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心機一転楽天ブログを開設して早いもので6年が過ぎようとしています。昨年の3月11日の原発事故以来、ブログを書き続けることがとても負担になりました。しかもブログに写真を載せようとすると容量を越え載せることがままならず、開設当初からの記事を削除せざるをえなくなり、書くのがますます億劫になってしまいました。今回、光通信の関係からプロバイダーを変更することになりました。これを機会に、ブログもプロバイダーが運営しているブログに移ることにしました。ブログ名も自然庵 "" に変えることにいたしました。。長い間ブログを読んでいただいた皆様ありがとうございました。心からお礼申し上げます。よろしければ新しいブログ(http://67966616.at.webry.info/)にお越しいただければ幸いです。
2012年10月18日
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自死に追い込まれた人たち今朝、浪江から避難していた人が一時帰宅して自宅の倉庫で自殺したという報道をきいた。福島県下だけで地震と原発事故による何人目の犠牲者だろう。今、「いのちの電話 福島」主催の公開講座に参加している。電話相談員養成の前置き的な講座だが、自殺を思う人の余りに重たい心の揺らぎを考えたとき、自分がそうした相談に正面から向かい合うことはとてもできるとは思えない。全国で年間3万人を超える自殺者がいると新聞で読んだことがある。何とも痛ましい。何故、人は死を選択するのだろう。それを知りたいと思った。江藤淳の『妻と私』を読んだ。江藤淳については村上龍が『限りなき透明に近いブルー』(1976年)で芥川賞を受賞した時に確か「トータルカルチャーとサブカルチャー」という切り口で受賞作はサブカルチャーでしかないという解りやすい、スカッとした酷評に共感したことを憶えている。ところが、それから二十何年後だろうか、江藤淳が自死したということをニュースで知った。あれだけしっかりとモノいう人、世論に安く迎合しない文言批評家でも自死を選ぶのかと何か鮮烈な印象が残った。今回の公開講座を聴講するにあたって江藤淳の自死について思い出し、晩年の作品『妻と私』を読んでみたいと思った。同じような辛い体験をし、苦しみ、悶えた人、その中で、ある人は自死の淵に追い込まれ、ある人はとどまる。この違いは何なのだろう。『妻と私』の中の 「いったん死の時間に深く浸り、そこに一人残されてまだ生きている人間ほど、絶望的なものはない。家内の生命が尽きていない限りは、命の尽きるそのときまで一緒にいる、決して家内を一人ぼっちにはしない、という明瞭な目標があったのに、家内が逝ってしまった今となっては、そんな目標などどこにもありはしない。ただ私だけの死の時間が、私の心身を捕え、意味のない死に向かって刻一刻と私を追い込んでいくのである」 という一節に、江藤にとって長年連れ添った最愛の人の喪失感がいかばかりであったかを知ることができる。正直、体験してみないと窺い知ることができないくらい、何とも大きいなことであったに相違ないと思う。だが、この喪失感だけで人は自死に追い込まれるものだろうか。それプラス何かがあって、複合的な要因が自死にいざなうのだろうか。その辺りを知りたい。手がかりになるかどうかわからないが、『江藤淳という人』(新潮社 福田和也) 『江藤淳』(慶応義塾大学出版会 田中和生) を読み始めた。『幼年時代』(文芸春秋 江藤淳)を図書館に予約した。これが一番が核心に触れているような気がする。次回4回目の公開講座は、高齢者と日々、接している特別養護老人ホームの施設長が講師だ。何かヒントを得ることができるかもしれない。
2012年05月28日
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一茶は、なかなかしたたかな人昔、教科書で名前が出てきて何句か読んだ程度の一茶。『一茶』(藤沢周平)を読んでイメージが膨らんだ。当時、読んだ句 「めでたさも中位なりおらが春」「やせ蛙まけるな一茶これにあり」 「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」「これがまあ終のすみかか雪五尺」 「ともかくもあなたまかせの年の暮」 生活苦の中で老いの不安に苛まれ志をあきらめて江戸から後ろ髪を引かれるように雪深き信州に戻った一茶を知ると、これらの句も味わい深く、胸に迫ってくるものがある。こういう「伝記小説」ものを読むと、ついつい全部解ったような気になってしまうのが悪い所で、一茶を知る機会にはなったものの果たして何処まで理解できたのだろう。そんなことを考えていたら、数日を挟んで読んだ 『周平独言』 (藤沢周平・中央公論新社)の『三人の予見者』の中で面白いことが書いてあったので少し長いが紹介する。「対象がどのような人間であれ、一人の人間の全貌をつかむということはむつかしいことである。厳密なことを言えば、この作業は不可能に近い。人間はそれぞれが、他の人間が窺い知ることのできない暗部をかかえて生きている存在であるだろうし、その意味では一人ひとりが一個の謎である。」「しかし一方、人間は個として存在するだけでなく、社会的存在として他者に見られている自分を併せ持つ生き物である。そして人間は、自分のことは自分が一番よくわかっていると思うほどには十分に自分を知悉しているわけでもなく、時には他人の目の方が正確にその人間をとらえていることもありうる。」「だから、ある人間を理解しようとして、まずその人間の外に現れた部分の理解から取り掛かるのは方法として正しいことだし、次にその理解を手掛かりに、内面を推し測って、かくもあろうかという人間像まで肉迫することも可能なことである。しかしそれでも、人間の謎はまだ残ると私は思う。」藤沢周平は、歴史上存在していた人物をこうした方法論を持って描いていた。これは人間に限らず、あらゆる物事を理解することにも通ずる方法論だと思う。ただ、その際に外に現れた事象をどれだけ多く収集し把握することができるかで肉迫のほども違ってくると思う。松本清張や司馬遼太郎、立花隆が一つのテーマの本を書くにあたって資料の収集に半端じゃない労力を費やすのは、つとに有名だ。古本屋や専門書店の棚から関係する本や資料がごそっと消えると何かで読んだことがある。こうした書き手のものは信用できそうだ。『一茶』の巻末にある参考書目もたくさんの本や資料が上がっていた。詰まる所、小説家の力量は、まるでそこに居たかのような想像力をかきたてる筆力以前の事実に対する真摯さいかんなのではないだろうか。
2012年05月08日
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ホールボディカウンター(内部被ばく検査)の結果家を6時半に出て集合場所の保健センターに着くと6時40分、既に2台のバスが先行して出発していた。行先は茨城県東海村にあるにある(独)日本原子力研究開発機構の日本原子力科学研究所。車で往復6時間ほどかかる。今日は一日がかりで内部被ばくの検査を受けた。身体の外から受ける外部被ばくは、線量計で1時間当たりの空間線量を測って24時間(1日)を掛けて、365(日)を掛ければ年間の線量が簡単に出てくる。自宅の中は0.3μSv/時、外は平均して0.65μSv/時だから、家の中で21時間過ごすとして2300μSv/年、外に3時間いるとして712μSv/年で合わせて3012μSv/年、およそ3ミリシーベルト。ところが空気に含まれた放射性物質を吸ったり、放射性物質に汚染された食べ物を食べて体内に取り込み一部排泄され体内に残留した放射性物質がどれくらいあるかはホールボディカウンターという特殊な検査機器を使わないと分からない。この検査機器は福島県下にもあるが汚染された場所ではバックグランドの放射線量が高いので遮断する鉛の壁を厚くしたり条件を整えないと精確な検査をが難しいという。茨城県くんだりまで出かけたのはそういう事情からだ。さて検査結果だがセシウム137は460ベクレル(検出限界330ベクレルに対して)だった。セシウム134は検出限界値260ベクレル以下で検出されずだったがセシウム137の検出量から考えると限界すれすれの260ベクレル程度は有ると考えた方が無難かもしれない。合わせて720ベクレルが今、体の中にあるセシウム量ということになる。この720ベクレルという放射性物質は身体にどれだけの影響があるのだろう。成人への影響をもとに計算するとセシウム134の260ベクレルは15マイクロシーベルト、セシウム137の460ベクレルは17マイクロシーベルト、合わせて32マイクロシーベルトだ。この数値なら、これまでの食生活をしていてなんら心配はない。口からの摂取には相当に気をつけていたつもりだった。いつの間に入り込んだんだろう。考えられるのは原発が水素爆発して放射性物質が降り注いでいる、正にその期間、1日1時間ほど犬の散歩をしたり出歩いて空気中に漂う放射性物質を吸い込んでいたのだと思う。だが何が幸いするか分からないものだ。この時期、花粉症でたまたまマスクをしていたので吸引量が少なくて済んだのだと思う。もう一つ経口から考えられるのは水や食べ物だ。水は検査結果で検出されていない。残るは自家製の野菜や果物ということになる。自給自足の野菜(ジャガイモ、トマト、キュウリ、ピーマン、ズッキーニ)はハウス内で栽培したし、そのハウスも5月まで屋根も腰回りも閉めたままなので中は直接汚染はされていないはずだ。実際に空間線量は家の中並みだった。ただ周囲から雨で流れ込むことは予想されるから注意は怠らないに越したことはない。路地で育てたブルーベリーはカリウムを施肥したのが功を奏したようで検査結果は22ベクレル/Kgでジャムにして安心して食べた。干し柿(生柿は検査結果は28ベクレル/Kg)も3倍に濃縮するとして100ベクレル/Kg以下だったので、これもけっこう味わった。露地物では表面を10センチほど削って除染した畑(空間線量0.3~0.4マイクロシーベルト/時)で栽培したトウモロコシ(未検査)も少し心配しながら食べたが、上の内部被ばく量からすると結果オーライだったようだ。自分なりに判断したことは、これまではらった注意をしていれば食べ物については心配するほどのことはないと言うことだ。町では食べ物の検査態勢が整備されつつある。自分で作ったものは必ず検査してもらい検出限界値(100ベクレル/Kg)以下であれば安心して食べることにする。むしろ野菜不足、果物不足による健康への影響の方が心配だ。そして何よりも気をつけなければならないのは外部被ばくの方だ。ここで住むには先ずは部屋の中での線量が0.1マイクロシーベルト/時(年間1ミリシーベルト)以下になるように除染することが急務だ。最後に今回の検査をした日本原子力研究開発機構のスタッフはとても親切だった。とことん疑問に応えようと時間を惜しまず真摯に向き合ってくれた。椅子型ボディカウンターへの精度に対しても不信感があったが本音を含め懇切丁寧に説明してくれ疑問が氷解した。
2012年04月16日
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100歳食入門 笑いが一番 永山久夫さんの話「物忘れを防ぎ、ボケず、寝込まず100歳まで、元気に長生きするために」という演題の通り1時間半を超える話を聴いて、まずは1~2歳は若返った気分だ。巧みの話術に何分おきかに笑いころげ、しわも増えたが脳内神経伝達物質のセロトニンの分泌も活性化したに違いない。講師の永山さんは食文化史研究家で長寿村の健康食を長年にわたって調査され、食文化と健康の関係を研究されているだけに健康食についての造詣が深く説得力があり、毎日の食事を思い浮かべながら納得したり、工夫しなくちゃぁ、改善しなきゃぁと沢山のことに気づかされた。健康食の8項目が紹介された。お茶…若返りと不老・長生きに役立つご飯…血圧を安定させるギャバが多い。(玄米はなお良い。)大豆…ボケを防ぎ、骨を丈夫にする。胡麻…イライラを防ぐカルシウムとビタミンB1の宝庫。鰯…血液をサラサラにして、脳の若さを保つ。人参…免疫力を強化するカロチンを含む。昆布…通じを整え、血行を良くする。笑い…免疫細胞を強化し、癌細胞をやっつける。原発事故以来、気がめいる日が多く、明るくなる材料が殆どないから、気持ちが落ち込み、免疫力も低下する一方だった。勿論、放射性物質があることは厳然たる事実だし、その危険に対する注意は怠ってはならないが、自らを気持ちの面で明るく陽気にしていかないと放射線量の影響以上に健康を害してしまう。良いものを食べるように心がけるとともに、何よりも1日に何度か大声を張り上げて笑おうと思う。先ずはここらで ワッハハ!
