全15件 (15件中 1-15件目)
1
1997-2000年に文芸春秋に掲載された短編で、1993年の断筆以来初めての短編集。「エンガッツィオ司令塔」は社長令嬢の恋人に高い指輪を買うために治験を掛け持ちしたら食欲と性欲が異常になって東京タワーから幻聴も聞こえるようになり、エンガッツィオ司令塔に命じられるままに恋人一家に強制脱糞させて食糞する話。主人公の大学生の一人称で、まともになってから書いたという体裁でナラトロジーとしての整合性はつけている。しかしこの短編では入院もなくて問診で異常な症状を黙ってて医者にばれずに治験を掛け持ちできたということになっているものの、実際の治験では入院して食事が制限されて、血液検査で異常が出ればすぐばれるので、状況設定にリアリティはない。「乖離」はタレントのスカウトマンが美人のをスカウトしたら、大阪出身のやくざの妻で、やたらと口が悪いおかげで大人気になる話。スカウトマンの一人称だけれど、物語の主人公はやくざの妻で、なぜ語るのかという語りの動機まではつきつめられていない。「猫が来るものか」はおれが作家の篠崎と麻薬について対談したら、ヤク中の篠崎が月に化けたり猫に化けたりして執拗に追いかけてくる話。おれの一人称だけれど、篠崎を川に突き落としたという自分の犯罪をわざわざ語る動機がなく、ナラトロジーとしてのリアリティはない。見所としては織田作と安吾はヒロポンだの村上龍はLSDだの麻薬をやっている作家を挙げているところだけれど、小説にするよりもまじめな麻薬文学論にしたほうがよかったかもしれない。「魔境山水」は魔境に背中に蛆を産み付けられた男がいたり、一本足の中学生たちが学校に行ったりする話。三人称。プロットのオチもなく、とりあえず変な状況を書いたという以外に見所がない。「夢」は親や社長や息子から責められる夢を見た老人の話。おれの一人称で、一応オチはある小ぶりな短編。「越楽天」は七福神の様子を書く話。小説というよりは掌編パロディ集。「東天紅」は「越楽天」の続き。「ご存知七福神」は「東天紅」の続き。「俄・納涼御攝勧進帳」は義経や幡随長兵衛や紙屋治兵衛は芝居の相手役がいないので、時代が違う人たちがごっちゃになってでたらめな勧進帳の芝居をやる話。戯曲形式。パロティなのだろうけど、私は「心中天網島」とかの演劇の元ネタを知らないので、どこが面白いのかさっぱりわからない。「首長ティンブクの尊厳」はズンベラ人民共和国の首長ティンブクは拉致した日本人女性を自分の女にしていて、アホな元レポーターの女を処刑したり弟の幽霊を見たりする話。三人称。たぶん北朝鮮のパロディなのだろうけど、拉致や性欲がプロットとしてオチにつながるわけでもないし、北朝鮮自体がめちゃくちゃな国なので独裁者の性欲を書いてもたいしてパロディとして機能していなくて、小説としては面白くない。「附・断筆解禁宣言」は小説ではなく、断筆から執筆にいたる経緯をインタビュー形式で書いたもの。てんかん協会から角川書店に『無人警察』に差別的な表現があるから削除しろという抗議があって、新聞は筒井に取材したくせにてんかん協会への反論を載せないという自主規制を行ったので、そのマスコミの自主規制に抗議するために断筆宣言をしたのだと断筆の意図を説明している。文壇で筒井を支持した人たちや批判した人たちを実名で挙げているけれど、曾野綾子、瀬戸内寂聴、小林よしのりとかの右翼は筒井を支持して、浅田彰、大江健三郎、島田雅彦、朝日新聞とかの左翼は筒井を批判しているという感じ。私は楽天の言葉狩りに怒っているので、筒井の怒りもわかる。マスコミがマスゴミだというのは今ではネットのおかげで皆が知っているけれど、まだネットが浸透していなくてマスコミが力を持っていた90年代に差別作家のレッテル張りにもめげずにマスゴミや同業者と戦った筒井はえらい。●全体の感想全体的に手を抜いて惰性でいつもの下品なギャグを書いているような感じ。七福神シリーズが3つも入っているので、短編集としてはやや多様性が乏しいし、魔境だの七福神だの勧進帳だのと神話や古典のパロディに逃げて現実への批判が足りない。この本の見所は小説よりも「附・断筆解禁宣言」だろう。言葉を保護するには文学以外にないという筒井の姿勢はよい。しかし筒井の割にはおとなしいというか、食糞とかドラッグとかのわかりやすいイロモノテーマでなく、どうせならてんかんや差別をテーマにした小説を書いてもっとマスコミや文壇を挑発してほしかった。★★★☆☆エンガッツィオ司令塔 [ 筒井康隆 ]価格:565円(税込、送料込)
2016.01.31
コメント(0)
エイミー・ベンダーは1969年生まれのカリフォルニア大学の創作科出身のアメリカの作家で、『燃えるスカートの少女』は処女短編集らしい。「思い出す人」は彼氏が毎日100万年逆進化してヒヒになったり亀になったりする話。「私の名前を呼んで」は金持ちの女が男にドレスを裂かれたり縛られたりするものの、男はぜんぜんやる気にならない話。「溝への忘れ物」は戦場から帰ってきた夫が唇をなくしていて、妻は唇が厚い食料品店の店員とやりたくなる話。「ボウル」は家に届いたボウルが誤配だった話。二人称という以外に見所がない。「マジパン」は父親の腹に穴が開いて、妊娠した母親は死んだ祖母を産んでみんなで祖母の葬式に出されたマジパンを食べる話。「どうかおしずかに」は図書館の事務員のやりまんが図書館の男を物色していたら筋肉男にかつがれて騒ぎが起きる話。「皮なし」はユダヤ人の女が彼氏と別れてラビとちちくりあう話。「フーガ」は誰かが強盗したり誰かが自殺未遂したりする話。短編なのに場面を分割しすぎて何を書きたいのか不明。「酔っ払いのミミ」は高校に紛れ込んだ小鬼が酔っ払った人魚の髪をなでたら性感帯だったという話。「この娘をやっちゃえ」はあばずれ女が他の女を殺したくなる話。「癒す人」火の女の子と氷の女の子は手を握ってる間はふつうの女の子になるものの仲違いして、火の女の子が危険だと逮捕されて、氷の女の子が町を出ていく話。「無くした人」は探し物を見つけるのが上手な孤児がいて、いなくなった男の子を探し出した話。