世間一般」とはかけ離れたことをやっている人がいる。そういった世間一般からかけ離れたことだからこそ人はおもしろがってチャンネル登録をして何度も視たいと思うのかもしれないと。これまでいわれてきた世間一般の常識の範囲のものでは「注目してもらえない」それが今の若い人たちの常識なのでしょうか。私が職場で見た光景は20代30代の新しく入社した女性たちがその職場の責任者である上司や、先にいた先輩に敬語をつかわないいわゆる「タメ口」で話し、人をアゴで使うような態度でした。あまりにルールに外れた業務のやり方に、「こうしてほしい」と私からお願いをしても無視されたことも複数回あります。…上記のような態度は世間一般のオフィスにおいては非常識と言わざるを得ない態度だと思います。それに違和感を持った人は私だけではありません。複数人が違和感を唱え、どうしたらいいのか…随分頭を抱えたものです。上司に相談もしましたが、取り合ってもらえませんでした。新しい人が入ってから突如、そういう雰囲気にガラリと変わってしまったのです。ですが上司がそれを容認する以上、「そういう職場に変わった」と認識するしかありません。***私は、「これまでの世間一般の常識」しか認識していなかったため上司にタメ口でしゃべるとか顎で使うようなことをすることに対して非常識であるとか違和感しか感じなかったのですが今日、夫と話してあらためておもったのはこういった「奇をてらった行動」をクソ真面目にやる人がいるのでは?ということです。これまでどおりの「常識的」な行動をしているだけでは世間一般では認めてもらえない、というムードが今の世の中にあるのではないか。それは、動画投稿サイトなどの再生数などを見るに明らかなことであるとするならば新しく入った職場で、これまでのような「常識的な」行動をしていたのでは認めてもらえない、注目してもらえない。そういった理由でクソ真面目に、不真面目な、私たちの思う「非常識な」行動をする人たちがいるのではないか。だから行動だけみていると「クソ非常識」なのだけれど行動している当人たちは「クソ真面目」というなんとも…相反するような、不思議な現象がおこっているのではないか。という仮定を立てている自分です。もしこの仮定が正しいのであれば新しく入った若い女性たちが行っていた、上司や先輩をいじる態度も「良かれと思ってやっている」ことになるのでしょう。自分は、職場とは、オフィスでの態度とは、という感覚を「世間一般常識としてこうだ」と思う方法で職場での立ち居ふるまいを考えてきました。ですが、それが「奇をてらった行動こそが正しい」に則って行われるべきとなれば自分が行ってきた基準はすべてひっくり返ることになります。それでは「奇をてらったことをしないといけない」と思いながらオフィスにいる人と自分とでは接点を持てるはずがありません。(ここで唖然とする)どうして自分に非があるように言われる必要があるのか、どうしても理解できなかったけれどふと、夫との「人を貶める笑いをとる」という話の中でそういった態度でないと生き残れない発想の人がいるのではという仮定からもと居た職場の状況を鑑みるに、なるほど、と思わざるを得ないような感覚に陥ったのでした。
2024.01.26
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今年、仕事を辞めたことで思うことたくさんあって正直、あれが嫌だった、これが嫌だったってこともたくさんあったわけですが。ただ、思い返すとそんなことばかりでもなかったかもしれないです。優しいお客様。職場の先輩、仲間。いつも優しく声をかけてくれた方がたくさんいました。その空間は決して嫌なものではなかった。思いを共にできる人もたくさんいたし自分の気持ちをそっとわかってくれた人もたくさんいたと思う。だからとても貴重な機会をいただいたんだと思います。感謝。やっぱり人は人でありみんな気持ちがあるもの。未熟すぎる自分だけどもしこんど別の仕事の場などで出会った人たちにはいずれさよならが来るときに「一緒にはたらけてよかった」って言ってもらえるような関わり方ができるようにこういうのを一期一会、っていうのですよね。機会を大切に。自分で決心して行動できたことだって自分の行動力。周囲の人に対してやれること自分が果たす責任と頼ることと相談することとやれることは全部やってきたんだと思う。だから最後に決めることができた。それぞれ一生懸命だろうから。出会いに感謝。そういう大切な1年になりました。
2023.12.31
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先日まで自分が働いていた職場では、「アルバイトの評価制度」がありませんでした。(賃金も…一応最低賃金ではありました)つまり、業務の中で何をがんばっても(がんばらなくても)時給は変わらないということです。もしそのアルバイトを評価する場面があるとしたら、契約期間が満了になったときに更新するか?しないか?というときに「更新しますのでさらに〇か月、〇年働いてほしい」といってもらえるかどうか?くらいでしょうか。一度、職場の上司にこの「アルバイトの評価制度」について質問したことがあります。そうしたら「そういうものはないですね」との回答がありました。なるほど、そうか。となりました。オープン当初はアルバイトだった先輩が、前回の投稿に登場したAさんが退職した後のタイミングでフルタイムに昇級?したことはありました。フルタイムの区分けの従業員が辞めたというのもあったかもしれないし理由はわかりませんが。アルバイトが自分の業務に向上心を持って取り組むことが望ましいと思いますがそのモチベーションをいかに保つのか?というところで、昇級・昇給制度があったりする職場もあるでしょう。逆にその制度がないということは「とりあえず出社して業務に携わってやるべきことをやってくれればいいよ」というようなことでしょうか。働く人に、次の課題を指し示すことをしないのでステップアップもないということです。(あるとしたら社員やフルタイム職員への登用ですがこれも規定が明確ではなかったです)アルバイトなり従業員にステップアップを促さないという背景は何か?雇用する側が昇給したくないということでしょうか。業務の負荷を増やさない代わりに給与も上げる予定がない。これは…何を意味するのか?その理由は①人件費を上げたくない②現在権限をもつ管理職や社員という職員の地位を守るためではないかと想像しました。①は、サービスレベルや働く人のスキルを上げるという発想がないからでしょうか?いや、レベルは上げてほしいけど給与を上げるつもりはないから「各自、勤務年数に沿った努力をしスキルは上げて行ってね。でも給与は上げないよ。」ということ。②は仮に、アルバイトなどが社員以上の能力があったりする場合管理職や社員の地位があやぶまれる(場合によって、降格?)のを避けたいから?あくまで想像ですが、そういった心理はないでしょうか。この辺りで、その企業の、「働く人への考え方」が現れていると思います。人はより誰かの役に立ちたい、努力して自分を向上させたいと思うものだと仮定した場合評価制度がないというのは、従業員にとって何を頑張っても同じ、頭打ち状態ですし自分には何も期待されていないのだなと思われても致し方ないのかなとも思います。「いや、給与にかかわらず自分は今の業務に対して自分の仕事をより高めたいと思っています。」という従業員ももちろんいると思いますが。現に自分も施設長に「期待していますよ」と入社当時に言われたものですが今になって思うとあの期待というのは「とりあえず一通りのことができるようになって、さらに精進してサービスレベルを上げてくれるとうれしいな」ということでしょうけれど、それには「あ、でも給与上げたりはしないから、今の給与分しっかり働いてね」という意味も含まれていたのかもしれないとも思います。世の中の大半の企業がそうなのかもしれませんが従業員に対して・どこまでのものを求めるかが明確で働く当人にも共有している・それがなしえているか時期をきめて確認している・課題に対して適切な評価をし、評価を形にする(昇給など)というようなことをやっていないのかも…。(やっているところが少ない)やっていないのかやれないのかわかりませんが。少なくとも自分の勤務していた職場ではそういったものが指し示されていなかったしこちらから質問したこともありますが、それに対して明確な返答もありませんでした。ただ自分が「自分なりの」課題を見つけて、判断が必要なことは具体的に提案し進めてきたことはありますが、「評価はなし」(むしろ、求めてもないのにいろいろ提案してきて面倒なアルバイト認定されていた可能性もあるかも!)今思うと自分が求められていた「理想のアルバイト像」は決まった賃金に不満を持たず、決められたことに対して意見や文句を言わず従順に勤務することだったのかもしれません。課題を見つけ、問題提起して意見をいうなど、出過ぎた行動だったのかもしれません。(がいかんせん、自分の性分ゆえにそういう行動に出てしまうこともありました)昇級・昇給制度はなぜあるのか…所属する年数に比例して業務に対する習熟度が上がると考えるとそういった「ベテラン」がいることが職場にとっては「強み」となるのではないか。(あくまで習熟度が上がった人を求めるかどうかにもよるかと思いますが)「働く一人の人として業務に対する姿勢と習熟」を求めるのかはたまた「何も知らないフレッシュな(若い)人材」を求めるのか、で答えが違ってくるのかもしれません。私の印象としては、自分のいた職場の印象は後者で所属年数を重ねた人は不要で、新しい人を重用していきたい。といった考えなのだろうと思われるような姿勢でした。それも企業の方針といってしまえばそれまでですが業務の年月を重ね、さらに何ができるか考えながら働きたい者としては居場所がなくなる残念な思いは残ってしまいましたが。それもそれぞれ職場の判断次第、なのでしょうか。***人件費、という数字と生産性、という数字は無関係ではないとは思いますが昇給により従業員の習熟度、サービスレベルなどが上がることでのプラスによってより生産性が上がるのだとしたら、それによる人件費のアップは無意味なことではない。だからこその昇級制度なのでは?とここまで来て思いました。お客様は最後は満足度で足を運ぶ場所やサービスを選ぶのだと思います。何をどう提供するのがお客様のためなのか。その考え方が、職場によって違ってくるのでしょう。
2023.12.28
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この3年くらい、このブログを読み直してみると、苦悩が満ち溢れていました。(笑)かなり苦悩している!(笑)ほとんど、職場でのことをどうにか乗り越えたいと…自分の考え方やスタンスを変えようとか何とかしようともがいていた形跡がうかがえます。が…思うと、もう初めから厳しかったのかな、と本当に感情の「軌跡」が見えます。やはり、人は人であって、どこかで人に出会ってもやっぱり人として扱ってほしいものです。労働力といえど「人」雇用する人が望むような「労働力」であることが求められるのだろうけれどその前にまず「人」だから、どんな技能や能力にたけているとしても、その前にまず「人」としてまずいことが出来てしまう人は良くないという結論に達してしまうのだと思います。***人間なので、合う、合わないはあるんだと思います。私が3年余り前に入社したときに、私に仕事を教えた人が数人いたのですが社内の決まりというわけでもなく、新しくできた部署を取り仕切っていたAさん。やり手だと彼女の仕事を評価する人は多くいました。が、私が入社して8か月後くらいに退職されました。Aさんはバリバリのキャリアのある方でフルタイムで働いている方のようでした。新しく入った私については、お気に召さなかった点があったんだろうと推測できる言動が多々ありました。私の前任者の方は当時から逆算して2か月ほど前に派遣で入られた方だったようでした。ですが…そのAさんが「やめさせる」といっていて、やめることとなったそうです。(前任者ご本人に聞きました)とにかくAさんは自分の気に入らないとあたりが強くなる人で(言動、態度)前任者さんとは私は2日ほどしか同日に勤務しませんでしたが、Aさんのいる事務所に入って休憩をとるのがとにかく苦痛だと話していました。派遣社員さんだったようで、契約が終了してしまった前任者さん、あとでAさんに理由を聞くと「Excelが使えないような人は必要ない」とのこと…。普通の表などはつくっていたようですが、どこまでのことを求められたのか?とにかくそういう理由だったようです。とても接客が上手な前任者さんでしたが、そこでお会いする機会もなくなりました。***Excelというと、私もそのスキルを試された一件がありました。その職場ではアクティビティの体験という事業がありました。有料で体験を提供するのですが、その予約から利用状況を報告するのも自分の業務にありました。ある日、Aさんが私にいいました。「このアクティビティ、何曜日に何件利用があったが一発でわかる表を作って」正直、月間数件みたいな利用状況だったけれど、さらに「曜日別」にする必要があったのかどうか?今となってはわかりませんが、とにかく「曜日別の件数がわかる表」がミッションでした。私はその指示に対して質問をしました。「平日と休日を分けるとかではなく、曜日別ですか?」「申し訳ありません、表の軸のイメージができなくて、どんな感じにしましょうか?」と恐る恐る聞いたのを覚えています。そうすると、Aさんは面倒くさそうにこう答えました。「だから、曜日別!表?だからこっちが日付でこっちが曜日で、みたいな感じで!」殴り書きのメモを渡されたので、わかりました、とその場を後に。27年専業主婦だった自分が、Excelでこういう表が作れるのか?指示を聞いたときに、、、顔面蒼白になりました。そんなことまで…できないといけないの?そして先日の前任者さんのことが頭に浮かびました。「Excelができないからやめてもらう」…そうか、これができないと私、辞めさせられるかも?(そもそも採用は販売とインフォメーション業務だったので、ここまでのExcelスキルは必要だったのかどうか、今でも謎ではあります)おそらくAさんは、何のキャリアもない専業主婦から採用された私にこういうお題を出せばやれないだろうなと予想していたのかも?と想像します。それで…私がもし「できません」といったら…Excel使えないと困るから、と辞めさせられたかもしれません。指示のあった日から私は業務の合間に作表をしようとネットなどでいろいろ調べてみました。幸い、やり方が掲載されているページもありましたし、私が専業主婦時代に市の講座で「Excel中級」を受講していたので、関数などについてもうっすら覚えがありましたので、やり方を見ながら、こういう意味のことをやればいいのか?と関数を当てはめていきました。結果…なんとか、日別に数を入力していけば、最終的に曜日別に数を知ることができる表が出来上がりました。心底、ほっとしました。そして、その表を指示を出したAさんにメール添付で送り、確認をお願いいたしますと添えました。ところが…1週間経っても、何の音沙汰もなくそれでいいのかいけないのかもわかりません。一度直接聞いてみようと事務所で尋ねたところ…(ちょうど虫の居所がわるかったのか)「そんな表!私が自分で作ろうと思ったら作れるんだから!要りません!」と言われてしまいました。…え、そうなんですか?指示を出されたのでそのようにしたら、自分でやるから必要ないと言われ業務でそんなことってあるんだとビックリしてしまったのでした。ここからは想像でしかないのですが、Aさんはもしかしたら、私を試すつもりで上記のような指示をしたのかもしれません。そしてもしできなければ、「あの人はExcelが使えないので使える人を採用してください」と上司にあたる人に話したかもしれません。実際、前任者さんも見る限り、決してExcelが使えないようには見受けられなかったのですがそれを理由に解雇されているので、同じようなパターンかなと…。職務経験があまりないのでわからないけれど、気に入らない人がいたときに辞めさせる口実に、こういうやり方があるのかな?とふと思った次第です。(実際はわかりません)そして…PCの技術を理由に辞めさせられることはなかったのですが、そのあとからもAさんのあたりは強く、という日々が始まりました。
