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・・・・・今日は、母の命日です。平成13年一月三十一日の今日、75歳でした。既に父は昭和48年に鬼籍に入っている。長く生きていると、イヤでも齢と経験はタクサン積重ねることができるようです。どうでも良い、必要もない、モチタクモないモノも沢山背負わされる事になるが、けれど、一番失くしたくないものは手から、ボロボロとこぼれ落ちていくようです。父・母の両方の祖父母も等に鬼籍に入っているし、親戚、友人、尊敬していた人たちも既に、櫛の歯が抜けるように抜け落ちていき、その数は年齢とともに増えていくことになる。誰でも、年齢とともにワレワレの都合なんて一斉お構いなく、お先に失礼?と鬼籍にお入りになられるようですが、残されたワレワレはただ、呆然と悲痛、そして生前の存在感の大きさ、ご恩を痛感させられることとなる、カケガエノないことを・・・・・。我々が生きていくうえで必要なものは、たかがしれていて必要の無い物までも手に入れようと、人を押しのけてまでも手にするため、人生の大半をソンナことに費やして優劣をつけ自己満足の世界に浸っていることになるようだ・・・・・・(±0なのに・・・・・)中には真摯に人様の為に身を投げ捨てて尽くす、という人もいるようですが、ナカナカむつかしいようだ、それは。人の死は、これからも生き続ける人たちに、死を賭してあらゆるものの中でも、人間が生きている、それだけで素晴らしい事であり、その他のことは付随的なものなんだ、と教えてくれるために、命がけで我々に最後の伝えたい無言の教え?なのではないかとチョットした瞬間に、フッと頭を過る事が少なからずにある。生きていくうえでの原点を思い起こさせていただくことが。本当にありがたいことだと思います、最後の無言の教えは。そしてソンナ大事な人が亡くなり生前のご恩に報いようとも、お金でも、モノでも既に当人には無価値であり、残された人たちから受取れるものは、純粋な想いと涙、それしか受取れないのです、哀しいことに・・・・・。我々が人の命の代償として、彼岸に持っていっていただくものは、たかだかそれくらいしかないのです、できることは。けれども、我々は受取っているものは、はかり知れない沢山のものを手にしているのです、そのことに思いを致さなければ本当の、恩知らず?そのものですから。生きること、生き続けることの意味も重要だが、死の意味の大きさには敵わないようだ。死してまでも、生きてる人を走らせるんですから・・・。人生には、その人のエッセンスが凝縮している、すべてが。この世の中には意味のないことなんて無い、どんなことでも受取る側のココロしだいで如何様にも変るんであって、意味なんて無い!なんて言ってる方が生きてる価値が無いのであって、決して無価値なものは無い。死人に鞭打つような言動は、すべて己を貶めていることに気付くべきだし、足跡を汚すことは厳に慎むべし。どんな人生を生きようとも、その人にとって意味のある人生だったのですから、それが尊重・尊厳ということだと思う。そして人間の一生に軽重なんて一切無い。はからずも、鬼籍に入られた方々を敬うことが供養です。失礼にもすでに、『仏さん』になられている方々に、そもそも今だ生臭で一知半解の我々が、訳知り顔で話す次元が違っていることを知るべきです、心して。生前に関係のあった方々も、縁無く鬼籍にお入りになられた方々も、そんな方々の御苦労の土台に今、我々は生きていく事ができ享受していることを、忘れることができましょうか?命日だけではなく日々、思い出し、感謝と合掌を忘れまじ。・・・・・どうぞ、やすらかに・・・・・合掌・・・・・。母の好きだった花はいま、どれくらい沢山、なにが?咲いているのだろう・・・・天国ではネ?・・・。
2004年01月31日
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・・・ヒトと魚、ヒトと人、オトコト女、男とオトコ?想いをアヤツリ今日もまた丁々発止、セールスでも遊びでも、そして魚釣りに於いてさえも、毎回、ヨチヨチとア~でもない、コ~でもないと思いを巡らすことになる。ニンゲン相手ではとくにムツカシクて、一瞬も留まることをしないココロを相手に格闘を仕掛ける為に、封殺的な殺し文句を日夜、ウンウン唸りながら搾り出すことになる。キャッチコピーとかで、ゴキブリホイホイのように一発で捉える事のできる言葉、殺し文句なんてソウソウ、閃いたり、拾うことなんてできない事なんですが、それでも、尚。ガマガエル宜しく脂汗をシボリ出しつつ、仕事でも、恋愛でも臨機応変?に脂汗の結晶をソット相手にイカガでしょうか?と囁きかける事になるが・・・イジマシイ・・・ですだ。ひとつのニヒリスト・ダンディズムで通せるならよいが、まぁ、そんな対応では即、オトトイオイデ?の一言でお終いにナッチャウンデスカラ、売れないし好かれないようだ。ニヒリスト(皮肉やさん?)ダンディズム(鬼面毒笑)が、よいわ~\(~o~)/なんてヒトも中にはいるけれどもね、そんな孤独のエキスパート?がイイというヒトが・・・・。この一言を口にすれば、コロリとバタバタと将棋倒しのように自分のところへ転がり込んでくる?そんな殺し文句、名文句なんてないのだろうかしら・・・・・ね?世紀の大嘘つき、政治家、経済評論家の類は真面目にウソをつくようだし、普通のヒトは最初から千三つ屋とか、うどん屋の釜の類、眉唾で聞いているのでよいのです!?!?!。言わせておけばと思っているけれども、ワレワレがそれをやっちゃうと村八分?ですからね~これはもう生きてイケませんですから・・・信用失墜!・・ハイ。こう考えてみると、ゴキブリホイホイのようにヒトを捉えてはなさない、バタバタとドミノ倒しが発生するような封殺的な言葉は落ちてないし・・正直は金か・・・なんてこった?・・・コレじゃ~政治家になれないじゃないか!カナシイ!ムカシからある、殺し文句では効くキカナイハは、その人のお人柄が発射している放射能?に影響されるので一概には言えないですが、将棋の駒、ドミノのひとつ位は倒れるかもしれない、こんな文句? ドウヨコレって・・・。『バラ盗人は許さるべし』コンナ封殺的、殺し文句もあるみたいです。ヤボな解説をツケルとこれは、バラの花は美しいから、ミチャウとつい折り、とりたくなっちゃうのが当たり前で、折ったヒトには罪はない、バラが美しすぎるのが罪なんだ?女性が聞いたら、一発?で昇天しちゃう文句ですよね~。一度くらい言われたい、言わせたい言葉でしょうね、女性にとり、これって。イワセタコト、イワレタコトある?そこのアナタ、えっ?!キザナ、こんなセリフ一度は・ぶっ放すぞ!ナンテ・・・。(オアイテは、だれ・・?・・ムリそうです・・?・・・)美しいバラ?も最近見てないな~PCで眼がヤラレタのか?
2004年01月30日
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・・・・・ヒトと人と、物事をスムースに運ぶためには、真意とは違うところのものをも言ったり、やったりシナケレバいけないこともある・・・心外だ、と、思っても、ネ。何事にも、反対物は必要なようであり、悦楽には剛健、愉しむにはチョットした汗と涙も裏側には必要ですから。ムカシ昔のそのむかし、トルストイの『戦争と平和』の中に「荷車の運行に油が必要なように、友情には阿諛、賞賛はナクテハならない・・・・・」と言うような一文が記してあり、ふーん、と、気にはなったがそんなものかと、昔はチョット躓いたけれど通り過ぎた。働き始めてから、人間関係、恋愛、友情、の輪を維持していくには潤滑油?が必要で、ただ正直にボキボキと正しいことを吐いていれば良い、なんて事じゃ済まない事が解りはじめた。(心の中では、別な事をツブヤイテ?いたんですが・・・)そして何かのとき読み返した折に、へ~、と立止まっちゃった。その時にはさすが巨匠、いいコト言うね~と、改めて感銘を受けたのでした。若い頃、読んだ時にはそんなことは真の友情じゃないんじゃないのかな?、正直がなければいけないなんて。でも、チョット社会でコズカレ、モマレし始めると、同じ言葉でも思いは違ってくることを知らされた、さすが巨匠と。でもまた、シバラクするとこの一説は、よく考えると当たり前のことのようであることにも、また気が付いた。頭じゃなく、現実には日常茶飯に無意識にミンナ、シコシコとやってらっしゃることなんだと、思い当たることになった。世の中の運行には、コンナ感覚をなくしては、あちこちで問題発生、紛争、紛糾、戦争がドンパチと起こっちゃうことになるんであって、そうならないのはミンナ知ってか、シラズカ? シラネドモやってくれてたんですからね~?なんてミンナ世間の人たちは、賢い?のだろうか、と、思い知らされことになり、今更ながらコレに感心してる私ってアホなん?と、痛烈な一撃を食らった事件でもあった・・・。ミンナの方が賢くて、トルストイはミンナが普通にやってることを書き止めただけジャン!と。でも、それすらヨレヨレでシバラク時間をかけないと理解できない自分は、イッタイ、ドチラさんなのかしら?(たんなるオバカサンでした!まぁ、世ハ矛盾ダラケヨってね?)他人でも知人でも、かりそめでも真の友情でも、ヒトを乗っけた荷車が動くに必要なものは、トルストイが言うような『油』、潤滑油はなければいけないようだ。しかし、作品中にもコレだけニンゲンと人間の接触の知恵を披瀝した、『巨匠』トルストイ自身は、晩年になり女房のヒステリーに堪忍袋の緒が切れてしまい、たまりかねて家出をし、油が切れ、冬の駅頭で肺炎になって死んじゃった、合掌。こんな、皮相、皮肉な話しは無いようだね?・・・・なにを気づかせてクレルのか・・・・・これはね。二ホンでも永井荷風とかいるけれども、結構壮絶ですね。けれどもそうだからと言ってトルストイの価値が変質するはずもないし、それでかえって評価が高まることも考えられるし、思想と行動のギャップと振れがあればオモロイね?。と言うことで、トルストイよりも賢いミンナの中には、それぞれの運行秘薬の『油』、が秘蔵されていることと思われます。それは各々の、エッセンスであり、口にするまでもない普通のことでもあるんで、沢庵の糠のように大切にして欲しいもんです、『人生の荷車の運行の油』は必用なんだね。ジンセイナニがムダで、ナニがムダでないのかは一生かかってもよくわからないみたいです。でも、ムダを避けても、恐れてもイケないようで無駄遣いだって後にはリッパな役割を果してくれる事もある失敗だって。『何事にも、反対物は必要』それを信じてムダにこそ情熱を注ぎ込もうじゃないか?(利害損得も効率もアッチヘいけ!蹴飛ばして・・・と?)・・・先輩のトルストイさんもいるんだし、恐れずに!?!どうなのよ、ワタシって・・・・生煮えじゃイヤだしね~。トルストイに因んでソ連の、ナゾナゾを一つ。『神にはないけど、人間にはあるものは?』神よりスゴイなんて・・・・・・・ナンダロウか?(ぜぇんゼェン、すごく無くてサイテ~【罪】でした?)
2004年01月29日
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・∞・・∞・・無限のモノなんてあるのだろうか・∞・?宇宙は有限、無限の決着はついたのだろうか?膨張をつづけるとか言われているけれど、宇宙を抱えている入れ物?は無限なのか、どれだけの容量があるものなのか、無いものなのかさえの判断さえデキナイ、捉えどころがない宇宙・∞・。あまりに現実離れしたところを考えてみてもマトマラナイ。限界点、破断点、破局点、破壊点、放射能の臨界点とかが在り、われわれの周りは限界の在るものばかりで成り立っているようだ。水も、物も、沸点、硬度、それぞれにあるし、人のココロもそれぞれに耐えられる限度がある。一定の限度を越えると壊れてしまうことになる。それを、カタストロフィーと言うようですが、最近の様々な現象を見たり、訊いたりしていると、イヤなんですがカタストロフィー(破局点、破壊点?)を思い出してしまう。環境、地球の温暖化、エネルギィの涸欠なんて悠長に考えている前に、ニンゲンのココロがカタストロフィーを起こすんじゃないか、おこしてる?フッと思っちゃいますこの頃。杞憂であれば良いのですが、無残なことが頻発しココロが麻痺して、少々のことで驚かないことが恐ろしい。不正をしないのが要領が悪くて、見つかるのが馬鹿だ、なんていう状況が既にできあがっているのだろうか?悪いことをしても見つからなければ、と。法律の網をくぐる為に如何に合法的に効率よくやるか、が求められている状況って、ドウナンダロウカ?一連の頻発する事件、事故の根底にあるものは決して他人事ではなく、いつでもワレワレが加害者になりうる状況が出来ている事に気付かずに、他人事のように言っているだけなんじゃないか?と、考えたら息苦しい思いが湧き上って来る。そんなことを考えると、もう既にココロの一部、何かがハジケチャッテいるんじゃないかと、気づかないのは我々だけなのか、とか・・・・越えてしまっているのか、ワレワレは?オプチミスト的に、悠長に構えている限界点を越えているのに気づかないままに居るとしたら、それも恐ろしいことだし。21世紀は、科学と宗教の融合の時代と言われて来たのですが、そのダイナミズムの前兆なのか?あまりにも規律・規範のタガが外れすぎてしまい、個人の利益優先、刹那的になりすぎた世情になっちゃった。環境とか、個人、組織、地域、国家、地球などそれぞれに繋がりあい、危ういバランスの上に成り立っているそれを破壊している現実は、キッチリ見据えて眼を逸らさない様にしなければならないようですが、その後どうする?ワタシなら。暗鬱、暗澹、出口のないジャングルに迷い込んで、われわれは確信を捕まえられないままに、現実に駆逐されてしまうのでしょうか、この魑魅魍魎の現実からココロが敗北してしまうのか。ヒトなんて、ヨワクテ、脆く、哀しく、ヒトリの力なんてたかが知れているものなんですから、原初の原点の何も持たず徒手空拳の裸一貫であった昔はソウだった時を思い出し、現在のモノに振り回されている現実に思いの焦点を当てれば、如何にモノを持ち頼っているのか、依存し屹立していない己が少しは、浮かび上がってくるのかもしれないネ。・・・クォ・ヴァディス・・奪う前に、与えることを。意識は稲妻、舌は蝸牛、と言う言葉があるけれど、無口、寡黙でいてはイケなくて、覚醒した人たちが発っすることをしなければいけないようだ、この時代。ただし、なにを発っするか、発っしないかが問題だが・・。そして、愛されることを望むより、まず、愛することから始めれば、それが最強の武器になるやも知れず?・・・・・愛の受動から能動へ・・・あとは質と量だけだ。唯一ココロの第三元素の、無限の力『愛』を利他の精神で惜しみなく放出の時ですね?