「遺産」は城に住むせむしが親戚の妊娠した少女を高校からかくまったら恋人になるものの、女はせむしのこぶが偽物だと知って城を出て足のない男と暮らして、娘は映画スターになるものの背中にこぶができる話。「ポーランド語で夢見る」は預言者扱いされている老人が「私のまえに他の神なし。さもなければ私たちはみんな死んでいる。」と言い出したので不安になった町民が公園のギリシャの神像にシートをかぶせると、私がシートをはずす話。三人称の老人の場面と一人称の私の場面が交互に展開して、短編なのに構成がごちゃごちゃしていて読みにくい。「指輪」は私が泥棒に恋して結婚して一緒に泥棒してルビーの指輪を盗んだら、指輪からルビー色が漏れてきて海が赤くなって、指輪が入っていた砂糖つぼの砂糖を食べる話。「燃えるスカートの少女」は私が父に一トンの石のバックパックをもらい、父が死んで、新聞で読んだスカートに火がついた少女のことを考える話。石のバックパックらやネズミの寓話やら燃えるスカートの少女やら話がごちゃごちゃしていて読みにくい。最初はバックパックと書かれていたのが最後にはナップサックになっていて、呼称が統一されていないのはよくない。そもそも父親が亡くなった出来事を語るのに石のバックパックという変な小道具を持ち出す必要があるのか。普通に書けるテーマをわざわざシュールに書くような意図的な回り道が無駄な工夫としてうざったく感じる。●全体の感想主に女性が主人公の短編で、一人称、二人称、三人称を使い分けて各短編に特徴を持たせているものの、セックスがらみのシュール状況を書いたというだけで他に見所がない。短編なうえにオチがないので物語が印象に残らなくて、で?っていう何の感想もない読後感が大半で、濡れ場は若干あるにはあるものの下品なだけで色気がなくてポルノとしての面白さもない。プロットよりもシュールな雰囲気を楽しむタイプの小説ながらも、ボリス・ヴィアンよりもシュール度は低くてシュルレアリスム小説としても中途半端な感じ。短編のバリエーションは多いので退屈しのぎにはなるだろうけど、短編のオチを重視する日本人読者には受けなさそう。この本のタイトルだけ見て青春の物語のようなものを予想して買ったら、下品さがウリのシュルレアリスムという対極の小説で大はずれだった。★★★☆☆燃えるスカートの少女 [ エイミー・ベンダー ]価格:596円(税込、送料込)
2016.01.27
コメント(0)
世界の軍隊系・警察系の特殊部隊を一覧化して、部隊編成や装備について書いた本。「世界75部隊を紹介」と書いてあるものの、詳しい説明があるのは世界最強特殊部隊ベスト10にあげられているSAS、デルタフォース、空挺スペツナズ、GSG9、SEALs、フュージリア海兵コマンド、KSK、GIGN、LAPD SWATくらいで、その他の特殊部隊は2ページの概要紹介しかなく、そのうち半分以上は写真なので実際の情報は200字程度しかない。映画やゲームで名前は聞いたことがあるけどよく知らない特殊部隊について若干詳しくなれるという程度で、資料として使うには情報量が足りない。しかしオールカラーで写真が豊富で定価600円というのはコスパがよい。表紙がダサイのはよくない。もっと極秘資料っぽいデザインとかにすればいいのに、黄色くデカデカと特殊部隊と書いてあって子供っぽいので本棚には置きたくない。FPSが好きな中学生とかが読むのにはちょうど良いかもしれない。★★★☆☆世界の特殊部隊file [ 白石光 ]価格:616円(税込、送料込)
2016.01.27
コメント(0)
ギャングのツォツィが女に押し付けられた赤ん坊を育てようとしたり、被害者に同情して改悛しはじめてギャングが解散したりする話。●あらすじアパルトヘイト時代の南アフリカで、ツォツィ、ボストン、アープ、ブッチャーはギャンググループで、給料袋を持っていたガンブートを満員電車の中で殺して金を奪い、新入りのボストンは殺人に乗り気でなく品性について考えてツォツィが何歳か尋ねるものの、浮浪少年グループでごみをあさって育ったツォツィは過去を思い出さないようにしていた。ボストンはツォツィに痛みを感じないのかと尋ねてフルボッコされながらも「いつかお前にも、心の痛みを感じられる日が来る」と説教する。逃げたツォツィは訳ありそうな女に靴箱に入った赤ん坊を押し付けられ、家に持って帰って世話をする。ツォツィは町に行って障碍者のシャバララの金を狙うものの見逃してやり、帰ると赤ん坊とミルクに蟻がたかっていたので、ミリアムを脅して世話させることにして、赤ん坊の名前をデイヴィッドだと答えて、ミリアムに赤ん坊をくれと言われてもおれのものだと断る。ツォツィが10歳のときに母親は警察につれていかれ、久しぶりに家に帰ってきた父親は妻がいないのを嘆いて妊娠している犬を蹴り、犬は仔犬を産んで死んでしまい、ツォツィは逃げて浮浪児になったのだった。ブッチャーが消えたとアープはいい、ツォツィはアープとも別れて、ギャングは解散する。ツォツィは血まみれで酒場に転がっていたボストンを見つけて世話してやる。ボストンは昔レイプ未遂の疑いをかけられて大学をやめてからギャングになったのだった。ツォツィはボストンに同情したと言って、シャバララに同情した出来事や自分の過去を話して、どうしてこうなったと聞くと、ボストンは「お前は神様についてきているんだ」と言って部屋を出て行く。ツォツィは教会に行ってアイザイアに神様の話を聞いて気分が軽くなり、ミリアムにはディヴィット・マンドンと自分の名前を名乗るつもりになるものの、まだミリアムを信用していないので赤ん坊を廃棄に隠していたら、廃墟をブルドーザーが壊そうとしているのを見て突っ込んでいって瓦礫に埋もれてごろつきに似合わないきれいな笑みを浮かべて死ぬ。●感想三人称。物語の構成としては、三人称で別の登場人物に視点が飛ぶせいで読みにくくなるうえに、主人公であるツォツィについての描写が相対的に足りなくなっている。シャバララ側とツォツィ側から同じ出来事を二回書くあたりは冗長。シャバララがツォツィに見逃してもらった礼として、「美」を思いついて母親は子供を愛するものだと言い出すあたりはプロットありきの展開のようで不自然。