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小説の説明と描写の書き方を解説した動画をアップロードしました。漫画家が絵を描く時にネームを作ってからペン入れしたり、映画で絵コンテを作ってから本番を撮影したりするように、小説を書く時もいきなり精密な描写しようとせずに、ざっくりと描写して場面がどのくらいの文章量になりそうなのか全体像を把握してから精密な描写を書き直すと、場面ごとに極端に描写量が違って全体の統一感がなくなったり、終盤で疲れて描写がスカスカになったりするような失敗を防げるんじゃないかと思います。
2019.08.25
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芥川賞の候補作になった古市憲寿の「百の夜は跳ねて」は徹夜麻雀してハネマンになる話ではなくて高層ビルの窓拭きの話だそうで、参考文献として木村友祐の「天空の絵描きたち」という高層ビルの窓拭きについて書いた小説を挙げている。そのことで選考委員の山田詠美、川上弘美、吉田修一、堀江敏幸から酷評されているようである。川上弘美は「古市さんのおこなったことは、ものを創り出そうとする者としての矜持に欠ける行為であると、わたしは思います」と創作姿勢そのものを批判している。木村友祐は「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。」と言っているので、盗作には当たらないし、選考委員も盗作とは言っていない。ではなぜこれほどぼろくそに批判されたのか。私は「百の夜は跳ねて」も「天空の絵描きたち」も読んでいないけれど、酷評されるような小説が賞レースの候補になること自体がおかしいので、これについて考えることにした。●参考文献の何がダメなのか小説の参考文献として別の現代の小説を挙げるということ自体がまず純文学としてはおかしい行為である。引用するために参考文献として挙げたわけでもなさそうなので、古市がなぜ小説を参考文献扱いしたのかよくわからない。モチーフが似てるけど参考文献に挙げてるから盗作じゃないし問題ないよねという感覚なのだろうか。昔なら芥川龍之介や井上靖のように外国の古典を翻案して日本語の小説として日本人に紹介するのは小説としてのオリジナリティがないとしても文化的に意義がある行為だった。しかし現代は他の作家がすでに語ったことを別の語り口で語りなおしたところで価値はない。盗作か否かという問題ではなく、盗作でないとしても独自性がないものは芸術としての価値がないのである。木村友祐が「窓拭きの細部以外は、ぼくの作品と古市さんの作品は別のものです。」と言っても、窓拭きの細部が同じなら駄目である。堀江敏幸が「他者の小説の、最も重要な部分をかっぱいでも、ガラスは濁るだけではないか」というように、細部どころか重要な部分を流用したのならなおさら駄目である。作家が現実を見る眼を持たずに、小説を参考にして小説っぽいものを書くのは芸術表現ではない。それをわかっていない人が知的な肩書がほしくて作家になろうとして、自分の表現ではない小説っぽいものを要領よくでっちあげて賞レースに参加するのが問題である。これは北条裕子の「美しい顔」も同様で、参考文献として記載すればよいというものではない。選考委員は古市をよそからやってきたお客さんとして適当に褒めて気分よく帰ってもらうということもできたかもしれないけれど、そうしないで酷評するのはものを創り出そうとする者としての矜持があるからだし、こんなもの候補に上げるなという編集者へのメッセージかもしれない。芸能人や有名人が小説を書いてはいけないというわけではないけれど、小説にたいして興味がないくせに小説を金儲けの手段として利用することに反発はあって当然である。●編集者は何をやっているんだ文学書の候補作を選ぶのは編集者なので、問題がある作品や低レベルな作品が候補になるのは編集者にも問題がある。直木賞でSEKAI NO OWARIのなんちゃらという人が候補になったのは編集者がファンだったからという理由らしいけれど、これでは文学賞の私物化である。