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・・・うす曇の陽射しの見えない今日だが、そんなにも寒くない。 南からは台風が来ているし、北からは寒冷前線で日本列島は、まるで自然の猛威の実験台だネ。煮られたり、焼かれたり、冷まされたり、と自然の前には如何な科学といえども黙秘するしかないようだ。 しかし、あらゆる事象も人類・人間・人の意識が関わっている事に量子力学等々が気づき始め、従来の学説も徐々に覆され始めている事実もあるようだネ。 皆さんは「自分の欲するものは誰の手を借りることもなく手にはいるのだ」と聞かされたとき、はたしてどのようにお感じになるでしょうか? 「あなたがこの現実の創造者」、私がお伝えしたいあなたへのメッセージはこの1点に集約されます。 今、あなたの目の前に展開している状況は、全てあなた自身が表現した現象です。あなたの意識のこの物理世界への現れを現実と呼んでいます。それがあなたの表面意識によるか、潜在意識によるかは別にして、あなたの見ている、そして感じている現状は、全てあなた自身の意識を原因として顕現されたものに他なりません。この現象世界とは、意識という原因による、結果の世界であるとも言えます。 この宇宙に存在する唯一の法則が「あなたの与えるものが、あなたの受け取るもの」であると伝えられました。あなたの与えた喜びが、あなたに喜びをもたらすように、心配事は、現実にその心配事を引きつけます。あなたの自信の無さが、そのまま、やっぱりダメだったという現実を生み出しています。そしてその困難な現実を、自分の思いが生み出した事を露ほども感じていないあなたは、自分の不安はやはり正しかったと自分の認識を強化してしまいます。 それがこれまでの社会の常識であったのではないでしょうか。「簡単にお金なんか儲かるはずがない」という信念を私も持っていました。人は見たものを信じ、体験したことを確信しています。そしてその自分の体験は、実は自分の確信が生み出した経験であることを知りませんでした。 既に量子物理学の世界では、観察者と、観察物は分けることができないということがわかっています。見る側と見られる側が一体であるという事です。何かを観察しようとする時、非観察物は観察者の影響を受けるというものです。ある新薬がガンの治療に効果があることを証明しようとするとき、その実験者の意図が観察結果に強い作用を及ぼしているという事なのです。 この宇宙に存在する根源はバイブレーション(波動)であると伝えられました。違いは波長、波形、周波数により起こります。全ての実在は、この根源の振動のバリエーションでしかありません。人の違いもこの波の違いに他なりません。肉体の違いも、性格の違いもそうです。素粒子の違いも、原子の違いもそうです。感情も、出来事も、時間も、空間も、そうです。全てが根源の波形の変形でしかありません。 そして波の性質はご存じの通り共鳴します。よく似た波形は共鳴するのです。ギターを二つ向かい合わせて、片方のギターを鳴らすと、ならさなかった方のギターも鳴り出します。これが共鳴現象です。あなたの思いも振動です。だからあなたが一番強く思ったものと同じ現実が、あなたの空間に表れて来るという事です。最も単純な、誰でも知っている物理現象です。 ではこれまで、どうしてこんな単純な論理が人に理解できなかったのでしょうか? それは見たものしか信じないという価値観ではないでしょうか。人はなかなか目に見えないものを信じようとはしません。そして自分の肉体の皮膚をいつも見ています。我々の目ではそれを振動として捉えることができません。 この皮膚感覚が、自分という意識と他を分離させています。そして自分は小さな個体であると勘違いしてしまっているのです。異次元からこの物理世界を眺めると、「あなたの信じたものをあなたは見ている」というのが事実だというのです。 「困ったなあ、今月も売上がたりなかったらどうしよう」この強い危惧の波動が、売上が足りずに困ってしまう現実を顕現します。そしてその現実を見て、不安な自分を確信していきます。「この競争社会でうかうかしてはいられないぞ」「人一倍努力しないと豊かにはなれないのだ」と。そして上司は部下に、親は子供に営々とこの認識を伝え広めてしまったというわけです。 「自分が信じたものを自分が見る」とはなんと素晴らしいことではないでしょうか。これまで欲しいものを手に入れるために、いったいどれほど他人を動かそうとしてきたことでしょう。手に入れたい状況を生み出すのに、人を動かす必要もなければ、お金が必要なわけではないということです。 私にできない事など無いのだ、制限など無いのだ、限界など無いのだ、全ての現実を作り出しているのは自分なのだ。誰でも、素晴らしい現実を自らの手で生み出すことができるのだ。誰の手を借りることもなく、誰かを傷つけることもなく。 そしてこの無限の力は、誰かには備わっているが誰かには無いという性質のものではありません。全ての人に、平等に、初めから、備わっている力なのです。 その事に気付く旅、その事を思い出す旅、それが人生です。 沈黙・寡黙・言葉の裏側・ページの背後・行間、意識と感性のの重要性。山高ければ谷深し・陽強ければ影深し、この世界は二律背反するもので成立っているのが現状だが、その背後に厳然としてあるそれぞれの人の意識が深く関わっている。 『芸術が自然を模倣したのか、自然が芸術を模倣したのか?』、なんてことを言った人もいたようだが、人の意識抜きにはこの地球上のあらゆる事は語れないようだね。 人間のエゴじゃなく、自然の宇宙の法則に則った・沿うような思考・言動が現在強く求められているのではないだろうか。現状のカオスの基は人間の意識の混濁から始まったものでもあると思えるのだから、尚更、それぞれのエゴからの発想から解き放たれなければいけないようだネ。 御釈迦さんの説く108の煩悩を、如何に減ずる事ができるかが、自然を守り再生し生活を心豊かに過ごさせ得る元になるのかの大いなるヒントが隠されているのかもしれない。 一千年前に言った言葉ですら真の理解を得れないままの現存の人類は、この間に何を得て何を失ってきたのだろうか?いったい何を積み重ねて来たと言えるのだろうかネ?・・・。 現存する諸問題も突き詰めれば人の意識ひとつで、あっという間に桃源郷・ユートピアが現出するのに・・・ネ?。 ・・・そこが一番難しいと言われて来たけれど・・・そうだろうか?この時代においては?
