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以前のT.Nさんのコメントから「○○さんのことを好きになってくれて、私も嬉しいよ。」相手の親、兄弟が結婚が成就した時言うのなら兎も角、友達なんて好き勝手なこと言うよ。 僕だっていくらでも言うよ、そんな事。 あのときの記事を読んだほかの人にも同じようなことを言われました。それを聞いて私は"本気で言っているのか?"と目を丸くしたものです。そして私は言いました。 「君の認識は間違いだ。それだけは 明 確 に 否定しておく。」 友達は好き勝手なことを言う。確かにそのとおりですね。そしてそのような人間を友と呼ぶあなたに強い同情を申し上げる。私はそんな友達はいらない。 私の人を見る目は絶対です。 雰囲気にあわせてテキトーなことを言っている人間などすぐにわかります。だってテキトーなことを言っている時の私にそっくりですから。私は大切な人にはそんな態度とりませんから相手も私のことを大切にしてないか、言葉の使い方も知らないただのバカか、どちらにしても話していても時間の無駄なのでほとんど相手にしません。 そして一般的によく愛し、よく愛される人、というのは言葉の使い方をとてもよく知っています。「はははは! とても俺にはそんな言葉出せないよ。まさに君にしか作れない言葉だな。」と感心することは多いです。 そんな彼らの言葉が圧倒的な説得力を持つのは、それが、自分が何年か生きてきた中で醸成された言葉、うわべだけマネしようとしても決して遠く及ばない言葉だから。私を使って例えるならSEIJIという名の樽の中で、何年も何年も熟成された年代物のワイン。それがうまいかまずいかは私は知らない。でも、確実にこの味は私にしか出せない。そういう言葉を皆持っているはずなのです。しかし多くの人は、誰も自分のワインを醸造せず、「あのワインがうまそうだ」と言っては砂糖やアルコールを混ぜた味付き色水しか出しません。人が人に惚れる。というのは結局、そのワインの味に惚れるのだと思うのです。だからそういう陳腐な言葉を使っている人をみると「やれやれ、その安っぽい色水でどうやって自分の気持ちを伝えるんだい?」と悲しくなります。 そしてあの時、私に向かって「嬉しい」と言ってくれた時、あの2人から、たぶん意図せず流れ出したワイン、あの味は間違いなくあの2人にしか出せないものでした。だから「確実に本当のことを言っている」と確信したし、私には理解できなかったし、でも嬉しかった。 私は講師の仕事をして、後藤芳徳氏の本を読んで、言葉の重さを痛いほど思い知りました。言葉を使いこなせなければ、伝えたいことも伝えられない。それがいかに不幸なことか。よく知っています。だから今でも、言葉についてはよく考え、よく学んでいます。 その私をつかまえて 「そんなこと、誰でもいえる」 とは、素晴らしい見識をしている、と申し上げるしかない。 安物で粗悪なあなたのワインと、私が口にした生涯で最高のワインを、一緒にしないでいただきたい。
2007.11.26
ちょっと前の「無能な働き者」うんぬんを書いているときにも思ったのですが、世の中ってかなりの部分、「やらないよりやったほうがいい」という、ものすごくいい加減な理屈で動いていたりするなぁと思うのです。例えば、 「100の労力をかけて1の成果しか上がらない仕事」 たぶんほとんどの人はそんなバカげたことに手をつけないでしょう。明らかに労力と成果が見合ってませんから。 でもこれが 「1の労力をかけて0.01の成果しか上がらない仕事」 になると結構な人が手をつけてしまうんですよね。なにせかかる労力がたったの1ですから。そしてこういう仕事に手をつける人に限って「とりあえず、やってみようか」とか「やらないよりやったほうがいいでしょ」とか言うわけです。さほど悪いことを言っているようには聞こえないかもしれませんが、よくよく考えるとこれって「私はバカです」と言っているのに等しいと私は思うのです。つまりかかるコストの小ささにだけ目をむけて、そこから得られるリターンの大きさを正当に評価してない、考えることを放棄している。ほぼ”0”といっていい微小の、あるのかないのかわからない成果を得るために、”私は仕事をしてます”という自己満足のために仕事を設定しているのです。 しかもこういう人って必ずそれを100回繰り返して最悪パターンである「100の労力で1の成果」という状態に陥っていたりします。しかもこの状態、恐ろしいことに「改善することができない」という特徴をもっています。 もし仮に「この作業は効果が見られないのでやめましょう」ということになったとしてもその人にとっては手間が1減っただけです。100回の非効率な作業設定を繰り返しているその人にとってはやはり残り99の不毛な作業が待っていますからあまり変わった実感がわきません。