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2016年04月15日 京都新聞HP 京都市左京区のロームシアター京都で23、24の両日開かれる音楽の祭典「ロームミュージックフェスティバル」は、計6公演で20~30代中心の音楽家40人が出演する。京都ゆかりの演奏家に聞いた。 開幕のリレーコンサートA(午後1時、サウスホール)には、京都市交響楽団(京響)で首席クラリネット奏者を務める小谷口直子が1番手を務め、クラリネット独奏で活躍する吉田誠と協演する。 小谷口は東京芸術大在学時の2000年から3年続けて、祭典を主催するロームミュージックファンデーションの選抜セミナーを受講し、プロ奏者に必要な技術や心構えなどを学んだ。「アドバイスがとても具体的で、音楽人生の転機になった。京響で演奏できているのも受講のおかげ」と振り返る。 演奏会では、クロンマー作曲「二つのクラリネットのための協奏曲」を吹く。「幕開けにふさわしい華やかな曲。吉田さんと息の合ったところを聴いてもらいたい」と話す。 メインホールでは両日とも、阪哲朗(京都市出身)の指揮で京響のオーケストラコンサートが開かれる。 コンサートマスターを務めるのは、入団8年目の泉原隆志。ロームの奨学生として03年、ドイツ・ハンブルクに留学した。「古典派の作品に取り組めたのは私の財産」という。23日午後7時の公演で演奏されるチャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」は、泉原の独奏が際立つ特別ハイライト版。「留学や京響で培ってきた技術や経験を演奏に生かしたい」と張り切る。 24日午後5時半の公演では、京都市出身のチェロ奏者古川展生がバイオリンとピアノの独奏とともに、ベートーベンの三重協奏曲に挑む。古川は「格式高い名曲に臨む喜びが、皆様に伝わるような演奏をしたい」とコメントを寄せた。 祭典は1公演4千円~500円。エラート音楽事務所TEL075(751)0617。広場では高校、大学生による吹奏楽や合唱の無料ステージもある。「京響で培った経験や技術を生かしたい」と話すコンサートマスターの泉原隆志(右)と首席クラリネット奏者の小谷口直子(京都市左京区)【京都検定勉強】岡崎エリアの建造物設計者京都会館(ロームシアター前身):前川國男ロームシアタ(基本設計):香山壽夫(こうやまひさお)京都市勧業館(みやこめっせ):川崎清京都国立近代美術館:槇文彦京都市美術館:前田健二郎京都府立図書館:武田五一平安神宮:伊東忠太・ 木子清敬・佐々木岩次郎藤井斉成会有鄰館:武田五一無鄰菴洋館:新家孝正よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/04/16
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【2017年8月27日(日)】 2017年8月20日(日)読売新聞朝刊の記事。 国内のバイクの販売減が続いているとのこと。最初このグラフを見たとき、減少傾向が分かりやすいように、垂直軸の販売数の原点をある程度の販売台数のところに設定してるのだろうと思ったら、そうではなくゼロでした。ピークの10分の1にまで減少しているとのこと。 結構、街でバイクは見かけるので、こんなに減少しているというのは驚きでした、ということは、以前はもっとバイクが街を走り回っていたということですね。 大部分を占める原付の減少が主要因だとのこと。軽自動車や電動アシスト自転車の普及で顧客の選択肢が広がったのが主要因のようです。原付は10万円台半ば~20万円台。電動アシスト自転車の単価は10万~15万円。そのうえ免許不要、ガソリン代不要。 この傾向は今後も続くのでしょう。ヤマハ(電動アシスト自転車はもっていますが)、カワサキはどうやって乗り切るのでしょう。 今日から、ガイドのオフ日が4日間続きます。31日の随求堂ガイドの翌日が、「ウェルカムサポーター養成講座」の二条城現地研修の講師です。それにむけて、この4日間で準備です。情報は集めて咀嚼もある程度しましたが、「紙芝居」がほとんどできていません。どこまで追い込めるかです。 お隣さんが、長女のベビーを自宅まで見に来てくださいました。家族以外にお披露目するのは初めてです。実家での「ご近所デビュー」です。 私も今日は沐浴を少し手伝い、アシストに忙しい家内の負担軽減のため、お風呂掃除も。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/27
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【2019年3月19日(火)】 ガイド会研修後(こちら)、4月3日のNG会私的ガイドの下見で、京都府庁を訪れました(こちら)。そのNG会ガイドのとき、昼食時間が京都府庁近辺になるので、参加者の意向次第ですが、話しのネタに京都府庁の職員食堂で昼食というのもありかなと思い、下見を兼ねて昼食をとりました。修学旅行の昼食処としても考えられるので、「修学旅行昼食処」カテゴリーで投稿します。 職員食堂は一般の人も利用できます。京都府庁の域内の北西の職員福利厚生会館の地下1階にあります。「グリーンスポット」という名が付けられています。職員福利厚生会館定食・ランチは日替わりメニュー食堂入り口 セルフサービスです。入ったときは12時前だったので、列もなく席も空いていましたが、12時を過ぎると列ができ、席も混雑してきました。しかし、それほど街時間は長くないように思いました。食堂内 すでにかなり混んだ状態 価格は下の私のメニューで639円ですので、同じ内容で外で食べるよりははるかに安いです。味も悪くはなかったです。私の頼んだメニュー 税込639円 果たして、NG会のメンバーにここを提案したとき、どんな反応をされるでしょうか。営業時間は公式には12時から13時30分となっているので、あまり早く行っても、あまり遅く行ってもいけないようです。土・日・祝・年末年始は休みです。 修学旅行で、御所からも二条城からもちょっと遠いので、それぞれのスポットで昼食時間となっても、ここを使うという選択はなかなかないとは思います。歩いて御所から二条城(あるいはその逆)という機会に昼食時間になったときくらいでしょうか。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/03/19
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2015年4月19日 読売新聞朝刊 記事の部分 内臓などの様子を立体的に映し出すコンピューター断層撮影法(CT)で患者が被曝ひばくするXエックス線の量は、同じ部位の検査でも医療施設によって10倍以上も差がある実態が、日本診療放射線技師会の調査で分かった。 一部の施設では患者が必要以上に被曝している可能性があり、国内の関係学会などを集めた「医療被ばく研究情報ネットワーク」(代表=米倉義晴・放射線医学総合研究所理事長)は18日、望ましい線量の目安となる参考値案をまとめた。今後、各学会などを通じて周知を図る。 CTは、装置が体の周りをぐるりと回ってX線を照射するため、一方向だけからの単純撮影に比べて被曝線量が多く、様々な医療検査による被曝量全体の4割前後を占めるといわれる。同技師会は一昨年、会員の診療放射線技師にアンケートを送り、約300施設分の回答を集計した。 その結果、患者が被曝するX線量を示すCT線量指標(単位はミリ・グレイ)が、成人の頭部で12~150、胸部で1・6~128、腹部・骨盤で0・9~40と、同じ部位の検査でも施設間で十数倍から数十倍の差があった。照射範囲の広さなども勘案して、全身への影響を示す「実効線量」を計算すると、最高で頭部は1回あたり約5ミリ・シーベルト、胸部は約16ミリ・シーベルト、腹部・骨盤は約27ミリ・シーベルトと推定された。 施設間の大きな差は、日本医学放射線学会が行った別の調査でも確認された。技師会などによると、照射線量は通常、装置メーカーの推奨値を基に各施設で決める。高い線量が要る特殊な検査もあるが、全体としては、必要以上に高画質となる高い線量に設定したまま見直していない施設が少なくないとみられる。CTの被曝線量、医療施設により10倍以上の差 この記事には驚きました。CTなど放射線の当て過ぎが癌の原因にもなり得るということで、何か一定の基準があるものと思っていました。まさか施設によって10倍以上も差があるとは。 これから粒子線治療後の経過観察で定期的にCT撮影などをすることになりますが、この記事を見て必要以上に検査を受けないようにしないといけないなぁと思いました。2015年5月3日(日)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/05/03
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【2017年2月10日(金)】 今日は粒子線治療後21回目の定期経過観察(1ヵ月に一度)で、大阪府下のM病院に行ってきました。今回は、血液検査とCVポートフラッシュのみです。 午前8時から血液検査、9時に診察の予定でしたが、電車の乗り継ぎが悪かったり、トイレに寄ったりで、30分程度遅刻。余り厳密に時間を守る必要はないので、気にする必要はありません。そのため、血液検査結果が出るのが遅くなり、診察は私より大きい受付番号の方が先に診察で、9時を少し過ぎての診察でした。血液検査結果の要点は下記・・・・ここ1年1.4~1.6で推移してきたクレアチニンが1.76と若干跳ね上がり、腎機能悪化が 心配されましたが、今回1.53とまた従来のレベルに戻りました。一安心です。・先生から指摘はありませんが、ここ1年は正常値だったLDLコレステロールと 総コレステロールが基準値を若干超えました。・前回の血液検査で追加で確認してもらったPSA(前立腺がんマーカー)は3.290と正常値。 また1年後、くらいに測定しますとのこと。 ネットでPSA値の正常範囲を調べてみました。 PSAの数値は加齢とともに上昇します。一般的に50~64歳までは3ng/ml以下、65~69歳までは3.5ng/ml以下、そして70歳以上では4ng/ml以下が正常な値です。http://www.zenritusen-gan.com/cate-kensa/pas-kijyun.html ですので、私の年齢(61歳としては若干高めですが、今のところ心配する必要はなさそうです。血液検査結果クレアチニン、尿素窒素、尿酸値の推移コレステロール、中性脂肪 診察が終わって、CVポートのフラッシュをしてもらいましたが、ベッドに横になって先生を待っているとき、隣の膀胱鏡検査の場所から女性の声で、「はい、これから管が入ります。」とか聞こえます。看護師さんが膀胱鏡を扱っているのかと一瞬思いました。しかし、その女性が私のCVポートのフラッシュに来ました。CVポートフラッシュは看護師はできません。謎が解けました。女医さんだったのです。でも、私が抗がん剤治療でお世話になった、S先生から別の男性の先生に替わったのは、半年くらい前だったはず。すいぶん早い交替です。何かあったのでしょうか。 この女医さん随分お若くて、CVポートフラッシュの経験は少ないようで、看護師さんに方法を聞きながらのフラッシュでちょっと不安でしたが、無事終了。いつもなら、フラッシュが終わったあと、下着が汚れないように、先生がポート回りのイソジン消毒液をふき取ってくださるのですが、その様子がなかったので、私からお願いしました。若い女医さんだから許そう。 会計をし、処方してもらった薬(フェブリク錠)を薬局で求めました。その後、京都に移動し、京都歩き、夕刻からガイド会のエリア会議に出席、そして飲み会でした。別途、投稿します。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________過去の治療履歴は下記を参考にしてください。がん治療日記:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10がん治療振り返り:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2017/02/10
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年10月28日の記事≫ 大腸にたくさんのポリープができる「家族性大腸腺腫症」と2008年に診断された大阪府の会社員の男性(30)は10歳のとき、当時36歳の母親を大腸がんで亡くしていた。 母親は当初、盲腸と診断されて入院したが、手術しても治らず、入退院を繰り返した。亡くなる前は、ほとんど物を食べられず、やせ衰えていた。やや持ち直して入院先の病院から一時帰宅できそうになったところで、急変してしまった。 男性は3人兄弟の長男。すぐ下の弟(29)は大腸に異常がなかったが、末っ子の弟(27)は男性と同じ病気だった。このため、当時は単に大腸がんと診断された母親も、家族性大腸腺腫症だったことが間違いないという。 消化器の専門医でも、この病気を診た経験のある医師は少ない。男性は、当時住んでいた兵庫県や実家の福島県にある病院を紹介されるままに次々と受診した。X線検査で1千~2千のポリープがあると診断された。さらに遺伝子の検査も受け、家族性大腸腺腫症の変異があることが確かめられた。 この病気についてネットで情報を集めた。放置しておくと必ず大腸がんになることは、間違いなかった。医師からは、がんになるのを防ぐために大腸をすべて摘出するよう勧められた。 しかし、大腸を取ってしまうと、1日10回ぐらい下痢をしたり、脱水症状を起こしやすくなったりすることがある。腸閉塞(へいそく)で命を落とす患者もいるという。 この病気は胃や小腸にもポリープができるが、大腸を取ると、小腸にがんができる危険がさらに高まる。手術してもがんとの闘いが終わるわけではなかった。 摘出手術を受ける決心がつかず、悩んでいたところ、ネットの情報交換の掲示板で知り合った同じ病気の患者から、大阪市にある石川消化器内科を教えられた。 院長の石川(いしかわ)秀樹さん(55)は、内視鏡で検査しながら一つひとつポリープを取る治療を試みている。メールで予約を取り、09年2月に初めて受診した。 「この治療は、全摘を先延ばしするためのものと考えてください」。石川さんは男性に、そう説明した。2009年8月の内視鏡検査で撮影した男性の大腸内。大小のポリープがある 私はCT画像で11センチ大の腫瘍(後腹膜悪性腫瘍)を見た時は、正直びっくりしました。腎臓と同じような大きさです。微熱と疲れやすいという程度で、他に顕著な自覚症状はなかったのですから、まさかこんな大きな異物が体の中にできているとは想像もつきませんでした。 この方の内視鏡の写真も、びっくりしました。こんなにたくさんポリープができるものなのですね。確かにこんなにたくさんあれば、大腸を全摘するしか方法はなさそうです。ただ、この方はネットをうまく使って、一つずつポリープをとる治療に巡り会われたようです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/02/23