2004年01月28日
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・・・昼夜、かまわず目覚めた時の白想、いま暗夜。楽しい話もタクサンあるのだろうけれど、ニュースの記事は暗い、衝撃的なものが圧倒的に多いようだ。売らんがタメだから、とは思うけれど、半分以上は楽しい話を入れないと発刊・放送禁止ってのは・・・・・・イカガ?ワレワレにニュースが反面教師的に、親切に毎日暗い話題をご提供してくださいます、コレでもかと。食傷、辟易、ウンザリ、新聞は見る気もしなくなるし、テレビはどの局も争って井戸端会議を、公共の電波を使って延々と流し続けているし、雑誌は虫ピンですら止められないような、どうとゆうこともないような話をご大層に書き留めている。といいつつも、そこにあるから眼にしてしまうことになるんですが、先日の息子を両親が餓死させようと目論み、死んだと思い連絡したらまだ、生存していたと・・なんてこった。ニンゲン技じゃないね、これって・・・・・絶句。茶川龍之介がむかし『藪の中』という短編を、大正時代に仕上げた有名な作品で、ミンナかじっている事でしょうが、あらすじは、旅の夫婦づれがいて、その夫の方が切り殺されてしまい、強盗、妻、その男の霊、ミナそれぞれバラバラのことをいい、真犯人はついにわからずじまい藪の中、の話。近代の精神はそれまでの、どんな時代よりもまして人を疑うことを知ってしまい、同時に不幸も呼び寄せてしまうことになる。そんなことを短編中で描破している傑作です。ヒトは自分の情念や、主義や、イロイロなものにからまれ、説をつくり、信じ込む。また、信じ込んだふりをしてそれが重なるうちに、フリじゃなくなってしまう。説をつくるだけじゃなく、一瞬の目撃の眼をもそうなってしまうことを、定着させてしまうことになる。・・・・・信じ込んでいるヒトには狂気も普通なんだと。ヒトが殺されるという事件ばかりか、一頭のおとなしい野獣の一部分についてすら諸説紛々となる。そして、目撃した自説に陶酔し極端に矛盾したことをも平気で、本心から悪意もなく喋りたてることになる、という短編です。『藪の中』茶川龍之介。やっぱり、どんな時代でも社会の制度や風俗、主義や主張がいくら変わろうとも、ヒトの本質は変わらない。それと、ヒトの本質は容易にわかると同じ程度に、マッタク解からないものでもあることを、教えてくれている。『藪の中』でも、昨今のニュースでも轟音と喧騒を奏でるなかから、ニンゲンの獣性、そして隠されていたココロの闇を、眼をそらしたいものまでを、目の前に提出されてしまい、ゴリゴリと心の中をタワシで洗われているような感覚を味わってしまうことになる・・・・驚愕と消沈そして轟沈。・・・・こんなニュースが多いと鉄面皮になっちゃう・・・猜疑心、疑心暗鬼が指定席を手に入れたようです、現代は。ニンゲン・・・『哀しきかれ、美しかれ』・・・と・・・。
2004年01月27日
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・・・・・オワスレでした!・昨日の答は『時』でした。・・・お解りでしたか?オメデトウ!ヽ(^。^)ノ・・・。また、ヒトツだしちゃおうっと。『貧乏人のベットは冬の間長くなるという、なぜ』???・・・・・・忘れなければ、最後に答を。・・・・・今の時期は入学試験花盛りでミンナ頭を悩まして、子供も親もおじいちゃんも、おばあちゃんも一族郎党?神経質にナッチャツテル、かも知れないですね。世界最大の哲学者の1人?、A・N・ホワイトヘッドがいる。イギリスの数学者・哲学者(1861~1947)が、バートランド・ラッセルとともに大冊『数学の原理』を著わし純粋数学を形式論理学の一章として展開しようと試みた著書がある。その白頭(ホワイトヘッド)さんが教育について、こんなことを言っている。『試験に(優)をとる人間にわたしは懐疑的である。試験に答えるようにきたいされていることを答える能力とか、それを答えて満足しているような態度は、ある種の浅薄さと皮相さを示している。そして(良)をとる人間は、少し鈍いかもしれないが、頭脳の鈍さは独立的な思索に先立つ一つの条件なのである』・・・・・・と言っている。・・・ムツカシイ・・・。・・ソウでもあるし、ソウでもない、ようにも思う・・・。試験の優をとる人間は、なぜ優をとれるのか?と言う所はホワイトヘッドの解析が当っているとは思えない。そんな人が優をとるときもあるが、けれど同時に試験向きのヘッドも世の中にタクサン、リッパにあるようだし。それは、単に試験に向いていると言うアタマであって、脳の質とは関係がないようにも思われる。けれど、そうゆう秀才が学校を出て実社会に入り、人間関係にもまれはじめると、とたんにダメになってしまう、自分の周りでも探せばそんな例が、あれとか、これとか、居るようです。善し悪しじゃなくて、現実に試験向きの頭、そうゆう風にできている頭の人はいるんだと、解釈するしかないが、いる。けれども、頭が鈍いということは独立的な思索に先立つ一つの条件なのである、と云うところは半分納得できそうですが、独立的な思索をするには忍耐力、しつこさ、地を這う、地味な地に足をつけたココロの覚悟が必要のようで、遅々として進んでいないように思えて、積重っているようだ、いつの間にか。キラキラ、光っているだけの秀才にはできにくいし、キヅカナイみたいだし、気付いても加速しすぎてて通過する、シチャウ?みたいです。それで、一見鈍そうな奴がえてして、シバシバ頭角を現すことがある、後年になって大器晩成のように実力を発揮し始めるのは忍耐力とか、持続力、しぶとさとかで説明した方が良さそうなモノ、おそらくそんなところからくるのではないかと。そんなふうに、切れ味鋭いゾーリンゲンの剃刀のような頭か?(ちなみに、ゾーリンゲンは切れすぎるので切味を落としていますと、の宣伝文句がウリだった、・・・カミソリ派?)はたまた、鉈のように無骨だけどもボキボキと、でも確実に成果を積上げる頭なのか。(研がなくても、丈夫で長持ちする、・・・・・鉈派?)白頭さんの時代とは違ってしまいましたが、試験に受かろうと、落ちようとも、ニンゲンの頭の構造とか一葉でない?ものなんで、ガタガタしないで見守ってあげることが、反って良い結果を招くことになるかも知れないじゃないか。思索の頭はノーベル賞モンかも知れないし、試験の頭は一時の錯覚かもしれない、誰にもわからないことなんだから?できることは、信じることだけ、ジッと静観を。でも、そんな先より今の合格がホシイのもホントのことだし。・・・・・・・・ムツカシイもんだ・・・・・・・・白頭さんの頭は、両方兼用しているミタイですが・・・・。ところで、ワタシの頭は試験頭なのか、思索頭なのか。それとも、ノー・ヘッドなのか。どんなヘッドだろうか・・・カラカラ音はするようだが?まぁ、頭の中身はドウでもよい、結果も終わった後だ、ただ、危機と壁を越える情熱を失くさなければ、また始るさ。駄じゃれを一つ『医者を毒たー?』これいかに・・・・・・・・・サイテーだ、ネ?・・・・ナゾナゾの答、寒くて足を縮めるから、ですって。
2004年01月26日
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・・・・・またまた、ナゾナゾをヒトツ、考える。『そこから動かないのに、進むものは』ナンダロウ?ハードボイルド探偵、フィリップ・マーロウが、『男はやさしくなければ生きていく資格がない、そしてタフじゃなければ生きていけない』と、男にフニャフニャになった精神に活を入れてくださった?有名なお言葉です。(アリガタイけど、オワスレ~~~です)ズイブン前に角川書店が、コマーシャルにこのマーロウ先生の言葉を使い、男と時代に粛々と精神に一本の楔を打ち込んだようだ。けれど言葉の理解は、ナカナカむずかしくてミンナ、冒頭の『やさしくなければ生きていく・・・・・』という言説だけを捉えてしまい後半の『タフじゃなければ・・・』の部分をすっ飛ばして身に付けちゃったようで、以来、ヤサシサの大安売り、大バーゲン、大特価品になっちゃったようです。ユニセックス?両性具有?平和で危機感がなくなると男は女性化していくとか、人類の進化で両性を獲得するナンテノガありますが、未来的には。ワレワレはそんな時代まで生きられないんで今、この現状を見ると男は男、女は女でいてほしいし、グニャぐにゃの男はあんまりね~困ったもんですダ。(好きなヒトもイラッシャルようですが・・・?・・・)(コレじゃレズも増殖しちゃう・・・・・ミタイ、ね?)やさしさをハキチガエテイル?事に気がつかないと、アッシーくんとか、メッシーくんなどと女の子に使い回しにされて捨てられる?ことに。(昔と逆転しちゃったようだ・・・)しかし、いろいろあっても男はやっぱり、やさしくなければダメでしょう。その、やさしさにもイロイロあることを考えてみることが必要で、マーロウ師匠はピストルを持って街へ出かける前に、タフとやさしさを、きっちりコインの裏表のようにポケットに入れてあるんだよね。それは、無気力が源泉になっているやさしさ、源泉がそんな河の下流のやさしさと、タフ&ハードが源泉になっている河の、下流がやさしくなっている水は、見た目は同じ水でも含んでいるものは違う。谷川の清流を口に含むと、自ずと水のチガイがわかるが、美味しい水の源流をたどれば、峻険な岩肌を滑り、岩の中を潜り抜け、駆けぬけ、岩の中の養分を溶かし、吸い取り、そして酸素をタップリいただき、絶えずモマレテイルいるので、新鮮な空気が沸騰していて、舌を喜ばすミネラルをも豊穣に抱えている水になっちゃうんですからね。無気力と軟弱を源泉にしている水は、これらのものを含みようが無く、獲得されていないので味わえないし、歯応えも不足気味に成るようだ、食い足りないことになっちゃう。急流を源泉にした谷川の水、岩、石、急流、モロモロでモミクチャにされ、あげくにでて来た水には、やさしさの元素がタップリ、と含まれた水なんだ、だから味があり美味しい。水に底が入り滋味がフツフツと途切れなく続く味になる。やさしさにもタクサンあるけれど、そんな急峻を駆け抜けてきた男のやさしさを、ダサいとか、スマートじゃないとかの単純な括りでしか捉えられない、フニャフニャでお子様の脳しか持合せていないようだ(・・・ワタシ、も、ダ?!?)本質を視る事ができない大人が不足気味なのかしら?ね、これは、ヒトはたくさんいるけれど・・・・・・・。いい味を醸す、スルメのような男を必要として求めるのであれば、結局、女性の方々にも求めているレベルに合わせた、自身を磨くことが求められることになるようです、見極める眼をもつことが。そんな男になるための何事かを得る為に呻吟し、磨く。また、そんな男を看破する眼を得る為に磨く、女。味のある、いい女と、いい男が、タクサン街にヨナヨナ、溢れかえるなんてスバラシイじゃないか、愉しみだね?そんな、ジダイ?が来ることを、まずワタシから?やる。他に求めることは、ブーメランのように己に求めるようだね。暇つぶしに考えたことでしたが、修行が足りない?ですね。経験を滋味深く、ココロに浸透させた言葉を繰出せる様に。『しかるに花千日の紅なく、人百日の幸いなし、とか・・』
2004年01月25日
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・・・・・今日も、簡単なナゾナゾを一つ、考えてみる。『眼がなくても、泣くものはなんだろう』、ナンダロウ?愉しみましょう、答えは、忘れなければ最後に記します。大英帝国イギリスは、産業革命を経て産業、科学、軍事、あらゆる分野で世界を席捲した栄光と伝統を継承している国だが、一時落ち込みサンセットの国になり、サッチャー首相で息を吹き返し少しだけ、影響力を取り戻したようだ・・・。そのイギリスには『ネイチャー』、挿絵入りの自然科学の月刊誌が1869年から出版された、創刊号はゲーテの自然についての警句を参照しT・H・ハックスレーの一文が掲載されている。また、1849年にはオックスフォード大学出版局から発足し、現在も月刊誌として続いている『ノーツ・アンド・クィアリーズ』という月刊誌がある。印刷技術の発達のお陰、とは言え1849年から既に研究論文などを自由に掲載していたんですから・・・・驚愕。この時代日本は、歌麿の世界?現在のIN/NETの普及もアルビン・トフラー曰くサード・ウェーブ、情報化社会の先端ツールの一つなんで、使用している人達は輝かしい時代の担い手かもしれないね。この『ノーツ・アンド・クィアリーズ』は、将来に論文や作品を書くときの、アイデアや知識を発酵させる場にしようとの意図で発刊した。1、ノーツ(覚書)2、クィアリーズ(質問)3、リプライズ(答)の三部門からなる、その創刊号の巻頭言には、カトル船長の金言『発見した時に、書き留めておけ』を、この雑誌のモットーとすると記している。(この時代、スゴイデスネ~?)文化と、文明の発達による余裕が精神の発酵をも醸成することになるんだから、経済の進展にはユメユメ無関心ではいられないし無関係じゃない、精神の余裕と二ホンの今も、己も。そして、そのココロは?『発見するまでは、まず質問を発しよう』と付け加え、文学、芸術、諸科学のスベテの異なる分野で活動し研究してる人々が、思いついた時に書き留めておかないと、忘れてしまう、と・・・・・。・覚え書きでもよいから、書いておこう。・そして、知らないことは訊いてみよう。・知っていることは、分ち合おう。・なるべく違った考えを、ぶつけあわせよう。・そして、アイデア、知識を発酵させる場所にしよう。と、機知縦横の呼びかけをしているんです、この時代に既に。IN/NETでのチャットルームと同じ事を、1849年から雑誌上で先駆していたんです、知識の触発、啓発と醸成、発酵の場を提供し煥発していたんです。たとえば、一つのテーマが取り上げられると、誰かが質問を発し、他の人がそれを拾い上げて答える。また、違う意見の人が答えたり、質問を発したりして異種格闘技の様相で意見が戦わされることになる。一つのテーマが様々な論議を呼び起こして、数年に渉り続くこともあり、それがこの雑誌の特徴、論壇風発の先駆。そして、集団討論の場でイツデモ、ダレデモ、飛び入り参加OKなので、問答形式の好奇心を刺激しあう一種の知的ゲームだ。国民の民度などと言われるけれど、自由闊達、意識が喚起され、それを財政的と自由に発言できる場がないといけない。その訓練も必要ですし、耐えられる発言を発する知識も。安易に惰性の中で安眠を貪っているのは、ラクダ。けれど、衆人の中に放り込んで耐えられる言葉は吐けないし、獲得するに流した、汗と涙の量が、言葉の重みとなるようだ。そして、経験をエージングする(年を取らせる・円熟させる)ワインの熟成と同じ過程も経ないと民度も人も練られない。・・・・・〔答、雲でした〕・・・ワカリマシタカ?ヒトも自然も泣くことで、リセットしているんだ、泣こう!