ツォツィの改悛をテーマにするならシャバララ側からの描写は削ってよかった。ツォツィに赤ん坊を押し付けて去っていった女の素性も動機も行方も不明で、プロットが雑。物語の内容としてはツォツィの同情がテーマで、赤ん坊の存在感がほとんどなく、なぜツォツィが赤ん坊を育てることにしたのかというあたりも掘り下げられていない。ツォツィが赤ん坊をほしいなら、セックスして子供を作ろうと考えないあたりも不自然。ブッチャーとアープが酒場で女をつかまえてやっている中で、リーダーのツォツィひとりだけが童貞だとは考えにくいものの、ツォツィの性欲に関する部分は一切かかれていない。性欲の代わりに暴力で発散する異常者だというならまだ理解できるけれど、ツォツィはそうでもないので、セックスについてまるっきり考えていないあたりは人物設定がおかしい。赤ん坊を助けようとして死ぬラストシーンはリアリティがないドラマ展開で、改悛しはじめたツォツィがどうやって犯罪から足を洗って生活するのかというあたりはまったく書かれないまま、赤ん坊を救って死ぬという安易な贖罪と主人公の死で物語を終わらせてしまって、作者は最後にテーマをぶんなげて、これからどうするのかという未来の提示をしないままリアリティから逃げてしまった。結局のところ、主人公であるツォツィの人物像にリアリティがないがゆえに物語全体にリアリティがない薄っぺらいお涙頂戴物になっている。●小説と映画との比較アカデミー賞外国語映画賞を受賞した映画版『ツォツィ』と小説版との違いを比べてみると、映画版だとあちこちが誇張されている。・小説版だとツォツィはナイフを肌身離さず持っていてそれを自信にしているのに、映画版だとナイフでなく拳銃になっていて、ツォツィはやたら拳銃を振り回すアホ男になっている。・小説版だとボストンのツォツィへの説教が改悛のきっかけとなる意味を持つのに、映画版だとボストンの説教がなくなっていて、小説版でのツォツィが心の痛みを覚えるというテーマは映画版ではなくなってしまっている。・小説版だと訳ありの女に靴箱に入った臭い赤ん坊を押し付けられて、恥ずかしがりながらコンデンスミルクを買いに行くツォツィのナイーブな面が垣間見えるのに、映画版だと女から盗んだ車に身なりのいい赤ん坊が乗っていて、ミルクを買いに行く場面はなくなっている。赤ん坊の親が金持ちなら身代金を要求すればもうひと稼ぎできるのに、捕まるリスクを犯してまでギャングが何のメリットもない子供を育てるのはリアリティがない。・小説版では三人称でシャバララの人生を掘り下げていて、ツォツィは膝から下がなくて這っている相手に同情しているけれど、映画版では車椅子に乗っているシャバララに足があってツォツィは歩けると疑って目をつけている。・小説版ではツォツィの母親は警察に連行されて犬は妊娠していたのに、映画版ではツォツィの母親が病気(エイズ?)で、犬は親父に蹴られるだけで出産はしない。そのぶん映画版では母が子を産むというテーマが削られている。・小説版ではミリアムの夫は行方不明のサイモンだが、映画版では帰宅途中に暴漢に殺されたZachariasになっている。なんで名前を変える必要があったのか不明。・小説版ではツォツィは赤ん坊は自分のものだと執着して、赤ん坊をほしがったミリアムに対して殺意さえ持っていたのに、映画版では浮浪児たちに赤ん坊をやると言い出していて、ツォツィが赤ん坊を育てる動機が薄れている。・小説版ではブッチャーがいなくなってツォツィがアープを拒んでギャングが解散したのに、映画版ではツォツィが車を盗んだ相手の家に強盗に行って被害者を助けて仲間のブッチャーを撃ち殺すというご都合主義的な展開で、ツォツィの改悛をわかりやすくしようとしたのだろうけれど、映画向きの派手なオリジナル展開のせいでリアリティがなくなっている。リアリティがまったくない映画版よりも小説版のほうが若干ましなものの、プロットが雑でテーマも掘り下げ切れておらず、小説として出来がいいというわけでもない。南アフリカを舞台にしたリアリティのある物語を読みたい人は、この小説を読むくらいならノーベル文学賞をとった南アフリカの作家ナディン・ゴーディマの小説を読んだほうがよい。★★★☆☆ツォツィ [ アソル・フガード ]価格:1,620円(税込、送料込)
2016.01.22
コメント(0)
底辺家庭で育ってフーリガンとつるんで暴力とセックス三昧のロイが女をレイプして罪悪感で自殺未遂して植物状態になってマラボゥストーク狩りの妄想をして現実逃避していたら女に復讐される話。●あらすじ植物状態で病院にいるロイ・ストラングは見舞いに来る人の声や再生されるテープの音をうるさがり、意識の底に深くもぐって、相棒のサンディとアフリカでフラミンゴを食べつくす邪悪なマラボゥストーク(アフリカハゲコウという大型のコウノトリ)を狩る想像に耽る。ロイはスコットランドのエディンバラで飲んだくれの父親のジョンや母親のヴェットに殴られながら異父兄弟がいる複雑な環境で育って、叔父のゴードンがいる南アフリカのヨハネスブルグに一家で移住すると、叔父は白人至上主義者のホモショタ野郎で、ロイは性的虐待に耐えながらも学校ではうまくやっていたものの、父親が暴行事件で逮捕されて、叔父が爆弾で死亡すると、また一家でスコットランドに戻ることになる。ロイは容姿にコンプレックスを持っていてからかわれると反撃して、優等生を気取りつつちょっかいをかけてきた男をナイフで刺したり、女をナイフで脅してわいせつしたり、ホモをいじめたりするうちに童貞を捨てて高校を卒業して保険会社に勤めるものの、周りには平凡な女しかいなくて物足りないのでカジュアルズと呼ばれるフーリガンのグループと付き合って喧嘩とセックスにあけくれて、職場に悪い噂が流れてもむしろ平凡な人を見下して優越感を持つ。しかしカジュアルズのレクソやデンプシーがカースティーを監禁して一晩中レイプするのに付き合わされて罪悪感をもち、町にゼロ・トレランスのZのマークが書かれた「どんな釈明も許されない」という犯罪撲滅のポスターが張ってあるのを見て動揺するものの、裁判ではやってないと言って敏腕弁護士のおかげで麻薬中毒のあばずれ女がレイプ狂言をでっちあげたことになる。