2023.12.28
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気付けば年の瀬…皆さん今年一年、どんな風に過ごされていたでしょうか。自分のことで個人的な印象深い出来事というと、3年半ほど勤めていた職場をつい先日退職したことでしょうか。退職を決めたのは11月11日。12月12日付で退職しました。勤務していたのは地元でも話題の某施設。個人的に27年ぶりの有給の仕事に就くこととなり、ありがたいやら楽しいやら。の日々…だったはずなのですが、それは、まあ…。(笑)ハラスメントあり、差別あり、なかなか盛沢山ではありました。最初にハラスメント案件があったときは…とにかく辞めたくなくて被害を申し出た自分が辞めなくて済む方法をとにかく考えたり。被害を申し出たのに、施設の長に「喧嘩両成敗だから」みたいなことを言われてかなり驚きました。副施設長には「(ハラスメントの加害者の)経理担当者が辞めるほうが今の職場にとってはこまる」とはっきり言われましたし、(別に辞めさせる権限が私にあるわけがないのですが)なかなか、事なかれ主義な部分が表面に出ていましたね。思えばこのころから、職場からは私は面倒くさがられていたのかもしれません。(笑)ただ被害を申し出ただけなのに辞めさせられたり、っていうことが理不尽過ぎて、そうならないように踏ん張った感じでしょうか。ハラスメントなんて職場では普通にあるし、加害者とされた人にだってその意思がない場合もあったり業務指導なのかなんなのか?っていうのは、被害の申し出や相談があったときに管理職がきちんと双方に聞き取りをして、何らかの方策をとるのが一般的なのかな?と思いますが社内にいてもこういったケースは、被害を訴えられた人を辞めさせるというような暗黙のルールみたいのがありましたね。実際はやめさせられないので、こう遠まわしに話して本人に辞めると言わせる的な…(ハラスメント以外でも)よその企業がどうなのかはわかりませんが、そういうことがまかり通る職場でした。なにせ…第三セクターで、管理職が役所の人とか某組織からの出向の人とかだったのでそのせいかどうかわかりませんが一般的な企業の管理は難しかったのかなと思わざるを得ないような対応がかなりあり…。私のようなアルバイトが何を言っても変わるはずもないですがこう、性格もあって…疑問におもったり、これはどうか?と思ったことについては施設長、副施設長ともに直接話を聞いてもらう場を持たせてもらいましたが…何度お話ししても説明を聞いても、堂々巡りだったなというのが正直なところです。アルバイトだからなのか、業務についての共有もしてもらえないことも多く(これは社内の大半の人の意見でした)そのせいでお客様にご迷惑がかかることもしばしば…ですがこういうのも管理職の方の意識しだいといいますが…あまり重きを置かれていないのか、ただ忘れてしまうのか?みたいなこともたくさんありましたね。私は大昔ではありますが、小売り流通業に従事していたころがあり、入社時の社員研修でとにかく「お客様のお役に立つ」を叩き込まれたせいもあると思うのですがその目線で物事を考えないと。という意識を持ってしまっていたのですがいくらサービス業だとはいえ、従事する人や管理職がすべてそういう気持ちでいるわけもありません。それを、自分がどうしても不可思議でしかたがなかったということ。また、従業員に対して理不尽な差別が露骨にあり(縁故による依怙贔屓など)これも管轄の役所に相談するも(出向の人を通してですが)らちが明かないという結末でとにかく安心して働くことが難しいと判断したうえに決めた退職でした。ですがまあ、こういう職場はそこいらじゅうにあるものだと夫などには言われたりもして珍しくもないのでしょう。勝手に私が期待しすぎていたのかもしれません。ずっと、どこかでお勤めしたいという気持ちがありながら諸事情でそれが叶いませんでしたがこの歳になって、やってみたいことは後悔ないようにしたい気持ちだとかそのほかにも理由はありますが、出会った求人に、これだ!と思い切った応募をしたことから始まりました。業務については過去におこなっていた経験も活かせる部分も多々あったとは思いますがなにぶん、ブランクが長すぎだったり、自分の年齢だったり。職場の期待するような働きができていたのかどうかはわかりませんが…自分が退職の意思をかためたときに、多くの方に「やめなくていい人がやめていく」という声をかけていただいたので、微細なお役に立つことはあったのかもしれないと思いたいところです。都合というのは誰の目からみた都合なのか、という点もありますし私個人としてはもっと働いていたかった、という気持ちが正直ありましたが職場の人からみたらどうだったのかな?なんでもハイハイと素直に聞くばかりではなく、質問や意見を述べるアルバイトは邪魔だったかもしれない。それに50代となると…上司の中にはあきらかにそれを苦にしているなという方もいましたし。業務に対する疑問質問にこたえてもらえなくなったら…いよいよ。安心して働けない。この一点で、ここにいることは難しいと判断して退職した次第。でした。お世話になった方がとてもたくさんいて、寂しくて仕方がない12月を過ごしております。(笑)この歳でこんな場でこんな時間を過ごさせてもらえたことにとにかく感謝しないといけないですね。株式会社だったけれど、一般企業の社会通念上の常識が通用しない(特に2023年4月以降)ことがかなりあって、どうしてだろう?なぜこんな対応をされないといけないんだろう?ということが激増しました。働く者は自分で健康管理をしないといけないものですから健康を維持できないと判断すれば誰も守ってくれません…。自分が決めるしかない。自分が決めたことなのでもう後ろは振り向く必要がなくなりました。残念で悔しい思いがないと言えばうそになりますが、そんなことを言っても始まらないし。お役所の身内かばう「事なかれ主義」も存分に目の当たりにしましたし、これが答えか。という感じ。今後、ハラスメント的な場面に遭ってもたぶん、誰にも守ってもらえない職場です。(と、これから働こうと思う人に言えるなら言ってしまうかもしれませんが)市内でも注目の新施設で、期待もされていたと思うのですが、ここまで働く人を大切にしない面が出てくると厳しいなという…。世の中で当たり前になっている人権意識が薄かったり、コンプライアンス違反が横行していたり。当事者としてわからない人にはわからないんだろうなと思いますし実際、やっていることがさほど「重い内容ではない」と判断されると、触法とするにも難しいしそれを誰も指導しない、改善しようがないのが現実です。(管理職によるものなので)管理職が問題行動を起こしていて、管轄の官庁が何もしないとなるとどうなるのか?このあたりが一般的な企業とも違う、第三セクターの課題じゃないかなとは思いますがもう退職した職場なので、私がなにか言う立場にもありません。私が知るだけでこういった格好で辞めた人を5人以上知っています。それも3,4年の間に。それが問題かどうかも…辞めれば募集すればいい、という感覚だと問題視すらされない現実があります。ただ経営者の道楽で済むなら自由かと思いますが・・・一応、公金の入った組織なので、そこだけがどうしても最後まで引っかかってしまって。気になってしまうのも私の性分なので、これまたどうしようもないことなのでした。でも決めることができてよかった。今はそれしかないのでした。追伸;ふりかえりの意味があるかどうかは置いておいて…またこの件の続きを綴ることがあるかもしれません。
2023.12.27
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自分はこれまで、人間関係が原因で離脱した場所がいくつもあることに気づきまさに今も、今いる場所からともすると離脱する、しない、を選びそうになっていることに気づきどうして自分の周りの人はいつもこうなんだ?みたいに思いながら、いやちょっとまてよ?それは…周囲の人の問題なのか?などと思ってみたりしていやこれは…これらは…なにか共通点があるのか?などと振り返って棚卸しをするなどしてみると「過度の期待」というキーワードがぽつんと見えてきた。特に目上の人に対して、それが大きかったかもしれない。でも自分が離脱するときは、目上の人から何らかの被害を受けてそこから脱している傾向がある。自分のせい…とは違うと思ってきた。正確には自分のせいかはわからないが発端が自分にある可能性も考えてみた。私に対して加害的になる人達から離脱してきたわけなのだがなぜ、そうなってしまったのだろう。私が弱いから?加害しやすいから?それもあったかもしれない。やれる条件が整ったから?その手前で…なぜそんなことを?と冷静に考えてみたら…一般的には攻撃してくる人間は、なにかしらにおそれをもっていたりするのではなかろうかと。だからそれに対して、怖いなにかが自分に向かないように予防的に先手を打ち攻撃してくるのではないだろうか?という仮説をたててみたら。これがなんとなく、そうかもしれないと想像できてしまうのだった。私が先に攻撃しているつもりはなくても相手が、「怖い何かを持っている」そぷりを見せている可能性がある。つまり相手にとって私が「有害」な「危険」をもっているから先に潰そう、となるのではないか。その有害な要素とは?正しいことを指摘したりできていないやるべきことを突いたりする。正論だと上から踏み潰すこともできない。そして、身動き取れなくなりそうになった相手が、苦し紛れにやること、それが私への攻撃なのかもしれないと、ふと思って。もちろん、いわれのない攻撃ではあるが恐れを持った人からすると正当防衛かもしれない。それが正当かどうかは実は問題ではなくこちらが攻撃されたくないのであればそうならずにする方法をとるべきなのだと。自分の思考パターン。行動パターン。それを知って、対処する必要があるのかも。然るべき立場の人に、自分の理想を押し付けないこと。簡単そうで難しいのかもしれないがこの心の持ちようは、生き方を大きく左右する気がする。
2023.10.04
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まあ。。。今日のことなんですけども。夫に最近の私のこと言われたのが…「〇〇がどうあるべき、っていう話が年々きつくなっている」んだそうです。そう、昔からそうなんだという自覚はあります。確かに、昔働いていた職場などでも上司に対する期待は強かったと思う。なんで上司なのにこれもできないの?上司の失敗を私がかぶらないといけないの??いわゆる「上司のくせに」ってやつですね。…まあまあ、皆さん、私のような部下がいてやりづらかったことでしょう。自分がリスペクトできる上司なら、どこまでもついていった…んだろうか。たまたまお勤めの部分ではそうだった。それ以外の場所で、尊敬できる人との出会いは当然あってでも、一日の多くの時間を共有するような人はそうそういないのでそんな中でも「リスペクトしてるからついてく!」みたいな風には結局なっていないんですよね。なぜなんだろう、とふと思ったりする。自分の上役である人は、尊敬するに値する人「でなければならない」みたいなべき思考がつよいのかもしれない。それに合致していない部分には当然、不満がのこり「なぜこの人はリーダーなのに〇〇じゃないのか」という不満だけがクローズアップして自分の中に積もっていく。人は多面的なものだから自分と会っているときのその人は、「その人と会っているとき用の自分」を演出している可能性もあるし何を大げさな、演出などという前に、場面を変えた「自分」があるのは誰しも当たり前のことなんだろうとは思う。そして、何より自分が「尊敬に値する」と設定している姿というのはあくまで「私が設定している偶像」でしかないのだということをもう少し、自覚しないといけないのかもしれない。***最近の不満の種はズバリ「職場の上司」いわゆる、組織の長という立場でもあるので、まあまあな期待をしてしまう自分です。〇〇な立場なのに、〇〇の責任があるのに、××をやらない、やれない、やろうとしない。というのがとても大きな不満になって、自分を締め上げています。(笑)そういうのが夫に言わせると、べき論が強いようなことばっかり思ったり言ったりして叶わないことにさらに不満を持って、かたくなになっている(私)らしい。自覚はある。ということは、私の心持次第っていうことなんだろうか?私さえ、「まあそんなこともあるさ」と流せば楽になっていくんだろうか…。なんとなく。人は、誰かの役に立っていたいと思うものではないでしょうか。それは家庭でも職場でもそうだと思うのですが何をどうして役に立っていくのか。みたいなことは人それぞれだとは思うのですがそういった「課題」がわかった時点で、「課題解決」をしようとする。それがお役に立つということだと思うと、課題解決が自分のミッションだと思ってしまうわけです。お客様から改善してほしい話を聞くと、それはすなわち課題だからどうやって解決したらいいか?と上司に相談したりする。でもその解決がままならないことも多々あり、なぜ・・・と自分の中で不満としてため込んでしまうようなサイクルができあがっているのかもしれない。お客様からの申し出で「課題だ」と自分が思ってもそもそも上司の人たちは「課題」だと認識しない場合もある。また、「課題」なんだろうけど、喫緊の解決を求められるものなのか?優先順位がねえ・・・そんなすぐどうこうってしなくても・・・みたいに放置されることもある。そういうときに、まず自分がいろんなことを思うのだけどそれは「課題」を共有できない虚しさだったり解決していきたい。という思いの温度差が激しかったりそもそも、そういった思いを汲んでもらえなかった悲しさだったりそんなんでいいの?って思ってしまう自分…。何を課題に思うのか?も人によって違う、答えがないものについてはなおのこと自分が相談したからといってすぐに解決に向かうというようなことは、あまりないんだなと痛感している日々であったり。でも…お客様からみたらこれは、解決してほしい。(気の利いたよりよいサービスの提供)ってことだったり従業員同士の関わりの中で、配慮したい。(お互いがスムーズに気持ちよく関わりあうためのそもそものマナーみたいな)ことだったり。その実、とても大事なことばかりだと思うのになぜかそれを言う自分が奇特なことを言い出す者のような認識を持たれているのではないか…という話。理想を追い求めるみたいなことをしたら傷つく人がいるんだろうか。もしや上司まで傷つけるんだろうか。そして、動いていかない事態にたいして、上司の対応に対してそれがストレスになったりして自分がどんどん抱えてしまう傾向…そして最後は自爆みたいにですね、なっていくwそうみてくると、自分の考え方が割とかたくなで融通きかないものなのかな、とも思う反面、節度や規律のなさとか、配慮のなさなどからもとはといえば場を仕切る人が気にしないといけないことを気にしないことで嫌な思いをしたり、傷ついたり、取引先に愛想をつかされるみたいなこともあったりで少なくともそれに気づいた者が「これはまずいと思いますよ?」と声をあげることそれすら、「過度な期待」にあたるんだろうか…。明らかにおかしな事態なのに、嫌われたくない、うるさいやつだと思われたくない、そういう理由でだんまりを決め込む人の多さ。黙っていれば悪く思われることもないだろう。口をひらいて正論を述べれば不快に思われる。正論であれば正論であるほど、図星である対象からは反感を買う…。人とうまくやっていくには、そういう言いにくいことは黙っていることが一番の秘訣なんだろうか。だが。このままにしておくといけない、ということに目をつぶり何事もなかったかのようにやり過ごすことがとても苦手な自分。やっぱり、べき、にぶつかる。べき、にこだわる自分がダメなのかな。何事も程度の問題だとは思うけれど。こっちは間違ったこと一つも言っていないのに、なぜ諫められるのかな。っていう気持ちになってしまった一日でした。でも…きっと、正論を述べてもそれが一気に解決するなんてこと、一般的にはないのでしょう。そして正論であれば正論であるほど、対象の相手を追い詰めるのかもしれない。うっすらとわかるような気もするけれどなぜ、と思ってしまう自分となかなか折り合いをつけるのが難しい今日この頃。
2023.08.30
