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背番号25(その6)
背番号25の第6回目です
6回で終わるかなとおもったら「25」は結構つけた選手が多いのよ まだ7名残ってるので第8回まで行きそうね
今回は2名紹介することにしますね 1人目は外国人選手なんだけどわかるかな? 1年しかいなかったから多分覚えてる人は少ないかも 2人目はミスターに成れそうでけがに泣いたあの選手よ
デーブ・ハンセン 内野手
アメリカ・カリフォルニア州ロングビーチ出身の右投げ左打ちの内野手。
1986(昭和61)年のドラフトでロサンジェルス・ドジャースから指名されてプロ入りしている。
1990(平成2)年にメジャーに初昇格し、1992(平成4)年には132試合に出場して打率 . 214、6本塁打、22打点を記録しているが、記録としてはこれがピークでその後も控えの内野手に甘んじている。
その後伸び悩み、1997(平成9)年にシカゴ・カブスに移籍したが、ここでもレギュラー級には程遠い控え選手だった。
暗黒時代真っ最中のタイガースは1997年に吉田義男が3度目の監督に就任したが5位に終わっている。マイク・グリーンウェルが途中退団、フィル・ハイアットも不振で、5月にはダネル・コールズ、6月にリード・シークリストを急きょ入団させるがいずれも働かずオフに解雇している。
1998(平成10)年、吉田監督の2年目を支援しようと球団も動き、トレードで大豊泰昭、中日を退団していたアロンゾ・パウエル、そしてハンセンを獲得することで、重量級クリンナップを形成し打撃のチームを標榜してシーズンに臨むことになる。ハンセンは背番号「25」となった。これが額面通り機能すればよかったが、現実は甘くなかった。
まずパウエルはもう膝がガタガタでまともに守れない重症。78試合52安打28打点9本塁打で打率は . 255に終わる
大豊も期待を裏切り、99試合71安打61打点で打率 .
231、ただしホームランは21本打ってくれた。
そしてハンセンだが、いちおう121試合に出場しており、規定打席もクリアすることはできたが、400打数101安打55打点11本塁打、打率 ,
253という実に中途半端な成績だった。
結局タイガースは最下位に沈み、吉田監督は退任、外国人野手は一掃され、新たに野村克也監督を迎えることになる。
濱中 治 ( おさむ ) 外野手・内野手 (再掲)
濱中は「背番号5-8」で紹介済みだが、改めて再編集して掲載する。
和歌山県田辺市出身で南部高校時代は投手。甲子園大会には縁がなかったが、下の記事にあるように投げて打って走れる三拍子そろった好選手として全国的にも名前は知られていた。
高校通算51本塁打が示すようにバッティングセンスの評価が高く1996(平成8)年のドラフト会議でタイガースから3位指名を受け入団する。最初に着けた背番号は「66」だったが覚えている人は少ないだろう。
ちなみに同期ドラフトは1位が東洋大の今岡誠、2位が天理高校の関本健太郎、4位は日本文理大の星山忠弘の4名だった。当初関本が3位の予定だったが、日本ハムが競合してくるという情報があったため急きょ繰り上げて2位、濱中が3位になったと言われている。
球団内部では濱中の入団当初から将来の4番に育てる方針を固め、ルーキーイヤーの1997(平成9)年からファームの4番に抜擢している。シーズン終盤には1軍公式戦も6試合出場し、12打数2安打0打点で打率 .
167の数字が残っている。高卒1年目の野手として掛布以来となる1軍スタメン出場も経験したが、
翌1998(平成10)年は11試合出場にとどまって足踏みしている。
1999(平成11)年に新監督となった野村克也は「濱中の素質は天才的」と見抜いており、その指示でサードへコンバートされる。背番号も「25」に変更して実際35試合と出場試合数は大きく増えた。
しかし気が優しくて貪欲にならない性格が災いするのか、翌2000(平成12)年は外野手に戻って9試合というように、1軍に上がっても定着することはできず、結局最初の4年間は試行錯誤でホームランも打てなかった。
2001(平成13)年、新庄剛志がニューヨーク・メッツに移籍して外野のポジションが空いたことが転機となる。登録名を「おさむ」に変えた濱中は主に3番打者として110試合に出場し規定打席をクリア、411打数108安打53打点13本塁打で打率 . 263を記録、プロ入り5年目にしてレギュラーとなった。
2002(平成14)年、新監督となった星野仙一も濱中をクリンナップで使い続ける。この年は田淵幸一コーチの指導のもと打率も3割を超えて確実性も高まり順調に育っていく。
ところが8月のナゴヤドームでの守備でダイビングキャッチを試みた際に右手親指を骨折したため、出場は102試合にとどまり規定打席に届かずに終わっている。それでも366打数110安打51打点18本塁打は立派な数字で最終打率は .
