がんサバイバー 0
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2002年8月21日(水)とうとう帰国の日がやってきた。7泊9日に及ぶアメリカの旅・・・ワシントンダレス空港からシカゴを経由して成田に向かう。過ぎてしまえばあっという間の7日間だった。2年ぶりに再会したTamaraともここでお別れ。ダレス空港には一般車は午前か午後かどっちだったか、一人で運転することが出来ないらしい。送って行ってあげたいけれど、帰りが一人になるので送ってあげられないと申し訳なさそうに言うTamara。忙しい中私たちのために一日付き合ってくれてそれだけで十分と、タクシーを頼んだ。午前10時の飛行機なので、朝7時過ぎにはアパートを出なければならず、あわただしく準備した。Tamaraらしい部屋のインテリアをカメラに写す。(壁のいたるところに美しい写真が貼られているのは、富山のアパートでも同じ。右下の写真の茶色の細長いものは、琴です。帰国の日、富山駅からえんやこらと運んでいたのを思い出します)タクシーというよりは黒塗りの高級車ハイヤーがやってきて、ドライバーもとってもジェントルマン。Tamaraの勧め通りチップも弾んで料金を払うととても喜んでくれた。こうして午前10時ワシントンを発ち、シカゴを経由して成田へは翌日22日午後4時半ごろ到着。富山へは午後11時過ぎについてようやく長い旅は終わったのでした。 憧れのアメリカ。遠い遠い国。駆け足の旅でしたが、会いたい人に会え、アメリカの人々の生活の一端に触れ、何より私たちを心から迎えてくれる温かさに触れ、満たされた思いで一杯になりました。会って別れたばかりなのに、またいつか会えるかしらともう再会を夢見ていました。ハワイでは味わえなかった人とのふれあいに、自分の望んでいたのはこういうことだと再確認・・・ありがとう!ありがとう!ありがとう!心から感謝です。 いつかまた訪れる日を夢見て... So Long~ おわり
2009.02.05
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リンカーン記念館を出て、最後に向かったのがベトナム戦争、朝鮮戦争の記念公園。たくさんの戦争犠牲者を追悼している。 中央の写真右(これは絵葉書)に見える通路の壁一面にベトナム戦争犠牲者の名前が刻まれている。たくさんの若者が命を落としたのです。下から2段目の写真は私が写した写真。石の表面はつるつるに光って鏡のように見えるが、近寄るとぎっしりと名前が刻まれている。ここに刻まれてある名前が肉親のものだったら、きっと辛いこと・・・戦争なんて、無意味だとつくづく思った。その悲惨な戦争を忘れないためにこうして公園が作られているのに、戦争はなくなりませんね。アメリカ発の。大義名分があるから?悲しむ人がいない世の中になることを望みます。公園の片隅のベンチに座って、歩き疲れた体を休めた私たち。Tamaraがいつか子供が生まれたら、Willow(柳)って言う名前をつけたいと話を聞いて、柳の木がWillowっていうことを知った。もうすぐ終わるアメリカの旅・・・この光景を忘れないと目の前に広がるのどかな風景を目に焼き付けた。(なのに今となっては、写真がないと思いだせない。写真のおかげでその時のことが蘇ってくる。何でも写しといてよかった・・・)
2009.02.02
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ワシントンモニュメントを後にし、池の対岸をめざして歩き始めました。向かうは、有名な大統領を記念して建てられた記念館や、記念碑。最初にジェファーソン大統領の記念館にやってきました。合衆国の第3代大統領で2大政党の一つ民主党を作った人だそうです。円形の美しい建物でした。行く先々でどっかりと腰を下ろし、休まずにはいられない私たち。あそこから歩いてきたんだね、と池の向こうのモニュメントを眺めました。次に向かったのは、ルーズベルト大統領の記念碑です。どこを見ても美しい公園でした。重い足を引きずり次に向かったのは、リンカーン記念館です。ジェファーソン記念館、ルーズベルト記念碑に比べて、さらに格調高い石造りの大きな建物の中に、リンカーン大統領の像がありました。リンカーン・・・大きいです!壁には一面に、リンカーンの演説が彫りこまれていました。オバマ大統領の歓迎式典でリンカーン記念館が映っていて、懐かしい思いと共に、今もアメリカ国民に尊敬され続けていることを感じました。遠足?研修?たくさんの若者の集団が、訪れていました。
2009.01.29
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やってきました!ホワイトハウス!オバマ新大統領は、ここに入るんですよ。そこをこの目で見てきたのは6年前のこと。このときは、9.11テロの1年後だったので、警備は厳しく中へは入れなかった。残念!観光客はフェンス沿いに美しい庭園の向こうにたたずむ白亜の建物をじっと眺めていた。ペンシルバニア通りから見えるホワイトハウス ↓上の写真のワシントンモニュメントは、ホワイトハウスの南門から後ろを振り返って見たもの。結構近くにあるのです。このあと、モニュメントに向かいました。下は、南門から見たホワイトハウス。上の写真は絵葉書からとったもの。Tamaraがアサリに「Smile!」、「Smaile!」と何度も声をかけるので、この頃はにっこりするようになっていた。笑えばかわいい女の子なんです!(親バカ?)やっとたどり着いたモニュメント。中は何もないのだったか、中へ入って上る元気はなく疲れて座り込んだ私たち。真ん中中央の写真の奥に小さく見えるのが議事堂で、そこから歩いてきたのだ。よく歩いたもんだとわれながら感心・・・
2009.01.20
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2002年8月20日(火)この日は、ワシントンDC巡りの一日。アパートのそばのスターバックスで軽く食事をとってから地下鉄に乗って出かける。後ろの茶色い建物がTamaraのアパート。友人とルームシェアで住んでいるそうな。広い部屋でゆったりしたつくりだが、アパート自体は古くて家賃もその広さの割には安いらしい。地下鉄を降りて歩き始めると、広くゆったりとした道の両サイドには、石造りの重厚な建物が並んでいて圧倒される。建築の素晴らしさに感動・・・真ん中右の写真でTamaraの右手奥に見える建物が、これから向かうCapitol Hill(国会議事堂)。え~、あんな遠くまで行くの?ともはや歩くのに疲れて弱音を吐いている私でした。振り返るとワシントンモニュメントがそびえ立っている。ワシントンのシンボルらしい。日本に帰ってからNHKニュースでワシントンからの中継、というと当時のワシントン支局長の手嶋さんがこのワシントンモニュメントをバックに話しているのを何度も見た。見るたびにここに行ってきたんだと、暑い中歩き回った時の情景がよみがえり、懐かしかった。ようやく国会議事堂が目の前になり、手前の公園でしばし休憩。国会議事堂の美しさにため息・・・見とれました。すべてが芸術的です。右下は連結されたなが~いバス。こんなの狭い日本じゃ走れない、とパチリ! ワシントンのあちこちで工事中。世界の政治の中心として更に進化をめざしているようだった。街全体がゆったりしているので、歩いていても気持ちいい・・・疲れた体には街角にスタンドも立っていて、冷たい飲み物でのどを潤した。次はどこへ???
