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京都の暴力団などに関する1990年代のかもがわ出版の記事を収録した文庫本。●まとめ・京都駅前地上げ戦争:同和団体崇仁協議会の藤井鉄雄委員長(元暴力団浜内会組長)が崇仁地区を地上げして開発するために武富士の武井前会長に話を持ち込んで資金を提供してもらうものの、前田弁護士と藤井委員長の間で資金管理をめぐるトラブルが起きて、藤井委員長は武富士に告訴される。武富士の問題解決に山口組系山健組や中野会が動いて崇仁協に圧力をかけて、崇仁協幹部射殺事件が起きて、藤井委員長は覚せい剤所持で逮捕されて釈放された後も命を狙われる。崇仁協の高山元会長が地上げ資金を横領して会津小鉄会幹部に山分けしていたことも発覚して会津小鉄会は藤井委員長を始末しようとして、京都進出を巡って会津小鉄会と山口組の抗争(京都戦争)も起きる。・宅見組長射殺事件:97年に山口組系ナンバー2の若頭の宅見勝組長を射殺したキーマンとみられる中野会系壱州会の吉野和利組長の変死体がソウルで見つかる。宅見組長はバブル期の金融や不動産などのフロント企業を使って2000億円蓄財して山口組の金庫番と呼ばれていて、イトマン事件の首謀者の元イトマン常務の伊藤寿永光のバックも宅見組長だった。中野会が宅見組長を狙ったのは宅見組長の跡目争いや、96年に会津小鉄会が中野太郎中野会会長を襲撃して宅見組長が仲介して会津小鉄会から数十億の金が動いたものの宅見組長が半分近くを抜いて中野会に金が来なかったのが原因とみられる。・許永中:イトマン事件で特別背任に問われた許永中は保釈中に逃亡した理由として暴力団抗争に巻き込まれて命を奪われる危険があったと供述したものの、宅見組の企業舎弟の福川拓一や弁護士などの支援グループに逃亡を手助けされて、暴力団に狙われているとは思えないほど大胆に行動していたので、逃亡には別の理由がある。・山段芳春:京都信用金庫の内紛で榊田喜四夫副理事長に接近して京信の資金を得ると京信の貸付業務に伴う保険業務を一手に担うキョート・ファンドを設立して、京都自治経済協議会の警察、検察、市役所のOBに人脈を広げて、松橋、今川、田邊の三代の京都市長を陰で操り、会津小鉄会の高山登久太郎会長もバックについていて、京都のフィクサーと呼ばれてきた。しかしイトマン事件の許永中の資金調達先とみなされたキョート・ファイナンスが家宅捜査されて落ち目になり、京都府警の浦窪元警部補に高価な物を送って捜査情報を聞き出していた疑いで逮捕状がでて99年に病院で死亡。・会津小鉄会長高山登久太郎:万和建設を作って組織を急拡大させ、雄琴のソープランド、祇園や木屋町の用心棒代や公衆電話ボックスのデートクラブのビラ張りの場所代で荒稼ぎして、佐川急便会長の佐川清の用心棒になってトラブル処理をした。・佐川急便:創業者の佐川清は推定年収10億円を超えていて給与による収入としては日本一の高給取りで、豪遊したり相撲部屋や芸能人のタニマチになったりしていた。佐川急便グループは60億円の脱税が摘発され、株の利益は運輸族の政治家へのヤミ献金に使われていたと言われている。従業員を手当なしで長時間働かせる超過労働で死亡事故や不祥事が多く、利益は持ち株会社の清和商事に上納される仕組みになっている。・餃子の王将:王将は部落解放同盟委員長の上杉佐一郎の実弟の上杉昌也が社長の京都通信機建設工業にビル火災の補償交渉の代理人にしてトラブル交渉を任せていて、王将の子会社のキングランドに貸し付けた百億以上の融資の大半が京都通信機建設工業に流れて焦げ付かせていた。・西本願寺:権力闘争で差別発言をでっちあげて、部落解放同盟を利用して政敵を陥れようとした。・阿含宗:桐山靖男が超能力を売りにして作った密教の新興宗教で、霊障を取り除かないと災難がおきると不安を煽って数十万円の供養料を払わせて、電通と組んで数億円の広告費を使って星まつりにマスコミ関係者を招いて宣伝して信者を集めた。・裏千家:家元制度は会員から許状料をとる集金システムになっていて、家元の実弟の納屋嘉治氏が統括する淡交グループが茶道具の販売や研修施設を管理していて、裏千家から物品の販売を依頼された師匠が弟子に売りつける仕組みになっている。・細木数子:墓相学を取り入れて当てた久保田家石材と組んで、先祖供養として高額な墓を売りつけている。・無量寿寺:久世太郎が始めた新興宗教で、ルーツは「土蔵秘事」で教義は秘密で高額な入信料を取る。サイコロで運命を予言して関西の経営者や芸能人などの著名人が役員となって勢力を拡大するものの、詐欺として訴えられる。●感想副題に「古都を支配する」云々と書いてあるけれど、歴史がある都市には暴力団もブラック企業も変な宗教もあるだろうなという感じのエピソードで京都を支配しているというほどでもない。人物相関図や年表とかもないので暴力団の対立関係がわかりにくいし、茶道や宗教関連の話題はあまり掘り下げていないのは物足りない。裏千家の許状料を批判的に書いているけれど、他の千家とか華道とかの検定ビジネスと比べないと高いか安いか判断がつかない。日本で運転免許を取るのに20-30万円くらいかかるのだってアメリカと比べたら高いわけで、免許や検定関連の人件費や管理費から算出した適正価格はいくらなのかというがはっきりしないと、高いという批判に説得力がなくなる。王将の話も古いので、2013年の王将社長射殺事件について書いた新しい本があればそういうのを読んだほうが面白いかもしれない。あとネットで無量寿寺の画像を見てみたら建物や彫刻に金をかけているのがわかるので、この本も写真くらい載せればいいのにと思う。京都に行ったことがない田舎者の私にはそんなに面白い話でもなかったけれど、京都に住む人は暴力団やフロント企業にまきこまれないように読んでおくとよいかもしれない。さてフィクションと反社会的勢力について考えることにする。暴力団や不良はしばしばフィクションの主役や敵として大きな役割を担っていることがある。私が読んだことがあるのはたいてい漫画で、暴力団がでてくるのは『静かなるドン』、『東京無頼 風祭一家 JIN-GI御免!』、『ショコラ』、『サンクチュアリ』、『闇金ウシジマくん』、『ギャングース』、『ザ・ファブル』、『極主夫道』とかの青年漫画で、不良やヤンキーが出てくるのは『あばれ花組』、『カメレオン』、『疾風伝説 特攻の拓』、『クローズ』とか少年漫画に多い。暴力団や不良が主役の場合はたいてい任侠物語で、因縁をつけてくる敵から仲間を助けたり敵討ちをしたりして大団円というパターンになる。『今日から俺は!!』は漫画でも人気だったのがドラマ化されて小学生に人気になったそうだけれど、これはユーモラスな主人公と狂暴な敵がいて、ストーリーがわかりやすくて主人公側に感情移入しやすいから子供でも楽しめるのである。アンパンマンがバイキンマンをパンチして撃退するのと基本的に同じ構図で、そこに学校とか恋愛要素とかの現実世界のリアリティがちょっと足してあって、わかりやすい反面、プロットとしての面白さはあまりない。私はノワール小説は読まないので小説で暴力団や不良がどう書かれているのかというのはよく知らないけれど、一般小説だと漫画に比べて暴力団が出てくることがあまりない。これはたぶん暴力でなんでもできるようになるとプロットのバランスが崩れてしまって、作品の方向性が限定されてしまうからだろう。漫画や映画なら主人公の暴力団員や不良が殴り合いや銃撃戦をすればアクションとして成り立つけれど、小説だとアクションシーンを書いても漫画や映画と比べて見劣りするし、その後のストーリー展開が限られてくる。主人公の敵として暴力団や不良が出てくるときは強すぎて、ストーリー展開の主導権を敵に持っていかれてしまって主人公の存在感が乏しくなる。暴力一辺倒にならないようにコメディやパロディやポルノに軸をずらすやり方もあって、これは漫画の連載でエピソードごとに変化をつけるのに使うと相性が良いけれど、小説で一冊の本としてトーンを統一するのには向かない。暴力団のシノギやら抗争やらを書くよりは殺人犯のミステリやホラーやサスペンを書くほうが小説としてはプロットを工夫しやすいので面白くなる。というわけで、私は面白い暴力団小説というのは読んだことがない。フィクションと違って実話の暴力団の話があまり面白くないのはなんでなのかと考えると、大義がない金目当ての利権争いだったり、内輪の怨恨の内紛だったりして、主人公がいなくて読者が共感できる要素がないからだろう。暴力団は儲からなくなって組員が離脱して縮小して、若者は暴走族になるよりYouTuberになるほうが自己顕示欲を満たせて稼げるのでヤンキー漫画も売れなくなっているようで、若者の反社会的勢力ばなれが起きているようだけれど、これは社会にとってはよいことである。★★★☆☆京都と闇社会 古都を支配する隠微な黒幕たち (宝島sugoi文庫) [ 一ノ宮美成 ]