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年12月25日の記事≫ シャ乱Q結成25周年ライブで歌うつんく♂さん。このライブがシャ乱Qで歌う最後になった=2013年 米国滞在中に、再び喉頭(こうとう)がんが見つかった音楽プロデューサーのつんく♂さん(47)は2014年10月、家族と急ぎ帰国した。 腫瘍(しゅよう)のはれが大きくなり、呼吸するのも苦しい。飛行機の機内ではほとんど眠れず、一人で今後のことを考えた。「腫瘍がある左の声帯だけでも手術したら、もう、歌えないだろうな」 成田空港から、東京都内の病院へ直行した。 「腫瘍が大きくなり、左の声帯が動かなくなって、呼吸不全を起こしています」。医師にそう説明された。 いったん自宅に戻ったが、翌朝、呼吸がさらに苦しくなり、肩で息をするようになった。再び病院に行くと、入院することに。検査を受ける時も、息苦しくて仰向けになれないほどだった。 診察した医師(64)から告げられた。 「声帯の温存は、困難です」 呼吸をしやすくするために、すぐに気管を切開すると、説明を受けた。切開すると話すことができなくなる。声を発することができないまま、声帯摘出の手術を迎える可能性があった。 「気管を切開する前に、子どもたちとしゃべりたいです」 双子の長男(7)と長女(7)、次女(4)を病室へ呼んで、声をかけた。 「お母さんのこと、助けてね」 「歌の練習をもっとしようね」 「大好きだよ」 二度と会えなくなるような気持ちで、覚悟の言葉を残した。 最後に、病室で加奈子さん(35)と二人だけになった。絞り出すようなかすかな声で、加奈子さんの名前を何度も呼んだ。 加奈子さんは涙を流しながら、その声を心に刻んだ。 「声を聞くのはこれが、最後なんだな……」。加奈子さんは、悲しみに包まれつつも、自分の名前を繰り返し呼んでもらって幸せだった。 「頑張ってくる」。つんく♂さんはそう言い残し、手術室へ向かった。 息苦しさは限界に近づいていた。声を失うことをためらう余裕は、もうなかった。 「助けてください。どうか、生きさせてください」 自分自身もし声を失ったらと思うと、とても耐えられません。つんく♂さんのように声を商売道具にしていなくても、自分の思いを伝える重要な手段がなくなるわけですから。 でも、筆談がある、メールがある、目の動きや触れ合うことでも伝えらることもできる。声帯を使わない発声方法も訓練でできるようになるかもしれない。 私も同じようになれば、声帯切除を選択することになるでしょう。何よりもまず生きたいと思う。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆抗がん剤治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆抗がん剤治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11◆粒子線治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=1◆粒子線治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=23◆粒子線治療後経過観察http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=24
2016/01/02
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年1月8日の記事≫ 乳がんに続いて、子宮体がんが新たに見つかり、手術を受けた東京都杉並区に住む会社員の女性(49)は2012年8月下旬、抗がん剤治療を受け始めた。9月からは会社勤めも再開した。 抗がん剤の影響で、全身の倦怠(けんたい)感やしびれのほか、食べ物の味がしないなどのさまざまな副作用に襲われたが、「クビにならないように」と仕事をするのに必死だった。「がんになっても働けると証明してやる」という思いもある。その一方で、働けることへのありがたさも感じていた。 12年11月。抗がん剤治療の4回目は、特に副作用がひどく、冷蔵庫から水を取り出すのさえ難しい日があった。ほとんど飲まず食わずで寝て過ごす日々。会社も10日間ほど休まざるを得なかった。 抗がん剤治療は約4週間の間隔で計6回。治療は翌年1月まで続いた。治療中、「寂しい」とは思わなかったが、病気との闘いは孤独だ。当時はブログを書くことが日課のようになっていた。 「私はまだ、ブログを通して多くの人に支えられ、働く職場もあって、社会とつながっていると思うので、何とか保っていられる」「どこかでひとりで病気治療にあたっている人の孤独を考えると辛いです」。そう書き込んだこともあった。 抗がん剤治療をためらっていたとき、「治療はしてください 生きてください」とメッセージを残してくれた人もいた。 自分の体験や思いを伝えるブログは今も続けている。多くの人が閲覧しているわけではないが、「私の言葉でないと、響かない人がいると思うから続けている」と言う。 抗がん剤治療も無事に終え、現在は乳がんの再発防止の薬を飲み続けている。検査などのため、3カ月に1度は病院に通う。 今やおひとりさまでがんになることは、決して特別ではない。 二つのがんを経験し、お金や生活で困ったことはあった。でも、病気になったのは自分のせいでも誰のせいでもない。「これは自分が歩んできた道なんだ」と受け止めている。 そして、今はこう思う。「さいごまで自分らしく生き切るんだ」病院に向かう女性。二つのがんの治療を経験した=東京都渋谷区のJR東京総合病院>「私はまだ、ブログを通して多くの人に支えられ、働く職場もあって、>社会とつながっていると思うので、何とか保っていられる」>「どこかでひとりで病気治療にあたっている人の孤独を考えると辛いです」。 私の場合は妻や東京から戻ってきてくれた次女、名古屋から1ヵ月の半分くらいは、京都に帰ってきてくれた長女と、家族に支えられたので助かりました。しかし、会社を長期に休み、メールベースで仕事の引き継ぎをした後は、極端に社会との接点が少なくなってしまいました。ブログをやっていたのは正解でした。当時は読んでいただいている人も少なかったですが、家族以外の方に読んでいただいているということは励みになりましたし、何人かの方から応援メッセージもいただきました。>自分の体験や思いを伝えるブログは今も続けている。>多くの人が閲覧しているわけではないが、「私の言葉でないと、>響かない人がいると思うから続けている」と言う。 私も、体験や思いをこういうかたちを通じて発信させていただいています。何かのお役に立てれば嬉しいです。>「さいごまで自分らしく生き切るんだ」 元勤めていた会社をリストラで早期定年退職で辞めたとき、全然違う生き方をしたいと思っていました。しかし、まだ60際にも満たないのに、働いていないという後ろめたさが先に立って、再就職してしまった感がありました。病気をして、再就職した会社を自分の意思で辞めることになりましたが、病気が自分らしく生きることを後押ししてくれたような気がしていて、どこか病気に感謝する部分もあります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/04/08
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【2021年5月20日(木)】 今日も梅雨空が続きます。今日は修学旅行ガイドが、コロナでキャンセルとなり、在宅の予定でしたが、午後から臨時に事務所に出向きました。コロナでガイドはなくても、バタバタとしています。 昨日の読売夕刊1面で「米17年ゼミ『狂騒曲』」の記事が目にとまりました。「17年ゼミ」、久しぶりにこの言葉を聞きました。私が米国に赴任したのが2004年。その時にゴルフを始めました。ゴルフ場で、セミの鳴き声が五月蠅くて、「日本の夏と同じだなぁ」と思ったところ、昔からの日本人駐在者が、「17年周期で大量発生する、『17年ゼミ』ですよ。」と教えてくれました。普通の年は、セミの鳴き声はあまりしないとのことでした。 なぜ周期的に大量発生するかというと、ある年に一斉に地上に姿を現すことで、鳥などの天敵に食い尽されるのを防いで生き残りを図っているというのが、一番有力な説のようです。では何故17年なのか? 実は13年ゼミというのもあって、13も17も素数で、この2つの大量発生が重なるのは221年に一度になります。ほかの年数の周期で発生するセミの出現とも重なる確率が低く、別の種類との交雑を避けやすくなるので、種として長く生き残りやすくなるということのようです。 地図を見ると、米国東部に限られているようです。私がいたのはオハイオ州でした。そこも確かに入っています。関連商品やイベントも盛んで、記事には菓子店での「セミ形チョコ」の販売も紹介されていました。 不思議な現象を改めて認識すると同時に、アメリカに赴任したときから、もう17年も経ったんだと、しみじみと思った次第です。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/20
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【2017年9月27日(水)】 清水寺随求堂勤務第20日目。勤務は今日を含めて2回で終わりです。 夕方から雨の予報で、午後から雨がポツリポツリ来たときもありましたが、何とか持ちこたえ雨天対応は不要でした。 清水寺有料拝観エリア手前の見所紹介の続きです。●十一重石塔 「音羽の滝」から出口に向かって下りてきたところにある「放生池(ほうじょうち)」の近くに十一重石塔が立っています。 初層軸石(じゅくいし)の東正面に「天長地久 御願円満 奉寄進龍塔 所願成就 皆令満足」「寛永十二(1625)年・・・石大工今川」などと刻まれています。「龍塔」とありますが、古代インドから龍は仏教を守護し、とくに仏塔を守るとして崇拝されてきたことを示します。「石大工今川」は、石灯籠を含め、多くの優れた石造品を残した京都・白川の名石匠の一人です。 第二層に四方四仏を浮き彫りされています。寛永再建の清水寺荘厳のため、本堂のすぐ東側に建立されましたが、大正7年に現在地に移されました。 普通は十三重ですので、十一重は珍しいです。地震などで、上端の二重が欠落したのかも知れません。 (以上、「京都清水寺さんけいまんだら」から) いつもであれば、勤務終了後まっすぐ帰るのですが、今日は夕刻6時から、某講座の委員会があるので、歩いてその会場に向かいました。場所は室町出水上ルの京都YWCA。ここに着く頃から雨が降り始めました。→こちら(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/09/27
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2017年8月18日(金)読売新聞朝刊 ロシアが健康大国へ走るという記事。 ウォッカの飲み過ぎで平均寿命が短く、女性は30歳を過ぎるとぶくぶくと太るというロシアのイメージ。 それが、健康ブームの広がりで、ウォッカの消費量が激減し、平均寿命が延び、ジョギングする人が増えているとのこと。 そのなかで驚いたのは、一時男性の平均寿命が58~59歳まで落ち込んだということ。ウォッカの飲み過ぎで平均寿命が短いという話は聞いたことがありましたが、まさかここまで短かい時期があったとは驚きです。私はもう死んでてもおかしくはありません。改善したというものの、まだ66歳程度。 決して家計が豊かになっているわけではないようです。記事の最後にあったロシアの大学教授のコメント「健康維持のためにサプリメントを買うのは高価だが、運動と節酒に金はかからない。」に納得。 私が、週2回休肝日を設け、通勤をできるだけ徒歩にしているのと、どことなく似ており、さらに納得。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/19
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【2017年8月28日(月)】2017年8月21日(月)読売新聞朝刊の記事。 1時間80ミリ以上の「猛烈な雨」が降る頻度は、約30年間で約7割増えているとのこと。 土砂災害が頻繁に起こるようになったので、さもありなんと思いましたが、身近でも同じように感じていました。 修学旅行や固定点のガイドをしていて、バケツをひっくり返したような雨に遭遇することが多いなぁと感じています。もちろん、ガイドを始めて最初の夏だし、現役時代は屋内で仕事をしていたので、過去との正確な比較はむつかしいですが、よく聞く亜熱帯の国の毎日のようにやってくるスコールのような雨が増えたのではないかと感じていました。 このデータで私の感触も正しかったのだと分かりました。特に修学旅行のときは落雷に注意ですね。 今日は、4日連続のOFF日の第2日。家内は長女の沐浴を手伝った後、ちょっと遅れてテニスです。私は、昨日に続いて、9月1日の二条城ガイドに向け、赤ちゃんの様子をときどき見ながら、「紙芝居」作成の続きです。 昨日は、まず、東大手門、隅櫓、番所、二条城の歴史、二条城の文化財を新規作成及び途中までだったものを完成。ここまでは案内の順番通りですが、その後、唐門は置いておいて、清流園の変遷、堀川護岸の石垣の銘文・刻印を作成しました。 今日は、唐門、二の丸御殿は最低限終えたいところ。できたら、本丸櫓門、本丸庭園、天守閣跡まで完成させ、明日、残りの本丸御殿、清流園(茶室など)、北大手門を作成して全部完成させ、明後日は修正・追加と必要事項の記憶に充てることができればベストです。現地案内直前の4日間、ガイドが入らなかったのはありがたかったです。 よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/28
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2015年6月16日の記事≫ 茨城県に住む会社員の女性(44)は2004年夏、検査で卵巣に異常が見つかった。きっかけは、職場の同僚との会話だった。 「婦人科へ行ったことある?」 当時33歳。生理の周期も順調で、それまで婦人科に行ったこともなかった。 「将来のためにも、一度くらいは受診した方がいいよ」。同僚に勧められ、茨城県つくば市の婦人科クリニックを受診した。 初めて仰向けのまま足を開く「内診台」に上がり、超音波検査を受けた。どこも悪いところはないはず。そう思っていた。しかし、診察室で向かい合った医師から、予想外の言葉を告げられた。 「右の卵巣が腫れて大きくなっています。筑波大学の病院に紹介状を書きますが、行けますか」 大学病院と聞いて、急に不安な気持ちがこみ上げてきた。 8月に筑波大病院を受診し、超音波検査を受けた。当時、産科・婦人科教授だった吉川裕之(よしかわひろゆき)さん(63)が検査の後に切り出した。「卵巣に腫瘍(しゅよう)があります。手術で組織を取って調べてみないとわからないけれど、形を見る限り、おそらく悪性だと思います」 頭の中が真っ白になった。返事もできず、涙が浮かんできた。 「これから病気と向き合わないといけない。あなた自身がしっかりしないと」。吉川さんは、静かに語りかけた。 卵巣の腫瘍は画像による検査だけでは確かな診断ができない。摘出した腫瘍の細胞を調べないと、良性か悪性かの見極めは難しい。 自宅へ帰る車の中では、音楽もかけなかった。涙でにじむ信号を必死に見て、ハンドルを切った。 「私、死んじゃうんだ」 自宅に戻ってパソコンで「卵巣がん」と検索してみた。「自覚症状がなく、わかった時には進行している」「予後が悪い」。目にとまるのは悪い情報ばかりだった。 ちょうど、アテネ五輪の最中だった。「次の北京五輪は見られないかもしれない」。テレビを見るたびに、そんな思いがよぎった。 結婚して子どもを授かる未来を、当たり前のように思い描いていた。「孫の顔を見せてあげられないかもしれない」。両親に病気のことを言えないまま、手術の日が決まった。女性のおなかのMRI画像。中央の白い部分が腫れて大きくなった右の卵巣 卵巣がんも「自覚症状がなく、わかった時には進行している。」のですね。「がん」という病気の共通する怖さですね。 私はもとと腎盂癌で片方の腎臓を切除して3ヵ月に一度のCT検査を受けていたのに、分かったときには11センチの後腹膜腫瘍肉腫ができていました。疲れやすくなり、微熱が3週間くらい続いて病院に行って、検査を受けて発覚しました。>「次の北京五輪は見られないかもしれない」 私のがん(後腹膜脂肪肉腫)が発覚したのは2014年7月。その前の年には2020年の東京五輪開催が決まっていました。小学生で東京五輪を見ていますので、一生に2回、日本での夏季五輪が見れると喜んでいたのですが、5年生存率の非常に低い「がん」にかかって、そのときは、「次の東京五輪は見れないだろう。」と思いました。 しかし、効果がないだろうと言われていた抗がん剤治療が効き、粒子線治療に出会い、今は「見れるかもしれない。」というところまで来ました。ぜひ、この目で東京五輪をみたいです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2015/11/15