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専業主婦というワードが定期的にSNSなどをにぎわせているようです。専業主婦、と聞くと何を想像するでしょうか。専業主婦のライフスタイルにもいろいろ、あるとは思いますが。よく、小さい子の子育てを家庭でしている主婦が仕事から帰宅した夫に話かけると「仕事から帰ったばかりで疲れてるんだから(話をきかされるのは)勘弁してくれよ」みたいなやり取りがある、みたいな話って聞きませんか。ご多分にもれず、我が家もそういうことが多々あったと思います。正直、一日中、話せない子どもと二人きりっていうのはあんがいきついものです。(きっとやったことない人にはわからないかも)話せないのもきついし、子の世話も、命がかかっているからさぼることもできないからそういうプレッシャーもあってなんかこう、子どものことでも自分や家族のことでも、誰かと話せるだけでも違うんですよね。疲れて帰ってきた人に、「あのね、今日ね・・・」と機関銃のように話されてうんざり。みたいなこと思う人もいるのかもしれない・・・でも、自分たちの大事な子を一日守ってきた人にねぎらいの気持ちややさしい言葉かけがあってもいいんじゃないかな。と、家にいる側の経験者の自分は思ってしまいます。いや、仕事にいっていたほうの人が、自分だって仕事が大変だったけどそんな話を妻にはしないけど?って人もいるかもしれないけど・・・どっちがいいのかわからないけれど。とにかく自宅にずっといて、大人と話せない日々を過ごすのって子連れだろうが大人個人であろうが まあまあ、きついってことは経験した人でないとわからないかもしれない。今の自分の身近な人にこういう話をしてもあまり、理解されないなって感じる。その分職場で一緒の人たちは少なくともこれまで職場での生活をつづけてきたのなら少なくとも出勤して職場にくれば、誰とも話せないなんてことは必然的にないわけで話せないつらさ、っていうのは理解できないかもしれないなとは思う。そして・・・外からそんなこと言われても、「じゃあ話し相手を作る努力をすればいい」って言い捨てられて終わりかもしれませんね・・・。話し相手がいない、というのは案外、切実なものだと私は思っています。だから・・・居場所みたいなものがとても大事だなって思っていてそういう場、についての思いみたいなものもありますが人為的にそういうものを「作る」というのも簡単じゃないのかもしれないし、想いだけが宙ぶらりんな感じはありますがいつ、どこでも人は人の間で生きている。のだから「話し相手がいない」というのはそれなりにきついもの。そういうことに対して、今の自分は何かできるわけではないけれどそういう気持ちになることだってある、ということは思っていたい。・・・と言いつつ、逆の悩みもあるんでしょうけどね。(いつも周囲に人がいて、たまには一人になりたい、というような望みなど)どちらが贅沢な悩みかはわからないけど学校などでも、一日ひとりでいることのきつさみたいなものを思うとやっぱり、他愛ない会話ができる人がいるっていうのはとても大事なことなんだとは思う。ちょっと話そ。って言える人がいる、って幸せなことかもしれませんね。
2023.08.24
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先週、美容院に行きました。美容師さんがお盆休みがあるし、その前にすっきりしたかったので前の週にカットしてもらうことにしたのです。カットが終わってお会計時、支払いの値段を提示された際「もしかして誕生月割引などありますか?」とおたずねした私。あっ。と気づいた美容師さんでしたが、今月中にカラーをしてほしいという話もしていたので次回のほうがお金かかるし割引はその日のほうがいいかも?少し9月にかかっても大丈夫と言ってくださったので今回はそのままお支払いしてきました。当たり前のように聞いてしまったけど…美容院って時折、割引してくれるタイミングがあるのですがそれは誕生月に利用したときとかポイントカードがたまったときとか次回の予約を来店時にしていったときとかそんなときにあるみたいなんですけれどたまに…美容師さん、割引わすれてるなあということもなくはないのです。でもそれをいちいち、会計時に言うのもなんだか、いやだなあと思うようになってきました。もちろん、割引してもらえる基準を満たしているのでそれをお店としてうたっている以上、割引しないと信用問題になるとは思うのですがあんまりよくない考え方かもしれないけどそういった割引はあくまで「サービスだから」と思うようにしています。つまり、うっかりスタッフが割引を忘れても気にしすぎるほうがしんどいなというような話。そういうお店を選ばないようにすればいい話ではあるのですが。サービスというのはあくまでサービスで割引は店の利益を削る話でもある、そういう部分もあるということを同業者としてはちょっと、意識してみてもいいかなとは思うのでした。ただし、割引があるならという理由で利用してくださるお客様もいるのでそこは本当は間違えないようにするのが信用を失わないための誠実なやり方だとは思うのですが。自分が割引する側なら、忘れないようにするのは本当に大事と心得つつ自分がお客にまわったときにそこをしつこくするのもちょっとスマートじゃないなと、理屈では合わないようなことを思ったりもします。一番大事なのは、その店が存続して、自分が必要な時にサービスを提供し続けてもらうことなので(だから割引わすれてもいい、にはなりませんが)割引は利益を削る部分があるということだけ、忘れずにいたいなと思ったのでした。
2023.08.14
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後進を育てる、と簡単に言うけれど育てる側にも育てられる側にも相応の覚悟がいる場合もあります。育てる側と育てられる側の信頼関係も不可欠ではないでしょうか。自分の大事な場所を譲る、ノウハウを含めたマインドを伝える。どうでもいい相手には伝えられないものでしょう。伝えるといっても容易でない場合もあるかもしれない。誰かを信頼して託す、というのは思いのほか、ハードルが高い。だけれど、自分のミッションとして、または必然として自分のポストを含めた役割を伝承していかなくてはならない場合があるとも思いますがそれを決め実行することが困難だとしたらその理由はなんだろう?と思うこともあります。***私は特に地位や名誉や特殊な技能をもつわけではありませんがこれまでやってきた業務を人に伝える、ということを何度かやったことがあります。(今もやっています)それは、トレーナーとして伝える、ということだけかもしれないしそれ以上のものは(誰かに)求められてはいないかもしれないけれど自分なりのミッションが原動力で働いていると、そういう片鱗もエッセンスに加えていたりしますけれどね。そのときに何をまず思うか「これからこれを担う目の前の人や組織が潤滑に回っていくにはどうするか」を考えていることが多いです。とかく…地位や名誉の人は、その「立場にいること」に異議を感じたりしがちな気もしますが(言ってしまえば全体からしたらそんなことはどうでもいい)(なんなら誰がやるかなんてどうでもいい、必要なことがいかに遂行されるかのほうが重要)現場が回り機能しなければ、組織としても機能していかない。その点を理解して先を見越した「何ができるか」が重要ではないでしょうか。(ここでリーダーという言葉が降りてきました。(笑)いまさらですが)自分がいなくても回る組織。自分がいなくても?というのも一つのキーワードでそもそもこれを受け容れるのが難しい人もいるかもしれない。なぜなら…これを受け容れたなら「あんたがいなくてもいい」を認めなくてはならない。人は、お前はいらないと言われて平気では…居づらいのではと思います。なんなら「必要とされたい」生き物です…。でもそれにしがみついて何万年も生きるわけにもいかないのです。***後進を育てられる人というのは、今の自分を通して所属する組織や職場にある種類の「愛情」や「ミッション」を明確に持っているのではないでしょうか。自分が担っている役割の本当の目的を理解している。どこの何に「寄与」したくてこれをやっているのか。まっとうするには何が必要なのかを日々考えている、実行している。その「ミッション」がまっとうなのだとしたらその焦点は本来のミッションにあたっているはずなのです。それは個人の自己満足や自己愛などではない、遠く先にあるものではないでしょうか。誰もが見据えることができる、目指すことができるもの。それをまっとうすることに立ち向かう人。そのためには何が必要か冷静に考えて同志を求められる人。同志にミッションや手法を共有し、かなえたいことを実現していく。目的地が明確なら、得たいものが明確ならそれを共有しよう、とおのずとなるはずではないでしょうか。これが困難なのだとしたら今のポストにいる「こと」に執着してはいないか?今の自分に注目される「こと」に意義を感じていないか?皆から見えて共有できるものではなく自分個人の「損得」が目的になってないか?つまり誰かからの「承認を得たい」がメインの生き方になっていないか。もしそうなら、きっとその人は後進を育成したりはできないかもしれません。出来ないどころか、「絶対やらない」(笑)だって自分を超える人の出現は脅威にしかなりません。組織や社会の将来?そんなことはどうでもいい。自分のことが一番大事、それしかない。(自分を大事にするのと、周囲を巻き込んで自分の承認欲求に寄与させるのはちがいます)そういう人が仮にリーダーになったとしたら後進を育成できないだろうし組織自体は衰退していってしまうでしょう。後進を育てる意識は、その人がどういうつもりでその業務に、役割にむきあっているのかそれを通して何をどう成し遂げたいのか?の思いの強さにつながっていると思うのです。
2023.05.04
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ここ20年来くらいで身近にいる人(今現在も含む)について最近思うことがあるのですが職場や組織などでまあまあ中堅以上、管理的運営の主体的立場にいながら「後進をそだてられない人」に遭遇してきました。後進、つまり 承継する人、や後輩みたいなものでしょうか。誰しも自分の役割を持ちながら組織や職場などで働いているものだと思いますが果たしてその仕事について「その人にしかできない」を作っていないだろうか?というのは働き方改革等の考え方の中でも非常に重要なことになっていると思います。***ところで日々、「この仕事は自分にしかできない」と思う業務・役割がありますか?私の場合、「たまたま、今はそうかもしれない」と思うこともあります。人の配置とか、自分が採用されたタイミングとか。社内でこれを担っているのは自分だけ、という自負があったりだからこそきちんと全うしなければというモチベーションになったりもしているかもしれない。それはそれで大事なことだとは思うのですが、とはいえ同時に「自分にしかできない仕事」としてしまうことに問題はないのだろうか。という気持ちも持ち続けてきました。なぜなら「働く人はみな人間」だから にほかなりません。生きているなら休みも必要です。またはその場に所属しなくなる日がいつかくるのも例外はありません。その場合、どうなるのか?その組織があり続けてその業務があり続けるのだとしたら自分の代わりにその役割を担う人が現れるはずです。「自分がいないこの場所」を想像できるか?そして滞りなく、今と同様、または今以上にスムーズに運営ができること。それを見越してやるべきことを考えると…後進の育成というのは避けて通れないと思っています。(組織そのものが消滅してしまったら役割そのものもなくなってしまうのでしょうが)組織が持続可能であるために「後進の育成が不可欠」なのだと思います。***次に、後進の育成をする側の視点からみてみます。ある(比較的責任があったり地位のある)役職にある人が自分が去った後のことを考えるのは容易なことではないかもしれません。なぜならその立ち位置にいることで受けている恩恵を(地位なのか、給与なのか、世間からの脚光なのか)わかりませんが容易に手放したくない要素があればあるほど、執着するのではないでしょうか。執着すると、この役割を、仕事を誰かに手渡したくない。つまり後進を育てるなんてもってのほか。という感情が生まれないとも限りません。そもそも、なんでも自分でやったほうが早かったりします。だがしかし…先も述べたように諸行無常。永遠と思うには限界があります。そこを怠ると、自分がいなくなる=即、そのポストに穴が開くになってしまわないか。そこまでのことに思い及ぶ人がどのくらいいるのだろうか。つづく
2023.05.04
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普段のコミュニケーションの中でやたら相手に「媚び」ていないかということを気にするようになりました。たとえば「すみません」というワードを多用していないか?「すみません」はコミュニケーションを円滑にしてくれる枕詞みたいなイメージもあるしこれを言われて腹を立てる人はいないのかも。いきなり用件を言う前につけておこうという使い方もあるかも。だがしかし…謝るときに使う「すみません」を普段の会話に常用する必要が果たしてあるのか?と思うとどうでしょう。どうせなら相手から敵意や悪意を持たれたくないものですがその流れで「すみません」を入れることでなんとなくヘリくだっているような姿勢に見え相手から見た自分が「謙虚な人」に映るようなキーワード?なのだろうか。LINEやメールで使われる「すみません」・遅い時間に「すみません」・返事が遅くなって「すみません」・文章が長くなって「すみません」・いろいろお願いして「すみません」とりあえずちょっと気になることがあるかもだから「すみません」入れとこってなっているのかもしれない。でも本当にその「すみません」が必要なのかどうか立ち止まって考えてみる。そこで相手にその一言で断らなくてはならないのかもしかしたら必要ないのに自分を悪く思われたくないからとりあえず言っておこうとなっていないか。具体的に申し訳ないという事象があるならばそれに対してすみませんを使えばいいのかもしれません。もしくはすみませんではない言い方を使う。ありがとうごめんなさいあたりは伝えたい内容がはっきりしている気がする。その投稿で感謝したい何かがあるのならありがとうを使う申し訳ないことをしたということならごめんなさい、申し訳なかったです など謝罪の表現を使いましょうか。あまり深い意味なく「すみません」を使うことで自分の身にはあまりいいことはないような気がして使用を控えてみたりしています。対面の中では「ちょっとごめんね~」というような使い方もしているけどこれももしかしたら自分は多用しているかもしれないと見直す余地があるかもしれない。とにかくすみませんごめんなさいを言っていないと気が済まないみたいな姿勢は改めてみたら自分からみた人間関係が変わるかもしれない。そういう気がしています。***「すみません」を多用する人からみた視点を考えてみる。自分が日ごろ「すみません」を多用する人はもしかしたら「すみません」を添えない人に対して横柄に感じたりしないだろうか。(こんな時間にLINEしてきて…)(私忙しいのになんども連絡してきて…)(休みの日なのに…)もやっとする中に「すみません」が入っていたらまあ許さなくもないか。ってなりますか?そういう「違和感」ももしかしたらこちら側の問題かもしれません。何をされたら腹が立つのか?も人それぞれだとは思いますが「相手が自分にへりくだらないと腹が立つ」という気持ちがあるのだとしたらそれはそれで少し何かが偏っているようにも思えなくもない。意味もなくへりくだるクセがある人は他人に対してもへりくだる姿勢を求めるのかもしれません。そう考えると自分が(必要以上に)へりくだる人は場面を変えて相手にへりくだった姿勢を求めるのかもしれません。対等でないというか。対等でないということは上下関係があるということ。本当に非がある内容については「ごめんなさい」「申し訳ない」「すみません」が入ってしかるべきだと思うし逆に非があるのにそれが言えない人もまたアレだとは思うのですがそこの線引きというのかそして謝る必要のないときにしいてへりくだる相手には「この人には強く出ていい」という誤解を与える可能性があると仮定するとそれを辞めてみると自分と誰かの関係性が変わってくるのかもしれないとも思うのです。