あげく「やめたところで何も変わらないじゃないか」とか言いながらまた再開し始めかねない愚かさをもってたりします。本人には何が「忙しくさせているか」がさっぱりわかってないのですよね。 これが指導的地位にある人だったら悲惨。その非効率な作業にかけられる手間は他人のものだから気軽にドシドシバシバシ仕事を押し付けます。配下の人間は「この作業に意味はあるのか」と常に疑問を持ちストレスをためながら仕事するのだと思います。私はゼッタイそんなのイヤですけど。 そういうのを「無能な働き者」っていうのだなぁと書きながら思っていたのですよね。確かに殺すしかない・・・。 その点、私を筆頭に「怠け者」という人種はコストとリターンの評価が死ぬほどシビアです。 「この私が働くのだから1の手間で10の成果があがる仕事がいいなぁ」 という感じのことを常に目論んでいるわけですし、人を使う場合は 「他人にお願いするのだから1の労力で20ぐらい成果があがる仕事じゃないと悪いなぁ」 とか考えるので、できれば私は怠け者の上司のところがいいです。 んで有能か無能かをわけるのは「本当に1の手間で10の成果を上げる方法を思いつくか?」の一点に尽きると思います。思いつかない場合は「1の手間で1の成果? けっ バカらしくてやってられるか。それなら寝てるほうがマシさ」といって本当の怠け者になるのです。(おぉ、私だ。) 昔、親父が「若いうちから暇じゃ暇じゃと言っている奴にロクな奴はいない」と言っていましたが、私は「忙しい、忙しいと言っている奴は頭が足りない人が多い」と思っています。 だから私は「忙しい」という言葉をまず言いません。 「俺は本当にムダな時間をすごしてないな? 非効率な作業設定はしてないな?」とよく自省し、それでも「ゴマと百姓はしぼればしぼるほどとれる」という言葉のようにさらに時間というのはとれるものなので、それでも「もうカスカス、1秒も出ません」という状態になってはじめて「忙しい」と言える気がするのです。福島先生という人を知っておいそれと「夢」などという言葉がいえなくなったのに似ていますが。 ただ、本当に苦行のような生活をしている人がいて、「うん、君は確かに忙しいね。」という人もいますけど、そういう人にかぎって本人はケロっとしていて「まぁ、ボチボチかな。」とか言ったりするので忙しいってのはあくまでも主観なのだなぁと。じっさい「ごめん、その日は○○で・・・」みたいなことが続けばほっといても他人は「忙しい人」扱いしてくるので自分でことさら「忙しい」というのはちょっと恥ずかしいし、ほかの人はよく恥ずかしくないなぁって思う。というお話でした。 まぁこのブログ書いてるうちは間違っても「忙しい」なんて言えませんよね(笑)
2007.11.25
データでわかる辛口性格診断http://www.jmrlsi.co.jp/cgi-bin/ego/diagform.plリーダータイプがあっているかはさておき、これはあたっているっぽい。エゴグラムを基にした性格診断って結構あたるのだね。特に悪いところがよくあたっている。自戒を込めて印刷してみた。ここにも載せておこう。『リーダータイプ』 - キャッシュ【あなたはこんな人】あなたは典型的な「リーダー」タイプの人です。想像力が豊かで明るく楽しい人柄で、仕事では実務能力に長け、バリバリこなす有能な一方、遊び心も十分備えたエネルギッシュな人です。また、社会的な評価を強く意識するため、物事を「成功か失敗」「勝ち負け」のように、白黒どちらかで判断する極端な面があるので、自分にも他人にも非常に厳しい傾向があります。「やっぱり、思ったとおりだ!」と満足げに思ったあなた!!そこがあなたの悪いところなんです。「黙ってオレについてこい!」の精神で仲間を引っ張っていくあなたは、周囲からも頼りがいのある存在として見られている反面、「オレがやらなきゃ誰がやる」というおごりが強く、自分が一番大切な、ナルシストです。あくまでも自分の意見を押し通し、相手に追従を強いるので、気が付かないうちに嫌われていることがあります。周囲は当然自分についてくると思い込み、勢いいさんで突っ走ってみたものの、ふと振り返ると、自分の後ろにはだれもいなかった・・・なんて経験はありませんか。そんなときのあなたははっきりいって鳥肌が立つほど"サムイ"奴です。それどころか、次はどこぞの突破者に背後からグサリと一突きに刺されたりして・・・。「自分はこうあるべきだ」という理想が高く、非常に忙しい日々を送っているあなたにはたまには落ちついて自分を見つめなおしてみる機会が必要でしょう。ゆとりができれば、もっと視野も広がり、自分にも他人にもやさしくなれます。他人の気持ちをもう少し考えることができるようになれば、もっとよいコミュニケーションが成立し、周囲へのあなたの信望もますます上がることでしょう。【仕事】あなたは仕事に強い意欲を持って取り組み、キャリアアップのためには多少のリスクも厭わない向上心の持ち主です。