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【2015年5月3日(日)】 入院中に届いていた離職票2の離職番号は「2D」でした。この離職番号で、給付制限(3ヵ月の給付待機期間)があるかないかや、給付日数が決まります。 もう一度レビューしてみました。 私の雇用契約は1年更新で、契約書には「更新の可能性あり」と明記されていました。振り返ってみますと、・休職期間中も会社のメールなどを見たり、データを送ってもらって集計するなど 職場復帰の意思を示していた。・会社から次回契約更改はしないとの書面(書面(甲))が郵送された。・その書面を受け取る前に、次回契約更改時に退職したい旨上長に連絡した。・書面(甲)を受領し、内容を了解した。 可能性として考えた離職コードは下記。2C(23):期間満了 更新の希望あり 2D(24):期間満了 更新の希望なし3C(33):正当な理由(傷病)による自己都合退職 それぞれの給付条件は 待機期間 給付日数 個別延長給付 国民健康保険料軽減2C(23): なし 240日 ○ ○2D(24): なし 150日 × ×3C(33): なし 150日 × ○健康保険は、この軽減措置が適用されても、国民健康保険より任意継続の方が保険料が安いと割り出しましたので、任意継続保険を選択しました。したがって、「国民健康保険料軽減」が○か×かは、今回の場合関係ありません。 また3Cは自己都合退職というかたちなので、「退職願い」が書いてあるかどうかがポイントになると思います。これを書いていませんので、3Cを主張するのはむつかしいと思います。さらに一旦、会社記入の「期間満了による離職」に合意しています。いずれにしても、給付条件は2Dも3Cも実質的に同じなので、3Cをあえて主張する必要はないということです。 あとは、給付日数や個別延長給付で有利な2Cが主張できるかどうかです。休職期間中も職場復帰を想定して行動していたことは、eメイルなどの資料があるので、「更新の希望があった」ということは主張できると思います。しかし、会社の「更新せず」の書面を見る前に、私から退職を言いだしていること、書面を受け取って抵抗なく退職を受け入れているので「更新の希望はなかった」と言われてもしかたがない部分があります。 待機期間は2C、2Dとも無しなので、あとは給付日数が240日か150日の差です。90日の差なので、総給付額で60万円くらいかわってきます。大きな差です。今の目論見では、傷病手当金を受給終了後に失業給付を受ける予定ですから、150日は来年5月に終わることになります。その後は、月額約14万円老齢年金をもらうのか、月額約20万円の失業手当をもらうのかということになりますから、実質的な差は6万円X3ヵ月=20万円弱ということになります。 いずれにしても、2Cのほうが有利なのは間違いないですので、駄目もとで手続きのなかで2Cの主張をしてみたいと思います。 最終会社から届いた離職票2の離職理由の部分です。2Dに○されています。【後注】 今回の退職は再就職先の退職でした。最初の就職先からの累計の雇用保険支払いの日数から判断して、給付日数を2Cの場合240日、2Dの場合150日としていますが、これは間違いであることが分かりました。 最初の就職先を辞めた後、一旦失業給付をもらっているので、雇用保険支払い期間は一旦リセットされ、再就職先での雇用保健支払い期間になってしまいます。 再就職先には2年勤務しましたので、失業給付の給付期間は2Dが90日、2Cは150日となります。上記の目論見より少なくなりますが、依然、2Cのほうが2Dより有利です。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/05/03
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを延べさせていただいています。≪2015年4月7日≫ 朝の情報番組「めざましテレビ」(フジテレビ系)のキャスター、大塚範一(おおつかのりかず)さん(66)はそのとき、ゴルフ場にいた。 2011年10月27日の木曜日。ラウンド中に何げなく手で首筋をなでると、そこに小さなしこりがいくつかある。反対の首筋をなでると、そこにもしこりがあった。 自宅に帰り、入浴後に改めて体を念入りに調べてみると、足の付け根の鼠径(そけい)部にもしこりが見つかった。 当時63歳。自覚症状は何ひとつなかったが、さすがに心配になった。金曜日の番組終了後、自宅近くの通い慣れた個人クリニックを訪ね、血液検査をしてもらった。 「私自身は、全然深刻に考えていなかったんです。その証拠に、翌日の土曜日も次の日曜日も、連日ゴルフに行っているんですから」 事態は31日の月曜日に動き出す。いつものように午前3時45分にテレビ局の迎えの車に乗り、午前5時25分に番組がスタート、午前8時に終了。そこへクリニックの医師から電話がかかってきた。 「検査の結果が出たので、できるだけ早く病院に来てもらえませんか」 ◇ クリニックに駆けつけると、「血液検査で異常が見つかった」と、医師はすぐさま精密検査を受けることを勧めた。 翌11月1日、東京都内の大学病院を受診した。「ブラスト」(芽球〈がきゅう〉)と呼ばれる、健康な人の血液には存在しない「がん細胞である可能性が高い血液細胞」が見つかった。その日のうちに、急性リンパ性白血病と診断された。 「このまま入院を」と言われたが、「まったく準備をして来なかった」と頼み込み、翌日に入院した。 病名に打ちのめされるというよりは「まいったな、困ったな、という感じ」だった。「考えたのは、毎朝の番組のことだけでした。『めざましテレビ』は私のすべてでしたから」 「めざましテレビ」は1994年4月1日にスタートした。当時、同時間帯の視聴率1位を独走していた「ズームイン!!朝!」(日本テレビ系)を追い越すことが至上命令だった。 当初は平均視聴率が5%以下と低迷していたが、04年春ごろから平均視聴率が10%を超えることが多くなり、時間帯民放1位を獲得するようになっていった。 「覚えていますよ、放送初日の視聴率はなんと2・1%です。だから、私は17年半無欠勤の『めざましテレビ』と一緒に成長したという思いがあるんです」 健康には人一倍気をつかっていた。仕事一筋。でも番組が楽しいから「ストレスはゼロ」。早朝番組を担当しているから早寝、早起き、夜遊びはしない。食べ物に好き嫌いもなく、たばこは吸わないし、お酒も付き合い程度。人間ドックには年に1回入り、趣味のゴルフは年間50ラウンド以上をこなし、足腰を鍛えていた。 ◇ 華やかなテレビの世界から、病室の天井を見つめて時間を過ごす生活になった。 「悲嘆にくれるという感じじゃなかったですよ。ああすればよかった、こうすればよかったと自分を責めることができたら嘆きようもあったでしょうが、白血病って原因も予防法もはっきりせず、防御ができない事故のようなもの。あきらめるしかない」 入院後に、医師とこんな会話があったという。 「先生、はっきり言ってください。生存率はどれぐらいなんでしょうか」 「3~4割です」 「5割もないんですか?」 一般的に、白血病では「生存率」は治療が終わってから5年以上の長期生存率を指す。説明では、抗がん剤治療による生存率は3~4割、骨髄移植をした場合は4~5割になるということだった。 ただ、医師はこう付け加えたという。「骨髄移植が有効ですが、63歳という年齢を考えると、感染症や合併症などのリスクが高まります。抗がん剤か骨髄移植か、最終的にどっちを選ぶかは、大塚さんの人生観なんです」 白血病の診断から1週間ほどたった11月7日。病院から電話で「めざましテレビ」に「生出演」し、視聴者に正式に語りかけた。番組は別の男性アナウンサーが「代行」する形になっていた。 「完全復帰は来年(12年)の3月、4月になるんじゃないかと思います。必ず戻ってきます。しばらくお待ちください」 抗がん剤治療か、骨髄移植か、まだ決めていなかった。しかし、いつ骨髄移植になってもいいようにと、医師のすすめに従って移植希望の登録を済ませた。 だが、HLA型と呼ばれる白血球の型が適合するドナー(提供者)がなかなか見つからなかった。骨髄移植での定着率がよくドナーの細胞への拒絶反応が起こりにくいとされる血縁者のなかにも、HLA型が合う人が見つからなかった。年齢のリスクも考え、自然と抗がん剤治療で白血病と闘う方向になっていった。 <おおつか・のりかず> 1948年、東京都生まれ。早稲田大卒業後にNHKに入局。「クイズ百点満点」などの司会やスポーツの実況中継を担当した。94年3月、NHK退局。4月から「めざましテレビ」(フジテレビ系)のメインキャスターになり、約17年半にわたって務めた。 写真:抗がん剤治療で髪が薄くなり、「最近は帽子でおしゃれを楽しんでいる」と話す大塚範一さん=東京都渋谷区写真:「めざましテレビ」時代の大塚範一さん=1995年2月写真:入院時につけていた日記。最初のページに「前日から首のリンパに腫れを感じ」などと書かれている 当時の大塚さんって、「元気はつらつ」というイメージがあり、病気とは縁遠い雰囲気でしたが・・・・ 「白血病」は「不治の病」と言われていました。でも抗がん剤などの進歩で、長期生存が可能になっています。抗がん剤で完治が期待できる数少ない「がん」のようです。 「がん」=「死」というイメージが、患者になって大きく変わりました。 私が粒子線治療で入院していたときにこの記事を読み、そのときは下記のように投稿させていただきました。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/201504110005/よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆抗がん剤治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆抗がん剤治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11◆粒子線治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=1◆粒子線治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=23◆粒子線治療後経過観察http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=24
2015/10/12
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【2016年9月27日(火)】「京の夏の旅」で「藤田家住宅」「有栖川宮旧邸」を家内と訪れました。 「その1」で藤田家住宅の訪問記を投稿しました(こちら)。今回は、その続きで「その2」として「有栖川旧邸」です。 (続き) 藤田家住宅をあとにして、「有栖川宮旧邸」のある京都御苑西方面に向かいます。平安女学院中学・高校の向かいにあります。 グルグルと2度付近を回って、コインパークにようやく停めることができました。面識のある方ではなかったですが、先輩ガイドが、独特の語り口で説明されていました。 有栖川宮家は、1625年(寛永2年)後陽成天皇の第7皇子 好仁(よしひと)親王によって創設され、1923年(大正12)慰子(やすこ)親王妃の薨去によって絶家になるまで、ほぼ300年の系譜を持っています。その邸は当初京都御所建礼門の前に建てられていましたが、京都裁判所の仮庁舎として使用された後、民有地であった現在の場所を買い上げて旧京都地方裁判所所長宿舎の一部として移築し、2007年まで使用されていました。それを近接する平安女学院が購入しました。現在は「平安女学院大学・有栖(ありす)館」と呼ぶ教育施設として使用されています。 烏丸通に面した門は、銅板と真鍮板で葺かれた豪壮な趣を持つ平唐門で、三井一族の総長・三井高保(たかやす)氏が1912年、邸宅の表門として新筑。その後、別の場所に移築したものを裁判所が購入し、1952年に京都地方裁判所所長官舎表門として現在地に移築したものです。 同年の仲秋の名月の夜、当時の所長・石田寿と親交のあった歌人・吉井勇氏が李白の詩から字をとってこの門を「青天門」と名づけたといわれます。この青天門は左右の塀とともに大正期の門建築として高い価値を持っています。烏丸通に面した門 門の後ろに一部写っていますが、邸内の2本の大きな枝垂れ桜は、あたかも1本の樹のような枝振りを見せ、塀を越えて烏丸通にも大きく張り出し、春には美しい景観を見せてくれます。この枝垂れ桜は1952年3月、堂本印象画伯の発案により、醍醐寺三宝院にあった実生(みしょう)の桜を当時の門跡岡田戒玉氏の快諾を得て分譲移植したもので、豊臣秀吉が「醍醐の花見」をした当時の桜の子孫にあたることがDNA分析の結果、判明しています。 写真にはありませんが、下立売通沿いの白い漆喰塗り長屋門は、向かって右手に居住のできる部屋、左手に納屋等に利用されていたと思われる部屋を抱えています。築年月は不明ですが、専門家によると、長屋門形式としては最上級の構えであり、築地塀とともに所長官舎屋敷の外見を構成する要素として不可欠な建築であるといわれています。 「書院造」の屋敷は、中庭を含む「玄関棟」「住居棟」「客間棟」の3つの棟で構成。客間棟の西側には、「床の間」と「付書院」を備えた2畳の「上段の間」のある、12畳半の座敷があります。この間に続く15畳の板張りの間は能舞台として使用できます。玄関棟客間棟 奥が12畳半の座敷(奥に2畳の上段の間)、手前が15畳の板張りの間。上段の間 床の間を備えます。花頭窓を通して上段の間を眺めます。花頭窓の向こうには付書院が備えられています。 庭園は2009年「植治」十一代小川治兵衛氏により「植治の庭」として作庭されました。庭園の眺めを考慮して、地面を30センチほど嵩上げしたとのことです。庭園 青天門の両側の桜と楓の丘には、氏自ら「立ち話ではなんですさかい」と命名された、かつては石橋であったベンチ代わりにもなる景石が据えられています。住居棟にまわります。普通はっここはガイドが説明しないらしいですが、客間棟で説明された方が休憩時間なのか、わざわざ来て説明してくださいました。面白い説明でした。中庭 藤袴が咲いています。蝶が来ていました。藤袴に集まることで有名な「アサギマダラ」と説明してくださったと記憶していますが、帰って調べたら「アオスジアゲハ」のようです。 平安女学院の過去・現在の制服が展示してありました。ワンピースのセーラー服は珍しくなったようですが、夏服は現在もワンピースとのことです。 その横の部屋では、お香が展示され、聞香にトライできるようになっていました。近くの山田松香木店さんにより展示でした。受付の先輩の方々も面識のない方でしたが、ご挨拶を申し上げて帰途に就きました。「藤田家住宅」も「有栖川宮旧邸」も、先輩ガイドの説明は素晴らしかったです。今後の参考にしたいと思います。(内容再考版。原文は非公開日記に移動済み。)-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2016/09/27
