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(承前) 飛鳥川銀輪散歩二日目は、八木駅前から長谷寺方面へ走るということも考えていたのだが、天気予報で午後から雨となっていたことから、これを取り止め飛鳥川沿いを下流に向かって走ることとする。 先ずは。多神社にご挨拶。(多神社) この神社は、これまでにも何度か立ち寄っているが、2012年4月28日、友人・偐山頭火氏との銀輪散歩の折に訪ねたのがその最初である。<参考>田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩(その1) 2012.4.29. 三輪山登拝・大神神社から多神社まで 2018.3.27. 多神社というのは通称で、多坐弥志理都比古神社というのが正式名称。(同上・由緒)(同上・説明碑)(同上・鳥居)(同上・拝殿)(同上・手水舎)(古事記献上1300年記念碑)(同上・小社神社) 太安万侶を祭神として祀っているのが、この小社神社の祠である。(同上・多皇子神命神社)(同上・多皇子神命神社説明碑) 太安万侶の墓がこの近くにあった筈とその探索を開始したが、見つけられず諦めることにしました。 それもその筈、下調べもせずにやって来たので、飛鳥川畔と思い込んだのが間違いで、一つ東側を流れている寺川畔にそれはあるのでした。帰宅して過去記事を調べた結果、判明しました。<参考>太安万侶の墓(松の下古墳) 2012.5.1. 参考までに同記事掲載の写真を再掲載して置きます。(太安万侶墓 中央の丸い塚がそれです。撮影者:友人の偐山頭火氏) 12年も前の写真ですから、現在どんな風になっているのか確かめたかったのですが、残念。まあ、元々、多神社を訪ねる予定ではなかったので、下調べなしということで止むを得ません。(二上山遠望) 二上山を遠望して、飛鳥川銀輪散歩再開ですが、ひとまず多駐輪休憩所でタバコ休憩であります。 この休憩所の写真は撮っていませんが、過去記事に掲載していた筈と調べてみると、果たしてありました。現在と少し様子が変わっていますが、再掲載して置きます。(多駐輪休憩所※)※上掲は、2018.3.21.記事「飛鳥から結崎まで(ペリカンの家小旅行番外編)」に掲載の写真の再掲載です。 飛鳥川下流へと走ります。(飛鳥川) カンナが咲いていました。(飛鳥川畔のカンナ)(同上) アキノノゲシは綿帽子、絮となっていました。(飛鳥川畔のアキノノゲシ)(同上) そして、柿がたわわになって・・。 その手前の畑ではホウセンカが咲いていました。(飛鳥川畔の柿) 上掲の柿と鳳仙花は、正確には飛鳥川畔の畑地の柿と鳳仙花であります。(飛鳥川畔のホウセンカ) そして、こちらは間違いなく飛鳥川畔の花と茸であります。(飛鳥川畔のタマスダレ)(飛鳥川畔のカラカサタケ) これは勿論、毒キノコであります。(同上) 遠目には、古墳か何かのように見えた公園らしきものが目に入りましたので、立ち寄ってみました。 やすらぎ公園と、銘板にはありました。(やすらぎ公園) 隣接する建物は田原本町やすらぎ体育館。町立の体育館を建設するに当たり、その隣接地を整備して公園としたのでしょう。 ここで、小休止しているうちに、ポツリ、ポツリと雨の降り出す気配。進むか引き返すか迷ったが、昼食のことやトレンクルを宅配便で送り返すことなどを考慮すると、大和八木駅前に引き返した方が都合よかろうと、銀輪散歩を切り上げて、引き返すこととしました。 ということで、不本意ながらこれにて銀輪散歩切り上げであります。 駅前到着まで本降りになることもなかったのは幸いでした。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2024.11.11
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先日(10月31日~11月1日)久しぶりに飛鳥川畔を銀輪散歩しましたので、遅ればせですがこれを記事アップします。大和八木駅前の「宮廷飯店」という店でラーメン&餃子で昼食を済ませ、軽量小型折りたたみ自転車・トレンクルにて出発であります。 耳成山公園から醍醐池へと向かいます。(醍醐池)(醍醐池西側のコスモス) 醍醐池に向かったのはコスモスが目当てであったのだが、もう花の盛りは過ぎていたようで、咲き残っている花は僅かでありました。 コスモス畑の後方の畦道に植わっている木の一つにヤドリギが見てとれましたので、ズーム撮影。(ヤドリギ) 同じ木であるのかどうかは不明であるが、3年半ほど前の飛鳥川銀輪散歩の記事にヤドリギの写真が掲載されていることが過去記事を調べてみて判明しましたので、再掲載して置きます。 両者が同じ木であるとすれば、上掲の写真は南側から撮影しているのに対して、下掲の再掲載写真は多分北側から撮影していることになるかと思う。(2021年4月12日記事に掲載写真の再掲載) 3年半で木がどの程度成長するものなのか、よくは存じ上げないが、両者の違いは、再掲載写真のヤドリギは高い枝の辺りに存在するのに対して、今回撮影の写真ではそれほどでもない高さの枝に取り付いているように見える。 3年半で木の枝が高く成長したのであれば、以前は高い位置であった枝部分に寄生したヤドリギも相対的に低い位置に見えるから、同じヤドリギであるとも考えられるのだが、再掲載写真のそれが撮影された場所についての明確な記述がないので、何とも言えない。しかし、多分同じヤドリギなのではないかという気がしています。 ヤドリギは万葉では「ほよ(保与・寄生)」と呼ばれる。あしひきの 山の木末こぬれの 寄生ほよ取りて 插頭かざしつらくは 千歳ちとせ寿ほぐとぞ (大伴家持4136) 大伴家持のこの歌や万葉では「ほよ」と呼ぶことなどは2021年4月12日の記事に記載しているので、これをご参照ください。 醍醐池から飛鳥川畔の道に出るべく、醍醐池と藤原宮跡との間を東西に通っている道を西方向へと向かう。 この道を、道なりに突き当りまで行き、左折すると飛鳥川沿いの自転車道に出られるのだが、その突き当り少し手前におふさ観音がある。おふさ観音の所在地は橿原市小房町であるから、漢字では「小房観音」と書くのだろうが、おふさ観音と平仮名表記するのが通例のよう。 さて、そのおふさ観音の門前東側、ヤカモチの目下の走行方向から言えば門に至る少し手前に「さなぶりや」という店がある。通りかかったのも何かのご縁と「さなぶり餅」を買い求めることとする。 この店は、2018年9月16日に実施したペリカンの家サイクリングの際に立ち寄って以来であるから6年ぶりということになる。(さなぶりや 2018.8.27.記事掲載写真の再掲載) 上の2018年8月27日の「ペリカンの家サイクリング下見」の記事でも、2018年9月16日の「ペリカンの家サイクリング・明日香篇本番」の記事でも、ヤカモチ自身がさなぶり餅を買い求めたという記述はないので、多分初めてこれを買い求めたということかも知れないのだが、何となく食したという記憶もあるので、ひょっとすると本番ではヤカモチも買い求めたのかもしれない。<参考>さなぶり餅―奈良の食文化研究会 店先で「ごめんください」と言うも店の人が出て来る気配がない。 もう一度、今度はかなり大きい声で繰り返すと、ようやく店の奥で人の動く気配があり「は~い」という声。 「コスモスを見て来られましたか」と店の人。 どうやら、この道は、おふさ観音と醍醐池とを結ぶ通行路で、コスモスを見た帰りかコスモスを見に行く前かに、お客さんが立ち寄ってさなぶり餅を買い求めるのだろうと、その言葉から推測されました。 おふさ観音にもご挨拶して行く。(おふさ観音)<参考>おふさ観音 おふさ観音の門前にて頂戴したミニパンフレットです。 今は、丁度、提灯まつりと秋のバラまつりのシーズン。(同上・ミニパンフレット)(同上) 飛鳥川沿いの道に出て、これを上流に向かって走ります。 この道はこれまでに何度も走っているので過去記事にも何度も登場済みかと思う。 囲碁例会で梅田スカイビルへと自転車で行く途中には毎日新聞社ビルの前をよく通るのであるが、かつてはこのビルの1階の喫茶店で昼食をとったりしたもの。随分以前のことになるが、その折に言葉を交わした男性客(毎日新聞社の社員だろうとその時は思ったのだが、実のところは不明)が、毎年大阪マラソンに出場されていて、この飛鳥川沿いの道でランニングをして体を鍛えているというようなことを話されていたことを思い出す。(飛鳥川) コサギであるか、白鷺と鴨と亀が仲良く集まっていたので、写真に収めましたが、近づくとサギは飛び去り、カメは水中に隠れてしまいましたが、鴨は何事もなかった風にのんびりとしています。人の動きに対する動物の反応も様々である。(同上・甘樫丘付近) 甘樫丘の前までやって来ました。さなぶりやで買い求めたさなぶり餅を食べたりしながら、水分・煙分補給のため麓の休憩所で小休止です。 今回、飛鳥川畔を走って来たのは、奈良県立万葉文化館に入館するのが目的の一つ。甘樫丘を背に飛鳥川を渡り、飛鳥寺の前を通過、万葉文化館へと向かいます。(奈良県立万葉文化館)(同上・案内パンフレット)(同上)(同上・一般展示)(同上)(同上・令和6年度展覧会・行事のご案内パンフレット) このパンフレット記載の「特別展・天武天皇と<飛鳥・藤原>の文化」を見学してみようというのが目的でやって来たのでありました。(同上)(天武天皇と<飛鳥・藤原>の文化特別展パンフレット)(同上)(同上・入場券) 展覧会会場内は撮影禁止で展示物の写真は撮れないので紹介はできませんが、飛鳥池工房遺跡出土の富本銭は勿論、お馴染みの飛鳥大仏頭部や山田寺仏頭や猿石の複製原寸大レプリカ、伝田道間守像、大伯皇女木簡、大津皇子木簡など興味深い展示物が多くありました。 特別展示の方は有料であるが、一般展示の方は無料。従って、入館料は必要なく、一般展示だけを見て帰るのであれば、無料で出入り自由ということである。 時間があれば、飛鳥寺も久しぶりに拝観してみようかと考えていましたが、万葉文化館での小一時間の見学だけで、腰の疲れが限界。飛鳥寺はスルー。寺の北側の路地を抜け、寺の西側にある蘇我入鹿の首塚にだけご挨拶して、飛鳥川沿いを引き返すこととしました。(蘇我入鹿首塚) 背後の丘が甘樫丘です。 車が走っている道が県道209号でその後ろを飛鳥川が流れている。くびつかを 見つつかへらむ 腰痛を かばひてわれは あすかがはくだる (腰痛家持) この日は大和八木駅前にホテルをとっていたのでここで宿泊、翌日は駅前より飛鳥川を反対方向の下流側へと走る予定。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2024.11.10
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先月(9月)上旬に新潟に出掛けたついでに少しばかり銀輪散歩をしましたが、その折の写真です。 ヤカモチは現役であった頃から自転車が趣味で、出張などの折で前後が休日などという状況の時は自己負担でホテルに前泊または後泊することとし、宅配便でホテルに送って置いたトレンクル(小型折りたたみ自転車)を利用して、フリーとなった時間に銀輪散歩を楽しんだりしたものであるが、退職後の私的な旅に於いてもこのスタイルを続けている。 今回の銀輪散歩もその口である。(日和山浜海水浴場の大階段) 今回は、信濃川沿いの遊歩道から海沿いの自転車道に入り、これを銀輪散歩したのであるが、この時に撮った写真は上掲と下掲の2点だけであったので、銀輪散歩の記事にはなるまいと放置していましたが、ネットからの借用写真も加えて、記事にしてみます。 海沿いの自転車・歩行者専用道を日和山浜海水浴場付近まで走って来ると、多くの子どもたちが大階段に群がって、ペンキと刷毛や筆を手に何やら盛んに塗っているのに出くわしました。(同上・階段下から撮影) 何の絵を描いているのかと、階段下に下りて見上げたのが上の写真。 ファインダーから覗いた限りでは何とも分からなかったのだが、写真画像を見ると鯨の絵のように見えますな。(以下3点の写真と地図は、「日和山浜魅力創出事業~ハマベリング!!!~」からの借用です。)(日和山浜海水浴場ドローン写真 ※赤線ーは筆者追記) ヤカモチは上の写真ではー線の道を右から左へとやって来たのですが、写真中央の大階段が、その現場であります。 大階段部分のズームアップ写真が下の写真。(同上) これは、上記の日和山浜魅力創出事業云々のネット記事を見て初めて知りましたが、沖合に向かって、このような遊歩道が設けられているのですね。 ハマベリングというのが、その名のようです。(同上・ハマベリング) 上記の、日和山浜魅力創出事業云々の記事と子どもたちのペンキ塗りとの関係があるのかないのか不明であるが、皆さんとても楽しそうにやっていました。 下掲の地図に日和山小学校という文字が見えるが、この小学校の児童たちだろうか。<追記:2024.10.24.> 日和山小学校のブログを覗いてみると、やはりこの学校の児童たちによるものでありましたので、ご参考までに追記して置きます。 ハマベリング!!!大階段アート・日和山小学校ブログ(日和山浜位置図 赤線ーと青文字は筆者追記) 銀輪散歩はみなとトンネル(海底トンネル)方向に進み、トンネル途中、正確には対岸には向かわずトンネルに入ってすぐのところの入船タワーで地上に出て信濃川左岸に沿って万代橋方向へと走り、短い銀輪散歩で切り上げました。<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇
2024.10.22
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(承前) 前頁の続きです。7月30日の西ノ京四ヶ寺巡礼銀輪散歩は、西大寺、喜光寺、唐招提寺まででタイムアウトとなりましたので、翌31日に残る薬師寺を拝観すべく出かけてまいりました。 銀輪散歩を、とも考えましたが、猛暑の中でもあり、西ノ京駅前の薬師寺のみの拝観なので、トレンクルの持参は取り止め、電車で出かけることとしました。 近鉄奈良線・大和西大寺駅で橿原線に乗り換えて、二つ目の駅・西ノ京駅で下車します。 西ノ京駅は改札口が地下1階になっているので、ホームから地下改札口に行き、再び地上に戻るという面倒な導線になっている。 地上に出て正面を進むと、先ず目に入ったのがこの薬師寺伽藍図。(薬師寺伽藍図) はい、只今、駅前、遊歩道を少し東に入った場所「現在地」に居ます。 こういう写真は、現在地の説明が一目瞭然なので、説明不要ですな。 広い通り、参道に出て右折、南へ、與楽門へと向かいますが、時刻が既に正午近くになっていたので、喫茶店にでも入って軽く昼食を済ませることにします。 與楽門から少し西に入ったところに”PAS Á PAS”というベーカリーカフェがあったので、そこで昼食&珈琲としました。 ランチも済ませたので薬師寺に向かいます。(薬師寺縁起・パンフレットより) このパンフレットを開くとこんな風になります。(同上 ※画像をクリックして大きいサイズの写真でご覧ください。) 上の写真には青線――で巡回コースを書き加えていますが、それでお分かりの通り、この日の拝観は南側の白鳳伽藍エリアのみであります。 與楽門より入山し、北拝観受付で拝観受付を済ませます。 先ず目に入る正面の建物が食堂(じきどう)。 薬師寺の正門は南門であるから、その反対側である北側にある與楽門は言わば裏門である。裏口から入るのがヤカモチ流であるから、これでいいのである。 裏口から入ったのだからいきなり食堂の建物ということになるのも仕方がないが、昼食を済ませたばかりのヤカモチであるから、これには入らず建物に沿って北側の空間を東へと回り込んで、伽藍の中心部に行こうと歩いていると、目にとまったのがこの石標。(十字廊と周辺の遺構) かつては食堂の北側に接して十字形の間取りをした食殿(じきでん)という建物があったということのようである。食堂に付帯する何らかの機能を受け持つ建物であったのだろう。 まあ、食堂(じきどう)とは言っても、食事を提供する場所というのではなく、今は参拝者向けの土産物など諸グッズの売り場兼休憩所といった機能を果たしています。 さて、食堂とこれに続く東僧房の建物に沿って歩き、これを東に回り込んだところにあるのが鐘楼。 鐘楼越しに東塔を撮ってみる。(鐘楼と東塔) 鐘楼の前には、蓮鉢が沢山並べられている。(蓮と東塔) 今回の拝観は蓮の花がキーワードであるから、蓮の花越しに塔を撮ってみます。 ハスは万葉では「はちす」というが、これはその実となる部分の形状が蜂の巣の形状に似ているからである。 もともと日本に自生していたとする説と、大昔に中国から渡来したとする説があるらしいが、インドが原産とされているようだから、有史前のいつの頃からか日本にやって来たのだろう。インドでも地中海沿岸でもハスは永遠の花として尊ばれた。ハスと仏像とは深く結びついているが、仏教で尊重される花であることは今も万葉の昔も変わらない。 遅ればせであるが、蓮の万葉歌を紹介して置きます。み佩(は)かしを 剣(つるぎ)の池の 蓮葉(はちすば)に 溜(た)まれる水の 行くへなみ 我(あ)がする時に 逢ふべしと 逢ひたる君を な寝(い)ねそと 母聞(き)こせども 我(あ)が心 清隅(きよすみ)の池の 池の底 我(あれ)は忘れじ 直(ただ)に逢ふまでに (万葉集巻13-3289)(<み佩かしを>剣の池の蓮の葉に溜まっている水のように、行く方もなく私が思い悩んでいる時に、是非逢おうと言って逢ってくれたあなたのことを、共寝してはいけないと母は仰るけれど、<我が心>清隅の池の、池の底のように深く私は忘れまい。じかにお逢いするまでは。)蓮葉(はちすば)は かくこそあるもの 意吉麻呂(おきまろ)が 家なるものは 芋(うも)の葉にあらし (長意吉麻呂 万葉集巻16-3826)(蓮の葉とはこのようにこそあるもの。意吉麻呂の家にある蓮の葉は芋の葉のようです。)勝間田(かつまた)の 池はわれ知る 蓮(はちす)無し 然(しか)言ふ君が 髭(ひげ)無き如し (婦人 万葉集巻16-3835)(勝間田の池は私は知って居ります。蓮などありません。そう言うあなたに髭が無いのと同じです。)※この歌についての解説はコチラの過去記事に記載しています。ひさかたの 雨も降らぬか 蓮葉(はちすば)に 溜(た)まれる水の 玉に似る見む (右兵衛 万葉集巻16-3837)(<ひさかたの>雨でも降らないかなあ。蓮の葉に溜まる水が、玉にそっくりなのを見よう。)(同上)(東塔と中門と金堂) 回廊の方に進み、東方向から、東塔、金堂、西塔を撮ってみよう。(東塔と西塔と金堂) はい、東側回廊から眺めた金堂と塔の景色です。 もう少し歩を進めて、東塔の左裏手から撮ったのが次の写真です。(東塔と西塔) 中門内側から撮った東塔です。(東塔)(東塔縁起) 東塔と西塔の間を行ったり来たり・・。(東塔・北側からの撮影) これは、ひとめぐりして、講堂脇で一休みしている時に撮った真北側からの東塔の写真ですから、この日、薬師寺境内で撮った最後の写真ということになります。 前後しましたが、西塔です。(西塔)(西塔縁起) 中門を出て、南門の近くまで行って撮った中門の写真です。(中門) 東西の塔を背景に中門を撮ってみようとしたのですが距離が不足で塔が入りませんでした。南門の中まで行けば入ったのかも知れませんが、塔の一部が入った距離で妥協であります。 中途半端でありますが、中門の写真の注文を受けた訳でもなければ、これでいいのだ。もっとも、これを「なかもん」と発音するのであれば上の駄洒落は不成立。「無かもん」としてつかわさい。 中門に戻り、金堂へ。 金堂内を拝観する前に、西塔の北側にある佐々木信綱の歌碑と会津八一の歌碑を撮って置きます。(歌碑) 左側が佐々木信綱歌碑。右が会津八一歌碑です。ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲 (佐々木信綱)すゐえんの あまつをとめが ころもでの ひまにもすめる あきのそらかな (会津八一) ヤカモチは「ゆく夏の大和の国の薬師寺の堂の壁なる一匹の蜘蛛」という戯れ歌を思いついたりもしましたが、イマイチなので偐万葉には不採用とします(笑)。 水煙の「あまつをとめのころもで」や如何にと、東塔の水煙を撮ってみましたが・・。(東塔の水煙) では、金堂に参ります。(金堂)(金堂縁起) 金堂から大講堂へ。(大講堂)(大講堂縁起) 食堂(じきどう)の、涼しい風が当たる一角で暫し休憩して、與楽門から退出であります。裏門の與楽門から入ったのなら表門の南門から退出するのがヤカモチ流なのでありますが、南門から出ると駅が遠くなるので、今回は裏から裏へということにして置きます。 最近は腰痛が酷くなっていて長歩きは身にこたえるのであります。 南門を出て薬師寺の八幡宮である休ヶ岡八幡宮を回り、前述の蓮の万葉歌に記載の勝間田の池とされる大池に足を延ばして、その畔から薬師寺の塔を眺めるというようなコース取りも考えられたのですが、今回は不採用であります。 大池や休ヶ岡八幡宮の写真掲載の過去記事がありますので、これを貼って置くこととします。ご希望のお方はその記事でご散歩ください。<参考>若草歌壇2011花園篇公開ほか 2011.4.30. 大池の写真だけ貼り付けて置きますかね。(大池から見る薬師寺) また、15年も昔のことになるが、薬師寺の回廊に沢山のオオヤマレンゲの鉢が並べられているのに、出くわしたことがある。そのことも懐かしく思い出したので、その折の記事も下記に貼り付けて置きます。<参考>奈良銀輪散歩(その3) 2009.5.23. 薬師寺をアトにしたヤカモチは、ランチ&コーヒーをした先ほどのベーカリーカフェ”PAS Á PAS"に再び入り、抹茶ソフトで暫し休憩。 そして、西ノ京駅へと向かう。(近鉄橿原線・西ノ京駅<ホーム待合室の中から撮影>) ホームで待っているのも暑く、冷房のきいた待合室へ。 待合室は満員です。 待つこと10分足らずで大和西大寺行き電車が来ました。 これにて、西ノ京四ヶ寺巡礼完結であります。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)(追記注:2024.8.14.21:43)勝間田池の万葉歌についての解説を記載した過去記事のリンクを追記しました。
2024.08.12
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(承前) 前頁からの続きです。 喜光寺を出て、垂仁天皇陵の前を通過、唐招提寺へと向かいます。 垂仁天皇陵の写真は今回撮っていないので、下記過去記事をご参照ください。<参考>大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで(その2) 2010.3.6. 第2回ペリカンの家サイクリング下見 2019.8.25. 中学時代の恩師のお墓参り 2023.1.8. 唐招提寺の門前に着いたのは午後3時少し前。(唐招提寺・金堂)(同・境内案内図)(同・境内略図<パンフレットより>) 遅い出発となったため、最初の西大寺に着いたのが午後1時を過ぎていたので止むを得ないが、次の薬師寺の入山刻限が午後4時半であるから、どうやら今日は、ここ唐招提寺までで、薬師寺拝観は後日に回すしかなさそうです。(同・パンフレットから撮影)※画像をクリックして大きいサイズの画像でお読みください。 今日のテーマは蓮の花であるが、境内の萩の花も撮って置きましょう。(同・境内の萩の花)さ男鹿の 朝立つ野辺の 秋萩に 珠と見るまで 置ける白露 (大伴家持 万葉集巻8-1598)(さ男鹿が朝に立つ野辺の秋萩に、珠かと思われるほどに輝いて置いている白露よ。) まあ、萩は何と言っても万葉を代表する花であるから、目にしたからには撮らざるを得ません(笑)。 では、金堂の右手にある売店裏手の蓮池の方へと参りますが、その前に金堂脇に置かれた蓮鉢の花であります。(同・蓮の花<1>) 蓮池です。 蓮池という名かどうかは存じ上げぬが、弁天堂の前にある池で、蓮が池全体に繁茂しているから、蓮池でいいのだろう。(同・蓮池<1>)(同・蓮池<2>) 蓮はそこそこに冷房の効いた売店に入る。売店内に置かれた扇風機の風に当たって、暫くの間、火照った身体を冷やします。 その売店の奥隣に喫煙所がある。扇風機の風は名残惜しいが、タバコも喫いたい(笑)。売店を出て、喫煙所で一服です。 その喫煙所近くに並んでいた蓮鉢の蓮の花がこれ。(同・蓮の花<2>)(同・蓮の花<3>) 金堂を拝観し、講堂へと回る。 金堂の裏階段の最上段に上って講堂を撮影しましたが、距離がもう少し必要であったようで、屋根の両サイドが入り切りません。(同・講堂) 講堂から開山堂へ。(同・開山堂前の芭蕉句碑) 若葉して御目の雫ぬぐはばや (松尾芭蕉 「笈の小文」) この句碑の写真は下記<参考>の過去記事にも掲載済みであるが、今回も撮影したので掲載して置きます。 芭蕉句碑についての説明も同記事に記載済みなので割愛することとし、ヤカモチも一句仕り候。 蝉しぐれ額の汗をぬぐはばや (筆蕪蕉「老いの小文」)<参考>見まくの欲しき瓊花そして墓参 2016.5.2. 開山堂から鑑真和上御廟に向かいます。(同・鑑真和上御廟の門) 鑑真和上御廟は境内の北東隅の一番奥まった場所にある。 上掲写真の門が御廟への入口である。 門を潜ると、一面の苔。(同・鑑真和上御廟参道脇の苔)(同上) 一面の苔に覆われた木立の中の参道を進むと、正面に和上の御廟。(同・鑑真和上御廟)(同上) 御廟を出て、来た道を引き返すと、目に入ったのは北原白秋の歌碑。(同・北原白秋歌碑)水楢みづならの 柔やはき嫩葉わかばは み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ (北原白秋) 白秋は52歳の時に眼底出血を起こし徐々に視力が低下、失明してしまうのであるが、そのような事情もあってか、鑑真和上のことを思って詠んだ歌がいくつかあり、この歌はそんな中の1首である。 他の関連歌を列記すると以下の通りです。 目の盲(し)ひて 幽(かす)かに坐(ま)しし 仏像(みすがた)に 日なか風ありて 觸(さや)りつつありき 盲しひはてて なほし柔やはらと ます目見まみに 聖ひじりなにをか 宿したまひし 唐寺からでらの 日なかの照りに 物思ものもはず 勢きほひし夏は 眼も清すみにけり み眼は閉ぢて おはししかなや 面おももちの なにか湛たたへて 匂にほへる笑ゑみを この歌碑は御影堂の前にあるが、御影堂は非公開にて門前から望見するのみである。 御影堂の供華園には瓊花の木がある。春の終わり頃から初夏にかけて、この木はガクアジサイに似た白い花を咲かせる。その供華園は瓊花の咲く時期限定で毎年一般公開されるようだが、以前一度だけその瓊花を見に入山したことがある。 瓊花は鑑真和上の故郷、中国揚州の花である。 昭和38年(1963年)に、和上1200年忌を記念して中国仏教協会から唐招提寺に贈られたものであるという。 御影堂から少し西へ行ったところの僧房か何かの建物の庭に立ち入り、日陰になっている石に腰掛けて暫しの休憩、水分補給であります。立ち入ってもよいのか定かではなかったが、立ち入り禁止の結界もなく、蓮鉢が並べられていたから、多分大丈夫なんだろうと思った次第。(同・会津八一歌碑)おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ この歌碑は下記<参考>記事にも掲載していますので、再掲載ということになります。<参考>青雲塾第2回万葉ウオーク 2011.6.5. 唐招提寺を退出したのは午後4時頃。 南門の道路向かいの駐車場に駐輪して置いたトレンクルへと向かうが、その敷地内にあった土産物店兼喫茶店に入る。かき氷を注文する。店内でも食べることができるというので、閉店時刻の午後4時半まで余り時間もないのであるが、冷房のきいた店内の喫茶コーナーで食べさせていただく。 店の営業時間は、唐招提寺の入山受付時間である午前8時~午後4時半というのに合わせているようだ。 20分ほどで店を出て、トレンクルに乗車。駐車場出口の脇には栗の木があって、早くもイガグリの実が沢山なっているのが見られました。 トレンクルで秋篠川自転車道に向かう。 これを北に向かって走る。 自転車道に入ってスグのところにある大伴旅人の万葉歌碑を見て行く。(大伴旅人万葉歌碑)沫雪の ほどろほどろに 降りしけば 奈良の都し 思ほゆるかも (大伴旅人 万葉集巻8-1639)(泡のような雪がはらはらと降り続くと奈良の都のことが思い出される。) この歌碑は、秋篠川沿いの自転車道を走る際には何度となく目にして居り、この歌碑の前で歌を解説したという記憶も一度ならずあるのだが、そういう際の記事写真としての掲載は見当たらず、意外にも下記の<参考>記事の写真としての掲載があるのみでありました。<参考>若草読書会・万葉集から聞こえて来る音 2019.2.4. 秋篠川自転車道から平城宮趾公園を縦断。 大極殿の門である大極門の前を抜けて、朱雀門へと向かう。(大極門) 上の写真は今回撮影のものではなく、2022年3月に撮影したものであるが、この前を通り抜けたので、この写真を貼って置きます。 朱雀門へ向かうには、公園内を通っている近鉄奈良線の踏切を渡らなければならないのであるが、この踏切は午後5時を以って通行止めとなり、踏切手前の柵が閉じられてしまう。 やって来たのは丁度5時になる頃。係員の人が早く来いと手招きして下さり、ギリギリで通過。無事踏切を渡れました。 これが閉鎖されると、西側か東側の一般道路に出て、そこの踏切を利用しなければならないので、少し遠回りしなければならないことになる。 朱雀門から大宮通りに出て、これを左折、東へと走る。 新大宮駅の少し手前に奈良市役所庁舎があるのだが、道路を走りながら眺めると、庁舎の前に何やら歌碑らしきものが見える。近づいてみると、果たして万葉歌碑でありました。(遣新羅使人万葉歌碑)あをによし 奈良の都に たなびける 天の白雲 見れど飽かぬかも (万葉集巻15-3602)(<あをによし>奈良の都にたなびいている天の白雲は、見ても見飽きないものだなあ。) 万葉集巻15の冒頭145首は遣新羅使一行の人々が詠んだ歌である。 その中の1首がこの歌碑の歌という訳である。 天平8年(736年)6月に新羅へ派遣された遣新羅使であるが、暴風に遭って漂流したり、疫病のため使人が死去したり、と苦難の旅であったことが万葉集の歌からうかがい知れる。 この使節はその前年の735年に来朝した新羅使節団を追い返したことから、その外交的影響について相手方に探りを入れるというものであったようだが、今度は新羅の方が相手にしなかったもののようで、交渉には失敗、これといった外交的成果もなく、翌年(737年)1月に帰京している。 午後5時20分頃に近鉄奈良駅前に到着。 この日拝観できなかった薬師寺は翌日に訪ねることとし、この日の銀輪散歩はひとまず終了です。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2024.08.11
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西大寺、喜光寺、唐招提寺、薬師寺の西ノ京4ヶ寺共通拝観券を入手したので、久しぶりに西ノ京を巡る銀輪散歩をして来ました。 このコースはこれまでに何度となく歩いたり、サイクリングしたりしているお馴染みの道である。 今回の共通拝観券のキーワードは「奈良・西ノ京ロータスロード(Nara Lotus Road)」ということで、蓮の花である。 共通拝観券に記載の各寺のプロフィールは下記の通りです。●真言律宗総本山 西大寺 (奈良市西大寺芝町1-1-5 TEL.0742-45₋4700) 西大寺は称徳女帝の鎮護国家の勅願により天平神護元年(765)に創建された南都七大寺の一つです。鎌倉時代に稀代の名僧・興正菩薩叡尊上人によって真言律の根本道場として再興され、その法燈を現代に伝えます。●法相宗別格本山 喜光寺 (奈良市菅原町508 TEL.0742-45-4630) 喜光寺は行基菩薩が養老5年(721)に開創。平城京での布教や東大寺大仏造立の活動拠点とされました。天平21年(749)、行基菩薩は喜光寺で入滅。現在は、いろは歌を書写する「いろは写経」の体験が人気です。●律宗総本山 唐招提寺 (奈良市五条町13-46 TEL.0742-33-7900) 唐招提寺は唐の高僧・鑑真大和上が奈良時代に創建した寺院。和上が来朝された時に蓮根をもたらしたことから、開創以来、蓮を大切に栽培してきました。和上伝来の品種は「唐招提寺蓮」「唐招提寺青蓮」「奈良蓮」。●法相宗大本山 薬師寺 (奈良市西ノ京町457 TEL.0742-33-6001) 薬師寺は天武天皇により発願、持統天皇によって本尊開眼されました。その後は平城遷都に伴い、藤原京より平城京に移り今に至ります。 先ず西大寺へ。 なお、この記事は本日のそれではなく、7月30日のことなので、10日遅れのご報告ということになります。(西大寺境内図) 西大寺はこれまで何度となく立ち寄っているが、堂内に上がり仏像などを拝観するのは多分今回が初めて。 どことも堂内の撮影は禁止されているが、その影響もあってか、撮影が許されているお堂の外観写真なども撮影せぬまま境内を出てしまい、愛染堂裏の蓮苑でハスの花の写真を撮ったのみであることに、西大寺を後にしてから気が付きました。 そんなことで、拝観の際に頂戴した各お堂のパンフレットを撮影した写真でその穴埋めといたします。 先ず、本堂です。 本堂は本尊の釈迦如来立像、弥勒菩薩坐像、文殊菩薩騎獅像などが安置されている。(西大寺・本堂<1>)(同・本堂<2>) 次に愛染堂。 愛染堂には、愛染明王と興正菩薩(叡尊上人)が祀られている。(同・愛染堂<1>)(同・愛染堂<2>) 愛染堂内では叡尊像に初の対面。 西大寺中興の祖とされる叡尊の名は夙に承知していたものの、その像を拝するのは初めてで、何となくイメージしていたお姿とは異なっていたので、何やら妙な気分でありました。 愛染堂の裏に蓮苑があり、今回の拝観券のキーワードは「蓮の花」なので、これを撮影することに。 蓮苑の入口近くに鎮座ましますのは、平和観音像。(同・平和観音像) そして、ハスの花です。(同・蓮苑<1>)(同・蓮苑<2>)(同・蓮苑<3>と平和観音像)(同・蓮苑<4>)(同・蓮苑<5>)(同・蓮苑<6>) 愛染堂を出て、四王堂へと向かいます。 四王堂には、十一面観音菩薩像、四天王像、行基菩薩像、道鏡禅師像、百万塔陀羅尼などが安置されている。(同・四王堂<1>)(同・四王堂<2>) そして、今回は立ち寄らなかった奥の院・叡尊上人御廟ですが、西大寺境内から西へ600mほど行ったところにあるのがそれ。(同・奥の院叡尊上人御廟) ここは、2017年8月29日に訪ねているので、その折の記事を下記に貼って置きます。<参考>叡尊墓と北山十八間戸 2017.8.29. また、これまでに西大寺を訪問した折の過去記事も参考までに掲載して置きます。<参考>大和西大寺駅から矢田寺経由富雄駅まで 2010.3.5. 青雲塾第2回万葉ウオーク 2011.6.5. 第2回ペリカンの家サイクリング下見 2019.8.25. 西大寺を出て喜光寺へと向かいます。(喜光寺・本堂) 蓮鉢は250鉢あるそうな。(同・蓮の花<1>) 喜光寺の蓮の花はこんな感じです。(同・蓮の花<2>)(同・蓮の花<3>) 弁天堂へと向かう通路脇の溝に咲いていたのはミズアオイ。(同・ミズアオイ<1>)<参考>ミズアオイ・Wikipedia ミズアオイは万葉では「水葱(なぎ)」と呼ばれる。 ということで、ミズアオイも万葉植物である。醤ひしほ酢すに 蒜ひる搗つき合てて 鯛願ふ われにな見えそ 水葱なぎの羹あつもの (長意吉麻呂ながのおきまろ 万葉集巻16-3829) <醤と酢に蒜をまぜ合わせて鯛を食べたいと思っているのに、水葱の 羹なんぞ俺に見せるな。>(同・ミズアオイ<2>) 同じミズアオイ科の植物で、ミズアオイよりひと回り小さい花を咲かせるコナギというのもあり、両者は共に、ナギ(菜葱)、ミズナギ(水葱)という共通の別名で呼ばれることもあるので、万葉の「ナギ」や「コナギ」がミズアオイをさすのか、コナギをさすのかは定かではない。 まあ、万葉人は植物学者ではないのだから、両者を厳密に区別していなかったということは十分考えられるから、どちらかというのではなく、両方を含んだ総称と考えるのが相当かもしれない。<参考>コナギ・Wikipedia(同・ミズアオイ<3>) 万葉で歌われているように、古代の人は、ミズアオイやコナギの若葉を汁にしたり、塩茹でにしたり、漬物にしたりして食べたのであろう。 また、次の歌からは、その花を摺り染めの染料としていたこともうかがえる。苗代(なはしろ)の 小水葱(こなぎ)が花を 衣(きぬ)に摺(す)り 馴(な)るるまにまに あぜかかなしけ (万葉集巻14-3576)(苗代に咲いている小水葱の花を、衣に摺り付け、着なれるにつれて、どうしてこんなにも愛しいのだろう。)(同・弁天堂)(同・弁天堂 御神影 宇賀神像) 喜光寺にある万葉歌碑はこれ。(同・万葉歌碑)大き海の 水底みなそこ深く 思ひつつ 裳引き平ならしし 菅原の里 (巻20-4491 石川女郎)(大海の水底のように深く思いながら、裳を引いて地面を平にした菅原の里よ。) この歌碑については、過去記事でも紹介しているので、下記をご参照ください。<参考>青雲塾第2回万葉ウオーク 2011.6.5. 会津八一の歌碑も境内にあるが、今回は撮影し忘れたよう。 上掲の「同・蓮の花<1>」の写真の右隅奥に写っている石碑がその歌碑であります。 上記2011年6月の参考記事には、その歌碑の写真も掲載されていますので、ご参照ください。 本日はここまでとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記をご覧ください。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2024.08.09
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ブロ友のひろろさんの個展を拝見したことは、6月20日の記事に書きましたが、そのついでに付近をプチ散策しましたので、遅ればせですが、そのご報告記事であります。<参考>ひろろさんの個展に行って来ました 2024.6.20. 会津若松は、昨年11月以来であるが、この時は小出駅から会津若松駅まで只見線に乗ることと翌日会津柳津を散策するというのが目的の旅で、会津若松は宿泊地として利用しただけ。<参考>只見線・小出から会津若松へ 2023.11.12. また、2012年9月には、裏磐梯銀輪散歩の行き帰りに会津若松駅を通過しているが、乗り換え駅として利用しただけで、この折も市内散策などはしていない。<参考>裏磐梯銀輪散歩<1> 新潟から猪苗代まで 2012.9.28. 市内を散策したのは、2011年4月以来ということになる。<参考>越後・会津銀輪散歩 2011.4.23. もっと古くは、2001年6月に東山温泉に宿泊して、市内を銀輪散歩しているが、これはブログを始める以前のことで、ブログ記事が存在しないので、記憶を探るしかないのであるが、飯盛山で白虎隊をテーマにした詩吟のカセットレコーダーを大音量にして、剣舞を舞っていた人の姿を目撃したこととか、さざえ堂という不思議な構造の建物を見学したことが印象に残っている。 また、東山温泉では、浴衣姿に旅館の下駄という格好で夕食までの時間潰しに散歩に出て、温泉街の中の羽黒山神社とある石階段を登り始めたものの、延々とそれは続き、石段の区切りごとに石標が設置されている。九丁と記された石標であったか、9番目のそれを見届けたところでギブアップ、下駄履きでは無理と諦めてとって返したことなどを思い出す。 さて、今回は小雨降るお天気であったので、銀輪散歩は諦め、駅前からバスで個展会場に向かうこととする。駅前で昼食を済ませて、観光案内所で個展会場の鈴善漆器店へはどう行けばいいのか尋ねると、丁度よいバスがあると教えていただいたのが「ハイカラさん」という市内循環バス。バスに乗り込むと直ぐに発車。二つ目のバス停「大町二之町」で下車。 バス停の先の角を左に入って進むと、「←山内ヨネの家」と書かれた表示板が目に入る。(野口英世の初恋の女性、山内ヨネの家跡) 後刻、野口英世青春通りの道路脇に掲示されていた案内板によって、山内ヨネがいかなる人物であるかを知ることになるのだが、この時は気にもとめず通り過ぎたのでありました。 若き日の野口英世は彼女に熱を上げていたようだが、それは片思いで、彼女にとっては野口の気持ちや行動はむしろ迷惑なものと感じていたようであります。 それはともかく、野口英世の初恋の女性の実家跡だと知ったので、再び立ち戻って撮影したのが上掲の写真であります。 個展を見た後、道路向かいの喫茶店・焙煎屋珈琲店で珈琲休憩。 雨も小止みになったので、付近を少し歩いてみることに。 と言っても地理不案内の町。何と言うあてもなく歩いていて出くわしたのが清水屋旅館跡という石碑。(清水屋旅館跡)(同上・説明碑) 吉田松陰や土方歳三、新島襄夫妻などが投宿したこともある木造三階建ての旅館であったとのことですが、今は取り壊されて存在せず、跡地は大東銀行の店舗ビルとなっている。 道路向かいが白木屋とあるレトロな雰囲気の白木屋漆器店の建物。(白木屋・漆器陳列館) この通りを東へと進み、「昭和なつかし館」を過ぎたところで、「野口英世青春通り」と表示された通りに出た。これを右折して南へ。(野口英世青春通り)(同上・説明碑) この説明碑の前に来て、通りの名の由来を知ると共に、山内ヨネという女性が野口英世の初恋の相手であるということを初めて知ったのでした。 彼が山内ヨネと知り合ったのは若松栄町のキリスト教会であったとのことである。<参考>野口英世・Wikipedia 日本基督教団若松栄町教会・Wikipedia 野口英世というと、JR猪苗代駅前に「野口英世三体像」というのがあったことを記憶しているが、野口英世は福島県耶麻郡三ツ和村(現、猪苗代町)の生まれ(1876年11月6日)。<参考>裏磐梯銀輪散歩<1> 新潟から猪苗代まで 2012.9.28. 彼は1歳の時に囲炉裏に落ち左手を大火傷する。火傷の所為で左手指が動かなくなってしまうのであるが、猪苗代高等小学校在学の頃、左手の不自由を嘆いた彼の作文が、教師や同級生の同情を誘い、彼の左手を治すための手術費用捻出のための募金が行われ、アメリカ帰りの医師・渡辺鼎の下で手術を受け、不自由ながらも左手指が使えるようになる(1892年10月)。彼自身が医師を目指すようになったのは、この手術の成功に感激したからだという。(野口英世博士と旧会陽医院)<参考>會津壱番館・Wikipedia その渡辺鼎が経営していたのがこの会陽医院で、野口英世は、1893年3月猪苗代高等小学校卒業後、この会陽医院に書生として住み込みで働きながら約3年半医学の基礎を学ぶこととなる。 火傷と言えば、ヤカモチも2歳か3歳の頃、両足を火鉢に突っ込んでしまい、火傷を負ったことがある。椅子に腰かけ、火鉢のへりに足をのせて暖を取っていたのだろうと思うが、椅子から滑り落ちて足を火鉢に突っ込んでしまったという次第。勿論、当時の記憶はなく大きくなった後に両親から聞かされて形成された記憶であるから、他人事のような実感のない記憶である。 しかし、足指に火傷の痕跡が残っているから、事実であるのだろう。この火傷の治療のため足指を固定され、よちよち歩きの大切な時期に、一定期間歩行が制限されたことで、足指が不器用にしか動かないことになってしまったのではないかと思っているが、足指ジャンケンができない程度で、歩行その他で不自由を感じるようなことはなかったのは幸いでありました。 ということで、ヤカモチには医師を目指すキッカケがなかったという次第であります(笑)。 ところで、現在の千円札の肖像は、野口英世。 しかし、この7月3日からは新紙幣となり、北里柴三郎の肖像に切り換わることになるので、千円札の顔としての野口英世を目にするのももう暫く限りということになるのでしょうな。(千円札の野口英世・Wikipedia掲載写真から転載) 大町四ツ角札ノ辻の碑の背後に見えるのは、「会津出身の版画家 斎藤清作品他 常設開催中」の文字。(會津商人司簗田家屋敷跡・大町四ッ角旧札ノ辻碑) 昨年11月に会津柳津を散策した折に道の駅柳津に斎藤清美術館があったことなども思い出す。<参考>斎藤清美術館の写真が掲載されている当ブログの記事 会津柳津散策(中) 2023.11.15. 野口英世青春通りから国道118号に出て、これを北上。(ナズナ?) こんなナズナは初めて目にする。国道118号の歩道に植えられていたものだが、何やらお洒落な園芸植物のようにも見える。 これはいったいナニな?(追記:注2024.6.29.)友人小万知さんからのご教示ですが、これはマメグンバイナズナという北米原産の帰化植物でありました。<参考>マメグンバイナズナ・Wikipedia そして、タチアオイの花。(タチアオイ) タチアオイの花をよく目にすると思ったら、この花は会津若松市の市花であったのでした。 たまたま、目に止まった高厳寺というお寺で小休止。 上掲の「カワチ」という看板の店の右(東側)に隣接してある寺です。(浄土宗・高厳寺)<参考>高厳寺・浄土宗大辞典 高厳寺・蘆名盛高・蒲生忠郷の菩提所(同上・本堂) 大町中央公園を通り抜け、更に北上し、ホテルにチェックイン。 ホテルの部屋の窓から南方向を望むと、鶴ヶ城が見えていました。(鶴ヶ城遠望) 夕食に出掛けるついでに近くをブラブラ歩き。 その折に通りかかった、お菓子の蔵太郎庵というお店の前にあったのが、おけいの像。(おけいの像)(同上・説明副碑)<参考>お菓子の蔵太郎庵会津総本店 駅前方向に引き返し、何やら見覚えがあるような、ないような公園があったので立ち寄りましたが、それは以前(2011年4月)こちらにやって来た際に、新潟へと帰る高速バスの時間待ちに使った公園でありました。(大町白虎公園の石佛供養碑) 前回は気が付かなかった石佛供養碑がありました。 夕食を済ませてホテルに戻り、一夜明けての翌日はご覧のような好天気であります。しかし、朝10時発のバスで新潟に戻らなくてはならないので、市内銀輪散歩をする余裕はありません。残念。(会津若松駅)<参考>銀輪万葉・その他篇
2024.06.27
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(承前) 前頁記事の続きです。この日(4月23日)は、白山公園から信濃川沿いにふるさと村へと銀輪散歩であります。 白山公園で見かけたカラタチの花の写真から始めます。(カラタチ) カラタチの万葉歌と言えば・・。 「忌部首いむべのおびとの、数種くさぐさの物を詠みし歌一首」という題詞が付された、この歌が1首あるのみ。枳(からたち)の 茨(うばら)刈り除(そ)け 倉建てむ 屎(くそ)遠くまれ 櫛(くし)造る刀自(とじ) (忌部首 万葉集巻16-3832) 「カラタチの原を刈り上げて倉を建てよう。糞は遠くでなされよ、櫛造りのおかみさん」というナンセンスな戯れ歌であるが、これで万葉植物の仲間入りを果たしたカラタチとしては複雑な心境でしょうな(笑)。(同上) このように棘のある植物には邪を払う呪力があると考えられていたこともあり、かつては生垣などによく利用されたのだが、最近は殆ど見かけなくなった。(カラスノエンドウ) こちらは、何処にでも見かけるカラスノエンドウであるが、気の所為か大阪で目にするものより花が大きく色も濃いようです。(同上) 信濃川べりの、やすらぎ堤と呼ばれている土手道に上がると、チューリップとサトザクラが花の時期。(やすらぎ堤のサトザクラ) ソメイヨシノは散ってしまった後だが、八重のサトザクラが丁度満開の見頃である。(同上・サトザクラとチューリップ)(同上・チューリップ) こちらのチューリップの奥に見えている並木がソメイヨシノのそれであるが、ご覧の通り、咲き遅れた花がわずかにあるのみで、遠目では葉が目立つだけ。(同上)(同上)(同上・カモ) 信濃川の川面に居たカモ2羽が連れだって飛び立ち、こちら岸の緑地の中ほどに着陸。そこからヒョコヒョコと歩いてチューリップが植えられている近くまでやって来た。何かをついばんでいる。 驚かせないように気配を殺してゆっくりと接近すると・・。(同上) ミミナグサか何か、草を盛んについばんでいます。 カモは水草などを食べているのかと思っていましたが、陸上の植物なども食べるのですな。 しばらくすると、1羽のカラスが飛来。 その気配をいち早く察知、カモ2羽は川面へと避難。 カラスのカモにされてはかなわん、ということか。 サギのカモになっているヒトが多いこの頃、ヒトもカモを見習うべし。(JR越後線) やすらぎ堤から越後線白山駅の方へと渡れる、線路に沿った陸橋の道があったので、そちら方向へ寄り道。 すると、白山駅を出た列車がやって来たので、去って行く列車を追っかけ撮影。すぐにカメラを取り出したのだが、シャッターを押せた時には走り去って行く列車の後ろ姿になっていました。 列車は、間もなく信濃川に架かる鉄橋を渡り新潟駅に行くのだろう。 白山駅の手前にはヤマザクラでしょうか、桜が咲いていました。(白山駅近くの線路沿いの桜)(同上) そしてサツキツツジも満開。(白山駅近くのツツジ) やすらぎ堤に戻り、ふるさと村へと向かうことに。 信濃川左岸の道は、本川大橋のところで、関屋分水路に架かる関屋大橋に回り込み、これを渡って、上流へというのがそのルートになる。(関屋大橋の上から信濃川上流を望む。) 画像の右手が左岸。 左岸の土手道を上流へと向かうと、ふるさと村である。 画像の左手方向が水門を備えた本川大橋で、信濃川本流は左手へと流れて海へと至る。画像の手前側が関屋分水路で、信濃川の水量が増大した場合などは水門を閉じて、この関屋分水路により、ショートカットで海へと川水を逃がすのであろう。 さて、ふるさと村までは大した距離ではないので、すぐに到着である。 丁度、チューリップの季節とあって、ふるさと村の花壇はチューリップ一色でありました。(ふるさと村のチューリップ)<参考>道の駅・新潟ふるさと村(同上) 奥に見える青屋根の建物が野菜や果物、海産物など新潟の物産を販売する店や食事処のある施設である。(同上)(同上)(同上) ふるさと村を出て、来た道を引き返します。 チューリップの花を見過ぎた目には、このような葦の色彩に乏しい景色が却って好ましいものに見える。(やすらぎ堤の葦) 翌4月24日は雨で銀輪散歩はお休み。 25日は竹内式部めぐりの銀輪散歩でありましたが、これは前頁記事で紹介済みです。 ということで、新潟銀輪散歩終了。26日空路で帰阪です。 帰路の飛行機でウトウトしていたら、急降下があったのか、ガクンというかバタンというか大きな衝撃があって目が覚めました。 窓の外を見やると雲の中にて何も見えず。 やがて雲の下へと降下して、奈良盆地上空に入ったようで、眼下に見覚えのある箸墓古墳が見えて来ました。(上空から箸墓古墳 左下部) 左下部に写っている大きな古墳が箸墓古墳。 その上部左手中ほどから右下隅にかけて流れている川が大和川。 上流部分は三輪川、初瀬川(泊瀬川)などとも呼ばれる。 そして、金剛山と葛城山。(上空から金剛山<奥>と葛城山<手前>) 生駒山系高安山上空から大阪府上空に入り、さらに高度を下げて、大阪城公園付近の上空へとさしかかる。(上空から大阪城公園) はい、間もなく伊丹空港に着陸です。(完)<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇
