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浄土宗の寺院#2(永観堂・金戒光明寺・百萬遍知恩寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●永観堂(左京区)・正しくは(無量寿院禅林寺)・貞観5年(清和天皇)の勅額を賜って、禅林寺となった。・中興の祖である7世の(永観)のときに、本尊を大日如来から阿弥陀如来とし、 (浄土念仏)の道場とした。・17世のときに(真言宗)から(浄土宗西山派)に改宗。総本山・本尊の(阿弥陀如来立像)は重文で、永観が念仏の行道中に顕れ、振り向いて 「(永観、おそし)」と言葉を発し、導いた姿から「(みかえり阿弥陀)」とい呼ばれる。・国宝の(山越阿弥陀図)をはじめ(当麻曼荼羅図)(阿弥陀二十五菩薩来迎図)など 重要文化財を多数所蔵・(洛陽六阿弥陀)の一つ 第1番 (真如堂) 第2番 (永観堂) 第3番 (清水寺阿弥陀堂) 第4番 (安祥院(日限さん)) 第5番 (安養寺(倒蓮華寺)) 第6番 (誓願寺)●金戒光明寺(左京区)・通称(黒谷さん)・(浄土宗京都四ヵ本山)の一つ (知恩院)(百萬遍知恩寺)金戒光明寺(清浄華院)・比叡山を出た法然が承安5年(1175)に師の(叡空)から、この地にあった比叡山の (白河禅房)を譲られ、念仏道場としたのに由来する。・法然の没後、(▲紫雲山光明寺)となった。・さらに(光厳天皇)から「金戒」の文字を賜り、現称となった。・三重塔は(徳川秀忠)の菩提を弔うために寛永10年(1633)に建てられた。重文。 重文指定の三重塔は、他に(清水寺の三重塔)と(子安塔)。・山上墓地北東には(会津藩)殉職者墓地がある。・重文の(山越阿弥陀図)(地獄極楽図)、(▲木造千手観音立像)を所蔵。地獄極楽図・塔頭(西翁院)にある茶室(澱看席)は江戸初期の茶人で(千宗旦)の四天王の 一人といわれる(藤村庸軒)好みの茶室。 道具の運びに工夫を加えた(道安囲い)または(宗貞囲い)と呼ばれる形式の茶室。 茶室から(山崎)や(淀)が見えたことが席名の由来。●百萬遍知恩寺(左京区)・(浄土宗京都四ヵ本山)の一つ・(法然)が開創したと伝え、前身は烏丸今出川にあった(賀茂社)の(神宮寺)。・(法然)が入寂した後、弟子の(源智)が住持となって、浄土専修念仏の道場 となり、(▲功徳院知恩寺)と称した。・元弘元年(1331)に八世の(▲善阿)が疫病を封じるために(百萬遍念仏)を行じ、 (後醍醐天皇)から(百萬遍)の号を賜った。・重文の(顔輝)筆(蝦蟆鉄拐図)がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/03
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浄土真宗の寺院#2(東本願寺・東大谷・岡崎別院・了徳寺・佛光寺・養源院)の問題です。●東本願寺(下京区)・( 派)の総本山・慶長7年(1602)に本願寺12代( )が( )から現在の寺地を与えられて 建立。・このときに( )の本願寺( 寺)から分派して、東本願寺となった。・( )は世界最大級の木造建築。 棟梁は( )・飛地境内の( )は( )の詩にちなんで名づけられた( 式)庭園。 ( )が植えられていたことから( )とも呼ばれ、寛永18年(1641)にこの地を 与えらた( )が、隠居後( )らとともに作庭した。 国の( )に指定されている。 ( )は、下記を( )と称した。 滴翠軒・傍花閣・印月池・臥龍堂・五松塢・侵雪橋・縮遠亭・紫藤岸・偶仙楼・双梅檐 漱枕居・回棹廊・丹楓渓・国宝として親鸞自筆( ( 本))(6冊) ・重要文化財として、( )と呼ばれる( 像)や( 本)と呼ばれる ( )(4冊)など。・( 月 日)の( )には( )を行う。 僧侶が上体を揺らして念仏や和讃を唱える( )がある。・( )は( )ともいい、仏教に帰依しようとする人が受ける儀式。・( 月 日)には西本願寺も同時に( )がある。●東大谷(東山区)・正しくは( )・本願寺が東西に分派したとき、開祖である親鸞の祖廟(墓)を( 寺)境内に建てた ことに由来。現在地へは寛文10年(1670)に移った。・明治維新までは( )と呼ばれ、その後は( )( )と変わった後、 ( )、そして大谷祖廟となった。東本願寺飛地境内。●岡崎別院(左京区)・宗祖親鸞が住んだという。( )と呼ばれていた。・享和元年(1801)、本願寺20代( )が寺とし、( )と呼ばれた。 明治9年に別院と改称。・本堂西の( )は、親鸞が( )に流される際にその姿を映したといい、( ) の名がある。●了徳寺(右京区)・宗祖親鸞が( 寺)への参詣の途中にこの地に立ち寄った際に、住民が( )を煮て もてなし、それに感謝した親鸞が( )を( )を筆として記したといい、 その後、( )も( )を記したと伝え、現在も( )として所蔵する。・( 月 日、 日)の( )には( )が行われ、( )を願う参拝者 でにぎわう。====================●佛光寺(下京区)・建暦2年(1222)、流罪を許された親鸞が( )に一宇を建立。 ( )と号した。・元応2年(1320)に第7世( )が( )に移転・寺号は( 天皇)より( 寺)の勅額を賜ったことにちなむ。・天正14年(1586)現在地へ移転。・通常の( )が( )であるのに対し、ここは( )。・室町時代と明治時代に女性門主を推戴した。 第9世は( )の妻の( )と第27世(A:真意尼公)である。・特にAは、幕末から明治の激変期に、再建。======================●養源院(東山区)・( 宗)( 派)。・文禄3年(1594)に( ( ))が父の( )の菩提を弔うため の建立。寺名は長政の法号にちなむ。・( )の妹の( )が、夫である(徳川秀忠)に願い、伏見城の 遺構を移して再建。・以降、( 家)の( 所)、( )の( 所)となった。・俵屋宗達の( 絵)八面( 図)( 図)( 図)がある。 十二面の襖絵( 図)もあり、これらは重文。・庭園は( )作とされる。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/03
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浄土真宗の寺院#1(浄土真宗・西大谷・北山別院・日野誕生院・興正寺)の問題です。●浄土真宗・開祖:( )の弟子( )・( )によると、( )を称えるのは( )の( )のはたらき によって生じるものとされ、( )を信じる心が( )より回向されるとい う( )を説いた。・( )没後、末娘( )が( )を建て、曾孫の( )が寺院化して ( 寺)を成立させた。・現在、( )の血脈を継ぐ東、西本願寺の二派と門弟の流れを継ぐ( 派)がある。 京都には東、西、( 寺)、( 寺)の四派の本山がある。===================●西大谷(東山区)・西本願寺の廟所・正しくは( )・親鸞が弘長2年(1262)に没した際、( )南辺で火葬され、親鸞の末娘( ) が遺骨を現在の( 山門)北側の( )に納め、堂を建てて影像を安置した ことに始まる。 この廟堂は( )と呼ばれ、のち( 寺)となり、慶長8年(1603) ( )の政策によって( )の現在地に移転した。・入口の( )は石造のアーチ橋で、江戸時代の遺構。●北山別院(左京区)・( 寺)の別院・( )の一つ。 他は( 別院)、( 別院)、( 別院※) ※:現在は西本願寺の飛地境内・もと( )と称した天台宗の寺院で、( )の一つ。 ・親鸞は得度後この地で1年間修学したと伝え( )と呼ばれた。・延宝6年(1678)に浄土真宗の寺として帰属、同8年、本願寺の別院となった。・近くに( )という涌水がある。 親鸞が( )に百日間の参籠を行った際、( 寺)からの往き帰りにこの水で 身を清めたと伝える。●日野誕生院(伏見区)・( 寺)の飛地境内・親鸞出身の地と伝え、文政11年(1828)西本願寺20代( )が創建・文久2年(1862)には( )が始まった。・親鸞( の )や、へその緒を納めたと伝える( )が残る。===========●興正寺(下京区)・法門の混迷を嘆いた( 寺)の( )が住持の職を弟の( )に譲り、文明年間 (1469-87)に佛光寺の旧称である興正寺の名で( )に創建。・( )は本願寺の8世である( )の勢力と合流し、自らも( )と改名。・天正19年(1591)に( 寺)とともに現在地に移転。・その後( 寺)と対立を深め、明治9年に独立して真宗興正派の本山となった。・同12年に( 別院)を東山区清閑寺霊山町に建立。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/03
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浄土宗の寺院#5(清涼寺・滝口寺・桂地蔵・粟生光明寺・願行寺)の問題です。●清涼寺(右京区)・( )ともいう・寛平7年(895)の( )没後、その山荘の( )に阿弥陀堂を建て、( 寺)と したのに始まる。・天慶8年(945)に堂宇を建立し、等身大の( 像)を安置。これが釈迦堂の名の由来 ともされる・その後( )が( )から持ち帰った釈迦像を当寺の釈迦堂に祀って、( 宗)の 寺とし、寺名を清涼寺と改めた。・室町中期には( )の大道場として知られた。・本尊は( )請来の( 像)で国宝。 ( 式)と呼ばれ、以後多くの模像が造られた。 胎内には( 製)の( )とともに( ・ ・ )など多くの品が納めら れていた。・( 寺)の本尊と伝える( 像)も国宝・( 月 日)に( )が行われる。( )の荼毘を暗示。●滝口寺(右京区)・法然の弟子( )が鎌倉時代に創建した(A: )の子院であった( 寺) の旧跡。Aの地には現在( 宗)の( 寺)がある。・平家物語の( )こと( )と( )に仕えた( )の悲恋の地 として知られる。・この物語は( )が書いた( )で有名・( )は( )に身投げしたとも奈良の( 寺)へ出家したとも伝える。・参道には( )が( )で記したという歌石がある。 「山深み 思い入りぬる 柴の戸の まことの道に 我を導け」●桂地蔵(西京区)・正しくは( 寺)・( )が一木で彫った( )の一つで、( )が京に通じる6つの街道に 安置したと伝える。・六地蔵巡りの際は国の重要無形民俗文化財である( )が行われる。●粟生光明寺(長岡京市)・( 宗)の総本山・( )こと( )が、( )の勧めにより、建久9年(1198)に ( 院)を開いたことに始まる。・本堂( 堂)に法然自作の( の )を祀る・安貞2年(1228)、( 寺)の塔頭( )にあった法然の棺から発した瑞光に従い、 弟子たちが法難を避けて粟生の地に遺骸を移して荼毘にふした。 その遺骨は境内の御本廟に祀られ現在に至る。・法然が初めて念仏の教えを説いた( 地)として信仰を集めている。●願行寺(宇治市)・開山( 流祖)の( )・( の )と称する阿弥陀如来 ( 寺)の遺仏という阿弥陀像 ( の )と呼ばれる薬師像 などを安置する。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/03
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浄土宗の寺院#1(浄土宗・阿弥陀寺・法然院・安楽寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●浄土宗・平安末期、(法然房源空)の開いた(浄土教)の一宗派。・(阿弥陀仏)を崇拝し、その(本願)を信じて(念仏)を唱えることによって (▲西方浄土)への(往生)を願うことを教えとする。・(法然)の没後、弟子の(源智)が現在の(知恩院)の基礎を築いた。・江戸時代に(徳川氏)の外護のもと(知恩院)を総本山とし、(増上寺)を (総録所)に教団体制が確立された。・七大本山のうち京都にあるのは(百萬遍知恩寺)(金戒光明寺)(清浄華院)・浄土宗西山三派 (西山浄土宗)・・・総本山(粟生光明寺) (浄土宗西山禅林寺派)・・・総本山(禅林寺) (浄土宗西山深草派)・・・総本山(請願寺)●阿弥陀寺(左京区大原古知平町)・本尊は(弾誓)自作の(植髪の▲尊像)・通称(古知谷阿弥陀寺)・慶長14年(1609)に(木食上人弾誓)が念仏道場として開創・現在もこの僧の(即身仏)(ミイラ)が本堂背後の(開山窟)に安置されている。・(カエデ)が市指定天然記念物(追補)・金剛王院の市登録記念物は(ヤマモモ))●法然院(左京区)・鎌倉時代の初め、法然が鹿ヶ谷の草庵で弟子(住蓮・安楽)とともに(六時礼賛) を勤めたのに由来。・延宝8年(1680)に知恩院の(▲萬無)と(▲忍澂)が念仏道場として再興・境内には(谷崎潤一郎)(A:九鬼周造)(河上肇)ら多くの文人の墓がある。 A(哲学者)の主な著書~『偶然性の問題』、『「いき」の構造』、『人間と実存』 B(経済学者)の『貧乏物語』 『資本論入門 』『マルクス主義経済学の基礎理論』・方丈庭園内の(善気水)は、洛中名泉の一つ●安楽寺(左京区)・法然の弟子(住蓮・安楽(遵西))が開いた念仏道場に始まる。・二人のもとに(後鳥羽院)の女御であった(松虫・鈴虫)が密かに出家。 院が怒り、念仏が禁止されるとともに、両僧は死罪、法然は流罪。 延宝9年(1681)に両僧供養のため、伽藍が建立された。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/02
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真言宗の寺院#10(乙訓寺・宝積寺・放生院・山崎聖天)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●乙訓寺(長岡京市)・本尊は(合体大師)。(弘法大師)と(八幡神)の合体像と伝える・(法皇寺)ともいう・(推古天皇)の勅願で(聖徳太子)の建立とされる・(空海)が別当として入寺して以来、真言宗となったが、室町時代には(足利義満)が 禅宗に改宗・江戸時代には(桂昌院)の援助を受けて再興、真言宗に戻った。・重文の(毘沙門天立像)などを所蔵●宝積寺(乙訓郡大山崎町)・通称は(宝寺)・(聖武天皇)は、夢に現れた龍神から(打出)と(小槌)を授かり祈願すると天皇に 即位したと伝える 神亀年間(724-29)に(聖武天皇)の勅願で(行基)が創始し、本堂に(十一面観音)を 祀ったという。・前身は、(行基)が淀川にかけた(山崎橋)の(橋寺)として開創した(山崎院)。・長徳年間(995-99)には(寂照)が中興。 このとき天台宗に改め、のちに真言宗となった。・重文の(三重塔)は慶長9年(1604)建立で、相輪頂まで約(20メートル)●放生院(宇治市)・通称(橋寺)・推古天皇12年(604)に(聖徳太子)の発願で(秦河勝)が開創。・大化2年(646)に奈良の(元興寺)の(道登)(一説に(道昭))により、宇治橋が 架けられると、橋を管理する寺となり、弘安9年(1286)(西大寺)の(叡尊)が 宇治橋を架け替えるときに、当寺を修復した。・重文の(宇治橋断碑)は、宇治川に初めて橋が架かったことを記念する石碑。 群馬県の(多胡碑)、宮城県の(多賀城碑)とともに(日本三大古碑)の一つ。宇治橋断碑・宇治川の中州にある(浮島十三重塔)は、高さ約(15メートル)の日本最大の石塔で、 弘安9年の宇治橋再興のときに(叡尊)が建立した。●山崎聖天(乙訓郡大山崎町)・昌泰2年(899)に(宇多上皇)の開基と伝える・中興は(木食以空)・天和2年(1682)に箕面の(勝尾寺)から(大聖歓喜双身天)を勧請。 以来、商売繁盛、良縁和合、除災招福のご利益があるとして信仰が生まれ、通称は これによる。・蛤御門の変で焼失したが、大阪府島本町にあった(西観音寺)の建物を本堂として 移築した。・本尊の千手観音立像は(聖徳太子)の作と伝える。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/02