2009.01.12
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JFK空港で夫のマスオ君と息子のタイ君は日本に、私と娘のアサリはワシントンへと向かうことになる。ワシントンにはALTとして富山に赴任していたTamaraさんがいて、2年ぶりの再会。彼女は幼稚園の英語教室に月に一度来てくれていてとても仲良くなっていた。またアサリの中学校の先生でもあり、帰国の日にはアサリと二人で駅まで見送りに行ったことが昨日のことのようになつかしい。琴が好きで習っていたTamaraは琴を抱えて日本を後にしていた。富山駅でGood-byeとハグし合った時のさみしさが懐かしく思いだれる。先に出発のマスオ君とタイ君を見送り、国内便の搭乗口で時間を待つ。ワシントン行きの飛行機は通路を挟んで3席しかないバスよりも狭い小型の飛行機だった。その飛行機がゲートを離れて走り始め、いよいよ飛び立つのかと思っていたのに飛び立つ気配なく、全速力で走り続けるばかり。高速道路を走る高速バスのようだった。いったいいつ飛び立つんだろう、このまま走ってワシントンに行くんじゃないかしら、もしかして跳ぶこと知らないのかななんてとさえ思って可笑しくなったころようやく飛び立った。優に30分は走った気がした。なんて広い空港…写真の通路をはさんで右側が2席、左側が1席の小さな飛行機。 ↑ワシントンのダレス空港は、2回目。空港内の移動バスもまた会ったねとなつかしい。煙突のようについている角(つの?)が面白い。迎えに来てくれたTamaraを見てビックリ!!!! なんと彼女は金髪に!シリア生まれの彼女は、黒髪の持ち主だったのに・・・なんだか違う人見たい。違和感が・・・「どうして、金髪にしたの????」と思わず聞くと、Tamaraは「さざえちゃん、どうしてストレートにしたの?前知ってたさざえちゃんはパーマ姿だったのに…」と逆襲。そっか。私も2年の間にヘアチェンジしてイメージ変わってたかな。そう思うと一緒かな再会を祝って連れて行ってくれたのは、ギリシャ料理のレストラン。再会できた喜びを味わいおいしい食事に舌鼓を打ったのでした。
2008.12.15
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2002年8月19日(月)別れの日がやってきた。朝からセンチな気分で、そこここを目に焼き付ける。ダイニングルームの両隅にコーナーがあり、Jenniferさんがお母さんから譲り受けた陶器セットのお皿が飾られている。真ん中の写真は娘のKateさんが赤ちゃんの時の写真。 散歩に行ったRobertさんが、迷子の犬を抱えて帰ってくる。警察に連絡すると、しばらくして飼い主の女性が、犬を引き取りにやってくる。動物愛護の精神に感心・・・台所の窓から、裏庭で犬と触れ合うJenniferさんとJoshさん。親子のふれあいのひと時。広い庭があっていいな・・・オレゴンはとてもいいところだとJoshさん。美しいオレゴンの自然を写した写真をいただいた。眼鏡姿がなんだかジョン・レノンに似てると思ったのは気のせい?いよいよお別れの時。Joshさんはオレゴンに向かう飛行機に乗るためRobertさんがラ・ガーディア空港に送っていくことになり、私たちはJenniferさんの車でJFK空港に向かうため、ここでお別れ・・・精一杯心を込めて迎えてくださったRobertさんの気持ちに胸がいっぱいになり、ありがとうと涙がこみ上げる。 素敵なラブリーハウス。築76年の家。これが大都会ニューヨークにある。ほんとにいいな~。私もこんなところで毎日を過ごしたい・・・と思いながら最後のひと時を過ごす。Jenniferさんとの別れは突然やってきた。家を出て間もなく、車の調子がおかしいと道の脇に止め、車を降りたJenniferさん、「Oh,tire flat!」・・・ え?何?パンク・・・?近くのスタンドまで車をやり、そこでタクシーを呼んでくださる。すぐにやって来たタクシーに荷物を入れ替え、そこでお別れ。別れを惜しむ間もなく、あわただしい、あっという間の出来事。タクシーの中から手を振り、見送るJenniferさんの姿をじっと見続けたが、すぐに車は走りだし、Jenniferさんは見えなくなってしまった。見えなくなって、涙がどっとあふれた。さようなら。さようなら。さようなら。そしてありがとう・・・・JFK空港に向かう間、ニューヨークでの日々の一つ一つを思い出し、涙に浸った。感謝の思いに包まれて。
2008.12.10
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大リーグ観戦から戻るともう夕刻・・・今夜はどこかのレストランで食事よ、と聞いていたが、家に戻るとJenniferさんは冷蔵庫を開け、料理の本を開いて考えている。「今夜は、家で食事するのにしましょう。鶏肉があるから、これを作るわ」と本の写真を見せてくれた。 「OK! 私もお手伝いします!」と一緒に台所に立つ。留守番のアサリは、サンルームでテレビのアニメを見ながら持ってきた宿題に取り組んでいた。少しは元気になったのか・・・無愛想なお年頃家にGinger(ジンジャー)という名前の犬がいた。(右上の写真…黒い犬です) 捨て犬だったのを拾って来て世話をし、今ではとてもなついているよう・・・料理を作りながら、「次はジンジャー(しょうが)を入れて」とJenniferさん。「犬のジンジャーじゃないわよ」と笑って言う。ちゃんと意味がわかって嬉しい私。夕食後は、持っていったアルバムを見せたり、Jenniferさんたちの写真をみせてもらったり、ようやく落ち着いて話ができたひと時。英語は拙いはずだけど、言っていることがちゃんとわかって嬉しかった。この家には前年2001年の10月に引っ越したそうだが、家の歴史をいろいろと話してくれる。左上のメモ書きがそう。1926年に建った家。その後、台所のストーブ(ガスレンジ?)は1970年、天井は1986年、カウンター(流し台?)は、1990年、床は1970年に新しくしたものだそうだ。写真中央にあるメモ書きの絵は、今後サンルームを拡げてたくさんお客さんが来たときの食事のコーナーにし、そこから外に出られるようデッキをつなげたいという計画?を話してくれたときに描いたもの。素敵・・・いつか、そうなったのを見に来られたらいいな。家から持っていったビデオを見せる。父や母の姿に懐かしがるJenniferさん。その様子をビデオカメラで撮ってる私。今度会うとき、この映像を見て、このときのことを思い出せるね、というRobertさんの言葉に、いつか本当にそんな日が来たらいいなと思う。 