2019.01.28
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フィクションはタイトルやら登場人物やらの固有名詞が多く出てくるけれど、SEO的に見てうまいやり方と下手なやり方があるので、考えてみることにした。●タイトルのつけ方・単刀直入系アメリカのフィクションは単語一つだけのものが多いけれど、タイトルがシンプル過ぎてSEO的にはよくない。たとえばSF映画の『メッセージ』のように一般名詞をタイトルにしている場合は他にも同じ名前のものがたくさんあるので、検索するときに「メッセージ 映画」というように映画と付け足さないと携帯電話の「+メッセージ」についての検索結果が出てきてしまう。マイナーな映画のタイトルが有名な映画のタイトルとかぶった場合はマイナーなほうは検索結果に出てこないことさえある。こういう場合はローカライズした邦題や副題を付けるほうがましである。タイトルで検索してもうまく検索結果が出てこないときは作者名も検索に付け足さないといけなかったりするけれど、一般人はマイナーな作品の作者名まで覚えていないので、無名な作家が単刀直入系のタイトルをつけてビッグワードで勝負するのはやめたほうがよい。・主人公の名前がタイトルに入っている系『ジョジョの奇妙な冒険』とか『となりのトトロ』とか『古見さんは、コミュ症です。』とか『ドラえもん』とか『らんま1/2』とか『NANA』とか、主人公の名前がわかりやすくて印象に残る名前なら、ジョジョとかトトロとかの名前で検索するだけで検索結果が出てくるのでSEO的によい。『坂本ですが?』や『八雲さんは餌づけがしたい。』みたいな地味な名前だとおっさんは固有名詞を覚えられないのでタイトルを忘れられやすい。タイトルを忘れてしまうと検索の手掛かりがなくなってしまうのでSEO的によくない。ユニークな名前や覚えやすい名前ならなるべくタイトルに入れて、地味な名前をタイトルに入れるくらいなら別のタイトルにするほうがSEO的によい。・~の~が~でどうのこうの系文章になっているタイトルは正確なタイトルを検索しなくても単語がある程度かぶっていれば検索結果に出てきやすくなるのでSEOには有利になるし、タイトルから内容も分かりやすい。しかしポエジーもないしひねりもないしインパクトもないので、いかにもラノベ的でタイトルとしての魅力はない。・四文字系『よつばと』とか『ノノノノ』とかのひらがなやカタカナの四文字のタイトルは萌えアニメ系に多いものの、タイトルだけ見ても作品内容が分らないし、他の作品と区別しにくくなるので、あまりよいタイトルではない。それに長いタイトルはたいてい短く省略されて呼ばれるようになるので、最初から四文字のタイトルをつける必然性がない。タイトルが短いとハッシュタグとしては使いやすいけれど、何の話なのか他人から見てわからないので、話題の拡散効果はあまりなさそう。・パロディ系~の国のアリス、G線上の~、~は~の夢を見るか、~によろしく、というのは元ネタの知名度を借りるやり方だけれど、有名な作品を元ネタにすると二番煎じが多すぎてかえって目立たなくなったりするし、マイナーな作品を元ネタにするとパクリ扱いされかねないので、簡単なようで難しい。初見での興味はひきやすいものの、正確なタイトルを検索しないと元ネタのほうが検索結果に出てきてしまうので、SEO的にはよくない。・繰り返し系『HUNTER×HUNTER』や『ダンス・ダンス・ダンス』のように、単語を繰り返すだけでユニークな名前になる。こういうのは先にやったもん勝ちだけれど、村上春樹の小説の『ダンス・ダンス・ダンス』とは別にDance Dance Danceという曲をいろんなアーティストが出していて、別のジャンルとタイトルがかぶる危険性があってSEO的にはあまりよくない。・〇と×系『赤と黒』、『高慢と偏見』、『ハチミツとクローバー』、『おじさんとマシュマロ』のような単語の掛け合わせをタイトルにするのは覚えやすくてユニークになるのでSEO的によい。ただし単語選びのセンスが必要で、センスがないとつまらないタイトルになってしまったり、『蜜蜂と遠雷』のような関連を想像しにくい単語を選ぶとかえってタイトルを覚えにくくなってしまうのでよくない。●ペンネームのつけ方・まともな人名系鳥山明や司馬遼太郎や大川ぶくぶみたいに珍しいけど読みやすくて他の作家と混同しにくいペンネームがSEO的にはよい。荒川弘はヒロシじゃなくてひろむと読むし、男性でなくて女性だけれど、こういう間違えやすい名前は覚えにくくて検索しにくいのでSEO的にあまりよくない。・中二病系ライトノベル系の作者は当て字をごりごり使って中二病的なキラキラペンネームをつけていたりするけれど、読めない名前は検索できないのでSEO的によくない。・ニックネーム系漫画家のコトヤマやぱげらったみたいな適当につけたニックネームみたいなペンネームは性別が不明で印象に残らないので覚えにくい。ゆでたまごのように一般名詞とかぶる固有名詞だと検索したときに料理のゆでたまごのレシピが出てきてしまうのでSEO的によくない。●登場人物の名前のつけ方・リアル系リアリズムの小説や漫画だと普通の人名が出てくる。山田とかのよくある苗字だと一般人の名前と偶然一致したりして検索結果に出てきにくくなるので、SEO的にはあまりよくない。『ドカベン』の主人公の山田太郎はニックネームのおかげで地味さを免れている。・いかにもフィクション系『DEATH NOTE』の主人公の夜神月(やがみらいと)は、大量殺人鬼の名前になる都合上、同名の人に迷惑がかからないように現実の人名としては絶対に有り得ない名前にするという作者の配慮でそういう名前になったというのは漫画を読む人の間では有名な話だと思う。漫画やライトノベルにはいかにもフィクションな名前が多くて、戦場ヶ原ひたぎとかのユニークな名前は印象に残るし、その名前で検索した時に他の結果が混じらなくなるのでSEO的によい。キャラクタービジネスを展開する際には画像検索で他の結果が混じらなくなるようなユニークな名前のほうがよい。・だじゃれ系『ハイスクール!奇面組』や『古見さんは、コミュ症です。』はギャグマンガなので各登場人物が現実にはありえないだじゃれ的な名前になっていて、印象に残りやすくて覚えやすくてユニークなのでSEO的にはよい。●まとめSEOというとウェブサイトを作る人だけが気にしているようなイメージだけれど、商品検索や画像検索にも関わってきて検索のしやすさで話題性や売り上げも違う。ユーザーがネットでちょろっと見かけたあの作品は何ていうタイトルだったかなーと興味を持って思い出そうとして検索しても、検索結果に出てこなかったらそれ以上興味を持つのをやめて作品を買うのをやめてしまう。作者や出版社はもっとSEOを気にして、検索しやすいようにタイトルや登場人物の名前を付けるほうがよい。あと個人的な意見では、モンストとかパズドラとかのゲームのキャラクターに歴史上の人物の名前をつけて検索結果を汚染するのはやめてほしい。モデルにするのはいいけど、少し名前を変えて区別するくらいの工夫はやれっちゅうの。