2023.04.26
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マニュピレーターについて(他人をコントロールせずにいられない人)・弱い立場にいたり出世コースから外れたりした人には非常に素っ気ない態度を示す。・つまり相手が持っている権力や影響力をみて態度を変えるカメレオンなのであり、自己保身のためにずっとカメレオンであり続ける。そういう処世術を身に着けているだけに「いい人」のふりをするのも得意である。なぜ?・何か得することがある・強い支配欲・自分の影響力を誇示したい・自己保身が何よりも大切。・自分の非を認めたくない「ゲミュートローゼ」思いやり、良心、羞恥心、同情心などの高等感情を持たない人。罪悪感を覚えることを徹底的に拒否し、反省も後悔もない。良心が咎めることも一切ない。”絶対に謝らない”・他人を道具としかみなさない・悪性のナルシシズム【ターゲットになりやすい人】・他人の話を真に受ける・経験不足・何となくおかしいという直感にふたをする・他人を喜ばせたいという願望が強い・自信がない・強い劣等感・他力本願・「幻想的願望充足」・見せかけの幸福を手放したくない・波風を立てたくない・孤立している・弱っている好かれる必要はなく面倒くさいやつと思わせる。戦うのを避けてなるべく距離をおく。
2023.04.15
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ハラスメント体質な人と付き合っていくコツなど。本当は離れるのが一番だけれど、それができないことも多いのでそういう人とかかわっていくためのこちら側の心得的な覚書。「エレガント・ダンディを意識する」・敵対的な行動も態度も見せず、対応は常に丁寧でつけ入る隙がない。 かといって誰にも従属的ではなく自分をしっかり持っている。・感情を露わにしないため、本当は何を感じ考えているのかわからない。・相手のことははっきり言ってどうでもいいけれど、 相手が自分に実害を及ぼす部分については冷静に冷徹に対処していく。・「相手の存在に心底冷める」こと。・憎悪、承認欲求、罪悪感は邪魔になる。・人間性ー自分の人間性は守る(隠す)/相手の人間性には無関心になる・関わり方ー「弱い」「有害」と見なされないような関わり方をしていく・結果ー相手はあなたにとってあなたは「(敵対的ではなく)底知れぬ強さを秘めた存在」 となり、相手の攻撃性が萎えていく・いつも攻撃してくる人に私の感情を見せてあげる必要はない・自分の限界を見せない(号泣・落胆・爆笑)・媚びるというのは心の中で土下座しているようなものです・要は「極端なことをしない」ということです。反応を「しすぎない」と同時に「しなさすぎない」ことも重要・相手が責めようがない程度に無難なリアクションの範囲で最小限に薄い態度いつも態度が変わらないリアクションの起伏が浅い感情表現の浮き沈みが浅いビクビクオドオドしないその場に合わせてきちんと微笑みきちんと困る個性的な言動をしない①自分の人間性を守るため②人間性を隠すことで何かを秘めている雰囲気を出し、得体のしれない怖さを纏うためキーワードは「最低限」・私的な会話は極力やめる。ただし挨拶は毎日にこやかに。・2人きりになったら向こうから話しかけられない限りだまって自分の仕事に集中。悪人の意識をもって反応を減らし、淡々とふるまっていると次第に敵対的ではない「強さ」「怖さ」が醸しだされます。・相手の攻撃の糸口は多くの場合あなたの言葉にあります。・いつも攻撃されている時点で間違ってももう相手に好かれようとなんてしないこと。
2023.04.15
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「自分で決める」というキーワード世の中、自分ひとりで生きているわけじゃないしなにをもって自分で決める、なのか。ではありますがそこをスッパリ吹っ切れると、楽になるのかなと思ったりする。相手に合わせるというのは 悪いことであるどころか生きていくうえで不可欠なことだとは思うのだけどそれが正しいかどうかはわからない。***昨日読んでいた本なのですが美容室の方の生き残りをかけた(?)方針みたいな話でつまりは顧客ってなんなんだみたいな話ですがスタイリストがこうしたい、という思いとお客の側がこうしてほしい、という要望との間にあるもの。結局、お客は「自分の都合がすべてでそのようにしてほしい」という目線しかなくたとえば安ければ安いほうがいい、安くしてほしい、安いところに行くという「価格」の要望がある人はそれで選んでいる場合、こういう施術をしてこうなってほしい、こうしたいというスタイリスト側の意向とは相容れないわけですよね。それが悪いわけじゃないけれどそうして、思いの方向が相容れない人をお客様として接客するとスタイリストも疲弊してしまうし、クレームの件数も増えてしまう。だから、自分の思いに合った限られたジャンルの方だけ来店いただければよくてそういうスタイルの営業にすることでかえって儲かる、みたいな話でした。だから値上げが悪いわけでもなく、値上げすればそれに見合ったお客がくるようになる、というような話。本の中の登場人物でアドバイスしている人のライフスタイルが、なんとなく、アレでしたがまあそういう考え方もあるのだなと気づいた一冊ではありました。***相手に合わせる人の顔色をうかがうみたいなことって、特別なことでもなく、気が付けば「これをやったら(言ったら)どう思われるだろう」と思ってしまう思考回路を持っている人は結構おおくいるのかもしれません。誰しも嫌われているより好かれたいと思いますし。(笑)「良く思われたい」ってどこから来るのかわからないけど極端な場合、「良く思われたい」が中心で生活している人もいるかもしれないですよね。そんな自分も最近、まあまあそういうこともあってちょっと疲れ切ってたかな?とは思います…。喜ばれると思って追いかけても、相手がどう思うかは別の話、なんですよね。こうすれば喜んでもらえる!をベースに行動するのも大事だとは思う、忘れないようにしたいとは思うけれどもしかしたらその反対側に「喜んでもらえる”私”を評価してもらえる(評価してほしい)」が潜んでないか?結構ココが重要な気もしています。自分で気づくのは難しいですが…。承認欲求、っていうのかな…?とにかく相手中心に世の中まわしそうになってだったら私がこう、都合をつけよう、自分が段取りしよう、下準備しようみたいに動いてしまうことで、誰がハッピーになる?相手?私?それによって仮に相手がハッピーにならなかったら?私にその責任がとれるのだろうか。なんかそれも…つかみどころがない、不確かな感じがするけれどそれに振り回されることがあるとしたら、それ自体、あまり幸せな感じがしない。まずは自分目線でどうなのか?も気にしていいのかもしれないし。たとえば贈り物一つでも、相手に喜んでもらえるかな?と選ぶのが一般的だとは思いますがそれを考え始めると永遠のループにはまる、なんてこともだって相手の「本当の気持ち」なんて、実際はわかりようがないのですから答えなんかわからない。でも自分が差し上げたい、という気持ちに重きを置くならば別に相手に何と思われてもいいや、って(もちろん失礼がない範囲はあると思うけれど)気持ちであげる、ということのほうがさっぱりする気もする。***あくまで決めるのは自分だし自分の都合や気持ちを大切にする不必要に裏を読もうとしないOKかNGかでそれ以上の理由を考えない自分主導、でいこう。
2023.03.05
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私の周りには、私に甘えてくる人がいるように感じる今日このごろです。甘えてくる、の中身はというと無理なことを言うとか不機嫌な態度を取るとか強いものの言い方をするとか上から物を言うとかそんなところです。そうされると人はどう思うのか?そしてどうするのか?なぜ自分に人が甘えてくるのかというとそれを許してくれるとか反撃しないとか反撃しても大したことは起こらないと踏んでいるからかもしれません。甘えられる側が「甘えてるのね、しょうがないな」と思うのか「甘えたことされて不愉快だな」と思うのか人それぞれかもしれないけれど人には自尊感情というのがありそこを傷つけられたと感じると甘えられる自分に酔ってばかりもいられなくなるのかな、とも思うのです。
2023.02.14
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また、ド短く切ってもらいました。しばらく伸ばしていたのに、やっぱり短くしたくなったのです。それでも未練が多少ある私の心理を見抜いてかギリギリの寸止め?美容師さん。日曜日に切ってもらい、だめなら火曜日はよていあいてますから〜なんて言っていてまんまと火曜日に切り直しお願いした次第です。急に短くなると慣れないけど一日経って少し慣れてきた。(笑)下手したらメンズより短いかな。美容師さんよりは短いです。なんか吹っ切れたなーという感想で。なんだか、無難な感じのヘアスタイルにしておいたほうが、世の中丸く収まりそうな気がしてフツーっぽいスタイルにしよかなとか思ってたんですけど…なんかまとまらないし落ち着かない。サバっと切ってもらってもろもろ吹っ切れた。(笑)背筋を伸ばして、キリッと生きる。←やることは何も変わらないどころかもう私は大丈夫。のオーラが出てしまいある一つのことは昨日、キリにしてきました。(悪いことではないです)潔い自分は、良い。笑笑いや、目立たないように生きればいいんですけど。昔…10代の頃、襟足刈り上げたらそれを見た父が「なにか不満でもあるのか」といったのでなんか不満でヤケクソで刈り上げたと思われたのかな?と別にそんなんじゃないけど刈り上げキライじゃないんですけどね。(笑)今回は刈り上げてません。(`・ω・´)職場の人も、えっ!?ってなってたな。(笑)でも切ってくれた美容師さんに言ってしまった。「本来の自分に戻ったみたい」まあ、なんでもいいんですよ。人に媚びて、様子伺いながら自分の評価上げようなんて保険のハシゴを一つ外しただけです。(しょうもない)耳周りすっきりして、メガネも快適だし短いのに濃いめのリップとかいいです。自己満足で上等。多分、誰も真似しないし!笑勝手にわが道をいく。
2023.02.10
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礼、とはなんでしょう。相手を敬う、とかそういう意味が含まれる気がするのですが。礼儀正しい、とは挨拶ができるとかお礼が言えるとかそういった態度を示す場合も多々あるように思います。が、なんとなく、見せかけの「礼」もあるように思えてしまいます。何か事につけ、お礼を述べたりお礼の品を渡したりお礼状を書いたり、というような「表し方」もあると思うのですが。なんというか、それをする人が何を思ってそれをするのか、というのがとても大事な気がしています。あらためて、お礼を述べるのはなぜか。相手に感謝の意を伝えるため?は一般的ではないかと思われます。が、それがもし「他人から礼儀正しい人と思われたいがために」行われているとしたら?なんとなく、意味が違ってくるような気もします。私の勝手な考えですが礼というのは、公益とか利他とか、そういうこととつながっているような気もするところです。先の「人に良く思われたい見せかけの礼」は、最終的に自分自身をよく見せよう、というポーズなんだとしたら、ただの利己かもしれない。ですが、相手に対して誠意を尽くしたい、伝えたい、というようなものなら相手へのリスペクトがなければ成しえないもので(見た目にわかりづらいなら、何が本当の礼なのか?というところですが)尊敬の気持ちを添えた「礼」というのはどこか自分とその相手を超えたところまで届く行為のなのかなという気がしています。自分の満足だけにとどまらない。相手への礼を尽くすことで、さらなる、よいことの広がりをも含むような何かがあるような気がしてならないのです。***利他を考えられる人。公益・共益のようなものを考えられる人。そして考えられない人との差は何でしょう。一見、周囲が気に入らないことだらけだったとしてもすべての人が幸せでいられますように、とそっと願うことができれば自分も幸せな生き方ができるのかもしれません。
2023.01.22
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お正月、普段会わない人に会うこともあるそんな季節ですね。ご多分に漏れず、身内への挨拶にいってきました。私自身は数年ぶりになったかもしれません。なんとなく、少しは人と会うハードルが世情的に下がっているようにも思います。お正月に限らないことですが人と関わっていて悩むことってありますか?多くの人が人間関係に悩むことがあるのではないかと思います。これは、私の気づきなのですが結局、人間関係は(も)「(自分の思うようになると)期待しない」「そういう人だと承知して付き合う」に尽きるのかもしれません。よくある、結婚によってできた家族に対して不満を感じる人も多いと思いますしそれを口にしている人もいる。その内容は結局「相手が自分の思うようでない」ことに対して不満がある、ということかもしれません。姑が嫁に不満なのも「こうしてくれたらいいのに」と考えることと、現実に乖離があるからでしょう。逆もしかり。あらためて私も…久しぶりにあった人との会話で何となく、相変わらずデリカシーがないなと感じることがありました。相変わらず、というところがポイントです。そこを、まあ安定のいつも通りだねとスルーできればよかったのですが腹を立ててしまった。それについて、周囲の家族が残念に思ったという展開でつまりこの人はいつもこうだからしょうがないとなぜ流せないの?という指摘を受けたわけです。だがしかし私は自分がなにか悪いことをしたのだろうか?に疑問をもちあるとしたならば、高齢世代の方が「思うような嫁になっていない」ということかもしれない。私があとから来た人間だとして(結婚)はじめからいる家族に従え、言う通りにしろ、が正しいなら一つでも「そうはいたしません」となったとたん、こっちが思う通りにやらないお前が悪い、がベースにあるのかもしれません。そしてこちらとしては人としてそんなに間違ったことをやっているつもりがなければ一般的には攻撃的な物言いをされた時点で何かな?と思うし疑問も残る。人間なので嫌な気分にもなる。自分の子からはそこをまともに相手にするべくステージに上がっちゃうからダメとの指摘をされ、私が何をしたというのかという気持ちも拭いきれなかったのですがつまりは私自身も、人に期待をしていることに気づいたのです。たとえ何がどうなっても他人は変えられない。そしてかれこれ80年以上生きている人がそう簡単に変わるわけもないのです。だけれど時として人は関わる相手が、こちらの都合のいいように動いてくれたらいいのに、と思うのです。そのほうが楽だし、快適だし、助かるし。「こちらの都合のいいように」というところがなかなかの曲者だと思うのですが私自身について言うと自覚せず、期待をしていたのかもしれません。しばらく会っていなかったから(?)そう思ってしまったのか、忘れていたのか?相手は私相手に、嫌味を言う不満を口にする私の家族を悪く言う私の行動を悪く言うみたいなことが、そもそもあるものだということを忘れてはいけないのです。そこにおかしな期待をしてこちらの思い通りの人に「なっているはず」と思うなら(なっている?なぜ?何を根拠に?なっているはずがない!)現実に対面して失望したりショックを受けることになる。なぜ幻想を抱くのか!?正常化バイアス、でしょうか。こうあってほしい、に現実を寄せようとするのは誰にでもあることなのかもしれません。だがしかし、そのとおりである保証など、ない。過去と他人は変えられない。その中で自分の立ち回り方を変えることしかできないのかもしれない。だからそもそも、期待をしてはいけないのです。相手がこうなってくれたら、と期待しない。せめてこうなら御の字くらいに思っていないといけないということをあらためて感じた正月。「期待しない」大事かも。
2023.01.02