選考委員が質の低い候補作をきちんと批判できているからまだよいけれど、質の低い作品を推すような見る眼のない編集者は候補作の選定から除外してほしい。候補になるだけでも作家のモチベーションになるけれど、有名人のコネで枠が一つ埋まるのでは作家が報われない。編集者が作家に恥をかかせたくなかったら、酷評されるような作品は賞レースに推してはいけない。有名人を作家として売り出したいなら、多くの作家と接してきた編集者こそが作家としての心構えを教えてやる役割を果たすべきだろうに、話題になればいいやという態度で賞レースに参加させるのは無責任である。編集者が文学的感性を持つ目利きでないなら、編集者の存在意義はないではないか。そもそも純文学に芸術としての価値があるなら話題作りなんかしなくても読者は純文学を読む。わざわざ有名人に下手な小説を書かせて目先の話題作りをしても、編集者にコネがあればこの程度でも文学賞の候補になるのか、純文学というのはその程度の低レベルなものなのかとあきれられて、長期的には芸術としての価値を貶めることになる。出版社は漫画雑誌やファッション雑誌の編集者になりたい人が多くて文芸誌の編集者の志望が少ないそうだけれど、小説を見る眼がない人でも部署異動で文芸誌担当になってしまうし、文芸誌の編集者志望なのに小説を見る眼がないならなおさら救いようがない。見る眼がない編集者がいること自体が小説の劣化の原因だと私は思う。●現代文学ってなんだジャンル小説はジャンル特有の専門知識が必要だけれど、純文学はノンジャンルでやれるので、うわべを取り繕うのがうまくて中身がない人を呼び寄せているようである。そのせいか純文学はジャンル小説としては勝負できないSF風純文学やらファンタジー風純文学やらのエンタメもどきのスリップストリームの吹き溜まりになりつつある。じゃあそれはどんな読者にとって面白いのか。ジャンル小説が好きな読者は最初からジャンル小説を読むし、わざわざスリップストリームを読む理由がないではないか。20世紀前半は大きな戦争があって世界中で独立運動が起きたり共産主義が台頭したり冷戦が起きたりした激動の時代だったので、時代の寵児というようなカリスマがある作家がいた。しかし現代の純文学作家は何をやってるんだろう。日本はバブル後に問題を先送りして失われた20年というくらい何もない状態だった。小説家が現代社会の問題に向き合わないで言葉いじりをしたり身の回りの出来事を書いたりしたところで、現代社会の問題に対処するのに必死な一般人はそんな小説は読まなくても人生になんの影響もない。現代文学というのが単に現代に書かれたというだけで、現代社会について書いていないなら、それは現代に読む必然性はないのではないか。現にほとんどの日本人は純文学を読んでいないし、芥川賞受賞作に興味を持つ人がいても作家のファンになってその後の作品を買い続けるというわけでもない。他人の日常を知りたいならエッセイを買わなくてもブログが見れるし、娯楽としてなら小説よりも漫画のほうが面白いし、何か珍しいものを見たいならYouTubeで外国の動画でも見ればよいし、現代文学は他のメディアが提供できない独自の価値を提供できていないのである。現代社会を見る眼がない社会学者が小説を参考文献にして小説を書いたというあたりに今回の芥川賞の面白さがあって、古市こそ空っぽの現代を象徴している存在ともいえるし、逆説的に最高の現代文学を書いたともいえる。
2019.08.20
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物語論に基づく一人称と三人称の小説の書き方を解説した動画をアップロードしました。一人称の小説で私が下手だなと思うのは語り手が語る動機がないのに語る場合で、たぶん作者は三人称で小説を書けないので語る動機を突き詰めないまま一人称で書いているのでしょうが、リアリティがない一人称にするくらいなら三人称で書くほうがましです。電車に乗る猫のうたも作曲しました。スピーカーで聞くとそれなりにうまく弾けたような気がするのに、ヘッドホンで聞くととても聞けたもんじゃない下手な演奏になっています。新しい演奏方法でやれることを模索中なので、下手なのは気にしてもしょうがないのです。
2019.08.11