2019.01.23
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死者が解脱して仏になる方法を書いた本。●まとめバルドゥ(中有:死んでから次の生を受けて生まれ変わるまでの意識の中間状態)には六種類ある。1、母胎より誕生してこの世に生きる姿のバルドゥ2、夢の状態のバルドゥ3、禅定・三昧状態のバルドゥ4、チカエ・バルドゥ(死の瞬間の中有)5、チョエニ・バルドゥ(存在本来の姿の中有)6、シパ・バルドゥ(再生へ向かう迷いの状態の中有)死ぬときに息が途絶えて体内にまだ息が残っているチカエ・バルドゥの状態の死者が解脱するためにポワ(転移:意識を身体から抜き取ってより高い状態へ移し替えるチベット密教のヨーガ的秘法)の導きを授ける。能力が優れたヨーガの実践者は導きが必要なく解脱できて、普通の能力のヨーガの実践者はポワの導きを必要とする。できれば生前に前もって自分で解脱作法を行うべきである。死者が解脱に到達できない場合にはチョエニ・バルドゥが現れて、カルマン(業:我々の体と言語と心の行う善悪の行為が潜在的な影響力となって後にさまざまな結果を報いとして引き起こすこと)が引き起こす死者を錯乱させる幻影が現れ、音響と色彩と光明の三つの現出があり、死者は恐怖と畏怖と旋律で失神する。3日半の間失神して目が覚めると、輪廻の進行が反転してあらゆる幻影が光明と身体を持った姿で現れる。静寂尊のバルドゥにおける難関には7つの段階があり、それぞれの段階で導きを受けて覚ることができない場合でも、次の段階で覚って解脱できた者が多い。1日目は光とともに天界の存在が近づいてくるが、微弱の白色の薄明かりの方に喜びを抱いて執着してはならない。これに執着すると、天上界の存在の境涯にたどり着いた後は、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天の六道に輪廻することになる。2日目はヴァジュラサットヴァの神群と地獄の悪いカルマンの二つが会いに来る。自分の激しいいかりによって集められた汚れからできている微弱な薄明かりの方に喜びを抱いてはならず、これに執着すると地獄に堕ちる。ヴァジュラサットヴァの慈悲の光明に敬慕の気持ちを寄せて導きを受けると、能力の弱い者でも解脱できる。導きを受けても慢心と罪垢が大きい人は慈悲の光明の鉤針を恐れて逃げ出すので、3日目にさらに尊いラトナサムバヴァ如来の神群と人間界の光の道の二つが会いに来る。ラトナサムバヴァ如来の黄色い光を恐れてはならず、これは叡智であると覚って敬慕の気持ちをよせるべきで、もしこれを汝自身の意識自体の現れであると悟れば仏の身体と光明が汝と一体となって溶け入って仏になれる。人間界の青色の微弱な薄明かりの方は慢心によって蓄積された習癖を作る力から出来上がっていて捨てられるべき道なので、喜びを抱いてはならず、これに執着すると人間としての境涯に再生して生老病死に悩まされ、その後も輪廻の境涯に留まって解脱できなくなる。何回導きを受けても仏との縁が薄い大罪人や誓いを守る意思が弱い人は覚ることができずに音響と光明を恐れて逃げ出して、4日目にアミターバ如来の神群と、貪欲や吝嗇からできあがっている餓鬼の微弱の薄明りの道の二つが会いに来る。アミターバ如来の慈悲の光明の鉤針である赤色の光を恐れてはならず、敬慕の気持ちを寄せるべきである。餓鬼の黄色の薄明かりに執着すると、餓鬼の境涯に落ちて、耐え難い飢えと渇きの苦悩を味わう。これでも解脱できない人には5日目にアモーガシッディ如来の神群と、貪欲と嫉妬から生じたアスラ(阿修羅)の薄明りの道が現れる。アモーガシッディ如来の心臓から発する緑色の光を恐れてはならず、敬慕の気持ちを寄せるべきである。アスラの赤色の薄明りには執着と反発のどちらもしてはならず、これに執着するとアスラの境涯(修羅道)に堕ちて闘争と口論の耐え難い苦しみを味わう。何度導きを受けても慈悲の光明の鉤針にかからずに輪廻を続ける者には6日目に五仏が眷属を伴って一斉に表れて、六道の薄明りも同時に現れる。この時に叡智の光に敬慕の気持ちを寄せるべきで、六道のどれかの薄明りに執着してはならず何も気が付かないふりをするとよい。能力の劣悪な人の中でもとりわけ能力が劣って導きを受けても覚ることができずに下方を彷徨う人には7日目に清浄なクァサルパナ(虚空遊行)の世界からヴィディヤーダラの神群と、無知からできている動物(畜生)の世界の薄明りの道が迎えうける。悪い悪癖を作る力の領域を浄化するサハジャ(自然生得)の叡智が明るい五色の光を放つがおびえてはならず、これは叡智であると悟れば轟音が鳴りわたる。薄明りの方に執着すると、無知である動物の境涯に堕ちて、愚鈍・蒙昧・隷属の苦しみを味わう。導きを受けても解脱できないでさらに下方の輪廻の境涯に彷徨う者には静寂尊が姿を変えた忿怒尊の神群が現れ、死者は恐怖と戦慄と慄きに支配されて現出するものの本体を覚ることは難しくなり、死者は意識を自分のものにできないで失神を繰り返す。密教のヨーガを実践する行者は最低の者のうちのさらに最低の者であっても忿怒尊を見分けて、自分の守り本尊であると覚ることができて解脱できる。8日目に大吉祥ブッダヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはヴァイローチャナ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったもの(意成身)であると覚れば解脱できる。もし恐れて逃げ出したら、9日目にヴァジュラヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはヴァジュラサットヴァ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。もし恐れて逃げ出したら、10日目にラトナヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはラトネサムバヴァ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。もし恐れて逃げ出したら、11日目にはパドマヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはアミターバ仏男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。もし恐れて逃げ出したら、12日目にはカルマヘールカと呼ばれる忿怒尊が現れる。これはアモーガシッディ男女両尊が本体で、守り本尊なので恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。このバルドゥの導きを受けることができない場合には、善人であっても死後に人間の世から退いて下の世界に輪廻して彷徨う。そして13日目にガウリー八女神とさまざまな動物の頭を持ったピシャーチーが現れる。これを恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。14日目に30の怒りの容貌(忿怒相)をしたヘールカ神群とさまざまな動物の頭の形をした28のイーシュバリーが現れる。これを恐れてはならず、自身の意識が身体をとったものであると覚れば解脱できる。これで覚ることができないと、血をすする神群をすべてヤマ(閻魔)王とみなしてしまい、恐怖で失神して輪廻を彷徨い続ける。ヤマ王たちは死者の脳をすすり、頭と胴体を引きちぎり、内臓を食らうが、汝は生身ではなくて意識からできている身体で、殺されて裁断されても死ぬことはないので恐れる必要はない。