2004年01月24日
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・・・なぞなぞ?から、始めてみます・・・。『仲良しの二人、だが、二人が合うたびに、他人を 別れさせるものは?』、なんだろうか?ネ~。答えは後ほど、記します、オマチクダサイ・・・・・・。ビンボウはしたたかに経験した、今もその延長上に在るしアジワイつつ継続中です・・・・・サミシイ!?!ね?したがって、裕福とは無縁だったので裕福の方たちの心境は良く解からずですが、いろんなものを読んだり聞いたりする事でオボロゲニは推測できるようだ、情報化社会では。スベテの事は時代とともに変遷していくものですから、富裕に対する価値観というものも、日々刻々と変っていくことになる。むかしのお金持ちは、太鼓腹で、葉巻をくわえて、シルクハットで三つ揃えをビシッとキメ、イスに仰け反っている?ナンテのが、風刺画のあらゆる場面に登場してきていた。しかし、イマ、太っているのはむしろ貧乏人です。お金持ちは痩せている、消化のいいコレステロールの少ない、贅肉のつかない、そうゆう風なものを食べるはずのものだから、痩せている筈です。『時は金なり』なので、本当の金持ならば時間を買取る?金力を持っているわけでジェット機で、ファーストクラスで旅行して威張っているようなのは貧乏人のようだ。もしくは、中産階級で、ホントの上流階級ならば、船で、豪華船でユルリ、ソロリと静々と往くようだ。そして、もっと上流人になると歩く、足でお歩きになる。上流人の遊び、ヒマツブシ?で一番優雅なスポーツは、ハンティングで、これは、中流人じゃとてもヤッテラレナイホドノ財力が必要らしい、けれど、ミンナやりたがるが資金不足。イマじゃハンティングなんて、ソウ、ざらに出きる所なんて無くなりつつあるので、いよいよ地球の果てへ旅立つ。人跡未踏なんて、ソウソウ在るわけじゃないので、ハンティングの拠点、食料そんな所には電車は走っていないので、ガイドを雇い、軽飛行機を飛ばし奥地へ入ることになるが、すべて自力で自然と格闘をすることになる。山を越え、谷を越えて、獲物を求めて鉄砲を担ぎ、道なき道を延々と野獣と、知恵比べをすることになるが、半端な体力と知力じゃ持たないようだ。それでも、獲物は獲れるとは限らないし、取れないことの方が、しばしばあるようだ。お金も半端じゃなく要るし、暇も要る、そして体力も知力も要る。そんなんで、絶えず運動をして鍛え続けていなければ持たないし、飽食もできない、お金があるのに美味いものも食べられない?なんておかしな話になる・・・オカシイネ?こうゆう時代だからこそ、逆に富裕とは静かな暮らしができる人、といえるし考え方もあって、電話をかけられたり掛けたり、休みもろくろくジッとしてられないような生活では、こらはもう、お金持ちなんて言えまいし。コンナ時代のお金持ちは、時間を自由に使える、体力があり筋肉質で締まっていて、日焼けしていて、おっとりと慌てず騒がずに、と、こんな男、紳士をみたならお金持ちと思ってよさそうだね?そんなことで、いまやお金持ちは山の中で仙人に似た静かさの中で、おっとり、まったり、使えきれないお金を持ち、体力を維持しつつ知力も鍛えて、日々コレステロールに油断できず美味しいものもタクサン食べずに生きる。まるで、筋肉マン?が、自制と抑制の禁欲生活をしているのと同じじゃないか、コレって?ワレワレの日常生活と、どこが違うんだろうかね~。妄想とか幻想で美化しすぎてはいけないようだね、お金持ちを。一皮ムケバおんなじ?(貧乏人のヒガミ?!?!?)呪文のようにお金持ちになりたいなんて唱えていても、必要条件の一つであり、充分条件じゃないってことも頭の片隅に要れといても良いようだ。(一度は使えきれない・金が?ネ)足るを知る?なんてのもあるし・・・ムツカシイ・・・。うさぎ仙人の目指す所は『精神の王者』だ!(マケオシミ!)貧乏人もお金持ちも、『座って半畳、寝て一畳』ですし、人間の価値なんて『棺をおおて定まる』という言葉だってある。棺桶に釘を打ってから、価値がわかる生き方を目指しているか?ただ、この一点だ。あとは、二義的オマケでコレを外しては、騒音でしかない。・・・・・・〔答え、ハサミ、でした〕解かったかな~?
2004年01月23日
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・・・・・コレで何度目になるのか、懲りないですね~。ホトンド完成、で日記は消滅!戻っておいで~。ムリか?笑いは必要だけれど笑って日記をマチガイで消すなんてネ~また後で、挑戦してみることにしようっと。\\\\\\\\\(~o~)/・へッへッへ~だ・\(~o~)/\\\\\\\\\節度のある笑いをシナケレバイケないようだ、ハンセイ!爪の話を書いていた、釣師と女の感覚の違いを爪が表していると言う様な事、そして釣りで女の掌から男の逃避衝動で釣りに行くので、あまり男を責めないように、と書いたが消えた。と言う事は、男の自己弁護に過ぎる?と言う事なのか暗に?この話題は記さないほうがよかったんだ、救われたようだ?ツイテル!?!これ以上敵を増やしてはいけないようだね~『戦争と芸術』美術館とか軍事博物館などが、良くも悪くもニンゲンの一面を、そのような××館にピンで留めている。世界的な芸術作品、阿鼻叫喚の戦争証言をこれでもかと、それの質と量の洪水に圧倒されることになるけれども、それらの狂乱、虐殺悲惨と芸術へのニンゲンの精神活動のダイナミズムと尊厳には、賞賛もあるけれど深い絶望も同時に抱くことになる。イッタイ、ニンゲンって芸術も創造であり、武器も科学の創造だとしたらば、創造に駆り立てる情熱?ッて一体なんなんだろうか?じつは、人間を芸術に向かわせる衝動や情熱と、新兵器を発明して戦争をし殺戮を行うものは、一卵性双生児なのだろうと、愛憎表裏一体の密接不可分の心性なんだと思い知らされる。ニンゲンの悲しい性、ニンゲンであるうちは、ナオラナイ。イラクのことで騒然としているが、外交は形を変えた戦争だ、という言葉もあるし、ボーダーレスの企業戦士とか日常では無意識に戦争を比喩・暗喩した言葉が飛び交っている。想像力と感性の問題で、そんな歴史的現実を見ないと言葉の重みを普段は気にしないが、実は日常の中に既に戦争も芸術も一緒に二人三脚状態なんです。ヨーロッパ戦前最大の詩人・哲学者、ポール・ヴァレリーがこんなことを書き付けてる。『文化とは、血を流さない想像力の戦争だ』と、ナニカを獲得した人は、われわれに見えないものも見えるんだろうね?その言葉の真実を素直に受取れないから・・・同じ過ちを。けれども、半分だけ絶望を感じればよいようだ、それは戦争の悲惨な現実の絶望に眼を落としたとしても、もう一方でゴヤとかピカソ、モーツアルトなどに希望を抱かせられ眼を上げたのだから、昼と夜の関係のようなもので絶望だけじゃない、朝の来ない夜はないようだ。だだし、ニンゲンの情熱と衝動は節操がなく、善悪ではなく向かう方向が大芸術を生んだり、はたまた大殺戮をやらかしたりするものなんだ、と、ココを弁えないといけないようだ。ソヨイデモ、ソヨガナクテモ、冷たい汗も、熱い汗もある。ジダイ時代にイロイロな批評・論評あれど、それをキリワケル、研ぎ澄ました己の刃は錆びさせていてはイケないのですから。付和雷同、八方美人はショウガナイ?トコロモあるけれど、でもココロの片隅には自分はソウじゃないヨ、と呟くもうヒトリも己の中にいることまで、忘れないようにしようッと。自立って、他人の批評を二本足で耐えることですものね?発っすることは、味方も作るし、対立も生む、言葉によってキリワケルようだ、言葉の刃で鮮明に。まず、ソヨガサレつつもソヨガナイ、ココロをモツ、核を。
2004年01月22日
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・・・・・・ズ~とむかしのギリシャの年老いた哲学者が、真昼の日中から提灯に火を入れて、お日様のギラギラ陽の射す町を何かを見つけるかのように歩いていた。それを見ていた町の人々が寄ってきて、『先生、いったいナニを探してらっしゃるのですか?』と訊くと、先生は顔をソムケて『人物を探しているんじゃよ、人物を』と、言ったとゆう。今の時代にも充分に通用するような、考えさせられる話ですが、今はイマであり過去の偉い人たちの言葉に囚われ過ぎてもいけない、けれど知らなければいけないのもホント。それは、ひとつの核を己の中につくってもくれるものでもあるのだから。固定観念は狭くする、自然体の構えでヤワラカイ態度と頭を維持したいものだ、自然体の構えで。碩学といわれる人たちは沢山いる、漱石とか幸田露伴などいるもんです、タクサン。この碩学と言う字の碩を見ると、石と頁で出来ているんですが、柔軟性を欠くと石学になっちゃいまして石頭ですねこれは、もうね。碩から頁を抜くことは、本のページをメクラナイ?ことになっちゃいますので、やはり、頁を繰って新情報を取入れる、熟考の機会をつくらないと、旧態依然でむかしのマンマの石頭から抜け出せないようですね。探される人物になるには、ムツカシイもんだ。われわれの日常は、生活に精一杯で、生活に疲れたよ~なんて思いながらも、電話がかかってくるといそいそと出かけてたり。仕事と言いつつ朝から晩までシコシコと働くし、妥協したり、握手したり、ウソをついたり、ダマシタリだまされたりせずにはいられない。日常の中で、そんな『碩』を身にツケル余裕なんてないのが普通なんですが、気持ちはある!でも・・・・サミシイね?人の一生は愚行の連鎖であり、愚行の輪の無限のツナガリのようなものです。ブルトーザーとか戦車のキャタピラーの『無限軌道』とオンナジ?で、グルグルと愚行を演じることになっちゃいます。ワカッチャいるけどね、この愚行の知恵の輪を解くことがデキズニ、ジタバタすることが人生でもあるし宿命なんだと、ワレワレにそれを、愉しめ!との神様からの贈物だ、とネ?いずれにしろ、ドタバタしながら一生を終えるんでしょうが、ニンゲンが賢くなれるのは昨日に対してだけで、今日と明日に対してはイツデモ、迷える子羊なんですから・・・。まあどうでもいいんです碩学でも、石頭でもネ?そのワカラナイ人生と明日の為に、今迄も、これからもタクサンの人達が『ナニナニの法則』発見?という壮大な冒険をつづけることでしょう、愚行の知恵の輪を解くために。ダレカ挑戦した結果をおしえておくれ、ソットその朗報を。愉しみに待つ、そして街角で一杯やりながら石頭をお酒でヤワラカクしようよ、ご馳走するよ、そんな時にはね?『碩』
2004年01月21日
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・・・・・近頃は不倫とかオフィス・ラブなんてのは既に死語?になっちゃったようで、余程でないと話題にすらならない。日常が刺激的なゴシップ記事が横溢していて、ヨほどじゃないと、象皮症のようなココロをソヨガサレなくなっちゃった、我々は。事実は小説よりも奇なり?で現代は、遂に小説を追い越したようですし、事実に裏打ちされた事件の、ドキュメンタリー性の新鮮さはなかなか超えられないようです小説も苦しいですね。不倫の話は今もむかしも、古くて新しい問題なんで、男と女がいるあいだは尽きることがない話題です、永遠に。誘い誘われ、振り振られ、なんて演歌の歌詞のようになっちゃいますが、バリエーションが代わるだけで中身は、どんな時代になったってオトコとオンナ、変りません、ハイ。ルアー・フィッシングと同じで、キラキラ光る疑似餌を上手くひき、逃げるそぶりをすると飛びつく習性を利用して釣るが、男女だってオンナジ、・・うまくダマシテネ~なんて。『女と猫は黙っていれば名を呼ぶし、 近寄っていけば逃げるのだ』ナンテ、女性の性向についてメリメが記している、コレがそれなんだから?ね。それと知覚してない『誘引物質』フェロモンも大いにカンケイしてるから、チョット難しいけれど。逃げる素振りをしつつ、立止まってみる。なんて演技をね。ラブ・ゲームの前に演技の訓練を積んでオクレ、投資を先に。擬似ラブ・ゲームをセッセと愉しんでいるんですから、ほっとけば良いのですが、無知が成せる真剣?(オバカサン)で練習試合を試合と錯覚してしまう少人数がいるみたいですね?コンナのは男女、同罪です・・・錯覚からハジマルようです。ダレカ、錯覚させてくれるようなヒト?いないかな~。以前に何人かで酒を飲んでいたとき、その店に美女軍団?四人の女性が現れたが、中でも一人他を圧倒している美女がいた。(もう一度、遭えないかな~?)それを称して年配の人がその美女さんのことを『チンギョラクガンヘイゲツシュウカのよそおい』って言うんだよと話を始めたら、なんともはや、瞬間湯沸かし器に変身しました!舞い上がっている若い仲間の一人が勘違いをしてしまい、**さんあんな美女に珍魚?とか珍味?ナンテ失礼じゃないですか!(奴の好みだったんですね~?私もでしたが・・・)若者の、酒と好みの相乗効果+無知?のハヤトチリで、一触即発の危機に・・・はならなかったですが、教養深い**さんがそれはネ、最大のホメ言葉なんだよ、とお話をして一件落着、水戸黄門でした。(人の話は最後まで聞きましょうね)ロ-レライでもないしマーメイドでもなかったんです・・ヨ(お若いの勉強になっただろう?!?私も密かに勉強を・・)それは漢字で書くと『沈魚落雁閉月羞花』になり意味は、浮いてる魚も沈み飛んでる雁も落ちお月さまも雲に隠れ咲いてる花も恥らうばかりの美女だと言う、むかしからの譬え話のことだったのです。普段、忙しいのであまりこんな優雅、悠長な例え話なんか発している時間も無いですが、チョックラ齧っているとヤルジャン!なんてお褒めの拍手を頂くかもね?もう一つ、花に譬えれば、立てばシャクヤク座ればボタン歩く姿はユリの花ナンテのもあるけれど、ローレライでもマーメイドでもないことですが、チト古いですこの譬えはもう。女性が褒めて輝いてくれて、地球がスムースに回るのならば?最高じゃないの、これって、美しいものに憬れるのは。女性が輝けば、暗い世相も明るくなるってもんです。オリジナルの譬え話を創作して、ホメマクロウ!ミンナで。女性の方も、ドンドン、ジャンジャン、輝いてくださいネ?でも、『秘すれば花』と言う譬えもありますんで、ホドホドに?爪だけは隠すのを忘れないでくださいね、輝いても・・・。
2004年01月20日