2007年11月27日
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・・・こんなのはどうだろう? ある時あなたは夢を持ちました。体験したい事を体験してみたいという夢でした。そして体験の場としてのスペースを創造しました。時空間(時間と空間)という意識の立体スクリーンを創り上げました。それが今、あなたが宇宙としてとらえている空間です。 時空間という三次元立体スクリーンに、無限遠点にいるあなたが綿密に設計したシナリオを投射し始めました。そしてあなたはそのホログラフィックな映像の世界をのぞき込むための鑑賞装置として、自分という意識を投影させる事のできる高性能リモコン肉体を開発しました。 あなたは夢を描き、その夢を立体スクリーンに投影し始めました。しかしそれだけでは単なる映像にすぎません。その映像を観察するあなたがいて初めてその映像は現実となります。そして今やあなたはその夢そのものに成りきっています。夢を完成させ、その夢の住人になるやいなや、その夢の中でまた新たな夢を想像し、新たな現実を創造していきました。「夢を描き、夢を実現させ、その夢の中で夢を体験する」ずっと、ずっと、今もそのパターンを我々は際限なく繰り返し続けているわけです。 夢を持ち、その夢を実現させ、夢の住人になろうと躍起になっているあなたは、初めに大宇宙を創造し、今もなお日常生活を創造し続けています。あなたは夢の創造主であり、その夢に自ら登場する事によって現実を創造します。 マネーゲームを創造し、マネーゲームのおもしろさをこれまで堪能し尽くしました。「お金がないと暮らしていけない」という意識がどんな社会を創造して行くのか、人類はとうとうその結末を見届けようとしています。 この世は諸行無常、全ての形あるものは壊れて行く運命にあります。我々が精魂込めて、築き上げてきたこの経済社会も、その例外ではありません。せっかく築き上げてきたこの不自由きわまりない経済システムも残念ながら崩れ去る他はありません。 私たちはこれから不自由さの時代に終わりを告げ、自由を満喫する空間の中へ放り込まれて行きます。もう、もがいてもどうにもなりません。これからは自由を味わう以外にはないのです。全ての思いには作用があり、そしてその反作用があります。あなたがかつて真の自由空間で夢見た「一度不自由さを思いっきり体験してみたい」という願いによって創り上げてきたこの不自由空間も、残念ながらあなたの出した思いの反作用として、元の自由空間へと反転して行きます。何人もこの流れに逆らうことはできません。この現実を現実とする夢から覚めていきます。 あなたはかつて夢を描きました。「自分にはどうすることも出来ない」そんな感覚を是非味わってみたい、というものでした。真の自由さの中で、自由であることの感覚そのものがないあなたにとって、それは強烈な自由を求める叫びでした。今、現に、この不自由世界にどっぷりと身を浸している我々にとって、この発想は納得がいかないかもしれませんが、自分の本性そのものを感じたいと思ったわけです。自分自身である自由さの感性を取り戻すには、一度不自由さを体験しつくす以外にないと考えたわけです。 こうしてあなたは有限の宇宙を創造しました。自らの本性として自分を感じるために「思い通りにならない」という環境を創造しました。あなたは思い通りに「思い通りにならない」環境を生み出し、その環境の中へ自らのめり込んでいきました。あなたは自分の夢を描き、自らの夢の中に今、没頭しております。どうか今この瞬間、自分こそが創造主であることを思い出して下さい。 元々創造主であるあなたが創造主に戻るのは簡単です。今あなたが触れている環境、今あなたの目に映る全ての映像、あなたの体験するあらゆる香りや感触、その全てを生み出したのは自分であるという考え方を受け入れた人が創造主です。この考えを受け入れたとたんに覚醒が起こり始めます。新人類の意識です。 頑張って、努力して、その結果として神へと成長して行くと考える人は、きっとそのあまりに遠い道のりに、自分を小さき者と誤解してしまって当然です。そんな人間的ゲシュタルトを持っている限り、創造主へ到るのはきっと不可能なことでしょう。こんな人間的ゲシュタルトを持っている限り、何か偉大なる者にすがらない限り大変なことになると考えて当然です。そこであなたは次に神を創造しました。あなたが絶対に安心できる偉大な神を創り出しました。ちっぽけなあなたを救ってもらうために・・・。「神」とは人間の創造物です。神を創ったのはあなたです。 あなたの描き出した、この現実という夢は、反作用という宇宙の摂理によってやがて醒めてしまいます。せっかく創り上げたこの幻という現実の中で、もっと遊んで下さい。夢が醒めてしまう前に・・・。この「思い通りにならない」という夢の中だからこそ、思いを叶えるという夢にチャレンジしてきたわけです。だからこそ思いが叶うという事が喜びとなりました。元々体験したいからはじめたあなたのこの宇宙です。自分の創った宇宙の中で、あなたに体験不可能なことなどあるはずがありません。この宇宙が自分の創造物だという認識を得たあなたにとって、もはや不可能なことはなくなります。 我々は今、マネーゲームという夢を描き、その夢の中で夢中で遊んでいます。それが自分が望んで描いた夢だったことを思い出して下さい。その夢の中で「お金がないから困ってしまう」という健忘症的発想は全く不要です。「お金がないと生きていけない」というのは全くの誤解です。自分で創造した夢そのものに騙されてしまっているのです。あなたの描いた夢の中の登場人物に「どうすれば良いだろうか」と意見を求めることに何の意味もありません。 「未来はこれからどうなるのでしょうか? 日本の行く末はどうなるのでしょう? これからの経済はどうなるのでしょう? そして社会は? 人々の暮らしむきは?」、私達はこんな疑問を何の違和感もなく長い間発し続けてきました。そんな疑問を自分が創造した脇役に尋ね続けてきたわけです。自分の創った世界のことをどうして人に尋ねるのでしょう。 この現実は自分の描いた夢であるという事を受け入れている人に、未来に対する不安が起きてくるでしょうか? 外に他人がいる、という幻想の世界から目覚めた人に、もう不安という言葉の概念はありません。もう一度言いますが、我々が創造主に戻るのは簡単です。この世界が、この環境が、この状態が、自分の想像の結果であるという単純な考え方を受け入れることです。 すぐに我々は人に尋ねたくなります。「どうなっているのか、どうなって行くのか」と。人に質問をするとは、「私が創ったわけではない」と主張していることと同じです。そんな自己責任放棄的発言をしている自分に気付いていて下さい。無造作に、他人に向けて発する質問が、声に出る前に気付いて下さい。他人に質問を発する前に、その質問が自分のどんな考え方から出てきたものであるのか、その源を見つめてみて下さい。その質問によって自分が何を得ようとしているのか、そしてまたその質問によって自分が何を失うのかにも意識を巡らせてみて下さい。 もうあなたが創り上げた夢の世界にフォーカスするのではなく、夢を見始めた真実の自分に焦点を当てて下さい。今、ここで、全てを知っている、全能の自分に意識を向け続けて下さい。