そして、このあと嬉しいびっくりハプニングが・・・なんと、会えるはずのない息子のJoshさんとKateさんが、夜遅く来るというのだ。Joshさんは、オレゴンに、Kateさんはボストンにいるのだが、この日二人の幼馴染の結婚式のため、ワシントンに来ているという。そして、結婚式が終わったらそれぞれオレゴンやボストンに帰る予定だったのを、おじいさん(Robertさんの父)の具合が悪いからお見舞いすると言って、ニューヨークに向かってレンタカーを走らせているというのだ。実を言うと、前日のセントラルパークでも、この日の大リーグ観戦の時でも、頻繁にRobertさんに電話がかかっていたのだ。入院しているお父さんの具合がよくないことを知らせるお母さんからの電話のようだった。大変な時だったのに、私たちのために行動を共にしてくれて、Robertさんには心から感謝していた。だからといって、会えるなんてまったく思っていなかった子供たちにここニューヨークで会えるなんて、病気のおじいさんには申し訳ないが、素晴らしい偶然にびっくりし、とても感激した。そして、夜遅く、二人がやってくる。親子ともに、みんなが会うのはとても久しぶりのようで、互いにとても喜びあっていた。 こうして3日目の夜が更けていきました。明日はもうお別れです・・・
2008.12.09
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午後からは、ニューヨークメッツの試合を見に行く。アサリは旅の疲れ?でお留守番。ニューヨークでは、ヤンキースとメッツの試合は交互に行われるらしく、この月はメッツの試合が中心で、ヤンキースは遠征中のようだった。新庄選手がメッツに在籍したのは前年のこと。この年はいなくて残念・・・。スタジアムに向かう車の中で、「私を野球に連れてって」の歌の手ほどき・・・RobertさんもJenniferさんも一緒になって歌を聞かせてくれる。メロディは知っているけれど、英語で歌うとなるとやっぱり難しい。口が回らない・・・ニューヨークメッツのシェアスタジアム。とっても大きい。5万人が入れるらしい。この日も満員の観客だった。グランドと観客席が間近で、臨場感抜群・・・7回表が終わったところで「God Bress America」と「Take Me Out To The Ball Game(私を野球に連れてって)」の歌が・・・練習の成果なく、まったくついていけなかった!メッツはこの年弱くて、負け続け・・・この日の試合も盛り上がりなく負け試合になった。残念。新庄が去った後のメッツに関心はあまりなかったが、唯一知った選手が、マイク・ピアザ選手。野茂投手が大リーグに挑戦した年、ドジャーズで彼の球を受けていたキャッチャーで、私もその名前ぐらいは知っていた。でもそのことRobertさんに話しても、彼は知らなかったよう。
2008.12.07
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2002年8月18日(日)この日は、午後からニューヨークメッツの試合を見に行くことになっていた。午前中、車で10分くらいの海岸に連れて行ってくれる。それがとても美しい海岸なのだ。大西洋かと思ったら、そうではなく、内海のよう・・・我が日本海の海は暗くて、沿岸沿いは塩気で赤茶けていることが多いが、こちらの海は澄んでいて美しい。海岸沿いに建つ家々も大きな白い家が高級リゾート地のように建っている。この違いはなんだろう・・・海岸沿いは遊歩道が整備されていて、散策する人や、木陰のベンチでは海を眺めながら読書する人もいて、のんびりとした日曜の朝を楽しんでいる。木立の脇に、リスを見つける。リスなんて動物園でしか見たことないのに・・・と大感激!大都会のすぐそばなのに、森の小動物が当たり前に生息していることに、アメリカの豊かさを感じる。うらやましいね・・・
2008.12.05
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クルーズを終えた後は、バスでセントラルパークに向かう。広くてゆったりした公園・・・都会の真ん中にオアシスのよう・・・小1時間ほど散策する。(真ん中の写真は、カレンダーからとったもの。秋の気配ですね)その後向かったのは、メトロポリタン美術館。もうすでに夕方5時だった。1時間、自由に観覧することにし、その後美術館の中のレストランで食事してブロードウェイに向かうことにする。美術館はとても大きくて、1時間ごときではとても見きれない。私はマスオ君と二人で近代絵画の部屋から順に見ていった。公開手術の絵を見て、昔はこんな風に人の手術を見て医学を学んだんだ、と知る。すごい・・・2回から見た中庭。美術館の大きさに圧倒される。エジプト・メソポタミア文明のコーナーで、ミイラにかぶせるお面なんかも見た。1時間も歩きまわると、疲れてこの頃ぐったり・・・食事の後は、ブロードウェイに。「美女と野獣」を見に行く。初めて見るミュージカル。「美女と野獣」はとても素晴らしかった。日本語の吹き替えのヘッドホンもあったが、借りないで純粋に生の歌声に耳を傾けた。最後、醜い野獣が美しい青年に戻るところは圧巻。くるくると回転しながら容貌が変化していく。どうやって???びっくり。話も面白いが歌がとても素敵で、最後はウルウルと涙ぐんでしまった。感動・・・ブロードウェイの劇場を出て歩き始めると、遠くの方でパトカーやら救急車やらのサイレンの音がにぎやかに聞こえてくる。どこかで事故でもあったのかな、と思いながらタイムズスクエアのあたりにやってくると、赤信号で止まった目の前を、脚の長いサラブレッドに乗ったお巡りさんが、パッカパッカ、颯爽と目の前を駆け抜けていく。あっという間の一瞬の出来事。「あ、馬だ~!!!」と思う間もなく、車の間をすり抜けるようにして、サイレント音の鳴り響く方に駆けていった。ポカ~ン・・・・信号が変わって横断歩道を渡り終えたところで、Robertさんにこんなことはよくあるのかと尋ねてみたら、彼もびっくりした顔で、私も初めて見たと答えてくれ、なんという偶然、千歳一隅の出来事だったんだと2度びっくりした。シュワちゃんの出てくる映画でそんなシーンを見たことがあったが、まさか本当にニューヨークのど真ん中を馬が走ってくるなんてね・・・
2008.11.28
