星の国から星の街へ(旧 ヴァン・ノアール)

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2021.09.16
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 2014年にシャンパンの街「ランス」を訪問した際に、画家「藤田嗣治」が自らプロデュースした「フジタ礼拝堂」に足を伸ばしました。



 滞在したホテルから徒歩圏内で標識の上から3つ目にも「Chapelle Foujita」とありますが、
その後に標識がなく随分迷ってやっと到着しました。

「藤田嗣治( 1886-1968 年)」が1905年に東京美術学校 (現在の東京芸術大学美術学部)に入 学した当時は 日本の画壇はフランスから帰国し32歳の若さで東京美術学校の教授に就任した「黒田清輝(1866-1924)」たちのグループによる印象派や写実主義がもてはやされていて藤田の画風はその中で全く不評だったようです。

 黒田清輝は 洋画家の第一人者として学校の美術の教科書にもその絵が載っていますが、元々は 薩摩藩士の子として司法を学ぶため 1884 年に渡仏し、その時浮世絵の画商として成功を収めながらも印象派の画家たちとも交流を深めていた「林忠正」と出会い、彼の勧めもあり渡仏の 2 年後に画家に転身しています。

 もし藤田嗣治の絵が当時日本で好評を得ていたら、1913年に
単身絵画を学ぶためにフランスへ行くことは なかったのではと想像します。渡仏後 モンパルナスに居を構えた藤田はモデイリアーニやピカソなどと親交を深めていくことになります。

 渡仏から6年後の1919年に「サロン・ドートンヌ」に初入選し、1922年に日本画に用いる筆も使って描いた「寝室の裸婦キキ」でパリの話題をさらった藤田は早々に彼の実力をパリで開花させた感があります。

 ただ彼の人生は第二次世界大戦の勃発によって強制帰国を余儀なくされたり、戦争画を描いたことでGHQの取り調べを受けたりと歴史に翻弄されてもいます。

 戦後の日本の状況に嫌気がさした藤田は1949年にパリに戻り、1959年にはランスの「ノートルダム大聖堂」で洗礼を受けた後1966年シャンパンメーカー「G.H.Mumm」社の資金援助を受け
礼拝堂を完成させます。亡くなる2年前のことです。


​​​ 「フジタ礼拝堂」の真ん前にある「G.H. Mumm」社  ​ランスの「ノートルダム大聖堂」 ​​​

 これで何故「フジタ礼拝堂」がランスにあるのか納得です。礼拝堂で5人目の妻になる君代さんとフランス人として静かにこの地で一緒に眠っています。

 思えば人との偶然の出会いが大きく人生を変えていくきっかけになるのだなぁとしみじみします。因みに林忠正はパリから500枚ほどの印象派の絵画を日本に持ち帰り、体調を崩した彼がこの絵を展示するための「西洋美術館」を建てる計画を何人かに託しますが、その依頼を受けた1人黒田清輝がそれに手を貸すことは無かったようです。











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最終更新日  2022.05.04 16:39:57
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