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・・・・・雨が落ちている、寒そうに落ちている。いろんな酒と、飲み方があるけれど時代が、進めば進むほどにドライな酒を欲しがる傾向がでてくるようだ。カクテルは組合わせのマジックで、無限のオリジナル・カクテルを創ることができる、知恵と感性の結晶のようなものだ。カクテルの中で『マーティニ』は、最大のヒットで愛飲者があとを絶たない忙しさで、世界中のカクテルバーを今夜も席捲しているようだ。キンキンに、冷えた一杯のマーティニは、己の復活を予感させる、劇薬にして良薬の一杯だ。むかしイタリアのベルモット社にマルティニ・エ・ロッシというのがあったが、この会社売れ行き芳しくなく悩んでいた、今の日本の会社同様に。あるときその会社のヒトリに天啓降下?突如、野蛮なジンと柔らかなベルモットを混ぜあわせるという処方を実行し、マーティニ・カクテルと言出した。これがまた偶然に、世界中の呑み助の舌を握ってしまった。味覚にフィットし大爆発を起こしてしまった、それがマーティニの跳躍の始まりだった。初めのマーティニは、ジンを三分の二、マルティニ・エ・ロッシの白ベルモットを三分の一、そしてアンゴスチュラ・ビタースを一適ポトリ、レモンを一片ヒラリと入れつくっていた。けれども、時代とともに進化の一途?をたどり、ジンの混合率が高まりベルモットの量は減らされていくことになり、最初のベルモットの消費のための思惑の逆の方向へ行くことになる。チャーチルなどは、ジンのオンザロックを飲み、ベルモットのビンの栓を抜き匂いだけをかぎ、コレだってマーティニなんだ、と、言うように変貌を続けているマーティニ。今はベルモットを使わない、スーパー・ドライ・マーティニの方向へいっちゃっているが、研究する?オリジナル・マーティニは無限のバリエーションがあるようだ、酒精は歓喜?オックスフォード大学の規則に、『校内および寮においては、マーティニに関する議論をすべからず』・・・・・の、一文が在るそうです。二ホンの規則より高尚だ・・・・・?・・・・ね。それくらい、喧しいことになるのがマーティニですが、『完璧な円はヒトの手では描けない』?『永久運動は発明できない』?という鉄則から、議論はあっても完璧なマーティニは永久にできそうもなさそうです、でも、己の一杯は在るようです。処方は千差万別ありですが、氷は泣き氷、角のない解けかかっている氷のことで、そんな氷でカクテル全般作るようなお店は、即、お会計をしに席を立った方がヨサソウデス。一事が万事、って言うじゃないですか、その後が知れるネ?そして、ノンベェー?の心理を弁えているバーテンは、『さあ、どうぞ』と、グラスに8~9分目を注ぎお客に勧める。お客が一口飲むと、すかさず続いてミキシンググラスの残りを『おまけでございます』といって、グラスの空きへ注ぎ足すことをしてくれる、『オ・マ・ケ』いいですね~。これを、ディヴィデント(divident)と言うそうですが、呑み助のココロを引っ掛ける?高等戦術なんですが・・・。屋台のコップ酒の受け皿の、こぼれ酒と同じで、のんべぇ~のココロを掴むのはこんなチョットしたことなんですよね~卑しいんだよね呑み助は、でも、ウレシイ!ことですネ?どんな商売も、何事かを打開するにはココロをツカマエル、ディヴィデントの様な消費者心理を鋭く突く、賢い方法も一考してもよいのかもね、価格以外の付加価値も。稀に、ディヴィデントなんぞを造ってくれるお店へいったなら、椅子にキチット座り直す?必要があるようだ、ヨ。おとなの『お・ま・け』ナンテ他にある?この、一杯のオマケを求めてヨナヨナ徘徊しているんだから。
2004年01月19日
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・・・昨日は、九年前の阪神大震災のことが楽天上で、沢山の人達が取り上げていた。・・・・・・・・・・・・・・・・・黙祷。あの日は、六時過ぎに車のラジオで聞いた。六千数百人の死亡と、伝えられているが当時直接のことであり、実際その時の影響で、今も犠牲者は出続けているのです、累々と。そして、まるで災害は復興を終えたかのごとくの報道とか、人々の気持ちがまるで忘れたがっているかのように、忘却の彼方へ押しやっている・・・想いダシタクナサソウニ!ね?天災はやって来る、しかし万全、最善の対策を執ったのだろうか、政府、県政、地方自治体は国民の生命と財産を守る?前提で税金を集めて、あらゆる状況において個人の範囲を超えたところは、そのような政体が保護・保障することを憲法で謳ってある。阪神大震災は天災ですが、ホトンド人災に近い現状でしたし、その後についても保障を担保している国、県政、自治体の動きと後手後手の対応をみると、信用できないな~と。震災時の火災の拡大、救助活動の圧倒的な遅れ、手を拱いている間にどれだけ被害が広がっていったのか・・・・・。当時の社会党党首、村山政権曰く、『なんせ、初めてのことなんで・・・・・。』九時過ぎまでテレビで状況を見ていたそうですが・・・ナニオカ況や、コレハコレハ、もう・・。そして、県政は左翼系で自衛隊の救助要請を拒んだそうで・・・・・・コレとて、一体?米軍の空母による救援も拒んだそうですが、そして一体震災地の人達に何をしてあげたのだろうか?一体。日頃あれほど、人権、平和、権利を声高にハーモニーを奏でている人達は、この日は海外にでも行ってらっしゃたのかしらね~?初動の重要性は言われていますが、無政府状態でしたねまるで。その後の、ボランテアだとか隣組の重要性を報道などで喧伝していタヨウデスガ?・・本質は其処じゃないでしょ~が?実際に一番活躍したのは民間の草の根組織だったですが。問題の根幹のハグラカシハ止めてホシイデスネ、バカにするのは、ね?・・でないと、浮かばれない、ゼ!ミンナ。各々の政体に我々が求めているのは喫緊の事態の機動力なんです、左右の思想なんか関係なく、即、救援体制を牽く行動力なんだ。そして『ノブレス・オブ・リージ』の非常時の発揮を願っているんです、その為の組織と税金なんですからね。しっかりして欲しいものです。今も苦しんでいる方々、そして無念にも亡くなった方々には、何を言っても虚しいほどですが、残された我々が、命を賭けて残してくださった貴重な教訓と無念の想いを、キッチリ取込み受継ぐ事が、残された者の最重要なことであることを、今一度噛み締める必要がある、やらなければいけない。あれから九年、その後も災害はあった、対応は改善されたのか?そして、我々の意識は変ったのか?一過性のものとして、意識に蓋をしている事にはなってないだろうか?無念のうちに災害に遭われた人達の想いが、毎年この日にミナモにドデカイ石を落とし、波紋の大きさが覚醒を即し、路傍の石にはさせてくれないし、日本が二ホンであるうちは。・・・・・滂沱・・・・・無念・・・・・哀悼。毎年のこの日、・・・想い出し続ける努力をこそ、求められている、我々はその人達に。・・・・・そして、我々は『臥薪嘗胆』を刻む。『沈魚落雁閉月羞花』の・・・を書こうとしたが、どうしても通り過ぎることがデキナカッタ、九年前のことを、・・・重くていやだったのですが・・書き出していた。何でも良い、想いだす事が最高の『供養』なのですから。・・・・・『安らかにお眠りください』・・・鎮魂。『沈魚落雁閉月羞花』は忘れなければ、いずれ、また。
2004年01月18日
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・・・『バッヘルベルのカノン』は透明な気品があってすきだ。弦楽器の調律のように、ココロをハーモニックに調弦してくれるようで、聴くと安定感をもらえる、矯めた静けさを。雑踏の中でいつも流されていると、卑近なことに惑わされてしまい易くて、乱れたことにすら気付かないことになる。自然主義者じゃないけれど、たまには自然のことも頭に入れないと、いけないのかもしれない、ナンテいつになく、高尚に思った。今日は関東方面、雪が降る?様なことを天気予報でいっていたようですが、朝はまだ降雪なしです。何々のナチュラリスト、と言うのは、昔にダーウィンの弟子で素人昆虫学者のA・ベイツが『アマゾンのナチュラリスト』という著書以来の流行になっちゃったようです。小説「緑の館」を書いたハドソンなどは『ラプラタのナチュラリスト』、などとなってしまうことになる。アメリカのレイチェル・カースン『沈黙の春』は、科学物質、農薬などの動植物に与える影響を、解析し警鐘を鳴らした書物で、出版当時は先駆すぎて日の目を見なかったが、徐々に浸透し今でも売れているそうだが、知る人ぞ知るでやっと価値をみとめられた一冊、尻に火が点かないと・・・。日本でもバードウォッチングなど珍しくもなくなったけれど、高尚な意味でなくても自然に関心が増えれば、自然も長持ちすることができる。今西綿司とか中西悟堂、中でも南方熊楠は異色の巨星でもあるようだ。民俗学、考古学に精通した博覧強記の学者で『南方閑話』、『南方随筆』などがあるが、自学の巨星であらゆる枠に収まらず、凡人の理解の外、を悠々と泳いでいたようだ。東大予備門を二年足らずにやめて、1887年にアメリカへ行き1892年にロンドンへいき大英博物館の書物の整理を手伝い、ロンドン大学総長ディキンズの東洋研究の相談役にもなった。今でもある科学雑誌『ネイチャー』に「極東の星座構成」が初めて活字となり、万巻の書と向き合う毎日となつていた。多数の論文を発表したのもこのころだったし、孫文と交友したり、貴族たちとの親交も深かった。1900年に帰国してからは、熊野の植物、菌類、粘菌類、藻類を研究採集、図記を行った日本の粘菌研究の草分け。柳田国男と文通したり神社合祀の反対運動で連携をし、民俗学の創出を画策していた柳田の援軍激励になったが、のちに文章上での激烈なやりとりで学問的往来はストップした。南方熊楠という巨人は、今まで論評をされて来たがメクラ千人の如く、それぞれ正しいが、それぞれ間違っている、のとうりに熊楠の部分しか論評できていないようだが、死後四十数年たったこれからだ、熊楠を全体から捉える視点からは。南方熊楠の全貌に近づくことができる、やっと南方に遅れること半世紀で足跡を、一つ、ふたつと発見しつつあるようです。科学、文学、宗教、東洋と西洋、あらゆる枠組を突破し疾走し続けた、熊楠。その魂は、知の越境者たちを魅了し続けるようだ。知への、飽く事のない好奇心に満ち溢れた、その魂に。1930年行幸記念碑が神島に『・・・・・南方熊楠謹詠井書』とある。1962年に昭和天皇が南紀行幸のさいに詠んだ歌が、南方熊楠記念館に石碑が建てられてある。『・・・・・・・・紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ』と。激論の末に袂を分かつことになったが、しかし、柳田国男が熊楠を評してイミジクモ、・・・・『日本人の可能性の極限』かと思う、と論評した。熊楠の晩年ですが、コンナ最大級の言説を吐かせる、熊楠。そして、私情抜きに賛辞を贈れる柳田国男、そこに男がいるじゃないか。『武士は己を知るものの為に死す』、の境地へ登る、単純?
2004年01月17日
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・・・・・今の時代、あらゆるものが複製の対象になっている。人生も芸術も一回性のもので、複製、コピーができるなんて錯覚を、いつの間にか無意識に身につけたようです。一回性という感動が水割りのように薄められて、感覚が鈍くなっているようだ、瞬間の感動が。何度も感動をしようとしても結局、感動に感動している慣れ親しんでるだけで、鋭い初回の感動は味わえないのではないか、と、音楽、画、本など人についてもそうだと思う。新しい発見という体験が在るだけで、感動じゃなさそうですし、素直で素朴な、ボキボキ、とした最初の感動を忘れてはいけない、それが本質なんだと思う。何度も、と思うそれが、それを薄くし、そして流してしまうようだ。残るのは、感動しようとしている自分に感動してる自分?。けれど、人は芸術など様々なものから触発され、ココロの平静を取り戻し、救われてまた、立上がることができる。でも感覚と頭だけになってしまうと、実態の生活をまた、見失うことになってしまうのでバランス、平衡感覚は必要だ。男と女は指の感覚?使い方がまるで違うようです、女は物に触りたがり、子供にサワリタガリ、男にサワリタガリ、あらゆるものにサワリタガル。そして女は指先を通じて自身のエゴを、様々なものに流し込んでいるようだ、スコシズツ、絶え間なく、そんな自分のエゴを注ぎ込んでゆけるのもを必要とし、それが無いと自己喪失を起こす、エゴの放電放出でバランスをとっている。男が、モノを触ることの意味は、それを利用する為にサワルようだが、芸術家とか彫刻家などには女と同じ指使いをする男もいる、男女イロイロいるのですべてではないけれど。それなので女はモノがあればタフに生きられ、救われる。男はモノを利用するためにに触るので、モノからはリジェクト(拒否)されているのです、なので男は何とか手を使い物に戻らなければいけない感覚が湧いてくることになる。そして、男は空想、ロマンティックになり、女は現実的、リアリスティックになることになる傾向が出てくる。女はベタベタ、モノに自身を注ぎこみ、男はモノをどう使うか?と利用することを念頭に対象物を見ることで、おのずと行動が違ってくる、たったコレだけ立上がる地点が違うだけでも、感覚でのサッパリとベタベタの差って大きいね?けれどもニンゲン、男も女も手を使うことはどんな時にも必要で、自分の喪失から回復するには孔子さんの言うところの『バクチでもよいから、手を使え』と、頭で肥大させた妄想を、手を使う事で振り払うことができるようです。なにごとかで、倦んできたときにはチョットした間と、手と、笑いを足すことで一歩がでてくるようだ、ヒトはみな。西洋の女は舞台に出てきてステージの上で男を操る。オリエントの女は、カーテンの後から男を操る。結局、まぁ、男は操られるんですが、どちらにするか、選ぶのは自由なんですが、男はつらいよ!ですね?エレガントで剛健が触知されちゃっているんだ、永遠にね。いつのまにか、蔦に絡まっている男たち、キズキナサイね?女のタンジブルに絡まっているんだ、オトコタチハみんな。・・・・・・オレの複製をダレカ創ってくれないかな~?