2024.04.30
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(承前) 前頁記事の竹内式部めぐりの途中、NSG美術館の前の道を東に進み、広い通りに出た左側角にあったのが砂丘館。旧日本銀行新潟支店長役宅だとのことだが、何やら書展が開催されているようなので立ち寄ってみた。(砂丘館・旧日本銀行新潟支店長役宅)(同上)(同上・パンフレット1)※パンフレットは、画像をクリックして大きいサイズのフォト蔵写真でお読みいただくのがいいかと思います。(同上・パンフレット2) 砂丘館は、旧日本銀行新潟支店長役宅の通称。昭和8年(1933)建設で、戦前の日本銀行の役宅として現存するのは新潟と福島(昭和2年建設)の二つだけとのこと。 当初は西堀前通り六番町にあったが、柾谷小路の拡幅にかかり、現在地に移転。平成11年10月まで、8代から37代までの30人の支店長が居住。 平成11年日本銀行が新潟市に売却。平成12年6月から一般公開されてきた。平成17年指定管理者の公募が行われ、7月から芸術・文化施設として新潟絵屋・新潟ビルサービス特定共同企業体による管理・運営に移行している。(砂丘館の庭から) 砂丘館という名称は、新潟砂丘の上に立地していることに由来するのだろう。 さて、開催されていた書展というのは、新潟県下田村(現三条市)出身の書家、横山蒼鳳氏(1934年~2012年)の書展でありました。 同氏のことは何も存じ上げないが、通りがかったのも何かのご縁。入館無料でもあれば、建物内の見学も兼ねて書展も見せていただくことに。(横山蒼鳳展) 玄関の戸を開けると、「出杭人生」という大きな書が目の前に。(横山蒼鳳展1)(横山蒼鳳展2)(横山蒼鳳展3) 部屋や廊下などにさりげない形で書が展示されている。 「私は日本人として日本人にわかる文字で、しかも自分の言葉で書かないと、自分が書いたことにならない。そういう思いが念頭を去らない。」というのが同氏の書ということなんだろう。(横山蒼鳳氏プロフィール) 奥の土蔵が砂丘館ギャラリーになっていて、そこが主たる作品の展示会場になっている。 同氏プロフィールによると「青年期、會津八一の薫陶を受け、」とあるから、竹内式部めぐりのかたわら、會津八一の歌碑や墓にも立ち寄った今回の銀輪散歩ということで、少しはつながりもあるということになるか。(横山蒼鳳展4) はい、蔵に足を踏み入れるとこんな感じで作品が展示されているのでありました。(横山蒼鳳展5)(横山蒼鳳展6) 蔵の2階にも作品が展示されている。2階に上がってみる。(横山蒼鳳展7)(横山蒼鳳展8 同氏の著作) はい、1階に戻りました。(横山蒼鳳展9) 「長命は最高の芸術」でありますか。 「長生きも芸のうち」という言葉もありますが、超高齢化社会となった現在の日本、最高の芸術家、芸達者が多数を占めているということになりますな(笑)。我が国最初の芸術家とも言われるのが大伴家持。1306歳の偐家持ともなると超最高の芸術家と言うべきであります(笑)。(横山蒼鳳展パンフレット)(同上) 砂丘館を出て、白山神社へ。(白山神社)<参考>白山神社(新潟市中央区一番堀通町)・Wikipedia(同上・随神門)(同上・拝殿)(同上・境内図) 戦国時代の一時期、白山神社・白山公園内には新潟城があったとのこと。(同上・幻の新潟城) 日付は前後しますが、下編は信濃川沿いをふるさと村まで銀輪散歩いたします。(つづく)<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇
2024.04.29
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先日(4月25日)、新潟まで銀輪散歩に出掛け、竹内式部にゆかりの場所を巡って来ました。 2018年6月10日の記事で、白山公園の竹内式部顕彰碑の写真を掲載したことがありました。その折に竹内式部という人物のことや宝暦事件のことを初めて知り、いずれは彼にゆかりの場所を回ってみようと思っていたのでしたが、いつの間にか忘れてしまっていました。 そんな折、ブロ友・MoMo太郎氏の昨年10月31日の記事で、東京都葛飾区の宝蔵院の本尊・木造薬師如来立像が竹内式部の菩提を弔うために安置されたものであるということを知り、竹内式部のことを思い出したという次第。 <参考>竹内式部 2018.6.10. 金町からたどる下町歩き(その9)宝蔵院 2023.10.31. ということで、かつて海岸沿いの自転車道を銀輪散歩した際に日和山付近で目にしたと記憶する竹内式部の墓を目指す。 万代橋を渡り、寄居町交差点から北に入り、西大畑公園経由、市立美術館の西側の道を北進。しかし、遠い記憶だけが頼りとあっては心もとない限りで、なかなか見つからない。そこで、海岸べりの自転車道に出てみることにすると、どうやら行き過ぎていたようで、自転車道を南へと戻る。 記憶では海べりの白い展望台付近で、「←竹内式部墓」の案内表示板があった筈。果たして、展望台から少し南に行ったところにそれがありました。 案内表示板の「←」に従い、東に入り、坂道を下って行くと竹内式部の墓がありました。(竹内式部墓)(同上・副碑) 時計を見ると正午になっていたので、市立美術館まで戻り、館内にある喫茶店、こかげカフェで昼食とする。 昼食後、二葉公園にあるという竹内式部の銅像へと向かう。 この銅像も以前目にしているのだが、その場所の記憶が曖昧。二葉公園だろうと思われる場所を目指し行くと、運よくそれが的中。(竹内式部像・二葉公園)(同上) 銅像の台座には至誠奉公の銘が刻されている。(同上)(同上)(同上・副碑) 副碑全文は次の通り。 竹内式部(1712~67) 當地の医家に生る。青年の日、上洛して徳大寺家に仕え、儒学、神道を修め、後、家塾を開く。説くところ、神道に基づく尊王思想なり。少壮の公卿多く師事してその感化により朝廷の権威回復を志し、為に宝暦九年(1763)京都を追わる。宝暦事件と云い、尊王論者処罪の最初の事件とす。後、友人藤井右門、明和三年(1776※)を起こすや、累式部に及び、翌四年八丈島へ流罪の途中十二月五日寄港地三宅島にて病没す。※1766の誤り 遺蹟 墓 共同墓地 碑 白山公園 生地跡 本町九 祠堂 本覚寺 碑 入船地蔵 竹内式部や宝暦事件、明和事件の詳細については、下記<参考>をご参照ください。<参考>竹内敬持・Wikipedia 宝暦事件・Wikipedia 明和事件・Wikipedia 二葉公園は椿の木が沢山植えられていて、公園東側の道路は「椿の道」と名付けられているようだ。竹内式部像の近くにも椿の木が沢山あって、白い花、赤い花、ピンクの花が、盛りの時期は既に過ぎているようだが、それでもまだ沢山の花が咲いていた。前回立ち寄った際は椿の花の時期ではなかったようで、椿の花の印象はない。何やら薄暗い一角にひっそりと場違いにそれがあったという印象の記憶は、背の高い椿の木々が取り囲んでいたことによって醸されたその場の空気の所為であったのだろう。 誰かが植えたのか、それとも棄てられた球根が芽を出したのか、黄色と赤が混じった大きなチューリップの花が一輪、木の根元に咲いていました。 椿の木の背後の大きな木が枝を横に広げ、椿の葉が繁る背後からこれを突き破る形でこちらに飛び出した枝に樫や椎の花に似たものをつけていました。(ヤマグワの雄花であるか?) 葉を見ると、樫や椎のそれのように厚いものではなく、落葉樹のような薄い葉である。ということで、ヤマグワの雄花ではないかと推定したが、確証がないので、「?」付きで掲載して置きます。(同上) 二葉公園の東側の道、椿の道を南に辿ると、以前は會津八一記念館であったNSG美術館の前に出る。(NSG美術館) 會津八一記念館は現在は新潟市中央区万代3-1-1メディアシップ5階に移転しているが、會津八一記念館であった頃の名残が美術館前の歌碑である。(會津八一歌碑)(同上・副碑)於りたては なつなほあさき しほ可せの すそふきかへす ふるさとのはま (會津八一「寒燈集」)<参考>會津八一記念館であった頃に此処を訪ねた記事 長岡 2008.5.20. ヤカモチには「ふるさとの浜」ではないが、日本海、新潟の海岸を、西海岸公園越しに眺めてみることにします。(西海岸公園) この坂を下ると海岸である。海沿いには自転車道が通っているのだが、今回は一瞥のみ。 では、今回の銀輪散歩のそもそもの発端となった、白山公園の竹内式部顕彰碑を再訪してみることにしましょう。 寄居町交差点に戻り、東中通りを南に下ると新潟市役所前に出る。左折して東に行くと新潟地方裁判所である。(新潟地方裁判所) 裁判所の道路向かい南側が、白山神社、白山公園である。(竹内式部顕彰碑)(同上・副碑) 白山公園を出て、裁判所の東側の道、西堀前通りを北上すると、會津八一の墓があるという瑞光寺。 立ち寄ってみる。(會津八一墓・瑞光寺) 墓の隣に歌碑もある。(會津八一歌碑・瑞光寺)(同上・副碑)ふるさとの ふる江のや奈ぎ は可くれに ゆふべのふねの ものかしぐころ (會津八一「鹿鳴集」) 八一の墓の左隣には高浜虚子の句碑。(高浜虚子句碑・瑞光寺)三羽居し春の鴉の一羽居ず (虚子) 瑞光寺を出て、西堀前通りを北上。 本覚寺にあるという竹内式部の墓を目指すが、本覚寺がこの通りに面してあるのかどうかも不明。 途中に寺の名を列記した碑があったのでそれをのぞき込むと瑞光寺から四つ目か五つ目かに本覚寺があった。ところがこの碑の表示が現地の南北と逆になっていて、頭の中でこれをひっくり返して理解する必要があって、一瞬戸惑うという代物。幸い南端の瑞光寺から出て来て北へと進んでいたので、方角が逆だと気づいたのだが、これが中間位置の寺から出て来たのであったなら、反対方向に進んでしまったに違いない。 まあ、設置者の無神経に腹をたてても仕方がない。 本覚寺の場所が分かったのだからよしとするか。 本覚寺門前に到着(本覚寺・竹内式部先生菩提寺の碑) ぐるりと本堂裏の墓地を巡ってみたが、それらしき墓が見当たらない。 諦めて帰ろうかとしているところで、ご住職と思しきお方が運転の車が寺に入って来た。で、お尋ねすると、墓の場所まで案内してくださった。ご親切に感謝である。(竹内式部の墓・本覚寺)(同上) 本覚寺の墓については、事前にネットでこのような写真を目にしていたので、地面から直接にこのような形で建っているものと思い込んでしまった所為で、広い台座を備えた墓は除外して探していたものだから、すぐ近くを通っても、それとは気がつかなかったのだろう。(同上・左側面)(同上・裏面) 以上で、竹内式部めぐり終了とします。 本町通りには生地跡があるそうだが、本町通りが何処なのか分からないので、探索は諦める。同様に、入船地蔵にも何か関連の碑があるとのことだが、これも地理不案内でパス。今後の宿題とします。<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇
2024.04.28
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(承前) 前記事の続編です。曽束大橋を渡って対岸の道に入ったところで、前記事が終わりましたので、そこから始めます。<参考>曽束大橋を渡った左岸の道から天ケ瀬ダムまでの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(わが庵は都のたつみ) 2014.3.13. 地図で見ると曽束大橋手前1kmほどの地点から喜撰山大橋の手前800mほどの地点までは、瀬田川が滋賀県と京都府との境界になっているようです。 従って、曽束大橋は右岸京都府と左岸滋賀県との間をつないでいる橋ということになります。右岸の道は曽束大橋を渡る手前1km付近から京都府の府道3号になっていて、橋を渡った先の左岸の道は再び滋賀県の県道3号ということになる。 曽束大橋を渡ってしばらく行くと、上の<参考>記事に掲載の写真にあるように、眼を射るような鮮やかな黄色のトラトラの道が展開するのであったが、それは10年前のことで、今回目にしたのは、それらの塗装が褪色して目立たぬくすんだ色に変化し、加えて所々摩耗したり剥がれたりもしているという、何ということもない道になってしまっていました。 写真に撮って現在の姿と10年前の光景とを比較してみれば面白かったかもしれないのだが、撮影せぬままやり過ごしてしまったので、後の祭りであります。(瀬田川左岸の道) 宇治11km、天ケ瀬ダム9kmという標識のある地点までやって来ました。この先喜撰山大橋の先から、瀬田川は宇治川と名を変えるようです。(コース地図4・喜撰山大橋からJR宇治駅まで) 喜撰山というのは、喜撰法師に由来する名称。 喜撰法師は六歌仙の一人とされるが、伝記など不詳の御仁。 紀貫之の変名という説などもあり、正体不明。 古今集仮名序に「宇治山の僧喜撰は、ことばかすかにしてはじめをはりたしかならず。いはば、秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし」とその歌風が評されている歌人であるが、紀貫之の変名であるなら自分で自分を評したことになり、愉快と言うほかない。わが庵いほは 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり (喜撰法師 古今集983、小倉百人一首8)<参考>喜撰・Wikipedia しかし、喜撰山大橋もその下流側にある吊り橋、大峰橋も今回は撮影していない。上記<参考>の10年前の記事に写真を掲載していますので、ご参照ください。 ということで、次の写真は、宇治川に左側から流れ込んでいる田原川に架かる宵待橋になります。(宵待橋) 宵待橋を渡ったところで振り返って撮ったのが上の写真。 宇治川左岸の道からこの田原川の道に入り、つまり上の写真に即して言うと、画面の奥・左手からこの橋にやって来て、こちら岸の道を画面左手に進み、再び宇治川左岸を川下へと進むのが正しいコース。 ここで、タバコ休憩をしていると、右手から例のカナダ人二人組が現れたのである。 この橋をこちらに渡り右折して、写真画面左手に行くべきところ、彼らは左折して、写真画面右手に、つまり反対方向に進んでしまったようです。 こちら岸の道は、この橋から左が府道3号、右が府道62号。彼らは府道62号を田原川沿いに上流へと進んでしまったようです。府道62号は国道307号に突き当たり、国道307号は京田辺から枚方方面へと通じている道である。どの付近で道を間違えたと気づいたのだろう。 少しばかり言葉を交わし、彼らを見送ってからゆっくりとヤカモチも出発であります。(天ケ瀬ダム) ほどなく、天ケ瀬ダムが見えて来ました。 10年前はダムを見学しましたが、今回はパスして、坂道を走り下る。 宇治の市街へと入ったところで、源氏物語宇治十帖宿木之古蹟という碑がありました。この碑については前回10年前の銀輪散歩の折にこれを撮影した記憶があったので、今回は撮影しないで置きました。帰宅後調べてみると確かにその写真がPCに残っていました。 ということで、その10年前の写真を掲載して置きます。(源氏物語・宇治十帖・宿木之古蹟)(同上・副碑) 近くにあったマンホールは撮影しましたが、この図柄のマンホールは既にマンホールシリーズ記事にて紹介済みでありました。(宇治市のマンホール) マンホールのことはさて置き、宇治十帖古蹟の碑は10年前に撮影したものが他にもあるので、ついでに掲載して置きます。(源氏物語・宇治十帖・総角之古蹟)(同上・早蕨之古蹟)(同上・椎本之古蹟)(同上・副碑)<参考>宇治十帖・Wikipedia 全10ヶ所が揃ったところで記事にアップしようとでも考えて、これまでブログに掲載しないまま、写真を保存していたものと思われるが、10年を経過しても一向に進展しなかったということは、その気にならなかったということでしょうから、現状あるままの在庫で記事掲載ということにいたします。<参考>蛍塚から宇治神社までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(もののふの八十宇治川の) 2014.3.14.(宇治散策案内図) はい、宇治川の中洲の島、塔の島に架かる喜撰橋の前に出ました。 中洲の島は二つあって上流側が塔の島、下流側が橘島である。 塔の島は喜撰橋によって左岸とつながり、橘島は橘橋によって左岸と、朝霧橋によって右岸とつながっている。(喜撰橋) この辺りから10年前の銀輪散歩とは異なるコース取りとなります。 前回は、橘橋を渡って、中洲の島・橘島に渡り、宇治神社、宇治上神社を経て仏徳山(大吉山)展望台まで登り、下山して宇治彼方神社、菟道稚郎子墓、下居神社と巡ってJR宇治駅ゴールというコース取りであったが、今回は島には渡らず、宇治川左岸の土手道を直進でありました。<参考>宇治上神社からJR宇治駅までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き) 2014.3.15. 前回は、宇治の万葉歌碑を巡るというテーマがあっての散策でしたが、今回はそういったものはなく、平等院も時刻からみて入場できる筈もないので、何という当てもないそぞろ歩きである。(宇治川 対岸左手の山が仏徳山<大吉山>である。) 土手道から細い路地を抜けて、平等院参道に出る。 さすがに参道は大勢の観光客。店の前の空間に椅子席やテーブル席を備えた店が目にとまる。ここなら押して歩いている愛車トレンクルを駐輪する場所もある。そこで抹茶ソフトを食べている観光客の姿につられでもしたか、ヤカモチもこれを買い求め、店先の椅子席でこれをいただくこととする。 参道を出ると宇治橋。 その一角は、宇治十帖に因み「夢浮橋ひろば」と名付けられているようです。(夢浮橋ひろば) そこにあるのが紫式部の像。(紫式部像)(同上・副碑) そして、夢浮橋之古蹟の碑。(源氏物語・宇治十帖・夢浮橋之古蹟)(同上・副碑) 以上、紫式部、夢浮橋之古蹟碑、宇治橋の3点セットの写真がこれであります。(3点セット写真)(明治天皇御駐輦之地碑) 紫式部像や夢浮橋之古蹟碑に取り囲まれる形で、これらとはいかにも不似合いな感じで明治天皇御駐輦之地碑が建っている。この碑が先にあって、源氏物語関係の像や碑がその後に設置されたということなんだろう。(宇治橋)(同上・説明碑) 宇治橋を渡り、右岸へ。 宇治橋を渡る頃には、もう午後5時になろうかという時刻。(宇治橋から橘島に架かる朝霧橋<左>、橘橋<右>を望む) 京阪宇治駅の左奥にあるのが、大河ドラマ館。 入館料などは必要とせず自由に入館できる施設のようだが、既に午後5時を過ぎていて、営業終了、閉館していました。(光る君へ・大河ドラマ館) 大河ドラマ館の裏手にあるのが、菟道稚郎子の墓。 彼は、応神天皇の皇子。仁徳天皇の異母弟である。 応神天皇没後の、菟道稚郎子・仁徳天皇・大山守三者の関係などは、上記<参考>の過去記事「瀬田川・宇治川銀輪散歩(秋の野のみ草刈り葺き)」または下記<参考>の「菟道稚郎子・Wikipedia」をご覧ください。(菟道稚郎子尊宇治墓)<参考>菟道稚郎子・Wikipedia妹らがり 今木(いまき)の嶺に 茂り立つ 妻松(つままつ)の木は 古人(ふるひと)見けむ (柿本人麻呂歌集 万葉集巻9-1795)(<妹らがり>今木の嶺に茂り立つ妻を待つという松の木は、昔の人も見たであろう。)(注)古人=今は亡き菟道稚郎子を指す。 これは、「宇治若郎子の宮所の歌一首」という題詞と共に万葉集巻九の挽歌の部に収められている歌であるが、この歌の歌碑は、宇治神社の背後の山、仏徳山(大吉山)の展望台にある。今回はとても展望台まで登る元気も時間的余裕もないのであるが、上記<参考>過去記事にはその歌碑の写真も掲載していますので、ご覧ください。(同上) 菟道稚郎子墓に隣接する場所に浮舟宮跡という石碑が建てられている。 源氏物語・宇治十帖の浮舟の君を祀った古社が、かつてこの付近にあったらしい。(浮舟宮跡碑)(同上)(史跡 宇治川太閤堤跡碑) 宇治川太閤堤跡の碑と大河ドラマ館の間をトレンクルで走り抜けて宇治橋に戻り、JR宇治駅へと向かう。(JR宇治駅前、茶壷型の郵便ポスト) はい、JR宇治駅前広場のユニークな茶壷型郵便ポストに迎えられて、今回の銀輪散歩は終了であります。(完)<参考>過去の銀輪万葉・京都府・滋賀県篇は下記参照 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その1) 2007年7月~2019年3月銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その2) 2019年7月~
2024.03.21
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先日(3月15日)、10年ぶりに石山から宇治まで持参のトレンクルで銀輪散歩して参りました。 ところが、トレンクルで走り出すと何やらペダルが重い。後輪のタイヤがペチャンコになっている。パンクなのか虫ゴムの劣化による空気漏れなのか、何れにせよ自転車屋を探さなくてはならない。 地元の人に教えていただいた自転車屋さんにトレンクルを持ち込むと、パンクではなく虫ゴムの破損による空気漏れであったよう。 これでは自転車屋さんも商売にならないだろうと、自転車用のヘルメットを購入することとしました。 それが、下掲写真のヘルメットであります。(ヘルメット) 自転車についてもヘルメット着用が法的義務とされたが、当面は罰則なしの努力義務というのが法律上の取り扱い。 そんなことで、いずれは買おうと思っていたものの、これを先送りし、ヘルメットを着用せずに自転車に乗っていたヤカモチでありましたので、いい機会でもあるかと、店頭に展示されていたいくつかの中から選んで買い求めたという次第。 早速にこれを着用し、いざ出発であります。 既に正午をかなり過ぎてしまっていたので、JR石山駅近くの食堂で昼食を済ませることにする。食堂を出て、銀輪散歩の態勢に入ったのは午後1時を過ぎてしまっていたかと思う。(コース地図1・JR石山駅から瀬田川洗堰手前まで) 京阪唐橋駅前から瀬田川沿いの道を南へ。(京阪・石山寺駅) 石山寺駅前、瀬田川畔の蛍谷公園の入口に紫式部のレリーフが入ったオブジェが設置された噴水ひろばがあったが、奥のベンチに年配のご夫婦らしきお二人が坐って居られ、このオブジェを撮ろうとすると、背後にお二人が入ってしまうアングル。撮影は諦め、振り返って撮ったのが上掲の駅の写真。 百人一首の紫式部の絵札のそれのような、彼女の姿の絵が遠目ながら目に入りました。めぐりあひて みしやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半よはの月かな (紫式部 新古今集1497、小倉百人一首57) 今年の大河ドラマが紫式部が主人公となっていることから、紫式部が源氏物語の宇治十帖を執筆した場所と伝えられる石山寺は観光客の注目を集めることとなるのだろう。(ミツマタ) そして迎えてくれたのは、ミツマタの花。春されば まず三枝さきくさの 幸さきくあらば 後にも逢はむ な恋ひそ吾妹わぎも (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1895) 「さきくさ」は未詳植物で、ジンチョウゲ、ヤマゴボウ、フクジュソウなど諸説あるが、ミツマタのこととするのが有力説である。 このミツマタの花から少し南に下ったところにあるのが料亭・新月。 ヤカモチが属する友人グループ「健人会」の会合はこのところ専らこの料亭でお世話願っているが、来月3日にも昼の宴席が予定されていて、近々またこちらまで出かけて来ることになる。<参考>健人会関係の記事はコチラ。(料亭・新月) 料亭・新月から石山寺東大門前までは200mくらい。(石山寺の東大門) 石山寺の門前には、ご当地ゆるキャラの「おおつ光ルくん」が観光客に愛嬌を振りまいていましたが、いつの間にか姿が見えなくなっていました。 上の写真では、東大門の前に彼が写っています。21世紀版光源氏だそうですから、今年の大河ドラマのこともあり、彼にも注目であります。 石山寺名物という石餅とお茶のセットを注文、上掲写真の一番手前に写っている床几に腰掛けてこれをいただきました。 写真には写っていませんが左手の店で販売しているもので、店の中のテーブル席で食べることもできるのだが、外の方が気分がよかろうと、自転車を身近に停めても置けるので、床几を選んだ次第。 石山寺はこれまでに何度も訪ねて居り、過去記事にも掲載しているので、今回はパスです。自転車のトラブルがなければ少し立ち寄ってみてもよかったのだが、先を急ぐこととする。<参考>石山寺 2008.10.25. 石山寺散策 2015.9.3. 石山寺散策(続) 2015.9.4. 石山寺散策(続々) 2015.9.5. 石山寺の駐車場を通り抜け、瀬田川沿いの国道422号に出てこれを川下へと走る。(コース地図2・瀬田川洗堰から立木観音手前、鹿跳峡付近まで) 瀬田川洗堰の手前にあったのが皇后陛下行啓記念碑。(皇后陛下行啓記念碑)<参考>貞明皇后・Wikipedia 裏面には、大正11年11月12日の文字が読み取れるから、大正天皇の皇后であり、昭和天皇の母である貞明皇后の行啓を記念した碑であるようだ。 上の写真の碑の左背後に写っているのが、今日の相棒、ヤカモチのトレンクルであります。(瀬田川洗堰) 瀬田川洗堰から1kmほど下った付近で、国道422号とお別れし、県道3号に入る。県道3号を数百メートル進んだ付近にあったのが、「滋賀県指定自然記念物・鹿跳峡の甌穴(米かし岩)」と書かれた説明板。 川岸の木立に紛れて見落としてもおかしくない目立たぬ説明板であったが、たまたま目に止まり、自転車を一時停止。(鹿跳峡の甌穴) 見ると、河原に下りることができる、道とは言えないが何度も人が下りているうちに自然に出来たと思われる通路らしきものができているので、河原に下りてみた。説明板に掲載されている「米かし岩」はどれとも特定できなかったが、岩がゴロゴロとあって、甌穴らしきものが散見される眺めでありました。(同上) 川の淀みの中にわずかに頭を見せている岩が「米かし岩」なのかもしれないが、足場が心もとないので接近しての確認はせず、遠くからの撮影で済ませました。 そして、ほどなく立木観音です。(立木観音・参道登り口) 本堂までは延々と石段を登らなければならないので、ここもパスです。(同上・説明板) 冒頭でこのコースを走るのは10年ぶりと書いたが、2014年3月11日にこれを走っているので、その折の記事も適宜貼り付けて置きますので、併せご覧ください。 前回は、自転車を肩に担ぎ、この石段を登って、本堂まで行って居りますので、下記参考記事をご参照願います。<参考>JR石山駅から曽束大橋までの記事 瀬田川・宇治川銀輪散歩(獺の祭見て来よ瀬田の奥)2014.3.12.(コース地図3・立木観音から曽束大橋、喜撰山大橋) 立木観音から南に400mほど下ると鹿跳橋。(鹿跳橋西詰)(鹿跳橋の上からの眺め) 瀬田川は鹿跳橋の下流で大きく西向きに流れを変え、県道3号も西方向に向きを変える。 西に800mほど行くと石山瀬田川浄苑という霊園の入口がある。 その付近を走っている時に、後ろからクロスバイクで走って来た外国人二人組に追い抜かれる。「コンニチワ」と言うので、「どちらから?」と尋ねると、カナダだという。カナダ人男性の二人組である。宇治まで走るのだと言う。目的地は同じであるから一緒にと言いたいところであるが、こちらは変速機のついていない小型折りたたみ自転車であるトレンクル。彼らは変速機のあるクロスバイクであるから、出せる速度に格段の違い。とてもついてはいけない。「お先にどうぞ」であります(笑)。 ところが、先に行った筈の彼らが自転車を道の両サイドに停めてスマホか何かを見ている。道が不案内な様子。大声で、次の橋、曽束大橋を渡るのだと教えつつ、彼らを追い抜いて行く。しかし、すぐに追いつかれて再び置いて行かれる。 そして、その曽束大橋を渡って、ヤカモチも対岸の道へ入る。(曽束大橋) 本日はここまでの記事とします。(つづく)
2024.03.19
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(承前) 中の橋のたもとまで戻って来たところで、橋を渡ると会津柳津駅であるが、県道151号をそのまま進む。道はすぐに左にカーブし、只見川に架かる観月橋が見えて来る。(観月橋から眺める圓蔵寺本堂と仁王門) 観月橋の中ほどから圓蔵寺を撮ったのが上の写真。 手前に見える建物は町営の観光案内所である。 カメラを左に振ると柳津橋である。(同上・柳津橋)<参考>柳津橋(国道252号)・Wikipedia 観月橋の東詰めにあるのが「きよひめ公園」。 きよひめ公園の道路向かいに駐車場のような空地があって、そこに赤べこがいたのでこれも撮影。(きよひめ公園前の赤べこと圓蔵寺) こちらの赤べこは「父・福太郎」とある。圓蔵寺境内、鐘楼脇に居た赤べこは「母・満子(みつこ)」とあったから、二人(頭)はご夫婦のようですな。町営観光案内所、やないづ縄文館、道の駅のそれぞれに子どもたち(もうくん、あいちゃん、やなぎまる)が居るらしいが、見落としたか見ていても気にとめなかったかで、写真はありません。 きよひめ公園から川べりに下りる階段があり、これを下りると遊歩道があり、清姫橋という小さな橋が川沿いに架かっている。(清姫橋)<参考>島津貴子・wikipedia 清姫橋というのは、昭和天皇の第五皇女・清宮貴子内親王に因んで名づけられた名称とのこと。 この付近が天然記念物のウグイが生息する淵だそうで、その碑が建てられている。(天然記念物ウグイ生息地の碑)<参考>ウグイ・Wikipedia 弘法大師が、虚空蔵菩薩を彫った時の木屑を只見川に捨てたところ、多数のウグイとなって泳ぎだしたと言われており、今でも神の魚(霊魚)として大切にされているとのこと。(ウグイ生息地) ウグイ生息地の碑の隣には、竹久夢二ロマン記念碑がある。(竹久夢二記念碑)<参考>竹久夢二・Wikipedia 竹久夢二は何度か会津を訪れているが、昭和5年(1930年)夏に柳津を訪れ、地元の娘をモデルにして柳津の風景を数多くスケッチしているとのこと。記念碑に刻された歌はこれ。みちのくの めぐしをとめは 魚淵の 魚にうの花 購ひにけり (竹久夢二)(同上)<参考写真>(夢二柳津風景スケッチ)※この写真はみちのく悠々漂雲の記/福島県というサイト記事から借用しました。 きよひめ公園から中の橋まで戻ると橋の欄干に大清水(弘法清水)の説明板が掲示されていました。 弘法大師が錫杖で岩場をトンと突くと冷たい清水が湧き出たという大清水である。 橋を渡って銀山川に沿った細い通路を上流方向に入ると大清水がある。(弘法大清水の説明板) 地元の人や旅行者が入れ替わりに水を汲みにやって来る。(弘法大清水) かたわらに咲いていたブルーサルビアの花にモンシロチョウがやって来てとまりました。彼は大清水よりも花の蜜のようです。(モンシロチョウ) 駅方向に戻ります。(柳津道路元標)<参考>道路元標・Wikipedia 赤べこ通りの坂の上り口辺りに道路元標がひっそりとあった。(坂上十良右衛門住宅) 赤べこ通りの坂道に沿って長谷川菓子店、稲葉屋菓子店、小池菓子店が三軒もあり、柳津名物のあわ饅頭、くり饅頭を販売している。(赤べこ通り) 相次ぐ災害に困り果てた人々が「もう災害に”あわ”ないように」との願いを込めて「粟」でつくった饅頭を奉納したのがあわ饅頭の起源らしいが、今では災難よけの縁起物として柳津名物になっている。ヤカモチもあわ饅頭とくり饅頭各一個を稲葉屋さんで買い求めて食べてみましたが上品な美味しさの和菓子でありました。(会津柳津駅前のSL展示) 駅を降りた時には、工事中の駅舎の工事用囲いシートに遮られて仮通用口とは駅舎を挟んで反対側にあったので気付かなかったが、SLが実物展示されていました。 SL展示の前が、会津バスと町営のコミュニティバスの停留所。駅舎の工事が終わると駅舎の前に移動するのかもしれないが。(同上)(同上・説明板) SL展示を撮影したり、駅横の空地のブランコに坐ってタバコを喫ったりしているうちに、駅に人が集まり出した。駅ホームに入って列車を待つ。(会津柳津駅・駅名表示) すると、さきほど道の駅での昼食時に出会ったご夫婦とホームで再会。 彼らも会津若松行き13時21分発の電車に乗られるということで、また一緒になりましたね、と笑い合う。 昼食の時は視線が合わずご挨拶しなかったが、ご夫妻の方もヤカモチに気付いて居られたようで、お昼も同じ場所でしたね、と奥様の言葉。(会津柳津13時21分発列車の各駅発時刻) ホーム側からもSL展示が見えるようになっている。(町営バスとSL展示) 柳津町民バス・ふれあい号と書かれた町営のバスが丁度やって来た。 さて、先ほどのご夫婦であるが、彼らは二つ先の塔寺という駅で下車されるのだという。そこには立木観音があって、それがぽっくり寺だというのでお詣りするのだという。 立木観音というとヤカモチは瀬田川沿いの大津のそれを思い浮かべ、ぽっくり寺というと飛鳥川沿いのお房観音を思い浮かべるのであるが、そういう話をすると長くなるので口にはしないことに。 後で、地図を見ると立木観音は塔寺駅から2.5km程度の距離。「5キロ程度のハイキングです。」と仰っていたのは往復の距離のことで、ヤカモチはその時は片道の距離かと思ったので、往復10キロとはご健脚なことだと思ったものでした。 塔寺駅でご夫妻をお見送りして、アトは窓外の景色を楽しみながらの列車旅であります。(磐梯山・会津坂下~若宮間)(同上・会津高田~会津本郷間) 今日(11月8日)は、朝は雲の中であった磐梯山も、よく晴れてその全貌を見せてくれました。 尤も、上の磐梯山を撮ったところで、デジカメは電池切れ。下の磐梯山はスマホによる撮影です。 会津若松からは高速バスで新潟へ。西会津ICまでは記憶にあるが、いつの間にか眠り込んだみたいで、目が覚めたのは安田IC付近。以下は省略して、空路大阪へ。以上で、会津柳津散策終了です。(完)<参考>銀輪万葉・その他篇
2023.11.17
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(承前) 赤べこ通りに出て、圓蔵寺仁王門(南山門・表山門)へと向かいます。(圓蔵寺・仁王門) 赤べこ通りから見上げるだけで済ませ、石段を上るのは止めに。 本堂も仁王門も巨大な岩の上に建てられている。(柳津温泉のオブジェ)(同上・副碑)<参考>柳津温泉・Wikipedia 西山温泉・Wikipedia 副碑によると、柳津温泉は、近くの西山温泉から源泉を引湯して温泉街が開かれたようだが、1987年(昭和62年)4月に圓蔵寺駐車場近くでボーリング調査して源泉を開発、現在は独自源泉による温泉街となっているとのことで、只見川沿いでは一番大きな温泉街だそうです。<参考>福島県観光情報サイト・ふくしまの旅・柳津温泉 球形のオブジェの頭頂部からは、絶えず温泉の湯が流れ出しているので、濡れて光っている。 オブジェの左隣の観光案内板には、西山温泉も表示されているのは、かつて源泉を引湯させていただいていた頃の看板であるからなのか、それともその頃のよしみということなのか。(柳津温泉観光案内板) あかべこ通りを、銀山川に架かる中の橋まで戻ると、橋を渡った先に「ほっとinやないづまちなか」という無人の無料休憩所があり、トイレを借りるため立ち寄る。(銀山川・中の橋の上から上流側を望む)(中の橋・銀山川上流から)<参考写真>(ほっとinやないづまちなか)※この写真は「会津暮らし」というサイト記事から借用しました。 すると、その入り口前にその奥の高みに良寛像があることを示す看板があった。トイレを済ませてから、かなりある階段を上って良寛像を見に行くこととした。(良寛像と詩碑) 後で気付いたことであるが、この良寛像が建っている場所はつきみが丘町民センターという町営の宿泊施設で、日帰り温泉としての利用も可能とのこと。まあ、滞在時間が限られているので、温泉に入っている余裕はないので、その時に気付いていたとしても、温泉を利用することはなかったので、同じことであります。(同上・詩碑台座の銘板) 良寛の「也奈伊津ヤナイヅノ香聚閣コウジュカクニ宿ヤドリ、早ヨアケニ興オキテ眺望チョウボウス」と題する詩の全文を転記しようかと思ったが、使用されている漢字でブログには使用できない機種依存文字が三か所ほどあるので、全文転記は諦め、冒頭部分一部にとどめて置きます。 全文は、上掲の写真をクリックし、フォト蔵の大きいサイズの画像でお読みください。 夕ユウベニ向ムカイテ香閣コウカクニ投トウジ 口クチヲ嗽ススギテ青ショウ蓮レンヲ礼ライス 一燈イットウ幽室ユウシツヲ照テラシ 万像云バンゾウココニ禅ゼンヲ倶トモニス 鐘ショウ声セイ五ゴ更コウノ後ノチ 梵音ボンノン林泉リンセンヲ動ウゴカス 東トウ方ホウ漸ヨウヤク已スデニ白シロク (以下略)(同上・副碑) 副碑によると、良寛が圓蔵寺に詣でたのは、文化14年(1817年)秋、彼が60歳の時と推定されているようです。 良寛和尚(1758~1831)が、宿願の香聚閣・柳津圓蔵寺詣でを果たしたのは、文化14年(1817)秋、60歳の時と推定される。遺された詩歌によれば、越後から江戸に出て、その後北上し、圓蔵寺に詣で、さらに米沢から鶴岡に進み、越後に帰ったものと思われる。 良寛和尚は、秋たけなわの夕刻、ようやく圓蔵寺に杖を曳き、ご本尊に礼拝し、一本の蝋燭の灯るほの暗いお堂の中で諸仏に囲まれ、しばし座禅をした。翌朝、五更(午前4時頃)の鐘で目を覚ますと、さわやかな秋の気が山川にみなぎり、今はない三重塔をはじめ堂宇が遠近に見えたという。 以上、副碑より転記(部分) 良寛像のある場所から階段を下っていると、中ほどで左手に公園のような広場があり、奥に小さなあづま屋がある。 あづま屋の脇に立つと観月橋の先に圓蔵寺の本堂と仁王門が一望。(圓蔵寺本堂と仁王門) 本堂の回廊が正面に見えるが、先刻その回廊の中央付近からこちら方向に向けて観月橋や瑞光寺橋の写真を撮ったことを思い出したので、その写真を確認してみると、こちら側のあづま屋が左片隅にはっきりと写っているのが見てとれました。<会津柳津散策(上)の12枚目の写真参照> さて、中の橋に戻り、奥の院へと参ります。 中の橋を渡って二つ目の辻を右(東)に150mほど行くと、奥の院、弁天堂がある場所へと上って行ける階段道があった。これを50mほど上って行くと、正面に弁天堂。(圓蔵寺・弁天堂)(同上・説明碑)(圓蔵寺・奥の院) 奥の院エリアには釈迦堂もあったが、重要文化財の弁天堂には叶うべくもなく、ここではお釈迦様も弁天さんに貫禄負けのようです。(同上・釈迦堂) 奥の院からの帰途は、紅葉の綺麗な坂道を下って行きます。(奥の院からの坂道)(同坂道の紅葉) 再び、中の橋まで戻り、県道151号の緩やかな坂道を南へと上る。 坂道の途中、つきみが丘町民センターの高台から下って来る坂道と合する場所で、数人の男性が融雪装置の点検整備をされていましたが、そろそろそういう支度もしなければならない時期なんですね。 少し早いが、ヤカモチもそろそろ昼食の店を探す時刻である。 道の駅に行けば食事のできるところがあるだろうと、道の駅会津柳津へと向かっているのであります。 県道151号の右手、少し低い位置を国道252号が通っている。 道の駅は国道沿いだろうからと国道へと下る道を探しながら歩く。 坂道を上り切り、少し下り坂になった辺りで、右に入る道があったので、これを下って行くことに。 すると、国道252号に出たところが丁度、道の駅の前。(道の駅会津柳津・観光物産センター) 観光物産センターの中に食事のできる店のあることを確認。 まだ少し時間が早いので、付近をブラブラ歩きすることに。 観光物産センターの隣が斎藤清美術館。(同上・斎藤清美術館)<参考>斎藤清美術館 斎藤清・Wikipedia この画家のことは存じ上げないが、会津坂下町出身の版画家だそうです。 町の所々の道標に斎藤清が描いた柳津の風景版画の石板がはめ込まれていました。(斎藤清の絵がはめ込まれた道標) 道の駅の駐車場北側は只見川で堤防道が通っている。 そこに上がって写真を撮ってみた。(道の駅駐車場北側の只見川堤防道・上流側<西>方向の眺め)(同上・北方向の眺め)(同上・下流側<東方向>の眺め) この堤防道からも圓蔵寺の本堂が見える。 赤い橋は国道252号の瑞光寺橋である。 観光物産センターに戻り、土産物などを物色後、少し早めの昼食。 昼食を食べ終わる頃、昨日、只見線で小出から会津柳津まで通路を挟んで向かいの席に座って居られたご夫婦が入って来られた。 視線が合うこともなかったので、特にご挨拶もせず、店を退出。(道の駅会津柳津の登録証) 道の駅というのは、国土交通省に登録申請して、その登録を受けて初めて道の駅を名乗れるもののようです。道の駅でこのような登録証が掲出されているのを見たのは、というか気づいたのは今回が初めてである。(道の駅会津柳津全景) 道の駅を出て、駅方向に戻ることに。 帰りの列車の時刻には未だ間があるので、寄り道をしながら参りますが、つづきはページを改めることとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・その他篇
2023.11.15
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(承前) 昨日(11月7日)の続きです。 会津若松駅前のホテルで一泊しての翌日が今日(11月8日)ということになりますので、以下単に「今日」ということで記事を書きます。 今日は朝、会津若松駅発7時41分の列車で会津柳津へと向かいます。 今回の旅の目的の一つは、大伴家持に因む伝説のある、福満虚空蔵菩薩霊厳山圓蔵寺を訪ねることにありました。(会津若松駅・4番ホーム・只見線)<参考>会津若松駅・Wikipedia 会津若松駅4番ホームが只見線。反対側の5番ホームが会津鉄道会津線の列車が乗り入れるホームになっているようです。 向かいの3番ホームが磐越西線のようです。 向かいホームに喜多方行きの普通列車が入って来ました。(同上・3番ホーム・磐越西線喜多方行きの列車) 7時18分、会津川口行き7時41分発の列車が入って来ました。(同上・只見線7時41分発会津川口行き列車) 乗車して、磐梯山が見える側の席は左か右か頭の中の地図と照合して、右側と判断して右側の座席に座る。(同上・5番ホーム・会津鉄道の列車) 少し遅れて会津鉄道の車両が入って来ました。 5番ホームであるが、「JR2」という表示。これはどういう意味なんでしょう。(同上) さて、わが列車の会津柳津までの各駅発車時刻表は次の通り。(会津若松発7:41普通列車の各駅発車時刻)<参考>七日町駅・Wikipedia 西若松駅・Wikipedia 会津若松から西若松までは南向きに列車は走るので、会津若松駅の南方向に西若松駅がある。その位置関係からは「南若松」という方が適切かと思うが、この「西若松」という名称は、会津若松駅から見てというものではなく、鶴ヶ城のほぼ西にあたるということで、お城から見ての名称のようです。 西若松駅を出ると列車は右にカーブし、西向きになって阿賀川を渡る。 列車の乗客は、昨夕と同じで、通学の高校生たちが多数。(阿賀川・西若松~会津本郷間)<参考>会津本郷駅・Wikipedia 会津高田駅で多くの高校生が下車したが、地図を見ると会津西陵高校というのが駅の南方にあるから、その学校の生徒たちなんだろう。 この先、会津坂下駅前に会津農林高校というのがあるが、会津坂下駅着が8時19分であり、この高校に通う生徒もこの列車で間に合うから、まだ車内にいる高校生は会津農林高校の生徒ということになる。 会津高田駅まではほぼ西方向に走るが、会津高田駅を過ぎると線路は北向きにカーブする。 かくして右窓は東窓となり、東方向にある磐梯山が見えて来る筈。(ススキと磐梯山・会津高田~根岸間)<参考>会津高田駅・Wikipedia 根岸駅(福島県)・Wikipedia 磐梯山が見えて来ましたが、山頂は雲の中であります。 この先、会津坂下駅の手前で線路が西向きにカーブするまでは磐梯山が車窓に見えるのだが、雲が晴れる気配はなく、往路はずっとこんな風に山頂は雲に隠れたままでありました。 新鶴駅、若宮駅と過ぎ、線路が西向きに変わって磐梯山が見えなくなると、会津坂下駅である。<参考>新鶴駅・Wikipedia 若宮駅・Wikipedia 会津坂下駅・Wikipedia 会津坂下駅からは上り坂となり、塔寺駅を過ぎトンネルを越えた辺りから下り坂となる。<参考>塔寺駅・Wikipedia 会津坂本駅・Wikipedia 会津坂本駅付近から只見川沿いを走ることになるが、川からは少し距離があり、右手、川と線路の間には国道252号(沼田街道)が通っているので、川沿いを走っているという感じはなく、国道沿いを走っている感じ。 そして、左にカーブして列車が南向きに走ったところで目的地の会津柳津駅である。8時41分着。<参考>会津柳津駅・Wikipedia 会津柳津駅の駅舎は、現在改築工事中で、工事用仮囲いシートに覆われていて、その姿は見えない。仮の通用口からの出入りとなる。 会津坂本駅を出てしばらくは隣の国道252号と線路はほぼ同じ高さにあったが、左にカーブする辺りから国道は線路よりもかなり低いところを通るようになるので、駅舎は国道よりも高い位置になる。従って、駅前の道も国道よりも高く、南に向かって下り坂になっている。この道は「赤べこ通り」と呼ばれているようだ。 その坂道を圓蔵寺目指して下って行く。(福満虚空蔵尊境内案内図) 坂の中ほどに圓蔵寺の山門への参道があった。北山門である。 これは、裏山門。表山門(南山門)は坂道を下り切ったところにある。 裏から入るのがヤカモチ流であるから、ここから入ることとする。(圓蔵寺・裏参道と北山門)(同上・北山門) 北山門を入って振り返ると、山門の向こうに只見川に架かる国道252号の柳津橋が見えている。 正面には大きなお堂。圓蔵寺の本堂、福満虚空蔵尊菊光堂である。 本堂の正面に回ろうとするが、表に回る通路がない。 本堂外縁の回廊に上がり、回廊を回って建物正面に出るというのが、裏から入って直接本堂にやって来た参拝者の、唯一の参拝ルートである。 北山門を入ってすぐの処で左に道をとり、ぐるりと大回りして本堂正面に出るというルートがあるので、本来はこのルートで行くのが裏から入った者のマナーであるのだろうが、そういう遠回りをする参拝者は居ないだろう。 目の前に大きなお堂が見えているのだから、足は自然にその方向に向かうというもの。 しかし、本堂の裏階段からお堂外縁回廊に昇って表に回っていいものかどうか迷う人もいるのだろう。お堂の壁面に「参拝者の皆さまへ。階段を上がり正面にお回りください。」と記された案内板が貼られている。(本堂回廊からの眺め。只見川と観月橋<手前>と瑞光寺橋) 回廊からの眺めは素晴らしい。 手前の橋が観月橋。奥の赤い橋が国道252号の瑞光寺橋。 観月橋の左詰にあるのがきよひめ公園。 この公園から川沿いに下りる階段があって、それを下りると川沿いに小さな赤い橋・きよひめ橋が架かっている。その付近が天然記念物ウグイが生息する淵となっているようで、ウグイ生息地の碑が建てられている。また、その隣には竹久夢二記念碑もある。後刻立ち寄ってみる予定。(圓蔵寺本堂・菊光堂)(霊厳山圓蔵寺縁起)<参考>福満虚空蔵菩薩霊厳山圓蔵寺 上掲の縁起によると、大同2年(807年)徳一大師開創とあり、本尊の福満虚空蔵菩薩は弘法大師の作とある。 ここで、大伴家持とは時代が合わないことに気が付く。 大伴家持が、本尊仏は行基作の尊い仏像であるから33年毎に開帳するように進言したという伝説があるのは、宮城県登米市にある柳津虚空蔵尊のことであったことを知る。<参考>柳津虚空蔵尊(登米市)・Wikipedia まあ、いかにも偐家持らしい間違いであります。 寺の開創も大伴家持の死後、弘法大師も大伴氏の支族である佐伯氏の出自ではあるが家持よりはずっと後世の人。とあれば、大伴家持が出る幕はないのである。(本堂前の紅葉)(撫で牛) 撫で牛というと天神さんの専売特許かと思っていたが、虚空蔵菩薩は丑・寅年生まれの人の守り本尊ということで、撫で牛がこの寺にも鎮座しているのか。 今から400年ほど前、会津で大きな地震があり、圓蔵寺本堂を再建するに当たり、何処からともなく赤牛の群れが現れ、巨大な木材を運び活躍し、工事が完成すると忽然と姿を消したという赤べこ伝説が生まれ、この地が「赤べこ伝説発祥の地」とされている。 虎も工事のお手伝いをしていたら、撫で牛と並んで撫で虎も鎮座することになったのだろうが、虎は甲子園球場の応援に忙しくて、会津まで手が回らなかったので、撫で虎になるチャンスも黄トラ伝説を作るチャンスも逃したという次第。 ということで、本堂前、鐘楼脇に赤べこがいます。(赤べこ・母、満子)(鐘楼) 鐘楼脇の赤べこと撫で牛がいる付近から階段道を上ってゆくと、美しい紅葉がありました。(本堂脇から一段上った場所の紅葉) 更に上ったところが、霊寶堂や圓蔵寺会館などがあるエリア。(左から水子地蔵尊、霊寶堂、圓蔵寺会館)(奥の院への案内板) 奥の院へと向かう。 鐘楼の南側まで戻り、庫裡の塀に沿った道を南へと進む。(圓蔵寺境内から見る柳津の家並み) 散り紅葉が降り積む道をサクサクと行く。(圓蔵寺・庫裡) 庫裡を過ぎると、道は七曲り(実際は3度曲がるだけのS字またはZ字)の下り坂となる。 表山門(南山門・仁王門)へと下る道は、赤べこがいた付近にあったようだが、「赤べこ」や「撫で牛」に気を取られていた所為で見過ごしたものと思われる。坂を下り切って出た広い道を右に進み、赤べこ通りに出る。 奥の院よりも先に、表門である南山門を撮影しようと、赤べこ通りを駅方向に少し戻ることにするが、本記事はここまでとし、続きはページを改めることにします。(つづく)<参考>銀輪万葉・その他篇
