《クリスチャンになろう Day 28》
主の 晩餐式 ってなあに?
主の晩餐式(The Lord's Supper)のQ&A
主イエスが定めた二つの礼典のもう一つは「 主の晩餐式(The Lord's Supper)
」です。
これは、あなた自身がパンと杯を受けることによって「 イエス・キリストの十字架による死と復活を覚え続けることができるように
」と、主イエスが命じられたものです。教会によっては、これを「聖餐式(Holy Communion)」と呼ぶところもありますが、私たちの教会では「主の晩餐式」と呼び礼拝の中で月に一回執り行われています。
これらの 二つの礼典
、 バプテスマ式と主の晩餐式
は共に、あなたの 救いを象徴するシンボル
です。ですから、その儀式自体があなたを救うのではありません。
「 救い主イエス・キリストに従順に従います
」 という、あなたの内側で成された信仰告白を見える形で表す
のが、この主の晩餐式なのです。主イエスは、これを繰り返し行うよう、あなたに命じておられます。
それでは主の晩餐式についてQ&A形式で学んで参りましょう。
Q.1 主の晩餐式ってなあに?
主の晩餐式には大まかに三つの意味があります。まず一つ目。
1.忘れずに覚えるためのもの
主イエスは十字架にかけられる前の晩に、食卓を整えて弟子たちと食事を共にしました。それは、「明日は長一日になりそうだから、備えて 腹ごしらえ
をしよう」という主の意図ではありません。また、祭司長や長老たちの使いが棒や剣を持って主イエスを捕まえに向かって来ている最中に、主イエスも弟子たちも「これから自分たちの上に襲ってくる試練」を思えば、本当ならば「 食事ものどを通らない
」ほどの心理状況だったはずです。
その普通の感覚なら、優雅に食事をしている場合ではないという程の その危機的状況の中で、主はあえて食卓を整えられました
。それは、弟子たちに一つの大切なメッセージを伝えたかったからです。
その時の食事の様子が、1コリント11:23-25には描かれています。
すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。 わたしの記念としてこのように行いなさい
」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、 わたしの記念としてこのように行いなさい
」と言われました。
主は繰り返して2回、「 わたしの記念としてこのように行いなさい
」と言われました。
つまりイエスが弟子たちにどうしても伝えたかったメッセージとは、「 あなたの救いのためにわたしが受けた十字架の犠牲を、決して忘れることなく覚え続けなさい
」というご命令だったのです。
なぜ、主イエスは、わざわざこのようなご命令をしたのでしょうか。それは、 私たち人間はいとも簡単に大切なことを忘れてしまう弱さを持っていることを知っていたから
です。聖書が人間の弱さを「葦」に例えていることを知っていた哲学者パスカルは、「人間は考える葦である。」という有名な言葉を残しました。わたしの中学時代の生物の先生は、いつもそのパスカルの言葉をもじって「人間は忘れる葦である。復習を欠かさず行いなさい」と何度も言っていたことを思い出します。
クリスチャンとして信仰生活を送っていると、実に数多くの神様から受けた恵みを 忘れてしまっていることに誰もが気づく
のです。教会に行って、「ああ、とても恵まれた」とどれだけ深く感じたとしても、時間の経過とともにその喜びも薄れてしまいます。聖書のメッセージを聞いて「主がお語りくださった」と感動しても、日が暮れる頃にはどんな話だったほとんど思い出せなくなります。苦しいときは「神様助けて!」と熱心に祈っていても、お祈りがきかれて喜びに満ちてしまったら、ぱったりと祈ることはなくなり、何を祈ったかすら忘れてしまっていることも多いでしょう。
人間の記憶力には限界があるようで、聞いたことは72時間以内に90%忘れてしまう、と言われています。
しかし、主イエスがあなたの救いのために十字架で肉を引き裂かれ、真っ赤な血潮を流してくださった、という事実は 絶対に忘れてはいけないはず
です。
絶対に忘れず覚え続けるためには、「 定期的に何度も繰り返す
」ことは重要です。だからこそ主イエスは、「わたしの記念としてこのように行いなさい」と、十字架につけられる直前にあえて食卓をもうけてまで伝えようとされたのです。
主の晩餐式を受けるたびに、もう一度、「なぜキリストは十字架で死なれたのか」「「その苦しみは誰のためだったのか」「その血潮は何のために流されたのか」「なぜ父なる神様は、そのふところにいる独り子を遣わしてくださったのか」、その理由を思い起こすたびに、わたしたちは クリスチャンとしての原点でありスタート地点に立ち帰ることは大きな大きな恵み
とされるのです。
あなたは、救い主を信じたことによって、主の食卓に着くことができました。その主との交わりが始まったときのことをここで思い出してみましょう。
見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。(黙3:20)
いま再び、主イエスと食事をするならば、その交わることの喜びと感動を、 何度も何度も繰り返し味わえる
のです。
今日も、その食卓の交わりにあなたは招かれているのです。
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DAY29へつづく