あなたが「大いなる我」に意識を向けた時間に比例して、あなたのハイヤーセルフが、あなたとの重合の度合いを深め、現実が思い通りになってゆくことを実感するでしょう。 「この世界は自分の考え方の反映である」という単純な思い込みに成功した人は、もはや未来に対する不安という概念が、その人の想念の中に止まる事が出来なくなってきます。あなたの信じた事が世界となります。そんな自分ひとりしかいない宇宙の中で、自由に発想し、あなたを体験して下さい。もっともっと発想を自由にして下さい。あなたの心の中で許されない思いなど無いということを思い出して下さい。 我々はよく「うまくいっていない」と判断します。その結果、何かを変えようという思いが起こり、思考し、行動していきます。そして無意識的判断による自動ロボットになっていることには気付いていません。ちょうど、一度肉体に覚えこませた運動神経が、勝手に身体を自動操縦していくように。 「うまくいっていない」と判断したとき、即座に思い出して下さい。ここは私が体験したくて想像した夢の世界であることを。するとどんな出来事であれ、単にそれを体験しようという気になってきます。「私は今、ここに居てこの出来事を体験しよう」と思うようになってきます。じたばたしなくなります。「大変だ」という思いが出なくなります。演ずる者から、観察する者へシフトしていきます。 そして今ある体験が、自分にとって気に入らないものであるなら、直ちに作り替えればいいだけのことです。どんなことであれ、人に頼らないことです。「この現実を生み出した自分の源は何であろうか」と自分の内深くに入り原因を見つけ、その源にある考え方を自分好みに書き換えるだけで現実が変化していきます。自分こそが創造する者であることをいつも意識し続けて下さい。 結局、すべて自分で創っていた世界の中で暮らしているのだった。ただそれだけ・・・。 そう視ると違った世界が表れてくるのですから不思議だネ・・・。
2007年11月26日
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・・・ここのところお天気のよい日が続いていてとても気持ちがいいです。 少し寒いのが気になりますが、清んだ空気と寒気は心と風景を浄化するにはモッテコイ?のようですね。 昨夜は三人で地球大のこと(地球上のこと・森羅万象?)について、長々とダラダラと話題は飛躍し、核心に迫らず、思いつきのままに各自持論を展開したのだった。 結論は〈歴史的に視て現在の世界は日本は激変の渦動の中にある〉だった。・・・確かどこかの週刊誌のお題目にあるような結論になってしまいました・・・。 で、どうするの?という話は周りに惑わせられないように弁別できる自分を創るしかない?藤原さんのように教養の涵養しかない・・・時間の掛かる対策案しか出てこなかった・ネ。 政治・経済・自然環境・教育・金融・創造と破壊・人類の過去と未来・歴史観と種々雑多な話題過ぎたのか、よい結論へは到達できなかったようだ。 それでも皆、新しい天体を探すような熱い情熱は失わずに語っていたのだった・・・。何を思い、何を考えるかって、とても大切。形が無いから、誰にもわからないからと、平気で否定的なことを考える人もいるけど…。形としての行為、求めるもの、に焦点を置きがちな私たち。表現する行為のことばかり考え、その手前の想いの性質に無関心でいる。 心で嫌なことを思っていても、つくり笑いでOKの冷えた人間関係。やることやっていれば、何を考えてもOKの冷めた思考。そんな世界に身を置いていれば、本当の自分ってどんなだったか、どんどん忘れてしまうことになる。いつまでも本当の自分と再会できなくなる。 人間は、本当の自分でいないと、ストレスが溜まるようになっている。本当の自分じゃない思いが、本当の自分じゃない行為をつくり出す。じゃ、本当の自分ってどんなの?…となる。考えるまでもない簡単なこと。今のこの瞬間、君の中で、本当の自分がちらっと顔を見せた。答えはいつもシンプル。「本当の自分ってどんなだろう?」と思うだけで、空気が変わり、懐かしい匂いまでが漂ってくる。そして本当の自分がこう言う。「一緒に生きようよ!」って。 人間は、本当の自分を生きるようにつくられている。本当の自分が抱く想いが、本当の自分を生きる素晴らしき人生を創り出す。本当の自分と目が合ったら、もう無視できない。一緒に生きたくなる。そして「OK!」って、彼に微笑んでいる。 自分を知る、自分に近づかなければ自分の言葉も出てこないし、真に周りの風景も視る事は出来ない、本当のオリジナリティってそれからだと思うネ。 今すぐにでもそんな己に到達したい近づきたいものだね・・・・・・・。
2007年11月26日
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・・・もう既に冬と言ってもいいのだろうか、寒空の下、冬本番の前哨戦とはいえ三連休を満喫に、あちらこちらとお出掛けが真っ盛りだ。 人類が発生してから何万年と流浪・流転を続けてきた。 我々の祖先たちと同様に、DNAの中に組み込まれているのだろうか、人はどんな時でも旅・冒険、アドベンチャー紛いの移動を求め続けている。 そんな現代人たちも、心の片隅にイツモ燻っているだろうから、時間の空いたときには出かけたくなるし、民族大移動に加わりたくなるのかも知れないね。昔から集団で移動することは野生動物たちにとっても安全で、弱いものを守りつつ食料のある場所・新天地への脱出であり大旅行でもあったのだろう。 人類も野性の中に入ればカヨワイ単なる哺乳類でしかないのですから、移動には大変な判断と勇気が必要だっただろう。多大な犠牲意を払いつつ移動せざるを得なかったことを考えると、現在の移動は“旅”とか“旅行”などと言う比較にならないほどの安全・安心を叶えてくれるモノへと変貌した現在。 が、それも人類以外のあらゆるモノの、何某かの犠牲の上に達成されていることには気づかないまま忙しい毎日を生きているのです。しかし、ふっとした瞬間に何かに触発されて現在の便利な人類の生活はあらゆるものの犠牲の上に成り立っていることに気づき愕然とすることがある。・・・そんなんじゃいけないんだけれどもね・・・。 最近は特に自然環境の荒廃が世界中至る所で声高に叫ばれていることは、あらゆるメディアで流れない日は無いようだが、人間の性と言うのか悲しいことに“慣れ”てしまい、驚きを忘れしまい、まだとか・もう少し・これくらいなら・一人くらい・・・など、危機感を薄めていってしまうのが常だ、悲しいことに何時も。 最近は“食の粉飾”が至る所で告発されていて、日々食べるものなので非常に身近な問題と感じては大騒ぎすることになる。それも“アレ・コレ・ソレ”と日常のものから高級なものにも際限が無いほど広がっている。今までにこれほど酷い信用失墜はないほどだ。 粉飾問題は経済だけかと思っていたらば、あらゆる所・分野にまでもが触手を伸ばしていたことには唖然とする。・・・しかし、どうゆう事なんだろうかね・・・。 玩具の中に鉛が含まれてたり、野菜の中に使用不可の化学物質・薬品が入っていたり、ハタマタ環境も一国だけでは解決できる範囲を超えて広がっている現状などを考えると、笑うしかないかハタマタよくもここまでと“バンザイ”と叫びたくなる気持ちになる・・・が。 一方では、そんな環境に立ち向かって以前の、昔の本当の自然を再現しようと活動をしている方々もいる。