ヤマ王たちが自身の意識から現れ出たもので実態を持つものでないと知れば恐れを脱して神々と一体となって仏になることができる。シパ・バルドゥで意識からできている身体が彷徨っているときの喜びや苦しみは生前のカルマン次第で決まる。自分の故郷、親戚、自分の死体などを見ることができて、私は死んでいるのだと考えて哀しみを味わい、自分の死体に入り込もうとするが、長期間のチョエニ・バルドゥで死体が埋葬されたり腐敗したりしてかつての身体には意識は居場所を得ることができず、悲しい思いをする。新しい身体を求める気持ちを絶って、気持ちを動かさずに無作為の状態に置くと解脱できる。シパ・バルドゥの苦しみは21日間続くのが一番多いが、死者の生前におけるカルマンによって差がある。瞑想して再生を止めることができれば仏になるが、自身を清く保つことができず瞑想に慣れていない人は輪廻を終えることができずに彷徨って再生の母胎に進んでいくので、胎の入り口を閉ざすことが重要になる。胎の入り口を閉ざす方法は5種類あり、男女が情を交歓している幻影の間に入り込まずに供養をささげて、あるいはどの守り本尊でもいいから男女両尊を心に念じて、あるいは愛着と敵意のどちらの気持ちも持たないように決意して、あるいはものは実在せず幻のようなものだと覚るか、あるいはすべてのものは汝自身だと考えて瞑想すると胎の入り口が閉じる。●感想これがどういう本かと端的にいうと、修行僧でない人でも死に際に取り乱したりせずに安心して死ねるように導くためのチベット密教の葬式の作法を書いた本のようである。補注や解説があるので宗教を研究したい人には役に立つだろうけれど、一般人が読んでもあまり得るところはないかもしれない。仏の方角、色、乗り物、持ち物がそれぞれ違って、違う意味があるというのは初めて知って、仏教関連の美術や仏像をちゃんと勉強するのも面白そうなので、LOTO7かBIGが当たったら寺めぐりをやろうと思う。さて私は仏教について何か意見があるわけでもないので、死と宗教について考えることにする。世界各地にいろいろな宗教がなぜ生まれてなぜ定着したのかというと、猿から進化してある程度知性を身に着けた人類は自分がどこからきて自分が死んでしまった後はどこに行くのかというのを何らかの形で納得する必要があったので、神がこの世界を作っていて死んだら天国に行くよとかの理由をつけて死ぬことに納得したわけである。私は神も仏もいなくて魂や死後の世界はなくて死んだらそれで終わりだよという唯物論的な解釈に納得していて、神や仏による救済はいらないので無宗教である。しかしその夢も希望もない科学的な説明で納得しない人が宗教を必要とするのも理解できるので、宗教をなくすべきだとも思わないし、信教の自由があるべきだと思うし、宗教の戒律よりも個人の自由意思が優先されるべきだと思う。死を受け入れるという目的が達成できるのなら手段はどれでもいいわけで、どの宗教が正しいとか間違っているとかで宗教戦争をするのはナンセンスである。何かの宗教を信仰している人にしても古い教義にこだわり続けることのナンセンスさに気が付きつつあるようで、宗教を生きるための手段にする人たちは手段を改良してより良く生きる方法を模索するようになっている。イスラム教は戒律が厳しいせいでイスラム圏で女性差別が残って近代化が遅れたけれど、サウジアラビアで女性が男性と一緒に仕事できるようになったりしてイスラム教も寛容な方向に変わりつつある。宗教を生きるための手段とせずに目的にする人は原理主義者になるけれど、教義通りに行動して自分で考えることをやめた人は、信仰心がなくても平和で幸福に生きていけるという現実を受け入れられずに他の宗教や文明を破壊するテロリストになる。原理主義者は貧しい地域に多いけれど、科学的で合理的な教育が普及したら原理主義はなくなっていくんじゃないかと思う。私は科学的に正しいか否かだけを判断基準にして非科学的なものを全否定するのでなく、面白いかどうかで物事を考えて、面白いものはあったほうがよいと思う。科学的な根拠がないからといって人生の役に立たないというわけではなく、非科学的でも人生を面白くする役に立つ。例えば魂という物質は科学的には存在していなくて、幽霊は脳の損傷が見せる幻影だと言われているけれど、幽霊という概念があるからこそ我々はホラー映画を楽しむことができる。あるいは占いには科学的根拠がなくても、何かの行動の動機付けになるという点で占いが現実を変える効果がある。例えば初詣しておみくじを引いて、大吉で恋愛運に待ち人来たると書いてあったら、そのままぼけーと待っている人はいなくて、何か出会いがあったらこの人が運命の人かなと声をかける動機付けになって、結果的に占いが当たる可能性がある。占い師や霊能力者は全員がいんちきなのではなく、人生を楽しくするエンターテイナーやカウンセラーと見なせばよい。あなたの先祖はちゃんと成仏して見守っていますよと言われたり、神は罪を許したと言われたり、土地のお祓いしたから家を建てても大丈夫だよと言われたりして安心する人がいるなら、それは手段としては非科学的でも、結果的に心の安定を得るという目的を達成できるならよいことになりうる。日本だとカルト宗教が信者を騙して金儲けしたり、宗教団体が信者を票田にする政治団体化したりするせいで宗教がうさんくさいものとしてとらえられがちだけれど、宗教がよい目的のための手段に使われればそれなりに役に立つ効果があるものである。そういえばフィクションもバルドゥのように意識が見せる幻影だけれど、異世界転生小説で死んで異世界に行った主人公がチート能力があるというのはチョエニ・バルドゥの神通力と似ている。異世界転生のような神様がチート能力あげるよというわかりやすい展開でなくても、ドラゴンボールの孫悟空が死んでから海王星で修行して強くなったり、幽遊白書の浦飯幽助が仙水に殺されてから魔族になったり、ナルトが仙界にいって半神半人の仙術を使えるようになったり、BLEACHの黒崎一護がソウル・ソサエティに行って死神になったり、ナウシカが王蟲にはじきとばされて死んで王蟲の触手攻めで生き返って青き衣をまとう伝説の人物になったりしている。フィクションでは登場人物が死んだり、死を超越して神通力を得たりすることが英雄になる条件なのかもしれない。こういうフィクションが日本だけでなく欧米でもうけているので、読者に仏教的な価値観があるから面白いというわけではなく、死んだら神の世界に行って神通力を持つというのは人類に普遍的な願望なのだろう。★★★★☆チベットの死者の書 原典訳 (ちくま学芸文庫) [ 川崎信定 ]
2019.01.15
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平安時代のイケメン貴公子(在原業平)が旅をしたり恋愛したりする物語。●感想むかし、ねこありけり。ひねもすぐうたらするいやしきねこなりければ、すさびに古典を心見むとて伊勢物語を読むなり。主人公のをとこが在原業平というのはコンセンサスのようだけれど、誰が作者なのか、なぜ伊勢物語というのかというのは諸説あるらしい。在原業平が何歳のときのどこの話なのか、女が誰なのかという状況に関する情報も乏しいし、段落のつながりもはっきりしない。私が読んだ岩波文庫のやつは現代語訳もないし注釈もほとんどないので読者に古文の知識がないと理解できない仕様なので、結局ネットで調べながら読んだ。時代背景の情報が少なくて状況がよくわからないものの、馬のはなむけをするとか、正月に偉い人を訪ねて大御酒を飲むとか、平安時代の文化や風景が垣間見えるのは面白い。花、朝露、蛍、紅葉といった儚くうつろいゆくものにもののあはれの特徴が出ている。平安時代と比べて現代は自然の風景が随分変わっているけれど、それでももののあはれは現代人でも理解できる自然観である。現代人は蛍を見るよりも派手なイルミネーションを見て、星や月を眺めるよりも派手な花火を眺めるようになったけれど、桜や紅葉は相変わらず季節の象徴として鑑賞の対象になっている。最近はソロキャンプが流行っているけれど、これももののあはれじゃないかと思う。サバイバルや狩猟だと野性的で荒々しいので詩情はないけれど、ソロキャンプだとしみじみとした詩情がある。ヒロシはたぶん芸人としてはあまり売れなかったはかない存在だからこそ哀愁が漂っていて地味なソロキャンプが似合うのだろうし、普通のYouTuberのようにテンション高めにはしゃいで原色の大文字の字幕をごてごて盛ってうるさい効果音を入れていたらキャンプ動画が人気になっていなかったかもしれない。最近は芸能人に小説を書かせるのが流行っているようなので、そのうち文學界がヒロシにソロキャンプ小説を書かせて芥川賞候補にするんじゃないかと思う。★★★☆☆