2023.11.14
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11月7日、只見線に乗って来ました。友人の岬麻呂さんからの東北紅葉旅便りに触発されたのと六角精児氏の只見線「呑み鉄」とかなんとかというTV番組をたまたま見たのが重なって、只見線の車窓から紅葉を楽しもうという気になって、ヤカモチも思い付きの旅にと出かけた次第。 新潟まで飛行機で行き、新潟から上越新幹線で浦佐まで出て、浦佐駅から上越線で小出駅へ。小出駅から只見線で会津若松駅へというのがそのルート。 浦佐駅到着が11時丁度。11時01分発の長岡行きが出た後で、次の電車は12時47分発。(浦佐駅・西口)<参考>浦佐駅・Wikipedia 待ち時間が1時間45分余もあるので、ここで昼食を済ませてしまおうと、駅の東口に出てみたが、目に入った何とかという名のレストランは「本日定休日」。見える範囲に飲食のできそうな店は見当たらない。仕方がないのでコンビニでおむすびやコロッケなどを買って、駅の待合休憩室でこれを食べることとする。 東口には田中角栄氏の銅像が建っていましたが、撮影はせず。 食後のホットコーヒーは駅構内のコンビニで調達。 外に出てマンホールを撮影したり、駅の窓から西方向の景色を撮影したりして時間を潰す。(浦佐駅から西方向の景色)(同上) 発車時刻までまだ30分もあったが、ホームに入って待つこととする。 改札口は2階にあり、3階が新幹線ホーム、1階が在来線ホームになっている。駅の待合室やコンビニは2階にある。(上越線・浦佐駅ホーム) 在来線ホームに降りると小さな待合室があった。 男性が一人先客で坐って居られたが、中に入ると暖房されているようで、むっとした暑さで、とても長くは居られない。すぐに退出し、ホーム前方に移動。するとベンチがあったので、そこで待つこととする。 やがて、他の乗客もホームに降りて来られ、10名余の人数となる。 長岡行きの普通電車がやって来て乗車。次の駅が八色駅で、その次の駅が只見線の始発駅となる小出駅である。 浦佐駅前で撮影したマンホールには西瓜の図柄があしらわれていたが、八色西瓜(やいろすいか)がこの地の特産として有名なんだろう。 浦佐から小出まで上越線は魚野川を右に見て川沿いを北上する。 12時56分小出着。1番ホームから只見線である4番ホームに移動。結構な人が下りて、その多くが4番ホームへと急ぐ。走っている人も居る。ヤカモチもつられて急ぎ足となる。 4番ホームには既に列車(といっても2両編成)がとまっている。(小出駅・只見線ホーム・会津若松行き)<参考>小出駅・Wikipedia 幸い1両目の前方右側の席に坐れましたが、満席で立っている男性も一人二人は居られたかと。 参考までに各駅の発車時刻を示すと次の通りです。(小出駅発13時12分列車の各駅発車時刻)<参考>只見線・Wikipedia 上の一覧表をご覧いただければお分かりのように、小出から会津若松まで実に4時間12分の列車旅という次第。 鉄道愛好者のうち、列車に乗ることを楽しむタイプを「乗り鉄」というらしいが、ヤカモチは勿論「乗り鉄」ではない。 しかし、今回はその「乗り鉄」もどきになってみようという訳である。 13時12分定刻に発車。 発車してすぐに魚野川を渡り、次駅の藪神駅を過ぎると、魚野川の支流である破間川を渡り、この先大白川駅の先までこの破間川に近づいたり離れたりしつつ北上。(藪神~越後広瀬間) 家並みの背後の山のどれかが平地山で、奥に山頂が少しだけ見えているのが上権現堂山であるのだろう。(同上) 車窓のガラス越しの撮影なので、画像は不鮮明でイマイチ。 肉眼だとそこそこの紅葉景色であるのだが、写真にして見ると冬枯れのごとき景色である。 どんよりした曇り空であることがそれに輪をかけ、写真写りが更にも悪くなる。(同上)(越後広瀬~魚沼田中間) 車内が異常に暑い。座席下から暖房の温風が吹き出しているではないか。 上着を脱ぎ、シャツを腕まくりするが、それでも暑く、汗が出て来る。 向かいの席の乗客も上着を脱ぎ出している。 車掌に暖房を切るよう苦情を申し立てる。 「調節します。」との返事。 調節するではないだろう、すぐに暖房を切れと思ったが、口には出さず席に戻る。 しばらくすると座席下からの温風が出なくなったので、すぐに切ってくれたようだ。(上条~入広瀬間)(同上) 上の写真2枚などは、車窓に映っている車両内の蛍光灯が写ってしまっていて、写真のていをなしていないが、敢えて掲載して置きます。 大白川駅で少し長い停車時間。 ホームに出て涼しい風に当たる。 窓が開けられない構造になっているので、暖房を切っても車内の温度が下がるまで時間を要するのである。(大白川駅)<参考>大白川駅・Wikipedia 駅ホームからの写真だと紅葉も美しく写る 大白川駅を出ると、短いトンネルに入る手前付近から破間川と別れてその支流になる末沢川に沿って走ることになる。 只見線は只見川に沿って走る線路かと思っていたが、それは只見駅から先の福島県側のことであったのですな。 大白川駅と只見駅との間に長いトンネルが二つあり、大白川側のトンネルが六十里越トンネルで、只見側のトンネルが田子倉トンネルである。 六十里越トンネルの中間の何処かが新潟県と福島県の県境となる。 ということで、気づかぬうちに新潟県から福島県に入ったことになる。 六十里越トンネルを出てから田子倉トンネルに入るまでの間に数百メートルほど外に出る箇所がある。下掲の写真はその折に撮ったものであるから、写っているのは田子倉湖だと思う。田子倉ダムによってできたダム湖である。 対岸に見えるのは国道252号である。 この付近に今は廃駅となっている田子倉駅があるのだが、それは見落としたのだろうと思う。<参考>田子倉駅・Wikipedia(大白川~只見間・田子倉湖) はい、只見駅に到着。しばらく停車するのでホームに出ることが出来る。 雨がぱらついている。 田子倉ダムの下流側にあるのが只見ダムで、そのダム湖が只見湖であるが、田子倉トンネルを出た時には既に後方になっているので、車窓からは見えない。(只見駅)<参考>只見駅・Wikipedia 後方に見えている山は柴倉山。(同上)(蒲生川・只見~会津蒲生間) 只見川に流れ込んでいる蒲生川の奥に見えているのが、会津のマッターホルンと言われている蒲生岳かと思ったが、地図で調べてみると、これは別の山のようです。(同上) 右手に写っている山裾の斜面が蒲生岳のもののようです。 はい、こちらが多分、蒲生岳。(蒲生岳・只見~会津蒲生間)<参考>蒲生岳・Wikipedia(国道252号の橋・会津蒲生~会津塩沢間)<参考>会津蒲生駅・Wikipedia 会津塩沢駅に到着。 駅名表示板に河合継之助終焉の地と書かれている。<参考>河合継之助・Wikipedia 河合継之助は、慶応4年8月16日(1868年10月1日)、戊辰戦争で新政府軍に敗れ、会津へと落ち延びる途上、戦闘の傷による破傷風が悪化し、塩沢村の医師矢澤宗益宅にて死去している。享年41。(会津塩沢駅)<参考>会津塩沢駅・Wikipedia 会津横田~会津越川間には伊夜彦神社があるというので、車窓からそれを撮ってみようとしたが、一瞬のことにてそれと気づいた時には、時既に遅しで、シャッターチャンスを逃してしまいました。<参考>かねやま町に「唯一」ある島!「パワースポット伊夜彦神社」(本名~会津川口間)<参考>本名駅・Wikipedia 会津川口駅・Wikipedia(会津水沼~早戸間)<参考>会津水沼駅・Wikipedia 早戸駅・Wikipedia 上の写真も下の写真も車内の照明が写ってしまって不鮮明。(同上)(同上・夢幻峡の渡し)<参考>夢幻峡の渡し・Wikipedia 夢幻峡の渡し公式予約サイト 車窓の窓ガラスも曇りだして、いよいよ撮影が困難になって来た。(早戸~会津宮下間)<参考>会津宮下駅・Wikipedia(会津宮下~会津西方間)<参考>会津西方駅・Wikipedia 以上で、写真撮影は諦めることに。 会津柳津駅では多くの人が下車して、一気に車内が空きました。 既に、午後4時半近くになっているので、暮色の気配である。 会津柳津は、翌日訪ねる予定にしているので、会津若松まで乗り続ける。 やがて車内は、下校する高校生たちの姿が多数となり、観光客がほとんどであったそれまでとは異なり、普通の通勤通学列車の雰囲気に一変。そして、すっかり暗くなって午後5時24分、会津若松駅到着であります。 会津若松には、これまで何度か来ているが、直近は、2012年9月の裏磐梯銀輪散歩の折に会津若松を通過しているから、11年ぶりということになる。今から考えると、会津若松で1泊ではなく、会津柳津で1泊した方が時間を有効に使えたのであった。(つづく)<参考>銀輪万葉・その他篇
2023.11.12
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(承前) ホテルをチェックアウト。前日回れなかった、さきたま古墳公園の南側エリアの古墳に向かう。(さきたま緑道入口の自販機) ホテルを出て県道77号を左へ。武蔵水路に架かる野合新橋を渡ってスグのところに水路沿いを南へと続く緑道の入口があった。 その入り口にあった自販機は、稲荷山古墳出土の金錯鉄剣に刻された漢字を散りばめた図柄になっていて、いかにもこの地らしいデザインである。 緑道は「さきたま緑道」とある。全長4.5kmで、JR高崎線・北鴻巣駅前の鴻巣市赤見台近隣公園まで続いているようである。(さきたま緑道案内図)<参考>さきたま緑道 歩行者、自転車専用の道で、往復9kmであるから、レンタルのママチャリでなければ、迷うことなくこの道を走っていたと思うが、少し様子を見ただけで、古墳公園南エリアへと向かいました。 先ず、奥の山古墳へ。(奥の山古墳)(同上・説明碑) 次は、中の山古墳。(中の山古墳)(同上・説明碑) 中の山古墳の説明碑の近くに生えていたのはナラタケだろうか。こんなキノコがあちこちに群生していた。(ナラタケ) そして、鉄砲山古墳。(鉄砲山古墳) 説明碑のある位置からは、木々が邪魔して全体像が撮影できない。(同上・説明碑) 右に回り込んだアングルから撮影したのが下掲の写真。(同上) 鉄砲山古墳に沿った細道を辿ると、墳丘の反対側に出た。 そこは、前日に前玉神社へと向かう際に、間違って一つ手前の道を右折した時に立ち入った場所であった。その折に撮った写真が下掲の写真。 上掲の写真の撮影位置とは墳丘のほぼ反対側の位置になる。(同上) ここから、県道77号道路に出て観光物産館さきたまテラスの方向へとママチャリを走らせてしまったので見ることは出来なかったのであるが、公園内の道を西へと走っていたら、埼玉県の県名発祥の碑があったようです。<参考>観光物産館さきたまテラス(さきたま古墳公園正面入口) 上は、観光物産館さきたまテラスの側から前日に撮った公園入口前の写真であるが、この物産館は何故か県道77号道路と公園入口に背中を向けて建てられている。 道路・公園側から見て裏になるこの建物の表に回ってみた。 ホットコーヒーを注文し、店の前のテラス席で暫し休憩。 さきたま古墳公園はこれで切り上げることとし、行田市駅方向に戻ることにする。 途中、こんなものを見かけました。(割役庄屋表門) 割役庄屋という言葉は初めて目にするが、数か村から10数か村の範囲を管轄する役職である大庄屋を大名主、割元、大肝煎、十村、郷頭、割番庄屋などとも呼んだそうだから、大庄屋という意味のようです。(同上)(同上・説明碑) 行田市駅近くの足袋とくらしの博物館の東側に代官所趾の碑があった。 写真左に写っている建物が足袋とくらしの博物館である。(代官所の碑) 裏面を見ると「忍一の五番北東の一角は、忍藩一万代官と御蔵役代官の詰所で、山方代官は服部、松岡、野間等十一人、普請御蔵役は篠田、別所等九人であった。役宅は東町裏にあって、代官町といっていた。代官所は後に奥御医師筆頭岸田宗泉の診療所となった。」と書かれているが、イマイチよく分からない文章である。(同上・裏面) 鳥居を潜って、奥の道路に出てみると、足袋とくらしの博物館の正面に出たが、この日は定休日で、博物館は閉じられていました。(足袋とくらしの博物館) 前日にやり過ごした水城公園へと向かう。 広い公園である。 自転車での乗り入れは禁止である旨の標識表示。公園内は押して歩けとのことである。自転車を押しながらブラブラと公園内を散策。(水城公園) 忍城の堀の名残りでもあるか、大きな池の畔に出る。 釣りを楽しむ人の姿も。 よく晴れた暑い日であったので、木陰で休もうとするが、ベンチのある木陰はどこも先客ありの状態。ようやく見つけたのは大きな切り株がある木陰。池からは少し離れているが、池を見渡せる位置にあって、眺めも悪くないので、ここで暫く休憩とする。 上の写真にも写っているが、左手に目をやると赤い実をつけた樹高2m余の低木が目に入った。(ウメモドキ) 何かと近づいて見るとウメモドキの木であった。 赤い実が鈴なりに生るの中、小さな花もまだ咲き残っている。(同上) しばし、ウメモドキの実と遊ぶ。(同上)(同上) ウメモドキにも飽きて、池越しに右手前方に見える古い洋風の木造建築物が気になったので、これを見に行く。(旧忍町信用組合店舗) この建物は、大正11年(1922年)8月6日に行田市行田13-31の地に開店した忍町信用組合の元店舗だそうな。現在は、寄贈を受けて市の所有となっていること、市の指定文化財になっていること、Vert Cafeという名のカフェとして公開・再活用されていること、などを下掲の説明碑から理解したのだが、走り読みであったので見学には事前予約が必要と誤解してしまったので、外観を遠望したのみで立ち去りましたが、今よく読んでみると、カフェが営業中の時は随時、休業日は事前予約すれば内部を見学することができると書かれている。 遠目には人影もなく営業している雰囲気には見えなかったが、それは文化財ということで、喫茶店などのように幟旗を立てて営業していることを示すことは敢えてしないということであったのかも知れず、営業していた可能性も否定できない。(同上・説明碑) 再び、忍城バスターミナル、行田市役所の前を通り、諏訪神社・東照宮へと向かう。手元の簡略地図に東照宮という文字が記載されていたので立ち寄ってみようと思ったに過ぎない、まあ、時間潰しの立ち寄り先であります。 市役所前の交差点から西へ300mほど行ったところにそれはあった。(諏訪神社・東照宮)(同上・拝殿) 拝殿の左側柱には家康の言葉、右側柱には明治天皇御製歌が掲出されていた。(同上・拝殿左側柱) 勝つ事ばかり知りて負くることを知らざれば害その身に及ぶ 己をせめて人をせむるな 家康公処世訓(同上・拝殿右側柱)朝宵に 物くふごとに 豊受の 神の恵みを 思へ世の人 明治天皇御製(同上・説明碑) 諏訪神社・東照宮のある場所は、行田市郷土博物館と道路を挟んで北側に隣接する位置にある。下掲の忍城鳥瞰図に示されている現在地が諏訪神社・東照宮の位置であるから、ここもかつての忍城本丸の一部であったということになる。(忍城鳥瞰図)(諏訪の大木) 忍城バスターミナルまで帰って来ると「忍城十五門之内 沼橋御門跡」と刻された樋が、バス停脇にありました。 上掲の忍城鳥瞰図には、右端中央にこの門が描かれている。(忍城沼橋御門跡の碑) 既に正午を過ぎている。 足袋とくらしの博物館から広い通りに出た角に行田市商工センターのビルがあり、その1階の店舗の前に、ラーメンだったかうどんだったか、何やらそのような旗が何本か立ち並んでいたのを見たので、そこで昼食をと行ってみたら、飲食を提供する店ではなく食品や名産品などを販売している店でありました。紛らわしい旗を立てるなと思ったが、こちらの誤解なのだから仕方がない。 忍城バスターミナル方向に戻りつつ、飲食店を探す。 何のことはない、バスターミナルの道路反対側にランチのできる店がありました。 そこでランチを済ませ、忍城バスターミナル観光案内所で、レンタルしたママチャリを返却、駅前へとブラブラと散歩がてら帰ることに。(田山花袋「田舎教師」ゆかりの料亭の碑) 紛らわしい旗の店の東隣のコンビニ駐車場の前に、「田山花袋 田舎教師 ゆかりの料亭」という石碑がありました。 田山花袋の小説は読んだことがないので、田舎教師という小説も未読。とあれば、なにという感想もなし、であります。(行田市駅近くの中央児童公園の猫) 帰りの列車の行田市駅発車時刻は15時20分 少し時間が早いので喫茶店でもあればと回り道してみたが、喫茶店は見つけたものの「本日定休日」の表示。 仕方がないので、向かいの公園のベンチで休憩。 その公園に居たのが、この猫。 行田市駅前到着。 何のことはない、駅ホームとの連絡橋へと上る階段の前に珈琲ショップがあるではないか。しかし、もう喫茶店でゆっくりするほどの時間の余裕はないので、改札を入り、ホームへと向かう。(秩父鉄道行田市駅・熊谷駅方面)(同上・羽生駅方面) 15時20分発の電車が入って来ました。 これに乗って帰ります。 電車に乗り込むと中吊り広告にて、この線では自転車をそのまま車内に持ち込めるというようなことが書かれていて、おっと思ったが、行田市駅はその対象ではないようでした。<参考>ちちてつサイクルトレイン 高崎から出ている上信電鉄や関西では近江鉄道などでも同様の乗り方ができるようだが、ヤカモチはまだ実際に利用したことはない。 熊谷で新幹線に乗り換えである。ということで、以上を以って、行田市銀輪散歩終了とします。(完)<参考>銀輪万葉・関東編の過去記事はコチラ。(注)掲載写真について、フォト蔵の特大サイズ写真とのリンクは貼りましたが、フォト蔵の不具合は未だ解消されていません。よって、写真画像をクリックしても特大サイズ写真は表示されません。不具合が完全に解消するまでお待ちください。
2023.10.16
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(承前) 稲荷山古墳を後にして、水路沿いの道を走っているうちに古墳公園から外れ、古代蓮の里へと続く道に入ってしまったというところで前記事が終わりましたので、そこから始めます。 左側が旧忍川であるが一面に葦が繁茂し川面が見えない。右側は稲田が続き、稲田と道を仕切るかのようにセイバンモロコシがずっと先まで生えていて、道の反対側の葦に対峙しているかのよう。 自転車で走る先をイナゴが次から次に飛び立つ。それを繰り返していると、イナゴに導かれながら走っているような気にもなって来る。(古代蓮の里へと続く道) 前方に見えているのが、古代蓮の里にある展望室タワー。 蓮の花の時期は終わっているが、タワーに上ると田んぼアートが見られるということなので行ってみる。(古代蓮の里) 古代蓮の里に到着。駐車場に駐車している車もまばら。蓮の花の時期でもない平日とあって、訪ねる人も少ないのだろう。(古代蓮の里・パンフレット)(同上)(古代蓮会館入館券)(古代蓮会館と展望室タワー) 古代蓮会館に入館し、蓮に関する色々な展示を見学した後、展望室タワーに上ってみることに。 展望室タワーは50mの高さであるが、エレベーターに乗るとボタンは1Fと2Fの二つしかない。50mの高さでも展望室は2階になるということか。 まあ、塔というのはそうしたものであるということですな。(展望室タワーから眺める古代蓮の里) 奥に見えているタンク群は埼玉県行田浄水場。 ごくまれに咲き残っている蓮の花も見られましたが、ご覧のように既に季節は蓮の実のそれか、それさえも終わろうとしています。葉が枯れていないだけが救いであるか。 こちらは、北西方向。反対側に回ると、田んぼアートである。(田んぼアート) 「翔んで埼玉Ⅱ」という文字が見えるが、何のことかよく分からない。 調べてみると、映画化されたギャグ漫画の2作目作品とのことで、近々劇場公開される運びになっているものだということが分かりました。 ヤカモチと同等レベルの人は、下記<参考>をご参照あれ(笑)。<参考>翔んで埼玉・Wikipedia(同上) 古代蓮の里を出て、やって来た道を引き返す。 来る途中で「辯天門樋」という標識が目にとまって気になっていたので、それがあるらしい脇道に入ってみた。(辯天門樋)<参考>辯天門樋・行田市ホームページ 辯天門樋というのは、旧忍川から農業用水路への取水口として、明治38年(1905年)6月3日に竣工した、水門である。 辯天門樋の背後に写っているのがヤカモチのママチャリであるが、道路側から水門を撮影することはできないので、自転車を降りて、柵を乗り越え門樋側に進入、できるだけ腕を伸ばして自撮りに似た恰好で撮影しなければならない。川側に転落しないよう注意を払いつつシャッターを押さなければならないので、このアングルが精一杯である。「辯天門樋」という文字と下部の水面と水門全体が写る画像を撮りたかったのであるが、そうしようとするともう少し川側に入り込まねばならない。しかし、ヤカモチが居る側の水門の出っ張りはそれを可能にするほどにはなく、足の踏み場が確保できないので、川に転落ということになる。反対側に回れば出っ張りが長く伸びているので可能であったかもしれないが、そこまでして撮るほどのものではない(笑)。 裏側も撮ってみようとしたが、こちらは高い草が生い茂っていてアングルがとれる位置まで進むことは不可能。(同上) 辯天門樋の説明碑です。(同上・説明碑) 太陽が西寄りに傾き、ヤカモチの影、影持が写ってしまってお見苦しい限りでありますが、雲に日が隠れるまで待っている訳にも参らねばご容赦願います。 元の道に戻って、やって来た道を逆に辿る。 地理感のない場所で道に迷わないためには、これが無難な戦略。 で、水路沿いのイナゴの道に入るとすぐに右手に見えたのが、先ほどの辯天門樋。来る時にも同じ景色が見えていた筈であるが気が付かなかったのだろう。上の説明碑はこの位置にこそ欲しいと思う。(辯天門樋・南側から遠望) 稲荷山古墳の前まで戻り、再びさきたま古墳散策であります。(将軍山古墳) 将軍山古墳は、墳丘上に円筒埴輪が並んでいるのが見えたので、墳丘に上れるのかと行ってみたが、上り口は存在しない。古墳の一角に展示館のような小さな施設があったが、閉館休業になってしまっているようで閉め切られたまま。(同上・説明碑) 次は、二子山古墳。 さきたま古墳群では、この古墳が最大のようです。(二子山古墳) 上の写真は、公園内の広い道路から、この古墳が目に入ったところで通路らしき細道(上の写真の色が濃くなっている垣根に沿った空間)を通って近くへ行ったものの、近づき過ぎていてカメラ画面に古墳の全体像が収まらない。そこで手前の草原をこちら側に歩いて、かなりの距離をとって撮影したのだが、それでも全体が入らなかったもの。(同上) そこで、もう一つ先の進入路から入って撮影したのが上の写真。 こちらが正しい進入路であったようで、説明碑も脇に設置されている。(同上・説明碑) 愛宕山古墳という小さな古墳の前から県道77号に出て、前玉神社へと向かう。(愛宕山古墳) 前玉と書いて「さきたま」と読みます。(前玉神社)(前玉神社の大鳥居説明碑) 前玉神社は、浅間塚古墳の墳丘上にある神社。 古墳全体が神社になっている。(浅間塚古墳説明碑) 参道を奥に進み、最初の階段を上ったところにあるのが、浅間神社。(前玉神社摂社・浅間神社) 浅間神社は、忍城内にあったものを勧請して祀ったとのことで、明治以前は、この浅間神社を「下ノ宮」、墳丘上の前玉神社を「上ノ宮」と称していたとのこと。 浅間神社の祭神は、写真に写っている旗でも分かる通り、木花咲耶姫であります。神武天皇の曾祖母ですな。 浅間神社を背にして参道を進み、右に曲がったところに西行の歌碑がありました。(西行歌碑)和(やは)らぐる 光(ひかり)を花(はな)に 飾(かざ)られて 名をあらはせる さきたまの神 (西行)※さきたまの神=この前玉神社のこと 岩波文庫の「西行全歌集」では上記の歌になっているが、こちらの歌碑では「やわらぐる ひかりをはなに かざされて 名をあらわせる さ記たまの宮」となっている。(同上・裏面) 歌碑裏面を見ると「西行法師奥州途上詠みたる歌」とあり、「西行参拝約八百年記念、金婚に当り神仏に感謝して 氏子一老夫婦 昭和六十一年丙寅四月十五日」と記されているのみで、奉納した氏子の老夫婦の名前は記されていない。昭和61年は1986年だから今から37年前。結婚して50年記念の建立であるから、20歳で結婚したとしても、現在の年齢は107歳である。今もご存命である可能性はかなり低いかと思われるが、このご夫婦の奥ゆかしいお人柄が偲ばれます。 それはさて置き、西行さんの時代には忍城などは無かった訳だから、忍城から勧請したという浅間神社は無かったこととなり、西行さんが参拝したのだとしても、浅間神社は目にしていないということになる。(前玉神社本殿前の階段左右の石燈籠 行田市ホームページより転載) 前玉神社本殿前の石段の左右に万葉歌が刻まれた石燈籠が建っている。 万葉燈籠とも呼ばれているもので、元禄10年(1697年)10月15日に氏子一同が奉納したものだとのこと。 こんなに古い万葉歌碑を見るのは初めて。(左石燈籠の万葉歌碑) 左側石燈籠に刻された歌はこれ。埼玉(さきたま)の 小埼(をさき)の沼に 鴨そ翼霧(はねき)る 己(おの)が尾に 降り置ける霜を 払(はら)ふとにあらし (高橋虫麻呂歌集 万葉集巻9-1744)※577577の旋頭歌である。※小埼の沼=埼玉県行田市埼玉付近の沼※翼霧る=水鳥が羽ばたき、しぶきを霧のように立てることを言うか。(埼玉の小埼の沼で鴨が翼を振ってしぶきを散らしている。自分の尾に降り置いた霜を払おうというのだろう。) この小埼の沼とされる場所は、前玉神社の東方3kmほどの位置にあるのだが、当日は何処にあるという情報の持ち合わせがなかったので、立ち寄ることがないままでありました。残念。 おしどり夫婦という言葉があるが、鴨は雌雄一対で行動を共にするというイメージが万葉の人々にもあり、鴨という語は「共寝」や「手枕」というものを連想させるものであったようだ。 歌の作者、高橋虫麻呂も鴨の羽ばたきの音を耳にして、家なる妻のことに思いを馳せたのかもしれない。次の歌などとも共通する「孤愁」があると言ってもよいだろう。葦辺行く 鴨の羽(は)がひに 霜降りて 寒き夕(ゆふへ)は 大和(やまと)し思ほゆ (志貴皇子 万葉集巻1-64)葦辺行く 鴨の羽音の 音のみに 聞きつつもとな 恋ひわたるかも (万葉集巻12-3090)<参考>高橋虫麻呂・Wikipedia (右石燈籠の万葉歌碑) 右側石燈籠に刻された歌はこれ。埼玉(さきたま)の 津に居(を)る舟の 風をいたみ 綱は絶ゆとも 言(こと)な絶えそね (東歌 万葉集巻14-3380)(埼玉の船着き場に停泊している船が強い風でもやい綱が絶えるようなことがあっても、便りは絶やさないでください。)(前玉神社・石燈籠説明碑) はい、前玉神社の本・拝殿です。 祭神は、前玉彦命と前玉比売命 前玉彦はいかなる神かは存じ上げないが、この地を治めた首長が神格化された国津神なんだろう。前玉比売は古事記に天之甕主神(アメノミカヌシノカミ)の娘と書かれているだけで、アメノミカヌシ、サキタマヒメについてもそれ以上の記述はないので、いかなる神であるのかは不明である。(同上・拝殿) まあ、何であれ、埼玉という地名は、行田市のこの地域の町名・埼玉や前玉神社の社名・前玉に由来するものであるから、行田市埼玉は埼玉のルーツということになる。(絵馬ならぬ絵猫) 何故かこの神社の絵馬は猫の顔の形をしている。(前玉神社の猫) そして、猫も居る。 首輪をしているから、野良ではなく家猫である。 神社で飼われているのか、近所の家の猫が遊びに来ているのかは、にゃんとも分からないのである。 にゃんとも分からなくなったところで、宿泊のホテルへと帰ることとします。ホテルは武蔵水路を挟んでさきたま古墳公園に隣接する湯本天然温泉ホテル。茂美の湯という日帰り利用も可能(多分)な温泉があり、隣接する建物は大衆演劇の劇場にもなっているというホテルである。この日は公演をやっている風にも見えなかったが、ホテルのフロントで尋ねると劇場側の建物の2階がレストランになっているとのことであったので、そこで夕食ということにしたのでありました。 ということで、本日はここまでとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・関東編の過去記事はコチラ。
2023.10.14
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9月27日~28日、埼玉県行田市を銀輪散歩してきました。 フォト蔵のトラブル解消の遅れで記事アップを差し控えていたところ、優先アップすべき他記事がやって来りもして今頃の記事アップとなってしまいました。本日より3回に分けて記事アップしますので、お付き合いください。 上越新幹線熊谷駅から秩父鉄道に乗り換えて、行田市駅下車。(秩父鉄道・行田市駅) 行田市駅は無人駅。 先ず、忍城バスターミナル観光案内所に向かう。 通常は、小型折りたたみ自転車トレンクルを持参して銀輪散歩というのがヤカモチのスタイルであるのだが、今回はこれを持参せずレンタルサイクルで回ろうという計画。 忍城バスターミナル観光案内所で自転車が借りられるのである。(忍城バスターミナル観光案内所) 駅前から忍城バスターミナル観光案内所までは、徒歩10分程度の距離である。スポーツタイプのクロスバイクを借りたかったのだが、キーが掛けられないらしく、今回は27日~28日の1泊2日で借りるので、夜間は宿泊ホテル前に駐輪して置く関係で、キーが掛けられないのでは、盗難の心配もあり、無理。ママチャリを借りるしかない。 1日借りて500円。2日分で1000円。トレンクルを宅配でホテルに送ると往復で4000円余を要するので、随分と安上がりではある。 それはともかく、10時50分過ぎ、借りる手続きを済ませてママチャリで出発である。 先ず、向かったのは、忍城址・行田市郷土博物館。 行田市郷土博物館は、忍城本丸跡地に昭和63年(1988年)2月に開業したもので、忍城に関するもの、さきたま古墳群に関するもの、行田足袋に関するものなどが展示されている。<参考>行田市郷土博物館 行田市郷土博物館・Wikipedia 行田市役所と行田市産業文化会館との間の遊歩道を西に抜けると、このような門がありました。(忍城三階櫓への道) 門内に入ると忍城址案内図や古地図、付近見取り図などの掲示があり、これを抜けると三階櫓の前に出る。(忍城址案内図)(忍城今昔地図)(付近見取り図) はい、三階櫓であります。(忍城御三階櫓) 現在の三階櫓は、郷土博物館の開館に合わせて復元された模擬建造物であり、元の御三階櫓は現在の水城公園付近にあったとのこと。(城門) 城門を入ると忍城の由来が書かれた説明板。 忍城は、文明10年(1478年)頃、成田顕泰により築城された難攻不落の名城であった、とある。 天正18年(1590年)豊臣秀吉の関東平定に際し、石田三成らによる水攻めにもよく耐えたが、小田原城が降伏・開城したことによって、忍城も開城したとのこと。<参考>忍城の戦い・Wikipedia(忍城の由来)(忍城の鐘の碑)(忍城の時鐘)「この鐘は、松平忠雅(ただまさ)が山形から備後福山(広島県)を経て桑名へと三度の移封の後に安住出来たのを記念して、享保2年(1717)11月1日に造られました。それから38年後の宝暦5年(1755)1月12日の大火で、城の中外の300余軒を灰にし、鐘も火災で割れてしまいました。現存するこの鐘は、子の忠刻(ただとき)が、父の愛した鐘を失った事を嘆き、宝暦14年(1764年)に再鋳したもので、文政6年(1823)に松平氏が桑名から忍へ移封されるのに伴い、忍城へ移されました。明治時代の郷土史家・清水雪翁が著した北武八志には「今現に忍城にありて日々時を報する者即ち是なり。曽て総州候が伊勢桑名治城の時、鋳造するものなり」と記されており、忍城に由緒深い名鐘です。鐘楼は、城内二の丸の東隅にありましたが、明治10年(1877)に取り崩され、当時の進修館小学校校庭に再建され、時を報じていました。昭和28年(1953)東照宮に移転の後に、平成4年(1992)4月、鐘楼から鐘を取り外され、現在は行田市郷土博物館に展示されています。」(行田市ホームページ「忍城の時鐘」より) 博物館内の展示物については、撮影禁止のものと撮影可のものとがあり、思いつくまま撮影可のものを撮影しました。(板碑)(板碑の形態)(忍城のジオラマ) 三階櫓は、水城公園付近に建っていたとのことであるから、右下部付近が現在の水城公園ということになるか。 中央上部が本丸御殿。その背後の森は、現在の諏訪神社・東照宮ということになるか。(忍城本丸御殿)(行田市郷土博物館パンフレット)(同上) こちらは、行田足袋のコーナー。(足袋の製作についての展示) 足袋のラベルも、何やらマンホールの図柄と同じで、こうして一堂に並べてみると面白い。(足袋のラベル) 足袋を履いたのいつのことであったやら。 子どもが小さかった頃、着物姿で子どもを抱っこしている若い頃のヤカモチの写真があるから、その頃は着物を着たりもしていたようだ。足袋も履いていたのだろう。何処か箪笥の奥に眠っているのだろうが、着物も足袋も見かけなくなって久しい。(足袋の歴史・行田市郷土博物館編集発行)(同上) そして、突然に万葉歌碑の写真。(万葉歌碑) 今回は、稲荷山古墳を見るべしで、やって来た銀輪散歩。 万葉歌碑のことは、念頭になかったので、言わば不意打ちという感じであるが、これで「銀輪万葉」の面目も立つというものである。 しかし、前玉神社は、この後訪問するので問題ないが、「埼玉の小崎の沼」とか、防人の藤原部等母麻呂の歌碑があるらしい八幡山古墳などはその所在地が分からないのでパスしました。帰宅後に調べると、ちょっと足を延ばせばよかっただけであったので、残念なことをしました。 それはさて置き、左側2首は前玉神社のところで紹介することとし、右側の防人の歌を紹介して置くこととします。足柄(あしがら)の 御坂(みさか)に立(た)して 袖振らば 家(いは)なる妹(いも)は さやに見もかも (埼玉郡(さきたまのこほり)の上丁(かみつよぼろ)藤原部等母麻呂(ふじはらべのともまろ) 万葉集巻20-4423)(足柄山の峠に立って袖を振ったら、家にいる妻ははっきりと見てくれるだろうか。)色深(いろぶか)く 背(せ)なが衣(ころも)を 染(そ)めましを 御坂(みさか)賜(たば)らば まさやかに見む (妻物部刀自売(もののべのとじめ) 万葉集巻20-4424)(夫の服は濃い色に染めたらよかった。御坂を通していただけた時にはっきり見えるように。)<参考> この歌の歌碑があるのは行田市八幡山公園とのことなので、ネット検索で見つけた写真を貼り付けて置きます。(八幡山公園の万葉歌碑) さて、博物館ではマンホールカード交付の受付もしていました。 ヤカモチは、岬麻呂氏が送って下さるマンホールカードをブロ友のひろみちゃん氏にお渡しするばかりで、自身が彼女のためにマンホールカードをゲットするということはこれまでありませんでした。いい機会なので、ヤカモチも1枚位は自身でゲットしても罰が当たるまいと、受付の女性にその旨申し出てゲットしたのが、下掲のマンホールカードであります。(行田市のマンホールカード) 博物館を出て、さきたま古墳公園に向かいます。 水城公園は翌日に立ち寄ることとし、公園手前の交差点で左折、清善寺の前を通って県道77号に移る。これを南へ。600mほど南へ下ったところで、脇道に入ると、佐間天満宮というのがあった。(忍城佐間口・佐間天満宮)(佐間口説明碑) 此処は、忍城の南東隅に当たるようだが、天正10年の「忍城の戦い」では、忍城城主・成田氏長の家臣、正木丹波守利英がここを守ったらしい。(佐間天満宮) 脇道はすぐに県道77号に合流する。 次の高源寺交差点までは道の右側を走っていたので、左側にあった高源寺の山門には気が付かず通り過ぎてしまったが、山門脇には正木俊英の墓碑があるとのこと。 500m余南に下ったところに台湾料理福府という店があったので、そこでランチタイム。 昼食後、更に500mほど進むと妙音寺という寺があったので立ち寄る。(妙音禅寺)(同上・本尊の由来) 途中、宿泊予約しているホテルに荷物を預け、身軽になって再出発。 さて、ママチャリに乗ることは滅多にないので、勝手が違う。 自転車に乗っている姿勢の違いが原因だろう。 クロスバイクやマウンテンバイクなどのスポーツ車はハンドルの位置が低いので、前かがみになって走るが、ママチャリはハンドル位置が高く、背筋をのばした姿勢でペダルをこぐことになる。 その結果、身体が覚えている動作に齟齬が生じ、何やら意気が上がらないのである。チンタラチンタラ走っている感じで、疾駆しているという爽快感がない。まあ、疾駆する必要もないので、構わないのであるが、イマイチ気分が乗ってこない。(さきたま古墳公園) はい、さきたま古墳公園に到着です。 正面入口はコチラなのですが、手前からの裏口入園であります。(さきたま古墳公園・正面入口)(同上・パノラマ撮影) 先ずは、丸墓山古墳へ。(丸墓山古墳)(同上・説明碑)(同上・南側) 中学生だろうか。高校生だろうか。一団の群れが賑やかに墳丘を上って行く。反対側に回って、カメラを構えたら、その一団が早くも下って来たのでありました。人影の写っていない写真を撮りたかったのだが、観光地ではそうはいかないということです。(同上・北側) 天正10年の忍城攻めでは石田三成はこの丸墓山古墳の上に本陣を置いたというので、墳丘上から忍城方向を眺めてみた。 その頃の三階櫓は水城公園付近にあったというから、もう少し左寄り手前の位置になるのだろうが、石田三成もこんな風な三階櫓を眺めていたのだろうと思うと愉快。 写真は望遠ズームアップで撮っていますので、肉眼ではこれほど大きくは見えません。(丸墓山古墳墳丘上から忍城遠望)(丸墓山古墳墳丘上から稲荷山古墳を望む) 墳丘の反対側から見えるのは稲荷山古墳。 今回は、この古墳を見に来たのでありました。(稲荷山古墳)<参考>稲荷山古墳・Wikipedia(同上・説明碑)(同上・埋葬施設説明碑)(同上・出土品説明碑) 稲荷山古墳と言えばこの鉄剣である。(金錯銘鉄剣)<参考>稲荷山古墳出土鉄剣・Wikipedia(同上・出土状況) この後、道なりに走っていると、古墳公園から外れて、古代蓮の里の方向に進んでしまったので、帰途にもう一度古墳公園に戻って来ることとし、古代蓮の里に向かうことに。ということで、以下はページを改めることとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・関東編の過去記事はコチラ。
2023.10.12
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(承前) 前頁記事の続編です。 近鉄大和八木駅前のうどん屋で昼食を済ませ、耳成山公園に向かう。(耳成山公園への西側進入路付近から眺める耳成山) 耳成山公園を訪れるのは、2021年4月8日以来であるから、約2年5ヶ月ぶりのことになる。この時は、醍醐池畔の桜とその北側に広がる菜の花畑を眺めるのが目的であったので、耳成山には登っていない。<参考>飛鳥川銀輪散歩(その1) 2021.4.10.(耳成山公園) 今回も、公園に立ち寄るのみで、耳成山には登らない。 直近で耳成山に登ったのは、2013年3月であるから、もう10年以上も前のことになる。<参考>大和三山銀輪散歩 2013.3.23. 今回は、「またも大和三山銀輪散歩」というタイトルなのに、耳成関係の写真が上掲の2枚だけなので、これらの過去記事掲載の写真の一部を再掲載して補足することとします。 (耳成山登山口2021.4.記事) (耳成山山頂2013.3.記事) 耳成山山頂は、眺望がきかない。と言っても、10年も前のことなので現在もその通りなのかどうかは不明(笑)。 公園の南側は池になっていて、池の畔に万葉歌碑がある。 耳無しの池にまつわる蔓児伝説の歌であるが、この日は一人の男性が、その歌碑の台石に足を乗せたり降りたりの運動を長々とやって居られて、撮影ができず、諦めました(笑)。その歌碑と歌がこれです。(耳無しの池万葉歌碑2021.4.記事)ーーー以下は2021.4.10.記事より引用ーーー<参考>万葉ウオーク下見(6)・醍醐池から耳成山公園まで 2012.10.24.無耳みみなしの 池し恨めし 吾妹子が 来つつ潜かづかば 水は涸れなむ (万葉集巻16-3788)<耳無しの池は恨めしい。私のいとしいあの娘(かづらこ)がやって来て水の中に入ったなら、水は涸れて欲しかったのに。> 鬘児伝説というのは、三人の男から求婚された鬘児という女性が、池に身を投げて死んでしまうという話であるが、詳しくは上記<参考>の記事をご参照ください。 彼女の死を知って、男の一人が詠んだ歌が、上記の歌である。ーーー ーーー ーーー(ルート地図7・大和八木駅~耳成山公園~藤原宮趾~天香山神社) 耳成山公園を出て、近鉄線の踏切へと向かっていて、目にとまったのが、セスジスズメの幼虫。(セスジスズメの幼虫) 写真に撮ろうとして自転車を降りると、幼虫は道路脇の草むらに隠れようとしているところ。全身を写そうと木切れを拾って、道路側に掻き出すと、U字の形に固まってしまった。こうなると暫くは仮死状態が続くので、万事休すである。(同上) セスジスズメというのはスズメ蛾の仲間。大型の蛾である。 何度か目にしているので、その写真を掲載している記事を参考までに貼って置きます。<参考>銀輪虫散歩・蛾と蝶と超小型の蝉 2020.6.15. セスジスズメと再会 2020.6.23. セスジスズメとミノムシ 2020.7.18. さて、先へと進みます。 醍醐の集落を過ぎ、醍醐池へ。(醍醐池北側の畑道から畝傍山を望む) 此処は、春には一面の菜の花畑となる。 桜との競演がいい風情を醸すのであるが、今は「夏草繁き・・」の何と言うこともない野原である。 それでも、遠くに畝傍山を配すれば絵になるところが「そらみつ大和」であります。 (醍醐池畔の道2021.4.記事)(持統天皇万葉歌碑2021.4.記事) 醍醐池南東の畔に犬養先生揮毫の持統天皇万葉歌碑がある。 この歌碑は香具山が一望できる位置に建てられているが、写真的には背後の木が邪魔をしている所為で「一望」にやや欠けるのが「失望」であると言うべきか。 ということで、道路を渡り、藤原宮趾に入ってから香具山を撮影。(藤原宮趾から香具山を望む) 今回、唯一登る予定にしている山。 香具山へと向かいますが、大和三山と言えば、つま争いの三山の歌と共に外せないのが「藤原御井の歌」であろう。 既に何度か記事に掲載しているが、藤原宮からの三山の眺めを雄大に歌い上げているいい歌であるから、再度掲載して置くこととする。やすみしし わご大君おほきみ 高たか照てらす 日の皇子みこ あらたへの 藤井ふぢゐが原に 大御門おほみかど 始はじめたまひて 埴安はにやすの 堤つつみの上うへに あり立たし 見めしたまへば 大和の 青あを香具山かぐやまは 日の経たての 大おほき御門みかどに 春山はるやまと しみさび立てり 畝傍うねびの この瑞山みづやまは 日の緯よこの 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳梨みみなしの 青菅山あをすがやまは 背面そともの 大き御門に よろしなへ 神かむさび立てり 名ぐわしき 吉野の山は 影面かげともの 大き御門ゆ 雲居くもゐにそ 遠くありける 高たか知しるや 天あめの御陰みかげ 天知あめしるや 日の御陰の 水こそば 常つねにあらめ 御井みゐの清水すみみづ (巻1-52) この歌の現代語訳は、2012年10月23日の記事に掲載しています。 また、2015年4月18日の記事には、藤原宮跡からの大和三山及びはるか南の吉野の山々の眺めを撮影した写真と共にその部分に該当する句を掲載していますので、併せご参照ください。 奈良文化財研究所の前を通り、哭澤ノ杜にちょっと立ち寄り、蚊に刺されて早々に退散。(哭澤ノ杜万葉歌碑) この歌碑の写真も過去記事に掲載して居り、歌意やナキサハメのことなども記述しているので、下記<参考>記事を参照いただくこととして、歌碑の歌のみ記して置きます。哭澤なきさはの 神社もりに神酒みきすゑ 祈れども わが大君は 高日知らしぬ (桧隈女王ひのくまのおほきみ 万葉集巻2-202)<参考>万葉ウオーク下見(4)・哭澤の杜から藤原宮まで 2012.10.22.(畝尾都多本神社<哭澤ノ杜>) 哭澤の杜の南隣は奈良文化財研究所である。 ここの資料展示室は入館無料で見学できるが、今回はパス。 奈良文化財研究所資料室やこの後パス通過する八釣山埴安伝承地道の碑、八釣山興福寺、畝尾坐健土安神社などは下記記事をご参照ください。<参考>万葉ウオーク下見(3)・古池から奈良文化財研究所まで 2012.10.21. 香具山は天香山神社の参道脇から登ることとし、神社へと向かう。 北側からのアプローチの場合は、神社西側の池の北東隅にある地蔵堂のようなお堂の脇から池伝いの小径を通って、神社拝殿へと横入りするのが通例であるが、このお盆の時期の台風関連の大雨ででも池へと土砂崩れが起きたのであるか、小径が完全に消滅してしまっていた。 池を回り込んで、西側の神社正面から神社に入ることとする。(天香山神社)(天の香具山万葉歌碑) この歌碑の写真も過去記事に掲載済みであるので、歌だけを記して置きます。ひさかたの 天の香具山 この夕べ 霞たなびく 春立つらしも (万葉集巻10-1812) 香具山は、藤原の宮から見て東方向。東は青であり、青は春でもあるから、香具山は春のイメージ、春山であったのだろう。<参考>明日香・橿原銀輪散歩(その1) 2014.3.19. 参道奥に相棒のトレンクルを駐輪して、香具山へと登る。 香具山に登るのは、2018年9月以来であるから5年余ぶりになる。<参考>ペリカンの家サイクリング・明日香篇本番 2018.9.16. ペリカンの家サイクリング下見 2018.8.27.(香具山山頂から望む畝傍山) 山頂に到着すると、虫網を2本持った男性が居られた。 蚊取り線香を焚いて居られたから、かなり長くとどまって居られるのだろう。「何か珍しいものがやって来ないかと・・」と仰っていたが、虫取りも「好きこそ何とやら」で忍耐、辛抱厭わずのようです。(香具山山頂・国常立神社2018.8.27.記事) 香具山を下山。 奈良文化財研究所の南側、香具山西側登山道へと続く道の脇に、休憩所がある。此処で小休止。 此処は2018年9月のペリカンの家サイクリングの折にお弁当タイムとした場所でもある。(香具山西麓の休憩所2018.8.27.記事)(ルート地図8・天香山神社~香具山山頂~朱雀大路跡の碑~橿原神宮前駅) ※――線:藤原宮跡→香具山山頂往路コース ――線:香具山山頂→橿原神宮前駅復路コース 香具山西麓の休憩所を出て、南へ進んで最初の辻を右折し、西へ。 藤原宮趾が右手真正面に見える処にあるのが朱雀大路跡の碑。 この碑の写真も2018年8月27日の記事に掲載済みであるが、今回も撮影したので重ねて掲載です。(藤原京・朱雀大路跡の碑) 碑の付近で北方向を見やると、藤原宮趾が真正面に見え、その奥の耳成山は、「耳梨みみなしの 青菅山あをすがやまは 背面そともの 大き御門に よろしなへ 神かむさび立てり」と見えている。(朱雀大路跡の碑付近から藤原宮趾・大極殿、耳成山を望む) 朱雀大路跡の碑から西へと直進し、飛騨町交差点で飛鳥川を渡る。 最後に、畝傍山の写真を撮ってと思っているうちに、山に近づき過ぎていて、ビュウポイントを過ぎてしまっていたよう。 そんなことで、上掲の耳成山の写真がこの日最後の写真となってしまいました。(飛騨町交差点2018.8.27.記事) 上の写真は、飛鳥川畔から東方向を見て撮ったもの。左手奥の手前に見えている屋根越しの低い山が香具山である。この日は写真奥の道からこちらへと走って来たということになる。 この道を西進すると、神武天皇陵参道入口の少し北側に突き当たる。 突き当たって左折、神武天皇陵参道入口を過ぎると、橿原神宮北参道の鳥居である。この参道の奥に入ると畝傍山への登り口があるのだが、今回はパスして、橿原神宮前駅へ直行。(畝傍山山頂・畝火山口神社社殿跡の碑2013.3.23.記事)<参考>大和三山銀輪散歩 2013.3.23. 最後に、大和三山つま争いの万葉歌で、銀輪散歩の締めといたします。香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくなるらし いにしへも しかなれこそ うつせみも つまを 争ふらしき (天智天皇 万葉集巻1-13) 以上で、大和三山銀輪散歩終了です。(完)<参考>過去の銀輪万葉・奈良県篇は下記参照銀輪万葉・奈良県篇(その1) 2007年4月~2019年2月銀輪万葉・奈良県篇(その2) 2019年3月~<追記注:2023年9月15日10:19>藤原の御井の歌の末尾の「清水」にルビを付加。