また自分でリーダーシップをとって仕事を進めていくタイプのため、起業をしたりフリーで働くのが向いています。仕事をするときは徹底的にやりますが、仕事一本槍ではなく、仕事も余暇も両方の充実を求めます。【あなたの恋愛観】あなたは恋愛に対して非常に積極的。「口八丁、手八丁」でLove&Sexのうまさはそれ以上!!恋愛経験も豊富です。また、独立心が強いあなたは、恋人と過度に依存しあうことを嫌います。相手も似たもの同士のカップルなので、とてもいい関係を築いているようですが、それ故に軽い気持ちで浮気を楽しむこともしばしば。罪の意識はあまりありません。ただし、くれぐれもスキャンダルにはご注意!!浮気をするなら計画的に!!恋人もあなたと同様頭のよい相手のはずですから、ばれないように。
2007.11.25
銀河英雄伝説をずーっと見てます。本編から見始めて時系列順の最後にあたるこの作品。重い・・・。ひとりの女性をただ一途に愛し、そのためにすべてを失った老軍人の物語。---------------- 「誠意や愛情がそれを尽くされる者にとっては負担でしかない場合もあるのだな」「人生は初級の数学ではない。方程式ですべてが解決するわけではない」 「これだけの愛情を注げば、これだけの結果が返ってくる。と、わかっているなら人生はなんと単純で明快なものだろう」「中佐、君は正しい。私より正しい」「私は度し難いナルシストだった。誰一人、私によって幸福にならなかった」---------------- 「この人のバーゼル夫人への愛は無償のものだった。それは、尊いものといってよいのだろうか。それとも単なるエゴ、なのか」----------------「私が誰に愛されたかということは問題ではありません。私が誰を愛したかということが重要なのですよ」「ミヒャエルがクリストフより善良で誠実な人であることは私にもわかっていました。でもね、お若い人。人間としての評価の高さと愛情の深さとの間にはなんの関係もないのですよ」---------------- 「ふられ男の恨み言か。バカバカしい。嫉妬のあまりの妄言ということで片付けられるさ」「余計なお世話か。だが、私に言わせれば3年前のカイザーリングがやったことこそそれだった。頼みもせぬのに罪をひきうけ私に無言の恩を押し付けたのだ。奴は昔からそういう・・・」---------------- 重要なのは誰かの愛を求めるのではない。自分が誰を愛したか、ということ。そしてそのことによって決して後悔しない、ということ。ミヒャエル・フォン・カイザーリンが後悔しなかったように、ヨハンナ・フォン・バーゼルが後悔しなかったように、彼、ジークフリード・キルヒアイスも決して後悔しない。その思いがキルヒアイス自身の記録であり、この一両日を確かに生きたという証であった。
2007.11.23
「バカはしゃべるな」私の考えを端的にあらわす言葉です。あまり深く考えずに言い出した言葉のワリに世の真理をうまくあらわしているのではないかと結構気に入っているのですが、いかんせん語感がエキセントリックに過ぎるのでもっと良い言い回し方はないかと探していたら、やはり世の真理ならば誰かいい言葉を作っているものですね。ドイツの軍人、ハンス・フォン・ゼークトの組織論として一般に知られている言葉がそのまま、あてはまる気がします。「軍人は有能か無能か、 そして働き者か怠け者か、 これらによって4種に分類できる。 有能な怠け者は司令官に、 有能な働き者は参謀にせよ。 無能な怠け者は... そうだな、連絡将校ぐらいならできるだろう。 無能な働き者? それは処刑するしかあるまい。」私は少なくても働き者ではないので処刑される恐れはないと思うのでそこは一安心なのですが、確かに始末に困るのは「無能な働き者」だとものすごくうなずけるところです。戦争が身近なものでなくなった現代社会において有能か無能かをわけるのは「適切な判断を下せるか」だと私は考えます。そして働くとはどういうことか。それは現代においては「指示を出す」「行動する」ということ。なので現代語訳にすると「(適切な判断ができない)バカはしゃべるな。動くな。」となるわけです。もちろん判断というのはその分野についての多面的な知識・経験に裏づけなしには成り立ちませんから、どんな人でも「○○には有能。でも、□□には無能。」であるという側面を持っているので、自分は有能である、無能である。などということは一概にはいえません。だからこの言葉は逆に自戒の意味もこめているのですよね。「自分の手に負えないと判断する時は、極力判断するな。口を出すな。有能な人間の言うとおりに動くことだけを考えろ。」と自分に言い聞かせるわけです。これでも昔は無能な働き者の典型で、まわりが働いているというプレッシャーに負けてよくわからんままに手をだして逆に迷惑をかけることが多々ありました。なので今は「この場では明らかに私は"無能"だ。ならば(自分の判断では)何もしないのが"最善"」と考えられるようになりました。