ロイは町に居辛くなって仕事を変えることにしてマンチェスターに行って、知り合ったドーリーと婚約するものの、質の悪いドラッグにはまって別れて落ち込み、エディンバラの家に戻ったときにホモのバーナードに昔いじめたことを謝って和解したとき、ゼロ・トレランスのメッセージを思い出して錯乱して、家でビニール袋をかぶって自殺未遂して植物状態になる。病院にカースティーが来て、まずはデンプシーを車で轢いて植物状態にしたと言い、次にロイのティンポコポンを切って口に詰めて去っていく。ロイは自分をマラボゥストークと重ねる。●感想一人称。フォントサイズを変えて、病院にロイを見舞いに来た両親の現実の会話の文字を小さくしてロイの意識の中と現実を区別しているというラノベ的工夫をしている。しかし全部を意識の流れの手法で書くわけでもなく、病院にいないはずの相手(読者)に対して説明するように自分の生い立ちを一人称で語っていて、物語論的に語りの形式に矛盾があり、植物状態の患者の意識を書くというアイデアに技術がおいついておらず、一人称の語りのリアリティのなさが全体を台無しにしている。そのうえ誰かが病院に見舞いに来るという物語内の現実世界、マラボゥストーク狩りの想像の世界、生い立ちの回想の世界の3つの場面が入れ替わり展開することで読みにくくなっている。訳者のあとがきによると作者は物語の舞台であるエディンバラのゲットーで育って文学理論も学んだことがないままこういう実験小説を書いているらしいけれど、こういう語りの手法をやりたかったら文学理論を勉強しないと失敗するという見本。工夫のつもりでやっていることが技術的に失敗していて面白さに繋がらないのはもったいない。回想と想像がごっちゃになるあたりは純文学を読んでる人にとっては予想通りの展開で、山場でベタな手法を使うことで作意が見えてしまってむしろ盛り下がる。自慢げに犯罪を繰り返していたロイが急に罪悪感に苦しむのは不自然で、終盤で物語が安易な方向に流れてしまった。レイプの復讐劇としては首謀者のレクソがほったらかしでプロットが回収し切れておらず、勧善懲悪的なオチとしても中途半端な感じ。エンタメとしては映画のアイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ』のほうが復讐にテーマが絞られていて面白い。作中でやたら日本人をディスっているあたりも意味不明。戦時中に日本人が残虐で捕虜がひどい目にあったから何か事件があると日本人のせいにしたり、日本人野郎と罵ったりしているけれど、作中に日本人の登場人物がいるわけでもなく、プロットに関係あるわけでもない。出版社はスリーエーネットワークという聞いたことのない会社で、調べてみたら日本語の学習教材をメインに売っているらしい。幻冬舎とかが出版するならまだわかるけれど、日本語の学習教材がメインの出版社が日本人をディスるハードボイルド本を出版するというチョイスがよくわからない。翻訳については、原作のタイトルは『Marabou Stork Nightmares』なのに、Nightmaresを翻訳しないで単なる『マラボゥストーク』にしたのはなぜなのかよくわからない。『エルム街の悪夢』が『エルム街』、『ダーウィンの悪夢』が『ダーウィン』になるようなもんで、禍々しい雰囲気がなくなってしまってよくない。アーヴィン・ウェルシュはイギリスでの評価は高いようで、イギリスを代表するケミカルジェネレーションの旗手という扱いらしい。 小説の技術云々を抜きにして読みにくさを我慢して読めば、ホモだのレイプだの暴力だのドラッグだの復讐だのといったハードボイルドに興味がある人にはエンタメとしては面白いかもしれない。イギリス版花村萬月みたいなもんだろうかと、Wikipediaのアーヴィン・ウェルシュのページを見てみたら見事に禿げていた。★★★☆☆マラボゥストーク [ アーヴィン・ウェルシュ ]価格:1,728円(税込、送料込)
2016.01.21
コメント(0)
セレブ女子大生が自分探しと生き別れた双子の妹探しをする話。●あらすじサンフランシスコのホテルグループのセレブ女子大生ダイアナは作家の夢をあきらめて周囲の期待に沿うように法律事務所に就職するつもりでいたときに、母親が亡くなって遺言で実は父親が生きていて生き別れた双子の妹のメアリがいて、薔薇を探しに失踪したメアリを探せという。しかしメアリの母親への手紙がきもいポエムだったのできちがいだと思うものの、占い師になんか言われたり、画家志望のマサイアスになんか言われたりするうちにアイデンティティがゆらぎ、メアリが気になる。ダイアナが大学の卒業式をさぼってメアリが訪ねたというゼイネップ・ハヌムのゲストハウスを探しにトルコに行ってゼイネップ・ハヌムに会うと、薔薇の声を聞くには自我を殺さなければならないと言われて薔薇の声を聞くトレーニングをうけてそっちの世界の薔薇の声が聞こえるようになり、メアリの居場所を示す手紙を薔薇の声のおかげで見つける。その後薔薇についての小説を書くと、マサイアスも個展を開いていて再会したのでマサイアスもそっちの世界に誘おうかと思う。●感想三人称。主人公がセレブ女子大生で、占い師も画家も会う人がみな協力的な人ばかりという主人公補正全開なうえに、生き別れた双子という定番パターンかつ画家との恋愛という定番パターンのごり押しなうえに、ギリシャ神話に登場人物名をあてはめたプロットありきの展開で、リアリティはまったくない。生き別れた父親のほうは無視されて母親にだけ焦点があたっているあたりは不自然で、人物造形にも無理がある。日本なら『花より男子』的に庶民が上流階級で苦労するシンデレラ的な話で庶民の読者の共感を得ようとするけれど、直接セレブを主人公にするあたりは外国らしい大味さ。「夢は現実というパンのイースト菌のようなもの」とかちょくちょく歯が浮くような決め台詞が出てくるあたりもきもい。薔薇の言葉を聞くためのトレーニングというのを言い換えると、肉親をなくして弱ってるところで軟禁して洗脳しているわけで、それを自分探しの美談にしようとするあたりもきもい。