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浄土宗の寺院#4(地蔵院・釘抜地蔵・化野念仏寺・直指庵)の問題です。●地蔵院(北区)・通称( 寺)・開創( 基)・のちに浄土宗に改めて( )の末寺になった。・五色の( )がある。 ( )が朝鮮から持ち帰り( )が当寺に寄進したものと伝える。 ・( )の師である( )(( ))、( )を援助した ( )の墓がある。●釘抜地蔵(上京区)・正しくは( 寺)・弘仁10年(819)に( )が建立。・のちに( )が浄土宗に改めたという・もとは( 地蔵)と呼ばれていた。・二本の( )と( )を張り付けた( )が奉納される。・( 像)が重文●化野念仏寺(右京区)・弘仁年間(810-24)に( )が化野に葬られた人々を追善するために開創。・当初は( 寺)の名で真言宗だった。・( )が念仏道場としたことで、念仏寺となり、浄土宗となった。・( )の墓がある。・8月23日、24日には( )がある。( )にも及ぶ無縁の石仏を供養する。●直指庵(右京区)・( )の法嗣である( )が営んだ草庵 の( )に由来・禅の( )の教えに従って、寺名を付けずに直指庵とした。・幕末には( 家)の老女であった( ( ))が再興した。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/02
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浄土宗の寺院#3(上善寺・阿弥陀寺・清浄華院・請願寺・矢田寺・仲源寺)の問題です。●上善寺(北区)・貞観5年(863)( )が天台密教の道場として開創。・文禄3年(1594)に現在地に移転して、のちに浄土宗に改めた。・寺域には( 家)歴代の墓や、幕末の( 藩士)らの首塚がある。・本尊の阿弥陀仏は( )作と伝える。・地蔵堂の( 地蔵)は六地蔵めぐりの一つ ( )地蔵ともいわれる。( 地蔵)とともに( )がある。 上鳥羽の( 寺)では( )がある。●阿弥陀寺(上京区)・開山( 上人)・天文年間(1532-55)に近江の坂本から洛中に移り、( 天皇)、 ( )はじめ多くの武将の尽力により、伽藍が整った。・本能寺の変後、( )らは( )らの遺体を荼毘に付して持ち帰ったといわれる。・墓地には( ・ )( )をはじめとする家臣の墓、儒者で( 館) を開いた( )、 江戸時代中期の時宗の僧・俳人( )などの墓がある。●清浄華院(上京区)・( 宗 )の一つ・本尊は( )・貞観2年(860)( 天皇)が( )( )( )( )の四宗兼学道場と して( 内)に創建。・開山( )・12世紀後半、浄土宗に改め、( )を中興の祖とした。・( )と密接な関係を有する。・中国宋時代寧波の画家( )の筆になる絹本著色( 像)は国宝。写真:・紙本著色( )絵巻が重要文化財。●請願寺(中京区)・浄土宗( 派)総本山・( 天皇)の勅願所として奈良時代に建立。上京区元請願寺通小川に移転。 現在地には天正年間(1573-92)に移った。・当初は( 宗)。のちに浄土宗。・笑い話集( )を著わした( )は同寺の55世。・門前に( )(( 石))がある。・墓地には( )医師( )などの墓がある。・( 巡り)の一つ。●矢田寺(中京区)・( 地蔵)の名で知られる。・( 寺)の別院として、延暦15年(796)に創建されたという。・本尊はかつての( )のい一つ。・開山の( )が地獄で出会った地蔵の姿を彫らせたと伝え、地獄で人々を救うと いうことから( 地蔵)とも呼ばれる。・重文の( 縁起)を所蔵。・( 月 日)は、お盆の鐘楼を送る( )がある。 ( 寺)の( )に対する呼び名。●仲源寺(東山区)・( 地蔵)の通称で知られる・仏師の( )が治安2年(1022)に( 橋)の東北の地に地蔵菩薩を祀ったこと に由来するという。・安貞2年(1228)の洪水のときに雨を止ませる祈願をした功により( 天皇)の 勅願寺になった。本尊を( 地蔵)と呼んだ。これがなまって( 地蔵)にな り、現在も( 平癒)の信仰を集める。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/02
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浄土宗の寺院#2(永観堂・金戒光明寺・百萬遍知恩寺)の問題です●永観堂(左京区)・正しくは( 寺)・貞観5年( 天皇)の勅額を賜って、禅林寺となった。・中興の祖である7世の( )のときに、本尊を大日如来から阿弥陀如来とし、 ( )の道場とした。・17世のときに( 宗)から( 宗 派)に改宗。総本山。・本尊の(阿弥陀如来立像)は重文で、永観が念仏の行道中に顕れ、振り向いて 「(------)」と言葉を発し、導いた姿から「( )」と呼ばれる。・国宝の( 図)をはじめ( 図)( 図)など 重要文化財を多数所蔵・(洛陽六阿弥陀)の一つ 第1番 ( ) 第2番 ( ) 第3番 ( 寺 ) 第4番 ( 院( さん)) 第5番 ( 寺( 寺)) 第6番 ( 寺)●金戒光明寺(左京区)・通称( さん)・( 宗 )の一つ =( )( 寺)金戒光明寺( 院)・比叡山を出た法然が承安5年(1175)に師の( )から、この地にあった比叡山の ( )を譲られ、念仏道場としたのに由来する。・法然の没後、( 寺)となった。・さらに( 天皇)から「金戒」の文字を賜り、現称となった。・三重塔は( )の菩提を弔うために寛永10年(1633)に建てられた。重文。 重文指定の三重塔は、他に( 寺の三重塔)と( 塔)。・山上墓地北東には( 藩)殉職者墓地がある。・重文の( 図)( 図)、( 像)を所蔵。・塔頭( 院)にある茶室( 席)は江戸初期の茶人で( )の四天王の 一人といわれる( )好みの茶室。 道具の運びに工夫を加えた( 囲い)または( 囲い)と呼ばれる形式の茶室。 茶室から( )や( )が見えたことが席名の由来。●百萬遍知恩寺(左京区)・( 宗 )の一つ・( )が開創したと伝え、前身は烏丸今出川にあった( 社)の( 寺)。・( )が入寂した後、弟子の( )が住持となって、浄土専修念仏の道場 となり、( 院 寺)と称した。・元弘元年(1331)に八世の( )が疫病を封じるために( )を行じ、 ( 天皇)から( )の号を賜った。・重文の( )筆( 図)がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/02
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真言宗の寺院#9(大覚寺・法界寺・諸寺補足)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●大覚寺(右京区)・本尊は(五大明王)・貞観18年(876)、(嵯峨天皇)の皇女で(淳和天皇)の皇后(正子内親王)が、父の (嵯峨天皇)の離宮であった(嵯峨院)を寺に改めたことに始まる。・(清和天皇)から大覚寺の寺号を賜って、開山を(淳和天皇)の皇子である (恒寂法親王)とした。・文永5年(1268)に(後嵯峨上皇)、正応2年(1289)に(▲亀山上皇)、徳治3年(1308) に(▲後宇多法皇)が入寺して、(大覚寺統=南朝)を形成、以来、(北朝)の (持明院統)と皇統の勢力を争ったが、のち文徳3年(1392)に南北朝統一となった。・当寺は、華道の(嵯峨御流)の総司所でもあり、(嵯峨天皇)の命日には(華道祭) を行っている。・(正宸殿)と呼ばれる客殿は桃山時代の建築で、重文。 主室である(御冠の間)の(▲帳台構え)の框は(嵯峨蒔絵)の名で知られる。・宸殿は客殿の前方に立ち、元和5年(1619)造営の(東福門院女御御殿)で、延宝年間 (1673-81)に下賜・移築されたと伝える。重文。・大沢の池は(嵯峨院)庭園の遺構。(底湖石)は(巨勢金岡)が立てたと伝え、中国 の(洞庭湖)を模したものとされる。底湖石・「小倉百人一首」で有名な大納言(藤原公任)の「(滝の音は絶えて久しくなりぬれ ど名こそ流れて▲なほ聞こえけれ)」に詠まれた(名古曾滝)は古くからの名所。・宸殿の襖絵として描かれた(紅白梅図)(牡丹図)は(狩野山楽)が描いたもので、 重文。・正宸殿の(狭屋(さや)の間)の(野兎図)は、(尾形光琳)の作とされてきたが、 今は(渡辺始興)の作とされる。・仏像は(五大明王像)が(円派仏師)の(明円)の作で重文。・9月中秋に(大覚寺観月の夕べ)がある。(龍頭船)(▲鷁首船)が浮かぶ。 大沢池は(猿沢池)(石山寺)とともに(日本三大名月観賞地)とされる。●法輪寺(西京区)・本尊は(虚空蔵菩薩)・通称は(嵯峨の虚空蔵さん)・和同6年(713)に(元明天皇)の勅願で(行基)が開創した(木上山葛野井寺)に由来。・天長6年(829)に(道昌)が(求聞持法)を修めて(虚空蔵菩薩)を感得して安置した という。このときに法輪寺と改めた。この僧は(広隆寺)も中興している。・(3月13日から2ヵ月間)の十三まいりの参詣で有名。・電気や電波の安全を祈願する(電電宮)もある。・(2月8日)に針供養がある。(コンニャク)を祭壇に供え、飾り糸の付いた長い針を 刺して供養する。(12月8日)にもある。この日は(針神社)でも針供養がある。 ●法界寺 補足・1月14日に(法界寺裸踊り)がある。 (修正会)の結願行事。(阿弥陀堂)の広縁で、男たちが(下帯)のみで(頂礼、頂礼) と激しくぶつかりあう。(牛王札)が授与される。踊りに用いられた下帯は妊婦の (腹帯)として篤い信仰を集める。●隨心院 補足・3月に(はねず踊り)がある。(深草少将百夜通い)の悲恋伝説をテーマにした(今様) を踊る。(菅笠)に(梅)の造花を挿した少女たちが舞う。●神泉苑 補足・大念仏狂言のとき、(大般若教法要)や稚児行列もある。●千本釈迦堂 補足・陶器市が(▲7月9日~12日)にある。・(12月7日~8日)に、(大根焚き・成道会法要)がある。 三世(慈禅上人)が大根の切り口を鏡に見立て、面に(梵字)を書き諸病退散を祈った ことに始まる。(中風除け)・諸病除けとして御利益がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/01
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真言宗の寺院#8(神護寺・西明寺・祗王寺)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●神護寺(右京区)・正しくは(神護国祚真言寺)・延暦年間に(和気清麻呂)が河内国に建立した(神願寺)を天長元年(824)に(高雄山)に 移し、当地にあった(高雄山寺)と合弁、(勅願寺)とされた。・延暦21年(802)に(最澄)が(和気清麻呂)の招きで(法華会)を行い、大同4年(809)には (空海)が入寺。弟子の(真済)が宝塔を建て、(五大虚空蔵菩薩坐像)を安置した。・仁安3年(1168)に中興の祖(文覚)が再興に着手、(後白河法皇)に(四十五箇条起請文) (国宝)を上呈した。・以降、(上覚)や(明恵)があいつで入寺。・重文の(大師堂)は(弘法大師の納涼房)とも呼ばれ、小さな厨子に中に重文の (板彫弘法大師尊像)を安置する、住宅風の建物。・国宝の絵画(伝源頼朝像(伝平重盛像)(伝藤原光能像)・大和絵の優品(山水屏風)や、(空海)が(唐)より請来した曼荼羅を手本に描かれた、 現存最古の(両界曼荼羅図)である(高雄曼荼羅)が国宝に指定される。 (文覚上人像)が重文。高雄曼荼羅・(空海)筆、(灌頂暦名)は国宝で、弘仁3年(812)とその翌年に(空海)が(金剛界)・ (胎蔵界灌頂)を(最澄)や弟子の(泰範)らに伝授したときに、この灌頂を受けた者の 名簿。・金堂本尊の(薬師如来立像)や(旧宝塔院)本尊の(五大虚空蔵菩薩坐像) ((多宝塔)安置))が国宝●西明寺(右京区)・天長年間(824-34)に空海の甥である(智泉)が(神護寺)の別院として開創。・堂舎は(桂昌院)((徳川綱吉)の生母)が元禄年間に寄進したとされる。 ・本尊の(釈迦如来立像)は重文で(清涼寺式)の像。(運慶)作と伝える。 他に(▲千手観音立像)も重文・この地は(槇尾)と呼ばれる。●祗王寺(右京区)・(法然)の弟子、(念仏房良鎮)が創建したという(往生院)の跡にあたる。・(平清盛)の寵愛を失った白拍子の(祗王)が母の(刀自)と妹の(祗女)を伴って 剃髪し、この地に隠棲したので、この寺名がある。・堂内には(清盛)(祗王)(祗女)(母刀自)(仏御前)の像がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/01
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浄土宗の寺院についても問題#1です(浄土宗について・阿弥陀寺・法然院・安楽寺)●浄土宗・平安末期、( )の開いた( )の一宗派。・( )を崇拝し、その( )を信じて( )を唱えることによって ( )への( )を願うことを教えとする。・( )の没後、弟子の( )が現在の( )の基礎を築いた。・江戸時代に( 氏)の外護のもと( )を総本山とし、( )を ( )に教団体制が確立された。・七大本山のうち京都にあるのは( 寺)( 寺)( )・浄土宗西山三派 ( 宗)・・・総本山( 寺) ( 宗 派)・・・総本山( 寺) ( 宗 派)・・・総本山( 寺)●阿弥陀寺(左京区大原古知平町)・本尊は( )自作の( の )・通称( 寺)・慶長14年(1609)に( 上人 )が念仏道場として開創・現在もこの僧の( )(ミイラ)が本堂背後の( )に安置されている。・( )が市指定天然記念物(追補)・金剛王院の市登録記念物は( ))●法然院(左京区)・鎌倉時代の初め、法然が鹿ヶ谷の草庵で弟子( ・ )とともに( ) を勤めたのに由来。・延宝8年(1680)に知恩院の( )と( )が念仏道場として再興・境内には( )(A: )(B: )ら多くの文人の墓がある。 A(哲学者)の主な著書~『偶然性の問題』、『「いき」の構造』、『人間と実存』 B(経済学者)の『貧乏物語』 『資本論入門 』『マルクス主義経済学の基礎理論』・方丈庭園内の( 水)は、洛中名泉の一つ●安楽寺(左京区)・法然の弟子( ・ ( ))が開いた念仏道場に始まる。・二人のもとに( )の女御であった( ・ )が密かに出家。 院が怒り、念仏が禁止されるとともに、両僧は死罪、法然は流罪。 延宝9年(1681)に両僧供養のため、伽藍が建立された。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/12/01
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真言宗の寺院問題#10(乙訓寺・宝積寺・放生院・山崎聖天)です。●乙訓寺(長岡京市)・本尊は( )。( )と( )の合体像と伝える・( 寺)ともいう・( 天皇)の勅願で( )の建立とされる・( )が別当として入寺して以来、真言宗となったが、室町時代には( )が 禅宗に改宗・江戸時代には( )の援助を受けて再興、真言宗に戻った。・重文の( 像)などを所蔵●宝積寺(乙訓郡大山崎町)・通称は( 寺)・( 天皇)は、夢に現れた龍神から( )と( )を授かり祈願すると天皇に 即位したと伝える 神亀年間(724-29)に( 天皇)の勅願で( )が創始し、本堂に( )を 祀ったという。・前身は、( )が淀川にかけた( )の( )として開創した( )。・長徳年間(995-99)には( )が中興。 このとき天台宗に改め、のちに真言宗となった。・重文の( )は慶長9年(1604)建立で、相輪頂まで約( メートル)●放生院(宇治市)・通称( 寺)・推古天皇12年(604)に( )の発願で( )が開創。・大化2年(646)に奈良の( 寺)の( )(一説に( ))により、宇治橋が 架けられると、橋を管理する寺となり、弘安9年(1286)( 寺)の( )が 宇治橋を架け替えるときに、当寺を修復した。・重文の( )は、宇治川に初めて橋が架かったことを記念する石碑。 群馬県の( 碑)、宮城県の( 碑)とともに( )の一つ。・宇治川の中州にある( 塔)は、高さ約( メートル)の日本最大の石塔で、 弘安9年の宇治橋再興のときに( )が建立した。●山崎聖天(乙訓郡大山崎町)・昌泰2年(899)に( 上皇)の開基と伝える・中興は( )・天和2年(1682)に箕面の( 寺)から( )を勧請。 以来、商売繁盛、良縁和合、除災招福のご利益があるとして信仰が生まれ、通称は これによる。・蛤御門の変で焼失したが、大阪府島本町にあった( 寺)の建物を本堂として 移築した。・本尊の千手観音立像は( )の作と伝える。 __________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/12/01