2012年03月27日
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手打ちうどん みなさん褒め上手隣町に8か月通った手打ちうどん教室で学んだ腕は鈍っていないだろうか。そんな不安を持ちながら昨日、集落のふれあいサロンのお年寄りたちに手打ちうどんを食していただいた。あらかじめ捏ね、踏み、寝かしといた生地を麺台で延ばす。観てくれるのは張り合いがある反面、緊張して手許がおぼつかない。後で伺ったら、この地域では昔は、季節ごとに各家庭でうどんや蕎麦を打っていたというから舌の肥えた先輩のご婦人たち、男衆を前によくもまぁ臆面もなく打てたもんだ。図々しいにもほどがある。冷や汗もんだった。 むかしゃぁ どこでも 自慢の手打ちそんなこととはついつい知らず 打ち粉ふりふり延ばし切る (ソレソレ)皆さん、ニコニコ満面笑顔 上手い巧いと誉めそやすお誉め上手は嬉しい限り 実力以上に打ちあがる (ソレソレ)我が家の鶏も一役買ってくれた。産みたての生卵に茹で上がってすぐの熱々の釜揚げうどん を入れて、一気にかき混ぜた味はなかなかいける味だった。嫁さんたちが応援して拵えてくれた汁は野菜、肉、シイタケのうま味がしっかり滲み出ていて、手打ちうどんを一層美味しくしてくれた。食を介しながらの談笑って、いいもんですね。
2012年03月24日
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身近にあった竹細工の伝承竹細工に関心を持ってから遠くは栃木の大田原市に出かけ、近くでは飯坂温泉の廃業された竹籠屋さんに行き教えを乞うた。ほとんどは本とインターネットの情報を基に伐り、割り、剥ぎ、編んできた。百聞は一見に如かずとはよくいったもので、見ていると今まで何とも理解できなかったことでもサッとひらめくから不思議だ。そんな体験ができる竹カゴ教室が近場にあった。手打ちうどん教室で大変お世話になった伊達市で、車で15分ほどの所にある花工房を会場に1月~2月にかけて催された。これまで使用していた真竹(から竹)と違い初めて扱う篠竹は柔らかく、しなやかだ。竹細工と言っても素材によって様々なことを知った。篠竹は家の周りにも生えていて身近にあるし、油抜きの必要もなく、火を使って曲げたりの加工も要さず、日常的に使用する籠作りに適した素材だ。割き、剥ぐところから教えてくれた。生の状態で割り、剥ぎ、編むのでしなやかで編みやすい。間近に見る先生の足と手、指を全体に使った腰あげ(底から立ち上げる)方法は、正に一見に如かずで最高の勉強になった。そのお陰で何度か体験していた六ツ目編みだったのでスムースに完成することができた。時間があったので、同じ教室で米とぎ籠やビクのような腰下げ収穫籠を作っていた先輩達に声をかけたら、気さくに剥いだ篠だけのヒゴを分けてくれ、手とり足とり教えていただいた。底を簡単な網代に編み、周りを交互に編み込んでいき7周目で立ち上げていく。2度、挑戦したがどうもうまく編めない。どうしてか交互に編んでいるはずが何周か編み進めると同じ目になってしまう。「1本縦ヒゴを加えて編めば交互に編めるよ」 「この辺りから、立ちヒゴを曲げて広げないとダメだよ。後で間隔が均等ならないから」 一つひとつのアドバイスが役に立った。 この教室での体験をもとに家で真竹と篠竹を使って編んだのが、腰下げ収穫籠だ。底の周囲をぐるっと回し腰上げ(立ち上げ)するまでを柔らかい篠竹を使い、縦と底の網代編、立ち上げた後の周囲の横ヒゴは真竹を使った。底の部分が少し粗いのは減点だが、初めて納得した合格点をつけることができた。
2012年03月19日
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おざなりな田圃の除染ようやく町による除染説明会が開かれた。それが何ともお寒い内容でガッカリさせられた。国が補助金を出し、町が音頭をとるが、あとは各農家で自主的にやれという。現物給付のセシウム吸着剤のゼオライト200キログラムとカリウム肥料200キログラム(各10アール当たり)というとてつもない量を散布して深さ30センチを目標に上下を反転させて耕すか、もしくは深く耕やし撹拌して希釈させるという。耕起と散布は農家が保有する農機具を使用するとのこと。ところが殆どの農家は反転させるプラウを備えた大型農機を持っていないし、ましてや中山間地は湿地の深い田や小さな田が多く、とても深耕するための大型の機械は入れない。高齢化した農家にはこうした深耕作業や10アール当り400キロもの吸着材や肥料を撒くのは大仕事だ。さらに今年は例年にない大雪で未だ田には雪が積もり水が滲み込んでいる田を深耕するのは相当な難行が予想される。町や農協で農業機械を準備し貸し出すつもりはないようだし、人手がなく対応が困難な農家に対して団体や組織、業者を斡旋して除染作業が円滑に進むような調整をするつもりもないようだ。そもそも、この方法には専門家の異論も多い。例えば 農業情報研究所「反転耕で線量は下がっても、新たな作土となる下層土は何百年も耕されたことのない死んだ土だ。それでどうやって満足な収量を上げるのだ。どんな病虫害が出てくるか、それもわからない。」と指摘する。しかも隈なく放射線物質に汚染された山林に囲まれた田は、雨が降るたびに、そこから流れ込む雨水に寄って汚染が繰り返される。先ずは周囲の除染から始めなければ小手先の除染にしかならない。計画的避難地域では企業や大学の研究者らがプロジェクトを組んで汚染状況の調査から始めて地理的な状況を踏まえた上で様々なで除染方法を試行していると新聞やテレビはでは報道されているが、今回のたんぼの除染には、そうした先端的な方法は全く取り入れらていない。田植えの時期から逆算すると除染の時間が限られているから当座の方法として今回の措置がなされたのだろうが、そうした説明がされていない。一回のゼオライト散布、撹拌すれば、梅雨の時期に周囲の山林からの流失し移動してくるであろう放射性物質の吸着の効果がは持続するのか等の説明も一切ない。相変わらず情報提供は十分なされず、やみくもにやることだけを強要する。原発事故後の避難時の情報操作の反省が全く生かされていない。農家からすれば藁をもつかむつもりでやるしかない。何とも貧困な政治がまかり通っていることか。来週は、行政区内の農家で今後の除染作業をどうしていくか話し合うことにしている。一農家が単独でやるよりも、希望する農家同士がみんなで協力してやることで機械の不足を補えるし、作業もはかどるに違いない。昔の”結”の現代版が一時的だが復活するかもしれない。
2012年03月13日
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気持ち新たに 安全な自然を取り戻すためにあと一月で一年。地震と津波の被災地の復旧は少しずつ進んできたようで嬉しい限りだ。それに比べ原発事故の福島県下の各地は一向に好転する兆しは見えない。我が町でいえば一部指定されている計画的避難地域は国が直接除染をするようだが、私の所のように避難指定はされていないが、年間5ミリシーベルト/毎時を優に超える地域は、国が費用を出すが町が除染計画を作り実施することになっている。しかし、すっかり汚染された山林に二重、三重に囲まれた地で何処からどのように除染すればいいか良い知恵は浮かばないようで計画作りは遅々として進んでいないようだ。こうした状況の中で自分の中で被爆への危機意識を持続することは段々難しくなってきた。相手は見えない、臭わないから余計にそうだ。慣れと言うよりも諦めに近い。このまま此処に居ていいのか、東京に戻るか、汚染されてない他の県に移って再び自給自足を目指すか、いずれにしてもこのままではいけないと思い始めた矢先、部落の行政区長に選出されてしまった。人間関係も、年間の行事も、集落の歴史も知らず、何よりも方言がまだ十分に解らずコミュニケーションがままならず固辞したが輪番だし、みんなが協力するからと言い寄られて断りきれなくなった。これを機会に、もう一度、自分の中に安全、安心意識を取り戻そうと思う。この一年は、きっと除染開始のスタートラインに立つ除染元年になるだろう。これだけ汚され病んでしまった土地を元に戻すのは容易でないし何年かかるか予想もつかない。任期の一年間、できる限り元の自然を取り戻すために役場と住民との間の潤滑油として、また代弁者としての役割を果たせるよう、身を粉にしてやってみようと気持ちを新たにした。ちょうど選出された翌日に山形の熊野神社に参拝した。背丈をゆうに超える雪中にもかかわらず多くの参詣者でごった返していた。霊験あらたかな神のご加護をいただきながら集落の皆さんの協力を得て、責任を果たすことができるようにと祈念した。
2012年02月12日
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腰上げが難しい 六目編み伐った竹も一月ちょっと乾燥させたので、そろそろ油抜きをと始めることにしよう。これがけっこう手間がかかる。第3の方法(何のことはない木灰で擦る)を試みたがムラが生じる。2本をし上げて音をあげた。乾式と併用かなぁ。ゆっくりやろう。この間、併せて六目編みに挑戦。縁の仕上げの前までは半月ほど前にできていたが、適当な縁巻き用の細い青竹がなく頓挫状態だった。一度、庭先に伸びていた細目の竹でヒゴを作って巻いてみたが途中で折れたり、割れたりで上手くいかないのでそのままにしておいた。昨日、油抜きのために伐って乾燥させておいた直径4センチほどの細い竹を見つけたので腰のある青竹のままヒゴを作り、再度、縁巻きにチャレンジして完成した。六目編みに限らないが、編むのは覚えるよりも慣れと言われる。これは割ることにも、剥ぐことにも通ずるが、割り剥ぎ3年と言われるが慣れると手指腕の力の入れ加減や、刃の角度等も理屈でなくそれぞれの部位が身体で覚えていくような気がする。それに比べ、編むのは、これで3つ目だし、まだ基礎的な編み方の入口の所でもたもたしている段階で慣れるというには程遠い。いろいろな編み方を一通りやってから2作目、3作目位になれば身体が勝手に動いてくれるようになるに違いない。 六目の底を編むのは10度ほど編むと何とか慣れるが、そこから立てる(腰上げ)のが難しかった。何処に横のヒゴを入れるか分からず、既存の六目籠を穴のあくほど見て、やってみるが上手くいかない。平面だったものを立体化する、一次元広がるということに、なかなか想像力が働かない。ここはけっこう無理を押すというか、ヒゴに力を加えなければ立ち上がらないことが分かってきた。 縁は外側と内側に輪にしたものを固定してから青竹で巻いていく。この巻く間隔を4本分空けて巻いていったが不揃いで隙間ができてしまった。その隙間を埋めようと二重に巻いた所があったり、そうでなかったりで綺麗に仕上がらなかった。できは合格点ギリギリの60点。次は四目編みか輪孤(りんご)編みに挑戦したい。【原発・放射線情報】今朝、NHK『あさイチ』で以前に放送された食品丸ごと検査のデーターが間違っていたということで訂正番組が放送された。サンプル数が少なく、この結果から「だいじょうぶ」とか「危ない」とか言うのはあまりに無謀なことは番組側も百も承知のようだ。前回は、そう断りながらも結果的に「心配ない」というメッセージを送っていたが、今回は同じ轍を踏むわけにいかなかったようだ。安心してはいけない、検査をできるだけやって少しでも食物からの放射性物質が体内に入れないよう注意を喚起する内容の番組になっていた。気になったのは福島県内の松や杉の葉に放射性物質がくっついていて、来年以降も、それが落ちて線量が増える可能性もあるという。子どもへの被爆の影響について分かりやすく解説した論文。NHKにもよく出演している田崎清明教授(学習院大学理学部)。子どもは県内に居て大丈夫なんだろうか。http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/housha/details/earlyage.html
2011年12月15日
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さすがに神様は避難しなかった先週、部落にある『山の神様』の御講があった。この社の本社は隣の飯舘村にあるが、原発事故により村の全村民が避難させられている。例年だと御講に合わせて祭があって境内までの沿道は屋台が出て賑わう。今年は祭はなく、宮司さんが12日だけ本社に来て祈祷をあげてくれた御神礼をいただいた。さすが神様は放射能があろうとドッシリ腰を据えていたようだが、宮司さんは、そうはいかなかったようだ。当番の私も直接出向いて奉ることをしないで電話で済ます体たらくで、これだと御利益はいかばかりかと少々後ろめたい気がしないでもない。訳ありの御講ではあったが欠かさないのが凄い。一時、今年は中止しようかという話がん持ち上がったが春が実施できなかったので、今回は何とかやろうと、この日にこぎつけた。忘年会も兼ねての寄り合いだったので鍋あり、酒ありでほっこりとした一時となった。どうしてか男衆だけで女性は参加しない。順番で長男が若衆として準備にあたってくれる。昔で言う家督で村にデビューするきっかけになったのであろう。今回も若衆3人が参加してくれた。5年前に比べると参加者の数も大分減ってきた。私が此処に来てから6人の方々が亡くなられた。過疎化が進む。
2011年12月03日
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2年なら十分か 竹10本11月に入ったので早速に竹を伐ることにした。木もそうだが、11月から1月ごろまでに竹を伐ると良いという。自然と言うのは微妙で、この時期より早いと水分を吸っていて竹細工に向かないし、遅いと糖分を多く含んで虫が食い腐りやすいという。問題は何本伐るかだ。多ければ土蔵の中に入れておけば、いつでも使えるので構わないが、保存する前に一月ほど日陰で乾燥した後に油抜きをしなければならない。油抜きは苛性ソーダーを入れて沸かした湯で油抜きする湿式方法と、火であぶり浮きだした油を布で拭く乾式方法がある。数メートルもする長い鉄製の容器がないので、前回と同様に乾式法でやることにする。これがけっこう時間がかかる。3節程度の短い竹3本で半日仕事だった、火を焚くので熱くて大変だ。今年は薪が汚染されていて使えないから、カートリッジボンベ式のポータブルコンロを使うことにした。 今年は2年分として10本伐ることにした。3本は5mの長いままにして、残りは3節、6節に短く切って乾燥させる。この量だと油抜きは1週間は優にかかるだろう。12月初旬まで乾燥させてから油抜きして、さらに1か月ほど日陰で乾燥させて出来上がる。割る作業昨年、油抜きしておいた竹を割った。割り方としては木元竹末といって木は根元の方から、逆に竹は末(先)の方から割るときれいに割れる。両刃鉈の刃を十字に入れて中太の竹を中に組み入れて叩いて割っていく。”竹を割るような”と表現するほどにはスパッと割れなかった。ヒゴや編み上がったものを染めるには、割る前の円形の状態で、竹の表面のガラス繊維を削っておくと染料が染み込みやすいのだが、専用工具はないし当面は工芸品よりも実用品(生活用品)を編むので、その工程は省略した。【原発・放射線情報】町の対策本部から地元の自給用の野菜の放射性物質の測定結果が毎週プリントで報告される。だが検出下限(これ以上は検出できない限度)が高いので”検出せず”が多い。例えば大豆だが、検出せずと表示されている。では検出下限はと見るとセシウム134とセシウム137の両方合わせたが96.2ベクレル/kgとなっている。言い換えれば95ベクレル/kg含まれていたとしても検出されなかったということになる。”検出せず”では安心できない。精度を高める必要がある。
2011年11月28日