2019.01.15
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ZOZOTOWNの前澤社長がお年玉としてツイッターのフォロワーに100人に100万円づつ合計1億円を配ったけれど、この行為に賛否両論あるようなので私も考えてみることにした。●他人に金をあげることの是非前澤(以下敬称略)の1億円のお年玉キャンペーンは、金持ちが金を使うのは良いことだ、夢があっていい、という好意的な意見が多いようだけれど、そもそも金をあげたりもらったりすることは良いことなのかということから考えてみる。アメリカだと寄付で節税できるうえに、ノブレスオブリーシュとして地位相応の義務を果たさないと名士として実業界の紳士淑女の仲間入りできないので、金持ちが慈善団体に寄付するのが一般的なようである。日本だと昔は寺が孤児院や貧民院を兼ねていて福祉を担っていたので、寺への寄進が治世にもつながって、浄財が良いこととされて仏教が勢力を伸ばした。しかし今では宗教心が薄れているし、福祉は寺でなく行政がやるようになったし、宗教法人は税制が優遇されているし、信者が多い宗教は政治団体にもなっていて、宗教法人への寄付を良いこととも呼べなくなっている。特定の宗教団体に多額の寄付をしたら、下手したら善行をしたというより宗教に入れ込んでいる人扱いされて距離を置かれかねない。援助交際やパパ活は金持ちのおっさんが貧乏なお姉さんにお金をあげる活動だけれど、しばしば当事者でない女性から批判されるし、私たちは買われたと当事者でさえ批判する。親がニートの子供に金をあげることは合法であるにもかかわらず、企業は人手不足なんだから働かせて自立させろと無関係の第三者から批判されるし、親のすねをかじれるなんて夢があっていいねと肯定する人はあまりいない。つまりは金をあげることが無条件で良いことになるわけではなく、誰が何の目的で誰に対していくら金をあげるのかという諸要素のうち、どれか一つの要素でもおかしかったら、他人に金をあげることは良いこととは言えなくなる。1億円のお年玉の是非を考える時に、前澤が何の目的で、誰に対して、いくら金をあげたのかということが問題になる。私がよくわからないのが前澤がお年玉を配る目的である。「ZOZOTOWN新春セールが史上最速で取扱高100億円を先ほど突破!!日頃の感謝を込め、僕個人から100名様に100万円【総額1億円のお年玉】を現金でプレゼントします。」ということなので、ツイートを読む限りでは日頃の感謝が目的のようである。しかしその目的ならZOZOで買い物をした客限定で現金プレゼントの対象にするのが筋で、なんで日頃の感謝の対象にならないようなZOZOの客や従業員や取引先でない前澤個人のフォロワーがプレゼントの対象になるのか分からない。例えばZOZOで買い物した領収書をアップした人を抽選対象にするとかの方法なら顧客満足度が高まってZOZOの売り上げも上がると思うけれど、客でもない人に金を配って前澤が何をしたいのか意味が分からない。前澤は途中で感謝する目的から夢を応援する目的に変わったようで、意識高い系の何かをやりたい人を恣意的に選んで金だけ配ってその後の夢の成否をフォローするわけでもなくて、エンジェル投資家とは呼べないずさんなやり方になっている。人によっては100万円をもらうことよりも前澤に経営のアドバイスをもらったり人を紹介してもらったりするほうが夢の実現につながるだろうに、金を配るだけというのは本当に夢の実現につながっているのか疑問である。ということは日頃の感謝や夢を応援するのが目的でなくて、ツイッターのフォロワー数を増やして宣伝したいというのが本当の目的なんじゃないかと思う。600万ページビュー分のコンテンツにユーザーが興味があるかどうかわからない広告を載せるよりも、前澤に興味をもっている600万人のフォロワーに直接情報を発信するほうが宣伝効果が高いわけである。最終的に自分に1億円以上の利益をもたらすための宣伝が目的なら、そのために1億円を使うのは普通の営利活動で、別に良いことでもない。●経営者の行動としての是非ZOZOの株価は2018年の7月から半年で60%減っている。成長率が鈍化したり、ZOZOスーツが急に仕様変更してださくなってあまり流行らなかったり、オンワードがZOZOの割引を嫌って条件が合わなくてZOZOから撤退したりしたのもあって株が売られているようである。前澤が剛力と付き合って月に行くと言い出したりしたあたりから本業以外の話題で前澤個人のメディアの露出が多くなって、1億円のお年玉もZOZOのキャンペーンでなく前澤個人のイベントになっている。社長個人の評判を上げるのでなくて、会社の業績を上げて株価上げるために行動しろというのは投資家にとってはまっとうな批判である。前澤の金の使い方への批判に対して、他人がどうこう言うことではないという意見もある。自分の金をどう使おうが個々人の自由なのは当然だけれど、金の使い方に経営者としての思想が問われるという点が個人と経営者では異なるわけで、金の使い方を他人がどうこう言うなという意見には私は納得しない。例えばカジノにはまって会社の金に手を付けた大王製紙前会長の井川意高とか、金遣いが荒くて何十億の報酬をもらっても満足しなくて日産からもっと金を引き出そうとして特別背任に問われているカルロス・ゴーンとかがいるし、経営者の権限が強いほど経営者の金遣いの荒さが企業の信用を損ねかねないわけで、特に上場企業の場合は広義での公人として経営者の金の使い方が批判の対象になるものだと思う。高須クリニックの高須克弥院長はサッカーのナイジェリア代表に支援金を出したりして面白い金の使い方をするけれど、金の使い方を他人からとやかく言われないのは非上場企業の経営者だからじゃないかと思う。●マーケティングとしての是非前澤の1億円お年玉キャンペーンは有名人がリツイートしてメディアにも取り上げられて1億円以上の宣伝効果があったと好意的にとらえる人がいる一方で、金でフォロワーを買っている、バイラルマーケティングだ、と批判的にとらえる人もいるようである。ツイッターの規約上は問題ないようだし、個人間の贈与なら景品表示法に違反しないようだし、バイラルマーケティングは一部の国では違法でも日本では合法なので、法的な問題はないようである。となると、金でフォロワーを買うことの倫理的な問題になる。ツイッターは2018年の7月にフォロワー売買業者がフォロワー水増し用に作った偽アカウントを数千万個も削除して、芸能人のフォロワーが急に減って芸能人が金でフォロワーを買って人気者のふりをしていたことがばれた。業者からフォロワーを買うのがだめで、直接金を配ってフォロワーを買うのはよいのかと考えると、業者からフォロワーを買って影響力が大きい人のふりをするのは他のユーザーを騙す行為なので倫理的にだめである。直接金を配ってフォロワーを買うのは、フォロワー自身が条件に同意してフォローしたのだから倫理的な問題はないはずである。