2004年01月16日
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・・・昔から、文字をもたない民族は滅びている。滅ぼされていった民族はタクサンあるが、古代から文字をもたないで残存している民族は皆無です。世界史の中で世界最大の領土、版図を誇ったジンギス・ハーンのモンゴルも自前の文字をもたないが故に、滅んでしまった。当時知りえた主要な版図の≒3/5を領土としていたいた。ロシア、中国、東ヨーロッパ、中東など当時の最先端兵器の騎馬軍団を駆使して向かうところ敵無しだった。十一世紀から十三世紀にかけてアジアの嵐が世界中を席捲した。そしてポーランドへ侵入したときに、例の如く三光作戦「焼く、殺す、奪いつくす」徹底した殺戮と破壊で、人口が三分の一に激減しポーランドの要請でドイツからの入植で、ポーランドの人口激減による国の崩壊が救われた。しかし、反動が第二次世界大戦の引き金となった。当時、ドイツも世界中も不況のドン底に喘いでいたが、ドイツ、ヒトラーの台頭でポーランドにいる我々の同胞がいわれなき迫害を受けているとドイツ国民に訴え、ポーランドへ侵攻がはじまり、大戦への戦端がひらかれた、ご存知のとうりですね。もう一つの例では、チグリス、ユーフラテス川文明発祥の地といわれている所は、緑の穀倉地帯で豊沃な土地と灌漑用水を張巡らしていて、農業先進地域でもあった。しかし、例の如く「焼く、殺す、奪いつくす」の三光作戦の後には、無残にも破壊しつくされ砂漠化した現在がある。十一世紀に騎馬軍団が巻き起こした、モンゴルのアジアの大嵐は、二十世紀の新たな「三光作戦」の火種を世界中に絶やさずに残存させていたのだった。十一世紀の大嵐が、二十世紀世界中を巻込む大嵐となったようだ、歴史の呪縛から逃れることはムツカシイ。そして、現在も影響を及ぼしていながらも、その記録は残っていない、在るのは占領した国、被害者からの記録が残っているだけだ。一方で、国家をもたず二千年以上放浪を続けていながら、生き残ったユダヤ人は、ヘブライ文字をもっていた。中東の火種になっているが、今はパレスチナと対峙しつつも国家を手に入れている。けれど同じ文字でも、漢字ほど抽象化されるまでいかない、絵文字マヤとかインカ文字のようなのはダメだったようだ。抽象化能力と、知恵の蓄積の因果関係があるという、国を運営するに、文字を抽象化できる知恵をもたなければ、国の継続維持までいかないようだ。実体を抽象化した文字、知恵の塊が文字とか言語となり、地球を回している原動力の一つで、言語の重要性を再認識しても良いのではないのかしらね~。国の興亡、民族の存続に影響を及ぼすほどの力を持っているんですから、文字は偉大だがキズカナイようだ。映像に押されていよいよ、ボキャブラリーの貧困を招いている現状ですし、PCの広まりも影響しているのかもしれない。国の興亡より先に、個人の衰退が先に来ることになるけれど、シノニム(同意語)抵抗感のない周囲、言語に取囲まれていると緩慢な死へ向かっている事に気付かない。アントニム(反意語)のなかで抵抗、格闘を続け刺激を浴び続ける覚悟も無いと、ぬるま湯の中には明日への栄養はない。相反するものを結合する想像力、生の為には死を知らなければ、闇を見てないから明るさを見れない、悪がしらず善をきめれず、小成に甘んじて大成をしれずでエゴの振幅深度が浅い?極大のエゴ、エゴの容量が小さすぎるキャパシティが。量は質に転化する?極悪は善に転化するんですから、中途半端が一番いけないようだ、が、覚悟がいるんです・・・。あれも、これも、それもあるけれどまず、本能を失った肉体と、貧相の言語を恥じることからスタートしなくちゃいけなのかも・・・・・足下から固めることを、はじめよ~っと。オーソン・ウエルズが「市民ケーン」を作った時には映画がサイレントからトーキーへの転換期だったし、SF小説で言えばH・G・ウェルズの「タイム・マシン」だったり。推理小説で言えばシャーロック・ホームズの「コナン・ドイル」であり、新しいジャンルの出現の初期に天才の数人が出てほとんどを完成させてしまい、後はパッチワークで初期を越えられないようだ。今を知る為に、過去を知る?、早速、アントニムと格闘技を始めなければ、明日への推進力は生まれないね。いつも、どんな時代も人だって、いいものは希、なんだネ。
2004年01月15日
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・・・ニンゲンって、時空のサーファーだ。昨日から今日、そして明日へ、己という器で波に乗り旅をしているんだ、1人ヒトリの波と器で、時空を経ている。それぞれの生、与えられた環境の中を生きるだけで、同じジンセイは一つもない、時間と時代の共有はあったとしても。結局、各々の器で波に乗っているだけであり一瞬の共鳴、同調があるだけで、次の瞬間には、また、たった一人になる。クロス、オーバーラップ、バッティングでスパーク、融合し合い友人とか伴侶になる?・・・・・・・・一瞬の光芒。長い過去の膨大な時間の堆積は、ホトンドが徒労を積上げたボタヤマなのですが、情熱がくすぶり続ける山でもある。けれど過去の鬱積したボタヤマ、燻ぶる情熱の山が内包する力が、未来へ飛び出すバネに成っていることを思い出さなければ、ムダも失敗なんてものもヒトツもないんだよね。ムダで徒労、涙と汗、後悔と悲哀、ない交ぜになった心の負の遺産が、未来への強大な正の推進力になっているし、その反動力は徒労と思われている量に反比例してるようだ。それが適うかどうかは別問題、天命委、だから面白い?。一瞬先のことは誰も知れず、今を一知半解のそれで弁別せずに、今に燃焼することしかないの、カモネ。情熱と好奇心は時空旅行への大切な両翼だろうし。昔から運動はいろいろしてきた。だだし、勉強はほとんどせず乱読、雑読、テアタリシダイ本を手にしてきただけだ。スポーツも雑多、ごった煮のようにヘタクソのヤリタガリの見本です。スキーは小学からジャンプを、ヤッタ。卓球も小学から・・・。中学から夏、冬のスキーの為に≒9キロ走りサーキット練習を毎日、それと卓球、下校が毎日7~8時すぎだった、夏も冬も同じ、勉強は眠くて本を開いては睡眠薬代わりだった。十代の後半からゴルフを始め今もずーっと続いている。会社のクラブで野球を覚え、朝野球も始めた二十代。野球とバレーボールの地域のリーグ戦に仲間とチームを作り参加、バスケットも約8年やったようだ。今は、ソフトボールとゴルフとお酒がメインです。こうしてみると、運動ばかりで勉強はゼンゼン出てこないようだし、しなかった・・?・・ミタイですね・・・。しかし、テアタリシダイに体を動かしてきた、そしてこれからもやるんだろうがコレも一つの修行かもしれない、運動後の爽快感も本を読んだ読後感も似ているようだし、今生はコレを味わう為に生まれてきたのかもしれない、ネ、ワタシ。こんなツマラナイ、今迄の降積もった、そんなホコリのようなものが酒を飲むときにマイアガリ、邂逅してニガイ、塩味にナッチャウンデスカラね、フシギだがアリガタイ。ツラク、苦しく、楽しくもあったけれど、勝っても負けても一緒にそれを、マルゴト愉しんだ仲間の言葉でスベテ救われてきたようだ、これからも癒される。いつも、心の冷暗の闇の中は、静かに発酵し続けているようだ。あの時の希望と絶望の煌めきは、ライムライトのように瞬いている、まちがいなく静謐に、そこにあるようだ。時空を飛ぶことのできるエンジンなんて、こんなチッポケな一つひとつの、心にへばり付いたホコリなんだよ、ネ。自分という混然一体でメデューサの蛇は捕獲できるん?カ。
2004年01月14日
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・・・・・今年の冒険は何をめざそうか?昨年は小さな冒険として、この楽天日記を書き始めたんだが、コンナのは冒険に失礼だし・・・・・・・ネ。長年の願望としては、三つあるんですが・・・イツカ、は。1、アラスカのキングサーモンを釣りに行くこと。2、モンゴルのジンギスハーンの墓稜を探索発見すること。3、インドの無限の混沌、原初から原子爆弾までを内包して いる現実を見ること。この三つを思っているんですが、想いは現実化する?とあらゆるところで言われているんですが、今だ幻想のまま。なかなか、現実に捕らわれて発想の飛躍ができないんですが、埋没する意識を自分なりに高揚させないと、気の抜けたコーラのように人間モドキになるのはイヤですからね~。でも、こんな冒険とか探検とかの密かな妄想?のお陰でズイブン、煮詰まったり、焼かれたり、ドン詰まりの窮地を抜け出ることができたことがある。極大では三つのことを考え、極小ではお酒の力を借りて、現実に埋没することなく今でも生きてられます、ありがたい。知人、友人、かかわり合うそれぞれの人とモノからの無言の励ましが、今の状況を支えて、創ってくれている、感謝。人はパンだけでは生きられない、ナンテのもあったですが、夢とか希望を持つことができる状況にいるだけでも幸せなんだと思う。現実の状況は変化が激しく翻弄された中で、なかなか上手く泳げないこともタクサンあり、日々一喜一憂ですが溺れない為の藁?としてでも、ツカマル夢、希望は確保してないとね。この楽天も人とのツナガリから言えば、新しい展開が開けたと思うし今年もできる範囲で続けたい。日記の内容については、ヨチヨチとツナガリのないことを書き散らかしているだけで、PCの無駄遣いの類ですが、自分開発、自身と会話するつもりで書いている確認日記なので、独善、独断、竜頭蛇尾?なんでも結構の心境なのです。そのなかで、後日、開いて見たときにその時に感じている何かが、一言半句として残っているか?そんな内容になっているのか、を、自分なりに思い描き記している。文章はプロにオマカセですが、美辞麗句より自分の書き殴ったものから、後日見て立ちあがる一言半句があればいい、と。それは、地下に埋もれた己の意識の鉱脈が、地表に露出した部分であり、なかなか露天掘りは簡単ではないが意識としては、そんなものが後日あればよい、たったヒトツの鮮烈が。書き手の心境なんてのは本人しか知らず、表現も借りてきた文字の羅列なんであり、伝わっている?なんて幻想はあまり持たないほうがよさそうだし、ムツカシイね。まえに、高倉健の映画のなかで、ヤクザの親分が「もう、切った張ったの時代じゃねぇぞ」とかいって、岸壁に行って油絵を描いている、風景画を。「シャガールはええぞ、シャガールを見てりゃ、気持ちがいい」なんてことを言っている。その手下の高倉健さんは刑務所で十数年の刑期を終えて出てくる、そして、これが名曲喫茶へ行ってチャイコフスキーの「ピアノコンチェルト」なんかを聴くんですからね~。SFチックでシリアス、こんな場面を見てしまうと、いよいよ人間の心境なんて知ることなんてムリなんだ、と思っちゃいます。ヤクザ屋さんのコンナ場面って、真面目な幻想、シリアスファンタジーであり、SFなのか現実か、混乱の極みです。知りたい情熱はある、しかし、方程式はまだデキテイナイようですね、ココロを解析したり組合わせる、計算式は、ネ。自分のことさえヨク解からないままに生きているのですから。でも、料理した鳥は、口の中まで飛んでこない?のも確かだ。忘れたくないのはココロの冒険、自分だけのココロの冒険を。
2004年01月13日
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・・・・・お酒であれ、ワインであれ、ブランデー、ミソ、醤油、そして人間は特に『醸成』期間が必要なようです。イロイロなもの酒でも、味噌でも、ワインでも発酵する期間は、たかだか長くても十年以内で決着がつき、ほとんどが数ヶ月、または一年以内です。それに比べると、人間はなんとツカイモノニなるまでに時間が掛かるのだろうか?(・・・寝かせる?寝てる時間か?)大人として認められるのが、選挙権が20才で貰えるが、実際には18才で一人前?としても、十八年は長い。鳥、魚、動物でも二十年近く親の脛をカジルような状況があるものってのは見あたらないようです。鮭は卵を産みつけたならホッチャレとなり、自分の子供の顔すら知らずに自然に帰る。鮭の子供は親の顔をみることなく1人で大人になる。そして大航海を終えて、また、鮭は孤独のうちに死んでいく。人間には生きるための、助走距離が異常に長く設定されていて、他のモノとは生存時間もそうだがズイブンと、ながい。重装備しないと生きるのが難しいから、沢山ポッケに入れてから出発しなさいってコトなのか、セワガヤケル?人間って。今は人間、醸成期間が長すぎて、そのまま寝っぱなしの人達とか、発酵し切れていない人が、タクサン発生している時代になっちゃったようですが。・・アプローチ(助走路)から落ちちゃう人たちもいるし。人間の深さは解らない。そして、皿の中の一センチの深さのスープの味も、知るのはムツカシイようだ。中華料理、西洋料理であれ、極上のスープは大釜一杯に肉、野菜、骨、スパイス、その他モロモロ入れて、グラグラ、とろとろ煮つづけるが、大半は捨てられてしまいスープの皿に残るものは、一センチの深さが、在る無しの量でしかない。しかし、それは沈みゆく太陽のように輝いている。黄金色に輝いている。たった皿の中の深さでしかない『スープ』・・・・・。スープを得る為にどれだけ膨大なものが使われ、捨てられたのかを、感知させるか、また、感知できるか?こうゆうことを、『シンプル・アンド・ディープ』というそうで、単純にして深いなにごとかを射す言葉のひとつ。芸術とか味覚のたどりつかねばならない理想郷であり、秘境なんで、日々それぞれ研鑽、格闘することになる。理想郷といえば、アルカディアであり、シャングリラであるわけですが、黄金色の一センチのスープをススッテ、その背後の大釜の材料とか、あれとか、それとかを想像するのか、しないのか、想像させられるか、させられないのか。アルカディア。>ギリシャの県名、古代ギリシャ時代から理想郷の代名詞。シャングリラ。>人間の理想の場所のことで、パキスタン北部、どこか不明。>桃源郷の方がよいようですが。それを知った上で、一センチのスープをススルノカ、どうか、ここに問題があるようだ。一適のスープの背後にある、眼も眩む膨大な『ナニカ』を、浅いスープ皿の底にある深遠を読取る、舌と、眼の蓄積がなければ、スープも人間も全身で味わうことは、チョットできないようです。スープの粋と深さ、たった一皿の、一滴のスープ中にさえキズキは潜んでいることを今更ながら、思いだすコトができた。そして醸成中のものがチャント発酵してるのか、どうか? たまに覗かなくちゃ、ダメみたい。なんでも、右から左に簡単に流しているけれど、見る価値はあるし、それをしないと自分も一緒に流しちゃう、コトに?常識の阿片から、覚醒しなくちゃ、それは手に入らない?ネ
