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背番号18(その2)
背番号18の第2回目です
創成期のエース・若林さん着けたことで「エースナンバー」と呼ばれるようになった「18番」だけど その後の昭和の時代はあまり冴えない番号だったみたいね
今回最初に出てくる山口さんは野手で戦前は「8番」 「18」は数か月付けただけなのよ まえに紹介したのが2023年3月だったのでもう一度詳しく残しておくよ
それと今回もそうなんだけど 戦争を挟んだ頃は背番号を変えてることも珍しくないのね だからすでに出てきたことのある選手がまた登場することが多いわよ
山口政信 外野手・内野手(再掲)
山口政信は「背番号8」で紹介済みだが要約して再掲する。
山口は大阪府日新商業の出身で外野手として甲子園に3度出場している。昭和10(1935)年の夏の選手権では藤村冨美男のいた呉港中に敗れている。
昭和11(1936)年大阪タイガース創設時に入団、背番号8を着ける。戦前は俊足巧打の外野手として活躍する。
ホームランは少ないがプレー振りは豪快。俊足を生かした盗塁が多く、昭和12(1937)年春季には29盗塁でタイトルを取っている。また選球眼が優れており、この年には春季60個、秋季48個の四球を選びいずれもリーグ最多だった。
カーブ打ちを得意としており「和製ディマジオ」とも呼ばれ、景浦將などと並んで当時の人気選手の一人に数えられる。
昭和13(1938)年に一度目の召集を受け昭和17(1942)年に除隊されて復帰して以降はかつてのプレーができなくなってしまう。昭和18(1943)年末に二度目の召集がありそのまま終戦まで軍務についた。
山口は1946(昭和21)年に復帰し、短い期間だったが背番号「18」を着け、同年に復帰してきた若林忠志に明け渡して「8」に戻っている。
タイガースに復帰後2年間プレーしたが、もう外野が守れず一塁手として合計71試合158打数26安打21打点2本塁打で打率 . 165というさびしい成績に終わって昭和22(1947)年のシーズン終了後に引退した。
その後、実業団の土屋建設でプレーイングマネージャーをしていたところ、戦前のタイガース在籍時の監督だった石本秀一が2リーグ制で新しく創設された広島カープの監督に就任し、その誘いがあって昭和25(1950)年にカープで現役復帰する。
カープでは2年間プレーし、129試合441打数113安打42打点3本塁打、打率 . 256の成績を残している。
昭和26(1951)年のオフに引退。その後は野球とは一切かかわらず昭和51(1976)年に永眠。
タイガース背番号史 8の1 |
タイガース非公式サイト2
代目 -
楽天ブログ (rakuten.co.jp)
若林忠志 投手(再掲)
エースナンバーの元祖。詳しくは背番号18-1を参照。
戦争による中断を経て1946(
昭和21)年のシーズン途中に復帰したときに、山口から譲られる格好で「18」を着用する。
タイガース背番号史 18-1 | タイガース非公式サイト2代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
しかし、翌1947(昭和22)年には現役監督に就任したため背番号は「30」に変え、1949(昭和24)年まで3年間着けたのち、1950(昭和25)年には毎日オリオンズへ移籍した。
梶岡忠義 投手(再掲)
若林が1947(昭和22)年に監督になって返上した背番号「18」を引き継いだのは梶岡忠義。じつは梶岡は10年間の現役時代に4つの背番号を着けている。すでに先代が2015年に「背番号1-1」「背番号3-1」で紹介しているが ( タ イ ガース背番号史1の1 | タイガース非公式サイト2 代目 - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) 。) 、先代はかなり簡略にして記載しているので詳細な内容を加筆して再掲する。
梶岡は大阪府大阪市出身で成器商業から専修大学へ進む。エース兼4番打者の二刀流で活躍し、東都大学野球4季連続優勝の原動力となっている。
大学4年時にはタイガースから声がかかっていたが学徒出陣に応召され満州で終戦を迎え、1946(昭和21)年に帰国すると一時的に社会人野球の中央工業に籍を置く。
1947(昭和22)年2月、南海からの勧誘を断って、戦前に声をかけてくれていたタイガースへ入団した。背番号は兼任監督就任で若林が返上した「18」を引き継ぐことになる。
投手としての梶岡は「七色の変化球」で打者を翻弄した若林と正反対で、「変化球なぞ投げられるか!」と言って全盛期は直球勝負にこだわり続けた。若いころは本当にストレートしか投げず、肘を壊してからようやくカーブも使うようになったという。
ルーキーイヤーの1947年は34試合に投げている。28回の先発がありそのうち24試合で完投(5完封含む)しているところは若林譲りの「エースの仕事」と言えるだろう。この年は22勝8敗、280回1 / 3を投げて自責点60、防御率は1 . 92と文句なしの内容で、タイガース戦後初優勝に貢献している。
1948(昭和23)年はさらに凄みを増し、50試合に登板して41試合に先発し35試合で完投(完封5)している。成績は26勝17敗、367回2 / 3で自責点104、防御率2 . 54である。
50試合のうち43試合で勝利または敗戦投手になっており、投げた試合は最後まで責任を持つという「エースの姿」を体現している。8月24日の対南海戦ではノーヒットノーランも達成した。
ルーキーからの2年間で48勝を挙げ、さすがに疲労があったのか1949(昭和24)年には肩を故障し30試合13勝10敗(防御率3 . 96)に落ち込んでしまった。
そのためか1950(昭和25)年には背番号「18」を返上して「1」に変えているが結局は12勝9敗(防御率3 .
57)、1951(昭和26)年も13勝7敗(防御率3 .
43)と勝ち星が伸びない時期が続いた。
1952(昭和27)年、背番号を「1」から「3」に変更すると、38試合に登板して21勝8敗と復活を見せ、防御率1 .
71でタイトルを獲得している。
しかし1953(昭和28)年の16勝13敗を最後に二けた勝利はなくなり、1954(昭和29)年が8勝、1955(昭和30)年は白星が0となった。
1956(昭和31)年には投手コーチ兼任となって背番号も「32」に変更したが一軍での登板はなく、同年限りで現役を退く。
そのまま1964(昭和39)年までタイガースに残って、主に二軍投手コーチなどを務めて退団しているが、引き続きOB会長として毎試合甲子園に足を運んで後進たちに声援を送っている。
梶岡は直球勝負がたたって被本塁打も多く、1948(昭和23)年にはホームラン配給王にもなったりしている。しかし見るほうは爽快であり、3年間に過ぎなかったが「18」を背負うにふさわしい気質を持っていた。
通算成績は299試合に登板して131勝85敗、1920 ㌄ を投げて自責点598、防御率は2 . 80である。
大学時代に鳴らしたバッティングはプロでも健在で、実働9年間に327試合728打数151安打66打点12本塁打6盗塁を記録しており、通算打率 . 207も投手としては立派なものだった。
2003(平成15)年に82歳で死去。
まとめ
エースナンバー「18」がどうなて行くか注目なんだけど 山口さんは野手だったね 戦前は人気選手だったのに残念ながら戦争の影響で活躍の時期は短かった
若林さんは18-1で詳しく紹介してるから見てほしい ホントにタイガースの功労者だよ! 藤村さんや村山さんに匹敵します
梶岡さんは投手として実働期間は9年と短かかった でも20勝以上が3シーズンあるし 「ストレートしか投げない」っていう潔さがなんとも気持ちいいよね 故障が無ければ200勝近くいってたんじゃないかなと想像します 成績が落ちると背番号を変える・・・を繰り返しているのを見ると 梶岡さんはあまり番号へのこだわりがなかったのかもしれないわね
背番号18-3へ続く
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