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【2016年10月17日(月)】 粒子線治療後の17回目の月イチ経過観察で、今日、大阪府下のM病院に行ってきました。粒子線治療退院後、1年と6ヵ月が経過しました。 今回は毎月の血液検査とCVポートフラッシュに加え、3ヵ月に一度のCT撮影でした。 いつものように、まず先生から体調について質問あり。 「特に変化ありません。」と回答。 そのとおり、1ヵ月前に比べると、特に変化ありませんが、3ヵ月前は、右前腹部に痺れを感じることが多かったので、そのときに比べると良好です。 CTの結果、腫瘍の大きさは読影所見では前回に比べると小さくなっているとのこと。しかし、先生が私に前回との差を画像で見せてくれましたが、「大きな差はないですね。でも少なくとも大きくはなっていないので順調です。」とのこと。粒子線医療センターにCT画像を郵送するためにCD-RでCTデータをもらってきたので、帰宅してから私も詳しく見てみましたが、先生のおっしゃるように、明確な有意差はなさそうでした。 もう一つ所見がありました。思わぬところです。膀胱内壁に突起が見られるとのこと。これも先生に画像を前回との差で見せてもらいましたが、前回のにも突起があり、あまり差は認めまれませんでした。先生曰く「疑うとすると膀胱がんですが、ちょうど膀胱が凹んでいる部分なので、そのせいとも思われます。念のため今日、細胞診のための尿検査をして帰ってください。次回診察の際に結果をお知らせします。」 これも帰ってから見てみましたが、下の写真のように、前回も同様の突起があり、抗がん剤治療中の一昨年11月の画像にも同じような突起があります。あまり心配する必要はないと思っています。写真:左から一昨年11月(抗がん剤治療中)、3ヵ月前、今回 腎不全の指標であるクレアチニンは1.56と前回1.49に比べると悪化していますが、今年になってからは高止まりして安定しているといえます。 尿酸値もフェブリクを飲み始めてから、上限値未満をキープしています。 ちょっとだけ膀胱がんが気にはなりますが、良好な結果でした。 尿検査を出して、CVポートのフラッシュをしていただいて診察は終了。 ところが会計で少しトラブル。なかなか私の精算が上がってきません。係の人に呼び出され「会計について泌尿器科に問い合わせているので、しばらくお待ちください。」とのこと。少し待って会計が上がってきました。CTデータをCD-Rで3ヵ月に一度出してもらっていますが、先生が所見を付けない場合、自己負担で保険がきかないとのこと。それでCD-Rは別会計となり800円とのこと。「今までも所見なしだったけど、保険対象でしたよ。」と言ったら、「今までが間違っていましたが、今までの分までは請求しませんので。」とのこと。約500円ですが自己負担が増えてしまいました。 近日中にCT撮影データも含め、今回の結果を粒子線医療センターに郵送します。 雨の天気予報でしたが、朝方雨が降っただけで、午後から良いお天気になりました。 家内はテニスでした。 11月の東寺での観光ガイドのスケジュールが来ました。長女の結婚前の顔合わせ日程を決めるのが、私の11月の都合を会に提出した後になってしまい、とりあえず11月5日に置いていました。しかし、今日来たスケジュールを見ると、運悪く11月5日に勤務が入っています。長女に電話して、申し訳ないけど日程再調整を頼みました。 普通の勤めをしていたときは、休みが土日に固定されていたので、何か私的な予定は土日に入れればだいじょうぶでしたが、ガイドは土日関係ないので、これからはそうはいかなくなります。ガイドの勤務日程を決めるプロセスからいくと、私的な予定を入れる場合、前月の初めまでに決めて、その日にはガイドの仕事が入らないように申請するか、前月の20日頃にガイドの勤務日程が決まってから決める必要があります。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_________________________________過去の治療履歴は下記を参考にしてください。がん治療日記:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10がん治療振り返り:http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/10/17
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【2019年9月17日(火)】 来年1月某講座の受講生を、伏見稲荷大社やその周辺で、あまり知られていないところを案内します。見学先に訪問を正式に許可していただくためと、下見を兼ねて現地を訪れました。 裏参道のスポットのインタビューをしました。「おさんば稲荷」は伏見稲荷大社管理であることが分かりました。「鬼法教」は最初前を通ったときは開いていたのいですが、2回目のときは閉まっていてお話しを聞くことができませんでした。 その奥の「大日本大道教」は、管理者の方に色々お話しを聞くことができました。・創建は昭和27年。いわゆる「オダイさん」が創建。その方は、現在身体をこわされている。・道教の神様を祀る。門前に「太上老君」「道徳天尊」「娘娘(ニャンニャン)神」「原始天尊」がお祀りされている。・画家さんなどが住む住宅があったが、退去に伴い買い取ったりして面積が増えた。・やはりお塚は代替わりで、お詣りが途絶えることが多く、管理には苦労している。・裏参道の種々寺社は明治以降にできた。江戸時代にはなかったと思われる。・「大日本大道教」前のの弓矢八幡の本社は和歌山。この地へは昭和に創建。 その他、長い時間にわたって色々お話しを聞くことができました。「大日本大道教」の創立を示す碑 歩く途中で、本で読んだことのある内容も含め、色々発見もありました。 本殿に向かって左側の大きな燈籠に「新門辰五郎」と刻まれていました。新門辰五郎がこの燈籠の寄進者の一人ということです。「新門辰五郎」と刻まれた燈籠 新門辰五郎[1800~1875]は江戸末期の侠客(きょうかく)で江戸の人です。浅草寺に新設された門の番人となったので、新門辰五郎とよばれました。火消し人足から町火消し十番組の頭となり、のち、徳川慶喜に重用され、その身辺警護にあたりました。 御茶屋前のスペースに、砂澤たまゑ氏寄贈の照明灯を発見しました。砂澤たまゑ氏は有名なオダイさん(霊能者)の一人です。「霊能一代」という本を書いており、私も伏見稲荷の「お滝」の研究で図書館で本を借りて読みましたが(こちら)、アマゾンででは4万円~6万円というプレミア価格で売られています。砂澤たまゑ氏奉納の照明灯 伏見稲荷大社神馬の墓 「ぬりこべ地蔵」北隣十石橋近くの「愛染寺宿坊」と彫られた石燈籠の裏には、建立年代が彫られています。読みにくいですが、「天保14年」ではないかと思います。「愛染寺宿坊」と掘られた燈籠写真では分かりにくいですが、「天保十四年」と彫られているようです。------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/09/17
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【2019年8月21日(水)】 8月11日、読売朝刊の「オリンピアン」の挑戦というコラム記事がスタートしました。過去大会に出場した選手たちの、その後と今の姿から、五輪の重圧、メダルの重みを探るという記事です。 1回目は、東京五輪、重量挙げバンタム級で銅メダルを獲得した一ノ関史郎さん(現在75歳)。開会式の翌日で「日本人メダル第1号」でした。私はそのとき小学校4年生。一ノ関選手の出る試合を見たかどうかまでは憶えていませんが、一ノ関選手のことは「日本人メダル第1号」としてよく憶えています。重量挙げという競技も、初めて知りました。シーンと静まりかえった会場の中で行われる競技が印象的でした。 私は銅メダルを喜んだものとばっかり思っていたのですが、記事によると、金メダルを期待されていたが極度の緊張で銅メダル止まりだったということのようです。次のメキシコ五輪でも腰の故障で5位に終わり、競技を退きました。秋田県職員として勤めましたが、小学生のとき書道展で入賞したことがあったことから、重量挙げに替わるもので打ち込めるのとして書道を選択します。有名な書家にも教えを受け、継続と向上に励み、60歳を過ぎ、国内有数の書道展に入選するようになりました。定年後は民生・児童委員を続け、15年前から子供向けの書道教室を開き、35人の生徒さんたちを教えているそうです。 一ノ関さんの言葉がグッときます。「100歳になったとき、自分に『人生の金メダル』を掛けてあげられるように生きたい。自分はまだまだ未熟なので、今も日々学んでいる。」よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/08/21
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【2019年8月9日(金)】 今日の京都の最高気温は38.2度。7月29日から8月6日を除き連続の猛暑日です。 今朝の読売新聞に、侍ジャパンの稲葉監督のインタビュー記事があり、「他競技から采配学ぶ」というタイトルで、ちょっと面白いことが載っていました。 野球もサッカーワールドカップのポーランド戦の「わざと1点差負け」というようなことが起こり得るのだなということを知りました。ここでは「わざと押し出し」となってますが、9回表が終わった時点で1点差での負けならOKということが分かっていれば(野球は決まった試合時間がないので、同時に2つの試合を初めても、一つがかなり早く終わることは大いにあり得る)、わざとソロホームランを打たせる、わざとエラーにしてランニングホームランというのもありです。普段のプロ野球のリーグ戦や高校野球のトーナメント方式では起こり得ませんが、予選リーグを設けるオリンピックでは、サッカーポーランド線と同じようなことが起こりうるということです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2019/08/09
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【2021年1月29日(金)】 1月28日の読売新聞朝刊から、恒例の第一生命主催の「サラリーマン川柳コンクール」100選発表の記事。毎年、色んな世相が反映されるのですが、今年は、やはりコロナ一色の様相だったようです。ネットで100選を見てみました。私なりの10選です。「出社日は 次はいつなの?」 妻の圧YOASAOBIが 大好きと言い 父あせる「5円」見て ビジネスバッグが エコバッグ下書きの 送信キーを 猫が押し会社では 偉そうなのねと 妻が言う「やばいです」 それはいいいのか 悪いのかペイペイは どこのパンダと そっと聞き子は鬼滅 夫婦は亀裂 おうち時間副業で 出前届ける 部下の家ズーム飲み 背景変えて はしご酒よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/01/29
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【2020年3月18日(水)】 今日は、もともとは夕刻に「京の冬の旅」の私的慰労会がある予定でしたが、コロナでキャンセルになって、公私OFF日になりました。一昨日から3日間とも外出予定だったのが、一転して3連続OFF日になりました。昨日、確定申告の作成が完了したので、5月16日の「京カレッジ」のレジュメ作成にとりかかりました。これからも研修、懇親会、ゴルフ、4月の花山天文台、4月の修学旅行などがキャンセルになったりして、「京カレッジ」のレジュメやパワポ資料作成に割ける時間が増えたのは、「禍転じて福となす」です。とはいうものの、このまま行けば「京カレッジ」がキャンセルになる可能性もありますが。 さて、たまには「コロナ」と全く関係ない話題もいいでしょう。 今朝の読売新聞記事から、「『ご飯は左、汁物は右』昔の話?」という記事です。 和食では「ご飯は左、汁物は右」が一般的な配置とされてきたが、それが崩れてきているとのこと。アンケートの結果が示されています。「ご飯は左、汁物は右」派は53%。まだまだマジョリティですが、「ご飯右、汁物左」が22%あります。少数ですが、「ご飯も汁も左で、汁は奥」というのが3.2%となっていて、これは学校給食では、ご飯の右におかず、汁はご飯の奥に置かれることも多いからというのが一因ではないかとのこと。 専門家の話によると、「ご飯と汁の位置は、室町時代からの常識で、寺の精進料理から来ている」とのこと。しかし、近年は、汁物よりおかずが重視されるようになり、取りやすい右手前がおかず、左手前にご飯、奥に汁物が置かれるケースが増えてきました。食卓に味噌汁を出すことが減っているのも一因ではないかとのこと。作るのに手間がかかったり、食事中に麦茶やビールなどを飲んだりすることが増えて、必須の品ではなくなったことが原因ではないかとのことですが、私は減塩が一番の理由ではないかと思います。 下のように、コンビニ弁当もご飯が右のケースがあります。これは貼り付けるラベルが右に来るので、おかずが隠れないようにということらしいです。人は、左上、右上、左下、右下と視線を動かす習性(「Zの法則」と呼ばれる)があるので、目立たせたいおかずを左に持ってきているのではないかという説も書かれていました。 なかなか面白い視点、アプローチ、分析の記事でした。ちなみに我が家はご飯左ですが、お味噌汁が食卓に出ることはほとんどありません。出る場合、お酒を飲んでからということになりますが、置く場所は手前ということはないですね。左奥かな?よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/03/18
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【2021年5月10日(月)】 今日は修学旅行の予定でしたが、コロナでキャンセルとなり、フリー日となりました。午前中、予約してあった歯医者へ。右上奥歯の被せが完了です。これで終わりではなく、本来治療予定だった、左上奥歯(親知らず)の治療が続きます。 続いてこちらは予約ではないA眼科へ。コロナで空いているかと思ったら、結構混んでいました。GWで休診が長かったからでしょうか。緑内症予備群で3カ月か4ヵ月に一度診てもらっていますが、バラツキが大きいので、断定はできないそうですが、悪くなっていることはなそうです。 帰宅したら、ワクチンの申込案内と予診票が、二人分届いていました。近所の掛かりつけ医に電話での予約を試みました。繋がりにくかったですが、家内が2時間の間、根気よく電話してくれて何とか予約できました。6月には2回目打ち終えることができます。 昨日の読売朝刊から。英国がEUから離脱して、構成国の独立への動きが出ているとのこと。そのニュースの解説として、英国の国旗ユニオンジャックの成り立ちが書かれていました。イングランド、スコットランド、アイルランド3国の国旗の合成だったんですね。よく知れられていることかもしれませんが、私は知りませんでした。「ユニオン」=「連合」ですものね。「ジャック」は船首につける「船首旗」だそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/10
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【2017年8月24日(木)】2017年8月19日(金)読売新聞朝刊の記事。 イルカなどの追い込み漁で知られる和歌山県太地町が、中国に小型鯨類を輸出したり、イルカショーの指導もしたりするとのニュース。 「背に腹は代えられない」というところでしょう。ある国、地域の価値観だけで、鯨漁やイルカ漁を批判するのはどうかなと思います(種の保護という観点に立った、漁の制限は必要でしょうが)。太地の方は胸を張ってやればいいと思います。 ドイツに赴任していたとき、会社の食堂で時々ウサギの肉がでました。最初「えぇー!!!」と思いました。日本でも昔は食べていたのでしょうが、今はあまり聞きません、もちろん、ウサギが捕れなくなったということもあるのでしょうが、日本では学校で飼う小動物というと真っ先にウサギを思い浮かべます。そんなこともあって、食べなくなったということもあるかもしれません。 日本でウサギの肉を給食に出すとなったら、日本では猛反対運動が起こるでしょうが、外国からは何ら反対されないと思います。人類共通の一線を超えない部分での善悪の判断は、民族あるいは国、地域の判断に委ねざるを得ないと思います。 今日は終日在宅でしたが、雑紙回収の準備、庭の低木の剪定、駐車場契約、懇親会案内、妹への孫誕生の連絡などなど、ガイドのない日でないとできないことに時間を費やしました。二条城現地研修の準備を進めたかったのですが、現時点(午後9時半)で手付かずです。明日、明後日とガイドが続きますので、これを投稿し終わったら、少しでも前に進めたいと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/08/24
