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かつて、ツイッターは、中世のアジール(聖域)のように、特別な場所、自由な場所であるように思えた。共同体の規則から離れて、人びとが自由に呼吸できる空間だと思えた。だが、いつの間にか、そこには現実の社会がそのまま持ち込まれて、とりわけ、現実の社会が抱えている否定的な成分がたっぷりと注ぎこまれる場所になっていた。 「ハアー、またもやツイッターか。」
読み返すのは、ほぼ半世紀ぶりだった。最初に読んだ頃には、 「ペスト」 とは、この小説が書かれる直前に終わった 「第二次世界大戦」、「戦争」 の比喩である、そう読むのが普通だった。
しかし、今回は、もっと別の箇所が、目覚ましく浮かび上がってくるのを感じた。おそらく、著者が最も読んでもらいたかったのは、この箇所だったのだ、と思えた。
登場人物のひとり タルー が、 主人公のリウー に、こう告げるシーンだ。
「時がたつにつれて、僕は単純にそう気が付いたのだが、他の連中よりりっぱな人々でさえ、今日では人を殺したり、あるいは殺させておいたりしないではいられないし、それというのが、そいつは彼らの生きている論理の中に含まれていることだからで、われわれは人を死なせる恐れなしにはこの世で身振り一つなしえないのだ。まったく、ぼくは恥ずかしく思い続けていたし、僕ははっきりそれを知った―われわれはみんなペストのなかにいるのだ、と。…中略…
ぼくは確実な知識によって知っているんだが、(そうなんだ、リウー、僕は人生についてすべてを知り尽くしている、それは君の目にも明らかだろう?)、誰でもめいめい自分のうちにペストを持っているんだ、なぜかといえば誰一人、まったくこの世の誰一人、その病毒を免れているものはないだろうからだ。
そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。
そのほかのもの―健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志はけっしてゆるめてはならないのだ。
りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためには、それこそよっぽどの意志と緊張をもって、けっして気をゆるめないようにしていなければならんのだ」
(アルベール・カミュ、宮崎嶺雄訳「ペスト」新潮社)
人間はみんな、 「ほかのものの顔に息を吹きかけて、病毒をくっつけちまう」 。このとき吹きかけられる 「息」 とは、 「ことば」 に他ならない。 「ことば」 こそが、人間たちを感染させ、殺してゆく元凶だった。 (「言葉に殺される前に」P18)
カミュ は、国籍を問われたとき、こう答えた。 これらは、 「ことばに殺される前に」 と題されて、本書の冒頭に収められた文章の引用ですが、本書を読み終えたとき、引用したこれらの発言が、 ムルソー=カミュ=高橋源一郎 と自らを規定し、 「日本語」 を祖国とすること、 「日本語」 が作り出した 「文学」 という空間に生きることを宣言した文章だと気づきました。
「ええ、ぼくには祖国があります。それはフランス語です」
カミュ の名を世界に知らしめたのは、デビュー作 『異邦人』 だった。 主人公ムルソー は、どこにいても、自分が「異邦人」であると感じる。
どんな国家にも、どんな民族にも、所属できない。どんなイデオロギーや倫理や慣習にも服従することができない。どんな正義も、それが「正義」であるだけで、彼は従うことができないと感じるのである。
そんな ムルソー=カミュ が、唯一、生きることが可能だったのは、その作品の中、フランス語という 「ことば」 が作り出した束の間の空間だった。その空間だけが、彼を「等身大」の人間として生きさせることができた。
フランス語という 「ことば」 が作り出した、束の間の、 「文学」 という空間。 「文学」 はあらゆるものでありうるが、自らが 「正義」 であるとは決して主張しないのである。
「ことば」 は人を殺すことができる。だが、そんな 「ことば」 と戦うことができるのは、やはり言葉だけなのだ。 (「ことばに殺される前に」P22)
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