地球大のことを考えると徒手空拳で立ち向かうような空しさを覚えるが、“問題は細部に宿る”という至言が在ったかどうかは忘れたが、気付いた一人ひとりから創めるしかない事だろうし、コレだけ問題が大きくなった現在にはやはり国家単位のエネルギーを投入せずば収まらないだろう。 エベレストの氷河が数百メートル後退したと、なにかの記事に出ていたが、自然の現象には浅はかな“人知の粉飾”などは通用せずに、結果としてソコニ現れるのですから。 後数十年で水没するという国家も在るし、日本の四季も失われつつあり、雨も降るか・降らないかの両極端化しつつある現在、時代と自然環境の大きなうねりの中に生きているのです。 成層圏で言えば“オゾン層”の破壊はフロンの代替を図っても尚、広がりは食い止められずに直射日光は皮膚ガンの元だと云われて久しい。 人は誰もが美味しい食も、美しい自然も、美味しい水・空気も、美味しいお酒も飲みたいのですから、我々もそうだし次世代へ継承してもらうモノが、こんなにクタビレタ・廃棄処分一歩手前の“地球”を堂々と渡せられるのでしょうかネ・・・恥ずかしいよ・・・。 人への思いやりを失いつつある我々が、・・・そんな我々がものも云わない者達への思いやりを失った結果が現在の地球環境ではないだろうか・・・。
2007年11月25日
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・・・今日もまたいつもどうりに快晴だったね。日本全国じゃない?ですよね。 今日居酒屋ですばらしい人生経験を聞いたョ、年輪74こ重ねているそうです。言葉の重さがずっしりとくるね。 密度の違う言葉には圧倒されます。 ・・・・・・・・人生って、なんだ?お答えできる人いるの・・・。 と・・・アメ横に吹いていた風は木枯らし一号だったんですね~。 いつも酔ってます、で、横目で流して下しゃい・・・。
2007年11月21日
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・・・木枯らし一番?が吹いた。 アメ横にも先日、寒風と突風が合同でやってきていた。観光客の中には手荷物を風に吹き飛ばされアタフタしていた方々もいた。それくらい建物の間を吹きすさぶ風は強かった・・・。 アメ横ももう少しで正月戦線真っ盛りになるが、それでも平日、特に土日は現在でも人並みは多い。歩いていると日本語ではない会話があちこちから聞こえてくるが、焼き鳥屋にも欧米系の一団5人で焼酎を飲んで、焼き鳥を食べ、談笑しつつ、東北訛りの?英語を話していた。 春一番があるのに、冬一番と言わないのはなぜだろうかと?ふと、強烈な木枯らしに当てられて思ってみたりした先日だった。 これまでの経験や知識をもってしても対応できない非日常的な現実に立ったりしたとき、一瞬水晶のように澄んだ透明感のある意識状態を経験することがあります。これは、思考が存在せず、精神の働きも全く通用しない‘心そのもの’になることで起きる現象です。一瞬時間が止まったような感覚を持ったり、自分のいる空間がすべてと繋がっていることをはっきりと感じたり、また、ふつふつと内部で湧き上がる純粋なエナジー(本来の自分(生命)が忘れていたもの)に触れ、広く大きな無限の愛に包まれているような感じを受けたりします。これを無の境地、悟りの瞬間と言う人もいます。 この感覚は、瞑想や特別な修業といった日常から離れた時間を持たなければ得られないものではなく、辛い生活や衝撃的な時を経験する必要もなく、すべての人がいつも何処かで経験していることです。ただ人によって、その感覚の記憶や、それに対する認識の違いがあるだけで、多くの人が気づいていなかったり、忘れていたりします。 そして「この至高の愛の瞬間とも言える神秘(?)体験は特別な人にだけある。」という既存の情報を利用して、権威と財を得ようとする団体やグループの作為によって、霊能者・導師・超能力者という(?な)存在が、いつのまにか私たちの思考の中に刷り込まれてしまっている現実の今があります。 神に選ばれた人、神の言葉を話す人と、悟りを開いたとされるある個人を神聖化し崇め、彼を中心に盲信集団化した組織やグループは、多くの人の思考を操作・誘導し、私たち一人一人が本来持ち合わせている‘自由創造’という基本能力の中に組み込まれた神聖な体験、至高の瞬間を否定して、嘘の上塗り運営を成り立たせています。(私たちは選ばれるのではなく、選ぶのに…) 悟りには、ありのままを受け入れるという精神の姿勢を持つことで近づくことができます。(ありのままの自分でもあるわけだから、悟りに近づくというのは正確ではないけど…。)目の前の現実、置かれた立場・環境に対し、抵抗も否定もせず、ただ受け入れ、そのままでいて…。それらが自己の成長のために自らが選んだ機会であり、表現手段であると理解し、他と自分を分離させるものは何も無いという、すべてとの合一感みたいな気づきを覚えるとき、これが一種の悟りです。(悟りのエリアから見ると、‘一種’という表現になる。) 悟りの中にいる人は、それが自然でいつもと変わりなく当たり前のことなので、特別に意識することもなく気づかないものです。当然‘悟る’ことに興味などありません。すでにその中にいるのですから…。敢えて以前と比べるとすれば、穏やかで平和な気持ちが常にあり、ものごとへのこだわりやとらわれが極端に少なく、時に全く無い状態を経験します。自分の心を正直に表現し、かけがえの無い身体としての自分を生きるので、現実に対する容認と自己責任が当然となります。反省や後悔をする必要を感じなくなります。経験から自由でいて、常に変化する瞬間の中で、同じところにいる時間が極端に少ない「生命=変化」を実践するのです。and… 悟りは、思考を超えた経験の外側での安らぎの境地。そこは物事や人間という対象が一切設定されず、‘悟る’という概念さえも存在しない「純粋な生命エナジーの世界」。だから、悟りを開こうとしたり、神と一体化しようと物理世界との接点である思考に力をいれて努力すればするほど、そこから遠のいてしまう。(悟れない人が悟ろうとする。)ただその過程で、形としての修業や自虐的・犠牲的思考を好むという偏った経験と知識をベースにした強い思い込みによって生まれた幻像(=幻覚+空想の産物)を見、勘違い悟り人間になるだけ。自分のことを‘悟りを開いた’なんて言う人がいたら、芝居人かペテン師ってわけ。 自分の心の性質を知り、自分ならではの最高の現実を次々に創造している大いなる自己に気づけば、みんなが悟りの中にいる人。至福体験、神聖な瞬間は、特別なものでもなく、ただ気づくだけでいい。(心の性質を知ったら、否定感情を抱けなくなる。そして生命の歓喜が訪れる。)結果ではなく原因、到達ではなくプロセス。誰もが覚者でなければ、生命でなくなる。悟り 番外編「悟るってどんなふうなの?」「太陽になった自分をイメージしてみな。一切の自己顕示がなく、さりげなくすべてを包み込む、温かな想いの生命のFatherみたいな…。 海のような気持ちになってみな。一番低いところですべてを支える、柔らかで力強い生命のMotherみたいな…。 そして、、日が暮れているのも気づかずに、無邪気に楽しく遊んでいる子供たちの心の中に入ってみな。動物も植物も大好きで、太陽と海が友だちの、心のEverythingみたいな…。 ほら、感じるだろう。生命が喜んでいる。僕らはいつでも悟っているんだ。」 過去現在未来、我々は、いったい何処から来て、何処へ往くんだろうか? そんなことすらも思い煩う必要すらないのだろうか?充実している今があればネ・・・。