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月に一度の愉しみな日 手打ちうどん教室1回目が修了して、今回の参加者は2度目ないしは3度目の人たち。今期は講師のよーこばっぱと主催者の計らいで、自分たちで打ったうどんを食しながらのおしゃべりタイムもたっぷり取って楽しい一時だ。調理や後片付けも息が合っているし、気心も知れて会話もはずんで楽しい。今回は食味の特別審査員が参加するという。「 とてもきびいしいからねぇ ハッキリとモノ言う審査員さんたちだから心してねぇ 」 と脅かされる。今日の課題は太さと水加減と決めていたので、グッと気合が入る。天気や湿気によって水加減が、こうも違うのかと実感させられた。普段、粉500gに塩水120グラムというところを今回は150gの水でも足らなかった。多いかなぁと、極力少なめに加減したら伸ばす段になって周りが大分カサカサになっている。自分に課していた今日の課題の切る太さはバッチし。だが水の量が課題として残った。 今日はケンチン汁さてさて厳しい食味の審査員さんは…と待ち構えていると、入ってきたのは可愛い小学生の子どもたち。考えようによっては確かに忌憚なくもの言う子どもたち、一番率直に批評してくれるに違いない。うどん教室の大人の生徒たちの視線に囲まれ固唾をのんでジッと見られて、さぞや気もそぞろだったに違いない。「麺に腰があって美味い」 「旨い! また食べたいと思った」 小学4年生、5年生、6年生の4人のコメントは優しかった。こぼれる笑顔が可愛い。これはおセイジじゃない本音に違いない。だって丼は汁まできれいに食べてくれていたんだもの。ありがとう! 【原発・放射線情報】福島市大波地区の農家が自主検査した米から630ベクレル/kgのセシウムが検出された。この欄で前から指摘しているように予備調査で出て本調査で出ない不可思議。今回も自主検査で出たというのも頷ける。自分の田圃、畑でも場所によって汚染度合いが違うのだからサンプリングでは土台無理なのだと書いてきた。出ないにこしたことはないが、広さからすれば、ほんの一部、それも出そうもない個所のコメを検査してしていると疑われる検査方法では確かな安全は届けられない。山や山林や周囲にあるセシウムが雨で流れ込んでくるのだから田には放射性物質は貯まる一方だ。まだまだ汚染された米は出てくるだろう。しかも4月から基準値が500ベクレル/kgから100ベクレル/kgに変わったら既に流通したコメはどうするのだろう。今から心配になる。
2011年11月20日
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こちらはセーフ セシウム27.9Bq/kgの柿柿がたくさん実っている。 3本あるアンポ柿の1本毎年400個くらいの干し柿を作ってきた。蜂蜜がダメだったので柿も今年はダメかなぁ。ブルーベリーは32.7Bqで大丈夫だったしなぁ。でも少し離れただけでホットスポットがあるし安心できない。先ずは測定してもらおう。アンポ柿は大きいから1kgの検査体は5個で済んだ。洗って皮をむいて干し柿にする状態にしてみじん切りにしてビニールに詰める。予約しておいて10日、ようやく測定日が決まったが夜の7時。有料だが、みんな心配で野菜や果物を測定している人が多いようだ。1時間後に測定結果が出た。27.9Bq/Kg。国の暫定基準値は500Bqだが、自分の基準は100Bq以下にしている。でも50を越えたら気持ちが悪い。これで来年も甘い干し柿を愉しめる。早速に先ずは20個をもぎとった。 測定結果 昨夜、皮を剥いておいた
2011年11月10日
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二重菊底編み 挑戦には早すぎた今回は菊底編みに挑戦してみた。まだ幅決めと厚さ決めの鉋は購入していないので、相変わらずの鉈と小刀による目測のため、今一つ繊細さに欠けるし、技量がなく未熟で挑戦するには早すぎたようだ。10日ほど前に栃木県の大田原市を再訪して『無心庵』を見学した。この庵主は既に東京や大宮で竹細工の教室を開いているが、今年の4月から大田原市でも教室を開くことになっていた。私も申し込んでいたが、あの震災で延期されていた。その後、どうなっているか様子見がてら庵を訊ねてみることにしたのだ。気さくな人で自作の作品を見せてもらい、昔、収集していた無形文化財になっていた人の作品も見せてもらった。緻密ですばらしい作品が並んでいた。刺激を受けて帰宅してから挑戦したのが、今回の一輪ざし篭。 最初5本の底、途中で5本足して二重編み 少し広めのヒゴを5本を組み、細い竹ヒゴ2本で交互に編み込んで10周位して5本の間にさらに5本を差し込み交互に編んでいったのが上の写真。 (※縦ヒゴは5本×2では多すぎたようで4本×2でよかったと思う。) 途中、立ち上げ、胴編みに移る。縦の竹が偶数の場合は周りを編む場合2本でないと外れてしまう。1本で編む場合は奇数になるように1本、縦の竹を加えておく。半分ほどになったところで途中でしっかりと編み込むために2段ほどねじり編みにする。このねじり編みが難しくヒゴを均一に薄く剥いでいないと途中で折れたり、皮がはがれてしまう。胴の終わりの前でもねじり編みをして、残った縦の竹をそろえて切って中に折り入れて胴周りが上に外れないようにしておく。最後に縁を回し籐で締める。一輪ざしの花籠としては素の竹では落ち着きがないのと、粗が丸見えなので茶系のニスを塗ることにした。底も2本張り竹を入れるのを忘れたので丸みがあり座ってくれない。仕方ないので竹で台座を作って、その上に置くことにした。総合点は50点くらいか。格好の作業台先日、米沢に行った時に薪を作っている人に出くわした。割った積み重ねられた薪だなの傍らに大きな根元が放置されていた。訳を言っていただけないかと頼むと快諾してくれた。所望した大きなのだけでなく中くらいのも二つも頂けた。中くらいのは今注文中の幅決め鉋と厚さ決め鉋を設置する台座にしようと思う。 【原発・放射線情報】11月5日 NHKニュースで福島県南相馬市の乳幼児が放射性物質を体内に取り込む内部被ばくをしていないか1500人余りの尿を検査したところ、7%の子どもから放射性セシウムが検出されました。検査を行った会社では、健康に影響が出るような内部被ばくはなかったとしています。http://www3.nhk.r.jp/news/html/20111105/k10013753271000.htmlところが、このマシス使用の(PE社)分析機器の設定には問題が沢山。これで食品や尿に含まれるセシウムを定量するのは無理との指摘があります。もっとたくさんの量が検出される可能性があります。NHKさん、ニュースソースをしっかりしてくださいな。http://twitpic.com/7b95ls http://togetter.com/li/209967
2011年11月07日
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みんなで がんばっぺ朝8時に集合! 町役場から2名、東京電力からも職員が2名参加。段取りをして、「さあ! やっぺ!」個人用のタービンポンプも用意してくれた。この集落の高圧洗浄機だけでなく隣の行政区からも、もう一台の高圧洗浄機を借りることができた。2台の洗浄機のノズルから勢いよく水が噴射される。ポンプのホースから噴き出す大量の水が汚れを流し落とす。思い思いにデッキブラシ、スコップ、ホウキを手に、アスファルトを擦る人、U字溝から土を掃き出す人、それを土のう袋に入れる人、水を掃き出す人と手際良く作業が進む。昼までに200メートル近い集落の通学路を除染することができた。除染後に測ってみると3割程度、放射線量が落ちた。アスファルトにこびりついた放射性物質は意外としつっこい。とりあえずは当座の除染を終えたが、引き続き専門業者による本格的な除染が欠かせない。福島は大小の山をかかえ、起伏の多い土地だ。山には杉や松の針葉樹林があちこちにあり、この葉に放射性物質が降り注ぎ、しっかりと溜まっている。これが雨が降ると流れ出すから、一度除染したからといって手放しで安心できない。しかも、杉の葉は強風に枝ごと折れて落ちてくるし、松の葉は季節を問わず一部分が枯れ落ちてきて、そのたびに付いている放射性物質を土産にもってくる。福島市内の某所で除染した後に大雨が降り、裏の山から水が流れ落ちてきた。翌日測ると除染前と変わらず元の黙阿弥だったという。これが現実だ。だからこそ、県内の地形や条件を考慮した国のしっかりとした除染対策が求められる。安全で安心に暮らせる環境には、まだまだほど遠く、時間がかかりそうだ。
2011年10月30日
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日本ミツバチの蜂蜜 465ベクレル!!やっぱりねぇ たまげました。我が家で採れた蜂蜜を測定してもらいました。な なんと Cs137が257ベクレル/kg Cs134が208ベクレル/kg!!食品の暫定基準値が500ベクレルとはいえ、465ベクレルとなるとちょっと食べる気はしないなぁ。Cs134の半減期が約2年だから食べても2年後ですね。 2リットル採取したのに…おあずけです前回、ブルーベリーを検査してもらったら32ベクレルほどで楽観していたんですが、動物を介しての食物連鎖はけっこう顕著に出るんですね。水産庁が「放射性物質は食物連鎖で濃縮されないから」心配しないでといっていますが、またまた不正確な情報を流そうとしているんでしょうかねぇ。困ったもんです。このことについて反論記事が『週刊現代』に出ていますので参考にして下さい。http://gendai.ismedia.jp/articles/-/5692先日、食品汚染についてNHKとニコニコ放送とで別々に取り上げて放送してました。僕は軍配をニコニコ放送にあげます。 とても解りやすかったからです。しかも日ごろのツイッターでしっかりした情報を発信し続けている早野龍五さんhttp://nucl.phys.s.u-tokyo.ac.jp/hayano/jp/index.html と 野尻美保子さん http://nojirimiho.exblog.jp/ がゲスト出演してました。ニコニコ放送『緊急報告 あなたの食べ物は大丈夫? ~放射線物質による食品汚染の実態に迫る~』は必見です。http://live.nicovideo.jp/watch/lv67862769?ref=top 最近の米の放射性物質の測定に??を感じませんか。予備調査で500ベクレルを越えていたのに本調査で出てこない不思議。これって何なんでしょう。測定した場所が違うのかなぁ。不思議です。しかも牛のような全頭でなくサンプル調査ですから田圃全体の、ほんの一部の調査でしかありません。安全確認と言うよりも出ないように一生懸命な感じです。
2011年10月27日
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今からでも遅くない 子どもたちの集団避難昨日、松本市長の菅谷昭さんの講演『放射能汚染による影響 -チェルノブイリから学ぶこと-』を聴いてきた。ショックだった。彼は医師でもあり、チェルノブイリの原発事故があった時に大学を辞めて現地に行って医療支援活動を5年半してきた人で、その体験をもとに話された。以前、5月18日に福島の保育園に来られて講演した内容よりも一歩突っ込んで話された。 http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/100/82400.html 5月の時点よりも深刻な汚染状態やさまざまな情報が明らかになったことによるもの思われる。これまでは疫学的に明らかにされてた癌へのリスクが取りざたされてきた。だが放射性物質の体への影響はそれだけではない。低線量の放射性物質が病気にどう影響を与えるかの因果関係の証明は長い時間の経過が必要だが、現時点で証明されていなくとも事実としてベラルーシでは「チェルノブイリ原発事故による汚染被害は現在も進行している」。その一部の例としてして子どもたちの免疫低下、発育不良、早産や未熟児などの周産期母子医療での問題が起きているという。大切なことは今、因果関係がはっきりしなくとも、事実として、そうしたリスクが出てきているのなら、影響の大きい子どもや妊産婦をその危険から守っていかなくてはならないだろう。その点でいえば福島県の土壌の汚染の状況は会津地域を除いて、どこもチェルノブイリの立ち入り禁止区域や汚染地域に相当する深刻さだという。確かに下図で見ると60kベクレル以上の地域がほとんどだ。菅谷氏は、数日前に内閣府でレクチャーを頼まれた時に、自主避難でなく全ての子どもと妊産婦の汚染地域からの避難を国の政策として行うよう提言したという。そこまで問題は深刻なのだ。ただ、高齢者はこの地に留まって、地元の放射性物質基準以下の農産物を消費しても心配は少ないともおっしゃった。やや、ホッとしたものの秋の空のようなすっきりした青空のような気分にはなれない。と言うのは、もうひとつ気にかかったのが当日配布された別の資料の中にあった安全基準値の各国間での違いだ。飲み水でみるとアメリカ法令基準0.11ベクレル/L、WHO基準10ベクレル/Lなのに日本の乳幼児の暫定基準で100ベクレル/L とかなり高い。野菜だと、ウクライナ40ベクレル/kg、ベラルーシ100ベクレル/Kg、日本は500ベクレル/kg。こんな違いがあって日本の食べ物は本当に安全なのかなぁ。
2011年10月14日
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巣がびっしり 濃厚な蜜の味春に設置した蜂箱。一昨日、抱えて持ったらずっしりと重かった。I さんに連絡。彼は養蜂箱を作ってくれ、中に分蜂した女王蜂を入れて、一から指導、何かと手ほどきをしていただいている。今日、いよいよ箱からミツバチの巣を一部切りだして蜂蜜を取り出した。この日本蜜蜂の養蜂箱は西洋ミツバチのそれと違う。市販されている西洋ミツバチの養蜂箱は巣枠を何枚か縦に置いておくと、そこに蜂が巣を作る。http://www.kumagayayoho.co.jp/shop02.html日本蜜蜂の巣箱はそうした枠は無く空洞になっている。普通はこれを三段あるいは4段に重ねて使っている。各段の箱の中央に横に十文字なるように菜箸が差し込んである。これは蜜で重くて蜂の巣が下の箱に落ちないような支えになっている。一番下の箱に蜂の出入り口があり、最初、女王蜂は一番上の箱に居て巣を作り始める。一つの箱の中に、はじめに3センチ位の厚さで縦に作り始め徐々に横に広げ下の段の箱に巣を大きくしていくようだ。 今回は、一段目(一番下)の箱まで三段全部にぎっしりと巣を作っていた。そのうちの一番上の箱(下から数えて三段目)にある蜂の巣の部分を頂戴する。先ずは巣の中の女王蜂や働き蜂が下の段の箱に移動するように一番上の箱の側面や天井を繰り返して叩く(15分程度)。下に羽音が移動するので、天井部分にくっついている巣を切り離し、一番上と2段目の箱の間にワイヤーを差し込んで巣を横に切断する。一番上の箱の中には巣が縦に何重にも作られている。それを箱から切り離し、ひとつずつ表面の蝋を剥がしネットに入れる。ネットはビニール袋の中に吊るすようにして数日して自然に落ちてくるのを待つ。西洋ミツバチは枠を遠心分離機にかけて取り出すが、こちらはスローライフに相応しく自然に縛り出てくるのを待つ。前回、9月に日本環境調査研究所で実施した放射性物質の測定の結果は大丈夫だったので、今回も大丈夫だろう。 三段重ねの養蜂箱。上を叩く 天井板から切り離す 箱の隙にワイヤーを入れて中の巣を切断 切断された巣 びっしりの蜜 箱から切り離す 蝋を剥がしてネットへ 【原発・放射線情報】除染の方法について動画がJAEA日本原子力開発機構から出た。http://www.jaea.go.jp/fukushima/josenvtr.htmlうーん もっと気楽に考えていたが、やはり十分に注意しなければいけないんだ。軽く考えすぎていたなぁ。このくらいしっかり防護して除染しなければならないということなんだ。ところが、これでもマスクが簡便なもの過ぎると専門家からクレームがついていた。それくらい油断してはいけない危険な作業なんだ。どちらかといえば、やはり素人でなく専門家がやるべき作業なんだと思う。もし家庭でやる場合は、くれぐれも注意してやりましょう。
2011年10月13日