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ここは私的な日記の記録みたいな場所だから日記みたいに記録しておくのも一つかなと思いPCを開いています。今月中旬に発熱し、いわゆる流行のやつに感染してしまったようです。しまったようです、というのも抗原検査を2回するも陰性となり結局症状から怪しいので仕事を休む段取りをし、自宅療養をしました。その間、発熱外来に連絡するも開始時刻に電話してもいっぱいだと言われ受診をあきらめてしまいました。同居の家族がたまたま用事があって連絡した医療法人さんで家族が検査をしてもらうことになり陽性。実質、同居家族はみなし陽性ということになるでしょうか。とにかく発症から7日間自宅療養10日までは注意をしながら過ごしました。受診ができないということは薬も処方してもらえないので自宅にあった薬や市販のものなどを使ってどうにかしのいだ感じです。とにかくこれまでは、熱があれば病院にかかる、が当たり前だったけれど感染症とともに生きる時代には発熱すると一般的な時間帯には診察してもらえないことは、普段かかっている内科の様子を見ていてわかっていました。ではいざ自分が、となったときのことを想像していなかったのですが思いのほか、門が狭かったです。感染しても特効薬もなく、症状がひどくなければ自宅で療養するしかないというような一般的な状況を受け容れつつ時間を過ごしました。それでも発熱とかのどの痛みとか咳とか、割とつらい症状もあるためそして、後遺症がどうとかいう情報もあるためいったい自分たちはどうなっていくのか、不安な症状を誰に相談できるのかとにかく…不安な気持ちになってしまいました。ただでさえ、ほかの人との接触をしてはいけないと細心の注意を払わなくてはいけない。日ごろの社会生活(職場や学校)からは隔離しないといけない。それは法的に決められているようなことだからもちろん守る。だけれど、休んでいる間のこととか自分の体調のこととか。本音をいうととにかく、不安しかなかったのです。我が家で一番最初に症状が出た家族も、抗原検査で陰性2回ということでそれにのっとり行動する、と言い出した時には反対したり。ちょっと尋常じゃない空気感だったかもしれません。私はSNSなどを見ることで、こういったときの抗原検査が陰性であってもPCR検査をすると陽性になるという人がとにかくたくさんいるらしいことを情報として得ていました。けれど、医療用の検査なのだからそれに従って何が悪い?という話になってしまうと…いや、信ぴょう性が薄いらしいから。といっても、ではなぜ検査として出回っているのかとか法的に問題はないとか、そういう話になると平行線になってしまう。とにかく私自身は、病院で検査もできそうにないけれど症状から明らかに疑われるものとして行動するべきだと淡々と職場に相談をし、指示を仰いで自宅で療養しました。なんというか。この時の体験も本当に…検査結果を信じて何が悪い?といわれたら悪くはないのだろうけど外の世界ではその結果はまったくあてにならないと言われていることを見るといったいそのままでいいのか?とも思うし内容はなんであっても誰かと意見がちがって相容れなくなる悲しさってあるのですがこと、このような感染がどうの、ということになってくると適当でいいやってことにはできないのではないかと本当に強く思ってしまって会話が通じない間はなかなかつらかったです。極論をいうともろもろ腹をくくらなくてはいけないのではないかというところまで追い詰められた感はあります。とにかく本当に、その立場になってみないとわからない気持ちだと思うのですがとりあえず、一般的な療養期間を過ぎると大体の症状は落ち着いて日常生活に戻ることができて少し安堵しています。自分は2年少し前に仕事を始めてから、ほぼ1度も予定していたシフトを休んだことがありませんでした。が、今回ばかりは休まない選択肢はありませんでした。当たり前のことですが。1週間ほど空けましたが、それも貴重な経験になったように思います。誰かの手を借りなくてはいけないことなんて普通にあることだという準備が必要です。実際、数か月前に一緒に働く人が辞められて自分が勤務しない日にほかの部署のスタッフに業務をやってもらうにはどうするか試行錯誤していて、一つのやり方を試してみていたのですがそのおかげで、自分が不在の間も誰かしらが業務を回してくれて滞りなく業務が遂行されていてありがたかったです。自分にとって業務に出られない(業務だけじゃなく外出などもですが)日々はあれこれ考えさせられる時でした。孤独だったし、不安だったし、ちょっと…そういう意味で精神的にもきつかったですね。それでも仕事に復帰してからは、どこか心持が変わったというか誰にでもリスクがあって、抗いきれないときもあるのだな、と思うと他の人に対する気持ちも少し変わったかもしれません。感染症のもとになるものが憎いし、こっちに来てほしくないしもしかしたら面前にいる人がウイルスを持っているのかもしれない?その辺に浮遊しているのかもしれない?いつ、感染するかわからない、という不安と隣り合わせの毎日で感染した人に対しては漠然と怖いという感情を持ってしまう自分もいましたがこれがいざ、自分の身に起これば立場が逆転してしまうのです。どこか高見で「私は感染していない人」の立ち位置で世の中を見て人を見ていたのですね。あっち側の人とこっち側の人、みたいな。それももしかしたらやむを得ないかもしれないです。だって怖いですから。防御しないといけない、ということに躍起になって(もちろん大事なのですが)手洗い、うがい、汚い手で目をこすったりしないとか私の場合は接客の仕事でもあるので仕事から帰ったら即刻洋服を着がえて風呂に入ったりしていました。本当にピリピリしていたし、怖かった。もちろんこれからも気を付けないといけないことには変わりないのですが感染したということがショックでもあり受け容れたくないみたいな気持ちにも一瞬なったと思います。でもだからといって見て見ぬふりをするわけにもいかない。だって、当初から「自分が感染しているかもしれないというつもりで生活しよう」と言われていたわけですしパブリックな場所ではとにかく「風邪症状のある人は立ち入り禁止」なわけですから自分にそういうことが少しでもあれば疑って行動しないといけない。もうそれしかない、わけなのですが。もともとクソ真面目で、つい正義感発動しちゃうような自分です。会話が通じないときに、私の性格や考え方や頭がおかしいのか?と心底…悲しい気もちになりました。今でもその答えはわかりませんが社会生活をしていくうえで自分の考えも全くの間違いではなかったのではないかと少し冷静に思えたりもして。貴重な体験をしたと思うのでその記録みたいな日記です。
2022.12.31
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今日の勤務は、従業員の人数が少ないこともあって出勤前から不安が募っていましたが、何とか無事に終えた(と思う)ので安堵しています。出店の予約などを業務の中で承っていて今日は初めての方が2組。おそるおそる、こちらを訪ねてくださったときのご案内から初日まで。今日はどうだったでしょうか。それぞれの営業ですから、もちろん、出店手続きのお手伝いをするだけではありますが。私の仕事は、単調なような業務が多いです。倉庫にいて、倉庫に届くものを表に出していくような部分もあるのですがこれは嫌になる人がいるかもしれない。でも、自分はそこそこ苦にならず、回していこうとしています。よく、職場の中でも業務によってヒエラルキーがあったりしますけどご多分に漏れず、私もほかの従業員の態度から感じることもあります。なぜそんな発想ができるのか、訳が分かりませんが。笑自分は自分で課せられた業務に向き合ってやっていくだけです。ほかの人の業務に口をはさむ暇などなし。(笑)***今日は出勤前に「今日は私と上司の2人しかいないから、私が休むとやばいよ」と話すと中学生が「へえ!それは役に立っているってことだね」などというので。ほう!そうか!と。とかく、専業主婦歴長かったりすると誰かのためにほぼ時間を使っていたりするのに、誰からも感謝されず給与もないわけで、役に立っているなんて誰かが言ってくれなければ自覚もできないようなキーワードだったかもしれない。家の中のやるべき仕事もそうだけれど誰かがやらないといけない「業務」が職場にはあってそれを任されているということは役に立っているのかもしれません。そういう場を与えられてありがたや。と思いながら今日は出勤しました。***また、もやもやがぶり返してきたので整理しておこうと思うことがあります。11月の終わりころに、ちょっとした失敗をして(これは業務や職場は無関係)かなり落ち込んだ件がありました。自分の気の利かなさで、少しばかり?ある人を不快にさせてしまった出来事だったのですがとてもショックで、後悔がとまらなかったのです。自分はダメだと思いすぎて、そういう思考の上で、職場などでも誰かに対して批判的になるなんて視点を持てなくなってしまいました。(少なくとも数日は)人は失敗をするし(そんなつもりはなくても)誰かを不快にもさせる(わざとじゃなくても)そんなことがあるわけで、自分の非を棚に上げることができなかったのです。それまで周囲に対して不満が爆発していた私ですがなんのなんの、あなた自分でやっていることはなんなんですかとなると爆発の火も鎮火せざるをえないような感じではありました。誰かの非を咎める。みたいなことって、自分のことを棚に上げないとできないですよね。自分はなんなんだと。何かそう、突き付けられたような数日でした。おごった気持ちにブレーキがかかるような数日だったのですが一件を思い出すのはしんどいけれどあのときに思ったちょっと謙虚なような感情を忘れちゃいけないなと。自分に必要な失敗だったかもしれません。失敗で他人には寛容になれるのです。
2022.12.03
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これまで関わってきた人との関係の中で私に対して「攻撃的」な人、という人はいてわりと身近なところから当たりがきつい人が複数いたように思います。当然、そういう人に対しては「苦手意識」が生まれます。なぜ自分がそんな目に遭わないといけないのか、そんな扱いを受けるようなことを自分はやっているのだろうかとずいぶん悩んだこともあります。(進行形?かな)悩んだところでわかるはずもないことだとは思いますが。私の勝手な考えだけれど、誰かを攻撃する人は「脅威を感じているから」ではないでしょうか。「脅威」とは、「おびやかされること」。人は何によっておびやかされるのか。それは人によって違うのかもしれませんがおそらく誰かに出会い、この相手は攻撃しておかないといけないという「脅威」を感じた相手には攻撃をしかけるのかもしれません。(逆に脅威を感じなければ、攻撃をしかける必要はないのかもしれませんから)つまり、私に対して攻撃的だったり威圧的だったりする人というのはイコール私に対して何らかの「脅威」を感じている。ということになるのかもしれないという仮定を思いついたのです。私が近くにいることでおびやかされる「何か」がある。だから、「おびやかしてこないように」しておく(=攻撃する)ことが必要になるのかもしれません。***私が記憶している「私を攻撃してくる人」はいろんなポイントで私に脅威を感じていたのかもしれない。その人や内容については触れないので一般論を勝手に述べるみたいになってしまうけれど。経歴をくらべられるのではないか今の生活を比較されたり非難されるのではないか業務について指摘、非難されるのではないかそういうことを通して、自分に対して「不利益」になるかもしれないきっかけを作る相手だとしたら攻撃しておかないといけない。たたいておこう。と意識してもしなくても、おのずとブロックしたくなるものかもしれない。これまで自分が攻撃されたような格好になった対象の人はみんな何かしらそういう「脅威」によって、私とのかかわり方が決まっていったのかもしれない。その理由なと、説明することは当然できないし、しないからこちらとしては「はてな?」「理不尽」みたいな印象しかないのだけれど。逆に、脅威を感じなくなれば攻撃する必要がなくなるのだとしたら。攻撃された(と感じた)私は、単純にたたかれたり無視されたりしたことに対して自分に自信を失い、悲しくなってしまっていました。それでも性分的に理不尽なことにそのまま折れることをしたくないのでなぜそういう目に遭うのか追いかけてしまうし、突っ込んだりもする。(反撃か?)徹底的に応戦してしまうこともありますが。だからといって、関係性が変わるわけでもなく、離れて行って接点がなくなる、みたいな結果になることが多かったかも。どうしたらよかったのか、はわからないけれど応戦しなければよかったのかな。相手は自分に脅威を感じるからそうなっているんだよ、これ以上おびやかさないように最低限、やるべきことをやってそっとしておこう。ということができれば、何か変わっただろうか。過ぎたことについてはもうなすすべがないけれどもし進行形のことがあるのだとしたら自分の心にそうつぶやいてなにかされようとしても、最低限の気持ちだとか何かをしっかりつたえて時を待つ、のも必要なのかなとか。応戦するつもりなどなく当たり前に業務をおこなったり暮らしたりしているだけで相手に脅威を与えているとしたらそれだけで攻撃してこられるとしたらそれはどうしたらいいのかな。必要以上に自己卑下することもなく自分の能力を低く見積もる必要もなくステップアップをしてそれを祝福してくれないような人だらけの場所からはそっと離れることが もしかしたら幸せなのかな。自分に焦点を当てる。 どこにだって居場所はあるような気がしてきた。今のココに執着する必要は必ずしもない。今、この瞬間に変わらないものなど何もないのだから。諸行無常。
2022.11.30
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身近に、自分が苦手とする人がいるときの話。近年わりと自分もご多分にもれずそういうことがあるように思いますが誰でもそうかな。他人であったり家族であったり、対象はいろいろかもしれない。苦手とする人またはある人にまつわり過去になにか気になることがあって苦手だなあと思ったりその人のすることや存在自体がいちいち気になったりすることってないですか。気になりだすと、暴走するといいますか。(笑)アレルギー?に近いような、顔を合わせるのが苦痛に思ったり。どんどんきつくなるわけですが。***少し話はずれるかもしれませんが最近、職場の人の家族が体調不良になったため、職場の人も休まざるをえなくなったようでした。その職場の人は日ごろから忙しい人で1週間も休んだらいろいろ業務が滞るだろうななどと勝手におもっていたりしましたが声をかけるとしたら「(ご家族が)早く良くなるといいですね」という一言。ご本人が体調不良だとしたら、ご本人に対しても同じ言葉をかけたいはずです。ところで、先の「苦手に思う人」がもし体調不良だったら、私は「回復しなければいいのに」と思うだろうか。体調不良になって「ざまあみろ」と思うだろうか。(これまた酷い言葉!)答えはノー、かも。今の自分はたとえ、苦手と思う人が相手でも「早く良くなったらいいな」と思うし、その逆を望むようなことはない、とは思う。仕事が忙しかったり、仕事ができる人、優秀な人「だから」「早く回復したらいいのに」と思うわけじゃないなあと。その人に対してどういう感情があるからその人がひどい目に遭えばいいとは思わないなあ、だからどういう人であろうとその人の幸せを願うとしたら誰かを憎んだり嫌ったりするのもなんかいいことはないような気がして。ちょっとまとまらないけれど。過去にされたこととか、今されていることとかそのことに対して、ノーと言うのは大事なことだけれどなんというかもしかしたらこだわっているのは自分自身なのかな、と思うこともある。という覚書みたいな日記でした。
2022.11.30
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いつもお世話になっている美容室ですが化粧室をお借りするといつも、すっきりきれいでこうしてきれいに(清潔に)保っているコツなどあるんだろうか?などと毎回思うのです。なにをもってきれい、と定義するのか?そこからかもしれないけれどゴミや汚れがないのは当たり前で使った人が清潔、を感じられるということ。やはり美容室というと、自分の体の一部を切ってもらったり触られるわけで、そうすると場の清潔感って大事だなと感じる。不衛生な場でそういうことをされたくないし、なんとなく不安を感じてしまいがちだけれど化粧室が清潔だというのは結構、大事な要素かもしれないですね。居心地のよさ、みたいなものを幾たびに感じるお店。気が付く人がいる、ということだろうか。