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大阪芸術大学の純丘曜彰教授が学園物は「中高の共通体験以上の自分の個人の人生が空っぽな者、いや、イジメや引きこもりで中高の一般的な共通体験さえも持つことができなかった者が、精神的に中高時代に留まり続けるよすが」だと考察して「偽の夢を売って弱者や敗者を精神的に搾取し続け、自分たち自身も中毒に染まるというのは、麻薬の売人以下だ」というコラムを書いて批判されたそうで、コラムが非公開になった。元京都アニメーションの監督だった山本寛は「どんな危険を孕んでいるか想像もつかない「狂気」を自ら招き入れ、無批判に商売の道具にした時点で、僕たちの命運は決まっていたのだ。」とオタクに媚びる商売のやり方を批判している。私は学園物のアニメも漫画もリアリティがないと思うのであまり見ないのだけれど、好きな人は聖地巡礼として物語の舞台を訪ねるほどはまるようである。というわけで学園物について考えることにした。●学園物の特徴・展開パターンが決まっている主人公が学校に入学したり、部活に入ったり、転校生が来たりすることで物語が始まって、同級生とのトラブルやら他校とのライバル関係やら恋愛やらですったもんだして、途中で修学旅行や学園祭やバレンタインデーや夏休みの夏祭りイベントがあったり後輩が増えたりして人間関係が変化して、インターハイの結果や卒業や恋愛成就で物語が終わる。・登場人物が美男美女に美化されているたいてい美男美女が主人公で、映えないデブやブスはネタ要員として脇役に使われるか、あるいは物語に登場しない。視聴者は美男美女の主人公に感情移入することで、自分が体験できなかった青春のやり直しを疑似体験できる。・登場人物に大人がいない教師以外の大人はほとんど物語に出てこなくて、子供の世界として閉じている。自分を上から目線で否定する存在がいないので、クラス一の秀才だの番長だのの閉じた世界の頂点に立って子供っぽい万能感を肯定できる。異世界転生して魔法学園に入学して俺ツエー系の物語は万能感を極端に誇張した展開といえる。・作品のターゲット層が主人公と同年代なので共感されやすい作品のターゲット層は主人公と同年代の未成年で、たいていの人は中学や高校に行って学校がどういうものか知っているので共感しやすいし、たいていの人は自分の母校以外の学校のことについてはあまり知らないので、金持ちだけが集まる私立なんちゃら学園とかのリアリティがないものでも受け入れやすい。ただし深夜アニメのエロまじりの学園物は未成年よりも大学生以上の青年や中年の男性がターゲットになる。・制作コストが低い校舎や制服の資料は集めやすくて現地取材が必要ないし、中高生の間で流行っている時事ネタはネットで調べられるので制作に専門知識が必要ない。・プロットを作りやすい精神的に未熟な未成年が登場人物なので、喧嘩やらいじめやらで山場を作りやすいし、問題を克服してクラスで協力するような感動的な結末にしやすい。そのうえクラスメートが多いのでエピソードを増やしやすい。同じ学校だと登場人物の知識レベルや生活習慣が同程度なので、部活やデスゲームなどの同じ条件で戦うような展開にしやすい。大学だとクラスとしてのまとまりや同調圧力がないし、大学1年と4年は知識や経済力の違いが大きくなるので同じ条件で戦うような展開にしにくくなる。社会人だとなおさら個々人の違いが大きくなって、プロットをまとめにくくなる。中学生以下だと子供過ぎて行動範囲が狭いし、大学生以上だと行動範囲が広すぎるので、ほどほどに世間を知っているけれど金儲けのつらさはまだ知らずにのんきに夢を見て学校の周辺をぶらつく高校生というのは物語を作るのにちょうどいい存在なのである。・キャラ付けがしやすい高校生は登場人物の部活を分けることでキャラ付けがしやすい。学級委員長やお嬢様や脳筋スポーツマンや不良などのステレオタイプのキャラ付けでも通用する。大学生や社会人だとステレオタイプなキャラ付けをするとリアリティがなくなってしまうので、キャラ付けで差別化しにくくなる。・ドラマ化しやすい学園物は若手俳優やアイドルを大勢起用してテレビドラマにしやすいし、芸能人に憧れる中高生の話題になりやすい。芸能事務所にしたらバーターしやすいし、コメディ系なら演技の質はあまり問われないので出演実績を作りやすい。