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冬のヒゴ作り 初めての笊を編む本を頼りに去年の冬場から始めた竹ヒゴ作りも原発事故から野良仕事が減り暇になったった分、何かにつけて竹と鉈に触れる時間が増えた。家の裏に竹林あるからと始めた竹細工だったが、知るにつけ孟宗竹は筍としては美味いが、竹皮の肉が厚く、硬く、荒々しく、しかも節が短く竹細工には向かないことが分かってきた。確かに太い孟宗竹1本を割って皮を剥ぎ、細く薄い1枚の竹ヒゴを作るのはなかなか骨の折れる作業だ。だが、この肉厚の竹からヒゴを作る作業をしてきたお陰でヒゴ作りが大分手慣れてきた感じがする。本だけでは鉈や工具類の使い方やヒゴの厚みや幅などのヒゴ作りの実際が今一つ実感できない。そこで百聞は一見に如かずで何処か近場に竹細工を教えてくれるところがないかと方々をあたってみた。生活用品としてのザルや籠はプラスチック製にとって代わり竹細工屋さんは廃業していた。残っているのは、美術工芸的な竹細工で、近場では隣県の栃木の大田原市に伝統工芸として残っていた。そのお弟子さんがやっている工房を見学させてもらうことにした。作るものにもよるのだろうが、ノギスで測って割り、剥ぐ精確さ、鉈、小刀を使う所作、幅や厚さに剥ぎ・切る工具を間近に見てヒゴ作りを実感することができた。目の前で見る編む仕草も微妙だ。初歩の段階では先生からの直接の指導がいかに大切かを実感して帰ってきた。帰りに、工房の責任者から遠方から来てくれた燃料代ですと油抜きの竹を3本半もいただいた。節の長さは優に50センチはあるだろうか。油抜きの状態と言い、真竹の肉の薄さと言い申し分ない。実際にこれを剥いでヒゴを作ってみた。肉厚の孟宗竹でヒゴ作りに苦労した甲斐があったのかどうか、意外と作業がはかどった。手持ちの工具は鉈だけなので幅決めも厚さも目測なので一定なものはできない。やはり最低限の工具は必要なようだ。でも、せっかく幅や厚みの感覚が解ったので、前に作った孟宗竹のヒゴを作り直して、この真竹のヒゴとで笊づくりに挑戦してみることにした。ござ編みという方法で取っ掛かり易かったが、最後の縁をまとめ上げるのがひと苦労だった。細部を見れば問題がたくさんあるが、初めての記念すべきザルにして、まぁ及第点を上げることにしよう。
2011年10月08日
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リーダーに恵まれて昨年だったか、北海道で中高年の登山ツアーの参加者が遭難したニュースが報道されたことがあった。ツアーを催した会社の無理な企画が原因の一つだったように記憶している。それに比べると昨日参加した町の自治会主催の蔵王の山登りは、私にとって20数年振りの登山だったが、安心して、しかも午前中は素晴らしい眺望を満喫できて、午後はミゾレまじりの寒風の厳しさも体験できて、久々に山に登ったなぁと昔を思い出した。安心して楽しめたのはリーダーの用意周到の事前準備があってのことだ。この時期の気象や登山道を確かめるために、この日の本番を控えて少し前に2度踏査してくれていた。しかも当日の朝の気象情報から、当初予定していた曇っている山形県側からでなく快晴の宮城県側のバスで上れるギリギリまで行き、山形県側のロープウェイで下りてくるコースに変更し、歩く時間としては4時間ほどの行程に短縮する判断を下すなど、昔に比べ体力が落ちてきている僕にも、ほど良く楽しめるコースだった。山頂近くの避難小屋で小休止した時に、この先からは日本海側から湿った冷たいガスが吹き付けるから少し厚着をするように指示をしてくれ、また途中からミゾレまじりの雨が降り出すと雨具を着るように指示が出る。寒かったら遠慮なく言ってくださいとと声を掛けてれる。濡れた手袋を取り替えていると「暖かそうですね」とねぎらってくれた。お陰で誰一人として脱落することなく、もちろん事故もなく無事に下山できた。深謝!! 山形県側の麓でゆっくり温泉に入り、冷え切った疲れた体をゆったりと湯船に浸けた時、えも言われぬ温みをしみじみと味わうことができた。車でパッと出かけて入った温泉もいいが、これとは一味もふた味も違う。帰りの車中では、二度三度とうたた寝をした。これもすこぶる心地好いものだった。不思議な偶然の出会い避難小屋で小休止をとっていた時に 「おお! ○○さんだよ!」と声がした。同じ集落の知り合いと偶然出会ったのだ。僕も山登りで二度、こうしためったにない体験をしたことがある。一度は尾瀬で学生時代の友人に出くわした。確率でいえば天文学的だろう。ほんとに不思議なことがあるものだ。もう一つ、もっと奇妙な体験をした。高田馬場が通勤のターミナル駅で地下鉄東西線に乗り換える。このJRのガード下には安くて旨い店がけっこうある。そのひとつにカウンター席だけで6人くらい座ると一杯の小さな焼き肉屋があった。やわらかい肉でタレが独特の味がして酒もいける。ある日、カウンターの目の前に何処かで見かけた山小屋の前で何人かのスナップ写真があった。先週の日曜日に友人たちと登った秩父と山梨、長野の県境にある金峰山の山小屋の感じだ。あの時はひどかった。混雑していて上向きでなく足と頭を交互に身体を横にしないと眠れないくらいすし詰め状態だった。こちらのグループと他所のグループとの境に寝たのが僕でおしくらまんじゅうでしのぎを削っていた。そんな体験をママに話していたら 「それって私たちよ!」 思わず笑ってしまった。話が盛り上がった。勿論お銚子1本のサービスが出た。 【原発・放射線情報】テレビ番組でも給食の放射線物質のことが漸く取り上げられるようになった。線量計を当てるだけの検査が給食センターに導入されたようだ。専門家は精確な測定とはほど遠いと言っている。テレビ番組は注意して見なければならないと思う。このことを指摘している野尻さんは子持ちの女性理論物理学者(素粒子論)でEK教授。宇宙について解りやくす解説してくれている。原発放射線についても情報を発信し続けてくれているが信頼できる専門家の一人だと僕は思っている。http://nojirimiho.exblog.jp/i0/
2011年10月02日
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9月26日は たんぱく自給記念日生まれてもう7カ月くらい経ったのか。前にも紹介したように、3月に雛でやってくるはずだった鶏が原発事故があって我が家には5月になって立派な若鶏になって届いた。それが9月26日に、ついに産んだのだ。その三日前くらいから雄鶏が 春先のホトトギスよろしく 「 コッケ コッケ 」 と雄たけび準備をしていた。 こちらに来て不如帰が 「ホーホケ」「ホーホケ」としばらく啼き始め「ホーホケキョ」次いで「ホーホケキョ キョキョキョ」と啼くようになるまでには数日から1週間ほどかかるのを知った。鶏も同じなんだなぁと早朝に床の中で聞いていたら、26日はしっかりと「コケ コッコー!」と啼いた。朝の仕事のクウの散歩、ハウスの野菜たちにへの水やり、鶏の餌をやりに行くと産卵台の上に確かに卵が1個!見つけたのだ。9月26日3.11から200日目。記念すべき蛋白質自給記念日だ。翌日は其処に一つ、地面にも一つ、さらに餌をやってハウスの中の草を裁断して糠を加えてもっていくと新たに温かな生まれたての卵がまた一つ。 【原発・放射線情報】首都圏のシイタケ、製茶 千葉県我孫子市の原木で栽培されたシイタケに基準を3倍も超える1955ベクレル/Kgのセシウム(34,137の合算)が出た。その他、埼玉県の日高市の製茶からセシウム739ベクレル/Kgのセシウム(34,137の合算)、同県毛呂山町の製茶も1840ベクレル/Kgのセシウム(34,137の合算)とかなり高い値だ。 http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001pqs7-att/2r9852000001pqw0.pdfhttp://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001py9u-att/2r9852000001pydl.pdf
2011年09月29日
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通学路の放射線量の測定行政区の小学生のお子さんが通う通学路を20メートルおきに14か所を側溝側と、反対の草むら側とを1メートル、50センチ、1センチの高さで5回ずつ測定して平均を出した。町を通して県の助成金で購入した線量計と自分で購入したRADEXと、知人から借りてきた前に紹介した3台で測定した。町が斡旋した線量計は値段が高い(13万台)割に不安定でバラツキがあり上下動が激しいため、急きょIInspector Alert を借りてきたもの。自分の所有のRADEXは3分を経過した後の数値がほぼInspector Alertと0.01~0.03μSv/時の差で安定していた。 やはり測定機器は注意して購入して、機器の癖を確認して測定しないと間違った数値で安心したり、逆に不安になったりする危険がある。さて測定結果だが、側溝側がアスファルトで低い所で0.373μSv/時(地表から50センチ)、高い所で0.826μSv/時(地表から1センチ)が1か所、おおよそが0.4~0.5μSv/時台だった。側溝と反対側の草むらは平均に高く、地表から1メートル、50センチの高さで0.6~0.7μSv/時、地表1センチでは1.0μSv/時台が多かった。特に1か所だけ地表1メートルで0.907μSv/時、50センチメートルで1.491μSv/時シーベルト、1センチで5.430μSv/時が出た。間違っているのかと私の線量計を見たが同じ高い数値が出ていた。やはりホットスポットがあるのだ。この測定結果を来月の集落の定例会で提供して対策を考えることになっている。先週の日曜日に皆で周辺の草刈りをした。また高圧洗浄機を試運転をしてみたが、こちらはすこぶる調子が良さそうだ。いよいよ来月から洗浄作業が始まる。【原発・放射線情報】(1)6月6日9時~8月4日9時の福島県の環境放射能測定(定時降下物)の測定結果に誤りがある旨、文部科学省に報告があったという。修正された数値はおよそ10倍以上も高いものだった。http://radioactivity.mext.go.jp/ja/monitoring_by_prefecture_fallout/2011/09/1060_110926.pdf何故低い数値を報告していたのか真相は分からない。毎日、ニュース時に出される県内の10数個所の数値も福島、郡山等全て各1か所のみの数値でいずれも低い。定点の測定には違いないだろうが、各地点とも実態とかけ離れた数値だ。低いから心配するなと言っているようでかえって気持ちが悪い。(2)前回紹介した給食まるごと検査アンケートの福島県民の部分の数値が出た。http://twitpic.com/6qytjc 全回答者6946人に対しておひざ元なのに291という数字は低過ぎる。インターネット上ということもあり、こういうアンケートがあることを知らなかったのだろうが、もっと関心が高くてもいいのに残念だ。上の報道数値ではないが大したことないという宣伝に麻痺されつつあるとしたら恐い。
2011年09月27日
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弘前の地で 黙々と そして 生々と東北の自然農や自然栽培の方々が集まっての交流会があった。台風の影響か連日あいにくの雨模様だったが、コテージには温泉があって、何よりも参加者の熱い思いで終始暖かな雰囲気だった。テレビでも紹介された木村さんの「奇跡のリンゴ」の自然栽培法を取り入れた林檎畑も見学できた。農薬を使わないことがいかに難しいか、年によって虫の害があるようで今年は、樹に実っていた林檎の殆どが虫にやられていた。http://www.geocities.jp/yuki_no_isukia/mori2.html以前訪問した時は冬場で休んでいた『森のイスキア』は今回は見学出来た。美味しいお焼きとクッキー、茶とコーヒーでお持て成しを受けた。泊まりは4,5世帯でいっぱいのこじんまりとした建物で、広間の談話室兼食堂にはマリア様の彫刻があった。今回の主催者の『しらとり農場』には、目を見張るものが数々あった。圃場は広く、他品種の野菜が雑草と共生しながら、しっかりと成長していた。以前は有機農業も営んでいたが、トラクターが壊れたのを潮どきに今は不耕起の自然農に移行しているという。その分、人力の負担は半端じゃないようだ。昨年から畑の一部を田圃にして水稲を始めていた。こうした開墾の意欲には頭が下がった。これだけではない。家はコンクリートの土台と柱と屋根は大工さんと一緒に、他は全て一人で造り上げたという。随所にさまざまな独創的な工夫がなされていた。例えばトイレはバイオトイレで、おがくずが入っていてし尿と一緒におがくずを混ぜる電動スクリューつきのトイレだった。湯は塩ビパイプを黒く塗った中を水を通す手作りの温水器で40度越えるくらいまで上がるという。さらに戦前はどこの農家や家庭でも使われていたという薪がまをレンガで造り、しかも現代風のピザも焼けるオーブン機能を備えている。たまげたのは薪ストーブの後ろに密着させた水タンクだ。熱伝導でタンクの水が温まることで直接の燃焼だけでなく部屋が暖まる仕掛けになっている。これは手軽にできそうで是非今冬には我が家でも取り入れたいと思った。 温水器、後方の手作りの家 薪がま、左側の中間にオーブンこうした開墾への情熱、さまざまな場面に発揮される独創性といい、何処かから得た情報を具体化する能力と行動力には、ただただ驚き恐れ入った。しかも労働に汗かき忙殺されるだけでない。彼はチェロを弾き、奥さんはピアノを弾き、悠久の大自然の中でゆったりとした演奏の一時も大切にしていると聞いた。20代の始めに自然農に関心を持ち、有機農業にも興味を持ちながら、ここに辿り着くには数多の時を要したと思う。だが一つ一つがここにつながっている生き方をされてきた人だと思った。此処に来てからも原野を開拓しながら今を黙々と一歩ずつ創り上げた。穏やかな性格はたくさんの人の心を惹き付ける。坦々ととした生き方でありながら、そこに生々とした明るさを感じる。農法よりも人間性に魅力を感じた二日間であった。私のような60歳間近で経済的に少し安定してからの帰農、帰自然には気力、体力面で限界があるようだ。若くして苦労も多かっただろうが、なんと一貫した人生を送って来られたことだろう。もう一度人生を送ることになったなら、彼のように若くして大志を抱いて生きてみたいものだ。 【原発・放射線情報】(1)先日、阪大から放射線量の5年後までのシミュレーションが出た。2年後には大分減るが、そのあとは少しずつ減る様子が判り嬉しい情報だ。その理由は何なんだろう。セシウム134(半減期2年)とセシウム137(半減期約30年)の違いだろう。ただセシウム137は半減期が長いので減ったとしても地中の奥か、何処か横へ流れただけで無くなったわけではなく移動しただけだ。http://www.rcnp.osaka-u.ac.jp/dojo/index.php(2)測定器が少ない中で、子どもたちの給食の放射性物質の測定方法は品種ごとでなく、その日の給食を一括してミキサーにかけて1食分全体を測定した方が合理的でかつ正確だと早野龍五氏(東京大学大学院理学系研究科 教授)が提唱している。 外部被ばくの高い地域ほどきちっとした内部被ばくをできるだけさせない努力をすべきだという。文科省にも提案書が提出されてたが、測定の結果、実際にセシウムが出たときのリスクコミュニケーションに自信がないのかま、だ実施されてない。早ければ早いほどいいのに、いつものように知らせなければ問題起きないの政府の姿勢が見え見え。http://t.co/WNseprFbさっき見たらアンケートも実施している。親の声が政府にも伝わるようになっているようです。ぜひ参加してください。http://www.tfaforms.com/218508 9月24日追記
2011年09月23日