2022.10.30
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子どもが成人したあとというのは、またそれで親同士の会話で子どもの近況を報告したりすることがあるでしょう。どこかで行き会ったときとか、年賀状だとか。義務教育までは〇年生になりました、くらいのことがだんだん、〇〇部で活躍していますとか△△大学に入りましたとかいろんなパターンになっていきます。どうも、「立派な」進路というのがあるのか?それが、有名大学への進学だったりそうそうに結婚して自立しているということとか医者になりました、みたいなことも。誰がどう思う、というようなことなのかわかりませんが世間一般に「おお、りっぱにやっていますね」と言われるようなことを望む親が多いのかもしれない。何をもって立派なのか?(生きてるだけで立派だと思うけれど?)世間一般に人がうらやみそうな 子の人生でももしかしたら親がこうなってほしい、を先に察して実現したっていうことはないんだろうか?などとふと思ってしまったのでした。
2022.09.23
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一か月ほど前に、我が家の家族が一人暮らしをするということで引っ越しをしました。わけあって実家にいた人が 別のところに居を構えて暮らすということについて何が円満なのか 幸せなのかみたいなことが気にならなくもないわけですが。今回は、何となく会話のやり取りから親の立場から子の立場へ「自立すべき」という意思が伝わることとなりその結果、出ていくみたいなことになってそれでよかったのかどうか みたいなことを数日前にグツグツと思ってしまっていた自分がいたのですが今日、ふとした瞬間に、こういうグツグツは傲慢だなと思ったのです。親元にいれば もしかしたらバランスのとれた食事をすることができて多少は健康的な日々を送ることができるのかもしれないのに金銭的な自由度も低い人が一人暮らしになれば健康を損ねるのではないか というような心配からくる「後悔」は傲慢だなとかつて自分が相手に自立を求めたのは何だったのか当時それを相手の幸せに必要なことだと思ったからそういう意思を自分が持ち、伝え方の是非はあるとは思うけれどそれが自分の本音だったわけだしそれに応える形で生活を決めた人がいるのならそれを尊重するべきだと今日はふと思ったのです。ひとつ前の投稿「心配」と同列な気もしている「後悔」 これも実はとても傲慢で自己憐憫に浸った感情ではないかなと気づいた次第でそれはなぜかというと自分の中でぐるぐると考えるそういった思考のなかに欠如しているものがあってそれは「相手本人の気持ち」ではないかと。「こうしてほしいと思っているはず」と決めつけることとか「あのときこうしておけばよかった」と出来もしない(出来もしなかったし今後もきっと出来もしないであろう)ことに浸ることの意味のなさ。これも依存だし後悔に浸っている間は、ああでもないこうでもないとどっちつかずでいつか自分が誰からか肯定されて、オールOKの評価をもらえそうな後悔している姿勢がさも 謙虚で美しいかのような錯覚を持っているのだろうと思うのですが 果たして本当にそうだろうか。決めたことや行動したことに責任を持っていない。それが後悔なんだと思うのです。仮に自分の言動が軽率だったとして、他人に対して申し訳ないと本当に思うのであれば それに相応しい行動を起こせばいいだけであって中途半端な「後悔」などではなく申し訳ないと本気で思うわけでもなくでもどこか誰かに責められているような後ろ暗い感覚もあるから「後悔」みたいな言葉を引っ張り出して 何とか許してもらおうとしているのか傲慢な感じがしてしまった。人と人との関わりあいに 正しいという答えなんかなくてぶつかった瞬間があるのならそれがリアルであり誤解だの勢いだの言っても その出来事がまぎれもない事実だったわけでそのことをきちんと自分で引き受けているのか ということ。自分の感情を表現すると 押し付けるとか言われてマイナスな評価をされがちだけど人の本音なんて 隠してもいつか伝わるもので黙っていても態度なり 何かしらで伝わるから 隠すことなんてできないだろうただ誠実に「こう思っている」を率直に表したときに相手が受け取れなかったりすることは 当たり前にあることで双方が必ず同意しないといけないとか 分かり合えなければいけない なんてことは不可能なことがほとんどではないだろうか人はみんな 違う人間なのだからほんの少しの接点で 苦楽を分かち合う時間があったとしても毎日の生活の中で 多くを共感し同意しながら暮らすなんてことは奇跡に近いことなのかもしれないしだからたまに会ったときに 最低限 相手を傷つけたりしないような態度が取れれば200点なのかもしれない。だから「あのとき私がこうしていれば(相手を不快にしなかった)」みたいな言い訳くさい「後悔」みたいなことって 本当にいちいち思うだけで不毛だしそれをぐるぐる自分の中でリピートして「自分はだめだった」みたいなことを自分の脳みそに上書きするなんて 本当にしょうもない、何も生まないどころか害悪しかないのかもしれない、と気づいたのでした。
2022.09.09
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「心配する」というワードは、基本的にはマイナスな意味には取られないことが多いのかもしれない。誰かの何かに思いを寄せ、「大丈夫かな」と「心配する」というとそれはなんだか立派な行為に思えてくる。それが、仮に立派な、思いやりにあふれる、素敵な行為だ。という前提があるとするならなおのことだと思うけれど人は「心配する行為」に依存するのではないだろうか。家族の何かを心配する、とする。我が子の何かを心配する、なんてことは親ならよくあることかもしれない。だが心配された人の感情に焦点をあてると必ずしもうれしいことではなかったりするようだ。「心配」は「不安」と隣り合わせな感情でもある気がする。「不安」だから「心配」するのだとしたら心配は不安に裏打ちされており、心配される人は心配する人の不安により心配をされている、ということになる。相手に不安を持たせているのでは?という感情が一瞬、沸き起こる。ではなぜ相手が不安になるのか?自分が相手を不安にさせる要素を持っているからか?だから不安になった相手は自分を心配するのだろう。そういうロジックが成り立つ なら心配されるということは、自分が誰かに不安を与えているということになり必ずしもそれ自体、喜ばしいと思えないことかもしれない。ところで心配する側はどうだろう。心配は、人を思う思いやりの心、みたいな意味だと思っている人も多いだろう。優しいから心配してあげる。いつも気にかけている優しい人の権化か。心配しているという行為が相手に対する優しさと同義と思っているなら心配している間、その本人は優しい人でいられるのかもしれない。心配するだけで、優しい人になれるんだとしたら。そんな手っ取り早いことってあるだろうか。心配するということは感情なら自然に湧いてくるから抑えることはできないだろうけどそれを表現するとなると 意味が違ってくるのかもしれない。心配を人に伝えるということは「私は心配してあげている優しい人」アピールになりともすると心配された側は先ほどのロジックにより「人を不安にさせている張本人」になるわけで心配されたからと何かが1ミリでも変わるのかと言われたらそんなことはない。のだとしたら。心配する行為というのは 困っている人を気にかける優しい人になったような気になる、陶酔みたいなのに近いものかもしれないし心配しているということを伝えるのは 場合によってはあなたが私を不安にさせている みたいなメッセージにもなりかねないのかもしれない。軽い気持ちで発する「心配」は発する人が不安から逃れるための、逃げ場みたいなものなのかもしれない。
2022.09.09
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ほんの少し、視野を広く(時間軸で長く?)みることができたのだろうか。人とのかかわりでもやもやすること。業務上にかかわる様々なものごとと、それに関わる自分にも関わる もろもろ… 「あの人さえこうなら(もっとよくなるのに)」というような考え方が不毛なのはわかっているつもりです。他人を変えるなんて不可能なのだから。他人が自分の都合よく変わるわけなどないのだから。***昨日も、他人に焦点をあててその人との関わりの中で 自分にもたらされる「不利益」みたいなことを思い浮かべて憂鬱になったり 気が重くなったりしたのでした。そのループにはまると なかなか抜け出せなくなり「他人は変えられない」ことはわかっているはずなのに「なぜあの人は 〇〇なことをするのか納得いかない」みたいなことが頭の中をぐるぐると回って それにとらわれてつまりマインドワンダリング?みたいになっている自分がいてそれは 今朝まで続いていたように思うのですがふと、朝の瞬間にそれが解けたような気がしたなんの拍子かわからないけれど…***人間関係が気になってしまう Aさんとのこと。BさんとのことAさんのこういうところがいやだし、また嫌なこと言われたらどうしようBさんにはもっとこういうこともやってほしいのに やってくれないのは不満そんなことをぐるぐる考えていた前日の思考が ガラッとかわったような今朝になって仕事上の関係で まあまあ近いところにいる人たちとのかかわりだったり距離感もあるのだろうけれどアラが目に付いたり 気に入らないところがクローズアップされる。(実際そんなのは お互い様なはずなんですけれど (笑))私はいったい 何を目指しているのか「ほかに代わりはいる」というキーワードから、すっとそれが自分に該当すると気づく。そう、自分の代わりになる人なんて 他にいるのだ。※業務に限って言うと私が辞めることがあっても ここは続いていくはずだしほかの誰が業務を引き継いでいくのだ。(それは地球上に生まれた生き物みんなにいえるようなことと同じこと)今いる「ココ」は 通過点でしかないのだそのごく一部の部分に たまたま自分がいるにすぎないのだ永遠などない 諸行無常 それもまた過ぎ去る自分が「一所」にこだわり さも永遠にそこに居続けられるような勘違いが今の場所への不満を生み出すのかもしれない身近にいるあの人は なぜ私に対して〇〇しないのか。××でないのか狭いところに執着してしまう それは私がずっと永遠にここにいて もしかしたら 影響力を及ぼし続けたり珍重されたりしつづけるという大きな考え違いなのだいまここにいるのは ほんの少しのあいだ 居させてもらっているのだ関わっている人は 袖すりあうも 多生の縁なのかとにかく稀有な縁あって 接点をもらっているだけなのかもしれないし奇跡 かもしれないそして いつ どの瞬間に 会えなくなってしまうかもしれないのだろう永遠に 会い続けられる保証など どこにもないのだから次の瞬間から もう 二度と会えなくなるかもしれないそうおもったら その口から文句や 相手に対する誹りが出るだろうか必要なことは言うけれどねでも 争ったり 相手が自分の意のままでないということについて不満を述べて 攻撃するようなことを するのだろうか したいのだろうかそのくらい 我慢ならないということだろうかいや その瞬間の積み重ねが ひとすじの線になって歩く軌跡になるのだとしたら その瞬間を扱う気持ちが変わるのかもしれないいやな目に遭ったかもしれない 過去だけど「他人と 過去は変えられない」 から変えようと思うことが不毛だからそんな些末なこと どうでもいいんじゃない?本題はここからたとえば職場なら 私はここで 何がしたいのかということだAさん Bさんを 思い通りに動かしたいのかもしそうだとしたらそれはなぜか自分の力を 指し示したいだけなのではないだろうかお客様がこられる場所で そんなことは実に どうでもよくてそういうもめごと自体が 何のためにもならなくて 不毛で解決にもつながらなくて 消耗するだけでだったら 自分が目指してるものを 遠くに見てみてそしたら そこへ行くのに 行くために必要なことが見えてくるはずでその未来に 完了を設定するなら 今何をするのかが 少しは見えてくるのかもしれないそう思ったら今自分がすることって 他人に焦点を当ててあらさがしをすることじゃないその人たちの力を借りて 自分の目標に近づけるにはどうするのが最適解なのかを考えたら細かなことへの執着など どうでもいいことのように思えてきたただ単純に面白くないとか 不愉快とか人間だからあるし そういう感情をぞんざいに扱っていいということではない けれどそんなことは誰にでもある という前提でそのうえで 自分は何かを目指すのか 目指しているのか 目指したいのかそれは何で 大切にしたいことが何で何は捨てられないのか 何のためなら 何を手放せるのかそこにちょっと焦点を当てたら案外、身近なもめごとなんて どうでもいいことになっていくのかもしれない***自分の見栄とか プライドとか いいところを見せたいとか 評価されたいとかそういう 報酬系にちかいところもものが 喉から手が出るほどほしい自分ですがもう少し 遠くを見てみたらそういうのがちょっと あほらしくなったというか遠くの到達点を見ようとしている 自分がいたのでみんな通過点なんだその一つの通過点 私と少しでも接点あった人が何を思って 何を心に残すだろうかっこいい私を残してほしいとかじゃなくて自分はどうありたいんだろうなんかすこし 正直な自分でいることが誰かにとっても誠実なのかもしれないとそれが一番だいじなのかな みたいなことを思って書き散らしました
2022.08.29
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今日、ブログのアクセス数が200,000アップしました!ごらんくださっている方、ありがとうございます☆スタートしたのが2005年のようです←17年かかって200,000アクセスが多いのか少ないのかわかりませんが、これからも思いついたときにふと記録していきたいと思います。***今日は、お盆ということもあってお墓参りに行きました。その帰りに、城址公園へ。冷たいお菓子とお抹茶をおいしくいただきました。畳をかえたばかりなのか、お部屋はいい匂いがして部屋からお庭を眺めることができていい空間でした。実はここの公園に植わっている椿の木は、夫の祖父が育てたもので時期になると花を見せてくれます。夕方には、今週になってから予約を入れて(変更して)もらった美容室に行きました。明日からお店がお盆休みなので、ということもあってカラーリングしてもらいました。こちらのお店のヘッドスパにはいつも癒されています。今日はほかのお客様と予約が重なったということで、ヘッドスパのマッサージシャンプーは担当の方とは違うスタッフにやってもらうことになったのですが…おそらくアシスタント?のスタッフの方ですがその方も一生懸命やってくださって感謝しているけれど私はやっぱりいつものスタイリストさんにお願いしたかったです。(わかっていたならオーダーを決めるときに教えてほしかったなあ…。)というのはワガママなのかなー?(ちょっと愚痴っちゃいました)明日からまた勤務です。やっぱり、人に見られる場所に立っているので多少は見た目を構いたいなあと…今は思っていますけれどね。
2022.08.14