2023.09.14
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ブログ記事タイトルを「大和三山銀輪散歩」として書き始めたところ、10年前に同じタイトルの記事があることに気が付いた。<参考>大和三山銀輪散歩 2013.3.23. で、タイトルを「またも大和三山銀輪散歩」に変更することとした。 10年前のそれは、畝傍山、香具山、耳成山の順に登っている。それよりも前、2004年5月8日に友人3人と大和三山ウオークをしているが、この時は、耳成山、香具山、畝傍山の順で登っている。この頃は未だ会社勤めの現役で、ブログなどもやっていなかったので、当ブログにはその記事がないのであるが、今回は、これと同じく耳成山、香具山、畝傍山の順で回ろうと思った次第。但し、登るのは香具山だけにして、耳成と畝傍は下から眺めるだけにしようという手抜き三山めぐりという計画。 2004年の三山ウオークは近鉄・大和八木駅集合・出発であったが、今回は、久しぶりに飛鳥川自転車道を走って大和八木駅に向かおうということで、王寺駅を起点とすることとした。 近鉄及びJR王寺駅前でトレンクルを組み立て、午前9時40分に出発。 しかし、大和川沿いの道を、飛鳥川合流点付近まで走るつもりでいたのに、何を思ったか早めに左折して南に入ってしまった。 まあ、方角さえ、間違わなければ、飛鳥川に辿り着くだろうと、適当に走ることにする。 で、最初に出会った川が高田川。(高田川) 今回の銀輪散歩で撮った最初の写真がこれであるから、これでは、王寺駅前から、此処までどのようなルートを走って来たのかが分からないことになるので、ルート地図を以下に貼り付けて置くことにします。(ルート地図1・王寺駅前~大輪田駅前~県道36号) なお、このようなルート地図は、当記事を書くに当たって作成したもので、銀輪散歩当日は、このようないかなる地図も用意・持参していなかったので、記憶と方向感覚だけが頼りということであった。 しかし、方向感覚や記憶はかなりいい加減なものであったようで、上のルート地図でもお分かりのように、王寺駅前を出発して道路を渡ったところで、早速に反対方向に走ってしまい、遠回りしている。 さて、飛鳥川が大和川に合流している地点よりもかなり手前で左折して南へと向かってしまったヤカモチ。予め走るルートを決めていた訳でもないので、しばらくは道なりに進むことに。 近鉄田原本線の大輪田駅前を通過。 その先にあったセブンイレブンで凍ったペットボトル飲料を買おうとしたが、置かれていなかった。カップ入りの氷とクーリッシュ・バニラを代用として買い求めた。 県道36号(星和台1丁目交差点)を左折、東へと進む。(ルート地図2・県道36号~高田川~奈良県第二浄化センター) 長楽の集落を抜けて、高田川を渡る。 上掲の高田川の写真は、曽我川に合流する手前の橋の上から下流側を撮影したものである。 橋を渡ると高田川沿いに上流側へと道が続いているが、これに並行して、木々に囲まれた緑のトンネルといった雰囲気の奈良県第二浄化センター敷地内道路がある。こちらの道を行く。(奈良県第二浄化センター内自転車道地図) 浄化センター正門を過ぎたところの木陰で小休止。クーリッシュ・バニラも適度にとけて飲み頃。これをしぼり飲みして水分補給。 煙草も一服。煙草を喫っていると、ムギワラトンボがやって来て近くにとまった。(ムギワラトンボ) 浄化センター敷地内の自転車道を進む。(浄化センター内自転車道) 自転車道の右側は車も走る一般道になっているが、自転車道の方はそれとは木立によって遮られているので、快適に走れる。(同上・夾竹桃のトンネル道) 浄化センター敷地内から出た自転車道は、U字カーブして一般道を渡ると、葛城川に架かる桜橋の西詰に出る。 葛城川は、高田川・曽我川合流地点よりも少し上流側で、曽我川に合流しているのである。(桜橋西詰)(葛城川 桜橋の上から上流側を望む。) 桜橋を渡って直進すると、川の土手が目に入る。 一瞬、飛鳥川かと思ったが、そうではなくて、飛鳥川の西を流れている曽我川であった。(曽我川) 橋の名前は確認し忘れたが、上掲は、橋の上から上流側を望んだ写真である。(ルート地図3・奈良県第二浄化センター~桜橋~曽我川~飛鳥川・杵築神社) 曽我川を渡って道なりに進むこと400m程度で、見覚えのある飛鳥川の自転車道に到着。(飛鳥川自転車道) 飛鳥川左岸の道を上流へと走る。 左岸の道は、この先、近鉄田原本線但馬駅付近で川岸から離れる。 踏切を渡って、再び川岸に戻る。 川岸の自転車道に戻って200mほど南に進んだところで、西に入ると杵築神社というのがあった。 此処は三宅町。万葉集の「三宅の原」はこの付近か。 此処から北方400m位の位置、三宅町役場の近くに犬養先生揮毫の三宅の原の万葉歌碑がある。うちひさつ 三宅の原ゆ ひた土つちに 足踏み貫ぬき 夏草を 腰になづみ いかなるや 人の児故そ 通はすも我子あこ うべなうべな 母は知らじ うべなうべな 父は知らじ 蜷みなの腸わた か黒き髪に ま木綿ゆふもち あざさ結ゆひ垂れ 大和の 黄楊つげの小櫛をぐしを 押へ刺す うらぐはし児 それそ我が妻 (万葉集巻13-3295)父母に 知らせぬ児故 三宅道みやけぢの 夏野の草を なづみ来るかも (万葉集巻13-3296) 今回は立ち寄らなかったが、下記の記事にその歌碑の写真を掲載しているので、興味あるお方はご覧ください。<参考>飛鳥から結崎まで(ペリカンの家小旅行番外編)2018.3.21. 多神社から王寺駅前まで 2018.3.28.(杵築神社・十三重石塔) 神社境内には十三重石塔がある。 元応元年(1319年)の銘のある、鎌倉時代末期建立の石塔である。 元は天理市庵治の常福寺にあったが、明治初年の廃仏毀釈でこの地に移設されたのだという。(同上・説明碑)(杵築神社説明碑)(同上・境内のこのお堂は旧宮寺の常楽寺薬師堂とのこと)(三宅町 町・村の歴史 大字但馬の説明碑) 三宅町→三宅氏→三宅連→三宅連の始祖 但馬→田道間→田道間守→三宅連の始祖 垂仁天皇の命により田道間守が常世の国から「ときじくの香菓」(橘の実)を持ち帰る話は有名であるが、田道間守が三宅氏の氏祖であることには思い至りませんでした。 確かに「田道間守たじまもりは、是これ三宅連みやけのむらじの始祖はじめのおやなり。」と日本書紀・垂仁紀の末尾に書いてある。(杵築神社位置図) 再び、飛鳥川自転車道に戻り、今度は対岸の右岸の道を行く。(飛鳥川) 飛鳥川は明日香村から北へと流れて大和川に合流しているので、南から北へとほぼ真っすぐに流れているようにイメージしがちであるが、甘樫丘の付近から八木西口駅・今井町付近までは北西に流れているほか、田原本町矢部付近から大網河川公園付近までは西向きに流れるなど、蛇行しているので、気をつけないと方角を勘違いすることがある。 その西向きに流れている矢部・大網の中間点にあるのが菅原神社。(菅原神社) この神社は、飛鳥川自転車道の銀輪散歩ではよく小休止するスポット。 今回も一休みであります。 前掲<参考>の「飛鳥から結崎まで」のブログ記事にもこの神社の写真を掲載しているが、ベンチもあるので、ちょっと一休みしたくなる雰囲気です。(ルート地図4・飛鳥川自転車道・県道14号横断~菅原神社) 菅原神社を出て西方向の景色を撮った写真。 左端が金剛山、中央が葛城山、右端が二上山である。(飛鳥川自転車道から望む金剛山、葛城山、二上山)(ルート地図5・飛鳥川自転車道・菅原神社~県営福祉パーク) 多神社の向かいの県営福祉パークでトイレ休憩。併せて水分補給、煙分補給の休憩でもありました。尤も、福祉パーク敷地内は禁煙なので、煙分補給は飛鳥川べりの外に出てからのこととなりました。 飛鳥川を挟んで向かいの多神社にも立ち寄るつもりでしたが、既に時刻は午後1時近く。昼食をとるべき時刻である。ということで割愛し、大和八木駅前へと向かう。<参考>多神社の写真掲載記事は下記です。 三輪山登拝・大神神社から多神社まで 2018.3.27. 田原本から桜井・忍坂へ銀輪散歩(その1) 2012.4.29.(ルート地図6・飛鳥川自転車道・県営福祉パーク~近鉄大和八木駅前) 大和八木駅前到着。南口に回って以前昼食をした喫茶店に入ろうかとしたところ、南側は何やら工事中で仮囲いがしてあったので、北口に戻って、目にとまったうどん屋に入る。 遅い昼食を済ませて後半戦であるが、最初の山である耳成山にも未到着である。これでは「大和三山銀輪散歩」としては、まだ何も始まっていないことになりますが、本日はここまでとします。(つづく)<参考>過去の銀輪万葉・奈良県篇は下記参照銀輪万葉・奈良県篇(その1) 2007年4月~2019年2月銀輪万葉・奈良県篇(その2) 2019年3月~
2023.09.11
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(承前) 歌姫近隣公園に到着したところで前記事を中断しましたので、そこから始めます。 歌姫近隣公園に入って、前方左手に見える建屋から左に行くと歌姫西瓦窯跡がある。(歌姫西瓦窯跡) 瓦窯跡そのものは見当たらず建屋と説明碑があるだけ。 この建屋のある場所が瓦窯跡なんだろう。埋め戻されて建屋の地下に瓦窯が遺されているのだろうか。(同上・説明碑) この後、向かう近鉄京都線高の原駅前の西側広場に「歌姫西瓦窯出土軒瓦」のモニュメントがあるのだが、それと気が付かず写真を撮らなかったので、「奈良大好きくらぶ」のブログ記事に掲載の写真を以下に転載させていただきます。但し、トリミングするなど、少し修正を加えています。(歌姫西瓦窯出土軒瓦のモニュメント)(同上)<モニュメント台座の銘文>「平城相楽ニュータウン東部の歌姫西瓦窯で焼成された奈良時代前半の軒瓦である。軒丸瓦は花弁が盛りあがった蓮華文を表現し、軒平瓦は左右に流れる唐草文をあらわしている。同じ製品は平城宮・法華寺のほか、恭仁宮などからも出土している。」 歌姫近隣公園は北側に隣接する音浄ヶ谷公園と一体化していて、その境界は定かではないが、奥右手に行くと音如ヶ谷瓦窯跡があるから、その付近は音浄ヶ谷公園なのだろう。 歌姫近隣公園は奈良市に属し、音浄ヶ谷公園は京都府木津川市に属する。 今回の銀輪散歩は、瓦窯跡銀輪散歩であるとともに、京都府、奈良県を行ったり来たりする府県境銀輪散歩でもある。 さて、京都府側の音浄ヶ谷公園の方は、発掘された状態の瓦窯が実物展示されている。(音浄ヶ谷公園・音如ヶ谷瓦窯跡)(同上・左側の瓦窯)(同上・右側の瓦窯) 瓦窯跡は、鉄柵が設けられた正面は全面開口部、左右背後は縦長の細い開口部を備えた壁で囲まれているという構造の建屋の中に保存、展示されている。 右側面の壁の開口部から覗いて撮った写真が下掲の写真である。(同上)(同上・説明碑)(同上・工房跡)(同上・瓦窯跡) 上掲の説明碑の地図に「相楽山銅鐸出土地」という表示があった。 すぐ近くなので、立ち寄ってみようと公園を出る。(音浄ヶ谷公園から銅鐸出土地へ) 相楽台6・7丁目集会所建物があり、その入り口近くの建物壁面に掲示されていたのが、下掲の「相楽山銅鐸」の説明碑。(相楽山銅鐸の説明碑) ここが出土地かと思ったが、よく読むと、出土地は別の位置のよう。 出土地である旨を表示する碑か何か、そのようなものがあるようなので、説明文に示されている場所へ向かうこととしたが、住宅が立ち並んでいるだけで、それらしいものは見当たらない。 上掲の地図は帰宅後にグーグル地図を開いてゲットしたもので、当日はこのようなものを持参していなかったので、集会所の壁の説明碑の文章を読み誤ったかと、途中で引き返し反対方向に走ったのであったが、帰宅後に上掲の地図を見て、正しいルートを往復していたことに気が付き、なぜ気が付かなかったのかと不思議に思っている次第。 まあ、住宅団地の中の道。家々の玄関先・表口が両サイドに並んでいる環境なので、目立たないような表示のされ方をしていて、不注意ヤカモチの目にはとまらなかったということであったのかも。 そんなことで、すこしばかりの余計な回り道を余儀なくされたことで、遊歩道・エゴノキの道には、途中から入るということになりました。(エゴノキの道) 上の写真のエゴノキの道の奥、突き当りを左に入ると土師山公園である。 土師山公園で少し休憩してから、エゴノキの道の終点(始点かも)のエゴノキ第一歩道橋を渡る。 歩道橋を渡ると正面にイオンモールの駐輪場がある。 既に、正午を少し回っていたので、イオンモール2階のレストラン街で昼食とする。 昼食後は6月16日の万葉の小径への銀輪散歩の時と同じルートで石のカラト古墳のある神功一丁目緑地へと向かう。<参考>石のカラト古墳&万葉の小径(その2) 2023.6.18.(高の原駅前~押熊瓦窯跡コース図 ー線:往路 ー線:復路) 石のカラト古墳、万葉の小径は下記のブログ記事と重複するので、省略します。<参考>石のカラト古墳&万葉の小径(その1)(その2)(その3)(その4) 押熊瓦窯跡は、予め用意した手許地図では、万葉の小径の終点の小緑地の先の二つ目の辻を右に入ったところにあることになっているが、その場所と思われる、神功5丁目緑地の中に入ってみたが、雑木が茂り、下草茫々、枯れ葉が降り積もっているだけの荒れ果てた空間で、それらしきものが見当たらない。一段高くなった場所まで行くと、下に小屋のような建物が木立越しに見えたが、そこに至る道がない。加えて、はやく出て行けとでも言うのか、蚊の大群が盛んに攻め立てて来る。 緑地を出て、周辺を少し回ってみたが、そこに至る道の入口が見つからない。その小屋が押熊瓦窯跡に関係するものかどうかも不明であるから、探すのを諦めて、県道52号を南に下り、神功5丁目交差点でならやま大通りに入り、平城4号公園に向かう。(平城4号公園) 平城4号公園から石のカラト古墳に戻り、往路のコースを逆に辿って、イオンモール、高の原駅前に到着。 予定では、高の原駅から電車で帰るというものであったが、時刻は2時半になるかならない位。少し早過ぎるので、近鉄奈良駅まで銀輪で走ることに変更。 高の原駅前から南に下り、平城2号線道路を東に進み、朱雀5丁目交差点で県道751号に入る。 県道751号は歌姫街道、歌姫越えの道とされている道路である。(高の原駅前~ならやま大通り) 歌姫街道を南下し、平城1号線道路・通称ならやま大通りに入ってこれを東に進む。国道24号とJR大和路線を越えて更に直進。途中、何処かで右に入って、奈良サイクリング道路に入るつもりでいたが、その入口が見つからない。降り始めていた雨が少し強くなる。雨が強くなり過ぎても困るので、Uターンして、国道24号に入り、国道の高架下から奈良サイクリング道路に入ることとし、しばらく高架下を潜っている道で雨宿りして様子を見る。 この道は、秋篠川沿いの道、平城宮趾公園、磐之媛陵から続いている自転車道であるが、歩行者・自転車専用という訳ではないようで、一般の車も通行することができる部分があるようで、雨宿りしている間にも普通車2台が高架下の道を通り抜けた。(ならやま大通り~奈良自転車道~佐保川) 雨も小止みとなったので、JR線の高架下を潜って、奈良サイクリング道を走ることとする。(奈良自転車道案内図)(奈良自転車道) この道はこれまでに何回か走っている。<参考>奈良自転車道銀輪散歩(平城宮趾公園から般若寺へ) 2010.3.10. 奈良銀輪散歩 2010.11.7. こちらからは上り坂である。 坂を上り切って、左に下ると、県道44号に出る。 県道に出て右折。南へと坂道を下る。 途中でヤマト運輸の配送センターが目にとまったので、トレンクルを宅配で送る際の梱包袋を買い求めることにした。現在使っている梱包袋がかなり傷んでいるので、近々に買い求めようと思っていたので、偶々出くわしたのをこれ幸いと立ち寄った次第。 ロートフィールド奈良の前まで来たところで、前方にスターバックスが目に入る。丁度、かき氷か何かそのようなものが欲しくなっていたので、店に入る。店のおすすめ、として西瓜のフラッペなるものがメニューに大きく写真入りで表示されていたので、それを注文する。 体が店内の冷房と西瓜のフラッペによる体内からの冷却とで、体の火照りもすっかり消え去り、汗も引いてしまった。 そうなると、今度は「煙分」が欲しくなるようで、何となく落ち着かないヤカモチ。店を出て、トレンクルを駐輪していた池の畔で煙草を一服。 銀輪散歩再開です。と言っても、ゴール間近であります。(奈良鴻ノ池パーク~近鉄奈良駅前) 法蓮仲町交差点で転害門から西へと延びている一条通りを横切り、佐保川を渡り、高天交差点で近鉄奈良駅前到着でありました。 途中少しばかり雨に見舞われましたが、背中のザックに入れたレインウエアを取り出して着用するようなことも必要とせず、先ずは順調な銀輪行でありました 以上で、瓦窯跡銀輪散歩終了です。(完)<参考>過去の銀輪万葉・奈良県篇は下記参照銀輪万葉・奈良県篇(その1) 2007年4月~2019年2月銀輪万葉・奈良県篇(その2) 2019年3月~過去の銀輪万葉・京都府・滋賀県篇は下記参照 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その1) 2007年7月~2019年3月銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その2) 2019年7月~
2023.09.08
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先日(8月30日)、奈良県と京都府の県境付近に点在する瓦窯跡をめぐる銀輪散歩をしてきました。 瓦窯跡に特別の関心があるわけでもないのですが、6月16日に万葉の小径を訪ねた際に、近鉄京都線の高の原駅の北側に架かっている跨線橋がエゴノキ第一歩道橋という名前であることを知り、その歩道橋から遊歩道が延びていて、その道の名前が「エゴノキの道」だということ、そのエゴノキの道の終点にある公園に、いくつかの瓦窯跡があるということなどを知り、いつか銀輪散歩でこれらをめぐってみようと思ったのが、今回の銀輪散歩のキッカケでありました。 で、JR大和路線の平城山駅前を起点に、上人ヶ平遺跡公園の市坂瓦窯跡から、近鉄京都線・高の原駅前を経由して、万葉の小径の先にある押熊瓦窯跡まで行き、高の原駅まで帰って来るというコース設定で出かけることとしました。 JR大和路線・平城山駅で下車。トレンクルを組み立て、9時11分同駅前を出発。 目指すは、先ず、上人ヶ平遺跡公園。(上人ヶ平遺跡公入口)(JR平城山駅~近鉄高の原駅コース地図)※地図は画面をクリックして大きいサイズの写真でご覧ください。 上人ヶ平遺跡公園は、JR大和路線の東側の高台上にあり、JR線の踏切を渡らなければならないが、踏切の位置がかなり先なので(上のコース地図で分かるように、手前の道路交差は立体交差になっていて公園前北東側の道路に直接には行けない。)、ぐるり遠回りしなければならない。また、踏切を渡ってから急坂を上らなくてはならないので、ちょっと大変。地図では高低差がわからないので、現地にて「こんな筈ではなかった」ということがよくあるが、今回もそれでありました。(上人ヶ平遺跡公園説明碑)<参考>上人ヶ平遺跡の概要 京都府と奈良県の境に横たわる奈良山の低丘陵は、近世以前においても山城国と大和国の境界となっていました。そして、この境界は、木津川の水運を介して、多くの文化が交流する場ともなっていたのです。 上人ヶ平遺跡は、北方に木津川の雄大な流れを望む奈良山の台地上に営まれた遺跡で、弥生時代から室町時代にかけて栄えた複合遺跡です。弥生時代後期から古墳時代前期には、竪穴式住居や倉庫をもった集落が営まれ、古墳時代中期から後期にかけては、ここに多くの古墳が築かれました。そして、平城京が奈良山のすぐ南側に造営された奈良時代には、ここが都への大量の瓦を供給する瓦生産コンビナートとなっていたのです。平安遷都以後、この台地には中世の墳墓堂が営まれ、関西文化学術研究都市の建設により公園として生まれ変わるまでは、一体を竹林が覆っていました。(現地説明碑より)(上人ヶ平瓦工房跡)(同上・説明碑) 広々とした、気持ちのいい公園。人影も殆どなし。 まあ、この日も猛暑日の予報が出ていましたから、人影がないのはその所為であったのかも。 瓦工房跡に設置された覆屋のベンチでしばし休憩。 水分補給。 気温は高いが、この日は幸いに雲の多い空で直射日光にさらされることが余りなかったこともあり、自転車で走っている段には、走っていることによって生じる風が心地よく、快適でありました。 しかし、上り坂など自転車の速度が遅くなったり、停車したりすると、やはり暑い。汗が滴る。 休憩は、木陰などの日陰に限る。 その点、ここの建屋は大きな屋根と柱だけで、壁が全くないので涼しい風が吹き抜けて、生き返る心地がする、というもの。 ツクツクボウシが鳴いている。 ここに、瓦窯、瓦工房が営まれたのは、平城京遷都を契機とするから、奈良時代以後のこと。 それ以前の古墳時代には、この地は墳墓が営まれる墓域であったようで、古墳群遺跡も沢山ある。(上人ヶ平古墳群・5、7、8号墳)(同上・説明碑)(上人ヶ平古墳群・6、14、15号墳)(同上、説明碑) 瓦窯跡としては、市坂瓦窯跡というのがここの名称。あをによし 奈良の都の 屋根瓦 まかせよとかも 窯跡あまた (瓦家持)(市坂瓦窯跡・8号窯)(同上・説明碑)(市坂瓦窯跡・2号窯)(同上・説明碑) この地域の瓦窯跡は、京都府側は、この市坂瓦窯跡のほか、五領池東瓦窯跡、瀬後谷瓦窯跡、梅谷瓦窯跡、音如ヶ谷瓦窯跡、鹿背山瓦窯跡、乾谷瓦窯跡、得所瓦窯跡があり、奈良県側には、歌姫瓦窯跡、歌姫西瓦窯跡、押熊瓦窯跡、中山瓦窯跡、山陵瓦窯跡があるとのことだが、今回訪ねるのは市坂瓦窯跡、歌姫西瓦窯跡、音如ヶ谷瓦窯跡、押熊瓦窯跡の4ヶ所のみである。 歌姫瓦窯跡は、こちらへ来る前、池の手前で小さな川を渡って川の右側の道を進んだのであったが、川を渡らずに川の左側の道を進めば、これに立ち寄ることが出来たのでありました。しかし、そのことをすっかり忘れていて、「先ずは、上人ヶ平遺跡公園へ」と走り出してしまったので、やり過ごしてしまったのでありました。ヤカモチがよくやるポカであります。(みどりの一里塚木津休憩所) 出かける時に買った凍結スポーツドリンクが、残り少なくなったので、寄り道になるが、国道24号の横断歩道を渡らずに、手前の歩道を国道沿いに南へと下って立ち寄ったのが、この「みどりの一里塚木津休憩所」であります。道の駅のようにコンビニなど店があるのではないかと思ったのだが、あったのはトイレだけ。横断歩道のある木津IC交差点(上掲写真の奥に見える京奈和自動車道の高架の下)まで引き返して、横断歩道を渡り、国道24号の反対側歩道を南へと下る。この反対側の道は、京奈和自動車道の木津インターチェンジから延びている入口道路・出口道路の下を潜ることになるので、トンネル(アンダーパス)状態になっている。このわずかな距離のトンネルでも、そこを通過する時は空気がヒンヤリしていて気持ちがいいので、ほっとした気分になる。ささやかな幸せ(笑)。 国道24号の歩道から、これに沿っている住宅団地の道路に移る。更に少し南に下ったところで、左京五丁目緑地の北側外周に沿った坂道の入口があったので、これを上る。 坂を上りきったところに「左京の森」と表示された公園の入口。 「ご自由にお入りください。」とあるので、トイレ休憩、水分補給休憩を兼ねて、ここで休憩させてもらうことに。(左京の森・左京五丁目緑地) クスノキの木陰にベンチが置かれている。そこで一休み。 水分補給。 残り全部を飲み干してしまった。 しかし、用意して来た手許地図によると、1km弱の近い位置にローソンのあることが表示されているので、心配はない。 左京の森を出ると道は下り坂。下り坂、最高。 朱雀5丁目交差点で右折、ローソンに向かう。 ローソンで凍結したスポーツドリンクをゲット。 ついでにガリガリ君も買う。 道路両サイドにある遊歩道の木陰に入って、これを齧る。熱中症対策。 そして、歌姫近隣公園に到着であります。(歌姫近隣公園) 歌姫近隣公園に入って先ず目についたのは、このカエデ。 はやくも紅葉が始まっているよう。かへるでの もみたふ見れば 歌姫の 苑吹く風は 秋づくらしも (偐家持)(同上) 上掲写真の左側建物のところで、左に進むと歌姫西瓦窯跡、直進して奥で右折すると音如ヶ谷瓦窯跡であるが、本日はここまでとし、続きはページを改めることとします。(つづく)<参考>過去の銀輪万葉・奈良県篇は下記参照銀輪万葉・奈良県篇(その1) 2007年4月~2019年2月銀輪万葉・奈良県篇(その2) 2019年3月~過去の銀輪万葉・京都府・滋賀県篇は下記参照 銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その1) 2007年7月~2019年3月銀輪万葉・京都府・滋賀県篇(その2) 2019年7月~
2023.09.05
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(承前) 前頁記事の続編。万葉の小径の万葉歌碑、残り14基を紹介します。(万葉歌碑23 ほほがしは ホオノキ)わが背子が 捧げて持てる 厚朴(ほほがしは) あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ) (講師僧恵行 万葉集巻19-4204)(万葉歌碑24 ねぶ ネムノキ)昼は咲き 夜は恋ひ寝(ぬ)る 合歓木(ねぶ)の花 君のみ見めや 戯奴(わけ)さへに見よ (紀女郎 万葉集巻8-1461) これもベンチの天端に埋め込まれたタイプの歌碑。 傍らのネムノキから花が散り落ちていました。昨日(きそ)は咲き 今日(けふ)は散りぬる 合歓木(ねぶ)の花 雨に濡れても 歌碑をし飾る (偐家持) ベンチの反対サイドの歌碑がこれ。(万葉歌碑25 ゆずるは ユズリハ)古(いにしへ)に 恋(こ)ふる鳥かも ゆずるはの 御井(みゐ)の上(うへ)より 鳴き渡り行く (弓削皇子 万葉集巻2-111)(万葉歌碑26 あふち センダン)妹(いも)が見し 楝(あふち)の花は 散りぬべし わが泣く涙 いまだ干(ひ)なくに (山上憶良 万葉集巻5-798)(万葉歌碑27 つばき ヤブツバキ)巨勢山(こせやま)の つらつら椿 つらつらに 見つつ思(しの)はな 巨勢(こせ)の春野を (坂門人足 万葉集巻1-54)河上(かはのへ)の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢(こせ)の春野は (春日蔵首老 万葉集巻1-56)(万葉歌碑28 つまま タブノキ)磯の上の 都万麻(つまま)を見れば 根を延(は)へて 年深からし 神さびにけり (大伴家持 万葉集巻19-4159)(万葉歌碑29 しらかし シラカシ)あしひきの 山道(やまぢ)も知らず 白橿(しらかし)の 枝もとををに 雪の降れれば (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-2315) ここで、広い通り(平城神功線)に出る。これを渡った向かい側の小さな緑地が万葉の小径の終点ということになる。(万葉の小径・終点の緑地) ポケットパークと表現するのが似合いの小さな緑地であるが、神功四丁目第2号緑地というのがその名称であるらしい。 東側の石のカラト古墳の方角からこの小径に入って来たので、そこを始点、こちらを終点としましたが、どちらを始点とするかは、その人の視点次第ですから、どちらを始点、終点とするかは、人それぞれであります。 記述の便宜上、当記事ではこちらを終点として続けます。(万葉の小径案内図) こちら側にも始点にあったのと同様の案内図の碑があります。 此処には7基の万葉歌碑がある。(万葉歌碑30 はねず ニワウメ)夏まけて 咲きたる唐棣(はねず) ひさかたの 雨うち降らば うつろひなむか (大伴家持 万葉集巻8-1485)(万葉歌碑31 さきくさ ミツマタ)春されば まづ三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ我妹(わぎも) (柿本人麻呂歌集 万葉集巻10-1895)(万葉歌碑32 うめ ウメ)わが園に 梅の花散る ひさかたの 天(あめ)より雪の 流れ来るかも (大伴旅人 万葉集巻5-822)(万葉解説碑・万葉人の時代) 万葉人の時代と題された解説碑の陶板であるが、無残な姿になっている。 自然劣化でこのようになるとは思えないから、ボールとか小石とかを度々投げつけるという馬鹿な行いをした人間が居たようだ。 単なる愚行ではなく器物損壊という犯罪行為。いったい誰がこんなことをしたのかであるが、何ともはや、であります。この園の 万葉陶板 割れてあり 何処ぞの馬鹿の なしたることか (怒家持) 気を取り直して、残4基の万葉歌碑を拝見しましょう。(万葉歌碑33 もも モモ)春の苑 紅(くれなゐ)にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つをとめ (大伴家持 万葉集巻19-4139)(万葉歌碑34 すもも スモモ)わが園の 李(すもも)の花か 庭に降る はだれのいまだ のこりたるかも (大伴家持 万葉集巻19-4140)(万葉歌碑35 なし ナシ)露(つゆ)霜(しも)の 寒き夕(ゆふべ)の 秋風に もみちにけりも 妻なしの木は (万葉集巻10-2189)(万葉歌碑36 なつめ ナツメ)玉掃(たまはばき) 刈(か)り来(こ)鎌麿(かままろ) 室(むろ)の樹と 棗(なつめ)が本(もと)と かき掃(は)かむため (長意吉麿 万葉集巻16-3830) はい、これで全36基の万葉歌碑の紹介完了であります。 お気に召した歌はありましたでしょうか。 また、万葉のお勉強の参考になりましたでしょうか(笑)。 概ねランチタイムになっていましたので、4月の時のように西大寺駅方向に走ることはせず、高の原駅へと引き返すことに。 ということで、今度は歌碑ではなく、小径の草花や虫などにも注目しつつ、始点へとブラブラ歩き。 高の原駅から石のカラト古墳へは上り坂でありましたから、帰路は下り坂であります。楽々と高の原駅前に到着。イオンモール高の原の駐輪場にトレンクルを駐輪して、2Fのレストラン街で昼食。 昼食後、トレンクルで、エゴノキ第一歩道橋を渡り、向かいの土師山公園で煙草休憩。タンポポではなくひょろりと背丈の高いブタナがユラユラと風に揺れていたりもしました。 帰宅してから調べたところによると、この歩道橋が通っている道はエゴノキの道という名前で、歌姫公園や音浄ヶ谷公園に通じているのでありました。 高の原駅から電車で帰途に。大和西大寺駅で急行に乗車。最寄り駅の枚岡には急行が停車しないので、石切駅で乗り換えとなる。各駅停車の電車を待つよりは、とそのまま石切駅で下車、馴染みの喫茶店である「ペリカンの家」で珈琲をと坂道を下り、喫茶店へ。ペリカンの家、花園中央公園寄り道で、少し走り足りなかった今回の銀輪散歩の帳尻を少しばかり合わせることとしました。 以上で、銀輪万葉・「石のカラト古墳&万葉の小径」記事、全4部完結であります。(完)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記参照。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2023.06.20
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(承前) 前頁の記事の万葉の小径の万葉歌碑の続きです。 万葉歌碑9のクワの歌の歌碑からです。(万葉歌碑9 くは クワ)筑波嶺つくばねの 新桑繭にひぐはまよの 衣きぬはあれど 君が御衣みけしし あやに着欲きほしも (万葉集巻14-3350) 高の原駅を出てすぐの処で出会ったエゴノキ第一歩道橋がどういう経緯で命名されたのかは存じ上げないが、その名を見て思い浮かんだのは、大伴家持の歌のことでありましたが、その歌の歌碑もありました。(万葉歌碑10 ちさ エゴノキ)大汝おほなむち少彦名すくなびこなの 神代かみよより 言ひ継ぎけらく 父母ちちははを 見れば尊たふとく 妻子めこ見れば 愛かなしく愍めぐし うつせみの 世の理ことわりと かく様さまに 言ひけるものを 世の人の 立つる言立ことだて ちさの花 咲ける盛りに はしきよし その妻の児と 朝夕あさよひに 笑ゑみみ笑まずも うち歎なげき 語りけまくは 永久とこしへに 斯かくしもあらめや 天地あめつちの 神かみ言こと寄よせて 春はる花はなの 盛さかりもあらんと 待たしけむ 時の盛さかりそ 放さかりゐて 嘆なげかす妹が いつしかも 使つかひの来むと 待たすらむ 心不楽さぶしく 南風みなみ吹き 雪消ゆきげ溢はふりて 射水川いみずかは 流る水沫みなはの 寄るへなみ 左夫流さぶるその児に 紐ひもの緒の いつがり合ひて にほ鳥の 二人並びゐ 那呉なごの海の 沖を深めて 惑さどはせる 君が心の 術すべもすべなさ (大伴家持 万葉集巻18-4106)(注)上の長歌は、下記<参考>の過去記事に掲載のものをコピーして貼り付けましたので、写真の歌碑のそれとは文字使いが一部異なっています。<参考>エゴノキの花が咲き始めています 2023.5.2.(万葉の小径案内図2) 万葉の小径案内図2にはこの場所の地理的位置が説明されていて参考になります。文中記載の押熊、音浄ヶ谷、歌姫などの瓦窯跡などは未訪問であるが、機会があれば訪ねてみることにしよう。(万葉歌碑11 たへ コウゾ)春過ぎて 夏来るらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山 (持統天皇 万葉集巻1-28)(万葉の小径の標石) 万葉の小径の南側にも木立越しに道が並行していて、それと小径とをつなぐ路にも万葉の小径という標石が設置されている。(万葉の小径) 万葉の小径は、上の写真の奥辺りまで緩やかな上り坂でその先からは緩やかな下り坂になっている。 右側に見えるのが万葉歌碑。その向かい側のベンチにはその天端両端に歌碑陶板が埋め込まれている。(万葉歌碑12 あしび アセビ)池水に 影さへ見えて 咲きにほふ 馬酔木(あしび)の花を 袖に扱入(こき)れな (大伴家持 万葉集巻20-4512)(万葉歌碑13 やまぶき ヤマブキ)山振(やまぶき)の 立ち儀(よそ)ひたる 山清水 酌みに行かめど 道の知らなく (高市皇子 万葉集巻2-158)(万葉歌碑14 くり クリ)瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲(しの)はゆ いづくより 来りしものそ まなかひに もとなかかりて 安眠(やすい)しなさぬ (山上憶良 万葉集巻5-802)(万葉歌碑15 しひ シイ)家にあれば 笥(け)に盛る飯(いひ)を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る (有間皇子 万葉集巻2-142)(万葉歌碑16 さかき サカキ)ひさかたの 天の原ゆ 生あれ来たる 神の命みこと 奥山の さかきの枝に 白香しらかつけ ゆふとりつけて 斎戸いはひべを いはひほりすゑ 竹玉たかだまを 繁しじに貫ぬき垂たり 鹿猪ししじもの ひざ折り伏せ 手弱女たわやめの おすひ取り懸け かくだにも 吾は祈こひなむ 君にあはじかも (大伴坂上郎女 万葉集巻3-379)(注)下記<参考>の過去記事に掲載のものをコピーして貼り付けていますので、写真の歌碑のそれと文字使いに異なる部分があります。<参考>高岡銀輪散歩(その6) 2012.6.28.(万葉歌碑17 たちばな コミカン)橘は 実さへ花さへ その葉さへ 枝(え)に霜降れど いや常葉(とこは)の樹 (聖武天皇 万葉集巻6-1009) 上の万葉歌碑16と17は、ベンチに埋め込まれたタイプのものです。 印刷した陶板を貼り付けまたは埋め込むというのは、石に文字を刻する通常の歌碑に比べれば、手軽で安価、手っ取り早くはあるけれど、耐久性には問題があり、割れてしまったりして文字が読めないというものもある。 酷い状態になる前に新しいものに取り替えるなど、維持管理をしっかりして欲しいものですが、費用もかかることですからどうなるものやら。(解説碑 万葉人の衣食住) この付近から小径は下り坂になっている。(万葉の小径 ゆるやかに下っている。)(万葉歌碑18 かしは カシワ)稲見野(いなみの)の あから柏(がしは)は 時はあれど 君を我が思ふ 時はさねなし (安宿王 万葉集巻20-4301)(万葉歌碑19 まゆみ マユミ)南淵(みなぶち)の 細川山(ほそかはやま)に 立つ檀(まゆみ) 弓束(ゆづか)纏(ま)くまで 人に知らえじ (万葉集巻7-1330)(万葉歌碑20 つき ケヤキ)とく来ても 見てましものを 山背(やましろ)の 高(たか)の槻群(つきむら) 散りにけるかも (高市黒人 万葉集巻3-277)(万葉歌碑21 うのはな ウツギ)霍公鳥(ほととぎす) 来(き)鳴き響(とよ)もす 卯の花の 共(とも)にや来(こ)しと 問はましものを (石上堅魚 万葉集巻8-1472)(万葉歌碑22 さくら ヤマザクラ)梅の花 咲きて散りなば 桜花 継ぎて咲くべく なりにてあらずや (張氏福子 万葉集巻5-829)桜花の 歌碑まで来れど いささかに 疲れてあれば 継ぎての記事に (偐家持) ということで、残りの歌碑14基ありますが、これらは明日以降の記事にて紹介します。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記参照。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2023.06.19
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(承前) 前頁の続編ですが、今回から6月16日の銀輪散歩の記事となります。 4月23日の銀輪散歩で見つけられなかった万葉の小径への再挑戦。 前回同様にトレンクル持参で近鉄・高の原駅下車。駅改札を出て、トレンクルを組み立てて出発であります。(近鉄京都線・高の原駅 エゴノキ第一歩道橋から) 駅前の歩道橋は何という名前なのか確認していないが、そこからこちらにやって来るとエゴノキ第一歩道橋という人道橋がある。 その橋の上から撮った写真です。 橋を渡った先の左側は土師山公園という緑地になっている。(同上) この橋は渡らず、イオンモール高の原の建物が尽きる処で左折して西へと進みます。 今回は、万葉の小径を訪ねるというだけの銀輪散歩。 コースは次の通りです。(コース地図 赤線ーが走行コース) 上の地図の青〇印部分が万葉の小径の入口であったのだが、4月23日には、これに気付かず、青線の通りに進んでしまったもの。 そこから左に伸びている赤線が万葉の小径です。(万葉の小径地図) 先ずは、石のカラト古墳まで走る。(石のカラト古墳) この日の石のカラト古墳には、ボランティアの人たちだろうか除草作業をされていました。(同上) 下の写真は帰途に撮影のもの。除草は終わっていました。(同上) さて、万葉の小径です。 万葉の小径は、石のカラト古墳がある神功一丁目緑地から出て、南北に通っている小道を南へと下ったスグのところにある。(万葉の小径の標石とトレンクル) 入口を入って先ず目に止まるのは、上の標石と下の万葉歌碑、休憩所建物である。(万葉歌碑1 かつら カツラ)※万葉歌碑については、歌のみ本文に転記しますが、詳細は画像をクリックして大きいサイズのフォト蔵写真で、お読みください。向(むか)つ峰(を)の 若(わか)楓(かつら)の木 下枝(しづえ)とり 花待つい間(ま)に 嘆きつるかも (万葉集巻7-1359)(万葉の小径・入口近くの休憩所) 問題の青〇印の場所で目に入るのが、上の三つである。普通これらを見落とすことはありえない。 今回もすぐに目に入りました。今となっては記憶が曖昧なのであるが、当日は、入り口に軽トラックが駐車していたような気がする。トラックが背後の休憩所建物を、その屋根に近い部分を除き多くの部分を隠してしまっていたので、民家の進入路、入り口のように勘違いしたように思う。その入り口付近の道路際には、丈の高い草が繁っていたほか、青いビニールシートが張られていたような記憶もあるので、それらが奥の方の景色を見えにくくしていたというような事情も、その勘違いを助長したかもしれない。 今回は、そのような丈の高い草が殆ど目に入らなかったので、駐車していた軽トラックは除草作業のための車で、小径を通行止めにして奥の方で、除草作業や立ち木の剪定などをされている時にたまたま通りかかったということであったのかもしれない。(万葉の小径案内図) 上の案内図で分かるように、此処の万葉歌碑というのは、小径沿いに植えられている木々、植物に因んだ歌であるから、よくある万葉植物園のそれである。この地に因んだ歌とか、この地に因んだ歌人の歌とかといったものではないようです。 まあ、万葉のお勉強のつもりで、順次、歌碑を見て参りましょう。(万葉歌碑2 え エノキ)わが門(かど)の 榎(え)の実もり喫(は)む 百千鳥(ももちどり) 千鳥は来れど 君ぞ来まさぬ (万葉集巻16-3872)(万葉歌碑3 はぎ ハギ)高円(たかまと)の 野辺(のべ)の秋(あき)萩(はぎ) いたづらに 咲きか散るらむ 見る人なしに (笠金村歌集 万葉集巻2-231)(万葉歌碑4 あぢさゐ アジサイ)紫陽花(あぢさゐ)の 八重(やへ)咲く如く やつ代にを いませわが背子 見つつしのはむ (橘諸兄 万葉集巻20-4448)(万葉歌碑5 かへるで ヤマモミジ)子持山(こもちやま) 若鶏冠木(わかかへるで)の 黄葉(もみ)つまで 寝(ね)もと我(わ)は思(も)ふ 汝(な)は何(あ)どか思(も)ふ (万葉集巻14-3494)(万葉歌碑6 いちし ヒガンバナ)道の辺の 壱師の花の いちしろく 人皆知りぬ わが恋妻を (柿本人麻呂歌集 万葉集巻11-2480) 万葉歌碑は陶板製で、コンクリート製のブロックにはめ込まれている。 同じくコンクリート製の「く」の字型のベンチが置かれている処では、その天端両サイドに歌碑陶板がはめ込まれていたりもする。 小径は入口、休憩所から奥にゆるやかな上り坂になっている。 少し上った処、壱師の歌碑付近から振り返った眺めはこんな感じである。(万葉の小径 写真左奥の建物が休憩所)(万葉歌碑7 つつじ ヤマツツジ)水伝(みなつた)ふ 磯の浦廻(うらみ)の 石(いは)つつじ 茂(も)く咲く道を またも見むかも (日並皇子尊の宮の舎人 万葉集巻2-185)(万葉歌碑8 ははそ コナラ)山科(やましな)の 石田(いはた)の小野の 柞原(ははそはら) 見つつか君が 山道(やまぢ)越ゆらむ (藤原宇合 万葉集巻9-1730) 万葉歌碑はベンチにはめ込みの陶板を含め、全部で36基もある。 ということで、今日はここまでとし、続きはページを改めての記事とします。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記参照。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2023.06.18
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今年1月の邂逅展での立ち話で、草木染・藍染作家である森澤麗子氏からお聞きした「万葉の小径」を訪ねてみようと、4月23日に出掛けたものの、石のカラト古墳までは行けたけれど、万葉の小径は発見できず、と言っても余り熱心に探さなかったので、空振りに終わりました。<参考>2023年邂逅展 2023.1.7. 仕方なく、秋篠寺や神功皇后陵ほか佐紀古墳群などを銀輪散歩して帰ることとしたのでありましたが、昨日(6月16日)再挑戦して、万葉の小径を訪ねて来ました。 ということで、4月23日の銀輪散歩と昨日の銀輪散歩とを併せて何回かに分けて記事アップすることとします。 先ずは、4月23日の記事から。 近鉄京都線・高の原駅まで愛車トレンクル(小型折りたたみ自転車)持参で移動。 駅前でトレンクルを輪行バッグから取り出して組み立て、銀輪散歩出発。 少し遠回りしたが、石のカラト古墳のある神功一丁目緑地に到着。(石のカラト古墳) 8世紀初めの築造と推定される上円下方墳。(同上)(同上・説明碑) 石のカラト古墳のある神功一丁目緑地を出て南へ道を進むと、直ぐに万葉の小径の入口がある。 下調べなしで、石のカラト古墳の近くにあるということだけで出かけて来たので、この日は何故かその入り口を見落として南へと進み過ぎ、二つ先の辻で脇道に入ったものだから、万葉の小径は発見できないままに終わりました。 そもそも、万葉の小径が目的でやって来たのだから、これが見つからないのであれば、話にならない。とは言え、熱心に探す気もないヤカモチ、秋篠寺や佐紀古墳群などを回る銀輪散歩に切り替えて、方角だけを頼りに進むこととする。 記憶に従って、後日に走ったコースの概略を地図に落とし込むと下掲の通りである。(銀輪散歩コース概略図) 万葉の小径は、京都府と奈良県の境界線上に沿うようにしてあるので、広い道路に出たところで、右に行けば小径の西側出入口の前に出くわすのであったが、右方向は上り坂、左方向は下り坂。となると人は本能的に下り坂の方を選択するもの。ヤカモチも下り坂の左方向を選択。 平城4号公園に立ち寄る。(平城4号公園) 大きな池の周りには桜の木の列。桜の花咲く時期には花見が楽しめる公園のようだが、4月23日では葉桜の季節。それに池の水が抜かれてしまって、池底の黒い泥土が広がっているだけ。 公園の横の細道を下り、秋篠川の支流になる小さな川べりの道に出る。(川べりの道 南方向を望む) この川べりを走れば秋篠川、平城駅前に出られるであろうと、川に沿って南方向へと走る。20分足らずで神功皇后陵に到着。(神功皇后陵) 神功皇后陵に立ち寄るのは何度目になるのだろうか。この近辺、これから走ろうとしているコースも勝手知ったる場所ばかりであるから、余り意気は上がらないが、歳の所為で息は上がる(笑)。 秋篠寺にでも寄ってみるかと近鉄平城駅の前を通り抜け、秋篠川沿いの道を西へ。 奈良競輪近くのコンビニでお弁当を買って、チンして貰った温かい何かを小さな公園の木陰で食べたのであるが、何を食べたのであるかはもう思い出せない。(秋篠寺) この写真は、秋篠寺の南門を撮影しようとしていて、カメラを地面に落っことしたら、シャッターが下りて写っていたものである。 勿論、画面の画像は傾いていたのだが、傾きを補正し、トリミングしたら、それなりの写真になったので、利用することとしました。 カメラが壊れてしまったかと心配したが、幸い撮影機能に問題は無さそうであるからひと安心。打ちどころが良かったよう(笑)。 はい、下のような写真を撮るべしであったのでした。 落とした直後に撮影した写真です。(同上・南門)(同上・本堂)<参考>みささぎをめぐりむかへば 2020.2.10. あきしののみてらにむかふ 2020.3.15. 過去記事を調べてみると、秋篠寺は、2020年3月に大学の先輩である植〇氏と二人で訪ねたのが直近のそれであるから、3年ぶりの訪問ということになる。(同上・十三社から東門へ) 東門から出て、競輪場の前を通り、来た道を平城駅の方に引き返す。 平城駅前で踏切を渡り、民家の間の細道の坂を上ると成務天皇陵と日葉酢媛皇后陵の間の細道。この道はヤカモチお気に入りの道。(成務天皇陵) ここで、一服煙草休憩。(日葉酢媛陵) 垂仁天皇の皇后、日葉酢媛陵にもご挨拶して、隣接の称徳(孝謙)天皇陵にもご挨拶。日葉酢媛陵、成務天皇陵の側からは称徳(孝謙)天皇陵は、裏側になるので、ぐるりと回って、遙拝所のある正面に回る。(称徳・孝謙天皇陵) 東方向に進み、平城天皇陵にご挨拶して、仁徳天皇の皇后、磐之媛の御陵へと走る。(平城天皇陵) 平城天皇陵の先、磐之媛陵へと水上池沿いの道は、奈良サイクリングロードの一部になっていて、快適に走れる道である。(磐之媛陵) この御陵は高校生であった頃から何度となく訪問しているお馴染みの場所というかお気に入りの場所であるが、特にアヤメの咲く季節がいい。(同上・お堀のアヤメ) 藤の花も咲いていました。 まあ、4月23日のことですから、当然ですかね。(同上・お堀端の藤の花)<参考>佐紀・秋篠川逍遥 2008.4.28. 磐之媛皇后と光明皇后 2009.4.20. 奈良銀輪散歩 2010.11.7. 藤原百川の墓・相楽神社から平城宮趾へ(下) 2014.9.29. 平城宮趾に立ち寄り、大極殿を眺めて、この日の銀輪散歩を切り上げることとする。(平城宮趾・大極殿) 近鉄・大和西大寺駅前でトレンクルをたたみ、電車で帰路に。 帰宅後に、万葉の小径の位置を調べて確認。早いうちに再訪と思っていたが、ズルズルと先延ばしとなり、梅雨入り後はお天気の問題もあって、ようやくに6月16日に再挑戦となった次第。(つづく)<参考>銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記参照。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2023.06.17