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やっぱり泣いてしまった 『神様のカルテ』小説を読んだのは震災の前。震災で図書館も長いこと閉鎖され、車のガソリンもなく大幅に返却期間を越えて借りていた小説だった。映画化されると予告編を観て、どんなふうに映画化されたの興味があったが、ようやく観ることができた。映画に原作を越える別物を期待するか、それとも原作をできるだけ忠実に反映し具体化したものを期待するかは、人によって分かれるところだろう。 少女雑誌のような装丁だが本格小説ただ映画の時間的な制約からは、原作を反映するといっても限界が勿論ある。どうしても削ぎ落す作業が必要になるが、原作の何処あたりを取り上げるかで大分様子が違ってくるように思う。原作の『神様のカルテ』は、地域医療における深刻な医師不足をベースに、そこで働く過酷な医師たちの姿を一人の純朴な青年医師の生き方を通してヒューマンに描いている。このベースの部分はきちっと映画に反映されていた。どこをクライマックスにもってくるか。本の中では感動し泣かされる個所はいくつもあったが、僕にとっては消化器内科副部長の死にまつわる所が圧巻で、ここかと思った。だが、これを全体で2時間の中で収めるのはきついと判断したのかもしれない。映画では大学病院で見放なされた末期がん患者(加賀まりこ)と最期までを向き合い、みとる場面をもってきた。キャストも満足いくものだった。特に、女性と言うよりも中性に近い、多くは語らず、ただそこに居てくれる、話を聴いてくれるだけで癒される、そんな存在感のある恋人のまんまのような連れ合い・栗原榛名を宮崎あおいが好演してる。大好きな女優さんだが、いつ観ても、何を演じても上手い。主人公の栗原一止は嵐の櫻井翔だったが、純朴な青年医師をうまく演じていた。妻夫木聡だったらどんな一止を演じたか観たかった。その他の俳優では、消化器内科部長の柄本明もとぼけた感じがよく出ていた。主任看護師の池脇千鶴もピッたしの感じがした。いずれにしても小説に登場する人物は読者が自分なりのイメージを作り上げている。それを実在する俳優さんに演じさせるのだから大変だと思う。うまいキャスティングをしている。ロケハンティング(撮影場所探し)も大変だった思うが、信州松本の雪に覆われた美しい山々、地方都市のちょっとした小路や風景が舞台効果となって随所に見られ、ロケ地での撮影が十分に生かされた映画になっている。一止が帰宅する神社前の坂道、榛名が撮影しながら待っている高台のロケーション、どういう位置関係にあるんだろう。多分まったく別の場面の撮影なんだろうが、自然につながっている。住まいが御嶽荘という元旅館という設定なのだが、セットなのか、もしかしたら何処かの旅館を見つけたのか、小説のイメージをうまく再現して古めかしく朽ちた感じがよく出ていた。一つだけ旅館の中にある小さな渡り橋は演出のために設定したのか、たまたまあったから利用したのか、小説の中には描写されていないが違和感があった。
2011年09月15日
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ワークショップ みんなで振り返り 語り・体験し合い そして...土、日と『福島(「ふくしま」「フクシマ」「Fukushima」)で "あの日" から今日までを振り返り "明日" について語り合うワークショップ』に参加してきた。飯坂温泉で、ゆったり、深~く という主催者のねらい通り、とてもリラックスできた二日間だった。福島県内だけでなく東京や神奈川、東北の宮城、岩手から40人ほどの人が参加した。大学生や若者もたくさん参加してくれた。NGOやNPOで活動されている方、学校の先生たちも多かった。初めて出会った人たちとグループを組み語り合った。自分の中にある自分と向き合った。グループの輪が拡がり、さまざま人が寄り添ってくれる中で、自分の中の自分と少しずつ会話ができるようになったように感じた。 みんな自分こととして願いを出し合った どれもが共感できる意見だった こんな意見が7枚の模造紙にいっぱい福島の外にいた若者たちが 「私は福島が恐かった。福島の人が放射能が恐いように、私も怖かった。でも福島は、決して福島だけの問題じゃないんだ思う」「僕は大学で理系です。放射能のことはよく解らないけれど、少しでも解るように説明できるかもしれない」 若い人たちが参加費を負担して、他人の痛みに、揺らぐ心に寄り添おうと必死になってくれていた。嬉しかった。一人の私の子どもの年齢のような娘が 「日本中のみんなが、We are all Hukushima なんだ」 と言ってくれた。そうなんだなぁ。僕は東京から来て6年目で、この集落でいつも部外者なんだと感じていた。まるで『異邦人』のような居心地の悪さを感じていた。でも自分の中にある垣根が、そうさせていたのかもしれない。たくさんの人と知り合うことができた。辛さは違うかもしれない、意見は違うかもしれない、でも、どこかで共感してもらえる、この心地好さは励ましよりも、どれだけ僕を勇気づけてくれたことだろう。今朝、玄関先のコスモスが昨年よりも大きな花を咲かせているのが目に入った。昨日まで薄汚れて見えた花が、ちょっと優しく語りかけているように感じられた。
2011年09月12日
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みんなで除染を やるっきゃない私の住む行政区はとても纏まりのある集落だ。毎月定例会が開催されるのも、数ある行政区や同じ自治会の中でも珍しい。先日、定例会で、町から担当者が来て居住区の除染の提案があった。県の助成事業で、除染に必要な線量計、圧力噴霧器等の道具の購入費を50万円出すから、住民の皆なの自発的なボランティアで除染してほしいというもの。 「除染の手引」と光っている左下が線量計これにはカンカンがくがくと意見が交わされた。事業当事者の東電や事業を推進してきた国がやるべきことを、被害者である住民が何故、汚染に曝されながら、しかも忙しい稲刈りのこの時期に肩代わりしてやらなければならないのか、どう考えても理不尽だ。こうした反対や疑問がみんなの声だった。しかし、では東電や国や県の町の除染はいつ行われるのかというと、その見通しは全く立ってないという。集落には小学校に通う子どもたちもいる。側溝で2.8μSv/時という高い線量の個所があるというし、通学路の途中の線量がどのくらいあるかも測定していない。先ずは測定して、子どもたちが安心して学校に通えるようにしよう! 何十年後かに後悔しないように、わしら大人がやるっきゃあるまい!という結論になった。深刻な土壌汚染 気が抜けないではどの位土壌は汚染されているのだろう。前に紹介した文科省の土壌汚染調査の結果が調査地点別に発表された。地名は緯度経度でのみ表示されていた。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/gijyutu/017/shiryo/__icsFiles/afieldfile/2011/09/02/1310688_1.pdfたまたま我が家から30メートル近くの所が調査地点の一つになった。平方メートル当たりの数値だったのでキログラム当たりに換算し直すとセシウム134とセシウム137を合わせて 2725~2953ベクレル/Kg だった。稲の耕作が可能な数値が 5000ベクレル/Kgだから、その約6割でけっこう高い。だが、この数値を町の全調査地点の数字と比較すると上から27番目/37地点と低い方なのだ。福島市内の94地点で見ても66地点(62%)が、うちの畑の数値よりかなり高い。郡山や二本松、その周辺を見ても高いところがかなり見られる。小さな子どもたちへの影響はかなり深刻だ。これだけの汚染だと植物は根からどの位のセシウムを吸い上げるのだろう。これは植物によって大分違うが、それぞれに移行係数として表されている。http://www.maff.go.jp/j/press/syouan/nouan/pdf/110527-01.pdf 例えば玉ねぎなんかは0.00043とかなり低いから、うちの畑で栽培しても 2953×0.00043で1.3ベクレル/Kgと食べてまったく問題ない。ところが、今、示されている移行経係数はデーター数が少なすぎるし、知りたい作物の移行係数がないものもある。そのため、どうしても直接、野菜や果物を検体に出して測定してもらうことになるが、1品当り3万円位するなど負担も大きい。今日、二つの測定結果が分かった。一つは蜂蜜で、友人が報せてくれた。セシウム134が59±7ベクレル/Kgセシウム137が56±6ベクレル/Kgで食品として問題ない数値との報告であったが低くはない。もう一つは自家製のブルーベリーでセシウム134が7.9~20.5ベクレル/Kg、セシウム137が3.35~12.23ベクレル/Kg、こちらは問題なかった。ブルーベリーは5月と7月の2回、硫酸カリウムを施肥したのが良かったのかもしれない。外部被ばくも心配だが、こうなると内部被ばくも十分に気をつける必要がある。特に子どもと、妊産婦、それに未婚の若い男女も。改めて、危機意識が風化しつつあった自分にねじを巻き直した。今は、まだ進行中なんだ!!
2011年09月09日
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美味しい教室 ありがとう6月から始まった、この教室も今回で一区切り。4回目の今回は手打ちうどん専門店「正伍郎」の店主が特別講師に加わり、生徒10人に正伍郎さんと「よーこばっぱ」の二人講師という豪華さ。それにしても、懐が深いというか謙虚な先生だと思う。自分だけの打ち方だけでなく、惜しげもなく知り合いの職人を呼びプロの打ち方、方法を生徒たちに学ばせる。最後までやることがニクイ!手打ちうどんの何たるかに少し近づけたかな。だが何よりも大きな収穫は、よーこばっぱのような人物に出会えたことだと思う。同じように齢を重ねたいものだ(もう遅いかなぁ)。初回の粘土遊びと見間違うこねくりから4回目、麺棒の使い方も胴に入り、切った幅の美しさ、釜揚げされた透き通ったうどんはツルリっと喉越を通り、あまりの味覚に万感胸に迫るものがある。いただいた後に、よーこばっぱから各自に修了証が手渡された。しかも、記念品にうどんを打つ時に被ってとバンダナまで添えて。伊達市のグリーンツーリズム事業の一つとして位置付けられ、職員が毎回お世話をしてくれた。気配りがあって、毎回を楽しく過ごせたのも担当者の事前準備があったお陰。和気あいあいと触れ合い、ためになる、美味しい教室をありがとう。写真で見る 手打ちうどんの流れ(まとめ) 塩水(2/3)を入れ指を立てて混ぜる パサパサの状態で混ぜる、揉むの繰り返し 最後の塩水を入れ卵状の大きさの塊ができたら仕上げにこねて、ビニールに入れて寝かす(2時間以上) 寝かしたものを足踏み、平らになったのを真ん中、4分の一に折って、また寝かして足ふみを3回ほど 寝かしたものを先ず菊もみ、最後に、まん丸く仕上げる 打ち粉をたっぷりふって、最初は手の甲で円状に広げていく。それから麺棒で広げていく 麺棒を猫の手のように扱う(難しい)。丸く伸ばしていたのが、いつの間にか四角形に まな板にたっぷり打ち粉、麺棒からスルスルと三つ折りに、間にたっぷり打ち粉。まな板に向かって45度 妙なる幅 切り終わったら打ち粉をふるい落とす 今回のトッピングはとろろでした。真ん中に味噌梅干し。
2011年09月06日
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猿橋勝子 こんな凄い女性がいた我が国に世界的な著名な女性科学者がいたことをご存じだろうか。つい最近まで僕は知らなかった。日本学術会議に女性として初めて会員に選出され、日本物理学会会長にもなった猿橋勝子だ(1920-2007年)。このブログで先に紹介した児玉龍彦氏が、国会での参考人発言の後に緊急記者会見をした時に「放射線量の微量測定法を確立して核実験の禁止に道を開き、全世界に希望をもたらした女性科学者」として紹介していた。早速に県立図書館の蔵書を調べたら三冊見つけた。なるほど偉大な女性科学者だ。彼女は、アメリカのビキニ海域での核実験やソビエト連邦の核実験によって地球規模での放射性物質の汚染が広がっていることを海水や大気中の微量の放射性物質の分析を通して明らかにした。圧巻はアメリカの研究者から分析結果が信用できないとクレームが出た時に、カリフォルニア大学のスクリップス海洋研究所に単身、乗り込み相互検定をして正しいことを認めさせ、独自に開発した分析方法が高く評価されたという女性だ。女傑というイメージを持たれるかもしれないが、数々のエピソードと多くの人の証言は、細やかで、情熱的で、優しさと正義感なあふれた女性を想像させる。「諸刃の剣の科学。その功と罪とを最も的確に把握しているのが科学者である。だから科学者こそが、哲学者の視座で功と罪とを語り続けなければならない。猿橋がなによりも大切にした人間としての原点である」一人の女性科学者の生き方が、後年、児玉龍彦氏のような数多くの真摯な研究者、科学者に人間としての原点を見つめることの大切さを教え、輩出してきた。そして勇気ある行動をもたらした。組織や力ある者に迎合し、調子よく立ち振る舞うのは男女どちらが多いだろう。狩猟をしてきたDNAは、今でも戦争や争いごとに男を向かわせているのだろうか。中東のイスラム世界では今でも女性は車の運転ができないと聞く。日本でも戦前、女性には参政権が与えれていなかった。どうも男尊女卑の社会や、そういった時代は世の中を混乱させ、不安な容易ならない事態を生みだしているような気がしてならない。今福島で、汚染の広がる地域で、名もなき市井のお母さんたちが子どもを守るために立ち上がっている。世の中を変えるキーパーソンは女性のような気がしてきた。男女共同参画社会基本法があるくらいだから、まだまだ企業や公務員の管理職は男が圧倒的に多い。形式的に制約がなく男女平等に参画できるとしたら、選挙権や被選挙権の行使ではなかろうか。政治家が男女半々になったら、女性の、母親の声をさまざまな政策に反映することができる。そうすれば、今よりまともな社会に何歩か近づくのじゃなかろうか。
2011年09月05日
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『The Tree of Life 』 と 『 コクリコ坂から 』よく映画を観るようになった。まっ暗闇だと怖いが、あの程度の暗がりで、知らぬ人ではあるが、人のいる気配がして、時にフゥーと息を吐き、すすり泣いたり、笑ったりする、仕草や息遣いが感じられ、そんな一時を過ごすのが今の僕には心地好い。先週、観たのが『ツリー・オブ・ライフ』で、今日、観たのが『コクリコ坂から』。前者は今年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した前評判の映画だ。予告編を観て親子間の確執がテーマなんだろうかと思っていたが、テーマはもっとスケールが大きく、タイトルの通り「命の樹」(生きることの系とか繋がり?)を子の誕生から親(厳格な父親と慈愛深い母親)と息子たちとの関係、そのなかで葛藤しながら成長していく子ども そして兄弟の死、大人となり幼き日を回顧するへと成長していく様を描いている。後悔の念に駆られる父親の姿が痛々しい。終始、重っ苦しく、観終わってからも床に就くまで胸が押さえられているような感じがした。 それに対して、今日観た『コクリコ坂から』は、観終わってホンワカとして心が和んだ。また映画の時代背景が東京オリンピックの前年で、画面には僕が小学6年生の頃の懐かしさがあふれていた。たとえば肉屋さんの測り売り、釜で炊くご飯、布団の下にスカートを敷いて押しつけてアイロン代わりにしているシーンなど、思い出がいっぱい詰まった映画だった。この時代、古い物を壊し、新しいものを造り上げる経済成長優先の時代で、それを象徴するようなバンカラ的な雰囲気の残る高校のサークル室のはいった建物「カルチェ・ラタン」の建て替えを進めようとする学校側と、それに反対する学生たちの青春模様。それに若い二人の複雑な恋をからめた。ハッピーエンドに終わり、そこに流れる主題歌がグッとくる。http://www.youtube.com/watch?v=o_zGdZ3wTNg
2011年09月01日
