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私達人間を含め、この宇宙に存在する森羅万象、すべ ての生命には
神の魂が宿っているとされています。
もちろん人間は万物の霊長として神様がお造りになった生命体です。
私達はこの神性にめざめ、神の御心に添って生きることが
一番大事なことではないでしょうか。
それが神の道であり、 神道
なのだと考えます。
生命の大切さを知り、日々生かされていることに感謝を捧げ、
いかなる時でも神と共にあるということを知り、
強く人生の道を歩みましょう。
本日は八幡信仰の2回目です。
景行天皇→日本武尊→仲哀天皇(后は神功皇后)→応神天皇
先ず、 仲哀天皇 が大和から九州に向かって出発されたのは17歳の時です。
祖父の景行天皇の時、父親の日本武尊が熊襲を一度平定していますから、大和で豪族間の抗争が多少あっても、この遠征の先頭に仲哀天皇が立たれたのは、当然のことでしょう。
このとき、帝は異母姉にあたられる ヒコノイラズメ (24歳ぐらい)と、その守り役で、仲哀天皇と同じ土師部一族の出である、 建内宿祢(たけしうちのすくね )を同行されていました。
ヒコノイラズメは、帝とよく似ておられたので、男装をして天皇の影人として同行されたのです。
この遠征の目的は、次の二点にありました。
当時はまだ成立して間もない大和朝廷は、近隣の豪族と、抗争をくり返していましたが、これに対処するための新しい武器(鉄器)を多数手に入れること。
しかも、当時の一大貿易センターであった北九州の地を支配下においていた熊襲族を征服することによって、それを手に入れ、同時に朝廷の威力を示そうというものでした。
山陽道を通り、門司に着かれた帝は、ここで新羅系の巫女妻に、熊襲族との戦いの結果と朝鮮出兵についての占いを、ご自分が審霊者となって行わせておられるのです。
この占いの最中に月食がおき、仲哀天皇は大きなショックを受けたうえに、亀甲の占いは凶と出て、その計画は取りやめられたのでした。
しかも、仲哀天皇は若松付近で病に倒れられ、熊襲族と戦う前に亡くなられてしまったのです。
そこで、建内宿祢は、仲哀天皇の死を秘密にして、ヒコノイラズメを総大将に立て熊襲との戦闘に入りますが、建内宿祢が工作をして、クマソタケルとヒコノイラズメとの間の和解を成立させ、戦闘状態を終結させます。
熊襲との同盟を成立させた大和軍は、約二年間九州の宇佐にとどまり、熊襲軍の援助により戦陣を再編成しました。
その間に、ヒコノイラズメが男子を出産し、カルノミコト(後の応神天皇)となずけられます。
そして、このカルノミコトを皇太子として、その後見人にクマソタケルがなり、渡来の新しい武器を持った大和遠征軍と熊襲の連合軍が、大和をめざして帰路につくことになるのです。
しかし大和では他の天皇を擁立する動きがあり、応神天皇に対する強烈な拒否反応が存在することになり、遠征軍が簡単に大和の地に入ることが不可能である現実があったようです。
その為、応神天皇をたてた大和遠征軍と熊襲族の連合軍は、難波に着き、大和に入るための工作をするのですが、それ以上、大和へは進軍することが出来ず、七年間の月日を費やしています。
さらに、九州から出発した応神軍がたどった道筋を見てみますと、山陽道を通ってはいないのです。
これは、神功皇后をおまつりした神社の所在を追ってみるとわかるのですが、他のルートを通っておられ、のんびりと凱旋帰国するのではなく、秘密裏に、しかも早急に大和へと向かわなくてはならない理由が応神軍にはあったようです。
それは、応神天皇を立てたヒコノイラズメとクマソタケルのいわゆる騎馬民族系部族による軍事クーデターであったようです。
さて、足止めを受けている間にも、応神軍は河内周辺の豪族を征服して、そして、やはり新羅系の秦氏の王の娘を后として迎え入れております。
その勢力で周りを取り囲まれたあと、応神天皇は大和にお入りになり、そのあとふたたび難波に戻られ、難波に都をつくられたのです。
また、仲哀天皇には、大和に后を残されておられたのですが、その方は巫女として一生を終えられております。
こうしたことからも、ヒコノイラズメが神功皇后として伝えられた人であったことがわかり、神功皇后が仲哀天皇の死後すぐに天皇に即位されなかったという謎も解けてくるのです。
「古事記」には、神功皇后が新羅系の血を引く人であることが記されていますが、それは応神天皇にもその血が流れていることを意味しています。
ヒコノイラズメには守護神としてアマノウキメネノ命が、応神天皇にはヤマトタケツチ命が守っておられました。
以上のような次第であると、教えていただいております。
八幡神の祭神を応神天皇、神功天皇に擬して祀ったこと、しかも天皇の人格神として日本で始めて祀ったことは、騎馬民族の末裔であった熊襲族の並々ならぬ誇りがそこにあったのだと考えられます。
もともとの八幡信仰の本質は紀元前後、日本の各地で悲惨な戦争が行われた(倭国大乱)ことを、再びこの地で繰り返さないようにと発生した信仰だそうです。
つまり、不戦の神の性格を持ちます。
それが、後の時代のおいて、戦いの神のようになってしまったのは、祀る人々の都合と、政治的な駆け引きなどにより変容してしてしまったのは皮肉なものです。