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前書き 丸山の“お説教”をもう一度聞く―「3・11」後、民主主義ははたして“限界”なのだろうか?と思う人々へ 大きなお世話かもしれませんが、読み終えて思うのです。高校で 「であることとすること」 とかを、まだ授業なさっている国語科の教員の皆さんは、 第6回 くらいはお読みになられたらいいんじゃないでしょうか。
講義第1回 「新しい」思想という病―「なんでも2・0」、「キャラ・立ち位置」、「人脈関係」という幻想
講義第2回 「國體」という呪縛―無構造性、あるいは無限責任
講義第3回 フィクションとしての制度―「法」や「社会契約」をベタに受けとらない
講義第4回 物神化、そしてナマな現実を抽象化するということ
講義第5回 無構造性、タコツボ、イメージ支配―ネット社会で「日本の思想」という“病”を考える
講義第6回 “『である』ことと『する』ということ”を深読みしてみる
後書き “即効性”の思想など、ない
その共通の像というものが非常に広がっていきますと、その化け物のほうが本物よりリアリティを持ってくる。つまり本物自身の全体の姿というものを、われわれが感知し、確かめることができないので、現実にはそういうイメージを頼りにして、多くの人が判断し行動していると、実際はそのイメージがどんな幻想であり、間違っていようとも、どんなに原物と離れていようと、それにおかまいなく、そういうイメージが新たな現実をつくりだして行く―イリュージョンの方が現実よりも一層リアル意味をもつという逆説的な事態が起こるのではないかと思うのであります。(「日本の思想」第3章「思想のあり方」) 学問をしている人たちでも、学派や学会という「仲間内」で、実際に起こる、 丸山用語 でいう 「タコつぼ化」 について述べているところが話題になっているのですが、ここを引用して 仲正先生 はこんなふうにおしゃっています。
「イリュージョン(幻想)」と「リアリティー(現実)」の逆転ということですね。これは間主観性論や共同幻想論の前提になっていることですね。現実とは違う事でも、当事者たちの間でその錯覚が「現実」として通用するのであれば、その人たちの間でそれが「現実」になってしまうわけです。
ミクロなレベルで言えば、先ほどの、サイバー・カスケード化したネット共同体―実際には、ミニ・サークルであることの方が多いのですが、―の内部で、「本当の話」として通用するのであれば、出鱈目な話でも構いません。というより、仲間内で通用するものが「本物」で、それが本当に『ホンモノ』かどうか、サークルの「外」に出て確かめようなどとは思はない。当人たちは、 ネット上で自分たちと「同じ意見」を発見することによって、確認しているつもりになっている わけです。
もっとマクロなレベルで言うと、国家と下方とか道徳とか常識とか世論とかは、どこかに実在しているのではなく、みんなが信じていることによって「存在」しているわけです。 みんなが、「法なんてない!」と思うようになったら、実際、法は消滅します 。 丸山眞男 がこの話をしたのは1960年代だと思いますが、 仲正先生 は現代の「日本社会」の現象を語っていらっしゃると思いますが、実は10年前2012年ことです。
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