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国民の誤解や憶測を招く恐れ と言う理由での情報公開の制限またチグハグナことをしている。拡散予測のスピーディーの情報公開が遅れたために避難者が強い汚染地域に移動した苦い経験はどこにいってしまったのだろう。8月29日、文部科学省が6月から7月にかけて、福島県を中心に2200余りの地点で測定した土に含まれる放射性物質の量などを基に作成した情報が一部しか出されていないで、マップ作製の委員会も非公開になった。理由は「測定対象地域の利益を害するおそれがある場合※ 検証が終わっていない生データなど未成熟な情報や事実関係の確認が不十分な情報などを公にすることにより、国民の誤解や憶測を招き、風評被害など不当に測定対象地域の方の間に混乱を生じさせるおそれがある場合 」といっている。http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/gijyutu/017/kaisai/1310297.htm私の住む里山も測定地点(家から歩いて20秒ほどの所)の一つになったが、まだ数値は教えてもらっていない。国民の誤解、混乱の名のもとに情報がまた操作されるのだろうか。情報隠しをすれば一層憶測を生み、風評は広がり拡大することは明らかだろう。一昨日の夜10時から1時間半にわたってNHKで 「ネットワークでつくる放射能汚染地図 3 子どもたちを被ばくから守るために」が 放映された。http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2011/0828.htmlこのような子どもたちの命と健康を守るために献身的に活動している心ある研究者や科学者たちは、まだまだ他にもたくさんおられる。政府は生のデーターを一刻も早く出してほしい。そうすれば国の機関に所属する委員だけでなく、幅広くさまざまな立場の学者や研究者が事実と真摯に向かいあって検討してくれるに違いない。国から出される一つの見解だけでなく、複数の意見の中から自分なりの判断をしたいと誰もが思っているのではないだろうか。
2011年08月30日
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ようやく出演した 児玉さん今朝のNHK 『 ニュース ふかよみ 』に児玉龍彦( 東京大学先端科学技術研究センター教授 ・東京大学アイソトープ総合センター長)が出た。ご覧になっただろうか。彼は2011年7月27日 の衆議院厚生労働委員会で「放射線の健康への影響」について参考人説明をした。http://www.youtube.com/watch?v=O9sTLQSZfwo&feature=player_embedded 僕の知る限りでは、この参考人説明の記事や報道はNHKはもとより全国紙の新聞で一切取り上げられてこなかった。今朝の登場が初めてだと思う。ただ、今回の『ふかよみ』は汚染された瓦礫等の処理についてだったので、参考人として述べた放射線の健康への影響についてはほとんど触れていなかったのは残念だ。彼の説明を観るまで低線量の体への影響は少なく、DNAが破壊されても修復する能力があるから心配することは殆どないという意見に安心していた。だがどうも、そうでないようだ。まだご覧になっていないなら是非観ていただきたい。彼の発言をかいつまんで言うと、これまでの疫学的に20年かかって解明されてきた低線量の放射線の健康への影響は、ゲノム科学の段階では、そんな時間を掛けずに遺伝子レベルの解析を通してシミュレーションして予測できる。今、大切なのは何が正しいという医学論争ではなく、危険に曝されている乳幼児や妊産婦のために政治家、科学者、企業が総力を挙げて、一刻も早く放射性物質の除染をすることだ。 これまでもマスメディアは、原発事故はどれほど危機的状況にあるか、放射性物質の汚染はどの程度、どこまで広がっているのか、放射線の健康への影響はどのくらいか等々にについて、一部の情報しか取り上げてこなかったように思う。たとえば健康に関して言えば、ここ福島県の健康アドバイザーである山下俊一氏などはNHKにも出て、地元紙にも何度も登場している。各地を講演して歩いて100ミリシーベルトまで心配ない言いきってきた。http://www.youtube.com/watch?v=j52u5bEMC-Y&feature=related やhttp://www.youtube.com/watch?v=Tj3oiukC8HA&feature=related 児玉氏と山下氏を比較して聞いてみると、危機感があまりに違うことがお分かりいただけると思う。実は、こうした真実一路の勇気ある専門家は児玉氏だけでない。これを機会に、そんな専門家を紹介していきたい。
2011年08月27日
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思わせぶりなチラシ創業50周年記念セールと銘打っている。これじゃぁ、チラシにある商品は安いに違いないと思ってしまう。ところがどっこい。パソコンで調べたら… 今、草刈払機が2台ある。一台は前の此処の持ち主が置いて行ってくれた背負い型のもので性能が良く今でも立派に使える。ところが重い!2時間も刈っていたら老骨の肩に食い込んでくる。数年前に軽めの手で持って使えるものを購入したが、今一つ調子が悪い。そこで前々から機会があったら買おうと手ぐすね引いて待っていたら、このチラシが舞い込んできた。値段も手ごろだし、ヨシッ 買おう! でも同じ23ccのエンジンでもピンキリで色々ある。型番を確認した。どのくらい安いんだろうかとインターネットで調べたら うぬぬ!! そこでは定価の表示をしているじゃないか!!よくよく読んだらチラシの、このコーナーには安いとは一言も書いてはない。でもなぁ メインのタイトルが50周年記念セールだもん。やっぱセコイよなぁ! とはいえ、それだけ不景気だということ、止むにやまれぬことだったのかもしれない。そうそう、わざわざインターネットで調べる自分が一番セコかったのかもしれない。
2011年08月25日
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朗読とトーク いのちの言の葉木村まさ子さんと村上信夫さんの二人による詩の朗読とトークの会があった。何篇かの詩が朗読された。言葉を大切にしてる二人のいのちに 思いを馳せる 言の葉にゆったり耳をかたむけたら澄んだ声 穏やかな声が 心に届き優しい言の葉 あたたかい言の葉がこころに つもったしっかりといのちの 言の葉を受けとめましたありがとう ジーンズの後ろポケットにしまっていたらクシャクシャになってしまった
2011年08月22日
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団塊の世代のみんさん 旅先に東北の地を!東北にはたくさんの温泉地がある。だけど、あの地震以来、東北の温泉地は閑古鳥が鳴いているという。小さい子をもつ家族連れが二の足を踏んでしまうのは分かる。残念なのは旅好きで時間的にも金銭的にも少し余裕のある高齢者たちの足までが遠のいてしまっている。復旧、復興の道のりは長くて険しい。持続的な支援が必要だ。団塊の世代の人たちが、旅先に東北の地に足を向けてくれたらありがたいなぁ。近いのに 遠ガった温泉! 先月から近県の温泉と古刹巡りを始めた。最初が世界文化遺産となった中尊寺だった。今回は宮城県でも南に位置する、福島から近い蔵王町の遠刈田(とおがった)温泉と、隣の角田市の高蔵寺(国指定重要文化財)、丸森町の斎理屋敷を訪れる小さな旅をした。お盆で交通が滞る前、義父のお墓まりの帰りに連れ合いと遠刈田温泉に寄って一晩泊った。ホテルからは蔵王が一望でき、緑の裾野が広がっている。その中腹から麓にかけてスキー場のロープウェイが見える。冬場はきっとあたり一面、真っ白な雪に一変して蔵王名物の神秘な樹氷が見られるにちがいない。江戸時代初期に開湯して湯治場として賑わってきたというだけあって、効能は神経痛からリウマチ、胃腸病、婦人病、慢性皮膚病と幅広く高齢者予備軍としては頼もしい温泉だ。 (携帯電話の写真、しかも湯けむりで本人同様ボケてるのでアシカラズ)旅の楽しみは料理と酒。普段は宮城の牛タンや牛肉を使った料理がメインなのだが、この時期丁度牛肉が汚染で集荷されてなかったので海の幸が中心でアワビから鯛、マグロ、甘エビ、ホタテ等の刺身にアユの塩焼き、豚肉を使った料理等々盛りだくさんで、別注文した冷酒生酒「蔵王」とともに満喫した。酒を飲めない連れ合いも、おかずとウナギの釜めしに箸が進んで満足してくれた。 食い気と飲むのに忙しく何品か撮り忘れました金色堂と同じ時代に建立された 高蔵寺高蔵寺の阿弥陀堂は中尊寺金色堂と同じ平安時代に建立されたと伝えられている。金色堂が金箔に覆われ鉄筋コンクリートの建物に保護されているのに対して、こちらは野晒しのままで、長い時を雨風にさらされてきた風姿がここかしこにうかがえて、僕には魅力的に思えた。実は、旅の目的は丸森町の斎理屋敷だった。そこに向かう道すがら、偶然、国の重要文化財指定の看板が目に入り、20メートルほど戻って観に行ったものだった。旅と言うのは、こうした偶然の出会いがあるから楽しい。 ここには、もうひとつ国の重要文化財に指定されている旧佐藤家住宅が隣接してある。パンフレットに寄れば江戸時代中ごろ建てられた仙台藩領の中規模農家の典型的な建物だという。 さて、肝心の丸森町の斎理屋敷だが、到着したのが昼過ぎで腹が空き、運転疲れもあって足早に見て回り、写真も撮れなかったので紹介はまたの機会に。教訓として、小さな旅は2か所くらいを巡るのがいいのかも。
2011年08月20日
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簡単そうで 奥が深~い一つ一つの工程がなかなか難しい。今回は、目の前の「よーこばっぱ」先生の動作をじっくりと観察しながら、見よう見真似で塩水の加減、混ぜ方、手押しの感じ、踏む要領、形の整え方、延ばし方とやってみた。大分良い感じだ。少しは板についてきた(かな?)。 右上の一心不乱なdonjoyo今回は延ばし加減(厚さ)と切る幅が課題として残った。先生に何ミリ位の幅が適当でしょうねぇと伺うと、手打ちのだいご味と言うか妙味は太くても好し、細くとも好しと言われてしまった。うーん…しかし、なるほど、確かに。どうも学校教育の長年の慣れで量だと何グラムとか、何カップとか、寸法だと何ミリとついつい考えてしまうクセがついてしまっている。先生としては何ミリと言えなくもないだろうが、この太さの違いによる歯ごたえを感じ取ってほしいという意味だろう。何ミリ位と言ってしまったら、その先がない。そのちょっとした微妙さを味わうことが手打ちの妙味なんだろう。今回、「よーこばっぱ」は桑の葉を乾燥させ粉にしたものを混ぜたうどんを打ってくれた。ほんのスプーン一杯ほどの少量なのに、こねるうちに全体が薄緑になり、かま揚げしたものは淡いグリーンをしていて涼しげで夏場にピッたし、うめぇかったぁ!さて、今回の副レシピはお好み焼き。水に溶かした小麦粉(うす目)の中に、いろんな野菜、豚肉を細めに切って混ぜて焼き、紅ショウガと、青のり、最後に鰹節をのせてソースをかける。そのカリッ、サクッとした歯触りとソースの香りは最高!冷蔵庫の野菜や残り物を処分するのにもってこい。お好み焼き好きには堪えられません。
2011年08月17日
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最初は 『 小川の辺 』から原作が藤沢周平だと、どうしても観たくなる。しかも主演が『 山桜 』で好演した東山紀之となると居ても立ってもいられない。そそくさと映画館に足が向いてしまった。戌井朔之助(東山紀之)は主君の命により藩政を批判して脱藩した妹の夫である藩士を討ちにいく。二人は藩で1,2を争う剣術の使い手。しかも妹も朔之助と共に幼くして父から剣術の指導を受けた腕前を持つ。夫を討てば妹は刃向かい剣を交えることになるかもしれない。その危険を回避したいと願って、幼いころから妹に想いを寄せていた若党が付き従って道中を共にする。終に小川の辺の小屋に密かに隠れていた二人を見出す。主君の命に従い敢然と立ち合う凛々しさ、討ち果たした後に妹と剣を交わし心惑う様子、さらには若党の押し殺すような気配、そしてラスト...。見ごたえがあった。 次は 『星守る犬』 で涙して熟年離婚が世間でかまびすしくなって久しい。大体にして原因は無口と言うか、感謝の気持ちがありながら言葉に表現できない、不器用な夫に原因があるようだ。この映画も、そんな男が主人公である。相談されても「好きなよう(いいよう)にしたら いいんじゃないの」と答えてしまう。決して悪気があってのことじゃない。そんな、頼りのない、主体性のない男を西田敏之が好演している。熟年離婚の末路も寂しそうだが、映画の男も犬との逃避行の末、キャンプ場で死後半年経って白骨体として、犬の遺体と共に発見される。行路死亡人として対応にあたった役所の若い職員が、車中で死んだこの男の人生に強く興味を持ち、持ち物だったと思われるレシートを頼りに、男の最期を辿る旅に出る...。旅の途中で出くわす人たちとのエピソードが温かく悲しい。主人思いの犬のしぐさが優しく愛おしい。そしてあまりに淋しくつらいラストだった。西田の巧さは言うに及ばないが、何よりも驚いたのは犬の名演技だ。 31日に 『 アレクセイと泉 』 立ち止まり 考えるこの映画、福島の原発事故に押しつぶされそうになって暮らす身には、ふと立ち止まって、もう一度自分の置かれている状態を見つめ、考え直してみる機会になった気がする。チェルノブイリ原発の爆発事故で被災したベルルーシの小さな村ブルシチェのドキュメンタリーだ。原発から100数十キロの村で、森からも畑からも、採取されたキノコからも放射性物質が検出される。多くの人が避難する中、村の高齢者たちの多くが生まれ育った土地に残ることを選択した。その中に一人の青年アレクセイがいた。この村には人々の生活に欠かせない水を与えてくれる泉がある。村中が汚染されているのに、この泉からは放射性物質は検出されなかった。水は大地を100年かけて浸透して命の水を湧き出す。映画は、村の人々の電力に依存しない、薪を割って燃料にして、泉の水を汲み、育てた小麦とジャガイモを主食に、野菜を作り、豊かな自然の中で営々と暮らしている、その姿を坦々と映しながら、「この百年、人間は何の豊かさ求めてきたのだろう。豊かさとは何なんだろう」と暗黙に語りかける。今回は、上映後、監督の本橋成一さんから、この映画の製作の動機について話しを聞くことができた。汚染された地にとどまっていた人を取材した時に 『 何処へ出て行けって言うんだい 人間が汚してしまった土地なんだろう 』 この言葉が耳から離れなかったという。本橋さんが言いたかったのは、汚染された地に留まれと言いたかったのでは勿論ない。原子力発電によって生み出された電気を何の疑いもなく享受してきた私たち自身が、まぎれもなくいた事実から目をそらさず、逃げ出さないでいてほしいと言いたかったのだろう。それは "人間が"という言葉で全てを一括りにすることで"危険はない”と慢心して原発を推し進めてきた人たちを免罪してしまうことではない。これまでの原発に依存した電力大量消費の在り方に、一人ひとりが無関心であってはならないと警鐘を鳴らしたかったに違いない。
2011年08月01日
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小手姫うどんお隣の伊達市月舘で6月から月に1度ずつ開催されている手打ちうどん教室に参加している。講師は自然食料理研究家で地元の食材を使った郷土料理を開発し、教え続けている 『 よーこばっぱ 』 こと 本田 洋子 さん。参加者は10名ほど。その中に僕を含めて団塊の世代とおぼしき男性が3人混ざって悪戦苦闘している。食材は、この地で栽培した小麦「きぬあずま」を漂白せずに使っている。500gの「きぬあずま」に食塩水 1カップを三度に分けて加えて混ぜ、こねる。この塩水、ひと月前に作り置いておく(水220~300ccに天然塩20~25g)のがコツだそうだ。この水加減が初心の身には難しい。『よーこばっぱ』が順繰りに回ってきて指導してくれる。子どもたちにも教えているだけあって 「あなた上手よぉ そうそう それでいいわよ 」 褒め上手だ。生地をボール状にまるめて、ビニール袋に入れて足で踏み、取り出して丸めて又踏むを3度ほど繰り返してビニール袋にいれて30分ほどねかせる。ねかせている間に特別講座が設けられているのも楽しみだ。初回は、この生地を三分の一ほど使ってピザを焼いた。色とりどりの具やチーズを乗せて焼けたピザを交換しながら頬張る。どの顔も笑みがこぼれている。二回目は野菜やハーブを使ったピクルス作りだ。「よーこばっぱ」が作ってきてくれたピクルスを味う。 打ち粉をふった麺台に生地を押しつけながら20cmくらいまで手で広げる。いよいよ麺棒で伸ばす。初心者には、たまに見かける手打ちうどんのデモンストレーションのようにはなかなか上手くいかない。始めに横に筋をつけるように押しつけながら伸ばしていき、次に縦にして、それを繰り返す。大きく広がったところで棒に絡めて丸めていき厚いところは掌で均等にしながら、これまた縦横繰り返して厚さ1.5~2mmほどに伸ばしていく。伸ばした生地を3~4つに折りたたみ好みの太さに切る。1回目は細かったり、太かったり、途中で切れて短かったり、大きさはまちまちだった。茹でるとホウトウのようだったり、ふかふかだったり、どう見ても手打ちうどんとはほど遠いものも多かったが、かま揚げ仕立てのを水に洗いネギの薬味と麺つゆのだけの素うどんの味は格別で、シコシコ感もあって、それはそれは美味かった。 1回目と違って2回目の教室ではみんな格段の進歩で、ぐーんと手打ちうどんらしくなった。8月は3回目、さてさて、どんな手打ちうどんができるのか今から楽しみだ。1回目よりも2回目と段々仲間との会話も弾み、9月の終了が寂しくなる。終了したら伊達市の祭りでみんなで腕前を披露するらしい。その前に自分の集落の高齢者サロンで味わっていただこうと話している。