しかし平等な抽選だと思ったのに前澤にアピールして気に入られた人がもらえるなんて聞いてないぞ、と当選しなかった人が騙されたと感じて怒っているようである。マーケティングとしての瑕疵は前澤が当選者の選び方を明記していなかったことだろう。今回は金持ちが1億円を配ったことで話題になったけれど、もっと規模が小さいのだとYouTuberがゲーム機のプレゼントを餌にして子供を釣ってチャンネル登録者を増やしたりしている。企業がSNSで懸賞キャンペーンをしてフォロワーを増やすのもよくあることで、企業は宣伝できるし、当選した人はうれしいし、外れた人も損するわけでもないし、ウィンウィンである。SNSで懸賞を使うマーケティングは規模の大小に関わらず今後も続くだろうと思う。メーカーはよく商品プレゼントのキャンペーンをやっていて私も懸賞に当たったことがあるけれど、出版業界はそういうのをやらないのでもっとやってほしい。ろくに本屋に並ばないまま裁断される本もあるようだけれど、廃棄するくらいならキャンペーンとして配ればいいのにと思う。●私が1億円お年玉キャンペーンに参加しなかった理由合理的に考えれば、フォローしてリツイートするだけのわずかな労力で100万円をもらえる可能性があるのだからお年玉キャンペーンに参加ほうが得することになるけれど、私は参加しなかった。理由はいろいろある。・私は貧乏なのでZOZOで買い物をしたことがないし、これからもZOZOを使うつもりはないので、私は前澤からお年玉をもらう筋合いがない。・前澤が100万円を100人に配る目的が理解できない。私は自分が納得できないキャンペーンには参加したくない。・私は逆張りするのが好きなので、話題に乗って他の人と一緒に祭りに参加したりするのが嫌いである。PayPayの100億円還元キャンペーンもソフトバンク絡みならうさんくさいと思って参加しなかった。・私の夢は100万円でどうにかなるものではないし、夢の実現のために面識のない他人を頼る気もない。というわけで、私は個人や企業が金を配って宣伝するのは営利活動として法律に則って好きにやればいいんじゃないのと思うけれど、他人に金をあげることが必ずしも良いことや夢があることだとは思わない。金をばらまく人や企業はうさんくさくて何か裏があるんじゃないかと警戒したほうがいいと個人的には思う。
2019.01.12
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1997年にクルーグマンが35歳の時に書いた、経済学の博士号を取る気はない知的な読者向けにアメリカ経済について解説する本。●まとめ▼生産性▼経済にとって大事なことは、生産性、所得分配、失業だけ。生活水準(一人当たりの消費額)を上げるために総人口の中で働く人の割合を増やすのは長期的には限界があるので、長期的に生活水準の向上を維持するには生産性を上げるしかない。輸出を増やさないで輸入を増やせば一人当たり消費量が増える。売る量を増やさずに輸入を増やすには借金するか手持ちの資産を売るしかないので、生産性を向上させて製品をいいものにして輸出品を高く買ってもらって借金しなくても輸入を増やして支払えるようにする必要がある。生産性を上げるオーソドックスな方法は設備投資を増やして教育水準を上げることだけれど時間がかかるし短期的には生活水準が下がるので、レーガン大統領政権のときに左派のサプライサイド屋が苦労せずに経済を再活性させる方法として政府を市場から追い出せば民間部門のダイナミズムが解き放たれると思って試したら失敗した。▼所得分配▼1980年代に職業間の賃金格差が拡大して、金持ちはファイナンスで収益が激増して、1990年代には1920年代並みの不平等になった。金持の稼ぎを減らす唯一の方法は税金をかけること。▼失業▼ほとんどの経済学者はインフレ率を一定にしておくには一定の失業率(自然失業率、別名インフレ無加速失業率、NAIRU)がいるという考え方。政府はすぐに職は作れるが、インフレが加速し続けるのを避けるために一定以上の失業率を保って労働者が自分の生産性成長を上回る実質賃上げ要求をしないようにしている。▼貿易赤字▼貿易赤字は悪くない。貿易赤字がないと失われた職を埋めるために労働者の需要が生まれるわけでなく、未熟練労働力や工場閉鎖とかの一時的な失業がほとんどで需要さえあればすぐに職につける労働者が余っていない。それに失業率を下げたら長期的にインフレが加速するので、そうならないように経済を冷やそうとして貿易赤字をなくして生まれた職と同じくらいの職が消えて相殺されることになる。80年代の貿易赤字で、世界最大の債権国だったアメリカは世界最大の債務国になった。純債務国になったらアメリカ債所有者に金利をずっと払うコストがかかって、深刻だが手に負えなくなることは当分ない。しかし外国投資家が不安になるたびに金融危機に突入するリスクがある。貿易赤字の原因はアメリカの貯蓄が低下したことにある。▼インフレ▼70年代後半は原油価格高騰や世界の食料価格高騰でアメリカの消費者物価は2桁上昇でインフレ率は手が付けられなくて、80年年代は原油価格が暴落してインフレを3-4%に押さえたがコストが高くついた。インフレを1%減らすには産出を4%減らさないといけなくて、アメリカはGNPの2割にあたる1兆ドル以上を犠牲にした。インフレの本当の害は物価が上がること自体ではなく、物価が常に変わり続けることで意思決定がゆがんで結果として経済の効率が下がること。インフレの具体的コストは金を使う気をなくさせることで、物々交換やブラックマーケットの外貨とかでなるべくお金を持たないようになる。インフレで実質の価値が増えてない資産でも会計上の価値が増えたり、負債を抱えている企業は紙の上で損失が発生するもののその分税金がかからなくなるので企業は負債を増やしたがったりする。投資家はインフレ世界では企業評価しづらくなり、企業も投資計画をちゃんと評価できなくなり、投資判断がおかしくなる可能性がある。▼ヘルスケア▼アメリカ人の大半はなんらかの健康保険に入っているが、医療技術が向上すると健康保険の掛け金が高くなって、保険料が払えなくなる人が出てきて健康水準を下げている。しかし訴訟リスクを回避するため、カバーする治療法を限定する安い保険がない。政府のメディケアへの支出増が財政赤字の中心部分になる。▼財政赤字▼国の貯蓄率は国内の純投資と純外国投資の合計で、80年代のアメリカは外国への投資をやめて資産を外国に売っていたので貯蓄率が低くなっていて、投資のお金を外国人に頼るようになった。アメリカは所得の2-3%しか貯蓄しなくて貯蓄率がかなり低くて、70年代後半から政府が貯蓄を食いつぶして、個人は消費者ローンを使いまくって世帯の貯蓄率が低下したのが原因。財政赤字解消には支出をカットして税金を上げるしかなく、貧乏人向けの援助よりも中流層の社会保障とメディケアに手を付けなければならず、正直に物をいう政治家は落選させられてしまう。▼連邦準備銀行▼連邦準備銀行はベースマネー(国民が持っている現金と、銀行が預金のバックアップで持つ必要のある準備金の合計)の供給をコントロールする力がある。▼ドル▼アメリカはドル政策で貿易赤字を減らそうとしているものの、ころころ方針転換して意味不明で、本気で貿易赤字削減をやる気がない。ドル安にしても技術面でアメリカが遅れをとっていて商品が低品質なので昔ほど物が売れなくてたいして事態がよくならなかった。経常赤字をGDPの1%下げるにはドルを10%下げないといけないが、右派も左派もドル引き下げをやる気がない。しかし貿易赤字が増えれば保護貿易が代替案になる。▼保護貿易▼ほとんどのワシントンの政策担当者は保護貿易は悪いもので雇用に悪影響を及ぼすと考えているけれど、アメリカの雇用は供給で決まっていて需要で決まっていないので雇用を減らさない。保護貿易の本当の害は市場がこまぎれになって企業がスケールメリットを活かせなくなって世界経済の効率が悪くなること。