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1時間半のクルーズを終えて船を降りた後、Jenniferさんに乗船代がいくらかを聞いてみた。How much do I owe you?実は、この言葉は、ピンズラーの英会話のテープで学んだもの。前にも書いたが、英語ができるようになりたくて、いろんな教材に手を出してきた。6年前の夏、アメリカに行く直前に買ったのが、これ ↓English for Japanese Speakers (Pimsleur Language Program) このプログラムは、テキストが一切なく、聞こえてくる指示に従って繰り返し言葉を出して練習していくもの。初めは簡単な言葉から、少しずつ複雑なものへと難しくなっていくが、とにかく英語を口に出すという点では、とても良いという評判で購入した。アメリカに行く3週間前のこと。それから毎日、台所や車の中でテープを聞いてはぶつぶつと繰り返した。その中でなぜかとても心に残ったのが、前述のHow much do I owe you?のフレーズ。プログラムの最初のほうは日本語での指示で言葉を口に出していたが、レッスンが進むと指示も英語になり、英語で英語を理解するという流れになっていた。そのなかで、多分これはこういうときに使う言葉なんだなと推測し理解していったと思う。ものの値段を尋ねるとき、学校で習ったのは単にHow much is it?っていう言葉だったように思うが、誰かにお金を払いたいときに「いくら払えばいいですか?」と尋ねる感じかなと、自分なりに理解した。そして、この言葉を口に出してみる機会がこのとき訪れたのだ。クルーズのチケットは、Robertさんがまとめて買ってくれていた。それで、船から降りたとき、JenniferさんにHow much do I owe you?(ハゥマッチ ドゥアィ オゥ ユー?)と聞いてみた。本当にこの言葉でいいのかな。ちゃんと通じるかな???と、ちょっとドキドキして・・・Jenniferさんはわかってくれた。そして、これはRobertさんからのプレゼントだと伝えてくれた。「え?プレゼント?わ~ありがとう!」私たちへの心遣いももちろん嬉しかったけど、私にとって初めての言葉が、実際に使ってちゃんと通じたことが嬉しかった。決して安くない買い物だったけど、そのことだけでも、ピンズラーの教材を買ってよかったと満足した。 しかし、耳から聞いて言えはしたけれど、それがどの単語で表現されるのか、実はずっと知らないままだった。テキストがないので、スペルを確かめようがなかったのだ。想像したのは、oughtという単語。意味を調べると、ん~ちょっと違うかな・・・と思いながらも、オゥに当たる単語がわからないままにずっと過ごしてきた。おとといのOnline英会話レッスンで、テキストがショッピングの場面になり、買い物に関するやり取りを練習したついでに、レッスンの終わりに尋ねてみた。ハゥマッチ ドゥアィ オゥユー?ってどう書くんですか?って。Abha先生は、もちろんわかってくれて、チャットに書いてくれたのが、How much do I owe you?だったというわけ。 oweか・・・(oughtの予想はずれ・・・)そんなわけで、もう忘れられないHow much do I owe you?になったのでした。 ...応援、ありがとうございます!
2008.11.20
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イエローキャブのタクシーに乗って向かった先は、船乗り場。マンハッタンを感じるには船に乗って外から見るのもいいかもと、案内してくれた。90分のミニクルーズで、自由の女神を見て戻ってくるコース。船にいるガイドのお姉さんは、早口の英語でしゃべり続け、何も見ないですご~い!と圧倒されるやら感心するやら。下の写真の橋は有名な(?)ブルックリン橋。日本語の説明の入った音声機を使ってみたが、説明が微妙に風景と合わず、何の説明をしているのやら。途中で聞くのをやめてしまった。だんだん雲行きが怪しくなり、陰ってきた。アサリの表情も同じく陰っていて…(笑ってよ、アサリちゃん!)いよいよ、自由の女神が見えてきた。わくわく・・・自由の女神と言うと、「アメリカ縦断ウルトラクイズ」を思い出す。「ニューヨークへ行きたいか~?」「おう~!」の雄たけび声が蘇ってくる。テレビや写真でしか見たことがない自由の女神が、今目の前に・・・思ってたよりずいぶん大きいのにびっくりし、淡いうす緑色の容貌に美しさを感じ、これが自由の女神、としばらくの間じっと見入った。テロの後、上陸できなくなったのが残念。天気がますます悪くなり、とうとう雨が降り出して窓に透明なビニールの覆いを下すことになったが、自由の女神だけはしっかりと眺めて目に焼き付けた。
2008.11.18
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2002年8月17日(土)前夜遅く11時過ぎにJenniferさんの家に着いた。出迎えてくれたのは、ご主人のRobertさん。Nice to meet you!!!とにこにこと手を差し伸べてくれたが、あら?と思ったのは、意外と小柄な人だということ。写真では何回か目にしていたけど、アメリカ人は大きいという刷り込みがあって、大きい人のイメージしかなかった。でも、満面の笑みで迎えてくれる姿に、初めての人に会う緊張感もすぐに吹き飛んでしまった。そして、夜遅くまで何も食べていない私たちに、一緒に食べる予定だった夕食のバーベキューの材料をあれこれと調理して出してくれた。Jenniferさんじゃなくて、Robertさんが。かいがいしく私たちのために働く姿は、微笑ましかった。 一夜明けて、すがすがしい朝を迎える。New Yorkといってもマンハッタンから車で30分も走ると、緑豊かな住宅街。広い芝生のあるゆったりとした敷地に、Jenniferさんの家はありました。地下鉄に乗ってマンハッタンへ。グランドセントラル駅は、映画でもおなじみの駅。歴史を感じる大きな建物で、天井を見上げて見とれる。上のきれいな写真はカレンダーからとったもの。そしてマンハッタンの通りを歩いて回る。ロックフェラーセンタービルを見て、ホームアローンを思い出す。ここに大きなクリスマスツリーが飾られるんだ・・・ウォール街はこのあたり???お上りさんみたいにキョロキョロしながら、ニューヨークの香りに浸っていた。ニューヨークのイエローキャブに乗る。たくさんのイエローキャブが走ってる。ビュンビュン飛ばすので、冷汗・・・上半分の写真は絵葉書からとったもの。あこがれのニューヨークを今歩いているなんて、信じられない思いで、かみしめながら歩いた。わくわくしていた
2008.11.17