2011年07月27日
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気分転換になった 浄土の世界原発事故以来、草が生えるに任せていたら庭の夏草は背丈ほどになり廃屋然として、ちょっと見た感じでは人が住んでいないような趣だ。これはこれで粗末な家に似合っているし、また見えぬ放射線の汚れに似つかわしいような気がしていた。何よりも此処に棲み心がうらぶれてしまった家の主に相応しいものだった。ところが、先週、連れ合いがやって来て、見るに見かねて三日かけて庭やアプローチの草刈りをしてくれた。草に隠れていた花が顔を見せ、一見すると普通に戻ったようは感じがしないでもない。だが、線量計をおけばあの機械音が鳴りっぱなしだし、荒んだ気持ちに変わりはない。そういえば、あれ以来ずーと放射線量を気に掛ける毎日だった。此処に居ること事態が心にストレスをかけ、知らず知らずのうちに気が滅入ってしまっていたようだ。テレビで世界文化遺産の話題が上っていた。 「 地上の浄土かぁ どんな処なんだろう 行ってみたいねぇ。」 どうしてもというよりも、何気なしに出た言葉だった。 「 一度行ったことがあるわよ そうねぇ 明日 行こうよ!」 こういうときの 阿吽の呼吸はありがたい。 中尊寺 木陰から見る金色堂藤原清衡は仏教による平和な理想郷をづくりに着手して、その理念は三代にわたって引き継がれたが、毛越寺をはじめ無量光院、その他数多の寺塔や御堂は度重なる火災や戦で失われてしまった。創建当初の建物で残っているのは鉄筋コンクリートで守られた金色堂のみと言われている。これとていつかは失われるのだろう。でも考えてみれば、この世にあるものすべてが千変万化し、諸行無常なんだという仏教の教えそのものの体現した姿なのかもしれない。僕にとっては 里山の自然の中での生活は理想の姿で、ある意味で浄土の世界の筈だった。その想いは脆くも簡単に打ち砕かれてしまった。 芭蕉の真筆と言われる句碑 夏草や 兵どもが 夢の跡 がとても身近に感じられた。 今朝また大きな地震があった。震度5弱と言う。ここでも震度4で大きく揺れた。
2011年07月24日
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力になった 心遣いや思いやり電気が通じ、それに伴って電話もパソコンも使えるようになり、郵便も届くようになると、友人や兄姉、昔の同僚や仕事関係でお世話になった方々、こちらのブログの訪問者たちから多くの心のこもったお見舞いの言葉を頂戴した。一つ一つの思いやりや心遣いが打ちのめされた気持ちにとても大きな力になった。心からお礼を申し上げます。その中で特に勇気づけられたのは学生時代の友人が愛知から新幹線を乗りついてわざわざ足を運んで来てくれたことだ。4月下旬で連日マスコミは放射性物質の汚染を報道し、記事に取り上げていた時に足を運んで3日も泊まって話し相手になってくれ、一緒に行動し時間を過ごしてくれた。日ごろは人一倍健康に気を配っていたやつだが、朝夕のクウやYaeの散歩を一緒にしてくれた。時間があると僕は原発事故当時のこと、放射線の健康への害についての不安、また汚染された土地での今後の生き方等について、これまで知り得た情報をもとに、気持ちを、想いを話し続けた。 桜を見に行った、近くの花工房に出かけ、県内の温泉に行き、ゆっくり湯に浸かって、また雑談に花を咲かせた。三日で帰る予定の所をもう一晩泊って行ってくれと無理を言って最後の夜も遅くまで語り合った。ほとんど自分ひとりでしゃべっていたかもしれない。心ゆくまで話すことができた。 それから少しずつ気持ちに張りというか、前向きな所が出てきたように思う。ブログの再開も、彼が後押ししてくれたような気がする。
2011年07月17日
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福島県民200万人調査 試算した1年間の外部被爆は4mSV+?遅ればせながら、国と県は県民200万人全員の被爆に関する健康調査を行うことになった。おっつけ問診調査票が送られてくることになっている。問題は4か月前の行動を書くようなのだが、その頃の記憶なんてはるか彼方ではっきりしない。自分で線量計で測った5月末以降の1年間の外部被ばく量を試算してみた。おおよそ4ミリシーベルトだ。でも分からない ”?” の部分がある。水素爆発が起きて一番大気中に放射性物質が多かった1週間から5月末までの線量と被爆量だ。この時期に福島市内へ移動したり、駐車場から最寄駅まで歩いたり、郡山駅まで移動していたり、何も知らずに家の外をクウと散歩をしていた。水素爆発をした当時の線量は15日午後2時台に山木屋で測定上限の1時間当たり30マイクロシーベルトを超えていたり、同6時21分には福島市立子山でも7.33マイクロシーベルト(福島民友) というから相当な量を被ばくした可能性がある。もう一つ確かな情報によると、比較的に早い時期に山木屋以外の川俣町のある地点でたまたま土壌を調べたデータがあって200万ベクレルの放射線量が計測されたという。不幸中の幸いだったのは、3月~5月にかけては花粉が飛び回っている時期だったので、花粉症の身でマスクを欠かさなかったのは幸いした。それにしてもすごく高い数字だ。以下の積算数字は、友人から借りたアメリカ製の「Inspector alert]で計測した数字をもとに試算した。この検出器はハロゲン冷却式ガイガーミューラー管で知り合いが『NPO測定器47プロジェクト 』から借り受けたものだ。ただ、まだ校正をしていなかったのでどれほどのブレがあるか分からなかった。過日、たまたま知った大学の研究者に校正をお願いした。6月23日に校正済みの日立メディカルAlokaのサーベイメーターTGS131を基準器にして、忙しい中を半日ががかりの校正を快く引き受けてくれた。 TGS131それによると、この『アラート』は、ほぼ精度が高く2.2μSv/時以下の値の時は1.03の係数を、2.2μSv/時以上の時は 1.2xー0.12で計算すれば高価なサーベイメーターと変わらぬ働きをすることが判った。5月下旬に一度、6月下旬にもう一回、部屋の中から、クウとの散歩道、各畑や田圃の畦、ビニールハウスの中、鶏小屋の中、クウやYaeの小屋の中、玄関先、庭、玄関の中、居間、台所、寝室、2階の窓の屋根をくまなく測定した。各地点4度の計測して平均を出して、上記の式を当てはめた。路上や雨ざらしの場所は1か月の間に、雨風で流れて数値は減少していた。畑や田は0.5~1.5μSv/時ほど下がって0,6~1,6μSv/時、剥いだ畑は0.4~0.6μSv/時だった。部屋の中は念入りに拭き掃除をしたので0.1~0,2μSv/時ほど下がり0.2~0.3μSv/時だった。屋根のある乾燥小屋、鶏小屋やハウスは変わらず0.3から0.5μSv/時を示した。これらの数値から、おおよその1年間の外部被ばく量を足し上げると 3975μSvだった。 (576μSv=0.6μSv/時×16h×60d 始め2ヶ月間の部屋での生活、263μSv=2.2μSv/時×2h×60d 始め2ヶ月間のクウの散歩、162μSv=0.45μSv/時×6h×60d 始め2ヶ月間の睡眠、2242μSv=0.35μSv/時×21h×305d 部屋の中、320μSv=0.7μSv/時×1.5h×305d 散歩、412μSv=0.9μSv/時×1.5h×305d 野良仕事)1年間に4ミリシーベルトというのは低い数字ではない。これに水素爆発の1週間の間、それ以降の2ヶ月間に受けた外部被ばくと吸い込んだ内部被ばく、さらには自給の野菜を加えると、どういう数字なるのか予断を許さないだろう。昨夜もNHKのクローズアップ現代で、県内の小さなお子さんを抱えた人が、避難地域でなくとも県外に避難する人が続出しているということを取り上げていた。此処の自分の住む場所の汚染状況の数字が分からないので余計に不安を呼ぶ。町では漸く自治会ごとに無料の線量計を置いて貸し出すという。後手後手な感じがする。
2011年07月14日
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買い物弱者を さらに追い込んだ震災こちらに来て痛感したのは車社会と言うこと。車がないと買い物もままならず、駅へ行って何処かに出かけることもできない。車が欠かすことのできない生活の一部になっている。だから車の運転ができない高齢者は、普段でも離れたスーパーや店に買い物に行けず買い物弱者となっている。そうした高齢者の一部は、スーパーや生協の「個人宅配・共同購入サービス」を頼りとしている。私も週に一度の「コープ福島」の個人宅配サービスを買い物代わりにしていた。ところが震災後、まったく機能しなくなった。それも再会するまでに二か月ほど時間がかかった。車があってもガソリンが売られていないから買い物もできない。幸い昨年作った米や味噌、ジャガイモ、沢庵、梅干し、ラッキョウ漬け、買い置きの缶詰め等々があって飢えることはなかった。だが、こうしたストックがないお年寄りはどうしていたんだろう。生協の店舗は、さほど遅くない時期に、他の大型店舗と同様に再開していた。店舗が開きながら、個人宅配サービスは一向に再開の目途が立たない。生活協同組合の主旨からいって、買い物弱者への心配りが余りに欠けているように感じた。生協本部に確認すると、店舗と戸別配達は別組織であるとのこと。大手コンビニエンスストアのローソンが全国ネットを活用していち早く本部の指示で全国的に東北のローソンの各店舗を支援していることをニュースで知った。生協は全国組織でなかったのか。協同組合だからこそ店舗と個人宅配サービスとの連携、大手コンビニエンス組織と同様に、いやそれ以上に全国津々浦々のネットの輪が広がるのではないかと訊ねるが、各県の生協は独立採算のため横の連携が取れてないという。理念と現実のギャップに気落ちさせられた。昨夜、仮設住宅での孤独死がニュースで取り上げられていた。同時に、買い物弱者の報道もされていた。阪神淡路大震災の教訓を生かそうと繰り返し言われてきたが、どこま活かされたのだろう、掛け声だけに終わっていたのならあまりに悲しい。簡単なパン焼き米を作りながら朝食はパンが多い。ふた月パンが食べられなかったのはきつかった。自衛手段というわけでもないが、自分でパンを作ろう! 時間はあまるほどあるし。てなわけでホームベーカリーを買い込んだ。セットに5分、焼き上がるまで4時間半ほど。強力粉やドライイースト、スキンミルクも半年~1年間分をストック。焼き上がる香ばしいにおいが何とも言えない。焼きたてのふわふわ、もちもち感 そしてモーニングコーヒー 美味いなぁ!
2011年07月12日
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連れ合いだけは 何とか東京へ3月13日の夕方に電気が通じるようになって情報が一挙に増えた。とくにWebサイトからの情報が増えるに従って、どうやら原発事故は予断を許さない厳しい事態に陥っているらしいことが徐々に解ってきた。最初の頃の私の頭には、まだ水素爆発が起こったことと放射線物質が漏れ出したことが結びつかないでいた。大した量の放射線物質は出ていない、遠くにいくほど薄まって行くから人体への影響を与えることにはならないという政府の会見での説明を真に受けていた。怖いのは格納容器が爆発することにあると思い込んでいた。放射線が体に悪影響を及ぼすことは分かっていても、それはレントゲン撮影の時のように一瞬の被爆さえ気をつければ済むと思っていた。家のなかに居れば飛んで来る放射性物資を直接身体に触れずにやり過ごせて大丈夫だろうとタカをくくっていた。だが時間が経つごとに深刻な状況にあるらしいことが分かってきた。連れ合いだけは、ここから出られるようにしなければ。気はせくが列車は止まっていて、いつ再開するかまったく見通しが立っていない。バスが仙台から新潟、山形をへ行くのがあるらしい。新潟まで行けば新幹線が通っている。仙台までの往復は軽油を満タンにしておいたパジェロでなんとかなるだろう。だが肝心の席は何日先までも満席状態だ。キャンセルがでないか二日間にわたってキーボードを繰り返し打ち続けた。願いは通ずるものだ。随分と先の日付だが1席だけ空きが出ているのにぶつかった。私は昨年から集落の皆さんと J A や役場との農事に関する連絡係の役割を仰せつかっていた。輪番とは言え他から入ってきた新参者を信頼して選んでくれた手前、役割を放り出して逃げ出すわけにもいかない。ましてこれから作付や放射線に関する様々な情報を伝えなければならなくなることが予想された。地域が避難することになるまでは一緒に行動しなければならないだろうと覚悟を決めることにした。チケット代の口座からの引き落としの手続きもすっかり終えた。ホッとしてテレビを見ているとテロップに、福島駅から東京駅八重洲口までの臨時の高速バスが出るとことになったと流れた。こちらのほうが新潟経由よりも速いし、もしかしたら出発日も繰り上げられるかもしれない。電話をするが一向に通じない。殺到しているのだろう。今度は電話をかけ続けた。百回近く掛けただろうか、諦めかけた頃に受話器口に女性の声が聞こえた。運が良かった。明後日の空きがあるという。予約を終えた。6時過ぎの出発なので、念のため早朝の4時半に家を出る。まだ売り場の窓口は閉まっていた。待っていると、あっと言う間に100人ほどの列が出来ていた。電話で予約番号が知らされていたが、中には、予約せずに待っていた人がかなりいて係員と押し問答をして混乱した。すぐ後ろで待っていた女性は南相馬から来たという。数週間後に結婚式を控えて南相馬に来ていて地震に遭遇したという。婚約者も、そのご家族も無事だったそうだ。バスに乗り込む連れ合いを見送ることができて、心底ほっとした。連れ合いも、その女性も並んで座っていた。
2011年07月09日
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間近で見た歌姫たち早朝に行政区の世話役から携帯に電話が入った。もしや何処かの家で不幸でもあったのだろうか。恐るおそる 「何かありましたか?」 と訊ねると 「今日の夕方から時間があるかい」須賀川市文化センターで 『BS 日本のうた』の公開収録があるという。岩崎芳美、クミコ、伍代夏子、夏川ルミ、美川憲一他13名の豪華メンバーが出演する。しかも前から2番目の中央の席を確保したという。昨夜から徹夜で並んだそうだ。「行きます! 行きます!」 二つ返事だ。岩崎芳美の 『タッチ』 から始まり、クミコさん、夏川りみさんの心あらわれるような澄んだ歌声に聞き惚れた。ドラマに感動するようにゾクッと鳥肌がたった。歌って、こんなにも心地好かったんだ。清涼剤のように爽やかな気持ちにさせていただいた。歌番組の収録なんて初めての体験で、左右のカメラ、舞台上のカメラの動きの見事さにも驚かされた。特に舞台下のカメラの動きは曲に乗って滑らかで華麗だ。収録が終わって客が席を立って出るまでカメラマンはお辞儀をしておられた。感激して 「テレビの映像が、こうして作られていたんですね。見とれてしまいました」 とお礼を伝えると 「いいえ、観ておられる方の邪魔になってしまい申し訳ありませんでした」きっと、この番組だけでないのだろう。スタッフの誠実さに終わってからも温かな気持ちで家路につくことができた。世話役さんありがとう! そしてNHKさんにも感謝!皆さんも7月10日(日)午後時30分~8時58分 観てね。 文化センター側を流れる