以上をまとめると、学園物はテンプレ展開で低コストで簡単に制作できるうえにターゲット層にアピールしやすいので量産されているといえる。●私が学園物が好きでない理由・既視感があって面白くないたいていの学園物はラブコメやスポ根や日常系やデスゲームなどのテンプレ展開で、わざわざ見たいと思うほどの内容がない。・登場人物が大人にならない私は『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』や『クレヨンしんちゃん』のような登場人物が歳をとらなくて成長しない物語が嫌いなのだけれど、学園物も登場人物が大人にならないという点では似たようなものである。学園物は学校生活だけを物語にして、その後どういう大人になってどういう仕事をしているのかというところまで追及しない。現実は高校で付き合ったからといってそのまま結婚するわけでもないし、インターハイに出たからといってプロスポーツ選手になるわけでもないけれど、学園物は大人の世界をまねたままごとだけで終わってしまっていて、物語として不完全なのである。・過剰な美化が気に入らない私はアニメが安易に現実を美化するのには否定的である。特に学園物は美男美女が付き合ったり別れたりして青春をするのが至高の体験みたいに美化するけれど、別に平凡な学校生活でもよいではないか。子供時代がどうだったかということより、大人になってから何をするのかということのほうが人生にとって大事である。というわけで学園物のフィクションはもし私が中学生や高校生の時に見たら面白かったのかもしれないけれど、私はおっさんになって作品のターゲット層からはずれているし面白いと思わないのであまり見ない。●学園物の美化による現実世界の認識の問題スタジオジブリの高畑勲監督がアニメによる現実世界の美化に否定的だったけれど、この美化の否定は文学がたどってきた道でもある。19世紀に過激な恋愛や復讐をしたりする波乱万丈なロマン主義小説が流行って人間の欲望を煽る低俗な娯楽とみなされて、その後は美化の否定としての自然主義に至った。しかし日本の純文学は作家のふしだらな生活を露悪的に書く低俗な私小説に陥って、作家が自分の周囲だけ見るようになって政治や経済などの広い世界を見る目をなくして自然主義は行き詰って、作家は現実に向き合うことをやめてヌーヴォー・ロマンの実験小説やポストモダニズムの言葉遊びのようなフィクションとしての面白さを追及するようになって、石原慎太郎が円城塔が評価されたことで芥川賞の選考委員を辞めたように、現実に向き合ったリアルな小説を望んでいる読者は純文学を見放した。純文学と違ってアニメが現実を美化したロマン主義的な学園物を量産しても飽きられないのは、それを喜んで買う層がいるからである。売れるのが良いことなのかというと、そうともいえない。人間の人格形成としてはまず現実を見る目を育ててからフィクションを娯楽として楽しむべきなのに、子供の頃からフィクション漬けで育ってきた現代人は現実を見る目が乏しくなってしまう。家と学校を往復するだけの社会性が乏しい生活をしていると現実社会を見る目が育たないので、美化されて居心地の良いフィクションの世界から離れられなくなる。世界中でアニメオタクが幼稚な人として馬鹿にされる原因はそこにある。フィクションのキャラクターを理想化して現実を醜いものとしてとらえて人間に対する認識がゆがむと、ミソジニーの助長になりかねない。パリを美化した日本人女性がフランスに行って現実を見てショックを受けるパリ症候群というのがあるように、美化で現実の認識をゆがめたぶん、後で現実に向き合ったときにその反動を受けることになる。漫画やアニメのキャラクターの抱き枕はモテない人の慰めにはなるだろうけれど、現実世界でモテるようになる努力にはつながらないし、そうなるとますますフィクションに依存するようになってしまう。人間同士なら対話ができるし問題があったら歩み寄ることができるけれど、漫画やアニメのキャラクターは一方的に話すだけで、オタクの声はキャラクターには届かなくて対話が成立しない。だからこそ一部のアニメオタクはクリエイターを恫喝して自分の思い通りのキャラクターにしようとしたり、好きなキャラクターに恋人ができる展開になると暴れたりする。