2007年11月19日
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・・・昨日は雲が厚く垂れ込めて頭上に押し迫ってくる圧迫感があった。 今日は一転、また、、澄み渡った快晴の青空が広がっているのである。 空の状況ひとつに左右され翻弄されているわれわれは一体、何を・何処を・拠りどころにすればよいのだろうか・と、ふと思うが・・・。・・・人生はゲームである・・・ 「あなたに一切の制限はありません」と言われたらあなたはどのようにお感じになられるでしょうか? 私達の魂には、元々いかなる制限も制約もないようです。「無限」が人の本質であると伝えられました。 そして私達は、実は今この瞬間も誰もが無限です。「自分はこんな人間である」という認識がそこにあるだけです。自分を限定しているのは自分の思いだけです。あなたが「自分は無限である」と信じ切ったときあなたはそうなります。いえ、もともと無限であった事を思い出すだけと言った方が正しいでしょう。 もともと無限であった者がルール(制限)を造りゲームを始めました。 地球人間ゲームです。 源へ還るゲームです。 意識の進化ゲームです。 身長150から200センチぐらいの肉体をまといます。 脳細胞は数%だけ使用可能。 見える範囲は全振動領域の0、001%だけに制限する。 平均プレイ時間は80年、ただし最高は120年まで。 ルールは厳しいがその範囲内では100%の自由が残されました。 三次元の、超仮想現実ゲームです。 そしてあなたは現在このゲームをプレー中です。 あなたのハイヤーセルフは目下このゲームに夢中です。「よくもこんな面白いゲームを考え出したものだ」と感嘆の声を上げながら・・・。80年でゲームを達成できなかった人は、何度でも再挑戦が可能です。好きな時代を選び、好きな両親を選び、好きな環境を選んでゲームに再挑戦します。時には一挙に高得点をあげようと、ボディーにハンディキャップを付けて挑戦する勇敢なプレーヤーもいます。 この地球人類ゲームは少しルールが厳しすぎたのか、ゲーム創生以来、未だに達成者が現れていないようです。このゲームの創造主はとうとう業を煮やし、ついにカンニングを認め始めました。これまで、目、鼻、耳、口、体、の五感だけを使ってプレーしていたものを、希望者には、第三の目や、六感を使えるよう改造し始めた模様です。 そして全員を次のゲームステージに押し上げようとする動きが始まったようです。その新しい舞台が21世紀に現れようとしています。 あなたは将棋をご存じですか? 将棋では相手の王を取れば勝ちとなります。人は誰でも簡単に相手の王将の駒を指でつまみ上げることは出来ます。しかしその能力があるにも関わらず誰もその行為をしようとは思いません。歩は前に一つだけ進める。香は後ろには進めない。王は一つだけならどの方向にも動かす事が出来るなど、制限を設け、ゲームが成立します。王を取り合うゲームといっても、このルールという制限を与えなかったらゲームは成立しません。もともと制限の無いところに制限を与えるからゲームが生み出せるのです。 もともと無限であった存在が「無」でい続けることに飽きてきて、制限を設け、地球人生ゲームを考案しました。無限が無限のままではゲームが成り立たないから、自らに制限を与えプレーが始まったのです。そしてプレーに熱中するあまり、いつまでたっても、これがゲームであることを人類は思い出してくれません。 「この地球にあるものは有限である。自分が豊かになるためには人の分を奪うしかない」これが制限を受け入れた人間のまっとうな思考でしょう。しかし我々人類は誰も無限です。無限であるとは無限に産み出せるということです。無限の創造者であるということです。 歩は一度に一駒しか進めない。だから工夫する楽しみが生まれたのです。工夫、進歩という喜びを体験したくて制限を自らに課したのではないのですか? このゲームに参加したくて自ら望んであなたは肉体を持ちました。 誰一人例外なく、喜びとして肉体を持ちました。ハンディキャッパーもしかりです。創意工夫という楽しみが欲しくて、自ら不自由さを産み出しました。これがあなたが自分を限定している理由に他なりません。あなたの勇気を称賛します。ましてや身障者の皆様に於いてはなおさらです。 思い出しさえすればいいのです。自分が無限であったことを。 見えている世界は四次元の自分の意識の投影にすぎないということを。 見える世界、聞こえてくるものは全て幻であることを。 幻に幻惑されてはなりません。意識を高次元に戻し、その事を思い出せば、この肉体をまといながらもゲームを楽しむことが出来ます。 死とは人生ゲームからの離脱にすぎません。夢中で指していた将棋のゲームの終わりとなんら変わりはありません。 だからあなたは望んだものは全て生み出せます。 このことに例外はありません。 ことの真理に、50%だけ真理というものはありません。 99%はそうだが1%は違うというものはありません。 100%そうなのです。 あなたは成りたい自分になれます。 欲しいものは手に入ります。 必要な環境はととのいます。望むままに。 「そうは言っても人の気持ちは変えられないじゃないか」と言う人がいます。人はあなたの外側にいると思っている限り、人を変えることは出来ません。しかしあなたが見ている他人は全てあなたの心の内にしか存在していません。他人はあなたの認識です。あなたの意識が変わればあなたの認識も瞬間で変わります。すなわち他人も瞬間で変わってしまいます。 あなたのまわりの他人が変わらないとしたら、それはあなたが変わってないという何よりの証拠です。あなたは進化したいですか、したくありませんか? あなたが変えたい他人がいるとしたら、それはあなたのハイアーセルフが、あなたに変わって欲しいというメッセージとして、あなたに見せている映像にすぎません。困った人がいるのではなく、あなたに「困った人だ」という認識があるだけです。 この世に困った人間などいないのです。それはあなたのために困ったふりを演じてくれている、とても大切な人にすぎません。あなたにとって一番感謝しなければいけない人かもしれません。 あなたは無限です。あなたにいかなる限定も、制限もありません。 これは100%そうなのです。 超越した心境を獲得するには未だ足り得ず、としか言えないが知ることを通じて成しうるものも殆どなのだから、まず、知ることから創めなければいけないね。
2007年11月17日