2004年01月12日
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・・・古今東西の歴史とか文学、何千年来の数知れずの人々が膨大、壮大な言説を吐き続けてきた。その歴史の大海から生まれた珠玉の名言が数知れずある。そして、知らずしらずに様々な、先人の知恵によって影響を受け続けている知らずに。今の時代は特に、複雑に絡み合う状況を誰も知りえず、まるで多頭の蛇がそれぞれに動き回っている様相ですが、コントロールと言う概念とは程遠いものだ。しかし、それでも地球は回り、世界はヨチヨチと動いている。右へ左へと振り子運動を繰返しつつも、落着く所へオチツク?ことになる、どんなことも、いつの時代も。市場経済では、アダム・スミスが『神の見えざる手』により、人為的に無理なことをも、市場の見えない力で治まるところに治まるもので、市場に任せておけ、とスミスは言ったが。現在の市場経済、株式市場は現存しているが、だれもコントロールできない、既に人の手を離れているようだ。計画経済で全てを統制して、全体を計画的に運営することは、既にソビエトなどの社会主義、共産体制のドミノのような崩壊で、計画的に、と言う事は、ムリなことが実証された。と言うことで、大局的に言えば人は経済のことは、市場とゆう入物は創ったが、運営は神様にオマカセ?・・・・・・・・・・ですって。制御ができれば、暴落、乱高下など抑えられられるしね。いままで、全て市場に「オマカセ」でした。人間が造った市場と言う怪物、多頭の蛇、なのだ。みんな、もっと安定した確実、着実、磐石な基盤の上に我々は乗っている、と思っているけれど実は、何時、地震が来るのか戦々恐々として生活してる状況と、なんら変らない中で世界中の人々が立たされているのが、市場経済なのです。かといって、計画経済は世界の約半数が試みて実験失敗!残存国家は数カ国ですが、倒れそうな国ばかりです。計画経済はダメ、市場経済も危うい基盤の上にいる!?!。そんな現状を打開する、経済の『ゴールデン・ルール』は、どこにあるんだろ?・・・・・残念ですがドコニモ、無い。はやく、ダレカ考えてくれや、冴えた頭で、是非速く!ネ。ニンゲンの生き方では、ゴールデン・ルール『黄金律』は、ゴロゴロ転がっているが、中でもマタイ福音書にでてくる、『何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、ほかの人にもしてあげなさい』と言うキリストさんの言葉には、すべての道徳の真髄が含まれているので、『黄金律』といわれている。『隣人を愛せよ』なども同義語ですが、「他人に迷惑をかけないこと」が、第一歩なんでしょうがね~。そして、それ以外にも耳にタコ?ができるほどに訊いているんですが、懲りないワタシ・・・です。複雑怪奇な様々な現象も『シンプル・イズ・ベスト』で単純なものの組合せで成り立っていることも確かです。『単純なものの中に真実がある』と言うことを信じて、まずは、身のまわりのチイサナことから、コツコツやろうか?黄金律という極大から、シンプルという極小に話が振子の如く振れちゃいましたが、理想と現実はこんなもの?・・ダネ。『ゴールデン・ルール=黄金律』・・・荘厳ですが・・・。
2004年01月11日
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・・・あるSF作家が、月にロケットが行くようになってから、ガックシとなりものを書く気力が失せてしまった、と。SF作家が幻想やファンタジィーで書きなぐっていたものが、ついに時代の科学の先端が想像を超えてしまったことで、肩を落とし、無気力になり、力をなくしていく。・・・・・科学の進歩は、SF作家の最大の敵だ!ヨね?けれど、その最先端科学の申し子のような宇宙飛行士が、地球に帰ってくると、伝道師になったり神に固執するようになる・・・・・・何故か、フシギ?・・・・・ですね。放たれた矢は、また、地上に落ちる。ただ、矢の射程距離が長かった、飛行時間が長かっただけ、なのか?実証科学の積上げたレンガが、仮説のレンガを超えたチャッタのかしら、科学は、愉しみと夢、を減らしてくれた。科学の後には、無機質な無温の冷徹な弁別しか残らない・・・・・いつまで、それに耐えられる?ワタシタチハ。しかし、今日も未知の世界を鋭い弁別の刃物で、切り分けて人類に光明をモタラシ続けている・・・必要?・・・今も尚。暗黒大陸とか未知の海、などという言葉が訊かれなくなってから久しくなり、地球上の土地も、海も、個人の秘密も?それぞれ、無影燈のしたにことごとく無残に、曝け出されてしまっている、無言のままに。科学の時間と空間衝動に駆りたてられて、曝け出されたモノタチの叫び、曝け出されたモノタチは未知ではなく、既に常識に替えられてしまい、未知の影は失せ捨てられたままになっている。外界の影が無影燈で消失し、同時に己の内界の影までも失ってしまったいま、科学で切り出された残骸、己の無残、を手に入れただけなのではないのか?科学を武器に切り出した未知、その『モノ』にブーメランのごとく、『歓喜と呻吟』の鋭い刃で、手に入れたが故に己までも傷ついて立ち尽しているのは、我々ではないか、今?『何かを得れば、何かを失う』という鉄則からは逃げることができないならば、手に入れたときには同量の対価が手からこぼれ落ちていることを覚悟せねば、〔足るを知る〕。勉強とか教育といえば、庭での教え「庭訓」という孔子さんの話が『論語』のなかにあり、家庭教育という意味でつかわれて、ココロの在りかたの重要性を説いているのがある。聖人の孔子さんが自分の子に対しては、どんな教育をしてたのかと弟子の陳亢が、孔子の子の伯魚にむかって訊いた。「先生のお子さんだから、弟子の私と違う教えを受けたのではないか?」すると、伯魚は次のように言った。「いいえ、特別なことはありません、ただ、父が1人で立っていた時、わたしが小走りにゆき過ぎようとしますと、父は、『詩経』を学んだか?と訊ねました。いえ、まだ学んでおりません、と答えますと、父は、『詩経』を学ばねば人情道理に通ぜず、正しくもの言うことはできないぞ、といいました。そしてわたしは『詩経』を勉強したのです。その後、また、ある日庭先に立っている父の前を小走りに通りますと、こんどは、礼を学んだか?とたずねました。まだですとわたしが答えると、礼を学ばねば自立する拠所がができないぞ、と、言われました。それで、わたしは以後礼を学んだのですよ。わたしは、この二つを父から聞いただけです」、「季子編」陳亢が、孔子の子であればなにか特別な教育を授けているのではないかと思い、問うた時の話ですが、しかし、どうと言うことも無い内容だった。何千年も昔から、変らぬものは人間集団の中で暮らすための最低条件をわきまえる事であり、人情道理に通じて物申すことで、伝え、解かりあうことができる。社会へ出る為のと、自立の為のルールの二つがあれば、まずは良いと言っている。振返ってみると、恥ずかしながら-ボロボロ-の、ワタシ?人にも、子供たちにも、とても語ることも、説くこともデキナイ!ネ・・・・・シヌマデ、ムリです、ダ。ただ、ソ~ッと、こんなことを昔の人がイッテイタヨ?と、眼につく所へサリゲナク?置いておく・・・グライ、です。今も、昔もどんなに科学が進んだ時代がこようとも、ニンゲン、孔子さんの説かれる普遍の真理を、まず、獲得することからしかスタートできないものですね。賽の河原の石のように積上げても、スグ、崩れてしまう。また、ピラミッドの土台のごとく耐える石積みもある。賽の河原の石積みからも、ピラミッドの石積みからも同様な歓喜と呻吟のトドカナイ、サマヨエル、微かな響は聴こえているハズだ、その響を捉える耳をモチタイものだ。大きな声にカキケサレテイル、その、チイサナ、響を訊く。
2004年01月10日
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・・・・・華国鋒首席時代の中国のはなし、三人の男が監獄の中で話していた。「なぜ、お前はここへ入ってきたんだ」と、すると1人は、「オレは、華国鋒に反対したためにブチこまれたんだ」、もう1人は「オレは華国鋒を支持してブチ込まれた」。そして最後の男が、「オレが華国鋒だ!」と。 ・・・・・赤い笑い。もう既に、去年も過去になってしまったのですが、辛いこと悲しいことも、失敗も成功も束ねて笑いに置き換えるには、チト、早い?かもしれない。そんな、コンナ、思いだしたくないこと、ぜ~んぶ、ひっくるめて笑いの洗濯でサッパリとココロのアクを流したいものです。だいたい、その国の笑いは、文化、知性、教養のお余り、余剰のバロメーターなんだと、そして人々の民度を表している、とも言われている。日本も落語、小噺、漫才など江戸時代からの引継ぎしているよいものも沢山ある。女性のオショウスイの音は、徳川御三家だというのがある。「初めは、ビシュー。」「次は、キシュー。」「最後は、ミトミト。」 ・・・・・黄色い笑い。最近のニホンジンは教育があるが教養が無い?なんていうことも言われて久しいですが・・・・・どうよ、これって?絶望の黒い笑い、ののしる笑いを赤い笑い、などという。やはり精神がタフさを持ち合わせていなければ、ひ弱な笑いしかでてこない、同時に精神の健康も必要ですが・・・。モスクワの赤の広場を男が横切って、「フルシチョフはバカだ!」といったところ、23年の刑に処された。三年は元首侮辱罪で、あとは二十年は国家機密漏洩罪だった・・・・・・・・・・。コンナはなしを日本の首相に名前を変えて使えるのかと言えば、とてもムリですね、外国では毛沢東とか、ドゴールとかに変えて登場しているけれど、スケールの問題か?南米の一つ、「カタストロフィーとアクシデントとどう違うのか?」すなわち、破局と事故のちがいはどこかということ。「それは簡単です!」という。大統領以下、全閣僚を乗せたジェット機が落ちた・・・・・・これが、アクシデント。ところが、なぜか全員生き残った、というのがカタストロフィー・・・・・・・・・・だそうです。ある小説の中で、すれっからしの女が「ジョークの上手い男はセックスも上手よ!」?という一文がでていたのがあった。それがあるならジョークを今からでも・・・・・と思うが?どうだろうか?・・・・・まにあう、かも・・・・・。書くのと、話すのではまた違って、間のおき方とか微妙なニュアンスがムツカシイようですが。チリの小噺、薬局に上品なお嬢さんがはいってきて、「トイレットペーパーをくださいな」「はい、ハイ、何色にいたしましょうか?」お嬢さんシバラク考えてから、ポッとホッペタヲ赤くして、「そうねぇ、白は汚れがメダツカラ他の色がいいわね」って・・・・・・・・・・。二ホンではオチャラケものは二流という気分があるけれど、他の国では作品にユーモアがある、笑えるという一行が最高のほめ言葉にもなっているようですが、喜劇が悲劇よりも上等なんですから、ギリシャ以来ズ~っと、ね。フランスのパリの人たちは「ニューヨーク、東京、北京、モスクワは犬の街だ」と、「で、パリは?」といったなら、「猫(=^・^=)の街だ」と。犬の街の都というのはワンワン、キャンキャン吼えマワリ働きながら、たいしたエサに、骨にありつけない。フランスでは、ゴロリ、チャラリとアクビシテ寝転んで日向ぼっこをし、遺跡や建物などご先祖様の遺産をウリに観光客を呼び寄せてドルをチョゥダイいたす、と。そして、バカンスだけを目的に一年ハタラク、これが猫の都だと、こうゆうことですが・・・・・・(=^・^=)ニャォン?近頃は、フランスも猫半分、犬半分の生活になっちゃってる?、犬七割かもね・・・昼寝のまに・・・。やはり、くらしのココロの余裕とおゼゼの余剰から、上質なお笑いが生まれるもんです。ゲラゲラ、ばか笑いだけじゃなく、頭を使ったお笑いも時には必要なようです。ココロにマジックをかけてホシイモンダが・・いるかしら?お笑いとお酒のなかでの・・酔生夢死・・いいねぇ、コレ?