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ワシントンのナショナル・レーガン空港を9時半に飛び立った。前年の9.11のテロの後だったので、ナショナル・レーガン空港でのチェックはシカゴやダーラムに比べたら念入り。厳しかった。ドキドキしたけど問題なく、機上の人になった。飛行機はシャトル便だからか、座席は自由。夜遅いので人も少なく、窓際を選んで座ってほっと一息ついた。ダーラムの空港に入ったのが、午後1時頃。見送りのMarkさんと別れて、ハンバーガーなどを昼食代りに食べたが、それがとった食事の最後。飛行機は40分遅れて3時半過ぎに出発。ワシントンで5時5分発のニューヨーク行きに乗る予定がキャンセルになり、9時30分まで足止めを食ったのだ。その間、何にも食べていなくて、どうなることかと思ったけど、こうやって再び飛びたてたことが嬉しく、お腹がすいていることも気にならなかった。ニューヨークに近づき、高度が下がってくると眼下にはキラキラと星が瞬くように街の明かりが美しい。こんなきれいな夜景が見られるのも、飛行機が遅れたおかげ、ラッキー...と喜んだ。夜10時半、ニューヨークのラ・ガーディア空港に着陸。Jenniferさんは、来てるかな…とわくわくしながら出口に向かうが、そんな人影は誰もいない。夜も遅いので人は少なく、他の乗客もどんどんいなくなってしまう。大丈夫???またまた心細さが・・・電話ボックスがあったが、小銭はないし、第一どうやってかけていいやら…疲れ切っている子供たちをロビーに残し、ビルの外に出てJenniferさんを待つ。車が来るたびに、あれかな?…次のかな?…と待ち続け、10分も経った頃、やってきた車の中から、こちらを見て笑顔で手を振ってくれる人・・・やった!Jenniferさんだ!!!車を止めて、走ってきてくれたJenniferさん、「Sazaechan!!!」とギュッと力強くハグしてくれた。感激の瞬間!4年ぶり!初めて会う夫のマスオくんを紹介し、大きくなった子供たちも久しぶりとあいさつした。それまでの不安がいっぺんに吹き飛んだ。Jenniferさんは、「Two Delta~」云々と言うが、そのときは早口でわからなかったが、後で理解できたのは、空港にDelta航空のビルが二つあって、もう一方のほうへ行っていたとのこと。そうしたら飛行機が来ないので、あわててもう一方のこちらのビルに来たので、迎えが遅くなったということだった。でも、私たちにとってもう一つ心配なのは、荷物のこと。トランクは、元のユナイテッド便に預けられているままだったが、天候回復後に飛行機が飛んでいれば、荷物は着いているが、飛行機が飛んでいなかったら明日になると聞いていた。もし明日に着くとしたらまた明日空港に来なければならない。無事着いているといいな・・・と思いながら、Jenniferさんにユナイテッドのビルに向かってもらった。ドキドキドキ・・・ビルの中を小走りにバッゲージ・カウンターへ向かうと・・・人気のないカウンターのベルトの上に私たちの荷物がぽつんと4つ置かれていた。 「あった!!!」嬉しかった~~~~すごーく、いとおしく感じたトランクとの再会。よかった!こうしてようやく、Jenniferさんの家に向かったのでした。
2008.11.11
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Markさんと別れて搭乗ゲートに向かうが、飛行機は予定より30分遅れて午後3時半出発になった。ダーラムからニューヨークへはユナイテッドの直行便はなく、ワシントンのダレス空港で乗り換えることになっていた。待ち時間1時間が、30分の遅れでわずかな時間に減っている。間に合うかな・・・置いていかれたら大変!空港に着いてからダッシュでニューヨーク行きの搭乗ゲートに向かった。ダレス空港って広いんです。空港内の移動バスに乗り、降りて搭乗ロビーに小走りで行くと、人の列が・・・『わ、よかった、間に合った~』とほっとしたのもつかの間、何だか様子が変・・・並んでいる人の列が動かないのです。どうして?もう乗らなきゃならない時間なのに・・・そこで、列の最後尾にいるビジネスマン風の男性に聞いてみた。「どうしたんですか? 」すると怖そうな顔つきで一言無愛想に「Cancel!」・・・・へっ?キャンセル????そう思ってフライト案内を見たら、ニューヨーク便はCancelledと表示されている。え~?どうして?どうして?・・・飛行機飛ばないの?ニューヨークに行けない・・・怖いけどまたその男性に聞いてみた。「Why?」彼はやはり一言「I don't know!」・・・そっか、この人も訳はわからないんだ・・・とにかくニューヨークで私たちを待つJenniferさんに知らせなくちゃと、もう一度男性に声をかける。「すみませんが、ニューヨークの子の方に、飛行機がキャンセルになったと伝えてくれませんか・・・」男性は自分が伝えるのか?といぶかしがったが、私たち英語が下手だからと、無理やりお願いした。彼はわかったとJenniferさんに携帯で話をしてくれた。よかった・・・。「ありがとうございました」と電話代に1ドル札を手渡そうとしたら、No,thank you.と初めてにこっと笑ってくださったような・・・(笑顔見てほっとした)結局その男性もしばらくして行ってしまった。その後も状況は変わらず、何もすることができないまま並び続け、時間だけが経過していく。あきらめた乗客の中には、怒りながら帰っていく人もいて、列はわずかながら短くなっていく。帰るところも行くあてもない私たちにとっては、ここにいるしかなく、ともかく飛行再開を願って並んでいた。列がどんどん短くなった頃、数人先に東洋人の素敵な男性が見える。流暢に英語で話しているが、どう見ても日本人のように見えてならない。「ね、あの人の雰囲気って日本人ぽいよね」と小声でマスオ君に話しながら、更に彼に近づいた頃、思い切って「日本語話せますか?」と話しかけてみる。「ええ、話せますよ」と日本語で返ってきたときの嬉しさ!『やった!やっぱ日本人!!!』何の状況もわからなかったこの数時間。矢継ぎ早に彼に質問すると、ニューヨークで雷雨が激しくて空港に着陸できないため飛行機が飛ばないことがわかった。現在は雷雨も収まり、どうにかしてニューヨークに向かう便がないか調べてもらっているとのこと。「ナショナルレーガン空港からなら、ニューヨーク行き便があるそうですが一緒に行きますか?」と聞かれたので、「ぜひお願いします」彼に一任する。手続きに時間がかかり、彼は数人の同行者と一足先にレーガン空港に向かう。残された私たちは、彼が係員に話してくれていたので、タクシー代もユナイテッド持ちで移動可能になる。ようやくとれたチケットは、9時30分発のデルタ航空のシャトル便。ダレス空港から40分タクシーに揺られ、ほとんど人気のなくなったナショナルレーガン空港に駆け込んだ。Jenniferさんに電話しなくちゃと、公衆電話をかけようとするが小銭がない。通りかかったレストランのスタッフの青年に両替を頼み、ついでに彼に電話をかけてもらった。Jenniferさんが電話に出たのがわかり、「I am Sazaechan! New airline is Delta」と叫んでいた。シャトル便は座席指定がなく、ガラガラ・・・ようやくワシントンを発ったときは、ほ~っと安堵感に包まれた。よかった・・・