二次元キャラクターを嫁と呼んだりして、作品を鑑賞の対象にするのでなく自分の所有物にしようとするのはのは現実の認識がゆがんでいるといえる。京都アニメーションの放火事件をきっかけにして、クリエイターたちは美化されたきれいなものを見せるだけでなく、現実世界の四苦八苦にどう対処して克服していくかということに向き合わないといけないことを自覚したはずである。●現実逃避はだめなのか私は気晴らしとして一時的に現実から目を背けてストレスを解消するという点でどんな娯楽でも役に立つと思うけれど、それが依存の対象になってしまってはいけない。要するに程度問題で、塩分や水分は人体に必要だけれど大量に摂取したら健康を害するし、劇薬でも薄めれば薬として医療に役に立つように、何事にも薬と毒になる部分があって一概に良いとも悪いとも言えない。娯楽は人生に必要だけれど障害が出るほどのめり込んではいけない。依存というのは例えばオンラインゲームを辞められなくて生活に支障が出たり、生活保護費もらった日にパチスロに使い込んで家賃を払えなくなったり、母子家庭なのにジャニーズにのめりこんで子供の食費をコンサートに使い込んだり、会社の金を横領してホステスに貢ぐような場合である。金持ちなら好きなだけ娯楽に時間と金を使えばよいけれど、貧乏人が生活に支障が出るほど娯楽漬けになったらそれは幸福とはいえない。娯楽の問題はクリエイターが金儲けのために客に依存を促しかねない点である。ある程度利益が出ないとクリエイターが生活できないとはいえ、やたらと限定キャラクターグッズやら限定フィギュアやらを出してコンビニのくじの景品にして射幸心をあおったり、コレクションを全部コンプリートしたがる発達障害のこだわりを利用したりして、作品の内容の面白さを競うのではなく、キャラクターグッズでむやみに物欲を肥大させて金儲けするのはよくない。フィクションでは無制限に想像を拡張できるので、それをビジネスにして客の物欲や金銭欲を無制限に膨らませると、欲しいものが手に入らないストレスでアノミー的自殺につながってしまう。私はredditでアメリカ人の少年がけいおんのグッズが欲しいけど全部手に入らないから死にますと拙い日本語で遺書を書いて自殺した典型的なアノミー的自殺の例を見たことがある。けいおんを作った京都アニメーションがこの少年の自殺に直接責任があるというわけではないけれど、キャラクターグッズで欲を肥大させて儲ける手法は誰かの不幸につながる可能性もあるということは注意するべきだろう。どんな娯楽でも依存につながって不幸になる人を生み出してはいけない。娯楽の売り上げを競うのではなくて、娯楽が本当に人を幸福にして社会の役に立っているのかということを問うていかないと、娯楽が社会を荒廃させることにつながりかねない。オタクに変な人が目立つので漫画やアニメやゲームが批判の対象になりがちだけれど、これは娯楽全体に共通する問題だと思う。今のところ娯楽が依存にならないようにするのは消費者の自制心だのみになっているけれど、自制心があてにならないからこそパチスロやソーシャルゲームで破産する人が社会問題になる。フィクションには危険性があるという点ではイスラム教の偶像の禁止もある程度理解できるけれど、全否定や全肯定ではなく、節度をもった娯楽の楽しみ方を模索するのが健全である。ゲームのアバターやらVTuberやら顔の加工フィルターアプリやらの現実逃避しやすい環境も整っているし、テクノロジーが進化するほど人間が現実を見る目は乏しくなっていく。テクノロジーを後退させることはできないので、どうすれば現実を見て現実の人の痛みに向き合うことができるのか、現実世界での夢を与えることができるのか、単なる現実逃避にならないようにするのが今後のクリエイターの課題になるだろう。学園物という過去を逃げ場にして、おっさんがどうすれば現実で幸せになれるのかという夢を提示できない偏りが学園物に依存する問題点で、今後はおっさんが主人公の物語が増えて、おっさんが現実に向き合えるようになればよいと思う。
2019.08.01
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