いやぁ、ホントに大人になったなぁ。そして翻るに、他人が明らかに合理性を欠く判断の下に指示を連発していたり、近視眼的な行動で足をひっぱられるのを見ると「頼むからじっとしててくれ。」「あんた一人で苦労するのは勝手だが巻き込まれるこっちはたまったもんじゃない」と言いたくなるのですよね。そんな苦労が何回もあったので知らない間に「バカはしゃべるな」が持論になったのでしょう。余談ですが民主党であの時何があったか、私には目に見えるようだったりします。福田総理も小沢代表も有能な政治家であり"大連立"が自民党にとっても民主党にとってもひいては日本国にとっても有益であると判断して小沢代表は党に持ち帰った。そこで小沢代表を待っていたのは近視眼的バカの猛反発。「衆院選で政権交代を目指すのではなかったのか!」「各選挙区はどうなるのか!」「自民党の風下などに立てるか!」「対決路線はどこにいったのか!」「地方の後援者にどう説明・・・」 誰一人、「民主党は政権担当に対して大きな疑問符をつけられている。どのような形であれ政権を担当し国民にお約束した公約を実現するという成果をあげ連立解消後の総選挙で政権奪取を目指す。首相の連立提案は参院選快勝の成果であり対立路線と矛盾するものではない。さらに個々の問題は決して解決できない問題ではない。」という小沢代表の言い分にまったく聞く耳をもたず「イヤなものはイヤだ」の一点張りの党内に小沢代表は心底失望してやる気が失せた。辞任会見の時の「民主党は力量不足」などの言葉はバカに対する痛烈な批判だったはず。ただバカはバカで「小沢さんがいないと選挙に勝てない。党として維持できない。」というこれまた極めて近視眼的な理由で慰留し、小沢代表も「こんなバカどもにまかせておいたらそれこそ二大政党制など夢のまた夢。私が投げ出したらすべてが終わる。」と考えなおして復帰。そのような流れだと思います。少なくても批判に抗いきれずに倒れた安倍さんとは違う理由だったのは明白なのですがそれを安倍さんと同列に扱うマスメディアもどんだけ底が浅いのだとこちらも失望してました。少なくても小沢さんが恥をさらしてでも復帰したことでかろうじて民主党の存在意義が残ったと勝手に思っています。ちなみにゼークトのそれぞれの適正配置の理由は以下のようです。■有能な怠け者は司令官に。自分には不向きなこと、やるのが面倒くさいことは、他人を利用して上手く押し付けるため ⇒ 他人の能力を信頼し仕事を分担して任せることで、結果的に組織を効率的に運営できる。自分はできるかぎり楽をしたいので、常に最小限の労力で最大限の効果が得られるような画策をするため。 ⇒ 有能だから、そういったやりくりは実に上手い。■有能な働き者は参謀に。他人にも自分と同等の完璧さを求めたがり、他人の無能ぶりがとことん許せないため。 ⇒ 人の能力をあまり信用せず、結果的に何でも自分でやりたがる傾向に陥る。完璧を欠けさせる失敗をしたくないので、常に最悪の事態が生じる可能性も考慮し、あらゆる場合に万全に対処できる下準備 (戦略的優位の確保) の労を惜しまないため。 ⇒ 働き者で完璧主義だから、どこまでも先を見通してすすんで何らかの策を講じる。■無能な怠け者は連絡将校(又は君主・下級兵士)に。自ら考え動こうとしないので、参謀や上官の命令どおりに実行するため。■無能な働き者は処刑せよ。働き者ではあるが、無能であるために間違いに気づかず進んで実行していこうとし、更なる間違いを引き起こすため。 どうせ怠け者に生まれたのなら、司令官にふさわしく「有能な怠け者」になりたいですね。そして、私のこれからの人生は、私の悪いところを補う「有能な働き者」を探す人生なんだろうな。とゼークトの言葉を考察する上で思いました。see also...ハンス・フォン・ゼークト - wikipediaTalk ~ 有能か無能か、働き者か怠け者か
2007.11.16
ラジオで使おうと思って初音ミクで作った音源を探していたのですが、そんな中で懐かしい曲を発見。 スーパーファミコンのゲーム「MOTHER2」のエンディング曲「SMILE & TEARS」 それまでのRPGのほとんどが「剣と魔法の世界で勇者が魔王を倒す」というようなのばかりだった中、コピーライターの糸井重里が作った近現代のアメリカの田舎町をイメージするなんとものんびりした世界をバットやフライパンで戦うやさしい少年少女たちが誰もしらないところでちょっとずつ世界をよくしていきそして最後は世界を救うという少し不思議なストーリーがとても印象的だったMOTHER2。 名曲と名高いED曲は当時スーパーファミコンだったので歌などあるわけもなくメインメロディが流れるだけ、歌詞は説明書?についてるのみだったのですが最近ファンの方が初音ミクというソフトで女性の声をつけてくれて聴きやすくなってました。 