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朝日新聞「患者を生きる」の記事を引用し、私の意見・感想・気づきなどを述べさせていただいています。≪2016年1月13日の記事≫ 「慢性骨髄性白血病」と診断された新潟県の建設会社員の男性(48)は2014年7月、病院で処方された治療薬「グリベック」を飲み始めた。 グリベックは、がん細胞を狙い撃ちするとされる「分子標的薬」の一種。新潟県立がんセンター新潟病院で、まず通常量の半分の1日2錠を1週間分処方された。 検査費5万5320円、薬代3万8250円などの合計額の3割の金額が、院内処方の窓口で告げられた。 「2万9580円です」 金額の大きさに、周囲にいたほかの患者らが驚いて、一斉に自分に目を向けたのがわかった。 通常量の1日4錠になると、1カ月の薬代は3割の自己負担で約10万円になる。給料の手取り額は夫婦合わせて45万円ほど。「とても暮らしていけない」。妻(41)と顔を見合わせた。 幸い、薬の効果はすぐに表れた。治療前、血液中の白血球数は正常値の上限の6倍になる1マイクロリットル(0・001ミリリットル)当たり6万個に達していたが、服薬を始めて1週間で2万8千個に下がった。副作用は軽い吐き気を感じる程度で、薬を1日2錠から3錠に増やすことになった。8月上旬には、正常値の範囲内の6200個まで下がった。 公的医療保険では、1カ月に払う自己負担額を一定額に抑える「高額療養費制度」がある。病気を伝えた会社の経理担当の同期に教えられたはずだが、忘れていた。自分が生きるか死ぬかのことで頭がいっぱいだったからだ。 男性のかわりに同期が、会社が加入する全国健康保険協会に申請手続きをしてくれていた。「限度額適用認定証」が交付され、病院の窓口で見せれば、限度額だけ払えば済むことになった。月収約30万円の男性の場合、約8万4千円になる。「悪いね」。同期にかけた言葉は軽かったが、心の中では深く感謝していた。 8月からグリベックは1日4錠に増えた。2カ月分の薬代や検査費をまとめた自己負担額は約20万円になるが、支払ったのは限度額の約8万4千円。当初は20万円を覚悟していただけに、思わず「安い」と感じたほどだった。病院の領収書。合計金額の3割負担額は20万円近いが、高額療養費制度の適用で実際の負担は8万円台に>公的医療保険では、1カ月に払う自己負担額を一定額に抑える「高額療養費制度」がある。 私は1回目のがん(腎盂癌)を発病して入院するときに、病院の窓口でこの制度を教えてもらいました。さらに、当時私の加入していた健康保険組合は所謂大企業の保険組合だったので、1ヵ月で2万5000円を越えた分は戻ってきました。これらのことは病気をするまで知らなくて、この方と同じように、非常に高額な医療費になるなと思っていたのですが、そうでもなくホッとしました。 2回目のがん(後腹膜悪性腫瘍)のときは、この制度を知っていたので、入院が決まったら即認定証を発行してもらいました。収入の関係で限度額約15万円からスタートし、限度額到達が3ヵ月続いたので、4ヶ月目からは、約8万円の限度額になりました。 これらの制度があるので、月8万円程度の医療費が捻出できるのであれば、あまり高額な医療保険に入る必要はないと思います。ただ、先進医療を受ける場合、高額医療の対象にならないどころか、全額自己負担になるので、支払いが非常に高額になります。一方保険料はそれほど高くはならないので、医療保険の先進医療特約はお薦めです。(あくまでも個人的な意見です。)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村___________________________________________________________________【関連カテゴリー記事一覧】◆がん治療情報http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=16◆がん治療日記http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=10◆がん治療振り返りhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=11
2016/04/11
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【2017年5月13日(土)】 午後からの「上京探訪」第2回の講演会の前に、家内と上賀茂神社の境外摂社の大田神社境内にある、「大田ノ沢のカキツバタ」を観に行きました。 大田神社近くでコインパークを探しましたが、見つからず、上賀茂神社の駐車場に駐車し、社家が並ぶ街並みを歩いて大田神社に向かいました。社家の街並 上賀茂伝統的建造物群保存地区に指定されています。 大田神社に到着。 参道の脇の「大田ノ沢」では、約2000平方メートルの敷地にカキツバタ約25,000株が自生して、「大田ノ沢のカキツバタ群落」と呼ばれます。この大田ノ沢は平安時代からの名所とされ、平安時代に詠まれた和歌に次のものがあります。 神山(こうやま)や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ 藤原俊成 尾形光琳の『燕子花(かきつばた)図』のモチーフになったとの言い伝えもあります。 毎年5月上旬から中旬にかけて開花します。 大田ノ沢は古代に深泥池と同様に沼地であったといわれ、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すものであるとして、カキツバタ群落とともに、昭和14年(1939年)に国の天然記念物に指定されました。 一昨年から鹿の食害が深刻になったようですが、ネットを設置するなど懸命の努力がされて、今年は多くの花が咲いたようです。義務ではありませんが、杜若の協力募金(300円)が入り口に置かれていて、毎年多く咲き続けることを願って協力させていただきました。 カキツバタ(杜若)はアヤメ科アヤメ属。湿地に群生し、5月から6月にかけて紫色の花を付けます。外花被片(前面に垂れ下がった花びら)の中央部に白ないし淡黄色の目型の斑紋があることが特徴で、これによりアヤメやハナショウブと見分けることができます。 「カキツバタ」の名は、かきつばたの色(青紫)を染み出させ布などに書き付けた、つまり衣の染料に使われたことから「書付花」と呼ばれていたのがなまったものです。 漢字表記の一つ「杜若」は、本来はヤブミョウガという別種の漢名(「とじゃく」と読む)でしたが、カキツバタと混同され使われたもの。 続いて、大田神社に参拝しました。 祭神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)。創始年代は不明。五穀豊穣を願ってこの地の地主神を祀ったのが始めといいます。のちに上賀茂神社の境外摂社となり、上賀茂八摂社の一つに数えられます。寛永5年(1628)には本殿と割拝殿が造替されました。白鬚社 - 祭神:猿田彦命(さるたひこのみこと) 摂末社の一つ。他の摂末社も含め、上賀茂神社の境内末社にも指定されています。 近くに「北大路魯山人誕生地碑」が立ってました。その横の説明板の全文です。 北大路魯山人は明治16(1883)年3月23日、ここ上賀茂の地で生れた。15歳で当時流行の「一宇書き」で次々と受賞を重ね、一字書きの名手として名をあげるなど、年少時代から非凡な才能を発揮した。明治37年(21歳)に、日本美術展覧会に隷書「千字文」を出品し一等賞を受賞。その後、書や篆刻、刻字看板を制作し、併せて古美術と料理にも興味を持つようになった。 大正14年(42歳)に東京で「星岡茶寮」を開設し、仕入れ、調理などに卓越した技量を発揮して、美食家としてもその名を世間に知らしめた。昭和2年(44歳)に星岡茶寮で用いるため、北鎌倉に「星岡窯」を築き本格的に作陶を始め、多数の優れた作品を残した。 魯山人は、書、篆刻、陶芸、料理など幅広い分野で人並み外れた優れた業績を残し、昭和30年(72歳)に重要無形文化財(人間国宝)の認定を打診されたが、固辞した。美の追求に一生涯を掛けた偉大な巨人であったが、世間の名声にはまったく無頓着であった。昭和34(1959)年12月21日、76歳で横浜の地で逝去し、京都西賀茂の小谷墓地に葬られている。 「上京探訪」のセミナーに向かいました。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/05/13
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【2018年1月16日(火)】 伏見稲荷大社御茶屋ガイドの受付の下見に午後2時半に行くことにしたので、それまでの時間を利用して、伏見稲荷「お滝」の6回目のフィールドワークを行いました。 夕刻には月イチ三味線レッスンがあるので、阪急で京都河原町に出て、河原町御池の十字屋に三味線を預けて、京阪で伏見稲荷へ。午前11時過ぎから歩き始めました。今日歩いたルート 伏見稲荷大社の講務本庁の前を通った際に、講員加入についてのポスターがありました。正講員は年額2000円以上となっています。今後も伏見稲荷大社についての研究は続いていくことになると思うので、これくらいの金額であれば、入会してみようかなと思います。講員加入案内 「三ツ辻」から「四ツ辻」へ。四ツ辻では、ご神跡の一つ、荒神峰(田中社)により、鳥居やお塚の字彫を再確認しました。古いものは大正前半でした。 御膳谷に到着。御膳谷の社務所は、ネット情報によると、戦前は民間の行者宿で、断食修行の世話をしてくれたそうです 御膳谷の「お塚」を再訪です。1月4日のフィールドワークでは、大正元年が発見した中では一番古い字彫でしたが、今回、明治33年の字彫を発見しました。御膳谷の「お塚」 明治33年の字彫「清明滝」(地図の1)へ。この「お滝」は伏見稲荷大社の境内地にあり、伏見稲荷大社が管理しています。入口には「お滝利用の方は、御膳谷の社務所へお越しください。」だったか何だか書いてありました。清明滝 伏見稲荷のお滝群の中では、最も大きな「お滝」ではないかと思います。そして今までの「お滝」は、「お塚」とセットでしたが、ここは「お塚」はありません。そして、他の「お滝」では、滝近くに不動明王などが祀られていることが多いのですが、ここはそういった偶像が一切ありません。最も静謐な印象を与える「お滝」です。「お滝」の水は勢いよく流れています。自然の水流のようです。 近くには「清明舎」と呼ばれる建物があります。滝行のための着替えや休憩の場所であったり、今はどうか知りませんが、ネット情報によると、宿泊もできるようです。清明舎 再び坂を上って、「薬力の滝」(地図の2)へ。数は少ないですが、「お塚」が滝の近くにあります。 滝口の上に上ってみますと、人口の貯水池があり、そこから流れ出ていました。山の方から自然の水流も来ていますが、それほど多くはなく、ホースもありますので、循環もさせているのかもしれません。 「薬力の滝」近くの分かれ道を山科の方に向かいます。「山科の里 大石良雄旧跡」と書かれた道標のところを下ります。大石良雄(大石内蔵助)が山科の岩屋寺に隠棲していたとき、伏見の遊郭に通うのに通った道だと伝わります。 ほとんど山科側に下り切ったところに、「大石の滝」の跡(地図の3)があります。ここは、一昨年、「京都市内全寺社巡り」の山科区のパートで訪れたことがあります。そのときは、もちろん山科側から入ったのですが、今日は伏見側から訪れたということです。「大石之瀧」と書かれていたのでしょう。祭壇お滝着替えをする建物でも建っていたのでしょう。 「お滝」は廃墟になっていますが、詳しい説明書きが設置されています。前回訪問時も説明書きは見たのですが、そのときは、こんなところにも「お滝」があるんだという程度で詳しくは読みませんでした。 今回、詳しく見てみますと、あの吉田初三郎の絵も掲載されていて、「大正14年に建立され、昭和34年に廃墟になった」と書かれています。吉田初三郎の地図が大正14年に発行されていますので、ほぼ同時期に建立されたもののようです。ここ以外の「お滝」はすべて稲荷山頂付近か、伏見側の谷にあります。山科の住人が「お滝」をしようとすると大変です。それで山科側にも作られたのではないかと思います。「お塚」は見当たりませんでしたが、「祀られていた一部は、岩屋寺境内、西野山墓地に祀られている」とあるので、昔は「お塚」もあったのでしょう。 下りてきた道を引き返します。途中の別れ道で、山に沿って南の方に向かいます。 四叉路があり、記憶が不確かですが、立て札に「大石神社」「深草」「一之峰」と書いてありました。次は「末広の滝」に行きたいのですが、地図は持っているものの、こんな細い山道は載っておらず、「深草」か「一之峰」かで迷いました。「一之峰」の方向に行って、お山巡り参道に戻って、そこから急な坂道を下りれば、「末広の滝」に行けるのは分かっていたので、「深草」なら近道かも知れないとも思ったのですが、おり確実な「一之峰」の方に向かいました。 そこから上りになっていて、しばらくしてお山巡りの道近くに到達。急坂を下りて、「末広の滝」へ。帰宅後、地形図を調べたら、やはり「深草」の方向に下りるのが、「末広の滝」への近道だったようです。 「末広の滝」(地図の4)は、管理者の住宅があり、店も開いていました。外に「お滝」の案内地図が貼ってありました。これを手に入れたくて、お店に入って尋ねたのですが、売り物ではなく、貼ってあるものしかないとのこと。 止むなく、写真を撮りました。地図部拡大説明部拡大 これを見ますと、伏見稲荷の南側の「お滝」に特化したものです。ここには、吉田初三郎の地図に載っている「真心滝」と「熊鷹本滝」が書かれていません。また「伏見稲荷山参拝図」に書かれた「岩龍ノ瀧」も書かれていません(初三郎の地図にもない)。「熊鷹本滝」はメインルートから大きく外れているので、書かれていないということかもしれませんが、「真心滝」は、この地図がいつ作成されたものか分かりませんが、比較的古い年代で廃滝になったのかもしれません。そして、「岩龍の滝」は、初三郎地図が出た大正14年より後にできて、「真心滝」より後に廃滝になったということかもしれません。「末広の滝」。扉が閉ざされ、立ち入り禁止となっています。水流は勢いよく流れていました。「お塚」、鳥居の字彫の古いものを探しました。大正7年、8年、15年などが見つかりました。 たまたまお塚にお供えをして帰られる老夫婦がいらしゃったので聞いてみました。お歳は70歳くらいでしょうか。年に1回お参りに来られる程度だそうです。その方のお父様がお塚を作られたとのことですので、その方がお生まれになった頃だとすると、戦後間もなく建立されたようです。個人で建てられたのか、共同で建てられたのかは聞きそびれましたが、地代を払っていらっしゃるとのこと。やはり「お塚場」は管理料で経営が成り立っているようです。附属の滝で滝行をすることが少なくなっても、やっていけるのはそのためなんでしょう。 これらお塚群の近く、「末広の滝」に近いところに「岩滝」と思われる「お滝」があります。水は流れておらず、脚立も置かれていて、長い間使われていないうようです。 昔、「お滝」巡りをした際に、「伏見稲荷山参拝図」に書かれている「岩龍の滝」を発見できませんでした。地図では「岩滝」と「末広の滝」の間にありますが、それらしきものはその時も今回も何も発見できませんでした。今回、さらに奥に行ってみました。ありました、廃墟になっていますが、立派な「お滝」です。 鳥居には、手書きのようですが、「竜王出現社」と書かれているので(何故、彫ってなくて手書きなのか分かりません。古い時代に書かれたのではなく、新しく誰かが書いたのかもしれませんが)、「岩龍の滝」とみなしました。 鳥居の裏には昭和8年の字彫があります。これが「お滝」創設時に同時に建てられたものであるとすると、さきほどの初三郎地図が発行された後に作られたものだという推定と符合します。「伏見稲荷山参拝図」での「岩滝」の位置関係と逆になっているのは、地図の記載ミスと思われます。 この「岩龍の滝」(推定)の下には、平らな広い土地があり、構造物の跡があります。さきほどの鳥居の前には「木田家私有地」の看板があり、075で始まる電話番号を消して、0727で始まる電話番号が連絡先として書いてあります。大阪の箕面あたりの電話番号です。「末広の滝」とは別の管理者だったのだと思われます。周りには「お塚」がないので、「お滝」だけだったのかもしれません。「お滝」の利用者が減り、「お滝」だけではやっていけなくて、早い撤退になったのかもしれません。あるいは、「末広の滝」の「お塚」が、昔は部分的に、「岩龍の滝」の「お塚」だったのを、「末広の滝」の管理者に管理を委ねたのかもしれません。 伏見稲荷御茶屋の受付下見の時間が近づいたので、伏見稲荷大社に戻りました。→こちら-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/01/16