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真言宗の寺院(法界寺・安楽寿院・不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●法界寺(伏見区)・通称(日野薬師)(乳薬師)・永承6年(1051)に(日野資業(すけなり)がこの地にあった日野家の山荘を寺に改めた。・親鸞は、この人物から4代目にあたる(日野有範)を父に(吉光女)を母として当寺で 誕生した。・通称は、(最澄)作という創建時の本尊((薬師仏))が(藤原時代)の(さや仏)の 胎内に納められ、古くから女性の参拝が多かったことにちなみ、今も(授乳祈願)の 信仰を集める。・重文の本堂(薬師堂)は、康正2年(1465)に建立された(伝燈寺)本堂(奈良県)を明治 に移築したもの。・(阿弥陀堂)は平安末期の特長を残す建築物で、(阿弥陀如来坐像)とともに国宝。●安楽寿院(伏見区)・(鳥羽上皇)が(鳥羽殿)の東殿に御堂を建立したのが始まり。・保元元年(1156)には本御塔に(鳥羽法皇)が葬られ、長寛元年(1163)には(鳥羽上皇) の中宮である(▲美福門院得子)のために建立された新御塔に子の(近衛天皇)を改葬した。・慶長年間に(▲豊臣秀吉)が復興。●広隆寺(右京区)・本尊は(聖徳太子)・(法隆寺)(四天王寺)などとともに(聖徳太子建立七大寺)の一つ・古くは(蜂岡寺)(秦公寺)といい(太秦の太子堂)とも呼ばれる。・推古天皇11年(603)に(秦河勝)が(聖徳太子)から仏像を賜り、本尊として建立。・承和3年(836)に中興の祖とする(▲道昌)が再興に着手。・本尊は(弥勒菩薩)から(薬師如来)そして(聖徳太子像)となった。・境内西北側にある(桂宮院本堂)は国宝。・講堂は重文で(丹塗り)のため(赤堂)とも呼ばれる・仏像では国宝第1号の(弥勒菩薩半迦思惟像)(宝冠弥勒)とも呼ばれる。材質は(赤松)・もう一つの弥勒菩薩は(宝髻(ほうけい)弥勒)、別名(泣き弥勒)と呼ばれる。 材質は(クスノキ)・(定朝)の弟子(長勢)作の十二神将像、(不空羂索観音立像)、(千手観音立像) などが国宝。十二神将像の作者は(三条仏所)を作った。 ちなみに、七条仏所は(▲覚助)、七条大宮仏所は(▲院助)が作った。 十二神将像 __________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/30
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真言宗の寺院#9(大覚寺・法輪寺(西京区)・いくつかの寺院の補足)の問題です。●大覚寺(右京区)・本尊は( )・貞観18年(876)、( 天皇)の皇女で( 天皇)の皇后( 内親王)が、父の ( 天皇)の離宮であった( )を寺に改めたことに始まる。・( 天皇)から大覚寺の寺号を賜って、開山を( 天皇)の皇子である ( 法親王)とした。・文永5年(1268)に( 上皇)、正応2年(1289)に( 上皇)、徳治3年(1308) に( 法皇)が入寺して、( 統= )を形成、以来、( )の ( 統)と皇統の勢力を争ったが、のち文徳3年(1392)に南北朝統一となった。・当寺は、華道の( 流)の総司所でもあり、( 天皇)の命日には( ) を行っている。・( )と呼ばれる客殿は桃山時代の建築で、重文。 主室である( の間)の( )の框は( )の名で知られる。・宸殿は客殿の前方に立ち、元和5年(1619)造営の( 御殿)で、延宝年間 (1673-81)に下賜・移築されたと伝える。重文。・大沢の池は( )庭園の遺構。( )は( )が立てたと伝え、中国 の( )を模したものとされる。・「小倉百人一首」で有名な大納言( )の「(--------------------- ---------)」に詠まれた( )は古くからの名所。・宸殿の襖絵として描かれた( 図)( 図)は( )が描いたもので、 重文。・正宸殿の( の間)の( 図)は、( )の作とされてきたが、 今は( )の作とされる。・仏像は( 像)が( 仏師)の( )の作で重文。・9月中秋に( の夕べ)がある。( 船)( 船)が浮かぶ。 大沢池は( )( )とともに( )とされる。●法輪寺(西京区)・本尊は( )・通称は( の )・和同6年(713)に( 天皇)の勅願で( )が開創した( 山 寺)に由来。・天長6年(829)に( )が( )を修めて( )を感得して安置した という。このときに法輪寺と改めた。この僧は( 寺)も中興している。・( から2ヵ月間)の十三まいりの参詣で有名。・電気や電波の安全を祈願する( 宮)もある。・( 月 日)に針供養がある。( )を祭壇に供え、飾り糸の付いた長い針を 刺して供養する。( 月 日)にもある。この日は( 神社)でも針供養がある。 ●法界寺 補足・1月14日に( )がある。 ( )の結願行事。( )の広縁で、男たちが( )のみで( 、 ) と激しくぶつかりあう。( )が授与される。踊りに用いられた下帯は妊婦の ( )として篤い信仰を集める。●隨心院 補足・3月に( )がある。( )の悲恋伝説をテーマにした( ) を踊る。( )に( )の造花を挿した少女たちが舞う。●神泉苑 補足・大念仏狂言のとき、( )や稚児行列もある。●千本釈迦堂 補足・陶器市が( 月 日~ 日)にある。・( 月 日~ 日)に、( ・ 法要)がある。 三世( 上人)が大根の切り口を鏡に見立て、面に( )を書き諸病退散を祈った ことに始まる。( 除け)・諸病除けとして御利益がある。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/30
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真言宗の寺院#8(神護寺・西明寺・祗王寺)の問題です。●神護寺(右京区)・正しくは( 寺)・延暦年間に( )が河内国に建立した( 寺)を天長元年(824)に( 山)に 移し、当地にあった( 寺)と合弁、( 寺)とされた。・延暦21年(802)に( )が( )の招きで( )を行い、大同4年(809)には ( )が入寺。弟子の( )が宝塔を建て、( 像)を安置した。・仁安3年(1168)に中興の祖( )が再興に着手、( 法皇)に( ) (国宝)を上呈した。・以降、( )や( )があいつで入寺。・重文の( 堂)は( の )とも呼ばれ、小さな厨子に中に重文の ( 像)を安置する、住宅風の建物。・国宝の絵画(伝 像)(伝 像)(伝 像)・大和絵の優品( )(写真)や、( )が( )より請来した曼荼羅を手本に 描かれた、現存最古の( 図)である( )が国宝に指定される。 ( 像)が重文。・( )筆、( )は国宝で、弘仁3年(812)とその翌年に( )が( ・ )を( )や弟子の( )らに伝授したときに、この灌頂を受けた者の 名簿。・金堂本尊の( 像)や( )本尊の( 像) (( )安置))が国宝●西明寺(右京区)・天長年間(824-34)に空海の甥である( )が( 寺)の別院として開創。・堂舎は( )(( )の生母)が元禄年間に寄進したとされる。 ・本尊の( 像)は重文で( 式)の像。( )作と伝える。 他に( 像)も重文・この地は( )と呼ばれる。●祗王寺(右京区)・( )の弟子、( )が創建したという( )の跡にあたる。・( )の寵愛を失った白拍子の( )が母の( )と妹の( )を伴って 剃髪し、この地に隠棲したので、この寺名がある。・堂内には( )( )( )( )( )の像がある。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/11/30
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真言宗の寺院#6(醍醐寺・三宝院・一言寺・六波羅蜜寺補足)の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●醍醐寺(伏見区)・貞観16年(874)(理源大師聖宝)が醍醐山上に草庵を結び(准胝・如意輪)の両観音像を 彫刻し、堂宇に祀ったのが始まり。・延喜7年(907)には(醍醐天皇)の勅願寺となり、(薬師堂)が建立され、次第に山上の 伽藍が整った。その後、山下にも大伽藍が形成された。・醍醐寺80代座主(義演)の努力と(豊臣秀吉)の篤い帰依により復興。・10数万点の文化財。うち(4万点)が国宝・重文・五重塔は国宝。(京都府下で現存最古の木造建築)・本堂の(A:金堂)上醍醐の(薬師堂)、(清滝宮拝殿)が国宝。 Aは平安後期の建築で、(豊臣秀吉)の意向を受けて慶長5年(1600)に、紀州湯浅の (満願寺)本堂を移築したといわれている。・五重塔は、天暦5年(951)建立で、総高(38メートル)。・(薬師堂)は上醍醐に現存する最古の建物。・重文建物は、下醍醐の(清滝宮本殿)、上醍醐の(開山堂)や(如意輪堂)など。・彫刻では(霊宝館)安置の、(薬師如来像)が国宝。・重文では(如意輪観音像)や(快慶)の不動明王坐像など。・絵画は(五大尊像)(訶梨帝母像)、(絵因果経)などが国宝。五大尊像 軍荼利明王・俵屋宗達の代表作(舞楽図)(扇面散図)は重文。・書跡では弘法大師筆の(大日経開題)や(後醍醐天皇宸翰天長印信)が国宝・(醍醐花見短籍)が重文。・工芸では(金銅両界曼荼羅)などが重文・上醍醐の(准胝堂)は西国三十三観音霊場の(第十一番札所)・2月23日に(五大力尊仁王会)が行われる。(餅上げ力奉納)がある。 優勝者には(鏡餅)が授与される。・4月第2日曜 (豊太閤花見行列)●三宝院(伏見区)(醍醐寺塔頭)・(修験道当山派)の法頭。・永久3年(1115)醍醐寺第14世座主(勝覚)の創建・(表書院)は(寝殿造)の様式を伝える(桃山時代)を代表する建造物で国宝。・(唐門)は国宝で勅使門。門扉には(菊と桐)の4つの大きな紋に金箔が施されていた。・重文の(奥宸殿)にある違い棚は(醍醐棚)。 (修学院離宮)の(霞棚)、(桂離宮)の(桂棚)とともに「天下の三大名棚」・(本堂)は重文で、三宝院内にあった(護摩堂)を移築したもので、(護摩堂)と も呼ばれる。・本尊の(弥勒菩薩坐像)は(快慶)作。・三宝院庭園は国の(特別史跡)および(特別名勝)●一言寺(伏見区)(醍醐寺塔頭)・正しくは(金剛王院)・かつては(醍醐五門跡)のひとつ。 三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院・平安末期に(金剛王院流)の祖である(▲聖賢)が創建。 (三宝院流)(理性院流)も含めた(醍醐三流)のなかでも随一となった。・明治28年には付近の(阿波内侍)が建立したという(一言寺)址に移転。・本尊は(一言観音)とも呼ばれる。・8月17日の(金剛王院観音供)には(柴灯大護摩火渡り)が、12月18日には (中風除けお粥接待)が行われる。●六波羅蜜寺 補足・皇服茶~(結び昆布)と(小粒梅)を(若水)で入れた(煎茶)に入れる。 (空也上人)が薬茶をふるまったことに始まる。 (村上天皇)も服したことからの名称。・万灯会~(開白法要)(▲大万灯点灯法要)(▲送り万灯点灯法要) 人形文字(大)の形に点灯よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/11/29
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真言宗の寺院#7(法界寺・安楽寿院・広隆寺)の問題です。●法界寺(伏見区)・通称( )( )・永承6年(1051)に( )がこの地にあった日野家の山荘を寺に改めた。・親鸞は、この人物から4代目にあたる( )を父に( )を母として当寺で 誕生した。・通称は、( )作という創建時の本尊(( ))が( 時代)の( )の 胎内に納められ、古くから女性の参拝が多かったことにちなみ、今も( 祈願)の 信仰を集める。・重文の本堂( 堂)は、康正2年(1465)に建立された( 寺)本堂(奈良県)を明治 に移築したもの。・( 堂)は平安末期の特長を残す建築物で、( 像)とともに国宝。●安楽寿院(伏見区)・( 上皇)が( 殿)の東殿に御堂を建立したのが始まり。・保元元年(1156)には本御塔に( 法皇)が葬られ、長寛元年(1163)には( 上皇) の中宮である( )のために建立された新御塔に子の( 天皇)を改葬した。・慶長年間に( )が復興。●広隆寺(右京区)・本尊は( )・( 寺)( 寺)などとともに( 寺)の一つ・古くは( 寺)( 寺)といい( の 堂)とも呼ばれる。・推古天皇11年(603)に( )が( )から仏像を賜り、本尊として建立。・承和3年(836)に中興の祖とする( )が再興に着手。・本尊は( )から( )そして( 像)となった。・境内西北側にある( 本堂)は国宝。・講堂は重文で( )のため( )とも呼ばれる・仏像では国宝第1号の( 像)( 弥勒)とも呼ばれる。材質は( )・もう一つの弥勒菩薩は( 弥勒)、別名( 弥勒)と呼ばれる。 材質は( )・( )の弟子( )作の十二神将像、( 立像)(写真)、 ( 立像)などが国宝。十二神将像の作者は( 仏所)を作った。 ちなみに、七条仏所は( )、七条大宮仏所は( )が作った。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/29
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真言宗の寺院#5(神泉苑・誠心院・勧智院)の解答です。●神泉苑(上京区)・平安京造営の際の(禁苑)・(法成就池)の中央に天長元年(824)(空海)が勧請して祈雨の修法を行った(善女龍王)を祀る。・中国の禁苑にならって造営された苑内には(乾臨閣)や左右の楼閣、(釣殿)などを建立、 桓武天皇以降、歴代の天皇が行幸遊宴を行った。・貞観年間(859-77)には現在の祇園祭の発祥となる(御霊会)が二度行われ、全国の国の数にあたる (66本)の鉾を立てて、神泉苑の池水で清めた。 これ以降(禁苑)と(霊場)の性格を併せ持つようになった。・慶長7年(1602)に神泉苑の泉を利用して二条城の(内堀)が造営されるに伴い、苑域が縮小された。・慶長12年に(快雅)が中興して真言宗寺院となった。・神泉苑大念仏狂言が(5月)に行われる。●誠心院(上京区)・通称は(和泉式部寺)・正式名(東北寺誠心院)は(式部)の院号・平安中期、(藤原道長)が娘の(上東門院彰子)に請われ、(法成寺)内の(東北院)の中に、 (和泉式部)のために、のちに(小御堂)と呼ばれるお堂を建てたことが起こり。・鴨川の氾濫にたびたびあい、一条小川上ルの(請願寺)隣地に移り、天正年間(1573-92)に 現在地に移転・(和泉式部)の墓という、(石造宝篋印塔)がある。●勧智院(南区)(東寺の子院)・延文4年(1359)頃に(杲宝)が造営を始めた。・東寺の教学研究の中心として(15)ある子院の中でも随一で、江戸時代には真言宗の(勧学院) であった。・典籍や仏画、仏像などを集めた(金剛蔵聖教)は質・量ともわが国の最高峰とされる。・本尊の(▲五大虚空蔵菩薩像)(重文)は入唐八家の一人である(▲恵運)の請来仏で(唐)時代 の作。・国宝の(東宝記)は(杲宝)と2世の(賢宝)が編集した(東寺)の寺誌である。・国宝の客殿には(宮本武蔵)筆と伝える、床の間の(鷲の図)や襖絵の(竹林図)がある。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/28
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醍醐寺・三宝院・一言寺・六波羅蜜寺についての問題です。●醍醐寺(伏見区)・貞観16年(874)( 大師 )が醍醐山上に草庵を結び( ・ )の両観音像を 彫刻し、堂宇に祀ったのが始まり。・延喜7年(907)には( 天皇)の勅願寺となり、( )が建立され、次第に山上の 伽藍が整った。その後、山下にも大伽藍が形成された。・醍醐寺80代座主( )の努力と( )の篤い帰依により復興。・10数万点の文化財。うち( 点)が国宝・重文・五重塔は国宝。( で現存最古の木造建築)・本堂の(A: )上醍醐の( )、( )が国宝。 Aは平安後期の建築で、( )の意向を受けて慶長5年(1600)に、紀州湯浅の ( 寺)本堂を移築したといわれている。・五重塔は、天暦5年(951)建立で、総高( メートル)。・( )は上醍醐に現存する最古の建物。・重文建物は、下醍醐の( )、上醍醐の( )や( )など。・彫刻では( )安置の、( 像)が国宝。・重文では( 像)や( )の不動明王坐像など。・絵画は( 像)( 像)、( )などが国宝。・俵屋宗達の代表作( 図)( 図)は重文。・書跡では弘法大師筆の( )や( 天皇宸翰 )が国宝・( 短籍)が重文。・工芸では( )などが重文・上醍醐の( )は西国三十三観音霊場の(第 番札所)・2月23日に( 会)が行われる。( 奉納)がある。 優勝者ぬは( )が授与される。・4月第2日曜 ( )●三宝院(伏見区)(醍醐寺塔頭)・( 派)の法頭。・永久3年(1115)醍醐寺第14世座主( )の創建・( )は( 造)の様式を伝える( 時代)を代表する建造物で国宝。・( 門)は国宝で勅使門。門扉には( と )の4つの大きな紋に金箔が施されていた。・重文の( )にある違い棚は( 棚)。 ( )の( 棚)、( )の( 棚)とともに「天下の三大名棚」・( )は重文で、三宝院内にあった( 堂)を移築したもので、( 堂)と も呼ばれる。・本尊の( 像)は( )作。・三宝院庭園は国の( )および( )●一言寺(伏見区)(醍醐寺塔頭)・正しくは( )・かつては( )にひとつ。 三宝院・金剛王院・理性院・無量寿院・報恩院・平安末期に( 流)の祖である( )が創建。 ( 流)( 流)も含めた( 流)のなかでも随一となった。・明治28年には付近の( )が建立したいう( 寺)址に移転。・本尊は( 観音)とも呼ばれる。・8月17日の( )には( )が、12月18日には ( 接待)が行われる。●六波羅蜜寺 補足・皇服茶~( )と( )を( )で入れた( )に入れる。 ( 上人)が薬茶をふるまったことに始まる。 ( 天皇)も服したことからの名称。・万灯会~( 法要)( 法要)( 法要) 人形文字( )の形に点灯よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/11/28