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「勉強しなさい」は、親が子どもに言いがちなキーワードですね。夏休みなど遊んでばかりいるように見えるわが子を見てこのままで大丈夫なんだろうか?と思うようなそして親の側の多くが経験していそうなことといえば「勉強しなさいといってするようなら誰も苦労しない」というようなことではないでしょうか。確かに…なぜ、勉強しなさい、と言ったところで勉強しないのか?何となくわかったような気がするので今日は書いておこうかと思いました。***そうきっと子どもは親を試しているのでしょう。勉強しなさい、と言われてすんなり その通りにしてしまったら親は安心して、もうそのキーワードを使わなくなるのかもしれません。(もしくはもっと高い要求を出してくる?(笑))つまりやりなさいと言ったことを「やらない」間はずっと 親はやらない自分に関心を持ち 監視(?)し続けるでしょう。もし自分のことをずっと見てほしいという欲求が子どもの中に顕在的にか潜在的にかわかりませんが あったと仮定するなら勉強しなさい、と言われて それをやってしまったら親は安心してしまってこちらを向いてくれなくなるかもしれない。そのため子どもは、親の言う「勉強しなさい」には対応してはいけないと学習するのではないでしょうか。***もしかしたらこれは学生時代に限らないことなのかもしれませんがなんというのか他人を操縦する術とでもいうのかいうことを聞いてしまったら終わりみたいな感覚がある人も居そうな気がしてならないです。親が子に期待することなら 勉強以外のことも当てはまるのかもしれない。ポイントは「こうなってほしい」と思うこと。親側が、とにかく執着する事柄。それが、コントロールの道具になりうる。その「道具」をつかえばもしかしたら 自分の欲求をかなえるべく親を利用できるかもしれないのだから。親が何を望んでいるのか。それを知られたら、コントロールゲームに利用される可能性があると思っていたほうがいいのかもしれません。
2022.08.12
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続けていたり関わっていた「何か」を辞めるきっかけ。よくありがちな「人間関係」。嫌いな人がいる。苦手な人がいる。ありがちな気がします。合わない何かがあるのかもしれない。人それぞれ、そんなことはよくある。理屈なんかなくて。なんとなく、とか。生理的に、とか。人との関わりの中で当たり前にある気がします。ただ、その人と人との距離感が保てるなら「がまんできなくはない」というかすべてを受け容れるなんてことはできないだろうし(そもそも、すべてを受け容れる必要なんてないのかもしれない)だったら、共存するためにどうするか?を考えるのでしょう。だけれどどうにも、その距離感が保てなくなりそうなとき。または瞬間でも接触したくないくらい、嫌悪感や苦痛が増したときなどはどちらかがその場を離れる。ということになるのかもしれません。***ある人と一緒に何かをやっていて、とても嫌な思いをした。それがきっかけで、もうこの場に来るのは嫌だ、と決めた人がいるとして。Aさんとまた会いたくないから。というのが、原因の一つであるかもしれないけれど、もしかしたら原因はそれだけではないかもしれない。ずっと前から、なんかその場やその場で何かすることのなかに気に入らないことがあった。不満があった。としてそれでも、さっさとそこを去るほどの理由がなかったのかもしれない。ほかの人がからんでいたりすると、辞めづらい、みたいなこともあるかも。で、ふっと決定的に嫌な出来事が起こったら。ああ、もう辞めるわ。ってなるのかもしれない。嫌な出来事に居合わせた「あの人のせい」だよね?と辞める本人もその周囲の人も思うかもしれないけれど、本当にそうだろうか?***別に、人が一人、腹をくくって何かを決める、ということについて周囲がとやかく言う必要はないのかもしれない。あの人のあれがなければ。続けられたのかもしれない、けれど。それを押してもやりたい動機がなかっただけ、なのかもしれない。そもそも、嫌だったんだよね。とか。…本人にしかわからないのだろうけど。***過去に、私が関わった団体でおそらく私の運営方法がまずくて辞めたんだろうな、という人がいました。確かにこれは不信を持たれてもやむを得ないだろうというようなこともあり。けれどそれは、その人を貶めようと思ったわけでもなんでもなくその会合にもっと出てきてほしい、出るきっかけを持ってほしいと周囲の役員と話し合って決めたことではありました。ちょっとした行き違いがありました。そのやり方がそもそも、当人には嫌なものに映ってしまったんだと思います。いくらこちらが「良かれと思って」といったところで当人にとっては「それはこっちの問題。余計なお世話」なのかもしれないわけで。そこで「周りがこんなに気を使ってるのに」みたいなことを思ったり言ったりしたところで余計なお世話、不快で迷惑でしかない。ということなんてこの世の中、ごまんとあるのでしょう。そのとき私は、たとえ悪気はなくても不快な思いをさせたのが申し訳なかった、と思い謝るしかできなかったし、会うこともなくなった今でもとても後味悪い、悲しさもありますがそれも、私の至らなさのせいだけれど…ただ、気持ちを伝えるしかできなかったけれど。去るのも去る人が決めたこと。そしてそこに居続けるのがいい、ととかく思いがちだけれどそれが幸せかどうかは、当の本人が決めることでありそのきっかけがよかったか悪かったかなんて周囲が思いをはせたところでどうしようもない。個人の問題になってしまうのではないかとも思うのです。
2022.05.25
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自分以外の誰かに対して、こうなってほしい、ああなってほしい、と思うことがあります。それが身近な家族などの場合、その相手が困らないために、こうしたらというアドバイスとセットだったりしてそれをそのとおりにしない、となると心配して助言してるのに、となる。でもここで、人が思う通りに動かないことでのもやもや、の正体はなんだろう。自分の助言を聞き入れられないことで↓自分を大切に扱われなかった相手を思いやって一生懸命の自分を蔑ろにされた自分の助言のとおりにしない相手がそのせいで失敗したり不幸になるかもしれない(不安)みたいな気持ちに発展してしまうからかもしれない。不安、につながると、それは恐怖でもあり自分を脅かすものになるからにわかに、受け入れがたいものになってしまう。それがもやもやの正体のような気がします。実際は私の思うようにしないからといって相手が不幸になる保証(?)などないし自分の言うとおりにした人が幸せになる保証だってないわけででもこれが誰かの幸せに直結するという自分の思い込みに自分自身が支配されているのかもしれない。家族以外にも、そう思う人がいたりして人間関係の中で、もやもやを生んでしまう。自分と誰かは別の人格をもつ他人でありその境界は守られるべきもの、のはず。私がふと誰かに、「あなたはこうあるべき」を期待されたときにどう思うのか。期待に沿えるよう生きるべきなのか現実問題として、果たしてそのように生きられるのかを考えれば、答えが見えるようにも思うのです。
2022.04.17
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最近、自分をぞんざいに扱われた、と感じる場面がありました。まず腹が立って、悲しくなりました。なぜだろうと、理由を何度も考えた。でも理由なんか、本人じゃなきゃわからないし本人にだってわからないかもしれない。とにかくあのとき、そうしないとならない理由があったことには変わりない。サービスにまつわることで、信用していた人だったので、ショックではありましたが…もしかしたら。自分を気のおけない人として、甘えていたのかな。と思ったり。手がなくてどうしようもなかったからとか。自動的に脳内変換しました。本当は気のおけない人と認識して、だったとしても、説明が必要だったとは思うのですが。そうしなきゃいられない理由があったのだ、につきる。そこからそれを受け容れるか拒否するのはこちらの問題、だったりします。何度かしら会ったり話したりする人についてだんだん、その人のことがわかったような気になりますが一体、何を知っているというのか。それぞれのポジションでどう関わるのかそもそも、関わり続けるのかどうかみたいなことを決めるのは自分。甘え、を親密さと捉えて許容できるのか。
2022.04.10
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社交辞令が苦手です。社交辞令とは… 人と人との関わりがうまくいくためのちょっとした「あいさつ」のようなもの、でしょうか。「今度、お茶しようね」「また会おうね」知り合いと交わすならこんなフレーズが多いでしょうか。上記のような言い回しだと、ほんとに、挨拶という認識もしやすいのですがこれが「(来月くらい○○で)お茶しようね」「(今年中には)会おうね」「また連絡して」みたいな、具体的な時間や場所が加わってくると単純な挨拶代わりのことば、と思いづらくなる私です。「連絡して」と言われたら「連絡しなきゃ」ってなる…社交辞令が通じない人間なのかもしれません。***ところで、私が社交辞令に遭遇する場所の一つにそれを言う方が、ビジネスのシーンにいるわかりやすく言うと、こちらがお客(Bでのお客ではなくcustomerとしてのお客)の場合。サービスとして接客してもらっている中で会話がサービス内容に入っているような場面だとその人が話すことが全て、本当かどうかなんてわからないなと思うことがあります。私がこれが好き、と言ったらそのタイミングでサービス提供している人が「私も好きです」と返す。それが、本当なのか嘘なのかは大した話ではないのかもしれない。(サービス提供する方の目的は、お客様に気分良く過ごしてもらうことだから)言い方は悪いけど、多少の嘘くらいつくのかもしれない。(本当は嫌いでも好きってとりあえず言っておく)その話術は、ビジネス上の道具みたいなものでその世間話レベルのことの真偽はどうだっていいのかもしれない。ですが…それを真に受ける人がいるのです。(私)***私が変なのかもしれませんがそこで聞いた、その人の「好き」を覚えていて次回会うときに、好きといった「それ」をプレゼントしたくなったりしてしまう。これもかなり飛躍しているとは思うのですが、私の認識とリアルとの誤差みたいなもの…ポイントは・その人は本当にそれが好きかどうかわからない、嫌いかもしれない←理解できない(好きといった一言に嘘があるという発想がそもそもない)・好きなものなら、差し上げたら喜ぶだろう(くどいけど、本当に好きかどうかわからない!し、あなたからもらいたいとかは思わない!?)そこがなんとなく、現実とズレていないか?と思うことがあるのです。【勝手にまとめ】(?)・人は、仕事上の会話などでツールとしての「会話」をする場合があること。・潤滑なコミュニケーションのための道具なので、その内容が本当か嘘かはわからないし、どちらか?という部分はさほど重要ではない。ビジネスツールとしての「社交辞令」はそれを使う目的が、ビジネスでの成果を上げるところにあるのでしょう。自分がお客様の立場で、その会話の中でサービス提供者の話す世間話の中にリアルの事実と異なる提供者の感情、意思表示などがあったとしてもそれによって、お客様に満足感(ここでは、気分良くサービスを受けて帰ること)が叶うのなら、必要な道具である場合がある。そして、仮にお客様がなにかの機会に「嘘じゃん」と思うことがあったとしても。それによって利益を得ている(つまりビジネス上で)側の事情があるならつまりそれによって、営業が成り立つ部分があるのだとしたら焦点はそこで真偽のほどは、付随的なものであるということ。【オマケ】…たまに私のように、その嘘かホントかに焦点をあててしまうような人はその部分で納得がいくとかいかないとか相手が信用できるとかできないとかそこに繋がってリピートに繋がらない可能性もある気もする。…これは少数派なんだろうか…あなたは何一つ、人に合わせた嘘の一つもつく必要のない仕事をしているのか?仮にそう聞かれたら。そうです、というのだろうか。
2022.04.08
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「自分にしかできない仕事」を持っている人がもしかしたらいるのかもしれないけれど(いきなりタイトルと真逆なことを言い出す!(笑))でもその考えは、今の私にとっては不要、という話です。***人は唯一無二だから尊い、という反面、あることが自分にしかできない、という考え方が最終的に自分や周囲の足を引っ張ることがあると思います。それとこれとは別。「あなたでなければ」と言われることの心地よさみたいなのってあってそれは私が承認欲求が強い人間だからでしょうか。多少、だれでもあるんじゃないかと思いますが、そういう感情は。でも、こと職場などにおいては、そんな考えが「浅はか」な場合もあると気づいた昨日です。業務に対して、うっすらと「私だからこそ」という感情になりそうになりそれが人に対して、態度に現れそうになった日に数年前に書いたブログが読まれた通知がきて、まさに今の私に必要なメッセージがたくさんでびっくりしました。(ここで自分に助けられるか!)あらためて心がけたいことを昨日、熱いカフェラテを一気飲みしながら(!)メモしたので残しておきたいです。(またこれが私を助けてくれますように(?))***承認欲求強めの自分、という前提で。【これからの自分へのメッセージ】・一人で仕事を抱え込まない。(自分だけしかできない≠仕事ができる人)・まちがいがあれば認め、必要があれば素直に助けを求める。(まちがいを隠そうとしたり、自分ひとりで対応しようとすると被害を大きくすることもある)・人の悪口を軽率に口にしない。本人に言えないことを陰で言わない。(悪口は自分に返ってくる。他人と他人への人間関係にも影響する場合があると心得る)・困っていることがあれば、困っている「内容」にスポットを当てて考える、話す、相談する。(他人の人格否定をしないようにする)・誰かに頼んだり頼ることは、その相手を信頼することである。(信頼して頼む、お願いする、はその相手を「信頼し得る人」として関わることであり、その相手をエンパワメントすることにもつながる)・人はミスをするものであり、間違う生き物であることを忘れない。(完全な人間などいない)・プライベートは仕事と切り替える。(プライベートの充実こそ、仕事できる人に直結すると心得るべし。)*おまけ*・人の話を最後まで聞く・静かに丁寧に話す・ありがとうという言葉を添える・激高しそうになったらその場を離れる基本的に業務は、自分以外の人とともに行うもので「自分だけしかできない業務をつくらない」最終的には、自分がいなくても回る職場が理想。あ、今日は一粒万倍日で、寅の日だとか。いいことがあるといいですね。
2022.03.26
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失敗が大事だと思う理由の一つに弱みがある人の気持ちや立場を忘れてしまうからということがあるように思います。人と人は別に、点数つけあって生きているわけでもないしそれでもどうしても「序列」みたいなものはできてしまいがちでだからといって、その「序列」どおりに人の価値が決まるわけでも決してないはずなのですがなんとなく序列の順に、誰かが誰かより偉かったり、価値があったり、みたいに見えてしまうこともある気がします。***たとえば今の自分の生活が順調そうに見える人からはそうでなさそうな人に対して、優越感を感じるのかもしれない。持っているもの、持っていないものは人それぞれで持っていればいいというわけでもないだろうけれど、なんとなく持っている人のほうが「豊か」でいいような感じもしてしまいます。ある側面で何かを持っている人が持っていない(とおもわれる)人にちょっと上からものを言ったり、「世の常識とは」みたいなことを言ってしまいがちなのかもしれない。それは、「(持っている)私は(持っていない)相手にこれを言ってもいい」というような、言う側の理屈に基づいてものを言っているようにも思える。(それが本当にそうかどうかは別として)誰かに対して何を言うのか何を言ってもいいのかというのは、都度、言う人が判断していることだろうとは思うのですがちょっとした優越感から、もしかしたらほかの人には言わないかもしれないことを言ってはいないだろうか。ということを、時々思い返したい、と思うことがありました。職に就いていない人に対して、「働きなよ」というのは「今の瞬間は」職に就いている自分が、簡単に口にしてしまうけれど(それも、そういってあげるのが相手のためという理屈に基づいていたりする)果たして、それを相手に言うかどうかについてそうすべきかどうかについては、答えがあるようでないような気もします。相手のため、という理由があれば人はなんでも、相手にできてしまうのではないだろうか。それが本当に相手のためかどうか、は置いておいたとしても。私が、人に対する不満をもらしたとき、身近な家族がいいました。「誰しも、足らないところを持っているんだから、あの人はどう、と言わないほうがいいこともあるよ」そうかもしれない、と思いました。自分のほうが「上」と思えば、失礼なことや攻撃的なことを口にしてしまうことが普通にあるように思えたのでそれが当たり前にならないように。そんなことを思った日でした。