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2016年10月6日 京都新聞ホームページから かつて「難病の神様」として多くの参拝者が訪れた京都市伏見区の大岩神社の参道再生に、地元住民が乗り出す。約2年前に管理者が不在となり、参道が倒木で荒れた状態になっているためで、日本画家の堂本印象がデザインした鳥居をアピールして、登山客を呼び込もうとしている。 大岩山山頂付近にある大岩神社には、男女2人の神がまつられ、互いの病気を献身的な看病で治癒した伝承がある。昔は結核患者や陸軍病院(現京都医療センター)の傷病兵が祈願に訪れていた、という。 しかし、2014年秋ごろから管理者がいなくなり、大岩街道から神社につながる参道は竹林や雑木林の倒木で荒廃。木が倒れ、壊れかけているほこらもある。 近年、参道を市がトレイルコースとしてPRを始め、最近では外国人も散策するようになった。そんな中、昨年発足した市民グループ「深草まるごとつながりネットワーク」が、参道の環境整備を模索。5月から清掃活動を行い、今後、倒木の撤去や広場への遊具設置、社務所をくつろぎスペースとして活用するなどの再生策を検討している。 また参道には1960年代に堂本印象が寄贈した二つの鳥居があり、グループは「新たな『印象』をつくろう!」をスローガンに、魅力を発信していく。 メンバーの杉田鈴子さん(68)=伏見区=は「神社周辺や参道を子どもから大人まで楽しめる環境にしたい」としている。同ネットは取り組みへの協力者を募っている。問い合わせは事務局の伏見区役所深草支所TEL075(642)3203。倒木で被害を受けた大岩神社のほこらの損傷状態を確認する市職員ら。市民団体が参道整備に乗り出すことになった(京都市伏見区)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/10/07
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京都の地名の解答です。問題は作ったものの、12月12日 試験前日です。解答する時間もなくなってしまいました。問題に直接正解を入れて投稿します。●通り名・数え歌・戯れ歌 (坊さん頭は)丸太町 (つるっとすべって)竹屋町 (水の流れは)夷川二条で買うた(生薬を)(ただでやるのは)押小路(御池)で出会った(姉三)に (六銭)もろて(蛸)買うて 錦で(落して)(四かられて) (綾まった)けど(仏々と)(高が)しれてる(松(ま)ど)したろ・五条通り以南(雪駄ちゃらちゃら)(魚棚) (六条)(三哲)通りすぎ(七条)こえれば(八、九条)、(十条)(東寺)でとどめさす・南北の通り (近松門左衛門)の(浄瑠璃)(堀川波鼓(なみのつづみ))に登場 (高倉通)が抜けている。 寺、御幸、麩屋、富、柳、堺町、相(間)の東は(玉敷の) (御垣(みがき)に囲ふ五つ緒の)、車、烏丸、両替、室 衣、新、釜、西、小川、油、醒ヶ井、堀川の (岸の平砂(へいさ)を白波に、照らせば今も夏の夜の・・・)・江戸中期の雑俳集(口よせ草)に 「(九重)(都の意味)は上がる下がるでむずかしい)」●路地と辻子・辻子の数 (京羽二重) 47ヵ所 (京(花洛)羽津根) 91ヵ所・了頓図子 桃山時代の茶人(広野了頓)の屋敷があった。・革堂図子・だいうすの図子 キリスト教の建物があって(デウス)が訛ったとの説 (大休寺)が転訛したという説・膏薬図子 (空也上人)が一宇を建て、悲運の武将(平将門)の霊を弔い、 (空也供養の道場)と呼ばれた。それが訛ったという。・団栗図子 (天明の大火)の火元はここの民家といわれ、この火事を(団栗焼け)ともいう。●難解、ユニーク地名<難読地名>・不明門通(あけず) 因幡平等寺の正門が閉まっていた・化野 (雍州府志)では「化」は(阿太)・一口(いもあらい) 巨椋池西岸。三方が沼地で(入口)が一方にしかなかった。 もともとの(芋洗)に一口の文字があてられた。・太秦 この地を領した(秦氏)が、朝廷に絹を献上するとき(うずたかく積み上げた)から という説 (絹糸)が(巴渦)の形をしていたからという説・御室 (光孝天皇)が(仁和寺)を造営。完成は(宇多天皇)のとき。 (宇多天皇)は法皇となって、仁和寺内に(御室(御座所))を営んだ・鶏冠井(かいで) 何らかの(井戸)や(名水)が存在したと推定。 明治10年代編纂の(京都府地誌)では、(継体天皇)の時代、この地に(三井)が あり、(井戸)の傍らに(老楓)があった。その(楓)が(鶏冠)に似ていたこと からこの地名になったという。・帷子の辻(かたびら) (上嵯峨・下嵯峨・太秦・常盤)への別れ道。 その道が北側のみに分岐していたからという説。 (嵯峨天皇)の皇后(檀林皇后)の(嵯峨深山谷)への葬送の際、棺を覆った (帷子の衣)が風で落ちたという説。・釜座通(かまんざ) 正応2年(1289)に「(三条まちかまのざの弥藤三(やとうざ))なる者」の 活動が書かれている。・雲母坂(きららざか) (修学院)から延暦寺(根本中堂)に至る山道。 江戸時代の(山州名跡志)(白慧(坂内直頼))撰)によると、この坂道は (夕雲が覆い)都から見ると雲が生ずるようなので、この名になった。 ・神足(こうたり)(長岡京市) 地名としてはカンタリ、神社名としてはカウダニ、カムタリなどの読みが伝えられて いる。・御幸町(ごこまち) (豊臣秀吉)が(御所)に参内するとき必ずここを通ったからとする説。 ~(京羽二重)による (山州名跡志)ではこれを否定し、御幸とは(仙洞(上皇)・天子)の御行・鹿ヶ谷 (智証大師・円珍)がこの地を訪れた際に、一頭の鹿が現れて(円珍)を案内した というエピソードが(京都府地誌)にある。 (平家打倒)の陰謀を企てた(僧俊寛)の山荘があった。・直違橋(すじかい) (伏見街道)に対し(七瀬川)が斜めに流れて交差したので、橋が斜めにかけられた。・糺の森 「糺」は(只洲)から生まれた名称。 平安時代は(潔斎(みそぎ))の場所 (新古今和歌集)には(平貞文)の 「偽りを糺の森の木綿襷(ゆうだすき)かけつつ誓へ我を思わば」の歌。・天使突抜通・椥辻(なぎつじ) 古来神聖な樹木であるナギがあったことから。 応仁2年(1468)の記録には、京都公家山科家の知行地として(南木辻)の文字も見え る。・納所(のうそ) 物資の荷揚げ場として重視された(淀津)があった。 倉庫などが設置されこの地名になった。・先斗町 ポルトガル語でポントは(先)という意味。 この付近は(御崎)と呼ばれていて、今も(岬神社)がある。 ・御陵(みささぎ) (天智天皇山科陵)が所在のため・壬生 <ユニークな町名>・閻魔前町 (定覚上人)が引接寺(千本閻魔堂)を創建・柏清盛町 (柏野町・清玄町・盛下町)が合併・丁字風呂町・百々町 元禄3年(1690)刊行の(名所都鳥)には百々氏が住んだことによると記されている。・堀出シ町 (室町幕府)の堀が周囲にあった。・悪王子町 (スサノオの荒神)を祀る悪王子社があった・匂天神町 ・二帖半敷町 (五条寺)があり、住職が二人の弟子に寺を二つに分けて与えた・墨染町 (薄墨桜)で知られる墨染寺がある・髭茶屋町・(東海道)と(伏見街道)の分岐点で、髭をたくわえた老人が茶屋を営んでいた。・骨屋町 (扇の骨)を作る職人が住んでいた・正面町 (方広寺大仏殿)の正面よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村__________________________________「京都検定過去問」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28「京都検定出題傾向分析」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=30「京都検定勉強」カテゴリー一覧表http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=31
2015/12/11
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2016年03月28日 京都新聞HP 京都市下京区のJR京都駅から梅小路公園を結ぶJR沿線の通り約1キロと公園内に28日、列車などをデザインしたオブジェ25基が設置された。 明治時代の蒸気機関車「義経号」や、オオサンショウウオのブロンズ像などが高さ約1メートルの台座に置かれている。作品のデザインは、京都市立芸術大の学生らが担当した。 周辺企業などでつくる「京都・梅小路みんながつながるプロジェクト」が地元を楽しく散策してもらおうと設置した。配置場所を示したマップも10万部作製し、京都駅などで配布している。JR京都駅から梅小路公園に向かう通り沿いに設けられたSLのオブジェ(京都市下京区)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/03/29
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【2018年10月24日(水)】 今日の修学旅行ガイド(こちら)で指定のあった昼食処です。龍安寺の南の「あいおい」さん。 昼食時間が龍安寺近くのタイミングになり、1000円以内とのことで選んだようです。龍安寺近くには安価な昼食処はありません。立命館大学の学食という手もあるのですが、通常の昼食時間帯は「学外者はご遠慮ください。」となっています。生徒さんたちは、さほどこだわりはないようでしたが、せっかくの指定だし、私も行ったことがないので、レパートリーを増やすためにも行ってみました。以前だと入ったことない昼食処は下見もしていたのですが、この頃忙しさにかまけてブッツケ本番が多くなっています。 場所は竜安寺前バス停を嵐電竜安寺前方向に約500メートルですので、歩いて7、8分というところでしょう。龍安寺参道商店街にあります。http://kyoto-syoutengai.com/area/randen/outline/ryoanji-sando/我々が入ったときは、お客様はまばらだったのですが、やがて満員になりました。外国人観光客が大半を占めていました。嵐電を使って龍安寺に往き来する観光客や地元の人に人気のようです。いかにも街の食堂という感じも、レトロ感があっていい雰囲気です。https://retty.me/area/PRE26/ARE114/SUB11402/100000295224/ 安さが魅力です。スタンダードなうどんや丼物であれば、500円~700円です。私は生徒さんたちに、京都らしいうどんの一つとして見せるのと、久しぶりに食べてみたかったので「たぬきうどん」(きざみ揚げと生姜のトッピングが入ったあんかけ)をオーダーしました。美味しかったです。安くて美味しくて、いかにも町の食堂というレトロな感じも楽しめて生徒さんたちも喜んでくれました。https://loco.yahoo.co.jp/place/g-GTK6Xgek6ZA/ 龍安寺近くで、お洒落じゃなくていいけど、安くて美味しい店という希望で、そして暑くなく雨も降っていなくて歩きが苦にならない日であればここは一押しですね、嵐電を使う場合は、さらに一押しです。-------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2018/10/24
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【2020年4月4日(土)】 一昨日の読売朝刊から。「イタリア、感染症対策10年超放置 マスク・防護服調達できず」というタイトルの記事に、「ランボルギーニがマスクを生産」という写真がありました。想像だにしなかった光景です。 GM、フォード、クライスラーが人工呼吸器生産とか、GMはマスクも生産とかのニュースを見ます。日本でもだいぶ前にシャープがマスク生産とのニュースがありましたが、それ以降はあまり聞きません。他の異業種大手製造会社も生産して欲しいところですが、色々ネットで調べると、そう簡単ではないようで、シャープの場合、クリーンルームがあること、そして、親会社である鴻海(ホンハイ)精密工業が先んじて2月からマスク生産を開始していたので、技術的な支援や装置の選定の面で協力してもらえたという特殊事情があったから実現したようです。 読売新聞から 3日のプライベートガイドがキャンセル、今日4日の櫻谷文庫が公開中止でフリーに、6日の事務所がキャンセルで、6連続公私OFF日となり、今日はその3日目でした。ガイド関係のデータを切りのいいところで終えて、ようやく「京カレッジ」講師の準備を再開することができました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/04/04
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【2020年4月5日(日)】 今日の読売朝刊から。コロナビールが生産を停止するとのこと。先日、「コロナ」という名の付いた商品や会社、店舗などのことを投稿しましたが、そこに「コロナビール」のことも書きました。→こちら そこにも書いてある風評被害によるものかと思ったら、むしろ需要は伸びているとのことです。「コロナを飲んで、コロナをやっつけよう」という心理が働いて、むしろ需要が伸びたのかもしれませんね。生産停止は政府からの不要不急の生産延期要請によるもののようです。 6連続公私OFF日の5日目。買い物で車で少しだけ外出しましたが、それ以外は在宅です。「京カレッジ」講師の準備を進めましたが、進捗状況は引き続き思わしくありません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/04/05
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【2021年8月3日(火)】 今日は在宅日。会の諸事を進めました。久しぶりに朝から雨で、朝のウォーキングができなかったので、夕刻、雨が上がってからウォーキングをしました。雨が降った後で、日差しもなかったので、暑さはそれほどではありませんでした。ただ湿度の高い一日でした。 今日の読売朝刊から。緊急事態宣言が発出された大阪ですが、吉村知事、松井市長は8月の府立・市立学校の修学旅行は、実施の方針とのこと。 果たして、このニュースが、他県にどれくらい影響するでしょうか。京都への修学旅行の実施決断に影響するかもしれません。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/08/03
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【2022年1月1日(土・祝)】開けましておめでとうございます。 大晦日まで、年賀状書いてました。夕方5時頃に仕上がって車で出かけて投函しようと思ったのですが、降雪がひどく、スノータイヤを履いないので自重して歩いて出しにいきました。去年はずっと忙しくて、それが年末まで尾を引き、大掃除も年賀状も12月26日以降しか手を付けられず、いつも以上に慌ただしい年末となりました。 そんななかですが、幸いなことに孫2人を含めた家族全員が揃ってお正月を迎えることができました。 年賀状は一昨年、昨年に続き、京都のレトロ建物シリーズです。写真の建物は左上から京都府庁旧本館 三栖閘門 旧陸軍第十六師団司令部庁舎 京都市役所本館京都大学人文科学研究所 旧立誠小学校 南禅寺水路閣 祇園閣正アグネス教会 旧京都中央電話局上分局 ハリストス正教会 同志社大学クラーク記念館です。他にも京都にはレトロ建物が多くありますが、写真映えするというところでいくと、今回で最後です。 今年こそ、良い一年でありますように。本年もよろしくお願いします。にほんブログ村