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真言宗の寺院#4の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●上品蓮台寺(北区)・(十二坊)ともいう・開創(聖徳太子)・再興(宇多天皇)・天徳4年(▲寛空)が寺観を整えて真言宗の道場に。・文禄年間(1592-96)に(根来寺)の(性盛)が復興。 同僧は(清閑寺)も再興・墓地:仏師(定朝)や室町時代の金工家(後藤家)の墓 空海の母(阿刀氏)の塔と伝える五輪塔も。・国宝:(天平時代)の(絵因果経)・蜘蛛塚:熱病の(源頼光)に、怪しげな法師。 銘刀(膝丸)で切り付けると消えた。 血痕を(四天王)に辿らせる。 北野の社の塚で血痕が消える。 (渡辺綱)塚を掘り返す。巨大蜘蛛。 串刺しにして賀茂の河原。頼光の熱下がる。●引接寺(上京区)・本尊は(閻魔王)・通称(千本閻魔堂)・(お精霊迎え)の行事で知られる。 (迎え鐘)は(蓮台野)の死者を葬るときに撞いたという。・ゑんま堂大念仏狂言は(5月)に行われる。・室町時代には(大念仏狂言)や(勧進能)などが行われ、民衆の(町堂)に。・(普賢象桜)は(後小松天皇)ゆかり。(佐野藤右衛門)氏の寄進・現在の本尊は仏師(定勢)によってつくられた。補足:小野篁が閻魔像を刻み、この地にお祀りしたのが始まりと伝えられる。恵心僧都源信の門下、定覚上人が、創建・開山されたと伝える。ゑんま堂大念仏狂言は定覚が始めたと伝える。●雨宝院(上京区)・(西陣聖天)とも呼ばれる・(弘法大師二十一ヵ所巡り)の一つ・平安初期、(嵯峨天皇)の(御悩平癒)を(弘法大師)が等身大の(歓喜天像)を 作って祈願した。その功績によって大師は天皇の別荘であった(時雨亭)を賜り、 (雨宝堂)=(▲大聖歓喜寺)としたことに由来するとういう。・開基は(弘法大師)とされる。・観音堂に安置される(千手観音立像)は平安初期の作風を示して重文。・本堂前の桜は(歓喜桜)と称される(御室桜)と同種の八重桜で、開花時には根元 から花をつける。●大報恩寺(上京区)・通称(千本釈迦堂)・承久3年(1221)に(▲求法上人義空)が小堂を建立して仏像を祀ったのが起こり。・嘉禎元年(1235)に(倶舎)(天台)(真言)三宗弘通(ぐづう)の道場として隆盛。・国宝の本堂は安貞元年(1227)の建立で、(京都市街地)では現存最古の木造建築。・(行快)作 釈迦如来坐像 (快慶)作 十大弟子像 (定慶)作 六観音菩薩像 など重文__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/27
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真言宗の寺院編問題#5です。●神泉苑(上京区)・平安京造営の際の( )・( 池)の中央に天長元年(824)( )が勧請して祈雨の修法を行った( )を祀る。・中国の禁苑にならって造営された苑内には( )や左右の楼閣、( )などを建立、 桓武天皇以降、歴代の天皇が行幸遊宴を行った。・貞観年間(859-77)には現在の祇園祭の発祥となる( )が二度行われ、全国の国の数にあたる ( 本)の鉾を立てて、神泉苑の池水で清めた。 これ以降( )と( )の性格を併せ持つようになった。・慶長7年(1602)に神泉苑の泉を利用して二条城の( )が造営されるに伴い、苑域が縮小された。・慶長12年に( )が中興して真言宗寺院となった。・神泉苑大念仏狂言が( 月)に行われる。●誠心院(上京区)・通称は( 寺)・正式名( 寺 院)は( )の院号・平安中期、( )が娘の( )に請われ、( 寺)内の( )の中に、 ( )のために、のちに( )と呼ばれるお堂を建てたことが起こり。・鴨川の氾濫にたびたびあい、一条小川上ルの( 寺)隣地に移り、天正年間(1573-92)に 現在地に移転・( )の墓という、( )がある。●勧智院(南区)(東寺の子院)・延文4年(1359)頃に( )が造営を始めた。・東寺の教学研究の中心として( )ある子院の中でも随一で、江戸時代には真言宗の( ) であった。・典籍や仏画、仏像などを集めた( )は質・量ともわが国の最高峰とされる。・本尊の( 像)(重文)は入唐八家の一人である( )の請来仏で( )時代の作。・国宝の( )は( )と2世の( )が編集した( )の寺誌である。・国宝の客殿には( )筆と伝える、床の間の( )や襖絵の( )がある。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/27
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真言宗の寺院#3の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●清閑寺(東山区)・延暦21年(802)に比叡山の(紹継)が創建・平安時代中期の(一条天皇)のころ、勅願寺となり、のちに(▲六条・高倉)両天皇が 当地に葬られた。・慶長年間(1596-1615)に、(根来寺)の(性盛)が再興、天台宗から真言宗になった。・「平家物語」で知られる(小督局)は(高倉天皇)の愛妾で、当寺で出家した。・幕末の勤王僧である(月照)と(西郷隆盛)が密議を交わした場所でもある。●智積院(東山区)・慶長5年(1600)に(徳川家康)が(紀州根来寺)の(智積院玄宥僧正)に土地を与え、 (根来寺)の正式名にちなんで(▲五百佛山根来寺智積院)という坊舎講堂を建立した ことに始まる。・その地は(豊国社)の坊舎の一部と、豊臣秀吉が長男の(棄丸(鶴松))を供養する ために建てた(祥雲禅寺)であった。・同八年には幕府から(智積院法度)が下され、豊臣氏滅亡の元和元年(1615)には (祥雲禅寺)の建物・障壁画、豊国社の堂舎・梵鐘を受け継いだ。 のちに末寺の学生僧の教学専門学寮として繁栄したが、数度の火災にあい、幕末には 学寮が(土佐藩屯所)になるなどして、講学も一時衰えた。・(書院)前の庭園は、国の(名勝)に指定されており、延宝2年(1674)、(祥雲禅寺) 時代の庭を修築したもので、中国の(廬山)をかたどったと伝える。・国宝の(桜楓図)は、(長谷川等伯)筆の(楓図)と、長男の(久蔵)が描いたとされ る(桜図)で、(祥雲禅寺)客殿に描かれていた障壁画。●六波羅蜜寺(東山区)・応和3年(963)に(空也)が鴨川の東岸に一堂を建て、(西光寺)としたのに始まる。・貞元2年(977)に(▲中信)が入寺して現称となり、天台宗の別院となった。・永正年間(1504-21)に(秘仏開帳)などにより勧進をすすめて再建し、文禄4年(1595) に真言宗となった。・正月の(皇服茶)、八月の(万灯会)、12月の(空也踊躍念仏=かくれ念仏)などが 有名。皇服茶・本尊の国宝(十一面観音像)は(空也)の自刻と伝える。 宝物館の(地蔵菩薩坐像)もよく知られる。・(空也上人立像)は重文で鎌倉時代の仏師(運慶)の4男である(康勝)の手になるもの。 (平清盛像)と(運慶)(湛慶)の像は、重文。 (運慶)(湛慶)の像は、もともと同寺の境内にあった(十輪院)の本尊の両脇に安置さ れていたとものという。・西国三十三観音霊場の(第17番)札所・都七福神まいりの一つ(弁財天)__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/26
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真言宗の寺院につての問題#4です。●上品蓮台寺(北区)・( )ともいう・開創( )・再興( )・天徳4年( )が寺観を整えて真言宗の道場に。・文禄年間(1592-96)に( 寺)の( )が復興。 同僧は( 寺)も再興・墓地:仏師( )や室町時代の金工家( 家)の墓 空海の母( )の塔と伝える五輪塔も。・国宝:( 時代)の( )・蜘蛛塚:熱病の( )に、怪しげな法師。 銘刀( )で切り付けると消えた。 血痕を( )に辿らせる。 北野の社の塚で血痕が消える。 ( )塚を掘り返す。巨大蜘蛛。 串刺しにして賀茂の河原。頼光の熱下がる。●引接寺(上京区)・本尊は( )・通称( 堂)・( )の行事で知られる。 ( )は( )の死者を葬るときに撞いたという。・ゑんま堂大念仏狂言は( )に行われる。・室町時代には( )や( )などが行われ、民衆の(町堂)に。・( )は( 天皇)ゆかり。( )氏の寄進・現在の本尊は仏師( )によってつくられた。●雨宝院(上京区)・( )とも呼ばれる・( 巡り)の一つ・平安初期、( 天皇)の( )を( )が等身大の( 像)を 作って祈願した。その功績によって大師は天皇の別荘であった( )を賜り、 ( )=( 寺)としたことに由来するとういう。・開基は( )とされる。・観音堂に安置される( 像)は平安初期の作風を示して重文。・本堂前の桜は( )と称される( )と同種の八重桜で、開花時には根元 から花をつける。●大報恩寺(上京区)・通称( )・承久3年(1221)に( 上人 )が小堂を建立して仏像を祀ったのが起こり。・嘉禎元年(1235)に( )( )( )三宗弘通( )の道場として隆盛。・国宝の本堂は安貞元年(1227)の建立で、( )では現存最古の木造建築。・( )作 釈迦如来坐像 ( )作 十大弟子像 ( )作 六観音菩薩像 など重文釈迦如来坐像__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/26
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真言宗の寺院編#2の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●泉涌寺・由来:斉衡3年(856)に(藤原緒嗣)が帰依した(神修上人)が(法輪寺)として創建 した。後に(仙遊寺)と改称された・建保6年(1218)に当寺の開山である(俊芿律師)に、この寺が寄進され、境内に新しい 泉が湧き出たことにちなみ、泉涌寺と改めたという。・元仁元年(1224)に(御願寺)となり、(律)を本宗に(真言)(天台)(禅)(浄土) の五宗兼学道場とされた。・仁治3年(1242)に(四条天皇)が没し、寺内に御陵が造られて以来、(後水尾) (後光明天皇)など(二十五方)の御陵が営まれ皇室の(菩提所)すなわち(香華院) となった。この御陵は(月輪陵・後月輪陵)と呼ばれる。・(仏殿)は寛文8年(1668)の造営で重文。・(楊貴妃観音堂)に安置されている重文の(聖観音像)は(玄宗皇帝)が(楊貴妃)を 偲んで香木をもって造らせたものと伝える(宋)伝来の像で(楊貴妃観音)と通称され ている。・国宝の(泉涌寺勧縁疏)は(俊芿律師)が10万檀越の喜捨をあおぐために書き、 (後鳥羽上皇)が上覧したもの。・毎年成人の日に(泉山七福神めぐり)がある。・3月14日~16日は(涅槃会)があり、縦16メートル、横8メートルの(明誉古礀)作 日本最大の涅槃図が公開される。 ・仏殿の蟠龍図は(狩野探幽)作、舎利殿の蟠龍図は(狩野山雪)筆で(鳴龍)と 呼ばれる。●今熊野観音寺(泉涌寺塔頭)・(空海)が熊野権現の化身の老翁から十一面観音像を授けられて建立し、(藤原緒嗣) が造立。・(後白河法皇)の病気平癒の伝承から(中風・頭痛平癒)の観音として知られる。 ・西国三十三所観音霊場の(第十五番札所)。●雲龍院(泉涌寺別院)・応安5年(1372)に(後光厳天皇)が創建。・開山は(竹巌聖皐)・(後円融・後小松両天皇)の帰依を受けて発展し、文亀2年(1502)、(後土御門天皇) の(御黒戸御殿)を(後柏原天皇)より下賜され(写経道場)とした。・寛永16年(1639)に中興の祖である(如周正専)が(後水尾上皇)の援助で修復。・本堂は重文で(龍華殿)と呼ばれている・(土佐光信)筆の(後円融院宸影)は重文●即成院(泉涌寺塔頭)・前身は(源信)が伏見に建立した(光明院)・寛治年間(1087-94)ぬい(藤原頼通)の子(橘俊綱)が同地に山荘を造営するとき、 (光明院)を持仏堂として阿弥陀如来および二十五菩薩像を安置し、(伏見寺)または (即成院(即成就院))とした。・現在地には明治期に移って、(▲法安寺)と呼び、昭和になってから現称となった。・(那須与一)の墓がある。・(ポックリ信仰)の寺としても有名。・(木造阿弥陀如来)および(二十五菩薩坐像)は重文。・毎年10月に(二十五菩薩お練り供養法会)がある。●来迎院(泉涌寺塔頭)・(大石内蔵助)ゆかりの寺。・(▲藤原信房)建立・(弘法大師独鈷水)と呼ばれる霊泉がある。・重文の荒神坐像は(ゆな荒神)と呼ばれて、(安産祈願)の信仰を集める。・庭園(含翠庭)と茶室(含翠軒)は、(内蔵助)作とする。・重文の五体の(眷族護法神)を所蔵__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/25
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真言宗の寺院についての問題#3です。●清閑寺(東山区)・延暦21年(802)に比叡山の( )が創建・平安時代中期の( 天皇)のころ、勅願寺となり、のちに( ・ )両天皇が 当地に葬られた。・慶長年間(1596-1615)に、( 寺)の( )が再興、天台宗から真言宗になった。・「平家物語」で知られる( )は( 天皇)の愛妾で、当寺で出家した。・幕末の勤王僧である( )と( )が密議を交わした場所でもある。●智積院(東山区)・慶長5年(1600)に( )が( 寺)の( 僧正)に土地を与え、 ( 寺)の正式名にちなんで( )という坊舎講堂を建立した ことに始まる。・その地は( )の坊舎の一部と、豊臣秀吉が長男の( ( ))を供養する ために建てた( 寺)であった。・同八年には幕府から( )が下され、豊臣氏滅亡の元和元年(1615)には ( 寺)の建物・障壁画、豊国社の堂舎・梵鐘を受け継いだ。 のちに末寺の学生僧の教学専門学寮として繁栄したが、数度の火災にあい、幕末には 学寮が( )になるなどして、講学も一時衰えた。・( )前の庭園は、国の( )に指定されており、延宝2年(1674)、( 寺) 時代の庭を修築したもので、中国の( )をかたどったと伝える。・国宝の( 図)は、( )筆の( 図)と、長男の( )が描いたとされ る( 図)で、( 寺)客殿に描かれていた障壁画。●六波羅蜜寺(東山区)・応和3年(963)に( )が鴨川の東岸に一堂を建て、( 寺)としたのに始まる。・貞元2年(977)に( )が入寺して現称となり、天台宗の別院となった。・永正年間(1504-21)に( )などにより勧進をすすめて再建し、文禄4年(1595) に真言宗となった。・正月の( )、八月の( )、12月の( = )などが 有名。・本尊の国宝( 像)は( )の自刻と伝える。 宝物館の( 像)もよく知られる。・( 像)は重文で鎌倉時代の仏師( )の4男である( )の手になるもの。 ( 像)と( )( )の像は、重文。 ( )( )の像は、もともと同寺の境内にあった( )の本尊の両脇に安置さ れていたとものという。・西国三十三観音霊場の(第 番)札所・都七福神まいりの一つ( )__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/25