301だった。
2003(平成15)年はチームがリーグ優勝した年で、濱中もシーズン序盤から打ちまくった。5月半ばまでに11本塁打を放ち打点は他を大きく引き離してタイトルも期待されるなかで事故が起きる。
5月20日の広島7回戦、フォアボールで出塁して一塁走者となり牽制球で頭から帰塁する際に右手でベースタッチに行き肩を痛めてしまう。この時は捻挫(実際は亜脱臼で抜けたがすぐ嵌まったらしい)の診断だった。
翌日から星野監督は無理をさせず代打でしか使ってこなかったが、チームも調子がよく濱中も早期のスタメン復帰を強く望んでいた。
6月10日の中日13回戦、代打で出てそのまま負傷後初めて守備に就き3打数2安打、この試合では打球は飛んでこなかったので守備機会はなかった。
6月13日の巨人13回戦、星野監督は濱中をスタメン4番に復帰させるが、「打球はとるだけでいい、絶対投げるな」とクギを刺して送り出している。
6回表、巨人江藤の打席で濱中がファウルフライを落球。その直後にホームランを打たれる。これに責任を感じてしまったのか、次打者阿部のライト線へのヒットを処理して全力でセカンドへ返球してしまう。これは自然に体が動いてしまったと本人が語っているように「野球人の性」としか言いようがない。
その瞬間に右手がブラブラに。今回は完全に右肩が外れ、最低でも2か月の戦線離脱が決まった。野球人としての本能的なプレーだったかもしれないがこれは球団にとっても痛すぎた。星野監督も守らせてしまったことを後悔しただろう。
これでシーズンの残りを棒に振ることになり、55試合176打数48安打48打点11本塁打で打率 .
273に終わっている。せっかくのリーグ優勝も喜べなかった。
濱中の負傷は球団にとっても大打撃だった。2001年から2002年に飛躍してきた生え抜きスターを「中心選手」に育て上げる年と位置づけ、星野監督もFAで獲得した金本知憲をあえて3番に置き、濱中を4番に据えてきたが、すべて水の泡になってしまったからだ。
2004(平成16)年は背番号を「31」に変えて臨むが17試合、2005(平成17)が73試合と低迷が続いた。
2006(平成19)年、登録名を「治」に戻し背番号も「5」に変えたのが効いたのかようやく調子が戻り、139試合に出場することができた。成績も486打数147安打75打点20本塁打で打率 .
302とキャリアハイの年になっている。
しかし2007(平成19)年は故障もあって不振に陥り62試合の出場に終わると、シーズンオフに2対2の交換トレードでオリックス・バファローズへ移籍することになる。
オリックスでは3年を過ごすが主力とは成りえず、3年目の2010(平成22)年には出場がわずか4試合で10月2日に戦力外となっている。
2011(平成23)年、手を差し伸べてくれたヤクルト・スワローズに入団したが出場できたのは5試合に過ぎず、オフに現役を退いた。
通算成績は744試合2167打数580安打311打点85本塁打17盗塁209四球408三振、打率 . 268だった。
引退後は2015(平成27)年に2軍打撃コーチとしてタイガースに復帰。2019(令和元)年まで在籍し退団。
2022(令和4)年から、生まれ故郷の和歌山県田辺市を本拠とする関西独立リーグ和歌山ファイティングバーズ(現和歌山ウェイブス)のゼネラルマネジャーに就任した。
まとめ
ハンセンさんは成績だけ見るとものすごく悪いというわけじゃないよね かと言って大した成績とも言えない 日本人選手であれば下位打線でレギュラーとして使ってもらえそうな数字だけど高額な助っ人としては期待外れになるってことなのね
濱中さんは背番号5でも詳しく紹介してるけど書き直してみました とにかく順調にいけば「ミスタータイガース」と呼ばれそうな・・・そのちょっと前の段階まで来ていたとおもうのよ 右打者だからいずれホームラン40本もクリアしたんじゃないかなってね ホントに惜しいことをしたとおもうよ 焦らず完治させてから復帰すべきだったんだよなあ
これは星野監督も痛恨だったんじゃない? 濱中さんは脱臼してベンチに帰るとベンチ裏で監督さんから『何やっとんじゃボケー !
』ってすごい勢いで怒鳴られたんだそうよ でも監督さんは自分自身に対しての怒りってこともあったんじゃない?
いくら本人の意志とは言えそれを尊重して守らせてしまって野球人生を台無しする結果になったことには のちのちも後悔してたとおもうんだ
25の7に続く
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