ラストに洗脳がとけるどんでん返しがあればエンタメとして面白かったかもしれないものの、洗脳されてらりぱっぱになってハッピーエンドというのだからつまらない。スピリチュアルというのはいわばやさしいきちがいで、ドラッグ中毒の乱暴なきちがいよりはましだけれど、どっちにしろきちがいである。つっこみどころが満載で、宗教とかスピリチュアルに批判的なきちがいウォッチャーにとってはむしろ面白いかもしれない。つまらない小説よりはいかれてる小説のほうが刺激はあるものの、取り扱いに注意を要する刺激なので普通の人はなるべく読まないに越したことはない。この小説はトルコ人の作者の処女作でトルコでベストセラーになって、作者が自分で英訳して世界の30カ国で売られたらしく、帯には「トルコから届いたスピリチュアル文学の傑作」と書いてある。処女作相応にへたくそだけれど、スピリチュアル文学の傑作と呼ぶに値する傑作的なきちがいぶりである。なんで私がこんなものを読んだのかというと、ブックオフオンラインの88-108円コーナーで売ってる安い本をタイトルだけ見て大量に買ったのである。あらすじさえ知ってれば買わなかっただろう。翻訳されてる外国の小説なら日本の小説よりもましかと思ったら、大はずれを引いてしまった。★☆☆☆☆失われた薔薇 [ セルダル・オズカン ]価格:1,512円(税込、送料込)
2016.01.13
コメント(0)
老人ホームに入って七ヶ月になる八十六歳の男がウェーバーやガス・ロビンソンと釣りをしたりタトゥーを入れたりして楽しく過ごしつつ死について考えたり過去を回想したり、老人ホームで火事がおきて友人シドニーが死んだりする話。わたしの一人称で、四月から翌年の四月までの○月○日の出来事を書いていく日記形式。誰かに向けて書かれた書簡とは違い、日記は基本的に他人に見せるものではなく、自分の記憶や思考や感情を整理するために書かれるので、「昔、ベイリーさんによくいわれたことを思い出す。ベイリーさんというのはわたしの父に仕えていた黒人の男だ。父と母がなくなってからは、わたしに仕えてくれた」というように日記で他人に向けて説明すること自体が物語論としてのリアリティを損ねている。もし誰かに読ませるために日記を書いているとしたら語りの形式として矛盾しているし、物語論としての整合性をつけるべきだろう。さらには一回の日記が数ページしかなくて場面が断片的になっているうえにプロットもなく、物語としての読み応えがない。プロットがないと物語に終わりがこないので、最後にはシドニーの死で物語を終わらせているあたりは月並み。死についての考察も死を恐れているという月並みな思考で、元弁護士が主人公の割には馬をやたら撃ち殺す男とか首吊り自慰に失敗して死んだ少年とかの様々な社会問題についての考察が浅く、哲学的な面白さもない。小説になっていない偽エッセイのようなもので、エッセイならまだ書き手自身の素直な思考なり感情なりが表出されているものの、この偽エッセイにはどこにも見所がない。若い作家の処女作に相応のへたくそさである。作者はあとがきで「二十六歳で八十六歳の老人の話を書いていたのはなぜか、と人に聞かれます。数年後にふりかえってみたところ、その答えは、理解したいという思いにつきます。」と言っているものの、果たして想像で老いることを理解できるものか疑問である。老人について想像して小説を書くより、老人ホームに行って老人の話を直接聞いたほうがよほど老人を理解できるだろう。それに退職して暇をもてあました老人の日記ブログが溢れている現代となっては、作者の想像上の老人の物語をわざわざ読む理由はない。帯には「執筆時若干二十六歳の作者が驚くべき想像力で心の震えを描いた、完璧な小説。」と誇大広告が書いてあるのでそのぶんだけ評価を減らした。この小説が原書房にとって完璧な小説なら、私は原書房の他の小説は二度と読まない。訳者の金原瑞人の「生、人生、老い、若さ、死──すべてがこの薄い一冊に凝縮されている。」というコメントも帯に載っているものの、どれだけ中身のない人生を送ればすべてが凝縮されているなどと言えるのか、訳者の見識を疑う。★☆☆☆☆四月の痛み [ フランク・タ-ナ-・ホロン ]価格:1,512円(税込、送料込)
2016.01.11
コメント(0)
妻が別れたいと言い出したので夫が他の女と仲良くしたら、その女のおかげで元鞘に戻る話。●あらすじヒットしたゲームの著作権で生活している金持ち独身のニコラ・ロッケルはバスで40歳の未亡人の鳥類学者イングリッドと息子のラウルに話しかけ、飛行機で偶然隣の席だったので仲良くなって結婚するものの、4年後にイングリッドが別の人生を生きたいと言い出して、ニコラは妻が浮気してるのか疑うものの別れたがる原因がよくわからず、スーパーのレジ係でイランからフランスに来たクルド人のセザールに惹かれて会話するようになったり、ラウルに妖精は女の姿で3つの願いを叶えると教えたりする。セザールは上司にレイプ未遂されたあげくにクビになり、ニコラの車でドライブしたところ、頭を打って記憶喪失になって、ラウルはセザールを妖精だと思って教育して3つ願い事をする。セザールはイングリッドを訪ねてニコラに別れる理由を言わないことを非難したら、イングリッドはがんが原因でそういう態度をとったものの実は良性でなんともなくて、セザールに説得されてイングリッドはニコラと別れないことにする。●感想ニコラとセザールが一人称で章ごとに交互に語る形式。いつ語っているのか、なぜ語っているのか、誰に対して語っているのかという語りの動機がつきつめられておらず、物語論としてのリアリティはない。登場人物が交互に語るというのはエンタメ作家が工夫のつもりでよくやっているけれど工夫どころか悪手。そのうえニコラが金持ちの独身という主人公補正や、冒頭から偶然の出会いを持ち出すご都合主義のせいでますますリアリティをなくしている。ニコラは家政婦のルイゼットが嘘をついて花嫁候補を試して追い払うと語っていたのに、イングリッドと結婚する際にはルイゼットの試練はまったく言及されないまま一気に結婚後まで時間をすっとばしていて、プロットの構成にも無駄がある。ご都合主義すぎるうえに構成が下手で興ざめして、30ページくらい読んで続きを読む気をなくしてしまった。とりあえず妖精がらみのオチを見るまでは読んでみようと思って読んだものの、記憶喪失という定番のご都合主義、さらにはがんだと思ってたのが単なる診断ミスだったという怒涛のご都合主義がオチに待っていてあきれてしまった。こんな下手でリアリティがない小説を書く作家がゴンクール賞をとっているということにびっくりする。★★☆☆☆妖精の教育 [ ディディエ・ヴァン・コ-ヴラ-ル ]価格:2,052円(税込、送料込)