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先日、舞洲まで銀輪散歩してまいりました。 舞洲は何度か訪ねているが、ブログ記事で調べてみると、直近は2016年8月25日のようだから、7年ぶりとなる久々の訪問でありました。 大阪城公園から、大川べりを走り、淀川神社の蕪村像にご挨拶して、道路向かいの蕪村公園で、コンビニで買ったサンドイッチの昼食。<参考>蕪村像の写真掲載のブログ記事 秋風や銀輪駆けて蕪村まで 2017.9.21. 蕪村公園のブログ記事 蕪村公園と奇妙な実のなる木 2019.7.14. 毛馬閘門へ。(毛馬閘門) 淀川河川敷の道は工事中にて走れない。 堤防上の道も所々で工事中通行止めになっているとのガードマンさんの話であったが、う回路覚悟で、堤防道を西へと走る。 何度も迂回して一般道路に出てはまた堤防道に戻る、などを繰り返して、ようやく阪神高速湾岸線道路が見える河口近くまでやって来ました。(淀川堤防上の道) 前方に見える湾岸線道路を過ぎれば、舞洲へと入る常吉大橋も近い。 北港ヨットハーバーを右に見て、常吉大橋から舞洲に入る。 今回、舞洲にやって来たのは、舞洲シーサイドパークのネモフィラを撮影するため。土日、祝日は「大変混雑」ということであったので、金曜日に行くこととしたもの。(舞洲シーサイドパーク園内マップ)<参考>過去の舞洲関連記事 舞洲・若草読書会 2008.5.31. 舞洲銀輪行 2008.10.21. 銀輪渡船場巡り 2016.8.25. ネモフィラ祭り開催中とあって、舞洲シーサイドパーク園内は、混雑とは行かないまでも、結構な人出でありました。 入り口前に自転車を駐輪して、入場。(舞洲のネモフィラ1) ネモフィラの花畑の中に居る猫は「ネモにゃん」というらしい。(同上2)(同上3) ネモフィラに立ち混じって、不法侵入のナガミヒナゲシが咲いている。(同上4)(同上5)(同上6) ネモフィラの花の向こうには大型の船も。(同上7) 青色の薄い花もあれば、濃い花もある。(同上8) 桜とのコラボゾーン。 桜が満開の頃には桜とネモフィラの競演が見られたのであろう。(同上9)(同上10) 白い花のネモフィラもある。(同上11) どちらを向いてもネモフィラだらけ。(同上12)(同上13)(同上14) 風が吹き渡ると、花たちが一斉に立ち騒ぎ、青いさざ波となる。(同上15)(同上16) この日は薄曇りのお天気。 青空であれば写真も一層引き立ったのだろうが、そう何もかもうまくは行かない。(同上17)(同上18) はい、ぐるり園内一周しました。(同上19)ああ四月 舞洲の空 風青く 君もネモフィラ われもネモフィラ (偐家持)(本歌)ああ皐月(さつき) 仏蘭西(ふらんす)の野は 火の色す 君も雛罌粟(こくりこ) われも雛罌粟(こくりこ) (与謝野晶子) 園内を一回りしたので退場です。 此花大橋は舞洲の先の夢洲での万博に備えての工事のため、工事車両の通行を確保するためであるか、自転車や歩行者は通行禁止となっているようなので、常吉大橋へと向かい、来る時に見た北港ヨットハーバーを望みつつ、来た道を戻る。(北港ヨットハーバー 常吉大橋の上から望む)(常吉大橋) 淀川沿いを、伝法大橋まで走るが、向かい風が強く、速度が出ない。 伝法大橋の先、阪神電車の踏切を渡った先で、一般道路に出て、アトは方角だけを頼りに、ジグザグと走っているうちになにわ筋に出る。靭公園、大阪城公園経由で帰途につきました。 今日はネモフィラづくしの記事でありました。
2023.04.26
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(承前) 大門通りを西へと上る。ゆるやかな坂道である。国道15号を渡り、しばらく行くと、増上寺と書かれた門前に出た。 交差点表示は「芝大門」とあるが、「小さな門だから、これは大門ではあるまい。大門はこの奥にあるのだろう。」と思ったのはヤカモチの見込み違い、やはりこれが大門でありました。 背後には東京タワーが見えている。(芝大門) この大門から奥の三門(三解脱門)までの距離が約108間あり、大門を潜って三門まで進み、三門を潜ると108の煩悩から解脱する、ということであるらしい。 三門前到着。 手前の緑地の一角に設けられた喫煙場所で一服してから三門へ。(増上寺・三解脱門) 三門(三解脱門)というのは、悟りの境地に至るための三様の修行、空門・無相門・無願門に基づくものとのこと。(同上・三門説明碑)(同上・三縁山 広度院 増上寺 説明碑)(同上・境内図)<参考>増上寺ホームページ 境内散歩 上の境内図はネット検索で帰宅後に探し出したもので、当日はこのようなものを持ち合わせず、駐輪場がどこにあるかも分からなかったので、三門脇に取り敢えず駐輪して、門内から下掲の大殿の写真を撮って、足ばやに門外に退出。 前述のように、三門を潜って108の煩悩から解脱したヤカモチであった筈が、すぐに門から外に立ち戻ってしまったので、元の木阿弥、煩悩の世界に逆戻りとなったようです。(同上・大殿) 自転車に乗って、駐輪場を探すべく境内北側の道に入ると、正面に東京タワーであった。で、先に東京タワーに回ることとする。と言ってもタワーの展望台に上るというのではない。真下からの写真を撮ろうというのである。 はい、こういうのは既にして煩悩世界の発想でありますな(笑)。(東京タワー)(同上・直下から見上げての写真) 煩悩のことはさて置き、東京タワーのいい写真が撮れました(笑)。 再び増上寺に戻る。境内地北側の道路から横入りすると駐車場があり、そこに駐輪できるスペースがあった。(増上寺・大殿) 寺院は本堂、神社は本殿、というのが相場であるが、此処では「大殿」と称するようだ。1階に僧信徒控室、2階に本堂、3階に道場、地下に宝物展示室という多機能建物にて、本尊を安置する御堂たる本堂という概念では包摂しきれない建物であるから「大殿(だいでん)」という訳である。 まあ、大仏殿など、寺にも「殿」はありますから、どう(堂)ということはないと駄洒落にして置きます。 万葉的に訓を付けると「大殿(おほとの)」でありますが、これは大極殿のことですかな。(同上・大殿説明碑) 大殿に向かって左側に光摂殿、右側に安国殿と、左右にも「殿」があります。(同上・増上寺会館、右は光摂殿) 正面のコチラ向きの二つ並びに見える建物が増上寺会館。右端に一部だけ写っているのが大殿。その隣が光摂殿。(同上・大殿側から見る三門)(詠唱発祥の地碑) 「詠唱」というのは、浄土宗特有の呼び方で、普通には「ご詠歌」といわれるもののこと。戦後、浄土宗では、法然など高僧の和歌に節をつけたものを「ご詠歌」とし、それ以外の仏の教えなどの言葉に節をつけたものを「和讃」とし、これらと共に舞われる「舞い」なども含めたものを「詠唱」と総称するようになる。 碑文によると、昭和21年7月に第1回詠唱講習会が開催されたのは総本山知恩院に於いてであるから、詠唱発祥の地は知恩院の方かもしれないのだが、詠唱を行う組織、浄土宗吉水講が最初に組織されたのが増上寺ということで、この「詠唱発祥の地」碑が建てられているようだ。(同上・ブッシュ槇) 第41代アメリカ大統領・ジョージ・ブッシュ(父ブッシュの方)が副大統領であった1982年4月24日に来日した折にお手植えしたというコウヤマキの木が三門を入った左手、詠唱発祥の地碑の横にありました。当時の大統領は第40代大統領ロナルド・レーガン。(同上・法然上人歌碑) 大殿へと向かう参道の石階段の脇には浄土宗の宗祖・法然の歌碑。池の水 ひとのこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ 石階段を上がって大殿前の広場を右に行くと、千躰子育地蔵菩薩。(同上・千躰子育地蔵菩薩) 千までは行かないが、おびただしい数のなんとも可愛いお地蔵さんが居並んでいました。(同上) 赤い帽子と前掛け。脇に立てられたカラフルな風車が時折吹く風にカラカラと勢いよく回る。(同上) 見て回りつつ、ついシャッターを押してしまっているヤカモチでありました。(同上) この先は、通り抜け禁止と書かれているので、足は踏み入れず、振り返って撮ったのが下の写真。(同上)(同上・説明碑) 増上寺は徳川将軍家の菩提寺にて、徳川将軍家墓所が境内の奥にある。<参考>増上寺・Wikipedia 今年は、NHK大河ドラマ「どうする家康」ということなので、その将軍家墓所にもご挨拶と思ってのオプションツアーであったが、一般公開は午後3時までで、既に時刻は過ぎていて参拝受付は終わっていました。 将軍家墓所の写真は、上記<参考>のWikipedia記事に掲載されていますので、興味のある方はそれでご覧ください。 今回は、皇居の庭園といい、将軍家墓所といい、まことに間の悪いことでありました。しかし、皇居周りを銀輪散歩することそのものが目的で、何処に立ち寄るといった目的のこれと言ってない銀輪散歩でありましたので、これはこれでよしであります。 時刻もよし、東京駅の方へ引き返すことにします。 以上で、皇居一周銀輪散歩終了です。(完)<参考>銀輪万葉・関東編
2023.03.29
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(承前) 国会前交差点を斜めに渡って桜田濠沿いに下って行くと桜田門。(外桜田門)(同上・説明碑) この門は常時開いているようだ。自転車に乗ったまま中へ。(桜田門) この門を潜ると皇居前広場である。(皇居前広場) 左に行くと二重橋。 上の写真で、手前から奥右にかけての地面が黒っぽい区域はアスファルト舗装。左手の白っぽい区域は玉砂利になっていて、堀に近い部分が簡易舗装になっている。 玉砂利区域と黒っぽい舗装区域との境目に、「自転車立ち入り禁止」の立て札が等間隔に何本か立っている。 「乗り入れ禁止」は、手押しで歩いて行くのであれば自転車もOKであるのに対して、「立ち入り禁止」は、自転車を持ち込んではいけないというものであるようだ。しかし、この辺の解釈は必ずしも一定していないようであるから、どう理解すべきかいつも迷ってしまう。 大型のキャリーバッグをゴロゴロと曳いている観光客や乳母車を押している観光客もあるので、手押しで入ってもいいのかと、そのまま進入すると、遠くに居た警備の警官がピーッと警告の笛を吹き、両手で×のジェスチャー。自分のことかとヤカモチも仕草で示すと、そうだとの様子。 慌ててとって返し、アスファルト部分に引き返し、石垣前のベンチに自転車を駐輪してから、徒歩で入り直す。 20年近くも昔のことになるが、友人の鯨麻呂氏と金沢を銀輪散歩した折のこと、金沢城を横切ろうとした際に、自転車立ち入り禁止の立て札があったので、「担いで入ればいいのでは」とそれぞれ肩に担いで通り抜けたことがあった。出口で係員と遭遇したが、何もクレームがつかなかった。 肩に担げば只の手荷物、自転車持ち込み禁止とは書いていないから問題なかろう、という屁理屈であったのだが、皇居前広場でこの屁理屈が通用するとも思えず、警官から注意を受けた直後であってみれば喧嘩を売っているようなもの。そんな大人げないことはしない、この日のヤカモチでありました(笑)。(皇居正門石橋) ヤカモチはこの橋が二重橋だと思っていたが、正しくはこの奥にある正門鉄橋が二重橋だとのこと。(正門と二重橋) 正門石橋を二重橋だと紹介している写真などもあり、ヤカモチ同様にそう誤解している人も多いのではないかと思う。 上の説明碑をよく読まずにいたものだから、二重橋は撮影したものと正門鉄橋の方は撮影せぬまま、皇居前広場を立ち去ってしまいました。 ということで、Wikipediaに掲載の写真を下に転載して置きます。(正門鉄橋<二重橋>Wikipediaより転載)<参考>二重橋・Wikipedia まあ、元々「二重橋」というのは通称であるから、鉄だの石だの固いことは言わない、というのがよろしいかと。 ということにして、ヤカモチも人麻呂さんの歌に追和して1首。大君は 神にしあらねど 象徴と 二重ふたへの橋の 奥にしませる (橋本偐麻呂)(本歌)大君(おほきみ)は 神にしませば 天雲(あまぐも)の 雷(いかづち)の上(うへ)に 廬(いほ)りせるかも (柿本人麻呂 万葉集巻3-246) 皇居前広場から内堀通りに出て日比谷公園に入る。 野外音楽堂近くに喫茶店があったので、そこでランチ。<参考>日比谷公園・園内マップ(日比谷公園・雲形池) 日比谷公園に入るのは学生時代以来かもしれない。 霞門から出て、野外音楽堂の裏を南へ。 西幸門前交差点を左折。かもめ広場は桜が満開。(同上・かもめ広場) 名前は「かもめ」であるが、居たのは鳩と雀。 このまま東京駅に戻っては、時間が早過ぎる。 ということで、芝公園・増上寺へと向かうこととし、途中、浜離宮恩賜庭園に立ち寄るべしということにする。 コース概略図は下掲の通りです。(日比谷公園~浜離宮庭園~増上寺・東京タワー方面コース地図) 皇居一周銀輪散歩という当初計画からすれば、コースアウトということになりますが、以下は付録、オプショナルツアーであります(笑)。 都営地下鉄三田線が通っている道路・日比谷通りを南下。 新橋4丁目交差点を渡った先二つ目で左折して脇道を東に入り、浜離宮恩賜庭園へと向かう。 200m位行ったところに小さな公園、塩釜公園。 立ち寄って小休止。奥に塩釜神社があった。(塩釜神社)<参考>塩竈神社(東京都港区)・Wikipedia この地は、仙台藩江戸藩邸のあった場所とのこと。塩釜神社があるのはその関係ということで納得であります。 浜離宮庭園到着。 中の御門出入口前に駐輪して入場。 受け取った入場券には「14:03」の時刻が記されているから、中の御門出入口到着は午後2時丁度位か。(浜離宮恩賜庭園)<参考>浜離宮恩賜庭園・園内マップ 此処のソメイヨシノはまだチラホラ咲きでありました。 園内マップをよく見ると中央にウマシマデノミコトの銅像があったようですが、手前で左に進んでしまったので見落としたようです。 ウマシマデはその父・ニギハヤヒと共に物部氏の祖とされる人物。神武東征の際に徹底抗戦派のナガスネヒコを殺し、神武に恭順した人物であるが、わが地元の石切神社の祭神でもあるので、ご挨拶できなかったのは残念なことであります(笑)。(同上・三百年の松) 三百年の松という立派な黒松。三百年(みももとせ)の 離宮の松は 枝広げ 小山のごとや 神さびにけり (偐家持)(本歌)磯の上(うへ)の つままを見れば 根を延(は)へて 年深(ふか)からし 神(かむ)さびにけり (大伴家持 万葉集巻19-4159)(同上・説明碑) 上の大伴家持の歌の「つまま」とはタブノキのこととされる。 そのタブノキの巨木が「三百年の松」と向かい合う形で、高々と枝葉を延ばしていましたが、さすがに貫禄負けしていました。(同上・タブノキ) お花畑は、菜の花が満開。(同上・菜の花畑) 園内では着物姿の若い男女の姿があちらこちらで目についたが、何であったのか。卒業式で男子学生が着物というのは変だから、それに関連した謝恩会か何かの後であったのだろうか。 最初、着物姿の学生風の男子数名の集団を見た時は、落語研究会の学生かと思ったが、その後他にも多くの着物姿の男女を目にしたので、そうではなさそうと思った次第。(同上)(同上)(同上)菜の花や バスは隅田を 遡り 雲と行くかや 浅草あたり (偐家持)(同上・水上タクシーが隅田川に出て行くところ) 黄色の船体に「水上タクシー」と書いてあったと記憶するのだが、受付の券売所で貰ったパンフレット(上記<参考>の園内マップと同じもの)には水上バスと記載されていて水上タクシーの記載はないから、これが水上バスなのかもしれない。 水門の向こうは隅田川。右が河口側で、左が上流側。左に旋回すれば、直ぐに勝鬨橋で、浅草へと向かうのだろうが、目を離している間に見えなくなったので、どちらへターンしたのかは不明である。 浜離宮は余りに広すぎて回り切れず、そこそこにして退場。 ゆりかもめとJRが並行して走る高架線路を右手に見て、これらに並行する道を南へと走る。 前方に浜松町駅が見えて来た辺り、ゆりかもめの高架路線が左にカーブしている下を潜る手前付近に、イタリア公園と表示された公園があったので立ち寄ってみた。人影なし。(イタリア公園)<参考>イタリア公園・Wikipedia 浜松町駅の東側にあるのが、旧芝離宮恩賜庭園。 先ほど浜離宮恩賜庭園に入って来たばかりなので、こちらは入場口から覗くだけで、入場しないこととしました。(旧芝離宮恩賜庭園)(同上・案内板) こちらは、浜離宮の4分の1程度の広さであるが、それもあってか、入園料は浜離宮のそれの半額相当の金額である。 ヤカモチ的にはこの程度の広さの方が歩いて回るには手頃かも。(同上・庭園の由来説明碑)(同上)<参考>旧芝離宮恩賜庭園・Wikipedia 園内マップ このアト、浜松町駅を左に見て、JR線を潜り、大門通りを西に上がりますが、本日はここまでとし、続きはページを改めます。(つづく)
2023.03.27
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(承前) 靖国神社の境内を出ると、九段坂上三叉路。 少し東に戻って、千鳥ヶ淵緑道に入る。自転車の乗り入れは禁止のようだから、手押しでブラブラと歩きながら行く。(千鳥ヶ淵緑道) 桜の並木。いずれも「年深からし」の古木にて、風格のある姿。 満開に近い木もあったが、多くは三分咲きか五分咲き。しかし、花見を楽しむには十分な咲き具合。散策する多くの人と行き交う。 夜はライトアップされるのだろう。照明設備が設置されている。(同上) ブロ友のlavien10さんによる前ページ記事へのコメントによると、同氏もこの日は千鳥ヶ淵を散歩して居られたとか。何処かでそれとは気づかぬままにすれ違っていたなら面白いのですが・・(笑)。※追記注(2023.3.26.)その後のコメントでlavien10さんが散歩されていた時間が13時過ぎであることが判明しましたが、ヤカモチが千鳥ヶ淵をブラブラしていた時間帯は10時過ぎから10時50分頃まででありましたので、約3時間の時差で遭遇するチャンスはなかったという次第。(同上)(同上) 菜の花が咲いていた場所から少し下ったところに千鳥ヶ淵戦没者墓苑の東門があったので、参拝に立ち寄ってみた。(千鳥ヶ淵戦没者墓苑 東門) 南側に回り込んだところにも入口(西門)があり、そちらが正面の入口になるのかもしれない。だとすれば、ヤカモチ流の裏からの入場ということになるが、墓苑の建物などの配置からは、どちらが正面入口ということではないようである。 駐車場は西門側にあるので、車で参拝に来られるお方は西門からの入場となるから、西門からの入場者の方が多いのだろう。(同上 左が本屋・六角堂、中央が御製の碑、右が前屋・休憩所)(同上・六角堂) 献花する参拝者。 昭和天皇御製の碑が前屋の南側左右に建立されている。(同上・昭和天皇御製の碑)くにのため いのちささげし ひとびとの ことをおもへば むねせまりくる (昭和天皇御製)(同上) 御製の碑は、東西に向き合う形になっている。(同上)戦なき 世を歩みきて 思ひ出づ かの難き日を 生きし人々 (同上)(同上)(同上・平和祈念碑と追悼慰霊碑)(同上)<参考>千鳥ヶ淵戦没者墓苑 墓苑を出てからは、一般道を自転車(トレンクル)に乗って走る銀輪散歩本来のスタイルに戻る。 半蔵門の前に到着。(半蔵門) 半蔵門の向こう側は皇居の敷地となるので、他の門とは違って道路に面する入口には車止めのコンクリート円柱が並びその背後に柵が置かれていて一般人の立ち入りを固く禁止しているという雰囲気。警官詰め所の建物もあって、パトカーも常駐のよう。(同上・説明碑) この説明碑を撮影しようとしたが、女性が一人この前に立って長々と地図を見て居られたので、かなり辛抱強く待たされました(笑)。(同上・桜田濠側から) ここで、コース概略地図を参考までに掲載して置きます。 半蔵門で概ね半周したことになるか。(コース概略地図1・皇居一周、日比谷公園) 半蔵門から三宅坂(R20)を下る。国立劇場の前付近に押しボタン式の横断歩道があり、信号待ちをしている人が居られたので、ヤカモチも便乗して信号が青になるのを待つ。 横断歩道を渡ると国立劇場の前。その前庭の桜が満開だったが写真を撮るのを忘れてやり過ごしてしまった。R20の堀端とは反対側の歩道を下ると三宅坂交差点。手前が最高裁判所。門の外側、内側に何人かの警備の人が立って居られてカメラを向けにくい雰囲気。ということで最高裁判所も写真には収めず三宅坂交差点に出てしまう。此処で右に入る角に三宅坂公園というのがあったので立ち寄る。(三宅坂公園 背後の建物は最高裁判所) 道路面より高い位置にあるので公園の様子は道路側からは見えない。 入口階段を上る。三体の女神像とおぼしきブロンズ像があるばかりで、それが全てというポケットパークでありました。 しかし、ブロンズ像の裏にあったのがこれ。(渡辺崋山生誕地の碑) 渡辺崋山はこの付近で生まれましたか。 最高裁判所と国会図書館の間の道を西に入り、少し寄り道です。(国立国会図書館) 国会図書館をぐるりと回り込んで、国会議事堂東側の歩道から撮影したのが上の写真。 道を回り込んで国会正面前へ。(国会議事堂) 国会正面前の坂道を下る。 道路の左側が国会前庭洋式庭園、右側が和式庭園であるが、道路の左側を走っていたので、洋式庭園に立ち寄る。(国会前庭洋式庭園) 洋式庭園の一角に日本水準原点というのがあった。(日本水準原点) 下掲の説明碑によると、この建物の中にある台石に取り付けられた水晶板の目盛りの零線の中心と東京湾の平均潮位海面との差がこの水準原点の標高とされ、これを基準として我が国の土地の標高を測定するとのことであるが、土地測量についての知識を持ち合わせないので、イマイチよくは理解できない。 明治24年(1891年)5月設定当時は24.500mと定められたが、関東大震災後に24.4140mに改正され、また、平成23年(2011年)3月の東日本大震災の地震による地殻変動によって24mm沈下したとして、現在は24.3900mに改正されているとのこと。(同上・説明碑) 洋式庭園に立ち寄ったのだから、右側の和式庭園にも立ち寄らねばならないが、和式庭園に立ち寄るためには、坂道を下りきったところの横断歩道を渡って、道路反対側を再度上らなければならない。ということで、和式庭園はパス。 最高裁判所、国会と三権のうちの司法と立法の二権に挨拶したのだから、行政の首相官邸にも挨拶すべきところと言うべきであるが、同様の理由でこれもパスでありました。 坂道を下りきって、国会前交差点から堀端の道に戻り、桜田門へと向かいます。(つづく)
2023.03.25
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東京に所用があって出かけたついでに皇居周りを銀輪散歩して来ました。 銀輪散歩をしたのは3月20日のことですから、四日遅れの旅便りということになります。 東京を自転車で走るのは、2019年4月以来のことであるから、ほぼ4年ぶりということになる。今回のホテルは東京駅八重洲口近くであったので、皇居周辺を一周してみようと思いついた次第。これなら地理感がなくても道に迷うことはあるまい、と考えたことも理由の一つです。 先ず、大手門の前に出て、そこから左回りに一周という計画。(大手門) 大手門は正式には、大手高麗門というようです。(大手門前の案内地図) 大手門から入って二の丸庭園を見て・・という計画でしたが、上の案内図に記載されているように、この日は月曜日で休園日にて、外門が閉ざされたまま。是非も無し。 大手濠に沿って北へと走る。 一つ目の交差点で右に入る。平将門の首塚へと向かう。 随分の昔、まだ現役だった頃、経団連に仕事で出張することがよくありましたが、経団連会館の一つ南にある通りにあるのが将門の首塚。経団連会館へは丸の内北口を出て歩いて行くのであるが、そんな折に一つ手前の道を左折してしまって目にとまったのが将門塚であった。そんなことで、久々に将門公にご挨拶と立ち寄ってみたのだが、随分と広くなり、綺麗に整備されて見違えるほど立派な佇まいになっていました。(平将門首塚)(同上)(同上・説明碑) 説明碑によると、現況のように整備されたのは、2021年とあるからごく最近のことのようです。 将門塚から再び堀端の道に戻り、北へと進むとこんな像がありました。(和気清麻呂像)(同上・副碑) 「國體擁護」なんぞという大時代的な言葉で分かるように、昭和15年に皇紀2600年を記念して建設されたもののようです。(同上) 清麻呂公の頭上にとまったハトが動かない。 鳩麻呂になった気分でいるのかもしれない(笑)。 清麻呂像から西に回り込むと平川門である。(平川門) 勿論、ここもご覧のように「通せんぼ」である。(同上) 平川門から竹橋へと進む途中にクスノキの巨木があり、その足元に何やら石碑がある。(太田道灌公追慕の碑) 何が刻されているのか。殆ど判読できない。(「江戸城築城550年に当たって」の副碑) 隣の副碑によるとこの石碑は太田道灌公追慕の碑で、道灌没後450年を記念して建立されたとのこと。 道灌の没年は1486年。追慕の碑は1936年建立ということになる。(まち・記憶碑 1457年江戸城築城) 門が全て閉ざされているなら、門を通り抜けるコースでは北の丸公園にも入れないことになる。ということで、竹橋を渡って北の丸公園に入るコースを選択する。(北の丸公園・落ち椿) 落ち椿が美しい。(同上・吉田茂像) 吉田茂像にもご挨拶して・・。(同上・コブシと寒緋桜) コブシと寒緋桜の間を抜けて行くと、日本武道館の裏口に出た。 表に回る。(日本武道館) 武道館では第45回全国高等学校柔道選手権大会が開催中でありました。 そういうこともあってか、田安門は開門されていて、そこから高校生らを含む多くの人が出入りされていました。或いは、田安門は常時開かれているのかも。(田安門)(同上・説明碑) ということで、竹橋方面へ戻ることを要せず、ヤカモチも田安門から門外へと出る。(田安門の前から桜を見る) 門を出ると堀端の桜がほぼ満開。 今年は全国で一番早く開花宣言された東京であるが、このところの高気温で更に開花が進み、早くも花見頃になっている。(同上) 田安門から堀端の道に出ると、向かいは靖國神社である。(靖國神社・大鳥居) 大鳥居の右手に慰霊の庭があり、そこにあるのが「さくら陶板」。 靖國神社創立記念事業の一環として全国各都道府県の陶工によって制作・奉納されたものである。 大阪府の陶板だけ撮影。 他の都道府県のそれは、下記<参考>靖國神社境内案内図をクリックしていただき、案内図の「さくら陶板」をクリックしていただくと北海道から沖縄県までの陶板の写真がご覧になれます。(さくら陶板 大阪府) ひときわ目立つのは大村益次郎像。 陸軍創設者にして、靖國神社創建にも尽力したということで、明治26年に建立された像である。(同上・大村益次郎像)<参考>靖國神社境内案内図 奥に見えるのが第二鳥居と神門。 大勢の人でもあり、自転車なので、神門以下は省略。 上記<参考>の境内案内図にて、拝殿その他はご覧ください。 大村益次郎像の左手の石鳥居から境内を出て、千鳥ヶ淵に向かいます。 が、つづきはページを改めることとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・関東編
2023.03.24
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(承前) 前頁の邂逅展のついでの、恩師のお墓への「ついでお墓参り」であります。 まあ、「ついでに」というのは、恩師・井〇先生には失礼でありますので、内緒に願います(笑)。 ヤカモチの中学時代は、1学年10学級あったので、一回のクラス替えで再び同じクラスになる確率は10%であるから、クラスメート50名のうち5名ということになる。2年生から3年生になる時にもう一度クラス替えがあるから、この5名が同じクラスになるのは0.5人の割合ということになる。 従って、完全無作為にクラス替えを行えば、3年間同じ先生のクラスとなる生徒は0~1人ということであるが、ヤカモチともう一人嶌郎女さんという女生徒の2人が井〇学級で3年間同じクラスであった。これが偶然ということなら、井〇先生とは余程に強いご縁があったということになるのだが、実際のクラス替えは無作為ではなく、別の要素も加味して行われるようであるから、この生徒は私の組に欲しいとか、この生徒は問題児であるから、引き続き私の組で面倒を見るしかない、といった先生同士のやりとりによる調整もあったようである。ヤカモチの場合は、多分に後者の問題児の口で、3年間井〇先生にご面倒をお掛けすることになったのではないか、と推測している。 そんなこともあってか、卒業後も井〇先生との交流は続き、先生がお亡くなりになったのは、2003年5月であるから間もなく20年になるのだが、クラスメート数人によるミニクラス会は今も健在で、先生亡き後もその交流は続いている。 ということで、今年も昨年に続き、邂逅展に出かけたついでの墓参となった次第。 昨年は一つ北側の大宮通りを西へと走り、朱雀門にご挨拶したのだが、今年は三条通りを西へと進む。(朱雀門遠望) 朱雀門は、三条通りからは遠望してのご挨拶となる。 更に西進すると、近鉄線踏切。尼ヶ辻駅前である。(近鉄橿原線・尼ヶ辻駅) 駅の西側に見えているのは垂仁天皇陵である。(垂仁天皇陵)<参考>垂仁天皇・Wikipedia 遙拝所は南側であるので、北側の三条通りからだと裏側になるが、一応ご挨拶して行く。 昨年は、暗越奈良街道(国道308号)を道なりに走り、安康天皇陵には立ち寄らないままに通り過ぎてしまったので、今回はこれに立ち寄るべしで、宝来付近の分岐で右側の脇道を直進することにする。 すると、手前の蓬莱神社の前に出た。(蓬莱神社) 蓬莱神社の祭神は、須佐之男命とその妻・櫛稲田姫命のようだが、垂仁天皇の時代に田道間守が蓬莱山から不老不死の実、「ときじくのかくのみ(非時香菓)」を持ち帰った(垂仁天皇90年2月)という話に由来するものであるか。 この実は、橘の実と考えられている。 万葉集の大伴家持の歌にも、そのことが詠われている。かけまくも あやに恐(かしこ)し 天皇(すめろき)の 神の大御代(おほみよ)に 田道間守(たぢまもり) 常世(とこよ)に渡り 八矛(やほこ)持ち 参(ま)ゐ出来(でこ)し時 時じくの 香久(かく)の菓子(このみ)を 恐(かしこ)くも 残したまへれ 国も狭(せ)に 生(お)ひ立ち栄(さか)え 春されば 孫枝(ひこえ)萌(も)いつつ ほととぎす 鳴く五月(さつき)には 初花(はつはな)を 枝(えだ)に手折(たを)りて 娘子(をとめ)らに つとにも遣(や)りみ 白たへの 袖(そで)にも扱入(こき)れ かぐはしみ 置(お)きて枯(か)らしみ あゆる実(み)は 玉に貫(ぬ)きつつ 手に巻(ま)きて 見れども飽(あ)かず 秋付(づ)けば しぐれの雨降り あしひきの 山の木末(こぬれ)は 紅(くれなゐ)に にほひ散れども 橘(たちばな)の なれるその実は ひた照(て)りに いや見(み)が欲(ほ)しく み雪降(ふ)る 冬に至れば 霜(しも)置(お)けども その葉も枯(か)れず 常磐(ときは)なす いやさかばえに 然(しか)れこそ 神の御代(みよ)より 宜(よろ)しなへ この橘を 時(とき)じくの 香久(かく)の菓子(このみ)と 名付(なづ)けけらしも (大伴家持 万葉集巻18-4111) 反歌橘は 花にも実にも 見つれども いや時じくに なほし見が欲し (同 万葉集巻18-4112) 天平8年(736年)11月、葛城王、佐為王らに橘宿祢を賜姓することを許可する旨の詔勅が出され、葛城王は橘諸兄、佐為王は橘佐為と改名するが、この時に詠まれた聖武天皇御製歌が「橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木(万葉集巻6-1009)」である。上の大伴家持の歌はこの御製歌を意識して詠まれたものと思われる。(同上) 蓬莱神社の裏手を西に回り込むと安康天皇陵に行き着いたのであるが、どうやら、これは裏口のようである。ぐるりと御陵の縁を回り込んで正面の遙拝所に移動。 近道と思ったヤカモチであったが、却って遠回りをしてしまったのかもしれない。まあ、何にしても、またしても「裏口」からの入場となった次第。(安康天皇陵)<参考>安康天皇・Wikipedia 安康天皇は第20代天皇。允恭天皇の第2皇子または第3皇子。第21代雄略天皇の同母兄。皇后・中蒂姫(なかしひめ、古事記では「長田大郎女」)の連れ子・眉輪王(まよわのおほきみ、古事記では「目弱王」)に暗殺された天皇でもある。 暗殺に至る経緯は次の通り。 安康天皇は、大草香皇子の妹を同母弟の大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妻にと考えて根使主(ねのおみ)を遣わす。病気がちだった大草香皇子はこれを大いに喜び「かたじけなきこと」と受諾、そのしるしの品として「押木珠蔓(おしきのたまかづら)」を奉献すべく、これを根使主に託す。ところが根使主はこれを天皇に差し出さず、横領してしまう。そして、そのことがバレないようにと、「大草香皇子様は、同族の風下に立つことなどできぬと太刀を手に大変な怒りようでありました。」などと讒言する。 この嘘を信じた天皇は、大草香皇子を殺し、その妻であった中蒂姫を自分の妻にしてしまう。(安康天皇元年2月) 大草香皇子と中蒂姫の間の子、眉輪王(当時7歳)は天皇と中蒂姫との会話から自身の実父の死の真相を知り、天皇が熟睡している隙に、父の仇と天皇の首を打ち斬って殺してしまう。(安康天皇3年8月) 眉輪王は、即位前の雄略天皇によってすぐに殺されている。(同上)(同上・参道入口) 日本書紀には「菅原伏見陵に葬りまつる。」、古事記には「御陵は菅原の伏見の岡に在る也」とあるが、宮内庁は此処がその墓所・菅原伏見西陵だとしている。 しかし、此処は古墳ですらなく、室町時代のこの地域の有力氏族、宝来氏の山城である大和宝来城の跡だという説などもあるようで、かなり怪しいのである。尤も、古墳を潰して山城に造り変えたということも考えられるから、室町時代の山城跡説とそれ以前は古墳であったという説とは必ずしも相反しないとも言える。 安康天皇陵を出て、阪奈道路(県道1号)と第2阪奈道路をつなぐ宝来ランプの高架下をくぐり、阪奈道路に出る。奈良国際ゴルフ倶楽部の中央を横断する形で阪奈道路が通過している。その歩道部分を西へと進む。 さすがに、この道を自転車で走っている人はいない。勿論、歩いている人の姿もない。(阪奈道路・奈良国際GCを横断中) ゴルフ場を左右に見つつ坂を上り切るとゴルフ場クラブハウスへの入り口道路の前に出る。ここで、時刻は、と見ると12時半近くになっていました。道路向かいにレストランがあったので、ここで昼食とする。 昼食後、店を出て、近鉄学園前駅方向に走る。何処かで西に入るつもりでいたが、地図を持参しなかったので、これと決めかねているうちに学園前駅に来てしまう。(近鉄奈良線・学園前駅) 是非に及ばず。線路の北側の道に出て、これを線路沿いに西へ。 富雄駅の北側を通過して、富雄川に出る。 富雄川を渡り、右岸(西岸)の道を下流(南)方向に進む。 昨年は、霊山寺よりも下流側に出てしまったので、もう少し上流側で富雄川に出るつもりで、阪奈道路を走ったのであったが、これは自転車には余り心地よくない道で、何処で脇道に入るかがイマイチよく分からなかったこともあって、昨年以上の遠回りになってしまった。(霊山寺前) 霊山寺北側の急な坂道を上り切ると、霊山寺東光院霊園である。(霊山寺・東光院霊園説明案内板) 事務所の供花販売コーナーで花を買い求め、井〇先生墓所へと向かう。(同上・井〇先生墓所はこの通路から入る。) 昨年は5月17日に、級友のひろみの郎女さん、喜多麻呂君、谷麻呂君と4人で墓参をしているので、ほぼ8ヶ月ぶりの墓参になる。<参考>中学時代のクラスメイトと恩師墓へ 2022.5.17.(同上・井〇先生墓) 墓参を済ませて帰途に。 上って来た急坂道を一気に下り、霊山寺の北隣にある葛上神社に立ち寄ってみる。この神社は、以前、石段下の鳥居の写真を記事に掲載した記憶があるが、石段の上の境内に上ったことがあるのかどうか、記憶が定かでない。(葛上神社・石鳥居) 鳥居の脇に梅の花がもう咲いているのか、と近寄ってみると、それは梅ではなく、桜の花でありました。 ヒマラヤザクラか何か、冬咲きの品種なんだろう。(同上・桜)<参考>ヒマラヤザクラ・Wikipedia 石段を上って本殿へ。(同上・拝殿) 初めて境内に上って来たかと思いましたが、さにあらずで、下記参考の古い記事に、鳥居の写真と共に拝殿の写真も掲載されていましたから、少なくとも一度は上って来ていることになる(笑)。<参考>墓参と銀輪行 2009.5.24.(同上・本殿) 拝殿の左手に回り込んで本殿を撮影。(同上・本殿)(同上・絵馬) 拝殿の右手に回ると、「葛上御社古跡」と刻された石碑があった。 古くは、こちら側に、本拝殿が建っていたのだろう。(同上・葛上御社古跡の碑) その石碑の背後にあったのが、しめ縄が張られた石。 どのようないわれのある石なのかは不明である。(同上・何の石か?) 帰ろうとしていると、若い女性が一人で参拝に来られた。 「こんにちわ」と挨拶だけ交わして、石段を下り、石段下に駐輪して置いたトレンクルに跨り、富雄川沿いに近鉄富雄駅へと走る。(カラスの落ち穂拾い) 途中の、刈り取りの終わった田んぼにカラスの群れ。 落ち穂ひろいをしているのか。 生ゴミなど、ゴミ箱をあさるカラスは迷惑至極であるが、田んぼで落ち穂をついばんでいるカラスは好感が持てる(笑)。あをによし 奈良の都の 烏らは 落ち穂ひろへど ごみはあさらじ (偐烏持) 近鉄・富雄駅に到着です。(近鉄奈良線・富雄駅) 駅前で、輪行バッグを取り出し、トレンクルをたたんで収納。 以上で、邂逅展のついで墓参兼銀輪散歩終了であります。 最寄り駅の二つ手前の石切駅で途中下車。そこから、自宅まで再び銀輪散歩としましたが、これが失敗。 石切駅の改札口前で、トレンクルを取り出し、輪行バッグをザックに仕舞って、自宅まで走ったのですが、玄関に入ろうとして、石切駅改札口前にペットボトルのお茶(未開封)とそれを入れた収納保護ケースを置き忘れたことに気付く。取りに戻るのはやめにしようかとも思ったが、思い直して、トレンクルよりもスピードの出るCV(クロスバイク)に乗り換えて石切駅までトンボ返り。置き忘れた場所に、それはそのままにありました。 無事回収して、めでたしでありましたが、経済効率を考えると、取りに戻るよりも、諦めて新しいのを買った方が得策であったのかも。 しかし、SDGsの考え方に立てば、回収する方が環境負荷が少ないということになるのだろう。自宅・石切駅自転車往復でヤカモチの吐き出す炭酸ガスは微々たるもの、さしたる環境負荷にもはなりませぬから。 出だしと締めくくりでのダブルの「置き忘れ」、どうやらヤカモチ本体の方は持続可能性が怪しくなってきたようだ(笑)。<参考>中学同期関係の過去記事はコチラ。 銀輪万葉・奈良県篇の過去記事は下記。 銀輪万葉・奈良県篇 銀輪万葉・奈良県篇(その2)
2023.01.08
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(承前) 最終日(11月4日)、ホテルからトレンクルを宅配便で送り返し、帰阪であります。 時間に余裕があるので、少しばかり周辺を散策。(温泉舎<ゆのや>) 温泉舎は「湯田温泉のビジュアル化」をコンセプトに設けられた施設。 地下500mから湧き上がる湯田温泉の源泉を見ることができるタンクで、のぞき穴からそれを見ることができる。 湧出量は毎分125リットル、温度約62度とある。 泉質は、アルカリ性単純泉・PH9.5である。 湯田温泉には7つの源泉があるそうだが、ここはその一つ。(同上・飲泉場)(同上・源泉から湧き出しているお湯が温度計の中に見える。)(同上・説明板) 説明板には、湯田御茶屋の鳥瞰図とその説明が記されている。 説明文は、写真をクリックして表示される特大サイズ写真で何とか読めるが、その画像の右上にある「元画像」とある処をクリックすると、更に大きいサイズの写真が開くので、それでお読みいただくといいでしょう。 下部には湯田温泉ゆかりの人物、木戸孝允、井上馨、種田山頭火、中原中也の4名が簡単に紹介されている。(同上・足湯ではなく、源泉からのお湯が流れる小川のモニュメント) 足湯かと思ったが、錦川通りを流れていた川をイメージしたお湯の流れる小川のモニュメントだとのこと。 早とちりして足を浸けなくて良かった。尤も、小川も子どもの頃は魚などを捕まえるべしで、裸足になって足を踏み入れたものであるから、立ち入り禁止の表示がなければ、自由に足を浸してもいいのではないかとも思うが。(同上・中原中也ゆかりの宿・西村屋の松)<参考>西村屋・Wikipedia 中原中也が結婚式を挙げた旅館・西村屋の玄関先にあったという松が、ここに移植されている。数年前に西村屋が倒産、廃業して無くなってしまったが、松だけは此処に引っ越して来て、西村屋をしのぶよすがとなっているようです。(同上・西村屋の松説明碑)(同上・生目通り側から) 温泉舎の裏手になる東側の通りは生目通り。 生目通りに出て右に行くと錦川通りに出る。中也ゆかりの宿・西村屋のあった場所の北側の通りである。これを東に進むと、こんな看板が目に入った。(お茶屋臨野堂跡) 上の写真の左端に写っている道路が錦川通り。 緑色の工事仮囲いシートの背後に立体駐車場が見えるが、その辺りからこの臨野堂跡地の「磯くら」の道向かいにある住宅の背後にかけてが、西村屋のあった場所かと思う。(同上・由来説明碑) 萩に城を構えた江戸時代の毛利氏は、山口に客館、湯田にお茶屋を設けて、藩主の休息所とすると共に、他藩からの来客の接待所にしていたとのこと。幕末期には、吉田松陰、高杉晋作、桂小五郎など勤王の志士の密議の場にもなったという。 温泉舎に描かれていた湯田御茶屋と臨野堂との関係がイマイチよくわからんが、湯田御茶屋の一部が臨野堂ということなのか。 中也銀輪散歩とて、長州だの薩摩だの幕末・維新のことなどはつい忘れてしまっていたのだが、ここは長州なのだとあらためて思った次第。 道の斜め向かいには、瓦屋跡の碑があって、坂本龍馬の像もあったりするのでした。(史蹟・瓦屋跡碑) 瓦屋というのは、瓦を作っていたのではなく、此処にあった旅館の屋号であるようです。現在、隣が松田屋ホテルであるから、瓦屋の後身旅館が現在の松田屋であるかと思ったが、松田屋ホテルの公式サイトを見ると次のように説明されている。「瓦屋」とは湯田温泉の「松田屋」に隣接していた瓦ぶき二階建ての旅館でした。江戸当時、湯田の町ではほとんどの建物が藁ぶきでしたが藩主のお茶屋と瓦屋だけが瓦ぶきだったといわれ、屋号もそこに由来しています。 瓦屋も松田屋ホテルも老舗旅館にて、勤王の志士たちがよく利用した宿であったという次第。 瓦屋跡碑の隣の「山田顕義と瓦屋」という碑には、維新の戦での軍人としての功績が認められ、明治新政府に於いて、初代司法大臣となった山田顕義の妻はこの瓦屋旅館の長女・龍子であると書かれている。 また、日本大学の創立者はこの山田顕義であるとも書かれている。日大と湯田温泉との意外な関係であります。 碑の後ろに見えているのが龍馬さんです。(龍馬像) 龍馬さんは「わしゃ、土佐じゃきに。」と言っておられますが、山口龍馬会が建立されたもののようです。薩長同盟成立に奔走した坂本龍馬も、この瓦屋や松田屋に宿泊し、またお茶屋「臨野堂」で密議をこらしたのであってみれば、龍馬さんは此処に立っていなくてはならないのかも。 しかし、野外での立ち尽くしは「ちっくと、こたえるぜよ。」と脇の角柱に寄り掛かって居られます。因みに、背後の「影」は描かれたもので、本物の影ではありません。 この瓦屋、松田屋と道を挟んであったのが西村屋。その玄関はどちら側にあったのか存じ上げないが、ネットで「在りし日の西村屋」の写真を探すと、こんなのが見つかりました。 11年前に友人の、偐山頭火氏が宿泊された頃の西村屋はこんな風であったのでしょう。(在りし日の西村屋)(同上)※左端に枝が見えるのが温泉舎に移植された松の木のそれであるか。 さて、その西村屋跡と瓦屋跡・松田屋ホテルの間を南北に通じている道が元湯通り。元湯通りを南に行くと、県道204号・湯の町街道である。これを渡ると、道の名は湯の町通りに変わり、東側に中原中也記念館、西側に観光回遊拠点施設「狐の足あと」という観光交流施設がある。(狐の足あと) 此処は、初日(11月1日)に中原中也記念館を見学した後も、珈琲休憩した場所であるが、この日も此処で珈琲休憩です。 店の外にテラス席がある。灰皿が置いてあり、其処では喫煙も可能ということなので、ヤカモチ向きであります。 中也記念館の方を眺めながら、珈琲。初日の時は、丁度、小学校の下校時間帯に当たっていたので、目の前の湯の町通りを、下校の小学生が通って行く。遠くで、犬がワオーンと遠吠えする声。すると、中也記念館の陰から現れた、ランドセルを背負った男の子が、「ワオーン、ワオーン」鳴きまねをする。ヤカモチも「ワオーン」と鳴くと、目が合ってニッコリ。何やら嬉しそうに「ワオーン、ワオーン」と言いながら去って行きました。 中原中也の詩に「サーカス」というのがあって、「幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました」で始まるそれには、「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」というフレーズが繰り返し出て来るのであるが、その「ゆあーん」を思い出したりも。 すると、今度は男の子のランドセルに背後から揃えて伸ばした両手を乗せて女の子が続くという形で、「ギーッコン」だったか「ガタン、ゴトン、ギー」だったか、何やら声を合わせて発しながら、踊るように拍子をとりつつ、「汽車汽車シュッポシュッポ」のようでもあり、それとは違うようでもある、ご機嫌な風に行く二人が現れた。 これも中也の何かの詩にあったようなフレーズを連想させたのだが、それが何の詩で、どんなフレーズであったかは思い出せぬまま、そのご機嫌な二人を見送りました。 この日はそのような光景もなく、井上公園から、公園通りを通って、ブラブラと歩きながら、湯田温泉駅へと向かいます。 湯田温泉には、無料の足湯が6ヶ所あるらしい。 先ほど立ち寄った温泉舎のそれも足湯みたいに見えたが、湯田温泉駅や井上公園にあるのは、その無料の足湯である。(井上公園の足湯) 上の写真は4日のものではなく、1日に撮影のものです。 同じく、1日に撮影の井上公園での写真がもう1点あるので、ついでに掲載して置きます。(所郁太郎顕彰碑)<参考>所郁太郎・Wikipedia 所郁太郎という人は存じ上げなかったが、緒方洪庵の適塾出身の医者で、井上馨が刺客に襲われて瀕死の重傷を負った際に治療にあたってその命を救ったという人物。井上馨の銅像の隣に顕彰碑が置かれているのも頷ける。 湯田温泉駅到着。 中也の「夏の日の歌」にある「田舎の驛」はこの湯田温泉駅のことだそうな。 夏の日の歌 (詩集「山羊の歌」所収) 青い空は動かない。 雲片一つあるでない。 夏の眞晝の静かには タールの光も清くなる。 夏の空には何かがある、 いぢらしく思はせる何かがある、 焦げて圖太い向日葵が 田舎の驛には咲いてゐる。 上手に子供を育てゆく、 母親に似て汽車の汽笛は鳴る。 山の近くを走る時。 山の近くを走りながら、 母親に似て汽車の汽笛は鳴る。 夏の眞晝の暑い時。(湯田温泉駅 「中也と歩く湯田温泉マップ」より) 今日は夏の日ではなく秋の日。秋の空には何があるのか。 駅には、焦げて図太い向日葵は、咲いてはいない。 駅の足湯が所在なげにしている。 予定していた列車よりも一つ早いのがやって来たので慌ただしく乗る。 山の近くを走る時も、汽笛の音はない。 新山口駅到着。(新山口駅 新幹線ホームから) 一番奥が山口線のホーム。 カメラを右に振ると・・。(同上) のぞみがやって来ました。 乗車します。 以上で、中也銀輪散歩終了です。(完)<参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。<追記>「湯田温泉駅、中也と歩く湯田温泉マップ」のイラストと過去記事「銀輪万葉・中国、四国篇」のリンクを追加記入(2022.11.19.)