ゲームも純粋で好きだったのですが久しぶりに聴いて「大人たちの半分も生きてはいないけれど~♪ 思い出の数ならばリュックに一杯さ~♪」という歌いだしのところがとても気に入ってよく口ずさんでいます。 http://jp.youtube.com/watch?v=dx-yrKD1Xxk(本当はニコニコにある動画の方がすごくよいのですけど…。) それで今日もいつものように「SMILE and TEARS」を聴きながら作業していて何の気なしに歌詞を検索したら全歌詞が…。 "SMILES&TEARS"詞:糸井重里 曲:鈴木慶一大人たちの半分も生きてはいないけれど 思い出の数ならばリュックに一杯さお気に入りの baseball cap かかとつぶれた sneaker ポケットの奥にあるよ すり減った guitar pick 涙ちぎれるぐらい悲しい事もあったけど いつでも君が僕のそばに居てくれた友達のままいると二人ずっと思ってた 気付かないまま多分君を愛してた 笑いあったり遊んだり傷つきながら歩く 近道もまわり道も迷いながら憶えた信じられる人だけいる訳ないとしても 信じる heart だけは捨てられないと知った ありのままの君だけが僕を強くしてくれた いつでも君が僕を強くしてくれた 優しい風が吹くように 草を撫でていくように いつでも君は笑顔見せて歩いてた そう涙と笑顔かわるがわるに見せあった二人は… (I miss you) 遠くに離れて…まさか、こんな歌詞だったとは・・・。 ちょっと泣きそうになった・・・。
2007.11.15
世の中狭いなって。何のことかここで書くのはちょっと控えるにしても、世の中狭いってのは今回だけじゃない。かなり前からというか今でもだけどとある高校の先生が作っているサイトがおもしろくてよく見てた。なんと趣味を通じてネットで知り合った人の先生だった。私と同じ兵庫県の人だから日記に出てくる地名とか馴染み深いものだったけど、いくら近くとはいえ神戸周辺に何人住んでると思ってるんだ。福島先生が「とある人ととある人をつなげる紹介者の平均は3人?(数字はうろ覚え) 3人挟めば世の中の誰とでも会えるのです」と言っていたのですが確かにそれぐらいのつながり方しているのがこのような所から。でも今回、ホームページ見ててすこし動揺したのは内緒です(笑)
2007.11.09
数回前のエントリーでヤングサンデーで連載中の漫画「都立水商!」について書きました。大人の恋愛において・・・という一節が心に残ったのでこのブログでも取り上げたのですが、1週休載して今日その次の話が今日発売の号に。 読んで、 正直、 固まりました。 主人公の田辺圭介とフーゾク科の講師、吉岡あかねはお互いに好き同士。しかし過去に自分のせいで父親を死なせてしまったと思い込んでいる吉岡は"自分は幸せになってはいけない"と田辺の気持ちを受け入られず、そんな吉岡を田辺は一途に想い続けているという状況。そんな田辺を好きになってしまったホステス科の近藤明美は日に日に深まる二人の仲にあせる一方。そんな中、マネージャー科の敏腕講師・黒沢忠夫はそんな近藤に「田辺先生との仲を私がとりもちましょう」と校外実習にかこつけて酒に弱い田辺を泥酔させ近藤にホテルへと連れ込ませる。 「大人の恋愛において、どんなに互いに好き合っていても、"関係"がなければ、それは何もないのと同じことです。田辺先生と寝てしまいなさい。」 これが前回までのお話。そして今回・・・ 実習の監視役として二人がホテルに入っていくのを黙ってみている吉岡。そして彼女と同じように何かをこらえるような顔でホテルを見上げる黒沢に気づきます。「どうして黒沢先生が」「一杯つきあいませんか。吉岡先生」 「あなたはもしかして近藤先生のことが・・・」 「確かに 私の近藤先生への想いは"特別"なものです。しかし彼女にとっての私は、特別ではない。そのベクトルの向かう先は・・・」 「ならばいっそ田辺先生とうまくいってしまえばいい。」 「手の届かない存在になってしまえば、 私は絶望し、 救われる。」 壮絶・・・。 黒沢先生が近藤先生を好きだなんて、まったく気づきませんでした。 確かにあの後モンブランで全巻読み返したとき、今考えるとそう思わせる描写はあったのですが、それ以上に何事に対しても理性的・理論的で、冷静沈着の堅物、をじでいく黒沢先生が"誰かを好き"だなんてこと想像できなかったのです。 だとすれば、おせっかいな第三者をきどり、完璧なダンドリで、自分の好きな女性の恋を応援し、あげく「田辺先生と寝てしまいなさい」と言い切ってしまった黒沢先生の気持ちは・・・ 二人がホテルに入っていくのを見ているときの気持ちは・・・ 理性的で理論的な黒沢先生だから、自分の置かれた立場、すべきことを、、、そして、その行き着く先が「絶望して、、、救われる」だとは。壮絶。という言葉しか出ません。 バーを出るときに吉岡先生が言った言葉。それを聞いたときの黒沢先生は後ろ姿しか描かれていませんでした。どんな表情でこの言葉を聞いていたのか。 「お気持ちはわかります、、、 でも、それで あなたは救われるのですか。」