2016.01.09
コメント(0)
20世紀の美術を還元的情熱として位置づけて、抽象的な形態や色彩をミニマルに還元していった芸術家と作品について解説した本で、主に20世紀前半のヨーロッパの美術と20世紀後半のアメリカの美術を取り上げている。客観的な情報ではなく、20世紀の美術に否定的な主観的な意見が書いてあるので読者によっては好き嫌いがあるだろう。200ページ弱で情報量としては少ないものの、門外漢には見所がさっぱりわからない現代美術を理解するのに十分な情報が書いてあってよい。マチスの色彩と形態の単純化、デュシャンのテクノロジーの還元、印象派の点描による対象と目の原理的還元、セザンヌの空間の意識、空間のフレームとものを同時に描こうとしたキュビズムのものの前の段階の骨組みを書くことへの還元と遠近法以前の視点への還元、シュールレアリスムの無意識による意識の還元、ポロックのドリッピング技法によるもののイメージからの解放、モンドリアンの空間の単純化、という具合に芸術家たちは様々な角度から還元をしていって抽象的になって、現代美術はエントロピーが増大するように荒涼とした砂漠になったのだそうな。そしてアメリカの美術はサブライム(崇高)というあり方で存在していて、やたら巨大な絵、1kmのパイプをバラバラにして並べた作品、砂漠にブルドーザーで1マイルの直線をひいた作品、避雷針をたくさん立てて嵐のときに雷が見れる作品、巨大な鉄の立方体の作品、島をラッピングして普段とは違う風景にする作品、黒一色の絵、不在の作品化とか、何かわからんけど強くて巨大でスゲーなというサブライムな感じのものが美術なんだそうで、著者はそのようなメインストリームの美術は無味乾燥で人間的要素が欠如していて、一過性で次の世代へ伝承しえない技術レベルで、抽象表現で人間的世界は広がったものの、もうそれ以上先には人間的世界は広がらっていない表現行為の限界で、認識が解体されて表現が形式に行き着いて内容が消えるという「均質化の危機」が訪れるのだと否定的にとらえている。文学でも美術と似たような還元が起きている。20世紀前半には批評分野ではロシア・フォルマリズムや構造主義や記号論による単語や音節やプロットの還元が行われて、モダニズムは多様な表現内容と表現形式が充実したものの、ポストモダニズムで純文学は表現内容が伴わない表現形式の追求に向かうようになった。しかし言語は論理性を失えば統合失調症の言葉のサラダのようになって他人には理解できなくなるので、還元にオリジナリティを求めても小説では抽象的表現への逃げ道は閉ざされている。還元すれば通常とは違う独特な文章になるものの、再構築しないまま還元しただけでは文章としてはむしろ瑕疵になってしまう。抽象への逃げ道がないという点では小説は美術よりも不自由なメディアで、日本の純文学ではいまだにポストモダン的な手法で小説の内容よりも形式にオリジナリティを求めているけれど、とっくに限界がきているのだろう。筒井康隆がやった様々な言語実験はスラップスティックにすることで支離滅裂さを肯定的にごまかすことができたがゆえに作品として成立したけれど、黒田夏子の回りくどいひらがなの文体は漢字をひらがなに還元したものの結局はわけがわからなくなってしまった。上田岳弘は太陽だの惑星だののスケールの大きな小説でサブライムをやろうとしているけれど、文学でサブライムをやっても結局は神と宇宙の先には何もないので限界は見えている。黒田夏子が芥川賞を受賞したり、上田岳弘が芥川賞候補になったりする傾向をみると文学は美術の砂漠化と同じ道をたどっているようだ。砂漠が今はやりの芸術なのだといわれても人は砂漠の中では生きてはいけないわけで、水を求める人に砂を浴びせ続けていれば文学から人が離れていくのも必然なのである。新しさを求めなければ砂漠化を防ぐことができる。クラシック音楽は既に名曲が出尽くして作曲家の仕事は映画やゲームのBGMや編曲のような裏方の音楽ばかりになっていて、クラシック音楽界では曲の数を増やすよりも演奏の質を上げて名演奏で稼ぐようになっている。文学でもすでに限界が見えている表現技法の追求にオリジナリティを求めずに表現内容の質を追求すれば伝統芸術として後世に残る方法もあるかもしれないものの、ラノベやファンタジーやSFを真似た空想のアイデア頼みになって技術が低下して、思想もなくしてしまった現状ではもう無理だろうな。★★★☆☆20世紀美術 [ 宇佐美圭司 ]価格:650円(税込、送料込)
2016.01.09
コメント(0)
生物としての人類を研究する人類生物学についての本。人間の姿勢、歩行、骨、顔の形、外見、左右対称性、利き腕、海女、巨人、言葉、都市等について書いてある。1975年が初版の本で、中央公論社の『自然』という雑誌に連載したものをまとめたものらしい。雑誌の連載が元になっているというのもあるだろうけれど、昔特有の気さくな書き方というか、著者がアパートの三階に住んでいたとかアヒルを飼っていたとか昔は東京の空はきれいでトンボを捕まえたとかの個人的な情報を書いているあたりは欠点というほどでもないけれどやや脱線気味で冗長に感じる。私が読んだのは1993年の19版だけれど、それでも20年前の情報で、医学や生物学の研究が進歩して情報が古くなっている可能性もあるので、情報を鵜呑みには出来ない。しかし今後日本にハーフや外国人移民が増えたら日本人の顔や体型が云々という研究自体なくなるかもしれないので、海女の体格の調査とか日本人について論じている部分は古いがゆえに貴重かもしれない。学問の入門書というよりは人間についての雑学的知識を得るために読むのにちょうどよい。★★★☆☆人類生物学入門 [ 香原志勢 ]価格:734円(税込、送料込)
