PR
Calendar
Category
Comments
Freepage List
背番号25(その4)
ようやく「台風10号~熱帯低気圧」が消滅したよ 長かったね そう言ってるそばで11号が発生したっていうのね これは今のところ台湾方向へ行くって予報なんだけど 10号のことを考えると信用しきれない みなさん備えはできてる?
背番号25の第4回目です
今回からは昭和40年代になってくるんだけど
最初は古沢憲司さん
この人は入団のいきさつも変わってる タイガースでは「70」「25」「51」と3つの背番号を着けているんだけど 現実には「背番号51」の姿しか見たことないっていう人が多いのよね 実績から言えば本当は「51」で紹介すべきなのよ でもこの連載は若い番号から順番に進めてるのでお許しを
そして2人目は高山忠克さんなんだけど皆さん知ってる? この人は甲子園で初の春夏連覇そしてプロ入り後最後は失踪~逮捕って・・・
今回はこ2人の選手を紹介します それぞれちょっと変わった経歴なので2人だけに限定させてもらいます
古沢 憲司 投手
愛媛県新居浜市出身。新居浜東高校へ進学するが、高校1年生の時に視察に来たタイガースのスカウトにプロ入りを直訴し、1964(昭和39)年1月に中退してテスト生として入団している。 3月31日生まれなのでまだ15歳の時のことだった。最初の背番号は「70」を着けている。
あだ名は「バーディー」。ゴルフに関連して付けられたという説もあるが、入団当時に虎風荘で飼われていた「バーディ」という名の犬に顔が似ていたからだというのが有力だ。
驚くべきことに古沢はプロ1年目に1軍デビューしている。1964年7月25日の対国鉄スワローズ戦で4番手でリリーフすると3イニングを無失点2奪三振の好投を見せた。しかし1年目には8試合に登板したものの勝敗には関係なく終わっている。
16歳と117日という古沢の初登板記録は、戦前から戦後にかけて中日ドラゴンズのスラッガーとして名高い西沢道夫(西沢は初代ミスタードラゴンズと言われる強打者だが、投手としても231試合60勝65敗の成績を残す)の16歳0か月に次ぐものである。
さて、古沢は続く2年目の1965(昭和40)年には31試合の登板を果たすが 1 勝 1 敗、防御率3 . 63だった。プロ初勝利となった 1 勝は6月30日の大洋ホエールズ戦だった。
古沢に対する期待値が高まったことから1966(昭和41)年、背番号「25」が与えられるが、同年は11試合0勝0敗、1967(昭和42)年が21試合2勝1敗、1968(昭和43)年も7試合0勝0敗と足踏みしてしまう。
古沢は少年時代の骨折で右手首の角度が変わってしまっており すべての球がスライダー回転してしまうハンディがあった。これを克服するための期間が必要と判断され、1969(昭和44)年から1970(昭和45)年にかけては1軍での登板はなく、ひたすらフォームの改造とシュート系の変化球の習得に取り組んでいる。
1971(昭和46)年、古沢は背番号を「51」に変えて1軍のマウンドに帰ってくる。ややスリークォーター気味の変則モーションで、スライダーとシュートのキレが良く打たせて取るピッチングに変わっていた。このシーズンは36試合(先発19)に登板し12勝9敗、171回1 / 3で防御率2 . 05(リーグ3位)の数字を残し大飛躍を遂げている。
1972(昭和47)年は開幕投手に抜擢されるも16試合1勝6敗、防御率も5 .