2007.11.08

一つ前のエントリーで紹介した記事の中に「非コミュ指数」というのがあったので試しにやってみたらこんな結果になった。 非コミュ指数: 12(レベル0/コミュ) 【タイプ説明】1)不器用型空気が読めなかったり社会的適応能力が低いタイプ。いわゆる本来の「非コミュ」。アスペルガー症候群の可能性もある。2)無関心型遁世的で、他人とのコミュニケーションに余り価値を見出せないタイプ。「孤独力」が高く、ひとりでも全く気にならない。3)人間不信型家族以外の原初的な他者承認(当サイトでは「基本的承認感」と呼んでいる)が十分でないため、他人を信頼し、深い関係を結ぶことが難しいタイプ。4)オタク型興味が偏っていたり、一般的ではないために、他人と共通の話題を見出しにくいタイプ。 最初、「これ、壊れてるのか?」って思ったもの。レダーチャートなのに模様ないから。でも最近おしゃべりにさらに磨きがかかってきたと思っていたけどこの指標によれば私はコミュニケーションにおいてはまったく問題ないな。ちょっと人間不信気味なだけで。でも確かに疑り深いからなぁ。他人というものを信用しないしアテにしない。常に"裏切り"に備えている気がする。だから基本一人を好むのだと思う。でもこれはこれで騙されてにくくて良い気がするけど・・・。ということでおもしろいのでぜひ見た人もやってみてくださいな。非コミュ指数テストhttp://www5.big.or.jp/~seraph/zero/discomm.cgi追記:うぅ・・・統計みたら3割の人が10以下なのか・・・。ワリと高いな。もっと他人を信頼できるようになろう・・・。
2007.11.07
マイナスをゼロにする努力や才能と、ゼロをプラスにする努力や才能はまったく違うよね、という話http://d.hatena.ne.jp/Masao_hate/20070713/1184316044ブックマークを整理していたのだけど、こんな記事を見つけた。まったくそのとおりだなと思う。この1年ぐらいでほぼすべてのコンプレックスが解消されてキライでたまらなかった自分が今では好きでたまらない。ようやくこの記事でいう「ゼロの状態」にまでなれたのだと思った。ただその後しばらく「つまらん。何をしていてもつまらん。」という症状に陥った。そのときにこの記事を見つけて「お前は俺か。」と思って登録しておいたのだった。それからだいぶ時間が経って、今では逆に「世の中すべてがおもしろい。」という状態に入っている。知ること、学ぶこと、想うこと、考えること。それらを積み重ねていけば何をしていても楽しい。やっとこの記事でいう正の部分に入ったのだと思う。さんざん痛めつけられ、自分というのが何者であるか否応なく考えさせられたこの1年。そして助けられたのもやっぱり同じ人たち。そんな機会を与えてくれた人たちに、感謝しても感謝しきれないな。
2007.11.07
「○○さんのことを好きになってくれて、私も嬉しいよ。」私が今まで人からもらった言葉の中で、最も感激して、最も嬉しかった言葉です。しかもこの言葉をくれた人は二人もいました。二人目にこのセリフを言われたとき、私はあのときほど"自分の人を見る目"が絶対であると確信したことはありませんでした。 私はちっちゃい頃、ドラえもんが大好きでした。小学生の頃、小遣いでまっさきに買っていたのがてんとう虫コミック『ドラえもん』 弟と競争しながら補いあいながら全巻そろえたものです。本当に好きで好きである日、金曜7時からのテレビ放送を何かで疲れて寝ていて見過ごしてしまった時「なんで起こしてくれなかったんだ!」と家で暴れて親父にドツかれたこともあります。でもただ1回のテレビも見逃せないぐらい大好きだったのです。ドラえもんの中の名作と言われるエピソードは数あれど、私が最も好きなエピソードが『のび太の結婚前夜』です。最初に読んだとき、小学生ながら涙が止まりませんでした。(それは今でも変わりませんが)でもそのすばらしさを私の文章力では表現できないなと思っていたらネットですばらしい解説があったのでそちらを引用させてもらうことでかえさせていただきます。未来ののび太としずかの夫婦を描いたお話はありましたが、「結婚前夜」がひと味違うのは、のび太の成長を描いている部分にあります。のび太とドラえもんは、しずかと出木杉の仲の良さを不安に思い、未来ののび太の結婚前夜を見に行きます。そこではちゃんと、のび太としずかの結婚前夜が描かれ、ジャイアン・スネ夫・出木杉達に祝福されるのび太がいます。しずかをめぐるライバルだったはずの彼らに心から祝福されているという事、それはのび太が成長し、しずかの人生を任せられると彼らが認めた証拠です。また、親子三人で静かに結婚前夜のお別れパーティーをした源家(しずかの実家)では、この期に及んで結婚を迷うしずかに対し、彼女のパパがこう励まします。