2016.01.06
コメント(0)
すごい使命を背負ってすごい本を書いた聡明なこの人を見ろよと自分の本と思想を賞賛する自伝。ニーチェの発狂後に書かれた最後の著作で、死後に出版されたらしい。素直に自伝として書かれているわけではなく、理解するには予備知識が必要で、ニーチェの他の本を読んでからでないと何が言いたいのかよくわからない。そのうえ誇大妄想的な文体のせいで余計にわかりにくい。ニーチェが好きな人はこの文体ゆえに余計に面白いかもしれないものの、ニーチェについて客観的な自伝を読みたいという人は他の本を読んだほうがよい。内容はドイツをディスって、読書は息抜きにすぎないとか、ワーグナーが好きだとか、いかにして自分自身になるかとか、神や徳は嘘だというキリスト教批判とか、女性解放は子を産む力を持たない女が出来の良い女に対して抱く本能的憎悪だとか、自作の解説とか、ニーチェの思想と生き方をこれでもかと主張している。一般人がニーチェの哲学を理解するための本というよりはニーチェ研究者向けの本。こんな威張りくさった人が近くにいたら嫌だけれど、文章を眺めるぶんには誇大妄想患者の観察として面白いかもしれない。個人的に面白かったのは文体論で、「パトスを孕んだ一つの状態、一つの内的緊張を、記号によって、並びにこの記号のテンポによって伝達すること──これがおよそ文体というものの意味であると言っていい。」「およそどんな文体でも、一つの内的状態を如実に伝達しているのであれば、それは良い文体である。」といっている。そういう点では誇大妄想全開のニーチェの文体はすごく良い文体に見える。★★★☆☆この人を見よ改版 [ フリードリヒ・ニーチェ ]価格:496円(税込、送料込)
2016.01.06
コメント(0)
社会学とは何かという研究分野を解説する本。1.社会学はどういう学問か、2.家族、3.地域社会、4.職場、5.社会変動、6.社会学とその方法、という6章の構成で、自殺、母子関係、都市化、労働者の経営参加、ストライキ、近代化、社会調査の方法といった社会学のトピックについて研究を例示している。広いトピックを浅く紹介していて、個々の話題は物足りないものの、大学生や他の分野の人が社会学に興味をもつきっかけとしては十分で、入門書としての役割は果たしている。各章の終わりに参考文献のガイドがあり、巻末に索引もあり、本として丁寧に作られていてよい。★★★☆☆社会学入門新版 [ 秋元律郎 ]価格:864円(税込、送料込)
2016.01.05
コメント(0)
作者が少女時代にフランス領インドシナのサイゴンにいたころに男物の帽子をかぶって愛人の金持ち華僑の32歳の中国人とやりまくったことや、やさぐれた上の兄や、上の兄だけを偏愛する貧乏な母親や、死んだ下の兄のイマージュを書いた自伝的小説。基本的に「わたし」の一人称だけれど、三人称で自分のイマージュや他人の物語を展開したりする変則的な文章。一行空きを多用して回想が飛び飛びになっていて、何歳のときの話かという年齢もばらばらで、構成がゆるい散漫な書き方。これはこれで詩的な味があって、イマージュを描くという方法としてはよいものの、翻訳のせいもあるかもしれないけれども、もったいぶってほのめかすような文体が理解しづらい。元アル中の著者が70歳のときに自分の少女時代を書いた本だというテクスト外の情報なしでは書かれている内容が十分に理解できず、そのうえ重大事件については作中で仄めかされるだけで直接は書かれていないので、初見で内容を理解できるのはマルグリット・デュラスの他の小説を読んできたファンくらいだろう。作品単体で理解できるように書かれていないという点では読者に対して不親切。解説によると描写に矛盾も含んでいるらしいけれど、矛盾云々以前にいつの出来事なのかあいまいで、時系列を把握するのに手一杯でいちいち細部にまで気を配ってられなくて矛盾にも気づかなかった。プロット自体は愛人との出会いと別れと家族への愛憎を書いたというだけで意外性もひねりもなくて、見所は達観した(つもりの)早熟な少女の感覚が書かれてあるところ。帽子や靴といった服装へのこだわりは女性らしい感性が書かれていてよい。しかし愛憎のテーマとしては下の兄と愛人への愛情の違いが掘り下げられているわけでもなく、上の兄や母への憎しみが昇華されるわけでもなく、あまり見所がない。外人読者は植民地時代の異国情緒やノスタルジーに面白さを見出すのかもしれないものの、その点は私にとっては面白さにつながらない。女性読者なら素直にロマンチックな感傷の物語として感情移入して楽しめるかもしれないものの、私は女性読者ではないから面白くない。中国人青年が兄者に対してヘタレすぎてまったく面白くないし、処女でないと結婚できないと親父の言いなりになるようなやつが性欲を愛と呼ぶのも気に入らない。それにナボコフの『ロリータ』はロリコン児童ポルノ小説扱いなのに、これは15歳の初体験を書いてるのに児童ポルノ扱いされないのはなんでなのかよくわからない。アジアで優遇されているけど貧乏な境遇の白人少女の性的成長を書いた貴種流離譚みたいなものとして美化されてるんだろうか。男性目線でおっさんと少女の性交を書けば変態のロリコン児童ポルノ扱いされて、女性目線で少女とおっさんの性交を書けば美しいラブロマンス扱いされるのは不公平である。巷ではやたらと評価が高いけれど、この小説を傑作扱いしている人はロリコンのおっさんの愛を肯定しているのか聞いてみたいものである。三船美佳だってあれだけテレビでのろけてたくせにロリコンの洗脳から覚めて離婚するわけだし、ロリコンの性欲を愛として美化するのはどうかとおもう。小説版よりも先に映画版を見たのだけれど、つまらなかったのでほとんど記憶に残っていない。というわけでもう一度映画版を見てみたものの、やはりつまらない。中国人がティンコでビンタしそうなむっつりスケベ顔のくせに気弱純情キャラという、外見と性格のミスマッチが不自然な感じで始終違和感がある。