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背番号9(その3)
その2からの続きです
背番号9は昭和30年代に入ってもパッとしないのよねえ のちに監督になる安藤統夫さんが着けてようやくまともな番号になるのよ
河津憲一 内野手
長崎県長崎商業高の3年次の4番打者で、昭和27(1952)年の選抜大会でベスト8、同年夏の選手権ではベスト4に進出している。大会で活躍したエースの太田正男を見に来たタイガースの青木スカウトの目にとまり、昭和28(1953)年にタイガースへ入団する。もらった背番号は「34」だった。
身長180センチを超える当時としては大型内野手で期待も大きかったが、当時のタイガースの内野は吉田、三宅、白坂と名手がそろっており、控えが必要のないほど充実していたため、なかなか出番がなかった。
昭和30(1955)年に初めて一軍の試合に出たがわずかに6試合、2打席に立っただけで終わっている。
昭和31(1956)年は69試合に出ているものの打率は . 194。
昭和32(1957)年に「背番号9」に替わる。しかしこの年は28試合の出場で33打数5安打、打率 . 152に終わっている。
昭和33(1958)年には背番号をルーキーの大西正昭に譲って「24」に替わる。出場は自己最多の79試合だったがトレードで放出されてしまう。結局背番号9は1年着けただけだった。
昭和34(1959)年から東映フライヤーズで3年間プレーしたが、控え選手から脱することができず自由契約に。
昭和37(1962)年から2年間、南海ホークスに在籍できたものの、31試合、37試合と出場機会に恵まれず引退している。
大西正昭 捕手
福岡県立京都(みやこ)高校出身。甲子園出場はないが地元では強肩捕手として評判が高かった。
昭和33(1958)年に大阪タイガース入団。河津憲一から背番号9を譲られる。1年目は一軍昇格のないままに終わり、昭和34(1959)年には内野手に転向を試みたが結局はものにならず、2年間在籍しただけで一軍登録もなく引退している。これ以上の情報はなかった。
後藤正美 外野手
大西の引退の翌年から「背番号9」を継いだのは後藤正美である。高校は浪商、早稲田大学、社会人明電舎という野球のエリートコースを経たのち、家業の電気 店をついていたが野球があきらめきれず、昭和35(1960)年にタイガースへテスト入団している。
しかし、結局プロでは通用せず、一度も一軍登録されないまま翌昭和36(1961)年に引退する。
昭和37(1962)年にはフロント入りして二軍のマネージャーとなり、その後管理部長、編成部長まで昇進した。
平成4(1992)年のバルセロナ五輪の準決勝で日本チームに投げ勝った郭李建夫を激しい争奪戦の末獲得したことで有名。
安藤統男 内野手
慶応大学時代に103試合382打数105安打で打率 . 275。遊撃手としてベストナインに2度選ばれるなど、好守好打の内野手として評価が高かった。
巨人からも勧誘されたが、「強い巨人より,巨人と戦う側になりたい」と川上監督に直接断りに行き、ファンだったタイガースに入団し「背番号9」を継いだ。
当時のタイガースは内野陣が充実しており、打者として非力な安藤はなかなか入り込む余地がなかったため、安藤はどこでも守れるユーティリティプレーヤーとして生き残りを図った。実際に現役時代に投手と捕手を除くすべてのポジションを守った実績を持っている。
成績では昭和45(1970)年がピークで、この年は打撃ベストテンで王に次ぐ2位、オールスターにも出場しセカンドのベストナインに選ばれている。
しかし翌年から衰えが目立ち始め、昭和48(1973)年はキャプテンを務めたが、出場は36試合にとどまる。前年に入団した中村勝広がセカンドのレギュラーになるのを見届けながら現役を退いた。タイガースでの現役12年間を「背番号9」で通している。
引退の翌年から昭和56(1981)年まで一軍守備コーチや二軍監督などを歴任。この間には、掛布の打撃の素質を見抜き生き残らせるために徹底的にサードの守備を鍛え上げる猛ノックで独り立ちさせている。
昭和57(1982)年には5年契約で一軍監督に就任、低迷が続くチームの立て直しを託され、1年目は久しぶりに勝率 . 533でAクラスの3位となる。
しかし、昭和58(1983)年、昭和59(1984)年はともに5割を下回って4位に終わり、5年契約でありながら水面下で球団は次期監督候補の物色を始めた。これを察した安藤は球団に先んじて退任を申し出ている。
平田勝男を一人前にしたことや、山本和行の守護神再定着、ランディ・バースの獲得など、昭和60(1985)年の優勝の礎を築いたと評価は高い。
平成13(2001)野村克也監督の辞任にともない、次期監督就任の要請があったが病気療養中のためとして辞退している。
まとめ
ここでも知らない選手が3人も続いてるのよね それぞれホントに短期間しか着けていないし 一軍に上がったことがない人が2人もいるのって残念な番号になっちゃってるわ
安藤さんが12年間着けてようやくまともになったね 監督時代はうまくいかなかったようだけど 1985年の日本一のベースを作ってるのね とくにバースさんについてはアメリカまで行って自分の目で確かめて獲得したんだって!
9の4へ続く
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