2022/01/01
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【2022年1月3日(日)】 今日は家族で初詣に出掛けました。いつも今まで初詣に行ったことのない神社に行くことにしています。京都の有名な神社は混雑するので、昨年に続き、京都市街とは反対方向の亀岡方面に向かい、今年は「鍬山(くわやま)神社」に行ってみました。 渋滞も参拝のための列もなく、でも小さいながら趣のある社殿の神社で、静かで厳かな初詣の雰囲気を満喫することができました。鍬山神社 午後はコンビニでカイトを買い求めたうえで、孫たちを連れて凧揚げ。残念がら風がなく大人が走り回って少し揚げるのが精一杯でした。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2022/01/03
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2016年02月03日 京都新聞HP 京都市上京区の北野天満宮は、所蔵する刀剣を公開する「宝刀展」を境内の宝物殿で開催している。「鬼切丸(おにきりまる)」とも「髭切(ひげきり)」とも呼ばれる「安綱」など国の重要文化財5点と、初公開の刀剣合計40点を展示。「刀剣女子」の拝観に期待を寄せる。 天満宮は、平安時代後期以降に奉納された約80点の刀剣を所蔵している。 重文「安綱」は、刃の長さ84・4センチ、反り3・69センチ。平安時代に源満仲が作らせたと伝わる。その後、源氏の家系の足利氏、斯波氏に伝わり、天満宮には、1880(明治13)年に最上家から奉納されたという。刀剣や金工に詳しい京都国立博物館名誉館員の稲田和彦さん(77)によると、馬上で抜いて使えるように反りが深く、中心が下がった「腰反り」などの特徴から、平安時代後期の作ではないかという。 また、1927(昭和2)年に侯爵前田利為から奉納された太刀は、天満宮本殿の内陣に神刀として納められていた。反りのない直刀で、宮内庁が所有する太刀を模したといわれる。鞘の装飾も優れている。 天満宮への刀剣の奉納は、市内の神社で最も多いという。武運を祈るお社でもないのに、なぜ、学問の神様に刀剣が奉納されてきたのか。橘重十九宮司は「平清盛は、遷都した福原に、北野天満宮から分霊してまつった。弓道や農業の信仰もある。時代によって、天満宮に求めるものが移り変わってきたからではないか」と話す。 宝刀展は3月13日までの午前9時~午後4時。拝観料が必要。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/02/04
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2016年5月25日 京都新聞ホームページから 真宗仏光寺派(本山・仏光寺、京都市下京区)は、次の門主となる新門に、渋谷恵照(えしょう)門主(91)の孫で、前々門主の故真承(しんじょう)氏の長男覚(さとし)氏(35)を選んだ。25日開会した同派の最高議決機関、宗会で恵照門主が明らかにした。11月4日に正式に就任する。同派では、門主後継者の選定が懸案だった。 覚氏は1980年京都市生まれ。宮崎県内の高校を卒業し、会社員を経験。現在は京都市内に在住し、僧侶養成機関に通っている。 宗会の冒頭、恵照門主は「長年にわたりご心配をおかけしていた門主後継者に、真承上人の長男、渋谷覚をと考えている。11月4日に法嗣得度式を執行し、新門就任を予定している」と報告した。 同派の規則では、門主は渋谷家が世襲する。これまで昭和天皇のいとこの29代門主、故真照(有教)氏が健康上の理由で92年に退任し、長男真承氏が30代門主に就任。真承氏は95年に退任し、次男曉真(ぎょうしん)氏が31代門主に就いたが、曉真氏も2008年に退任した。120年ぶりに門主不在となったあと、10年に有教氏の妻で2人の門主の母恵照さんが32代門主に就任した。真宗仏光寺派の新門に就任する渋谷覚氏よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/05/26
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2016年5月16日 京都新聞ホームページから 奈良時代に日本に仏教の戒律を伝えた中国の僧、鑑真(688~763年)の像が中国で完成し、16日、鑑真が創建した奈良市の律宗総本山唐招提寺を経て、京都市中京区の律宗寺院壬生寺に安置された。 壬生寺と、鑑真が日本に渡航する前に通ったという中国の文峰寺が「姉妹寺院」にある関係から、日中双方の寺院で鑑真像を安置して遺徳をしのぼうと、日中文化交流協会(事務局・東京都千代田区)の創立60年に合わせて制作された。 像のモデルは、唐招提寺所蔵の鑑真和上坐像(国宝)で、同じ技法を用いて中国で2体を制作。1体は文峰寺に安置し、もう1体は鑑真が日本海を渡ったように、船で日本に運んだ。 壬生寺では、到着した鑑真像を輿(こし)に乗せて本堂に運び入れ、本尊の地蔵菩薩(ぼさつ)立像の脇に安置。中国の僧侶ら約100人を含む計約200人が参列し、中国語による読経もあった。松浦俊海・壬生寺貫主(81)は「鑑真和上は日中友好のパイオニア。その精神を引き継いでいきたい」と話した。来年一般公開する予定。 鑑真は中国の律宗の僧で日本の要請を受けて渡航を試み、6度目の挑戦で日本に渡った。戒律を伝え、奈良・東大寺に戒壇院を建立、唐招提寺を創建した。壬生寺に到着し、輿に担がれて本堂に向かう鑑真和上像(16日午後2時55分、京都市中京区・壬生寺)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/05/17
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【2020年3月16日(月)】 今日は、もともとは「京の冬の旅」光照院担当の最終日だったのですが、コロナの影響で12日をもって最終となったので、公私OFF日となりました。夕刻予約してあった歯医者のメンテに出掛け、その後、5ヶ月ぶりにA眼科に寄りました。緑内障予備軍で、3ヵ月に一度くらい来てくださいと言われているのですが、予約制ではないので、ついつい忙しさにかまけて後へ後へとなってしまいます。それ以外の時間はルーティーンと確定申告作成に時間を割き、何とか確定申告を完成させることができました。もともとの締切は今日だったのですが、コロナで1ヵ月延期になりました。3月23日に車で花山天文台の事前訪問があるので、そのときに右京税務署に持参します。 3月13日の読売新聞です。関西のイベント案内ですが、コロナの関係でほとんどないのかと思いきや、結構掲載されています。いつもあまり読まないのですが、この時勢どんなイベントが開催されているか興味があって、京都分を読んでいたら「コロナ」という字が見えました。なんと「コロナ堂」の2階で、ギターのコンサートがあるようです。きっと小さな会場で密閉空間でしょう。それに「コロナ」という名前。果たしてどれくらいお客さん来るのでしょう。 そういえば、「コロナ」と名のつく会社や場所ありますよね。どうなんでしょう。まずこの新聞記事の「コロナ堂」です。夷川通烏丸西入にある雑貨屋さんです。2階がアートステージになっていてコンサートなどができるようです。上記のコンサートも心配ですが、1階のお店のお客様の入りはどうなのでしょうか。http://567.gr.jp/coronado.html京都で「コロナ」といえば、まず思い出すのが、三条木屋町東入ルの「マドラグ」という喫茶店。廃業した洋食店『コロナ』のレシピを受け継いだ「コロナの玉子サンドイッチ」(680円)がメニュの中にあり行列ができるほど人気です。果たしてどうなっているでしょう。http://madrague.info/そうそう、ファンヒータの「コロナ」という会社もあいましたね。次ぎの冬までには収まって欲しいと会社の方々は願っているでしょう。https://www.corona.co.jp/ 「コロナビール」もありました。メキシコのビールで、米国駐在時代はよく飲みました。最近日本でもスーパーなどに置かれています。やはり影響は出ているようです。《コロナビール「今は買わない」38%、ウイルス流行で 米調査》という記事が出ていました。https://www.afpbb.com/articles/-/3270863トヨタに「コロナ」という車がありましたね。幸にも2001年、11代目 T210型で44年の歴史に幕を閉じており影響はなさそうです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2020/03/16
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【2021年5月16日(日)】 コロナ緊急事態宣言下で色んな外出がなくなり、短時間の外出を除き、5月1日から16日連続の在宅です。今日がその最終日です。在宅といっても、会の雑事があってのんびりはできないのですが、それでも少しプライベートの時間がとれるようになりました。今年は早くも西の方が梅雨入りだそうです。京都も今、雨が降っており、すぐに梅雨入りでしょう。梅雨が明けた頃には、コロナ禍も明けていて欲しいものです。「奇想の画家 若冲と応挙」の#5です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-4 江戸時代中期 江戸中期は、江戸初期に力をつけてきた町人層がさらに発展した時期です。学問・文化・芸術が一握りの特権階級だけのものではなくなり隆盛を極めました。#2で示した年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 江戸時代は鎖国の時代ですが、中国とオランダは長崎での貿易が許されていました。中国からは、画家も招聘されました。沈南蘋(しんなんぴん)が清から招かれ3年間滞在しました。沈南蘋の写実的な絵は江戸、大坂、京都、三都の画家に大きな衝撃と影響を与えました。上方では円山応挙、与謝蕪村、伊藤若冲らが、その影響を受けましたが、刺激されながらも、それぞれが独自の画風を築きました。左:沈南蘋「枇杷寿帯」1750年 三井記念美術館右:沈南蘋「「老圃秋容図」1731年 静嘉堂文庫美術館 また、文化的なバックボーンがなくてもわかる、理解しやすい絵、訴求力のある絵が求められ、上方では多くの個性的な画家輩出しました。若冲もその一人ですが、辻惟雄氏の「奇想の画家」の一人曾我蕭白もこの時代の画家です。 曾我蕭白「雪山童子図」継松寺 曾我蕭白「美人図」奈良県立博物館 8代将軍吉宗は洋書を解禁しました。オランダから銅版画、油彩画が流入し、遠近法、陰影法など新しい写実技法がもたらされました。そして応挙のような新しい写生画を開拓しつつあった画家のみならず、文人画の池大雅にまで影響を与えました。 南蘋の絵は江戸ではそのまま受け入れられ、宋紫石のような南蘋派画家が育ち、西洋の銅版画などに刺激され、秋田蘭画と呼ばれる洋風画が生まれ、そして浮世絵師が浮絵を描くなど、江戸に本格的な民間画壇が成立しました。 下に勝川春章(かつかわしゅんしょう)の浮世絵「美人観賞図」を示します。ぎこちないですが、透視図法が使われています。#4で紹介した菱川師宣の立体表現とは大きく違います。このように西洋の写実技法は浮世絵にも影響を与えました。勝川春章「美人観賞図」1789~92年 出光美術館●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/16
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【2021年5月17日(月)】 昨日、近畿地方も梅雨に入ったようです。平年より21日、去年より25日早く、昭和26年に統計を取り始めてから、最も早い梅雨入りとなりました。コロナの影響かと思いたくもなります。 16日連続在宅の後、今日、久しぶりの長時間外出となりました。雨がひどくなくて助かりました。事務所で諸事しました。「奇想の画家 若冲と応挙」#6 です。◆第1章 近世日本絵画史概略(続き)1-5 江戸時代後期 江戸時代後期の特徴は、江戸での展開です。 下に#2で示した年表「近世日本絵画の代表的な画家」の、該当部分を拡大して示します。年表「近世日本画の代表的な画家」の該当部分拡大 前項に書きましたが、18世紀後半に、南蘋派、秋田蘭画の画家らが江戸で活躍し、江戸にようやく本格的な民間画壇が成立しました。そこへ文人画や琳派が上方から伝わり、谷文晁や酒井抱一が、それらの画風を受け入れながらも、独自の展開をしていきます。さらに、文人画は、江戸の地にとどまらず、関東各地に広まりました。たとえば、水戸の林十江、立原杏所です。 また洋風表現は浮世絵師の間にさらに入り込み、葛飾北斎や歌川国芳によって新生面が開かれていきます。下の国芳の風景画は、洋風画の陰影法を取り込んでいますが、その付け方は極端で、空の諧調表現も独特です。歌川国芳 「忠臣蔵十一段目夜討之図」 天保2~3年(1831-32) 国芳の人物画には、江戸っ子の粋から乖離したグロテスクな絵を描いたものも多くあります。図7は水滸伝のヒーローたちをエキゾチックな筆致で描いたもの。「武者絵の国芳」と有名になりました。図8は、「寄せ絵(だまし絵)」と呼ばれるもの。いずれも印象的です。国芳はこのように風景画も人物画も独特の画風を持っていましたので、辻惟雄氏は、「奇想の画家」の一人としてあげています。 歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個金毛段景住」 同「みかけハこハゐがとんんだいゝ人だ」 一方上方では浦上玉堂や岡田米山人といった個性的な文人画家や円山応挙、呉春の流れをひく四条派が活躍します。また、幕末になると勤王派による王朝復古の風潮が盛り上がり、田中訥言(とつげん)に始まり、冷泉為恭(れいぜいためちか)へ受け継がれた復古やまと絵派が活躍しました。江戸でも江戸狩野の狩野養信(おさのぶ)が、やまと絵を極め、極彩色の王朝絵巻の作品を多く残し、面白いことに、そこに遠近法を取り入れたりしています。和と洋、新と旧の出会いといっていいでしょう。 洋風画は亜欧堂田善(あおうどうでんぜん)、安田雷州(やすだらいしゅう)によって深められました。下に亜欧堂田善の「両国図」を示します。#5で示した勝川春章のぎこちない遠近法は払拭されて、より正確になり、陰影法も非常に繊細です。 亜欧堂田善「両国図」(部分) 19世紀初め 秋田市立千秋美術館 そして江戸時代は終焉を迎え、明治維新という大きな時代変化を経て、絵画は近代画壇へと繋がっていきます。 江戸時代の絵画史を駆け足で紹介しましたが、今回、とりあげる伊藤若冲、円山応挙はいずれも江戸時代中期の画家です。しかも、#5で示した画家年表を見ていただいたら分かりますが、応挙の生存時期は若冲の生存時期に完全に含まれています。全く同時代に生きたといっても過言ではないでしょう。若冲の方が先に生まれ、応挙が亡くなった後も、若冲はしばらく存命だったということです。それでは、次回から先にこの世に生を受けた若冲のほうから紹介していきます。●前回はこちら ●次回はこちらよろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/05/17