「のび太くんを選んだ君の判断は正しかったと思うよ。あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。それがいちばん人間にとってだいじな事なんだからね。彼なら、まちがいなく君を幸せにしてくれると僕は信じているよ。」この彼女のパパのセリフは、これから自分の娘を預ける父親として、婿になる男に対する評価としては最高の賛辞でしょう。この時、のび太青年は、自分の花嫁の父親にこんなセリフを言わせるぐらい、立派に成長していたのです。しかも、ここには既にドラえもんはいません。のび太はこれ以前に、ドラえもんとの正式な別れを迎えていたことになります。大人として立派に成長し、ドラえもんと別れ独立していくのび太。ドラえもんという作品は、このゴールに向かってのび太が成長していくまでを記録する作品だったのです。ドラえもんコラムhttp://www.ceres.dti.ne.jp/~toshio/DoraColumn/DoraColumn006.html運動も勉強も何もかもダメ。困ったことがあるとすぐドラえもんに頼る上に調子にのって大失敗までやらかすどうしようもない男の子。でもそんなのび太を絶対に見捨てないドラえもんとのび太を私が大好きだったのは二人が困ってる人を見たら放っておけない、ほかの人が喜んでいるのをみて自分のことのように喜べるすばらしい子どもだったから。そしてそれをハッキリと短い言葉で称えてくれたしずかちゃんのパパのセリフに自分のことのように喜んだものです。それ以来、私の人の見る基準はすべてあの「人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができるか」になりました。優秀か、金持ちか、正直か、優しいか。そんなことは二次的なこと。たとえどんな大借金を抱えていようが性格に難があろうがどんなブサイクな顔をしていようが、この気持ちを持った人となら一生を供にしてもたぶん満ち足りた日が送れるだろう。だって私にとってはあれだけ好きだったのび太とドラえもんなんですから。なのでドナが死んでから、いや、キャシーを飼いはじめた時から、私にとって親は絶対のものではなくなりました。「この人たちは私とは、私が好きな人とは大切な所で異なっている。」だから、あの冒頭の言葉を聞いたときの私の驚きはいかばかりだったか。私が誰を好きになろうがアナタには関係ないでしょう? うまくいったのならばともかく、「好きになった」ことが「嬉しい」? 論理的にまずありえない。私にはまったく理解できない。でも、その言葉が、何よりも嬉しかった。ああ、しずかちゃんのパパが言っていたのはこの人たちのことなんだなって。よかった。私は思い込みや勘違いに好きになったわけじゃない。ちゃんと自分が最も大切だと思うものを持った人を選んで好きになったんだ。って。 私はまだ、のび太にもあの人たちにも遠く及ばない。誰かが誰かを好きになったとして「素晴らしい」と思ったり「よかった」と思うことはあっても「嬉しい」と思うことはない。それは結局のところ他人事だから。他人に起こったことを、感情の変化を「嬉しい」と思う気持ち。私にはまだわかりません。 だから、まだ仮説、ですけど私の持論は正しいのかもしれませんね。 「"優しさ"以外のすべての素養は後から身につけることができる。」 私には一生無理なのかも。 see also...のび太君のゆううつhttp://www2.neweb.ne.jp/wc/uchimura/mypage/H02.html
2007.11.03
ウチの家は昔からずーっと犬を飼っているのですが、その中に阪神大震災のときに家のあちこちにヒビがいったりしたのでその改修とついでに改築をした時にその大工さん?が連れてきた犬で『ドナ』という名前の犬がいました。今までうちにいた犬は私が覚えている範囲ではすべてメスだったのですが、はじめてのオス犬であるドナのやんちゃなことやんちゃなこと。家の塀に並べてある瓦は落とすわ植木鉢はひっくり返すわ、落ちてる洗濯物を噛みまくってビリビリにするわ、どんなに厳重にバリケード作ってもありえない奇跡の大脱走するわ、本当に大変な犬でした。でも私はそんなドナを一番かわいがってました。ドナは今までの犬で一番、私たち家族に愛着を示してくれたような気がするのです。もう、私たちの顔を見ようものなら尻尾をひきちぎれんばかりにふってとびついてくる。少しでも声をかけようものならひっくり返って喜ぶ。特に私はよく散歩に連れていっていたので私を見るといつも期待するように尻尾をふってワンワン言っていたのでそれをいつも微笑ましく見て、たまに本当に散歩に連れていくときは驚かせてやろうと意味もなく散歩用の紐を後ろに隠して急に見せる、みたいなことをやっていたのですが、それをやるといつも狂ったかのように走り出して喜ぶドナをみていつも笑ってました。