2022.11.18
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(承前) ザビエル記念聖堂を出て、亀山公園へと向かいます。 聖堂の前庭から亀山山頂へと上る階段を上ると亀山公園・パークロードへと下る道に出る。 其処にあったのがこの石碑。(大内義長の裁許状の碑)<参考>大内義長・Wikipedia 大内義長は、毛利元就によって滅ぼされる大内氏最後の当主。(同上・副碑) 大内義長がキリスト教会建立を許可した裁許状の碑。 此処に山口カトリック教会、ザビエル記念聖堂が存在するのは、この大内義長の裁許状があってのものということになるか。日本最初のキリスト教会だという。 亀山山頂へは更に階段を上らなければならないが、山頂は遠慮して下り道を選択。誘ふとて 何か上らん 亀山に 見れば下りの 道もこそあり (偐家持)(本歌)誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ (大内義長辞世の歌) 下り道の入り口にあったのが、国木田独歩の碑。(国木田独歩文学碑)<参考>国木田独歩・Wikipedia 山林に自由存す 国木田独歩 国木田独歩も少年期を山口で過ごしているのでしたか。 彼が通った今道小学校というのは、現在の白石小学校で、熊野神社から山口市役所前へと走って来た道の左側にあった小学校である。そして、山口中学校(現・県立山口高校)に進学している。中原中也も山口中学に進学しているから、独歩は中也の中学の先輩ということになる。 年齢差が36歳もあるから先輩・後輩と言っても余り関係はないか。それに二人とも中途退学している。独歩は、学制改革もあって、親の反対を押し切って、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、中也は、成績上位で入学するも、その後の学業成績が悪くて落第、外聞が悪いとして、親によって京都の立命館中学校に転校させられている。 36歳差ということは、干支が同じということである。 両者共に未(ひつじ)である。 ヤカモチが入社した頃、当時の仕事始めは、社長の年頭の挨拶で始まる立食パーティー形式の新年互例会だけで解散で、実質的な仕事はなしで退社というのが恒例。その互例会の準備、運営、後片付けは総務部が担当していた。本社総務部に配属されていたヤカモチはそういう仕事も行っていた。 互例会終了後は、本社各部に戻りそれぞれのやり方で新年を祝って、適宜に退社という形になるのだが、総務部は、それぞれの部署が皆引き上げるまでは居残っていることになる。 社長室でも、社長を囲んで、役員や部長などが入れ替わりつつの歓談となるのが恒例となっていたが、総務部は役員秘書業務も担当していたので、秘書担当の社員がそのお世話係として同席するほかに担当外の若手社員や女子社員も同席することが多くあった。 或る年の新年互例会の日のこと、社長室でのその新年の歓談にヤカモチも同席していたことがあって、干支の話になり、社長がヤカモチと同じ干支であることを知り、「同じ干支ですね。」と申し上げたところ、「おお、君もそうか。ふた回り違いということだね。」と社長。「そうなりますね。」とヤカモチ。そう言ったものの「??」。「いや、違いますよ、社長。三まわりです。」と訂正したところ、同席の別の役員が「社長、歳を12もサバを読んだらあきまへんで。」とか何とか突っ込みを入れて、「笑い」というような場面のあったことを思い出すが、ひょっとすると、社長はわざと「ふた回り」とジョークを言ったのかもと思ったりもしている。 それはさて置き、36歳の年齢差がどんな感じのものかを、若き日のヤカモチと当時の社長との比較に於いて体感しているヤカモチであります。(同上・副碑) 山に沿ってジグザグに下って行くスロープの道は、ジグとザグとのつなぎ目が必ず階段になっているという中途半端な構造。 これは、自転車で走り下ることを防止するための意図された設計なのか、斜度が急過ぎることから階段を取り入れざるを得ないという立地上の問題なのかは不明。 そんなことで、折角の下り坂にもかかわらず、走り下ることはできず、トレンクルを押したり、手に提げたりしての移動でありました。 後で地図で見ると、反対方向に行けば、自転車に乗ったままで博物館前に下れたようです。 下り切ったところは、博物館と県立美術館との中間くらいの亀山公園の森の中。 亀山公園を横断する広い道路はパークロード。 ケヤキが黄葉して美しい。(パークロード)(同上)(亀山公園) この近くに、独歩や中也が通った山口中学(現・県立山口高校)の跡地がある筈なのだが、その痕跡を見つけることができませんでした。まあ、パークロードに沿って走っただけで、余り熱心に探した訳でもないので、仕方ないか。 ということで、今回の銀輪散歩の予定には入れていなかった瑠璃光寺に向かうこととする。 瑠璃光寺への坂道を上って行くと、瑠璃光寺の手前にあったのが洞春寺の山門。(洞春寺山門)<参考>洞春寺・山口県観光サイト 洞春寺・周防山口館【大内庭園】 洞春寺は、毛利元就の菩提寺。 元々は、大内盛見の菩提寺・国清寺があった場所。 瑠璃光寺からの帰りに立ち寄ってみようと、山門だけを撮ってやり過ごしたが、帰途はそのことを忘れて立ち寄らぬままに帰ってしまったので、洞春寺については、上記<参考>のサイトをご覧ください。(同上・説明碑) 瑠璃光寺到着。 瑠璃光寺五重塔は、予ねてその名は知っていたが初めての訪問。 一帯は香山公園となっていて、瑠璃光寺境内と公園との境目がよく分からない・・と言うか、境内そのものが公園と呼ばれているのでもあるか。(瑠璃光寺・五重塔)<参考>瑠璃光寺・Wikipedia 瑠璃光寺は、大内氏25代当主・大内義弘がこの地に建立した香積寺が始まり。五重塔は、義弘を弔うため、弟の26代当主・大内盛見が建設を始めたものとのこと。 大内氏が毛利元就によって滅亡した後も香積寺は毛利氏の庇護のもと存続するが、関ヶ原の戦で毛利輝元が西軍総大将となったことから、毛利の版図は周防・長門の2ヶ国に減封となり、輝元は萩城に移る。この時、香積寺も萩に移転する。元禄3年(1690年)になって、その跡地に移転して来たのが山口市仁保高野にあった瑠璃光寺(元々は、陶弘房を弔うために夫人が建立した安養寺で、のちに瑠璃光寺と改称)で、これが現在の瑠璃光寺だとのこと。(同上) 塔の上にひとひらの白雲。と来れば・・。ゆく秋の 長門の国の 瑠璃光寺の 塔の上なる 一片の雲 (偐信綱)(本歌)ゆく秋の 大和の国の 薬師寺の 塔の上なる 一ひらの雲 (佐々木信綱) 寺の本堂に向かおうとすると、中門前に人の群れ。 黒い霊柩車らしき車が参道に停車している。(同上・告別式?)(同上) 大勢のお坊様が立ち並び始めました。 お葬式の感じでもない雰囲気。(同上)<参考>晋山結制法要解説 見ると、「保寧山瑠璃光寺四十八世晋山結制式」と書かれている。 黒い車が霊柩車かと、早とちりしてお葬式を連想してしまったが、そうではなかった。 晋山結制式というのは、その寺の住職の就任式のようです。 お坊さんが立ち並んで居られるのは、晋山結制式が無事に終了し、その最終段階のプログラムである記念写真を撮るためのもののようです。 まあ、何にしても、まさにお取込み中。寺院の拝観はできそうもないので公園内をブラブラ。(同上・大内弘世公像)<参考>大内弘世・Wikipedia 寺の前にあったのは大内氏24代当主・大内弘世の騎馬像。 弘世は前述の義弘、盛見らの父親である。 台座の説明碑によると、山口を、京都に倣った都市計画に基づく市街整備を行い、後の大内文化に繋がる基礎を築いたとして、此処に像が建立されたのであろう。 しかし、近年の発掘調査では、弘世の時期は、山口市の現在の市街地からは南東に外れた大内御堀地区に本拠地を置いたままであったようで、山口市の都市化を示す遺物で弘世期まで遡るものは見つかっていないとのこと。 尤も、前頁で触れた白狐伝説が現れたのは弘世公の時代のこととされているらしい。(同上・説明板) 公園のベンチで一休み。 正面に五重塔が見える。(香山公園) 左に視線を移動させると、背後の山、香山の山頂、稜線が見える。 万葉集では、香具山を香山と表記するものもあったように記憶するが、ここの香山は「こうざん」と読むようです。 であれば、枕草子の「香炉峰の雪やいかに・・」なども思い出されるのであるが、雪も簾もなき公園のベンチ。遺愛寺ならぬ瑠璃光寺の鐘も鳴る気配がないから、千切れ雲のひとつ、ふたつ流れゆくも見む、であります。(香山) 振り返るとこんな建物がありました。(枕流亭) 説明碑を読むと、薩長連合の密議がこの建物の2階で重ねられたのだということらしい。 この場所にあったのではなく、山口市内道場門前の一の坂川の流れにのぞむ河畔にあったのが何度か移築され、昭和35年(1960年)に此処に移築されたもの。(同上・説明碑) 漱石枕流の枕流であるが、夏目漱石は漱石を採用し、薩長連合は枕流を採用したのであるか。 尤も、枕流亭は、山口の旧家、安部家の離れであったそうだから、安部家の当主の命名であるのかも。間違いを指摘されてもそれを認めず屁理屈こねてでも言い返すというのは、政治家には不可欠の資質のようだから、薩長連合の密議には相応しい名前かも。そう言えば、安部と安倍で一字異なるが、安倍ナントカという元首相もその資質は十分にありましたね。(同上・1階内部) 内部には自由に入れるよう。 1階の部屋には、薩摩の大久保利通や長州の木戸孝允など、密議を重ねたという面々の写真が並べられている。(同上・2階内部) 2階に上がってみると、二間続きの部屋。 部屋からは、正面に五重塔が見える。 五重塔を眺めながら話を進めていたのか、と一瞬思ったが、この建物は当時はここに建っていたのではないことに気付き苦笑。(同上・2階からは正面に五重塔) 五重塔のある入口近くの、ボランティアガイドの皆さんの待機所テントの近くにトレンクルを駐輪させていただいていたので、其処に戻って、銀輪散歩再開であります。 トレンクルで下り坂道を快走。その所為もあったか、洞春寺を通り過ぎてしまう。 国道9号に出て右折、南西に進むと山口県庁の前に出た。(山口県庁) クラシックな建物が目に入ったので、門の中まで少し入って外観だけ撮影です。説明碑をよく見ると一般に公開されているようだったが、その時はそれに気付かず、中也銀輪散歩という自縛もあったか、内部見学ということまで考えが及ばずでありました。(同上・旧県庁舎と県会議事堂説明碑) こちらは、旧県庁舎。(同上・旧県庁舎) こちらは、旧県会議事堂。(同上・旧県会議事堂) 県庁舎から南西に更に進むと旧山口藩庁の門。(山口藩庁門)(同上・説明碑) 道なりに進むと、山口歴史民俗資料館の建物の前に出る。 これが46年前に訪れた、中也展が開催されていた建物かとしばらく眺めてみたが・・。 道路からエントランスまでの距離がかなりあり、立派な建物である。道路脇スグのところに建物があって、建物ももっとチャチな感じであったように記憶するので、やはり、ここではないなというのが、その時の結論でした。帰宅して、その時の展示目録を見つけたことで、歴史資料館での開催であったことに間違いないことが判明したので、今は記憶の方を修正にかかっているのであるが、漱石枕流よろしく、歴史民俗資料館の建物は建て替えられたのではないのか、と自身の記憶が間違いではないことの理屈を考えてもいるので、往生際が悪いのであります。 県庁西門口交差点を南に下ると、ザビエル記念聖堂進入口の前の道路である。 そこで、山口大学教育学部付属中学校という標識が目に入ったので、その方向に道を入ってみる。実は「中学校」を「小学校」と見間違っていたのである。(山口大学教育学部付属中学校) 先に述べたように、中也は下野令小学校から山口師範付属小学校に転校している。それは現在の山口大学教育学部付属小学校のことである。 山口師範付属小学校の跡地ということを示すものを撮影できなかったので、その後身である小学校の写真でも撮って置くかと思っての寄り道であったのだが、門の前に立って、中学校であることに気付き、またも苦笑である。山口大学教育学部付属小学校は既に通り過ぎていて、坂の上である。 ということで、引き返すことはせず、でありましたので、ウィキペディアの写真を転載させていただきます。(山口大学教育学部付属小学校 ウイキペディアより転載) 山口市役所前から、国木田独歩が通っていたという小学校の後身である白石小学校の横を通り、錦川通りへ繋がる、往路の道(「権現通り」というらしい。)を帰ることとする。 中原中也の詩碑と山頭火の句碑が並んでいる地点の少し手前、防長苑という旅館のある角で、広い通り(「ふれあい北通り」というらしい。)を左折、南東に進むと湯田温泉1丁目交差点。交差点を渡り(交差点を渡った先からは「ふれあい南通り」と名が変わる。)、150mほど行くと右側に湯田幼稚園がある。此処が下野令小学校跡地だとのこと。中也が山口師範付属小学校に転校するまで通っていた小学校である。 その後身である現在の湯田小学校は、この道を「ふれあい北通り」の方へ500mほど戻ったところにある。(湯田幼稚園 旧下野令小学校跡地) 下野令小学校のあったこの場所は、中也の生家である中也記念館の場所からは、5~600mくらいであるから、子どもの足でも徒歩7~8分の距離である。 本日の中也銀輪散歩はここまで。 続きは明日です。(つづく)<参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。
2022.11.17
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(承前) 前頁の続きです。 今日(11月3日)は、中原中也のお墓参りから始めます。 中也のお墓と言っても、彼個人の墓ではなく、中原家累代の墓であるのだが、それは中也生家跡である中原中也記念館からの道順で言うと、記念館北側道路である県道204号(湯の町街道)を西へ走り、下湯田交差点で右折、北へ進み、次の交差点で左折、湯田自動車学校を左に見て道なりに進むと国道9号の吉敷交差点に出る。 国道9号を渡って、左斜めに進むと、道は国道435号になる。(国道9号・吉敷交差点) 上の写真の国道9号を渡り、黒壁の「かつや」とある建物とその右側の白い3階建て建物との間の道を左に進むと国道435号。 国道435号を吉敷交差点から400mほど進んだ辺りに、道路左側に「中也の墓」と書かれた小さな標識が立っている。そこで左斜めに戻る形で細い道に入って行くと、右手に墓地が見える。(墓地入口付近) 入口右手に、ナンテンの木があり、隣にマユミの木ともう少し大きい木が植えられた場所があり、それを回り込むようにして、左奥に進むと中也の墓の前に出る。上の写真で言うと、写真の中央奥の位置である。奥、右寄りに見える建物の手前左側に三角形に墓石の頭部が見えているのが中也の墓である。 上の写真は、墓参を済ませた後、中也の墓の方角にカメラを向けて撮ったものである。 後ろからやって来られた男性が、通り過ぎる時に「中也の墓か?」と声を掛けてくださったが、それはヤカモチが中也の墓の位置が分からずに何処にあるのかと窺っている風に見えたからのようで、墓の場所を教えて上げようという感じの話し方であった。「ああ、今、お参りして来たところです。」とヤカモチ。 さて、そのお墓はこれです。(中原家累代之墓) 墓の脇にたてられている「中原家墓所」の説明碑のアップです。(同上・説明碑)<参考>中原中也・Wikipedia 説明碑によると、墓石の「中原家累代之墓」と刻まれた文字は中也が山口中学2年の時の書だという。 この累代之墓の背後に、もう1基の墓石が建っていて、それには「中原政熊夫婦墓」の文字が刻まれている。(中原政熊夫婦墓) 中原政熊というのは、中也の母・フクの叔父にして養父であるから、中也からすれば、大叔父にして養祖父ということになる。 中原政熊・コマ夫妻には実子がなかった。中原医院を開業していた政熊は、兄の遺児であるフクを引き取って養女にしたのである。フクの実父は中原助之。助之は37歳で病没。その一人娘がフクであった。 中原フクの結婚相手は、軍医であった柏村謙助。従って、生まれた当初は、柏村中也であったのだが、その後、中也8歳の時、1915年10月に謙助は中原政熊夫婦の養子となり、中原に改姓するので、中也も柏村中也から中原中也になったという次第。 中原中也記念館で貰った「中也と歩く湯田温泉マップ」の「中也のお墓」の項には「僕の眠る『中原家累代之墓』だよ。今でもたくさんの人が来てくれて、僕の好きなたばこやビールなんかをお供えしてくれてるんだ。」と書かれているが、ヤカモチは手ぶらでの墓参。手を合わせただけであったのは礼を欠く墓参であったのかも。(「中也と歩く湯田温泉マップ」)※写真をクリックすると大きいサイズの写真画面が別窓で開きます。 墓参を終えて、来た道を戻り、中也の詩碑と山頭火句碑が並んで建っているという錦川通りに向かうが、一つ手前の北側の通りを走っていたようで、広い通りに出て、そのことに気付く。 錦川通り戻って仕切り直し。中也の詩碑です。(中也詩碑) もう少し接近して撮影。(同上) 「童謡」 中原中也(1933.9.22.) しののめの、 よるのうみにて 汽笛鳴る。 心よ 起きよ、 目を覺ませ。 しののめの、 よるのうみにて 汽笛鳴る、 象の目玉の、 汽笛鳴る。(同上・副碑) 右隣にあるのが、山頭火句碑。(山頭火句碑) ちんぽこもおそそも湧いてあふれる湯 山頭火 上の中也の詩と違って、こちらの山頭火の句は小学校の教科書には載りそうもない句であります。 ヤカモチの友人の偐山頭火氏も11年前に湯田温泉を訪ねて居られて、この句碑の写真をブログに掲載されている。<参考>九州行乞の旅「旅立ち」 2011.5.20. 九州行乞の旅「防府から湯田温泉を行く」 2011.5.21. 九州偐行乞の旅 酒・温泉そして駄句 河内温泉大学図書館 同氏の旅は、山頭火の足跡を追っての九州への旅でありましたが、湯田温泉にもその足跡を訪ねて立ち寄られたもの。その折には、中也が結婚式を挙げた西村屋に宿泊されている。 その西村屋は数年前に倒産して、今は影も形もなくなって、立体駐車場とマンション風の細長い高層建物に変じてしまっているようだ。 それはさて置き、山頭火関連は上記<参考>の同氏ブログ等をご参照いただくこととし、当記事では句碑を紹介するのみとします。(同上・副碑) 錦川通りを北東へ。400m程で権現山の熊野神社である。 ここは、中也が学校をサボって登ったりしたのだそうな。 大人になってからも、里帰りをした折などは、息子を肩車したりして登ったこともあったという。(熊野神社) 急な石段。一気に上ると息が切れる。(同上・説明碑) 説明碑によると、この丘は、山頂に熊野権現を祀る熊野神社があることから権現山と呼ばれるようになったらしいが、標高は40mとのこと。 湯田温泉街が一望とのことだが、高さがそれほどでもないので、この程度の眺めである。(熊野神社からの眺め) 湯煙が温泉街らしい眺めであるが「一望」と言うにはいささか高度不足にて、「失望」である。(同上)(熊野神社・社標石と拝殿)(同上・拝殿) 拝殿前には、カラフルな提灯が列になって吊るされていて、風が吹くとリズミカルに揺れて面白い動きをする。「恰も魂あるものの如く、提灯が揺れる。」と中也なら言うのでもあるか。 すると、いのちあるものの如く青い葉がひらひらと舞い散って来た。 見るとそれはオオシロオビアオシャクという大型の蛾であった。命あるものでありました。まあ、木の葉だって命あるものではありますが。地面にとまって、じっと動かずにいるので、木の葉にとまらせて境内の片隅の草むらに移動させてあげました。 長門峡のヘビではないが、人に踏まれてもいけないので(笑)。 さて、ヘビでも蛾でもなく、この権現山は白狐伝説にまつわる地でもあるので、以下に紹介して置きます。〇白狐伝説 昔々、湯田の権現山の麓のお寺の境内に小さな池がありました。 その小池に、毎晩一匹の白狐が、 傷ついた左足をつけにきます。 この様子を見ていた和尚さんが、 不思議に思い、その池の水をすくってみると温かかったのです。 そこで池を深く掘ってみると、 熱い湯がこんこんと湧き出るとともに、 薬師如来の金像があらわれたのです。 この仏像は拝んで湯あみをすると 難病も治る「白狐の湯」として評判となり、 温泉は栄えるようになったそうです。(同上・本殿と拝殿) 本殿の裏にかけて小径があって、白狐の小径とある。(白狐公園と白狐の小径の標識) 白狐の小径を辿ると、隣の一段高い山、障子岳に通じているのかもしれない。その障子岳からなら、湯田温泉街が一望なのかもしれないが、展望所があるという保証もないので、小径はパス(passとpathの洒落のつもり)であります。その流れで白狐公園もパスしてしまったが、今思うと、白狐伝説の寺や池がその公園にあったのであれば、パスミスであったことになる。 元の道に戻って、道なりに進むと山口市役所の前に出た。(山口市役所前、奥の塔は山口カトリック教会・ザビエル記念聖堂のもの) 市役所の前は工事中であったが、この付近が山口師範付属小学校跡地の筈であるが、何処と確定できるものは見つけられませんでした。 中也は地元の下野令小学校(現・湯田小学校)に通うが、成績が優秀であったので、両親が山口師範付属小学校に転校させたようである。 1918年、中也が小学校5年生の頃のことである。ここでも中也は成績優秀で、ひょうきんなところもあって、クラスの人気者であったらしい。 さて、ザビエル記念聖堂に向かいます。1976年10月に、山口市歴史民俗資料館での中原中也展を見に出かけた際にザビエル記念聖堂に立ち寄っているのでそれ以来の訪問である。尤も、その時の聖堂は1991年に火災で焼失しているので、新しい聖堂は初訪問ということになる。 ザビエル記念聖堂は山口市消防本部の先を右に入り坂道を上り切った高い場所にある。記憶では坂道を上ったというのは欠落しているが、46年も昔のことであるから、当然か。(ザビエル記念聖堂)※山口ザビエル記念聖堂・Wikipedia 目の前に現れたのは、近代的と言うか、現代的と言うか、威圧するような巨大な聖堂。旧聖堂の姿ははっきりとは思い出せないのであるが、もっと優しくエレガントな、伝統的スタイルの、礼拝堂らしき姿であったような気がするので、少なからず失望と言うか、違和感を覚えました。(同上・説明板) 1階が展示館になっていて、2階が礼拝堂になっている。 展示館は有料になっている。 坂道を上って2階の礼拝堂に入ろうとしたら、出口と表示されていて、入り口は1階の展示館の方になっている。 坂道を下って1階から入場。 館内は撮影OKなので、パチリ、パチリと。(同上・展示1) ジョルジュ・ルオーの「キリストの顔」とヨーロッパ各地のミサ典書の展示であります。(同上・展示2) 十字架が隠されている燈籠など、キリスト教受難の時代の色々なものも展示されている。(同上・展示3) 受難時代のそれと言えば、踏絵ですな。(同上・展示4 踏絵)(同上・展示4 踏絵の説明) 紙踏絵というのもあったのですな。(同上・展示5 紙踏絵)(同上・展示5 紙踏絵の説明) キリシタン大名の大友宗麟の書状なども展示されている。(同上・展示6 大友宗麟の書状など) 左から、書状、所領預ヶ状、感状である。(同上・展示6 宗麟の書状)(同上・展示6 宗麟の所領預ヶ状)(同上・展示6 宗麟の感状)(同上・展示7 屏風絵) ザビエルの屛風絵です。描かれている絵の説明は下掲をご参照下さい。(同上・展示7 屏風絵説明)※上掲と下掲は、写真をクリックして大きいサイズの写真でお読み下さい。(同上・展示8 フランセスコ師の善行の評判)(同上・展示9 島原の乱の砲弾など) 島原の乱の砲弾、十字架が描かれたお椀、十字架が刻印された瓦。(同上・展示10 旧ザビエル記念聖堂の鐘) 1991年に焼失した旧ザビエル記念聖堂であるが、鐘は焼けずに残ったようです。 旧聖堂の内部の写真も展示されていて、46年前にヤカモチが見たのはこれであったかと撮影しましたが、ガラス張りの額に収められたその写真は、ヤカモチのカメラワークが悪かったようで、ガラス面の反射などもあって使えない写り具合にて没としました。 2階の礼拝堂へと行きましたが、この日は、オルガンコンサートが開催されるとあって、その準備中のよう。 コンサートが終わるまでは礼拝堂内部は撮影禁止とある。ということで撮影せずです。 ザビエル記念聖堂は亀山につながる高台の一画にあり、聖堂の前庭に出ると、正面に亀山山頂へと上る階段が見える。 聖堂の敷地からの出入り口は、上って来た坂道と亀山公園へと通じる目の前の階段との二つだけのよう。階段を上って亀山公園へと向かう。 しかし、今日はここまで。 続きはページを改めることとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。
2022.11.16
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(承前) 前頁記事が、鈴ヶ茶屋到着、そこでの昼食というところで終わりましたので、そこから始めます。 注文した料理が出て来るまでの間に、撮影したのが以下の写真(長門峡23・鈴ヶ茶屋からの阿武川の眺め) 長門峡を流れる川の名前を紹介していなかったようですが、阿武川という名の川です。この付近一帯は阿武郡という地域なので、川の名も阿武川である。(長門峡24・同上) カメラを少しひくと、こんな眺めです。川岸一杯に食事席の床が設置されている。 蜜柑を持っていたら、欄干にそれを乗せて「夕陽の如き蜜柑、欄干に置きたり。」とでも洒落てみたいところである。(長門峡25・同上) 対岸の紅葉がひと際美しい。(長門峡26・鈴ヶ茶屋の食事席) 食事を終えて、テーブル席に移動し、そこに置かれた灰皿を前にタバコを一服。そこから撮影すると、食事席はこんな雰囲気になっています。 茶屋の方のお話では、営業は11月一杯までで、12月になると冬の休業に入るとのこと。 標高もそこそこあるのか、山口県の北海道とも呼ばれると何かに書かれていたように記憶するが、冬は雪が多く、結構な積雪になるのかも。 自転車・トレンクルを置かせていただいてもよいか問うたところ、「どうぞ。」ということであったので、茶屋の建物脇に駐輪させていただくこととし、身軽になって出発である。(長門峡27・阿武川と鈴ヶ茶屋) 茶屋を出て振り返ると、こんな景色。もみじ橋、竜宮淵へと向かう。(長門峡28・高島洞門) 鈴ヶ茶屋を出て10分足らず、高島洞門に至る。 この先に、もう一つ北海洞門というのがある。 これら洞門の名は、長州阿武郡(現・萩市)出身の日本画家であり地質学者でもあった高島北海(1850~1931)に因んだ命名である。 そもそも長門峡という名は高島北海が命名したもので、長門峡が今日のように景勝地として発展する基礎を築いたのは彼だと言えるようだから、地元の人たちは、洞門にその名を残すことにしたのだろう。(長門峡29・同上) 岩をくり貫いた短いトンネルである。 洞門を抜けた辺りが佳景淵である。(長門峡30) キャーッという女性の声。 どうやら、道を横切ったヘビを踏んでしまったらしい。 踏まれたヘビの方が「キャーッ」だろうと思うが、女性がヘビを踏んだ場合には、この星では、踏んだ方が「キャーッ」と悲鳴をあげるものであるらしい。(長門峡31) 自転車を持ち込んでいる姿は人目につくようで、ヤカモチを追い抜いていった人が折り返して帰って来たのでもあるか、すれ違った人から「自転車は?」と声を掛けられた。「茶屋に置いて来ました。」とヤカモチ。 まあ、そんな色々なことありつつの渓谷散歩であります。(長門峡32) もみじ橋が見えて来た。(長門峡33・もみじ橋) この付近で右側から川が流れ込んでいて、もみじ橋を渡った対岸の道は、その川に沿って上流にある生雲ダムまで通じる遊歩道になっているのだが、落石の危険性が高いとして通行止めになっていた。(長門峡34・同上) こちらの遊歩道からは、もみじ橋へは梯子階段で上らなければならない。 生雲ダムへと行く訳ではないので、スルーしてもよいのだが、折角なので橋に上って対岸まで渡ってみた。 足に力を入れて身体を揺すってみると、橋が少しばかり揺れる。(長門峡35・もみじ橋の上から上流側を望む) 橋の上から、やって来た上流側とこれから向かうことになる下流側の景色を写真に撮る。(長門峡36・もみじ橋の上から下流側を望む) 眼下を覗くと・・。 水は、流れ流れてありにけり、でありました。(長門峡37・もみじ橋の上から眼下を見る) もみじ橋を過ぎるとすぐに北海洞門である。(長門峡38・北海洞門) 北海洞門を出て振り返ると、もみじ橋と洞門が一つのショットに。 これはこれで一つの景観である。(長門峡39・もみじ橋と北海洞門)(長門峡40) 白糸の滝と名付けられた小さな滝もあった。 折り返し点の竜宮淵も間近です。(長門峡41・白糸の滝)(長門峡42) 坂を上り切ると竜宮淵である。(長門峡43・竜宮淵) はい、竜宮淵です。 水中に竜宮があるとして、竜宮淵と名付けられたらしいが、静かな水面に山影、紅葉、空を映し、得も言われぬ景色である。 竜宮淵という名もいかにもという気がする。 水中を泳ぐ魚の姿も見える。(長門峡44・竜宮淵と竜宮茶屋) 竜宮淵を臨む位置にあるのが、竜宮茶屋。(長門峡45・竜宮淵) 前方に竜宮淵駐車場らしきものが見えたが、そこまでは行かず、ここで引き返すことにした。ここは、もう萩市である。 この日の翌日である11月3日には、「長門峡もみじまつり」として、竜宮淵駐車場を会場に、物産の販売、鮎のつかみどり、じゃんけん大会、もちまきなどの催しが行われたようだが、これは後になって知ったこと。まあ、何にしても一日早い訪問ですから関係のないことであります。 もみじまつりが始まる前日ということからして、本格的な紅葉には少し早い訪問であったと言えるのかもしれないが、まずまず満足の長門峡であったのは間違いない。竜宮まで垣間見たのだから。(長門峡46・佳景淵) 往路では気がつかなかった佳景淵という名標に気が付く。 そして、高島洞門という名標。 名標の向きが、萩市側からやって来る人には見やすい向きになっているが、山口市側、長門峡駅側からやって来る人には見落としやすい向きになっているのは何故か。(長門峡47・高島洞門まで帰って来ました) 昼食をとった鈴ヶ茶屋まで帰って来て、珈琲休憩。 ホットコーヒーで一息入れて、煙草を喫っていると、往路でしばらくの間相前後して歩いていた若い女性3人組が、座敷席で遅い昼食かオヤツ休憩を取っているのが目に入った。 自転車・トレンクルを受け取り、再びこれを押しながら、長門峡駅側入り口の方へと帰る。 トレンクルを押しながらでは歩速がイマイチなのか、後ろからやって来たその若い女性3人組に追いつかれてしまう。「お先にどうぞ。」と道を譲って先に行っていただく。 細く狭すぎる道は、トレンクルを肩に担いで歩く方が速いので、ところどころで、そんな風にして歩く。道幅の広いところではトレンクルに乗ったりもする。 千瀑洞口付近であったか、河原に居た女性がこちらに向かって手を振っている。先ほどの3人組の女性たちである。こちらも手を振って挨拶を返す。 やがてトレンクルに乗っても走れる程度の道幅になったので、銀輪家持になって、一気に走る。 道の駅に帰って来たのは午後3時10分前後。道の駅を出発したのが11時ちょっと前であったから、4時間10分余の長門峡散歩であったことになる。 予定よりも早い帰還となったので、道の駅周辺を銀輪徘徊してみることにした。(ゆめの宝船) 道の駅西端の一画にあったのが「ゆめの宝船」というチェーンソーアート作品。作者は林隆雄という人。(同上・説明板) 道のあるまま、気の向くままに走ってみたが、これというものには出会わず。道の駅へと引き返す。(道の駅長門峡近辺)(同上)(同上・もみじ茶屋) 道の駅で、お土産を買ったり、ソフトクリームを食べたり、珈琲を飲んだり、喫煙所でタバコを喫ったりして時間潰し。 と言うのも、JR山口線で長門峡から湯田温泉へと帰る列車は、12時台発の1本の後、17時36分発まで無いのである。(道の駅長門峡の喫煙所からの眺め) 道の駅での時間潰しも限界とて、長門峡駅へと移動。16時50分過ぎに駅に到着。トレンクルを折りたたみ、輪行バッグに収納して、誰とても人影のない無人の長門峡駅のホームやその周辺をブラブラして約40分。 駅舎には、通勤用か通学用か3台の自転車が駐輪されていた。 駅前の案内板にはシャクガの仲間でもあるか、大きな蛾が2匹、交尾したまま固まっていた。(長門峡駅ホーム・ちゃう毛んきゃう) 右から左へと書かれた昔風の駅名表示板。ちゃうもんきゃう、という旧仮名遣いの表示や「も」の字が「毛」の字であったりするのを面白がったりするも、さすがに40分待ちというのは、いささか持て余すのでありました。 暗くなりかかった頃にようやく列車がやって来て、乗車。 車内は予想に反して混みました。乗車した時は座れる席があったが、途中からは、結構な人が立っていました。 12時台発の1本の後、5時間も便がないのだから当然か。 以上で、長門峡散歩は終了。明日は、中也のお墓参りなど、山口市内を銀輪散歩する予定です。(つづく)<参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。
2022.11.14
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(承前) 旅の2日目。今日は長門峡に出かけます。 ホテルを愛車トレンクルで出発。 と言っても長門峡へと走る訳ではなく、湯田温泉駅まで。長門峡駅までは鉄道旅であります。 駅前でトレンクルを輪行バッグに収納してホームへ。(湯田温泉駅ホーム) 写真奥が新山口方面。 駅に到着すると列車待ちの人影が10名余。 9時36分発山口行き、山口駅で益田行きに乗り換えということで、湯田温泉駅にやって来たのだが、早く着き過ぎたようで、列車待ちの皆さんは9時23分発で新山口方面に向かわれるようです。程なく列車がやって来て走り去った後は、ヤカモチのみが残りました。 9時36分山口行きに乗り込み、山口駅で跨線橋通路を通り向かいのホームから発車の益田行きに乗り換え。10時25分長門峡駅到着。(長門峡駅ホーム) ホームのベンチ横に設置された、熊さんが頭に乗っかっている木彫りの柱には、「ちょうもんきょう」と「あとう」の文字。 ここは旧阿東町(山口県阿武郡阿東町)であるが、現在は山口市になっている。(同上・駅舎) 駅前の看板には、「篠生地域づくり協議会」という字が見えるから、この付近は旧篠生村であった地。 調べてみると以下の通りの推移。 篠生村、生雲村、地福村、徳佐村、嘉年村が合併、阿東町に(1955年4月1日) 阿東町が山口市に編入(2010年1月16日) 無人駅である。下車した他の乗客は二人。 トレンクルを組み立て出発。 駅正面の坂道を下ると、国道9号線に出る。 これを左に進み、最初の信号で道路を渡ると道の駅「長門峡」。(道の駅・長門峡) ここの観光案内所で、長門峡の遊歩道は自転車乗り入れ、持ち込み禁止かどうかを尋ねると、「禁止ではありませんが、狭い山道で自転車で行くことは無理です。」との答え。また、昼食について尋ねると、途中に茶屋があって食事ができるとの説明。 行けるところまで自転車で行き、行けなくなったら押して歩いたり、肩に担いでということも可能な、軽量小型のトレンクルなので、自転車で出発であります。(長門峡遊歩道マップ) 道の駅駐車場北東隅に遊歩道マップの案内板。 終点の竜宮淵まで5.1km、片道所要時間100分というのを確認して出発であります。(長門峡碑) 遊歩道マップの案内看板の先に長門峡碑。その背後の小山にも、長・門・峡の三文字が刻まれた石碑。 道の駅は長門峡の入り口と言ってよい位置にある。 長門峡を歩く人の多くは、道の駅まで車でやって来て、ここに車を停めて歩くのであろう。(「長・門・峡」碑) 長門峡碑を左に見て、北へと進むと篠目川。洗心橋がある。(洗心橋) 中也の詩「冬の長門峡」に触れて以来、一度は行ってみたいと思っていたが、思うばかりでこれを果たさずに来てしまったヤカモチ。 「冬の長門峡」ではなく「秋の長門峡」であるのはいささか不満ではあるが、とにもかくにも長門峡にやって来たのでありました。(洗心橋から篠目川上流<西>方向を望む。) 中也の「冬の長門峡」には「やがても蜜柑の如き夕陽、欄干にこぼれたり」という一節があるが、長門峡で夕日の沈む西方向に橋の欄干が見えるところと言えば、この洗心橋のほかにはあるまい。 洗心橋を渡ると右側が遊歩道入口である。(長門峡遊歩道入口) 写真の奥が遊歩道入口であり、その手前右手に中也の詩碑がある。(中也詩碑「冬の長門峡」)(同上) 冬の長門峡 中原中也 (「在りし日の歌」所収) 長門峡に、水は流れてありにけり。 寒い寒い日なりき。 われは料亭にありぬ。 酒酌みてありぬ。 われのほか別に、 客とてもなかりけり。 水は、恰も魂あるものの如く、 流れ流れてありにけり。 やがても蜜柑の如き夕陽、 欄干にこぼれたり。 あゝ!――そのやうな時もありき。 寒い寒い 日なりき(長門峡1・丁字川出合淵) 名前から推察するに、左から流れて来る川と右から流れて来る篠目川とがここで合流して淵となっているのだろう。 この付近はまだトレンクルで走れる。(長門峡2・マイトレンクル) 沢山の写真を撮ったが、それが名の付いた場所なのかそうでないのかなどは不明にて、間違っていてはいけないので、撮影時系列に番号で表示することとし、明らかに何処とヤカモチにわかる写真のみ、その名称を記載することとします。(長門峡3) 紅葉は十分に見頃であるが、この日は11月2日。3日から紅葉祭が始まり、シャトルバスも運行するとのこと。なんにせよ少し時期を逸するというか外すというか、それがヤカモチ式であり、今回もその式でありました。(長門峡4) 現地に来るまでは、長門峡駅側の入り口が川の下流で、奥の萩市の竜宮淵が上流だと思い込んでいたが、来てみると逆で、入り口側から竜宮淵へと川は流れ下っているのでありました。 遊歩道は川の左岸に沿っているので往路は右に川を見ることになる。 従って、往路の写真で川が左に写っている場合は、進行方向を向いての撮影でなく、やって来た方向を振り向いての撮影ということになります。上の「長門峡4」はまさにその振り向いて撮った写真であります。(長門峡5・ベンチ) この付近は道幅もそこそこあり、ベンチなども設置されているが、やがて人ひとりがやっと通れるくらいの狭い岩場の道となり、トレンクルとは言え、押して歩くのも邪魔という感じになります。 反対方向から人が来られるとすれ違うのに自転車は邪魔。ご迷惑をお掛けすることになる。 まあ、それは先のこと、しばらくは乗って走ったり、押して歩いたりしながら進む。(長門峡6) 水は透明に澄んで・・・。 長門峡に、水は澄みに澄みてありにけり、であります。(長門峡7) 淵となっている場所は水鏡となって、対岸の紅葉や緑や空の青を映して、見れども飽かず、の眺めであります。(長門峡8) 見上げると凝灰岩の崖に紅葉が彩りを添えています。(長門峡9・もみぢ葉) もみぢ葉の 色に瀬音の 寄り添ひて 秋風白く われにささやく (偐家持)(長門峡10・千瀑洞口) 途中、東屋のあるところが、千瀑洞口という名所にて対岸に絶壁がそそり立っている。河原に下りる階段があったので、河原に下りてみた。道草しつつの、ノロノロウオークであります。(長門峡11・同上) 山であれ、川であれ、人は小石を手にするとこのように積み上げるものであるらしい。 「積み上げる」というのはラテン語では、cumulo又はcumulareのようだから、ホモ・サピエンスはホモ・クムラーレでもあるのだろう。(長門峡12・同上) 渓谷を歩いていると視線はつい下方に向きがちになるが、時々は見上げなければならない。見上げた絶壁の景色も素晴らしい。(長門峡13) 多くは、山陰、木陰の道であるが、日差しの道になると、未だ暑い。 汗を拭いながら行く。(長門峡14) 若い二人連れがヤカモチを追い抜いて行きました。(長門峡15) 下流へと向かっているのだが、道はアップダウンが交互にあって、下っているのか上っているのかは定かではない。(長門峡16) いよいよ、自転車が邪魔な細い道となって来ました。(長門峡17) 水が澄んでいるので、水中を泳ぐ魚の姿もよく見える。(長門峡18) 自転車を持ち込んでいる変わり者はヤカモチのみ、途中で出会った男性に、お愛想で「自転車で迷い込んでしまって、どうしようかと思っています。」と申し上げたら「竜宮淵の先の駐車場から国道に出られますよ。」などと教えてもいただいたが、その先の地理が不案内、地図も用意していないから、自転車で山口市街まで戻るのは無理。「そうですか。ありがとうございます。」と申し上げたものの(笑)。(長門峡19) 水面に映る景色が美しい。(長門峡20・川瀬淵) 水面に映す影清み・・で、川瀬淵も美しい眺め。 川瀬淵という名が分かるのはたまたま下のような写真を撮っていたからであります。(長門峡21・川瀬淵の名標) 竜宮淵へ2300mと表記されているから、もう半分以上は過ぎていることになる。間もなく鈴ヶ茶屋到着である。(長門峡22・鈴ヶ茶屋) はい、鈴ヶ茶屋到着です。 既に正午を過ぎていたので、ここで昼食とします。 昼食は「鮎の塩焼き定食」としました。 食レポはしないのがヤカモチ流なので、ここで一息入れることとし、後半はページをあらためて続けることとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・中国、四国篇はコチラ。
2022.11.12