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・・・昔、カルフォルニアの青い空なんて曲が流行った事があった。 それを聞くと北海道網走の青い空を思い出すのです。 以前に車が盗難にあって引取りに行ったことがあったのですが、そのときの空の色が寒空で妙に澄み渡っていたのです。車はボロボロ・ドロドロでしたが、スペアーキーを持って行ったのが幸い奇跡的にエンジン始動・・・嬉しかったな~あの時は・・・。 ガラスのない車に初めて?乗ったのですから、オープンカーでもフロントガラスはあるようですが、四方ガラスが何もない車だったのですからドキドキしました。 風は自由に素通りしオープンカーの醍醐味は満喫しました。寒風の中颯爽のドライブでしたが到着後、ちょこっとカゼをひいたようでしたがなかなかのドライブでした。 連絡あって往きは特急で悠然の旅行気分を堪能し、列車からの旅景観を眺望しつつ、途中で車内の弁当など美味しく頂きながら会話は弾んでいきました。 けれど現地到着後に様相は一変しました。 一緒に往った友人が不安げに、この車、乗れるの?動くの?走れるの?など疑問が当方に殺到。そこは悠然と走れるなら乗って行くョ、と返答しましたです・ハイ・・・。 網走刑務所の横のグラウンドの駐車場に在った車は走り出したのですが、暫定オープンカーとはいえチョッと風の通りが?よすぎて震えながらの運転でした。髪はボウボウ、車内はピューぴゅー、沈黙の車内であったように思う・・・会話が思い出せない・・・ある筈ない?。 観光・景勝地には恵まれている網走近辺でしたが、刑務所博物館も門扉だけを眺め素通りし、とっとと帰ってきたしだいでした、あの時は・・・。 そんな思い出と、リタイヤ後のカルフォルニアの青い空との比較ができるはずもないですが、当方にとっては寒くて苦い思い出のひとつです。状況は違うのですが武田鉄也の“幸せの黄色いハンカチ”のドライブシーンと重なって思い出します。 因みに一緒に往った友人とはその後連絡が途絶え気味であることを付け加えておきたい。 (チョッと寒過ぎたようでもあったかな~これから始まる友情もあるんだけどナ・・・) ・・・そして犯人はエスケープしたまんまなのですから被害甚大だったネ。 この世の中は複雑怪奇であって、思いもよらぬ落とし穴が口を開けているのですから、つまらないことに引っかからないように願います。 人間喰う為に生きているではなく、生きるために喰っているのですし、稼ぐのが目的じゃなく、楽しむために稼ぐ?のですから主客転倒しないようにしなければいけないね。
2007年11月16日
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・・・今日もここ数日と同様に深い秋色をした空が広がっているのです。 前回、『青』に関係したことを記したのですが、共鳴・共振・同調し合うのか、もっとも偉大なというか根本の『地球の青』、それが月からの映像で見られたそうです。 月からの『地の出?』と言うのだろうか、“かぐや”に積み込んだNHKのハイビジョンカメラが捕らえたそうです。宇宙空間に浮かんだ地球を創造するだけで“o(^o^)o ワクワク”しちゃうような映像でしょうね。 これは前回記したお気に入りに入れさせていただいている『空間・・・・』さんのプログの中に詳しく載っていますので、地球を観たい方はソコを覗いてみて下さいネ? 地球の色、群青と言うのか、紺碧と言うのか、形容のしようの無い『青』、漆黒の宇宙空間に浮かぶ様には、いったい何を想起させるのかはそれぞれですが、幻想的などという言葉で括り切れないほどだろうし、宇宙と人類と地球との“過去・現在・未来”を否応無く感応させることになるのでしょうか・・・。 地球上に渦巻く人間の欲望の果て、そして“進歩”の美名のもとに『破壊と創造』を繰返してきた傷つけられた地球・・・。現在も止む事を知らず破壊と創造は加速されている。我々は自分で投げた“ブーメラン”から獲物を捕りそこなった挙句に自身をも傷つけられている現状だ。 地球温暖化・環境破壊・ある諸島国家の水没化現象・化学物質・原子力・戦争・破壊兵器の数々はまさに、我々が放った“ブーメラン”そのものじゃないだろうか・・・。 数々のそれらの“モノ”も問題だが、一番問題なのは“人間”だろうと思う。人が生きてゆくには何がしかのモノを犠牲にして生きてゆくしかないのですから、本来、共存共栄があたりまえだったのに人類の傲慢さゆえ、地球上のあらゆるものに犠牲を強いてきたのだが、現在も人口増加に歯止めの秘策は発明・発見されていないのです。 もう少し地球に対してと他の地球上に生息する生き物たちに対する、“謙虚・感謝・謙譲”の精神を発揮せずばいけないと思う。人類同士と人類以外に対する“傲慢”を自覚しなくてはいけないね・・・この地球上に生きるものとしては人類が最悪の生物なのですからネ。 そうは言いつつ、本音と建前、理屈と現実の乖離は埋める事はできないのだろうし、破壊と創造も進歩の名の下にこれからも繰返されることは間違いないだろう。 地球を客観視できると言う話から飛躍しちゃいましたが、それを喜んでいる己自身もロケットで月まで行った“かぐや”からの映像の背後には、膨大な地球上の何がしかの犠牲の上に成り立っていることもまた確かだ・・・悲しいことにネ・・・何をどうすればよいかは解らないが、成功の背後にある犠牲を忘れマジ、と・・・。 はなしは変わりまして“文芸春秋”をしばらくぶりに本屋で手に取った。その中に藤原正彦氏の『教養立国ニッポン』という一文が載っていたので早速買ってみました。これがまた秀逸で面白くてタメニなること請け合いです、“ゼヒ”一読されたい。 その他の記事はよく解らないが、この一文だけで買う価値があると思う。 以前に『国家の品格』をモノにした作者ですが、あの作品同様?それ以上に日常に埋もれた発想の限界を軽々と飛翔させて頂けるものと思います。まるで地球を宇宙から勧奨するかのごとく己の周囲を、社会を、国家を、世界を俯瞰・鳥瞰するがごとく想像させられますです。 忘れてましたがそれと堺屋太一氏の『今こそ因果逆転の勉強法を』の一文もまた目からウロコの趣きありです。 両作者ともに結局、常識という殻を突きぬけた思考と発想が大事なことであって、お仕着せの発想がアタカも自身の発想・思考と勘違いしていることを、今一度ジックリと己と対峙する必要を説いているのだろう・・・当方の勝手な読みでは(^_-)ネッ・・・。 いろいろ難しいことはあるけれど、各々それぞれ感じるところは違って当然なのだから、それぞれの読み方をしてみてくれれば宜しいのじゃないでしょうか。 けれど久々に面白くいっきに読めた(短文ですが・・・)。 難しいことを単純にやさしく話したり、文章化することは難しいことなので、内容もさることながら文章の簡明さには尚、感心しましたですョ。 ミニ・マックス理論よろしく宇宙大の話から文字・文章の話へと、極大から極小へ話は飛んでしまいましたが、それぞれどんな読み方でもお好きなように願います。 ・・・あと、もうひとつ、白洲次郎のことが書いてあったので後で読んでみようと思う。 おどろおどろしく“英国機密ファイル”-白洲次郎隠された履歴-新発見文書があぶりだす昭和の快男子「もう一つの顔」ジャーナリスト徳本栄一郎氏の一文です。 白洲次郎への評価はすでに定まっているが、新たな光と影を見せてくれることだろうし、井戸端会議的な興味を持って眺めてみたいと思っているのです・・・失礼かな?。 もともと以前から、白洲次郎氏は日本人離れしたところが好きで興味があったのです。ある意味終戦後の日本の方向を定めた一人といえる人物です。そして“ハイカラ”でした。興味のある方は本屋で探せば現在は“白洲本?”は沢山出ていますから。 あれも・これも・それも、無限ある中で正しい方向性を導き出す基になるものは、“教養こそ大局観の基”だと言っています。 そして“経済至上主義では人心乱れて国滅ぶ。再生の道は一つしかない-救国の提言”といい、それには『教養立国ニッポン』しかないとまで言い切っています、素晴しいですね。 再読、三読、四読し、後は積読だけか・・・そんな失礼はしませんって?・・・。 さまざまな事象があるけれど結局、人間の可能性にかけるしかないのですから、対立・反目・イガミアイ・無視・等々、地球存亡のときこそ何千年来の“人類の英知”を傾けて、舵取りする日本の世界の船頭さん、政治家が現れることは無いのだろうか・永遠の課題のまま?。