2004年01月09日
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・・・・・本日二度目の日記?なんてあるのかしら・・・ネ。あらゆる組織には将、ボス、リーダー、棟梁、などが人の集団があれば必要であり、組織のためには円滑な運営の核のごとき存在です。こうゆう経済状況が逼迫してる、皆、先行きが不透明な現状では、否応無く組織の上に立つリーダーの存在を考えることとなるようです。上にたつひとの采配で影響されることがよく見えるようになり関心も一層高まることになった。首相、社長、監督、など様々な将がいますが、いったいそれらの人たちはどんなレベルの人たちなんだろうかと思う。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、明治天皇とか、エリザベス一世、ナポレオン、ピョートル大帝、ガンジー、呉の孫権、蜀の劉備玄徳、魏の曹操などが思い浮ぶ・・タクサン。時代を開いた人物の功績は、偉さを具体的に指摘することは容易ですが、世襲の人物の功を指摘することはムツカシイ。こんな時にその将の偉大さを示す言葉としては、漢の高祖、劉邦の偉大さを説明した、韓信の言葉が一番説得力がありそうで、チョット身近には居なさそうなんですが、ナントナク納得できる。それは「将二将タル」人物ということです。『史記』のなかにある言葉で簡単にいえば、漢の高祖と部下で武功第一の将軍である韓信が、いろんな武将の能力について語り合ったことがあった。その時、高祖が韓信に向かい「私はどのくらいの軍勢の将としてふさわしいのだろうか?」とたずねた。すると韓信は「陛下は十万人くらいの軍勢の将としてふさわしいと思います」と答えた。すると高祖は韓信に向かって「お前はどのくらいの軍勢の将としてふさわしいのか?」と、訊いた。それに韓信は、いけしゃぁしゃぁと、こうこたえた。「私の場合は、軍勢は多ければ多いほど良く使いこなせます」と、言い放った。それを聴いた、高祖は、ムッとして問い返した。「それはおかしいではないか?それならば何故お前は、私の捕虜になり、そして今、私の家来としてここにいて働いているのか」と問い直したのだった。その時の韓信の答えが比類の無い、素晴しいものだった。「陛下は兵士達の将には向いておられません、陛下は将たちの将にむいている方であります。これはいわゆる天授というものであって、人間の努力でどうなるわけのものではございません」と、即座に返答したのだった。こんな言葉を言える韓信も、その言葉を引出す高祖劉邦もスバラシイ、としかいえないです。ちなみに、漢の高祖は智謀に於いては張良におよばず、ロジスティックスでは蕭何に及ばず、実戦に於いては韓信におよばなかった。高祖のまわりのこうゆう人達が一生懸命に助けて、漢という大帝国を創りあげたのであった。この優れた人物を上手に使いこなす将、リーダーのことを『将二将タル・・・・・』人物と韓信は言ったのです。しかし、韓信は「天が与えてくれるもので、なんともできないものである、人の力では」と、そして、天授にして人力でないリーダーシップとは、現代で言うところのカリスマのようなもので、これはギリシャ語で「神が与えてくれた恩寵」という意味だカリスマは一握りだ。歴史上の人物が成しえた偉大な事跡は、「将二将タル天授の素質」といえるカリスマ性が成しえたものと考えざるを得ない、説明しようが無いことでもある。それは、人類に天から与えられた、『天与の財』で個人ではなく、神様からの贈り物、人類の宝なのではないか、と?こんな人物がチカクに居るはずも無いが、しかし、ことの大小に係らずに与えられた生をいきる、燃焼し尽すことが重要なことなのではないか、我々にも役割はある。『天授の恩寵』はそれぞれイダイテイル、のだから、感謝。『永遠の傑作』ニンゲンですから・・・・・ウレシイ、ね?
2004年01月08日
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・・・約二日間のPCのお正月休みでした、どうなってるの?IPアドレス云々で、PC使用不能でした。良く解からず、IPアドレスの取得し直しで解消・・でした。ここの楽天の送信も制約条件に合致してない?とのことでハジカレッパナシ・・・悲しい。特殊なことは何もしていないのに、内容に不備があるので再度修正をしてくださいとでてしまう、不思議。これも、送信できるか不明ですがやってみる。一月六日の途中で半減して送信した続きがあったのを書くことに。(このときも送れずに半減させた・・・(?_?))・・・・・・・・月日は流れた。玄宗皇帝のもとを去り、楊貴妃は死に玄宗皇帝は退位し、粛宋が即位した時に、永王が反乱軍として討伐される時に李白は従軍詩人として同時に処刑されようとしたが、友人の奔走で罪一等減刑となり流刑ですむことになった。減刑でまた流刑地へ三峡を行くことになったとき若い時を想いだしていた。むかし、李白は青雲の志を胸に、若さと希望で、揚子江、三峡の急流を風よりも速く都へと向けて下った。しかし、時間は見方になってくれず老境になり、同じ三峡を下ろうとも茫漠と拓かれている未来は、李白の手からは離れてしまっていた。ソレを思うと船の速さが老境を加速させるようだ。同じ景色を見つつ、こんなにも己が変貌したことに、愕然とする自分がそこにいた。仙人だと思っていたのに・・・・・ヒトリ、ダッタことを。李白のことは、人と時代とそれぞれ万巻の評論がアフレテイルけれど、結局己の眼でソレを捉えることでしか獲得することはできないようだ。月下独酌シバラク、スベカラク、ビシュオノミツキニジョウジテ、コウダイニヨウベシ>さぁ、美酒を酌もうではないか。>この高台に、月の光を浴びて。おおらかな己の世界、月と、酒と、己の影とを連れ立って、悠々とココロが遊ぶことを愉しんでいる、己。ふっと、時代に立止まり感じた心で切取った風景。そして、チョット片目で覗き見る事で、新な扉が拓くようだ足もとには、いくらでもコロガッテ、いる・・・・ソコ二。
2004年01月07日
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・・・ゆっくりと、渦動のなかに今年も滑りだした、音もなく。今もムカシも、時間の流れは何も変わらずに、悠久を刻みつづけている。ただ、そこにあるのは、漂う己がいるだけだ。楊貴妃、玄宗皇帝の時代を生き、-李白-は詩というものをレバレッジ-梃-にして天衣無縫に己を表現し、酒仙・詩仙・謫仙人、呼ばれ、杜甫とともに中国詩史上の巨人、伝説の人となった。-生701~762年没-李白も例に漏れず中国知識人の目標、政治面での活躍を第一にしていたが、文書起草係の職どまりで玄宗皇帝の溺愛する楊貴妃のための、宮廷享楽のアクセサリーとして招かれただけになった、しかし詩では期待を裏切らなかった。玄宗皇帝も晩年、政治への情熱をなくし、不老長生と楊貴妃に熱中しはじめ、李白の期待を裏切ったニンゲンの運、不運はいつの時代もヒトを悩ませるようだ。もう一つには、李白に恨みを抱く高力士が策動し、楊貴妃にある詩が楊貴妃を中傷したものだと、ソレを真に受け玄宗皇帝に訴え李白の登用が見送られた、との説もあるが。しかし、その才能は抜きんでていて、李白の後輩、後世-李杜-と並び称された杜甫が、愛する先輩をコンナ風に謳った。-飲中八仙の歌-李白一斗詩百篇長安史上、酒家に眠る-李白は飲めば飲むほど詩が湧き出てくる、そんな天才詩人である。いつも、長安の繁華街の酒場で酔いつぶれていた---杜甫。そして、長安の長老詩人の賀知章が、李白を-謫仙人-と評した。-天上から追放されてきた仙人-、それほど超越していた。現在、約一千首残っている作品、李白の詩が持っている超俗的な魅力との関連が、世俗や常識をこえた李白の像となっている。酒、女、花、月、などを李白の詩から連想してしまうが、李白の生涯そのものが伝説のイメージと重なりあい、混然一体の事実と伝説のオボロゲな姿が影のように浮き上がる。そんな李白の死については、こんな伝説がある。あるとき、舟遊びの酒に興ずるあまり、揚子江に映った月をすくおうとして溺死した。・・・・風流、酔狂・・・心境は竹林の七賢人・・・李白。こんな李白の生き方が、現在の我々の生き方となんら変らず、ニンゲンくさく詩の中に息づいている。李白、玄宗皇帝と楊貴妃の同時代を生きた酒仙。今にも、滔々と流れている、とぎれない酒流。
2004年01月06日
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・・・『夢』置き去りは、ツマラン・仕事だけじゃ発狂?ダ。・・・・・・・書店を覗いたり、図書館へ行ったり、本の林の中を、往ったり、キタリしていると、『オレを読め!』と一斉に叫び立ててくる、モノも言わない筈なのにこの騒がしさは、ナゼダ?。万巻のの書物があり、その自己主張の強さにクラクラ、眩暈がしてくる・・・・本もミンナ、孤独なんだな・・・・と。・・・・・本ですら生き残るのは、今、タイヘンそうだネ。政治、経済、その他、あらゆる分野が萎縮沈滞を引起していて、小説、ノンフィクション、フィクション、然り。が、変わった話を読みたいとか、新しいことを知りたい、面白いものを見たいと言う原始的な欲求は人間、飢つえてなくて、いよいよ、強くなっているようだ。性欲、食欲に匹敵する想像、の欲求を満たしてくれる本、寝るのも惜しい、オシッコにいくのも惜しい、会社にいくのも時間のムダ?と思わせてくれる『本』は、ナイカシラ?いつぞや南米のペルーかコロンビアかで、不在牛主募集というのがあったことを思い出したが、三十数年前のこと。牧場はないけれども牛を飼いたいヒトの為に、牛を預かり増やす。そして牧場と牛主が折半する、『牛の貯金』のようなものですが、お金じゃなく自分の牛を持つ『牛主』?だという夢を買うことが、ソソラレルじゃないですか~イイね。南米は日本のちょうど地球の裏側にあり、そこで自分の牛がドンドン殖えて行く、お尻に焼印(うさぎ仙人なら、UorS?)を押された牛が、草を食べ、牧場をはしり、カウボーイと戯れている情景を思い浮かべると、スゴク愉快じゃないか、とっても。異国の空、その雲の下に、自分の頭文字をUかSをジュッジューと押した牛がタクサン牧場を駆け回っている、日本の裏側の地球上で生きているんだ、ヨ!。少々、ニガイことがあったって、ウッチャレル、これで。なんて痛快だ、こんな『夢』ナンテ、めったにないことだ。が、当時、五、六十万?確か・・・しかし及ばず、買えず。ジョン・ウェインの「赤い河」という西部劇映画の冒頭で、仔牛を連れてきて引きずり倒し、お尻に焼印を押し、その焼印をポイッと投げ『これが始まりだ』といって育てはじめる、そして画面が切り替わりJ・ウェインが白髪茫々になっていて、何百頭の牛が<モーォ、タクサン、モーォ>と鳴いているのがあったようにオボエテイルガ・・・ムカシだ。シバラク、夢を見させていただいた『牛主』、カウボーイ。地球規模の話がどこかにないかしら、ミンナ現実的、地面から足が離れないような話が多い。片足は土の上をコツコツと、イキツツも、もう片足は鳥のように飛翔させる眼を開き、耳を聳えさせる、意識の鳥瞰・・・・・ホシイ。想いが屈した時に、亡命ロシア人のアンリ・トロワイヤの『大帝ピョートル』なんかよいのかも、四部作のひとつ。パリに連れて来られて育ち、『蜘蛛』という作品がサルトルの『嘔吐』と争い、ゴングール賞を得ている。非常な名文、達筆、流麗で人間心理に詳しく、語って説かず、相反する事実を無限に積み重ね書いている。ピョートル大帝この王様はスゴイ、現代にはいないほどの怪物、人間のあらゆる矛盾が体躯の中に潜み、明君にして暗君、賢にして愚、悪魔にして子供、キリスト信仰家でありアンチ・キリストのエゲツナサを持つ。善で悪、明で暗、光で闇、そして洗練で野蛮、という矛盾をバラバラに抱えつつ極端に突っ走りまくって生きた。欲望拡充のスゴサ!しかし、ひきこまれついヤッテミタクナル?非常な魅力の照射を浴びてしまうことになる。この王様、一生、『エクストラバカンツァ』でした、・・・・・・スゴイ。(エクストラ・・・ドンちゃん騒ぎ・狂乱宴会とか・・・)この『大帝ピョートル』を読むと、まわりを観る眼が180度転換すること請け合い、ナンテ小さいクダラナイコトヲって見える。日頃の枯渇が癒され、血沸き肉躍り全てを更新できる。途轍もない人物、死して、尚、放射能を発しているようだ。闇ナベのような、世界を煮込んだ本と中の人物、タマニはイイ・・・・・・・・・超俗の世界。常識から跳び立てる、一冊の本。
2004年01月05日
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・・・・・深夜、外は静謐。正月の疲れが出てきたのだろうか、外の闇が深く静だ。真夜中にひとりで酒を飲んでいると、あれとか、これが、明滅しはじめ、今までのあれ、これ、それが、酒瓶からコップに注ぎ足すごとに零れ落ちる。杯がすすむごとに、それらが雪のようにココロに降り積もって、まるで湿気の多い雪のようにカラミツイテくるようだ。たかだか数十年しか生きてないのに、酒がそれらを誘引し点火しにかかる。たいがいニガニガしいこと夥く、想い出したくない事の方が圧倒的だが、棘のようにささりこんで抜けないでいる、それらがムクムクと顔をのぞかせる、ニガイが懐かしくもあり、ひとり酒の肴にはいい塩加減になる。ニガニガしいことも時間の技で生きてくるもんだ、感心する。成功も失敗も、自分が変わり時を経てみれば、また、違う側面が立ち現れることも多いようなので、現状のそれだけで一喜一憂せず、時間の力をかりるココロの余裕はのこしたいものだ。酒の肴として、また、生きてくるのだから、と思おうっと。万事静謐を尊べと教えられる小乗仏教、雨の檻のようにビッシリ隙なく戒律をつくり、ヒトを羽交い絞めにしている小乗仏教。そんな小乗仏教が、窒素や酸素と同じ元素として空気をつくっているような国、タイ。そんな国にも、男のお金の使い方、男の収入の三分法というコンナ諺めいた話がある。三分の一は、水に流す。三分の一は、大地に返す。三分の一は、敵にあたえる。≪水に流す≫これは、酒を飲むことだ。≪大地に返す≫とは、ヘソクリで、金を壷に入れ隠すこと。≪敵にあたえる≫は、妻にわたすことだそうです・・・!。いまの二ホンでも敵にあたえる?なんて言ったなら・・・チョット想像がつかない?事態がでそうですね、これ。〔キケンなので口にはださないようにしてください、ネ?〕小乗仏教の戒律でガンジガラメの国ですら、『妻』を『敵』と呼んでいらっしゃるようです。訊いてホッとしたというか、万国共通の『男』の切実な感覚なんだ!と感激したというか、安心したシダイデス、ン。妙に納得したお話でした、・・・仲間が増えたような・・?まぁ、夕陽をあびてヨレヨレと歩くころになると、酒には弱くなるし、モノは忘れるしおぼえがよろしくなく、酒と共に今もムカシも流れていってしまうようです。しかし、世の『妻』さんは逆転現象を起こすようでして、年々歳々力を増していくようで、若い頃のあの恥じらいは・・・同一人物でしょうか、このヒトは?・・とか、ネ。そんな、こんな、ヒトリゴトをつぶやいていると真夜中の寝静まった部屋で、お酌しあっている酒瓶の中が減ってくれば、いよいよ、ツブヤキが谺のようにひびきワタリ、また、一杯とニガイ酒をいただくことになっちゃいます・ハイ。水は酒をダメにする。車は道をダメにする。女は男をダメにする。なんてのもあったりして・・・『妻』にないしょ・・・?