▼日本▼日本は輸出が多いのに輸入が少ないので批判者は日本のやり方を変えさせようとしているけれど、90年代前半に日本が貿易黒字だったのは不景気で輸入品の需要が落ち込んだせいで、金融バブル崩壊で日本が脅威でなくなったので放っておかれている。▼セービングス&ローン(S&L)▼S&Lの預金は連邦機関に保障されていて、庶民が安全に貯金して利息を稼ぐものだったので、81年までは投資先が規制されて定期的に監査が入っていて、金を貸す相手は住宅購入者に限られていて低リスクだった。しかしインフレが起きて低利率だと預金者を獲得できなくなって金利を上げたので破産寸前になって、本来はS&Lを処分するのに預金を払い戻して150億ドルくらいで解決するはずが、議会がコスト負担を嫌がって投資の規制緩和で解決しようとしたので、連邦政府の保証つきで預金者の金で無責任に自由にギャンブルをするようなリスキーな投資をするようになってしまい、今はS&Lの処分に1660億ドルかかり、処分を先送りするほど未来の納税者の負担になる。▼ロイズ▼由緒正しい保険会社のロイズが何十億ドルもの損失を計上したせいで、数千人の個人が破滅した。ロイズは「顔(ネーム)」と呼ばれる個人の集団からなるシンジケートが保険料で船荷の損失をカバーする仕組みで、保険料でカバーしきれない場合はシンジケートのメンバー個人の資産から無限個人責任で払う仕組みで、顔は基本的にシンジケートが儲かっていれば個人は何もしなくても儲かる特権だった。しかしこの仕組みのせいで他人の金で博打をするモラルハザードが起きて、運営管理者が手数料目当てにいかがわしいリスクをカバーする保険を売ってリスクを顔に押し付けるようになり、再保険(保険の保険)を売ったり、さらにリスクが高いロンドン市場超過再保険(再々保険)を売るようになって、大型台風が起きて凋落した。▼住友商事▼住友商事の浜中泰男は銅市場で銅を買い占めて違法に市場操作して価格を吊り上げるコーナリングをやって儲けていたものの、96年にコーナリングに失敗して公称18億ドルの損失を出した。▼起業ファイナンス▼80年代はファイナンスの魔術師の時代で、実業家よりも買収の仲介業者が儲かった。企業経営者から企業のコントロールが離れて、資金調達がエクイティ調達から負債調達に変化して、巨額の負債で買収してリストラすると株価が上がるようになり、リストラ対象になりそうな会社の株を買い占めるリスク・アービトラージという職業が生まれた。しかし80年代に負債を山ほど抱えた企業の多くは90年代に資金繰りに行き詰って、ジャンクボンド市場が崩壊する。▼グローバルファイナンス▼70年代は銀行は独立主権国家は破産しないから手堅い融資だと思って第三世界に金を貸していたが、80年代は債務国が借金を返せなくて債務危機が起きた。89年に財務長官がブレイディ・ディールで債務を棒引きしたら発展途上国がエマージング市場扱いされて、多国籍企業が直接投資するようになる。●感想全体的に80-90年代のアメリカ経済の話で今となっては時代遅れの部分もあるし、日本について書いてある部分も少ないので、安い古本しか読めない貧乏人以外は他の新しい本を読んだほうがよいと思う。貿易赤字が続くと保護貿易に向かうよというのは当たっていて、トランプは保護貿易をするようになった。さて今の日本の経済について考えてみることにする。クルーグマンや日銀副総裁の岩田規久男とかのリフレ派の経済学者は日銀が異次元の金融緩和を続けているのに2年で物価安定目標2%を達成できなくて、理論通りにうまくいかなくて面目を失った。じゃあなぜリフレ派は間違ったのかというと、リフレ派が見落としているのは有期雇用の割合が1986年の16.6%から2017年の37.3%に大幅に増えていることだと思う。総務省統計局の労働力調査によると2017年の雇用者5460万人のうち正規の職員・従業員は3423万人で、非正規の職員・従業員は2036万人である。「第3表 仕事からの収入(年間),雇用形態別雇用者数」によると、非正規の職員・従業員の74%くらいが年収199万円以下で、正規雇用と非正規雇用の所得格差がはっきりと出ている。日本での生産性、所得分配、失業の問題を考えた時に、不安定で低賃金な有期雇用の労働者が失業者としてカウントされないことが問題になる。労働力調査によると2018年11月の完全失業率は2.5%で、政府はいざなぎ越えの好景気だというけれど、有期雇用の労働者の割合が多いうえにその大半が低収入なので好景気の実感はまったくない。日本だとハローワークに登録して失業者認定を受けないと統計上の失業者扱いされないし、ハローワークはタダで求人を載せられるぶんだけブラック企業の釣り求人が多くて求人媒体としてはほとんど役に立たなくて求職者は失業保険をもらう以外にハローワークを使うメリットがないので、完全失業率が2.5%だといっても実際の失業者はデータより多くなる。有期雇用だと職場を転々として熟練者としての技能が身につかず、企業は経験者だけほしがって資格取得とかの社員教育に投資しようとせず、長時間労働が常態化して勉強時間がないので生産性が上がらないし、表面上の失業率は低くても有期雇用の非熟練労働者は企業間で人材の奪い合いにならないので給料は上がらないし、有期雇用だとローンが組めないので家や車のような高い物が売れないし、アベノミクスで富裕層が増えたといっても貧困層の分まで何個も家や車を買って子供を何十人も産むわけでもないし、有期雇用だとたいてい最低賃金すれすれの給料でボーナスが出なくて所得が上がらないので消費税が増えた分だけ消費を減らさざるをえなくて、表面上の失業率はかなり低いのに可処分所得が増えていないのでインフレは起きなくてデフレが続くことになる。終身雇用で有期雇用の割合が低かった昭和時代なら金融緩和をして金利が下がって企業の業績がよくなったら労組が賃上げ要求をして賃金が上がってインフレになったかもしれないけれど、有期雇用が多い現代だと労組がなくてストや団交がないので賃上げにつながらなくて、企業は過去最高の収益を上げても内部留保を貯める一方で従業員に還元しない。日銀がETFを買って日経平均株価が上がっても投資に回す余剰資金がない貧乏人には何の恩恵もないし、マイナス金利になっても担保になる資産がない貧乏人は銀行から金を借りて起業や投資をすることもできないので、トリクルダウンは起きずに金持ちと貧乏人の格差が広がるだけだった。日銀はインフレ目標を達成できなくても責任をとって辞任したり報酬を返上したりするわけでもなく、出口戦略のない金融緩和を延々と続けて高い報酬をもらい続けているけれど、失敗を認めなければ失敗じゃないというやり方はモラルハザードじゃなかろうか。それにインフレにしたいなら失業率が下がって人手不足になって賃金が上がるほうがいいのに、自民党が人手不足対策として外国人労働者を入れて低賃金競争をしようとするのは政策がちぐはぐで何がしたいのか意味が分からない。派遣社員数は約129万人で労働者の割合としては2.4%で低いけれど、派遣業は設備投資せずに利益がでるので儲かるようで、竹中平蔵が政商と呼ばれるほど政治経済に影響力を持っている。長岡藩の小林虎三郎の米百表の精神というのは本来は未来を担う若者の教育に投資するために大人が辛抱することだったのに、小泉・竹中コンビはその真逆をやって、ローンを抱えた中高年正社員の雇用を維持するために若者への投資を減らして若者を非正規雇用で使い捨てて辛抱させた。小泉・竹中が非正規雇用を常態化させて若者の所得を下げて少子化を促進させた元凶ともいえる。労働者を低賃金で使いつぶして儲けたい人たちが政治経済に影響力をもっているうちは何の政策をやってもインフレや少子化対策は無理である。入管法改正は移民との低賃金競争でのデフレや治安悪化以上の悪影響があるかもしれない。自衛隊も年齢制限があるうえに仕事がきついせいで人手不足だけれど、憲法が改正されて入管法がさらに改悪されたら外国人傭兵部隊が運用されるようになるのかもしれないし、移民が増えて治安が悪化するのを口実にして一般人に銃の所持が許可されて軍事産業が拡大するのかもしれないし、予備自衛官を派遣するような警備会社がでてきて金持ちが私設軍隊を持てるようになるのかもしれない。防衛や治安維持のために警察や自衛隊以外に民間派遣会社の傭兵部隊が必要なのだということになれば、税金で派遣会社が儲かって政治家に献金として還元される永久機関ができあがる。そうなったらデモが武力鎮圧されて、庶民が権力者に逆らえなくなるバビロンシステムが完成する。なんてこった。★★★☆☆クルーグマン教授の経済入門 (ちくま学芸文庫) [ ポール・R.クルーグマン ]