2007年11月15日
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・・・秋深くなってきた今日この頃ですが、空の青さに吸い込まれそうだ。 紺碧の空、うすい綿雲が申し訳程度あり、深い青空の中ゆっくりと流れている様は、おとぎ話の中の一説を想像させるほど魅力的だネ。 今日は青に惹かれている日なのかもしれない、“お気に入りブログ”の中の紺桔梗さんのプロフィールの冒頭に置いてある青みがかった月光の写真も幻想的でとても気に入っているモノのひとつです。余裕があれば一見してくださいネ。 これも“お気に入りブログ”の中のひとつですが“空間・設計研究所”さんのプログからはいつも啓発・触発されます。in/netならではの繋がりと思えることで、普段発想もしないことを、その人ならではの超えていることを文章に切取って提起してくれているのです。 こんな有り難い情報発信基地はそうは無いのですから感謝するしかないです。 それぞれのモチベーションから記されるのでしょうが、本来無意識からか意識してか、知らないものを知りたいとか、現状を超えたいとか、自己を超越したいとか・・・さまざまの場面で超え続けることを繰り返しているのが本当だろうし、コマのように回転し続けることが人に組み込まれた性なんだろう・・・。 生きている以上は回転は止められないようになっていて、止まると人生の終焉が待っているのですから、どんなかたちであろうとも前え進む?変化し続けるように仕向けられているみたい。自分で回転を止める人も確かに居ますが・・・大局から言えばこれも人生だろう・ネ・。 “玉石混交”などという言葉があるけれど、このプログの中にはそれぞれの“玉”の集積があるのですから、下手な小説を読むより余程人生大学にはタメになるようです。 焼き鳥屋や一杯飲み屋、スナックや高級クラブと呑み助達にとっては進出場所には事欠かない現状がありますが、このプログもそんな呑み助達にとっての憩いの場所のひとつと同じように容を変えた憩いの場所とも言える。 あらゆる人と場所へと制限の無い、現実の世界を一足先に飛び越えた理想の空間が出来ているのです。自由という名の不自由な現状が在る中で達成できていることは慶賀だネ。 しかし、一方ではそんな現実さえ利己的に利害損得で利用しようとする輩も居るようですが、せっかくの場所もそんな行為で、ハイエク曰く“隷属への道”と続かないように祈るのみですが・・・。 ルールとマナーなんてしゃれたことは言いたくないけれど、少々の公徳心と道徳心があれば大丈夫かと思うのですが・・・いかがかな・・・。 まあ、イズレニしろここは“玉石混交”では無く“宝石燦爛・散乱”だろうし、あとは各々の眼力・見識・経験などからくる何事か、第六感に引っかかったものを覗かせていただけばよいのでしょうかネ。(そういうのは女性の方がムカシカラ勘が鋭い?、ウーマン・インチュイションなどと言われているが、男には何が備わっているのでしょうか?・・・思い当たらないネ・悲しい・・・) そういえばムカシ、三島由紀夫が“男は論理で考え、女は子宮で考える”なんてことを言っていたようですが、それが本当ならヤッパリ論理は直感に弱いことの証明でもあり、現在の世の中ではスピードと論理矛盾の羅列ですから、女性の鋭い直感と一瞬のスピードには男性はついてゆけない状況は来るべくして来た、と、思ってもよいのかもネ・・・サミシイデスガ。 女性天皇待望論も時代の流れと空気がそんな発想を醸成しているのかもしれないね。女性天皇は宜しいと思うけれど、男系継承は絶ってはいけないのでその道は残した上でのこと。 あっち・コッチ・そっちへと飛躍のしすぎですが、私文ですのでご勘弁を。 しかし、ここ二・三日の、“紺碧の空・群青の空”は素晴しいな~・・・。 今日はこんなところで。
2007年11月14日
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・・・この次期の雨は寒い。霧雨よりちょっと強めなのだが、雨脚よりも寒さの方が身に凍みるのだ。毎年この時期には寒さに慣れるまではしょうがないのかもしれないね・・・。 12月号のWiLLを手に入れたが、民主党と小沢党首へのブーイングが強めですね^。当人の発言そのものが自己矛盾していることにきずいていないご様子ですし、これもまたしょうが無い?かもしれないですネ。 とりあえず民主党と小沢代表にはご健闘を祈るしかないじゃありませんか?・・・。 WiLLの宣伝をひとつ、とい言うか記事のお題目を並べてみると。 またもや教科書問題で朝日が槍玉に挙げられているようです・・・健闘を祈る・・・。 永田町の不動産屋・・・・・小沢一郎への公開質問状。・・・北野弘久 ・総力特集・ 歴史教科書を歪めるもの・・・・・渡部昇一 また、アサヒった朝日・・・・・・山際益夫 強制も軍命もなかった・・・・・・藤岡信勝 十一万人集会は嘘だ・・・・・・・奥 茂治 『世界』小沢論文を大批判・・・・潮 十年後を見越した政治を・・・・・中川昭一 瀬島龍三が号泣した日・・・・・・中条高徳・・・他、etc・・・まあ、見ていて飽きない内容だネ、短くて・鋭い突っ込みが満載で、広く・深く・笑いと地べたを這いずる様な記事もソコカシコにあるのだからタマラナイ。 一度読んでみるのも損は無いはずだ。安いしね・・・今月号680円だったかな。 『WiLL』のキャッチコピーは《オトナの常識 マンスリーウィル》だもん、面白くて為になるはずだよ、ヤッパリこのウィルはd(^-^)ネ! あとはロシヤのこととかシナのこと、ちょっと教養をお求めの向きには三島由紀夫の何がしか・・・。金美麗女史のぬるま湯に浸かっている日本人への覚醒の言。 まあ、後は御自分で購読なさるるが良いでしょうネ、それと爆笑問題の『日本言論』もお勧めだ。爆笑請け合いだろうネ・・・。 諸君も正論も面白いが、少々慣れないと重たいかもしれない、このウィルよりも。 プレジデントは月間から隔週発売になってから購読を止めた。二十年以上読者だったが宣伝ばかりで内容が無くなったので打ち切ったが、現在はどうだろうか?ネ。以前の特集には面白くて為になったこと大だった。 本屋に行くと本が溢れている、巷には情報が溢れている、頭の中はグチャグチャで混沌の極み・窮みで何一つ整理がつかず、ただ茫然自失した“己”が居るだけだ。 ウィルの記事の中で気にいった一文は、日下公人氏の『繁栄のヒント』だった。 当方の今日の日記は“Where is a meet?”との疑問と批判を甘んじて受けようか? 混沌の海を泳ぐ泳法は如何に誰が・・・“批判の前に反省を忘れず”・・・難しいな~。
2007年11月10日