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真言宗の寺院編#1の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●真言宗・仏教の真髄は歴史を超えた(永久不変)の(実在)であり、宇宙の(森羅万象)に適応 して現れる(大日如来)によって説かれたとする仏教の一派・(インド)で成立し、日本では弘法大師空海を祖とする。・天台宗の密教を(台密)と呼び、真言宗の密教を(東密)という。・空海は初期の活動の拠点を(高雄山寺)におき、のち東寺、高野山を開き、続いて(醍醐寺) (勧修寺)(泉涌寺)(仁和寺)(大覚寺)などが創建され、各派を形成した。 この流れを(古義真言宗)と呼び、一方、平安末期の(覚鑁)によるものを(新義真言宗) と呼ぶ。 後者は江戸末期に、(智積院)による(智山派)と(長谷寺)の(豊山派)に分離した。●勧修寺(山科区)・真言宗(山階派)の大本山・昌泰3年(900)に(藤原胤子)(醍醐天皇の生母)の願いで(藤原定方)(胤子の弟)が祖父の (宮道弥益)の邸宅跡に開創。・(承俊律師)を開山に迎え、のち(醍醐天皇)の勅願寺となる。・本尊の(千手観音)は(醍醐天皇)の等身大とされる。・七世の(寛信)は(勧修寺流)(東密真言宗)の(野沢十二流)の一つで、のちの(山階派) を確立した。・15世の(寛胤法親王)((後伏見天皇)の第七皇子)が入寺して以来、明治維新まで門跡寺院。・(書院)は重文。・(氷室の池)は平安時代の作庭と伝えられ、現在は(睡蓮)の名所。・書院前庭には(水戸光圀)より拝領と伝え(勧修寺型燈籠)が建てられている。・国宝の(刺繍釈迦如来説法図)は(勧修寺繍帳)とも呼ばれ、もとは当寺に伝わるもの。 現在は(奈良国立博物館)の所蔵・鎌倉時代作の(蓮華蒔絵経筥)など多数の寺宝を有する。●隨心院(山科区)・真言宗(善通寺派)の大本山・(小野門跡)ともいう。・(東密)(真言宗)の(事相※)である(小野流)の発祥の寺 (※ 修法や修験などの実践面のこと)・正暦2年(991)に(仁海)が当地に(牛皮曼荼羅)を祀って(曼荼羅寺)を創始したのに始まる。・5世(増俊)のときに隨心院に改め、7世(▲親厳)のときに門跡寺院となった。・(承久)(応仁)の兵乱で衰退し、慶長4年(1599)に復興。・(小野小町)ゆかりの寺で、(化粧の井戸)(深草少将)ほかの(文塚)などが立つ。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/24
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真言宗の寺院編問題#2です。●泉涌寺・由来:斉衡3年(856)に( )が帰依した( 上人)が( 寺)として創建 した。後に( 寺)と改称された。・建保6年(1218)に当寺の開山である( 律師)に、この寺が寄進され、境内に新しい 泉が湧き出たことにちなみ、泉涌寺と改めたという。・元仁元年(1224)に( 寺)となり、( )を本宗に( )( )( )( ) の五宗兼学道場とされた。・仁治3年(1242)に( 天皇)が没し、寺内に御陵が造られて以来、( ) ( 天皇)など( 方)の御陵が営まれ皇室の( )すなわち( ) となった。この御陵は( 陵・ 陵)と呼ばれる。・( )は寛文8年(1668)の造営で重文。・( 堂)に安置されている重文の( 像)は( 皇帝)が( )を 偲んで香木をもって造らせたものと伝える( )伝来の像で( 観音)と通称され ている。・国宝の( )は( 律師)が10万檀越の喜捨をあおぐために書き、 ( 上皇)が上覧したもの。・毎年成人の日に( )がある。・3月14日~16日は( )があり、縦16メートル、横8メートルの( )作 日本最大の涅槃図が公開される。 ・仏殿の蟠龍図は( )作、舎利殿の蟠龍図は( )筆で( )と 呼ばれる。●今熊野観音寺(泉涌寺塔頭)・( )が熊野権現の化身の老翁から十一面観音像を授けられて建立し、( ) が造立。・( 法皇)の病気平癒の伝承から( ・ 平癒)の観音として知られる。 ・西国三十三所観音霊場の(第 番札所)。●雲龍院(泉涌寺別院)・応安5年(1372)に( 天皇)が創建。・開山は( )・( ・ 両天皇)の帰依を受けて発展し、文亀2年(1502)、( 天皇) の( 御殿)を( )より下賜され( )とした。・寛永16年(1639)に中興の祖である( )が( 上皇)の援助で修復。・本堂は重文で( 殿)と呼ばれている・( )筆の( )は重文●即成院(泉涌寺塔頭)・前身は( )が伏見に建立した( )・寛治年間(1087-94)に( )の子( )が同地に山荘を造営するとき、 ( )を持仏堂として阿弥陀如来および二十五菩薩像を安置し、( 寺)または ( ( ))とした。・現在地には明治期に移って、( 寺)と呼び、昭和になってから現称となった。・( )の墓がある。・( 信仰)の寺としても有名。・( )および( )は重文。・毎年10月に( 供養法会)がある。●来迎院(泉涌寺塔頭)・( )ゆかりの寺。・( )建立・( )と呼ばれる霊泉がある。・重文の荒神坐像は( )と呼ばれて、( )の信仰を集める。・庭園( 庭)と茶室( 軒)は、( )作とする。・重文の五体の( )を所蔵__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/24
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天台宗の寺院編#6の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●愛宕念仏寺(右京区)・平安時代より(厄除け)の観音として信仰を集める。・(称徳天皇)の開基により東山区弓矢町付近(旧愛宕郡)に建立された(愛宕寺)に 始まるという。・平安時代初め、天台宗の僧(千観内供)により再興され、(延暦寺)の末寺となった。・鎌倉時代の中期の再建になる(本堂)(重文)を保存するため、大正11年、現在の嵯峨 の地に移築された。・(地蔵堂)には(火之要慎)のお札として知られる(あたご本地仏火除地蔵菩薩)が祀 られている他、境内には一般の参拝者が彫った(約1200体)の石造の羅漢が並べられている。 住職(西村公朝)が進めた。●二尊院(右京区)・寺名は(発遣)の(釈迦如来)と(来迎)の(阿弥陀如来)の二体の本尊に因む・前身は(円仁)が承和年間(834-48)に(嵯峨上皇)の命によって建立した (二尊教院華台寺)・(二尊教院)と(華台寺)の二寺ともいう。・永正年間(1504-21)に(▲広明恵教)が(三条西実隆父子)の援助で復興。・境内に(角倉了以・素庵父子)、(三条実万・実美父子)などの墓がある。・背後の(小倉山)には(藤原定家)ゆかりの(時雨亭)あとと伝える場所がある。●十輪寺(西京区)・嘉祥3年(850)に(文徳天皇の后(染殿皇后))の懐妊・安産を願って創建された。・本尊は(腹帯地蔵)として信仰を集めている。・在原業平の墓と伝える(宝篋印塔)、業平のかつての恋人、(二条后(藤原高子)) の(大原野詣)での際、塩を焼いてその思いを託したという(塩竃の跡)がある。・(鳳輦形)をした本堂は江戸中期の建立で、本尊の他に(禅衣(おいずる)観音)を安置。 この観音は(花山法皇)が(西国三十三所観音霊場)を巡拝するときに背負っていた自作 の観音と伝えられる。●勝持寺(西京区)・白鳳8年(役行者)が創建し、延暦10年(791)に(桓武天皇)の勅を奉じて再建したと 伝える。・所蔵の(細川幽斎)筆の懐紙は、元亀2年(1571)に催された(▲大原野千句連歌)と呼ばれる 連歌会で記されたもの。●吉峯寺(西京区)・(恵心僧都源信)の弟子である(源算)が当地で小堂を建てたのが起こりという。・天喜元年(1053)頃に(源算)がのちの(▲後三条天皇)の皇后の安産を祈願したところ、男子 (後の(▲白河天皇))が生まれ、その功績により伽藍を造営。・鎌倉時代には(▲慈円僧正)や(証空上人)が住持を務め、(青蓮院)の各法親王が代々住職を 務めた。そのため(西山宮門跡)と称された。・その後も、(源頼朝)らの援助を受けて繁栄した.・元禄年間(1688-1704)に(徳川綱吉)の生母である(桂昌院)の寄進によって再興。・国の特別天然記念物(遊龍松)は樹齢(▲600年)といわれる。・夏季の縁日に行われた(薬湯風呂)は(神経痛・腰痛平癒)の効能で知られた。・西国三十三所観音霊場の(第20番札所)__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/23
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真言宗とその寺院についての問題#1です。●真言宗・仏教の真髄は歴史を超えた( )の( )であり、宇宙の( )に適応 して現れる( )によって説かれたとする仏教の一派・( )で成立し、日本では弘法大師空海を祖とする。・天台宗の密教を( )と呼び、真言宗の密教を( )という。・空海は初期の活動の拠点を( 寺)におき、のち東寺、高野山を開き、続いて( 寺) ( 寺)( 寺)( 寺)( 寺)などが創建され、各派を形成した。 この流れを( 真言宗)と呼び、一方、平安末期の( )によるものを( 真言宗) と呼ぶ。 後者は江戸末期に、( )による( 派)と( 寺)の( 派)に分離した。●勧修寺(山科区)・真言宗( 派)の大本山・昌泰3年(900)に( )(( 天皇)の生母)の願いで( )(( )の弟)が 祖父の( )の邸宅跡に開創。・( 律師)を開山に迎え、のち( 天皇)の勅願寺となる。・本尊の( )は( 天皇)の等身大とされる。・七世の( )は( 流)(東密真言宗)の( 流)の一つで、のちの( 派) を確立した。・15世の( 法親王)(( 天皇)の第七皇子)が入寺して以来、明治維新まで門跡寺院。・( )は重文。・( の池)は平安時代の作庭と伝えられ、現在は( )の名所。・書院前庭には( )より拝領と伝え( 型燈籠)が建てられている。・国宝の( 図)は( )とも呼ばれ、もとは当寺に伝わるもの。 現在は( 博物館)の所蔵・鎌倉時代作の( )など多数の寺宝を有する。●隨心院(山科区)・真言宗( 派)の大本山・( 門跡)ともいう。・( )(真言宗)の( ※)である( 流)の発祥の寺 (※ 修法や修験などの実践面のこと)・正暦2年(991)に( )が当地に( )を祀って( 寺)を創始したのに始まる。・5世( )のときに隨心院に改め、7世( )のときに門跡寺院となった。・( )( )の兵乱で衰退し、慶長4年(1599)に復興。・( )ゆかりの寺で、( の )、( )ほかの( )などが立つ。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/23
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天台宗の寺院編#5の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●毘沙門堂(山科区)・正しくは(出雲寺)・鎌倉時代初期に(平親範)が平家ゆかりの3つのお寺を合弁した復興。 (太秦)にあった(平等寺) (五辻)にあった(▲尊重寺) (伏見)にあった(護法寺)・江戸時代に(出雲寺)に伝えられていた毘沙門天像を本尊としたことから毘沙門堂と 呼ばれるようになった。・(後西天皇)の皇子(▲公弁法親王)が入寺して以来、門跡寺院となった。・(本堂)(唐門)(仁王門)は寛文6年(1666)に築造で、華麗な建築様式は (日光東照宮)の手法に共通する。●三十三間堂(東山区)・長寛2年(1164)に(後白河上皇)の勅願によって建立。・豊臣秀吉が(方広寺)を創建した天正14年(1586)には、その(千手堂)となったが、 秀吉没後には(方広寺)とともに天台宗(妙法院)の管理下に置かれた。・(柳のお加持)(三十三間堂通し矢)は1月15日に近い日曜に行う。 前者は正式には(楊枝浄水供)という。・本堂は国宝で(院政期)における(浄土教)寺院の(阿弥陀堂)の空間構成を今に 伝える。京都における鎌倉時代(和様)の代表的遺構。・他に(南大門)(築地塀(太閤塀))がいずれも桃山時代の建築で重文。南大門・(湛慶)の手になる国宝の(千手観音坐像)を中央に、南北(約120メートル)に 及ぶ伽藍内に、(木造千手観音立像)1000体(重文)が立ち並ぶ。・(風神・雷神像)、(二十八部衆像)も国宝。●革堂(中京区)・(▲洛陽七観音)の一つ・開山は(行円)。(皮聖)とも呼ばれる。・西国三十三観音霊場の(第十九番札所)。唯一の(尼寺札所)。・都七福神参りの一つ(寿老神)●六角堂(中京区)・弘仁13年(822)に(嵯峨天皇)の勅願所となり、建仁元年(1201)には親鸞が当寺に (100日)間籠り、これを(真宗開宗)の契機と伝える・室町時代中頃に(専慶)をはじめ(立花の名手)を輩出したことで知られ、代々 池坊の家元(華道家元 池坊)が当寺の住職を兼ねる。・西国三十三所観音霊場の(第十八番)札所。 __________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/22
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天台宗の寺院についての問題#6です。愛宕念仏寺、十輪寺、勝持寺、善峯寺です。●愛宕念仏寺(右京区)・平安時代より( )の観音として信仰を集める。・( 天皇)の開基により東山区弓矢町付近(旧 郡)に建立された( 寺)に 始まるという。・平安時代初め、天台宗の僧( )により再興され、( 寺)の末寺となった。・鎌倉時代の中期の再建になる( )(重文)を保存するため、大正11年、現在の嵯峨 の地に移築された。・( 堂)には( )のお札として知られる( 地蔵菩薩)が祀 られている他、境内には一般の参拝者が彫った(約 体)の石造の羅漢が並べられている。 住職( )が進めた。●二尊院(右京区)・寺名は( )の( )と( )の( )の二体の本尊に因む・前身は( )が承和年間(834-48)に( 上皇)の命によって建立した ( 寺)・( )と( 寺)に二寺ともいう。・永正年間(1504-21)に( )が( 父子)の援助で復興。・境内に( ・ 父子)、( ・ 父子)などの墓がある。・背後の( 山)には( )ゆかりの( )あとと伝える場所がある。●十輪寺(西京区)・嘉祥3年(850)に( 天皇の后( 皇后))の懐妊・安産を願って創建された。・本尊は( 地蔵)として信仰を集めている。・在原業平の墓と伝える( )、業平のかつての恋人、( 后( )) の( )での際、塩を焼いてその思いを託したという( の跡)がある。・( 形)をした本堂は江戸中期の建立で、本尊の他に( 観音)を安置。 この観音は( 法皇)が(西国三十三所観音霊場)を巡拝するときに背負っていた自作 の観音と伝えられる。●勝持寺(西京区)・白鳳8年( )が創建し、延暦10年(791)に( 天皇)の勅を奉じて再建したと 伝える。・所蔵の( )筆の懐紙は、元亀2年(1571)に催された( 連歌)と呼ばれる 連歌会で記されたもの。●善峯寺(西京区)・( 僧都 )の弟子である( )が当地で小堂を建てたのが起こりという。・天喜元年(1053)頃に( )がのちの( 天皇)の皇后の安産を祈願したところ、男子 (後の( 天皇))が生まれ、その功績により伽藍を造営。・鎌倉時代には( 僧正)や( 上人)が住持を務め、( )の各法親王が代々住職を 務めた。そのため( 門跡)と称された。・その後も、( )らの援助を受けて繁栄した.・元禄年間(1688-1704)に( )の生母である( )の寄進によって再興。・国の特別天然記念物( )は樹齢( 年)といわれる。・夏季の縁日に行われた( )は( ・ 平癒)の効能で知られた。・西国三十三所観音霊場の(第 番札所)__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/22