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当ブログ開設の日である2007年4月29日が中原中也生誕100年の日に当たっているということは、これまでにも何度か述べていますが、その中也の故郷である湯田温泉と彼の詩にも登場する長門峡を、11月1日から4日にかけて、訪ねて来ました。 中原中也は1907年に湯田温泉で生まれている。中也の生家・中原医院の跡地は、中原中也記念館が建設され、中也関連の常設展示施設となっている。今回はその記念館を訪ねるのが第一の目的。 新幹線で新山口駅経由、山口線で湯田温泉駅へ。(湯田温泉駅) 湯田温泉は父と二人でこちら方面を旅行した折に宿泊しことがあるが、それは50年も昔のことである。 湯田温泉駅から「おいでませ駅通り」を歩いて温泉街の方へ。(湯田温泉地図) 突き当たって右に少し入ったところにあるポケットパークに掲示されていたのが上の地図案内板。 そこから公園通りを北へ。井上公園に立ち寄って行く。 ここに中也の「故郷」の詩碑がある。(井上公園案内図) その名の通り、この公園は井上馨の生家、井上家の屋敷跡である。 中也の詩碑が目当ての立ち寄りであるが、色々とあるようなので、見て行くことにしましょう。(何遠亭跡の碑)(何遠亭)(何遠亭説明碑) いわゆる「七卿落ち」で京都を追われた三条実美らは長州に身を寄せるが、三条実美を迎えるため、井上家の屋敷に増築した建物が何遠亭である。 この建物は、山口県文書館所蔵の「七卿方山口御下リ之節御旅館差図」を参考に、およその間取りを再現したものだという。(侯爵井上家舊邸地の碑) 前庭には、三条実美の歌碑もある。(三条実美の歌碑)<参考>三条実美・Wikipedia君がため おもひ来にけり 旅ころも なれし二木の 蔭は忘れず(同上・副碑) 公園には、山頭火の句碑もある。(山頭火句碑)ほろほろ酔うて 木の葉ふる 句碑の文字は山頭火自筆のものだそうな。(同上・副碑) そして、中也の詩碑です。(中也の詩碑「帰郷」) 文字は小林秀雄のものだという。 右の「中原中也」の文字は、中也が小学五年生の時の自筆の字らしいが、小学五年生にしては達筆過ぎる美しい字である。(詩碑側面) 側面に刻された文章は大岡昇平によるもの。 詩碑に刻まれているのは「帰郷」の一節であるから、その全文は中原中也記念館で貰った「中也と歩く湯田温泉マップ」に掲載のものを下に掲載して置きます。ヤカモチも好きな詩にて、全文を暗唱できる詩の一つでもある。(中原中也「帰郷」)(井上馨像)<参考>井上馨・Wikipedia 井上馨像もある。没後100年記念像とあるから、2015年に建立されたものなんだろう。(同上) 公園北西の隅に高々とひときわ目立っているのが七卿遺蹟之碑。 この碑については、中原中也の父、中原謙助もその建立に尽力したらしいから、まあ中也と全く関係ないということでもない。(七卿遺蹟之碑)(同上) 碑文によると、碑の建立は大正14年(1925年)1月のようだから、中也が17歳の時に建立されたことになる。中也は4月29日生まれだから、満18歳になる3ヶ月前の頃である。 この頃の中也はと言うと、京都で長谷川泰子と同棲していた時期になるかと思う。(同上・副碑)(井上公園全景) 井上公園から中原中也記念館へと通じる道は、中也通りと名付けられている。(中也通り) 中也通りを行く。 奥の突き当り左側が中原中也記念館である。 中也通りの一つ北側を東西に走る道が県道204号(湯の町街道)であるが、その道と中原中也記念館の前の南北に走る道・湯の町通りとが交差する角に掲示されているのが、この案内看板。(中原中也記念館の案内看板) 記念館専用駐車場は、県道204号(湯の町街道)に面しているから、記念館を訪ねる人はコチラからやって来るのが普通なんだろう。 中也通りとは名ばかりにて、中也を偲ばせるものは何とてもない普通の道でありました。 はい、記念館に到着であります。(中原中也記念館) 中原中也記念館は1994年2月18日開館であり、初めての訪問である。 もう昔のことで、いつのことであったかはっきりとはしないのであるが、多分32~35年位前のこと、会社の山口研修所で社員研修の講師を依頼され、出張したことがある。 講義を終えたらすぐに本社へと帰るべきであるが、出張直前に、中原中也の展示施設が出来て開館したというようなことを新聞記事か何かで知り、これは丁度良い機会と、出張にかこつけて訪ねてみようという魂胆で出かけて来たので、何か適当な口実を設けて、帰社が遅くなるので自宅に直帰するというような電話を入れて、小郡(当時は「新山口」ではなく「小郡」という駅名であった)から山口駅に向かい、中也の展示施設を訪ねたことがある。 中原中也記念館というのは、その施設のことだろうと思っていたので、再訪になるかと、ネットで調べてみて、1994年2月開館と知り、またその場所が記憶と合致しないこともあって、疑問を持ちました。 その昔の訪問時は旧ザビエル記念聖堂に立ち寄ってから展示施設へと向かったと記憶するところ、旧ザビエル記念聖堂は1991年に火災で焼失している。従って、それは1990年以前のことであり、現在の中原中也記念館ではないということが判明。 記念館の人にそのことを話すと、それは山口歴史民俗資料館ではないか、という話で、一応、納得したのであるが、その資料館の建物の姿や建物と前面道路との関係がヤカモチの記憶と合致しないこと、中也の関係資料のみを展示する常設の施設であったという記憶とも合致しないので、疑問が残ったままになっている。※末尾の<追記・注>参照(同上・中原中也誕生之地碑) 記念館の前には、カイヅカイブキだろうと思うが、その木が高々とあって、根元に「中原中也誕生之地」と刻された石碑が建てられている。 その奥は車が数台駐車できる駐車場となっていて、金属製のテーブルと椅子が2~3組設置され、見学者が休憩できるスペースにもなっている。 記念館入口は右側奥にある。(同上・入館入口) アプローチの右側コンクリート柱の柱間には、中也の詩のパネルが展示されている。 館内は撮影禁止なので、写真での紹介はできません。 この日は、「中也の本棚・日本文学篇」というテーマで、中也が愛読した本や影響を受けた同時代の文学に焦点を当てた展示となっていました。 パンフレットによると、2023年2月12日まで、この展示のようです。(第19回テーマ展示「中也の本棚」パンフレット)(同上)(同上・中原中也記念館2022年度年間カレンダーより) 館内写真がなく愛想のないことですが、中也最後の詩である「四行詩」を掲載して、ひとまず筆を置きます。(中原中也最後の詩「四行詩」) おまへはもう静かな部屋に帰るがよい。 ヤカモチも、いささか疲れました。 おまへはもう筆を置いて少し休むがよい。 中也の低い声もする。 というようなことで、続きはまた後日に(笑)。(つづく)<追記・注> 上記の疑問点が、書斎の本棚から中原中也全集第1巻を取り出して開いてみたところ一気に解決しました。その本に、昔訪ねた中也展の展示目録が挟まれていたのでした。それによると、会期は昭和61年10月1日~11月30日、場所は、記念館のお方が仰っていた通り、山口市歴史民俗資料館でありました。時期も32~35年前ではなく、46年前のことでありました。参考までにその写真を掲載して置きます。(中原中也特別展目録)(同上2)(同上3)(同上4)
2022.11.11
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ゴリラの絵を見に行ったついでに立ち寄ったところが、兵庫大仏の他にもう二ヶ所あります。 一つは、JR神戸駅の北、200mほどの距離にある湊川神社。(JR神戸駅)(湊川神社・表神門)※湊川神社 ※湊川神社・Wikipedia 湊川神社に立ち寄るのは、2009年9月以来なので、13年ぶりということになる。<参考>神戸クルージング 2009.9.26. 前回は、大学の同窓会の幹事会に出席するついでの立ち寄りでありましたが、今回は絵画展のついで。大楠公・楠木正成公には失礼でありますが、いずれもついでの立ち寄りでありました。 表神門の右手にある楠木正成の墓に先ずご挨拶。(楠木正成墓所) 墓所は、延元元年(1336年)5月25日に、正成戦没地より百弓離れたる地、即ちこの地に営まれたもののようであるが、「嗚呼忠臣楠子之墓」という墓碑は、徳川光圀は光圀の揮毫によるもので、元禄5年(1692年)になって建立されたもの。(嗚呼忠臣楠子之墓の墓碑) 墓碑裏面の賛は、朱舜水執筆による文章であるが、その読み方なるものが、墓所入口の受付所棟に掲示されていましたので、参考までにその写真を掲載して置きます。(大楠公墓碑賛 読み方)※写真をクリックして大きいサイズの写真でお読みください。 墓の奥には徳川光圀の像もある。(徳川光圀像) 墓所入口の受付で貰ったパンフレットには「この墓の建立によって、正成公の御盛徳が天下に広く知れ渡り、人々は皆こぞって墓所に参詣するようになり、西国の名所となったのです。」とあり、その功績を「追慕」して、昭和30年(1955年)7月に完成したとのこと。 傍らには、徳富蘇峰の文による頌徳碑が建っている。(徳川光圀頌徳碑)(楠木正成墓所パンフレット) 上のパンフレットの年表を見ると、1688年(元禄元年)には松尾芭蕉が、1863年(文久3年)には坂本龍馬が、参詣している旨の記載があり、その時に詠んだものかどうかは定かではないが、芭蕉の句と龍馬の歌が掲載されている。参考までに現代語訳を付して掲載して置きます。 なでし子に かかる涙や 楠の露 (芭蕉)<子を思って流す正成の涙のように、楠の葉の露が撫子に降りかかる。> 月と日の 昔をしのぶ 湊川 流れて清き 菊のした水 (龍馬)<歳月の流れと日月の紋章をあしらった錦の御旗が思いやられる湊川。その湊川の流れのように歳月が流れ、時は移っても変わらず清らかな菊水の紋の楠木の旗であることだ。> 湊川神社創建は、1872年(明治5年)であるから、両者が参詣した頃には、神社は未だなく、正成の墓があっただけということになる。また、芭蕉の参詣は、光圀による墓碑建立の4年前のことであるから、嗚呼忠臣楠子之墓という碑もなかったことになる。(湊川神社・境内案内図) 表神門に戻り、鳥居を潜って参道を進む。(同上・鳥居 正面が拝殿) 七五三詣の家族の姿が散見。(同上・拝殿) 拝殿の左奥が、楠木正成の戦没地とのことらしいが、その写真はないので、Wikipediaに掲載の写真を借用して置きます。(同上・楠木正成戦没地) もう一つは、神戸文学館。これは、立ち寄り先と言うよりも、絵画展を見た後、美術館の道路向かいにあったので、ちょっと休憩すべく、庭先のベンチをお借りしただけというもの。(神戸文学館)※神戸文学館・Wikipedia 神戸文学館は、神戸市にゆかりのある文学者に関しての資料展示をしている施設(2006年12月4日開設)であるが、建物は、当地に開校した関西学院のチャペルとして1904年に建設されたもので、関西学院発祥の地とされている。 前庭に設置された碑にはその辺の経緯が記載されている。(原田の森の記憶) 関西学院グリークラブ誕生の地という碑もある。(関西学院グリークラブ誕生の地)(神戸文学館 入口前) 以上です。<参考>兵庫県方面の銀輪万葉の過去記事はコチラ。 昨日(10日)午後9時から始まった「フォト蔵」の保守メンテナンス作業が何やら手間取っているようで、アクセスできません。 当ブログに掲載の写真は、フォト蔵に登録した写真の特大サイズ写真とリンクを貼り、ブログ掲載写真をクリックしていただくことによって、フォト蔵の大きいサイズの写真でも見れるようにしているのですが、上のような事情で、リンクを貼ることができません。 追って、フォト蔵の保守メンテナンス作業が終了して正常に復しましたらリンクを貼ることとし、取り合えずリンクなしで記事をアップすることとします。<追記:2022年10月12日>フォト蔵のメンテナンス作業が終了し、アクセスできるようになりましたので、各写真につきリンクを貼りました。(19時3分)
2022.10.11
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神戸方面に出かけるついでがあったので、昨年夏の銀輪散歩で、道を勘違いして見つけることができなかった兵庫大仏に立ち寄って来ました。<参考>敏馬から舞子へ(その3) 2021.8.9. JR神戸駅近くで、神戸在住の息子と久しぶりに昼食を共にし、二人で兵庫大仏へ。(兵庫大仏・能福寺) 兵庫大仏のある能福寺は、JR兵庫駅と地下鉄海岸線の中央市場前駅との中間くらいの位置にある(下図参照)。(兵庫大仏位置図) 昨夏は、地下鉄海岸線の通っている道をハーバーランドから自転車で走って来たのだが、今回は自転車ではなく地下鉄にひと駅乗って、中央市場前駅で下車、イオンモールの脇を通って、兵庫運河(新川)に架かる入江橋の上の「清盛くん」にご挨拶して西へ。 昨夏は、新川に沿って入江橋から500mほど南の橋を通る県道489号を西に進んで、大仏探しをしていたので、見つかる筈もなかったのでした。 今回は、前回の失敗の際に帰宅後地図で所在位置を再確認したこともあって、間違うこともなく、すぐに到着でした。(同上)(同上) なかなかのイケメン大仏である。(同上)(同上・説明碑)※能福寺・Wikipedia この大仏は2代目。 初代は、1891年(明治24年)5月、豪商・南条荘兵衛の寄進により建立され、日本三大大仏の一つに数えられたらしいが、太平洋戦争のさ中である1944年(昭和19年)5月に金属類回収令により解体、国に供出されてしまう。因みに、Wikipediaに掲載されている初代の写真はこれ。(初代・兵庫大仏) 現在の2代目は、1991年(平成3年)5月9日に再建されたもの。 能福寺は、延暦24年(805年)に最澄により能福護国密寺として創建されたものとのこと(寺伝)。平清盛所縁の寺として知られ、境内には清盛の供養塔(平相国廟)がある。 江戸時代の寺格は、京都青蓮院門跡の院家(門跡不在時の代理を務める格式の寺)であったとのこと。(能福寺本堂・月輪影殿) 本堂になっている月輪影殿は、京都東山の泉涌寺の歴代天皇の墓陵(月輪御陵)にあったものを1954年(昭和29年)に、宮内省と九条家により移築されたものとのこと。(月輪影殿・説明碑)(青蓮院門跡旧院家・説明碑) そして、平清盛の墓です。(平清盛墓所<平相国廟>)(同上)(同上・説明碑) 鐘楼を挟んで清盛墓所と反対側にあるのが、瀧善三郎正信顕彰碑。(瀧善三郎正信顕彰碑)※神戸事件・Wikipedia 神戸事件や瀧善三郎のことなどは、よくは知らなかったが、寺の外塀に設置されていた説明碑で勉強であります。(同上・説明碑) 備前藩兵の隊列を横切ったフランス人水兵を負傷させたことで、銃撃戦に発展した事件であるが、その隊の隊長であった瀧善三郎が責任を一身に負って切腹することで、明治新政府の外交上の危機を回避することが出来たという事件。その瀧善三郎正信の辞世の歌がこれだという。きのう見し 夢は今さら ひきかえて 神戸の浦に 名をやあげなむ見忘れし 兵庫大仏 けふ訪ね 神戸の浦に 君が名を知る (偐家持)
2022.10.08
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(承前) 真田庵こと善名称院の境内にまだ居ます。 境内に真田昌幸の墓がある。 元々が真田昌幸の屋敷跡であったのだから、昌幸の墓があっても不思議ではない。 <参考>真田昌幸・Wikipedia 上のWikipediaの記述によると、昌幸は慶長16年(1611年)6月4日にここ九度山で病死し、火葬されている。翌慶長17年(1612年)8月に分骨が上田に運ばれ、上田市の真田家廟所である真田山長谷寺に納骨されたという。また、長野市松代町松代の真田山長国寺に墓所があるという。長野市の松代なら、今年6月29日の長野銀輪散歩で松代大橋を渡っているから、比較的近くを走ったばかりということになる。そうと知っていれば足を延ばしたものを、と思ったりもしたのでありました。 しかし、元の墓所は此処であるのだろう。真田庵こと善名称院は昌幸の死から130年後の創建であるから、善名称院の境内に昌幸の墓があるというのは間違いで、昌幸の墓所の周りが善名称院という寺になったと言うのが正しいのだろう。(真田昌幸公墓)(真田昌幸墓地の説明碑) 墓の隣は、彼を祀る祠になっている。(真田地主大権現社)(同上・説明碑) 碑文は次の通り。 真田地主大権現 幸運の神地主権現として敬い奉る社であります。 是は真田家重大の宝物である比沙門天と真田家三代の御霊を合祀したものであります。昔から福徳を授け給う運の神として遠近を問はず多数の信者が訪れ何事によらず一心に祈願すると霊験あらたかであると伝えられております。 真田昌幸を「真田地主大権現」として祀っているのかと思ったが、「真田家三代の御霊を合祀」とあるから、祀られているのは昌幸だけではないのだ。三代というのは、昌幸、幸村、そして幸村の嫡男・幸昌(通称:大助)なんだろう。 隣には「真田家臣一族之墓」と刻された供養塔がある。(真田家臣一族之墓) 境内には蕪村の句碑が2基ありました。(蕪村句碑その1) かくれ住んで花に真田が謡かな (蕪村) 句碑の隣には真田幸村(信繁)とその嫡男大助(幸昌)の父子四百回忌碑がある。(蕪村句碑その2) 炬燵して語れ真田が冬の陣 (蕪村) ヤカモチの追和句。 汗ぬぐひ思へ真田が夏の陣(筆蕪蕉)(西門) 真田庵は、NHK大河ドラマ「真田丸」放映の頃は随分の人で賑わったようだが、この日は「我のほか客はたれとてもなかりき」でありました。 真田庵を出て、更に坂を上る。やがて下りに入り、丹生橋でもう一度丹生川を渡る。「←慈尊院」の看板に従い道を進む。 実は、丹生橋を渡らず道なりに先へ進めば、当初予定していた九度山橋であったのだが、この時はそのことに気づいていませんでした。 道の要所に慈尊院までの距離を示した表示板があるので、それに導かれての慈尊院参りであります。 やがて小さな水路に架かる朱塗りの橋に出る。慈尊院橋とあるから、橋を渡ると慈尊院なんだろう。(慈尊院山門<北門>)<参考>慈尊院・Wikipedia 山門前の道路脇に自転車を駐輪して境内へ。 山門を入ってすぐ右側にあるのが弘法大師堂。(同上・弘法大師堂 左奥は西門) 正面右寄りに多宝塔。(同上・多宝塔 正面奥は丹生官省符神社への石段)(同上・多宝塔説明碑) 左に入ると弥勒堂(本堂)と拝堂(同上・拝堂、本堂側から)(弥勒堂と乳房型の絵馬群) 拝堂と弥勒堂の間は接近していて狭い通路。 そこに乳房型の絵馬が沢山吊り下げられている。 弥勒堂を撮るアングルが見つからない。 慈尊院は高野山の表玄関・政所(寺務所)として創建された寺院。 母が亡くなったとき空海は弥勒仏の夢を見たので、その廟堂を建立し、自作の弥勒仏像と母の霊を祀ったのが、この弥勒堂である。弥勒仏のことを慈氏、慈尊とも呼ぶことから慈尊院と呼ばれるようになった。 空海の母は弥勒仏を熱心に信仰していたので彼女は死して本尊(弥勒仏)に化身したという信仰が広まり、女人の高野参りは慈尊院ということになり、女人高野ということになったらしいが、乳房型絵馬はいかにも女人高野のそれである。(同上・乳房型絵馬) そこそこの参拝者があり、弥勒堂と拝堂の間の狭い通路は参拝者で混み合い、歩きにくい。これを通り抜けると、広い空間に出た。(同上・ユネスコ世界遺産慈尊院の碑<平山郁夫書>) 中央に噴水があって、奥片隅に弘法大師の像。(同上・噴水)(同上・弘法大師像)(同上・拝堂) 拝堂の正面に回って、丹生官省符神社へ。 拝堂の前に人影はなし。 本来はここから参拝するのが礼儀だと思うが、本堂(弥勒堂)と拝堂の後ろとの通路が参拝の場所になっているのでは、こちらに回って来る人はいないのかも。(丹生官省符神社・参道石段) 何段あったか数えなかったが、この石段、結構疲れました。 徒歩で高野山に参るなら、ここが登山口ということになる。(同上・鳥居)(同上・拝殿) こちらは、他に人影もなし、である。 拝殿左側には、空海を高野山へと案内した、白犬、黒犬を描いた絵馬が設置されている。 ヤカモチは女人ではないが、高野詣は此処、女人高野までとして置きます。(同上・拝殿内と本殿 拝殿扉越しに撮影)(同上・説明板)<参考>丹生官省符神社・Wikipedia 慈尊院に戻り、山門前道路にとめて置いた自転車に乗る。 山門を背に道路を直進すると川に出た。 紀ノ川なんだろうが、紀ノ川のどの辺りに居るのかが分からない。 上流に向かうと、道の駅があったので、そこで少し遅めの昼食。(道の駅・柿の郷くどやま) 昼食を済ませて銀輪散歩再開である。 少し走ると、先ほど渡った丹生橋に出た。 これを渡って左にに行けば紀ノ川に架かる九度山橋に出るのだが、丹生川に出たものだから、今まで紀ノ川だと思っていた川が丹生川だと思ってしまった。丹生川は丹生橋の左側で紀ノ川に注いでいるのだから、紀ノ川だと思ったのは正しかったのであるが、紀ノ川から随分離れてしまったのだと思い込んでしまった次第。 ということで、来た道を帰れば迷うこともあるまいと、丹生橋を渡って右に道をとる。県道13号である。 しばらく上りが続く。往路の下りは上りであり、上りは下りとなる。 またしても上り下りの激しい道を走ることになった次第。 県道13号で丹生川を二回渡ったことは先に述べたが、その橋が一つは永代橋という橋であり、九度山交差点近くの方の橋が真田橋という名前であることを復路にて知る。 九度山交差点からは国道370号であり、これも急坂の上りと下り、結構ハードである。 学文路交差点まで戻って来たところで、前方に橋が見える。 岸上橋である。 九度山橋の一つ上流側の橋である。(岸上橋南詰) 岸上橋を渡ったところで、何処か喫茶店があれば、入って休憩したい、身体を冷房で冷やしたい、という気分になり、紀ノ川右岸の道に入らず、直進するが、喫茶店は見当たらない。 パチンコ店の看板が見える。パチンコ店の近くには喫茶店があるかもしれないと、右折して脇道をパチンコ店の方に入るが、やはり喫茶店はない。 雨がパラつき始める。ゴロゴロと鳴っていた雷鳴が、突然ドカーンと大きな爆裂音を轟かせた。 それで急遽、パチンコ店に避難することとする。 パチンコをする気はないので、店内のベンチに坐って、店内の自販機で買った冷たい飲み物を飲みながら、遊戯を楽しんでいる人たちを離れた場所から眺めているだけ。 雷鳴も収まったようなので、パチンコ店を出る。20分くらいは店に居ただろうか。パチンコをする訳でもないので、何となく落ち着かず、長居は出来ないのでありました。 岸上橋北詰に戻り、紀ノ川沿いの堤防道を走る。 ところが、走り出すと同時に大粒の雨。 堤防道では雨宿りする場所がない。背中のザックには一応雨具を入れてはいるが、以前と違って最近は、雨具を着てまで雨の中を走るということはなるべくしたくない、という心境。 すると、河川敷のパークゴルフ場にテントが張られている場所のあるのが目に入った。緊急避難。河川敷に走り下り、そのテントに駆け込む。 テントに駆け込んですぐに凄い雨となる。雷も鳴り出す。 テントは3張り連結となっていて結構広く、ベンチも設置されているので、雨宿りとしては申し分なしである。ただ、落雷があるといささか心もとないが、先ほどのドカーンというような鳴り方ではないから、落雷の心配はないだろうとタカを括ることとする。 パークゴルフ場では、男性1人、女性2人の3人組が遠く離れた場所でプレーをして居られたが、さすがにこの雨ではプレーは無理。奥の方にあるもう一つの小さなテントに避難、雨宿りされている。 40分くらい雨宿りを余儀なくされました。(神野々緑地・パークゴルフ場のテントで雨宿り) 上は、南東方向の山々。(同上) 上は南方向の山々。 しばらくは、上の写真のように山も雨に煙っていましたが、やがて南から青空が戻り、山々に日が射し始めました。 テントにも日が照り始めたが、雨はその後もしばらく続いたので、様子見はなおも続く。 ようやく小降りになったので、テントを出て道路に戻る。出発。 道路に上がった頃には、テントに避難していた3人組もプレーを開始していました。 堤防道から眺めていると、最初に打った女性のボールはホールの30cmくらいの至近距離にピタッと止まりました。 「ナイス・タッチ」と道路の上からヤカモチの声援。笑って居られました。次の男性は3mほどオーバー。3番目の女性は2m余ショート。 これには、ノーコメント。第二打目は見ずに先へと走ります。 最後の目的地は、橋本中央中学校です。 ここにある、犬養万葉歌碑が目的。(橋本中央中学校の犬養万葉歌碑)山跡庭 聞往歟 大我野之 竹葉苅敷 廬為有跡者 孝書大和(やまと)には 聞こえも行(ゆ)くか 大我野(おほがの)の 竹葉(たかは)刈り敷(し)き 廬(いほり)りせりとは (万葉集巻9-1677)<大和には風の便りに聞こえて行ってくれないものか。大我野の竹の葉を刈り敷いて仮寝をしていると。>(同上・副碑) 副碑の全文は下記の通り。橋本市東家しんし会創立二十五周年の記念事業として万葉歌碑の揮毫を大阪大学名誉教授、甲南女子大学名誉教授、文化功労者、文学博士 犬養孝先生に委嘱し郷土のためにこれを建つ平成四年三月十五日 しんし会 まあ、先ほどの神野々緑地のテントでの雨宿りの気分もこの歌のそれに近いかもしれない。河内には 聞こえも行くか 神野々の 緑地のテントに 雨宿りすと (偐家持) この後、途中の大森神社の木陰で小休止するなどして、橋本駅前到着。 近くのコンビニから自転車を宅配便で自宅に送り返し、橋本銀輪散歩終了であります。(完)<参考>銀輪万葉・和歌山県、三重県篇はコチラ。
2022.08.11
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(承前) 橋本五條線(県道55号)はゆっくりカーブして、再び上り坂となり、上り切ると快適な下りとなる。車の走行はそれほど多くないので、車道を走ってもいいのだが、広い歩道がついているので、それを走る。 下りに入ったところで、右側(川岸側)にあった歩道が行き止まり。その先は左側が歩道となる。道幅の関係で、歩道は左右どちらか一方にのみ設けられているようです。(南海高野線の鉄橋) ここは眺望がよく、前方に南海高野線の鉄橋が一望である。 前ページ記事の冒頭に掲載の、妻2丁目交差点から脇道に入った路地で撮影した写真の鉄橋がこれである。 写真の右奥あたりからこの鉄橋を撮影したのであるから、1時間半ほどで紀ノ川の反対側にやって来たことになる。 ここで、道路を渡り、反対側に設けられた歩道に移る。そこで見かけたのはムギワラトンボ。(ムギワラトンボ) ムギワラトンボとは名ばかりにて、炎天下にあってもムギワラ帽子を被ってなんぞいない。シオカラトンボのメスなのである。 南海高野線の鉄橋下を潜ると、右手河川敷に広いグラウンドが見えて来る。向副緑地公園である。(向副緑地公園) 上の写真のグラウンドの先にもう一つグラウンドがあり、そこではボッチかゲートボールか何かそんな競技をされている人々の姿が目に入ったが、それをやり過ごすと、橋本橋の南詰めである。(橋本橋南詰) 橋本橋を過ぎると道は和歌山橋本線(国道370号)となる。 これを少し走り、すぐに脇道に入る。清水小学校の裏手にある西行庵へと向かう。(西行庵) 西行がこの地に一時止住したと伝えられ、西行像とされる像が堂内にのこされていることから、西行ゆかりの地として西行庵とも呼ばれるということであって、西行がこの建物を庵としたという訳ではなく、本来は地蔵堂ということなのであった。その意味では、吉野山の西行庵などとは性格が違う。 北面の武士であった佐藤義清(西行の俗名)は、この地から30kmほど下流の紀伊国田仲荘(現、紀の川市、旧那賀郡打田町竹房)を知行地とし、それを弟に託して出家したのであるから、この付近に一時住んだことがあったとしても不思議ではない。 下掲の説明碑によると、当地(橋本市清水)から高野山までの6ヶ所に地蔵があって、「高野街道六地蔵」と呼ばれていたらしい。その第一の地蔵がこの地蔵堂のお地蔵さんだというのである。(同上・説明碑)(同上・石仏群) 六地蔵としたいところだが、そうでもないようなので「石仏群」としました。道路拡張工事などで移転・撤去を余儀なくされた各所の石仏を集めて収納したという感じである。右側の柱に取り付けられている板切れには「国城の里 観音霊場巡拝六番札所」とあるが、意味がよく分からない。 左隣に水道蛇口のある洗い場があったので、手と顔を洗わせてもらって、ついでに汗で濡れたタオルも水洗いさせていただきました。 西行庵から西に進むと、登録文化財・橋本家住宅なる大きなお屋敷がありましたが、その家の前に、道を塞ぐ形で乗用車が駐車していたので、やり過ごす。更に西進すると、高架道路の国道371号の下に出る。 事前にネットから転載して来た簡単な地図では、ここで左折して数十m南に行くと戸隠神社というのがあるように書かれていたので行ってみたが、それらしきものは見当たらない。 道の向かいにファミリーマートがあったので、そこに立ち寄り凍結したスポーツドリンクを購入する。熱中症対策グッズの補給である。 元の道に戻り、西へ。川沿いの道に出て進む。 しばらくは快適な自転車道である。(紀ノ川左岸の道) 川が南向きに蛇行するのに従い、道も南向きとなり、やがて国道370号に出てしまう。和歌山橋本線である。これをしばらく走ると「西光寺300m」という表示が目に入る。 これに誘われて、左折。かなりの急坂を上って西光寺・刈萱堂へと向かうのだが、この300mはかなり応えました。(西光寺への坂道の途中から眺める紀ノ川) 途中の高みから眺めた景色が上掲の写真。ここで一休み。 西光寺は更に100mほど坂道を上らなくてはならないのであった。(西光寺)<参考>西光寺・学文路苅萱堂/橋本市観光協会(同上・学文路苅萱堂) 学文路苅萱堂の「苅萱」と「人魚のミイラ」という文字に誘われて西光寺へと向かったのだが、わが書斎の書棚の奥にあった「説経節」という書物に「苅萱」という苅萱道心とその息子石童丸の話があったのを思い出したからでもある。 「学文路」は「かむろ」と読み、この付近の地名である。もっとも、説経節の苅萱では「かぶろ」というルビが付されているから、古くは「かぶろ」と言ったのかもしれない。(「苅萱」説経節所収)<参考>苅萱・Wikipedia 身ごもっている妻に生まれた子が男なら石童丸と名付けよと告げて出家してしまった父・刈萱道心をたずねて、大きくなった石童丸は母を連れて筑前苅萱庄から高野山に向かうという話であるが、西光寺の「人魚のミイラ」はその母が信仰していたものだというのである。(同上。苅萱堂内部)(同上・絵馬) 堂内に掲示の絵馬には、その人魚のミイラらしきもが描かれている。(同上・学文路苅萱堂説明碑)(同上・人魚のミイラの絵) お堂の外壁に掲示されている額にも人魚のミイラが描かれているが、かなりグロテスクな得体の知れない代物である。(同上・学文路苅萱堂平成の歩み)(苅萱道心・石童丸関係信仰資料説明碑) 境内脇に句碑が3基ありましたが、よく見ずにスルーでした。(句碑) 坂を下り、国道370号に戻ろうとするが、南海高野線の踏切の手前で左に入る道を進むと学文路駅に出た。しかし、ここは駅の裏側のようで、行き止まりになっていた。駅の南側を回り込んでその先で国道に出ようという目論見は失敗でした。 引き返して、上って来た道の一つ西側の道を下って、国道に出ることができました。左折して国道を進むと学文路駅の前に出ました。かなり高い位置にある。(南海高野線・学文路駅) 学文路交差点で、国道370号は直角に左に曲がる。予定では岸上橋方向に右折して、紀ノ川べりに近い道をジグザグに走り九度山橋で対岸に渡り、橋本方向に戻るということにしていたが、慈尊院という文字が目に入り、それが示す方向が国道のそれであったので、国道を道なりに進む。 ところが、しばらく行くと勾配のきつい坂道となる。なんとか上り切ると、前方に九度山交差点の信号が見え、下り坂。一気に下る。 丹生川に出る。ここで丹生川はA字型にカーブしていて、2回丹生川を渡ることになる。しかし、これは後で地図を見て気がついたことで、そのような地理勘のないヤカモチ、完全に頭が混乱していました。 2回目を渡ると道は再びゆるやかな上り。200mほどで、真田庵(善名称院)に到着。(真田庵<善名称院>・南門)<参考>善名称院・Wikipedia(同上・真田庵由緒) 善名称院は、大安上人が寛保元年(1741年)に、伽藍を創建したのが始まりとのこと。この地が真田昌幸の屋敷跡であったことから真田庵とも呼ばれるようになったとのこと。(同上・本堂他説明碑)(同上・本堂)(同上・大安上人廟所霊屋・土砂堂)(同上・土砂堂説明碑)(同上・大安上人説明碑) 境内には、真田昌幸公墓所や真田昌幸を祀る祠などがあるが、これらは、ページを改めて紹介することとし、本日はこれにて休憩であります。(つづく)<参考>銀輪万葉・和歌山県、三重県篇はコチラ。
2022.08.09
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(承前) 今日(7月28日)も、昨日と同じく国道24号に出て、紀ノ川上流方向に走ります。隅田郵便局付近までは概ね昨日に走ったコースを辿るので道を間違う心配は無さそうです。 妻2丁目交差点まで来たところで、妻の杜神社に万葉歌碑があったことを思い出し、立ち寄ってみようと、左折して北へと走る。JR和歌山線の踏切を渡り、どんどん行くがそれらしきものが見えない。坂道をかなり上ったところで、庭先に出て居られた男性に神社のことを尋ねるが、「この付近には神社はない。」との答え。早くも道を間違えた。 反対方向に来てしまったかと引き返し、交差点まで戻り、細い路地を南に入ると、南海高野線が見下ろせる場所に出た。(南海高野線)(同上) 路地を道なりに進むと、妻社・東の森という小さな祠がありました。(妻社・東の森) 後で地図を見たら、妻の杜神社は、西社、中社、東社とあって、この東の森というのは、中社の北東側に位置している。これが東社なのかどうか定かではないが、多分、東社なんだろうと思う。 万葉歌碑があるのは西社で、妻2丁目交差点の300mほど手前の分岐で国道から脇道を左に入った処にあったのでしたが、見逃しました。(妻の杜神社・西社) ということで、「和歌山歴史物語100」というサイトの写真を借用させていただきましたが、そこには、こんな歌碑があるようです。紀伊きの国に 止やまず通はむ 妻の杜もり 妻寄よし来こせね 妻といひながら (坂上人長 万葉集巻9-1679)<紀伊の国に絶えず通おう。妻の杜よ。妻を寄越して下さい。その名が妻というなら。> 国道24号に戻り、大和街道に入り、隅田郵便局の前で左折し北へ。 昨日に立ち寄るのを忘れていた隅田八幡神社へと向かう。(隅田八幡神社参道・隅田川を渡る) 国道24号、隅田八幡神社入口交差点から500mほど北に行くと隅田八幡神社の神門に突き当たる。(隅田八幡神社・随神門) この神門の前に自転車を駐輪してと思ったが、適当な駐輪場所がなかったので、右側の坂道を上り、境内に入りました。またしても、裏口と言うか、横入りヤカモチでありましたが、そんなことでこの神門は潜っていない。この神門の龍の天井画が見事なのだということを知ったのは、後日のことでした。それは、こんな画だとのこと。(同上・天井画 「和歌山歴史物語100」というサイトからの転載) 先ずは、隅田八幡神社の案内図を掲載して置きましょう。(同上・案内図)※原寸サイズの写真はコチラ。<参考>隅田八幡神社・Wikipedia 当神社は、神功皇后が外征後、大和還幸の途次、この地に滞留されたということから、貞観元年(859年)に石清水八幡宮より勧請したのが創祀とのこと。(同上・左:西神楽殿、中央:拝殿、本殿、右:東神楽殿) 当神社に伝わる人物画像鏡は国宝に指定されている。(同上・人物画像鏡の碑)<参考>隅田八幡神社人物画像鏡・Wikipedia)(同上・人物画像鏡説明碑) 銅鏡に刻された四十八文字の銘文は下記の通りであるが、その解釈については諸説があって定説をみないとのこと。癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟(同上・馬蹄石) 神功皇后伝説に関係するものとしては、上のような馬蹄石がありました。「馬をとどめし足跡と伝承されている」という石板の説明であるが、馬蹄石が馬締石になってしまっているのは何かの手違い。ここで締めては締まらないだろうと突っ込みを入れるのは野暮であるか。 本・拝殿の左奥にある大高能寺は、この神社の元・神宮寺であったとのこと。(同上・大高能寺) もう一つ気になったのは隅田党発祥の地という碑。(同上・隅田党発祥の地碑) 裏面の由来を読むと。(同上・隅田党発祥の地碑の由来) 隅田党というのは、隅田八幡宮の祭祀とこの地、隅田荘を基盤とした武士団のことで、太平記や畠山記に登場するらしいが、その子孫の人たちの隅田党一族の会というのがあり、平成29年(2017年)にその会によって建立されたもののようです。 隅田八幡神社を出て、隅田郵便局前まで下り、大和街道に戻る。 一つ先の辻で右折、山内恋野線を南へ。JR和歌山線を渡り、隅田中学校を右に見て、ゆるやかにカーブする下り坂の道を進むと、紀ノ川に架かる恋野橋である。(恋野橋)(同上) 橋の中央から紀ノ川下流方向を望む。(紀ノ川 恋野橋から) 橋を渡ると橋本五條線(県道55号)、紀ノ川左岸の道に出る。 これを右折して、紀ノ川下流方向に走る。恋野小学校を右に見て、しばらくは上り坂である。恋野小学校の校庭には「こいの池」という標識の掲示された池らしきものがあった。「恋の池」ではなく「鯉の池」なんだろうが、何やら面白い。旧仮名遣いだと恋は「こひ」で鯉は「こい」だと思っていたが、手許の辞書によると、どちらも「こひ」であるようだ。 坂の途中で、左手を見ると中将姫の文字と絵が目に入る。彼女が母様恋し恋し野の・・とかなんとかと言ったので「恋し野」→「恋野」になったのかどうかは存じ上げないが、彼女がこの地に隠れ住んだという伝説があるようで、その旧跡もあるようです。しかし、今回は中将姫はパスです。折あらば また訪ね来よ 恋し野に われはまつちの 山にて待たむ (偐中将姫)とかなんとか詠む声を空耳に聞きつつ、坂を上り切る。 因みに、その伝説とは次のようなもの。橋本市恋野の中将姫伝説恋野地区には今も中将姫ゆかりの場所が数多く残されており、中将姫の伝説に触れながらたどることが出来ます。中将姫は幼くして母を亡くし新しく継母を迎えますが、継母は美しく才能豊かな中将姫を憎み、父豊成の留守中に、恋野地区にある雲雀山での殺害を計画しました。しかし、罪もない姫を殺すことが出来なかった家来の嘉籐太は、雲雀山で妻と共に姫を育てながら隠れ住んだと言われます。「恋野」という地名は、姫が母を恋しがって「母様恋し、恋し野の…」と詠んだ歌にちなんで名づけられたものです。その後、姫は父親と涙の再会を果たし、都に帰ることとなります。その際、中将姫が村人に残した観音像が、中将が森に祀られています。この後に中将姫は当麻寺で剃髪し、法如比丘尼となり29歳で波乱の人生を閉じますが、中将姫の最期は二十五菩薩来迎があり、天国へ召されていったとの伝説が残っています。(橋本市観光協会のサイトより) 坂を上り切る手前で、「筒香選手ガンバレ」と書かれた手書きの小さな板が民家の庭に掲出されていましたが、帰宅後調べると筒香選手は橋本市の出身であることを知り、納得でした。 何処か木陰に入って、水分補給の休憩を取りたいと思うが、なかなか適当な場所が見つからず、もう少し、もう少しと走り続ける。 ようやく、サルスベリの咲く、ちょっとした空地に出くわし、蔵のある民家が太陽を遮って日陰をつくってくれている場所で小休止。奥には大きな栗の木があり、もう実をつけ始めている。(栗の木 橋本市中道付近)(同上) 道の反対側前方には、白いサルスベリの花が満開。(サルスベリの白い花) まだ、しばらくは橋本五條線を走りますが、休憩が入ったことでもあり、本日はここまでとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・和歌山県、三重県篇はコチラ。
2022.08.08
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先月(7月)27~28日と橋本市を銀輪散歩して来ました。 遅ればせですが、その折の旅報告です。 犬養万葉歌碑を訪ねるついでに、紀ノ川畔を走ってみようというもの。 南海高野線で橋本駅下車。 橋本駅は、南海高野線とJR和歌山線の両駅のホームが並列し、跨線橋で両駅が連結されるという構造になっている。(JR橋本駅) 駅前広場にある万葉歌碑がこれ。(駅前の犬養万葉歌碑) 碑文は次の通りです。 紀ノ川の万葉 犬養 孝こんにちは、草ぼうぼうになった古い小道をくだると、土地の古老らが、“神代の渡り場”と称している、落合川(真土川)の渡り場に出る。ふだんは水の少ない涸川だから、大きな石の上をまたいで渡るようになっている。ここがおそらく古代の渡り場であったろう。白栲(しろたへ)に にほふ信土(まつち)の 山川(やまがは)に わが馬なづむ 家恋ふらしも -作者未詳-(万葉集巻七-一一九二)(副碑) 橋本の万葉歌碑 歌の意味信土山の川(落合川)で私の乗る馬が難渋している。家人が私を心配しているらしい。第八回橋本万葉まつりと併せてJR和歌山線の全線の開通百周年を記念し、大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者 文学博士 故犬養孝先生著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻し 郷土のためにこれを建つ二〇〇〇年十一月 第八回 橋本万葉まつり実行委員会 駅前の喫茶店で昼食。 駅近くのホテルで、前もって宅配便で送って置いたトレンクル(折りたたみ自転車)を受け取り、銀輪散歩に出発である。 国道24号を暫く走り、途中から古道・大和街道をゆく。(JR和歌山線・下兵庫駅東側の踏切、隅田駅方向) JR和歌山線の踏切を渡って北へと進むと、国道24号にぶつかる少し手前にあったのはこんな祠。(左から、地蔵堂、阿弥陀堂、白石稲荷神社) 国道24号にぶつかったところで旧道は直角に右に折れて東へと進む。 高橋川という川に架かった西国橋を渡ったところにあった道標で、道を間違えてはいないことを確認。(大和街道の道標) ところが、県道108号(隅田停車場線)を右折すべきところ、直進してしまい、国道24号に出てしまった。 ヤカモチが走って来た古道・大和街道は国道24号と並行してその南側を走っていた筈なので、国道24号に出てしまったことで、頭が混乱、自身の現在地が何処なのか分からなくなってしまう。 国道脇、工場の出入り口で出入りするトラックの誘導をされていたガードマンの青年に尋ねて現在地を把握。 何のことはない。国道24号は県道108号と交差する真土西交差点の先で右にカーブして大和街道と合流しているのでありました。 自分の左手にあった筈の道路が正面に来たのだから、その道路がカーブして正面に来たと考えるべきなのに、自分の方が何処かで曲がって方向違いに来てしまったのではないかという疑問を持ったことによる頭の混乱でありました。 辻を一つ戻って、県道108号に入り南へ。 JR和歌山線の踏切が見えて来る。踏切の手前で左折。 隅田駅前に到着。(JR隅田駅 左端は女の子が飛び越え石を飛び越えている絵である。) 隅田駅は「すみだ駅」だと思い込んでいましたが、正しくは「すだ駅」でありました。 駅前に万葉歌碑がありました。(JR隅田駅前の万葉歌碑)真土山まつちやま 夕ゆふ越え行きて 廬前いほさきの 角太河原すみだかはらに ひとりかも寝む (弁基 万葉集巻3-298)(左注)右は、或いは云はく、「弁基とは春日蔵首老の法師名なり」といふ。 この歌の「角太河原」というのは、この隅田地区の紀ノ川の河原ということなんだろう。廬前は隅田町あたりの総称とみられる。 隅田駅から200mほど南に行くと紀ノ川である。また、400mほど東に行くと、紀ノ川に流れ込む落合川である。 現在は、この落合川が和歌山県(橋本市)と奈良県(五条市)との県境になっている。 その落合川にある「飛び越え石」が、橋本駅前の歌碑に刻されていた犬養先生の著書「紀ノ川の万葉」で「古老らが”神代の渡り場"と称している渡り場・・ここがおそらく古代の渡り場であったろう。」とされている場所である。そこは、「真土万葉の里」という公園になっている。 今日の銀輪散歩の目的地である。 その万葉の里へは、隅田駅から細い急坂を上って行くことになる。(隅田駅から万葉の里への坂道) 自転車には辛き急坂であるが、猛暑の炎天下を走って来た身には、心地よい木陰の道でもありました。 上り切った四辻を右に行くと万葉の里の入り口である。尤も、国道24号側からの入り口の方が本来の入り口なんだろうが、ヤカモチは裏から入るのが習いとなっているから、これでいいのである。(万葉の里入り口の万葉歌碑) 真土万葉の里の入り口にあったのは笠金村の歌碑。 万葉集巻4-543の歌である。この歌の題詞には、神亀元年(724年)冬10月、紀伊国に行幸のあった時、お供の人に贈るために、或る娘子に依頼されて作った歌1首(神亀元年甲子の冬十月、紀伊国に幸したまひし時に、従駕の人に贈らむが為に、娘子に誂へられて作りし歌一首)とあるが、聖武天皇の紀伊国行幸の折に笠金村が詠んだ歌である。大君の 行幸(みゆき)のまにま もののふの 八十伴(やそとも)の男(を)と 出でて行きし 愛(うるは)し夫(つま)は 天飛ぶや 軽の道より 玉だすき 畝傍(うねび)を見つつ あさもよし 紀伊路(きぢ)に入り立ち 真土山(まつちやま) 越ゆらむ君は 黄葉(もみぢば)の 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我(われ)は思はず 草枕 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙(もだ)もえあらねば 我が背子が 行きのまにまに 追はむとは 千度(ちたび)思へど たわやめの 我が身にしあれば 道守(みちもり)の 問はむ答へを 言ひ遣らむ すべを知らにと 立ちてつまづく (笠金村 万葉集巻4-543)<天皇の行幸に従って、文武の百官たちと共に出発して行ったいとしい我が夫は、(天飛ぶや)軽の道から(玉だすき)畝傍山を見ながら、(あさもよし)紀州路に進み入り、今頃は国境の真土山を越えているであろうそのあなたは、色づいた葉が風に散り飛ぶのを見ながら、馴れ親しんだ私のことは思わず、(草枕)旅も悪いものではないななどと思ってあなたはいるだろうと、うすうすは承知しているけれど、それでも黙っても居られないので、あなたの行った道のままに、追いかけて行こうとは何度も思うのだが、かよわい女の身なので、途中で道の関の番人が咎めた時の答えを、何と言ってやればいいのか、そのすべも分からず、進みかねためらっています。> 続日本紀によると、聖武天皇はこの年の10月5日に紀伊国に行幸し、和歌の浦の景色を愛で、同月23日に平城京に帰っている。 