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・・・この時期になると落ち葉が舞う歩道をうつむき加減に歩いている人達がいる。 秋も深まり、紅葉も南下進行しているこの時期には、風と風邪がつきものだ。 プロ野球では日本一が中日、Wシリーズ アメリカではレッド・ソックス。中日の落合監督の采配が物議を引き起こしているらしい。(・・・賛否両論あり喧しいこと・・・) ちょっと前にはボクシングの亀田親子のボクシングへの取組み姿勢・意識のあり方と実際の試合での反則の数々が批判を浴び、謝罪会見へと発展制裁処置と一連の騒動を提供してくれた。 Wシリーズでの松坂・岡島の活躍には異論がないはずだ?。両投手一年目であってもこの活躍は素晴らしいことだし、特に岡島の活躍には日本の評論家・アメリカの野球関係者も唖然、の活躍だろうネ。期待を裏切った活躍には本人してやったりだろうし、日本の投手陣の潜在能力の高さには本場もビックリ仰天だろう。僥倖だが本人は実力通りと冷静だ。 球威もさることながらコントロールと球種の多さと完成度が日本人らしいところなのだろうね?。良くも悪くもバック・ボーンとして高校野球があるからなんだろうと思う。背景にある高校野球は切磋琢磨・勝負勘・頭ではなく体に染込んでいる日本野球の原型を作っているようだ。 二人の松井も、イチロー、松坂・岡島、井口、斉藤も活躍したことは、まるで日本のフィールドかのように連日喝采したものだった。村上・野茂投手いらい長年掛けて挑戦してきた数多の選手達の努力と精神が花を咲かせつつあるようで、日本からの脱出は止められないダロウネ。 今夏、プロ野球との癒着が問題視され、それぞれトカゲの尻尾きり宜しく処分が下されたようですが、高校球児たちには問題はなく取り巻き連中が大人の利害損得で染め上げている現実を浄化せずば、これからもまた同様な問題が起きる事になるだろネ。 何事も光強ければ影も濃しの例えの通りで、いろんな問題も発生するだろうが、時宣に適した解決方法を適時行うしかないのだろう。皆が納得する方法でネ。 亀田親子は確かに醜いところもある。しかし、水に落ちた犬は叩くごとくに、一斉に集中放火するような見っとも無いマスコミは寂しいね、まるでマッチポンプ宜しく利用だけして後は梯子も外したままで知らん振り。マスコミの責任は一体どうしたんだろうか?聞いてみたいものだ。困ったものだ・・・。 ヤナ事は忘れて・・・・・・。 また日本人選手達の来年からの活躍を祈ることにしよう、と。
2007年11月08日
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・・・山に平野に、人々の住む街の中にも無数の四季折々の風が流れて去っていった。 昨今の政治的ドタバタ劇の主役である民主党党首の首尾一貫性に欠ける言動には、あの党の内部自己矛盾を表しているように思う、が、決してあの党の事だけでは無さそうでもある。 現在、あらゆるところで発生している個人・組織・体制などの不祥事の連鎖は、大局的見地から言えば、新しい事象への胎動と言えるものかも知れない。 すべてが生々流転しているこの世の中で、留まっている事ができないのであれば、あらゆるものが変化し続けなければならないはずだが。変化のスピード、増・減速の加減が合わなければ、時代の潮流から影響を受けることになるのだろう。 時代の大局とそれぞれの思惑が合致せずば、結局それぞれの内部矛盾が噴出することになるようで、恣意性・作為的と言うのか人知の限界を映し出しているのだろう・・・。 倣岸不遜と言うか傲慢にも、個人・組織・体制の思惑で何事かを作為的にも変えられると思う発想が、現実の世の中を捻じ曲げてきていることには論を待たないだろう。しかし今も昔も、時代を変えてきたのは人々のそれぞれの思惑・発想からだった。 けれど根本的に違うことはピュアさ、純粋無垢な私情を挟まない結晶のような純心さがあったがゆえ、受け入れられ変化に対応する何事かを生み出してこれたのかもしれない。何事かに貢献したいという思いのほうが勝っていたからこそ、受け入れられる何事かを生み出したと思いたい。 少なくとも何事かをなすときに、何処か・何時の間に・無意識にアガペーのようなものが宿ったが故に、人類への貢献・時代そして日常への変化への助けとなる何事かを提出できたのではないかと思う。恣意性と作為から生み出されたものには何処か胡散臭いものが臭うネ。 畢竟、純心無垢なる心境から生み出されたものは、普遍性が宿る・人類共通の思いが何処かに組み込まれるようになっている、と思しきところがあるようだ。 今までも無数の発見発明が成されてきたが、時代の鑢にかけられて今も尚原形を留めているものは、私心の無いピュアーさがあったからこそ残されてきたものと思いたい。時代の要請を得て生まれ役割を終えて去ったものもあるが、どの時代でもその部分は抜きにして考えることはできないと思う。 そんな風に翻って考えてみると、現在在るものとか進行形のものでも、恣意性・作為性に満ち満ちたものが如何に多いことかが見えてくる。一過性でその場限りのものが如何に多いことが。 現代人は忙しすぎるし、競争の原理からか日々生活が追い立てられていることは否めない事実だ。そんなこんなで視野峡さになることもあるだろう、過酷な日常を生き残る為には必要なことでももあるだろうが、流されっぱなしじゃつまらないので、たまには日常を超越して鳥瞰・俯瞰するような心境を持つ時間も創らなければいけないネ・・・思う。 とは言え人間の愚かさは今に始まったことでもないし、時々思うからと言って変わるものでもないだろうし、難しいものだね人間ってのは・・・何とかならない?・・・。 キリスト・マホメット・仏陀さん達も何千年も前から教えを説いてきたのに、今だそれ以前の段階で足踏みしている現在の様相は、いったい何を表しているのだろうかしら・・・。 旧態依然の思考と発想から抜け出る、現在と未来へ繋がる新思考が生まれ定着し普遍化するにはどれくらい待てばよいのだろうか。その前に生まれるのだろうか? 東西冷戦後の決着でほんのちょっとに優位性があったればこそ生き残った民主主義だが、緊張対立の中で露見しなかった矛盾が噴出している現在、その民主主義(衆愚政治に成り下がっているが・・・)に取って代わるものを発明発見しくれる者は一体どこの誰なんだろうか・・・?・・・。 独裁・統制国家も嫌だ、ポピリズムも衆愚政治も嫌だし民主主義も限界に来ているのかもしれないけれど、変わるものを生み出せないなら国家を無くせば好い?などと極論を吐くもののまた一方では現れ始めている現実もある。絶えられるのだろうか・・・無理だろうね。 これほど左様に人知の限界が露見・露呈している現代に生きる我われは混沌に沈んでゆくのだろうか。五千年も前のエジプトの古文書の中に”今どきの若い者は・・・・・”などと書かれたものが見つかったそうですが、今昔も人類は変化しているつもりで実は何も変わっていなかったりして、どの時代でも現代と同じように憂え・絶望・希望・満足したりしつつ、それでも明日に向かってまた一歩と踏み出し続けてきたのだろうし、宇宙の根源の運行には塵芥のような我われの思惑など些かの影響も与えないのでしょうネ・・・。 長々の結果、NHK的な結論を無理やり導き出せば、一人一人が結局やるべきこと・やれることは日々済ましておくこと、身近なことから始めよう?と言うことでしょうかネ。 つまらない結論に達しちゃったようで、メビウスの輪を走り続けているような気分だ。
2007年11月07日
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