20と苦しむが、翌年から安定した勝ち星を挙げていく。
1973(昭和48)年 43試合(先発 9) 9勝 9敗 防御率3 . 40
1974(昭和49)年 37試合(先発28)15勝10敗 防御率3 . 23
1975(昭和50)年 36試合(先発27) 9勝10敗 防御率3 . 60
1976(昭和51)年 41試合(先発31)10勝 9敗 防御率3 . 35
主力投手としてしっかりと役割を果たしているし、1974年からはローテーションの一角を守っており毎年200イニング前後を投げている。
ところが1977(昭和52)年から様子が変わってくる。
1977(昭和52)年 36試合(先発33)11勝17敗 防御率4 . 00
1978(昭和53)年 34試合(先発22) 4勝16敗 防御率4 . 99
ローテーションは守っているが勝てない 打線にも問題はあるが実際に防御率が悪くなっているし被本塁打が34本、33本と極端に多くなった。合わせて信じられないようなポカも見られるようになり大きく負け越している。球団は「力が落ちてきた」と感じ取っていたようだ。
1978年12月9日、田淵幸一の放出に伴う複数トレードの一員として新球団・西武ライオンズへの移籍が決まる。タイガースで15年を過ごした古沢だったが年齢はまだ30歳。ここらが売り時という意味もあった。
西武へ移って1年目の1979(昭和54)年は16試合に先発しており、ローテの一角として期待されたが4勝15敗5セーブに終わる。翌1980(昭和55)年からはリリーフに回ったものの成績は芳しくなく、1982(昭和57)年のシーズン中に、高橋直樹との交換で広島カープへ移籍する。
広島では貴重なリリーフとして3年間過ごしており、3年目の1984(昭和59)年には防御率1 . 47と移籍後では一番好かったが、すでに限界を悟っていたのかシーズン終了後に引退している。36歳だった。
通算成績は543試合87勝115敗25セーブ643四球1181奪三振、1896回1 / 3を投げ自責点784、防御率3 . 72だった。
引退後は1993(平成5)年から1995(平成7)年まで広島で1軍投手コーチや2軍投手コーチ、1996(平成8)年から2000(平成12)年まで2軍投手コーチを務めた。
2012(平成24)年には再び広島の1軍投手コーチを務め、翌年にはカープアカデミーでドミニカの選手を指導している。
2023(令和5)年8月22日、75歳で逝去。
高山 忠克 外野手
この選手がタイガースに在籍したことを知る人はほとんどいないだろう。
栃木県出身で高校は作新学院。1962(昭和37)年の選抜大会にエースの八木沢荘六(元ロッテ)を中心に優勝すると、同年夏の選手権では赤痢感染で八木沢を欠いた状況で勝ち進み、史上初の春夏連覇を成し遂げたチームで4番センターだったのが高山である。
1963(昭和38)年、高校を卒業し国鉄スワローズへ入団する。ルーキーイヤーこそ3試合の出場にとどまったが、2年目の1964(昭和39)年は127試合に出場407打数89安打で打率 .
219ながら、
3月と4月に立て続けに満塁ホームランを記録するなど
18本塁打を放って一躍主力選手になっている。
1965(昭和40)年以降は規定打席に達することはなかったが準レギュラーとして貢献しており、1968(昭和43)年には自身2度目となる二けた本塁打14本を記録している。
しかし、1970(昭和45)年に出場61試合、打率 .
131、本塁打0に終わると戦力外とみなされてしまう。
当時、現在の「現役ドラフト」に似た制度で、加盟全球団の戦力均衡化を図るためにオフに開催されていた「トレード会議」というものがあり、高山はその指名対象リストに載せられ、タイガースが3巡目に指名して獲得している。背番号は「25」。
こうして1971(昭和46)年はタイガースでプレーし21試合に出場していたところ7月14日に虎風荘から突如姿を消し、行方不明になってしまう。
高山は国鉄時代からギャンブルにのめり込んで相当な借金を抱えており、厳しい取り立てに追い詰められての失踪だったようだが、タイガースは借金の情報を知らないまま獲得していた。
一方で1970年に国鉄から球団を譲渡されたフジ・サンケイグループでは高山の借金については把握していたと言われており、タイガースはとんだ傷物をつかまされた格好だ。
タイガースは失踪した高山を契約違反行為としてセ・リーグに契約解除を申請し、リーグは8月4日付で無期限失格選手を公示して決着を見た。
10年以上の時が流れた1981(昭和56)年11月12日、高山が詐欺容疑で逮捕されたニュースが流れ、長野県でキャバレーを経営していたことなどが明らかとなっている。現在、高山に関する情報は一切なく生死も不明である。タイガース時代の写真は見つからない。
通算成績は690試合1645打数369安打171打点51本塁打54四球320三振、打率 .
224だった。
まとめ
古沢さんはエース級の投手に近い働きをしてるね ボールの威力は大したことなくて三振を取るタイプじゃないんだけど 今でいう「小さな変化」のクセ球で芯を外して凡打にするから 調子がいい日はすいすいと球数少なく完封してしまうことも多かったって
とにかく15歳で入団して16歳で初勝利というのは今ではあり得ない話よ 本文で出てきた西沢道夫さんは旧制小学校高等科2年でのテスト入団だけど時代が違うからねえ
高山さんはギャンブルか・・・ プロ野球選手も人間だし時にはこういう人もいるわけね 選手としては好い素質を持っていたんだけどね
最後は自分の店のホステスさんからお金をだまし取って捕まったらしいわ
25の5に続く
タイガース背番号史 27-4 2024年11月26日 コメント(2)
タイガース背番号史 27-3 2024年11月21日 コメント(2)
タイガース背番号史 27-2 2024年11月18日 コメント(2)