2004年01月04日
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・・・・・年初から、オダヤカナ日が続いている、洋々。忙中忙、のお正月を、過している人達が大半でしょう。意識はお酒で半覚醒、寝不足で、忙しいのに太る?で昼夜逆転現象と、正月を通過するにも体力が要んだよな~これ。と、いうことで、正月前には体力をつけて臨む様にしよう?卑近な現実に、ぶん回されているからと、ホルストの組曲『惑星』より木星を聴いてみたが、最初の方だけ宇宙空間のイメージが・・・と、思ったが後は聞流しただけ。宇宙も木星も、知らないんだからホルストはそうなんだ、とホルストの木星感覚を聴かせていただいた、リラックス?はできたが、そのあと軽快なラヴェルの「ボレロ」にかえた。G・オーウェルはどんな時代の文学批評も『文学的判定は直感的好悪を理由ずけるため一連の法則をでっち上げるだけのことだ』で結局、作品のスキ、キライしかないと。芸術なんて意外とこんなところがあって、誰々がいいと言えば右ならえ、してしまうものが多いようです。感覚でスキ、キライを正直に決めた方がよいね、精神的に。とりあげる題材はなかなかムツカシイものがあり、スタンダールは、文学作品の中で政治を扱うのは、音楽会に行って演奏中に轟然一発ピストルをやるようなものだ、と書いている。それくらい政治を作品に取上げる事は難しいようです。実際、扱って成功した作品はごくわずかですが、その中にG・オーウェルの『動物農場』があり、先祖ガエリした寓話で抜群の出来なのです。政治を寓話という比喩で、何食わぬ顔で、ゆうゆうとやってのけたオーウェルの大胆さと飄々としたところは類がない。作中のナポレオンをスターリン、スノーボールをトロッキー、ボクサーをトハチェフスキー、イヌの一群を国家警察、羊の一群を青年共産主義同盟、最後の人間とナポレオンの宴会を独ソ協定、・・・など、想起させる比喩、暗喩、対比があるが、これは寓話だが、見事に成功した寓話なのである。・・・・・一読の価値あり、 そしてオモロイ、一気呵成。オーウェルはスペイン内戦時に新聞記者として、ルポを書くべくマドリッドへくがそのまま反ファシスト軍に兵卒として最前線へ行く。弾丸と、飢えと、ネズミ、シラミ、イデオロギーの変転に徹底的のいためつけられ、首の重傷で口がきけなくなる事に。この辺のことは『カタロニア賛歌』に詳しいことが。政治を書き『動物農場』は成功した、体制の左右を問わず、ある現実に対する痛烈な証言・予言だった。コミュニズム、ナチズム、民族主義、宗教革命といっさいの革命、また理想・信仰のたどる命運の本質の凝視。理想は追求されねばならないが、反対物を排除した瞬間から変質がはじまること、チョットしたことから。眼につかない部分が拡大し、全容となることを記している。そして、敵として命がけで倒したものと、そっくりの体制が聳え立っている。独裁と全体主義、革命の堕落、人格と個性から解剖・分析し寓話の中に閉じ込めた・・・・・傑作。ニンゲンが飽くことなく繰返すこの不幸をオーウェルはイタマシク凝視している。、、、、、、ニンゲンの『ソコ』を抽出した。つぎの『1984年』は体制の悪の研究へと、独裁の本質を明示し、鋭く、管理体制そのものが暴かれている。オーウェルが脱知識人衝動と、実見衝動、実践衝動で巡歴した、炭鉱、ロンドンとパリの極貧街、スペイン内戦の血みどろの政治的茶番、空襲で崩れたロンドン・・・それら、全ての記憶・経験を総動員し地獄絵を埋めた。エッセイや小説で独裁と全体主義を、そのために喀血で絶命するほどの過労をしてまで告発、警鐘を乱打し続けた。紅茶をススリツツ朦朧の壮言をイジリマワス、サロン左翼知識人たちに、偽善、冷嘲趣味、無気力、嘘、なれあい、それですましていることに、無垢の率直、鋭敏さで嘲罵をたたきつけたのだった。オーウェル命がけの寓話、おとぎ話であり一行一句の背後に抱えたものが膨大で、読む側の関心、情熱、覚悟のある無しがリトマス試験紙のように鮮明に浮きあがる作品です。しかし、残酷を生んでしまったようだ、・・・・・・・・・・・オーウェルは優しさを守る為に。解決不能の本質を、命がけであぶりだす事で、ハカラズモ。『貧しいものの最期』『象を撃つ』『政治と英語』など、まだまだ、ある。イギリスのことか二ホンのことか、判らなくなるくらい似ている、こんな頑強な背骨をもった言説を吐く作家もいないようだ。・・・・ページから射られる、閃光は強烈だ。 ・・・愁風愁雨、人を愁殺す・・・。
2004年01月03日
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・・・オダヤカデ、あかるいく、いい朝です。Xの『Forever Love』をBGMに流して、酒を呑んでいる。滑らかなメロディー、HIGHトーン、変わらない愛を・・・。おだやかなコンナ朝には、酒とともに滲みこんでくる。大晦日に純白のうさぎの『スノー』チャンが年越しにやってきました、旅行のため預かりました。スノーチャンは大人しくて雪のように白いのです。うちのオテンバ娘のクリスとはオオチガイです、クリスはさっそくゲージへ挨拶にいって離れませんでした。クリスは薄茶でツキノワグマの様に首が白いワッカ状に毛が巻いてます。(クマウサギ?です)二人とも溌剌として遊んでいます、仲良くムツマジク。飼われている事を知らずに伸び伸びと?生きている。昨年の夏の終わりごろに、世界中を100人の村に凝縮、圧縮したならば、どうよ?と、という本の内容をメールで概要を知った。世界中を100人村にしたときの人々の現状、食料、医療、居住環境、貧困度、教養度、預貯金・・・etc、をデータで示し、それぞれの置かれた立場から観ると、自分は何処に位置してるの?と、あくまで客観的データで。いまだコンナにニンゲンとして基本的生存環境が整っていない割合分布になり、そんな人達が世界中に居るけども、どうなのよ?と・・・ちなみに日本人ならホトンド上位に位置するはずですが格差是正はムツカシイ問題だ、個人では特に。非常に面白かった内容でしたが、一方で恵まれた状況を確認して自己満足し、また、優越感で恵まれない人達には気の毒に思う事はできても、個人的に何ができるかを考えると、うなだれるだけでもあり、知ってどうするの?と思った。『智慧の悲しみ』(知らなくても良いことを知ったが故の悲しみ)を想い出した。リアルすぎて、物語ならば良いけれど、何時までもベタベタ、ネチネチと取付いて離れなかった、後味の悪さが。確かに人は慈悲心とか、平等、人権とかあるし、それを目指し達成の為に努力しているが、努力しても報われるとは限らない事も事実であり、誰もが、どの国も民族も一生懸命なのですが結果としてそのレベルまでしか達成できていない状況があるだけで、その背景には複雑なものがある。それを表面だけで測定、判定して可哀想とか、対岸から見物しているワレワレが自己満足?でぬくぬくとした所から単純に哀れみの眼で見る事って、それこそどうなのよ?と。可哀想なと思う、その発想の裏には傲慢の花が咲いてないですか?と、問うことの謙虚さがなければウソクサイデスですから。モノとかお金とかだけで解決するとかいう安易な発想そのものが相手を愚弄している事に気づかなければ、感謝はされないですよね、これって。手を汚さずに助けてあげる、物乞いにモノをあげる事と同じでこんな事は、真の人道とはかけ離れていることですから。世界中が同規格で、安全、人権、医療、教育などそれぞれ享受できれば理想です、しかし、ありえないことですから。それは文化、価値観が不同なのに達成しようがないですから永久に。ただし、価値観を尊重する事はできますし、認め合う事はできるだけの智慧は獲得している筈ですから大丈夫です。自力で立上がる手助けは幾らでもしてあげたいし、シナクチャいけない、そうゆう方向ならばね。この本の著者も印税を寄付するので、知った人たちも一緒に立ち上がり、尊重しつつ行動を起こそう、と、いう運動に展開していないならば、そういう人たちを踏み台にして、著作内容のものと相反する欺瞞を行ったことにはならないだろうか?問題を提出できる環境と知識とを持ち合わせているならば、知りながら何故?見逃しているのかを自身に問うことをまず己に発してホシイと、そして立上がるから一緒にドウダ?と、行動しようよといえば何か出来ることをしたいと思ったが・・・突き付けられただけで、何ができる・・?・・。(気付いた人達への、行動決起の檄文としてならば、まだ救いが有りそうだが、紙の上のキレイ事なら・・?・・食傷ダ)・・・・・・・そう感じた100人の村でした。どんな状況でも満足する人、不満な人、何にも感じない人、人それぞれで、一括りにできないからこそニンゲンなのだ。心配するのはアリガタイガ、余計なお世話かもシレナイよ?『智慧の悲しみ』が増幅してきたようだ・・・・・。どんな国に生まれようとも『堯舜の国』のような政治を感じさせないでいて、国民は『鼓腹撃壤』の受ける事のできる治世を望んでいるんですから、ワレワレはミンナそれを。モノじゃなく、ココロの満足を、満たしておくれ、タノム。まず、ワレワレの住む二ホンの現状把握がサキなんじゃないの?砂上の楼閣のうえで感傷に浸っていてもキケンがアブナイ?かもね~。どんな国にも、どんな状況でだって、いまわの際に、コンナせりふをぶっ放す奴はいる、ゼ!・・・・ニンゲンには。・・・・『冥途にも 粋な年増が いるかしら?』、虚無。ワレワレを『鼓腹撃壤』の世界にイザナッテ!オクレヨ、ネ?
2004年01月02日
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-新年、明けましておめでとう御座います。昨日までと何もかわらない、けれど何時もと違う、あかるく穏かな朝、清新さを感じる、これが元日の瑞相なのかもしれない。初詣、初日、初釜、初・・・スベテ更新されて甦るそれが日本のお正月の特色。一年間幾ら差がついても、毎年自動リセットでチャラ、そして新たな一年に向けて一斉に~よーいドン~先人の知恵。そして、旅がまた始まった。人は誰でも、途上の旅人であり終着駅のない旅、一生。チャップリンのノーマンズランド上のレールを往く旅人のように左右にヨレヨレとブレながら自分の影をツカマエル。クリームソーダのアイスのように酒中で脳ミソがふにゃふにゃで想いは陽炎のようだ。観念や、イメージ、コロガッタ言葉を拾っていると、手からボロボロとザルのようにスリヌケ、落ちていく。想いが凝縮し、拡散し、そしてまた凝縮し拡散・・・アヤシク、飛散った言葉の落葉がコロガッテイル。豆腐のような酒の中の脳、思い浮ぶ森羅万象は定着せずにふわふわ、漂えず沈まずにあるだけだ。ココロは多頭の蛇のようにどれだけ抑えても、すり抜けて新しく甦り胸苦しさは追ってきて、ココロを崩しにカカル。そんななかで想い出した一曲がある。約30年前〔中島みゆき〕のデビュー曲、『時代』を聴いた時には、一瞬固まった、衝撃だった。時代の悲哀と夢を音楽で捉まえ、その抽象を額縁に閉じ込めクッキリ見せてくれた詩だった。(必聴の価値ありですよ)シバラク、それがなかったが『X-JAPAN』にもヨロメイタ。そして、『鬼塚ちひろ』にも中島みゆきと同じにツカマッタ。(知ってる範囲が狭いから、こんなところか)中島みゆきは当時、フォークソングは軟弱イメージであったが、それを、見事に払拭する快挙を『時代』で成し遂げた。小さな世界に収まりきれない大きな唄を創り、問うた。その後も沢山ヒットさせたが、最近ヒットさせた『ヘッドライト・テールライト』とか『地上の星』も非常に良い。ですが、個人的には『時代』の印象を超えていないようだし、これからも無いかもしれない。時代を一瞬の感性で切取り定着させた歌詞と曲『時代』、秀逸、いや絶品か。ヤマハ、ポプコンからでて来た彼女、同時代には松山千春がいるし二人とも北海道出身、今でも活躍してる実力派。その他、ルイアームストロングの『ワンダフルワールド』なんか、いいな~酒呑んで聴いてると最高、でもチョット短。その他モロモロあり、ワーグナーの『ワルキューレ』も、モーツアルトの『ジュピター』も、酒も、女も、ン?もうだめだ~、モウロウ、朦朧、もうろう、霧がかかってきたようだ、寝坊して出世した男デカルトの『我れ惟う、故に我れ在り』を見習ってネ?ヨッパラって眠り仙人になった男の『我れ酔う、故に我れ寝る』をひねったが、どうよ、これ。今年『酒、男、寝、ジンセイ』の関係性を徹底究明するゾ。まず、ジックリ寝てから考えようっと・・・^^・・?・・元旦から、こんなもん?果報は寝て待てダ、よ、キミ。(一ページ目から、汚しちゃったようですね、これって)『羊群声なく、牧舎に帰る・・・・・。』
2004年01月01日
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