私が島根に来てからもそれは変わりませんでした。私は当時していたアルバイトの都合で長期休暇でも2~3日しか帰らず年間でも1週間帰ることはなかったぐらい実家にいることはなかったのですが、それでも私のことを忘れず、久しぶりに見た顔をおおはしゃぎで迎えいれてくれるドナに嬉しくて島根に来た後もたまに散歩につれていってました。そんなドナの雲行きが変わったのは、うちの親が新しい犬を飼いはじめた時から。どこからかもらってきたという新しい犬「キャシー」はコリー?というのか私はくわしくないのでよくわからないのですが足が短くて胴が長く、チョコチョコ歩く毛並みのいい、まぁそういうのに興味がない私に言わせても見た目のよい犬です。しかも名前からわかるようにメスで、さらに室内犬として育てられたせいか、性格がとても大人しくて大変飼いやすい。そんなこともあって両親ともにあきらかにキャシーの方をかわいがりはじめました。両親だけではなく近所の人も弟もブラシをあててやったり散歩につれてやったり、キャシーのみにかまうようになってました。一方ドナはというと、今まで共働きで日中家を空ける両親の変わりに私たち子どもの世話と犬の世話を一手にひきうけてくれていたおばあちゃんが体を悪くして東京の叔父のもとへ言ってからというもの「家においておくと吼えたり逃げ出したりして近所に迷惑がかかる」という理由からかあの尼崎の父の会社に連れられていき、しかも夜も週末もたったひとりぼっちで大量のドッグフードだけを置かれて置き去りにされるという扱い。それでも私たちが会社にいくといつも嬉しそうに尻尾をふって迎えてくれるのは相変わらずでした。 そのドナが死んだのは去年の春先だったと思います。 帰ったとき、親父が「ドナが調子悪そうだ。」と言いました。私たちが会社に行った時はもう尻尾をふって飛びついてくることもなく、へたり込むだけ。体も痩せてました。その日は金曜日だったので週末二日間、このドナをここに放っておけない、家に連れて帰ろう、そう親父に主張したのですが聞き入れられませんでした。月曜日の朝。倉庫の中で汚い布切れに身を包んだドナは目を覚ましませんでした。寒かったのでしょう。機械を拭くための油まみれの布切れの入った箱に入ってちっちゃくなって死んでいました。長年過ごした宝塚も新参に奪われて帰れず、あんなに散歩が好きだったのに鎖につながれほとんど身動きがとれず、こんな暗い倉庫の中で寒さに震えながら誰にも看取られず、ひとりぼっちで死んだドナが私は、不憫で、可哀想でなりませんでした。そんな私を横目に「死んだか。仕方ないな。」というようなそぶりの親父にさすがにムカついたのでこう言いました。「こんなひどいことをする人間は、いつか同じようにひどい死に方をすることを覚悟しておくことだな。」ドナを宝塚で飼えなかったのは確かに私が信条とする「合理的」理由だったのかもしれません。しかし、10年以上、私たちにただひたすら愛着をむけてくれたドナの最後をかくも無残なものにしたのは未だに親父のせいだと思っています。これは未だに、これから何年経っても許せそうにありません。去年の12月、「お前はもっと優しい人間かと思っていた。」と言われたとき、どれだけ「アンタ達にだけは言われたくない!」と怒鳴りたかったか。ドナはその日のうちに宝塚に連れて帰り、庭の端に私の手で埋めてやりました。死んでようやく宝塚の家に帰れたなんてのはやはり今考えてもおかしい気がします。 キャシーは今でも近所のアイドルです。エサも世話もいろんな人からしてもらい、親も旅行の時はいつも連れてまわってます。この前は島根にも連れて来ました。私が怒って泊まらせなかったら親父は怒ってましたが、まったく予告なしだった以上に私がキャシーがキライなのもあります。そして、私が実家に帰った時のキャシーは相変わらず愛想のない犬で、もうさすがに家族だと知っているので吼えることはありませんが「ああ、いたの。」みたいな素っ気無い猫みたいなそぶりはどうしても好きになれません。親や他の人間がどうしてあんなに可愛がるのか、それが見た目のせいだとすればみんなマジで最低だと思います。だから私はいつもキャシーを見ると思います。 「お前はいいな。愛さなくても、みんなが愛してくれる。 ただ、俺はお前みたいな奴が大嫌いだ。」 ドナは私の顔を見ただけで本当に喜んでくれた。それが本当に嬉しかった。そんなドナが私は大好きだった。人でも同じように私の存在を喜び、愛してくれる人がいてくれることを本当に嬉しいと思う。だから誰に何を言われようが私は私なりのやり方で大切に扱う。でも何かの理由で離れなくてはならなくなったとき、私は「仕方ない」の一言で済ませない。できること最後までして、悲しむ。そして、キャシーのように、愛されることをさも当然、と考える人間は大嫌い。
2007.11.01
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