歌碑には刻されていませんが、上の歌の反歌2首も次に列記して置きましょう。後(おく)れ居(ゐ)て 恋ひつつあらずは 紀伊の国の 妹背(いもせ)の山に あらましものを (万葉集巻4-544)わが背子(せこ)が 跡(あと)踏み求め 追ひ行かば 紀伊の関守 い留(とど)めてむかも (同巻4-545) 歌碑の左側に狭い急な階段道がる。これを下ると万葉の里のようだ。トレンクルを肩に担いで行くことも考えたが、階段を少し下った処に駐輪して置くこととする。 木立の繁る狭い階段道を抜けると開けた田畑のような空間に出る。 オニユリも咲いている。(万葉の里のオニユリ) ここにあった犬養万葉歌碑はこれ。(万葉の里の犬養万葉歌碑) 碑文は次の通りです。紀ノ川の万葉 犬養 孝まつちの山越え 大和の万葉びとが紀伊の国にはいる最初の峠は、紀和国境のまつち山である。そこは五条市の西方、和歌山県橋本市(旧伊都郡)隅田眞土とのあいだの山で、昔は山が国境であったが、現在は、山の西方、落合川(境川・眞土川)が県境となって、その間に両国橋が架けられている。石上乙麻呂卿配土佐国之時歌石上いそのかみ 布留ふるの尊みことは たわやめの まとひによりて 馬じもの 縄取りつけ ししじもの 弓矢かくみて 大君の みことかしこみ 天ざかる 夷ひなへに退まかる 古衣ふるころも 又打山まつちのやまゆ 還り来こぬかも (巻六-一〇一九)(副碑)真土の万葉歌碑第八回橋本万葉まつりを記念し、又永く橋本の万葉が受け継がれる事を祈り大阪大学名誉教授 甲南女子大学名誉教授 文化功労者 文学博士 故犬養孝先生の著書「紀ノ川の万葉」よりその遺墨を刻しここ万葉のふるさとにこれを建つ。二〇〇〇年十一月二十三日橋本万葉の会 歌の現代語訳は次の通り。石上の布留の君は、たわやめゆえの心惑いによって、馬のように縄を取り付け、鹿や猪のように弓矢で取り囲まれて、大君の仰せを畏れ多くも承って、(天ざかる)遠くの国に流されて行く。(古衣)真土山を越えて帰って来ないものかなあ。 続日本紀(天平11年3月28日条)によると、石上乙麻呂は藤原宇合の未亡人、久米連若売と密通し、乙麻呂は土佐へ、若売は下総へ流罪となっている。万葉集にはこの時の乙麻呂の配流に同情した誰かが詠んだのであろう歌が3首掲載されているが、そのうちの1首である。 犬養万葉歌碑から少し下ったところにも万葉歌碑。(万葉の里の万葉歌碑)橡之 衣解洗 又打山 古人尓者 猶不如家利橡つるばみの 衣きぬ解き洗ひ 真土山まつちやま 本もとつ人には なほしかずけり (万葉集巻12-3009)<つるばみで染めた衣を解いて洗い、真土山、本の妻にはやっぱりかなわぬものです。>(注)橡=クヌギのこと。橡で染めた衣は普段着。 又打山=衣を洗うには砧で打って洗うから、「又打つ」で「又打山(真土山)」を導き、「まつち(真土)」の類音で「もとつ(本つ)人」を導いている。 万葉歌碑の後ろはハス畑。 ハスとスイレンも咲いていましたが・・。写真はイマイチ。(同上・スイレン、奥にハス畑) 奥のハスが大賀ハス(古代ハス)だということは、帰宅後のTVで、ここのハスが見頃になっているということが紹介されていて知ったもの。 スイレンの池の前に「飛び越え石」の説明碑。(飛び越え石の説明碑) ここから更に狭い石段を下ると落合川の河原になる。そこに飛び越え石がある。深い谷となっているので、両岸に繁る鬱蒼とした木々に囲まれて薄暗い。その所為でもあるか、写真のピントが甘くなってしまいました。(飛び越え石) この石を跨いで向こう岸に渡れば、もう奈良県五條市である。 折から雨がパラつきだし、石が濡れているので、渡るのは差し控えて引き返すこととする。(落合川、飛び越え石の上流側) 薄暗く感じたのは、いつの間にか空には黒い雲が広がり、雨が降り出し、雷も鳴り出したという天候の急変の所為もあったのかも。 戻る途中の石段脇にあったのが、この歌碑。(飛び越え石近くの歌碑)いで我(あ)が駒 早く行きこそ 真土山(まつちやま) 待つらむ妹を 行きてはや見む (万葉集巻12-3154)<さあ、我が駒よ、早く行け。真土山、その名のように待つだろう妻を、行って早く見よう。> 右面には、新千載集の807番の歌が刻してある。誰にかも 宿りをとはむ 待乳山 夕越え行けば 逢ふ人もなし 作者不詳の歌ではないかと思うが、新古今集の小野小町の歌、「たれをかも まつちの山の 女郎花 秋とちぎれる 人ぞあるらし」(巻4-336)を思い出させる歌である。 反対の左面には「いつしかと 待乳の山の 桜花 まちてもよそに 聞くが悲しさ」(作者不詳 後撰和歌集)という歌が刻されているようだが、写真には撮っていない。 いよいよ、雨が本降りになって来たので、急いで、万葉の里にある休憩所に駆け込む。 雨と雷に気を取られていた所為か、休憩所の建物の写真を撮り忘れ。ということで、他者のサイトの写真を借用転載です。(とびこえ休憩所 和歌山歴史物語100から転載。)(同上 トヨタカローラ和歌山橋本店「真土万葉の里プロジェクト」から転載) しばらく雨宿りするうちに、天気は回復。 階段途中にとめて置いた自転車・トレンクルのもとに戻る。 雨にすっかり濡れているのではと心配したが、幾重にも重なる枝葉が濡れるのを最小限にとどめてくれたようで、サドルを拭く必要もなしでありました。来た道を引き返し、国道24号線へと向かう。少し上った後は急坂を下ることになる。下りきったところが国道24号で、橋本浄水場への進入道路の前である。ここに犬養万葉歌碑が道路を挟んで向き合う形で存在する。浄水場入口側の歌碑は、こちらに向いて居らず、南西方向を、つまり横を向いているので、正確には向き合っているとは言えないのではあるが。 そこにあった犬養万葉歌碑は真土山の万葉歌の中でも最もよく知られている歌のそれである。(国道24号沿いの犬養万葉歌碑)朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母あさもよし 紀人きひと羨ともしも 亦打山まつちやま 行ゆき来くと見らむ 紀人羨しも (調首淡海 万葉集巻1-55)<(あさもよし)紀伊の人は羨ましい。真土山を行き来に見るのだろうから。紀伊の人は羨ましい。> (同上) この歌碑の右隣に、大師井戸という碑があったが、詳しくは探索せずでありましたので、詳細は何とも存じ上げず、であります。(大師井戸) まあ、この地は、高野山のお膝元みたいなものですから、弘法大師が掘った井戸があっても不思議ではないが、通りがかりに弘法大師が掘った井戸や杖を突き立てると水が湧き出したとか、これに類する伝説は全国各地にありますから、珍しいものでもありません。 国道24号を橋本浄水場入口側に渡ったところにあるのが、もう一つの犬養万葉歌碑。(橋本浄水場入口の犬養万葉歌碑) 碑文の全文は次の通り。紀ノ川の万葉 犬養孝こんにちは、国道24号線が山の北側を通り、鉄道が南側の山裾の川べりを通っているが、古代は川べりを避けて、現、国道より南の低い、川ぞいの丘辺を越えていた。峠の上は、東方は五條一帯の吉野川の広い流域を望み、一方西方には紀ノ川(和歌山県にはいると吉野川は紀ノ川と呼ばれる)の明るい河谷を望む。紀路にあこがれる旅人のエキゾチシズムを刺激するのは当然のことであろう。あさもよし 紀へ行く君が 信土山(まつちやま) 越ゆらむ今日(けふ)そ 雨な降りそね 作者未詳(巻九-一六八〇) 副碑の文面は、上掲の「万葉の里の犬養万葉歌碑」と同文なので省略しました。 歌の意味は下記の通りです。<(あさもよし)紀の国へ行くあなたが、真土山を越えているであろう今日あたり、どうか雨よ降らないでほしい。> 以上で、目的は一応果たしたので、橋本駅前へと戻ることとする。 国道24号を下って行くと、往路で道を尋ねたガードマンの青年にまた出会った。軽く会釈して、そこから大和街道に入る、(紀ノ川南岸の山々) 真土山がどの山とも分からず仕舞いで帰途についてしまい、真土山の写真がありません。大和街道を走りながら、紀ノ川方向(南側)の山々を撮ったのが上掲の写真です。 雨上がりとあって、盛んに雲が立ちのぼっています。 隅田八幡神社にも立ち寄るつもりでいたのに、やり過ごしてしまったので、これは翌日の銀輪散歩で立ち寄ることにします。 炎暑の中を走っていると注意力が散漫になるようです。年齢による認知機能の衰えだろうという声も何処かから聞こえて来そうですが、それは聞き流すこととしましょう。(紀ノ川 橋本橋の少し上流付近 奥に見える鉄橋は南海高野線) 橋本市街に戻って来て、少しばかり市街を「徘徊」。 紀ノ川沿いのポケットパークのような場所で休憩。今日(27日)は紀ノ川の写真も撮っていなかったことに気づき、1枚撮影。 明日(28日)は、この写真の奥、上流側へと再び走り、恋野地区で橋を渡って紀ノ川左岸に移り、下流の九度山橋まで走り、九度山大橋で右岸に移り、今度は右岸を上流側へと走り、橋本駅前まで帰って来るという計画であるが、寄り道次第によってはどうなるか分からない。(旧橋本町道路元標)(同上・説明碑) 橋本橋の少し下流まで走って、この日の銀輪散歩は切り上げとし、ホテルに戻りました。今日はここまでとします。(つづく)<参考>銀輪万葉・和歌山県、三重県篇はコチラ。
2022.08.07
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(承前) 前ページの続編です。 善光寺の東側にある城山公園に立ち寄る。(城山公園・東山魁夷館の前付近から西方向を望む) 上の写真にも写っているが、公園の噴水では子どもたちが、水が噴き上がるるごとに楽しそうに噴水の中を走り回っていました。 公園には、県立美術館と東山魁夷館がある。 上の写真は、その東山魁夷館の前から噴水の方を眺めたものである。(城山公園位置図) 公園北側エリアの林の中には、ライオンもいました。(ライオンもいました。) ライオンの横を通って道路に出ると向かいが長野清泉女学院高校。 この道を左(北)に走ると城山動物園でありましたから、このライオンはこの動物園から脱走したに違いない(笑)。 実は、公園を適当に散策しているうちに方向感覚が狂ってしまったようで、本人は反対方向の南に向かって走っているつもりであったのでした。 道は、広場のようなところで行き止まり。 大きな合歓の木がここにありました。(合歓の木 画像をクリックして大きいサイズの写真でご覧下さい。) 写真ではちょっと分かりにくいですが、花を沢山つけていました。 ここは、動物園の裏口(写真右手)のようです。 正面に石段があって鳥居がある。何という神社だろうと石段を上がってみると、信濃招魂社とありました。戦死者の霊を祀る神社。(信濃招魂社) 境内に「百鳥争鳴戸隠辺」で始まる「信濃八景」という詩碑がありましたが、どういう趣旨でここに建立されたのかは不明というか、裏面の文字を読まずに立ち去りましたので、理解していません。(信濃八景の詩碑) 道をとって返し、城山公園の北エリアへと引き返す。(御幸町三峯神社と相棒のマイ・トレンクル) 公園入口近くにあったのは、御幸町三峯神社。 明治24年5月、6月と大火災など次々に火災が起こったことから、地元の人たちが協議して、秩父の三峯神社の勧請を決議、代表者が秩父に参拝し一年ごと引き換えの神札を頂戴して持ち帰り、宮を造営してこれを安置したのがこの神社の始まりだそうな。(三峯神社由緒)(御幸町三峯神社由緒) その境内地にはこんなお地蔵さんもありました。(地蔵大士石像) 説明碑によると幕末期に善光寺は大地震に見舞われたらしく、その折にご本尊がこの地に避難し、50余日間遷座されたとのことで、そのことを後世に伝えるためにこのお地蔵さんを建立したと説明されている。(同上・説明碑) 公園に入ると、若いお母さんが幼児3人を連れて、噴水広場に行こうとされているよう。しかし、地元の人ではないようで、噴水の場所が何処なのかよくわかっていない感じ。そこで、「噴水に遊びに行くのか」と子どもに話しかけてみた。すると、お母さんから「そうなんです。近いのですか。」という言葉。そこで、お節介ヤカモチは、それが見える場所まで母子を誘導したのでしたが、道に迷っていたのは自分の方であるのにと自分に苦笑でありました。まあ、城山公園まで戻って来て、この時には方向感覚は正常に復していたのでありましたから、他人様を誘導する余裕もあったという次第。 六地蔵さんの背中を右に見つつ、仲見世通りまで戻って来て、目に入ったお蕎麦屋さん(山城屋)で昼食(店の前に駐輪できたのが決め手)。 昼食後、仲見世通りの一つ東側の通りを南へと下る。 通りには、蓮華院、世尊院、常住院、向佛坊、正信坊、浄願坊などの宿坊が並ぶ。「院」とあるのは天台宗系、「坊」とあるのは浄土宗系の宿坊であるのだろう。 仁王門の北側を通る東西道を過ぎて更に南に下った突き当りの道を左に行くと、その突き当りに西宮神社がありました。<参考>西宮神社(長野市)・Wikipedia(西宮神社 Wikipediaより転載) 西宮神社から南に下ると、往路でご挨拶した武井神社の西側の道路で国道406号に出る。 これを東に進み、田町西交差点で長野大通りを右折、南へ。 この通りは長野電鉄・長野線が走っているのだが地下路線になっているので、地下駅への出入り口によって、それと気が付くに過ぎない。(権堂駅出入口 田町西交差点付近 Wikipediaより転載) 長野駅前の一つ手前、南千歳町交差点を左折して、アンダーパスでJR線を潜って、駅東口側に回る。 何処といって行くあてもなく、何処か適当な公園の木陰で休憩しようと走っているうちに出会ったのが若里公園。 自転車乗り入れ禁止かと、公園入口近くの駐輪場に駐輪しようとしていると、地元の人たちは自転車に乗ったまま進入して行く。ならばヤカモチもと乗ったまま公園に進入。 公園内には文化ホールと図書館がある。(ホクト文化ホール 若里公園) 公園の木陰で風に吹かれたり、東屋や図書館などで休憩したり、喫茶店に入ったりしているうちに、サイクリング続行モードは完全消滅。(県立図書館 若里公園) 今回は、猛暑に加えて、左足底筋の痛みなどがあって、いささか中途半端な銀輪散歩となってしまいましたが、これにて長野銀輪散歩終了です。 最後に歌などオマケの話。(善光寺のハナズオウ)花蘇芳 真夏にあれば 雑巾を 並べ干したり 信濃のみ寺 (偐家持)(本歌)春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 (持統天皇 万葉集巻1-28) これは、善光寺の庭にあったハナズオウですが、花の時期は過ぎて、マメ科植物のそれらしく豆莢状の実を一杯つけていました。 ハナズオウの木はイスカリオテのユダが首を吊って死んだ木という伝説があり、花言葉も「裏切り」、「反逆」、「不信仰」などという不吉なものですが、これは、この雑巾が垂れ下がっているような、夏から秋へのこの木の姿に関係してのことかもしれない。 春先の花の時期には、紫がかったピンクの小さな花が密集して咲き、可憐で美しい姿であるから、キリスト教圏でない日本では、春を告げる縁起のいい花として、「喜び」、「目覚め」、「豊かな生涯」などというプラス・イメージの花言葉もある。花蘇芳 春の目覚めの 喜びも 夏さり来れば 雑巾垂るる (偐家持) 以上です。ー完ー
2022.07.11
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(承前) 長野銀輪散歩の続編です。 朝8時10分長野駅前出発。 長野大通りを北上。この通りは長野電鉄・長野線が通っているのだが、地下路線になっているので、そうとは気づかない。権堂駅の先、国道406号との交差点(田町西交差点)で左(西)に行く。 上り坂である。坂の途中にあったのが武井神社。(武井神社)<参考>武井神社・Wikipedia 善光寺の三鎮守のひとつということで、一応ご挨拶。 主祭神は諏訪大社と同じくタケミナカタ(建御名方命)。(同上・拝殿) 武井神社から150mほど坂を上ったところが大門交差点。これを右に入ると参道で正面に仁王門が見える。仁王門までも結構な急坂の上り道である。 大本願を左手に見つつ上って行くと仁王門である。(善光寺・仁王門 左側が大本願)(同上・仁王門説明碑) 仁王門の左手脇で休憩して水分補給。 目の前にあったのが良寛さんの詩碑。(良寛詩碑) 再游善光寺 曽従先師游此地 回首悠々二十年 門前流水屋後嶺 風光猶似昔日妍 再び善光寺に游ぶ 曾て先師に従ひて此の地に游ぶ 首(かうべ)を回(めぐら)せば悠々二十年 門前の流水 屋後の嶺 風光猶似たり昔日の妍 良寛さんは20年ぶりに訪れた善光寺の様子、風光を昔のままのたおやかな美しさであると褒めていますが、14年ぶりの訪問のヤカモチ、殆ど記憶がないので、昔日の妍も何もあったものではない。多くは、初めて見るに似たりであります。(同上・説明副碑) 良寛詩碑の奥に稲畑汀子の句碑。(稲畑汀子)<参考>稲畑汀子・Wikipedia よべ星と語りし秋を惜み発つ (汀子) 稲畑汀子は高浜虚子の孫。今年2月27日、91歳でお亡くなりになったばかりとのことだが、善光寺さんでお目にかかるとは、であります。 この句は昭和55年(1980年)秋、善光寺にて詠まれたもののようだから、彼女49歳の詠ということになる。 仲見世通りを北上して山門へ。(善光寺仲見世通り) 仲見世通りを通り抜けた先で、「これより自転車進入禁止」の表示。 駐輪場は、第4駐車場にあるよう。<参考>善光寺・Wikipedia(善光寺境内図) 是非に及ばず。 左に大回りして北西隅の第4駐車場にトレンクルを駐輪。 かくて、またしても裏口からの入場である。 先ず目に入るのは忠霊殿。 戊辰戦争から第二次世界大戦までの戦死者の霊を祀っている施設。(忠霊殿) 忠霊殿から少し下ったところにあったのが、宝生流謡曲岡本翠山翁碑。(宝生流謡曲岡本翠山翁碑) 岡本翠山は初めて知る名前。(同上・副碑) そして、本堂へ。さすがに本堂は記憶にある。(本堂)(同上・説明碑) 前回は本堂内に立ち入ったのかどうかも記憶が曖昧なのであるが、今回は戒壇巡りもして来ました。真っ暗な中を進む戒壇巡りは2018年4月の5人組ウオークで訪れた木ノ本地蔵以来だから、4年ぶり。木ノ本地蔵ではホントに真っ暗で漆黒に包まれたという感じであったが、善光寺のそれは足元に点々と僅かばかりの照明灯が進路を示してくれるので、少し感じが違う。<参考>5人組ウオーク・賤ケ岳から木ノ本地蔵へ 2018.4.21. 本堂から出て、鐘楼を右に見て東に進むと、お守りだとか寺関連のお土産品を販売している建物があって、その裏に回ると、神社で見かける絵馬が吊るされている光景がありました。(寺にも絵馬) 絵馬は神社だけかと思っていたヤカモチですが、お寺にも絵馬を奉納するのですな。牛にひかれて善光寺まいり、の善光寺であっても奉納するのは絵牛ではなく絵馬であるか。まあ、板に馬の絵を描いて本物の馬の代用として納めたのが絵馬の起源であるから、牛の絵を描けば絵牛。そんなことを考えてのことか、ここでは牛が描かれている絵馬もある、いや絵牛がある。それどころか、吊られている中には「絵熊」も沢山あるではないか。 少し北に行くと藤原采女亮の碑がありました。(藤原采女亮碑)<参考>藤原采女亮政之・Wikipedia 藤原采女亮政之は鎌倉時代末期の人。元寇に備えて武士が集まっている下関で髪結所を開き、武士相手に髪結いを始めたが、その技術が高く評価されて幕府でも重宝される存在になったとのこと。我が国に於ける理美容業の祖とされる人物である。 理容師さんなどにはよく知られている人物なんだろうが、ヤカモチは今回初めて知りました。(同上・副碑) 裏口から入ったので、順序が逆になるが、山門まで戻り、山門から本堂を眺めてみました。(善光寺・山門から本堂を望む)(善光寺・山門) 山門に掲げられている寺名の扁額の文字は、鳩文字と言って、漢字の中に鳩が5羽隠れているとのこと。 山門から更に南に下ると六地蔵さん。 これは前回訪問時のブログ記事を見ると、後ろ姿の写真になっているので、今回はお顔が写る角度から撮影。(六地蔵)<参考>善光寺 2008.7.26.(同上・説明碑) 仲見世通りの前まで戻って来たので、土産物店2階の喫茶店で少し休憩。 よくきいた冷房が夏の日差しで火照った体に心地よい。 仲見世と境内域とを画する東西道と境内との間を流れる水路で、スズメとセグロセキレイが水遊びの場所をめぐってせめぎ合っている姿などを喫茶店の窓から眺めていました。小さな川中島の戦いでありました。 店で30分ほど過ごして、再び善光寺境内地へ。 仏足石の前を通って大勧進へ。(仏足石)(大勧進の建物の一つ)(大勧進の護摩堂) 善光寺は、天台宗の名刹から推挙された僧侶が貫主を務める大勧進及びこれに連なる25院と代々公家出身者を迎えて住職(善光寺上人・大本願上人)とする浄土宗の大本願及びこれに連なる14坊とによって護持・運営されている、無宗派の単立仏教寺院である。 大勧進の北側にあったのは聖徳太子の碑。(聖徳皇太子碑)(同上・説明副碑) 経蔵の前を通り、本堂西側から第4駐車場へと戻る。(経蔵)(同上)(同上・説明碑) 第4駐車場に戻り、駐輪させていただいていたトレンクルを受け取り、善光寺の東側にある城山公園へ。 本日は、ここまでとします。(つづく)
2022.07.09
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長野銀輪散歩の記事はお休みして、鏑木清方展の記事です。 鏑木清方という画家のことは存じ上げず、関心もなく、京都近代美術館で鏑木清方展が開催中であることはTVの報道で目にして知っていたという程度のことであったが、友人の蝶麻呂君が、これを見に行きたい、ついては付き合わないかと言って来たので、お付き合いすることに。 本日午前11時半JR京都駅烏丸口改札前待ち合わせということで、京都まで出かけました。彼とは昨年11月30日の京都紅葉散歩以来の再会。 今回も、前回同様に京都駅前のレンタルサイクル店で自転車を借りて、銀輪散歩も兼ねてということなので、お付き合いさせていただいた次第。 (鏑木清方展チラシ) 少し早く着き過ぎた(大和西大寺駅経由で近鉄京都駅着10時54分)ので、駅ビル地下1階で昼食できそうな店を物色していると蝶麻呂君からの着信(11時18分)、今着いたとのこと。地上に上がり、烏丸口改札前で彼と再会。 再び、地下1階に戻り、見つけて置いた喫茶店で昼食。 多分、昼食をしている頃に、安倍元総理が大和西大寺北口駅前で銃撃を受けて居られたのだろうと思うが、そんなことは露知らずの二人でありました。(JR京都駅・烏丸口) 昼食後、京都駅西側にある、京都サイクリングツアープロジェクト京都駅店に向かい、レンタルサイクルを借りる。前回もこの店で自転車を借り、堀川通りを北上して二条城に向かったのであるが、今回は、塩小路橋で鴨川を渡り、川端通りを北上、四条大橋の先で白川南通りに入り、概ね白川沿いに走り、三条通りから神宮道に入り、平安神宮大鳥居脇の京都国立近代美術館へ。(京都国立近代美術館) 鏑木清方展は3階展示室。結構な人出。 清方展は撮影禁止であったが、4階のコレクションギャラリーの展示については、一部の撮影禁止の絵画を除き、撮影可ということなので、カメラを向けてみました。(4階コレクションギャラリーの展示)(同上)(同上)(同上) 4階では、映画ポスター展もやっていました。(MONDO映画ポスター展のパンフレットから)(同上)(同上) 美術館を出て、少し銀輪散歩をしてみようと、平安神宮の応天門前から、丸太町通りに出て、ホテル平安の森の東側、天王町交差点手前の喫茶店で珈琲休憩。珍しく店内喫煙OKの店。各テーブルに灰皿が置かれていて、備え付けのライターまで各テーブルに用意されている。ヤカモチにはまことに嬉しい店である。 店を出て、光雲寺裏から哲学の道に入って、若王子神社のところで、坂道を西に下り南禅寺へ。 何やら、今年4月の京都桜散歩のコースと似たようなコース取りとなりました。(南禅寺・水路閣) 水路閣の近くに刷毛塚の碑がありました。 波気都歌とあったので、「?」と思いましたが、すぐに「刷毛塚」だと気がつきました。(波気都歌)(同上・説明碑)(蹴上インクライン) 南禅寺から蹴上インクラインに立ち寄り、何やら雨がパラパラし出したので、鴨川に出て帰るべしで、西へ。 三条大橋の脇から鴨川河川敷の自転車道を走る。七条大橋の手前の橋の下で少し雨宿り。鴨川に出るまでも時々大粒の雨がパラつき出すごとに雨宿りをしては走り出すというのを繰り返しながらの銀輪散歩でした。 七条大橋で地上の川端通りに上がり、往路で渡った塩小路橋から京都駅前を通って、レンタルサイクル店に帰着。 自転車を返還して、京都駅で蝶麻呂君と別れて、京都発15時50分の近鉄特急(大和西大寺着16時23分)で大和西大寺経由の帰宅でありました。 大和西大寺駅で1、2番ホームから大阪方面行きの3、4番ホームに乗り換えのため移動すべく、駅階段を上がって来て駅建屋の窓から、駅北口前の東側を見やると道路が警官によって通行規制線が張られている風。何があったのだろうと思いながら、4番ホームに降りたところで、友人からの電話で安倍元総理が銃撃によて倒れたというニュースを知りました。 安倍さんはヤカモチには好感の持てる政治家ではなかったが、銃撃によって死亡されたのはお気の毒なことであり、こんな事件が身近な場所で起きていることも知らずサイクリングをしていたとはノー天気なことでした。どうであれ、このようなことは、とんでもないこと、許されざる卑劣な事件であります。同氏のご冥福をお祈り申し上げます。
2022.07.08
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ブログアップが遅れていましたが、先月29日、30日と長野を銀輪散歩して来ましたので、記事アップします。 長野は2008年7月以来なので、14年ぶりの訪問。 14年前は、上田市を中心に千曲川べりを銀輪散歩し、その帰りにちょっと立ち寄っただけであったので、今回は長野市内を銀輪散歩してみようというもの。と言っても、何処と言って訪ねたい場所はなく、犀川や千曲川べりなどを適当に走り、善光寺にも立ち寄ってみようという程度の、いささかポテンシャルの低い訪問でありました。 長野駅前のホテルで、宅配便で送って置いた自転車・トレンクルを受け取り、出発。(JR長野駅) 駅の西方向に裾花川が北から南に流れていて、犀川に注いでいる。 先ず、裾花川に出て、その河川敷の道を走る。歩行者専用道とあり、自転車の乗り入れが可なのかどうかという疑問もあったが、殆ど人影もなかったので、これを走ることとした。(裾花川) 裾花川河口手前で堤防上の一般道に上がり、犀川に架かる丹波島橋の手前で国道117号を横切って犀川沿いの道に入ろうとするが、車の往来が多く、渡れない。信号のある横断歩道は北に200mほど戻った荒木交差点。そこまで迂回して横断歩道を渡る。渡ったところにあったのが、大阪王将長野若里店。長野まで来て「なんで大阪王将やねん」と思ったが、既に正午を過ぎていたのでここで昼食。店の前が広い駐車場なので駐輪にも好都合。 長野駅前で昼食を済ませてから出発と考えていたが、駅前はどこも駐輪禁止で、駅前の郵便局の裏に駐輪しようとしていたら、駆けつけて来たおばさんにかなり強い口調で咎められたこともあって、加えて駅の駐輪場は反対側の東口の方にあるのみのようなので、嫌気がさして、駅前での食事は諦めて出発した次第。 昼食後、再出発。(犀川第二緑地) 犀川河川敷に広がる犀川第二緑地を右手に見つつ、奥に見えている長野大橋へと向かう。 猛暑・炎天下の昼下がりとあって、広い緑地のグラウンドには人影なしであります。 国道18号・篠ノ井バイパスの長野大橋で犀川を渡る。(犀川上流側を望む、長野大橋から) 長野はどちらの方向を見ても山、山である。(犀川下流側を望む、長野大橋から)(国道18号・篠ノ井バイパス、大塚南交差点陸橋の上から南方向) 大塚南交差点で右側歩道から左側歩道に移る。 古戦場入口交差点を左折、200mほどで川中島古戦場公園。 公園の北西角から入ると、石碑。(川中島古戦場公園) これは何の石碑かはよく分かりませんが、隣にあったのは首塚。(同上・首塚) 川中島合戦の戦死者の遺体を敵味方の別なく手厚く葬った塚で、この付近にはいくつもの首塚があったらしいが、現存する大きな首塚は、この塚とここから南東180m付近にある塚の二つだけだとのこと。(同上・首塚説明碑) どうやら、例によって裏口から進入したようで、ここは古戦場八幡社の境内地でありました。(川中島古戦場八幡社) 奥が現在の本、拝殿。手前が旧本殿鎮座の鞘堂。(同上・本、拝殿)(同上・ご由緒) 古戦場八幡社は、源顕清が、武運長久を祈って八幡大神を欅の大木の洞に祀ったことに始まるという。<参考>源顕清・Wikipedia 顕清は、白河院の蔵人であったが、嘉保元年(1094年)8月、兄・惟清が白河院を呪詛したという事件に連座したとして失脚し、信濃(又は越前)に配流となっているから、その頃のことであるのだろう。 彼は、河内源氏の祖・源頼信の次男・頼清(村上氏の祖)の系統であるから、わが河内と関係がなくもないことになる。 武田信玄が、のちに川中島合戦で破壊された神殿を再建させたとのことだが、彼もこの八幡社に戦勝を祈願し、陣を置いたのであるか。(川中島古戦場八幡原の碑)<参考>川中島の戦い・Wikipedia(川中島大合戦図) 境内の大合戦図を見ると、この古戦場公園のある場所は戦闘の行われた区域の北東の端っこになるから、上杉謙信が一騎駆けをして、武田信玄の陣に突入した、「鞭声粛々 夜河を渡る・・」の、あの有名な一騎討ちの場所はここではないのだろうが、境内にはその像が置かれている。(信玄・謙信一騎討ちの像) 一騎討ち像と本殿の間にはこんな石もありました。(執念の石) 一騎駆けで切り込んだ謙信は、信玄の近くに居た中間頭の原大隅が突き出した槍に阻まれて信玄を討ち損ね、「流星光底 長蛇を逸す」と残念がったのだろうが、原大隅もまた千載一遇の機会、槍を外してしまい謙信を打ち損ねたと悔しがって、この石に槍を突き立てたという。 彼もまた「長蛇を逸す」と残念がったのだろう。(同上・説明碑) まるで、この場所で一騎討ちが繰り広げられたみたいであるが、まあ、川中島古戦場公園としたからには、一騎討ち像がなくては、画竜点睛を欠くということで、観光客は承知しないというものなんだろう。 そして、こんな歌碑も。(川中島合戦をしのぶ田中月亀翁父子の歌碑) 田中月亀という人のことは存じ上げなかったが、信濃松代藩第9代藩主真田幸教に仕えたということだから、江戸時代後期から明治時代初期にかけての人なんだろう。跡しのぶ 川中島の 朝あらし いぶきのさ霧 おもかげに見ゆ (月廼亀麿)月影の 入にし後も ほととぎす ひとこゑ残す 小島田の里 (月廼亀守)(同上・裏面)(同上・説明副碑) 月亀翁は存じ上げなかったが、芭蕉翁は存じ上げている(笑)。 芭蕉さんの句碑もありました。(芭蕉句碑)(同上・説明副碑)十六夜もまだ更科の郡かな (芭蕉・更科紀行) これは元禄4年の作。 芭蕉さんは、昨日の十五夜に続き十六夜の月もここで見たいと、更科の郡を立ち去りかねているようですが、ヤカモチは八幡社はもう十分と立ち去ります。 八幡社鳥居を出た先の参道で果物などの土産物を商っているおばさんと暫し雑談。 まあ、店の前の道路脇に灰皿が設置されているので、そこで一服しながらのことでありましたが、雑談だけでは申し訳ないと少しばかり売り上げにご協力させていただき、公園の南半分側へ。(川中島古戦場公園)(同上) 上杉謙信像はお留守で、台座のみが・・。 像は修理中なのか。寺の仏像などは時に、〇〇展に出展とかで留守をされることもあるが、公園の像がそういうことで留守というのは考えにくいが、何処かへ出稼ぎに行かれたのであるか。(同上) 少し木陰で体を冷やしてから、公園を出て、県道35号を南へ。 赤川交差点で、右に行くと武田信繁墓・典厩寺という案内板が目に入ったが、信号が赤で横断できないのでそのまま直進。猛暑の中を走っていると、判断力も忍耐力も低下するようで、惰性のように直進するのみ。 これが気候のいい時なら、武田信繁と言えば信玄の弟で、川中島合戦で討ち死にした人物なのであるから、墓にご挨拶くらいはしたのではないかと思う(笑)。 松代大橋にさしかかる。(松代大橋)(千曲川下流側を望む・松代大橋から) 長野IC手前で県道35号から脇道に入って、千曲川沿いの道を走る計画でいたが、何やら方角が混乱して道に迷う。 国道403号(谷街道)に出たので、これを左折し、北へと進む。 JAグリーン長野の南側で国道403号に出たが、これは当初想定していたコースからは随分南東に来過ぎてしまっていることになる。 JAグリーン長野の前の自販機で飲み物を買って水分補給。(R403・谷街道) 国道403号を走っている途中あたりから、左足足底の指の付け根付近が疼きだし、時々痛みがキリキリと強くなる。 自己診断で足底筋膜炎としている症状である。 柴交差点の寺尾小学校の前で少し休息するが、痛みは消えない。 更埴橋の手前で千曲川沿いを少し走ってという計画は省略して、更埴橋を渡る。(更埴橋南詰)(更埴橋北詰) 更埴橋を渡って道なりに直進すると、不動寺交差点で先ほど走って来た国道18号・篠ノ井バイパスに出る。これを長野大橋方向に走り、長野大橋手前で犀川沿いの道に入って、落合橋の先で、犀川と千曲川の合流点を見届け、更に下流の屋島橋で千曲川を渡って、長野駅前までというのが計画コースであったが、足に不安が生じたので、長野大橋手前から川沿いの道に入るという計画はカットし、直進して長野大橋をそのまま渡ってしまい、概ね来た道を逆に辿って、駅前に帰ることにする。(公園の合歓の木) 方向感覚だけを頼りに走っているので、予定コースを外れると、どの辺りに居るのかがあやふやになる。 犀川第二緑地の近くの公園に出たので、そこで暫く休憩。 足底がかなり痛い。 大きな合歓の木が花をつけている。 大阪でこの夏、合歓の花を見たという記憶がないから、今年初めて見る合歓の花である。奥にあるのは水神宮。 公園を出て道を直進すると、来る時に昼食した大阪王将の裏側に出た。どうやら方向感覚は鈍っていなかったよう。荒木交差点で国道117号を横断して、西へ。裾花川沿いの道に出て、無事に長野駅西口駅前のホテルに帰着。<参考>過去の千曲川銀輪散歩の記事 千曲川銀輪散歩・岩鼻 2008.7.24. 千曲川銀輪散歩・岩鼻(2)・上田城公園 2008.7.24. 千曲川銀輪散歩・信濃国分寺・海野宿 2008.7.25. 千曲川銀輪散歩・小諸懐古園 2008.7.25. 千曲川銀輪散歩・上山田万葉公園・千曲川自転車道 2008.7.25.(つづく)
2022.07.06
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ブログの更新を随分と怠っていましたが、久々に記事を更新します。 5月12日、信濃川沿いを銀輪散歩してまいりました。 目的地は、新潟県三条市の伊久礼神社。 万葉の伊久里の森については、大和(奈良市古市町穴栗神社)説、越中(富山県砺波市井栗谷)説、越後(新潟県三条市井栗)説がある。 大和説が妥当だと思うが、今回は、越後説に従い伊久礼神社を訪ねてみようと考えた次第。 そもそも、この旅を思い立ったキッカケは、友人・岬麻呂氏の4月の新潟桜旅(岬麻呂旅便り289・新潟)で、そのブログ記事へのひろみちゃん8021さんのコメントに対する返事コメントで「銀輪の 越の旅せむ われもまた 伊久礼の森の 藤の花見に」という歌を詠んでしまったことでありました。 弥彦の森の もみぢ葉を見に・・とでも詠んで置けば、数ヶ月先のこととなるので、詠んだことも忘れてそれっきりになっていたのでしょうが、藤の花だと翌五月のことですから、忘れることもなく、有言実行となった次第。<参考>岬麻呂旅便り289・新潟 2022.4.14. 新潟駅からJRで保内駅へ。(信越本線・保内駅) 保内駅は無人駅。駅前でトレンクルを組み立て、出発。 踏切を渡り、伊久礼神社へと向かう(下掲地図参照)。(伊久礼神社位置図) 帰宅してから地図に進んだコースを落とし込んでみると、かなり遠回りしていることに気づきました。(伊久礼神社) 伊久礼神社はこじんまりとした境内で、集落の道端にひっそりとありました。(同上・拝殿) 境内の藤棚の下に明和元年(1764年)建立という古い万葉歌碑がある。 説明書きによると、井栗村の大庄屋・松川重行(牧牛)という人が建立したものだとのこと。(同上・万葉歌碑) 歌碑の周りは藤の花が散り敷いて、見上げると、こんな風に藤の花が咲いていて・・。(同上・藤の花)妹我家尓伊久里能森之藤花今来牟春毛常加久之見牟妹が家に 伊久里の杜の 藤の花 今来む春も 常かくし見む (大原高安真人 万葉集巻17-3952)(同上・万葉歌碑説明碑) 大原高安真人は、もと高安王。長皇子の孫。 養老3年(717年)7月伊予守。阿波・讃岐・土佐按察使、摂津大夫を経て、天平4年(732年)10月衛門督。同11年(739年)4月大原真人の氏姓を賜る。 この歌は、越中に国守として赴任したばかりの大伴家持に対して、宴席で僧玄勝という人が、大原高安が詠んだ歌として、披露したものである。 高安王が詠んだ伊久里の森の藤は、この地から北東1.5kmほどの距離の藤の木地内にある藤の古木であるとして、この歌碑が建立されたようだが、その根拠は、「和名抄」に勇礼郷と書いて伊久礼と読ませ、江戸時代から井栗と書くこと、式内社の伊久礼神社があることなど、地名の一致というだけのようです。 一方の越中説は森田柿園という人が唱えたもののようだが、天平宝字3年11月14日の東大寺文書に越中国礪波郡石栗庄に故大原真人麿の所領があったことが記されていること、麿は高安の子であろうとし、父・高安の時代から所領としていたのだろうということをその根拠としている。 しかし、石栗庄というのは柿園の資料の読み違いで、正しくは石粟庄であるということで、根拠が少し怪しくなっている。 また、大和説は古くは契沖(「万葉代匠記」)に遡るが、歌の作者が高安王であるなら、越中や越後とは結び付き難いから、大和説として置くのが穏当なところであろうか。<参考>奈良市古市町の穴栗神社は下記記事参照 天理から奈良へ銀輪散歩(その3) 2011.1.16. 境内には、松川弁之助翁顕彰碑なるものもあった。 このお方は前述の万葉歌碑を建立した松川重行の曾孫に当たる人だという。(同上・松川弁之助翁顕彰碑)(同上) 初めて知るお名前であるが、顕彰碑の説明文によると、松川弁之助は、1802年、ここ井栗の大庄屋に生まれ、54歳で長子に職を譲り、北海道開拓のため函館に渡り、農地開拓のかたわら五稜郭築城にも従事。その力量が評価されて、幕府から北洋漁業の取締役に任ぜられ、北洋漁業の礎を築いた人物だという。 伊久礼神社の南隣にある福楽寺に、この人の墓があるので、一応ご挨拶をしてゆく。(福楽寺)(同上・松川弁之助翁墓) 伊久礼神社を後にして、東へと走る。 途中に、こんな祠がありました。(大宮姫大神とマイ愛車・トレンクル) アトは信濃川べりに出て、新潟まで銀輪を走らせるだけ。 突き当りを左折して、北へ。一つ目の辻で右折、東へ。 水路沿いの広い道に出たので、ここで左折して北へ。 とにかく北へ向かえば信濃川にぶつかる筈。(弥彦山<左>、角田山<右>遠望) 西方向に弥彦山と角田山が見える。弥彦山の左側には国上山が勿論見えていましたが、写真にはその右裾しか写っていません。(粟ヶ岳<右>遠望) 東方向には、粟ヶ岳がその雄姿を見せている。 北に向かって走っているつもりが、それと意識せずに左へとカーブしたようで、気づけば西寄りに進んでいたようで、柳川新田地区の井栗公民館旭分館の前に。細長い緑地になっていて遊歩道が続いている。 目の前に信濃川沿いに通っている県道1号線が見える。車の往来が頻繁で、自転車には走りにくそうな道。堤防の道に上がってしまえば車の走行もないのだろうが、もう少し先までは信濃川堤防・県道1号線を横目に見つつ、これと並行する一般道を走ることとする。 少し来た道を戻り、水路沿いに進むこととする。 水路沿いの道に出る手前で見かけたのがこの「虎」。(道の辺の「虎」<多分>) 口の牙から猛獣だろう、今年は寅年だから虎だろうと判断した次第で、虎と名前が書かれていた訳ではないので、虎かどうかは定かではない。(信濃川) どの付近で信濃川の堤防の道に上がったものか記憶が曖昧であるのだが、信濃川が大きく蛇行する手前の柳場新田付近かと思う。 すぐに、三条市から加茂市に入る。加茂市に入って小さな川が流れ込むところの橋を渡ると、堤防道は県道と分かれて大きく左にカーブし信濃川の流れに沿って行く。S字カーブをして、再び県道1号線に沿って並行する道となった付近で目に入ったのがこの神社。(日枝社)(同上・拝殿)(信濃川堤防の道) 五反田橋を越えた付近の堤防道で、買って来たパンで昼食。 河川敷には卯の花が咲いて・・。(信濃川河川敷の卯の花) 水分補給の休憩。(水田揚排水機場) こんなポンプの展示が目に入ったので、休憩することに。 堤防の道は木陰もなく休憩に適した場所になかなか出くわさないのが難点である。(同上) 説明プレートには「このポンプは。旧水田揚水機場において、昭和17年から昭和63年まで、周辺水田1300haの用水確保のため活躍した口径約38インチ(965mm)吐出量3750立方尺分(1.8㎥/秒)の渦巻ポンプであります。当時は、ゐのくち式渦巻ポンプと呼ばれた最新鋭の大型遠心式渦巻ポンプであり、その技術は現在へも継承され、農業の発展、向上に長期間寄与してきたものです。」とある。 人が大口を開けているようにも見えて面白い造形である。(同上・説明板)(同上・案内板) 案内板の地図で、現在の位置を確認。 信越本線で言うと、田上駅を少し過ぎた付近で、矢代田、古津、新津はまだ先という地点である。(オニアザミ) 堤防道は撮るべきものは何と言ってなく、景色か花くらいです。 ということで、道の辺のアザミの花と護摩堂山遠望の写真。 アザミの向こうの河川敷は田畑が広がっている。 信濃川の河川敷は、河川敷であることを忘れてしまうほどに広く、果樹園や田畑に利用されているところが多い。(護摩堂山遠望) 護摩堂山は昔、アジサイの咲く季節に登ったことがあるが、どの峰がそれであるかはよく分からない。多分右端の峰がそれではないかと思う。 そして、こちらの河川敷には菜の花が満開。(信濃川河川敷の菜の花畑) そして、愉快な光景。 河川敷の公園に、巨大キノコの隊列。(雁巻緑地) 地図で調べると、此処は雁巻緑地という場所のようです。(同上) キノコの隊列をやり過ごして見えて来たのは小須戸橋。(信濃川沿い・小須戸橋付近) 県道1号線は小須戸橋東詰で県道41号線と交差している。 ここで、県道41号を右に行けば、信越本線の矢代田駅前である。 新潟駅はまだ遠い。(信濃川河川敷の藤の花) 藤の花も咲いている。 伊久里の森の藤の花ならぬ、信濃の川の藤の花である。 常かくし見む、と言いたいところであるが、大阪人のヤカモチはそうもゆかないか。(オニタビラコの群生) こちらは土手一面のオニタビラコ。ニガナかも知れないが、ここはタビラコとして置こう。 それやこれやと走っているうちに、ようやく前方にビッグスワンが見える場所まで帰って来ました。 もっとも、下の写真はズーム撮影なので、肉眼ではまだ遠くに見えるだけなのであります。(前方にビッグスワンが見えて来ました。) ずっと、堤防道を走るつもりでいたが、この先のどこであったか、堤防道はなくなり、県道1号を車と並走しなくてはならなくなる。 しばらく車と並走するが、走行車両が多く、道幅も狭いので、和田地区付近で、県道1号を回避し、磐越自動車道に沿った一般道を走るべしで、脇道へ入る。(磐越自動車道沿いの道の卯の花) 磐越自動車道沿いの道は、日陰になる部分も多く、涼しく、県道1号は勿論、堤防道よりも快適に走れる。 ビッグスワン(アルビレックス新潟のサッカー競技場)のある鳥屋野潟公園の西へりを走って、新潟駅方面へ。(鳥屋野潟・親松導水路に架かる橋の上から) もうここまで来れば、新潟駅前はすぐである。(鳥屋野潟近くで見かけた面白い建物) 最後に、鳥屋野潟公園近くで見かけた派手な彩色の建物の写真を掲載して、この銀輪散歩の締めとします。<参考>銀輪万葉・新潟県・長野県篇We stand with Ukrainians.(STOP PUTIN STOP WAR)
2022.05.15
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