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タイガース脇役物語(3)池辺巌
池辺巌(いけべいわお)
1944(昭和19)年1月18日生
出身 長崎県長崎市
経歴 長崎海星高校
大毎、東京、ロッテ(1962~1974)
阪神(1975~1978)
近鉄(1979)
右投右打 外野手
背番号 34 (阪神在籍時)
池辺の現役としてのピークはオリオンズ時代の1967年から1972年にかけて。70年と72年にはホームラン20本以上を打っている。また、この6年間のうち5シーズンで2けた盗塁を記録した俊足でもある。長打あり、足もありと相手投手が一番嫌がるタイプの選手だった。
金田正一監督の就任と同時に、背番号34(金田氏現役時代の番号)をはく奪されて不仲になり、2年後にトレードに出されたと言われている。阪神では再び34を付けた。
阪神に来た時は30歳を越えており、ベテランの域に達していたが、4年間、ほぼレギュラー外野手としてチームを支えている。
1976年、吉田阪神が新ダイナマイト打線と呼ばれて旋風を巻き起こした。そのなかで、ラインバック、田淵、ブリーデンという破壊力あるクリンナップに続く東田、池辺の脇役下位打線は地味ながら相手チームを苦しめた。下位とはいえ二人とも2けた本塁打を打てるパンチ力があり、中軸を打ち取ってホッとした相手投手に手痛い一撃を加える厄介な存在だった。
特に池辺は守備でもチームに貢献した。派手ではないが勘がよく、打球を予測して何でもないように処理する。2度ゴールデングラブ賞をとっているが、そのうちの1回がこの76年である。豪快なホームランに目を奪われがちだが、優勝争いができたのは池辺の存在が大きい。
1977年4月29日には池辺の人柄を表す一つの出来事があった。大洋3回戦の9回裏、大飛球を追ったレフトの佐野仙好が川崎球場のコンクリートフェンスに激突した時、「ただ事ではない」と直感してひたすら担架を要請したのがセンターの池辺である。このときは試合を止めなかった審判の対応にも批判があった。
しかし、インプレー状況と判断した以上、仮に池辺がタイムを要求しても受け入れなかったと思われる。この結果同点とされて引き分けに終わったが、佐野は実際に頭がい骨骨折の重傷。池辺が試合進行を無視して佐野の安否を優先し、救援を求めたのは適切で人道的な判断だと称賛されるべきだろう。そして最も忘れられないのが、佐野激突事件の翌日、4月30日の大洋4回戦だ。阪神が5対2とリードして迎えた7回裏大洋の攻撃。まず正捕手の田淵幸一がファウルチップを股間に受けて悶絶退場。急きょ代わった控え捕手の片岡新之介も、ファウルが右手中指に当たり腫れあがるというアクシデントに見舞われた。
この回は1失点で乗り切ったが、片岡の指は骨折しているらしくもう投げることすらできない状況。しかもベンチに捕手登録の選手はいない。それなのにまだ2イニング守らなければならなかった。
頭を抱えた吉田義男監督が指名したのはベテラン池辺だった。長い野球人生で捕手経験は全くない。それでも池辺は受けた。
リリーフした古沢憲司との急造バッテリー間のサインは直球のグーとスライダーのチョキだけ。古沢もほとんど直球しか投げなかったが池辺は捕るのがやっとだった。
「あまりにも手を突き出して捕球するので、ミットをぶっ叩かれて打撃妨害になった挙句に大怪我するんじゃないかとはらはらしていた」と、ベンチから見ていた江本孟紀が語っている。とにかく8~9回を1失点で切り抜け、辛くも5対4と守り切ったとき、池辺と古沢は精根尽き果てていた。
池辺の阪神時代は4年間にすぎない。また飛びぬけて目立つ成績でもなかった。それは器用すぎて便利に使われたせいもあるからだろう。けれども本質的には野球センスが抜群だったと思う。阪神では全盛期を過ぎていたがいぶし銀の働きだった。今も「頼りになるおっさん」というイメージで私の記憶には鮮明に残っており、とても好きな選手だった。(当時はマジでおっさんだと思っていた)
1979年、トレードで近鉄に移り、1年で引退した。
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