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天台宗の寺院編#4の解答です。●真如堂(左京区)・正しくは(真正極楽寺)・(円仁)が唐から帰朝するときに、船上に現れた(阿弥陀如来)を彫刻して、 延暦寺に(常行堂)に祀り、永観2年(984)に(戒算)がこの像を移したのに 始まるという、・(足利義政)の寄進によって現在地に再建された。・本堂は、京都市内の(天台宗本堂)として最大規模、重文。・本堂の北西に(洛陽観音霊場)として知られる(▲新長谷観音堂(新長谷寺)) がある。・本尊阿弥陀如来は(洛陽六阿弥陀巡り)の一つ・3月1日~31日 宝永年間に描かれた縦6メートル、横4メートルの極彩色 (涅槃図)が公開され、(花供曽あられ)が授与される。・7月25日 (宝物虫払会) (安倍晴明)奉納極楽往生の(秘印)を授与、暑気払い(びわ湯)接待など。・洛陽六阿弥陀巡り 第1番 真正極楽寺(真如堂) 第2番 (禅林寺(永観堂)) 第3番 (清水寺▲阿弥陀堂) 第4番 (安祥院(日限さん)) 第5番 (安養寺(倒蓮華寺)) 第6番 (誓願寺)●青蓮院(東山区)・(粟田御所)ともいう・平安初期の比叡山の(青蓮房)が始まり。・(天台宗三門跡)の一つ。 もう二つは(妙法院)(三千院)・天台宗五門跡(京都五箇室門跡) 三門跡に加え、(毘沙門堂)(曼殊院)・天養元年(1144)に天台座主の(▲行玄)が(▲三条白川坊)で、門跡寺院としての 初代となり、(▲鳥羽法皇)の命により青蓮院となった。・(豊臣秀吉)(徳川家康)によって再興された。・境内全域が国の(史跡)・庭園は(龍心池)を中心とした池庭で、(跨龍橋)と呼ばれる石橋がかかり(洗心滝) が配されている。(秀吉)寄進の(一文字型手水鉢)は有名で、書院北東部側には (キリシマツツジ)を中心とした(小堀遠州)作の(霧島の庭)がある。・茶室(好文亭)の周囲には(秀吉)寄進の(神輿型燈籠)(蓮花寺型燈籠)が巧みに 配されている。・国宝の(不動明王二童子画像)は(青不動)といい、(日本三大不動)の一つ。・江戸時代の公文書の書体となった(御家流)は当院門主の入道(尊円親王)を創始者 とする。●妙法院・(後白河法皇)が(新熊野神社)を勧請するときに(▲西塔本覚院)の(▲昌運)が別当と なって(法住寺)付近に創始。・鎌倉初期に(▲尊性法親王)((▲後高倉院)の皇子)が入寺して以来、(梶井門跡)(三千院)や(青蓮院門跡)とともに三門跡の一つに数えられた。・(豊臣秀吉)が(方広寺)を建立するときに当寺を(経堂)として、その寄進を受けて 復興。・国宝の(庫裏)は桃山時代の造営。近世の庫裏が(居住機能)を併せ持つのに対し、 庫裏本来の(調菜喫飯)の場のみに限定されている。・他に(▲大書院)・(大玄関)が重文。・秀吉宛の(ポルトガル国印度副王信書)は国宝。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/21
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天台宗の寺院についての問題#5です。毘沙門堂、三十三間堂、革堂、六角堂です。●毘沙門堂(山科区)・正しくは( 寺)・鎌倉時代初期に( )が平家ゆかりの3つのお寺を合弁した復興。 ( )にあった( 寺) ( )にあった( 寺) ( )にあった( 寺)・江戸時代に( 寺)に伝えられていた毘沙門天像を本尊としたことから毘沙門堂と 呼ばれるようになった。・( 天皇)の皇子( 法親王)が入寺して以来、門跡寺院となった。・( )( )( )は寛文6年(1666)に築造で、華麗な建築様式は ( )の手法に共通する。●三十三間堂(東山区)・長寛2年(1164)に( 上皇)の勅願によって建立。・豊臣秀吉が( 寺)を創建した天正14年(1586)には、その( 堂)となったが、 秀吉没後には( 寺)とともに天台宗( 院)の管理下に置かれた。・( )( )は1月15日に近い日曜に行う。 前者は正式には( )。・本堂は国宝で( 期)における( 教)寺院の( 堂)の空間構成を今に 伝える。京都における鎌倉時代( 様)の代表的遺構。・他に( 門)( ( ))がいずれも桃山時代の建築で重文。・( )の手になる国宝の( 像)を中央に、南北(約 メートル)に 及ぶ伽藍内に、(木造 像)1000体(重文)が立ち並ぶ。・( ・ 像)、( 像)も国宝。●革堂(中京区)・( )の一つ・開山は( )。( )とも呼ばれる。・西国三十三観音霊場の(第 番札所)。唯一の( 札所)。・都七福神参りの一つ( )●六角堂(中京区)・弘仁13年(822)に( 天皇)の勅願所となり、建仁元年(1201)には親鸞が当寺に ( 日)間籠り、これを( )の契機と伝える・室町時代中頃に( )をはじめ( の名手)を輩出したことで知られ、代々 池坊の家元(華道家元 池坊)が当寺の住職を兼ねる。・西国三十三所観音霊場の(第 番)札所。 __________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/21
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天台宗の寺院編#3の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●延暦寺(大津市)・奈良の諸大寺(南都)に対して(北嶺)、園城寺の(寺門)に対しては(山門)と 呼ばれる。・延暦4年(785)に最澄(伝教大師)が比叡山で修行して(薬師堂)(のちの(一乗止観院) を建立、最澄自らが彫った(薬師如来像)を祀ったことに始まる。・その後、最澄は同24年に(入唐求法)から帰国して、(天台法華宗)の確立に奔走した が、弘仁13年(822)に没した。その直後に当寺は(大乗戒壇)設立の勅許を得て翌年に 延暦寺となった。・最澄のあとを継いだ三代座主(円仁(慈覚大師))、五代(円珍(智証大師))によって 次第に(密教化)していった。・康保3年(966)に十八代天台座主となった(良源(慈恵大師・元三大師))は、急速に寺基 を拡大、(東塔)(西塔)(横川)の(三塔十六谷)に(三千)といわれる寺坊を持つ 一大寺院群を形成するにう至った。・(良源)没後、(円仁派)と(円珍派)に分かれて対立、さらに(比叡の山法師)と称され て俗界との関わりを深め、元亀2年(1571)に(織田信長)の焼き討ちを受けて全山が焼失、 その復興は(徳川家康)の時代までかかった。・天台教学は(八宗兼学)といわれ、(鎌倉新仏教)と称される、禅宗や日蓮宗、浄土宗など はすべて延暦寺に端を発する。 (八宗)とは(南都六宗)の(三論、法相、華厳、律、成実、倶舎)+(真言)(天台)・根本中堂は寛永19年(1642)落慶で国宝。正面をコの字に取り囲む(回廊)も同時期の建築で 重文。・(常行堂)と(法華堂)は、文禄4年(1595)の再建んじなるもので(西塔)にある。 両者合わせて(にない堂)ともいわれる。・他に東塔の(戒壇院)(大講堂)、西塔の(転法輪堂)、(▲瑠璃堂)、(相輪橖)が 重文。●曼殊院(左京区)・(最澄)が(比叡山)に一堂を建立したことに始まる・(円仁)が継いだ後、各所に移築されたが、明治2年(1656)(良尚法親王)の時に現在地 に移転した。・(▲竹内門跡)ともいわれ、文明年間(1469-87)に(▲慈運(▲伏見宮貞常法親王の子))が 入寺して以降、門跡寺院となった。・桂離宮を作った(八条宮智仁親王)の子(良尚法親王)によって作られた茶室が(八窓軒) で(三畳台目)の席。 (古田織部)や(小堀遠州)の好みを取り入れ、貴族趣味を加味したもので、多数の窓に よる光の演出が見事。・書院前の枯山水庭園にある(鶴亀の松)は樹齢(400年)と伝え、根元に(曼殊院型石燈籠) が据えられている。・小書院の縁先に置かれた手水鉢は(梟の手水鉢)と呼ばれる。・書院庭園は国の(名勝)。・国宝として(黄不動)の通称で呼ばれる(不動明王像)がある。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/20
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天台宗の寺院についての問題#4です。●真如堂(左京区)・正しくは( 寺)・( )が唐から帰朝するときに、船上に現れた( )を彫刻して、 延暦寺の( 堂)に祀り、永観2年(984)に( )がこの像を移したのに 始まるという、・( )の寄進によって現在地に再建された。・本堂は、京都市内の( 本堂)として最大規模、重文。・本堂の北西に( )として知られる( 堂( 寺)) がある。・本尊阿弥陀如来は( 巡り)の一つ・3月1日~31日 宝永年間に描かれた縦6メートル、横4メートルの極彩色 ( )が公開され、( )が授与される。・7月25日 ( 会) ( )奉納極楽往生の( )を授与、暑気払い( )接待など。・洛陽六阿弥陀巡り 第1番 真正極楽寺(真如堂) 第2番 ( 寺( 堂)) 第3番 ( 寺 堂) 第4番 ( 院( さん)) 第5番 ( 寺( 寺)) 第6番 ( 寺)●青蓮院(東山区)・( 御所)ともいう・平安初期の比叡山の( )が始まり。・( 門跡)の一つ。 もう二つは( 院)( 院)・天台宗五門跡( 門跡) 三門跡に加え、( 堂)( 院)・天養元年(1144)に天台座主の( )が( )で、門跡寺院としての 初代となり、( 法皇)の命により青蓮院となった。・( )( )によって再興された。・境内全域が国の( )・庭園は( 池)を中心とした池庭で、( 橋)と呼ばれる石橋がかかり( 滝) が配されている。( )寄進の( 型手水鉢)は有名で、書院北東部側には ( )を中心とした( )作の( の庭)がある。・茶室( 亭)の周囲には( )寄進の( 型燈籠)( 型燈籠)が巧みに 配されている。・国宝の( 画像)は( )といい、( 不動)の一つ。・江戸時代の公文書の書体となった( 流)は当院門主の入道( 親王)を創始者 とする。●妙法院・( 法皇)が( 神社)を勧請するときに( )の( )が別当と なって(法住寺)付近に創始。・鎌倉初期に( 法親王)(( 院)の皇子)が入寺して以来、( 門跡)(三千院)や( 門跡)とともに三門跡の一つに数えられた。・( )が( 寺)を建立するときに当寺を( )として、その寄進を受けて 復興。・国宝の( )は桃山時代の造営。近世の庫裏が( 機能)を併せ持つのに対し、 庫裏本来の( )の場のみに限定されている。・他に( )・( )が重文。・秀吉宛の( )は国宝。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/20
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天台宗の寺院編#2の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●蓮華寺(左京区)・かつては(時宗)の寺・寛文2年(1662)に(加賀藩)家老の(今枝民部近義)が祖父の(▲重直)を供養する ために現在地に再建した。・庭園は書院前に(高野川)の清流を引きこんだ池庭が広がり、本堂の参道左右に 有名な(蓮華寺型燈籠)が立てられている。 (石川丈山)、(狩野探幽)、その他朱子学者の(木下順庵)、黄檗宗の開祖である 隠元隆き(王偏に埼の右側)や第二世の(木庵性瑫)らが造営に協力したことが、 (黒川道祐)の「東北歴覧之記」に記されている。 上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は(黄檗宗)の 様式の建築と江戸初期の(池泉観賞式)の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった。●補陀洛寺(左京区)・通称は小町寺・小野小町の(墓所)と伝える。・本堂に(小野小町の老衰像)が安置される。・その他、(小町姿見の井戸)、(小町の供養塔)、(深草少将の供養塔)など がある。●実相院(左京区)・(岩倉門跡)とも呼ぶ。・寛永年間(1624-44)に復興。 当時の門跡であった(▲義尊)のあと(後西天皇)の皇子(義延親王)が継ぐと、 以降法統は代々皇孫をもって継承され、(宮門跡)としても寺格を有した。・本堂や(四脚門)、(車寄せ)などは享保年間(1716-36)に移築した(承秋門院) ((東山天皇)の中宮)の旧殿で、御所の建築遺構。・もと(蹴鞠の庭)と伝わる石庭と、反対側に位置する(池泉回遊式庭園)はまったく 趣を異にする。・(滝の間)に映り込む楓が(床緑)(床もみじ)と呼ばれる。・本尊の不動明王は鎌倉時代の作と伝え、主に(江戸狩野)の絵師たちによる 障壁画を多く所蔵する。●赤山禅院(左京区)・(円仁)の遺命により、弟子の(▲安慧)が仁和4年(888)に創建し、 (延暦寺)の(別院)とした。・本尊は(赤山明神(泰山府君))とされる。・(方除け)の神として信仰を集め、当寺の御札は(鬼門除け)になるという。・都七福神まいりの一つ(福禄寿)。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/19
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天台宗の寺院につての問題#3です。●延暦寺(大津市)・奈良の諸大寺( )に対して( )、園城寺の( 門)に対しては( 門)と 呼ばれる。・延暦4年(785)に最澄(伝教大師)が比叡山で修行して( )(のちの( )) を建立、最澄自らが彫った( 像)を祀ったことに始まる。・その後、最澄は同24年に( )から帰国して、( 宗)の確立に奔走した が、弘仁13年(822)に没した。その直後に当寺は( )設立の勅許を得て翌年に 延暦寺となった。・最澄のあとを継いだ三代座主( ( 大師))、五代( ( 大師))によって 次第に( 化)していった。・康保3年(966)に十八代天台座主となった( ( 大師・ 大師))は、急速に寺基 を拡大、( )( )( )の( 塔 谷)に( )といわれる寺坊を持つ 一大寺院群を形成するにう至った。・( )没後、( 派)と( 派)に分かれて対立、さらに( の )と称され て俗界との関わりを深め、元亀2年(1571)に( )の焼き討ちを受けて全山が焼失、 その復興は( )の時代までかかった。・天台教学は( )といわれ、( )と称される、禅宗や日蓮宗、浄土宗など はすべて延暦寺に端を発する。 ( 宗)とは( 宗)の( 、 、 、 、 、 )+( )( )・根本中堂は寛永19年(1642)落慶で国宝。正面をコの字に取り囲む( )も同時期の建築で 重文。・( 堂)と( 堂)は、文禄4年(1595)の再建になるもので( )にある。 両者合わせて( 堂)ともいわれる。・他に東塔の( 院)( )、西塔の( 堂)、( 堂)、( 橖)が 重文。●曼殊院(左京区)・( )が( )に一堂を建立したことに始まる・( )が継いだ後、各所に移築されたが、明治2年(1656)( 法親王)の時に現在地 に移転した。・( 門跡)ともいわれ、文明年間(1469-87)に( ( 宮 法親王の子))が 入寺して以降、門跡寺院となった。・桂離宮を作った( 宮 親王)の子( 法親王)によって作られた茶室が( ) で( 台目)の席。 ( )や( )の好みを取り入れ、貴族趣味を加味したもので、多数の窓に よる光の演出が見事。・書院前の枯山水庭園にある( の )は樹齢(400年4)と伝え、根元に( 型石燈籠) が据えられている。・小書院の縁先に置かれた手水鉢は( の手水鉢)と呼ばれる。・書院庭園は国の( )。・国宝として( )の通称で呼ばれる( 像)がある。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/19
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天台宗とその寺院編#1の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●天台宗・中国の(▲天台智者大師智ぎ)を高祖とし、(伝教大師最澄)を宗祖。 (「ぎ」は偏は山の下に豆、旁は頁)・(草木国土)にいたるまで(仏陀)の生命の顕れであるとする(仏性の開発)に 努め、(自利利他)のため、現実世界に(仏界)を実現することを教義とする。・平安中期、(良源<慈恵大師・元三大師>)を中興として発展し、やがて比叡山 から(栄西)(法然)(親鸞)(日蓮)(道元)(一遍)(空也)ら鎌倉仏教の 祖師たちが輩出した。●三千院・前身は(最澄)が(比叡山東塔)に建てた草庵とされる。・貞観2年(860)には(▲承雲)が最澄自作という薬師如来像をお堂に安置して(円融坊) と呼び、のちに(東坂本)の(梶井)に建てた(円融院)(のちに(円徳院)と改称) を里坊とするのに対して、本坊となった。・大治5年(1130)に(▲最雲法親王<(▲堀河天皇の皇子)>)が円徳院の門主となって 以来、(梶井門跡)として(妙法院)(青蓮院)とともに(天台宗三門跡)の一つ となった。・重文の阿弥陀堂は久安4年(1148)の創建で、正しくは(往生極楽院阿弥陀堂)。・客殿の南側の庭は(聚碧園)と称され、冬でも凍らないという(▲華厳恩愛の手水鉢) が著名・宸殿南側の(瑠璃光庭)は杉苔が特徴的で、その東側いは(有清園)と呼ばれる (▲細波の滝)を擁する庭園が広がる。・仏像の(阿弥陀三尊像)は国宝。 阿弥陀如来の両脇侍である(観世音菩薩)と(勢至菩薩)は(大和座り)という 正座をした姿。●寂光院・(聖徳太子)が父(用明天皇)の菩提のために建立したと伝える。・「平家物語」には(建礼門院)が出家の後、文治元年(1185)に当時に隠棲し、翌2年 に(後白河法皇)が御幸したと記す。・(建礼門院)の女房で、寂光院で(建礼門院)とともにすごし、最期をみとったといわ れるのが(阿波内侍)。(大原女)の装束はその服装をまねたものという。●勝林院・長和2年(1013)、(▲寂源)によって創建され、のちに(天台声明)の(根本道場)と なった。・文治2年(1186)には天台宗の(顕真)が、浄土宗の(法然)を当院に招き、いわゆる (大原談義)を行い、(専修念仏)について問答した。 この時、本尊は手から光明を放ち、念仏の(衆生済度の証拠)を示したと伝え、 (証拠の阿弥陀)と呼ばれた。・平安時代の(梵鐘)は重文。●来迎院・仁寿年間(851-54)に(円仁)が(天台声明)の道場としたのに始まるという。・天仁2年(1109)には(融通念仏)の開祖である(良忍)が再興し、来迎院と呼んだ。 以降、(勝林院)とともに(声明・音律)の中心となった。・天台宗最高の質をもつ聖教・古文書を伝える(如来蔵(経蔵))などを所蔵する。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/18