2008.11.04
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2002年8月16日(金)あっという間の3日間、今日はもうお別れのとき。朝早く学校に出かけるTaraちゃんと別れの挨拶をする。彼女がどれだけ私たちを歓迎していてくれたかわからないが、こうしてはるばるやってきて再会できたことに感慨の思いがわき起こり、彼女をハグしながら、Thank you very much having us.と涙があふれた・・・Allyssaさんの運転する車で登校する二人。見えなくなるまで手を振った・・・さようなら~出発の時間まで部屋を元通りに整え、別荘地のようなHopikinsさんのお宅を写真に収める。木立の中に白亜のおうち。毎日がこんなところで過ごせたら、なんて素敵でしょう。Hopkinsさんが以前住んでいた家だそうです。このときは二人の子供たちは小さかったよう。 Hopkinsさんちでよばれたコーヒーは独特の香りがして、それを買いたいからとスーパーによってもらった。シナモン入りのコーヒーらしい。わずか2日前に降り立ったDurhamの空港に午後1時過ぎに到着。搭乗ゲートで見送りのMarkさんとお別れ。2日間、私たちをあちこち案内し、世話をしてくれた優しいMarkさん。最後の別れのときは、胸がいっぱいになり、Thank you very much!!と涙でハグした。日本では考えられないよね。よその男性に思い切りハグするなんて。どきどきしたけど、自然な気持ちだった。素敵な思い出をありがとう、心から感謝し、Durhamを後にした。
2008.11.03
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Taraちゃんは2000年6月に中学生訪問団の一人として我が家を訪れた。初めて会ったのは、歓迎レセプションのとき。写真で見た通りのかわいい女の子だったが、声をかけてから気付いたのは、とても物静かでおとなしい子だということ。訪問団はほとんどが中学生だったが、何人か先生や保護者の大人たちが入っていた。Taraちゃんには、お父さんのMarkさんも一緒に来日していて、レセプションのとき、お父さんに”Your daughter looks little nervous."と声をかけると、お父さんは深くうなずき”Yes, she is very shy."と答えてくれた。アメリカ人と言えば、陽気で快活なイメージが焼き付いていたが、こんなふうに無口な子もいるんだと、アメリカ人だからと言って誰もが陽気なわけじゃないんだって、どこの国の人もいろんなタイプがいるんだと改めて思った…それでも5日間も一緒にいるとかわいく思えるもの。彼女が帰国してから、写真をアルバムに入れ、ビデオを編集してアメリカに送ったら、とても喜んでくれた。アメリカに行くことになったが、お邪魔してもいいかとメールを出したら、すぐに「喜んで!」と返事が来た。うれしかった…ありがとう、Taraちゃん…Taraちゃんのお姉さんのAlyssaさんは、Taraちゃんとは全然違って、とても明るく快活な人。愛想がよくて、とても感じがよく、にこにこした笑顔で私たちを迎えてくれた。Taraちゃんも、お姉さんもとても勉強ができて優秀であることがわかったが、スポーツウーマンでもある。文武両道、って感じ。高校3年生の彼女に、大学では何を学ぶつもりかを尋ねたら、気象学だと答えてくれた。空が好きなんですって。ステキ~お母さんのMarieさんは、Duke大学病院の看護婦さんらしい。忙しいようで仕事から帰ってきて、私たちへの食事を準備してくださった。お父さんのMarkさんは、とても優しい人。物静かな温和な雰囲気をたたえたお父さん。この年から毎年我が家にクリスマスカードが届いている。両面びっしりと細かい字で子供たちの1年の成長を伝えてくださる。成績抜群、いろんな活動に積極的に参加し活躍する二人の娘たちは、彼にとってとても誇りであることが伝わってくる。ただ、いつも最後に家族それぞれの連絡先が記入されているが、なぜかいつも彼と二人の娘名前だけで、あるときお母さんのMarieは元気なのか、心配していると返事に書いて送った。そしたら次の年のカードに、実は離婚したとのことだった。そっか・・・(でもなぜか納得できた。Hopkinsさんの家を訪ねた時の二人の雰囲気って、あまり温かなものが感じられなかったから・・・もしかしたら、もうその時からうまくいってなかったのかも・・・)Markさんの元同僚の日本人のMiyukiさんご夫婦が夕食に招かれていて、私たちは日本語が話せて助かった。彼女は、横浜の基地に赴任していたDenisさんと知り合い、その後アメリカに留学し、結婚したという。英語がぺらぺらと話せてとってもうらやましかった。Denisさんは、日本語を習っているらしく、私たちに日本語で話しかけてくれた。前日はDuckさん、この日はMiyukiさんご夫妻と、いろんな人たちに会えて楽しいひと時でした。
2008.10.31
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2002年8月15日(木)この日は、Markさんが私たちをDurhamの観光に連れて行ってくださる。Taraちゃんやお姉さんのAlyssaさんは、もう学校が始まっていて朝早く出かけて留守。Durhamは特別観光地ではないからか、Taraちゃんの学校や大きなショッピングセンターなど市街地を回って見せてくれる。ひとつ有名なのは、名門Duke大学。大学のキャンパスはとても美しく、キャンパス内にある古い大聖堂を訪れた。結構古く有名な建物らしい。こんなところで学べる人って幸せだろうな。キャンパス内のお店はDukeのロゴの入ったポロシャツやトレーナーなどがたくさん置いてあり、記念にソフトジャンパーを買った。(全館冷房の家の中は、私たちには涼しすぎて子供たちが寒がっていたのです)右下の家は、Taraちゃんの家の向い側の家。向かいと言ってもずいぶん遠い。そしてどの家も周りは木立が生い茂っていて、私から見ると軽井沢の別荘地のようなところ。隣の家がずっと離れているのです。うらやましくてため息出るような環境でした。Durhamを回って感心したことは、道沿いに草が生えていないこと。日本なら雑草が生い茂っているような道のわきがどこもすっきりとして美しい。どうしてだろ?こちらの気候のせい?高温多湿じゃないから?大学のキャンパスを歩いていて、歩道の脇の土が細かいチップが敷き詰められているのを見て、このチップが雑草をさえぎっているのかと思った。とにかく日本でふつうにみられる草がないというのが、なんだか不思議でした。