2022.03.18
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美容室。わりと。気に入ると長く同じところに通う方だと思います。けれど、いつかは他へいこう、という瞬間がくるもの。そうなると、次が決まるまでジプシー率高めかも。(笑)通いたくなるのはやはり、自分の好き、をわかってくれて施術に生かしてくれる美容師さんがいるところ。美容師さんの好みと、自分のオーダーと微妙にずれて、なんか違う、と思うところに基本的にリピはないです。自分にはどんな髪型が似合うのかおばさんでもおばさんぽくなりたくない。そんな微妙なニュアンスをくみとってくれたら通いたくなります。あと、私がもう来ないな、と思う瞬間は「歓迎されなくなったな」と感じたときにリピートしなくなる傾向がある気がします。初めは出迎えてくれて、待っててくれたのが分かるとなんか嬉しかったけれど、そのうち玄関から入っても声もかけてくれなくなったとか。(わかりやすい)予約しているにも関わらず、席が空いていないと言われたりすると、たまたま混んでいただけだとは思うけど少し後回しにされた感じなどあると、なんかな、と。でもきっとそれはお店の側ももう続けてきてくれているお客さんに対する甘えみたいなものなんだろうか、とか。ちょっと待たせても、わかってくれるみたいな悪く言えば緊張感がなくなっているということなのか。安心されてるとしたら、それを喜んでいいのかどうか。あとは、なんか会話がつまらなくなってくる瞬間。ないですか?なぜだろう。なにかの瞬間に、ああ、別のところへ行きたいなという気持ちが降りてきたら。お客であるこちら側の期待なんかもあるとは思うのですが。常連なんだから、こういう扱いしてほしい的な図々しさみたいなのが過剰な期待になってしまうこともちょっとあるかもしれない。そのあたりのズレ、みたいなの。お互いに馴れ合いみたいになる、メリット、デメリットどちらもありますよね。さて、いつまで通い続けるか。
2022.02.23
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ここ2年くらい、不安に囲まれて生活している人がほとんどだろうと思います。不安になると、突発的になにかしなくては、というさらなる不安にかられたりすることもあって。なんか、失敗して落ち込んでいます。突発的に予約してでかけた先での失敗。あの日そこにいかなければ…それもその予約も、夜遅くに連絡したりして。本当の急用でもないのに、突発的に動くのは良くないなと思った出来事でした。まだショックから立ち直っていないのです。でもなんの言い訳もできない。平常心、大事です。
2022.01.31
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新年あけましておめでとうございます。ブログの更新も久しぶり。今日は仕事はじめでした。人と関わるから、会話などのやりとりから自分の姿が見えたりする。昨年から気づいたことを年始に記しておこうと思います。***私は承認欲求が強めな自覚があるからだと思うのですが「自分の手柄」に「どや顔」するようなところがある。または日ごろの生活の中での言動や出来事などについても、誰かの前でつい「自慢してしまう」みたいなことがあったりします。これはあからさまに自慢しているというよりは自分の言動の端々に、自慢していたりどや顔していたりという「態度」が見て取れるという意味です。相手が、その片鱗を感じてしまうというか。知らず知らずのうちに、ちょっとしたやり取りの中でマウンティングとでもいいますか「私のほうが!」っていう何かを発している自分がいるのだと思います。それはちょっとしたLINEのやり取りや会話の中で無意識に表れている。別に、相手にマウント取りたいと意識しているわけでもないはずなのですがなんとなく、そういう表現を使っていたりするのでしょう。それを感じた人が「なに~???」って思ってしまう瞬間がきっとあってその対応は、大人同士だから直接「なに~~~???」とは言わないのですがきっとよくない印象を持たれたなと思う、何かを感じたりする。その自分の態度が本当に余計で、相手にとってはカチンとくる何かを発している、そのせいで業務だとか生活の中での人と人とのかかわりをギクシャクさせてしまう原因になっている。のではないか、と思ってしまう機会が何度かあったような気がして。自分のアクションに対して、相手が「さすが」とほめなくてはいけないような声かけや投稿などは、もしかしたら自分に利がないのかもしれない。(それでもSNSなどでは、人が素晴らしいといいたくなるような何かを投稿する人が多いしむしろそうしないといけないのではないかと思わせるような空気がなくはないのですが)そこでかわれた「反感」は自分にとっていいことがあるのだろうか。(炎上商法ならいいのかな?でもその代償は大きいでしょうね)別にいちいち人の顔色をうかがって発言しないといけないっていうのも息苦しかったりする。あまり気にせずストレートにものをいうような人のほうが、会話しやすいかもしれない。表裏がないというか。そういうのとは別に、私が相手の反応から感じた、「あ、今の一言よくなかったのかな」には、自分に心当たりがあるからだと思うのです。ちょっとしたイヤミとか皮肉とか、「ちょっと言ってやれ!」っていう感情で発した一言だったり「私ってすごいでしょ」っていう鼻にかけた態度だったり。ちょっと自慢したかったりすることってありますよねたまには。そういう一言、相手によっては素直に「すごーい」「テヘヘ」で済むんだろうとは思いますが例えば聞いた相手によっては「ふん、なにさ!」っていう受け取り方をされないとも限らない。どのポイントで相手の琴線に触っているのか、わからないことのほうが多いのかもしれませんがそれでもなんとなく、触ってしまうことがあるんだろうと思います。その一言が、相手を不快にさせるというよりは、それによって自分もいろんなことがやりづらくなる、というところにつながってしまうということを何となく感じることがあるのです。「いやらしい」という表現をしたりもしますが。確信犯で、わざと自慢したり「自分で言うのもなんですけど~~」って言っちゃうようなお茶目な会話なら、笑って終わりそうですけれどまじめに、承認を得ようとしている場面では(それがたとえ無意識だとしても)なんとなく、周囲の空気を凍らすようなこともある。空気が凍るというかなんというかなんとも自分が品のないことをしているなという、後味の悪さというのか。その心地悪さを最近感じて、いっそのことそう思うなら自分の心から漏れ出るあれこれでどや顔しないようにしたほうが最終的に自分にとってもいいんじゃないかということ。仕事がしやすくなるとかいうメリットを意識したい。
2022.01.02
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日々、できなかったことにばかり目を向けてしまいがちだけれど実は滞りなく、できたことのほうが多いんじゃないでしょうか?寝る前に、あれもできなかった、これが叶わなかった…という思いをもって布団に入ってしまいがちなのでいや、これがクリアしたよ、ってことを数えてみようか。1,朝おきてご飯食べて出勤できた。2,勤務時間、滞りなく勤務できた。3,食材の買い物に行けた。4,ご飯をつくって食事ができた。5,ラジオ体操した。6,事故なく通勤できた。7,湯船につかって風呂に入った。8,シャンプーして髪も乾かした。9,ちゃんと服薬した。10,パジャマを着て寝る支度ができた。当たり前のようで、もしかしたら当たり前ではないのかも?今日も一日、お疲れさまでした。
2021.09.27
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昨年から働いている勤務先。今年の3月から始まったガイドツアーのお手伝いが業務にあるのですが、昨日はガイドの方のレポートを拝見したり、お客様のサプライズを聞いたり。なんとも、温かい気持ちになりました。ガイドのKさんは、お客様をいつも笑顔にしているなあと横で見ています。なぜだろう?奇をてらって何かしているわけではない、どこか、お客様をリラックスさせる何かがあるのだろうなと感じながらなんなのか、私にはまだわかりません。笑誰かの幸せのお手伝いをする、というのはなかなか難しいのかもしれないけれどそれができたときは、なによりこちらの幸せになる。のかもしれませんよね。お客様が何を求めているのか?を知ろうとするのも大事だしわかったときにすぐ、それが実現するように働くのも大事…。***最近、業務で気を付けていることは「上司にただ質問を投げるだけにしない」ってことです。「〇〇がこうなのですが、△△にしてはどうかと思います、いかがでしょうか」となるべく提案できるよう、自分で考えるようにしていますが(そうはいっても基本的に質問が多いですが)何かと多忙な人にあれこれ、お願いするばかりではなく自分だったらどうするか、とかまずできるところまで自分で確認してから相談するようにしてますが明日もマスクしてても笑顔で、背筋のばしていきましょう。ご来場をお待ちしております。笑
2021.09.26
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自分の身のまわりの出来事を見聞きするにあたり、その善悪というより人は「自分の気に入ったようになっているかどうか」で判断していることが多いのかもしれません。身近な家族の生活や言動に対しても、何が正解か?というのが一概に言えない場合もある。結局、自分にとって好ましいか、好ましくないか、で決めてしまっているような気もします。対人関係、家族や職場の人に対して「こうしてほしい」がかなわない場合、自分の不満になるし、かなった場合は満足度が高くなるのかもしれませんが、それがどの基準において良いことなのか悪いことなのか。それは、実際にはどうなのかということ。自分にとっての都合、を誰だって基準に生きているけれど、それを人に強く求めすぎると、こちらの求めたものが手に入らないことで不満になるし、不満は自分にとって、負荷になったりもする。家族でも職場の人でもしょせん、自分とは別の人でありその人が何を選択してどう生きるのかは、その人の問題なので他人である自分の「好ましい」を持ち込んで腹を立てたり、自分の思うように動いてほしいなどと思ったところで、そうなるわけでもない。そこを切り離さないと、自分がしんどくなるばかりだ、ということもあるのかなと思う今日この頃です。
2021.08.16
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最近、ある人と話していて感じたことがありました。それは「自分は勉強が得意じゃなかったんで」「〇〇高校?頭いいですね」というような会話。私はその人の出身校(公立高校)を聞いて、特段な進学校というわけではないけれど決して本人が言うまで「勉強が苦手だったんだな」などとは思わなかった。むしろ、頭がいいわるいみたいなことって話していればわかることですし。頭悪いななんて感じることもありませんでした。なぜ、「勉強ができなかった」というような言葉が大人になっても口をついて出るのだろう?(その人は30代後半)ふとそれは、どのくらいのテストの点、偏差値じゃないと「勉強ができない」と身近なおとなが言っていたのではないかと思ったのです。***例えば、よくできることの合格ラインが【80点】の人と、【95点】の人では同じ点をとっても評価が変わってしまう。もし90点を取ったとして、前者なら「よくできた」だろうし後者なら「できなかった」となるのだろう。つまり期待する人の「期待値」によって、リアルな成績についての評価が「よくできた」「あまりできなかった」と相対的に決まってしまうのだろうということです。だから、95点について95点「しか」とれなかったのか95点「も」とれたのか評価基準というものが刷り込まれたらなかなか消えないのかもしれません。特に自分の学歴、経歴みたいなものについては〇〇高校=頭のいい子がいくとかそういう、漠然とした評価をすることが多いので、大人の言うそのままの評価を刷り込まれてしまうのではないでしょうか。***我が家の中一の三男の2回目の定期テストが終わりました。前回とうってかわって私から「テスト、返ってきた?」とは聞かないようにしています。(いまのところ)なぜならそれをしつこく聞くことが「親はテストの点数に興味がある」ことを強く刷り込むと思ったからです。大人が興味あるのは、テストの出来、点数、順位みたいなことで果たしてそのテストの中身や意味などについてはまるでわかっていなかったりするのではないでしょうか。「一般的に」【よいといわれている】評価をもらう【ことについて】興味があるのだと感じた子どもは親が見ている先に興味をもちはじめるのではないでしょうか。つまり、テストでみんなよりよくできたのか?できなかったのか?それを知りたい素振りを親の中に見たら結局、子どもはそこに焦点をあててみてしまう。本当に大事なのはそこかどうかわからないと思う。。。だから、その都度、点数はどうか、順位はどうかというような質問もしないというようなことをやってみたらどうかと、ふと今日は思ったのでした。
2021.06.30
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社交辞令。「こんど、〇〇しましょう」挨拶の代わりに交わされるそんなひとこと。本当に、〇〇するのかどうかは別として(別として!!)〇〇しましょう、と声をかける。もしかしたら自分も誰かにそんな一言をかけているかもしれないのだけれど。自分が、そんな一言をかけられあ、たぶんそれが自分にとってとても「好ましい」「望ましい」ことだからかもしれませんがそれが本当になったらいいな、と思わず思ってしまう。それは社交辞令だよ。と言われてハッとしたのでした。社交辞令は、挨拶と同じなのでしょう。また会いましょう。と言われて。いつ会うかはっきりわかっていなくても「また会いましょう」という。私が出向いている場所なら「また来ますね」という。(それは本気です、2度と来ないところでまた来ますとは言わないのだけれど)それを聞いた人が「こちらも(あなたのいる☆☆に)行きますね」という。さて、それは本気かな?社交辞令、それは当たり前にある「挨拶」みたいなものだということ。それがなんとなく、わかりづらかったりする自分にハッとしました。***「今度(☆☆に)行きますね」その立場の人がそう声をかける社交辞令だったとしてもそれは行くつもりがないのにうそを言うのとは違うのでしょう。「そのくらいの気持ちを持っているし、気にかけていますよ」ということだろうということ。実際、来るか来ないかは問題じゃなくて。一つの心遣い。というのが、ここのところ理解に苦しんでうそを言う人がいる(!)くらいな感情になりがちでした。それは言葉を発する人がどういうつもりで言っているかなんて実際のところは「その人にしかわからない」。でも、受け取って、何かを思うのは、「こちらが主体」。「なんでうそを言うんだ?」と受け取って感じるより「そうか、そうやって気遣ってくれているんだな」と受け取るほうがその後の関わりかたが楽になるのかもしれないな、と。社交辞令がわからない人は、ストレートに言葉を受け取って生きづらくなりがちな傾向をもつのかもしれない。実際に相手がどういうつもりか、というのはさほど問題にしなくていいのかもしれない。そういう言葉を発するコミュニケーションの中で必要以上に傷つかないためにはスルーしたほうがいいときもある。気分よく、受け取ったりいなしたり。そういう関わり方もあるんだと、知った日でした。
2021.06.18
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