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年が明けて1979(昭和54)年1月、江川との交渉権を得た阪神は「トレードを前提とした交渉はしない」という方針を表明したうえで、前年10月から就任していた小津正次郎球団社長が江川との交渉を進めたが、4度にわたって物別れに終わる。当時は「ブルドーザー」、のちに「小津の魔法使い」と呼ばれる小津社長でも厚い壁は崩せないと見られた。
読売側は江川との契約を解除して阪神にボールを投げたうえで牙をむいた。もしも 江川のトレードが実現しなかった場合はプロ野球機構から脱退 して 新リーグを結成する とほのめかし、実際に西武やヤクルトに働きかけるなど強引な態度を変えようとしない。こうなると駄々っ子の開き直りとしか言いようがないが、本当にやりかねない。コミッショナーは追い詰められていた。
ここで浮上する一つの疑惑がある。阪神と江川との交渉はいかにもわざとらしく、対外的なポーズではなかったのかという疑問である。これは阪神と読売およびコミッショナーが了解の上の芝居で、実際には阪神から読売に対してトレード要員を指名し、読売内部での最終決定をするための時間稼ぎだったというのがひとつの定説なのである。それは以下の展開が証明している。
一方、読売側はすでに動いていた。同日午前、小林はキャンプ地である宮崎に向かうためハイヤーで羽田空港に着いたところを、球団職員に引きとめられ、昼過ぎにはホテル・ニューオータニへ連れ戻されている。江川の記者会見の時間には、すでに代表からトレードを通告され茫然としていたのである。
誰が見ても阪神、読売が申し合わせ、この1日を落としどころにした同じタイムテーブルに従って進めたとしか思えない。こうなると阪神も結果的には野球協約142条を破る出来レースに加担したに等しく、多くの阪神ファンが複雑で割り切れない気持ちを抱いた。しかし、そんなどんよりした気分を打ち消してくれたのが、深夜に行われた小林の記者会見だった。
クライマックスである小林さん激動の1日は次回に。
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