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天台宗とその寺院の問題の2回目です。●蓮華寺(左京区)・かつては( 宗)の寺・寛文2年(1662)に( 藩)家老の( )が祖父の( )を供養する ために現在地に再建した。・庭園は書院前に( 川)の清流を引きこんだ池庭が広がり、本堂の参道左右に 有名な( 型燈籠)が立てられている。 ( )、( )、その他朱子学者の( )、黄檗宗の開祖である 隠元隆き(王偏に埼の右側)や第二世の( )らが造営に協力したことが、 ( )の「東北歴覧之記」に記されている。 上述のような文人たちの協力を得て造営されたことにより、蓮華寺は( 宗)の 様式の建築と江戸初期の( 式)の典型ともいえる庭園をもつ寺院となった。●補陀洛寺(左京区)・通称は小町寺・小野小町の( )と伝える。・本堂に( 像)が安置される。 その他、( の井戸)、( の )、( の )など がある。●実相院(左京区)・( 門跡)とも呼ぶ。・寛永年間(1624-44)に復興。 当時の門跡であった( )のあと( 天皇)の皇子( 親王)が継ぐと、 以降法統は代々皇孫をもって継承され、( )としても寺格を有した。・本堂や( )、( )などは享保年間(1716-36)に移築した( ) (( 天皇)の中宮)の旧殿で、御所の建築遺構。・もと( の )と伝わる石庭と、反対側に位置する( 庭園)はまったく 趣を異にする。・( )に映り込む楓が( )( )と呼ばれる。・本尊の不動明王は鎌倉時代の作と伝え、主に( )の絵師たちによる 障壁画を多く所蔵する。●赤山禅院(左京区)・( )の遺命により、弟子の( )が仁和4年(888)に創建し、 ( 寺)の( )とした。・本尊は( )とされる。・( )の神として信仰を集め、当寺の御札は( 除け)になるという。・都七福神まいりの一つ( )。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/18
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黄檗宗とその寺院編の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●黄檗宗・江戸初期、(明)の禅僧(隠元隆き(王偏に埼の右側))を始祖とする禅宗の一派・寛文元年(1661)、宇治に萬福寺を開創したのが始まり。・3年後、隠元のあとを継いだ(木庵性瑫)やその門下らによって関東、東北に教勢を 拡大した。・萬福寺の住持は(13世)に至るまで代々中国僧によって受け継がれた。・元文5年(1740)、14世(▲龍統)が日本人として初の住持となり、以降17世(▲祖眼)を 除き21世まで中国僧が住持を務め、22世(▲格宗浄超)からは日本僧によって継席された。●萬福寺・隠元隆き(王偏に埼の右側)が、(後水尾天皇)の母である(中和門院)の別荘跡に 創建。・伽藍は、西方丈、法堂、次いで本堂の(▲大雄宝殿)、(天王殿)が完成。・元禄年間(1688-1704)には、(▲31)の塔頭をもつ大寺院となった。・黄檗の三筆は(隠元)(木庵)(即非)・(本堂)(天王殿)など(▲23棟)と回廊などが重要文化財に指定されている。・(天王殿)に安置される(布袋像)は(弥勒菩薩)の化身とされ、都七福神まいり の(布袋尊)として親しまれている。・境内に茶聖の(売茶翁高遊外)<(▲月海元昭)>を記念して建立した(売茶堂)がある。・煎茶文化の拠点として(全日本煎茶道連盟)の本部も置かれている。●閑臥庵・通称は(鎮宅さん)・江戸前期に(後水尾法皇)が父の(後陽成天皇)の聖旨を引き継ぎ、貴船の (鎮宅霊符神)を(大宮御所)の真北に移築して、開山を萬福寺6世の(千呆(せんがい)) としたことが創始。・(鎮宅霊符神)は(方除け)(厄除け)の神として知られる。・(後水尾法皇)の信仰篤く、霊符神を遷座した玉座、宸翰などが残されている。●海宝寺・萬福寺13世の(▲竺庵浄印)が別院として興した(開宝寺)を享保13年(1728)に移築し、海宝寺 と称した。・寺地は(伊達家)の居館跡と伝え、同家が(伏見城)の(桶門)を守備した関係から、寺の 背後には(桶)の址があったという。・百貨店(大丸)の創業者(下村正啓)は(竺庵)を信奉し、(竺庵)が元文4年(1739)に 隠退した後も浄財を投じて海宝寺を援助しており、その関係は現在も受け継がれている。・方丈は、襖絵として(伊藤若冲)の筆になる(群鶏図)が描かれていたが、以降(若冲)が 筆をとらなかったことから(若冲筆投げの間)と呼ばれている。●石峰寺・萬福寺の(千呆)が宝永年間(1704-11)に創建。・寛政年間に画家の(伊藤若冲)が草庵を建てて、住持の(密山)といっしょに釈迦の誕生から 涅槃までの一生を表す(五百羅漢)の石仏を造った。本堂の裏山にある(釈迦如来)をはじめ (十大弟子)、(五百羅漢)、鳥獣類などの石仏は有名。・境内には(若冲)の墓と(筆塚)がある。 __________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/17
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天台宗とその寺院についても問題その1です。●天台宗・中国の( )を高祖とし、( )を宗祖。・( )にいたるまで( )の生命の顕れであるとする( の )に 努め、( )のため、現実世界に( )を実現することを教義とする。・平安中期、( < 大師・ 大師>)を中興として発展し、やがて比叡山 から( )( )( )( )( )( )( )ら鎌倉仏教の 祖師たちが輩出した。●三千院・前身は( )が( )に建てた草庵とされる。・貞観2年(860)には( )が最澄自作という薬師如来像をお堂に安置して( ) と呼び、のちに( )の( )に建てた( )(のちに( )と改称) を里坊とするのに対して、本坊となった。・大治5年(1130)に( 法親王<( 天皇の皇子)>)が円徳院の門主となって 以来、( 門跡)として( 院)( 院)とともに( 宗 )の一つ となった。・重文の阿弥陀堂は久安4年(1148)の創建で、正しくは( 阿弥陀堂)。・客殿の南側の庭は( 園)と称され、冬でも凍らないという( の手水鉢) が著名・宸殿南側の( 庭)は杉苔が特徴的で、その東側には( 園)と呼ばれる ( の滝)を擁する庭園が広がる。・仏像の( 像)は国宝。 阿弥陀如来の両脇侍である( 菩薩)と( 菩薩)は( 座り)という 正座をした姿。●寂光院・( )が父( 天皇)の菩提のために建立したと伝える。・「平家物語」には( )が出家の後、文治元年(1185)に当時に隠棲し、翌2年 に( 法皇)が御幸したと記す。・( )の女房で、寂光院で( )とともにすごし、最期をみとったといわ れるのが( )。( )の装束はその服装をまねたものという。●勝林院・長和2年(1013)、( )によって創建され、のちに( )の( )と なった。・文治2年(1186)には天台宗の( )が、浄土宗の( )を当院に招き、いわゆる ( )を行い、( )について問答した。 この時、本尊は手から光明を放ち、念仏の( の証拠)を示したと伝え、 ( の )と呼ばれた。・平安時代の( )は重文。●来迎院・仁寿年間(851-54)に( )が( )の道場としたのに始まるという。・天仁2年(1109)には( )の開祖である( )が再興し、来迎院と呼んだ。 以降、(勝林院)とともに(声明・音律)の中心となった。・天台宗最高の質をもつ聖教・古文書を伝える( ( ))などを所蔵する。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/17
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曹洞宗とその寺院編の解答です。●曹洞宗・曹洞宗は中国(五家七宗)の一派・曹洞の名は中国(▲洞山良价)とその弟子(▲曹山本寂)から。・日本では、貞応2年(1223)(道元)が入宋し、(▲天童如浄)から法脈を伝えられた。・曹洞宗を開いた道元を(高祖)<(承陽大師)>、宗団を開創した ▲瑩山紹瑾を(太祖)<(常済大師)>と仰ぐ・臨済宗は(▲公案工夫)によって実証しようとする。 曹洞宗は(只管打座)、あくまで坐禅を通して真実の自己、仏性に目覚め、他をも 目覚ましめるところにある。・(永平寺)(総持寺)を大本山とする。●天寧寺・南北朝時代に(楠木正成)の末男(傑堂能勝)が会津に創建、文禄年間(1592-96)に 京都に移築、(▲直江兼続)や京都所司代の(板倉勝重)の援助を受けて寺基が整備された。 ・観音堂に(東福門院)の念持仏とされる薬師如来を安置する。・茶人として有名な(金森宗和)や、剣道示現流の祖といわれる(善吉和尚)の墓がある。●源光庵・(復古禅林)ともいう。・貞和2年(1346)に大徳寺2世の(▲徹翁義亨)が隠居所として創建。・元禄7年(1694)、(卍山道白)が再興し、曹洞宗に改宗。・境内裏に(稚児井)がある。●詩仙堂・正しくは(詩仙堂丈山寺)・(徳川家康)の側近であった(石川丈山)が、寛永18年(1641)に隠居所として建てた草庵。・丈山は36人の中国の詩人を選び、その肖像を(狩野探幽)(尚信)に描かせ、自らも 各詩人の詩を墨書した額を(凹凸窠)の(詩仙の間)に掲げた。・(凹凸窠)は(詩仙の間)(▲至楽巣<猟芸巣>)、(▲躍淵軒)、(▲嘯月楼)からなる。・庭園は丈山好みの(▲唐様庭園)とし、堂の東南に滝(洗蒙瀑)を構える。・添水(そうず)「(山田の僧都)」は鹿おどしともいわれ、丈山が考案したと伝える。●岩屋寺・嘉永年間(1848-54)に京都町奉行の(▲浅野長祚(ながとし))が復興。・赤穂浪士の(大石良雄)の隠棲の地で、本尊は(良雄)の念持仏とされ、 (浅野内匠頭長矩)をはじめ、四十七士の木像や位牌などを祀る。・境内には(大石良雄)の(遺髪塚)、茶室(可笑庵)や(北垣国道)書の碑がある。・義士忌(12月14日)などには(良雄)の羽織や浪士の遺品を公開する。・義士祭は(毘沙門堂)(瑞光院)(山科区役所)岩屋寺、(大石神社)と四十七士に扮した 列が練り歩く。・岩屋寺ではないが、同じ日、(良雄)があだ討ちの祈願をした(▲身代わり不動)が祀られた (▲法住寺)では、舞妓の点前による茶会が行われ、(討入りそば)の接待も行われる。●興聖寺・(道元)が伏見の深草に道場を創建したという。・慶安元年(1648)に淀城主の(永井尚政)が菩提寺として復興。・中興開山は(▲万安英種)。・寺地は宇治七名園の一つ(朝日茶園)であった。・(琴坂)の桜・楓・山吹や境内のツツジ・サツキなどの風景は(春岸の山吹)、 (興聖の晩鐘)として(A:宇治十二景)の名勝の一つ。・Aは(水雲堂孤松子)撰の(京羽二重)に書かれている。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/16
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黄檗宗とその寺院についての問題です。●黄檗宗・江戸初期、( )の禅僧( )を始祖とする禅宗の一派・寛文元年(1661)、宇治に萬福寺を開創したのが始まり。・3年後、隠元のあとを継いだ( )やその門下らによって関東、東北に教勢を 拡大した。・萬福寺の住持は( 世)に至るまで代々中国僧によって受け継がれた。・元文5年(1740)、14世( )が日本人として初の住持となり、以降17世( )を 除き21世まで中国僧が住持を務め、22世( )からは日本僧によって継席された。●萬福寺・隠元隆き(王偏に埼の右側)が、( 天皇)の母である( 院)の別荘跡に 創建。・伽藍は、西方丈、法堂、次いで本堂の( 殿)、( 殿)が完成。・元禄年間(1688-1704)には、( )の塔頭をもつ大寺院となった。・黄檗の三筆は( )( )( )・( )( 殿)など( 棟)と回廊などが重要文化財に指定されている。・( 殿)に安置される( 像)は( )の化身とされ、都七福神まいり の( 尊)として親しまれている。・境内に茶聖の( )<( )>を記念して建立した( )がある。・煎茶文化の拠点として( 連盟)の本部も置かれている。●閑臥庵・通称は( さん)・江戸前期に( 法皇)が父の( 天皇)の聖旨を引き継ぎ、貴船の ( 神)を( 御所)の真北に移築して、開山を萬福寺6世の( ) としたことが創始。・( 神)は( 除け)( 除け)の神として知られる。・( 法皇)の信仰篤く、霊符神を遷座した玉座、宸翰などが残されている。●海宝寺・萬福寺13世の( )が別院として興した( 寺)を享保13年(1728)に移築し、海宝寺 と称した。・寺地は( 家)の居館跡と伝え、同家が( 城)の( 門)を守備した関係から、寺の 背後には( )の址があったという。・百貨店( )の創業者( )は( )を信奉し、( )が元文4年(1739)に 隠退した後も浄財を投じて海宝寺を援助しており、その関係は現在も受け継がれている。・方丈は、襖絵として( )の筆になる( 図)が描かれていたが、以降( )が 筆をとらなかったことから( の間)と呼ばれている。 ●石峰寺・萬福寺の( )が宝永年間(1704-11)に創建。・寛政年間に画家の( )が草庵を建てて、住持の( )といっしょに釈迦の誕生から 涅槃までの一生を表す( )の石仏を造った。本堂の裏山にある( )をはじめ ( )、( )、鳥獣類などの石仏は有名。・境内には( )の墓と( )がある。 __________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/16