2008.10.29
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荷物を受け取り出口に向かって歩いていくと、向こうに見覚えのある顔が・・・あ、Taraちゃんのお父さん・・・にっこり優しそうな笑顔で出迎えてくれたのは、Markさんだった。富山では、家に一度来てくださっているし、歓迎会や見送りのときと3回顔を合わせていたので、すぐにお父さんだとわかった。うれしい・・・Markさんの車にトランクを積み込み、私たち4人も乗り込む。Taraちゃんは?と聞いたら家で待っているとのこと。そりゃそうだ。4人も押しかければTaraちゃんのスペースはないもの。車は高速道路のような道をびゅんびゅん飛ばして走る。30分も走ったころ閑静な住宅街に入り、Taraちゃんの家に着いた。富山の家を出てから実に24時間… ほんとにはるばるやって来たアメリカだった。家の中は全館冷房・・・涼しい!広くゆったりしたリビングで、早速持ってきたおみやげを広げる。喜んでくれる顔を見てうれしい私たち。 夕方友人のDuckさんも交えて食事。彼らの会話は何言ってるのかわからなかったが、楽しいひと時だった。出発前夜に体調を崩して点滴を打って一日寝ていたことを身振り手振りで伝える。そんな体調の悪さも忘れてしまったくらい、こうして遠くのアメリカにいることが信じられなく感動していた。うれしかった。
2008.10.28
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2002年8月14日(水)早朝6:45分の特急はくたか1号で富山駅出発。昨日から何も食べていない私に見送りにきてくれたお父さんが、パンを買ってくれた。ありがとう。食欲はないけど、これから旅立つのだと思うと、体のしんどさよりもわくわくする嬉しさのほうがいっぱいだった。ほんとに、具合が悪いのが昨日でよかった!成田空港を予定通り14:20分に出発。約12時間20分の飛行でシカゴを目指す。途中日付変更線を経て、太陽が昇るのを見て感激。シカゴのOhare空港にアメリカ時間14日午前11:40到着。アメリカだ~!アメリカ!入国手続きは簡単にすみ、広い空港を国内線の搭乗口目指して移動。13:45分の出発までしばし休憩・・・ダーラム行きの飛行機は、わ、小さい!小型機。座席はなんと1番前だった。通路をはさんで2席ずつのバスのような大きさ。パイロットが乗り込むまではコックピット席のドアも空いている。こんな機会はあまりないので写真もとらせてもらった。ラッキー☆アメリカって緑が多いんだ・・・と感激しながらシャッターを切る。と思う間もなく、飛行機はどんどん高度を下げ、え?どうして?ダーラム空港の到着はまだ1時間先のはずなのに、どこかを経由して行くんだったっけ?と不思議に思っている間に着陸してしまった。 着陸と同時にお客さんたちはみんなドッと降りていく。訳の分かんない私たち4人だけ、一番前の席で座り続けていた。みんなが降りたところでスチューワーデスのお姉さんが「降りないんですか?」と聞いてくる。「Is here Durham?」と半信半疑で聞くと「Ths, of course!」と返事が返ってきた。 「降りるよ!」「早く!」とダッシュして降りたのは言うまでもありません。 え~でもどうして???と考えて気がついた。シカゴとダーラムに時差があったんだ・・・なるほど・・・さすが、広いアメリカ、と感心 16:45分ダーラム到着。さあ、着いた!と足取りも軽い。ルンルン・・・さあ、Taraちゃんは来てくれているかな?
2008.10.27
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2002年の4月、マスオ君は異動で仕事の部署が替わった。彼は毎日忙しく、帰宅は遅く、休日も仕事に出かけた。夏にアメリカへ行くなんて職場で言い出しにくいようだった。旅行の準備は、私一人の肩にかかっていた。子供たちのパスポートは、ハワイへ行ったときから5年が過ぎ、期限が過ぎてしまっていて、再交付の手続きが必要。成田空港までの交通の手配、旅行保険の加入、3軒分のおみやげをはじめ買い物もすべて一人でするしかなかった。旅行の日が近づくにつれ、だんだん不安が募ってくる。誰も英語をうまく話せない。向こうへ行っている間は私が話すわずかな英語だけで生活しなければならない。こんなことでアメリカでうまくやっていける?アメリカの友人たちに会えるのはとても楽しみだけど、夫や子供たちは彼らに心を開いてくれるかしら?交流は私にはとても魅力的なことだけど、子供たちはそうじゃないことがだんだんわかってきていた。マスオ君は仕事で疲れきっているのに、アメリカへ行ったらさらに疲れるのではないかしら。第一、アメリカの人たちは私たちを歓迎してくれるかしら・・・いろんなことが心配に思えてくる。こんなことなら、ホームステイなんかより、普通のホテル泊まりの観光旅行の方がよっぽど気楽だと今更ながら思えてくる。それ以外にも私も10日間の休みをもらうのに仕事が忙しかった。この夏はとても暑くて、34~35度の毎日が続いたが、エアコンもない暑い中で一生懸命仕事した。夏休みといえどぼんやりしてる暇はなかった。10月に当たっている研究協議会での発表の原稿や資料も作成した。子供のいない時でないとできない倉庫の片付けも何日もかかって取り組んだ。扇風機かけながらひたすら働いた。疲れ切った毎日…どれもこれも旅行に行くためには仕方ない…そしてとうとう、出発の前日になって体調を崩してしまった。下痢と嘔吐・・・それは突然、急激に襲ってきた。早朝病院に駆け込み、点滴を打ってもらう。「明日から長期の旅行に出かけるので…」と話すと先生も看護婦さんも同情してくださったが、症状はよくならず、一日中眠り続けた。マスオ君は私の体調を気遣いながら仕事に出かけていった。荷物の準備はまだできていない。布団の中で、準備をしなければ明日に間に合わないと思ったけど、どうしても起きることができなかった。一日何も食べることができず横になりながら、とても辛かったが、それでもこれが出発の日でなくてよかったと思った。一日早かったおかげで明日はきっと大丈夫、と言い聞かせ、感謝した。夜遅く、もう一度病院に行き点滴を打ってもらった。朝とは違う先生と看護婦さんに同じように明日から旅行へ行くことを伝えると、じゃ、大き目の点滴にしておきましょうと、300ccの量を処方してくださった。その点滴のおかげで、ようやく少し元気を取り戻すことができた。お医者様に感謝!ありがとう。夜遅く、荷物の準備完了。やっとここまでこぎつけた。明日はいよいよ出発。いよいよアメリカ・・・と心の底からわくわくしていた。