映画版が人気なのは中国人と別れた後の家族の面白エピソード(上の兄が使用人のドーを犯そうとしたとか、上の兄のギャンブルの借金で家を売ったとか、母親がひよこの飼育に失敗したとか)を省いたことで時系列がめちゃくちゃな小説版のわかりにくさがなくなってラブロマンスとしてまとまっているおかげだろう。しかしイタリアの巨匠ティント・ブラス監督が制作費46億円をかけた大作ポルノ映画『カリギュラ』を見たあとでは、ちょろっと濡れ場がある程度だとぜんぜん面白くない。「わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています」と書き込みできないので、この場で楽天の言葉狩りに抗議しておく。これだから楽天はいつまでも3流IT企業なんだ。ティンコがそんなにわいせつなら三木谷はティンコもいで捨ててしまえ。ヴァッファンクーロ。★★★☆☆愛人(ラマン) [ マルグリット・デュラス ]価格:810円(税込、送料込)
2016.01.05
コメント(0)
元蝶理でレアメタル部門の買い付けを担当してMBOでレアメタル専門商社を設立した著者が2009年までのレアメタル業界について書いた本。物理学や科学についての本ではないので、そっち方面に興味がある人は間違って買わないように注意が必要である。そういう点ではタイトルが紛らわしく、「レアメタル業界超入門」とかのほうがよかったかもしれない。第一章は日本のODAをアフリカに投資した中国や、世界各国の資源ナショナリズムの話。中国の資源ナショナリズムについては、2010年に尖閣諸島での中国漁船衝突事件でレアアースの対日禁輸措置をとったことが大々的に報道されたので大抵の人は知っているだろうし、その後に在庫過剰で価格暴落したという結末も知っているだろうから、この章はまだ中国が調子付いていたころの話として面白く読める。ロシアでクロムの輸出利権をめぐって次々に要人が不審死するなどの小ネタも面白い。第二章はキング・オブ・コバルト、キング・オブ・モリブデン等と呼ばれるレアメタルトレーダー達の話。外人トレーダーがどうのこうのといわれてもぴんと来ないものの、狭い業界でやり手のトレーダーがやりあっている雰囲気は伝わる。日本人トレーダーについても詳しく書いてあればもっとよかった。第三章はトヨタの対中レアメタル戦略、日本のレアメタルリサイクルやレアメタル備蓄の提言などの話。発刊から何年か経っているので情報が古くて、ハイテク産業ではすでに脱中国化してレアアースを使わない技術を開発しつつあるので、一部の情報は役に立たないかもしれないものの、レアメタルが必要な業界に就職予定の学生とかには業界の概要を知るのにはまだ役に立つかもしれない。終章はレアメタル採掘の自然破壊や資源枯渇についての著者の意見。中国、インド、ロシアのような資源所有発展国が資源を外交交渉力に使うのは長続きするとは思えないという著者の見方は的中していて、2010年の中国のレアアース対日禁輸が一時的にはレアアースが高騰して日本への嫌がらせになっても結局長期的には日本の技術革新と脱中国を促すわ、WTOから怒られるわで中国のもくろみは失敗したのである。さすがレアメタルの専門家だ。レアメタル業界に興味がある人がこの本を読んでも損はないけれど、わざわざ古い本を買って読むよりも東洋経済ONLINEの中村繁夫の連載が無料で読めるのでまずはそっちを読んだほうがよい。★★★☆☆レアメタル超入門 [ 中村繁夫 ]価格:799円(税込、送料込)
2016.01.02
コメント(0)
渡り大工として50年以上文化財を修理してきた人間国宝級の宮大工が中世建築について語った本。大工の道具、規矩術、礎石の仕組み、土壁の強度、軒の美しさを出すための垂木の工夫、蟇股、五重塔や多宝塔の構造、和釘のよさ、木の文化の衰退、現代の建築と中世建築の違い、ゼネコンに雇われて師弟制度がなくなった宮大工業界の厳しい金銭事情、宮大工の元締めの名古屋の伊藤家での大工修行の様子など、建築に興味がある素人が雑学として読む分には面白いものの、広く浅く話題に触れていて全体としての情報量はそれほど多くなく、一時間もあれば読み終わってしまう。話題自体は面白いのでもっと掘り下げてほしいところ。もっと詳しく語れる知識がある著者なのに、さらっとうわべだけ書いて流してしまうのはもったいない。「日本の心と技と美しさ」というサブタイトルがついている割には美について語った部分が少ないので、建築美術について興味をもつきっかけにはなるだろうけれどこの本だけでは物足りない。著者は政府の予算が少なくてゼネコンにピンハネされて弟子を雇う金もないから弟子を取らないと言っていて、偉い人がこういう姿勢ではいけない。2002年に書かれたようだけれど、就職氷河期の若者余りのときでさえ若い宮大工志望者が弟子入りを断られていたというのだから、若者不足で各業界が基幹人材を取り合っている現代なら宮大工を志望する人はほとんどいないんじゃなかろうか。著者は宮大工は頭が良くないとできないというものの、よっぽど神社仏閣が好きでない限り優秀な建築関係者は宮大工よりもゼネコンに行くだろう。著者は金儲けには興味がないから会社を作らなかったと言っているものの、会社というのは社長が儲けるためだけにあるのではない。頑固ないち職人に資本主義社会での立ち回りを期待するのは無理なのかもしれないけれど、宮大工の知恵を残したかったら素人向けに本を書くよりも若手宮大工への技術伝承の仕組みを整えるべきだろうし、そのために法人化して暗黙知と利益を社員で共有するという選択肢もあったはずである。自分は弟子は取らないから若者は師匠がいなくてかわいそうだけど自分で学んでね、という態度では中世の職人が仕事をとられないように技術を秘密にしてそのまま技術が失われたのを現代でも繰り返しているように見える。語りつぐだけでなくて実際に技術を継承してほしいもんである。★★★☆☆宮大工千年の知恵 [ 松浦昭次 ]価格:586円(税込、送料込)
2016.01.02
コメント(0)
全15件 (15件中 1-15件目)
1