2019.01.09
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アラサー校閲者の女がしょぼいおっさんに恋する話。●あらすじ1:零細出版社で校閲の仕事をしている34歳の入江冬子は同僚からハブられていて、大手出版社勤務の同い年の石川聖(女)に仕事への姿勢をほめられたので3年前に退社してフリーランスになる。2:9年前の冬に25歳の誕生日に真夜中を歩いてから毎年誕生日の夜に散歩をしばくようになる。聖と酒をしばいて愚痴を聞かされる。3:仕事を終えたらカルチャーセンターの講座が気になる。4:カルチャーセンターをしばいてゲロを吐いたときに50代の高校の物理教師の三束(みつつか)とぶつかって、鞄もなくしたので三束に金を借りて茶をしばいてお互いに光が好きだという。5:三束が夏休みになったので茶をしばいて本をもらって、聖から恋バナを聞く。6:高校三年生のときに水野くんの家をしばいて初セックスをしたら、ぼんやり生きてるのを見るといらいらするとキレられる。7:安酒を飲んでいたら恭子から前の会社の上司が死んだと連絡が来たので通夜をしばくと、聖は正論を言うけどもめ事が多いし男癖が悪いから利用されないように気をつけろと恭子に忠告される。8:三束と茶をしばいて光について話してショパンのCDをもらい、授業がない毎週木曜日に茶をしばく仲になる。9:15年ぶりに高校の同級生の早川典子に会って昼飯をしばいたら、子供ができてからセックスレスで旦那が浮気していると典子に相談される。月曜なのに三束と会ったので茶をしばいて、酒を飲まないと会話できないと打ち明ける。10:11月に片頭痛で仕事量を減らして酒を飲むのをやめて、三束が好きで会うのがつらくなったので茶をしばかなくなるものの、今までの人生で自分でなにも選択してこなかったことを反省して三束に電話して恋愛感情を確認する。11:聖にもらったお古の服でめかしこんでハイソなレストランで三束と晩飯をしばいて、三束に愛を告白して誕生日の真夜中に一緒に歩くように頼む。12:アパートに戻ったら聖がいて見てるといらいらすると絡まれて、聖に友達になりたいと泣かれる。13:妊娠した聖と37歳の誕生日を祝う。2年前の誕生日の真夜中に三束は来なくて、高校教師だというのは嘘だと打ち明ける手紙が来てそれきりだった。●感想冬子(わたし)の一人称。誰に対してなぜ語っているのかというナラトロジーの始末ができていない不自然な一人称になっているので、三束に宛てた手紙だとか何かしら語る口実をつくるべき。わたしを冬子に変えて三人称でも成り立つ文章なので、だったら三人称で書くほうがまし。いつの時代の出来事なのかも不明で、たとえば団塊の世代の34歳とバブル世代の34歳と就職氷河期世代の34歳だと恋愛観や結婚観が違うので、34歳と年齢を特定するだけでは書き方が不十分で、時代も特定しないとアクチュアリティがなくなる。仕事内容を掘り下げていけば校閲の職業紹介として面白くなる可能性もあったけれど、職場でぼっちでフリーランスになったという設定のせいでそっちの掘り下げは足りなくて仕事の特殊性が物語の面白さにつながっていないし、作家が取材しやすい出版業界の職業に逃げたようでよくない。校閲と校正の違いを掘り下げるくらいはやってほしい。校閲業界だけだと話が広がらないので結局他の登場人物を加えるためにカルチャーセンターという外部要素を持ち出してこないといけなくなって物語が遠回りしたうえに結局カルチャーセンターにも行かなくて、主人公が校閲者である必然性もなくなって、デートもたいてい茶をしばくだけで退屈。主人公が誤植のない本はないと言っているのであえて誤植だらけにして三束が三東や三吏になったりする間違い探しするような遊びを入れるやり方もあったかもしれないけれど、そういう遊び心もない。異化やマジックリアリズムや不条理といった文学らしい遊びもないので技法的な見どころがない。性欲や結婚や妊娠や育児といった恋愛にまつわる諸要素を掘り下げるようなはっきりしたテーゼもなくて、聖のヤリマンや典子のセックスレスとかを浅くちりばめてそれに対する冬子の意見がなくてアンチテーゼやジンテーゼもないので、思想的な見どころもない。冬と夜と光とクリスマスと別れというサンボリズム的な感傷を強調する月並みな恋愛小説になっている。物語は展開が遅いうえにたいした出来事が起きなくて、350ページほどの小説なのに半分を過ぎても三束と茶をしばく程度の関係にしか進展していないし、何か事件が起きるわけでもなくて濡れ場もないので恋愛小説としての山場がない。文章は丁寧に書いてあって聖の自己愛性人格障害っぷりに特徴がよく出ているのはよいけれど、話が退屈すぎるのがよくない。女性読者なら取るに足らないような些細な会話から垣間見える人間関係の距離感が面白いのかもしれないけれど、私はプロットがない小説は退屈すぎて飽きてしまう。冬子は悪い人ではないれど人間的な魅力がなくて、感情の起伏が乏しくてユーモアもウィットも色気も愛嬌もなくてぼんやり生きているアラサーのボッチがどういう恋愛をしようがどういう仕事をしようがどうでもよくなって興味がなくなる。もしこの小説が三人称なら冬子と聖の恋愛を比較したり、冬子と三束を交互に書いたりするような演出の仕方もあるので物語に起伏をつけて見せ場が作れるけれど、一人称にしてしまったせいで冬子の目的のない自分語りが延々と続く構図になって読者の興味を引くための工夫が足りなくて映画なら10分で見るのをやめるレベルでつまらない。それに最後まで読んだところでクライマックスが聖にとられて結局恋愛の話でなくて友情の話になっていて、話の着地点がおかしい。女性が人生の選択をするという点にしても、たぶん冬子のようなぼんやりした読者以外は30代になる前にとっくに人生の選択をしてきて冬子を見ていていらいらする側だと思うし、そういう点で読者を選ぶ小説である。主人公が20代ならぼんやりするのもまだわかるけれど、婚期が過ぎているのに高校生みたいなどんくさい恋愛をするのはぼんやりしすぎだろう。帯に太田光の「天才が紡ぐ繊細な物語に超感動、美しい表現はもはや言葉の芸術」と変な誉め言葉を書いているけれど、そもそも小説は言葉の芸術なのが当たり前で、言葉の芸術じゃなかったら値段をつけて売るレベルでない。言葉の芸術であるという当然のことを門外漢の芸人がいちいち褒めて天才扱いしないといけないほど文学のレベルは落ちているということになる。帯には「芥川賞作家が渾身で描く、究極の恋愛。」というキャッチフレーズも書いてあるけれど、究極の恋愛ってなんだとこの帯を書いた人に聞きたい。どこがどう究極で、誰にとって究極なんだ。これが究極の恋愛なら講談社の他の恋愛小説は究極未満の恋愛なので読む価値ないのだろうか。というわけで誇大広告のぶんだけ評価を減らした。出版社は頭が弱い人を煽るような誇大広告をやめて、帯くらいまじめに書いたらどうなんだ。★★☆☆☆すべて真夜中の恋人たち【電子書籍】[ 川上未映子 ]
2019.01.06
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