2008.10.26
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2001年、ユナイテッド航空のマイレージプログラムで、マイルが6万マイル貯まった。1997年の夏からクレジッドカードを利用してマイルを貯め始め、4年かけて貯まった6万マイル…。6万マイルでアメリカ往復の無料航空券と引き換えることができる。6万マイル貯まったら、ぜひアメリカに行きたいと思っていた。我が家を訪れた人たちのところを訪ねて、再会したかったから。一人はもちろんJenniferさん(ニューヨーク)。一人はTaraさん(ノースカロライナのダーラム市)。このTaraさんは中学生訪問団として1週間家に滞在した。とても物静かな女の子。お父さんも一緒に来日し、一度家にもいらっしゃった。とても感じの良いお父さん。2002年の夏にアメリカに行くつもりでいるけど、行ってもいいかと尋ねたら、すぐに喜んでどうぞと返事が来た。うれしかった。もう一人は、私の友人Tamaraさん。彼女はALTとして富山市で勤務していた。その時勤めていた幼稚園で英語で遊ぼうコーナーがあったとき、先生として何度も来てくださり、仲良くなっていた。2年間の滞在を終えて帰国する時、早朝駅まで見送りに行った。駅のホームでさよならと抱き合って別れたことが今も懐かしい。2001年の夏だったか…その彼女はワシントンで働いていた。そんなわけで、頭の中ではダーラム~ニューヨーク~ワシントンというコースを描いていた。8月中旬、ユナイテッド航空に電話をかけると、航空券の予約は11ヶ月前から受け付けるとのこと。それで、9月に再び電話をかけるが、予約は搭乗予定日の330日前から開始になるという。翌年2002年の8月13、14日あたりを出発日とする逆算で、その日以来毎日のように電話をかけ続け、4日目にしてようやく行きの予約完了。帰りはまた帰る日の330日前からの予約が必要なのだ。(予約経過報告はこちら→に詳しく載っています)こうしてとれた予約・旅行日程は 8月14日 成田空港----------シカゴ(Chicago)--------ダーラム(Durham) 14:20 (UA884便) 11:40/13:45(UA7791便) 16:45 8月15日 終日Durham 8月16日 Durham-------Washington / Dulles----------New York / La Guardia 14:55(UA7794便) 16:05/17:05(UA7604便) 18:24 8月17日 終日New York 8月18日 終日New York 8月19日 マスオ君・タイ君 New York/JFK -----------------Narita 13::00(UA801便) (8/20) 16:00 私・アサリ New York/JFK ---------WashingtonDC/Dulles 14:35(UA7409便) 16:15 8月20日 終日WashingtonDC 8月21日 WashingtonDC/Dulles------Chicago/Ohare-----------------Narita 10:00(UA851便) 10:55/13:30(UA883便) (8/22) 16:25私の名義で貯めたマイレージで、夫のマスオ君名義で航空券を予約する。(私のチケットはカードで購入するつもり。そうすればその分のマイルがゲットできるから。賢い!?)特典旅行の予約がようやくでき、アメリカ行きの第一歩を踏み出し、とても嬉しかった。 しかし、その後、9月11日に世界貿易センタービルの同時多発テロが起きる。ショック!その後のニュースを見ても、アメリカをめぐる情勢は不安定で、来年の夏までにどうなるかわからない。もし危険な状態が続けば、キャンセルもありうるかと不安に思いながら状況を見守った。旅行の話は、両親には話せないままだった。話せばきっと心配するに違いない。翌年2002年2月、アメリカの情勢が安定してきていることを感じて、私の分の航空券の予約をした。(購入する場合の航空券の予約は半年前からだった)3月電子チケットを受け取る。だけど旅行が正式に決まって嬉しい気持ちで一杯だったけど、その旅行のことを両親にはなかなか話せなかった。私とマスオ君だけで行けば、その間子供たちの面倒は誰が見る?もちろん祖父母の両親がいるから大丈夫なのだけど、私たち親だけで1週間以上も家を留守にするなんて…非常識?とても心苦しい。どうしよう?・・・どうしたらいい?・・・そして5月、ひらめいた!『そうだ子供たちも一緒に連れて行こう!』こんなことは、もう2度とないかも。最後の家族旅行かも。そう思うとお金のことなんてどうにかなると思った。すぐに航空券の予約を入れる。子供といっても中・高校生は大人料金。私と子供二人の大人3人分の航空券はとても高かった。でもお金に代えられない貴重な思い出になるよ。きっと…ゴールデンウィークも終わる頃にようやく両親に旅行のことを話すことができ、思ったより快く行っておいでと言ってもらえて、ほっとした。(よかった!)
2008.10.25
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去年の今頃、一か月かけて「パスポート更新 10年の思い出」と題して、ハワイ旅行に当たって家族で出かけたことや、そのことがきっかけでいろいろな出会いがあり、人生の転機となったことを書き綴りました。書いてみると、本当に自分の人生が変わってきているのを感じ、あたたかな幸せに包まれました。10年の思い出と言っても、その時書けたのは、1997年、1998年の2年余りのことに終わりました。あれから1年・・・ 最近、Jenniferさんからメールが届いたこともあり、2002年にアメリカに出かけて再会できたことなども振り返って、書いてみたいと思います。アメリカから戻って半年かけて作った写真集のページも織り交ぜながら、少しずつ書いていきます。6年前のことですが、きっとまたその時のことがありありと蘇ってきて、楽しめる気がします。自分でも楽しみ!
2008.10.25
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