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一昨日、昨日と一般的な消費者物とその変遷を比較しました。 今回の出張では、お店に行きましたが、お店で売る値段に関係してくるのが、お店が立地する土地の価格です。アメリカは、一般的に土地が安くて、まだまだ土地は豊富にあるので、平屋が多いです。駐車場も立体ではなく平面です。日本では、多層階が多く、その地下や屋上に、あるいは上層階に立体駐車場を持つところが多いです。もちろん、建物の建築コストからいったら、平屋で平面駐車場がベストです。しかし、日本では、そのような土地を確保するのがむつかしかったり、土地の価格が高くて、なかなかそうはできません。日米でどれくらい土地の価格が違うのでしょうか。 ネットで色々調べましたが、なかなか郊外の商業地を直接比較してデータはありませんでした。でも、都心の住宅地の価格を比較したものがありました。郊外の商業地の日米比率も同じくらいかなぁと思われます。なんと、日本はアメリカの約20倍です!!!!。アメリカの理論をそのまま持ち込むのが、むつかしい一要因です。出張期間:2014年5月7日~5月16日よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2015/04/20
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【2017年12月11日(月)】 午前中に「京の冬の旅」伏見稲荷大社御茶屋の事前説明会があり参加しました(こちら)。この勤務箇所はエリア会で希望調査があったとき第1希望にしたところです。なぜ第1希望にしたかというと、朝早めに出勤すれば、客員研究員の研究のフィールドワークができたり、コネクションができて神社に色々お聞きすることもできるかもという期待からです。 そして今日は、事前説明会が終わったら、今までできていなかったフィールドワークをする予定でいました。まずは、研究目線で「お塚」とその中の「お滝場」の現場確認をすることを考えました。もちろん関係者への聞き取りも必要ですが、現場確認が不十分なままでは的外れの聞き取りになってしまう可能性も大きいので、まずは現場確認と考えました。軽症ながら風邪をひいてしまいましたので、体調と相談しながら「お滝場」を巡ることにしました。 昼食後、千本鳥居すぐ南側の細道を通って奥社南側へ。道標があり、「命婦滝 是ヨリ一丁半」と彫られ、裏面には「大正十?年六月」と彫られています。今日、これから訪れる命婦滝への道標です。 この道標の少し東を南に入ると、「清メ滝」があります。この南への入り口には何も道案内は立っていませんので一般の方がこの「清メ滝」に気付かれることはまずないでしょう。かなり荒廃していて、滝には水は流れていませんが、管理人の方の住居があり、表札もかかり住んでおられるようなので、管理はされているようです。頼めば水流を流して、滝行をすることは可能かもしれません。滝の上に上がると、パイプが設置されていて、下から延びていました。 祠があり、「昭和初期に大峯山から不動明王尊を勧請したが、お堂が破損したので、昭和50年に京都信誠会の入山50年を記念して修理した。」というような旨が記されています。すなわち最初お堂ができたのは、大正末期か昭和初期ということになります。 個々のお塚には建立年月が書かれていることは稀ですが、書かれている中で一番古いものを探したら、「大正十三年」(写真ではちょっと読みにくいですが)と彫られたものがありました。 東に進み、次は「八嶋滝」です。管理者が住んでおられるだけでなく、整備がしっかりとされていて、滝の水流も流れていました。やはりお塚の最も古い年代は大正10年代でした。 さらに東に進み「命婦滝」です。やはり管理者が住んでおられ、整備もされていて、滝の水流も流れていました。パイプは斜面を利用して、上流のほうから流れていましたので、ここは落差を利用して流しているのかも知れません。 次が「弘法滝」。管理者がおられ、整備もされ、滝の水流も流れていました。お塚の掘られた年代で最も古かったのは写真に撮影した大正14年でした。石が新しいので、作り直したけれども建立年代は古いままにしたのではないかと思います。 鳥居に「お塚建立三十五周年祈念」と彫ってあり、やはり彫ってあった鳥居建築年代(写真に撮影しましたが、うまく写っていません)から逆算すると、大正10年代だったとの記憶があります。 「お塚場」には、「教師」と彫られている鳥居やお塚が多くあります。講社の教師のようです。このような方やこの教師についた信者の方々が「お滝場」で修行をされたのでしょう。 「弘法滝」の上にも「お滝場」はたくさんありますが、風邪を悪化させてもいけないので、ここで引き返しました。途中で「伏見神寶(かんだから)神社」に立ち寄りました。この神社は伏見稲荷境内にあるように見えますが、実は伏見稲荷境外にあり、伏見稲荷とは別の神社です。伏見稲荷のような朱塗りのお社ではありません。 社務所の方に伺ったところ、再建されたのは昭和時代だが、創建は平安時代と古く、今は竹藪で見えないが、昔は三ヶ峰を遙拝する場所だったとのこと。そのための鳥居もありました。稲荷三ヶ峰遙拝所由緒を記した石碑 今回のフィールドワークで、お塚や鳥居の建立年代が彫られたもので、最も年代の古い物は、どのお塚でも大正10年代であることが分かりました。文献閲読で、大正年間の中頃にお塚が急増したとありましたので、今日回った「お塚場」は、その頃にできたとも考えられます。 ではそのときに「お滝場」もできたのでしょうか。今日回った4つのお滝場は、1つの谷の小川沿いにあります。水流をポンプで揚げているところがありましたので、ポンプが世に出てからお滝場が作られたのかとも考えましたが、上流に溜め池を作って落差を利用して流せば滝を作れるので、ポンプがなかった時代であっても、これらの場所にお滝場がすでに存在していて、そこに「お塚」ができたという可能性もあります。 逆に、昭和2年に結成された稲荷講社の信仰生活の重要な位置を占めたのが、お塚や滝などを巡ることだったとの文献もあり、お塚場ができてから、そこに「お滝場」が追加で設置されたという可能性もあります。 京阪で祇園四条まで行き、この15日にガイド会同期の飲み会で使う烏丸四条の「輝庭」というお店に寄りました。人数1名追加のお願いと当日の行うクイズ大会に備え机の配置を確認しました。 それほどハードではなかったですが、動き回って風邪を悪化させたかもしれません。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/12/11
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【2017年4月5日(金)】 さきほど、ご近所散歩から帰ってきました。家を出たところで、テレビによく出演されている歴史学者の磯田道史さんをお見かけしました。磯田道史さんhttp://n-jinny.com/10942.html 磯田さんは、2016年から私が住む京都桂坂にある「国際日本文化研究センター」の准教授になられたので、いつかお見かけすることもあるかもと思ってはいました。でもタクシーとかで来られるから、やっぱり無理かなとも。国際日本文化研究センターhttp://www.zai-nichibun.jp/info.html ちょうど我が家の最寄りバス停が、国際日本文化研究センター最寄りのバス停でもあり、バスから降りて来られたところでした。タクシーではなくバスでした。そして、背広姿ではなく、町歩きのラフな服装でした。 「いつも拝見させていただいています。観光ガイドの参考にさせていただいています。」などと、声をかけようかなとも思いましたが、お急ぎのようでもあったので、自重しました。 新聞記事で読んだと思いますが、子供のころから古文書に親しみ、ネイティブのように読むことができるとか。そして、歴史学者になるべくしてなったというお名前「道史」ですね。 -------------------------------------------------------------------よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2017/04/05
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2016年6月29日 京都新聞ホームページから 漢字の魅力を発信する「漢検漢字博物館・図書館(漢字ミュージアム)」が29日、京都市東山区祇園町南側に開館した。来館者が多彩な展示や体験施設をめぐり、漢字文化の奥深さに触れた。 日本漢字能力検定協会(東山区)が市立弥栄中跡地に建設した。鉄骨2階建て延べ約2700平方メートル。1階中央は世界最大の漢和辞典に収録される漢字5万字を記した高さ約8メートルのタワーが立つ。昨年の「今年の漢字」に選ばれた「安」の実物の書、日中韓のどの国でも使われる常用漢字808字を樹木の葉に見立てた展示物、映像シアターや漢字の歴史を紹介するパネル展示もある。 2階にはすしねたに使われる魚の漢字を当てるクイズや部首の組み合わせをゲーム感覚で学べる機器、自分の体で漢字を作るコーナーなどがある。漢字に関する専門図書もそろえる。 高坂節三館長らによるテープカットの後、さっそく訪れた人たちが興味深そうに館内を見て回った。漢検2級を持つという大学生大江祐太さん(20)=中京区=は「開館を心待ちにしていた。漢字の面白さが伝わってくる。じっくり楽しみたい」と話した。5万字の漢字が記されたタワーに見入る来館者ら(29日午前10時50分、京都市東山区・漢字ミュージアム)ワルディーコメント 博物館・美術館は非日常との出会いの場でもあります。果たして、日常を見に800円を払って見に来る人がどれだけいるのかな?私も一度は、物珍しさでいくでしょうが、多分有料である限りはリピーターにはならないでしょう。展示を変えれば、リピーターが来る、一般的な博物館や美術館と違うところです。1年後、2年後の入場者数が興味あるtころです。 結局、漢字以外のことを呼び物(たとえば刀剣とか)にして、客集めをしなければならない状態に陥るのではないかと思います。 今回は、「弥栄中学跡に漢字ミュージアム」。将来「漢字ミュージアム跡にXXXホテル」なんていうニュースが流れないことを祈るばかりです。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/06/30
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2015年10月8日撮影のヤシャブシ(夜叉五倍子)の実@京都桂坂散歩 です。写真は緑色の若い実です。やがて茶色になります。カバノキ科ハンノキ属の落葉高木。日本固有種で、西日本に多く自生します。花期は3月頃。近年、花の花粉が花粉症などのアレルゲンとなることが知られるようになりました。ヤシャブシ(夜叉五倍子)の名の由来は、熟した果穂の表面が醜い夜叉に似ているからとのことらしいです。夜叉というと下記のような面を思い浮かべます。どうやって結び付けたのでしょう。「・・・フシ」のほうですが、果穂がタンニンを多く含み、五倍子(フシ)の代用とされたからといわれています。タンニンを多く含有する五倍子は古来、黒色の顔料、お歯黒などに使われてきました。出典~http://sun.ap.teacup.com/glowweed/73.html 「みんなの花図鑑」サイトに写真を投稿して、この樹木の名前を教えていただきました。葉月さんオレちゃんさんkayu-さんかくれみのさんありがとうございました。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村____________________________「散歩・草花記」カテゴリー 色んな花が登場します。http://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=34
2016/09/21
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2016年9月29日 京都新聞ホームページから 京の秋をあでやかに彩る祇園甲部歌舞会の公演「温習会」(10月1~6日)の開幕を前に、総仕上げの「大ざらえ」が29日、会場となる京都市東山区の祇園甲部歌舞練場であった。 会場では京舞井上流家元の井上八千代さんが見守る中、芸舞妓が舞台衣装を身にまとい、次々と登場した。指導を受けながら舞台での所作を熱心に確認していた。 温習会は、祇園甲部の芸舞妓が京舞の精進の成果を披露する恒例の舞台。今秋は期間中に舞妓25人を含む総勢84人が出演する。 出し物は上演日によって異なる。今年は上方唄が多く、「貝づくし」と「萬歳(まんざい)」では舞妓が華やかに舞う。井上流に伝わる「梅見船」や「江口」、「名取月」も披露する。指定席8500円、自由席4千円。祇園甲部歌舞会TEL075(561)1115。温習会の大ざらえで「貝づくし」を舞う舞妓たち(29日午前11時10分、京都市東山区・祇園甲部歌舞練場)よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村_____________________________________________________「京都のニュース」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=20「京都の行事・お祭り案内」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=32「京都検定過去問」カテゴリーhttp://plaza.rakuten.co.jp/saaikuzo/diary/ctgylist/?ctgy=28
2016/09/30
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【2019年10月17日(木)】 事務所勤務途上の東洞院通沿いの風景シリーズです。 朝は東洞院通を五条通から竹屋町通まで歩きます。京都の街中には、お地蔵さんがたくさんお祀りされています。8月のお盆のあと、これらのお地蔵さんに感謝する地蔵盆が、街のあちこちで見られ、京都の夏の風物詩の一つになっています。 今日、この約2kmの間にどれくらいお地蔵さんの祠が建っているのか注意しながら歩いてみました、実に9つもの祠があり、全部町内の住民の皆さんでしっかりとしたお世話がされているいうです。いつまでも地蔵盆の文化が継承されることを祈ります。 よろしかったらぽちっとおねがいします。にほんブログ村
2019/10/17
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【2021年11月13日(土)】 京都産業大学日本文化研究所の上席特別客員研究員を務めさせていただいていますが、「京カレッジ」の講師を依頼されていました。もともとは2020年5月の予定でしたが、コロナで1年延期になり、さらにまた半年延期になり、ようやく今日行われました。 テーマは「伏見稲荷大社とその周辺の『お滝』について」。私の研究員としての初年の研究成果をまとめたものです。初年の研究における発表は、2018年4月でしたが、そのときは多くの研究員が発表したので、1人当たりの発表時間は10分強と短いものでした。しかし、今回は45分と十分な時間が与えられました。 発表のレジュメやパワーポイント資料は今年5月のときに提示済みで、その見直しで済んだので、忙しい中でしたが、何とか準備ができました。もし一からの準備であれば、どうしようもなかったでしょう。 今日の講義は、全体で3時間で、最初に笹部昌利准教授が「『志士』と時代祭-丹後郷士と近代京都-」というテーマで話され、次に同じガイド会仲間のTさんが「明治改暦~京都での改暦をめぐる様相~」というテーマで話されました。 そして私の番。話す原稿までは、準備できなかったので、ぶっつけ本番になりました。緊張することなく話しはできましたが、やはり詰め込み過ぎで、レジュメはそのままでいいとしても、「しゃべり」はもっと絞り込むべきだったというのが反省点です。京カレッジ募集要項該当部分(今年5月の版)いずれ講義の詳細内容を投稿したいと思います。よろしかったらぽちっとお願いします。にほんブログ村
2021/11/13
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