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華厳寺・西芳寺他・京都五山編の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●華厳寺・享保8年(1723)に(鳳潭)が華厳宗の復興のため創建。慶応4年(1868)に臨済宗に 改宗。・(鈴虫寺)とも呼ばれる。・一つだけ願いごとをかなえるという(草鞋(わらじ))を履いた(幸福地蔵)で有名●西芳寺・通称は苔寺。・前身の(西方寺)は(行基)が(聖武天皇)の命で建立した(四十九院)のうちの一つ。・(建武の兵乱)で荒廃後、(藤原▲親秀)(松尾大社宮司)が(夢窓疎石)を住持に迎え て再興。(夢窓)が(西芳寺)として臨済宗に改め、修行の中心道場となった。・茶室(湘南亭)は、千利休の長男で、千家を再興した(千少庵 )が慶長年間(1596- 1615)に構えた茶室。(四畳台目)の茶室に、天井を(土塗り)にした開放的な (広縁)が付き、庭園と連続するような構成をもつ。・庭園は国の(▲史跡)及び(特別名勝)。 (向上関)を境に、(洪隠山)枯山水石組を中心とした上段の庭園と、(黄金池)を 中心とした下段の庭園とに分かれる。●地蔵院・(竹の寺)・(谷の地蔵)ともいう。・貞治6年(1367)に管領の(細川頼之)がが(夢窓疎石)の弟子の(碧潭周皎)に帰依し、 (▲藤原家良)の別荘跡地に創建。(夢窓疎石)を開山とした。・(十六羅漢の庭)と呼ぶ枯山水庭園が有名。・(細川石)と呼ばれる(細川頼之)(碧潭周皎)の墓がある。●円福寺・(八幡市)の(洞ヶ峠)の西麓にある。・臨済宗妙心寺派・通称(達磨堂(寺))・天明4年(1784)に、宗派を問わず禅の修行ができる道場として創建された。・境内の達磨堂の達磨像は(日本三達磨)の一つに数えられ、もとは奈良の(達磨寺)に あったもので、重文。●単伝庵・(八幡市)にある。・臨済宗妙心寺派・通称は(らくがき寺)・開基は(単伝和尚)・中興の祖は(▲瑞応)(豊後国臼杵の(月桂寺)7世)・(大黒堂)の白壁に願いを書くと願いがかなうとされる。●妙喜庵・(乙訓郡大山崎町)にある。・臨済宗東福寺派・明応年間(1492-1501)に(▲春嶽士芳)が連歌師の(山崎宗鑑)の庵を寺として創始。・3世の(▲千叔士紡)が茶人であったことから(千利休)がよく当地を訪れ、天正10年 (1582)頃、茶室(待庵)(国宝)を建てたと伝える。・この茶室は(千利休)作で唯一現存する茶室。 藁すさを見せる(荒壁仕上げ)や、抽象画にも似た(窓配置)、(入り隅)の柱を 隠し、天井まで塗りこめた(室床)などによって、(二畳)という規模ながら、 その狭さを感じさせない。●臨済宗と京都五山・インドの(菩提達磨)が中国に伝えた禅宗のうち、晩唐の(臨済義玄)を宗祖と する一派が臨済宗。・(坐禅)に実践と(悟り)の体験によって、(仏陀)の悟りにいたることを宗旨 とする。・日本には鎌倉初期に二度、(宋)に渡った(栄西)が伝えた。・中国(宋代)、管制を禅刹に導入して(五山十刹)、のちに(甲刹)を加えて 寺格を定めた。・日本では鎌倉末期に移入され、室町時代に確立された。・正安元年(1299)、(北条貞時)が鎌倉の(浄智寺)を五山に数えたのが記録の初見。・建武年間(1334-28)には(建仁寺)(東福寺)も五山に列せられた。・(天龍寺)が創建されると、暦応4年(1341)に五山一位に(建長寺・南禅寺)、 二位に(円覚寺・天龍寺)、第三に(寿福寺)、第四に(建仁寺)、第五に(東福寺) とし、浄智寺を(準五山)にした。・(相国寺)が創建されると至徳3年(1386)(南禅寺)を「五山之上」とし、第一に (天龍寺)・(建長寺)、第二に(相国寺)(円覚寺)、第三に(建仁寺)(▲寿福寺)、 第四に(東福寺)(▲浄智寺)、第五に(万寿寺)(浄妙寺)と改定され、(京都五山) を(鎌倉五山)より優位となした。・五山からは鎌倉時代から室町時代にかけてすぐれた高僧が生まれ、ことに漢詩文は (五山文学)と呼ばれ、(一山一寧)を祖として、その影響を受けた(虎関師錬)、 (夢窓疎石)、(義堂周信)、(▲絶海中津)らが輩出して全盛を誇った。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/15
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曹洞宗とその寺院についての問題です。●曹洞宗・曹洞宗は中国( )の一派・曹洞の名は中国( )とその弟子( )から。・日本では、貞応2年(1223)( )が入宋し、( )から法脈を伝えられた。・曹洞宗を開いた道元を( )<( 大師)>、宗団を開創した ( )を( )<( 大師)>と仰ぐ・臨済宗は( )によって実証しようとする。 曹洞宗は( )、あくまで坐禅を通して真実の自己、仏性に目覚め、他をも 目覚ましめるところにある。・( 寺)( 寺)を大本山とする。●天寧寺・南北朝時代に( )の末男( )が会津に創建、文禄年間(1592-96)に 京都に移築、( )や京都所司代の( )の援助を受けて寺基が整備された。 ・観音堂に( )の念持仏とされる薬師如来を安置する。・茶人として有名な( )や、剣道示現流の祖といわれる( )の墓がある。●源光庵・( )ともいう。・貞和2年(1346)に大徳寺2世の( )が隠居所として創建。・元禄7年(1694)、( )が再興し、曹洞宗に改宗。・境内裏に( )がある。「悟りの窓」「迷いの窓」●詩仙堂・正しくは( 寺)・( )の側近であった( )が、寛永18年(1641)に隠居所として建てた草庵。・丈山は36人の中国の詩人を選び、その肖像を( )( )に描かせ、自らも 各詩人の詩を墨書した額を( )の( の間)に掲げた。・( )は( の間)( 巣< 巣>)、( 軒)、( 楼)からなる。・庭園は丈山好みの( 庭園)とし、堂の東南に滝( )を構える。・添水(そうず)「( の )」は鹿おどしともいわれ、丈山が考案したと伝える。●岩屋寺・嘉永年間(1848-54)に京都町奉行の( )が復興。・赤穂浪士の( )の隠棲の地で、本尊は( )の念持仏とされ、 ( )をはじめ、四十七士の木像や位牌などを祀る。・境内には( )の( )、茶室( )や( )書の碑がある。・義士忌( 月 日)などには( )の羽織や浪士の遺品を公開する。・山科義士祭は( )( )山科区役所、岩屋寺、( )と四十七士に扮した 列が練り歩く。・岩屋寺ではないが、同じ日、( )があだ討ちの祈願をした( )が祀られた ( 寺)では、舞妓の点前による茶会が行われ、( )の接待も行われる。●興聖寺・( )が伏見の深草に道場を創建したという。・慶安元年(1648)に淀城主の( )が菩提寺として復興。・中興開山は( )。・寺地は宇治七名園の一つ( )であった。・( )の桜・楓・山吹や境内のツツジ・サツキなどの風景は( の )、 ( の )として(A: )の名勝の一つ。・Aは( )撰の( )に書かれている。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/15
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高台寺・法観寺・鹿王院編の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●高台寺・臨済宗(建仁寺派)・正しくは(高台寿聖禅寺)・豊臣秀吉の供養のため、慶長11年(1606)に正室の北政所(高台院)が(徳川家康)の 援助を受けて創建・前身は北政所が生母を供養するために建てた(康徳寺)。・寛永元年(1624)には創建当時の(▲曹洞宗)から(臨済宗建仁寺派)に改宗された。・重要文化財の(霊屋)(表門)(観月台)(傘亭)(時雨亭)は(伏見城)の遺構。・同じく重文の(開山堂)は(康徳寺)の建物を移築したもの。・霊屋は(檜皮葺)の(宝形造)で(桃山時代)らしい豪奢な装飾を持ち、内部 (須弥壇)・(厨子)の蒔絵装飾は高台寺蒔絵として知られる。・その他の茶室として(灰屋紹益)好みの(鬼瓦席)と、(吉野太夫)遺愛の(遺芳庵) もある。・(開山堂)西の(▲偃月池)の中央には屋根付きの(▲楼船廊)が架けられ、東の(臥龍池) には、(霊屋)に向かって(▲臥龍廊)が登る。・庭園は国の(史跡)および(名勝)●円徳院(高台寺塔頭)・北政所の甥(木下利房)が邸宅を寺院に改めて創建したもの。・北庭は(桃山時代)の気風が伝わる枯山水で(旧円徳院庭園)として、国の(名勝)に 指定されている。・宝塔の笠を利用した珍しい形の(檜垣の手水鉢)がある。●法観寺・臨済宗(建仁寺派)・(聖徳太子)が五重塔を建て、その中に(仏舎利)を納めて法観寺と号したという。・創建には渡来系豪族(八坂造(みやつこ))が関わったとも伝える。・治承3年(1179)の(清水宗徒)と(祇園神人(じにん))の争いで焼失したが、 (源頼朝)、その後(足利義教)によって再建された。・仁治元年(1240)に(建仁寺)の(証求(▲しょうぐ))が入寺し、禅宗に改めた。・948年(天暦2年)、八坂の五重塔が皇居の方へ傾いたときに、(浄蔵貴所)という 僧が傾いた塔を法力で元に戻したという言い伝えがある。・(木曽義仲)の首塚がある。●鹿王院・(足利義満)が延命を祈願して康暦元年(1397)に創建した(宝幢寺)の開山塔所。・開山は(春屋妙葩)・寛文年間(1661-73)に(▲虎岑玄竹(こしんげんちく))が中興・庭園は背後に(嵐山)を望み、舎利殿前に(三尊石)など一群の石組を配し、前面には (▲苔地)が広がる。・10月15日は(▲源実朝)が(▲宋)から得たという(仏牙舎利)を開帳する。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/14
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華厳寺・西芳寺他・京都五山の問題です。●華厳寺・享保8年(1723)に( )が華厳宗の復興のため創建。慶応4年(1868)に臨済宗に 改宗。・( 寺)とも呼ばれる。・一つだけ願いごとをかなえるという( )を履いた( )で有名●西芳寺・通称は苔寺。・前身の( 寺)は( )が( 天皇)の命で建立した( 院)のうちの一つ。・( の兵乱)で荒廃後、( )(松尾大社宮司)が( )を住持に迎え て再興。( )が( 寺)として臨済宗に改め、修行の中心道場となった。・茶室( )は、千利休の長男で、千家を再興した( )が慶長年間(1596- 1615)に構えた茶室。( )の茶室に、天井を( )にした開放的な ( )が付き、庭園と連続するような構成をもつ。 ・庭園は国の( )及び( )。 ( )を境に、( )枯山水石組を中心とした上段の庭園と、( 池)を 中心とした下段の庭園とに分かれる。●地蔵院・( の寺)・( の )ともいう。・貞治6年(1367)に管領の( )がが( )の弟子の( )に帰依し、 ( )の別荘跡地に創建。( )を開山とした。・( の庭)と呼ぶ枯山水庭園が有名。・( )と呼ばれる( )( )の墓がある。●円福寺・( 市)の( )の西麓にある。・臨済宗妙心寺派・通称( )・天明4年(1784)に、宗派を問わず禅の修行ができる道場として創建された。・境内の達磨堂の達磨像は( )の一つに数えられ、もとは奈良の( 寺)に あったもので、重文。●単伝庵・( 市)にある。・臨済宗妙心寺派・通称は( 寺)・開基は( 和尚)・中興の祖は( )(豊後国臼杵の( 寺)7世)・( 堂)の白壁に願いを書くと願いがかなうとされる。●妙喜庵・( 郡 町)にある。・臨済宗東福寺派・明応年間(1492-1501)に( )が連歌師の( )の庵を寺として創始。・3世の( )が茶人であったことから( )がよく当地を訪れ、天正10年 (1582)頃、茶室( )(国宝)を建てたと伝える。・この茶室は( )作で唯一現存する茶室。 藁すさを見せる( 仕上げ)や、抽象画にも似た( )、( )の柱を 隠し、天井まで塗りこめた( )などによって、( )という規模ながら、 その狭さを感じさせない。●臨済宗と京都五山・インドの( )が中国に伝えた禅宗のうち、晩唐の( )を宗祖と する一派が臨済宗。・( )に実践と( )の体験によって、( )の悟りにいたることを宗旨 とする。・日本には鎌倉初期に二度、( )に渡った( )が伝えた。・中国( 代)、管制を禅刹に導入して( )、のちに( )を加えて 寺格を定めた。・日本では鎌倉末期に移入され、室町時代に確立された。・正安元年(1299)、( )が鎌倉の( 寺)を五山に数えたのが記録の初見。・建武年間(1334-28)には( 寺)( 寺)も五山に列せられた。・( 寺)が創建されると、暦応4年(1341)に五山一位に( 寺・ 寺)、 二位に( 寺・ 寺)、第三に( 寺)、第四に( 寺)、第五に( 寺) とし、浄智寺を( )にした。・( 寺)が創建されると至徳3年(1386)( 寺)を「五山之上」とし、第一に ( 寺)・( 寺)、第二に( 寺)( 寺)、第三に( 寺)( 寺)、 第四に( 寺)( 寺)、第五に( 寺)( 寺)と改定され、( 五山) を( 五山)より優位となした。・五山からは鎌倉時代から室町時代にかけてすぐれた高僧が生まれ、ことに漢詩文は ( 文学)と呼ばれ、( )を祖として、その影響を受けた( )、 ( )、( )、( )らが輩出して全盛を誇った。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/14
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宝鏡寺・法輪寺・円通寺・金福寺・霊鑑寺編の解答です。不正解だった場合は▲とし、その後に正解を記入しています。●宝鏡寺・臨済宗単立の(尼門跡寺院)・通称人形寺・前身は上京区五辻大宮の(景愛寺)(尼五山第1位)の子院であった(福尼寺)・応安年間(1368-75)に(景愛寺)の6世の(▲華林宮恵厳禅尼)(光厳天皇の皇女) が現在地に移転して再興。・寛永21年(1644)には(理昌尼王)(▲久厳禅尼・後水尾天皇の皇女)が入寺して 以降は尼御所となって(百々御所)と称した。・24代(▲三麼地院(さんまじいん)宮)が父の(光格天皇)から賜った(直衣雛) をはじめ、(皇女和宮)の遺愛の品などを所蔵する。・人形展が春・秋に行われる。春は(雛祭り)。秋は(人形塚)に1年間納められた (人形)の(人形供養)。秋は本堂で(島原太夫)の舞や和楽器の奉納演奏がある。●法輪寺(上京区)・臨済宗(▲妙心寺派)・等身の(涅槃釈迦像)がある。・通称は達磨寺・享保12年(1727)に(萬海)が建立。・(達磨堂)には(三国随一)といわれる起き上がり達磨をはじめ、(八千体)に 及ぶ達磨を置く。・(キネマ殿)には約400人の日本の映画関係者が祀られている。●金福寺・臨済宗(南禅寺派)・平安初期に(▲安恵僧都)が(慈覚大師円仁)の遺志によって創建。・(芭蕉庵)は当時を訪れた(松尾芭蕉)を偲んで(与謝蕪村)が再興した茶室。 この茶室の傍らに(与謝蕪村)の墓がある。・(舟橋聖一)の歴史小説(花の生涯)のヒロイン(村山たか女)ゆかりの寺として 知られ、彼女が創建した(弁天堂)などが残る。●霊鑑寺・臨済宗(南禅寺派)の(尼門跡寺院)・(谷の御所)(鹿ヶ谷比丘尼御所)ともいう・承応3年(1654)に(後水尾上皇)の皇女(▲多利宮)<(▲浄法身院宮宗澄)>が 天台宗の寺として現在の南隣に創建し、まもなく改宗した。・貞享4年(1687)には(後西天皇)の旧殿を賜って現在地に移転。 その後、明治まで皇女が住持を継承した。・庭園は上下二段に分かれ、主庭は下段の客殿南庭。 東西に(▲野面石垣)の斜面があり、石垣下に(枯池)がある。 東南隅に(▲滝石組)、対岸左に(般若寺型燈籠)を配置。 ・(後水尾上皇)遺愛の(▲日光椿)のほか多数の名椿が植えられている。・多くの(御所人形)をはじめ歴代天皇遺愛の(香炉)、書画や(宸翰)など を所蔵する。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/13
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高台寺・法観寺・鹿王院についての問題です。●高台寺・臨済宗( 派)・正しくは( 寺)・豊臣秀吉の供養のため、慶長11年(1606)に正室の北政所( )が( )の 援助を受けて創建・前身は北政所が生母を供養するために建てた( 寺)。・寛永元年(1624)には創建当時の( 宗)から( 宗 派)に改宗された。・重要文化財の( )( )( 台)( 亭)( 亭)は( )の遺構。・同じく重文の( )は( 寺)の建物を移築したもの。・霊屋は( 葺)の( 造)で( 時代)らしい豪奢な装飾を持ち、内部 ( )・( )の蒔絵装飾は高台寺蒔絵として知られる。・その他の茶室として( )好みの( 席)と、( )遺愛の( ) もある。・( )西の( 池)の中央には屋根付きの( )が架けられ、東の( 池) には、( )に向かって( )が登る。・庭園は国の( )および( )●円徳院(高台寺塔頭)・北政所の甥( )が邸宅を寺院に改めて創建したもの。・北庭は( 時代)の気風が伝わる枯山水で( 庭園)として、国の( )に 指定されている。・宝塔の笠を利用した珍しい形の( の手水鉢)がある。●法観寺・臨済宗( 派)・( )が五重塔を建て、その中に( )を納めて法観寺と号したという。・創建には渡来系豪族( )が関わったとも伝える。・治承3年(1179)の( )と( )の争いで焼失したが、 ( )、その後( )によって再建された。・仁治元年(1240)に( 寺)の( )が入寺し、禅宗に改めた。・948年(天暦2年)、八坂の五重塔が皇居の方へ傾いたときに、( )という 僧が傾いた塔を法力で元に戻したという言い伝えがある。・( )の首塚がある。●鹿王院・( )が延命を祈願して康暦元年(1397)に創建した( 寺)の開山塔所。・開山は( )・寛文年間(1661-73)に( )が中興・庭園は背後に( )を望み、舎利殿前に( )など一群の石組を配し、前面には ( )が広がる。・10月15日は( )が( )から得たという( )を開帳する。__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/11/13
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