2011年06月30日
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我が家に 新しい生き物の仲間がずーと以前に鶏小屋作りをこのブログで紹介したことがある。最初に作った犬小屋や薪置き場に比べて、我ながら数段、出来が良いと思った。犬小屋と言っても、どうひいき目に見ても、ただ箱を横に置いただけの代物だったし、今にも落ちてきそうな波板で被っただけの薪置き場だったから、数段上と言ってもたかが知れている。鶏小屋が完成して直ぐに雛を購入した。だが温度管理がうまくいかず10日程の間のうちに次々と死んでしまった。これはかなりのショックだった。雛から飼うことの難しさを痛感させられた。あれから2年経った。昨年の秋にJAへ予約しておいた雛がやって来た。今度こそは死なせてなるものかと、巣箱に電球による暖房、サーモスタットの温度調整と準備万端の備えをした。4月上旬に引き渡される予定だったが、原発事故が起きたために一月半ほど雛が来るのが延期された。この遅れが幸いした。今回の鶏は前に来た雛の2倍も大きく成長した立派な若鶏だった。用意した雛箱は小さすぎて役立たなかった。大きい体格で見るからに寒さ知らずで強そうだった。鶏が来てから2週間経ったが、元気に餌をついばんでいる。有精卵がいいので雄1羽を入れて雌5羽の家族。これはハーレムと言うのかなぁ、それとも女人天下と申しましょうか(笑) ブンブンブン 蜜の音こっちは何千匹の仲間だ!!昨年秋に、知り合いの I さんが今度分蜂(ぶんぽう)したら養蜂箱を持ってきてやるからと言ってくれた。先週、何と三段も持ってきてくれた。箱の中に女王蜂がいて、箱の下の小さな出入り口付近に何千なのか、どのくらいいるのだろう、引っきりなしに働き蜂が飛来している。この養蜂箱は、彼の家の山の杉木を切り倒し、製材所に出して板にしたものを手作りしたものだ。設計図をいただいたので自分でも作るつもりだったが、生来の親譲りの不器用さもあって、大雑把な鶏小屋ならいざ知らず、こういう細かな細工は無理だろうなぁと諦めていた。前にも書いたが、彼は時々、訪ねて来てくれて、一人暮らしの僕の安否を確認してくれる数少ない友人だ。秋にくれる大根や白菜は、それはそれは見事なものだ。こういう人と知り合えたからこそ、知らない土地で6年目を迎えることができたのだと思う。感謝。
2011年06月25日
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知る人ぞ知っていた 原発の危険震災から三日目(3月13日)に連れ合いと一緒に山の家に戻った。帰りの車の中で原子炉からの放射能物質が漏出していることを知らされた。避難所で連れ合いの隣に、たまたま居合わせた紳士然とした人が、早朝に避難所を出て行ったという。その前日に、その人が部下か同僚かと原発事故が最悪の場合は爆発する危険があるから一刻も早く遠くへ避難しようと相談していたという。ラジオでは死者や行方不明者、各地の被災状況、電気や水道といったライフラインの情報が刻々と伝えられたが、原発の事故の情報は無い。単一ラインの情報は限られていた。連れ合いからの話で急に原発から出た放射能の問題が現実味を帯びてきた。その日の夕方に電気が通じた。TV画面の上の方に3つ、4つとテロップが流れ様々な情報が同時に流れていた。テレビからの情報の何と豊かなことか。初めて津波の押し寄せる画面を見た。ラジオで聞いて想像していたものとあまりにケタ違いだった。身体がワナワナと震えた。インターネットは情報の宝庫 芋ずる式に知りたい情報に辿り着く原発事故の状況も伝えていた。だが解説する人が淡々と話しているので、その非常さが伝わって来ない。 「外出するときはマスクを着用して帽子を被ってください」 「換気扇は使用しないでください」 いったいどれほど危険なんだろう。 「直ちに健康に影響は及ぼさない」 直ちにじゃなければ将来は危険があるのだろうか。原子炉の事故の状況を解説する専門家は不安を押しとどめるように、危険性を低く評価するような説明しかしない。アナウンサーも物静かだ。水素爆発のときもあまりに冷静沈着に報道していた。こういうときは、もう少し感情を込めて、ちょとときつめに危険ですから部屋のなかに避難してください!!と言ってくれないとと危機感が伝わって来ない。インターネットで情報を探し回る。避難地域の10キロ、20キロの同心円が目に入る。我が家は第一原発から何キロ地点なのか、地図で計ってみると45,46キロある。20キロ圏内は避難地域だという。大丈夫だ。まだ20キロ以上あると自分を安心させる。ところが調べていくと、放射線物質の汚染範囲は風向きや山の起伏に影響しているという。国が公開していた放射線量の情報でも北西方向30キロ、40キロ地点が高く、50キロ、60キロ地点でも高い所がある。ところが当初は具体的な地名が記されず伏せられていた。北西というと自分の住んでいる方向だ。中途半端な情報公開は余計に疑心暗鬼をよび不安をかき立てる。地名が出たのはだいぶ先になってからだった。インターネット言うのは情報の宝庫で、ある人のブログやホームページ、twitterから芋ずる式に情報の輪が広がり、突き進んでいくと凄い情報にぶち当たる。Speediという汚染予測開発ソフトがあるらしい。さらに一部が公開されているという。3月の下旬に漸くのこと、色分けした地図にたどり着くことができた。さらに放射線関係や宇宙物理学の研究者たちが、さまざまな形で情報を分かりやすく加工し発信してくれていた。Speediの地図の上にモニタリングで公開されたデーターを重ねてくれた人もいた。自分の住処は何処だ!地図上で探す。北西に高い線量の地域が広がっている。先ず浪江、そして飯舘だ。さらにその先に若干高い福島市が広がっている。我が家はその間にある。ホットスポットならぬ若干クールスポットになっていた。私が情報源にしたtwitter。今でもタイムリーな情報がいっぱいある。http://twitter.com/#!/hayanohttp://twitter.com/#!/Mihoko_Nojirihttp://twilog.org/tweets.cgi?id=AkiraOkumura&word
2011年06月23日
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連絡のとれない不安東京の家から昨日、父の日に梅ワインの詰め合わせが届いた。地震と原発事故以来、連れ合いには一度だけ来てもらったが、それから、かれこれ2ヶ月ほど会っていない。その分、毎晩、欠かさずに小一時間ほど電話で会話を楽しんでいる。一緒にいる時は改まって話すことはなかったが、離れて暮らすと不思議なもんでメールにしろ電話口での会話にしろ結構話すから面白い。連れ合い曰く、私のボケ防止だそうだ。 梅ワインの『梅うふふ』 名前が素敵だ地震のあった日に、携帯ラジオでは東京でも相当に大きな地震であって何人かの死傷者が出たと伝えていた。また当日の新幹線が途中で立ち往生したというのもラジオで聞いた。携帯電話をいくらしても東京の娘とも東京に向かっていたはずの連れ合いとも連絡が取れない。ケガでもしてないか、新幹線が止まり進退きわまっているのではないか、連絡が取れないと余計に不安にかられてしまう。震災のあった翌日、意を決して連れ合いを探しに出かけることにした。町で災害時の仮設電話でも設置しているかと地元の役場に出かけたが、職員は浮き足立っていて肝心な情報は何もなく、まともな対応もしてくれない。隣接している市の分庁舎車を走らせると、発電機が稼動していた。公衆電話が使えると職員が親切に対応してくれた。だが、やはり東京の家の電話にも連れ合いや娘の携帯にも通じなかった。福島市に向かったが、隣の町も市も何処もかしこも停電だった。給水に列をなしていた。福島駅に行ってみたが、構内が地震で崩れていて危険なので入り口が閉まっていて入れない。AUの販売店に行けば携帯電話の上手い操作方法を教えてもらえるかもしれないと行ってみるが、特段上手い方法はなく、今は掛かりにくくなっているので繰り返し掛けるしかないと言う。途中の駅まで行けば情報がもらえるかもしれないと次の駅、また次の駅・金谷川と向かうが駅員がいても情報が入っていこないと、すげない返事しか返って来ない。途方に暮れる。腹が減ってきた。そういえば昨夜から飯らしい飯を食べていない。金谷川という駅は福島大の最寄駅で家からも20分ほどと近く駅前に無料の駐車場があり比較的多く利用している駅だ。広場の横に学生向けの食堂が開いていた。待っている間に所在なく携帯に電話を電話していると、な なんと!連れ合いの携帯に繋がった!!東京の娘は無事だという。連れ合いは怪我もなく避難所にいて炊き出しのにぎり飯や温かな味噌汁を頂いたという。夕方にでも新幹線が動くだろう、このまま待っているから心配しないで大丈夫だという。このときは、その程度で、すぐに復旧するとたかをくくっていた。あにはからんや、新幹線が開通したのはそれから一月も先のことだった。その時は、そんこととは思いも及ばず、ホッとして帰宅した。その日の夜のラジオのニュースで新幹線は当分は動かないと報じた。これは明日にでも郡山に迎えに行かなくては。翌早朝にディーゼル車で出発。これが正解だった。既にガソリンが不足し始めていたが軽油は若干売られていた。帰りに何ヶ所かのスタンドに立ち寄って10リットルずつ軽油を注入できた。既に高速の東北道は一般車は通行できないとニュースで伝えていた。国道四号線も途中で通行できない箇所があるかもしれない。裏道を通って三春の近くまで行って4号線に出よう!このときは原発事故のことは全く頭になく、結構高い放射線の値の所を通って行った。郡山駅についたが何処に避難所があるのか皆目分からない。駅構内の派出所に訊くと駅前のビルにもしかしたら避難しているかもしれないとのこと。入口の受付に名簿があった。けっこう沢山の人が避難しているようだ。名簿が何分冊にもなっている。一通り見てもいない。他の避難所なんだろうか。諦めかけていたら受付の人が居ましたよ!と見つけてくれた。避難所は大小何部屋にも別れていた。どの部屋の人もダンボールを下に敷いて横になったり、座っていた。みな憔悴しきっていた。4っつ目の部屋の奥で連れ合いは座って横の若い女子と談笑していた。鼻の奥がツーンとした。胸が高まった。嬉しかった。
2011年06月19日
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3月11日 運転中に地震に遭遇3.11から100日が経過した。原発の事故の収束がつかず放射線に怯える毎日で、未だ私の中では地震と原発事故は終わっていないが、ようやく気持ちの上で整理がつき始めた。東京に戻る連れ合いを福島市内へ送っていった帰り道、ラジオで緊急地震速報が流れた。車を止めると直ぐに揺れ始めた。はじめはゆっくりと、だが直ぐに激しく横揺れがして、次いで縦にドスンガタガタと激甚な揺れが続く。車が横転するのではないかと不安になるほどだ。街路地や街灯のポールがグラグラ烈しく揺れ、電線がブルンブルンと波打っている。停車しているのに知らず知らずのうちにブレーキを目一杯に踏んづけていることに気がつく。前に体験した震度3や4の地震と違って揺れる時間がすごく長い。ようやく揺れが収まり走り出す。しばらく行くと信号が点灯していない。地震で電気が停まったようだ。角のコンビニの店内も真っ暗だ。交差点でスピードを落とし譲り合いながら右折する。余震なのか時々揺れを感じるので直ぐに停車できるようにスピードを落とす。前の車も後の車も同じようにゆっくり進んでいる。いつもだと15分くらいで行ける道が30,40分ほどかかった。町に近づいた。途中のセブンイレブンやローソンはどこも真っ暗だ。6軒ほど集中している大型店舗も店内が暗くシャッターが降りていたり、臨時に休業している。トンネルが近づいた。不気味だ。中は真っ暗な黒い穴を開けている。以前、奥尻の地震でトンエルを走行中に地震で落盤して生き埋めになったニュースの場面が頭を過ぎる。灯りのないトンネルは底気味悪い。何事も無く通過できてホッとした。なんとか無事に我が家へ通づる林道にたどり着いた。だが、ここからが気掛かりだ。途中、土砂崩れがあるに違いない。暫く行くと案の定、土砂が堕ちている箇所に何度か出くわした。幸い、通れないほどの土砂崩れはなく大岩でも1メールほど、殆どは30~50センチほどの塊だ。ぬうようにして先に進む。さらに行くと5~20センチほどの幅の地割れが口を開けて4メートル程斜めに舗装道路を横断している。行くか引き返すか迷ったが、家が壊れていないか、動物たちは大丈夫なのか心配で突破する。家に着き、まずは下の駐車場の横のYaeの小屋を覗く。いつものように "腹を空かしたとヨ" とエサを催促している。犬小屋の前でクウガ飛び跳ね迎えてくれた。クウは地震が相当に怖かったのか犬小屋の脇のイチジクの小枝を数本折って、その先で前足の脇腹を傷をつけていた。幸い大したことはなさそうだ。家も崩壊せずに立っていた。家の中に入れておいたチュウはドアを開けるなり ニャオー と擦り寄って片時も離れようとしない。部屋のテレビや茶箪笥、冷蔵庫、パソコン等は固定しておいたので倒れず無事だった。ただ積んで置いた本棚の中の本がバサッと落ちていた。2階の押入れのドアが開いて、棚の上から予備の毛布の入った箱が毀れ落ちていた。どの部屋も大きな被害はほとんどなく済んだようだ。ずーと後に気がついたのだが土蔵の壁も2×3メートルほど崩れていた。その日から三日間、停電が続いたのはしんどかった。最初の夜は暗闇の中の余震が怖く家ノ中に居るのが恐く、車のなかに布団を敷いて過ごすことにした。中で横になっていると隣の家のお兄さんが一緒にいかがですかと声をかけてくださった。お陰で隣人の家族の4人と暖かい炬燵で夜を過ごせて安心した。余震がある度にローソクの灯を消して皆で一緒に飛び出した。余震におののきながらの一夜が明けた。電気が通じないから携帯ラジオが唯一の情報源だ。どうやら地震の規模も震度や津波の被害は相当なものらしい。数日後、電気が通じるようになってテレビの映像を見て、そのひどさに度肝を抜かれた。自分の想像をはるかに超えるものだった。
2011年06月19日
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e-Tax の確定申告今年で三回目だがインターネットによる申告は一向に慣れそうもない。大して収入があるわけでもなし、わざわざ町や県に出かけずに簡単に済まして、しかも頭の老化防止に役立つかもしれないと始めた。1年の歳月は無情なほどに記憶を彼方に遠のかしてしまう。ソフトも毎年進化し続けているようで1年目と2年目と画面も違い、入り方や操作方法も異なっているみたいで自信喪失につながる。いやいや、もしかしたら、それも単なる記憶違いだけなのかもしれないが、どうにも電子申告はおぼつかない。だが、電話にて去年も訊いたようなことを何度か教えてもらってようやっと終わり直前までに漕ぎ着けた。やれやれ、送信する前に午後にもう一度確認してから、と思ったところに落とし穴がポッカリ開いていた。保存せずに印刷画面したのか、何か操作を間違えたようだ。いくら作成再開の画面を呼び出してもこれまでのデータが出てきてくれない。おいおい また一歩からやり直しかよ。うんざりしながら書類をかき集め入力を終えた。今度こそ間違えんぞ!!無事送信できた。しかも納めた雀の涙の税金の還付金もあるようだ。
2011年03月07日
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水っぽい雪2月下旬に降る雪は水っぽい。木々に着雪して、これまでとは趣きが違う世界が楽しめるし、普段、見過ごしてしまうモノも目に入ってくる。梟の形をしたソーラーの灯りが雪帽子をかぶっていた。その脇の百日紅に実がいっぱいなっている。その横の柿の枝々にも器用に雪が乗かっている。これだけ水っぽいと暫く放っておけば溶けてくれるのも嬉しい。とは言えグチャグチャになるのも嫌なので歩く所だけ雪かきしておいた。
2011年03月01日
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