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篤姫の養父に当たる第28代薩摩藩藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)。斉彬は,文化6(1809)年9月28日,薩摩藩主島津斉興の長男として生まれました。
幕末の名君といわる島津斉彬は,西洋文化に強い関心を持ち,洋学にも造詣が深く,先見性豊かな人物でありました。藩主としての期間はわずか7年に過ぎなませんでしたが,その政治,科学に関する識見は後世に大きな影響を及ぼしました。斉彬は,日章旗を国旗に制定した功労者でもあり,照国神社に祀られています。
また,身分を問わず有能な若手人材に志を説き,小松帯刀,西郷隆盛,大久保利通といった人材を登用して維新回天の基礎を築きました。
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┗┛ 集成館事業
斉彬が推進した集成館事業は,「明治日本の産業革命遺産 「九州・山口と関連地域」の一つとして,国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されました。
集成館事業(しゅうせいかんじぎょう)は,薩摩藩第28代藩主島津斉彬によって起こされた日本最初の洋式産業群の総称。
旧集成館機械工場 旧鹿児島紡績所技師館
決心した。内政は横暴に流れながら,諸外国に対しては卑屈極まれる。志のあるものが奮って尽力せねばならぬ時は迫れり
(島津斉彬)
安政5(1858)年の初夏,幕末が混迷を深める原因となった政治事件が次々と起きた。まず彦根藩主・井伊直弼の大老就任と違勅開国,そして御三卿(ごさんきょう)の一人で当時,数えで22歳の一橋慶喜(のちの15代将軍)を退け,13歳の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ14代将軍・家茂)が将軍世子となったことである。
一連の政局に,時代に逆行する徳川幕府の専断と朝廷軽視を痛切に感じた薩摩藩主,島津斉彬は,集成館にシャーフル・ライフル(新式の騎兵用元込め銃)3干挺の製造を命じるとともに,側近の西郷隆盛にこう伝えたという。
「決心した。幕府のなすところ,内政は横暴に流れながら,諸外国に対しては卑屈極まれる。このままでは外国からの抑圧に屈するだけだ。志のあるものが奪って尽力せねばならぬ時は迫れり。ついてはまず天下人心の方向を定めねばならぬ。そのためにはいまは軍事操練に大いに力を入れ,この秋には押し出して事をあげたい。また,かねてからの同志の藩と手を携えて行動を起こすつもりだが,その根回しはほぼ完了している」。
この年の7月8日(旧暦)。斉彬は鹿児島湾を望む天保山の調練所での訓練観閲後に体調を崩し,その8日後に急逝。死因はコレラ,毒殺説,赤痢説,あるいは食中毒と諸説あるが定かではない。容体を記した藩医の記録によると,発熱と腹痛に始まり,1日に30回を超えるひどい下痢が続き,1週間後に息を引き取る。自分で釣った魚を鮨にして食べた後,下痢をしたとも記録に残されている。
歴史に「もし」はないというが,斉彬が水や食べ物に細心の注意を払い,健康管理に万全を期していたなら,日本の歴史は変わっていたかもしれない。
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